蛸壺の外
産声――何者かが卵を突き破り、ぬくぬくとしたお布団を捲る。重たい腰ではあったが、嗚呼、この一歩は確実に大きなものだ。蓄えてきたエネルギーを前に向けて、ようやく、誰かの為にと蠢動する事となった。感謝の言葉と『これから』を心に抱き――全てを捧げた誰かの代わりをすると宜しい。俺は……兄ちゃんの為なら……。
蛸神様が視ている。
タコさんが視てくれている。
色付いている思い出の数々はヤケに写りが悪かった。色褪せて、くしゃくしゃになった一枚を何者かが伸ばしている。伸ばして、伸ばして、伸ばして、それでも、元の通りには戻らないのだと邪悪に突き放されたかの如くに。されど、これは大事なものだ。これは大切なものだ。ずっと胸の内に抱えていなければ、それこそ、真に戻る事すらも出来なくなりそうだ。壺の中にしまい込んだ数多の思い、甕の中に押し込んだ数多の想い、この、今にも滂沱しそうな膨大こそが絆の証とも考えられよう。そうとも、絆である。あらゆるプラスに、あらゆるマイナスに絆されてしまったのだから気を許してしまう以外に道はない。まるで骨を抜かれたかのように、まるで脳髄を磨かれていくかのように、濁っていたものが清らかにされていく。たとえ井の中の蛙であろうとも、井の中の軟体動物であろうとも、そう、構わない。何故ならばオマエには『あたたかい』ものが、素敵な宝物が、腕の中に存在しているのだから。真人……真人……なんだ、寝ているのか。寝ているのなら、今日くらいは挨拶なしでも……。バタバタと、ドタドタと、部屋の中で何者かがてんてこ舞いをしている。そんなに慌てなくたって、急がなくたって、兄ちゃんは逃げやしないよ。逃げるような気がしたのだ。失くして終いそうな気がしたのだ。いや、勿論、そんな想いは日常が孕む杞憂でしかないのだが……。に、兄ちゃん! ご、ごめん。寝ちゃってた……。寝惚けている脳味噌を無理やり覚醒させるべく八手・真人は頭を振った。ちょっとした眩暈も付随したが、このふわふわとした夢心地も嫌いではない。……真人、大丈夫か? だ、だいじょぶ、だいじょぶ……。大丈夫――その言葉をかけるべきは此方ではないのだろうか。仕事も見つけられない、アルバイトもすぐクビにされる、そんな、如何しようもない弟の為に、兄は一生懸命に働いているのだ。それも、弟にすらも謂えない、得体の知れない『仕事』を……。あ、あはは……兄ちゃん。その……。ああ、いってきます、真人。……いってらっしゃい。このやり取りも何度目だろうか。この行為も、好意も、何周目だろうか。毎日毎日飽きもせずに生活とやらを反芻している――そうした現実の中でチャイムは踊った。……兄ちゃん、おかえり。ただいま、真人……。一粒が大きい葡萄みたいな甘酸っぱさだ。怠惰の罪だけが重なっていく。
要領が悪い――のろま――この程度の事も出来ないのか――平々凡々の中でも底辺だと、世の中の毒にやられた記憶が、記録が、不意に己の脳髄を弄ってきた。これが生温さに浸かってきた代償だとでも謂われるかのような、そんな、時間の奥……。オマエはいよいよ『おかしい』事に気が付いた。いや、おかしいと謂う事は、その現実についてはおそらく昨日の段階で頭蓋を撫で回していた筈である。兄ちゃんが帰ってこない。それも、三日間も、だ。幾ら仕事が忙しくても、忙殺をされていても、兄ちゃんは必ず、夕方頃には帰ってきていたのだ。そんな、弟大好きな人間が、弟の心配を考えずに仕事とお友達をしているとは思えない。まさか……事故か、事件にでも巻き込まれたのではないだろうか。焦燥にやられたオマエは普段ならば絶対に視ない、ニュースなどに齧り付く事とした。テレビを流しても、ネットの荒波に揉まれても……嗚呼、いったい、何処に『八手・和文』の名が載っているのか。ない。ない。ここにもない。どこにもない。兄ちゃん……兄ちゃん……。眼球を酷使した所為か、脳味噌を酷使した所為か、頭がじくじくと傷んできたが――熱っぽくなってきたが――それでも、探す事をやめるわけにはいかない。俺の兄ちゃん……優しくて、大好きな、兄ちゃん……。藁にも縋る思いで辿り着いたのは掲示板である。だが、其処にも『彼』の名前はなかった。ああ、俺が、俺がどんくさいから……なんにも、見つけられない……。真実とは悉く処理されるものだ。ただの人間が、一般人が、それに辿りつく事など赦されない。
ヴェールを剥ぎ取る行為は、深淵を覗き込む行為は、時に、隣人の如くにやってくる。車に轢かれて旅立つ命のように、雷に打たれて焦がれる肉のように、ゆっくりと、ゆっくりと、そのサイコロを、可能な限り同じ目にしていく。そうして訪れた四日目――夜の影が失せるか、失せないかの刻――何もかもが姿を現した。ぴんぽん……ぴんぽん……。静謐を掻っ攫うかの如くに無気味なインターホン、そんな|無気味《●●●》さを押し退けてオマエはドアの前に大急ぎ。兄ちゃん……兄ちゃんが帰ってきた。帰ってきてくれた。事故も事件も何事もなく、俺の前に戻ってきてくれたんだ……! がちゃり、きぃ……四日ぶりに兄ちゃんの顔を見た。四日ぶりに兄ちゃんの身体を見た。視た、筈だ。だけれども、何かが違う。何か、途轍もないものによって、兄ちゃんが大切なものを『取り戻してしまった』かのような。兄ちゃん……? 剥がれ落ちた『もの』が、ぬめりこぼれた『もの』が、代わりを求めて|触腕《なにか》を伸ばす。伸ばした先に在ったのはオマエだ。オマエは抵抗する意思すらも満足に抱けず、ウネウネに身体を包まれていく。呑まれた。嗚呼、呑まれてしまった。形容し難い、神様とでも名状すべき『もの』に呑まれてしまった。憑かれた。憑かれてしまった。憑かれた事で――兄が――八手・和文が抱えていたモノの何もかもを理解してしまった。吐きそうになった。倒れそうになった。兄ちゃんは、こんなものを、ひとりで背負っていたのか。こんなものを抱えていたのか……。ごくりと、熱いものを飲み下す……。
のうのうと……ぬくぬくと……今まで生きてこれたのは『兄ちゃん』のおかげだ。兄ちゃんが全部、全部、持っていてくれたおかげだ。自分自身の弱さに、自分自身の平凡さに、平凡の中でも最下である事実に、嫌気と謂うものを覚えた。ああ、そして、何よりも――自分も〝こう〟なるかもしれないと、ガタガタ、脳髄がヤカマシイ現実こそ忌まわしい。襲ってきたのは恐怖と絶望、あらゆるマイナスのイメージが具現化して、押し寄せてきて、ガクガクと膝が笑う、身体が震える……。今にも気を失いそうなオマエの状態、そんな姿を見せられた『兄』の――兄だったものの反応は如何に。撫でられた。頭を撫でられた。幼い幼い弟にするかのように、写真の中の君にするかのように。だいじょうぶ、だいじょうぶ。にいちゃんが、いるよ~……。一瞬でも、刹那でも、兄を兄として認識していなかった己こそが憎い。兄ちゃんは、兄ちゃんだ。脳ではなく心に、魂に『覚悟』の二文字が粘りつく。これは紛れもなく『兄』で、そして、今度は『俺』が『兄ちゃん』を守らなければならない、と。恩返しだ。恩を仇で返すなど以ての外なのだと――オマエは道を歩むと決めた。
兄ちゃん、いってきます。
マト、いってらっしゃい。
兄ちゃん……ただいま。
おかえり……。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功