咲き誇る桜の色は
たった一つの違和感を除けば、幸福に満ち溢れた日々だった。
優しい人々。
暖かな日差し。
豊かな自然。
恵まれた環境が桜の種を芽吹かせ、育て、幾年も経て人の|姿《うつわ》と|人格《かたち》を与えた。
後に夢見月・桜紅と名乗ることになる少女は、まだその時別の名を名乗っていた――けれど村の人々からのあだ名は、もっぱら「桜のお姉ちゃん」だとか、そんな他愛もないものだ。
たしか名付けてくれたのは、元気で無邪気な村の子供たち。
人のカタチを取る前、喋ることも出来ず見守り続けていた彼女の周りで、子供たちは駆け回ったり、木登りをして遊んでいた。
小さな村。都会から遠く離れ、文明と自然が共存した素朴な暮らし。
不自由なことは沢山あったはずだ。だが、村の人々がそれを嘆いたり、悲しんでいる姿を見たことはない。
そんな彼らが、彼女は大好きだった。今もその村の名は、思い出は、心の奥にしまってある。宝石箱のような、綺羅びやかな記憶だ。
彼女が人間を大好きになったのは、間違いなく彼らのおかげだ。
だからこそ、彼女の苦悩もまた晴れることはないのだが。
●
「桜のお姉ちゃん、見て!」
少年は懐から丁寧に折りたたまれた紙を取り出し、彼女に広げてみせた。
「わあ……」
描かれていたのは、一枚の絵。決して上手とは言い難い、幼い子供らしいシンプルで書き殴ったような、言ってしまえば稚拙な絵だ。
しかし、彼女は感動した。巧拙などどうでもよくなるぐらいに籠められた想いが、彼女の心にひしひしと伝わった。
「これは……私なのか、な?」
「うん!」
クレヨンで一生懸命に描かれた桜の木は、この村に咲き誇る彼女の本体だ。今も子供たちが木を囲うように追いかけっこしたり、枝のたもとに腰掛けて歌ったりしている。彼女は、そんな彼らの営みをずっと見守ってきたし、今も傍で眺めているだけで幸せな気持ちで一杯になる。
「上手く描けてます、ね。嬉しい……」
彼女は紙を大事に抱きしめ、眼を閉じて幸福感に浸った。熱のない一枚の絵が、ほんわかと胸を暖めてくれているかのような気分だ。
「喜んでくれてよかった! 特にさ、ここが自慢なんだ」
少年は絵の中で咲き誇る花びらを指さした。
「ほら、きれいでしょ? 本物には敵わないけど、たっくさん咲かせたんだよ!」
「頑張ってくれたんです、ね」
「友達にも手伝ってもらったんだ。ここはあいつで……」
少年の得意げな解説に、彼女は笑みを綻ばせた。絵を囲んで、きゃあきゃあと楽しそうにクレヨンを動かす子供たちの姿が目に浮かぶようだ。
本当に素晴らしい、心の底から嬉しさのこみ上げる贈り物だった。
「……お姉ちゃん、どうしたの?」
だからこそ、だろうか。
彼女は芽吹いた時からずっと心の片隅に抱いていた違和感を刺激されてしまった。
「ん? なん、です?」
「なんか変な顔してるっていうか……」
少年は首を傾げた。
「――どうして|そんなに不思議そうな顔してるの《・・・・・・・・・・・・・・・》?」
「……え?」
彼女ははたと自分の頬に触れた。
「私、そんな|表情《かお》してまし、た? そんなつもりはなくて……」
「ううん、嫌そうとかじゃなかったから心配しないでよ!」
気分を害したわけではないのだと、少年は仕草で示した。
「むしろ心配なんだよな」
「……心配、ですか?」
「だってお姉ちゃん、たまにそういう顔して|桜の木《じぶん》のこと見上げてるんだよ」
「…………」
彼女はふっと足元がなくなったような、頼りない心地に襲われた。
自分では、そんなことをしているつもりは一切なかった。
しかし|少年《かれ》が指摘するのならば、事実なのだろう。つまり、他の子供たちも同じことを思っているはずだ。
それほどまでに、自分は自分自身を訝しんでいることがあるらしい。
問題は、彼女にそんな自覚は一切なかったということ。
胸の片隅にずっと隠れた、正体不明の違和感。名前さえ付いていない、何に対する違和感なのかも自分ではわからない漠然とした落ち着かなさ。
それが原因なのだと、彼女は本能的に理解した――ゆえに、余計不気味だ。自分は、|何に対して不思議がっているのだ《・・・・・・・・・・・・・・・》?」
「ごめん、ね。なんでもないん、です」
彼女は村の大人たちの真似をして、曖昧な微笑みでごまかすしかなかった。
はっきりと明言しようにも、違和感の中身も対象すらもわからないのでは、他人にうまく説明出来る自信がない。
漠然とした思いを吐露したところで、幼い少年や子供たちを逆に不安がらせてしまうだけだろう。
事実、違和感はささやかなもので、普段は何も気にならない。ここで穏やかに過ごすことに、何の憂いもないのだ。
「ふーん……?」
大人の機微のわからない少年は不思議そうに首を傾げていたが、そこに友達の誘いの声がかかると、あっさりとそちらに興味を惹かれた。
「ま、いいや! お姉ちゃん、それあげる!」
「ほんとう? ありがとうござい、ます」
彼女は莞爾と微笑み、感謝を示した。
「大切にします、ね!」
彼女は大事に紙を折り畳み、肌身離さず持ち歩くことにした。
●
それからある日を境に、夢を見るようになった。
夢といっても、別に取り立てて突拍子もない物語があるわけでも、賑やかなわけでもない。
ただ、ひどく不安にさせられる落ち着かない夢だ。
そして夢の中に現れるのも、決まって同じ風景だった。
黒い桜。
何年かけて育ったのか、途方もつかないほど立派で厳かな雰囲気に包まれた、大きな桜の木。
|彼女《じぶん》とは似ても似つかないその有り様には、しかし何処か鏡で自分を見ているような既視感を覚えさせられる。
おそらくは村のきょうだいや親子の、あの己には馴染みのない親しさが、きっと|これ《・・》なのだろう。
だが、黒いのだ。
幹や枝ではない。そこに芽吹いた花びらが、全て墨で染めたように黒いのである。
冬の訪れで枯れた草木や、病に冒されて息絶えた花々とはまったく違う。
染めたというのも、厳密に言えば語弊がある――|それ《・・》は最初から黒いのだと、彼女は何故か確信していた。
むしろそれが自然なのだと。
桜の周りには、誰もいない。
何もない。
ただ見渡す限りの土があり、果てのない水平線が広がり、雲一つない空には月だけが煌々と輝く。
風が黒い花びらを散らし、当て所もなく舞い散っていく。ただそれだけ。他の誰かが現れたり、桜が枯れたり、声が呼びかけることもない。
なのに何故か、心がざわついた。
まるで、自分の顔をすぐ間近でじっと無表情のまま見つめられているような、得体の知れない不気味さ。
本当に一番気になるのは、同時に抱く奇妙な安堵と納得だった。
腑に落ちた、という言葉をそのまま具体化したような気持ち。
村の手伝いで片付けをしたり、畑の手入れをしたり……営みに触れて、きちっと整頓された部屋を眺めたり、規則正しく苗の植わった田畑を眺めている瞬間と酷似した気分だ。
|これが正しい姿なのだ《・・・・・・・・・・》と、自分でない何かが囁いているようだった。
そこに恐怖も違和感もないことが、何よりも不思議で、そわそわとさせた。
●
このあたりの記憶は、彼女にとっても曖昧だ。
なにせ思い出すのは苦しく、はっきりとしたきっかけがあったわけでもないのだから。
ただ、変化の兆しが何よりもまずあの黒い桜の夢だったのは間違いない。
「おい。今ぶつかったよな?」
「あ? ぶつかってきたのはそっちだろう」
村の広場で、そんな諍いの声を耳にすることが増えた。
「あんた、昨日うちの畑に入って作物を持っていったな? 返してくれ!」
「何を人聞きの悪いことを。むしろおらんとこの田んぼを踏み荒らしたのはおめぇだろうが!」
難癖に近い、無根拠な疑い。
「ねえ聞いた? あそこの家の噂」
「隣の奥さんと遊んでるって話でしょう? やあねえ」
「どっちもふしだらったらないわ。汚らわしい」
勝手な決めつけによる風評、醜聞、そして陰口。
「あいつ今日もほっといて遊ぼうぜ」
「なーんか遊んでても楽しくないんだよなあ」
「ていうか前からずっと気に入らなかったよ」
仲睦まじかったはずの子供たちの亀裂。具体性のない不和。
これまで、そういう争いが皆無であったとは言わない。
人が集まれば格差が生じ、人間同士で合わない部分は生まれる。時に思い込みや誤解、あるいは単なる不機嫌や日の巡りで喧嘩になることも当然あった。
ただ、彼女が覚えている限り、村の人々はそういう小さなトラブルを協力して克服してきた。
小さな共同体であるがゆえに、一丸となって助け合う強さと優しさがあった。
最後にはお互いの非を認め、謝り、元通りになった。そんな立派な大人たちの姿に学び、子供たちも仲間外れを出したりせずに支えあえていたはずだ。
だからこそ、心から愛したのだ。その営みを、在り方を、本当の強さを。
「皆さん、どうして……こんな、ことに」
子供たちと肩を並べて大事に手入れしてきた畑が、無惨に荒らされている様に、彼女は打ちひしがれた。
獣の仕業ではない。明らかに人の手によって塩が撒かれ、あるいは土を暴かれている。
一番不可解で痛烈だったのは、それが一人二人の手で行われたわけではないということだ。
暮らしに寄り添い眺めてきた彼女だから、わかる。これは何人もの村人が――それも結託したのではなく、各々で感情的に鬱憤をぶつけた結果なのだと。
「お前がやったんだな」
「あいつが悪い」
「あなたが原因でしょう!?」
村人たちは互いに肩を突き、睨みつけ、ありもしないことを罵詈雑言に変え疑いを向けた。
その中のどれが事実で、どれが勘違いだったのかはどうでもいい……いや、どうでもよくなっているのだ。彼らにとっては。
「やめて……やめて、ください! みんなでまた、実らせればいいじゃないです、か……!」
彼女はたまらず叫んだ。いくつもの視線が、彼女に注がれた。
それは、今まで彼女が一度も見たことのない眼差しだった。
猜疑。
恐怖。
憤怒。
憎悪。
村にそぐわぬ悪感情の渦。およそ見たことなどほとんどないはずのどす黒い感情。
だというのに。
(「――どうして私は、こんなに落ち着いているの?」)
まるで、|悪感情《それら》を向けられるのが当然だとでも、自分の知らないもう一人の誰かが囁いているようだった。
これが自然なのだと、何処かこの世でない場所から声が届くようだった。
「あの木がいけないんだ」
「いいや、お前だ」
「あいつが全て悪いんだ」
バラバラの、しかし同じ黒に染まった声が混沌を生み、やがて血みどろの争いに発展した。
「――……ぁ」
気が付いた時、彼女は焼け野原に佇んでいた。
あの営みも、幸福も、何もかもが消え失せていた。
煌々と輝く月が見下ろす中、彼女は振り返った。
そこには桜が咲いていた。
あの夢と同じ、黒い桜が。
「ああ、あああ……!!」
ぱちりと、パズルの最後のピーズが噛み合ったように思えた。
湧き上がったのは記憶だ。
界を渡り流れ着いた一粒の種。人間で言えば赤子に当たる種子――それは他ならぬ自分で、分け与えたのは、あの夢の中の黒い桜だった。
今ならば漠然とした違和感を言語化出来る。なにせ自分は本来、黒く在ることが正しいのだから。華やかな桜色の花びらなど、呪われた|取り替え子《チェンジリング》にはそぐわない。
「ああああ――!!」
彼女は、泣き咽びながら逃げ出す他なかった。
どれだけ目を逸らしても、脳裏に根を張った名は消えなかった。
夢見月・桜紅。与えられたかりそめの名は、その頃の彼女にはなかった。
あったのはただ一つ。
|黒桜《くろう》という、呪われた忌み子に相応しい真名だけである。
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