ただ一つ、叶うことならば
「ただいまっ!」
大海原・藍生の元気な声が家中に響いた。玄関口でカジュアルデザインの靴を脱ぎ、揃えているところに、キッチンから母が顔を出す。
「おかえりなさい、藍生。ちゃんと手洗いうがいするのよ」
「もちろん、分かってるよ母さん」
少し呆れ気味に笑い、洗面台へ向かい手を洗う。台所から漂うカレーの匂いが、藍生の空腹を強く刺激した。
「今日カレーなんだ?」
「お肉が丁度安かったの。沢山入ってないと満足出来ないでしょ?」
「そういうわけじゃないけどさ」
藍生は唇を尖らせつつ、繰り返しうがいした。この辺は中途半端にやろうとすると母の小言が止まないため、いつしか習慣付いたものだ。吐き出した水を洗い流し、タオルで口元と手を拭く。
「……でも母さんのカレーは、やっぱりゴロゴロのお肉が一杯入ってないとね」
子供扱いされているようで少し不服ではあるが、大好物なのは決して否定できない。藍生は嬉しそうな表情で台所に入ろうとした。
だが、台所に入るあと一歩のところで、足を止める。グツグツ音を立てるカレー鍋の前に立つ母の|古歳《ことせ》が、藍生に向き直り、人差し指を立てていた。
藍生は苦笑し、両手を広げて掌を見せた。そして裏返し、手の甲と爪もきちんとケアしたことをアピールする。
「よろしい」
朱音が微笑み頷くと、藍生はようやく台所に足を踏み入れる。
「俺、帰ってきた時はいつも手洗ってるんだけどな~。そんなに信用出来ないの?」
すっかり恒例の儀式になったとはいえ、大人ぶりたい少年からすれば、先程のように子供扱いされているような気分にもなる。背伸びして鍋の中を覗き込み、破顔しつつも、ちらりと上目遣いに母を見た。
「信用してないとか、そういう話じゃないのよ」
古歳の優しい瞳が息子を見返す。髪に似通いつつも少し異なる琥珀色の瞳は、暮れつつある夕陽に照らされ金色がかっていた。
暖かく、穏やかな色――だがその奥には、もう一つの色彩がある。
「|朱音《あかね》みたいに病気になってしまったら、大変でしょう?」
それは哀しみの色だった。
●
『おにいちゃん、まってぇ……っ!』
妹の顔を思い出そうとすると、大抵眉をハの字にして、泣きべそをかいている姿ばかりが浮かぶ。双子と言うほど似ていなかった――と、藍生は今でも思っている。|新汰《ちち》や母曰く、目元が特に瓜二つだったそうだが、自分ではまったくピンと来なかった。
『もう少しゆっくり歩いてよぉ!』
性格はもっと真逆だった。どん臭くて泣き虫で、何かとドジで――だが絵の才能は、間違いなく朱音が上だったと断言できる。腕前を比べたことがあるわけでも、はっきりと才能の差を思い知った出来事があるわけでもない。だが、はっきりと言い切れる。
何故なら妹が亡くなってから、父の芸術に関する教育は別次元に過酷になったからだ。朱音が生きていた頃からそれなりに厳しくはあったが、今ほどではない。父が明言したことこそないものの、それは藍生の才能のなさを見抜いての、あえてのスパルタなのだろう。
『ね、おうた歌って! おにいちゃんの歌聴くの、大好き!』
反対に、妹には歌の才能が――自分に比べると――なかった、ように思える。歌手だった母は自分と妹に熱心なレッスンをしながらも、父がそうだったように朱音にはある種の容赦をしていたのではないだろうか。それが誇らしく、同時にちょっぴり意地悪な優越感にも繋がっていたのは、認めざるを得ない。今にして思えば本当に子供じみていると、藍生は後悔ばかりがよぎる。
――後悔。
後悔なら他にある。そんな瑣末事よりも、もっとずっと強く、一生拭い去れないであろう昏い感情が。
●
「……藍生?」
訝しむような母の声に、藍生は我に返った。
「あ――えへへ、お腹空きすぎてボケっとしちゃった! ご飯まだかなぁ!」
藍生はやや大げさに笑い、頭を掻いて誤魔化す。母は親であるがゆえに違和感を抱きはしたが、それ以上詮索はしなかった。それよりも、湧き上がる悲しみの方がずっと強かったからだ。
「もう、食いしん坊なんだから」
呟いてから、母は自らの言葉で気落ちし、息を吐いた。
「|朱音《あのこ》はあなたと違って、あんまり食べなかったものね――少し無理にでも、食べる量を増やしてあげた方がよかったのかしら」
「……」
藍生の笑みが強張り、薄らぐ。母はそれに気付かず、カレー鍋の中身に視線を落としながら呟いた。
「藍生はちゃんと食べなきゃダメよ。ご飯ならうんと沢山作ってあげるから。ね?」
「……うん。分かってるよ、母さん」
藍生は一呼吸置いて話題を変えた。
「えっと……父さんは?」
「今日は夜遅くまでお店の方にいるって。画商の方がお越しになるとかで、ご飯もそちらで済ますって言ってたわ」
「そっか」
出し抜けに訪れる静寂。藍生はいたたまれなさと居心地の悪さを覚え、言葉を探した。
「じゃあ……俺、ちょっと部屋に戻って明日の準備してくるよ!」
「藍生?」
「小テストがあるからさ、復習しとかなきゃ。ご飯できたら呼んでね!」
藍生は母の答えを待たず、慌ただしく台所を後にした。
「絵の練習するなら、ちゃんともう一度手洗いしないとダメよ!」
母の声が背中に当たる。父も母も、決して冷淡で残酷ではないことを改めて噛みしめる。そこには親としての当然の愛がある――だからこそ湧き上がる罪悪感と後悔に耐えきれず、藍生はニ階の部屋に飛び込んだ。
●
病院にはいい思い出がない。あんなところに行かなくて済むなら、手洗いでもうがいでも、オカルティックな健康法だろうがなんだってやるかもしれない。まったくの健康体な自分の身体は、恨めしくも有り難かった。
消毒液の匂い。
規則正しく鳴り響く心電図の音。
医者や看護師が息を呑んで何かに備える、あの胸がざわめく嫌な静寂と緊張感。
何もかもが、最悪の瞬間を思い出させる。その全てが、ベッドに横たわる妹の姿に繋がり、藍生を苛むのだ。
『おにいちゃん……おうた、うたって』
酸素マスク越しのくぐもった声。幼い子供から見ても弱り果てた妹の表情は蒼白を通り越し、土気色だった。崩折れた母はベッドに顔を押し付け、咽び泣くのを堪えていた。父が無言で肩に手を置く。あの時、藍生は、自分が妹の生死を握っているのではないかという、わけのわからない錯覚に襲われた。ここで妹の願いを裏切ったら、その時こそ朱音は死んでしまうのではないかと。
『そんなの、いくらでも歌うよ。だから元気になれよ』
子供の言葉だ。残酷などとは決して言い難い。だが、藍生は今でも後悔し続けている。投げかけるべき言葉はもっとあったはずだ。いや、そもそも――。
●
「…………なんで、俺じゃなかったんだろう」
ベッドの上で丸くなった藍生は、ぽつりと呟いた。
もう一度言おう。藍生の両親は決して息子を排斥してはいない。深い愛と慈しみをかけて、彼らなりに世界の無慈悲から守ろうとしている。
父の血の滲むような教育も、母のやや過保護なスタンスも、全てはそのためだ。
だが、藍生にとっては。
「|朱音《あいつ》じゃなくて、俺が死ねばよかったんだ……!」
藍生は思う――妹の死こそが欠落なのではないかと。あるいはこの埋まらぬ罪悪感こそが。
どちらであろうと些細な話だった。少年を苛む闇は、決して晴れないのだから。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功