√思えばそれは『■■だったのでしょう』
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妖怪にとって人とは劇薬だ。
あまりにも美しいからだ。どうしようもなく焦がれてしまう。見上げた星に手を伸ばすように、届かないと知って手を伸ばしてしまう。
それが愚かしいことだというのならば、きっとそうなのだろう。
あの方のことを、愚かな娘だと謗る者がいた。
純血を重んじる方々は、口々にそう言った。
あの方は、己に責任を押し付けなかった。
それはあの方なりの己を気遣っての優しさだったのだ。だが、今は違う。今は違う。
あの方は一欠片とて手放したくなかったのだ。
はっきりと今ならわかる。
あの方が手にしたものは、一族の掟も、未来ある可能性も、今ある尊き全ても、天秤を一つも傾けるものではなかったのだ。
例え、それが彼女を不幸にするのだとしても、だ。
故にあの方は、『あれ』を連れてきた己が責められるべき咎すら手にしたかったのだ。
狂おしいことだ。
狂気だ。
正気の沙汰ではない。
あの方は『あれ』のせいで罰せられる痛みすら、悲しみすら、苦しさすら他の誰にも渡したくなかったのだ。
盲目そのものだ。
狂信そのものだ。
もう一度言う。
はっきりと今ならわかる。
「私は、あの方を欲していたのだ」
それは情念と呼ぶものだった。
狂おしいまでの感情。渦巻く激情が体の内側を灼く。
『そうだろうとも』
声が聞こえる。
己の手足に見えない何かが絡みついているようだった。
振り返ることすらできない。
けれど、己の首が、ぎりぎりと曲がる。振り向かされている。
そこにあったものを見て紫瞳、その瞳孔が開き切る。
息が切れる。
鼓動が胸の奥を打ち据える。
汗が吹き出す。
いい知れぬ感情を恐怖が染め上げていく。
「見失いたくない。いやだ、これは、『これ』だけは」
『おもしろいなぁ。それが気の迷いだし、一時的なものでしかないし、燃え盛れば残るのは燃え滓だけだっていうのに、『こんなもの』に執着するなんて。おもしろいなぁ』
ニタニタと己を見ている存在は、心底おかしいと笑っている。
己が持ち得る情念を誂うようだった。
殺すのなら簡単なことだ。
その存在が、指で弾けば己の五体など四散するように砕け散るだろう。
なのに、その存在は――古妖はやはり面白おかしいものを見るように己を見つめていた。
『みっともないなぁ。滑稽だなぁ。やっぱりおもしろいなぁ。うん、なら、もっとおもしろくしてやりたいなぁ』
赤と青の光が明滅する。
悪意と善意がないまぜになったような古妖の言葉に己は心底恐怖した。
『お前の中から大切なものを一つだけ奪おう。生命を対価にしても惜しくはないものを一つだけ奪おう。そうしたら、生命だけは助けてあげよう。なんて優しいんだ。人の憂いに寄り添うのは、たまらない。なんて優しいんだろう。なあ、お前もそう思うよなぁ』
問いかける言葉に己は返す言葉はなかった。
『それ』は他の何物にも代えがたいものだった。
かつて、あの方がそうであったように、他の誰にも決して触らせてはならないものだった。
だが、古妖は己の『それ』をつまみ上げた。
どうやれば、そんなことができるのか検討もつかない。
「やめろ」
『いつだってそうだけれど、そういう言葉にはハッキリと言うことにしているんだ』
にたり、と嗤う。
その顔が見たかったのだというように古妖はつまみ上げた『それ』を舌の上に乗せて味わうように転がす。
『いやだ』
瞬間、ごっそりと己の胸に虚が生まれる感触がした。
ぐったりと体が疲れ果てるような、体の真芯を抜かれたような。
そんな感覚。
同時に体が揺れる。
『あはは、やっぱりおもしろいなぁ。愉快だなぁ』
体中の骨という骨が砕けるようだった。
腰椎より飛び出すは蜘蛛の脚。
そして脊髄よりもまた同様に蜘蛛の足が皮膚を突き破って現れた。
醜い。
だから、古妖は嗤っているのだろう。
白い髪が己の頬を揺らす。
紫の瞳は血涙に染まる。もう二度と見たくないと思った、あの美しい陽光に溶けて羽撃く■■の残滓を瞳は捉えることはないだろう。
『なぁんだ。そんなこと。大切なものだったのだろう? なら、もう失くしちゃぁだめだろう?』
そうだ。
今度こそ失わないようにしなければならない。
この■■は、もう二度と失われてはならない。
伸ばした糸は多くを輝く蝶へと変えていく。
美しいものも、好ましいものも。
妖も、イキモノも、人間さえも、その魂を蝶に変えよう。
己が尊いと思ったものに変えよう。
集めて『虫籠』に入れておかねばならない。大事にしまっておかなければならない。
「もう二度と失わないように」
古妖はまた嗤った――。
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それは憐れな蜘蛛妖。
情念の炎に魂まで灼かれた男の成れの果て。
そして、閉じられた瞳はあの日の在り得たかもしれない可能性を追想し続ける。
『紫苑』の花言葉の通りに――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功