酒杯の裡に、浅き夢を見て
少しばかり時計の針を巻き戻した、過去の出来事。
√妖怪百鬼夜行の居酒屋の暖簾を潜る青年の姿がある。
ミステリアスな風貌の男だった。
細身ながらに身長は高く、切れ長な目が近寄りがたさを匂わせる。
だが、よく見ればその眸は優しげな藍と橙。
逡巡と惑いを浮かべているのは、酒というものをまだ知らないから。
付喪神となって間もない頃の刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)である。
懐中時計として妖怪を始め、人間についても傍らでずっと見守ってきていたから理解は深い。
が、身体をもって自ら体験するのは諸々が初めて。
特に食に関してはそうだった。
色々と食べ慣れた頃、ひとも鬼をも微睡ませるという酒に手を出す事にしたのだ。
席へと座って、ひとまず適当に頼む。
出て来たのは澄み渡る日本酒。いざ試しと一口含めば、米から作られたとは思えない、芳醇な香りが広がっていく。
最初は丁寧に淹れられた緑茶のような香気だが、少し遅れて鋭い後味が蘇って舌に浸みていく。
僅かに瞬きをする懐古。
それほど、酒というものは舌に深い味わいを残すものだった。
「うん。なかなかの美味」
喉を通って熱くなる感触もまた面白い。
人間に近しいとはいえ付喪神。酒に酔うことはない筈とかなりのペースで呑んでいく。
その飲みっぷりを気にいったのか、店主が出したのは焼き鳥だ。
はむりと小さく囓れば、鳥肉の脂と塩気がじゅわっと舌中に広がり、酒に慣れた味覚に別の旨みを思い出させた。
それをまた日本酒の鋭い香りと後味で洗い流し、交互に感じていく楽しさ。
では、別の酒はどうだろう。焼酎というものはどのようなものか。
躊躇うことなく月々と試していく懐古と、酒豪と見た店主も酒を振る舞っていく。
「んふふふ……。うまい。これもうまいなぁ」
或いは、最初はミステリアスに見えた懐古が、酔うにつれて人懐こい性格を見せたかもしれない。
が、双方に見誤っていた。
懐古は下戸だった。
付喪神なのに何故かは分からない。
「う~ん、たのしいねぇ。ふふふふ」
店主が気づいた時にはもう遅い。
ふにゃふにゃと笑う懐古は店によく来る猫を悪戯するように撫でながら、隣の客に話しかけている。
「ねぇ、ねぇ。何か聞かせてよ」
ひとが好きな懐古である。
人間の話を聞きたい。
儚い人生の中で抱いた美しい情念と記憶を、もっと知りたい。
酒に思考を蕩かせた懐古を中心に、数多の話と情念が泡となって杯に浮かぶ。
煌びやかな感情と光を受けて、きらきらと輝いたのは美しい眸。
声は祭り囃子のようで、聞いているだけでみんなで賑わえる。
懐古は人と楽しい時間を刻むのは、大好きだったから。
時計として、心として。
ひとりの付喪神を中心に、酒杯を掲げてみんなが笑う。
「うん、うん。凄いねぇ」
店としては盛り上がってはいた。
が、少しばかりの怖れを感じて、懐古に出される酒のペースが落ちるが……。
「あれ、もうお酒ないよ。次、次のを頂戴?」
欲しいと言われて出さない店がある筈もない。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
限度を知らない懐古に釣られて、他の客も酔いが深くなっていく。
ああ、と店主が苦笑いをした。
もうどうにでもなれと、懐古を中心に賑やかになり過ぎる店の様子を見て、自らもやけになって酒を煽るのだった。
●
朝になれば強烈な二日酔いが待っていた。
ぐったり寝台の上に横になりつつ小さく呟いた。
「はぁ……成程、うん。こうなるのか」
しっかりとやらかした記憶と、猫に嫌われた手がある。
でも多分。
「繰り返しそうだね。だって皆の楽しそうな笑顔、憶えているからね」
懐古はふにゃりと柔らかく笑った。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功