朱夏に謡えば
風の死んだ宵のことである。
|日中《ひなか》に降り注いだ燦光の熱は町の底に沈んだまま、地獄の釜のように蒸し暑さを這わせていた。西に沈んだ夕陽が雲のない空を淡く微睡ませているのが美しくて藍生は暫し茫洋と眺めていたが、背中を伝う汗の不快さに意識が逸れる。
「盆を過ぎたら涼しくなってたもンだが、まだ暑いなァ」
巽の言葉に釣られるように視線を滑らせると、黒檀の扇子をゆるり仰ぎながら同じように空を見上げていたらしい黄金の瞳が己を窺うように落ちてきた。暑いと口にしている割に汗一つかいてはおらず、涼やかな表情を浮かべている巽には感服するばかりだ。視線を寄こされただけで胸の|裡《うち》を全て見透かされたような心地になってはじめこそ落ち着かないものだったが、その奥に滲むやさしさをもう知っている。
「立秋を過ぎたら残暑なんでしたっけ。暦の上では秋っていうのも変な感じですよ」
タオルハンカチで汗を拭うと、ないはずの風がそよいで藍生の額をやさしく撫でていった。汗で張り付いた髪を乾かすように巽が扇子で仰いでくれている。
にへ、とふやけた笑みを浮かべて礼を口にする律儀な様子に双眸を細めるようにして笑んだ巽は、視界の端で夕空を翻る朱い尾鰭に頤を持ち上げると、
「――あっちみてェだな」
ぱちんと扇子を閉じ、日輪から|遁《のが》れるような東の暗がりを指し示した。
「通り魔の場所が分かったんですか?」
「お天道様の下を堂々と歩くこともできねェ小心者よ。それに逢魔ヶ刻は魔に魅入られやすいからな」
夜がじわじわとにじり寄ってくる方へと爪先を向けた巽は「行けるか?」視線のみを向け、短く問うた。
近頃、通り魔が出ると云う。
ターゲットはいずれも十代の少女だが被害者に年齢以外の共通点はなく、目撃者の証言から得られる犯人像もバラバラであった。ゆえにただの人間ではなく妖怪、ひいては何らかの能力を有する者の犯行ではないかと、√妖怪百鬼夜行では有力者である巽の|許《もと》に相談が舞い込んできた。
星を詠むことが出来る巽であるが能力者たちを搔き集めるには些事だと判断、その日たまたま通いで泊りに来ていた藍生を連れ出したと、そういう次第であった。
西の空はまだ明るく街灯が無くとも手元がよく見えていたが、東に歩を進めるたび|其処彼処《そこかしこ》の暗がりに何ぞ潜んでいるのではないかと疑念が浮かぶような闇が凝っている。路地を一本奥に入っただけで夕闇は濃密になり、瞬きの間に世界が夜に沈んだかに思われた。
「……巽さん。ほんとにこれで大丈夫ですかね? いや、巽さんを疑う訳じゃないんですけど」
路地裏。
ネオンがちらほらと点き始めた狭間に身を隠すように小さくなる藍生が、不安そうな面持ちで首にぶら下がるリボンを引っ張っている。胸元に掛かる髪は首元を覆って熱を内に籠らせてしまうので薄っすらと汗ばみ、膚に纏わりつくのが余計に暑さを感じさせるようで、どうにも気が逸れる。
藍生の髪を|いじった《・・・・》巽は、揺れる眼差しを受け止めて莞爾として微笑んでから、自信を持たせるために仰々しいくらいの頷きを返す。
「囮に一般人のお嬢さんを使う訳にはいかねェからな。悪ィがちっとばかし我慢してくれ」
「女性を危険に晒すわけにはいきませんから、俺は平気です! 平気ですけど……つられてくれますかね?」
「犯人の顔はよく見えなかったってェ話だ。それは帽子やマスクを被っていたからじゃねェ、灯りを避けてたからだ。ならあっちも大した仔細は見えてないだろうよ」
「……次の犯行がこの通りだって、何故目星を付けられたんです? 犯行現場もバラバラでしたよね」
暗がりから窺うような藍生の視線を感じた巽は、三日月のように双眸を細めて薄く笑う。
「人間にランダムは作れねェ。どんなに本人が無意識に選んだとしてもな」
落陽は町並みの輪郭を橙色になぞってはいるが、黄昏の往来を明らかにするほどの力は残っていなかった。身を守る術を持つ藍生は不機嫌そうに瞬く街灯を不便に思うだけに留まるが、ただのひとであればそうもいくまい。通り過ぎる路地の暗闇から猫が一匹飛び出してくるだけでも、胃の腑が浮くような恐怖を覚えるに違いなかった。
こつこつと石畳を往く足音だけが妙に響いている。己に集まる視線は巽のもの――そうと分かっていても居心地の悪さが背中から抱き付いてくるようで、自然と足早になってしまう。
(これじゃ、だめだ)
ちいさく吐息した藍生は歩幅を小さく、そして右手に提げた白いケーキの箱を大事そうに持ち直す。真白の箱には有名パティスリーのブランドロゴが印刷されてあって、箔押しのそれはちいさな光の欠片ですら瞬きを返す。
――笑顔を意識するんだ。今この世界でいちばんしあわせなのは自分だって見せびらかすような。
巽に言われた言葉を思い出す。口唇を笑みの形に保ち続けるのはそう難しいことではなかった。笑顔を意識すると背筋が伸びる。足取りも軽やかになって次第に影絵のようになってゆく町並みも気にならなくなってきた。
「むかつく」
聞こえてきた言葉に藍生の歩みが止まる。
声がしたほうを振り返ると、すぐ右に迫る石塀越し、生い茂る広葉樹の濃い影からこちらを覗き込む昏い人影がある。人影だと認識した矢庭に、それは二メートルはあろう石壁を這うようにぬるりと越えて藍生の進行を遮らんと立ち塞がった。
「わたしはこんなにも苦しいのに」
通りの先にぽつんと佇む街灯の小さな光は、藍生に覆いかぶさるほどの大きさを突き付けても詳らかにするほどの力はない。藍生はとっさに得物を手のひらに呼び出そうとしたが、
(まだ……もう少しだけ、様子を)
そうと判断した矢先のことである。
「消えてよ」
ぱき、と骨が鳴るような音がしたかと思えば人影がずるずると伸びていき、藍生に向かって近付いてくる。目と鼻の先、吐息が触れる距離になってようやくそれが先の割れた舌だと気が付いた。
伸びていたのではない、口を開けていたのだ。
(――あ)
自分を、喰おうとしている。藍生にはそれが分かったのに、なぜだか身体が硬直して指先一本すら動かない。
「おにいちゃん!」
とん、とよわい力で肩を押し出された。それなのに藍生の身体は呆気なく傾く。だがそのおかげで牙は虚空を掻いて空振りに終わった。ほっと安堵したのは自分ではない少女の吐息。
眼前を翻る朱の色。
ずっと、ずっと既視感があった。
(――なんで、気付かなかったんだろう)
世界が波打つ。喉の奥が苦しい。目頭が熱くなって、呼吸の仕方を忘れてしまう。
助けてくれたのは金魚だった。
夏の夕間暮れに尾鰭を翻す|インビジブル《少女》は藍生の妹。
「やっと会えたなァ、藍生」
ひしゃげた悲鳴の奥、透かし鍔の霊刀で伏した蛇女の背を貫き仕留めた巽が、爪先で転がすように蹴飛ばし遠ざけながら首だけで振り返る。
「巽さん……それ、どういう……」
「ずっと傍にいたんだよ、妹さんはな」
彼女は微笑っていた。
巽の言葉を肯定するように、ようやく兄と目が合って、視えるようになってうれしいと喜ぶように。やわく可愛らしい、あの頃と同じ笑顔で。
再会が罪悪感を消す訳ではなかった。
揺蕩う姿は死の象徴とも呼ぶべきで、残酷な過日を突き付ける。けれど妹は微笑っている。それだけは真実だと、藍生は世界を透いたその躰へとそっと手を伸ばした。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功