紺青の一閃
とある晩夏。
朧谷・千里は、ひとり峠道を歩いていた。黄昏時の空は夕暮と夜が隣あい、世界を藍色に染め上げている。
日が落ちきる迄には街に戻りたいところだが、空の美しさに惹かれて少しだけ足を止めた。彼の赤い瞳に薄明の月が映る。
「……そういえば」
千里は懐から小さな麻袋を取り出す。開けると、小ぶりな桃が数玉ころりと顔を出した。昼間、人家を襲う古妖を祓った礼のひとつとして麓の村人から貰ったものだ。ひとつ手に取り、口に運ぶ。ざらりとした皮の食感と甘い果肉。
「まあ、悪くないな」
乾いた風が髪を撫でる。少し肌寒さを感じて、千里は羽織の前を合わせた。束の間の休息を終え峠を下る千里に、異様な音と気配が届く。
ーーごぞり。
愛刀『斬妖剣』の柄に手を掛けながら振り返ると──巨大な蜘蛛の姿をした古妖が、そこに居た。
長身の千里が見上げるほどの巨躯。四対八本の脚の表面にびっしり生えた毛が、夕日に照らされてよく見える。そして特段に目を引くのは、その顔貌だ。蜘蛛特有の牙や顎の代わりに、真赤な鬼の面が頭部に貼り付けられていた。
ーーグオォオオ……
地の底から響くような唸りを上げて、蜘蛛は巨躯に似合わぬ速度で突っ込んできた。飛び退って避ける。期待はしていなかったが、やはり疎通が取れる相手では無いらしい。
「……土蜘蛛か」
載霊禍祓士として、人に仇なすモノを数多く祓ってきた。そんな歴戦の剣客である千里の本能が、肌を粟立たせることで危険を告げている。しかし思考は至って冷静だ。必要なのは、この古妖を斃すことだけ。恐怖など必要がない。
昼間に助けた村の人々が頭をよぎる。安堵に目元を緩ませ、何度も礼を伝えてきた大人たち。千里の羽織の裾を引きながら、家で採れた桃を手渡してくれた子ども。
(彼らもこの峠道を使うだろう。ここで祓わなければ危険だ)
太刀を握る手に力が入る。
「斬れる相手なら何も問題はない。……人に仇なすのであれば、俺が斬り伏せてくれるッ!」
踏み込むと、土蜘蛛に向かって刀を薙いだ。刃は確かに土蜘蛛の胴体を捉えたが、手応えは乏しい。外骨格は異常に固いようで、よく研がれた斬妖剣を受け止めている。
「ならば……」
千里は一度退くと、斬妖剣を上段に構える。がら空きになった彼の胴体を貫くべく、土蜘蛛の左脚が伸ばされる。
「甘いッ!」
一喝ともに、千里は刀を振り下ろす。載霊禍祓士の能力、【禍祓大しばき】により底上げされた威力の一閃は、土蜘蛛の脚を吹き飛ばす。千里は返し刀で切り掛かると、四本の左脚を全て切断した。
ーーギャアアアアア……!
金切り声を上げ、土蜘蛛はバランスを崩してその場に崩れ落ちる。
勝利を確信した千里は、敵の頸を落とすべく再び刀を振り上げ──爪先に、なにか不快なものを感じて視線を落とす。満月の光に照らされて、小さいものが地面に蠢いているのが、見えた。
「なッ──!」
それが子蜘蛛の大群だと気付き、千里は思わず後ずさる。土蜘蛛の傷口から、血液の如く流れ出ていた子蜘蛛たち。いつの間にか囲まれていたようだ。
踏み潰した蜘蛛の体液で滑り、千里もまた体勢を崩す。
その隙を、突かれた。
驚異的な速度で脚を再生した土蜘蛛は、今度こそ千里の腹を刺し貫いた。ああ、とため息とも呻きともつかない声が、千里の口から漏れる。
仰向けに倒れた千里に、土蜘蛛が覆い被さる。抵抗しなければ。取り落とした斬妖剣を探るが、掴めるのは砂ばかり。
血に濡れた腹は温かいのに、手足は急速に冷えていくのを感じる。……身体が震えるのは、失血による寒さのせいだけではない。千里は、今まで感じたことのない『恐怖』が頭を支配していることに気付いた。
(俺は、死ぬのか?)
√能力者にとって、死は不可逆ではない。
だから自分は死を超越していると、思っていた。
短命な人間なのだから、死を恐れる時間など勿体ないと、思っていた。
まだやるべきことがある。この古妖を野放しにしたまま、死ぬ訳にはいかない。死ねない理由を必死に考える千里の理性を跳ね除けて、シンプルな本能が口をついて出た。
「……死にたく、ない…」
視界が暗くなる。梵鐘のような耳鳴りがする。閉じていく世界の中で、最後に残った嗅覚が、潰れた桃の香りを感じ取った。
次に目が覚めた時、千里は見知らぬ街の中にいた。
己の知る風景とは似つかない、背の高い建物。西洋風な服装の人々。そして、インビジブルが全くいないこと。
すぐに気付いた。ここが、守りたかった√百鬼夜行ではないこと。
そして、インビジブルはいなくなった訳ではなくーー『見えなくなった』のだと。
「……俺は…」
喪失を抱えたまま、千里はふらりと歩き出す。
本来ならば蘇ることのなかったこの命。
縁もゆかりも無いこの世界で目覚めたのは、何の因果なのか。
ぼんやりと考える千里の瞳に、蒼天の空が映った。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功