迷い蝶を導く氷晶
|世界《虫籠の外》は美しい。かつて思慕を寄せたあの人はそう言った。
柔らかな、或いは燦々たる太陽の光。月が照らす夜、月の無い夜の暗闇。
数え切れない程の色に溢れた景色。道行く人々が奏でる声、音、気配。
紡がれた言の葉は、|神代・ちよ《かじろ・ちよ》(追憶のキノフロニカ・h05126)の心に刻まれて、彼女の世界を作り上げた。
ちよにとっての世界――それは、紫苑が語る美しい世界から生まれたものだ。
彼が居たからこそ、彼女は世界を夢見た。彼が居たからこそ、彼女の世界は鮮やかな色彩を帯びた。ちよの世界の中心には、いつも彼が存在していた。けれど、今は。
簒奪者へと身を堕とした彼を、ちよはその手で眠らせた。狂気に堕ちた彼を掬い上げて、その魂が彼岸の果て……ちよの母の傍へと届くように。
桜とは春に咲く花だ。それは誰もが識る事実であり、多くの人々が開花を待ち望む。その桜は今、冷たく厳しい冬の灰雪に覆われ、深いモノクロに沈んでいる。このままでは雪の重みに耐えきれず、その枝を折り、春の芽吹きを迎えずに枯れてしまうかもしれない。
「――ちよ、行かぬのか?」
隣から聞こえる声に、ちよはハッと顔を上げた。闘技場帰りの交差点、いつの間にか信号が切り替わっていた。|神花《かんばな》・|天藍《てんらん》(白魔・h07001)が、心配そうにちよを見つめている。
「何やらぼんやりしていたようだが」
ちよは信号機に目をやった。歩くマークが白に切り替わっている。青ではなく、白に。
「今日はいつもより疲れてしまったようです」
「ふむ、そうか……」
確かに今日の相手は強敵であった。しかし、天藍は思う。疲労の理由はそれだけではないだろうと。
(きっと、恐らく何かあったのだ)
流石にあの顔を見ていれば解る。ちよの表情は暗く、青白い翳りを落としていた。これまでも強い相手と戦ってきたが、今日のような表情を見せることは今まで一度もなかった。
思い詰める彼女に手を差し伸べたい気持ちはある。しかし、闇雲にお節介を焼くべきではないことも弁えていた。彼女自ら何かを話すまでは、その言葉を待つべきだろう。
二人は横断歩道を渡る。
(……音が、遠い……)
遠いのは音ではなくちよの意識だ。彼女の足元はふらふらと覚束ない。あっという間に渡れるはずの横断歩道が、いつもより長く感じる。渡り切ったところで視界がぐにゃりと歪んだ。
「――!」
ちよの異変に天藍が気付く。彼の判断は速かった。少年の姿から大人の姿へと転じ、倒れそうになったちよを受け止める。
ちよは途切れかけた意識をかろうじて繋ぎ止めた。天藍に支えられている――その状況を把握するまでに、数秒の時間を要した。それほどまでに今のちよは限界に近い。
「あ……申し訳、ありません……最近、眠れていなくて」
今にも消え入りそうな彼女の声に天藍は理解する。言葉を待つ余裕など、残されてはいないのだ。ちよはどうにか己の足で立とうとする。だが、震える体は言うことを聞いてくれない。生まれたての子鹿よりも不安定な彼女を放っておけようか。
「寝不足か。それはよくない傾向だ」
ちよの体がふわりと地面から浮いた。天藍が彼女を抱き上げたのだ。
「おじいさま……?」
「休める場所まで連れていく」
「そんな……お手間を掛けていただくわけには……」
「その足では歩けぬであろう。じじいに姫抱きなんぞされてもつまらぬだろうが、少しの間我慢せよ」
2月ということもあり外はまだ寒い。居候先に連れて行った方が良いだろう。天藍はちよを抱えたまま歩き出した。擦れ違う通行人が驚きや好奇の眼差しを向けるが、一切意に介さない。
しかし、ちよは年頃の娘だ。このような形で注目を集めるのは避けたいだろう。時空の歪みがある路地裏へと入り、帰路をショートカットした。
居候先に到着する。きちんと休ませるならば、相応の場所に寝かせた方が良い。寝室に向かい、ベッドの上に寝かせた。
「……申し訳ありません、ご迷惑をお掛けしてしまって……」
ちよが再び謝罪の言葉を口にする。
「迷惑などと思ってはおらぬ」
天藍はちよの青白い顔に目を向けた。彼女の瞳は天藍を映しているようで、実際は遠くを見つめて虚ろぐ。
やはり、放ってはおけぬ。天藍はそっと問いかけた。
「……何かあったのか」
「それは……」
モノクロに沈んだ部屋の中でちよは躊躇する。景色に色がない理由を、彼女は痛いほど理解していた。紅葉が染まる季節、ちよは紫苑を殺した。簒奪者に堕ち狂気に呑まれた彼を、この手で葬り去った。
その事実を言うだけなら迷いはしない。だが、事実を告げるだけでは終われない。
(おじいさまは……きっと、気付いているのでしょう)
紫苑の死をきっかけに、ちよの世界は色を失ってしまった。紫苑がいない世界は眠りへの恐怖を誘う。彼の夢を見てしまうのが怖い。目覚めた時、彼が居ない世界に放り出されてしまうのが。
色覚の喪失。恐怖に縛られた結果の不眠症。特に誰かにそれを告げる必要性も感じなかった。言ってもいたずらに心配や憐憫を招くだけだ。口にしない方が良いまである。
(……そう考えて、今まで黙ってきましたが、限界なのかもしれません)
迷いが滲む沈黙の中で、天藍が柔らかに言葉を紡いだ。
「無論、無理に言わずとも良いが……言葉にすることで変化が生じることもあろう」
心が軽くなるとまでは言わない。だが、言葉にしなければ永遠に何も変わらない。停滞による死ではなく、変化による生を。どのような変化が訪れるとしても、天藍はちよを支えるつもりでいた。
「おじいさま……」
直接口に出さずとも天藍の想いはちよに伝わる。明確な言葉でなくとも、「彼になら話せる」と、ちよに思わせるには十分であった。
「……先日、紫苑を倒しました」
冷え切った唇を薄く震わせる。紡がれた名に天藍は覚えがあった。秋祭りで賑わう雑踏の中、ちよと交わした言葉を思い返す。
「……眠らせてやったのか」
紫苑。ちよに世界の美しさを教えてくれたという、彼女にとって大切な人。
ちよは頷く代わりに、ゆっくりと瞬いてみせた。
「覚悟していたつもりでした。心の中で一区切りつけられたつもりでした……なのに、変、ですよね」
きっと今頃紫苑は、『むこう』でお母さまに叱られたりしているのだろう。丸く収まったはずだ。ちょっとビターだけれど、物語ならばハッピーエンドのはずだ。
けれど、その先に待っていたのは灰色に沈む世界だった。
「あの日から色が分からないのです。空の青も、蝶々の桜色も、すべてが白黒に映るのです。この異変は、何なのでしょう……」
自分がしたことは正しかったのか。これで本当によかったのか。
正しいことをしたと信じたいのに、目の前の現実はちよを色の無い世界に堕とす。まるで否定されているようだ。お前の選択は、間違っていたのだと。
不安げに天井を彷徨うちよの視線を天藍は辿る。今のちよの瞳は、鮮やかな世界を映せない。心から大切なものがすっぽりと抜け落ちてしまったのだ。その空虚から毒が広がり、ちよを蝕んでいる。
(……寝不足も、強い不安の表れであろうな。夢を見ることに恐怖を感じているのかもしれぬ)
夢は心と記憶の映し鏡だ。思慕、願望、後悔、恐怖……あらゆる感情を残酷なまでに映し出す。それは人の域を越えた天藍も例外ではない。
「本当は、ちよだけで解決できればよかったのですが」
ちよが無理に笑おうとする。何処までも落ちてゆく感覚に耐えられない。
弱々しく微笑む彼女の頭を、天藍は優しく撫でてやった。
「一人で抱えるには荷が重過ぎる。我に話してくれたこと、感謝するぞ」
今のちよは未来が見えず苦しんでいる。希望の光を見ることも叶わず、暗闇の中で藻掻いている。天藍にはひとつの確信があった。見守るだけでは不十分だ。このまま放っておけば、彼女は絶望という奈落へと堕ちてしまう。
(ちよに伝えたい。暗闇の中に在っても、未来へと進む手段を)
天藍には忌むべき過去があった。その話がちよを助けるための道標となるだろう。
話してしまってよいのか。醜い己の姿を、世界を呪った愚かな自身を。心の奥底から囁きが聞こえた。その声は不安と恐怖の形を取っている。怖いのだろう――自らの過ちを詳らかに語れば、軽蔑されるのではないかと。
迷いがないわけではない。だが、それ以上に強き想いが胸の内を巡る。
(ちよを放ってはおけぬ。今話さねば、一生後悔するであろう)
これは陽にすら話していないことだが、躊躇してなどいられない。どのような状況であっても、何れは希望が舞い戻る。決して望みを捨ててはならないと伝えねば。
「……大丈夫だ、今が如何様な絶望の淵に立たされていようと、いずれ運命は巡り“なるように”なるのだ。保証する」
力強く紡がれる言葉に、ちよの虚ろな瞳が天藍を映した。
「なるように、なる……」
か細く零れ落ちる声に、天藍は頷いてみせる。
「明けぬ夜はないように、終わらぬ冬はないように――欠けた月がいずれ満月となるように絶えた希望は必ず戻ってくる――我だって、そうだったからな」
「おじいさまも、そうだったのですか……?」
意外だ。ちよは天藍の想いを馳せるような瞳を見つめる。ちよの視線に気付き、天藍は柔らかに微笑んだ。
「退屈かもしれぬが、じじいの昔話に付き合ってくれ」
天藍はゆったりと語り始める。それは最も幸せで、最も残酷な物語だ。
「我は元々徒人だった。多少、特殊な力を持ってはいたが、それでも普通の童だった。母と妹、それから口うるさく我儘な友。それらで静かに暮らしていた、凡庸な童だ」
普通の童。今の天藍とは程遠い単語に、ちよは不思議な心地を抱く。
「おじいさまにもそのような時期があったのですね」
だが、その事実を純粋に微笑ましいと思えるほど世間知らずではない。話には必ず続きがある――彼女はよく理解していた。この物語は、天藍の心を抉る刃であると。
幸福な過去には絶望が付き纏う。長い年月が経った今もなお、天藍はあの頃をリアルに思い出せる。
「だが……妹を奪われた」
|奪われた《殺された》。どのような言葉を掛けるのが正解か、ちよにはわからない。静かに頷いて彼の声に耳を傾けた。彼女は今、彼女を蝕む暗がりの中から、天藍が抱える闇を見つめている。
どす黒い感情の残滓が、純白の銀世界に落ちる。くっきりと滲む黒は、永遠に消えることのない呪詛の色だ。
「我は怒りと絶望のあまり、世界を呪って|この様《とこしえのふゆ》だ」
永久の冬は彼の故郷を滅ぼした。止め処なく降り積もる氷雪は世界を覆い、命が持つ温度を奪い尽くした。万物は色を失い、氷塊の墓標を白銀の荒野に連ねた。
「ゆるやかに世界の滅亡を願い、呪った我は討たれた。本来はあの時死んでいたはずなのだがな……気付けば別の世に飛ばされ、通りすがりのお人好しに拾われて、お前にも出逢えた」
四季を織り成す美しき√。とこしえのふゆにも、再び春が訪れる優しい世界。新たな世界と新たな出会いは、天藍の氷結した心を確かに溶かした。
「そのようなことが……」
√能力者は強大な力を持つ。故に特異な生い立ちを持つ人もいるだろうと、ちよは思っていた。だが、近しい人がそうであったと知れば、胸の奥が密やかに波打つ。
ちよの小さな驚きを感じ取りながらも、天藍は言葉を続ける。
「嘘みたいな日々だよ。彼程滅んでしまえばいいと呪った世界のことを、今は愛おしく思える」
無情にも思えた未来へと続く時間は、人々との関わり合いを齎した。そうして少しずつ、天藍を変えていったのだ。天藍の過去とちよの現在は、全く違うものであるように見えて、世界が色を失った点において共通していた。
「我は決して他人に偉そうなことを言えるような立場ではない。世界を愛せとは言わぬ、呪うなとも言えぬ。簡単に割り切れる程、ひとのこころは単純には出来ておらぬし、そのようなきれいごとだけで世界が成り立っているわけではないことも知っておる」
世界は穢れと悪意で満ちている。憤怒と悲愴に毒されている。
だからこそ、美しいのだ。
不幸という概念がなければ幸福が無いように、醜さがなければ美しさなど存在しない。残酷で優しい世界。それがこの世の理なのだ。絶望が訪れたのならば……次に訪れるのは希望であると。
「この世は残酷だ。だが、いずれは必ず、救いはあるだろう。冷たく厳しい冬を越え、暖かな春が訪れるように」
この世は生々流転。死と生を繰り返し、世界を紡ぐ。永遠に不変なものなど在りはしない。不変に見えるモノも、内側で変化を続けている。絶望と希望も同じだ。夜は必ず明ける。闇には必ず光が差す。
ちよは微かな光を感じた。夜道でふと空を見上げ、路を薄く照らす星に気付く時のように。導きは必ず存在する。光を辿り進むべき方向へと歩めるかは自分次第だ。夜空に煌めく星々の美しさに、ちよは双眸を細める。
「そうですね、今が夜の底だとしても……夜には星明りがきらめくように、夜は必ずあけるように……きっと」
冷え切っていた体の奥に灯が宿る。優しい温度が、ちよの裡にぬくもりを与えてくれた。この心地よい熱は、天藍がくれたものだ。天藍の励ましをありがたいと思うと共に、過去の話を打ち明けてくれたことを素直に嬉しいと感じる。
(きっと、話し難いことだったでしょうに)
ただ言葉を交わすだけの関係ではない。人生の先輩が『信頼してくれている』という事実を垣間見たような気がして、ちよは誇らしく思う。
「我は、ちよにも朝が訪れる未来を信じておる」
天藍の力強い言葉は、昏く冷たい夜を彷徨うちよの心をしっかりと掴んだ。
冬を越えた先……春を待ち望むように、ちよは期待に満ちた眼差しを浮かべる。
「ふふ、おじいさまがそう言って下さると、ほんとうになる気がします」
小さく微笑んで、彼女はそっと瞳を閉じた。天藍が傍にいてくれる今ならば、穏やかに眠れる気がする。天藍はちよの手を、普段より大きい手のひらで優しく包み込んだ。
「安心して眠るといい。我が傍にいる」
「……おじいさまが居てくれたら、ぐっすり眠れる気がしますね……」
紫苑の夢を見てしまうかもしれない――抱いていた恐怖は深雪に埋もれゆく。美しい純白が暗闇の中で細氷のように煌めいた。それは天藍がちよにくれた景色だ。天藍を傍らに感じながら、ちよは意識を落とす。久方ぶりの安らかな眠りが、彼女の身と心を癒すことだろう。
……すぅ、すぅ……。
規則的な寝息が天藍の耳に届いた。眠りについたちよの顔を、彼は静かに見つめる。
(うむ、少し顔色が良くなったか)
彼女が希望に向かって歩めるよう、これからも手助けをしてやりたい。愛する者を喪った悲しみは、簡単には癒えないだろう。それでも天藍は、彼女の明るい未来を願うのだ。