土足厳禁
この世に慈しみが存在するとしたなら、それは、隣人に対してのみで在れ。
蛸壺の中であろうと、蛸壺の外であろうと、世界は二人と一柱に試練を与える事を止めなかった。健やかであろうと、病んであろうと、存在している事だけは赦してはくれたのだが、目の玉の数については情け容赦なく無量としたのだ。これが、堕落をしていた、怠惰をしていた何者かに対しての『つけ』なのだとしても、幾らなんでも世界は酷を極めているのではないか。絡みついてきた一柱の――蛸神様の――触腕よりも、重苦しい貧血、めまい。集団で襲い掛かってきた目玉は果たして何者からの石であろうか。いや、結局のところ村八分のような状態なのだ。もちろん、本来の意味での村八分よりも、比較的、柔らかなものではあったのだが。全ては邪悪によるものではない。邪悪ではなく奇異なのだ。好奇心とおそれは感情を孕む事をやめられず、只、地獄を覗くだけのホトケサマとしての側面を前へ前へと、押し出しているだけであった。おかしなものを、不思議なものを前にして、人間が如何して目を逸らす事が出来るのであろう。つまり、これは本能的なトカゲの尻尾切りにすぎない。
彼等が――八手の家の兄弟が――二人だけで、暮らしている事は知っていた。昔は兄が仕事をしていて、如何しようもない弟を養っている事だって、私は知っている。しかし、数カ月前からあの兄弟はまったく、真逆に変質をしていたのだ。家に引き籠っていた弟が、今ではこそこそ、仕事とやらに向かっている。兄の方の姿はあまり見かけないが、おそらく、精神を病んでしまったのだろう。これは私の憶測にはなってしまうのだが、そう、兄は弟の為に働き過ぎて、目を回してしまったに違いない。成程、それなら、あの弟が一所懸命になるのも納得だ。でも、私は納得できない。何故なら、あれを見てほしい。きっと、今日は兄の調子が良かったのだろう。ふたりで散歩に出かけている。
がちゃがちゃ、ヤケに多い鍵を閉めた後、オマエは――八手・真人は八手・和文の手を取った。兄ちゃん、今日は元気そうだし、天気も良いから、一緒に、おさんぽしようね。本当は兄ちゃんを外になんか出したくない。もっと謂うなら、家の中だって本来、完璧なまでには安全ではないのだ。なら、もしかしたら、何処に居たって同じなのかもしれない。ぐるぐる、ぐるぐる、昨日の貧血を引き摺っているかのような不覚に陥る。マト……マト……にいちゃん、マトとおさんぽできると、うれしいな。幼げな言の葉に、優しい科白に、弟は頭蓋に溜まっていたクラクラを拭い取る。そうだよね。俺が、連れ出したんだ。俺が、お散歩しようって言ったんだ。今更、如何して、吐いた唾を飲み込めると思っているのだろうか。覚悟はとっくに出来ているのではなかったか。覚悟をしたからこそ、今を、こうやって幸せに出来ているのではないか。ぐい、と、兄の身体を引っ張って人の少ない道を選んでいく。兄ちゃんは、人が多いと、ぐるぐるしちゃう。それは、俺も同じなんだから、ゆっくりした時間を過ごしたいから、今日も、こっちの道……。
見ての通りだ。聞いての通りだ。つまり、精神を病んでいる、と謂うのは間違いないのだろうが、それにしても、年不相応なのだ。弟に引っ張られている兄が、キャッキャと、まるで子供のように燥いでいる。精神年齢の退行、それを想像させるものではあるが、だとしても、この退行の仕方は異常なほどである。そもそも、おかしな話ではないか。奇妙な事ではないか。彼等は確かに、兄弟をしている。兄弟をしているのだが、まるで、何かを挟み込んで兄弟をやっているかのようにも、思えてしまうし、見えてしまう。私はいったい何を観察しているのだろう。此処はもしかしたら、あの兄弟の、舞台の上なのかもしれない。ふと、嫌な予感に襲われた。私は蛙のような心地で、彼方……。
目が合った。
目が合ったのだ。
おそらく、兄の方の、人間とは考えられないほどの。
煌々とした、神々とした、金色の濁った、眼球。
兄ちゃん……? どうしたの? 疲れてるのかな? 動かなくなった兄を心配しての声掛けだ。虚空を見つめているネコめいて、兄は、じっと、微動だにしない。兄ちゃん、兄ちゃん! えっと……そろそろ、帰ろうかな……? ぐるりと、くるりと、兄の頭部が……顔が……目の玉が、弟を捉えた。兄ちゃん……? うん、かえろう、マト。にいちゃんは、マトがげんきなら、それでいいんだ。帰ったらぎゅう、と、抱っこをしよう。帰ったら、いいこいいこと、なでっこをしよう。それで、何もかもは解決である。
影が落ちている。影が、落ちてくる。
あの影は如何して、帽子のようなカタチをしているのか。
あの影は如何して、気味の悪い蠢きを、しているのか。
わからない。わからないが、これ以上は……。
好奇心や、奇異よりも、恐怖が勝ってくるのだ。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功