ただ一つ、願い続けるのは
「ただいまっ!」
|大海原《わたのはら》・|藍生《あおい》の元気な声が家中に響いた。玄関口でカジュアルデザインの靴を脱ぎ、揃えているところに、キッチンから母が――否。
「おかえり、藍生」
顔を出したのは母親の|古歳《ことせ》……ではなく、父の大海原・|新汰《あらた》だ。
「あれ、父さん? 母さんは?」
藍生はパチパチと瞬きした。いつもなら母が温かく迎えつつ手洗いうがいをしきりに催促して、爪の間まできっちり綺麗にしたことを見せる流れなのだが。
「ちょっとな。まあいいから、荷物片付けてこい」
「そっか。うん、わかった」
もし第三者がいれば説明を省略したことを疑問視する者もいるかもしれないが、二人にとってはさして変わったやりとりではない。おそらく旧友に誘われて出かけたとかそんなところだろう――そういう時、父は微に入り細を穿った説明はしない。藍生もさして気にしない。そもそも彼は泊りがけで家を空けていたのだから、こうしたことはあるものだ。
とはいえ、帰ってきてからの殺菌消毒は、母のおかげですっかりルーチンになっている。
宿泊用の荷物を片付けてからリビングへ戻ってくると、父は変わらずキッチンにいた。
「飯は食べてきたのか?」
「うん、ご馳走になったよ」
「ちゃんと感謝はしただろうな?」
「当然――あ、でもちょっと小腹は空いたかな」
「そうか。なら丁度いい、待ってろ」
藍生は椅子を引き、定位置に腰を下ろす。既にキッチンからはカレーの匂い。母が作り置きしておいたものを温めていたのだろう。
レッスン中は厳しく妥協のない新汰も、日常生活ではよくいる父親だ。そして男親というものは、得てして気軽に飯を出すものである。時折、栄養バランスを考える母が少し顰めっ面をして父を窘めるが、あまり成果はない。どこの家庭でもよくある話。
「ほら、出来たぞ」
ほどなくして、少なめによそわれたカレーがテーブルの上に出された。
「やった。ありがとっ」
「言っておくが、夜には|古歳《あいつ》も帰ってくるからな。バレないようにしろよ」
「わかってるって。いただきまーす」
両手を合わせてスプーンを取り、湯気の立つカレーを頬張る。一日経ったことで味わいは藍生好みになっていた。ほろほろの肉が口の中でほどけるのが心地よい。
大して空腹なつもりはなかったが、大好物を出されると自分でも意外なほど入った。そしてなにより、たった一日二日でも、慣れ親しんだ家から離れていたことを実感する。こよなく愛する「いつもの味」が、帰宅の喜びを時間差で高めた。
「水分補給も忘れずにな。熱中症になったら大変だ」
「そのぐらい、忘れてないんだけどなあ」
でもありがと、と付け加えつつ、差し出されたコップを受け取り水を飲み干す――ぐっと胃に物が流し込まれる感覚。藍生はほう、と息を吐き、次の一口を頬張った。
窓の向こう、ベランダからは蝉の鳴き声。外から差し込む平日午後の日差しは今日も強い。
「今年の夏は一段と暑いな」
向かいに座った新汰が、しばらくして口を開いた。
「だねぇ。昨日なんか夜も蒸し暑かったよ」
「なんでも、10月まで30度超えが続くらしいぞ」
「ひえ……新学期始まったら服とかどうしよ」
「ん?(服の数は)十分あるだろ?」
「そうじゃなくて、秋物いつ出すかってこと」
「ああ――確かにな。……そうか、新学期か」
「うん」
「……で? 今回はどうだった」
「どうって? 楽しかったよ」
「あちらさまに失礼なことはしてないだろうな?」
「してない、してない。っていうか、こないだもおんなじようなこと言ってなかった?」
「そりゃあそうだ。子供を預けるんだから心配にもなるさ」
「また子供扱いしてー」
「俺にとってはいつまでも子供……って、このやりとりもしたか」
「そういえばそうだね」
カレーを食べながら、親子は他愛もない会話を交わす。
最近のこと、交友関係のこと、その他愚にもつかない日常の話題。
母のいないリビングでふたりきりというのは、中々珍しいことだ。そして――これもやはり男親の定番ではあるが――新汰の会話の切り出しはやや唐突で、脈絡がない。過保護な母とはまた違う感じだ。たまに少しムッとしてしまうことはあるが、生まれた頃からこうなので藍生は慣れきっている。
かと思えば、
「アイスクリ~ム~、アイス~クリ~ム~」
などと(相変わらず)音程の外れた歌を口ずさみながら席を立ち、キッチンから二人分のバニラアイスを持って戻ってくる。
「食うか」
「……これ、なくなってたら母さんに怒られない?」
「奥に仕舞っておいたから、買ってきたのはバレてないはずだぞ」
「じゃあ、証拠隠滅しとかないとだね」
「おう」
大抵、こういう間食はバレる。そして親子揃って並んで叱られるのが日常なのだが、父はどうやらこちらにおいても懲りる気配はないようだった。
藍生は呆れたような顔をしているが、やはり何度やっても秘密の行為はやめられない。共犯者の笑みを向け、吹き出すと、二人は冷たいバニラアイスに舌鼓を打った。
いつもと違う変化は、その日の夕方ごろに起きた。
「もしもし」
遅めの午睡――泊りがけの外出で知らず知らずのうちに疲労が溜まっていたのもある――から目覚めた藍生は、父の声に気付く。
(「電話? 母さんかな?」)
「うん、うん……ああ、そうか。分かった。いや、こっちは気にしなくていい」
なんとなく息を潜め、様子を窺う。だが深刻な会話ではなさそうで、藍生は無意識に胸をなでおろした。
「折角の機会だ、羽休めだと思ってゆっくりな。……ん? あー、うん。大丈夫だよ。藍生? うん、帰ってきて……え? いやいや、してないから気にするな」
(「……母さん、おやつ食べたの気付いてるっぽいな」)
「何? ……本当だぞ? もちろん。だからまあ、とにかくこっちは気にせず、な。うん、いや本当だから。……うん、それじゃ。少し早いが、おやすみ」
(「父さん、誤魔化すの下手だなあ……」)
どうやら母からの叱責は避けられないことに分かりきった諦めを抱きつつも、藍生は通話が終わるのと同時にリビングへ出た。
「母さん、今日は帰ってこないの?」
「――ああ、ちょっとな」
相変わらずの応答。土日の父はともかく、母が一日家を空けるのはかなり珍しい。
「まあ心配ない。まだカレーの作り置きが――あ」
鍋の中に目を落とした新汰が、バツの悪そうな顔で頭を掻く。
「……まいったな」
「?」
藍生はキッチンに周り、ひょいと脇から覗き込んだ。
「あ」
カレーは目減りしており、底が見えかけていた。
視線を新汰に向けると、父は明後日の方に目線をずらした。
「いや、その……お前が美味そうに食べてたのを見てたら、俺も腹が減ってな」
「……これ、母さんが帰ってきてたら大目玉だったんじゃない?」
「だな。運が良かった……いや、そこじゃないぞ問題は」
新汰はシリアスな顔になった。
「今あるものだと……」
冷蔵庫の扉を空け、思案。タイミング悪く、野菜室も種類に乏しい。藍生の体調を気遣ってか、母は手軽に食べれるような冷凍食品などをあまり備蓄しておかないタイプだ。
そして新汰も世の男性諸氏に比べれば家事に積極的ではあるものの、今ある素材から男親子が満足する量の飯を編み出すのは、少し難しい。かといってカレーを平らげると、本来の量から考えて食べ過ぎということになり、間食をしたことが完全にバレる。今残っている分は「夕飯に食べたよ」と素知らぬ顔で言うため残しておくのが妥当だろう。
「……よし」
新汰は軽く手を叩いた。
約一時間(と少し)後。
「「はーっ」」
親子は似た者同士の息を吐き、椅子にもたれた。テーブルの上にはカレーと手料理――ではなく、すっかり空になった寿司パックの入れ物が並んでいる。
「……いいか、このことは絶対に秘密だぞ。墓まで持っていくんだ」
「わかってるって……今日はいい日だなー」
二人とも幸せな幸せな気分に浸る。つまみ食いからの間食、そして勝手な出前の注文……いくら事情があるとはいえ、こんな偏った食事をしたことがバレたらかなり深刻な説教が待っているのは想像に難くない。
藍生は母の作るカレーが大好きだ。だが普段望もうとそうそう出来ない豪勢な食事は、それだけでスペシャル感がある。おまけに寿司!
何より秘密でこっそりというのが背徳感を強めて、いつもとは違う満足感の一食となった。なお、今回は描かれないが、見慣れないゴミ(空きパック)があったことからこのことはあっさり露見し、二人はこってり絞られることになる。
●
食後しばらくして、満腹感も薄れた頃のこと。
藍生のスマホが通知音を鳴らし、何気なく確認し……肩を落とす。
「……はぁ」
「どうした」
新汰に声をかけられ、藍生はぎくりとした。その反応に、父は目を細める。
「……この間の選考結果か?」
「…………うん」
親子の間では、それで十分だ。何故なら――。
「今回も、か」
溜息混じりの新汰の声は、もう聞き飽きたくらいに繰り返されたものだった。
「ごめん」
藍生はぽつりと呟いた。
「謝らなくていい。次のオーディションのことを考えろ。確か来月……」
カレンダーをチェックする。歌唱あるいは演技のオーディションは母がきちんとマーカーで書き込んでいた。そのための練習は当然している。
「二つか。まあ次は――」
「ごめんなさい」
「……どうした?」
妙な感覚に、新汰は息子の様子を訝しんだ。
ソファの上で胡座をかいた藍生は、俯いて表情が知れない。
「俺、全然期待に応えられなくて。オーディションは落ちてばっかりだし、絵もさ……」
「何言ってる。|絵画《そっち》のコンクールもまだ先だろ」
「……でも、結果を出せてないよ」
「そんなのは当然だ。だから何個も予定を入れてるんじゃないか」
新汰は嘆息した。
「それに、歌のことはともかく絵の方はまだまだ未熟だ。あのぐらいでそう簡単に結果を出せると思ってるなら、甘いぞ」
「……」
他意はない。純粋な客観的評価だ。藍生はまだ子供で、新汰からしてみれば今の教育レベルでもまだ加減している。芸術の道はかくも困難で、ライバルはあまりにも手強い。
「……じゃあ、どうしてコンクールに参加してるの?」
「その話は前にもしたぞ。実践経験を重ねることで学びが――」
「俺は朱音みたいには、上手くなれないよ」
リビングに沈黙の帳が降りる。
言ってから、藍生は後悔した。いつもより気が緩んでいたせいか、それともどこか慣れない状況のせいか――だが、一度出てしまえば、あとは……。
「朱音を理由にするつもりか」
「っ」
父の厳しい言葉が、堰を切ったような感情の奔流を妨げた。
「それはやめろ。お前はお前だ。そんな逃げ方をしても、いいことはないぞ」
「……否定、しないんだね。父さん」
「藍生、本当にどうした? 何か悩みがあるなら話」
「あるよ、いくらでも!!」
痛ましいほどの、静寂。
「…………藍生」
「父さんだって、本当は時間を無駄にして気にしてるんじゃないの?」
「……藍生」
「だったらさ、もう無理なんかしなくても――」
「藍生!」
両肩を掴み、じっと己を見つめる父の眼差しを、藍生は見ていられなかった。
「いいか、藍生」
そっぽを向くと、身体が揺すられる。それでも藍生は目を逸らし続けた。
「藍生。こっちを見ろ――見て、くれないか」
もう一度身体を揺すられる。おずおずと、父を見返した。
天井の照明を遮るように近づいた父の表情は、決して険しくなかった。
それが藍生にとっては――自分でも驚くほどに――意外だった。
(「……どうして、そんな泣きそうな顔をしてるの」)
ハの字を描くように歪んだ眉。引き絞られた口元と、哀惜渦巻く瞳。
まだ幼い少年にとって、そこに描かれた感情という名の色彩は、あまりに見慣れず多層ゆえに咀嚼しきれなかった。
父が自分に対して諦めのようなものを抱いている――そんな思い込みのせいもあるだろう。
だが、何故か目を離せない。そしてどうしようもないほど胸騒がせられる。
もっと幼い頃、勉強と称して連れていかれた美術館で妹と一緒に眺めた抽象的な絵画が脳裏によぎった。
(「この画、すごいねえ! たのしくて、かなしくて――まるで、遊園地みたい!」)
ただの曖昧な色彩の集合体にしか見えなかった藍生に対し、朱音は鋭い感性で絵画を読み解き、父がしきりに頷いていたのを覚えている。
「どうしてそんなことを言うんだ。そんなに落選がショックだったのか?」
「……だって」
言ってはいけない。脳裏で誰かが警告する――けれどももう、堰はとっくに切れているのだ。
「だって、朱音は死んじゃったんだよ。俺じゃなくて、朱音が」
「そんな言い方はよせ。それじゃまるで、お前が生きてたらいけないみたいだろ」
「違うの?」
父の|表情《カンバス》が、愕然の一色で塗り潰された。
「……藍、生」
「俺は、本当に生きてていいの? 朱音はもういないのに」
「…………お前、そんなことを」
「母さんも、いつも俺を心配してくれてる。「朱音みたいに病気になったら大変だ」って。だから、俺は」
照明が、夜明けに差し込む光のように少年を照らした。
自らが強く――強く抱きしめられていることを、藍生は遅れて理解する。
……痛いぐらいの抱擁だった。満腹だったせいもあって、少し息苦しさを感じる。
「馬鹿を言うな」
顔の見えない父の声は震えていた。その色の名を少年はよく知っている――いつも寸前で押し殺し、仕舞い込んできたものなのだから。
「そんなわけがあるか。お前が……死んでいいなんて、そんなことが」
「……父さん……」
「二度とそんなこと、言うな。いいか、絶対にだぞ」
絵画のレッスン中のような厳しい口調。
だが声音は震え、か細い。その奥には、悲しみと別のもう一つの音色がある。それもまた、藍生には当たり前のものだった――なのに、見落としていたのだ。
見上げる空が青いことを疑問に思う人はいない。それは生まれた頃から当然なのだから。
父と母がずっと注いでくれていた愛情は、だからこそ少年の目に映っていなかった。
「約束しろ。|もう一生《・・・・》そんな事は言わないと」
「……!」
「頼む……」
哀切の色が声を染め上げ、途切れた。声は押し殺した嗚咽に変わる。
「頼む、藍生……もう、あんな悲しい思いは、俺も母さんもしたくないんだ。だから……」
それが、さらに奥底に張られていた封を破った。
「父さん――!!」
とめどない万色の悲しみが噴出し、藍生は滂沱のような涙を雄叫びのような大きく流し続けた。
ふたりきりの夜。
父と子は泣き続けた――お互いに縋るように抱きしめ合いながら、思うがままに描き殴るように、滔々と。
長い間、ずっと泣き続けていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功