アンダンテの夜
クリスマスの街は、星の輝きと響きに満ち溢れていた。
ふわりと漂う夜風に乗って、かすかな香辛料や甘い焼き菓子の香りが届く。
行き交う人々には笑顔が溢れ、賑やかなクリスマスの夜を楽しんでいるようだった。
赤いニットに黒のロングコートを羽織った青年、焔はそんな街の輝きを眺めながら、ほぅと白い息をつく。
そして片手に繋いだ先に居る、隣の彼女に目を向けた。
氷のように透ける髪を湛えた氷月は、街の光景を金の眸に静かに映していた。
白のロングコートの裾から、黒と青のワンピースが覗かせて。
首元を温めるマフラーにはかすかな白い吐息が零れ落ちる。
けれどもその様子は、黙って目の前の景色を眺めるだけで、感情らしい反応はほとんどない。
――いつも通りの、彼女だった。
それでも、また。
共に笑い合いたい。失くした記憶がいつか戻ってくれるようにと願いながら。
最近はこうした華やかなお祭りや心が揺れるような場所に、よく出向くようになった。
今日、この街に来たのもそのためだ。
「賑やかそうだな、氷月」
にっかりと笑う焔の顔を、氷月は静かに見つめ返して頷く。
その眸には確かに自分の姿が反射して映っている。
けれど彼女が真に何を感じていたのかは……今の焔には窺い知ることは出来なかった。
手は結んだまま、二人は通りへと足を踏み入れた。
街灯やイルミネーションの淡い光が石畳を照らし、影がゆっくりと揺れながら伸びていく。
立ち並ぶ屋台や店先からは、芳ばしい焼き菓子や煮込み料理の香りが食欲を刺激する。
呼び込みの声や、立ち話の笑い声も楽しげに、けれども不思議と騒がしくはない心地よさで、夜の空に溶けるように響いてゆく。
二人はそんな喧騒の中を、たまに店の前で立ち止まり、また歩き出しながら、静かにこの光景を眺めるように進んでゆく。
そうして暫く歩き回ったとき、焔は少し先に行く人影に目を留めた。
背に広がる白い翼、流れるような金の髪、ふわりと浮かぶその姿に焔は心当たりを覚える。
その迷いは、ちらりと覗く横顔を見た時に確信へと変わった。
「……ノア、さん……?」
気付けば焔は駆け出していた。
手を繋いだままの氷月も、少し身体を引かれながらその後を追う。
そして躊躇うことなく、その人物の腕を掴んでいた。
「えっと……ノア、さん……っすよね?」
咄嗟に駆け出したからか、溢す言葉に荒い息を含ませながら。
「あ、あの…! 俺達、以前あんたに助けられたんだけど……覚えてます、か」
突然、腕を引かれたノアは一瞬きょとんと、眸を瞬かせる。
けれど赤い髪の青年とその隣に立つ銀髪の少女の姿を見て、すぐに表情を綻ばせた。
「え……あ、あぁ…! えっと、火神さんと水鏡さん、だっけ?」
すぐにその名前が出てきたのは、ノアの記憶にはちゃんとこの二人が存在していたからだ。
そのくらい印象深い出会いだったから、なのかもしれない。
「水鏡さん、あの時は平然と歩こうとするからびっくりしたけど……うん、今は本当に痛みも無さそうですね。良かった」
ノアは当時のことを思い出すようにゆっくり言葉を探しながら、氷月の足を見て柔く微笑む。
「あの時は、いろいろと心配かけて、すんませんっした。……次は奢るって約束したから。よかったら今から、一緒に街を回って、くんねぇかな?」
偶然出会えた恩人に礼を返せればと、焔は軽く頭を下げて懇願する。
その様子にノアは遠慮がちな素振りを見せつつも、折角のご厚意を無碍にするのも失礼になると思い、少し考えたあとコクリと頷いて。
「勿論、いいですよ、一緒に回りましょ」
僕も今日は普通におまつりを楽しみに来たんです。と笑顔で返しつつ、ふわりとノアは二人の隣に並び立った。
そんな二人のやり取り視線で軽く追いながら、氷月はノアを見て少し首を傾げる。
どこか見覚えのあるその姿を、静かに金の眸に映して。
焔は手を繋いだまま氷月の隣に、ノアは氷月の反対側で浮きながら二人に歩調を合わせる。
人の流れに押されないように、さりげなく氷月を挟む形だ。
「僕はりんごパイとマグカップが貰えるシチューが気になってるんです。それと、オルゴールとガラス雑貨も見てみたいなって」
二人はどうです? とノアが話を振ってみれば、焔は少しバツが悪そうに視線を逸らしてから。
「――俺らは、特に目的も無ェからさ。あ、それと……敬語も、要らねぇから」
焔の言葉にノアは少し首を傾げて瞬きひとつ。けれども、それ以上深くは詮索せずに。
「うん、わかった! ……じゃあ、まずはパイのお店に行ってみない? そのあとシチューのお店にも行って、一旦どこかで休憩しようよ」
ノアはふわりと浮かびつつ、一歩前進して二人を先導するように振り向いた。
「パイさ、僕はりんご目当てだったんだけど、実は他の味も気になってて。二人が良ければ、みんなで分けっこしない?」
「お、いいっすね。俺らも、賛成……です!」
恩人との会話にいつもの口調と敬語が交じりつつ、どうにも緊張している焔の様子に、ノアはくすりと小さく笑みを零して。
「火神さんも、僕に敬語は要らないので! ノアでいいよ?」
「……っす。じゃあ、そうさせてもらうな」
焔は少し照れ隠しに頭を掻きながら、気恥ずかしそうに、それでもにっかりと笑い返した。
隣で二人の会話を静かに聞いていた氷月も、かすかにコクリと頷いた。
三人はまず、目的の果実のパイ工房へ足を運んだ。
星型にこんがりと焼かれたパイから立ち上る甘くて芳ばしい香りに、ノアがぱっと顔を輝かせる。
「おいしそう~! 僕はりんごパイにするけど、二人はなににする?」
「ん~、俺は……ミートパイにするかな。定番だけど美味ぇし、好きなんだ」
自分の注文を決めたあと、焔は氷月の顔を軽く覗き込み。
「氷月、お前はどれが一番気になる?」
記憶も感情もなくした彼女には、食の好みを聞いても無駄かもしれない。
けれど氷月の意思は少しでも尊重したくて、目の前のパイのどれが興味を引かれるのか、焔は選ぶように氷月を促した。
(パイ……気になる……? よく、わからない)
氷月は焔の顔を一度見上げたあと、ふと目に留まった“カスタード”の文字をゆるく指さした。
卵と牛乳のやさしい甘さ、ふんわりなめらかな食感のカスタードクリームパイ。
その記憶が彼女の中に残っていたかどうかはわからない、けれども自分の意思で選んでくれたことに、焔は少しだけ心の裡がほわりと温かくなる。
「……っし、カスタードだな。んじゃ、俺らはカスタードとミートパイを!」
次に向かったのは星雫のスープスタンド。
マグカップサイズで手軽に楽しめるシチューと、そのままお土産にもなるマグカップが人気のようだ。
星や雪の結晶、ゆきだるまなど、冬らしいデザインのカップが棚にサンプルとして並べられていた。
「わぁ、このマグカップのデザインかわいい~」
「へぇ……これ、持ち帰れるのか」
「ねぇねぇ、せっかくならさ、みんなでお揃いのデザインを買わない?」
今日出会えた記念に、なんて、ノアは笑顔で言う。
焔もそんなノアの提案には、自然と頷いていた。
そうして、お揃いデザインのマグカップに注がれたクリームシチューを三つ注文する。
温かなパイの包みとマグカップを手に、三人は手近なベンチに座って少し休憩することにした。
「寒い時期に食べるクリームシチューって良いよねぇ」
ノアはマグカップシチューをふぅふぅと冷ましながら少しずつ口に運ぶ。
マグカップはもちろん、星型にカットされた具材もかわいらしい。
さらに、シチューを掬うこのスプーンも固めに焼いたクッキーになっていて、食べられるようだ。
「ほんっと、あったまるっすねぇ。……と、氷月。熱いから気をつけろよ」
焔もマグカップで冷えた手を温めつつ、氷月にそっともう一つのマグカップを手渡した。
氷月は二人がシチューを食べる様子を見たあとに、真似するようにそうっと口に運ぶ。
白くなめらかなクリームシチューは、ふわりと心を解きほぐすように体の中に染み渡る。
「――シチューの優しい風味と温かさが、心も体も癒してくれる感じというか……」
「ふふ、それにこのマグカップも、いい思い出になるよね」
「だな、ノアの提案、ナイスだったぜ!」
ノアの軽やかな食レポが場を和ませつつ、シチューで胃も温まった。
いよいよ本命のパイを味わう時間だ。
「よーし、じゃあ次はパイを食べよう! わぁ、いい香り……!」
パイの包みをそっと開けば、ふわりと芳ばしいバターと小麦粉の香りが広がった。
こんがりとしたきつね色の焼き目を眺めるだけでも、思わず食欲が唆られてしまう。
「……そういや分けっこ、だったよな。ほら、最初の一口はあんたが食えよ」
焔はそう言って、自分と氷月のパイの包みをノアに差し出した。
あの時の恩はコレくらいじゃ返せないくらい足りないが、今できるせめてもの礼として。
ノアは少し躊躇したあと、嬉しそうに二人の包みを受け取って。
「……ありがとう! カスタードもミートも気になってたんだぁ……! じゃあ先にひと口、いただいちゃうね?」
あ、その間に僕のりんごパイもかじっちゃっていーよ、と代わりにノアは自分の包みを焔へと手渡す。
焔は温かなその包みを受け取って、じっと中のりんごパイを見つめた。
(ほんとは、このりんごパイも自分で食ってもらって全然いいんだけどな……)
けれどノアの好意を無下にも出来ず、焔は氷月と分け合ってひと口ずつりんごパイをかじった。
「……うっま……」
サクサクのパイ生地に、とろりとしたりんごの食感、爽やかな香りも堪らない。
「わぁ、カスタードも甘くておいしい! ミートパイも、ボリュームありそうだよ」
ノアと焔がパイに舌鼓を打つ隣で、氷月もひと口分差し出された手のひらのパイを見つめた。
そうして、ぱくりと頬張ってみる。
「……おい、しい……?」
サクサク食感、口いっぱいに広がる甘酸っぱいリンゴの味。
これが、おいしいってことなのかな?
二人がそう言うから、きっとこれは「美味しい」ってコトなんだろう。
お腹も心も満たした三人は、オルゴールと硝子雑貨の工房へと足を運んだ。
店内の雰囲気は外の喧騒からはガラリと変わり、静かな余韻が響くような世界だった。
思わず喋る言葉もひそりと小声になってしまう。
「素敵なお店だね。ここでは別々にお買い物する?」
ノアがそっと耳打ちに提案すれば、焔もコクリと頷いて。
「……そうっすね。じゃあお互い買い物を済ませたら、店の前で落ち合うってトコで」
二人と別れたノアは、まずオルゴールが並ぶ棚へと向かった。
星の響きを閉じ込めたオルゴール。
その旋律には全く同じものはないという、職人がひとつひとつ手作りしたまさに一点ものだ。
(僕はどんな星空も好きだけど……せっかくなら、穏やかで優しい音色を探したいな)
ノアは気になったオルゴールに手を伸ばし、そっと裏側のネジを回して繊細に響く音色に耳を傾けた。
ガラス雑貨も素敵な輝きばかりで目移りしてしまうけれど。
特別な日には、特別なものがいい。
そうして手に取ったのは、硝子の花瓶だった。
切子細工で星と雪の結晶を表現した上品な花瓶を手に取り、ノアは暫し眺める。
(義姉さんの枕元に生ける花を飾るのに、素敵かも……)
ノアはその花瓶とオルゴールを丁寧に包んでもらったあと、店の外に出た。
二人の姿はまだない。きっとゆっくり店内を見て回っているんだろう。
気になるけど邪魔したらダメだよね、と。
ノアは軽く壁に背凭れを預けつつ、のんびりと街の景色に視線を映した。
(オルゴールにガラス雑貨か……あんまこういうの、詳しくねぇけど……)
ちらりと焔は氷月の様子に目を配った。
氷月は静かな音色が響く店内の様子をゆっくりと見回している。
こうした繊細で綺麗なガラス雑貨は氷月の雰囲気にとても合うが、本人も気に入っているのだろうか?
(……せっかくなら、なにか記念に買っていくか)
二人はきらきらとした音色が響き渡るオルゴールの棚へと向かった。
ひとつひとつ音色が違うらしいということに少し驚きつつ。
それならお互いをイメージした音色を選んだりも出来るだろうか、とネジを回して音色聴き比べる。
(氷月のイメージは、コレかな……)
焔が選んだものは静かで神秘的な印象の音色が響くオルゴール。
「氷月もどれか、選んでくれるか……?」
焔はひとつひとつ、棚に並んだオルゴールのネジを回し、氷月の耳に届くように聴かせる。
けれど彼女はどれにも強く反応を示さない。
諦めかけたそのとき。ひとつだけ、氷月が手を伸ばしたオルゴールがあった。
あたたかくて、明るい旋律を奏でるオルゴール。そのひとつに。
(もしかして、俺をイメージして……? いや、ただの偶然か)
焔はそれを見て、何も言わずに頷き、そっと二つのオルゴールを手に取った。
硝子雑貨は日用品が主で、普段にも使えそうな小物や雑貨が並んでいた。
旅の邪魔にならない硝子の小さなミニランプ、氷月のお菓子用にキャニスターなどもいいかもしれない。
焔はいろいろと手に取りつつ、ふと一つの品に目が留まる。
それは星座模様が浮かび上がる小物入れだった。
蓋には翼の意匠が施されていて、そのデザインが何となくノアを想像させたのだ。
焔は少し考えたあと、その小物入れも手にとって、会計へと足を運んだ。
「――あ、お待たせっす」
店の外で待っていたノアのもとに、焔の声が掛けられる。
「うーうん、だいじょうぶ。ゆっくりお買い物できた?」
ノアはふわりと浮かび上がり、焔が提げている紙袋に視線を移してにっこりと笑顔を零す。
「あー、うん。それでさ、コレ。受け取ってほしいんだけど」
焔が少し照れくさそうに、紙袋のひとつをノアへと差し出した。
「……改めて……あの時、世話になった礼に……」
「えっ……!」
ノアは少し驚いたように、焔が差し出した紙袋を受け取る。
袋の重さを確かめるように何度か見返して、ノアはもう一度焔へと向き直った。
「食事を奢ってくれただけでも充分だったのに……ありがとう」
「ああ、でさ……良かったら、その、」
焔は続きを言いづらそうにしつつ、ノアはきょとんと首を傾げて。
「今後も、仲良くしてくれよ……今度は、仲間としてさ」
彼が自分達にしてくれた恩義は、もちろん忘れない。
けれどこれからは同じ立場、友人、仲間として、また三人で会えたらと。
ノアは少しの間を空けて、そして柔らかく笑った。
「もちろん! 火神さん、水鏡さん、これからもよろしくね……!」
再び街を歩き出す頃、夜はすっかり深まっていた。
星の灯りは変わらず瞬き、街は人を急かない。
三人の足取りも、自然とゆっくりになる。
氷月は焔の隣でオルゴールを片手に、音色に聴き入るように目を伏せていた。
焔はそんな彼女に気を配りながら、繋いだ手は離さずに歩く。
ノアはそんな二人の様子を、隣で穏やかに見守っていた。
この夜の記憶は、星のように――、
あるいは、あのオルゴールの音色のように――、
三人の胸の奥で、静かに瞬き続けるだろう。
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