【サポート優先】桜散る夜、義侠の灯
桜の花びらが、仙術の灯りに照らされて舞っていた。
高凪・瀬海は、積層都市の上層デッキに立ち、眼下に広がる夜景をゾディアック・サインで読んでいた。薄紅の花弁が風に乗って漂い、仙術ランタンの橙色と混ざり合う。美しい夜だった。
だから余計に、腹が立った。
「……最悪のタイミングね」
呟きは、夜風に溶けた。
√仙術サイバー。仙術と電子技術が融合した積層都市が連なるこの世界は、武強主義——強き者が全てを決するという原則によって動いている。力ある者が富を持ち、場所を持ち、人を持つ。弱い者は庇護を求めるか、踏み躙られるかを選ぶしかない。
瀬海はゾディアック・サインの映像を、もう一度確認した。
仙術の乱れが、この都市の下層区画から発生しようとしている。インビジブルが獣や機械の死骸と融合し、妖魔として受肉する——それが引き金になる。そこへ乗じるように、東京Ⅶ最大のマフィア「ガルガンチュア商会」の傭兵部隊が動き出す。標的は、下層区画の住民たちだ。金品。若い娘。逆らう者への暴力。武強主義の論理では、それは略奪ですらない。ただの、強者の権利の行使だ。
瀬海の指先が、制服の袖口を押さえた。
弾道計算が、静かに走り始める。仙術の乱れが臨界に達するまで、あと数時間。傭兵部隊が下層区画に到達するまで、それより少し後。つまり今夜——まだ桜が散っている間に、全てが始まる。
「聞いてくれる?」
瀬海は通信を繋いだ。
「高凪・瀬海よ。ゾディアック・サインからの情報を伝えるわ」
声は穏やかだった。文芸部の優等生が本を読む時みたいな、落ち着いた声。でも、その奥に——折れない何かがある。
「√仙術サイバーの下層区画、東京Ⅶの第七積層ブロックで、今夜大規模な事件が起きるわ。仙術の乱れによって妖魔が発生する。同時に、ガルガンチュア商会の傭兵部隊がその混乱に乗じて住民たちを襲う予定になっているの」
仙術ランタンの光が、桜の花びらを照らしている。上層の花見客たちは、今夜も酒を飲んで笑っている。下層では、人々がその日の仕事を終えて、小さな憩いの場で桜を見上げている。同じ花びらが、立つ場所によって全く違う意味を持つ。
「住民たちは戦おうとするわ。武強主義が根付いたこの世界では、自分の大切なものは自分で守るのが当然だから。でも——傭兵の強さとは、比べものにならない」
瀬海は一度だけ目を閉じた。
ゾディアック・サインが、次の映像を映し出す。第七積層ブロックの小さな食堂。年老いた店主が、閉店後の店内で一人、桜の鉢植えに水をやっている。その隣に、幼い子どもの写真が飾られていた。
目を開けた。
「まず、現地へ向かってほしいの。傭兵部隊が来る前に、住民たちと話をして——もし守りたいものがある人がいれば、一緒にいてあげてほしいわ。今夜は長くなるから、心構えをしておいてくれると助かる」
桜の花びらが、また一枚、舞い上がった。
「ガルガンチュア商会の当主——冥鈴・ガルガンチュアという人物がいるわ。最前線での抗争を好む、戦闘異常者と呼ばれている人。今夜、この事件の奥に、その人物が絡んでいることはほぼ確実なの」
弾道計算が、最終的な数値を弾き出した。
「詳細は現地で確認してほしい。でも一つだけ言えることがあるわ——住民たちは、助けを待っているわけじゃないの。ただ一人で戦うには、相手が強すぎる。あなたが傍にいてくれるだけで、意味があるのよ」
通信の向こうに、誰かがいる。ゾディアック・サインが、それを静かに肯定していた。
「よろしくお願いするわね」
桜の夜が、静かに続いていた。仙術ランタンの光が、薄紅の花びらを橙色に染めながら、どこかへ流していく。
瀬海は夜景から目を離して、もう一度ゾディアック・サインを確認した。今夜の終わりに、何が待っているか——それは、まだ映像になっていない。星詠みにも、見えない未来がある。
でも、始まりだけは確かだった。
今夜、第七積層ブロックで、桜が散る。
第1章 日常 『桜灯ゆれて、』
桜の花びらが、一枚、仙術ランタンの光の中を落ちていく。
志藤・遙斗は、第七積層ブロックの入口に立って、その花びらが石畳に触れる瞬間をじっと見ていた。
薄く、静かな夜だった。上層デッキから流れてくる賑やかな笑声が、かすかに風に乗って届いている。花見の宴だろう。桜の下で杯を重ねる人々と、この下層区画とのあいだには、いくつもの積層が挟まっていた。同じ花びらが舞う夜でも、ここではずいぶん遠くに聞こえる。
遙斗はゆっくりと視線を上に向けた。
√汎神解剖機関。神々の力を解析し、人の身に組み込んだ技術体系が根付いた世界。その力を与えられた者が警視庁異能捜査官として立ち、霊的な乱れを鎮める。それが遙斗の立場だった。今夜、ゾディアック・サインを通じて届いた高凪・瀬海の言葉が、耳の奥に残っている。
――仙術の乱れが、この都市の下層区画から発生しようとしているの。
遙斗は一度、目を閉じた。
霊力の気配を探る。石畳の下から、何かが滲み出すような感覚があった。インビジブルが澱んでいる。まだ形を持っていない、霧のような存在が、この区画の空気に混じり込んでいた。妖魔として受肉する前の、不安定な状態。それが今夜の導火線になる。
目を開ける。
「……やっぱり、いますね」
独り言のように呟いてから、遙斗は静かに路地へ踏み込んでいった。
仙術ランタンが並ぶ細い通りは、昼間であれば雑貨屋や屋台が軒を連ねる場所だ。今は店じまいをした後で、格子戸の隙間から橙色の灯りが漏れているだけだった。住民たちはまだ家の中にいる。その気配が、壁一枚越しに伝わってくる。
子どもの声。老人の咳払い。誰かが鼻歌を歌っている。
遙斗は立ち止まり、耳を澄ませた。
人が生きている音だった。飾り気もなく、ただそこにある、日々の音。こういう音を守るために、遙斗はここにいる。頭で考えるより先に、体がそう知っていた。
路地の奥で、何かが動いた。
霊的な気配が急速に凝縮している。インビジブルが、何かに引き寄せられるように集まり始めていた。廃棄された機械の骨格——配管の残骸だろうか、錆びた金属の塊——に向かって、霧が流れ込んでいく。
遙斗の足が、自然と速くなっていた。
走るほどではない。でも迷わない歩き方で、路地の奥へと向かう。霊的防護を薄く展開しながら、周囲の気配を読み続ける。住民たちの方に妖魔が向かうより先に、こちらが先手を取る必要がある。
錆びた金属の塊の前で、遙斗は足を止めた。
インビジブルの凝集が、臨界に近づいている。あと少しで、それは形を持つ。霊的な質量が生まれ、物理的な干渉力を持ち始める。そうなれば、一般の住民には手が出せなくなる。
遙斗はゆっくりと両手を前に出し、霊力を掌に集めた。
「止まってもらえますか」
静かな声だった。命令でも、怒鳴り声でもない。ただ、真っ直ぐに言葉を置いた。
霊的振動が、ごく低い周波数で広がっていく。インビジブルの凝集が、その振動に揺さぶられて乱れ始めた。形を持とうとする動きが、ほんの少し鈍る。
それで十分だった。
遙斗は霊力を絞り込み、インビジブルの核心に向けて霊力攻撃を叩き込んだ。爆発的な衝撃ではなく、精密な貫通。霊的な構造を内側から解体するような、静かで確かな干渉だった。
凝集が、霧散する。
路地に、桜の花びらが舞い込んできた。どこかから飛んできたのだろう、一枚が錆びた金属の上に落ちて、静かに留まっていた。
遙斗は息をついて、周囲の気配を再確認した。霊的な乱れは収まっている。少なくとも、この場所では。
でも、今夜はまだ終わりではない。
ゾディアック・サインの情報が示すとおりなら、傭兵部隊がこの区画に向かっている。妖魔の脅威が一時的に退いたとしても、それとは別の危険が迫っていた。遙斗は上着の内側に手を当てて、装備を確かめた。威嚇射撃に必要なものは、揃っている。
路地の向こうで、老いた店主が格子戸を少し開けて、こちらを見ていた。
目が合った。
遙斗は軽く会釈をした。余計なことは言わない。ただ、ここにいる、ということだけを伝えるように。
店主は少しのあいだ遙斗を見てから、静かに格子戸を閉めた。
桜の花びらが、また一枚、ランタンの光の中を流れていった。
今夜は長くなる。でも今はまだ、この路地に人の声が聞こえている。それだけで、十分だと思った。
第七積層ブロックの路地裏に、赤髪の青年が紛れ込んでいた。
桐谷・要は、仙術ランタンの光が届かない壁際に背を預けて、往来をぼんやりと眺めていた。袖の長い上着の襟を少し立て、緑色の瞳だけが暗がりの中で静かに動いている。目立つ外見のわりに、不思議と人の記憶に残りにくい立ち方だった。
「——ねえ、見えてるかい」
小さな声で、誰かに話しかける。
返事は、音ではなかった。要の右肩のあたりで、空気がほんのわずかに揺れた。そこには何もいない。少なくとも、普通の人間には。
「そうだね。この辺り、ずいぶん澱んでる」
要には見えていた。路地の奥に漂う、霧のような気配。インビジブルが集まっている。まだ害意を持っていない、ただ彷徨っているだけの存在たちが、この区画に引き寄せられていた。何かが、彼らを呼んでいる。
要は壁から背を離して、さりげなく歩き出した。
目的は戦闘ではない。情報だ。今夜この区画で何が起ころうとしているのか——仙術の乱れの原因と、傭兵部隊の動きを、できる限り手前で掴んでおく必要がある。高凪・瀬海から届いた言葉が、頭の中で繰り返されていた。
食堂の前を通りかかると、格子戸の向こうから老いた店主の気配がした。
「すみません、少しいいですか」
要は格子戸に近づいて、穏やかに声をかけた。威圧感のない声だった。ナンパ慣れしているのか、初対面の相手の警戒を解くのが自然に上手い。
格子戸が細く開く。店主が顔を出した。
「……なんだい、こんな夜に」
「近くを歩いてたら、なんか変な感じがして。この辺り、最近おかしなことはありませんでしたか」
探るような言い方はしない。ただ、心配しているふうに聞く。それだけで、人は案外話してくれるものだ。
店主は少し考えてから、口を開いた。裏路地の廃材置き場で、夜中に音がするようになったこと。野良猫が近づかなくなったこと。三日前から、見慣れない連中が区画の外をうろついていること。
要は相槌を打ちながら、全部頭に入れていった。
「ありがとうございます。気をつけて、中にいてください」
格子戸が閉まる。要は視線を路地の奥に向けた。
廃材置き場。そこが、インビジブルの凝集点だろう。
要は右肩に話しかけた。声には出さない、気配だけで。
「——ちょっと手を貸してもらえないかな」
応じるように、空気が揺れた。要と言葉を交わしたことのあるインビジブルたちが、静かに集まってくる。敵意のない、親しい気配だった。要は彼らに、廃材置き場の周囲を巡ってもらうよう頼んだ。霊的な索敵。目に見えない偵察網を、区画全体に薄く張り巡らせる。
しばらくして、感触が返ってきた。
廃材置き場に、インビジブルが凝集している。受肉まではまだ間がある。そして区画の外縁部——複数の人間が、こちらに向かって移動していた。足音の間隔が、訓練を受けた人間のものだ。
「傭兵、か」
要は小さく呟いた。
戦闘は得意ではない。でも、情報があれば動き方は変わる。要は上着の内側に手を入れ、暗号化したメモを取り出した。この区画の見取り図に、今確認した情報を書き加えていく。傭兵の進入ルート、インビジブルの凝集点、住民の集中している区画——全部重ねれば、今夜の危険な交差点が見えてくる。
桜の花びらが一枚、要の赤髪に触れて、静かに落ちていった。
要は空を見上げた。上層の花見の灯りが、積層の隙間からかすかに滲んでいる。同じ夜の、違う景色だと思った。
右肩の気配が、また揺れた。
「うん、わかってる」
要は微かに笑って、路地の奥へと歩いていった。
第七積層ブロックの屋根の上に、白い影があった。
アルマ・ノイマンは、仙術ランタンの光が届かない瓦の端に腹這いになって、路地全体を見渡していた。黒で統一した小さな体が、夜の色に溶け込んでいる。紫の瞳だけが、暗視機能を通じて街の細部を静かに拾い続けていた。
観察は、アルマが最も得意とすることだった。
L96A1を抱える腕に力は入っていない。引き金に指をかけるつもりもない。ただ、見る。区画全体の人の動き、気配の濃淡、光と影の境界線。そうして全部を頭に入れてから、必要な時に必要なことをする。それがアルマのやり方だった。
路地の下で、赤髪の青年が食堂の店主と話しているのが見えた。その少し離れた場所には、黒い上着の男が静かに立っている。同じ側の人間だと、気配でわかった。声は聞こえなくても、どちらも区画の住民を気にかけているのはわかる。体の向き、視線の先、わずかな緊張の質——そういうものが、全部アルマには読めた。
アルマは視線を区画の外縁に向けた。
複数の人影が、外から近づいてくる。動きが揃っていた。訓練された足運び。間隔が一定で、互いの死角を補い合うように配置されている。傭兵だろうと、弾道計算が静かに走り始める。進入角度、推定人数、移動速度、到達までの時間——数値が頭の中に並んでいく。まだ射程外だった。でも、もう少しで変わる。
同時に、別の気配も感じていた。
廃材置き場の方向から、空気が歪んでいる。インビジブルの凝集。まだ形を持っていないが、放置すれば今夜中に受肉する。アルマはドローンを一機、静かに射出した。音もなく夜空に溶けたそれが、廃材置き場の上空を旋回し始める。映像データが瞳の裏側に流れ込んできた。
凝集の中心点。深さ、密度、不安定さの程度。全部数値に置き換えて、頭に格納する。
アルマは上体を少しだけ起こして、周囲の味方の位置を再確認した。赤髪の青年、黒い上着の男、それから他にも気配がある。今夜この区画に集まってきた√能力者たちが、それぞれの場所で動いていた。バラバラに見えて、向いている方向は同じだった。住民たちを、守ろうとしている。
アルマには、そういう感情の動きはよくわからない。でも、同じ側にいるというのは理解できた。それで十分だった。
アルマは小さく息をついた。
「……つなぐ、ね」
誰にも聞こえない声で呟いて、√能力を起動した。
サイバー・リンケージ・ワイヤー。目に見えない接続が、半径の中にいる味方全員に伸びていく。アルマ自身の知覚が、細い糸を通じて広がっていく感覚があった。繋がった相手の反応速度と命中精度が、底上げされていく。戦場の情報を共有するような、静かな連帯だった。難しい言葉は出てこない。でも、やれることはやった。
アルマは再び腹這いになって、L96A1の照準を廃材置き場の方向に向けた。引き金を引くつもりはまだない。ただ、必要になった瞬間に動けるように、準備だけをしておく。暗殺者として培った先読みの習慣が、今夜は別の用途で働いていた。
屋根の上に、桜の花びらが一枚落ちてくる。
アルマは動かなかった。紫の瞳だけが、それをちらりと見て、また路地に戻っていった。甘いものが食べたいと思ったのは、ほんの一瞬だけだった。今夜が片付いたら、何か買おうと思った。それだけだった。
傭兵の影が、外縁に近づいてくる。ドローンが凝集点の変化を伝えてくる。
二つの脅威が、同時に動き始めていた。
アルマは静かに、引き金の手前で待ち続けた。この夜が終わるまで、ここを離れるつもりはなかった。
第七積層ブロックの入口近く、石畳の脇に設置された仙術ランタンの柱に、暁・千翼は背を預けて立っていた。
カメラを手に持っている。撮影しているわけではない。ただ、持っていると落ち着く。習慣のようなものだった。
銀髪が夜風に揺れた。緑色の瞳が、静かに区画の奥を見ている。
ゾディアック・サインからの情報が届いた時、千翼はすでに荷物をまとめていた。仙術の乱れ、ガルガンチュア商会の傭兵部隊、下層住民への脅威——状況を整理すると、今夜は情報収集と分析が先に立つ夜だとわかった。戦闘になるとしても、それは後の話だ。
千翼はゆっくりと路地に踏み込んでいった。
体調はそれほど悪くない。今日は貧血の波が来ていない。それだけで少し、動きやすかった。腰のベルトに下げた錬金道具の重さを確かめながら、人の気配を読んでいく。
路地の奥から、老夫婦の話し声が聞こえてきた。店を畳んだ後に、戸締まりを確認し合っている声だった。千翼は足を止めて、しばらく耳を傾けた。会話の端々に、不安が滲んでいる。ここ数日、夜中に音がするとか、見慣れない顔が増えたとか。
千翼は二人に近づいた。
「こんばんは。少しだけ、聞いてもいいですか」
穏やかな声だった。背が高くなく、顔立ちも柔らかい。警戒を与えにくい外見が、こういう時には働いた。老夫婦は千翼を見て、少し警戒を緩めた。
話を聞いていく。廃材置き場の音、野良猫の変化、見慣れない人影の方角と時間帯。千翼は相槌を打ちながら、全部頭に入れた。押しつけがましくなく、でも必要なことはちゃんと聞く。相手に寄り添うように話すのは、千翼が昔から自然にできることだった。
「ありがとうございます。今夜は、なるべく奥の部屋にいてください」
老夫婦が格子戸の中に消えていくのを見送って、千翼は視線を廃材置き場の方向に向けた。
仙術の乱れが、あちらから来ている。千翼にはそれが、うっすらと肌でわかった。D.E.P.A.S.の護霊、幻狼グローリアの感覚が、霊的な歪みを拾っている。インビジブルの凝集。受肉の前段階特有の、空気の重さがある。まだ形を持っていないが、放置すれば今夜中に変わる。
千翼は錬金道具を取り出して、手元で小さく動かし始めた。
今夜の状況を整理する。インビジブルの凝集が引き金になって妖魔が生まれる。それに乗じて傭兵が来る。二つの脅威が重なる夜。もし戦闘になるなら、相手の特性に合わせた錬成が必要になる。血刃・双月の改造も、その場でできる。今は分析の段階だが、材料の選定は今のうちに始めておいた方がいい。
千翼は道具を手の中で転がしながら、廃材置き場を見つめた。
インビジブルの凝集点がわかれば、受肉した場合の性質がある程度読める。凝集の速さ、集まる密度、歪みの質——そこから、どんな妖魔が生まれるかを推測できる。戦闘知識と錬金術の掛け合わせが、千翼の戦い方の核心だった。今夜使う最適な錬成毒の調合は、もう少し観察してから決める。
ポーションの残りを確認した。いくつかは、今夜使うことになるかもしれない。千翼は一本を手に取って、中身を確かめた。造血剤が二本ある。味の悪さは折り紙つきだが、緊急時には渡せる。渡す時は一言添えることにしている。飲む前に心の準備をしてもらうためだ。
桜の花びらが、一枚、千翼の肩に落ちてきた。
千翼はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「……きれいだね」
戦闘前の独り言だった。空が好きなのと同じ感覚で、きれいなものはきれいだと思う。それだけだった。
幻狼グローリアの気配が、背後でわずかに揺れた。千翼は小さく頷いて、カメラをベルトに収めた。
分析は済んだ。あとは、動くだけだ。
第七積層ブロックの路地に、場違いなほど落ち着いた足音が響いていた。
角隈・礼文は、仙術ランタンの光の中を、散歩でもするような歩き方で進んでいた。黒髪に口髭、顔の傷跡。年齢相応の貫禄があるのに、どこか飄々とした空気をまとっている。漆黒の瞳が、路地の細部を静かに拾いながら動いていた。
知識欲が強い、とよく言われる。礼文自身もそれを否定しない。今夜この区画に足を向けたのも、半分はそういう理由だった。仙術の乱れ、インビジブルの凝集、積層都市の下層で起きようとしている出来事——全部、直接見ておきたかった。文献で読むよりも、現場で肌に感じる方が、礼文には向いていた。
路地の途中で、足を止めた。
周囲の気配を読む。屋根の上に、小さな影がある。路地の奥では、赤髪の青年が住民と話しているようだ。他にも、同じ側の気配がいくつかあった。それぞれが、それぞれのやり方でこの夜に向き合っている。
礼文は小さく頷いた。
「なかなか、面白い夜ですね」
独り言だった。でも、悪い意味ではない。面白いというのは、礼文にとって最大級の関心の表れだった。
廃材置き場の方向から、空気の歪みが伝わってくる。インビジブルの凝集。古代語魔術師として長年インビジブルと向き合ってきた礼文には、その質がわかった。まだ受肉していない。でも、凝集の密度が上がっている。放置すれば今夜中に形を持つ。
礼文は上着の内側に手を入れた。
指先に、紙片の感触がある。呪文を書き込んだ紙片——礼文が創造した、とある力を持つ断片だ。これを渡せば、受け取った者の技能が底上げされる。ただし、使う度に消滅する確率がある。そしてその時、読み手は正気度を一部失う。
礼文はそれを取り出して、しばらく眺めた。
「……まあ、説明はしておいた方が親切でしょうね」
近くに、銀髪の青年がいた。錬金道具を手に持って、廃材置き場の方向を見ている。礼文はその青年に近づいた。
「はじめまして。角隈礼文と申します。以後お見知りおきを」
穏やかな声だった。初対面の相手には、まず礼を尽くす。それが礼文の流儀だった。
銀髪の青年が振り返った。礼文は微かに目を細めた。若い。そして、場慣れしている目をしている。奴隷だった過去を持つ者が見せる、独特の鋭さと静けさが、その瞳の奥にあった。礼文はそういうものを、見分けることができた。
「少し、よろしいですか。これを」
礼文は紙片を差し出した。
「呪文を書き込んだ紙片です。お持ちになれば、技能が向上します。ただし」
礼文は人差し指を立てた。
「使う度に、消える確率があります。消えた時は、多少の代償を払うことになります。正気度に、多少の傷がつく程度のことですが——あらかじめ、ご承知おきを」
それだけ言って、礼文は静かに笑った。隠しているわけではない。ただ、細かいことは自分で調べるのが一番だと思っている。渡すかどうかは、相手が決めることだ。
紙片が、受け取られた。
礼文は改めて廃材置き場に視線を向けた。インビジブルの凝集が、また少し濃くなっている。受肉まで、時間がなくなってきていた。
礼文は手の中で魔力を静かに溜め始めた。
戦闘になるなら、全力で臨む。古代語魔術師として、怪異解剖士として、今夜の出来事を見届ける義務が、礼文にはある。それに——インビジブルとの対峙は、いつでも知識の宝庫だった。受肉した妖魔の構造、凝集の過程、仙術の乱れとの相互作用。全部、この目で確かめたかった。
「さて」
礼文は口髭を指先で整えて、路地の奥を見た。
「それでは、状況を開始しましょう」
第2章 冒険 『闇から刺客に狙われている』
廃材置き場の空気が、裂けた。
仙術ランタンの灯りが一斉に揺れた。橙色の光が歪み、路地全体に異様な影が走る。直後、錆びた金属の塊が内側から弾け飛んだ。破片が石畳を叩き、火花が散る。その中心から、黒い霧が立ち上った。みるみるうちに密度を増し、形を持ち、獣の輪郭が夜の中に浮かび上がってくる。
妖魔が、受肉した。
高凪・瀬海は、積層の上層デッキから眼下を見ていた。ゾディアック・サインが映し出す映像が、急激に書き変わっていく。仙術の乱れが臨界を超えた。予測より早い。計算より、十五分は早かった。
瀬海の指先が動く。弾道計算が走り出した。
妖魔の受肉と同時に、区画の外縁から傭兵部隊が動き出していた。ゾディアック・サインに映る人影が、三方向から路地に入り込んでいく。訓練された動き。連携が取れている。混乱に乗じる気でいる。示し合わせたように、住民の密集している方向へ向かっていた。偶然ではない。この夜の混乱は、最初から計算されていた。
瀬海は通信を繋いだ。
「高凪・瀬海よ。状況が変わったわ、聞いて」
声は落ち着いていた。でも、その奥の温度が少し変わっていた。
「妖魔が受肉したの。廃材置き場——第七積層ブロックの中央よりやや北。同時に、傭兵部隊が三方向から進入を開始しているわ。北路地、東の細道、それから西の荷搬入口。全部、住民の密集している方向に向かっている」
ゾディアック・サインが次の映像を映し出す。食堂の老いた店主が、物音を聞いて格子戸に手をかけようとしていた。
瀬海の視線が鋭くなった。
「店主さんは、まだ中にいる。子どもの気配が二つ、北側の民家にあるわ。外に出したら駄目よ。傭兵と鉢合わせになる」
妖魔が路地を這い始めた。映像の中で、黒い霧が凝縮した体躯を持ち、石畳を引っ掻きながら動いている。仙術ランタンの光に反応して、その輪郭が激しく歪んでいた。インビジブルが獣の死骸と融合した型だ。速い。そして、音に引き寄せられる性質を持っている。路地の奥から聞こえる人の気配が、そのまま妖魔を誘導してしまう。
瀬海は一度だけ目を閉じた。
計算が終わる。妖魔の動線、傭兵の進入ルート、住民の位置——全部を重ねると、最も危険な交差点が見えた。北路地の突き当たり。そこに、全部が集まろうとしていた。妖魔が北から来る。傭兵の一隊が東の細道を抜けてそこへ出る。住民が物音に驚いて逃げ込もうとした場合も、あの袋小路が逃げ場に見えてしまう。
目を開ける。
「北路地の突き当たりが、一番危ない。妖魔と傭兵が同時に到達するわ。住民が逃げ込もうとした場合も、あそこに集まる可能性が高い」
ゾディアック・サインが、またひとつ映像を変えた。突き当たりの壁際に、小さな影がある。猫だった。逃げ場を失って、壁に張り付いている。
それだけで、瀬海には十分だった。人が来る前に、動物が先に追い詰められている。あそこは袋小路だ。妖魔が到達すれば、逃げ込んだ住民に出口はなくなる。
「迷わないで動いて。あなたたちなら、できるわ」
瀬海は欄干に手をついて、路地の夜を見下ろした。
桜の花びらが上層デッキの縁を越えて、遙か下の路地へ落ちていく。仙術ランタンが、また一本、揺れて消えた。橙色の光が減っていく分だけ、路地が暗くなっていく。暗がりの中で、妖魔の輪郭だけが黒く光っていた。
瀬海はゾディアック・サインから目を離さなかった。
今夜の終わりに何が映るか——それはまだ、見えていない。でも今この瞬間に動かなければならないことは、はっきりとわかっていた。
路地の暗がりに、気配がなかった。
それが、おかしかった。
シルヴィア・ノーチェイサーは、第七積層ブロックの東側通路を歩きながら、視線だけを鋭く動かしていた。銀髪が夜風に揺れる。青い瞳が、影の輪郭を一本一本、確かめていく。仙術ランタンが点在する通路に、人の姿はない。物音もない。妖魔が受肉した後の混乱で、住民たちは奥の部屋に引っ込んでいる。それはわかっていた。
でも、これは違う種類の静けさだった。
戦場で長く生きてきたシルヴィアには、わかる。何かが、息を殺して待っている時の空気の質が。
「……いるわね」
小さく呟いた。立ち止まらない。歩き続ける。気づいていないふりをして、足音を一定に保つ。√ウォーゾーン出身の戦線工兵が叩き込まれた習慣が、体の中で静かに動いていた。
弩弓エアリアルの重さを、右手で確かめた。いつでも変形できる。
刺客が来るとしたら、どこからか。シルヴィアは視線を動かさずに、通路の構造を頭の中で展開した。左の壁、三メートル先に物陰がある。屋根の縁、影が濃い。通路の突き当たり、角が死角になっている。
三箇所。どれかから来る。あるいは、全部から同時に来る。
シルヴィアの足が、わずかに速くなった。わざとだった。追い立てられているように見せる。刺客に、有利だと思わせる。誘い込むのではなく、誘い出す。距離を詰めさせて、動いた瞬間に捉える。
左の壁の物陰が、動いた。
シルヴィアはすでに横に跳んでいた。
刃が空を切る音がした。暗器だ。小さくて速い。でも、読んでいた。着地と同時に、弩弓エアリアルを構える。
「エアリアル、ギアチェンジ」
低い声だった。弩弓が変形する。形状が変わり、照準が収束する。視界の中に、刺客の輪郭が捉えられていた。暗がりに溶け込もうとしている。でも、シルヴィアの視力は暗がりを通す。隙が無い、と言われるのはこういう場面のためだった。
引き金を引いた。
雷と風が混ざった一撃が、通路を駆け抜けた。直撃。刺客の体が痺れで止まる。マヒと魔力の継続ダメージが、その体に刻み込まれていく。
シルヴィアは着地したまま、すぐに次の気配を探った。
屋根の縁から、もう一人が飛んでくる。シルヴィアは転がって回避した。石畳に手をついて、即座に立ち上がる。二人目の刺客が地面に降りた。体格がいい。近接戦を好む型だと、一瞬で判断する。
距離を取ろうとした相手に、シルヴィアはあえて踏み込んだ。
接近戦を選ばれると思っていなかった相手が、一瞬だけ反応を遅らせた。その隙に、エアリアルの銃口を相手の腕に向けて放つ。部位への精密射撃。武器を持つ腕に電流が走り、刺客の手から刃が落ちた。
通路の突き当たりの角から、三人目が飛び出そうとして——止まった。
シルヴィアはすでに、そちらに銃口を向けていた。
「やめておいた方がいいわ」
静かな声だった。感情がない、というわけではない。ただ、揺れていない。戦場で培われた落ち着きが、その声を支えていた。
三人目の刺客が、じりじりと後退した。
シルヴィアは追わなかった。逃がす判断は、情報のためだ。誰が差し向けたのか。ガルガンチュア商会との繋がりがあるなら、逃がした方が尻尾を掴める。銃口を下ろさずに、その背中を見送った。
倒れた二人を確認する。意識はある。マヒが続いている。
シルヴィアは弩弓エアリアルを下ろして、通路の奥を見た。仙術ランタンが一本、風に揺れて光を取り戻していた。桜の花びらが一枚、石畳に落ちている。さっきの風圧で飛んできたものだろう。
シルヴィアは小さく息をついた。
「……続きがあるわね」
暗がりが、動いた。
御門・雷華は通路の角に背を預けたまま、その動きを目で捉えていた。金の瞳が、眼鏡の奥で静かに収束している。三つの気配。壁際に一つ、屋根に一つ、そして——少し遅れて、正面から一つ。
遅い。
心の中でだけ、そう思った。
刺客がいることは、十メートル手前で気づいていた。足音の消し方が甘い。気配の殺し方も、雷華が幼い頃から相手にしてきたダンジョンの敵に比べれば、まだ荒かった。エルフとして三十五年生きてきた経験は、こういう時に静かに働く。外見は学生に見られる。でも、積み重ねてきた年数は、誤魔化しようがない。この夜の路地も、雷華にとっては特別に危険な場所ではなかった。
雷華は眼鏡を指先で押し上げた。
正面の刺客が踏み込んでくる。素直な突進だった。雷華は体を半身にずらして、その軌道を外した。見切り——相手の動作の先を読む技術が、すでに次の動きを計算している。
精霊銃を抜いた。
足元の石畳に、銃口を向ける。
「——っ」
引き金を引いた瞬間、雷の弾丸が石畳に炸裂した。爆発と光が同時に広がる。雷光が視界を白く塗りつぶす。目潰し。正面の刺客が反射的に腕で顔を覆った。壁際の気配も、同じように動きを止めた。爆発の余波が、通路全体に広がっている。
帯電が、雷華の体を包んだ。
一瞬だった。体が軽くなる感覚——帯電による強化が、筋肉の出力を底上げしていく。雷華は床を蹴った。爆発の余煙を切り裂いて、加速する。
目が見えていない刺客に、帯電した跳び蹴りが叩き込まれた。雷光一閃。衝撃と電流が同時に走り、刺客が壁に叩きつけられる。
着地。雷華はすでに次の気配に向いていた。
屋根から降りてきた二人目が、距離を測っている。雷華との間合いを見極めようとしていた。慎重な動きだった。先の一撃を見て、警戒を上げている。
雷華は動かなかった。
待つ。相手が動くまで、動かない。見切りは、相手が動いてから機能する技術だ。焦って踏み込む必要はない。帯電がまだ体に残っている。いつでも動ける。
刺客が、じりじりと横に動いた。回り込もうとしている。雷華はそれに合わせて、体の向きだけを変えた。銃口は常に相手に向いている。
刺客が踏み込んだ。
雷華は後ろに跳んだ。同時に引き金を引く。今度は直撃狙いではなく、相手の足元への射撃だった。爆発が足元で炸裂し、マヒが走る。体幹を崩された刺客がよろめいた瞬間、雷華は残像を残しながら間合いを詰めた。
残像——動きに残影を残す技術が、相手の視線を散らす。どこにいるかわからなくなった刺客の腕を、雷華は掴んで関節に圧をかけた。捕縛。抵抗できない角度で、静かに制圧する。
「終わりよ」
感情のない声だった。
刺客が力を抜いた。
雷華は周囲を確認した。壁際の三人目は、最初の爆発に巻き込まれて動けなくなっていた。マヒが全身に回っている。通路に、静けさが戻っている。
雷華は精霊銃を収めて、眼鏡を直した。帯電の余韻が、指先からゆっくりと抜けていく。倒れた刺客を一人ずつ確認する。意識はある。動けない。それで十分だった。この場は済んだ。
桜の花びらが一枚、爆発の余波で通路に舞い込んでいた。石畳の上で、くるりと回って止まる。
雷華はそれを一瞥して、通路の奥に視線を向けた。
「……まだ、いるわね」
素っ気なく呟いて、また歩き始めた。誰かに聞かせるつもりの言葉ではなかった。ただ、事実としてそこにある、という確認だった。眼鏡の奥の金の瞳が、次の気配を探しながら、静かに路地の暗がりを切り開いていく。
真壁・蒼穹は、路地の物陰でカメラを構えていた。
ファインダーの向こうに、刺客らしき人影が二つある。積層の壁沿いに移動しながら、何かを探している動きだった。蒼穹はシャッターを切らずに、ただ観察し続けた。撮るのは後でいい。まず、読む。
動きの癖。足音の間隔。視線の向く先。手に持っているものの形。
手練れではない。でも、慣れている。ガルガンチュア商会の傭兵とは別の筋だろう。身のこなしが、もう少し小回りが利く。刺客として雇われた個人、あるいは小規模な組織の人間だと思われた。どちらにせよ、今夜この区画に向けられた敵意の一つであることは間違いない。
蒼穹は携帯端末を開いて、二人の動きを記録しながら、ルートを分析した。この通路を塞ぐ気でいる。他の√能力者が来れば、挟み撃ちにされる。ならば、先に動く必要がある。
蒼穹はポケットに手を入れた。
お菓子が出てきた。小さな包みに入った、甘い焼き菓子だった。蒼穹がいつも持ち歩いているものだ。
考える。
刺客に直接渡す気はない。でも、通路の構造を使えば——蒼穹は端末でこの区画の見取り図を呼び出した。通路の突き当たりに、小さな踊り場がある。そこから別の路地に抜けられる。刺客の視線の死角にあたる場所だ。
蒼穹は音を立てずに動き始めた。
壁際を伝って、刺客の背後に回り込む。足音を殺す技術は、流浪人として各地を渡り歩いた時に自然と身についていた。刺客は気づいていない。前方しか警戒していない。背後への意識が薄い。それは、蒼穹にとって十分な隙だった。
踊り場に出た。
蒼穹は端末を操作して、通路の仙術ランタンの一本に干渉した。ハッキング——仙術と電子技術が融合したこの世界では、ランタンの制御システムに外部からアクセスできる場合がある。試してみると、古い型のランタンだった。セキュリティが緩い。
光量を、一瞬だけ落とした。
刺客の視界が、ほんの一秒、暗くなった。
その一秒に、蒼穹は踊り場から飛んだ。
お菓子のカロリーから引き出したオーラが、体を包む。テイスティング・フィニッシュ——移動速度が跳ね上がり、体の芯に熱が通った。距離が一瞬で縮まる。刺客が振り返った時にはもう遅かった。装甲を貫く威力を乗せた近接の一撃が、刺客の腹に叩き込まれた。
一人目が崩れる。
二人目が反応して向き直った。蒼穹はすでに横に動いていた。速度を活かして死角に入り込み、足を払う。倒れた相手の背中に、端末を押しつけた。ハッキングで、相手の持つ通信機器を一時的にロックする。外部への連絡を断つためだった。
静かになった。
蒼穹は立ち上がって、二人を確認した。動けない。意識はある。蒼穹はしゃがんで、二人の顔を交互に見た。年齢は、思ったより若かった。この区画の住民を脅すために雇われたのか、それとも別の目的があったのか。表情を読もうとすると、二人とも目を合わせようとしなかった。
「教えてほしいんだけど」
穏やかな声だった。脅しでも怒鳴り声でもない。ただ、真っ直ぐに聞く。
「誰に頼まれたの? 答えてくれたら、これあげるよ」
焼き菓子の包みを、目の前に置いた。
二人が顔を見合わせた。
蒼穹は急かさなかった。答えを待ちながら、端末に記録を続けた。今夜に集まった情報の断片が、少しずつ繋がり始めていた。この二人が話してくれれば、また一つ、輪郭が見えてくる。桜の花びらが一枚、踊り場から流れてきて、焼き菓子の包みの隣に静かに落ちた。蒼穹はそっとそれをどかして、二人が答えを出すのを、静かに待ち続けた。
霧が、出ていた。
誉川・晴迪は路地の暗がりに溶け込みながら、薄く広がる霊気の霧を眺めていた。自分で出したものだ。仄暗い区画の空気に霊気を混ぜると、とても良い雰囲気が出る。そう思っている。
灰色の髪が、霧に紛れて見えなくなっていた。色白の肌も、闇の中では輪郭を失う。晴迪が完全に静止している限り、普通の人間には認識できない。幽霊のルートブレイカーとしての特性が、こういう場面で静かに機能していた。
通路の先に、気配がある。
刺客だった。一人が壁際で待ち構え、もう一人が屋根の上から見張っている。挟み撃ちの配置だ。晴迪は少し首を傾けて、二人の位置関係を確かめた。
「……これは、面白いですね」
誰にも聞こえない声で呟く。
好奇心というのは、晴迪にとって行動の原動力の一つだった。正義感や慈悲は希薄かもしれない。でも、興味深い状況には自然と引き寄せられる。今夜の区画は、あちこちで面白いことが起きていた。妖魔の受肉、傭兵の進入、そして今度は刺客。整理しながら観察するだけで、楽しい夜になりそうだった。
晴迪は懐から、小さな人形を取り出した。
無言で、身振りだけで指示を出す。人形が自立して、ゆっくりと動き始めた。通路の奥、刺客の視線が届かない裏路地の方向へ向かっていく。住民たちを誘導するための準備だった。この霧の中で迷わず動けるのは、晴迪の人形だけだ。一般人には何が起きているかわからないが、人形について歩くだけで安全な場所へ案内される。
晴迪は視線を刺客に戻した。
壁際の一人が、気配を感じたのか、わずかに顔を向けた。でも晴迪の姿は見えない。霧と闇に溶け込んだまま、完全に静止している。刺客は首を振って、また通路の正面に目を戻した。
そこに、魂魄炎を一つ、灯した。
仄かな青白い炎が、通路の奥に浮かんだ。晴迪の霊気が形を取ったものだ。音はない。ただ、静かに光っている。刺客の目が、それに引き寄せられた。何かいる——そう思うだろう。人間の目は、暗がりの中の光に引き寄せられる習性がある。
壁際の刺客が、一歩、魂魄炎の方向に踏み出した。
その瞬間、晴迪は動いた。
跳躍。刺客が晴迪の気配に気づいて振り向こうとした時には、すでに先制攻撃が入っていた。得物を玩具に持ち替えている。殺しではない。不殺の一手だった。衝撃だけを与えて、動きを止める。刺客が崩れた瞬間、晴迪は闇を纏って再び隠密状態に入った。
屋根の上の二人目が、下で何が起きたか把握しようとして身を乗り出した。
晴迪は死霊を一体、その死角に向かわせた。音と気配だけで存在を示す。実体はない。でも、暗がりの中で突然何かが動いた感覚は、人間の判断力を揺さぶる。屋根の刺客が体勢を崩して、一瞬だけ動きが止まった。
その隙に、晴迪はもう一体の幻影を通路に立たせた。
人の形をしている。晴迪自身の幻影だった。通路の中央に静かに立っている幻影を見て、屋根の刺客が目を奪われた。本物はどこにいるか——探し始めた瞬間に、晴迪は屋根の端に跳び上がり、不意打ちを叩き込んだ。やはり玩具で、やはり不殺で。
路地が、静かになった。
晴迪は霧の中に戻って、二人の様子を確認した。意識はある。動けない。魂魄炎の青白い光が、倒れた二人を仄かに照らしていた。桜の花びらが一枚、霧の中をゆっくりと落ちていく。橙色ではなく、青白い炎の色に染まって、不思議な色の花びらになっていた。
「……やはり、面白い夜ですね」
晴迪は静かに呟いて、人形の行方を目で追った。住民の誘導は、うまくいっているようだった。霧の向こうで、人形の小さな足音が路地の奥に消えていく。
青木・緋翠は、通路の入口で立ち止まって、状況を整理していた。
赤い瞳が、静かに周囲を走査している。パソコンの付喪神として培われた精密な知覚が、路地の構造、影の濃淡、気配の分布を同時に処理していた。刺客がいる。少なくとも二人、通路の中ほどに配置されている。奥に一般住民の気配が一つ。逃げ遅れたか、あるいは気づいていないかだ。
優先順位は、明確だった。
住民の安全が最初。次に刺客の無力化。緋翠自身の安全は、それより後でいい。多少の怪我は問題ない。緋翠はそれを頭の中で確認してから、動き始めた。
緋翠は念じた。VRアバター——古代語魔法が起動する。十秒にも満たない時間で、緋翠の姿が変わっていった。人の形から、小さな形へ。路地を転がっている空き缶程度の大きさに縮んだ。回避と隠密と機動力が跳ね上がる。緑の髪も赤い瞳も、この大きさでは見えない。
影の中を、音もなく移動した。
刺客の配置を確認しながら、奥の住民に向かって進む。この大きさで動けば、刺客の視線には引っかからない。石畳の継ぎ目を伝って、壁際を走り、住民の足元まで辿り着いた。変身を解除する前に、一度だけ周囲の気配を確認した。問題ない。
緋翠は元の姿に戻った。
住民の老人が、声を上げかけた。緋翠は素早く口元に指を当てた。静かに、という意味だ。老人が息を呑んで、頷いた。
「裏から出てください。今すぐ」
小声で、でも明確に言った。老人が頷いて、緋翠の指示した方向に動き始める。足元がおぼつかないのを見て、緋翠は壁際に沿って老人を誘導した。刺客の視線の死角になっている通路の端を、素早く通り抜けさせる。老人の気配が路地の外に消えたのを確かめてから、緋翠は再び通路の方に向き直った。
刺客が、気配を感じて動き始めていた。誰かが通路に入ったと気づいている。でも、どこにいるかはまだわかっていない。
緋翠は今度は逆方向に変身した。
大きく。人より一回り大きい、威圧感のある形に。命中と威力と、驚かせ力が上がる。刺客の一人が変身した緋翠の姿を見て、一瞬だけ動きを止めた。想定外の大きさに、判断が遅れた。
その隙に、緋翠は跳弾を放った。
通路の壁に当てて角度を変え、刺客の後方から着弾させる。正面から撃っていない。どこから来たかわからない衝撃が、刺客の体勢を崩した。続けて捕縛——ロープを手早く展開して、体勢の崩れた相手の動きを封じた。
二人目が飛び出してきた。
緋翠はすでに元の大きさに戻っていた。見切りで動きを読む。踏み込んでくる軌道を半歩ずれて外し、咄嗟の一撃を脇腹に入れた。崩れた相手にロープをかけて、一人目と同じように動きを封じた。
通路が静かになった。
緋翠は二人を確認した。意識はある。拘束は問題ない。予定通りの動きだった。
桜の花びらが一枚、通路に舞い込んできた。
緋翠はそれをちらりと見て、また周囲の確認に戻った。今夜の仕事は、まだ終わっていない。次の状況を把握する必要がある。効率よく動くために、情報が要る。区画全体で何が起きているか、把握できている範囲でもう一度整理する必要があった。刺客の出所。傭兵との関係。妖魔の現状。全部が繋がっているはずだった。
「次は、どこですか」
小さく呟いた。誰に聞くともなく、ただ自分の中で確認するように。赤い瞳が、通路の奥の暗がりを静かに見つめていた。この区画の住民が全員安全になるまで、緋翠の動きは止まらなかった。それは決意でも覚悟でもなく、ただそうするのが当然だという、緋翠なりの静かな確認だった。今夜はまだ、長い。
第3章 ボス戦 『妖魔公女『冥鈴・ガルガンチュア』』
気配が、降ってきた。
瀬海が顔を上げた瞬間、七星剣の切っ先が欄干を薙いだ。金属が弾け、破片が散る。冥鈴・ガルガンチュアが、いつの間にか上層デッキに来ていた。ゾディアック・サインに映っていたはずの人物が、今、目の前にいる。
瀬海は考えるより先に動いていた。
横に転がる。石畳に肩が当たって、衝撃が走った。かまわない。七星剣の二撃目が、瀬海がいた場所の床を叩いた。火花と石の粉が舞い上がる。瀬海は転がった勢いのまま距離を取り、膝をついた姿勢から上体を起こした。制服の袖に、石の粉が白くついていた。
ハンドガンを、抜いていた。
引き金を引く。天井の仙術装置に向けて、二発。狙いは冥鈴ではない。装置が弾け、仙術ランタンの光が急激に明滅した。光と影が激しく入れ替わる。威嚇射撃——直撃させるためではなく、相手の視界と判断を乱すための射撃だ。弾道計算は、最初からそこに向けて走っていた。
「ここで会うとは思わなかったわ」
瀬海は立ち上がりながら、冥鈴を見た。
声は落ち着いていた。膝が震えている自覚はある。でも、声には出さない。星詠みが前線に立つことは、想定にない。それでも今この瞬間、瀬海の体は動いていた。冥鈴の赤い瞳が、瀬海を捉えている。その目に、嘲りはなかった。値踏みするような、静かな視線だった。
冥鈴が、羅盤をゆっくりと持ち上げた。仙術の波動が、デッキ全体に広がり始める。足元の石畳が、微かに揺れた。震度が上がっていく。床の継ぎ目から、細かな砂埃が立ち上った。
瀬海は再び転がった。
真横に、今度は素早く。羅盤から放たれた仙術衝撃波が、瀬海のいた場所の床を震わせた。割れた石畳が、波紋のように広がっていく。直撃していれば、立っていられなかった。肩が床に当たって、また衝撃が走る。それでも瀬海は起き上がった。転がりながら、銃口の向きを切り替えていた。
転がった先から、また二発。
今度は冥鈴の足元に向けて、石畳を狙った射撃だった。直撃させるためではない。衝撃で石の破片を舞い上げ、冥鈴の視線を一瞬だけ足元に引きつける。その間に、瀬海は欄干際まで動いた。
背中に、夜風が当たった。
眼下には第七積層ブロックの路地が広がっている。仙術ランタンが消えた区画は暗く、でも青白い光の残滓があちこちに漂っていた。路地の中で√能力者たちが動いているのが、かすかに見えた。気配が、上層へ向かって動いている。
冥鈴が、また一歩、近づいてくる。
瀬海はハンドガンを構えたまま、その目を見た。星詠みは、戦う力を持っていない。でも今この瞬間、瀬海は場所を動かなかった。次の攻撃がどこから来るか、どのタイミングで転がれば躱せるか——弾道計算が静かに走り続けている。転がるたびに制服が汚れていく。それでも、瀬海は銃口を下ろさなかった。この夜に集まってきた人たちが、路地から上層へ向かっている。それだけわかれば、今は十分だった。
「あなたが来るなら、最初から言ってくれればよかったのに」
瀬海は、穏やかに言った。
戦う言葉ではない。ただ、事実として言った言葉だった。ゾディアック・サインがここまで読めていれば、もっと別の準備ができた。そういう意味だった。
冥鈴の赤い瞳が、わずかに動いた。
路地の下から、気配が近づいてくる。√能力者たちが、上層に向かっていた。瀬海はそれを感じながら、もう一発、天井に向けて威嚇射撃を放った。光が激しく明滅する。桜の花びらが一枚、爆風に乗ってデッキに舞い込んできた。今夜最後の戦いが、ここから始まろうとしていた。
上層デッキに出た瞬間、御門・雷華は状況を把握した。
銀髪に青い角。羅盤と大剣を携えた人物が、デッキの中央に立っている。その前に、ハンドガンを構えた少女——高凪・瀬海が、欄干を背にして向き合っていた。石畳が割れている。衝撃波の跡だ。瀬海の制服に、石の粉が白くついていた。それだけで、どれだけの時間をここで凌いでいたかが、はっきりとわかった。
雷華はデッキに踏み込んだ。足音を消さない。あえて聞かせる。冥鈴・ガルガンチュアの視線が、瀬海から雷華へと移った。
「邪魔をするか」
低い声だった。問いでも怒声でもない、ただの確認だった。
「するわ」
雷華は素っ気なく答えた。眼鏡の奥の金の瞳が、冥鈴を静かに捉えている。三十五年分の戦場経験が、相手の構えを読んでいた。重心の位置、利き腕、大きな尾の動き方。次に来る攻撃の種類が、おおよそわかった。
冥鈴の尾が薙いだ。
雷華はすでにジャンプしていた。尾が下を通り抜ける。空中で姿勢を整えながら、精霊銃を抜く。自分の足元に向けて、引き金を引いた。
雷の弾丸が、デッキの床で炸裂した。
爆発と雷光が同時に広がる。目潰しの光が、冥鈴の視界を白く塗りつぶした。瀬海の方向には爆発が届かない角度を、空中で計算していた。帯電が、雷華の体を包む。筋肉の出力が跳ね上がり、落下の速度が加速に変わった。
着地と同時に、帯電した跳び蹴りを冥鈴の腕に叩き込んだ。
雷光一閃。衝撃と電流が走る。冥鈴の七星剣を持つ腕が、一瞬だけ痺れで止まった。完全には崩せていない。でも、動きを鈍らせた。エルフの長命種として積み重ねた反応速度が、この一瞬を作り出していた。
雷華は即座に距離を取った。
冥鈴が羅盤を向けてくる。仙術衝撃波の始動だ。雷華はダッシュで横に抜けた。衝撃波がデッキの床を震わせる。割れた石が飛んでくる。残像を残しながら動き続け、冥鈴の射線から外れた。
「大丈夫ですか」
雷華は瀬海に向かって、短く言った。礼節を示す時の口調だった。相手が今夜ずっとここで踏ん張っていたことは、デッキの状況を見ればわかった。
瀬海が頷いた。
雷華は冥鈴に向き直った。見切りが、次の動きを読み始めている。七星剣の連撃が来るとすれば、最初の一手は右からだ。重心が、わずかにそちらに傾いていた。
精霊銃を構え直す。
マヒ攻撃で足を止めて、そこに爆発を重ねる。それが次の手だった。上層デッキの石畳がまた揺れた。冥鈴の赤い瞳が、雷華を見ている。品定めするような目だった。雷華はその視線を、眼鏡の奥で静かに受け止めた。
見切りが告げる。次は連撃だ。
雷華は動き出した。精霊銃を水平に構えながら、横に大きくダッシュする。冥鈴の七星剣が、空を薙いだ。一撃目を外に誘って、二撃目が来る前の間合いを測る。その瞬間に向けて、引き金に指をかける。マヒ弾を、冥鈴の足元に向けて。動きを止める一発を、確実に叩き込むために。
デッキの上に、桜の花びらが一枚舞い込んできた。夜風が運んできたものだろう。雷華は動きながら、その花びらがどこに落ちるかを目の端で追った。意味のないことだと知りながら。そういう習慣が、三十五年で染み付いていた。意外と情に厚い、と言われる理由が自分でもよくわかっていなかったが、こういうことなのかもしれないと、戦いの最中にぼんやりと思った。そしてすぐ、思考を切って冥鈴だけを見た。次の一手が、全てを決める。花びらが石畳に落ちる。雷光が、走った。
上層デッキに、銀髪の少女が降り立った。
音がなかった。気配がなかった。気づいたら、そこにいた。空中移動で来たのだろう。奇抜な黒衣が、夜風にゆったりと揺れている。片手に大鎌、もう片手にランタン。赤い瞳が、無表情のまま冥鈴・ガルガンチュアを見ていた。
トート・スノードロップ。
冥鈴が、その少女を見た。
興味があるのか、ないのか——判断がつかない視線だった。七星剣を構えたまま、動かない。
トートも、動かなかった。
ただ、見ている。無表情のまま、赤い瞳で冥鈴を見ている。それだけだった。他の√能力者が動いている音が、デッキの外から聞こえていた。でもトートはそちらを見なかった。今、目の前にいる存在だけを見ていた。死神として、今夜出会った中で最も値踏みに時間がかかる相手だと、静かに思っていた。
「……貴公」
冥鈴が、静かに口を開いた。
「死神か」
トートは少し首を傾けた。
「そうだよ」
感情のない声だった。肯定も否定もなく、ただ事実として答えた。「ボクはトート。君のための死神さ」——続けようとしたのかもしれない。でも、言わなかった。言う前に、冥鈴が動いていた。
指極七星斬。
七星剣が閃く。連撃の始まりだ。一撃目が、トートに向かって走った。
トートは受け流した。
大鎌の柄で七星剣の軌道を逸らす。金属がぶつかる音が鳴った。二撃目が来る。トートは武器受けで弾いた。三撃目、四撃目——連撃が続く。技能攻撃が混じる。トートは動じない表情のまま、大鎌と体の動きだけで全部を捌いていた。
霊的防護が、薄く展開されている。物理的な攻撃の通りを、わずかに減衰させていた。一撃ごとに仙術の波動が衝突して、デッキの床がびりびりと鳴っている。
五撃目が来た瞬間、トートは踏み込んだ。
「刈り取りの時間だよ」
大鎌が変わった。死神の大鎌が起動する。スウィーピング・デスサイズ——二回攻撃、かつ範囲攻撃。デッキに残る衝撃波の残滓と、仙術の乱れが、トートの鎌の範囲に絡み取られていく。
一撃目。鎧を無視する斬撃が、冥鈴に走った。受け流しを誘う軌道ではなく、鎧の隙間を縫う精密な一撃だった。
冥鈴が尾で弾いた。
トートはそれを読んでいたように、二撃目を放った。尾が伸びた先の死角から、鎌が入る。切断の威力が、冥鈴の動きを抑えた。完全ではない。でも、確実に当てた。
冥鈴の赤い瞳が、トートを見た。
今度は、品定めではなかった。何かを認めるような目だった。
トートは無表情のまま、大鎌を引いた。ランタンの灯りが、青白く揺れている。デッキの上に、仙術の残滓と死神の気配が混ざり合って漂っていた。
冥鈴は七星剣を下ろさない。羅盤をもう一度持ち上げようとしていた。仙術衝撃波の再起動だ。トートはそれを見て、体の向きを変えた。地形の利用——デッキの割れた石畳、崩れた欄干、衝撃波で生じた段差。それら全部が、トートにとっての足場になりうる。空中移動で欄干を踏んで上昇し、衝撃波の射線から外れながら、冥鈴の上方から次の一撃を狙える位置に移動した。
桜の花びらが一枚、ランタンの光をくぐって落ちた。
トートはそれを見なかった。冥鈴だけを見続けている。死ぬべきものに死を与えるというのが、トートの目的だった。今夜この人物が死ぬべきかどうか——それだけが、トートの判断基準だった。答えは、まだ出ていない。
大鎌を持つ手に、力が入った。ランタンの炎が、青白く揺れた。上空から見下ろす冥鈴の銀髪が、その光を受けて静かに輝いていた。次の鎌が、降りる。
上層デッキに、大きな影が飛び込んできた。
着地の衝撃で、石畳が割れた。マルザウアーン・ノーンテッレトが、デッキの端から転がり込んできたのだ。銀髪、色黒の肌、笑顔。どう見ても笑顔だった。戦闘の真っ只中に、ニコニコしながら現れた。
「いや〜! 間に合ったッ!!」
冥鈴・ガルガンチュアが、その方向に視線を向けた。赤い瞳が、マルザウアーンを捉えた。
マルザウアーンは、冥鈴を見た。笑顔のまま、ほんの少し目が細くなった。
「強そうだなッ!!」
感想だった。純粋に、そう思っていた。
冥鈴は何も言わなかった。七星剣の切っ先を、マルザウアーンに向けた。
マルザウアーンは両腕を前に出して、構えた。力溜め。体の奥から、力が集まってくる感覚がある。銀狼獣人の肉体が、戦闘モードに入っていた。デッキに残る衝撃波の跡を踏んで、足元の感触を確かめる。割れた石畳でも、足場は作れる。
「さぁ、頼りにしているぞ……!」
小さく、静かに呟いた。
竜漿から造られた液状の狼たちが、マルザウアーンの周囲に現れた。半径の中に広がっていく。テレパシーによる情報共有が始まった。デッキ全体の気配が、マルザウアーンの感覚に流れ込んでくる。冥鈴の足の位置、重心の動き、羅盤を持つ手の角度、尾の振り方——全部が見えた。
冥鈴が踏み込んできた。
七星剣の一撃目。マルザウアーンは受け流した。腕で軌道を逸らして、体をずらす。二撃目が来る。今度は受け流さずに、カウンターを仕掛けた。
相手の攻撃の勢いを利用して、重量攻撃を叩き込む。マルザウアーンの拳が、冥鈴の腕に当たった。七星剣の軌道が大きくぶれた。
冥鈴が尾を薙いだ。
マルザウアーンは受け流しきれなかった。尾が腹に当たって、吹き飛んだ。デッキの壁に背中を打ちつける。
「いたいッッ!!」
元気よく叫んだ。
立ち上がった。すぐに。継戦能力が、ダメージを押し通している。激痛耐性が、動くことを許している。マルザウアーンは壁から離れて、また構えた。笑顔に戻っていた。
「まだいけるッ!!」
冥鈴の赤い瞳が、わずかに動いた。呆れているのか、それとも別の何かなのか——マルザウアーンには読めなかった。でも、立ち止まる理由はなかった。
液状の狼たちが、冥鈴の足元に群がり始めた。噛みつき、絡みつく。威力は高くない。でも、足を止める効果がある。冥鈴が下を見た。その一瞬の隙に、マルザウアーンは再び踏み込んだ。
フェイントで羅盤を持つ手を誘って、開いた胴に2回攻撃を叩き込む。一発目が入った。二発目が入った。冥鈴の体が、わずかに後退した。
マルザウアーンは止まらなかった。
「まだ頼むぞ……!」
狼たちに向けて、静かに言った。群れが応えるように、冥鈴の周囲を取り囲んでいく。デッキの各所から、他の√能力者たちが冥鈴に向かっているのが見えた。それぞれが動いている。マルザウアーンは皆の位置を確認してから、また冥鈴に向き直った。
連携攻撃ができる。今のうちに、動きをもう一度止める必要がある。マルザウアーンはリミッター解除を起動した。体への負荷が上がる。でも、出力が跳ね上がった。気合が体の芯から湧き上がってくる。人々の役に立つこと——それが自分の生きがいだと、マルザウアーンは知っていた。過去の記憶がなくても、それだけは確かだった。
桜の花びらが一枚、マルザウアーンの肩に落ちた。
気づかなかった。もう踏み込んでいたから。
廻夜・歌留多は、デッキの隅で壁に背をつけて、タロットカードをシャッフルしていた。
戦闘力はゼロで扱ってほしいと、自分でもわかっている。赤茶の髪をかき上げながら、100年分の経験で培った眼で、デッキ全体を流し見していた。
冥鈴・ガルガンチュア。
七星剣、羅盤、尻尾。三つの戦い方を持つ相手。他の√能力者たちが次々と飛び込んで、それぞれやり合っている。皆、力があった。でも、決め手がなかった。弱点がない相手は、時間がかかる。賭場で山張りして負け続ける卓みたいな状況だと、歌留多は思った。有利な手札がないなら、作ればいい。それが歌留多のやり方だった。
「弱点無きものは存在しない、ってね」
歌留多は呟いて、カードを一枚、引いた。
動いた。
冥鈴の使っていた七星剣——一瞬だけ石畳に置かれたそれに、歌留多は触れた。音もなく、誰にも見えない動きで。逃げ足と物を隠すと演技が合わさって、戦闘中の死角をするりと抜けた。野良ギャンブラーが荒稼ぎしてきた、人の目を誤魔化す技術だった。100年間、それだけで生き抜いてきたのだ。
剣に触れた瞬間、記憶が流れ込んできた。
所有者の記憶。七星剣が見てきた戦いの残滓。歌留多はそれと向き合って、交渉した。懐柔するように、確かめるように。カードゲームで相手の手札を読む時と同じ感覚で、記憶の層を手繰っていく。押し付けない。引き出す。それが歌留多の得意なやり方だった。
見えた。
「見えたわよ、アンタ自身が気付いていない弱点がね……!!」
声は、冥鈴に向けて言ったわけではなかった。デッキで戦っている全員に向けた言葉だった。歌留多は剣から手を離して、さっと壁際に戻った。
得た情報を、頭の中で整理する。
冥鈴の三つの戦い方は独立している。七星剣の連撃中は羅盤を使えない。羅盤の起動中は尻尾の動きが小さくなる。そして——切り替えの一瞬、ほんの短い間、全ての攻撃が止まる時がある。そこに弱点が生まれる。誰でも突ける、唐突に出現した穴だった。理不尽なほど、くっきりと。記憶が、それを教えてくれた。
「あそこよ。切り替えの瞬間。突っ込んで」
短く、明確に言った。戦っている全員に届くように。
歌留多は壁際でカードをまとめた。直接戦う気はない。でも、この情報は仕事をする。情報というのは賭場でもデッキの上でも、使い方次第で全部の流れを変える。それを歌留多は100年で学んでいた。
冥鈴の動きが、一瞬止まった。七星剣から羅盤への切り替えの瞬間だった。歌留多の言った通りの間合いが、デッキの中に生まれた。
他の√能力者たちが、そこに向かって動いていく。
歌留多はタロットカードを一枚、指の間で回した。
「さて、恩義ができたわね」
誰にでもなく呟いた。これだけ情報を提供すれば、あとで種銭の一つや二つ、融通してもらえるかもしれない。そういう計算があった。でも同時に——デッキの住民を守るために動いていた人たちが、うまくいくといいとも思っていた。善悪には無頓着。でも、お人好しが嫌いなわけでもない。
桜の花びらが一枚、歌留多のカードの上に落ちた。赤茶の髪と同じ色をしていた。歌留多はそれを指で払って、次のカードを引いた。今夜の上がり目が、少し見えてきた気がした。見えたなら、あとは突っ込むだけだ。それは、賭場でもここでも変わらなかった。冥鈴が動く。歌留多の眼が、その弱点の場所を静かに追っていた。デッキの上に、仕事が一つ残っていた。気が向いたら、もう一枚カードを引こうと思っていた。
デッキの空気が、変わった。
祭囃子・桜が、上層デッキの端に立っていた。白い髪が、夜風に揺れている。琥珀色の瞳が、冥鈴・ガルガンチュアを静かに見ていた。
それだけでは、何も起きない。
桜は口を開いた。
「此れよりは注視されませぬように。どうか街には気を付けて」
演技の時に使う口調だった。でも演技ではなかった。霊力が、声に乗り始めている。桜の体の奥で、百の妖怪の力が動き出す気配があった。
デッキが、変わった。
石畳が消えた。割れた欄干が消えた。仙術ランタンの残骸が消えた。代わりに——路地が広がった。仄暗い、見知らぬ街の路地だった。左右に立ち並ぶのは、見てはいけないものたちだ。姿のある怪談。形を持った怖れ。百の妖怪の力を注ぎ込まれた桜の霊力が、怪談を現実に引き出していた。
怪談総括『見ヅノ怪』。
この中では、桜が物語の主人公になる。射程が届く限り、全ての攻撃が必中になる。
冥鈴が動いた。七星剣を構えて、踏み込んでくる。でも街の中では、その動きが少し変わって見えた。桜には、冥鈴の軌道がくっきりと見えていた。物語の中では、主人公には敵の動きが見える。そういうものだった。
桜は霊力攻撃を放った。
必中だった。霊的なエネルギーが冥鈴に直撃した。冥鈴の七星剣の一撃目が、わずかに軌道を外れた。完全には止まらない。でも、狂った。
二撃目が来た。
桜は霊的防護を展開した。薄い膜が、霊力でできた盾になる。七星剣が防護に当たって、通りを減らした。桜の体に衝撃が走った。押し返される。でも、倒れなかった。
百の妖怪の力が、体の中にある。限界まで注ぎ込まれた力は、時々扱いきれない。でも今夜は、うまく動いていた。研究所を爆散させたあの日から、少しずつ、自分の力と折り合いをつけてきた。
冥鈴が羅盤を持ち上げた。仙術衝撃波の始動だ。
桜は怪談の語りを続けた。街が揺れる。羅盤の波動が、見てはいけないものたちに絡まって、拡散した。衝撃波が桜に届く前に、街が吸収した。怪談の中では、そういうことが起きる。物語には、物語なりの理屈がある。
「霊的防護、重ねる」
男性口調に戻っていた。演技の時間は終わりだ。桜は霊力を重ねて防護を厚くしながら、また攻撃を放った。必中が続く。冥鈴のダメージが積み重なっていく。
冥鈴の赤い瞳が、桜を見た。
怪談の街の中で、その目は少し違って見えた。強い相手を探してきたというその目が、今夜初めて、予想外のものを見たような表情をしていた。桜が怪談の主人公である限り、攻撃は外れない。それは、力でも技でも速さでもない、別の種類の強さだった。
桜は怪談を語り続けた。
見てはいけないものたちが、デッキに並び立っている。桜自身も、かつては誘拐されて改造されて、見てはいけないものになりかけた。でも今は、物語の主人公として立っている。それだけで、十分だった。
桜の花びらが一枚、怪談の街の中を流れていった。見てはいけないものたちの間を抜けて、桜の白い髪のそばを通り過ぎた。桜はそれを目で追って、また冥鈴に向き直った。
霊力が、まだ残っている。語れる怪談が、まだある。物語は、続いていた。
冥鈴の次の動きを、桜は静かに待った。主人公は、物語の最後まで立っていなければならない。そう決めていた。街に並ぶ見てはいけないものたちが、静かに息をしていた。もう一度、霊力を放つ。怪談の語りが、夜に溶けていく。霊力があるうちは、立っている。それだけが、桜の決めたことだった。この夜が終わるまで、怪談は続く。
樒矢・リベルは、デッキの端で冥鈴・ガルガンチュアの動きを見ていた。
戦っている√能力者たちの位置、冥鈴の攻撃パターン、床の状況、距離と角度。全部を頭に入れていた。傭兵として積み重ねてきた戦闘知識が、静かに回転し続けている。
√能力はない。
それはわかっている。この場にいる他の人間に比べれば、明らかに不利だ。でも、戦闘知識があれば動き方は変わる。使える技能は、使い切る。それだけだ。
冥鈴が七星剣の連撃を一時止めた。切り替えの瞬間だった。廻夜・歌留多の声が、さっきデッキに響いていた。切り替えの瞬間に弱点が出る。それは全員が聞いていた。
リベルは踏み込んだ。
特攻——威力を犠牲にせず、速度だけを上げて間合いを詰める動き。エネルギーバリアを薄く展開しながら突っ込む。盾にはならないが、接触の瞬間に衝撃を多少逃せる。集団戦術の観点からも、複数の攻撃が同時に入る方が冥鈴の対処が分散する。
冥鈴が反応した。尾が薙いでくる。
リベルは体を捻って半身で受けた。胸に衝撃が走った。吹き飛ぶのを踏ん張りで止めて、その場で体勢を戻した。胸元の傷跡が、古傷のように痛んだ。かまわない。
「隙は出た」
誰かに言ったわけではなかった。状況の確認だった。冥鈴の重心が、尾を薙いだ方向に流れている。戻るまでに一拍ある。リベルは制圧射撃を放った。遠距離武器を使う√能力者たちに、その一拍の間を伝えるための牽制だった。弾道計算で角度を調整して、冥鈴の動きを制限する方向に射線を引く。
冥鈴が羅盤を向けた。
リベルは横に跳んだ。衝撃波がデッキを震わせる。着地して、すぐに次の位置を確認した。時間稼ぎ——直接ダメージを与えることより、冥鈴の行動を一手ずつ後らせることに集中する。それがリベルの役割だと判断していた。
紫の瞳が、冥鈴の重心を追っている。
次に来るのは七星剣か、羅盤か。戦闘知識が、パターンを分析し続けていた。√能力がなくても、観察と予測で動ける。それだけで、時間を作れる。時間ができれば、他の√能力者が動ける。それが集団戦術の基本だった。
冥鈴の赤い瞳が、リベルを見た。
強者でも、特別な力を持つ者でもない相手が、冷静に動き続けている。その視線の意味が何であれ、リベルには関係なかった。冥鈴に目を向けさせることができれば、その間に誰かが攻撃できる。それで十分だ。
リベルは限界突破を起動した。
体への負荷が増す。でも、出力が底上げされた。傭兵として戦場を渡り歩いてきた体が、まだ動けると言っている。ドーピングも残っている。使い切るまで動く。それだけだった。
「まだいける」
息をついて、また構えた。デッキの上に、桜の花びらが一枚落ちた。リベルはそれを踏んで、冥鈴に向かって進んだ。
冥鈴が七星剣の次の連撃を始めた。リベルはすでに動いていた。一撃目の軌道を、角度から読んでいたからだ。半歩ずらして躱す。二撃目が来る前に体を低くして、重心を下げた。三撃目——さすがに躱せなかった。肩に当たって、回転しながら倒れた。
立ち上がった。
胸元の傷跡が熱を持っていた。でも手足は動く。視界は正常だ。組織で積み重ねてきた日々が、体の使い方を覚えていた。
「まだだ」
そう言って、また冥鈴の目を見た。紫の瞳が、静かに次の動きを待っていた。√能力がない分、余計なことは考えない。体と頭と、積み重ねてきたものだけで動く。それで十分だと、リベルは決めていた。この夜が終わるまで、立ち続ける。それだけが、リベルの答えだった。動ける。
上層デッキに漂っていたのは、甘い菓子の匂いだった。
フーディア・エレクトラムリーグは、デッキの端で菓子を齧りながら冥鈴・ガルガンチュアを眺めていた。眼鏡の奥の金の瞳が、戦況を品定めするように動いている。銀髪が夜風に揺れた。
「ふ〜ん……」
菓子を齧る音がした。
「強そうですわね〜」
感想だった。褒めているのか、脅しているのか、判断がつかない声だった。
冥鈴・ガルガンチュアの赤い瞳が、フーディアを見た。他の√能力者たちが戦っている最中に、菓子を食べながら観察している存在を見て、一拍止まった。
フーディアは菓子を齧る手を止めた。また一口食べてから、袋を懐にしまった。
「ごはんを食べると元気になりますのよね〜」
誰に言ったわけでもなかった。ただ、体の奥から何かが目覚めていた。飢餓を満たすのに最適な閃き——蜘蛛の本能が、戦場で獲物を前にした時の本能が、静かに覚醒し始めていた。金の瞳の奥が、少し違う色になった。
「センス・オブ・ハンガ〜」
腕力が跳ね上がった。蜘蛛の妖獣としての怪力が、二倍の出力になる。
フーディアは踏み込んだ。
重力を無視するような空中移動で冥鈴の上方に出て、そこから空中ダッシュで加速した。冥鈴が七星剣を上に向けた。フーディアはそれをエネルギーバリアで弾いて、そのまま体ごとぶつかった。吹き飛ばし——怪力で強化された体重全部を、貫通攻撃の勢いで叩き込む。
冥鈴がデッキの床を削りながら、後退した。
「お強いですわね〜」
フーディアはその場に着地して、首を傾けた。本当に感心していた。これだけ叩き込んでまだ動いている。いただきたい相手が手強いのは、獲物として一流ということだと、フーディアは思った。
冥鈴の尾が薙いだ。
フーディアは激痛耐性を使って、正面から受け止めた。痛い。でも環境耐性と激痛耐性が、体のダメージを処理していく。闘争心が、痛みを燃料に変えていた。
「いたいですわよ〜!」
元気よく言った。
冥鈴が羅盤を向けた。仙術衝撃波の始動だ。
フーディアは空中に逃げた。衝撃波が床を震わせる。空中から見下ろして、冥鈴の位置を確認する。捕縛のタイミングを測っていた。蜘蛛の本能が、獲物の動きを読んでいた。
「アナタ、食べたらおいしそうですわね〜」
にっこりと言った。
冥鈴の動きが、わずかに止まった。
「冗談ですわよ〜……たぶん」
付け加えた。こちらの判断はまだ保留中だった。
傷口をえぐる——弱点に集中する攻撃が、次の手になる。廻夜・歌留多が教えてくれた切り替えの瞬間の弱点を、フーディアは空中から狙っていた。本能が、最も効果的な攻撃の瞬間を告げている。
桜の花びらが一枚、フーディアの眼鏡に触れて落ちた。
「あら」
フーディアはそれを指で払って、また冥鈴を見た。食欲が、まだ満たされていない。蜘蛛の本能が、戦いを続けろと言っている。懐の菓子が残っていることも、チラリと思い出した。でも今は、戦いが優先だ。ごはんはその後で食べる。
「もう一発いきますわよ〜!」
空中から急降下した。貫通攻撃の勢いを乗せて、弱点の瞬間を狙って。蜘蛛の本能が、今だと告げていた。冥鈴の重心が切り替わる、その瞬間を。
デッキの床が震えた。衝撃が広がる。フーディアは着地して、また懐に手を入れた。
「戦いの後はごはんがおいしいですわよね〜!」
菓子を一口齧りながら、構え直した。八重歯が光った。蜘蛛の本能は、まだ戦えと言っている。もう少しで食べられそうな気がした。たぶん。
かろんは、デッキの入口のところに立って、戦っているみんなを見ていた。
すごいな、と思った。光ったり、震えたり、大きな音がしたり。おもしろいな、と思った。遊んでいたら、こういうところに来ていた。気づいたら、みんながたくさんいた。
「かろんもやる!」
前に出ようとした。
すぐに止められた。大神の眷属が、かろんの前に割り込んできた。透き通った大きな体が、かろんをぴたりとブロックしている。
「だめか」
かろんはそう言って、少し考えた。
眷属はかろんを見ている。大丈夫、という顔をしていた。任せろ、という顔をしていた。
「……わかった」
かろんは頷いた。
戦っているのは、みんなと大神とその眷属たちだ。かろんの体の中に宿っている大きな力が、今夜ちゃんと動いていた。かろんにはよくわからないけれど、大神がいる、ということだけは、ずっとわかっていた。
「はっしゃー!」
かろんは思いっきり叫んだ。
大砲が現れた。大神とその眷属を模した弾丸が装填されている大砲が、かろんの叫びに応えて召喚される。いくつも、いくつも。大砲の数だけ、眷属たちの顔が弾丸の中に見えた。
一斉に発射された。
冥鈴・ガルガンチュアに向かって、弾丸が飛んでいく。X基の大砲から放たれた弾丸が、全部一点に集中して叩き込まれた。数の分だけ、威力が乗っている。デッキに大きな轟音が響いた。
かろんはその場でぴょんと跳んだ。
「あたった!」
当たったかどうかは正確にはわからなかったけれど、気持ちとしては当たった気がした。
眷属がかろんの隣に戻ってきた。かろんの頭をポンと触れた。よくやった、という感じがした。
「えへ」
かろんは笑った。
冥鈴の赤い目が、こっちを見ていた。かろんは冥鈴を見た。強い人だな、と思った。でも、みんなが頑張っているから大丈夫だと思った。かろんにはそういうことがなんとなくわかった。怖い人なのかもしれないけれど、かろんはあまり怖くなかった。大神がいるから。
「もっかい!」
また大砲を呼ぼうとした。眷属が慌てた顔でかろんを見た。ちょっと待て、という顔だった。
「だめか」
かろんはまた立ち止まった。
眷属はデッキの状況を見ていた。冥鈴の動きを読んでいた。タイミングを計っていた。かろんにはよくわからないけれど、眷属がそういう顔をしている時は、もう少し待つと良いことがある。かろんは経験でそれを知っていた。
桜の花びらが一枚、かろんの金髪に落ちた。かろんはそれを指で取って、眺めた。きれいだな、と思った。眷属も一緒に見ていた。二人でしばらく眺めた。
眷属が、かろんを見た。今だ、という目をしていた。
「はっしゃーーー!!」
かろんはもう一度、思いっきり叫んだ。大砲が再び現れる。今度も一斉発射だ。眷属たちの顔をした弾丸が、冥鈴に向かって飛んでいった。
かろんは両手を上げた。
「やれー! やっちゃえー!」
元気よく応援した。デッキの向こうで、みんなが動いていた。かろんにはよくわからないけれど、今夜は勝てる気がした。大神がそう言っている気がした。
眷属が、またかろんの隣に来た。かろんは眷属を見た。
「ありがとな」
言ったら、眷属が少し驚いた顔をした。かろんはよくわからなかったけど、いつもいてくれるから言いたかった。眷属は何も言わなかったけれど、かろんの頭をもう一度ポンとした。かろんはまた笑った。今夜、かろんはとても元気だった。デッキの上に、桜の花びらが舞っていた。かろんはそれをもう一枚捕まえた。
上層デッキに青髪の少年が踏み込んできた。
勢いがよかった。足音が大きかった。赤い瞳がギラギラしていた。
「おおっ、すごい戦いになってるな!!」
久遠・氷蓮は、デッキ全体を見回してそう言った。感動していた。純粋に、見たことのない規模の戦いに心が踊っていた。
冥鈴・ガルガンチュアが、その少年を見た。
氷蓮は冥鈴を見た。赤い瞳が、冥鈴の全体を一瞬で舐めた。七星剣。羅盤。大きな尾。デッキに刻まれた衝撃波の跡。氷蓮の熱血な頭の中で、情報が高速で処理されていた。
ハイテンションの裏に、クレバーな部分がある。この少年の本質は、そちらにあった。
「でかい相手だな」
一段、声が落ちた。熱血から、クールへ。
氷蓮は両手を前に出した。魔力が、体の中に満ちていく。魔法使い家系の末裔として生まれ、祖父母の代から冒険者としての血が流れている。その魔力が、今夜も体の奥から湧き上がってくる。大きな相手ほど、魔力の使い甲斐がある。それは経験で知っていた。
「凍り続けろ! エターナル・アイス・コンビネーション!」
熱血口調が戻ってきた。
氷弾が飛んだ。複数の氷の弾が、冥鈴に向かって牽制射撃を仕掛ける。冥鈴が七星剣でそれを弾いた。でも、弾いた瞬間に氷の破片が冥鈴の動きに絡みついた。
凍結。
次の動作が一拍遅れた。
その一拍に、氷蓮は氷塊を叩き込んだ。全力魔法で圧縮した氷の塊が、冥鈴の腕に直撃する。衝撃が走った。七星剣の軌道が崩れた。
冥鈴が羅盤を向けた。仙術衝撃波の始動だ。
氷蓮は飛び退いた。衝撃波がデッキを震わせる。着地して、すぐに魔力を練り直す。根性が、倒れそうになる体を支えていた。
「くっ……」
クールな声だった。正直、衝撃波はきつかった。でも、まだ立てる。魔力は残っている。
氷蓮は一息ついた。
「……やっぱでかい相手は燃えるな!!」
熱血が戻ってきた。切り替えが早かった。
もう一度、魔力を溜める。牽制、凍結、強撃の連続。このコンビネーションを再び叩き込む。デッキ全体に凍気が漂い始めた。氷蓮が高速詠唱を始めると、その周囲の温度がわずかに下がる。他の√能力者たちが戦っている熱気の中で、氷蓮のいる一角だけが、静かに冷えていた。
冥鈴の動きが、前より少し慎重になっていた。
「そうだ、その反応だ」
また、クールな声だった。
氷蓮は構えを整えた。膨大な魔力が、もう一撃を準備している。桜の花びらが一枚、氷蓮の青髪に触れた。触れた瞬間に凍った。氷蓮はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「行くぞ!」
今度は二つの声が混ざっていた。熱血と、クール。それが久遠・氷蓮だった。氷蓮の赤い瞳が、冥鈴の切り替えの瞬間を見ていた。廻夜・歌留多が教えてくれた弱点の場所を、静かに狙っていた。
双子の兄がいる。兄は今どこにいるだろう、と一瞬だけ思った。でも、考えるのは後でいい。今は目の前の相手だ。氷蓮は詠唱を続けた。凍気が体の周囲に渦を巻いていた。
冥鈴の重心が切り替わった。弱点の瞬間だった。
「今だ! もう一発いくぞ!!」
氷蓮は全力で叫んで、氷塊を放った。熱血と魔力が、今夜最大の一撃になった。凍気が、デッキを白く染めていった。
√ドラゴンファンタジー出身の魔法使い家系の少年が、この夜の戦場に確かに爪跡を刻んでいた。氷蓮の赤い瞳は、まだ燃えていた。冥鈴がまだ動いているから。終わるまで、氷蓮も動き続ける。それだけが今夜の答えだった。
六道・穂積は、デッキの端で状況を整理していた。
冥鈴・ガルガンチュアの動きを、ドローンからの映像で追っている。画面の中で、他の√能力者たちが次々と戦いを繰り広げていた。穂積の役割は、そこに割り込むことではない。弾道計算と援護射撃で、全員の動きを底上げすること。それが穂積の判断だった。
傍から見ていると、冥鈴の三つの戦い方の間にある切り替えの一拍が、ドローン映像でよく見えた。廻夜・歌留多がすでにそれを共有していたが、穂積はその一拍の正確な長さを計測していた。〇・三秒から〇・五秒。相手の攻撃パターンによって変わる。七星剣から羅盤への切り替えが最も長い。それを数値で把握していれば、攻撃を入れる側の動きが変わる。
穂積は通信を繋いだ。
「弱点の瞬間は〇・三から〇・五秒。七星剣から羅盤への切り替えが一番長い」
戦況の数値を、戦っている全員に流した。
援護射撃を始める。冥鈴の射線から他の√能力者を逃がすために、牽制として弾を放つ。弾道計算で角度を合わせて、冥鈴の動きを外側から制限していく。直接ダメージは狙わない。動線を狭める射撃だった。
冥鈴の尾が上層デッキを薙いだ。
穂積はドローンを二機、冥鈴の上方に展開した。制圧射撃——連続して弾を打ち込んで、冥鈴が上を向くのを制限する。上から他の√能力者が攻撃に入るための空間を作る。それが穂積の仕事だった。直接戦う気はないが、場の流れを作る役割は担える。
冥鈴が羅盤を向けた。
穂積は横に走った。衝撃波が広がる。ギリギリで外れた。
「制圧射撃、続ける」
呟いて、また構えた。誘導弾を一発、冥鈴の足元に向けて放った。直接命中は狙っていない。足元を制限して、動線を予測しやすくする。他の√能力者たちが次の攻撃を入れやすくなれば、それでいい。
その瞬間、冥鈴の攻撃が穂積に直撃した。
七星剣の余波だった。盾に使っていた武器が、衝撃で変形した。穂積はその変形した武器を見た。
「……使える」
√能力を起動した。アシュラベルセルク——受けた武器や攻撃を複製した機械の腕を創造する。七星剣の余波を受けた武器の形が、機械の腕に転写されていった。それが別の動作として起動できる。一回限りだが、確実に機能する。
穂積は機械の腕を冥鈴に向けて解放した。七星剣の余波そのものが、今度は冥鈴に返っていく。意表を突く一撃になった。
冥鈴の動きが、一瞬乱れた。
穂積はドローンの映像を確認した。他の√能力者たちが、その一瞬に向かって動いていた。穂積はまた援護射撃の角度を計算し始めた。
桜の花びらが、ドローンの画面の端に映った。穂積はそれを一瞬見て、また射撃の準備に戻った。役割は変わらない。援護と制圧、弾道の計算。それを続ける。誰かが届かない場所に、弾を届けること。それが穂積のいる理由だった。
√ウォーゾーン出身の戦線工兵として、穂積はこういう戦い方をずっとしてきた。主戦力にはならない。でも、誰かが動きやすい状況を作ることならできる。穂積の琥珀色の瞳が、デッキ全体を静かに見渡していた。
冥鈴がまた動いた。穂積の弾道計算が、次の射線を走らせていた。
「手が必要なら言ってくれ。できることはやる」
誰に言うでもなく呟いて、穂積は照準を合わせた。ドローンがデッキの上空を巡回し続けていた。今夜の映像は全部記録に残る。後でまとめて提出するつもりだった。一六歳の戦線工兵が、今夜の戦場を支えていた。冥鈴の動きが、また始まる。穂積の弾が、また飛ぶ。今夜はまだ、終わらない。
柳檀峰・祇雅乃は、デッキの端で魔導書を手に持っていた。
分厚い。重い。鈍器として使う時の重心を、無意識に確かめていた。
冥鈴・ガルガンチュアを見る。漆黒の瞳が、静かに相手を品定めしていた。
「強いわね」
率直な感想だった。
祇雅乃は一歩、デッキに踏み出した。
「我が力よ、次元を超え彼の地へと届け」
魔力が収束した。他√の現在地から観察する——空間を跨いで視界を共有し、そこから魔力の一撃を届ける。多次元からの一撃。冥鈴が今まさに戦っている位置から、全く別の角度で魔力ダメージを叩き込む。
冥鈴の動きが、わずかに崩れた。
祇雅乃は距離を保ちながら、もう一手を考えた。
冥鈴の戦い方を見ていた。七星剣の連撃、羅盤による衝撃波、尻尾の薙ぎ払い。それぞれの切り替えに一拍ある。流行知識と情報収集で培った観察眼が、そのパターンを静かに拾い続けていた。武強主義が根付いたこの世界で、ガルガンチュア商会の当主を名乗る人物が最前線に立っている。それだけで、相手の戦い方の傾向がある程度わかる。
「次は近接ね」
祇雅乃は魔導書を右手に持ち直した。鈍器として使う時の握り方で。
冥鈴が七星剣を振るった。祇雅乃は全力魔法で属性攻撃を前面に展開して、七星剣の軌道に魔力の壁を作った。鉄壁の応用だ。七星剣が魔力に弾かれる。その一拍の隙に、祇雅乃は踏み込んだ。
喧嘩殺法——理屈のない体の動きで、冥鈴の懐に入る。格闘センスが、相手の体勢の崩れを読んでいた。右手の魔導書を、重量攻撃として叩き込んだ。
分厚い魔導書が、冥鈴の腕に当たった。
重い。それは確かだった。
「いい重さよ、この子」
魔導書を一瞥して、祇雅乃は距離を取った。冥鈴の尾が薙いでくる。グラップルで掴んで、体の回転を殺してから放した。相手の攻撃を力で止めるのではなく、流して使う。それが喧嘩殺法の基本だった。
冥鈴が羅盤を上げた。仙術衝撃波の始動だ。
祇雅乃は踏みつけで床を砕いて、その衝撃で横に飛んだ。乱暴な回避だった。でも、確実に距離が取れた。着地して、魔力の準備をする。魔力溜めを重ねながら、次の一手を組み立てる。近接で削って、多次元からの一撃で仕上げる。そういう戦い方が、今夜の自分には合っていた。
デッキの上に桜の花びらが舞い込んできた。
祇雅乃はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「桜のおもちゃ、入荷しようかしら」
戦闘中の独り言だった。おもちゃ屋の店主の思考が、どこかに混ざっていた。
冥鈴の赤い瞳が、祇雅乃を見た。
祇雅乃は視線を返した。
「まだよ」
魔力を溜め直しながら、また構えた。今夜は長い。でも、疲れていない。生来の異常な体力と格闘センスが、まだ余裕を持っていた。
第七積層ブロックの住民たちのことを少し思った。下の路地にいる人たちが、今夜安全でいられるように。おもちゃ屋の店主として、子どもたちが明日も元気でいられるように。それが今夜ここにいる理由だった。
魔力が完全に溜まった。
「我が力よ、次元を超え彼の地へと届け」
もう一度、呟いた。冥鈴の切り替えの瞬間に、届かせる。
√EDENの古代語魔術師が、今夜の戦いの中で静かに輝いていた。魔力が解放された。桜の夜に、もう一撃が走った。漆黒の瞳が、冥鈴の次の動きを見据えていた。魔導書を右手に持ち直す。近接と魔法、まだ使い分けられる。今夜はまだ、終わらない。冥鈴が動く。祇雅乃も動く。その繰り返しが、まだ続いていた。子どもたちのために。それだけだった。
アメリア・ウィスタリアは、デッキの端でドローンを展開していた。
三機。それぞれが異なる角度で冥鈴・ガルガンチュアを捉えている。映像が義体の知覚に流れ込んでくる。部分義体サイボーグとしての処理能力が、三方向の映像を同時に整理していた。
冥鈴を、観察する。
七星剣。羅盤。尻尾。三つの戦い方があることは、デッキに着いた時点でドローンの映像から把握していた。それぞれの切り替えに、わずかな一拍がある。弾道計算が、その一拍の間合いを静かに測り続けていた。
「承知いたしました」
誰に向けたわけでもなく、自分に言い聞かせるように呟いた。
ドローンを一機、冥鈴の上方に移動させた。援護射撃の角度を調整する。冥鈴が動く前に、先制攻撃として牽制を入れる。レーザー射撃——ドローンから放たれた光が、冥鈴の動線を制限した。
冥鈴が七星剣を構えた。
アメリアはドローンの映像を見ながら、弾道を計算した。
「インビジブル・ダイブ」
視界内に漂っているインビジブルを捉えて、自分の位置と入れ替えた。アメリアの体が一瞬、別の場所に移る。入れ替わったインビジブルが霊障状態になり、冥鈴のそばで触れたものにダメージを与え始めた。
冥鈴の七星剣が、アメリアがいた場所を薙いだ。
空振りだった。
「お礼申し上げますわ、インビジブルさん」
アメリアは新しい位置からドローンの角度を再調整した。礼儀正しく、インビジブルに向かって小さく頭を下げた。
冥鈴が羅盤を向けた。仙術衝撃波の始動だ。
アメリアはドローンを二機、衝撃波の届く範囲の外に退避させた。一機は高高度に維持する。衝撃波がデッキを震わせる。アメリアは義体の耐衝撃機能を使って、その場に踏ん張った。
揺れが収まったところで、また射撃の準備をする。
貫通攻撃を選んだ。冥鈴の鎧を通す角度を、弾道計算で割り出す。ドローンのレーザーが、部位破壊を狙って走った。
冥鈴の動きが、わずかに鈍った。
アメリアは静かに、次の行動を組み立てた。だまし討ちの技能が、動きの中に紛れ込んでいる。正面から撃っているようで、ドローンは常に死角に向かっていた。義体の処理能力が、複数の射線を同時に管理し続けている。
桜の花びらが一枚、ドローンのカメラに映った。
アメリアはそれを確認して、また冥鈴に視線を戻した。
「次はインビジブル・ダイブをもう一度ですわね」
視界内のインビジブルを確認する。切り替えの一拍を待つ。羅盤から七星剣に移る瞬間。そこに合わせて、もう一度位置を入れ替える。今度は冥鈴のすぐそばで入れ替えて、霊障を直撃させる。
アメリアは静かに準備を整えた。
冥鈴の赤い瞳が、デッキを見渡した。アメリアを見つけようとしている。でも、ドローンの援護と位置の入れ替えが重なれば、正確な場所を掴みにくくなる。それが今夜のアメリアの戦い方だった。
「お手伝いですか?承知いたしました」
それが今夜の答えだった。冥鈴の切り替えの瞬間が、来ようとしていた。ドローンが再び角度を変える。レーザーが、暗くなったデッキの中を走った。インビジブルが、アメリアの傍で静かに揺れていた。
一四歳の義体サイボーグが、今夜の戦場に確かにいた。礼儀正しく、静かに、着実に。冥鈴の動きが変わる、その瞬間を、緑色の瞳が捉え続けていた。ドローンは今も飛んでいる。弾道計算は今も走っている。今夜はまだ、終わらないのですわ。冥鈴が動いた。アメリアも動いた。インビジブルが、また揺れた。
準備はできていた。届かせますわ。
黄昏・剱は、デッキの外縁でしばらく冥鈴・ガルガンチュアを見ていた。
七星剣。羅盤。大きな尾。それぞれの動かし方に、独自の流儀がある。長く戦ってきた人間の、染み込んだ動き方だ。剱は武具や装備に詳しい。だから、こういう観察が自然と身についていた。
「きれいな動きだね」
小さく呟いた。敵対している相手への感想としては奇妙かもしれないけれど、嘘ではなかった。
剱は装備を確認した。防具改造によって強化された各部が、今夜の戦いに備えて整えられている。武器改造も施してある。これは剱にとって、戦いの準備ではなく、ものを整える行為に近い。上質なものを丁寧に扱う習慣が、戦支度にも染み出してくる。半人半妖の自分が扱う装備には、人間のものより少し強度が必要になる。それも計算に入れて改造してきた。
冥鈴が動いた。
「これも、もう1つの僕の姿」
剱は静かに呟いて、√能力を起動した。
変化が始まる。剱の体が大きくなった。巨躯の鬼の形に変身し、鋼の外骨格が全身を包んでいく。金の瞳はそのままで、漆黒の髪が炎の気配に揺れた。
移動速度が三倍になる。
冥鈴が七星剣を振るった。剱は既にその場にいなかった。三倍の速度で横に抜けて、冥鈴の死角に入っていた。鋼の外骨格を纏った巨体が、その速さで動いている。
焔を纏う両刃の大剣が、冥鈴に向かって走った。
装甲を貫通する威力二倍の斬撃。冥鈴の鎧に刃が入った。衝撃が走る。冥鈴が後退した。
剱は次の動きを読んでいた。羅盤が上がる。仙術衝撃波の始動だ。リミッター解除を起動して、移動速度をさらに引き上げた。衝撃波が広がる前に、もう一歩前に出る。
距離を詰めていれば、衝撃波の余波は小さくなる。近接戦の間合いに持ち込むことで、羅盤の使用を制限できる。
冥鈴の赤い瞳が、剱を見た。
剱は静かに返した。怒っているわけではなかった。ただ、手は抜かない。それだけだった。
大剣を構え直す。鋼の外骨格が軋む音がした。整えた装備が、今夜の戦場でちゃんと機能していた。
桜の花びらが一枚、焔の気配に触れて散っていった。
剱は次の一手を考えながら、冥鈴の動きを追い続けた。限界突破を起動すれば、まだ出力を上げられる。それは最後の手として残しておく。今はまだ、この姿で押し切れるはずだ。
鋼の外骨格が、夜の光を受けて鈍く輝いていた。
冥鈴が今度は尾を薙いだ。剱はそれを大剣で受け止めた。衝撃が腕に伝わる。鋼の外骨格が振動した。でも、崩れなかった。改造した防具の強度が、ここで機能していた。
「うん。ちゃんと耐えた」
剱は小さく頷いた。整えた道具が期待通りに動く時、剱はいつも少し嬉しい気持ちになる。それは戦場でも変わらなかった。
大剣を振り上げる。焔が揺れた。
焼却の力が刀身に宿り、赤い光が刃を走る。念動力で大剣の軌道をわずかに操作して、冥鈴の防御が薄い箇所に誘導した。半人半妖として受け継いだ力が、今夜も確かに働いていた。
剱は静かに動き続けた。
戦場は剱にとって、ものの動き方を学ぶ場所でもある。冥鈴の七星剣の構造、羅盤の仙術機構。いずれ、こういうものをちゃんと調べてみたいと思った。今夜が終わったら、そういう時間を作ろう。
今は、まず前に出る。大剣が、また光を纏った。冥鈴が向き直った。剱も向き直った。大剣を構え直しながら、剱の金の瞳が冥鈴を捉え続けていた。焔が、デッキの上で静かに揺れていた。守りたいものがある。だから、手は抜かない。それだけで十分だった。
冥鈴・ガルガンチュアが、大きく息をついた。
七星剣を持つ腕が、わずかに下がっていた。羅盤の発光が、鈍くなっている。尾の動きが、少し遅くなっていた。
疲弊している。
エイルはそれを、刃越しの記憶として感じ取っていた。冥鈴が今夜使ってきた力の総量が、彼女の体にもかかっていた。七星剣の記憶が、持ち主の限界に近づいていることを伝えていた。
今だ。
エイルは踏み込んだ。
刀を低く構えて、冥鈴の足元に向かって走る。冥鈴が七星剣を振り上げた。エイルはそれを受け流した。今夜何度目かの動きが、体に染み込んでいた。七星剣の軌道が逸れた瞬間、エイルの刀が冥鈴の剣腕を捉えた。
アンティークカウンター——今夜最後の一撃が走った。
殺気が収束した。エイルの全身から、今夜積み重ねてきた見切りと情報が、一点に絞り込まれていく。冥鈴の動きが、エイルには全部見えていた。
「守りが疎かになりましたね」
今度は、静かではなかった。決定的な一言だった。
刀が、冥鈴の七星剣を弾いた。剣が石畳に落ちた。冥鈴の体が、大きくよろめいた。
エイルは追わなかった。距離を取って、刀を構えたまま、冥鈴を見た。
冥鈴は膝をつかなかった。でも、立ち上がり続けるための力が、今の冥鈴にはなかった。赤い瞳が、エイルを見た。今夜初めて、その目に疲弊の色が混じっていた。
「……面白い夜だったな」
冥鈴は低く呟いた。
エイルは返さなかった。ただ、刀の切っ先を少し下げた。撃退した。それで十分だった。
冥鈴が羅盤を持ち上げた。消えるための動作だった。青白い光が収束して、冥鈴の輪郭が揺れた。
そして、いなくなった。
デッキが、静かになった。
エイルは刀を納めた。音がなかった。息をついた。オーラ防御がゆっくりと解けていく。体の各所に、今夜の疲れがあった。でも、大きな傷はない。アンティークカウンターが、今夜よく働いてくれた。
桜の花びらが、一枚、デッキに落ちた。
エイルはそれを見て、少し目を細めた。月明かりの中で、白く光っている。
綺麗だと、また思った。
下の路地から、かすかに音が聞こえてきた。住民たちの声だった。なにか話している声が、積層の隙間を通って届いてくる。今夜は怖かっただろう。でも、終わった。
エイルは欄干に手をついて、しばらく夜の積層都市を眺めた。仙術ランタンが少しずつ光を取り戻し始めていた。橙色が、路地に戻ってきていた。
冥鈴の七星剣が、石畳の上に残っていた。
エイルはそれを一瞥した。いつか、来歴を調べてみよう。今夜の戦いを通じて、すでに少しだけ記憶を読んでいた。語ってくれた剣だった。
エイルはしゃがんで、七星剣を拾い上げた。重さを確かめる。刃の造りを見る。サイコメトラーとしての知覚が、また記憶を拾い始めた。長い旅をしてきた剣だった。たくさんの戦いを知っていた。そのひとつに、今夜が加わった。
そのまま、デッキを後にした。桜の夜が、静かに続いていた。
下の路地の声が、少し賑やかになっていた。今夜が終わりつつある。
七星剣の記憶が、手の中で静かに続いていた。それだけで、今夜は充実していた。剣を抱えて、エイルは積層を降りていった。
橙色のランタンが、路地を照らし始めていた。仙術の乱れは、収まっていた。桜の花びらが、何枚も、夜風に乗って積層の隙間を流れていった。今夜の記憶が、路地に残っていた。住民たちの笑い声が、小さく聞こえた。桜が、路地に降り積もっていた。