√思えば変わりゆく『季節の中に』
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身を打つ雨垂れめいた衝撃が、一つ一つと数える間もなく体温を奪っていく。
動くこともできない。
死にかけている。
体は、どうしようもない。
冷えていく血潮は体に巡らない。血が巡らぬということは鼓動一つ十分に行えぬということの証左に過ぎぬことであったが、それを感じているのは体だけで、心は凍えて固まっていた。
頭でも理解できていなかった。
死が迫っている。
冷たいことは死に近づくことなのだ。
とりとめもない思考ばかりが無駄に頭の中を走り回っている。
先程までは痛くて痛くて仕方なかった背中の痛みも、今は鈍くなっている。痛いのは嫌だ。なら、十分ではないか。
そう思う。
もういい。
捨て鉢になる思考。
視界の端であじさいが雨粒を受けて揺れている。
たくさんの花を束ねたような姿をしている。多くを持っている。多くを得ている。おれにはもうなんにもないっていうのに。
たった一つ持ち得ていたいのちすらもなくそうとしている――。
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目を覚ます。
ふわりとした香りが鼻腔をくすぐって、口を開く。
体が、動く。
その事実に、おれは自分でも驚いてしまっていた。身をもたげると、背中に痛みが走って思わず声を出していた。
「あら」
その声に気がついたののか、気配が揺れるのを感じて面を上げると、おれの視線とかち合う桜色の瞳が見下ろしていた。
「おかげんはいかがですか? 背中の傷は塞がっているはずなのですが、まだ無理をしてはいけませんよ」
そう声が降り注ぐことに驚きは隠せなかった。
何が一体どうなっているのだろうか。
あの雨の中、おれは死ぬはずだった。死んでしまうはずだったのだ。
だが、背中の痛みは否応なしにおれに生きていることを実感させるように、じくじくとした痛みを訴えている。
生きているから痛いのだと言うようだったし、痛いから生きていることをやめないのだとでも言いたげな痛みだった。
煩わしいことだ。
けれど、声を上手く発することができなくて、かすれた声しかでなかった。
桜色の瞳を持った者―― 神代・ちよ(Aster Garden・h05126)とは名乗らない。その人は、白い髪を揺らいて手を差し伸べた。
頼りない指先。
白い指先が遠慮がちにおれの額に触れた。
「ゆっくりおやすみになってくださいね。まだ此処に居てよいのですから」
柔らかな布か何かに包まれていた体を無理矢理に起こす。
おれは、どうしてこんなことになっているのかさっぱりわからない。
また一つ声を発しようとして、喉がくしゃくしゃになってしまう。
「……なぁ」
「まあ、素敵な声。もう一度、お聞かせ頂けますか?」
「にゃあ……」
瞼を一度、二度と瞬かせる。
桜色の瞳も同じように瞬かせていた。
「綺麗な瞳の色ですね。金色と青色。左右で瞳の色が違う……あなたは他の人より彩りを多くお持ちなのですね。とても鮮やかできれい……」
「……」
おれを見下ろす、桜色の瞳こそきれいだと思ったが、体をよじるとまた痛みが走る。
「ああ、まだ駄目です。ゆっくりと静養していってください。何も心配はいりませんからね。ええと、お名前、なんておっしゃるのでしょうか? あなた、とお呼びし続けるのは、すこし呼びづらいですから」
そこで初めておれは名前を尋ねられているのだと理解した。
名前。
ないわけではないが、今は伝える術がない。
項垂れるように、おれを抱える桜色の瞳持つ者の掌に額を押し付けることしかできなかった。
名前。
小さな猫の体躯は窮屈だったが、別に気に留めたこともなっかった。
『クロエ』と呼ばれたこともあった。
けれど、それは。
「そうだ。クロさん、なんていかがでしょうか」
おれの名前が決まってしまった。
否定する気もなかった。
そんな嬉しそうな顔をして呼ばれたことなんてなかったかもしれない。胸に灯った暖かさは、生きることを渇望する生命の脈動よりも、熱を持っていた。
その熱が心臓を動かしている。
脈打つ心臓が送り出す血潮は、雨に打たれていたことすら忘れさせるように力強い。
活力がみなぎってくるようだった。
「温かい……よかった。もう傷も痛くはないでしょう? ここでゆっくりお休みしてくださいね。もう一度目を覚ました時ならば、もう大丈夫でしょうから」
ゆっくりとおれの背中をさする手の心地よさに瞼が重たくなっていく。
「だから、おやすみなさい」
体が浮かぶ。
眠りたくない。
どうしたって、この人と離れたくないと思ったのだ。
思惑なんて何一つなかった。ただおれの魂が言っているような気がしたのだ。この人と離れてはならない、と。
今離れてしまったら、また会えるかもわからない。
だから、と延ばす手。
けれど、おれは手を伸ばせない。前脚だけだから。人とは違う形だから。人に離れぬ■■■■だから。
この時ばかりは、己の身を呪った。
どうして、と泣きたくても鳴けない。
何一つままならない身を優しく包む暖かさだけが標だった――。
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紫陽花の季節を思う。
おれ―― クロ・オルタンシア(ténébreux・h07540)は、歩き続けている。
二本の足で。
後ろ脚じゃあない。
すらりと伸びた二本の足で大地を踏みしめて歩いている。
人の姿になれるようになった喜びは、あの日、あの時、おれを救ってくれたあの人に報いる事ができる喜びに勝ることはなかった。
ただ、一つの喜びだけが胸をいっぱいにしていた。
それは誇らしい気持ちでもあったのだ。
人に化けることができる。
見た目は少年そのものだ。
もっと強い姿になりたかったけれど、今はこれが限界なのだ。
でも構いやしない。
あの日、おれを救ってくれたあの人のためになにかしたい。力になりたい。
あの桜色の瞳の人に会いたい。
偶然か必然かと問われたら、きっと必然なのだろう。
おれの金色の瞳と青色の瞳は、異なる√を捉えている。あの人がどこにいるのかはわからないけれど、己の足はしっかりと歩む事ができている。
「おれは、つよくなったんだ」
もう背中の傷も痛まない。
もう力で負けることなんてない。
体は雌のものかもしれないけれど、見かけはもう立派な、おとこなのだ。
なら、負けない。
もう無様な姿はあの人に見せることはない。
「きっとあのひとのために、おれはつよくなったんだから。ごおんをおかえししなければ」
人は、おれのことを強がりだと言うかもしれない。
でも、何度だって言う。
関係ない。
おれはおれの意志であの人に報いたい。
おれのように涙を溢して死にゆく定めを甘んじて受け入れなければならないなんてことをしなくてすむようにしてさしあげなければならない。
それがおれの恩返し。
「だからきっと、まっていて。おれがきっと」
あんたを幸せにしてみせる。
世界誰もがあんたを悲しみに囚えようとしたって、どんな運命の糸だって振り払って見せる。
だから。
走る。走り出す。あの桜色の瞳と白い髪を目指して走る。
しなやかで力強い足取りと共に、一所懸命に、あのひとを目指して、同じ紫陽花の季節に走る――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功