d(r)ive to the aquarium
●「水族館に行こっか」
8月。|青柳《アオヤギ》・サホの眼下には窓際で寝ころんだまま逆さまに世界を見上げている|雛杜《ヒナモリ》・|雛乃《ヒナノ》。耳をぺたんと床につけて、尾もぼさっと。このままではいけないと、そんな言葉がサホの口を突いて出た。それは年の離れた友人──弟分への心遣いか。
あとは思い立ったら吉日改め翌日。早朝からレンタカーに乗り込んで二人。少し離れた街へと、ひと夏の小冒険!
似たような山、似たような車、似たような標識。
カーナビを横目で見やれば、しばらくは同じような道が続くだろうと。助手席の雛乃が心配になったところ、愉快な歌声が聞こえてきた。
「すいぞっくか~ん♪」
水族館の歌。声色からするに退屈とは無縁な様子。
「さっかな~♪ いっるか~♪ くっらげ~♪」
「雛くんは水族館で何を見たいのかな?」
「シロナガスクジラです!」
体長約30メートル、体重約190トンの存在が、水槽にミチミチと詰まっている光景がサホの脳裏に去来した。
「クジラは、夏休みでお出かけしてるかなー」
「クジラもドライブですかー」
がっかりした様子はなく、それなら仕方がないとばかりに雛乃は続きを歌いながら車窓を見つめる。
そして、トンネルに入れば夜が来たと驚き、トンネルを抜ければ夜明けだと笑う。
(はしゃいでるなあ……)
と、すぐ隣を過ぎ去っていく轟音に車内の音を塗りつぶされ、思わずハンドルを握る手が強張る。追越車線を走る車たちは、どこか忙しないことで。止まりさえしなければいずれ目的地まで辿り着くのにと、サホは文句を言うような気持ちで呟いた。
「私たちは安全運転で行こうね」
しかし、雛乃から返答はない。
気づけば歌も止んで、早朝からはしゃぎつかれて眠ってしまったのかもしれない。これからが本番なのに、と苦笑してちらりと見やれば──青白い顔をして窓にもたれる雛乃。
「気持ち悪い……です」
耳をぺちゃんと畳んで、手足はだらりと。
「大丈夫?」
「口の中が……何か酸っぱい……です」
雛乃が何とか紡ぎだした言葉によって、サホの脳裏に浮かぶ最悪の事態。
直後、二人の車は追い越し車線へ。
唸りをあげて急加速すると、登坂車線の車はおろか、先ほどの轟音集団を追い越して行った。
●大人1枚、中学生1枚
サービスエリアがあって良かった。
無事に目的地へ辿り着いた二人。すっかり回復した雛乃は元気いっぱいに入口への階段を駆け上っていく。
「サホー、イルカが逃げてしまいますよー!」
「イルカは逃げないよー」
チケットカウンターに並ぶことはなく、スマホのQRコードで二人分の入場手続を済ませる。
(あの頃、並ぶ時間が待ち遠しいものに感じたな)
思い浮かんだのは祖父母に頼んで連れてきてもらった記憶。雛乃の背を追いながら、サホは時の流れを思う。
足を進めれば館内はひんやりと暗く。水槽を通じて空間が涼しく照らされている。
順路ですぐに目に入るのは巨大な円柱の形をした「海」。上部から陽光を取り入れているのか、キラキラとした光の帯が不規則に形を変えて来場者を誘っているように見える。二人で確かめるように近づくと逆光の中から近づいてくる影が複数。
「イルカです!」
「おお、たくさんいるね」
興奮したように声を上げる雛乃と、満足そうにその反応を見つめてから水槽に視線を戻すサホ。
中でも二人に近づいてきた二頭は元気に満ち溢れ、競うように、遊ぶように水の中を自由に泳ぎ回っている。
「友達同士ですか?」
「家族かもしれないよ」
すると二頭を制するように、間を割って黒と白の美しい巨体がゆっくりと二人を出迎えに来る。
「クジラです!」
「シャチだね」
この水槽、ひいてはこの水族館の目玉とも言える存在。イルカより一回りも二回りも大きなその存在は、来訪者を観察するようにその場を行き来する。ただ悠然と、ゆったりとしたターンでまた水は動き、光の帯も形を変える。帽子から覗く耳が気になるのか、じっと雛乃を注視しているようにも思える。
「……熊之介より大きく見えます」
「シャチは大きいから、そうかもね」
萎縮したのかヒソヒソ話す雛乃と、それが微笑ましくてつい肯定してしまうサホ。
その言葉に反応したのか、あるいは雛乃が比べようとして呼び出したのか。
突如として二人の後ろにエゾヒグマ──雛乃の護霊、熊之介が立ち上がる。
対抗心を燃やし後ろ足で立って牙を見せている。これ以上ない程の威嚇だ。
「熊之介も負けてないのです!」
一方のシャチは熊之介を見えているのかいないのか、恐れる素ぶりもなく、ただ興味を失ったように身を翻すと、他の来訪者の方へ。
「熊之介の勝ちです!」
去っていくシャチを見ながら宣言と共にガッツポーズを取る雛乃と熊之助。そしてホッと息を吐くサホ。果たしてどうしたものか。昂った熊之介の爪や牙は水族館に傷を残してしまうかもしれない。
そこで一計。
「ねぇ雛くん。熊之介が何か壊さないように、お兄さんできるかな?」
ちゃんとお兄さんできたら後でごほうびを買ってあげる、と付け加えれば元気な返事。
「できます!(ガオー)」
じゃあ約束、とゆびきりげんまんをするが早いか、雛乃の興味は他の魚に移ったのか、いそいそと順路の先に進んでいく。それを追って走る熊之介。 それから、サホは軽く伸びをして欠伸。今、運転で張り詰めた糸が切れたかもしれない。心地よい微睡みも似た充足感を覚えながら、ゆっくりと歩き出した。
●足を付いて泳ぐ
順路の先、通路は水底のように暗い。複数並んだの小さな水槽の中ではポンプの泡に身を委ねるように、クラゲが漂っている。
泳ぐことはなく、ただ漂っている。
こぽこぽ、かぷかぷ。
たったった、のっしのっしのっし。
雛乃の足取りは軽い。追う熊之介も。
里で見たより大きい魚を見るのが楽しい。
またそれらが泳ぐ様が楽しい。
見たことも聞いたこともないものに溢れていて楽しい。
目移りしながら、時には水槽に張り付くように展示を渡り歩く中で、雛乃が特に心を掴まれたのは「緑」の水槽だった。
熱帯雨林を模したと言われるそれは、生い茂る緑と共に様々な生態系を再現している、陸と水とが同居する場所。
「あれはナマズ、あれはカメ……」
見てわかるのはそれぐらいで、他は不思議な、長い魚や三角の魚。見たことなさ度MAXの魚に雛乃は顔を輝かせる。
しかし直後、それらは決してMAXではなかったことに気付かされる。水草のカーテンを突き破るように、突如として現れた──2mはあろうかという巨大魚によって。
「わーーっ!!」
この魚の正体は何か。齧り付くように説明を見たのちに感嘆の声を上げる。
「ピラルクって言うのですね!」
圧巻とも言える存在を前にして高揚しているのは熊之介も同じらしく、再び後ろ足で立ち上がれば、その右腕を音が鳴るような速度で振り下ろす動作を続ける。それは恐らく、鮭獲りの所作。
「あっ! 駄目です熊之介! 獲っちゃ駄目ですよー!」
サホと約束したじゃないですか、と声に出したところで急に感じる静寂。
「あれ……? サホがいません!」
迷子の二文字、もといサホ迷子の四文字が雛乃の脳裏に浮かんだ。
果たして、サホはそれよりも前の展示で足を止めて。
通路の途中、クラゲの隣。言わば通路の光源として設置されているような細々とした展示。
眺めていれば、館内の声も、足音も、ポンプの音もどこか遠く。ただ耳に近付くのは、揺蕩い、雫を落とし、波紋を描く水の音。
水槽の中で青白く照らされる「タツノオトシゴ」とリンクしたかのように、四肢から──やがて全身に至るまでの奔流を感じる。
(ああ、水に浸されていく)
(このまま溶けて、混ざった先に、果たして何が見えるのだろう)
それは──
「サホー!!」
どん、という衝撃と耳慣れた大音量。
「もう迷子は大丈夫ですよ!」
逡巡。迷子というのは誰のことを指すのか。覚醒したばかりで朦朧とする頭で考える。心配そうな声の主、雛乃の表情を鑑みた結果、ようやく自分が迷子扱いされていることに気づくとサホはおかしそうに笑った。
「ごめん、ありがとね」
今のは疲労が見せた幻覚か。再び水槽を見やるとそこには──クラゲが浮いているのみ。
「あとあっちでイルカショーをやるみたいですよ!」
「イルカショー? そうだね、見に行こうか」
浮かび上がりかけた違和感は、雛乃の言葉により遮られ、意識の底に沈む。今は小さな違和感よりもこの時間を楽しまなければ。
「最前列がオススメと聞きました!」
土俵に最も近い席が砂被り席なら、イルカショーの最前列とは水かぶり席。
その事実を知ってか知らずか、雛乃は期待に満ちた瞳でサホを見つめている。
「雛くん。すごく水飛沫が飛ぶんだって」
「イルカは頭が良いから大丈夫ですよ!」
行きましょうと言い終わるより前に駆けていく雛乃。
何も大丈夫じゃないよ雛くん。
イルカは頭が良いと教えたのは自分自身であるが故に頭を抱える。でも、チケットレスになるぐらい時代が変わったのだからイルカショーも変わっているのかもしれない。
ショー開始時刻を伝えるアナウンスが流れる中、一縷の望みにかけて、二人は最前列へ向かった。
●伝統と格式
「びしょ濡れです!」
結論から言えば、望みは断たれた。
買ったポンチョで防ぎきれない量の水が二人の顔に直撃した。ただ、濡れて笑う雛乃の姿を見ているとこれが正解だったのかもしれない。
その後の展示はタオルで頭を拭きながら歩くことになったものの、雛乃は青空をバックにしたイルカのボールタッチが気に入ったようで、見終わった今も、高く飛ぶための姿勢を考えている。
「雛くん。ジャンプもいいけど、お土産」
狐耳にかかったタオルをわしわしと掴むようにして引き止めると、そこは順路の終着点にある土産売り場。
大小様々な魚や動物のぬいぐるみ。ペーパークラフトやキーホルダーのほか、かわいい菓子類や、普段使いしやすそうな文房具などがお出迎え。
「お土産買ってもいいんですか?」
喜び勇んで突撃する雛乃。その視線は一点に注がれていて、迷うことなく辿り着いた先はぬいぐるみコーナー。職人のように目を細めると、ふわふわと、それでいて大きなぬいぐるみの選別を始める。その視線の先にあるのは、カワウソ。
「へーカワウソもいるんだ」
コツメカワウソってこんな丸かったかなとサホが怪訝な顔をしていると、雛乃が大きなカワウソを引っ張り出してきた。
「これがいいのです!」
うわでっか。思わずそんな声が溢れるぐらいには大きい。サホはこほんと咳払いをして、チラリと値札が書かれているであろうタグを裏返す。うわたっか。
「……いいよ。バイト代入ったから、買ってあげる」
これは、きちんとお兄さんができた約束のご褒美だからとサホ。
「やったー! ありがとうなのです!」
イルカもかくやという今日一番の大ジャンプ。
「カワウソ太郎、熊之介と仲良くするんですよ」
「そこはカワ之介とかじゃないんだ」
●雲は流れて
水族館を出たところで急に思い出す空腹の概念。
すぐ近く、海を臨める広場にはキッチンカーが出店していて、二人とも匂いに釣られるようにして辿り着いた。
依然として太陽は翳ることがないものの、時折吹く潮風は火照る体を冷やしてくれる。海が見えるベンチはこれ以上ない夏の特等席に思えた。
「はい、これ雛くんの」
両手を合わせていただきます。
「いいお肉使ってますねー!」
両手にカツサンド。一口食べただけでご機嫌な雛乃。空には鳥も飛んでいて長閑な休日。
「あ! クジラですよ!」
「クジラ?」
海の方にそれらしきものは見当たらない。
「アレですよほら!」
立ち上がると、上に向かって、手に持ったカツサンドで方向を示す。
「……空?」
その先には、鯨──に見えなくもない、大きな雲。
「クジラのお出かけですね!」
その「クジラ」に向かって大きく手を振る雛乃。そのまっすぐな様子にサホは屈託なく笑う。
「クジラまで見れて、最高だね」
刹那、掲げられた手からカツサンドを掠め取っていく鳥──鳶。
「あーーーっ!!! 鳥が!! 後ろから!! 待ってくださーい!!」
叫びながら鳶を追いかけていく雛乃と、笑いを堪えながら立ち上がれないサホ。
それはとても幸せな時間で、今も鮮明に思い出せる。
そんな、ある夏の日の思い出。
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