シナリオ甘露の海
心と心の繋がりこそが、コミュニケーションこそが、真に必要なものだとした場合、彼は怪物的なまでに凄まじかった。人は勿論のこと、怪異や神様に対しても巧みに心を通わせていたのだ。そして、その性質はおそらく――いつであろうと、変わらない。
深淵を覗き、深淵から覗かれ、手を伸ばす。
手を繋いで――欠落、自由を捧げる。
それが崩壊への一歩だとしても、彼は大丈夫だと、笑っていたのだ。
神と呼ばれる存在は――仏と称される存在は――何処までも、永久までも、気紛れである。気紛れで、時に子供っぽく、時に大人らしく、物理と神秘の狭間を遊泳する、何方とも言い難い『もの』であった。蛸神様を例に挙げるとするならば――人間と神の関係性、その末路について――でも語られる通り、ひどく純粋なものであろう。蛸神様は優しいのだ。優しくて、慈しみに溢れて、加えて……おそろしいのである。何がおそろしいのか、何がすさまじいのか、そのような疑問など最早ナンセンスであり、悉くを描写するならば長い、長い時が不可欠である。ともかく、何よりもおそろしいのは『既知』の行為であった。蛸神様は『ダゴン』或いは『バアル・ゼブル』、その流れを汲んでいるのだとしたら……豊穣の神の側面だって有しているに違いない。神は人に『仔』をつくらせたのだ。蛸神様は八手の家の者に『より繋がりを得易い児』をつくらせたのだ。それが……八手・和文である。
八手・和文は――珠のような男の子は――産声をあげた瞬間から、蛸神様にとって大切な『器』とされた。成長しなければ、齢15くらいにならなければ、完全には『器』として機能しないだろうけれども、ゆっくりと馴染ませていけば今までで一番の『依代』になるに違いない。蛸神様はにょろにょろと、うごうごと、父親の頭の中で触腕を踊らせながら『その瞬間』の時を楽しみにしていた。神様にとって時間とは無聊を慰める為の道具にすぎない。蛸神様は男の子に加護を与えた。蓄えてきた『もの』の全てを包むかのように、押し付けるかのように。しかし、まさか、その行為がほんの少しの運命の悪戯を招くとは……蛸神様にとっても想定外だったのである。おぎゃあ、おぎゃあ、依代は兄となったのだ。
八手・真人――弟の方は――蛸神様の予想していた通り、加護がなく、出来の悪いものであった。蛸神様だけではなく兄の方も如何やら『そのこと』に、うっすらと気付いていた様子で、成程、生じてくるのは必然、庇護欲である。兄ちゃん……兄ちゃん、ねえ、あたま、なでて。母親よりも、父親よりも『兄』を求める方が、呼ぶ方が、早いだなんてひどく将来が心配になるのではないか。蛸神様の頭痛も虚しいもの、よしよしが、何分も、何時間も繰り返される。えへへ……兄ちゃん。兄ちゃん、だいすき……。他の仔よりも、他の人間の仔よりも、あらゆる事柄が遅かった。足も遅いし、勉学も下から数えた方が早い。友達を作るのも苦手でいつも、いつも、独りぼっち。いじめがなかったのが奇跡と思えるほどに――いや、きっと同情の面が強かったのだろう。だけども、弟には――いつだってお兄ちゃんがいた。兄ちゃん……兄ちゃん……おれ、おれ、つかれたよ。大丈夫、僕が真人のことを守るから。ああ、かわいい。かわいらしい弟だ。かわいくて、いとおしくて、たまらない真人だ。真人には、僕がいてあげないと、ダメなんだ。兄ちゃんが守ってあげないと……。これは純粋な感情なのだろうか。まるで、神のような、蛸神様のような感情ではないか。仄暗いものを抱えながら――ぬるま湯に浸からせようとするかの如く――八手・和文は八手・真人を甘やかすのであった。たとえ世界が地獄であろうとも、たとえ世界が楽園であろうとも、たとえ世界が無数にあろうとも、この、兄弟愛だけはひとつで、永久のものとしなければならない。
人間とは――生物とは――楽を追い求める『もの』である。守ってくれる人が近くにいた。近くに居て、ももたれかかっても、文句のひとつも出てこないのであれば、嗚呼、堕落とやらに嵌まっても仕方がないのではないか。甘い、甘い蜜を吸い、溺死した者は愈々、生きる術までも奪われるのか。……兄ちゃん、俺、また面接落ちちゃった……。数年後、八手・真人は無職だった。それも、バイトの面接からも弾かれるほどの――ダメにダメに塗り重ねた『かわいい』として。父親も母親もこの世にはいない。そんな状態で弟を守れるのは兄だけ。ああ……僕は、かわいい弟を、これからも守れるんだ。僕がいればきっと、真人はずっと甘えてくれる。なんでも、世界は本当に複数あって、危機に瀕しているらしい。世界を守る事が真人を守る事に繋がるなら――蛸神様、僕は頑張れると思うんだ。
弟を守るために力をくれた優しい神様。
僕を使い潰してくれても、構わないから。
どうか、真人を生涯、守れるような依代にしてください。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功