青空にはためく、心の色
メゾン・ド・エデンの屋上。
そこでは今日も爽やかな青空が広がっていた。
初夏の風は心地よく、柔らかな日差しも心を綻ばせる。
午睡にも丁度いいかもしれない。
けれど、少しだけ独りでいるには物足りない時間と空間。
水藍・徨(夢現の境界・h01327)は空に視線を向けることもなく、物静かな様子で椅子に座って『Elpis/エルピス』と書かれた自由帳ばかりを見つめていた。
「…………」
深く被ったフードの奥にあるのは、物静かな金の双眸。
情動の揺れ動きが見えないのは幼さ故か、それとも内気な気質か。
或いは欠落のせいだろうか。
それでも自由帳の頁を指先で捲る瞬間だけは、僅かな感情が垣間見えた。
何も心に抱かなければ何も書き記すことなんて出来ないのだから。
そうしてまた穏やかな風が吹く。
時間の流れと、とある人物の訪れを告げるように。
可憐な少女の貌をした蓼丸・あえか(lil bunny・h01292)が屋上に出て来たのだ。
「~~♪」
囁くような歌声は、そよ風のよう。
焼き菓子めいた柔らかく波打つ茶色の長髪に、とろりと睡たげな菫めいた色彩の眸。どちらも甘い色彩で見る者の優しい心地を届ける。
溢れるようなフリルとレースに包まれた装いも、まるで夢の国の姫君であるかのよう。
可愛らしい靴もこつ、こつと一定の旋律でと小さな足音を響かせていた。
けれどもあえかは、夢の世界の住人ではない。
誰かと一緒にいきる、ひとりの人間。
抱えた籐編みの籠には大きなタオルとシーツ。一目で洗濯に来たと分かる様子。
それから小さな布製の肩掛けに、ポットと紙コップ、クッキー缶と入れてあるのは気持ちの良い青空の下で、誰かと一緒に午後のお茶を楽しみたいから。
ひとりでは心が寂しいでしょう、と。
あえかはとろんと柔らかく微笑んで、空と周囲を見つめる。
初夏の青空はやはり気持ち良い。
こんな天気なのだから、屋上では真っ白なシーツやタオルが幾つもとはためき、まるで薄雲がひとの傍で泳いでいるよう。
と、そこによく見知った白い少年の姿を見て、あえかは物静かに囁いた。
「こんにちは、こうくん」
小さな声なのに、ふるりと不思議と鼓膜をよく震わせる。
その特徴的な声に、徨もはっとして顔をあげた。
「あ……こんにちは、あえか」
指先で自由帳を止めながら、おずおずと徨は続ける。
「今日は洗濯、ですか?」
「うん、お洗濯日和だもの」
そういいながらあえかは、爽やかな日差しと風を受けて、にっこりと笑ってみせた。
「シーツもタオルも、ひなたぼっこしたかな、って思ったの」
とても柔らかなあえかのウィスパーボイスは、その貌と色彩とあいまって夢のような甘い心地を抱かせる。
優しく、優しく。
ふわり、ふわりと踊るように袖と裾を翻して。
「こうくんはお絵かき? それとも日記かしら?」
「僕は、えっと、自由帳に物語を書いていて」
「うん、うん」
内気さ故に言葉に詰まる徨に、柔かな視線を送って大丈夫、先を続けてと促すあえか。
優しさを受け取った徨も、焦りを落ち着かせて言葉を続けた。
「……今日は、その内容の一部を詳しく考えよと思っていたのです」
恥ずかしそうに指を栞がわりに挟んで閉じた自由帳を見遣る徨。
そんな徨に、あえかは明るく穏やかに声色を震わせた。
心に届けと。
「物語を考えているの?」
それは決して恥ずかしいことじゃない。
とても、とても嬉しいことなのだから。
「わあ、すてきね。こうくんは物書きさんなのね」
とても、とても素敵なこと。
あえかが思わず胸の前で両手を握り、こくこくと頷くぐらいに嬉しいこと。
だって、生きたいと。
こうありたいと願って、夢見る心が、希望があるということなのだから。
何も見ずに閉じこもっているのではないのだ。あえかはそれが嬉しくて、思わずふわりと笑みを広げる。
そんなふたりはメゾン・ド・エデンのお隣さん同士。
南棟の409号室で暮らすあえかは、隣の408号室の徨の事を少しだけ心配して気にかけている。
何しろ最初の頃の徨は生活力が皆無だったのだ。
ひょんな事からあえかが先生、徨が生徒のような関係となった。日々の生活で必要なことを教えたり、ごはんのおすそ分けをしていたりする。
ゆっくりでいい。それでも、料理とか簡単なことから。
日々を自分のリズムで生きることをあえかは教えて、受け取った徨は少しずつ自分らしい暮らしというのを始めていた。
自由帳に想像と物語を書くように、この世界で自由に自分の生活と暮らし、そして未来を紡いで良い。
その為の方法を少しずつ、少しずつ。優しさと共にあえかは徨へと教えていた。
だからこそ、自由帳に綴っただけもの物語でも徨の心の中に何かがある。こう在りたいという願いがあることがあえかは嬉しくて、嬉しくて。
焼き菓子のような甘やかさと幸せを乗せた貌を綻ばせるのだ。
徨はやはり少し恥ずかしい。
でも、あえかという先生が笑って、認めて、喜んでくれることがやはり嬉しかった。
ふんわりと柔らかくて小さくて、可愛らしくて穏やかなあえか。
でも手際よく洗濯を済ませていくのは、やはりひとりの淑女。
「シーツとタオルが乾くまでお茶をしようって思ってたんけれど、こうくんもどうかしら?」
屋上に設置されたテーブルに、紅茶のはいったポットとクッキー缶を置くあえか。
小首を傾げながら、徨の金の瞳を緩やかに見つめる。
「紅茶を飲みながら、こうくんの考えてるお話を聞かせて欲しいな」
甘やかな菫色の瞳が伝える、優しげな気配。
だってほら、と白魚のような指先で紙コップをなぞると。
「あのね、ちょうど紙コップが二つ重なっていたの。ほうら」
ふふふと微笑み、片方だけ使われなかったら悲しいでしょう。寂しいでしょうと童話を読むようなウィスパーボイスで続けていく。
「ココアのクッキーもね、きっと食べてもらえる人が増えて喜んでいるわ」
こんっ、とクッキー缶をノックするように小さく叩いて、あえかは徨の返事を待った。
ゆっくりと。決して焦らせずに。
徨のペースで、ひととおしゃべりすを望む心が花開くようにあえかは待つのだ。
「えっと……お茶、ですか? はい、別に構いませんが……」
そうして自分から望むからこそ、より楽しくなれる。
ひとと関わることを、徨はこれから自分から求めていける筈だから。
「じゃあ、少し待ってね。いま、美味しい紅茶をいれるから」
小さくて可憐な先生としてあえかは頷き、香りの豊かな紅茶をふたりぶん用意して、クッキーをそえていく。
はじまるのは他愛のない世間話。
けれど徨の言葉をしっかりと待って、その反応をゆっくりと受け止める会話。
徨が一息落ち着く都度に話しかけてくるあえかの言葉と声に、徨は胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
紅茶のおかげかな。
美味しいココアのクッキーのおかげかもしれない。
「胸が、温かいです」
「うん、うん。よかったわ」
徨はそれがひとと語らう嬉しさだという感情だと、まだ知らない。
あえかも言わない。指摘しない。
いずれ自分で気づいてくれた時、一斉に花開くものなのだから。
喜びや嬉しさは、誰かに与えて強制するものではなく。
受け取った言葉の花束から、自分で見つけていく色彩なのだから。
「……そう、いえば。今日は、こんなにいい天気なんだ」
ようやく気づいたように徨は空を見上げた。
あまり意識をしていなかったから気づかなかった。
清々しいほどの青空に、気持ちの良い風が吹いている。
そんな自然の当たり前だって、自分で気づかなければ見えないもの。
だからずっと、ずっと、あえかは待つのだろう。
教えながら、徨が世界の美しさに気づいてくれる日を。
たまには、こういう日もいいな。
そう思う徨が、望む日々を求めてくれる未来をあえかは瞼の裏に描いて。
「ほんとうに、とってもいい天気ね。おひさまも、まぶしいくらい」
ふるり。ふるり。
焼き菓子めいた甘い色の髪を靡かせる。
「風が涼しくて気持ちいいわ」
そうしてしばらくの、柔らかな静けさ。
心と感情が落ち着いて、風に撫でられ光に癒やされていくような心地を抱きながら。
ふたりは、また言葉を綴る。
「そういえば、こうくんって、お洗濯はばっちり?」
日常生活を生きる為の先生としてあえかは尋ねていく。
「あ、その、いつも潜在を入れて回すだけで……最近、洗剤がなくりました」
「じゃあ、お茶の後に、一緒にお買い物はどうかしら?」
その前にお茶を楽しみましょうと、徨が慌てないようにと彼のコップにゆっくりと紅茶を注ぐあえか。
華やかな香りが、ふたりの間に漂う。
「詰め替え用の洗剤とか、柔軟剤とか。ね、柔軟剤を使うと洗濯ものもふわふわになって喜んでもらえるの」
「そうなんですか? ……そう、ですね。買い物、一緒にいきたいです」
希望を、願いを口にした徨。
自覚していない、ちいさなちいさな微笑みを見せて一緒に行きたいと示していた。
こうして、生徒が育つ。
心に水を注いで、感情という種が芽吹き、希望という花が咲くまで。
「ふふ、楽しい時間はまだまだ続くみたい」
沢山の笑顔と笑い方、喜びと楽しさを教えるように。
ゆっくりと、ゆっとくりと、あえかは紅茶を注ぐ。
青空にはためくのは、まだ真っ白な心。
あなたの希望が、誰かの希望に。
あなたの笑顔が、誰かにの幸せに。
望んだ|明日《いろ》へと繋がっていきますようにと、あえかは瞼を閉じて祈る。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功