誰のものか
安眠効果の所為だ。夢見心地の所為だ。
混沌としたカップの中――色鮮やかだった其処――底を覗かせたところで醒めて終うか。肯定、称賛、祝福と、三種の神器を揃えたかの如くに茶葉、あらゆる美徳の味を再現していく。回転するティーパックの類は欠片として見当たらず、ああ、まったく本格的な状況か。騒がしい享楽の只中で、賑やかしい招待の只中で、正体、悉くを盲神とするかの如くに微笑むのか。しかし、何もかもは……たとえ、楽しい時間であっても、嬉しい沙汰であっても、過ぎ去る運命と謂うものは等しくあれ。蛆虫のようにころころ、青虫のようにうねうね、静謐とやらが転がり込んできた。恋人たちの催し事には縁なんてない。そうとも、僕は独り身みたいなものだし、仕方のない事なのだが――寂しさというものは情け容赦なく脳髄を重たくする。退屈だ。退屈で退屈で、今にも、独り芝居をしてしまいそうな有り様だ。しかし、牛もいないと謂うのに、客席も伽藍だと謂うのに、闘牛士の真似事をするなんてつまらない。ぷん、と、鼻腔を擽ってきた色の残り香、不意に湧いた郷愁の味……幻覚として一滴、舌を濡らすか。青い、青い、見知らぬ宝石。簒奪されたかのように、吸い込まれ、溺れる……。
カタツムリさんの蝸牛めいて、カタツムリさんのお口めいて、ぐるぐる、何とも喧騒的な時間だった。みんなの邪魔をしてはいけないと、伯父様の貴重な時間を汚してはいけないと、なんとなく、お外でじっと待機していた。ええ、退屈な時間はおしまいよ。つまらない時間はおしまい。わたし、カタツムリさん! カタツムリさんは今から伯父様のおうちに這入るのよ! 季節外れのアジサイをイメージさせるいとおしさだ。若干のあざとさを胸の内に抱いてカタツムリさんはノックもしない。伯父様! そこにいるのよね! いないってお返事をされたら、わたし、ひっくり返っちゃうわ! 成程、カタツムリさんは如何やら『邪魔をしてはいけない』云々とは思っていなかったようだ。ずるいわ! カタツムリさんも伯父様といっぱいお喋りしたいもの! 顔色には出さないし、声色にも出さない。伯父様には『わがまま』だと思われているのかもしれないが、これは、我儘を超えた独占欲だ。ああ……もちろん、僕はここにいるとも。でも、ルトガルド。今日はバレンタインでしょう? 遊びに行かなくても良いの? わたし、カタツムリさん! ルトガルドではなくてルルドよ。そして伯父様は伯父様だわ。それに、わたし、お友だちがいないからバレンタインの予定もないの! 寂しさに寂しさが重なった。しかし、このお喋りな具合が寂しさとやらを塗り潰してくれる。そうだったね、ルトガルド。僕も別に予定もないし、構わないのだけどね。ルルドよ!!! 頭の中までカタツムリさん、独占欲とはつまり万有礼賛するかの如く。伯父様! わたし、チョコレートが食べたいの。伯父様がくれたチョコレートを! 如何やらカタツムリさん、伯父様からチョコレートを貰うのを当然だと思っているらしい。カタツムリのように目玉をキラキラさせ、月の光を見つめる。
月の光を湛えているのは艶やかな髪、自然に揺れた銀色がカタツムリさんの言葉に被さる。タイミングの問題だ。いや、それ以前にバレンタインとは何かを予習しておくべきだったのだ。いつの日にか食んだプリンタルト、食感よりも硬そうな現実。チョコレート……? 参ったな。ルトガルド、君への贈り物に出来るような品は今、手元にないんだよ。この国では男性は貰う側だと聞いていたからね。ルルドよ! 反射的にお返ししたカタツムリさん、伯父様の科白とやらを理解するのに数秒を必要としたのか。……皆にもご馳走した美味しいハーブティーでは駄目? 幼少の頃の夢の味。嗚呼、夢の味。夢の味で満たされると謂うのなら――今を生きているのがつらくなる。チョコレートよ、チョコレート! お茶では代わりにならないし、夢ではおなかもふくれないわ? 伯父様だって執筆に疲れたときの糖分補給にハーブティーは飲まないでしょう? それに、おなかがすいたらお菓子を食べるはずよ! カタツムリさんのいう事も尤もだ。おなかがすいたらご飯を食べるべきだが、この際、置いておくとする。そうだね、ルトガルド。君の言う通り。それじゃあ……一緒に買いに行こうか。もちろん、ルトガルド、君の好きなチョコレートを好きなだけ、ね。ルルドよ! ねえ、伯父様! わたし、ルルドよ? そろそろ覚えてくれたっていいじゃない。きっと『ルトガルド』の方が呼び易いのだ。呼び易い名前を使う。それに、伯父様の性格なら……正確に覚えていない方がおかしい。僕はコートを取ってくるから、それまで待っていてね。伯父様、わかったわ。伯父様がコートを取っているあいだ、わたしはカタツムリさんをしているの! ところでカタツムリさんって何かしら? まったく判明しない正体の『し』の字。なんでもない日への万歳が如くに、只、猫も無く笑う。
伯父様! 伯父様、行きましょう! はやく行きましょう! コートを取りにいっている最中だ。まだ、着用すらも出来ていない。紅茶を飲む時間すらも待っていられないのだから如何しようもない事か。ルトガルド、そんなに急かされたら、焦ってしまうよ。大丈夫、今から走って向かわなくてもチョコレートは逃げないからね。それは知っている。チョコレートは食べ物だ。食べ物が走り回ったり、逃げ回ったりなんかしたら、それこそ能力者の案件になってしまう。でも、伯父様! バレンタインなのよ? バレンタインなら、限定のチョコレートがあってもおかしくないわ! 限定のチョコレートは普通のチョコレートとは違って逃げてしまうかもしれないの。だから、まずはチョコレートのお買い物をして、帰りにお茶もしたいし、それから……冬のお洋服も買ってちょうだい。金銭面で困る事はないが、ここまでの我儘なお嬢さん、お嬢さん界隈でも珍しいだろう。それでも、コクコクと頷きながらコートを羽織る伯父様は――たいへんな――紳士の中の紳士と解せるだろう。ルトガルド、君、昨日も冬のお洋服を買った気がするんだけど、でも、女の子にはたくさんの『お洋服』がいるからね。ちょうど、僕も欲しいものが出来たから、一緒に買おうね。おでかけ前夜の期待が――おでかけ数秒前のワクワクが――フレーバーの代わりとしてやってきた。伯父様、よく考えたら、もしかして伯父様にもチョコレートが必要かしら? わたし、カタツムリさんだから知っているの。バレンタインのチョコレート! ほわほわと、伯父様の頭の中に過ぎったのはカタツムリのカタチをしたチョコレート。外側はカチカチ、中身はとろり、甘さと苦さの混在した、素敵な、素敵なカタツムリ型のチョコレート。おや……僕にチョコレートを? ううん、大丈夫だよ。伯父様は――今は独り身のようなものなのだ。つまり、長らく顔も見ていない『パートナー』が存在しているワケで。僕が可愛い女の子から、ルトガルドから、チョコレートを貰ったりしたら奥さんが拗ねてしまうからね。……ルトガルドではなくてルルドよ??? 今までで一番『ムスッ』とした。ふぅん……それならわたし、来年は伯父様のためにとびきりの、とっておきのチョコレートを用意しておくわ! 伯父様はカタツムリさんの『もの』だ。伯父様はカタツムリさんの『もの』だし、伯父様以外もカタツムリさんの『もの』だ。他の誰かさんなんかに、馬の骨さんなんかに、譲ってあげるつもりはない。これは甘酸っぱい精神ではなく、何度でも謂うが独占欲だ。伯父様、そろそろ扉を開けてくれるかしら? レディーファーストの心構え、何方かと謂えばオコサマと保護者なのだが――それは、傍から見た感想でしかない。
ひょうひょうと、びょうびょうと、肌を舐ったのは冬の寒さ。コートを着用していても尚、突き刺さってくる風は何処か、いつかの内緒話の期限を彷彿とさせた。吸血鬼とカタツムリさんは手を繋いで歩を進める。月光を導として確実にお目当てのお店へと近づいていく。伯父様! わたし、なんだか嬉しいわ。今日は、いつものお出かけよりも楽しい気がするの。きっと伯父様が、わたしのために時間を使ってくれているからよ! ニコニコと、燦々と、讃美しているかのように、讃美されているかのようにカタツムリさんは雀躍とする。跋扈している魑魅魍魎よりも伯父様のお隣が好き。ねえ、伯父様! 次の主人公は女の子にするのが良いわ。だって、女の子なら、真っ白いドレスが似合うはずだもの。そうだね、ルトガルド。最近、ちょっと筆が遅くなっていたから、ルトガルドの意見も取り入れてみようかな。プリンタルトのおうちも皆に好評だったからね。現在――プリンタルトのおうちには複数のカタツムリが棲んでいる。カタツムリの皆さんはきっと素晴らしい生活を送っている事だろう。素晴らしい生活と謂えば……素晴らしいものと謂えば……そう、プリンタルトだけでは収まらないし、留まらない。わたし、カタツムリさん! おなかがすいたからそこのお店でケーキを食べて行くのはどうかしら! ハテナ・マークはない。カタツムリさんの頭の中では既に『ケーキを食べる』と決まっていた。……ルトガルド、あんまり僕を困らせないでおくれ。良い子だから。まあ、伯父様。ルトガルドではなくてルルドよ。ルルドって呼ばないと、わたし、呼ばれたのかもわからないわ。流される儘に、我欲の儘に――お洒落なケーキのお店に滑り込む。伯父様、伯父様、このケーキ、カタツムリさん!
まるごと一本のロールケーキ、待ちわびた再会の味……。
伯父様? どこを見ているのかしら? 伯父様?
……ああ、ルトガルド。それが欲しいのかな。
伯父様ったら、今日はなんだか、うわのそらね!
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功