√思えばそれは『初恋だったのでしょう』
●√
妖怪は人の儚い美しさにどうしようもなく惹かれる。
散る花のように、瞬く星のように、人は生命を燃やし尽くしていく。
それは妖怪にとって劇薬のようなものであっただろう。
これまでの妖怪としての生き方を一変させてしまうものだった。
蝶の化身もまた例外ではなかった。
生と死の境界を揺蕩う妖は、√妖怪百鬼夜行に迷い込んできた人間の男に強く惹かれた。
何がどうして、と理由をつけることは難しい。
恋とは落ちるものであったからだ。
例え、三日月満ちる酒杯に落ちるのだとしても、もしも、己が身が人に転ずることができたのならば、躊躇いなく男の元へと飛んでいきたいと思うほどだった。
それほどまでに、ただどうしようもなく人間の男の言葉、振る舞い、そのすべてが彼女を虜にするものであった。
「そうまでして、その男がほしいのですか」
問いかけた言葉に蝶妖の姫は頷いた。
どうしても、あの男がいい。あの男でなければならない。
「何故、とお聞きしても?」
簡単なことだ。
儚い生命が熾火のように燃え盛っている。
その火は己が身を焼くだろうが、これが恋い焦がれることだというのならば、きっと正しいことなのだ。
「……わかりました」
理解はできなかった。
だが、求められたのならば、答えなければならない。
例え、己が如何なる叱責を受けるのだとしても、あの方の望みを叶えなければならない。我が身のすべてを捧げてでも成し得なければならない。
恋は盲目というのならば、きっと己もそうだったのだ――。
●√
「わからないの」
「何がです?」
「あなたの語る所の外の世界というものは、そんなにも素晴らしい場所なのですか?」
神代・ちよ(迷子の蝶々・h05126)は桜色の瞳を己に向けている。
あの人の瞳と同じ色だった。
その瞳の色で己を見ている、という事実が心の慰めになっていることなど、この子は知らないだろう。いや、知らなくていいことだ。
これはきっと感傷なのだから。
「ええ。多くの色が世界を彩っています」
「ここも陽の光、影の色、いっぱいあると思うのだけれど」
彼女の言葉に己は言葉を飲み込んだ。
この『虫籠』と呼ばれる牢にありながら、彼女はそう言った。
憐れだと思う。
けれど、同時にこの憐れながらも美しい存在を、この場に留め置かなければならないとも思うのだ。
純血を重んじる妖の血筋に生まれたことが間違いの忌み子。
この√妖怪百鬼夜行において妖怪と人間との混血は大抵、どちらかの気質を強く現すものだ。だが、彼女は違う。
半人半妖。
本来ならば生まれるはずもない存在。
人でありながら妖。妖でありながら人。
その両方の声質を色濃く受け継いだ突然変異種。それが彼女だ。
その美貌はあらゆる種族の垣根を容易く踏み越えさせるものだ。己も彼女の不可思議な魅力に宛てられていないとは言えないだろう。
だが、己は心の真芯を既に焼き焦がされている。
ジクジクと痛む胸の内を吐露することはできない。そうしたからと言って、己に課せられた罪過は贖えない。
あの日、あの人に請われるままに、あの人が恋い焦がれる人間の男と引き合わせた。
過ちの始まりであったが、それがどうしようもなく美しいものに思えてならなかったのだ。
「本当にそんなに外の世界は美しいのですか?」
その罪の結実が目の前にいる。
格子の向こう側で無垢なる瞳で己を見ている。その事実にまた、胸の奥の、臓腑のさらに奥にある火傷のようなものが痛む。
「ええ。とても。あなたが求めるもの全てがあるでしょう」
「それはどんなに素晴らしいもなのでしょう。ちよは、それが叶わないと知っても、あなたの見た世界を言葉で理解しても、恋い焦がれてしまうのです」
夢見がちな少女の言葉に、嘗て在りし日を想起する。
似ていると思った。
揺蕩う白い髪も、桜色の瞳も。
世界が祝福に満ちていると信じて疑わぬ心根も。
あまりにも美しい。
あまりにも純粋無垢。
その時、己は思ったのだ。
もしも、この美しい蝶が『虫籠』という庇護のもとを離れ、悪意と害意に満ちた世界に飛び立ってしまったのならば、どんなことになるだろうか、と。
胸がちぎれるような思いだった。
それは、ともすれば後ろ暗い感情であったからだ。
己に向ける無邪気な笑顔を見るたびに、胸の奥が痛み続ける。
取り返しのつかないことばかりの現実において、それだけが己を繋ぎ止めるものだったのだ。
だが、もう解放されたい。
恋い焦がれ、手に入れたいと思った美しさなんてもういらない。
壊れた鍵は、己の精一杯だった。
彼女は往くだろう。
己の語った、かすかな光を目指して。
己は蜘蛛。
ならば、この絡みつく情念という糸を振り切って、飛ぶといい。
目論見通り、彼女は『虫籠』の外に飛び出した。
きっと彼女が求める所に届くだろう。
その背中が美しく陽光に溶けるのを己は微笑みながら見送った――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功