|龍動鬼城魔怪演義《ロンドン・ウィアードテール》
●ミスト・アンド・ダスト
積層都市ロンドンの最下層はいつでも暗い。
直上に建造された六層の|都市基盤《ファウンデーション》が天蓋となって陽光と月光とを遮り、上層から排出される諸々の塵芥が降り注いでいるからだ。
欧州最大の積層都市の栄華の輝きと反比例して濃さを増しているかのような深く淀んだ暗がり。それがロンドンⅠの日常である。
しかし、当時は植民地であった香港を経由して一早く仙術がもたらされたために雷素崩壊からの欧州復興を主導する立場となった英国、その首都ともなれば最下層であっても多くの人々が合法非合法問わずに住みつき、上層部顔負けの賑やかさを抱いている。
底知れぬ闇と、それを塗り潰そうとする鮮やかさ。相反するものが同居しているのがロンドンⅠという街だった。
|神楽火・國鷹《かぐらひ・くにたか》(幻葬のグノーシス・h00960)がゾディアック・サインから読み解いたのは、そんなロンドンⅠの|鬼城《ゴーストタウン》を元凶とする殺戮劇の到来である。
●ウェイト・オブ・フォース
「ロンドンのイーストエンドに、ライムハウスという地域があります」
國鷹がそう言って指し示したのは、ロンドン市内を横断するテムズ川の北岸の一点だった。そこから東に指を動かしつつ彼は続ける。
「この地域に隣接する|鬼城《ゴーストタウン》、アイル・オブ・ドッグズで突如として大量の妖魔が受肉し、ライムハウスを目指して進行してきています。種別は『鬼顔妖魔』。人や動物の亡骸とインビジブルが融合したものです」
妖魔妖術士の方には馴染み深い存在かもしれませんね、と一言添えてから、國鷹は|鬼城《ゴーストタウン》と|無法地帯《スラム》を隔てるように指を動かした。
「この辺り――カナリー・ワーフの周辺が迎え撃つのに適しているでしょう。大きな建物が多く、もし戦闘に巻きこまれそうな人がいても逃がす場所が十分にあります」
ただし、鬼顔妖魔は壁や天井であっても支障なく這い回ることができる。奇襲には十分注意する必要があるだろう。
「√仙術サイバーは武強主義……強さを中心に回っています。従って、最下層にしか住めないような弱者を助けることはこの|世界《√》の掟からは外れる行いでしょう」
ですが、と國鷹は言い置いて、一同を見回した。
「それでも守らねばならぬものがある、というのが俺の考えです。名誉も冨も得られない戦いですが、貴方達の力を貸してくれませんか?」
●ディープ・ブラック
鬼顔妖魔の群れを倒すことができた後は、この妖魔大発生の原因を突き止めるために|鬼城《ゴーストタウン》の調査を行ってほしいと國鷹は言う。
「インビジブルが枯渇しているはずの√仙術サイバーの地表部において、大量の妖魔が受肉する程のインビジブルが存在していたというのは少々不自然です」
すなわち、何者かが何らかの意図を持ってこの事件を起こした可能性が高い。その元凶を探し出し、可能であれば討伐してさらなる事件の発生を抑止する。それが今回EDEN達への依頼であった。
「アイル・オブ・ドッグズの|鬼城《ゴーストタウン》を目指して進んでも構いませんし、逆にライムハウスの|無法地帯《スラム》に向かっても構いません。ですが、分散して行動するのは避けたほうがいいでしょう。できれば皆さんで捜査の方向性を定めておいたほうが良いかと思われます」
裏で糸を引く何者かが各個撃破を狙ってくるかもしれないのだから。そう話を結んで、國鷹は地図を折り畳んでいく。
「では、√仙術サイバーのロンドンへとご案内しましょう。√EDENの交通機関とは違ってすぐに到着できますのでご安心を」
第1章 集団戦 『鬼顔妖魔』
雷素崩壊が発生した当時、カナリー・ワーフは建設ラッシュの真っ只中だった。
電気エネルギーの暴走によって様々な計画が頓挫し、仙術機械文明の誕生と共に再び再開発され、そしてロンドンの積層都市化が進むにつれてまた放棄された。
再生と荒廃を何度も繰り返したこの地域は現在、完成したビルと崩壊したビル、そして建設途中のビルが入り混じるロンドンⅠ屈指のコンクリートジャングルとなっている。
|綾織《あやおり》・つづれ(綾なす糸のシャトレーヌ・h02904)が妖魔の群れと遭遇したのは、そんな灰色の迷宮の外縁部だった。
(どんな生活であれ、日常が壊れるのは、よく無いものだ)
つづれは僅かに頭を動かして後方――暗がりの中に灯る|無法地帯《スラム》のぼんやりとした明かりを見る。ジャンク品まがいの仙術機械を駆使してようやく人間の住処としての体裁を保っているそこにも、慈しむべき暮らしがあった。つづれが育った√EDENとは全く様相の異なる形ではあっても。
彼女は再び視線を妖魔の群れへと向ける。甲羅に鬼の顔をつけた蟹とでも形容すべきそいつらは、大型の個体が√能力によって小型の個体を統率していると見えた。
大型一体につき小型十二体。武強主義から取り残された人々にとっては絶体絶命の危機をもたらす存在と言えよう。
「熱病のように広がり襲う。運命から逃れる術は何処や?」
呪文を囁く。暗闇と同じ色をした大蜘蛛の使い魔の背に乗って、つづれは鬼顔妖魔の一団を迎え撃った。
「糸を切りたければ存分に切れ、妖魔よ。こちらのストックは無尽蔵にあるぞ?」
√能力『|編まれ解かれ広がるは万色の糸《ウィーヴァーズ・フィーヴァー》』を受けたつづれの糸が舞う。名刀の如き鋭さで切り裂き、あるいは数倍の太さの鋼索に匹敵する頑丈さで縛り、吊り。縦横無尽に街路を踊って妖魔どもを打ち倒していった。
旋風が通り過ぎた後、つづれの周囲には他に動くものはなかった。だが、|鬼城《ゴーストタウン》のそこかしこにはまだ妖魔の気配がある。
つづれは再び使い魔を駆って、次の敵へと向かっていく。その胸の内に、力無き人々への同情めいた感傷を抱きながら。
天穹を覆い尽くす人口の大地が作った暗がりに、|楊・詩《ヤン・シー》(人造邪仙/蛇竜怪人ミズチトーメンター・h06611)が降り立った。
人生で初めて訪れるロンドン、せっかくだしとくるりと爪先立ちで一回転してみる。インビジブルの枯渇と共に見棄てられた都市は、詩が育った悪の野望が渦巻く黑社會に似ていなくもない。
足元には灰色の霧。テムズ川から立ち上る水蒸気だろうか。顔を上げれば空中に無数の埃が漂っている。|上の都市《ロンドンⅡ》の基盤から落ちてくるものと、緩慢に崩壊していく|下の都市《ロンドンⅠ》の建物が吐き出したものと。視界を遮るほどではないが、それでもこの空間で暮らし続ければ|尋常の《マトモな》人間の身体は天寿を全うできないのだろうと知れた。
(悪の秘密結社に使い潰されるのとどっちがマシですかね……)
あるいは、暗闇の中を這い寄る妖魔どもに殺されるのと。どの道を選んでも|袋小路《デッドエンド》が待っていることにある種の共感と憐憫を覚えつつ、詩は闇の中一歩踏み出した。
彼女の様子を窺いながらじりじりと集まってきていた鬼顔妖魔が色めき立つのが感じられた。どうやら、詩を無力な獲物にすぎないと錯覚していたらしい。
(それでも自在に這いまわる機動性と数が厄介と)
がさがさと耳障りな音を立てながら迫ってくる妖魔の群れを油断なく見据えつつ、詩は奇怪な燐光を放つ|密封小瓶《アンプル》を取り出し『ソードアトマイザー』へと装填した。
「では、こちらも俊敏さで以て対抗します……変身」
硝子が砕ける小さな音に続いて怪薬変異刀が起動。詩の体組織――|怪性体細胞《モンス=セル》を強制的に活性化させる。
「ククっ」
骨格が、筋肉が、神経が歪められていく例えようのない不快感に五臓六腑を撫でまわされながら、しかしそれでも詩は笑みをこぼしてみせた。
「わしゃわしゃと這いまわってご苦労なコトだけど、キサマら如きにかかずらってやる積りは毛頭ないんだ」
暗闇の中に橙の火が灯る。詩が握り締めたそれは、名を『旋焔双棍フレイムヌンチャク』。
「廻る焔に猫が如き身のこなし、この|速力《スピード》についてこれるか?」
|輪焔猫《カシャ》の写し身へと姿を変えた詩は音もなく地を蹴り、黑宝貝を振りかざした。
闇の中、鋼鉄の風が吹く。
カナリー・ワーフ北部を横断する|A1261幹線道路《アスペン・ウェイ》を、戦術重二輪「スレイプニル」に乗って疾走する|鴉丸・雷雨《からすま・らいう》(|髑髏鴉《SKULL RAVEN》・h07883)。|鬼城《ゴーストタウン》から|無法地帯《スラム》へと侵入しようとする一際大型の鬼顔妖魔に狙いを定めて、彼女は『スレイプニル』を限界まで加速させた。
エンジンが狂暴な高音で嘶く。気づいた妖魔が身構えて、その背の鬼面が雷雨を正面から睨み返した。薄紅色の胸脚がアスファルトを割って踏みしめる。
「蟹か……しばらく喰ってねェなァ」
妖魔の脚の形状を見てそんな風に呟きつつ、雷雨は『スレイプニル』のシートを蹴って跳躍した。空中で蹴撃の態勢を整える。
「イナズマァァ……!!」
唱える声と共に、雷雨の瞳が赤色に輝いた。それは凶事もたらす大鴉の炯眼。
「ドラァァイヴッッ!!」
赤の眼光に電光の紫が重なる。鉄鎚の一撃と化した雷雨の身体が宙を翔けて、鬼顔妖魔の背甲を打ち砕いた。
鉄骨のような妖魔の脚が回転しながら吹き飛んでいく。紫電の焦げ跡を地面に刻みつつ着地した雷雨は、すぐさま電磁物理刀「マゴロクE」を抜刀。
鈍く耳障りな音を立てて、抜き放った刃が鋭い脚の一撃を受け止めた。鬼面の三分の一ほどを喪って隻眼となった妖魔が驚愕したように動きを止める。
「好きなんだよ、蟹の殻剥くの」
その隙を見逃す雷雨ではない。彼女は刃を返すと妖魔の甲殻に切っ先を突き立て、高周波振動システムを起動。まるで厚紙を切るように装甲を断ち割っていく。
間もなく鬼顔妖魔が活動を停止し、頽れた。それを見届けてから、雷雨は西の方角へと顔を向ける。
ライムハウス|無法地帯《スラム》。見棄てられ困窮してもなお諦めない、野心と活力で満ちていることが遠方からでも感じられた。
「ふー……じゃあ|スラム《あっち》の方に行くとするか」
しぶとく力強く生きている人達の助けに、少しでもなれれば。直感に従って、雷雨は自らの足跡との共通点を探すように西へと進んでいった。
小型鬼顔妖魔、二十四体。それらを√能力によって率いる大型鬼顔妖魔、二体。
|眞継・正信《まつぐ・まさのぶ》(吸血鬼のゴーストトーカー・h05257)と|ルイ・ラクリマトイオ《涙壺のルイ》(涙壺の付喪神・h05291)は、じりじりと包囲網を縮めてくる敵と対峙していた。
前方にルイ、後方に正信という配置。対する妖魔達は凹型の陣形をもって二人とその背後の建物とを包囲している。
ちらり、とルイは正信を振り返った。厳しい表情で正信は首を振る。それでルイは、彼らが彼らの目的を完遂するためには今しばらくの時間が必要であることを認識する。だがしかし、ただ逃げ回って時間を稼ぐこともできそうになかった。この場を退けない理由が二人にはあるのだ。
ならば、とルイは一歩前に進み出た。妖魔どもが動く。一挙に包囲網を縮めて数で圧殺する企図が見える。
「ヒトの想いは真昼の星、目に見えなくとも、絶えず光を放つもの」
声が朗々と、霧と塵芥にくすむ空気を震わせる。|涙壺《ルイ》に刻まれた幾百もの言の葉の連なり。その名を『|真昼の星の物語《カタチナキアイノオハナシ》』。
「それに気づくと、世界は変わる……このように」
灰色混じりの暗闇を、ルイの√能力が塗り替えた。清澄なる青。この積層都市においてはごく一部の――頂に近い場所でしか見えぬもの。それを下地に星が瞬く。かつて彼に注がれた|涙《心》の数と同じほどに。
目が眩んだかのように、妖魔達が動きを止めた。その間隙を突いてルイは身を躍らせる。右手が翻ると共に、一条の絢爛たる帯が舞った。
ルイ自身の妖力を宿して大蛇の如くうねるそれは【早駿賦】。背後に立つ男からの贈り物であった。どこか優美な軌道で小型妖魔の隙間を駆け甲殻類のような脚を絡めとっていくや、次の瞬間妖魔どもの身体が空中へと跳ね上げられる。
(あなたが、戦場でも隣に立つことを私に望むなら……)
間髪を入れずルイは地を蹴った。爪先に仕込まれた刃がぎらりと光る。
「……その想いに、少しでも応えたいのです」
その呟きが老吸血鬼に届いたかは定かではない。確かなことは、ルイの両脚が宙に二度弧を描き、小型妖魔の鬼面が悉く断ち割られたことであった。
「――」
蒼穹を背景に空中闘舞を披露するルイの姿に、正信は感嘆の息を漏らした。彼と共に戦場に立ったことは幾度となくあれど、このように闘志に満ちた戦いぶりを見せたことは何度あったか。
それはおそらく……否、ほぼ確実に彼ら二人の背後にあるもののためだろう。ならば正信自身も、力を賭してルイの奮闘に応えねばなるまい。
「影よ、絡め取れ」
√能力『|夜影の茨《ロンブル・デピーヌ》』を発動。星々の狭間から闇色の茨が伸びて、大型の妖魔を拘束し、引き倒す。
「インビジブルが受肉した存在か。なかなか興味深いが、今はその牙を止めねばならないね」
正信は上方へと視線を投げた。それだけで意図が伝わる。矢のように降下してきたルイの蹴撃が、鬼面妖魔を打ち砕いた。
二人の連携は数分と経たぬ内に残る妖魔も討ち果たし、そうしてロンドンⅠの|鬼城《ゴーストタウン》が薄闇を取り戻す。
「拭われない涙、救われ……掬われない哀しみに溢れた世界なのでしょうか」
暗がりに半ば身を沈めながら、ルイが憂いの声を吐く。高みを求め己を研ぎ澄ますことは大切なことだ。だが、その力で弱きを助けないことを是とする武強主義がこの√では正道とされているのが、ルイには恐ろしく感じられていた。
「力無き人々が辛酸を舐める√だとは聞いていたが、実際にこうして他√から救いの手を差し伸べられねばならぬのだね」
応じる正信の声色も、感慨と呼ぶには重すぎる調子で闇に響く。
「どの√であっても哀しみの涙は少ない方が良い。私もそう思うよ。だが……」
やもすれば、その姿勢はこの|世界《√》においては善ならざるものと見做されるのだろうか。人々は四端の情すらも失ってしまったのだろうか。
勝利とは程遠い沈黙に落ちる二人の間に、建物から飛び出してきた影が割りこんでくる。正信が使役する犬型インビジブル『|Orge《オルジュ》』だ。
勢いよく尾を振る大型犬の後ろから、一人の女性が姿を現した。カナリー・ワーフへとやって来た正信とルイが妖魔に追われている彼女に行き会い、手近な建物の中に避難させたが逃がし切ることはできず、次善の策として敵を迎え撃った、というのがこれまでのあらましであった。
彼女は何度も頭を下げると、お礼をしたいから居住する|無法地帯《スラム》まで来てほしいと言う。二人は彼女の申し出を受け入れ、ライムハウスへと向かうことにした。
先導して歩き出す女性。その後ろ姿はどの|世界《√》の住人とも違わないように見える。であるならば――。
「ああ、守らねばならぬものはあるとも」
正信の呟きは、|鬼城《ゴーストタウン》を満たす暗闇の中を転がっていった。
第2章 日常 『スカベンジャー』
●ダーク・ウォーター
ライムハウスは|ロンドン中心部《シティ・オブ・ロンドン》の東、テムズ川北岸に位置している。
第二次大戦前まで|中華街《チャイナタウン》があったこの地域は、ロンドンの水運の要の一つであった。だが、戦火からの再建途中で発生した雷素崩壊、そして積層都市建設によってここはもはやロンドンにとって必要な場所ではなくなり、|無法地帯《スラム》と化してしまったのだ。
だがそれでも、この街から人の気配が途絶えることはなかった。ライムハウス・ベイシンというマリーナの|船上居住者《ボート・ピープル》を始め、様々な事情から積層都市の「普通」からこぼれ落ちた人々が暮らしている。
アイル・オブ・ドッグズの|鬼城《ゴーストタウン》に潜む簒奪者の正体や居場所を探るため、この|無法地帯《スラム》の住人から情報を得ることにしたEDEN達。
言葉と行いで信頼を得るか、金銭で贖うのか。あるいは、簒奪者が|鬼城《ゴーストタウン》に向かう際に残した痕跡を探し当てるのか。
暗闇にテムズ川の流音が響く中で、第二幕が始まった。
火にかけた四川鍋の中で、ぐらぐらと|湯《スープ》が煮立っている。
|鴉丸・雷雨《からすま・らいう》(|髑髏鴉《SKULL RAVEN》・h07883)はその中に自前の即席麺を放りこんでいく。ややあって、ありあわせの急ごしらえにしては食欲をそそる拉麺――のようなものが出来上がった。
「さあ、食ってくれ! オレの奢り、タダ酒タダ飯だ!」
調理に使った余りの|蒸留酒《ジン》の瓶を振ってみせながら雷雨が呼ばわると、匂いに釣られた住民達が半信半疑といった表情ながら集まってくる。
「オレはお前の信頼を得たい。となれば、同じ釜の飯を食うのが手っ取り早い、違うか?」
明け透けにそう言う雷雨を中心に、数人が輪を作った。彼らの全員に椀が渡り、各々のペースで箸を進めていくのを見ながら、雷雨は再び口を開く。
「ちょっと聞きたいことがあるんで、食いながらでいいから話を聞かせてくれ」
前置きに続けて、雷雨は自分達がここへ来た理由を告げる。アイル・オブ・ドッグズの|鬼城《ゴーストタウン》に大量の妖魔を生み出している何者かがいて、彼女達はそいつを討伐すべく訪れたのだと。
雷雨の話を聞いた住民達の反応はしかし、劇的なものではなかった。恐慌も狼狽もなく、淡々と「じゃあどこに逃げれば生き残れるか」と話し合いが始まる雰囲気。それで雷雨は、このように強者が|無法地帯《スラム》の生命を収奪していくのがそう珍しいことではないのを知った。
「……」
名残惜しそうに空の鍋を見つめる子供に|栄養機能飲料《エナジードリンク》の缶を手渡してやりながら、雷雨は再度訊ねる。
「知らねェか? |鬼城《ゴーストタウン》に何がいるのか」
√能力者に立ち向かうという選択肢を持たない住人達は顔を見合わせるだけだ。だが、かしゅ、とプルタブが開いて炭酸ガスが噴き出す音と共に、子供の声が投げこまれた。
「見たよ! でっかい黒いパンダがいたんだ!」
「この街のこと……差し支えなければ、教えていただけませんか」
|眞継・正信《まつぐ・まさのぶ》(吸血鬼のゴーストトーカー・h05257)は犠牲者を出さずに済んだという静かな喜びを胸に、|ルイ・ラクリマトイオ《涙壺のルイ》(涙壺の付喪神・h05291)が|無法地帯《スラム》の|船上居住者《ボート・ピープル》だという女性と話しながら少し先を行くのを眺める。
カナリー・ワーフを離れてしばらく。暗がりの向こうに明かりが見えてくる。だが、正信の目にはその灯が霧と塵以外のもので霞んでいるように見えた。
(こうした街を訪れるのは初めてになるが……馴染みのある空気を感じるね)
それは悲哀と辛苦の痕跡。あるいは瘴気と呼ぶべきもの。その気配に正信は、自分達が来訪する前に命を落とした人々の面影を感じ取る。
前を行くルイもそれを感じ取っているだろう。なんとなれば、悲哀の気配に関しては自分よりも彼のほうが敏感かもしれない、と正信は思いながら、少し足を速めて二人に近づいた。
「失礼、レディ。もしよければ、他に妖魔の情報や貴女の日々の暮らしについて教えてもらえないかね。今後妖魔共を狩り立て、犠牲者の悔いを晴らす為にも」
正信の問いに、女性は手首に巻かれた包帯を撫でつつ頷く。そうして道すがらに彼女から聞き出した情報は次のようなものだった。
鬼顔妖魔の大群が湧き出したのは数日前。
それに前後して黒服の男と、大きな二足歩行の獣がアイル・オブ・ドッグズに向かうのを見たという噂が立った。
様子を見に行った人はいるが、誰も帰ってこなかった。
無事スラムに到着し、女性を住居――上にバラックを載せた一隻のボート――へと送り届けた後、正信とルイは二手に分かれて情報収集を開始した。
正信は『ゴーストトーク』を用いて「過去」からの調査を担当。そしてルイは。
「ひとつひとつは小さな言の葉も、連ねればやがて物語に……力を貸していただけますか?」
ルイの詠唱と共に、彼を取り囲むように九体の『|青蓮の詩霊《おはなしのこ》』が顕現した。
「一つひとつは小さな言の葉でも、繋ぎ合わせることで見えるものがあるでしょう」
詩霊のうち八体が散っていく。残る一体は主に付き添い、その同時通訳能力で聞き込みを補佐、そして地図上に目撃証言のポイントをマーキングしていく。
そうして完成した地図に、正信が死者から得た情報、そして他のEDENが得た子供達の証言を加えて、ついに二つの事実が判明した。
一、黒服の男達は今|鬼城《ゴーストタウン》にはいない。
二、だが簒奪者「大逆獣『クロシロパンダ』」がそこに住みついている。
であれば、結論はひとつ。
第3章 ボス戦 『大逆獣『クロシロパンダ』』
●犬ヶ島の決闘
アイル・オブ・ドッグズ。テムズ川が大きく蛇行した地点にできた、三方を川に囲まれた半島である。
カナリー・ワーフ|鬼城《ゴーストタウン》のすぐ南にあたるここで、一体いかなる計画が実行されたのか。それを類推することは叶わず、今そこには唯一匹の大逆獣だけがいた。
「ほう、汝らがあの妖魔どもを鎧袖一触したと? それは超常――いや、重畳!!」
すっくと立ちあがったクロシロパンダの体躯はジャイアントパンダの平均体長よりも一回り大きく、二メートル半にならんとしている。
「かかってくるがいい。我が武の糧としてやろう!!」
パンダの獅子吼が、霧と塵に霞むロンドンⅠに響き渡った。
「さぁ始めようか!」
「応! 黒白無限弾でお相手仕る!!」
継萩・サルトゥーラ(|百屍夜行《パッチワークパレード・マーチ》・h01201)と大逆獣の咆哮が重なる。
継萩が放つ一手は『ガンファイア・コンビネーション』。対するクロシロパンダは黒昏覇王弾。共に最初の一撃を起点として連続攻撃を放つ構えだ。
「我が一撃、汝にかわせようか! いや! かわせまい!」
「躱せないかどうか……やったろうじゃないの!」
継萩が引金を引く。大口径弾の三点射。クロシロパンダに命中。だが、簒奪者の放った黒色の闘気弾もまた継萩に炸裂する。
「――!」
「――!?」
着弾の衝撃でのけぞる一人と一匹。しかし彼らはどちらも倒れず――第二撃。
「白陽! 九星しょおぉ!」
「よく喋るパンダだ!」
クロシロパンダの掌底撃が継萩に命中。走る自動車と激突したかのような衝撃――だが|彼《デッドマン》は倒れない。至近距離で放たれたフルオート射撃が乱撃打となって大逆獣を打ちのめす。
「まだまだ――!」
「焦んなや、楽しいのはこれからだ!」
連続攻撃と連続攻撃、二つの√能力による真っ向からの打ち合い。
「……くっ。やるではないか、人間!」
クロシロパンダの巨体がぐらりとよろめいて、これ以上の正面激突は不利と悟った大逆獣は継萩の間合いから離脱するのだった。
転がるようにして逃げていくクロシロパンダ。|鴉丸・雷雨《からすま・らいう》 (|髑髏鴉《SKULL RAVEN》・h07883)はその隙を逃すまいと追撃を選択。
義体駆動用電解質が充填されたカートリッジを取り出し、首筋のスロットに挿入。高圧縮された燃料が身体の隅々まで巡り渡っていくのを感じながら、雷雨は大逆獣を睨みつける。
「何から何まで暴力で解決する気はねーが、これはアンタを倒さないと事件が終わらねぇ流れかな」
手には『マゴロクE』――八相の構え。左眼の機械複眼を起動――気脈および経絡解析モード。
「行くぜ――!」
電霊駆動型サイボーグが地を蹴った。瞬く間に近接距離へ。体勢を立て直したクロシロパンダが腰を落として構える。
「例え剣であっても、我は退かぬ! 揺らがぬ! 打ち破る! 黒昏覇王だぁん!」
「やらせるか!」
闘気が渦を巻く。それが収束していく一点を狙い澄まして、雷雨は刃を叩きこんだ。経絡が乱れたところに雷雨の『|√能力相殺機構《ルートキラー》』で触れられて、クロシロパンダの陰陽の仙力が螺旋から拡散へと転化してしまう。
「ぬぅ、行雲流水!?」
「意味がちげーよ!」
律儀に指摘を入れつつ、雷雨は刃を振るう。嵐のような斬撃の連なりは、確実にクロシロパンダの体力を奪っていった。
|ルイ・ラクリマトイオ《涙壺のルイ》(涙壺の付喪神・h05291)は大逆獣を焦点から外さぬようにしながら、慎重に周囲を窺った。
(黒幕とまみえることは叶いませんか……)
|この街《ライムハウス》に降りかかる悲しみを断つという一点だけを見れば、あの時踵を返さずにカナリー・ワーフの|鬼城《ゴーストタウン》を突破し「黒服の男達」とやらを押さえるべきだったのかもしれない。だが、それは「武強の正しさ」だ。ルイ達があの|船上居住者《ボートピープル》の女性を送り届けたことも決して間違いではない。彼らは「武強主義」という摂理に道を譲るつもりがないからこそ、ここに来たのだから。
「クク……どうやら我が力に恐れを成したらしいな。構わぬ構わぬ。脱兎の如く疾く去るがいい」
クロシロパンダの傲岸な声がする。彼がこの妖魔大発生にいかなる形で関わっていたにせよ、放置すればいずれライムハウス|無法地帯《スラム》に牙を剥くのは明白。
(ならば――退けましょう)
ルイの視線がクロシロパンダを射貫かんとする。簒奪者はその青色の瞳に断固たるものを感じ、身構えた。
「来るか。ならば先手を譲ってやろう」
傷ついて尚揺るがぬ不遜。それは己の力量に抱く絶対の自信――武侠が武強たる所以。
「……想いを、空へ」
睦言のように囁く。ルイの内にかつて注がれた「|心《ちから》」が逆さまの重力となって、彼の身体を上空へと運ぶ。
「上だとぅ!?」
クロシロパンダの驚愕を置き去りに、ルイは暗闇に塞がれた天頂を目指して翔ける。高度が上がるにつれて彼の肉体が変質していく。
「だが! 我が命奪五獣拳の構えを打ち崩すことはできぬ!!」
どしりと両後脚を踏み締め、大逆獣がルイを仰ぎ見る。
「華は、地に」
くるりと身を翻し、ルイは下降へと転じた。重力を味方にしてさらに加速。象牙のように滑らかな硬質へと変じた肌のそこかしこで青い蓮華が咲いては散り、蒼穹色をした彗星の尾となった。
「あの街に手を出すことは許しません」
「何を! そんな権利が汝にあるのか!? 否、無い! 唯我独尊、唯我独強!」
暗闇を震わすクロシロパンダの咆哮。その目は正確に高速で急降下してくるルイを捉えている。繰り出される拳は狙い違わず彼を打ち砕くだろう。
「フフ……勝った!!」
大逆獣が『命奪五獣拳』を繰り出さんとした、まさにその瞬間。
「行きなさい」
血の香りと共に告げる声がして、暗闇の中から青ざめた色をした疾風が飛び出した。クロシロパンダの後脚に噛みついたそれは、|眞継・正信《まつぐ・まさのぶ》(吸血鬼のゴーストトーカー・h05257)に従う『|Orge《オルジュ》』に相違ない。
「なんとぉっ!?」
反撃の態勢を完全に崩されたクロシロパンダ。ルイは正信の存在を傍らに想いつつ、蹴りを決める。
「ぐわぁっ!!」
一筋の槍と化したルイの蹴撃に胸郭を穿たれ、大逆獣は震える苦鳴を吠える。その隙を逃さず、死霊犬がクロシロパンダの喉笛に牙を突き立てた。
「――かっ! お……陰陽……大逆波……!!」
頸椎を噛み砕かんとする『Orge』の身体を掴み、クロシロパンダが陰陽大逆気を流しこむ。灰色の毛並みが悶えるよう波打つが、顎は離さない。
ルイの心中に正信の意志が重なりあった。渾身の力をこめてグレートクロシロパンダ化に抗う正信の手にそっと触れようとするかのように、ルイは手を伸ばす。
その手から唐花模様の帯が伸びて、死霊犬を抱き止めた。大逆獣の仙力と想いの力が拮抗する。
「ばっ――かっ――なっ……!」
鈍い音がして、グレートクロシロパンダの気息が絶える。頽れる熊猫の巨体。役目を終えた死霊犬の姿が解けて消える。
「――!」
ルイは身を翻すと、正信がいる暗闇の中へと飛びこんでいった。