蛸壺の中
ウツボの笑みに中てられて、天敵の涎に塗れて――情け容赦のない捕食にやられる。過去と今の壁に挟まれて、嗚呼、一歩も前に進めないのか。後退だ。後退をしたい。後ろへ、後ろへ退いて、何処かの地点で――死ぬまで眠っていたい。
与えられたものだけを食んで、飲んで、繰り返し。
禁忌を――果実を――己の口腔の中で、蹂躙し、冒涜した罪については僅かながらに把握をしていた。男と女の関係性を兄と弟の関係性としたならば、成程、そっくりそのまま同じではないだろうか。絡みつく汁気の代わりとしての触腕、まるで、犬のように回転をしている日常と非日常の狭間。いや、つまり、この、ぐるぐるするような頭の重たさについては如何しようもない、己の象徴とも考えられる。嗚呼、いっそ、蛸神様がオマエの意識を奪ってくれなければ――願いは確実に叶えられていた事だろう。どうして……どうして、俺は、あの時、正気を失くせなかったのだろう。答えは決まっている。俺が……俺が、どこまでも、どこまでも、平凡で、あまりにも、どんくさいから……だよね。疑問形。ハテナ・マークを虚空に投げかける。このザマだから、この、拙さだから、オマエは脳の髄までも脆いのだ。だからこそのクチュクチュ、蛸神様からの慈愛であった。たこすけ、なぁ、たこすけ。俺は本当に、兄ちゃんみたいに、強くなれたりするのかな……。ぺちぺちと脳天を叩かれた。痛い。痛いし、何よりも――めまいが鉛のようになって、こびりついた。
呼吸をするのも面倒臭いと身体が訴えかけているが、それより、ようやくの到着である。二階建ての小さな一軒家、此処が兄弟二人で住んでいる箱庭のような場所。いいや、もしかしたら、楽園だと思い込んでいるだけで、その本性は失楽園なのかもしれない。頭が鐘のように喧しいが、拭うように鍵とやらを取り出していく。鍵の数は……錠の数は……五つ。過剰ではないかと、無気味なほどではないかと、ご近所さんには思われているかもしれないが、そんなのは些細な問題である。もたもた、ぬたぬた、蛸よりも不器用な有り様で、ひとつひとつを開けていく。これは、仕方のないこと。兄ちゃんを……兄ちゃんを、守るため。蛸壺の外に出たオマエは別の蛸を軟禁していると、そういうワケだ。ぎぃ、と鳴いた扉の先には靴のひとつも置かれていない。これも、兄ちゃんを守るため。兄ちゃんが、どっかに、行かないようにするため……。靴箱の奥の奥、深いところにしまい込んでいるのは誰の為だ。本当は……本心は、オマエの精神を正常に維持する為なのではないか。何度目かのめまい、倒れそうになった身体を瀬戸際で支える。支えてくれたのは触腕だ。大丈夫……俺は、兄ちゃんと出かけるときには、ちゃんと、靴だって用意しているんだから……。
緊張感に苛まれながら、嘔気に似た何かしらに虐げられながら、靴を脱ぐ。この瞬間だって、この刹那だって、何かしらに、兄ちゃんが狙われているのかもしれない。怪異は……人間は……それほどまでに、地獄のような沙汰を兄弟に与えてくれたのだ。いいや、この瞬間だけではない。扉を開けて、大切な人の姿を確認するまでが最も、そう、最もおそろしい。小さな、小さな声で「ただいま」を口にする。届かない。届く筈がない。今から……階段を上って――部屋に入らなければいけないのだ。数十歩ほどの距離が、数歩ほどの距離が、ひどく遠く思えてしまう。せかせかと、あせあせと、足を動かしてみる。階段、最初の一歩で躓いた――今度はめまいではない。俺は……俺は、いつも、なんで、こう……。
兄ちゃんの部屋……そう、兄ちゃんの部屋だ。俺が、あまりにも俺な所為で、いっそ、ここにも五つ鍵を付けたい、兄ちゃんの部屋……。病的なまでにこびりついているものを無理やり抑え込む。抑え込もうと思えば思うほど、身体から熱がこぼれていく。大丈夫、俺は、大丈夫なんだ。兄ちゃんに、こんな姿を見せたくないし、それに、兄ちゃんも、あの時は我慢していたんだから……。願っているのは『いつも通り』だ。いつも通り『兄ちゃん』が寝ているか、積み木か何かで遊んでいるか。違う……それは本当の『願い』ではない。真に期待しているのは――兄ちゃんが、昔の兄ちゃんに戻っていないか――と。だから、俺は願えば良かったんだ。だから、俺は、あの時、正気を失くしていれば良かったんだ。あの時、何も見たくなくて、何も知りたくなくて、たこすけに委ねていたばっかりに……俺は、最大のチャンスを逃してしまったんだ……。
甘ったれと罵られても、現実を視なさいと突きつけられても、縋らずにはいられない。自己嫌悪の大渦巻きに囚われながら――縛されながら――たっぷりと、時間をかけての「ただいま」。返ってきたのは「おかえり」か、おかえりの前の抱擁なのか。兎も角、いつも通り。いつも通り……腕の中へと、蛸壺の中へと、ぎゅう……。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功