ひとつめのかけら
●最後の種明かし ~11歳の夜~
『歴史小説・この手に光が満ちるまで』――ぼくがいつも読んでいた本を指しておねえちゃんが云った。
「これは、私がお父様から引き継いだ本と全く同じものよ」
ぼくは、瞳をまんまるにして言い返した。
「うそだ。これは書庫からぼくが持ち出してる本だよ。インターネットでも買えるんだから! おねえちゃんがお父様から引き継いだ特別なのとは違うよ」
産まれる前から存在していたこの本は、持ち歩くには子供の手には大きすぎる。
難しい漢字も多くって、言い回しだってややこしい。
……だから最後だけ読んだんだ。
そこには希望がある。ぼくと似た黒猫が光を手に歩み出すラストシーンが大好きなんだ。
難しいのはなにも悪いことじゃあない。気ままに開いて、頭にスッてくるなら読む。その度に新しい物語に遊びにいけるから、最初から真面目に読むよりよっぽど面白い。
「ふふっ、カデンツァったら、私と同じ読み方してる」
流石姉弟ねと口元をふにゃっともちあげて、おねえちゃんは作者名をなぞった。
「これねーえ、お父様のペンネームなのよ」
「えぇ?! 確かにお父様は書斎ばっかりにいるけど……」
おねえちゃんは白いふかっとした指で本を開き、最終ページまで捲る。
くんっとぼくの鼻がひくついた、あ、魔術の臭いだ。
「あれれ?」
少し本が分厚くなった気がする。見れば袋とじのようなページが幾つか増えている。爪を入れて剥がそうとするけれど、つるつる滑ってできやしない。
「なんでぇ」
情けない顔をするのを、おねえちゃんはころころと笑って額をちょんっとつついてくれた。
「そのページはね、カデンツァが必要になったらちゃんと開くの」
そうしてぼくから本を受け取ると豪奢な革のカバーをかける。陰影で描かれた猫の表紙のそれは、確かにおねえちゃんが持っていた特別な本と同じもの。
まるで手品だ!
「いつもカバーを外して書庫に入れておいたのよ」
「どうしてそんなことをしたの?」
「カデンツァにも読んで欲しかったから」
おねえちゃんはぼくがこの本を読んでいたら「他に借りたい人がいるから、期限通りに返すのよ」といつも言っていた。
ぼくは良い子だから言う通りに返却した。すると数日だったり数週間だったりするけれど、本は書庫から消える。
「確かにペルッツィの家に最初に産まれたのは私よ、だから引き継いだわ。けれどカデンツァだってペルッツィの子供。お父様はこの本の主は私だと言ったから私の好きにしたの」
なんと! 書庫にない期間は、おねえちゃんが『継承の本』として持ち歩いていたのだ! おねえちゃんはちろりと舌を出して、続ける。
「今日はカデンツァが持ってていいよ」
――それは、なんてことない口ぶり。
「わぁい、ほんとに? よぉし! じゃあ今日はこの増えたページの間を読んでー……」
「余り夜更かしをしてはダメよ?」
「大丈夫! 最近は身体の調子もいいんだから」
「そう。じゃーあ、書庫に行きましょ。お部屋をあたためておいたのよ。仮眠室のお布団も今日干しておいたからふかふかよ」
「ほんと?! いいの? やったぁ!」
――これがおねえちゃんと最後の会話になるなんて、ぼくは夢にも思わなかったんだ。
次の朝、書庫の仮眠室で目覚めたら屋敷は跡形もなく消えていた。お父様とお母様、そしておねえちゃんと共に。
●久々の里帰り ~いまの話~
カデンツァ・ペルッツィ(星を見る猫・h01812)の生家は高貴な流れを汲んでいる。失楽園戦争の後にダンジョンで一山当てて偉ぶっている輩を「新参」と断ぜる程には古い。
だが、高慢さからは程遠い長閑な性格の家族であった。そう、相応の酸いも甘いも噛み分けてしまった今のカデンツァからすれば「お人好しすぎんじゃねぇ?」と口元歪めて犬歯のひとつも見えてしまうぐらいには。
日だまりのように慕われる両親と、母から白い毛を父からおおらかさを引き継いだ10歳上の姉、この3人がそばにいてくれた家族だ。そうそう、お月様の瞳は家族でお揃い、それは密かな誇り。
なぜ回顧に耽ったかというと、久方ぶりに生家跡を訪れたから。跡と言うぐらいだから、もはやそこに西洋建築の粋を懲らした屋敷は存在しない。
鬱蒼と茂る蔦植物の隙間より見える地面は未だ黒々と焦げた色。
蔦が抱きしめるように伸びて絡む先には円柱型の建物がある。ペルッツィ家の書庫だ。かつて、1階は村人達に図書館として開放されていた。
「ここは変わらねぇな。いや少し黒ずんだか」
姉の毛色をしていたのに、今は自分のものに近い。
黒いふかっとした指を丸めて壁をノックするとコンクリートの無味乾燥な感触が跳ね返る。カデンツァが産まれた年に木造から建て直されたお陰で難を逃れたのだ。
――その難が一体何だったのか、カデンツァは未だに知らない。
胸元で揺れる瞳色した鍵を遊ぶなと言わんばかりに握りしめる。そのまま背を丸めて鍵穴にさしこむと、鉄の扉はキィと錆びた音をたて開く。
カビ臭さに眇めた瞳がまるくなる。だが瞬膜は遅れて戻り、視界を得るまでのタイムラグは思うより長い。
――彼がこの地を訪れたのは、先日ひとつだけページがあいたからだ。
開いたページにはこう綴られていた――『カデンツァ、あなたはもう大人に近づいて心も強くなったでしょう。だからかけらをひとつ渡します』
●書庫
ふみこめば、膝ぐらいまでの埃が渦巻き噴きあがる。たまらずにまずそこら中の窓を開けてまわる。
「あーあ、村の奴らに管理を頼んどきゃあ良かったぜ」
なぁんて思ってもいないくせに。
持ち主のいない書庫の中身なんて、たちどころに持ち去られて売り飛ばされるのが関の山だ。この付近に棲まう者はみな裕福ではない。頭のいい奴は見限るようにもっとダンジョンが出やすい土地へゆく。人生、金を儲けてナンボだ――とまぁ、カデンツァはすっかり外のお作法に染まっていた。
埃を追い出してから、改めてぐるりと周囲を見回してみた。円形の壁に沿って並ぶ本棚には、父が蒐集したあらゆる書物が収められていた。ただし一番新しい本でも発行は6年前だ。
「……」
カデンツァはふいっと肩で風をきり、仮眠室のドアノブに手をかけた。
ひらいた先には、あの日、目を覚ましたベッドがこぢんまりと収っている。とてもとても寝たり腰掛けたりなんてしたくならない程につもる埃に眉を寄せ、がたんと出窓をあけた。
げほんっと肺が飛び出しそうな咳き込みひとつ。
「あぁ、嫌なもんだぜぇ……げほんっげほんっ! 思い出しちまう……」
いいや、過去を辿るために来ているのだから思い出すべきだ。そんな自問自答をしつつも、ぎゅうっと三角耳を握り込む。
刹那、懐から大切な『本』が滑り出た。カデンツァは慌てて手を伸ばして受け止めた。
「……ッぶねぇな。こんなとこに落ちたら汚れたじゃ済まねぇっての」
捲ると、来訪の切っ掛けとなったページがぺっちゃりと張り付いて読めなくなっていた。
むむーっと眉間に皺が寄る。しっぽも苛つくようにバタバタと揺れた。まるで『時期尚早だったわね、ごめんなさい』と云われているようじゃあないか。
「確かに未だ姉さんより年下さ、ガキかもしれねぇよ」
ひとりで残された理由を「知りたい」と「知りたくない」が振り子のようにいったりきたり。たまたま後者に揺れただけだ。
「なんで置いてったんだよ」
拗ねた声は子供じみている。
けれど振り子は前者に揺れた。
ぺり……ッとページは再び開き、カデンツァの体は操られるように仰向きでベッドに倒れ込む。
●ひとつめのかけら
ここは、
6年前の、
屋敷の中。
姉と良く似た白い母が姉を問いただす――何故『書』を持っていないのか、と。
姉は毅然とこう返した。
「だって、あの本を持っていないとカデンツァの呪いが解ける確率が下がってしまうのでしょう?」
母は顔を覆うと哀しげに呪いについて語る。
「6代前の取引きがこんなことになるなんて……カデンツァは何一つ悪くないのにどうして」
肩を震わせる母を同じ色した手が支える。そんな風に覚悟を宿し据わる双眸を前に、父は一度だけ「良いのだな?」と確認を口にした。
「……はい。だってわたしはひとりぼっちに耐えられないわ、カデンツァの方が強いから」
なんて、残酷なことを云うのだ、このひとは。
●
ぱちり。
まぁるく開いた月色の瞳は、虚空を舞う無数の埃の向こう側で揺れる天井を映す。
小さな頃、病気がちだった仔猫は、よくこの部屋に引きこもっては存分に好きな本を持ち込んで読んでいた。
部屋を暖めてくれたのも、そこのソファに腰掛けていた10歳上の姉だった。
じわり。
天井の黒い梁が撓んだ。
「俺の虚弱さは呪いだったのかよぅ……」
黒い頬の毛が湿る前にグッと手の甲で瞳を押さえ堪える。
この後、屋敷ごと奪われるようなナニカが起り、両親と姉は消失した。もう戻らないのは、カデンツァに√能力が宿ったことが証明している。
“俺は、選べなかった”
“姉さんが、選んでしまったから”
「ああもう、これだからガキって嫌なんだよ!」
勢い付けて身を起こす。だが尻尾はいらつきを示さずにスッと伸びたままだ。
『選ばれてしまったのならば、生きるのが使命なのだ』――と、記されたページを開いて唱える。その後ろにはまた見たことのない張り付いたページがあって、爪を差し入れると剥がれてあいた。
『蒼褪めた羽根の女に気をつけて』
その一文に息を呑む。
呑むと、思いっきりだったもんだから、埃で噎せた。
「ああ、絞まらねぇ」
ページの文字が笑うように揺れる。柔らかく丸みを帯びた筆跡が姉のものだと思い出せて、カデンツァはもうそれだけでいいかと漸くへにゃりと口元を緩めるのである。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功