五月十四日――刻まれたその日に
五月十四日。
呪われた運命が刻まれた日付だった。
僅かに湿った風が吹き抜ける。
雨が降るのだろうか。
もう遠い何処かでは降り始めているのだろうか。
クラウソニア・ダニー・ヴェン・ハイゼルダウンタウン(イッパイアッテナ・h02382)は灰色の双眸を空へと向け、小さく溜息をついた。
世の中とは儘ならない事ばかりである。
自分にはどうしようも出来ない事ばかり起きる。
それが戦禍の中であればなおさらで、クラウソニアの身体なんてその象徴。
色んな人間のパーツ組み合わせて作られたデッドマン。
ひとにはどうする事も出来ない『死』というものを、それでもと繋ぎ合わせられた存在。
忘れられない――私の命より大切だったから。
忘れたくない――君を忘れ果てた俺なんて意味がないから。
渦巻く思いは数多とあり、どれひとつとて解決する様子などありはしない。長く綴られたクラウソニアの名前は、悉くがこの身体のパーツの元の持ち主たち。だが、その名を幾ら呼んでもその心が応えることはない。
難儀なものだ。
だが、それがひとというものなのだろう。
結果としてクラウソニアは√ウォーゾーンの各地の任務へと行くようになった。
資源を持ち帰り、情報を偵察し、場合によっては戦って。
そうして動く死体が、誰かの情念で繋がれた肉体が、誰かが生きる事を助ける。
……その筈だった。今日までは。
「そろそろ、工兵殿に報告へと戻ろうか」
五月十四日。クラウソニアの誕生日である。
工兵殿ことユタ・アリアロード(空を見ていた・h01414)へと本日の報告と同時に、自分の誕生祝いとかこつけてご馳走を作ろうと背負い袋の中に食糧を積み込んでいく。
何しろユタの健康生活はあまりにも宜しくない。
放っておけばカロリーバーとゼリー飲料がお友達。よく噛むことも、味わうことも忘れてしまうのは、ひととして不健康そのものだろう。
「|デッドマン《おれ》に言われたら、もう終わりだろうよ」
クラウソニアは何処か楽しげに言うが、迫り始めた暗雲の気配に気づけずにいた。
拠点基地へと戻るものの、肝心のユタは朝から行方知れずと聞かされる。
そこで今日が、五月十四日という自分の誕生日が、ユタのAnkerであるクラウソニアの左腕の持ち主の命日だと知るのだった。
嫌な予感がする。
誰にも言わずに姿を消すなんて、らしくない。
脳裏に過ぎったのは自殺の可能性。
基地の周辺にはいないだろう。
戦場を死地に選ばないのなら、静かな場所を墓場として選ぶだろうと推察して、クラウソニアは近くにある湖へと走り出した。
星空が綺麗なのだと、ユタから教えられた場所だった。
これほどまでに綺麗なのに、ひとが訪れないのは秘密なの場所なのだろう。なのに、どうして自分に教えたのか。
クラウソニアが尋ねると、ユタはとても寂しげな貌で囁いた。
「あなたたぶん、踏み荒らさないでくれるから」
あれはどれぐらい前だっただろう。
あの時には既に、墓場としてあの湖を選ぶ事を決めていたのかもしれない。
ただ、クラウソニアには自分の眠る場所を知っていて欲しかったのかもしれない。
「知らねぇよ!」
五月十四日。
この日はクラウソニアが、ユタの手で作られた日。
運命のような、呪いのような始まりの日。
ユタの持ち物を見つけたクラウソニアは迷うことなくゴーグルをつけ、ジャケットや拳銃を放り棄て、痕跡として泡の浮かぶ湖へと飛び込んでいく。
潜り続けた先にあるのはユタの身体。
左手を伸ばして引き揚げつつ、メスや拳銃、ジャケットなどの重石となるのは右手で剥いでいく。
生きてくれ。
少なくとも、今はまだ生きてくれ。
その一念でクラウソニアはユタに繋げられた腕を伸ばしていく。
ユタを死から抱きかかえる左腕。
それはユタが「彼」を殺して、切りだしたものだというのに。
……………………
………………
…………
絶望は隣にあった。
ユタが気づかないだけで、息遣いを感じるほどの傍にあったのだろう。
√能力者となる前のユタは工兵として、デッドマンの開発にも関わっていた。
死体を利用する、倫理などない実験を続けていた。
まともな精神で行える筈もないのだが、当時のユタは感情が希薄だった。だからこそ冒涜とも、自滅とも云える実験を、効率と探求の元に積み重ねていた。
ジェネラルレギオンとしても優秀で、一切の狂気にも蝕まれる様子もないユタ。淡々と敵を討ち、味方の死体を繋ぎ合わせていく彼女の姿を、誰かは『機械よりも機械のよう』と口にしていた。
なんて皮肉。
機械と戦い続けているから、こんな事をしているのに。
だが、そんな言葉を言ったのが誰のか。気にならず、覚える必要も感じず、ユタは受け流していた。
それもある日のことまで。
ユタは√能力者となった為なのか、何故か感受性が弥高になり、常に憂いと悲しみを湛えた眼差しで戦場を見つめ続けていた。
絶望に、悲しみに。
倫理と良識の尊さに、脆い感情がひとを助けるということに。
ようやく失ってから気づき、ユタは紫色の瞳で空を見上げる。
かつてその隣には、ひとりの同僚がいた。
ユタが優秀な兵士であるように、「彼」もまた優秀。
研究者としてもユタが優秀なように、「彼」は兵士だけではなく裏切り者としても優秀だった。
それは一種の二重スパイ。
抵抗組織として「彼」が裏切り者となったことを、ユタは√能力者として覚醒してから知らされた。
だがそれは遅すぎた事だった。
何しろ、ユタが「彼」を殺した後に知らされたのだ。
「どうして……」
絶望は隣にあった。
ただ機械のような心のせいで気づかなかっただけ。
√能力者となって感受性というものを得て、ようやくユタは自らの行った罪深さを知る。
同僚である「彼」に少しでも躊躇いを抱いていれば。
ようやく今になって抱く彼を殺してしまったことへの後悔、未練、贖罪。その百分の一でも感じていれば、きっとこんな事にはならなかった。
心を押し潰す罪悪感で鬱々とした日々を過ごすユタが迎えた、五月十四日――呪いと運命の刻まれた日。
それは「彼」を殺した日付。
ああ。だからこそなのか。
√能力に目覚めて最初に造ったデッドマンに、「彼」の左腕を利用した。
「どうして……あんな事をしたのかしら……?」
死を、死として葬ることなく、縋り付いて利用した。
左利きだった「彼」。
元々、右利きの人間と左効きの人間の腕を使うことで、より精度の高いデッドマンが造れるかと試作していたソレに取り付けた。
それもまた五月十四日。
ハッピーバースデーとして祝うにはあまりにも皮肉で血塗れな一日。
それを「クラウソニア・ダニー・ヴェン・ハイゼルダウンタウン」の誕生日としてしたのだ。
しかも後悔と罪悪感を消す為にやったのに、訪れたそれからは更にユタの心を削り続けるばかり。
誕生日は祝福すべきである。
けれど、ユタにとってそれより「命日」だった。
ユタが自分の手で、「彼」を殺めた事実を再確認させ、噛み締めさせる日付。
自分で殺めた。
だというのにユタは未だに「彼」に縋る自らの心が浅ましく、クラウソニアを、その左腕をAnkerとしたことを深く悔やんでいた。
ほんとうに、たった一歩。
行動を変えていただけで、こんな今はなかった筈だった。
どれほどに絶望が傍にあっても、そちらへと踏み込む必要はなかったのだ。
だが愚かさに、弱さに――人間らしさが故に、ユタはそちら側へと墜ちてしまった。
せめてなのか。クラウソニアを「いつか自分を殺すためのAnker」という役割に縛り付けた。
だがクラウソニアは自由に、楽しげにと各地の任務に言って帰って来る。
生きている。
心も、身体も。
そして、自由に未来へと羽ばたけるのだ。
ユタとも、「彼」とも違って。
「ああ。私は、何をしたんだろう……」
少しずつ、少しずつ。
有り得たかもしれない|可能性《ゆめ》を見て、ユタは自分の犯した罪咎に心が潰されていく。
そして耐えきれなくなったその日も、やはり五月十四日。
ユタはお気に入りの星空が綺麗に湖に、身を投げる事にしたのだ。
「悔いるのは終わりにしましょう」
生きる事。呼吸を続ける事。
感情が揺れて、悲しみと苦しみに押し潰され続ける事。
それは終わりなのだとユタは湖の傍に立つ。
以前に言った通り、クラウソニアはこの場所を荒らすような事なんてしないだろう。
せめて、この命が終わった後。
骨となった時には、あの美しい星光がこの身を包んでくれるだろう。
そうなればいいなと、「彼」を殺した時にはなかった感受性で死後を思う。
ユタは遺書さえ残さなかった。
湖の傍にと置いたのは「たった一枚の思い出」と、クラウソニアの得意料理り「スープ」が入った水筒に、プレゼントした「ツギハギ迷彩服」だけ。
工具も装備もそのままに、湖水の中へと身を投げた。
――冷たい。
まるで昔の私の心のようだと、口や鼻から肺に入り込む水に思う。
苦しい。辛い。溺れていく。
でも、それが終わりになるなら構わない。
ぼこぼこと泡を吐き出し、重さのままに水底へと沈む。
もう戻れない。戻らない。
ああ、終わるのだと外からの光も遠のいて、意識が霞んだとき。
白い左腕が、ユタの身体を掴んで引き揚げる。
それは「彼」が迎えに来たのだろうか。
それとも、「彼」がもっと苦しめと言っているのだろうか。
いいや。
そんな自分の後悔と悲しみより、向き合うべきものがあると分かっているのだけれど。
そんな現実へとユタは「彼」、或いはクラウソニアによって引き戻される。
……………………
………………
…………
必死の心肺蘇生のお陰か、ユタは意識を取り戻す。
大量の水を吐き出し、貪るようにと呼吸を繰り返す。
クラウソニアがそんなユタの姿に良かったと思えたのはほんの一瞬。
直後には沸騰するような怒りが湧き上がる。
どうして、こんな事を。
まるで|自分《クラウソニア》なんてどうでもいい。
全てを放り投げ、楽になりたいというよなことを。
――俺は、工兵殿を苦しめたというのか。
左腕を握り絞めながら、それでもとクラウソニアはユタに尋ねた。
「どうして、だ」
怒りに震えるクラウソニアの声。
どうしてこんな事を。
「教えて、くれ……どうしてだ」
掠れるようなクラウソニアの声は、懇願するようでもあった。
ユタの紫の瞳が微かに揺れる。
とても苦しそうに、そしてごめんなさいと唇が紡ぐ。
「あなたを自由にしたいと思った」
Ankerという役目で縛ることなく、クラウソニアは自らの人生を歩んで欲しかったのだと。
絶望と後悔、罪悪感ばかりの自分よりも、貴方の為に――死にたかったのだと。
うっすらと、悲しみの色を乗せてユタは囁く。
「√能力者だから、死ねないのに」
直後、一切の躊躇いもなくクラウソニアは右の平手でユタの頬を打つ。
衝撃はユタの心をも揺らし、一瞬だけ呆然とさせる。
そんなユタの肩を掴み、クラウソニアは真っ直ぐに眼を見つめて叫ぶ。
「俺から役目を奪うんじゃねえ!!」
その役目とは――繋がりでもあるのだから。
「この『手』で殺してほしいっつったのはお前だろうが!!」
そんな繋がりを、始まりを与えてくれたのは、工兵殿だろう。
奪わないでくれ。断たないでくれ。
お願いだから、工兵殿との最初の繋がりを、関係を、始まりを過ちだとしてなかったことにしないでくれ。
「そのために造って、そういう役割を与えたんだろうが!! 責任を感じるなら、俺に役目を果たさせろ!!」
灰色の眼に、悲しみと怒りを溢れさせながらクラウソニアは叫び続ける。
ユタの心に届くように。
絶望。悲しみと後悔、罪悪感。
そんなものに覆われてしまったユタに、まだこの声と腕が届くと信じて。
ああ、そうだ。
クラウソニアは造られてからほどなくして、ユタから直接に√能力者の詳細とAnkerについてを聞かされていた。
そして、クラウソニアを自分のAnkerにしたことも。
――いつか、そのときが来たら、私を殺してほしいの。
だからそれまで、死なないようにと。
最初は√能力者のジョークかと思った。自らの死から遠のき過ぎたせいで、ひとの生死観を見誤った笑えない冗談。
かつ√ウォーゾーンらしい笑いづらい、だが生きろというジョークで、死から生まれた自分を激励しているのだと。
けれど、その重さは時と共にクラウソニアの胸の中で増していく。
他の√能力者と任務で交流し、時には報告書を読む中で√能力者にとってのAnkerの重要性を知っていく。
ただならぬ覚悟と想いを向けられているのだと、噛み締めながら生き続けて来た。
例え左腕だけだとしても、重くて大事なものを「託された」のだとクラウソニアは考えていた。
だから恥じないように生きたい。
工兵殿の生き方に、想いに、覚悟に。
工兵殿のAnkerという存在で在れる。
他は全て誰かの死体の借り物だとしても、これだけは自分の最初で、大事なものだと実感出来たのだ。
なのに。
だというのに、それが自由にしたい?
「馬鹿も休み休み言え!」
裏切られた――そんな気持ちが怒りの中で揺れる。
「そんなに死にたいなら、俺を呼べよ。それが俺の役目なんだろ?」
いいや、彼女が生きる上での|Anker《大切な存在》にはなれなかったのだと、自分への怒りさえも湧き上がった。
「いつだって殺してやらぁ」
そう言い切れば、縋り付くようにとユタはか細い声を漏らした。
「なら、今、殺して」
「そいつぁできねぇ相談だ」
「どうして」
まるで子供のような声と眼だった。
聡明なあの工兵殿が、此処まで心を磨り減らしていた。
そんな単純な事実に気づけない。
だから喪いかけたこの日、この日付に、更に過ちを重ねないように。
クラウソニアは自らの思いを真っ直ぐにを綴る。
「俺はこれから自分のために誕生日ケーキを作る予定があンだよ。血塗れの手で作ったモンを食う趣味もねぇし、食わせる趣味もねぇ」
血塗れのハッピーバースデー。
そんなのは過去の話。
今と未来に向かって生きるんだと、クラウソニアはユタの身体を支えて立ち上がる。
「だから今日、あんたに食らわせるのは、鉛玉じゃなくてケーキだ」
大切な誰かだっただろう「彼」の左腕で支えて、料理を作って。
「覚悟しておけ」
五月十四日。
この日付に刻まれた呪いと運命を塗り替えてみせる。
生き続けるという、ただそれだけの事で。
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