Resounding song
眠る片割れの顔を見て、己の方こそこうなるべきだったと思った。
涙する母と背を支える父を、大海原・藍生(リメンバーミー・h02520)は永劫忘れることが出来ないだろう。不可逆の喪失は彼の心に大きく癒えぬ傷を刻み、やがて少年は癒そうとすることそのものを喪った。
ほんの九つで病に斃れた妹は、絵がいたく得意だった。
まるで二人で才能を分かち合ったようだ――と、藍生は考えることがある。即ち父の卓越した画才を受け継いだ妹と、母の歌声を受け取った兄だ。
さりとて体の資質までもを分かち合うことはなかったろうに。
否――。
これは藍生が一方的に|奪ってしまった《・・・・・・・》のか。
妹の部屋に遺された描きかけの絵は病の淵に筆を取ったとは思えぬほどに美しかった。己には永劫至ることの出来ない筆致だろうと思った。彼女の命を映すように儚く、しかし最期まで病に抗おうとした生き様を示すように鮮やかなそれを、永久に完成しない一枚にしてしまったのは自分だ。
二人に同じだけ与えられるはずだった体の頑健さを、藍生が二人分持って生まれてしまった。風邪一つ引かず、体力虚弱に悩まされることもない彼が、妹の寿命までもを奪ってしまったような気がする。
|気がする《・・・・》まま、その日から藍生は必死に研鑽に打ち込んだ。
言葉足らずであれども確かな愛に裏打ちされた父の厳しさを受け止め、妹の死以来は藍生の健康に殊更過敏になった母の懸命な管理を受容した。歌に打ち込んで技術を磨くのも、凡庸な絵の才覚を技量で埋めようとするのも、或いは妹の分まで己が使命を背負わねばならないと思っていたからかもしれない。しかし彼の大洞の空いた心に充足の満ちることはなく、|完璧な《・・・》生活を送る重圧だけが無意識を縛り上げる見えぬ枷のように纏わり付いた。
だから。
年端もいかぬ少年にはあまりに重すぎる日々の息継ぎを求めるのは、ごく自然なことだったのかもしれない。
日頃の父母が幾ら厳格であるといっても、藍生の行動そのものが雁字搦めに縛られているわけではない。遊びに出掛けて来ると嘘を吐いて家を出れば疑うこともなくすんなりと送り出してくれた姿に、重ね続ける罪悪感の山をまた一つ膨らませながら、少年はあてどなく道を歩いた。
それでも、本来であれば感情に任せて走り出す年頃の少年は――本人がそれと思わずとも――現実に背を向けたい無意識に駆られていた。何も手じまいをするつもりはない。ただ、誰もいないところに行きたかった。レッスンでもオーディションでもなく、心の赴くままに思い切り歌っても構わない場所が欲しかったのだ。
人前で歌を歌うことは得意でなかった。声を楽器にするときには、引退したといえどもミュージカル歌手だった有名な母の名を、いつも背後に見透かされているのが分かるからだ。緊張に弱い性質も相俟って、藍生は目立つことそのものを避けるようにしていた。
ここでないどこか、彼と彼に纏わる全てを誰もが知らない場所に辿り着くことなど出来ないはずだった。もしも彼が|欠落《・・》を抱えていなかったならば、到底叶うはずのない荒唐無稽な願いだ。しかしどこをどう歩いたのかも分からぬまま、ふと風を感じて顔を上げて――。
少年は瞠目した。
夢でも見ているのかと思った。見知らぬ小高い丘が眼前に煌めいている。まるで己を許せぬ藍生を赦すように微笑むそこへ訳も分からず駆け出して、幼い少年は思い切り声を奏でた。
家からは離れないようにしていたはずだった。見慣れた住宅街の合間にあるはずのない蒼天の丘に恐怖や不審を覚えるより先に、どうしようもない解放感に包まれたのだ。心ゆくままに歌う間、彼の裡に技術に対する重圧も衆目に怯える心も宿りはしなかった。それでも天賦の才を磨き上げた技術は伸びやかに美しい旋律を奏で、やがて一曲が終わる頃には双眸に太陽の煌めきすら宿る。
誰もいないと思っていた彼の元に、ふと光が舞い降りるのを感じたのは、心の求めるままにもう一曲を歌おうと息を吸い込んだときだった。
まるで踊るようなそれが鼻先で小さく燐光を放っている。見れば翼の生えた意志ある奇妙な動物であるようだった。ちょうど、嘗て見た御伽噺の中に出て来た妖精の如き姿だ。
何故か分からぬまま、藍生はその光の言いたいことを理解した。
「褒めてくれてるんですか?」
喜ぶように揺れる輝きに目を細める。ねだられるままに何度も声を奏でれば、そのたびに多種多様の|妖精《・・》たちが彼を囲んだ。それが嬉しくて、ますます藍生の声は弾む音になる。
やがて――。
数多の精霊と妖精が彼の声に寄り添うようになった頃、少年はようやく己がどこから帰れば良いのか分からなくなっていたことに気付いて蒼白な顔をした。
一転して狼狽える藍生を導いた妖精たちが市街地への道を指し示す。声なき案内に従ってようやく見知った道へ戻った彼は、ふと振り返って妖精たちを見遣った。
「ありがとうございます。その――また、聞いてくれますか?」
顔も表情もないはずの妖精が頷いたような気がして、少年は安堵したように笑った。
――以来、藍生の目には見えるはずのない光景が映るようになる。あの蒼天の丘の如き美しものだけでなく、人々の苦しみ嘆く姿さえも。
永遠に時を止めた妹と似た年頃の少女が涙する顔を初めて見たとき、いてもたってもいられぬまま足を踏み入れ、√ウォーゾーンと呼ばれる世界の人々の手を取った。どうすれば涙を拭えぬのか分からずに、彼はふとあの丘を思い出した。
オーディションでもレッスンでも、誰かを喜ばせることは難しかった。しかし妖精たちの煌めきは、藍生にこの歌声で誰かを喜ばせることが出来るかもしれないと思わせるには充分な思い出だったのだ。
藍生は――。
その日初めて、真の意味で|誰かのために《・・・・・・》歌を奏でた。
伸びやかな声が響けば、どこからともなく現れたあの日の光が彼らの前に煌めく。瞠目する藍生の前で、ハンカチで拭ってやってなお煤だらけの顔で涙を湛えていた少女が、いたく嬉しそうに破顔した。
「すごい! おうたも、光も、きれい!」
それから。
歌を奏でれば√を越えて寄り添ってくれる妖精たちと共に、少年は数多の世界を駆け抜けるようになる。人のために歌う声が、誰かを救うのだと信じて――。
自らの癒えぬ罪悪感と、あの日の片割れの寝顔を、心の奥に縫い留めたまま。