弥生の彩
●厳冬
リネンキャンバスに亜麻仁油。石膏、木炭。色彩とは本来、命の証明なのだと大海原・新汰(色を失くした夢・h05378)は信じていた。誰かが心を削って掬い上げたものだけが絵になる。だから描くことをやめなかった。
娘が死んだ、その日からも。
朱音は春先のやわらかなひかりによく似た子だった。
窓辺で色鉛筆を転がし、何気なく描いた花弁にさえ風を吹かせることが出来るような子で、父である新汰は密かにその才能に羨望すら覚えていた。
あまりにも儚く、あまりにも眩しかった。
その小さな心臓は生まれた時から世界と折り合いが悪かった。鼓動は人より少しだけ不器用で、それでも懸命にいのちを繋いでいた。それなのに、桜が散るよりも早く、その音は止まってしまった。
穏やかな春の日だった。
病室の窓の外で、花びらだけが何事もなかったようにそらを泳いでいた。
人は悲しい時に泣くものだと誰もが言うが新汰は泣かなかった。泣けなかった。妻を抱き締め、息子の大海原・藍生(リメンバーミー・h02520)の頭を撫でて『大丈夫だ』と言い続けた。
家族の柱である己が崩れてはいけない。父親が壊れてはいけない。その言葉だけを胸骨の裏へ杭のように打ち込み、自分自身を無理矢理に奮い立たせる。
だから涙は落ちなかった――代わりに夜が、壊れてしまった。
眠れば夢を見る。夢の中では朱音が生きている。
『お父さん』
振り返れば娘が笑っている。絵を描いている。
『みて、できたよ』
たったそれだけ。それだけなのに、残酷にも目を覚ましてしまう。
「――ッッ……!!」
暗闇だけが残っていた。
隣では妻が眠っている。隣室ではきっと、息子が寝息を立てている。世界はなにひとつ変わっていないのに、自分だけが夢の続きを失っている。
『大丈夫。平気だ。俺が、しっかりしなければ』
その言葉はのろいとなって、やがて鎖と成り果てる。何時しか呼吸さえままならなくなっているのを、新汰は最早知覚することが出来なくなっていた。
新汰は眠れぬまま店へと降りていく。
誰もいない画材展は深海の底のよう。街灯が硝子越しに棚を照らし、瓶詰めの顔料とメディウムだけが微かな月明かりを抱いている。どの色もどんな絵具も、朱音のいない世界ではすこしずつ褪せて見えた。
「……はは、」
色を失くしたのは世界ではなく、自分なのだと。その時初めて知ってしまった。気付けば新汰は床に座り込み、朝まで動くことが出来なかった。
彼が心療内科へ通い始めたのは、それから間もなくのこと。診療室の白い壁は何処の病院とも変わらず無機質で、医師は淡々とした声で睡眠導入剤を処方してくれた。
薬は悪夢をすこしだけ遠ざけてくれたけれど、朱音の面影は決して薄らぐことはない。空になったPTPシートを隠れて捨てる時には必ずちいさな罪悪感が胸を刺す。
家族には言えなかった。弱った父親の姿など見せることはできない。瓦解しそうな最後の虚勢だけが、彼を辛うじて立たせていた。
けれど――子どもは親が思うよりもずっと聡い。
ある日の夕方のことだった。
藍生は偶然、流し台の隅に残っていた銀色の空シートを拾い上げた。両親のどちらかが具合でも悪いのだろうかと気に掛かったから。
「……?」
就寝前一錠服用。
そのちいさな文字に、藍生は胸にえもいえぬ不安が湧いてくるのを感じた。
父は最近、夜更かしをしていると思う。そして朝は誰より早く起きている。時々、自分とも母親とも目を合わさぬように、ここにはいない『なにか』を探すように遠くを見つめていることも気に掛かっていた。笑っているのに。何かが、大切ななにかが欠けてしまっているような気が、して。
「父さん……」
聞いてはいけないと咄嗟に思った。聞いてしまえば、取り返しのつかないことになってしまうような気がしてしまって。だから藍生はそっと空シートをもとの場所へと戻すことにした。
春が来て、夏が過ぎ、秋が巡る。
世界は季節を残酷に繰り返す。それでも3月23日だけは、毎年時が止まってしまう。
仏壇の前に置かれた花に、あの子が好きだったあまいお菓子。ちいさな色鉛筆に、誰も泣かない食卓。笑おうとする母。笑う藍生、そして新汰。
家族は優しかった。
優し過ぎた。
互いの傷に触れないことで支え合っていた。だからこそ癒えぬまま、欠落は深く静かに育っていく。色彩を失った夢だけを抱えた男は、2025年の冬に重なり合う異世界を初めて目撃することになる。
届かない。もう、届かない。それでも、手を伸ばしたその一瞬だけ――世界には確かに、失われたはずの娘の笑顔が存在していた。
●胎動
最近、息子の目は時折そらを見上げて止まる。
誰もいない場所へ話し掛けているかのように微笑むことさえあった。
「父さん、今日はあっちの空が騒がしいね」
そんな言葉を向けられるたび、新汰は『そうか』と誤魔化すことしかできなかった。男には息子が見ている世界も苦しみも、そのなにもかもが見えなかった。娘を救えなかった時と同じように。それが、たまらなく悔しかった。
イーゼルには描き掛けの静物画が立て掛けられていた。
林檎もワイン瓶も、石工像もコンクリートブロックも完璧に描けている筈なのに、どこか色は薄い。それはまるで世界そのものが、少しずつ色褪せていくかのようだった。
また、失うのではないか。世界は自分と妻から、息子までもを奪うのではないか。その恐怖だけが、夜毎胸を蝕んでいた。
藍生は優しい子だ。
誰かの為なら笑うことが出来る。傷付いてもなお笑うことが出来る。そんな子だからこそ、怖い。優しい人間ほど先に壊れてしまうことを、新汰は短くない人生の中で嫌というほど知っていたから。
もし。
もしもまた、あの日と同じように。
春の終わりの病室。病室の、しろい、無機質な匂いが呼び起こされる。
ちいさなてのひら。冷えゆく指先。
『お父さん』
か細くなっていく愛らしい声を、忘れられる筈がない。
自分が代わってやれればよかったと、何度思ったかわからない。父親とは、子どもよりも先に死ぬことが許される生き物だ。その逆などあっていい筈がない。その理不尽だけが、世界のどんな法則よりも重かった。
眠気は何時しか新汰を攫う。
微睡のその先に――春のあたたかな日差しが広がっている。
色のない夢だった。日差しだけがあたたかいのに、そらは何処までも灰に燻んでいる。海も、風さえもが灰色の、世界から絵の具を落としてしまったかのような光景だった。
その世界の中心に、息子が立っていた。
中学校の制服に袖を通し、少しだけ照れくさそうに笑っている。
『父さん』
声だけが鮮やかだった。
藍生は走り出す。その背中に向かって、新汰は喉が裂けるほどに叫ぶ。
「藍生、……藍生、藍生!!」
追い掛けている筈なのに、距離は一向に縮まらない。靴底が泥に沈んで、足が鉛のように重くなる。声が、自分の声が届かない――その瞬間だった。
「な、ッ……!」
灰色のそらが、裂けていく。
巨大な影。
名も知らぬ、いや、こんなものが『この世に存在していいものか』。幾千もの腕。幾万もの口。世界そのものを喰らうかのような怪物が、藍生を飲み込まんと幾つもの顎門を開く。
「――藍生!!」
歌が、聞こえた。
息子が歌っている。
震える声で。
泣きそうな顔をしながら。
それでも誰かを守ろうとして。けれど、その歌さえも途中で止まる。
無慈悲なる怪物の牙が、幼い身体を容赦なく噛み砕く。のびやかな脚も、気恥ずかしげに広げられていた両腕も、何もかもが赤い鮮血に塗れていく。鮮烈なあかいろの中で、あおい瞳だけが此方を、見た。
「父さん」
助けられなくて、ごめん。
その言葉を最後に、肉も、骨も、魂も。全てがしろいひかりとなって砕け散る。
残ったのは空っぽになった靴だけ。朱音の病室で見た、小さな靴と同じだった。
「あああああああああああああああああッ!!!!」
絶叫と共に目を覚ます。全身が脂汗でじっとりと濡れていた。息が出来ない。肺が悲鳴を上げている。心臓が壊れそうなほどに早鐘を打っている。
時刻はまだ、夜明け前。窓の外は群青に満ちていて、世界はまだ眠っている――そのはずだった。
視界の端で、何かが揺れる。
空中を游ぐ透明な魚。花弁のような羽を持つ鳥。薄く白んだ鯨に、ひとのかたちをしたひかり。それは部屋中に漂う、数えきれぬほどのインビジブルの群れだった。
まるで夜の海流に呑まれたかのような光景に、新汰は静かに息を呑んだ。
視えている。
いや、ありえない。こんなものが、現実であるはずがない。
その瞬間に、頭の中で何かが砕ける音がした。
眠気や疲労感。『睡眠』という概念が、己から抜け落ちていくようだった。心の何処か、大切な何かが空洞となり、その『欠落』へ夜空が流れ込んでくる。
世界が重なる。
見えない壁の向こうに見える、鏡合わせの異なる世界。
知らないそら。
知らない街。
数多の√がまるでフィルムを重ねたように透けて見えた。
世界が。生命が。色が。音が。その全てが濁流のように流れ込んで、痛くて、痛くて、苦しくて、息が――、
「父さん!?」
勢いよく扉が開く音がした。それが息子が齎したものなどではないと、どうして拒むことが出来ようか。寝癖だらけのあおい髪に、不安げに揺れるあおい瞳。
「父さん、父さんどうしたの!?」
その瞬間に、新汰の目頭から熱い雫が溢れて落ちる。
夢ではない。ここにいる。
その存在を確かめるように、新汰は息子を強く強く抱きしめた。藍生は突然の出来事に驚いてしまうけれど、それでも父の背中を優しくぽんぽんと叩く。
「大丈夫だよ」
胸が締め付けられるようだ。
守らなければ。もう二度と、失わせなどしない。
「藍生……藍生……!」
窓の外に朝日が昇り、こがねいろのひかりが静かに差し込んでいく。
眠ったままの店の中で、棚に並ぶ絵筆たちが微かに震える。インク瓶が星空のように瞬き始め、ましろのスケッチブックに、誰も描いていないはずの花畑が咲く鉛筆は宙空で踊って鳥を描いて、描かれた鳥たちは羽ばたき店内をうたいながら飛び回る。
世界は変わった。
新汰もまた、変わってしまった。
色を失くした夢の底で。それでも彼は筆を取る。
守りたいものがある限り、その絵はきっと、世界を越えて届くと信じて。
●星霜
開け放たれた画材店の窓から吹き込む風が、色見本の紙片をさらさらと揺らしている。店先の風鈴が澄んだ音を鳴らすたび、棚に並ぶ不思議な文房具たちが微かに身じろぎした。
初夏の風は乾ききらない絵具の匂いによく似ていた。
誰にも気付かれないちいさな魔法。鉛筆は時折夢の続きを紙へ描きつけ、空になった絵具皿には朝露のような新しい色が滲む。そんな店の奥で、新汰は黙々とキャンバスへ筆を走らせていた。
夜通し描き続けた油彩が彩るは、海辺に立つ灯台だった。朝日とも夕日ともつかぬ曖昧なひかりの中、白い塔だけが静かに佇んでいて。その絵を見下ろしていた藍生がちいさく笑った。
「父さん、また寝てないんだ」
「ああ」
返事は短い。
驚くほどそれは自然なものになっていた。
「もう一年くらいになるね」
「……そんなになるか」
時計の針よりも、季節の移ろいよりも、彼の時間は絵具の乾く速度で流れている。
眠れなくなったあの日から。一度も、一度たりとも。睡眠というものが訪れていない。人間でありながら人間の営みをひとつ置き去りにしたまま、それでも彼は今日も生きている。
「体は平気なの?」
「ああ。眠くならないからな」
伺うような声に笑って答える。ほんの少しだけ細まった目は、痛みを堪えるものだったのだろうか。
「悪い夢も見ずに済む」
その声音はあまりに軽く、冗談でも言っているかのようだった。だからこそ、藍生は笑うことができなかった。
父は本当に平気なのだろう。少なくとも本人はそう思い込んでいる。けれど、夜を失った父の背中は昼間のひかりの中でもどこか薄暗い。あおい髪に混じる白髪が、去年よりもすこし増えた気がした。
藍生は店先へと視線を運ぶ。窓の先には夏空が広がっていて、海月のようなインビジブルたちがゆらゆらと遊ぶように揺れながらあおいろのなかを心地良さそうに泳いでいた。
父にもそれが、視えている。
今では当たり前の景色だ。
「最初は大騒ぎだったよね」
「そうだったか?」
「そうだよ」
掃除が大変だったし、画材たちはまるでお祭り騒ぎをしているかのように動き出していたのだから。
「父さん、泣いてたし」
「……忘れてくれ」
ぶっきらぼうな返事が不器用で、吹き出したのはふたり同時だった。
そんなこともあったね。
言葉にすれば呆気ない、たったそれだけのことだけれど。朱音を失ったことも、世界の裏側を知ったことも。眠りを失ったこと、互いに互いを失う恐怖を知ったこと。それらを全部抱えたまま、それでもふたりは笑えるようになった。
それが、一年という親子が過ごした時間だった。
「今度の依頼だが」
「あ、はいっ」
父の言葉に藍生は姿勢を正す。√EDEN各地で確認された簒奪者の痕跡を追う為、EDENへと協力要請が出ている。規模は中程度。危険度は低くない。父子で参加できるであろう内容だった。
「父さんも行く?」
「……どうするかな」
新汰はパレットナイフで乾いた絵具を削る。青い破片が、ぱらぱらと床へ落ちた。
「お前だけでも十分戦える」
「でも父さんの絵、すごく頼りになるよ?」
「店もある」
「それはそうだけど」
少しだけ落ちる沈黙。
その静けさの中で、新汰は窓の外を見た。透明な魚たちが空を泳ぎ、その尾が夏雲を撫でていく。
うつくしい世界だった。だからこそおそろしい。
夢の中で何度も見た、藍生がいなくなる未来。その残酷さは今も胸の奥底に沈んでいる。眠れなくなった今でも、生々しい記憶だけが消えない。
「父さん?」
呼ばれて我に返れば、藍生がこちらを見ていた。
12歳らしい面影。けれどすこしだけ大人びた眼差し。その姿を見つめ、新汰は小さく息を吐いた。
「……一緒に行くか」
「本当?」
「ああ」
短く答えて、笑う。
絵筆を持ったまま、息子の頭を軽く撫でる。
「父親ってのはな。……子どもの心配をするのが仕事なんだ」
父の言葉に。おおきなてのひらのやさしい感触に、藍生も照れくさそうに笑った。
「じゃあ俺も、父さんの心配をするのが仕事だね」
息子の言葉に、新汰は何も返せなかった。
店の奥では誰も触れていないキャンバスに、ちいさな青い花がひとつ咲いていた。
初夏の風がまた吹いていく。
失ったものは戻らない。けれど、残されたものは歩いていける。重なり合う無数の世界のどこにもない、この画材店で。父と子は今日も同じ空を見上げていた。
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