君の笑みだけで、世界が愛しくなる
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夜風がふわりと、風鈴のように肌を撫でていった。
広い屋敷の奥、夜会の喧騒を離れたテラスには、月光とランタンの淡い光が揺れ、静寂がやさしく舞っていた。
「――ここ、静かでいいな。こっち来て正解だったぜ」
疾風が笑い、霊菜の手をそっと引く。
背後ではまだ、ホールから音楽と笑い声がかすかに聞こえる。けれど二人のあいだには、もっと静かな、特別な時間が流れていた。
「本当に。ああいう華やかなの、苦手ではないけれど……あなたとこうしている方が、ずっと好き」
霊菜はやわらかく微笑んだ。月の光が金の髪を滑り落ちるように照らし、彼女の瞳の奥に淡い光を宿す。その目には、外の世界のどんな光よりもずっとあたたかな灯が映っている。
疾風は、その目に見入っていた。まるで吸い込まれそうな、深く穏やかな水面のようで。何度見ても飽きることがない。何度見ても、「また、見たい」と思わせられる。
「……なあ、霊菜。踊ってみるか?」
「え?」
「いや、オレたち、こういうの慣れてないけどさ。なんか、ちょうどいいだろ。誰も見てねえし、変でも気にしなくていい」
照れくさそうな笑みを浮かべながら手を差し出す疾風に、霊菜は一瞬目を丸くしたが、すぐにふふっと笑ってその手を取った。
「ええ、いいわ。あなたとなら、たとえ足を踏まれても、ね」
「そっちがオレの足踏んでも、絶対怒らないからな」
「優しいわね、旦那さま」
ふたりは自然と体を近づけ、疾風が霊菜の腰に手を添える。霊菜は胸元に手を置き、そっと視線を合わせた。
音楽はなかった。けれど、風が鳴っていた。森のざわめき、虫の声、夜の吐息――すべてがふたりの鼓動に溶け合って、やわらかなリズムになっていた。
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「一、二、三……あれ、こっちだっけ?」
「たぶん、こっちね」
「お、おう……!」
わずかによろけながらも、ふたりのステップは確かに重なっていく。滑らかではないけれど、ぎこちなくもない。
それは長く連れ添った夫婦ならではの、自然な歩幅。互いの息を知っているからこそできる、即興の調べ。
霊菜の呼吸が、疾風の耳にふわりと届く。その音が、まるで子守唄のように心地よかった。
「なんか……オレ、こんなふうにちゃんと向き合って踊るの、初めてだな」
「私も、そう。だけど……悪くないわ。すごく」
霊菜は軽くスカートのようなドレスの裾を翻し、疾風の周りを一歩くるりと回る。その動きに合わせて風が舞い上がり、彼女の長い髪が一瞬、光を帯びたように揺れる。
疾風は思わず見惚れた。
「……なんだよ、綺麗すぎて心臓に悪いって」
「ふふ。だったら、責任取ってくれる?」
「もちろん。オレの嫁だぞ?」
軽口を交わしていても、目はまっすぐだった。こんなに見慣れた顔なのに、今はまるで初めて出会うみたいな、新鮮な「好き」がそこにある。
霊菜はそっと疾風の胸に手を当てる。鼓動が、自分のそれとぴたりと重なっているのを感じた。
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「ねぇ、疾風」
「ん?」
「……踊りって、もっと難しいものかと思ってた。でも、あなたとなら、簡単に思えるわ」
「オレもだよ。お前と一緒なら、たぶん、どんなことだってできるって気がする」
風がそっと吹き抜ける。ドレスの裾が揺れ、疾風のコートがなびくたび、ふたりの影がひとつに溶けていく。
そのとき疾風がふと足を止め、霊菜の手を握ったまま視線を落とした。
「……なあ、霊菜」
「なに?」
霊菜が小首を傾げる。その瞳には、月光よりもやさしい光が宿っていた。疾風は少しだけ口元をほころばせて、遠い記憶を撫でるように言う。
「昔、お前が笑うだけで、なんか救われた時あったなって思い出した」
霊菜は驚いたように目を瞬かせ、やがてふわりと笑った。
「今も、笑ってくれると嬉しい?」
問い返す声は、そっと胸に触れるようなやさしさを含んでいた。疾風は頷き、彼女の指を包む手に力を込める。
「当たり前だろ。今日の笑顔、宝物にする」
ただの言葉ではなかった。それは本音であり、誓いであり、何よりも彼女に向けた真心だった。
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「今日、来てよかった」
霊菜が呟くように言った。
「オレもだ。お前と踊れて、ほんとに良かった」
そのまま霊菜は、疾風の肩にもたれかかった。踊る足は自然と止まり、ふたりはただ、そっと抱き合う。
静かだった。風も、音も、言葉すらも、今はもういらなかった。
ただ寄り添って、確かめ合う。
いくつもの季節を共に越えてきたふたりの、その先にまだ続く未来が、そっと見えた気がした。
夜空には、ひときわ明るい星が瞬いていた。
それを見上げた霊菜は、疾風の胸に小さく呟く。
「……この時間、ずっと続いてくれたらいいのに」
「続けようぜ。何度でも、何度でも。オレたちが望む限り、ずっと」
疾風の声は低く、けれど確かだった。霊菜は頷き、そっと目を閉じる。
愛という旋律は、音がなくても流れ続けていた。
その夜、ふたりの心は言葉以上に深く、重なり合っていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功