Calling in the rain
季節は夏。学校の図書館にいた天深夜・慈雨(降り紡ぐ・h07194)は、帰りの下駄箱で足を止めた。どうやら課題に悪戦苦闘している内に、辺りはすっかり暗くなっていたらしい。外では雨が降っているのか、銀色に光る雨粒がドアの向こうを過ぎっていくのが見える。
(……雨)
夏の生温い空気を和らげるようにしとしと降り続く雨は、少し優しい感じがすると慈雨は思った。このまま濡れて帰っても構わないかなぁ、なんて一瞬思ったけど、鞄には折り畳みの傘が入っている。
「~♪」
パサリ、と音を立てて、傘を広げる。
雨も好きだけど、傘を開くときの花ひらくような感覚も、慈雨は好きだった。
それから――傘の上で、雨粒が次々と、軽やかな音を立てて弾けていくのも好き。
傘を忘れてきた生徒たちが、悲鳴を上げながら駆け出していくのを横目に、慈雨はのんびりとした足どりで、家への道を辿り始めた。
友達と一緒の時も多いけど、今は夏休みで、慈雨ひとりの帰り道だ。
いつもは何気なく通り過ぎる通学路も、こんな雨の降る夜だと、普段と違って見える。昼間の熱気が、名残りのように地面をゆらゆらと漂っていた。落ちた雨粒は靄となって辺りに広がり、煌めく街の灯りをじんわりと滲ませている。
――どこか輪郭の定かではない、夢のような光景。雨が降ってる日だけ迷いこむ、ふしぎな世界を歩いているようだった。ふと繁華街の向こうに目を遣れば、輝くネオンが雨の雫を受けて、紫陽花色のグラデーションを描いている。
ふふ、と慈雨は微笑むと、濡れたアスファルトの上で軽く飛び跳ねてみた。
通り過ぎる車のヘッドライトに、淡い紫の髪が時おり浮かんで揺れる。そのうち繁華街を過ぎると、灯りや喧騒は遠ざかり、辺りには暗闇と雨粒の音が戻ってきた。
『……あのね、雨が降ってる日だけね。学校の帰り道にある、公衆電話の前を通るとね』
そうしていると、慈雨の脳裏にふと、誰かから聞いた噂話が過ぎった。
街灯もぽつぽつとまばらになった、ミラーのある三叉路の近く、公衆電話のボックスが寂しく浮かび上がっている。慈雨は中に入ったことがないけれど、通学途中に目にしているので、すぐに分かった。
『誰もいないのに……電話がりぃんりんって鳴るんだって』
――かつん。りぃん。かつん。りぃんりん。
(あれ?)
今、靴音に混じって、機械じかけの電話の音が聞こえてきた――ような。
ボックスに近づいて、透明なガラスの扉をそっと開けてみる。途端に昼間のむっとした熱気が押し寄せてきて、りぃんりんいう音が大きくなった。
街中に置かれた電話が、鳴り続けている。訝しく思うよりも先に、慈雨は興味を惹かれていた。だってお話の続きは、こんな感じだから。
「それを取ると、もう会えないひととおはなしできる――」
うたうように囁くと、傘を足元に置いてボックスに入る。人ひとり入るのがやっとの中には、明るい緑色をした電話が備え付けられていた。鳴りやむ気配のないベルに促されるように、そっと受話器を取って耳を澄ます。
「もしもし……」
おもちゃの電話で遊んでいるみたいで、何だか懐かしい。
――電話の向こう側には、だれがいるんだろう。
そう言えば、のろわれちゃう、なんて話も聞いたような気をしたけれど。
受話器の向こうの、雨音のようなノイズに慈雨が耳を澄ませていると、遠くからかすかに、自分の名前を呼ばれたような気がした。
『――慈雨』
あっ、というように、少女の青い瞳が煌めいて、何度も瞬きを繰り返す。
「パパ? ……パパだよね?」
はしゃいだ声をあげたその向こうで――もう一度、慈雨、と名前を呼ばれた。
「ママも一緒なんだ。ひさしぶりっ、慈雨はちゃんと元気にやってるよ~」
仕事の関係で、遠くにいる両親だった。きっとそうだ。こんな風に自分の名前を呼んでくれるのは、パパとママで間違いないから。久々に声を聞けたことが嬉しくて、慈雨は最近あった出来事を、電話越しに次々とふたりに報告する。
学校が夏休みに入ったこと。ちゃんと宿題もやっていること。一人暮らしでもきちんと自炊して、外食はほどほどにするよう気をつけていること。
「ああ、でもおなかすいた……ってときは、お惣菜いっぱい買ってきてね、」
あれもこれも。言いたいことが次々に浮かんできて、ぜんぶ伝えられないのがもどかしい。たどたどしい口調で、それでも懸命に話を続けようとする慈雨に向かって、電話の主は何度もやさしく相槌を打ってくれた。
「そだ! こないだ、すごくきれーなパフェを食べたの! こんど帰ってきたら、みんなでいっしょに食べにいこーね」
『楽しそうに、しているんだね』
「うんっ。でも、しばらく会えないでいるから、ちょっと寂しいかな」
もう会えないひととお話できる、なんて噂はうそっぱちだった。だって慈雨のパパもママも今は遠くにいるだけで、もう会えないわけじゃないもの。
「ママとパパはお仕事いそがしーから、会えないのは仕方ないよね~。……そう言えば、最後にお話をしたのは、いつごろになるのかなぁ」
――あれ? 何かが、ひっかかった。いつからこうなのだっけ。
ずっと一人で、両親の帰りを待ち続けて、どれくらい経ったのだっけ。
思い出そうとすると、頭がもやもやしてくる。その内に、ズキンズキンと脈打つような痛みが走って、慈雨の目の前がさあっと暗くなっていった。
「あ、あ」
ざあ、ざ、ざざざざざ――通話口の向こうで雨が降っている。
受話器を握る手がカタカタと小刻みに震えて、冷たい汗が滲んできた。
だめ。これ以上、考えたらだめだ。そう思うのに、霞む視界の向こうに何かが見えた。
黒と白の鯨幕。どこからか漂ってくる、お線香の匂い。
ぼんやりとしたまま周囲を見回せば、ちいさな祭壇の上に写真があった。
慈雨の大好きな、ママとパパ。
黒い額縁のなかで、ふたりが微笑んでいて――、
――プツン。そこで映像は途切れて、慈雨の意識は強制的にシャットダウンされた。
数拍を置いて再起動。それからゆったりと瞬きをして、辺りを見回す。
「あ、れ。……私、何してたんだっけ」
そこで自分が、受話器を握りしめたままだったことに気づいた。
そうだ、公衆電話の噂を確かめようとして電話に出たんだった。それからの記憶はぼんやりしてるけど、誰かから自分の名前を呼ばれたような――。
(……うーん)
通話口からは無機質な機械音が繰り返されるだけで、待っていても何かが起きるような気配はなかった。しびれを切らして、受話器を置く。
いつしか雨は止んでいた。外に置いたままだった傘を手に取ると、慈雨は軽く水滴を払ってから丁寧に折り畳む。
「そういえば、お腹すいたなー」
どこかで少し、ご飯を食べていこうかなあなんて考えながら、再び少女は帰り道を辿り始めた。歩きながらふと、思い出したように声を上げる。
「……そうだ。パパとママ、次帰ってくるのはいつかなぁ。話したいこと、いっぱいあるのにな~」
夏休みのことや宿題のこと。それに、この間食べたパフェのことも。だけど慈雨がいい子で待っていたら、二人ともすぐに帰ってきてくれるはずだ。
「きっとね、……きっと、そうだよね」
欠落を抱えた少女の靴音が、雨上がりの小径に無邪気に響いて、それも次第に遠ざかっていく。
――どこかで、電話の鳴る音が聞こえた気がした。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功