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「おはようございます」
「あら、おはよう……ございます」
 朝。瀬条・蝶番は、部屋を訪れた"使用人"に微笑みかけた。まるでおろしたてのようなキチッとしたYシャツにサスペンダーを掛け、眼鏡の奥に鋭い瞳――けれど、おそらくは相当に努力して穏やかにしている。引き結んだような口元と、凝り固まってしまったような眉間の皺は相変わらずだが、それも最初の頃に比べればかなり柔らかくなったものだ。
「今日は機嫌いいんですね、使用人さん」
「……ええ、蝶番さんの体調がいいようですから」
「それだけで、そんなに嬉しいの?」
「当然です。だってあなたは――」
 "使用人は何かを言いかけ……口を噤んだ。彼は時折、この表情を覗かせる。何かとても辛いものが喉元までこみあげて、けれどぐっと飲み込むような、とても苦しそうな表情。蝶番は、いつもと同じように首を傾げる。無垢な子供のような、不思議そうな顔で。
「……いいえ、なんでもありません。朝ご飯の用意はすでに済んでいます」
「まあ。嬉しいです。いつもごめんなさいね」
「構いません。さあ、食事にしましょう。そのあとは一休みしたら、お散歩でもいかがですか?」
「今日は天気もよさそうだし、そうしようかしら」
 蝶番はダイニングから届く香りに心を弾ませ、歩き出した。

 ――欠落は埋まることはない。決して。
 瀬条・兎比良の欠落は、極めて珍しいことに彼本人ではなく別のモノに……Ankerに作用した。
「もしかしてコーヒー豆、変えました?」
「そうなんです。外国から高品質なものが届いたと……」
 それこそが、今朗らかに会話する蝶番だ。兎比良のAnkerであり、双子の妹でもある彼女は、|兄を認識できない《・・・・・・・・》。

 厳密には、欠落は当然兎比良本人に作用している。彼が『繋がり』を失ってしまったがために、世界でただ独り、蝶番だけが影響を受けた。
 何故彼女だけなのか? ……当然の話だ。ただ「私とあの人は家族です」と主張する|だけ《・・》なら、誰にでも出来る。役所での証明なり、相手の同意なりがなければ、それはただの戯言だ。戯言を心から信じる人間はいない。そして家族の繋がりなど、極論を言えば|他人事《・・・》でしかない。

「あまりお気に召しませんでしたか?」
「いいえ、美味しいからびっくりしちゃって」
「それはよかったです」
 家族以外にとっては。


「おはよう、蝶」
「あら、おはよう兎比良」
 朝。蝶番は、部屋を訪れた双子の兄に微笑みかけた。まるでおろしたてのようなキチッとしたYシャツにサスペンダーをかけ、眼鏡の奥に鋭い瞳――けれど、それはリラックスしている。もしかすると分かるのは世界でただ独り、蝶番だけかもしれない。引き結んだような口元と、普通にしていても皺が残る眉間はもう癖のようなものだが、それでも分かる。家族なのだから当然だ。
「今日は何を読んでたんだ?」
「またその質問? 興味なんてないくせに」
 蝶番は本を閉じて、テーブルに置いた。朝はいつだって蝶番の方が早起きだ。それでいて、眠るのは兎比良が先だった。幼い頃は母めいて色んな物語を聞かせてやったものだが、眠たげな目を擦って「この登場人物は何を考えているのか」だの「どうして彼女は彼を頼らなかったのか」だの、物語の瑕疵を――本人なりに無邪気ではあろうが――逐一訪ねてくるものだから、子供っぽい童話や、矛盾した寓話はあまり読まなくなった。|兎比良《あに》は、|物語《フィクション》を楽しむのが下手なのだ。妹はそう結論付けていた。
 だから彼の毎度の質問は、そういった過去の経緯を踏まえたうえで、半身というべき唯一の家族とコミュニケーションを取りたい一心なのだろう。直接訊ねなくても、そのぐらいのことはわかる。

 家族なのだから。

「私ね、兎比良はもう少し人からどう見られるか考えた方がいいと思うの」
「……何を藪から棒に」
 朝食中、兎比良はむすっとした|ような《・・・》顔で手を止めた。
「身なりには常に気を使っているよ。当然のマナーだ」
「そうじゃなくて……そんな怖い顔していたら、子供は泣いちゃうでしょ?」
「な……」
 兎比良は絶句し、目を逸らした。悔しそうに口角が下がっている。
「……どうしてわかった」
「え?」
「俺が……この間、迷子を案内してあげようとしたら泣き叫ばれたことを、どこで聞いたんだ……?」
 蝶番はしばらくぽかんとして、思わず吹き出した。
「ふ――あはははっ!」
「わ、笑うんじゃないっ。俺はそんなつもりではなかったのに」
「ごめんなさい、だって……ふふっ、ほんとにそんなことになってるなんて」
「知らなかったのか? ……くっ、どういうことなんだ」
 兎比良は何故言い当てられたのかが全くわからないようで、握り拳を震わせ悩む姿にもう一度吹き出してしまう。

「ねえ、ごめんなさいったら。悪気があったわけじゃないのよ」
「……」
「まったくもう。拗ねた時に限って、しかめっ面じゃなくなるのよね」
「……拗ねてなんかいない」
 二人は並んで洗い物をしている。蝶番は怒らせないよう笑いを抑えようとしたが、堪えきれずに肩を揺らした。
「また笑っているじゃないか。何が「悪気がない」だ、楽しんでいるくせに」
「だって……ふ、ふ……兎比良ったら……」
「蝶……!」
 何気ない毎日。兎比良は勉学に励み順調に夢を叶えていた。ずっとこんな穏やかな日々が過ぎるのだろう――いや、兄か自分が誰か大切な人を見つけたりして、終わるのだろうか? それは……少し寂しくはあるが、兄がそうするなら誇らしく送り出そう。蝶番はそう考えていた。

 夢見がちな蝶番の、決して夢物語などと言えないはずの当たり前の空想は、最悪の形で裏切られた。
「蝶番!」
 あの日、兎比良を多くの困惑が襲った。
 血まみれで倒れる妹。荒れ果てた家の中。
「蝶番……しっかりしろ! 違う、すぐ病院に……いや、救急車だ!」
 何が起きた?
 何故こんなことに?
「……そうです、急いでください! 何分でもいい、速く来てくれ!!」
 どうして蝶番でなければいけない?
「いいから! 速くしろ!! 俺のたった一人の――家族なんだ!!」
 誰がこんなことを――。

「……あの、どなたですか?」
 精神的ショックによる記憶喪失。医者はそう結論付けた。
「何を言ってるんだ、蝶。俺はお前の兄だろう。双子の……」
 だが、違う。兎比良には分かる。今まで見えなかった重なり合う√が、己に宿った空想じみた力が、それを示している。
 物語のようなシチュエーション。蠢くモノども。スカウト。選択肢。
「……?」
 何度伝えようと、書き記そうと、人を介そうと、儀式に頼っても、何もかもが無駄だった。
 声も、音も、文字も、図形も、テレパシーも、彼女は決して認識しない。
「……私は、使用人です。蝶番さん、あなたのお世話をすることになりました」
 妹は生き延びた。ならば、己に出来ることはただひとつ。
「これから住み込みで働きます。どうぞ――よろしく、お願いしますね」
 何があろうと、妹を守るのだ。絶対に。


「――……今日は本当に散歩日和だわ」
 寒空の下、蝶番は痣の辺りに無意識に触れる。
「……どうしました?」
「その、私――」
 蝶番は悲しげに微笑んだ。
「双子の兄でもいたらもっと楽しいだろうなって、思いました。不思議ですよね」

「そう、ですか」
 兎比良はほんの少しだけ微笑んだ。
 彼女は、気付かなかった。
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​ 成功

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