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⚡️大規模シナリオ『紅涙流離戦』

これは大規模シナリオです。1章では、ページ右上の 一言雑談で作戦を相談しよう!
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(毎日16時更新)

 露店の奥では大きな笑い声が響いている。
 見れば、二足歩行の大化け猫がふんぞり返り、豪快に客をあしらっていた。
 尾はゆったりと揺れ、鋭い目は通り全体を見渡している。

「――アァ!? 本気でその値段で通る思とんかァ!?」
 怒鳴られた側は思わず背筋を伸ばし、それでも引かずに食い下がれば――今度は猫がにやりと牙を覗かせる。
「ほう、まだ引かんか。ええ度胸や」
 途端に周囲から「おおっ」と声が上がり、小さなどよめきが広がる。やり取りそのものが見世物であり、同時に真剣勝負でもあるのだ。
 別の露店では店主同士の言い合いが始まりかけていたが、化け猫がちらりとサングラスの下の視線を向けただけで、ぴたりと収まる。代わりに鼻を鳴らして笑い、どちらも何事もなかったかのように商売へ戻っていく。
 どうやら、この場の秩序は、彼の一睨みで保たれているらしい。

 近くを通る子どもの妖怪が転びかければ、尻尾で軽く支え、何事もなかったように離す。
 客が持ち上げた品を乱暴に扱えば、低く一声だけかけて手を止めさせる。
 威勢のいい言葉とは裏腹に、細やかな目配りが行き届いていた。

 この市を束ねる大親分、ドラ吉。
 その一声が飛ぶたび、空気がぴりっと引き締まり、同時にどっと笑いが起こる。



「おまえら、骨董市に興味はあるか?」
 紅涙流離戦の或る最中。君たちを見渡すと、ジャン・ローデンバーグ(裸の王冠・h02072)はそれだけ短く問うた。

 今回の舞台は、√妖怪百鬼夜行の一角に広がる巨大な蚤の市だ。
 泣く子も黙る大親分、化け猫ドラ吉が率いる√きっての骨董市。人呼んで〈大三毛市〉。
 そこは幾重にも露店が連なり、布の天幕が空を覆い、光を鈍く反射している。
 主催しているのは地の気を宿した妖怪たち。刀剣、装具、古美術、家具、古本、カトラリー、果ては精巧な装飾が施された楽器、西洋アンティークまで。扱うのは、ありとあらゆる古き良き品。新品はほとんど見当たらない。あるのは、時を経て、誰かの手を渡り、役目を終え、それでもなおここに在るものたちだ。

 通りに一歩足を踏み入れれば、鼻をくすぐるのは古い紙や湿った金属、端にある屋台の焼きそばの匂い。
 ――いらっしゃい! ここは天下の〈大三毛市〉!

 赤錆びた鎧を誇らしげに並べる者は、かつての戦場の話を聞いてもいないのに語り出す。
 磨き上げられた刃を布で撫で続ける者は、刃文に宿る光をまるで宝石のように愛でている。
 古びたティースプーン一本に強い執着を見せる者は、どうやら特別な客を待っているらしい。
 どの店主も一癖も二癖もありそうだが――総じて、商売には本気だ。
 値札はあってないようなもの。目の前の客を見て、値段も態度もコロコロ変える。
 気に入れば破格で譲るし、気に入らなければ倍でも首を縦に振らない。

「ガラクタに見える中に、おまえだけのとびきりの一品が埋もれてる。そういうのを拾えるかどうかが腕の見せどころってわけだ」
 人混みは濃く、熱気は重く、道は決して開けてはいない。肩が触れ、声がぶつかり、視界はしょっちゅう遮られる。
 それでもなお、誰もが何かを探している。
 価値を、物語を、あるいはただの"運"を。

「……ああ、奥には市の親分、ドラ吉ってのがいる。次に何かと戦うなら手を貸してくれるし、飯屋に行くってなら美味いとこに案内してくれるらしい」
 ジャンはそこで一度言葉を切り、少しだけ視線を横へと流した。
「しかも奴さん、表に出てる連中とは桁が違う。年代モノ、逸品、いわく付き。簡単に言や"本命"の品を山ほど持ってる」
 けどな、と肩をすくめる。
「気に入らなきゃ、金積んでも門前払いらしい。逆に気に入れば、驚くほどあっさり手放すこともあるらしいが……まあ、その基準が厄介でな。根性かもしれねえし、見る目かもしれねえし、あるいは、"そいつがその品に選ばれてるかどうか"かも」
 くつ、と笑ってこちらを見る。
「逆に通れば本物だ。試してみるかは好きにしろ」

 ジャンは肩をすくめ、少しだけ楽しそうに目を細める。
「ま、難しく考えたって、いいもんは逃げるときゃ逃げるし、逆にふらっと入った店で当たりを引くこともある」
 少しだけ口角を上げて、最後に言い添える。
「だから――1個でいい。自分がこれだって思えるもんを、見つけてこいよ」

 古きよきものがきらめく市。
 価は眠り、値は揺れ、声は飛び交う。
 触れれば冷たく、けれどどこかに熱を残した品々が。

 君に選ばれるのを、待っている。

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第1章 冒険 『お宝を探し出せ!金属妖怪の骨董市』


クラウス・イーザリー

「わぁ……」
 大三毛市へ足を踏み入れた途端、クラウスは思わず声をこぼした。
 人混みと熱気、威勢のいい呼び声。古い紙と湿った金属の匂いに、屋台の焼きそばの香ばしさまで混ざっている。あちこちで値段交渉の声が飛び、どこかで金属の器がかちんと鳴った。
「すごいな。こういうの、久しぶりかも」
 √ウォーゾーンでも、時々こういう蚤の市は開かれていた。瓦礫の隙間に布を敷き、拾い集めた部品や古道具を並べるような、もっと簡素なものだったけれど。この雑多な空気は少し似ている。

「俺にとっての、とびきりの一品か……」
 見送りの言葉を思い出しながら、クラウスは人の流れに沿って歩き出した。



 刀剣の並ぶ店では、店主が聞いてもいない武勇伝を語っている。真鍮の歯車や古い計器を積み上げた店では、妖怪の子どもが怒られながらも目を輝かせていた。
 どれも面白い。どれもきっと価値がある。けれど、手に取ろうとすると、少し違う気がした。
 ……強くなるためのものなら、いくつも見つかる。
 でも今日は、そういうものを探しているわけではないような気がする。

 人混みを少し抜けたところで、ふと足が止まった。
 通りの端に、小さな露店があった。
 派手な看板も呼び込みもない。ただ木箱の上に、食器類が丁寧に並べられている。皿、カップ、ポット、カトラリー。銀のスプーンは曇りを残したまま光り、陶器の小皿には淡い絵付けがされていた。

「……あ」
 クラウスは自然としゃがみ込む。
 そういえば、熱い飲み物を飲むためのカップが欲しかったのだ。
 今持っているのは、軍用の金属製のものだけ。軽くて丈夫で、便利ではある。けれど、唇に触れる感触も、手に伝わる温度も、どこか味気ない。
「冷めるのも早いんだよね……」
 ぽつりと呟くと、店主らしい小柄な妖怪が片目だけ開けた。
「兄さん、茶ぁ飲むんか」
「あ、はい。温かいものは好きです」
「ほな、手に馴染むやつを選び」
 それ以上は何も勧めてこない。
 その距離感が、クラウスには少しありがたかった。

 並んだカップを一つひとつ見ていく。
 背の高いもの、丸いもの、藍色の線が入ったもの。どれもよかったけれど、ふと白地のカップに目が止まった。
 ふちの近くに、やわらかな色で小さな花が描かれている。派手ではない。けれど、静かに咲いているその花が、なぜか妙に気になった。
 そっと手に取る。
 陶器はひんやりとしていたが、金属の冷たさとは違った。

 ――これだ。
 理由はうまく言えない。けれど、そう思った。

「すいません。こちらを買いたいのですが」
 クラウスは顔を上げ、まっすぐに店主へ声をかける。
 店主はカップとクラウスを交互に見て、それから値段を告げた。高いのか安いのか、正直よく分からない。交渉も得意ではない。だから、クラウスは素直に頷いた。
「はい。それでお願いします」
「値切らんのか」
「……えっと。大切に使いたいので」
 答えになっているのか分からなくて、少し困ったように笑う。
「買わせてくれるなら、ちゃんと長く使います。お茶とか、コーヒーとか……温かいものを飲むときに」

 店主はしばらく黙っていたが、やがてふんと鼻を鳴らした。
「変な兄さんやな。ほな、包んだる」
 古布で丁寧に包まれたカップを受け取り、クラウスは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
 戦うためのものではない。誰かを守る道具でもない。
 ただ、温かい飲み物を注いで、飲むためだけの道具。
 それでも、きっと必要なものだと思った。

 人混みに戻ると、また大三毛市のざわめきが押し寄せてくる。どこかでドラ吉の豪快な笑い声が響き、値切り合戦に歓声が上がっていた。
 クラウスは少しだけ嬉しそうに息を吐く。
「……帰ったら、まず何を飲もうかな」
 紅茶か、コーヒーか。
 少し甘いものでもいい。
 大三毛市の喧騒の中で、クラウスは自分だけの小さな包みを、静かに抱え直した。

墨・迅

 せっかくの骨董市だ。
 墨・迅(黒衣の迅・h12802)がまず考えたのは、自分のための掘り出し物ではなかった。
「……贈り物でも探すか」
 大三毛市は、どこを向いても騒がしい。
 値切りの声、笑い声、金属が触れ合う音。古い油と紙の匂い。

 迅の足取りに迷いはない。
 人混みは嫌いではなかった。むしろ、こういう場所のほうが分かりやすい。誰が品を見ているか。誰が財布を見ているか。誰が店主の目を盗もうとしているか。スリも、客も、同業も、動きでだいたい分かる。
 ぶつかりかけた男が顔をしかめるが、赤い目と合った途端、舌打ちだけを残して身を引く。

「よぉ、旦那。景気はどうだい?」
 古びた装身具を並べる店の前で、迅は口角を上げる。
 店主の妖怪は片目をぎょろりと動かし、じろじろと彼を見た。
「若いのに目つきが悪いな」
「育ちがよくねぇんでな」
 並んだ品を一瞥する。銀細工、真鍮の髪留め、石の嵌まった指輪。
 悪くはない。
 ……だが、足りない。輝きが軽い。あの人に似合うもんじゃなきゃ意味がない。
「銀の髪に翠の瞳、キリッとした別嬪さんへの贈り物を探してる」
 何気ない調子で言ったつもりだ。
「……俺には釣り合わねぇくらい好い女だ」
 店主がひゅう、と冷やかすように鳴く。
「惚気かい」
「うるせぇ。黙って他の品を出せよ」
 気圧された店主は無言で他の品を並べていく。
 翠の石が嵌まった腕輪は色が濁っていて駄目。細身の短剣は意匠が派手すぎる。古い簪は悪くなかったが、店主がやたら曰くを盛るのが気に食わない。
 値段を鵜呑みにする気はない。こればかりは、高いから良いわけじゃない。安いから駄目なわけでもない。



 その調子でいくつか店を回っていると、奥まった露店で足が止まった。
 黒い布の上に数点だけ品が置かれている。古びた小箱、銀の鎖、細い護符入れ。それから――深い翠の石が嵌まった、古い耳飾り。
 石は大きくない。けれど光を受けると、底のほうで静かに色が揺れた。刃のように澄んでいて、毒のように美しい翠。
 迅は黙って、それを手に取る。
「目がいいねぇ。それは持ち主を選ぶよ。気位の高い石だ」
「だろうな」
 指先に、ひやりとした感触が残る。
 あの人の耳元で揺れたなら、きっと似合う。銀の髪の傍で、この翠は負けない。けれど出しゃばりもしない。
「いくらだ」
 告げられた額に、迅は片眉を上げた。
「吹っかけたな」
「それぐらいの価値はある」
「半分」
「冗談だろう」
「こいつが一等居心地のいい主の元に連れてってやるよ」
 店主が目を開き、次いで喉を鳴らして笑う。
「言うね」
 迅は耳飾りを指先に乗せたまま、低く言う。
「ご主人サマが気に入るもんじゃなきゃ意味ねぇからな」
 店主はしばらく迅を見て、やがて最初より少しだけ現実的な値を告げる。

 迅は金を払い、小箱に収められた耳飾りを受け取った。
「大事にしな」
 懐に入れると、軽い箱なのに妙な重みがあった。
 大三毛市のざわめきは続いている。値切り合戦に歓声が上がり、どこかでドラ吉の豪快な笑い声が響いた。
 腹が減った。
 だが今は、この小箱を落とさないこと。傷つけないこと。それだけを考える。

 噛みつく相手は選ぶ。そしてご主人サマには、ちゃんと獲物を持ち帰る。
 それも一つ。間違いのない価値。

ラウアール・グランディエ

 ラウアール・グランディエ(人間災厄「グリモリウム・ウェルム」の不思議道具屋店主・h08175)は、大三毛市の喧騒を愉しむように歩いていた。
「実に良い市ですね」
 新品にはないものがある。誰かが欲し、誰かが手放し、誰かが惜しみ、誰かが呪ったもの。そうした情念の艶こそ、古物の美しさだ。

 店に飾るなら、ただ綺麗なだけでは物足りない。
 ならば向かうべきは一つ。
 いわく付きの本命を扱うという大親分、ドラ吉のもとだ。



 市の奥へ進むほど、ざわめきは濃くなる。そこにある秩序は木箱の上にふんぞり返る大化け猫の眼光によって保たれていた。怒鳴り声に、周囲がどっと沸く。
 ラウアールはくすりと笑い、他の客の邪魔にならぬよう一歩引いた位置で礼をした。
「お初にお目にかかります、ドラ吉殿。私はラウアール・グランディエ。『小さな鍵』という道具屋を営んでおります。本日は、店に飾る品を探しに参りました」
 サングラスの奥で鋭い視線が動く。
「道具屋さんかいな。兄さん、えらい悪そうな顔しとるなァ」
「よく言われます」
「何が欲しいんや。綺麗なだけの飾りなら表にもあるで」
「そう、ですね……」
 ラウアールは並べられた品々へ目を向けた。古い香炉、歪んだ鏡、蓋の閉じた小箱。どれも一癖ありそうだ。
 その中で、ふと視線が止まる。
 一本の刀剣があった。
 派手な拵えではない。むしろ地味とすら言える。だが鞘の奥に、水底に落ちた刃のような、冷たく重い気配がある。
「そちらを拝見しても?」
「丁寧にな」
「もちろんです」
 白い手袋を着けたまま、ラウアールは慎重に刀へ手を伸ばす。
 指先が鞘に触れた瞬間、紫の瞳の奥で、何かが薄くひらめいた。

 ――雨。泥。叫び声。
 月明かりのない夜に抜かれた刃。守るための一振り。奪うための一振り。祈りのように握られ、呪いのように振るわれた幾つもの手。
 血は乾いている。だが、消えてはいない。鞘の内側にあるのは、怒り、恐怖、覚悟、未練――。

 ラウアールは、ほう、と小さく息を吐いた。
「素晴らしい」
 声音には、陶酔に近い熱がある。
「数多の血と情念を秘めながら、今は認めた主の元で静かに収まっている」
 ドラ吉が片耳をぴくりと動かす。
「分かるんかい」
「多少は」
 ラウアールは刀から手を離し、改めて向き直った。
「良ければ、この刀の主を、私に任せてはいただけませんか?」
 売ってくれ、ではない。譲れ、でもない。主を任せろ。その言い方に、周囲の空気がわずかに静まる。
「兄さん。そいつを店の飾りにする言うたな」
「ええ、飾ります。ですが見世物にはいたしません」
 穏やかな微笑みのまま、ラウアールは続けた。
「品には相応しい場所があります。この刀は、悲劇を隠す暗がりではなく、美しく見える灯りの下に置きたい。私の店には、そういうものを求めて訪れるお客様も多いのです」
「けったいな店やな」
「否定はいたしません」
 ドラ吉はしばらく黙っていたが、やがて大きく牙を覗かせた。
「カカッ! ええやろ。気に入ったわ、その胡散臭さ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めとらんわ」
 すかさず返され、周囲から笑いが起こる。
 代金は安くなかった。しっかりと吹っかけられている。ラウアールは値を聞き、わずかに目を細めた。
「値切るか?」
「いえ。今回は授業料も含めてお支払いいたしましょう」
「ほんまに胡散臭いなァ、兄さん」
 ドラ吉は笑いながら、刀を丁寧に包ませた。
 ラウアールはそれを受け取り、手の中に残る重みを確かめる。
 店に戻れば、どこへ飾ろうか。扉を開けた客が最初に見る場所か。それとも少し奥まった棚の上か。灯りの角度は慎重に選ぶべきだろう。鞘の沈黙が美しく見えるように。

 古物とは、ただ古い品ではない。誰かの願いと、諦めきれなかったものの残響だ。
 今日、大三毛市で見つけたこの一振りは――彼の店によく似合う、悲劇の匂いをしていた。

栞沢・読美

「ふっふっふ……」
 大三毛市の人波の中で、栞沢・読美(止まらない大図書館・h00298)は両手に抱えた戦利品を見下ろし、たいへん不敵に笑っていた。
「『雨王子とかえるの冒険』、『すみれ草日記』、『ザ・呪術vol666 読んだ奴全員呪ったろか特集号』……ああもう、どの本も読むのが待ちきれないわ!」
 値切り合戦と焼きそばの匂いと金属音が飛び交う市の中でも、その声はなかなかよく通った。通りすがりの妖怪が「最後のやつ、本当に読むんか?」みたいな顔をしたが、読美は気にしない。
 本あるところ、私あり。
 それが栞沢・読美という女だ。
「いやあ、いい市だね。大三毛市。金物ばかりかと思いきや、古本もちゃんとある。文化への理解がある。実に偉い」
 勝手に採点しながら、読美は露店から露店へと渡り歩く。
 『猿でもわかる結界術』を発見。即購入。次に『恋する鍋奉行と百年味噌』を発見。表紙の鍋奉行が色男だったので購入。さらに『図解・妖怪式へそくり隠蔽術』を見つけ、これは将来何かの役に立つかもしれないと購入。何に役立つのかは分からないが、本とはそういうものである。読んでから考えればいいのだ。
「お嬢さん、それ以上積むと前が見えんぞ」
「本望だね」
「いや、危ないって意味や」
 露店主のもっともな注意を受け、読美はしぶしぶ外套をひらいた。
 裏地の奥に、ずらりと並ぶ書棚が現れる。そこへ本を一冊ずつ差し込んでいく手つきは、まるで家へ帰ってきた子どもたちを迎える母のようだった。
「君は幻想文学の棚。君は民俗資料。君は……呪術雑誌だから、封印付き危険図書の仮置き場ね。あとでちゃんと読むから大人しくしてるんだよ」
 『すみれ草日記』の背を撫でると、幸福感が全体を包む。

 けれど、今日の目的はただの古本漁りではない。
 市の奥。大親分ドラ吉の露店に希少本があるという噂を聞いた。
 今は亡き世界から流れ着いた本。とある世界を生きた人物が、自らの旅を記した一冊。
 その内容にきっと戦略的価値などない。敵の弱点が分かるとか、強大な魔法が身につくとか、宝の在処が示されているとか、そういう都合のいいものではないだろう。
 けれど。
「読みたいわね」
 読美はぽつりと言った。
「知りたい。どんな空があって、どんな町があって、どんな人が笑って、何を食べて、何に泣いて、どんな道を歩いたのか」
 役に立つかどうかではない。残っているなら、読まれるべきだ。語れるなら、語られるべきだ。誰かの生きた世界が一冊の本になっているなら、それはもう、読美にとって立派な宝だった。

「よし。――正面からいこう」



 ドラ吉の露店は、市の奥でもひときわ賑やかな場所にあった。
 大きな木箱の上で二足歩行の大化け猫がふんぞり返り、客を睨み、笑い、値を吊り上げたり叩き下ろしたりしている。
「カカッ! それを値切るんやったら、まずその震えた声をなんとかしてこい!」
 周囲から笑いが起こる。
 読美はその場の熱気に、ほう、と感心した。
「いいね。商売という名の演劇だ。しかも観客参加型」
 感想を述べながら近づくと、ドラ吉の耳がぴくりと動いた。サングラスの奥の視線が、読美の外套に向く。
「なんや、歩く本棚みたいな姉ちゃんが来たな」
「正解。歩く本棚です」
「認めるんかい」
「事実だからね」
 読美は軽く会釈した。
 普段なら、希少本のためなら多少の強行突破も辞さない彼女だが――この店は違う。
 書の扱いが丁寧だった。湿気除け、虫除け、日差し避け。管理の難しい古書を、ちゃんと本として遇している。
 それを見たら、さすがに礼を欠く気にはなれない。
「ドラ吉さん。あなたのところに、世界の狭間から流れ着いた旅の記録があると聞いたわ」
「ああ、あれか。欲しいんか」
「欲しい」
 即答だった。
「ただし、私はそれを飾りにしたいわけじゃない。転売もしない」
 真顔だった。
 ドラ吉は一拍置いてから、カカッと笑う。
「じゃあ、姉ちゃんはその本をどうするんや」
「読む」
 読美は胸を張った。
「読みたい。知りたい。その世界のことを。そこにいた人の旅を。役に立つかなんて知らない。ただ、読みたい」
 彼女は外套の裏を少し開く。
 無数の背表紙が、奥へ奥へと続いていた。
「読んだら、語るわ。広める。残す。誰かが"そんな世界があったんだ"って思えるようにする。たとえもう辿り着けない場所でも、名前も地図も失われた場所でも、本の中にある限り、そこはまだ完全には消えていない」
 周囲の騒がしさが、ほんの少しだけ遠のいた。
 読美は薄い財布を取り出した。
 取り出した瞬間、財布が「やめて」と言った気がした。気のせいであってほしい。
「金に糸目は――」
 そこで、ちらりと中を見る。
 小銭たちが慎ましく身を寄せ合っていた。
「……つけないわ! さあ、交渉タイムといきましょう!」
 薄い財布を手に堂々と言い切る読美に、周囲からどっと歓声が起こった。
 読美はにっこり笑った。目は笑っているが、一歩も引く気配はない。
「高いで」
「知ってる」
 ドラ吉はしばらく彼女を見つめ、やがて奥の棚から一冊の本を取り出した。布に包まれた古びた小さな本。表紙の文字は、こちらの世界のものではない。けれど触れなくても分かる。長い旅をしてきた、紙の匂いがする。
「値切るか?」
「値切る。けれど、本の価値を下げるためじゃない。――私が昼ご飯を食べる余地を残すために」
「正直やなァ!」
 ドラ吉が大笑いした。

 そこから始まった交渉は、なかなかに白熱した。読美は本への愛を語り、ドラ吉は値を守り、途中で『恋する鍋奉行と百年味噌』の貸出権が交渉材料に混ざり、なぜか焼きそば一皿が追加条件になった。
 最終的に、財布はかなり薄くなった。
 けれど彼女の手には、確かにその本がある。
「……ふふ」
 読美は大事そうに本を抱える。
 頁を開くのは、落ち着いた場所に行ってからだ。風の強い市の中で開くなんて、そんな危険な真似はしない。本には本に相応しい初対面の作法がある。
「ありがとう、ドラ吉さん」
「ちゃんと読んだりや」
「もちろん。そして、ちゃんと残すわ」
 彼女は外套をひらき、一番奥の、まだ空いている棚へその本を収めた。
「ようこそ」
 読美は小さく呟く。
「あなたの世界の話、私に聞かせてね」

 路地に戻ると、大三毛市の喧騒が戻ってくる。
 値切り声、笑い声、焼きそばの匂い。財布は軽い。腕も軽い。けれど外套の裏は、たしかに少し重くなった。
 それは読美にとって、何より嬉しい重みだった。

 読美は身を翻し、颯爽と歩き出し――
「あ!あの本は……!『禁書目録外伝 絶対に開くなと言われると逆に開きたくなる本』!」
 ――そして、また別の路地へと消えていった。

不忍・ちるは

 大三毛市を歩く不忍・ちるは(ちるあうと・h01839)の足取りは、たいへんのんびりしていた。
 人混みは濃く、声は大きく、あちらこちらで値切り合戦が起きている。
 そんな中、ちるははふらり、ふわり。黒蜜きなこ餅でも探すような顔で、骨董市をおさんぽしていた。

「これは……お皿、ですかね。こっちは、なんだか強そうな壺」
 強そうな壺、という評価を受けた壺は、心なしか誇らしげに見えた。
「あの鎧も強そうです」
 壺と同じ評価をされた鎧は、どことなく不満げに見えた。
 そんな様子で奥へ奥へと分け入っていく。

 けれど、今日の目的は自分用ではない。
 ……ひとさまのおうちに置いて帰る、何か。
 美術品なのか、調度品なのか、あるいは古い小瓶に入った種なのか。そこはまだ、ふわっとしている。

 でも大丈夫。
 ふわっとしているなら、有識者さんに聞けばいいのだ。



 ちるはは足取りはそのままに、市の奥へ向かった。
 そこでは二足歩行の大化け猫が、木箱の上でふんぞり返っている。

 ちるははドラ吉の商談がひと段落するのを待ってから、にっこり会釈した。
「ドラ吉さん、こんにちは」
「あ? なんや、えらいのんびりした姉ちゃんやな」
「いちばん有識者さんの審美眼を買いにきました」
「審美眼を買いに?」
「はい。あると思っていますが、ここになければきっとないので。それはそれで諦めます」
 ドラ吉の耳がぴくりと動く。
 ちるはは少し考えながら、言葉を選んだ。
「えと、ひとさまのおうちに置いて帰る何かを探していまして。この√に住んでいて、別の市を管理している、とても年上のかたなので。なんとなく近しい感覚のアドバイスを頂ければなと」
「ほう。相手は男か?」
「はい」
「どんな男や」
「ええと」
 ちるはは、ほんの少し視線を泳がせた。

 ――強いひと。長く生きて、戦って、退かずに歩いてきたひと。誇り高くて、声に芯があって、
 全部言うには、少し照れる。

「私の、よいひと、ですかね」
 言ってから、ちるはは自分で小さく瞬いた。
 ドラ吉がニヤリと牙を覗かせる。
「カカッ! ええやんけ。ほな、半端なもんは出されへんな」
「はい。半端じゃないと、嬉しいです」
「ほな、これはどうや」
 ドラ吉が取り出したのは古い香炉だった。
 掌に収まるほどの青銅製。表面には風をかたどったような文様が刻まれ、蓋の透かし彫りは、鳥にも、雲にも、刃にも見える。古びてはいるが、長く大事にされたのだろう、静かに渋みを増した色だ。
「香炉、ですか」
「火を入れてもええし、入れんでもええ。置いとくだけでも場が締まる。中に石でも入れて、願掛けに使う奴もおるな」
 ちるはは香炉を両手でそっと受け取った。重みはある。けれど、不思議と手のひらの中で落ち着く。
 文様に指先を滑らせる。
「きれいですね」
「やろ。派手じゃないが、腰が据わっとる」
「腰」
 よくわからないけれど、ちるはは納得した。
 たぶん、強い壺と同じ種類の話だ。

 あのひとの部屋にこれを置いたらどうだろう。
 古い木の棚の上。光の当たる場所より、少し影のあるところ。香を焚いたなら、煙がゆるやかに立つ。
 きっと、あの人を静かに見守ってくれるだろう。

「……いいですね」
「決まりか?」
「はい」
 ちるはは頷き、財布の紐をしっかりと緩めた。
「相談料込みで、きっちりお支払いします」
「値切らんのか?」
「目利き代は大事ですので」
「若いのによう分かっとるやんけ」
 ドラ吉は満足そうに笑い、香炉を布で丁寧に包んでくれる。その手つきは、豪快な声とは裏腹にずいぶん細やかだった。
「大事にしたりや」
「はい。だいじにしますね」
「おう、その彼とやらに宜しくな」
 カカッ! と最後に笑う声に、ちるははほんの少し、でもしっかりと頷いた。

 大三毛市のざわめきの中、ちるははのんびり歩く。
「喜んでくれると、いいですね」
 古い香炉は、まだ誰かの家を知らない。けれどきっと、遠くないうちに、誇り高い誰かの傍らで静かに煙を吐くだろう。
 香炉の包みは、ちゃんと片腕に抱えている。
 落とさないように、揺らさないように。

早乙女・伽羅
目・魄

 大三毛市の奥へ進むほど、喧騒はひときわ濃くなっていった。
 値切りの声、笑い声、金属の触れ合う音。布の天幕は陽を受けて淡く透け、古い銀器や刀装具の縁に柔らかな光を落としている。風が通れば、吊るされた品々が微かに揺れ、硝子、鉄、真鍮、それぞれ違う音で小さく応えた。
「こういう縛りも面白いね。俺の店は画廊だから、金物は大抵専門外になってしまうのだけど」
 早乙女・伽羅(元警察官の画廊店主・h00414)は、隣の目・魄(❄️・h00181)をちらりと見た。彼は、いつものやわらかな笑みを浮かべている。――ように見える。一見は。
「そわそわした風の君を見ているのも楽しいな」
「……そう見えるかい?」
「見えるとも。一見いつも通りの表情だけれど、俺にはわかるよ」
 魄は少し困ったように笑った。
 その表情は涼しげで、声も穏やかだ。けれど視線だけが、露店の奥へ、さらに奥へと吸い寄せられている。
「いや、良いね。いわく付き……しかも本物。商いに知見があるとしていても、この場はどうしても落ち着かない」
「いいことだ。落ち着ききっていたら、骨董市に来た意味がない」
 どの露店も賑やかだが、その中心に近づくにつれ、空気に更に活気に似たものが溢れてくる。
 その理由は、木箱の上にふんぞり返る二足歩行の大化け猫だ。
 サングラスの奥の鋭い視線が通りを睨み、尾がゆったりと揺れている。怒鳴られた客は背筋を伸ばし、それでも食い下がる。すると大化け猫――ドラ吉は、にやりと牙を覗かせる。
「なるほど。あれが噂の大親分か」



 二人は、前の交渉が終わってから悠々とドラ吉の露店へ近づいた。
 並んでいるのはさすが大親分の品というべきか。どれも一癖ありそうなものばかりだった。古い香炉、曇った銀盆、異国の燭台、黒漆の小箱、磨き込まれた刀装具。長い時間をくぐり抜けた品々がずらりと並んでいる。
 その中で、魄の足が止めたのは、木枠の棚に吊るされた風鈴だった。
 鈍い銀灰色をした、古い金属の風鈴。派手ではない。むしろ、一見すれば見落としてしまいそうなほど控えめなもの。けれど表面には細やかな文様が鋳込まれ、光を受けるたび、水面のように静かに揺らめく。
 魄は、それを見たまま黙った。
「……天明鋳物の風鈴か」
 呟きは小さかったが、ドラ吉の耳はぴくりと動く。
「ほう。分かるんかい兄ちゃん」
「少しだけね」
 魄は一歩近づき、礼儀正しく視線を上げる。
「見てもいいかい? 触れてはいけなければ、視るだけで」
「ええわ、丁寧に触れたりや」
「もちろん」
 魄は指先を伸ばし、風鈴に触れた。
 冷たい。
 けれど、ただ金属が冷えているのとは違う。長い時間、夏を経てきたものの冷たさだ。

 ふいに、市の通りを風が抜け、ちりんと澄んだ音がした。
 細く、涼しく、けれど芯がある。
 騒がしい大三毛市の真ん中で、その音だけがまっすぐ耳に残った。
「……うん」
 魄はほんの少し目を見開いた。
 それから、静かに笑う。
「気に入った」
 綺麗だとか、貴重だとか、御託は並べなかった。ただ、その一言で十分だ。
 ドラ吉が牙を覗かせる。
「値段も聞かん内からか?」
「高かろうが安かろうが、これが良いんだ」
 魄は風鈴から視線を離さない。
「俺の目に残ったのだから、もらうよ」
「惚れ込んだ顔やなァ」
「そうだね。惚れ込んだんだ」
 あっさり認めるものだから、伽羅は喉の奥で笑った。
「これは珍しい。魄が何かに執着を見せるのは、なかなかない」
「そうかな」
「そうとも。どれどれ」
 伽羅は横から風鈴を覗き込んだ。
 風鈴の歴史的な価値などは、伽羅には見当もつかなかった。けれど、銀灰色の肌には、長い夏をくぐってきたような静かな艶がある。
 絵画ではない。画廊に飾るものでもない。けれど、確かにいい品だった。
「綺麗な風鈴だねえ」
 伽羅は目元をやわらげる。
「つい先日、冬がやっと終わったとホッとしたばかりだと思っていたけど、もう夏の陰が近づいてきているのだものな」
 ちりん、と風鈴がまた鳴る。
 その音は、猫の耳にも心地よかった。夏の暑さの前触れを、ほんの少しだけ優しくしてくれるような音だ。
「うん。これがあの家の軒先で鳴っていたら、きっと素敵だろう」
 魄が、ちらりと伽羅を見る。
「あの家?」
「いつもの縁側だよ」
「……まだ買えると決まっていないけれど」
「なら、決めようじゃないか」
 伽羅はドラ吉へ向き直り、にこやかに声をかけた。
「ねえ、大将」
「なんや、今度はでかい猫の兄さんか」
「同族のよしみというわけじゃあないが、良い返事をくれないか」
 ドラ吉が片眉を上げる。
「兄さんも欲しいんか?」
「俺も、彼の家でこの音を聞きたいのだよ」
 その言い方があまりにも自然だったので、魄は一瞬だけ目を瞬いた。口元を隠すように軽く手を当てる。
「伽羅」
「何かな」
「そういう援護をするのかい」
「効くだろう?」
「……まあね」
 魄の声には、少し笑いが混じっていた。
 伽羅は何食わぬ顔をしている。けれど、その横顔はどこか楽しげだ。

 ドラ吉は二人を見比べ、それから風鈴を見上げた。
 しばらく黙っていたが、やがてカカッと笑う。
「そいつが鳴りたい言うてるなら、止めるんも野暮か」
 提示された値は、決して安くなかった。けれど魄は表情を変えず、すぐに支払う。値切る気など、最初からなかったらしい。
「ありがとう。大切にするよ」
「落とすなよ。割れはせんが、へそ曲げるで」
「風鈴にもへそがあるのかい?」
「あると思って扱った方が、骨董とは仲良うできるんや」
「それはいい教えだね」
 魄は丁寧に包まれた風鈴を受け取り、指先でそっと重みを確かめた。
 いつもの穏やかな笑みのままなのに、どこか嬉しさが隠しきれていない。
 伽羅はそれを見て、また少し笑う。
「いい顔をしている」
「そうかい」
「うん。俺にはそういうのもわかるんだ」
「便利だね、君は」

 大三毛市の喧騒の中、二人はゆっくり歩き出す。
 天幕の隙間から落ちる光が、魄の銀髪に淡く触れ、伽羅の眼鏡の縁をかすかに光らせた。遠くでまた値切り合戦が始まり、屋台の湯気が白くほどけていく。
 魄は包みを胸元に寄せる。大事な書類でも持つように、けれどそれより少しだけ浮かれた手つきで。
「ありがとう、伽羅」
「俺は少し口を挟んだだけだ」
「その少しが嬉しかったんだよ」
 魄はそう言って、ふと目を細める。
「帰ったら、いつもの縁側に吊るそう」
「夏が来るな」
「そうだね。きっと、良い夏になる」
 古い風鈴は、今はまだ布の中で眠っている。
 けれど二人にはもう聞こえているようだった。

 夏の午後。
 縁側に落ちる青い影。
 冷たい茶と少しぬるい風。
 隣の気配。
 そして軒先で、ちりんと鳴る音。

 そんな、小さな未来。

遊・悠

 骨・董・市!!

 遊・悠(はるかはるかに・h12535)は、その響きだけで既にだいぶ上機嫌だった。
「何と心の踊る響きであろう。骨董市。古きもの、珍しきもの、誰かの美意識が凝り固まったもの。うむ、よい。非常によい!」
 布の天幕の下には、刀剣、飾り皿、古びた楽器、奇妙な置物がずらり。値切りの声、笑い声、金属の鳴る音、そして焼きそばの匂い。すべてが雑多で、少し騒がしくて、妙に胸を弾ませる。悠はまるで宝探しをする小学生のような、軽やかな足取りで通りを進んだ。
「あれも良い。これも良い。む、あの硝子瓶の曲線も悪くないな。おお、あの欠けた皿の縁、まるで月の欠片ではないか」
 いちいち立ち止まり、いちいち感心する。
 店主たちも最初は「買うのか、買わんのか」と訝しげだったが、あまりにも楽しそうに褒めるので、次第に「まあ見ていけ」という空気になっていく。

 だが、悠は首をひねった。
「良い。どれも良いのだ。だが……もっとこう、ピンとくるものが欲しい」
 一目見て心が弾むもの。
 胸の内側で、泡がぱちんと弾けるようなもの。
 そういう出会いを求めて、悠はさらに奥へ進む。



 そして。
「ピピーン!!」
 突然、悠は一軒の露店の前で止まった。
 店主の妖怪がびくりと肩を跳ねさせる。
「な、なんや急に」
「来た。いま来たぞ。私の中の美が、鈴を鳴らした」
「鈴?」
「むしろ銅鑼!」
「はあ」
 視線の先にあったのは、一本の煙管だ。古びた銀の地に、細かな雲の彫りが入っている。吸い口はなめらかに磨かれ、雁首の部分には小さな水玉のような意匠が散っていた。派手さはない。けれど手に取れば、するりと指に馴染みそうな美しさがある。
「煙管か……煙草はやらんが」
 そこで、ぴたりと動きが止まる。彼の脳内には、たいへん鮮やかな光景が浮かんでいた。
 ほわんほわんほわ~~ん。

 ――それは、澄んだ青空の下。
 悠がこの煙管をくわえ、ふうと息を吹く。
 すると煙ではなく、七色に輝くシャボン玉がぽこぽこと飛び出すのだ。
 雲の彫りに沿って光が走り、泡は大小さまざまに連なって、市の上空へふわりふわり。子ども達が歓声を上げ、それを輝かしい目で眺める。

 イイ。
 悠は立ち上がった。実に晴れやかな顔だった。

「なんだかすごくイイぞ!!」
「お、おう」
「店主! これを貰おう!」
 あまりの即決ぶりに、店主は煙管と悠を交互に見た。それから、少しばかり真面目な顔になる。
「兄さん、ええんか? それ、ちょいと曰く付きやで」
「ほう」
「気に入らん持ち主には祟る。夜中に勝手に煙を吐くわ、枕元で火花散らすわ、ひどい時は髪の毛をちりちりに焦がす」
「ほう!」
 なぜか悠の顔はさらに輝いた。
「つまりこの煙管もまた、力を以て己を通す武強の持ち主ということだな?」
「いや、そういう格好ええ話やったかな」
「上等だ。受けて立つ!」
 悠は胸を張った。
 白い髪が天幕から差す光を受け、妙に神々しく見える。
「美とは馴れ合いではない。時にぶつかり、時に火花を散らし、そして最後には互いを認め合うものだ。煙管よ、キミが私を試すというならば、私もまたキミを見極めよう」
 煙管は黙っている。
 もちろん煙管なので普通は黙っているのだが、物凄く何か言いたげに黙っているように店主は感じた。
「ほんまに買うんか?」
「ああ。言い値で結構」
「値切らんのか?」
「私にとっては、それだけの価値のある品だ。――それに、天上人が払うべき対価を惜しんだとあっては笑い草であるしな」

 悠はさっそく袖から小瓶を取り出し、しゃぼん液の配合を考え始めた。水の粘度、膜の強度、吹き口の角度。煙管の細さを活かすなら、泡は小粒に連なるのがいい。だが一息で大玉を生む仕掛けも捨てがたい。
「まずは試作だな。名付けるなら……『ふわふわ丸』とかどう?」
 煙管はやはり物言いたげに黙っている。
 大三毛市のざわめきの中、古びた煙管は新たな持ち主の手で、まったく別の未来を勝手に決められていた。
 祟る気満々だったとしても、相手が悪い。祟りすら「個性」と呼びかねない男である。
 まだ煙も泡も出ていないのに、悠はもう満足そうに笑っていた。

階段亭・七段

「おこんにちわぁ~、ええ子が揃ってはるようでぇ」
 大三毛市の喧騒の中に、やけにのびやかな声が転がり込んだ。
 声の主は、桃色の髪を揺らした小さな講談師、階段亭・七段(階談『妖刀屋』・h04273)。にこにこと笑いながらも、その目は露店に並ぶ刀剣をひと振りずつ、きっちり見ていた。
 光り輝く刀達を見ながら、しかし七段はそれらに手を伸ばさず――やがて足を止めたのは、市の隅も隅。布の端が少し垂れ、客もろくに足を止めないような露店だった。

 箱の底に、他の金物と一緒くたに放られた刀がある。黒錆だらけ。刃こぼれだらけ。身幅は細く、拵えも貧相。抜けば一振りで折れそうな、誰が見てもガラクタ中のガラクタ。
 七段の顔が、ぱあっと明るくなった。
「それか? やめとき。ほんまのなまくらやで。飾りにもならん」
 七段はしゃがみ込み、刀へそっと目線を合わせた。
「そういう子ほど、ええ噺を持ってるもんですぅ」
「噺も何も……それ、仕入れた時から箱の底やったし」
「箱の底にも底の人生がありますやろ?」
「刀に人生があるんか?」
「ありますよぉ。少なくとも、私が語れば」
 七段は胸を張った。
「店主さん。お代は講談でいかがやろか?」
 周囲にいた客が、面白そうに足を止める。
 値切り合戦には慣れている大三毛市でも、講談で支払う客はそうそういない。

 店主も困ったように頭を掻いたが、やがて肩をすくめた。
「まあ、どうせ売れん刀や。面白かったら考えたる」
「おおきに。ほな――」
 七段は一歩下がり、扇をぱちんと開いた。



「さて」
 その一声で、空気が変わった。
「時は昔、ところはどこぞの骨董市。独り身の浪人ひとり、財布も軽けりゃ心も寒い。腹を空かせてふらりと歩けば、店の隅に転がる一振りのなまくらを見つけた」
 まあ、これが斬れない、光らない、鞘はがたつく、鍔はゆるい。褒めるところといえば安いことだけ。
 浪人はそれでも妙にそいつが気になった。売れ残りの刀と、売れ残りの己。
 見比べているうちに、浪人、ぽつりと呟いた。
『お前も誰にも選ばれなんだか。奇遇やな、俺もや』

 その夜のこと。
 ぎしりと床が鳴る。浪人が目を開けると、枕元に女がひとり立っていた。錆色の髪、刃こぼれの簪、着物はくたびれているが、目だけは妙に鋭い。
 七段は扇で口元を隠し、女の声を真似る。
『ようもまあ、こんな私を買うたなぁ』
 今度は浪人の声で、眠そうに。
『安かったからな』
 周囲から笑いが漏れる。
 女はむっとした。
『なら見せたろ、なまくらにも意地があるところを』

 それから二人の奇妙な暮らしが始まった。
 女は斬れぬ刀。敵は倒せぬ。妖も払えぬ。
 けれど飯はよう作った。大夜更けに浪人が寒い寒いと震えておれば、鞘から抜け出して火鉢の番をする。浪人が寝坊すれば、枕元で鍔を鳴らして起こす。

 だがある日、浪人は食うに困って、つい質屋の前に立った。懐は空。腹も空。手元にあるのは、あのなまくら一本だけ。
 その日はなんとか家に帰った、その夜のこと。

「女が枕元に立っておりました。いつもの怒り顔ではありません。少しだけ、寂しそうな顔をしております」
『旦那はん。私を売るなら、せめて研いでからにしておくれやす』
 見物客が息を詰める。
「浪人は、その一言で質屋に行くのをやめました。代わりに朝一番で研ぎ屋へ走った。財布は軽い。飯は抜き。けれど初めてのことでした
 やがて月日が経つ。
 刀の女は、相変わらず口が悪い。けれど飯は焦がさず、寝坊は許さず、寒い夜には黙って火鉢を温めている。
「ある夜、浪人は言いました。『お前も冴えん女やな』。女は答えます。『それでも、ずうとここにおります』。浪人は笑って、『なら、十分や』と申しました」
 扇がぱちんと閉じられる。
「一席、講談『妖刀屋』より――なまくら女房。これにて読み切りにございますぅ」

 一拍。
 そして市の片隅に、ぱちぱちと拍手が起きた。やがてそれは広がって、店主も照れくさそうに鼻を鳴らす。
「持ってけ」
「ほんまどすか?」
「おう。ええ噺やったで、坊」

 名刀でなくとも、業物でなくとも、誰にも選ばれなかった一振りでも。
 ――階段亭・七段。彼が語れば、そこに確かに価値ができる。
「よろしゅうなぁ。これからキミの噺、私がちゃあんと語ったげます」

シルヴァ・ベル

 シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)は、人波の少し上をふわりと飛びながら、青い瞳をきらきらと輝かせていた。
 これが噂の〈大三毛市〉!
「まあ、まあ、凄い活気!」
 もっと近くで市場を見たい。けれど、油断すると人の肩や荷物に巻き込まれそうになる。
 身の丈十五センチの妖精にとって、大三毛市は宝の山であり、同時に巨人たちの大海原でもあった。
「ごめんあそばせ、通ります。まあっ、櫛が山脈みたいですわ。あら、こちらの銀匙はわたくしより長いのではなくて?」
 ひらり、ふわり。
 蝶の翅を震わせ、人混みの隙間を器用に抜けていく。近くの露店で値切り合戦が始まると、威勢のいい声がびりびりと翅に響いた。
「ふう。小さい体でよかったですわ。……いえ、今の声量は小さくても響きますけれど」
 少しだけ翅を押さえながらも、顔は楽しそうだ。
 美しいものと美味しいものに目がないシルヴァにとって、この市は誘惑が多すぎる。七色に光る硝子玉、繊細な銀細工、全部見たい。――けれど、今日の目的は決まっている。

「まずは、ドラ吉様にご挨拶いたしましょう」
 目当てのものを持っているとしたら、きっと彼だ。



 シルヴァは笑いの波が落ち着くのを待って、すうっと木箱の前へ降りた。
 小さな両手でスカートの端を摘み、きちんとお辞儀をする。
「ごきげんよう、ドラ吉様。アマリリス通りのシルヴァ・ベルと申します」
 ドラ吉の耳がぴくりと動いた。サングラスの奥の視線が、ぐっと下へ向く。
「おうおう、ちっこいお嬢さんやな。踏まれんよう気ぃつけや」
「ありがとうございます。踏まれそうになりましたら、押し返しますので」
 それを聞いたドラ吉が愉快そうに喉を鳴らす。
「ドラ吉様。わたくし、趣味でティーセットを集めておりますの」
「ほう。茶道具か」
「はい。お客さまにお出しする人間用のもの、自分で使うミニチュアのもの、どちらも。できれば――お揃いなら、なお良いわ」
 言いながら、シルヴァの目がきらきらと輝く。人間用のカップと、妖精用の小さなカップ。並べれば親子みたいで、同じ花柄ならもっと素敵だ。
「もしもお心当たりがあれば、売ってくださらないかしら」
「揃いのティーセットなァ……」

 ドラ吉は顎を掻き、それから思いついたように奥の棚へ顎をしゃくった。
 若い妖怪が箱を一つ抱えてくる。黒塗りの木箱だ。蓋を開けると、中から古布の香りがした。
 中に収められていたのは白磁のティーセットだった。金の縁取りに、星のような小花模様。カップ、ソーサー、ポット、砂糖壺。――そして、その横に同じ模様の小さな小さなセットが並んでいる。シルヴァの片手で持てるくらいのポットと、合わせたサイズのカップ。
「まあ……!」
 シルヴァは思わず両手を頬に当てた。
「なんて可愛らしいのでしょう。本当にお揃いですわ」
「昔、でっかい奥方とちっこい使い魔が一緒に茶ぁ飲むために作らせた品らしいで」
「一緒に」
 その言葉に、シルヴァは少しだけ表情をやわらげた。
 ものとひとの間には縁がある。店に流れ着く品は、ただの偶然でそこに来るわけではない。たぶん、このティーセットもそうなのだろう。
 シルヴァは手袋を整え、小さなカップにそっと触れた。
 使い込まれているが、白磁のつるりとした表面に見えるような傷はない。
「……本当に素敵」
「悪い品やない。せやけど、欲しがる奴が少なくてな。片方だけやと意味が薄い」
「ええ。これは揃っているからこそ、より素晴らしいのです」
 シルヴァはきっぱりと言った。ドラ吉がにやりと牙を覗かせる。
「値は安うないで」
「承知しております。わたくしも商いをしておりますから、よい品に正しいお代が必要なことは、よく存じていますわ」
「値切らんのか?」
「少しだけ、可愛らしくお願いしても?」
「カカッ! 正直でええな!」
 そこからの交渉は、なかなか和やかなものになり、最後には、小さな砂糖匙を一つおまけにつけてくれた。
「ありがとうございます、ドラ吉様。大切にいたします」
「おう、一緒に使ってやってくれ」

 木箱を念動力でふわりと浮かせ、シルヴァは胸を弾ませて市へ戻る。
 帰ったらまず磨いて、棚の一番よい場所へ。
 人間用のカップにはお客さまのお茶を、自分用の小さなカップには同じ香りの一杯を。
 大三毛市のざわめきの中、シルヴァは嬉しそうに微笑んだ。

緇・カナト
トゥルエノ・トニトルス

「骨董市というのがあるらしいな……!」
 トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)は、大三毛市の入口で青い瞳をきらきらさせていた。布の天幕が幾重にも重なり、露店の間を人と妖怪が行き交う。値切りの声、笑い声、古い金属の鳴る音。どこからか漂ってくる焼きそばの匂いに、緇・カナト(hellhound・h02325)の腹が小さく鳴った。
「へぇ……賑やかだねぇ」
「古き良きを知るのに好都合だろう。主も暇しているのであれば、共に行こうではないか!」
「もう来てるじゃん」
「主なら、ここからやっぱり帰るとか言いかねないからな! 先回りだ!」
 カナトは柔らかく笑い、トールは当然という顔で頷いた。
 黒い雷獣がヒトの姿を取ると、どうにも小さく見える。けれど自信たっぷりの足取りは、体格の大小など気にしていない。露店の前に並ぶ品々を眺めながら、トールはふむと顎に手を当てる。

「しかし、主とわたしでは好みも異なっているだろう。別行動になるのならば、それはそれ」
「なあ、オレもちょっと行きたいところがあるしね」
「あの大親分とやらか?」
「折角の機会だし逢いに行きたくて」
 カナトの声はいつも通り穏やかだった。
 けれど、その灰色の瞳の奥に、少しだけ違う色が差す。
「勿論、化け猫の店主の顔じゃなくって。自分の欲したモノを、手に入れる資格があるか――そっちの方を試しにだけど」
「ふむ」
「トールの御守り探しが二の次になるのはスマンな」
「構わぬ。楽しい思い出話は後で聞かせるがいい」
 堂々と言い切って、トールは別の通りへ向かった。
 カナトはその背を見送ってから、市の奥へ歩き出す。



 大三毛市の奥には、やはり空気が違う場所があった。木箱の上にふんぞり返る大化け猫――ドラ吉が、客を相手に豪快に笑っている。
 カナトはその笑いの輪が落ち着くのを待って、するりと近づいた。
「こんにちは、ドラ吉さん。懐剣を探しているんだけど」
「いらっしゃい兄ちゃん。見るだけなら好きに見てき」
 ドラ吉の露店には、刀剣がいくつも置かれていた。美しいもの、厳しいもの、静かなもの。どれも長い年月をまとい、ただの金属ではない気配を帯びている。
 その中で、カナトは一本の懐剣の前で足を止めた。

 小さな守り刀だった。鞘は黒く、古い銀の金具には細い雷文が刻まれている。
「守り刀、と呼ばれるくらいだしね」
 カナトは膝を折り、視線を合わせるようにして懐剣を見る。
「――ドラ吉さん。此の場に置かれる物は、とても長い年月を経ているんだと想う。刀剣は何かを斬る為に存在している。持ち主を護る本懐のため、もう既に斬った後なのか。それとも一度も抜かれぬ美しさのまま、今日まで済んだのか」
 ドラ吉は黙っている。
 カナトは続けた。
「武器とは何の為にある?」
 それは誰かへ向けた問いでもあり、自分へ向けた問いでもあった。
 首輪と鎖を引きずって夜を彷徨う獣にとって、武器は命令の道具だった。傷つけるための牙だった。
「その答えを識っていそうな此の一振りを、手にする資格があるか。判断を委ねたいんだけど」
 ドラ吉は、サングラスの奥からじっとカナトを見た。
 それから懐剣へ視線を落とし、低く喉を鳴らす。
「そいつが今、兄さんの手に収まる言うんなら、わしが止める理由はない」
 でもな、とドラ吉は尾をゆっくり揺らした。
「その答えはな。そいつの中だけ探しても出てこんで」
 カナトは、懐剣を見下ろす。
「武器とは何の為にある? ってやつ?」
「おう。守り刀や言うてもな、兄ちゃんの言うように、刀は斬る為のもんや。守り刀でも、斬らな守れん時がある。せやけど――何のために抜くかは、刀が決めることやない」
 ドラ吉は牙を見せ、少しだけ笑った。
「そいつが長生きしとるから、答えを知ってそうに見えるんやろ。けど、長生きした品は答えをぽんと教えるもんやない。それどころか、新しい問いを残してくんや」
「問いを」
「ああ、そいつは性格悪ィからな。問いも一緒に持って帰り。腹ぁ空かせながらでも、適当に歩きながらでも、考えたらええ」
 ドラ吉は懐剣を布で包み、カナトへ差し出した。
「ま、兄さんなら噛み砕けるやろ。歯も強そうやしな」
 カナトは少しだけ目を瞬き、それから柔らかく笑った。
「それはどうも。……じゃあ、遠慮なく」
「代金はきっちり貰うで」
「うん。問いの代金だと思えば、安い方かもね」
 懐剣を受け取ると、手の中にずっしりとした重みを感じた。

 布越しの刃は何も言わない。
 けれど沈黙ごと連れていくには、悪くない重さだった。



 その頃、トールはカトラリーの露店で真剣な顔をしていた。
「これが、カトラリー」
「そうや。匙とか、フォークとか、ナイフやな」
 店主の妖怪が並べた木箱の中には、銀匙、真鍮のフォーク、骨の柄がついた小さなナイフ、花の意匠が刻まれたバターナイフまで、大小さまざまな食卓の道具が収まっていた。
 トールはその前にしゃがみ込み、青い瞳をまっすぐに向けた。
「食事というのは、日々の行いだろう?」
「まあ、せやな。生きとったら腹は減るしな」
「うむ。腹は減る。主もよく減っている」
「主?」
「こちらの話だ」
 並んだ銀匙や真鍮のフォークを眺めていくうちに、ひとつのセットで目が止まった。
 細い柄に、蔦と小さな葉の模様が彫られている。少しくすんだ銀色は、長い時を経て曇っているのではなく、森の影を抱いたように静かだった。葉脈の細工は細やかで、指でなぞれば、春先の若葉に触れるような気がする。
「ええ品やで。前の持ち主は、毎朝これで果物を食うてたらしい」
 トールはフォークをひとつ手に取り、角度を変えて眺めた。
 先端は鋭すぎず、柄は細いが頼りないわけではない。どんな手にも馴染むだろう。使い込まれた傷はあるが、それも乱雑なものではなかった。食卓の中で、丁寧に重ねられてきた傷だ。
「うむ、これはいいな。食卓に並べて使う日が訪れるのも楽しみだ!」
「飾りにせんのか」
「道具であるなら、役目を果たせる方が嬉しかろう?」
 店主は少し目を丸くした。
 それから、ゆっくり笑う。
「……そやな。わしもそう思うわ」
 告げられた値段を、トールは少しも疑わなかった。
 しかし、財布を開いてから、――あ、と真剣な顔になる。
「主に食事を奢る余地は残るだろうか……?」

 トールの持つ小さな包みの中で、銀の葉は静かに眠っている。いつか食卓に並び、また役目を果たす日を待つように。
 その足で、隣の屋台へ向かった。
「団子を二本頼む」
「あいよ!」
 というわけで、手には小さな包みの他に、あっつあつの団子が二本。一本は自分用。もう一本は、合流した時のため。
 さて、主の方の戦利品はどうなっただろうか? うまく行かなかったなら、
「これは主の分、と」
 念のため、先に決めておく。
 そうしておかないと、先にうっかり両方食べてしまう可能性がある。美味しそうだからだ。仕方ない。
「うむ。これでよい」
 トールは誇らしげに胸を張り、カナトとの合流場所へ向かって歩き出した。

 古き良きものを知り、日々へ持ち帰る。
 骨董市とは、なかなか奥深く、そして美味しい場所であるらしかった。

シンシア・ウォーカー
神隠祇・境華

「来ました、骨董市!」
 シンシア・ウォーカー(放浪淑女・h01919)は、大三毛市の入口でぱっと表情を明るくした。
 幾重にも重なる布の天幕。行き交う人と妖怪。値切りの声、笑い声、どこかで鳴る金属の涼しい音。空気には古い紙と湿った金属、それから焼きそばの匂いが混ざっている。
 その隣で、神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)は金の瞳をゆるく細めた。
「シンシアさん、とても楽しそうですね」
「もちろんです。旅先の市場ほど、心が弾む場所はありませんから」
 そう言ってから、シンシアはきょろきょろと露店を見回す。
 年代物の酒瓶。色硝子のグラス。刺繍の古布。よく分からない置物。どれもこれも、こちらを手招きしているように見えた。
「何を探しましょうか。年代物のお酒とか、グラスでも良いのですが……ううむ。境華さんは何が気になりますかっ。やはり書籍?」
「私はそうですね……書籍か、それに関わるような物が気になります」
 実にシンシアさんらしい選択肢ですね、と境華は微笑む。
 シンシアは「やっぱり」と楽しげに頷く。
「では、まずは本を探しましょう! 私も古い地図とか旅行記なら気になりますし」
「それは素敵です。知らない場所の記録は、知らない物語に近いものがありますから」

 二人は並んで市の中へ歩き出した。
 最初に立ち寄ったのは、古布と装身具の店。細い引き出しの中に、アンティークレースが丁寧に畳まれている。生成り色、淡い灰色、少し黄ばんだ白。古い時間を吸った糸は、触れずとも柔らかそうに見えた。
「これを手袋に加工しても可愛いかもしれません」
「シンシアさんに似合いそうです」
「本当ですか? では買うべきでしょうか。いえ、でもこちらの眼鏡も素敵で……」
 店主に断りを入れると、シンシアは丸い金縁の眼鏡を手に取って、そっと顔に当ててみせる。
「どうでしょう。知的な淑女に見えますか?」
「はい。とても」
「では買うべきでしょうか?」
「シンシアさん、さっきから買う理由を探していませんか?」
「なんとなく、これ! っていうものがなくて」
 二人でくすくす笑いながら、また次の店へ。
 小さな硝子瓶の店では、境華が瓶のラベルに書かれた古い文字を読み取ろうとして数分黙り込み、シンシアが「境華さ~ん」と手を振る。
 逆に酒器の店では、シンシアが「この杯、冷酒が似合いそうですね」と真剣になり、境華が「シンシアさん?」と控えめに引き戻した。

 よく目移りしていると、気が付けば随分奥まで来てしまっていたようだ。
 そこには噂に聞く大親分、ドラ吉の露店があった。
 木箱の上にふんぞり返った大化け猫が客を相手に豪快に笑っている。
 シンシアはぱちぱちと瞬きし、境華は少しだけ感心したように見つめた。
「すごい迫力です」
「でも、なんだか楽しそうですね」
 ドラ吉の露店は、さすが大店だった。
 刀剣や装具だけでなく、古書、巻物、魔導書、額装された古い譜面まで置かれている。境華の金の瞳が、そこで一気に輝いた。
「……あります」
「境華さん?」
「古書や巻物、魔導書……流石です。流石大店です」
 少し声がふわふわしている。
 読書や物語のことになると周りが見えなくなる自覚はある。あるのだが、目の前に本がある。――ならば仕方がない。
 境華は、棚の一角でふと足を止めた。
 古びた布表紙の本が一冊、他の本に埋もれるようにして置かれている。表紙には題名らしい文字があるが、擦れていて読みにくい。けれどなぜか、その本はこちらを見ているような気がした。
「……目が合いました」
「本と?」
「はい。本に目はありませんけれど……確かに、見られたような気配がします」
 シンシアは真面目に頷いた。
「本が境華さんを選んだのですね。旅先ではそういうこともあります」
「ありますか?」
「あります」
 その自信がどこから来るのかは分からない。
 けれど、境華は少しだけ安心した。
「ドラ吉さん。……こちら、お売りいただくことはできますか?」
「お、姉ちゃん目ぇ利くなァ。そいつは古い旅語りや。どこのもんかは知らんが、土地の怪異と昔話が混ざっとる」
「旅語り……」
 境華の目がさらに輝く。
「あと、こちらと、これと……」
「増えましたね、境華さん」
「この本達が、私に読まれたいそうです」
「それなら仕方ありませんね」
 シンシアがにこにこと見守っていると、凄まじい量の本が境華の横に積まれていった。
 冊数についてはここでは控えるが、シンシアは最後に「わあ、本が……」と真面目な声でつぶやいたという。

 無事に本を包んでもらった頃、シンシアの視線はふと隣の店の棚へ吸い寄せられていた。
 古い楽器が並んでいる。その中に一本のアコースティックギターがあった。
 使い込まれたマホガニーの胴は、深い飴色をしている。傷もある。けれど雑に扱われた傷ではなく、長い旅の途中でついた小さな記録のようだった。光が当たると、木目がゆるやかな波のように浮かぶ。
「……気になりますね、このアコギ」
「シンシアさん、弾けるのですか?」
「音楽的素養は一切ありません」
「一切」
「はい。一切です」
 堂々と言い切ったので、境華は思わず笑った。
「でも綺麗でしょう? このマホガニーの色味。魔術師として、杖に使われる木材の相場観はわかります。加工の手間も考えると……安くはないのでしょうけれど」
 シンシアはギターの前にしゃがみ、店主へ丁寧に尋ねた。
「こちら、いかほどで?」
 告げられた値段に、彼女は一瞬だけ淑女らしく微笑みを固めた。
「……なるほど。なかなか立派なお値段です」
「ええ品やからな」
 店主が軽く弦を弾くと、やわらかな音がこぼれる。
 完璧ではない。少し枯れて、少し低く、けれど旅先の夕暮れによく似合いそうな音だった。
「本当ですね……まずは、持ち方から教わる必要がありそうですが」
 境華がその横で、包まれた本を見ながらくすりと笑う。
「いつかシンシアさんが弾いて下さるのですか? 楽しみです」
「その言い方をされると練習から逃げられませんね」
「逃げる予定だったのですか?」
「い、いえ……れ、練習しますともっ! 猛烈に!」



 ――結局、シンシアはギターを買った。

 境華は大事そうに大量の本を抱え、シンシアは少し大きなギターケースを抱える。
 シンシアが本に埋もれている境華の顔を見る。
「境華さん、本が……増えましたね」
「はい。この本達が、私に読まれたいそうです」
「それは大変です。きちんと読んで差し上げないと」
 今度は境華が、シンシアのギターを見る。
「ギターの音色、とても楽しみです」
「境華さんの期待がまっすぐで眩しいですね!」
 そう言いながら、シンシアは機嫌がよかった。
 旅の途中で予定にない荷物が増えることはよくある。古いレース、変な地図、土地の酒、知らない誰かの記録。
 今日はそこに、ギターが加わっただけだ。
 たぶん、そう。
 突発的に加わったにしては、かなり大きいものだけれど!

 境華は嬉しそうに微笑む。
 シンシアもその横で笑う。
 大三毛市の空気は、尚も賑やかだった。

 古い本は読まれる日を待ち、古いギターは弾かれる日を待っている。
 そして二人は、今日見つけた物語と音色を抱えて、人混みの中を並んで歩き出した。

野分・時雨
葵・慈雨

「猫さんの骨董市だ~!」
 大三毛市の入口へ辿り着くなり、葵・慈雨(掃晴娘・h01028)はぱっと両手を上げた。
 幾重にも張られた布の天幕の下、露店がぎっしりと並んでいる。古い金具の匂い、湿った木箱の匂い、焼きそばと甘味の匂い。値切りの声と笑い声が重なって、通り全体が大きな縁日のように揺れていた。
 その隣で、野分・時雨(初嵐・h00536)は少しだけ目を細める。
「骨董市って……ウチにはたくさんあるでしょうに」
 長屋の萬屋にも、流れ着いた古物は山ほどある。壺、皿、掛け軸、よくわからない木彫り、時々勝手に鳴る鈴。
 だからわざわざ骨董市まで来る理由はあるのだろうか、と時雨は思った。
「お目当てのものがあるんですか?」
「あるよ!」
 慈雨は胸を張った。
「今日はね、なんと! 大事なものを入れるための、小さい箪笥を探します!」
「小箪笥」
「そう、小箪笥!」
「……それもウチにありそうですけど」
「新しい出会いは、外に探しに行くものなの!」
 とてももっともらしい口調だった。
 けれど時雨は知っている。慈雨はだいたいこういう時、半分くらい勢いで動いている。

 大三毛市の奥から大きな笑い声が聞こえた。噂の大親分、ドラ吉の声だろう。
「猫さん言うて、怖い猫さんだし……」
「大丈夫だよ。きっと良い猫さんだよ」
「良い猫さんは大声で値切り客を叱りますかね」
「元気な猫さんなんだよ」
 慈雨はずんずん進んでいく。
 時雨はその後ろを小走りで追った。人混みは濃い。慈雨はあっちの皿、こっちの布、向こうの奇妙な棚へ、すぐに視線を吸われる。
「ねー。うろうろしないでくださいよう。はぐれたら、ぼく、叫びますよ」
「気をつけるよう。……さ、叫ぶの!?」
「叫びます」
「それはちょっと恥ずかしいかも」
「なら、はぐれないでください」
 時雨が淡々と言うと、慈雨は笑って少しだけ歩幅を緩めた。



 市の奥、ひときわ賑やかな一角に、ドラ吉の露店はあった。
 木箱の上にふんぞり返った大化け猫が、サングラスの奥から客を睨み、時折カカッと豪快に笑っている。周囲には家具、古道具、小箱、刀装具、掛け軸まで、選ばれた品々が整然と置かれていた。
「こんにちは~!」
 慈雨は物怖じしない。
 時雨はその半歩後ろに立ち、店主と品物と値札を素早く見た。ふっかけられないように。だって、慈雨だから。
「大切なものをしまう小箪笥を探しています! おすすめのもの、あるかしら?」
「おお、元気な姉ちゃんやな。大切なものなァ……ほな、あれなんてどうやろ」
 ドラ吉が顎をしゃくると、奥から若い妖怪が小さな箪笥を運んできた。
 抱えられるほどの大きさで、木目は飴色。角には古い金具が打たれ、引き出しの取っ手は小さな輪になっている。
 派手ではない。けれど、長く誰かの部屋に置かれ、年月を経てきた、落ち着いた艶があった。
「まあ……」
 慈雨の目が輝く。
「かわいい小箪笥さん」
「古い家から出たもんや。よう使い込まれとるやろ」
「大事にされていたのね」
 慈雨は小箪笥の前にしゃがみ込む。
 指先でそっと木肌に触れ、耳を澄ますように目を閉じた。
「……うん。大事にされていたって、小箪笥さんも言っているもの」
「言ってます?」
 時雨は思わず聞いた。
「言ってるよ。たぶん」
「たぶん」
 時雨は困ったように小箪笥を見る。
 確かに、悪いものではなさそうだった。木はしっかりしているし、引き出しの噛み合わせも良い。金具も古びてはいるが、嫌な錆はない。むしろ、手入れすればよく光りそうだ。
 ――ただし、値札がある。
 そしてその値札は、時雨の眉をぴくりと動かす程度には立派だった。
「た、高い……!」
 慈雨も同じところを見ていた。
「でも! それくらい価値があるのよね……!?」
「待ってください。今の反応、買う人のそれですか?」
「だって、良い子だよ!」
「良い子でも交渉はしましょうよ!」
 時雨は慈雨の後ろから、そっとドラ吉を見る。
 相手は大親分。並の店主より手強い。だが慈雨はこういう時、あっさり言い値で買いそうで危うい。
「大将。こちら、少し――」
「買っちゃおうかな!」
「え、そのまま買うの!?」
 時雨の声が、市の喧騒に小さく混ざった。
「値段交渉しないんですか!?」
「でも、大事にされていた子だし」
「大事にされてたら高くても買っていいわけじゃないですよう!」

「だって、しぐちゃんが使うものだから!」

 時雨が固まった。
「……はい?」
 慈雨は小箪笥を見て、また時雨を見る。
「しぐちゃんの大事なものを入れる小箪笥」
「うぇ、あの、棚って」
「うん」
「ぼくの?」
「うん!」
 慈雨はたいへん明るく頷いた。
 時雨は少し口を開けて、閉じて、もう一度小箪笥を見た。
「い、いいですよ、ぼく使わないですよ」
「えっ、使わないの!?」
「私物増やしたくないし」
「でも、しぐちゃん、時々そのへんに物を置くでしょう」
「置きますけど」
「手紙とか、古い札とか、貰い物とか」
「……置きますけど」
「それをしまえるよ」
「そりゃ、あれば使いますけど」
 そこまで言ってから、時雨は自分でしまったという顔をした。
 慈雨はぱっと笑う。
「ほら、使う!」
「今のは言葉の綾です」
「使うって言ったもの」
「慈雨さん」
「それにね」
 慈雨は小箪笥を撫でる手を止め、少しだけ声をやわらげた。
「大事なものが増えるのは、良いことでしょう」
 その言葉は、値切り声や笑い声の隙間を通って、まっすぐ時雨の耳に届いた。
 時雨はすぐに返事ができなかった。
「私も、いつもお世話になっているから」
「……ぼくが?」
「そうだよ。とても」
「別に、ぼくは無為に過ごしてるだけです」
「その無為に、私はずいぶん助けられているよ」
 時雨は目を逸らした。
「慈雨さん、ご自身のもの買ってくださいよう」
「私はいいの」
「よくないです」
「お迎えしてーって骨董さんの声は聞こえるけど、これ以上増やしたら、しぐちゃんが寝起きしている物置部屋から溢れちゃうから……!」
「それなのにこの大きさのものを!?」
 ドラ吉が二人を見比べ、喉を鳴らした。
「……なんや、えらい仲ええなァあんたら」
「えっ」
 時雨が変な声を出す。
「仲良しです」
 慈雨が即答する。
「即答しないでください」
「違うの?」
「ち……がわないですけど」
「なら仲良しだね」
「……あ~~、もうそれでいいです」
 時雨は顔を背けた。
 耳のあたりが、ほんのり熱い。牛鬼にもそういうことはある。
 ドラ吉はカカッと笑い、値札を指で弾いた。
「ほな、仲良し代で少し勉強したるわ」
「仲良し代」
「ええ響きやろ」
「大将、僕もうそれで安くなるなら何でもいいです」
 時雨はすかさず早口で言った。
 慈雨が「あっ、交渉してくれた」と嬉しそうに手を合わせる。
「しぐちゃん、頼もしいね」
「買うならせめて損しないようにするだけです」
「ありがとう」
「まだ買うって決まってません」
「決まってるよ?」
「慈雨さん」

 ――はい。結局、買うことになった。
 慈雨が財布を出し、時雨が横から金額を確認し、ドラ吉が「細かい兄ちゃんやな」と笑い、時雨が「細かくないと慈雨さんが全部言い値で買うんです」と返す。
 そのやり取りの間、小箪笥はただそこにあり、まるで二人の会話を静かに聞いているようだった。
「持って帰れるか?」
 ドラ吉が聞く。
「大丈夫です。ぼくが持ちます」
「え、しぐちゃん、これけっこう重いよ?」
「このくらい持てます」
 時雨はむっとした顔で小箪笥を抱えた。確かに重い。けれど、持てないほどではない。

 これは、自分のものになるらしい。
 自分の部屋に置かれるらしい。
 そこに、何かをしまうらしい。
「どうするの、こんな大きなもの」
「言ったじゃない、しぐちゃんの部屋に置くの」
「物置部屋です」
「じゃあ、物置部屋改め、しぐちゃんのお部屋に」
「……まあ、大事には、しますけど」
 言ってしまってから、時雨は口を閉じた。
 慈雨がこちらを見る気配がする。きっと嬉しそうな顔をしている。それがわかるから、余計に見られたくない。
「なんか、むずかゆい」
「ふふ」
「あっち向いててください」
「はいはい」
 慈雨は素直に横を向いた。
 ただし、口元はゆるみっぱなしだった。



 買い物を終えて、二人はまた市の中を歩き出す。
 時雨は小箪笥を抱え、慈雨はその隣を少し弾んだ足取りで歩いた。途中、慈雨は何度も他の露店に目を奪われたが、そのたびに時雨が「うろうろしない」と小声で言う。慈雨は「はーい」と返す。返すだけで、また別の品に目を輝かせる。
 どこかでドラ吉の豪快な笑い声が上がり、値切りに勝った客の歓声が続いた。天幕の隙間から射す光は柔らかく、古い金具や硝子をきらきらと光らせている。
 慈雨が隣で、ぽつりと言った。
「おうちに置くの、楽しみだね」
「慈雨さんのものじゃないんでしょう」
「うん。しぐちゃんのもの」
「……なら、ぼくが部屋のどこに置くかを決めます」
「もちろん」
「勝手に中を見ないでください」
「もちろん」
「勝手に何か入れないでください」
「それは……時々、お菓子くらいなら」
「慈雨さん」
「だめ?」
 時雨は横目で慈雨を見る。
 慈雨はにこにことしている。まったく悪びれていない。
 時雨は負けたように息を吐いた。
「……湿気ないものなら」
「やった」
「やったじゃないです」
 慈雨は嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見ると、時雨はもう何も言えなくなる。ずるい、と少し思う。けれど、それを嫌だとは思わなかった。

 今日、慈雨が買ったのは、小さな箪笥。
 ただの箪笥。
 でも。
 むずかゆくて、少し重くて。
「……言い忘れてました」
 自ら手離す気にはなれない。
「ありがとうございます」
 時雨が小さく呟くと、慈雨はただ、いつもの声で答えた。
「どういたしまして」
 小箪笥の金具が、歩くたびにかすかに鳴った。

第2章 日常 『ハーモニカ横丁探索』


「夜市に行くで」
 君たちを迎えたのは、昼間に見かけた三毛の大化け猫、ドラ吉だ。
 二足で立ち、サングラスの奥からぎらりと目を光らせ、尾をゆったり揺らしている。肩には古びた羽織、片手には提灯。そこに描かれた三毛猫の紋が、夜風に揺れていた。
「カカッ! 昼の骨董市もええが、夜の横丁は別腹や。今夜はわしが案内したる」
 ドラ吉が顎で示した先には、細い路地があった。√妖怪百鬼夜行、吉祥寺――ハーモニカ横丁。

 普段から狭い通路に店が詰め込まれた迷宮じみた場所だが、今夜はさらに様子が違う。
 軒先には赤提灯が連なり、店と店の隙間には小さな屋台が無理やり滑り込み、頭上には色とりどりの短冊や幟が揺れている。路地の奥まで灯りが続き、まるで夜そのものに細い金の糸を縫い込んだようだった。
 焼き鳥の煙。
 鉄板で焦げるソース。
 甘い味噌だれ。
 揚げたての天ぷら。
 湯気立つ小籠包。
 冷えたラムネと、注がれる酒の匂い。
 夜風に混じったそれらが、容赦なく腹の虫を叩き起こしてくる。
「今夜はハーモニカ横丁の屋台市や。いつもの店に加えて、流れの料理人やら、奥の妖怪やらが集って、何売っとるか分からん屋台まで出とる」
 ドラ吉はにやりと牙を見せた。
「食べ歩きにはもってこいやろ?」

 入口近くには、炭火でじゅうじゅう焼かれる《猫目焼鳥》。
 山椒の香る一口餃子を出す《福々鉄鍋》。
 甘辛い味噌おでんの《三日月屋台》。
 揚げたてコロッケを紙に包んで渡す《からころ亭》。
 黒蜜豆花と冷たい茶でひと息つける《白雨茶房》。
 少し奥へ行けば、狐のカミさんの《おまかせ狐火》や、もっとディープな屋台だってある。
「どこから回るかは好きにせえ。飯で攻めても、甘味で攻めても、酒で攻めてもええ。店主と話してもええし、常連に混じっておすすめを聞くんもアリや」
 横丁の奥から、どっと笑い声が響く。
 それに混じって、笛の音、三味線の音、皿を打つ音。どこかで誰かが乾杯をし、どこかで誰かが熱々のたこ焼きに悶えている。

「一軒目や」
 カカッ、と豪快に笑って、化け猫は君たちを手招きする。
「さあ、腹ぁ空かせてついて来い」
緇・カナト
トゥルエノ・トニトルス

 夜のハーモニカ横丁は、昼間の骨董市とはまるで違う顔をしていた。
「食って歩くにはちょうどええ夜やな」
 案内役のドラ吉が、提灯を掲げてカカッと笑う。
 狭い路地の頭上には赤提灯が連なり、暖簾と幟が夜風に揺れている。屋台の明かりは金色に滲み、焼き鳥の煙、鉄板で焦げるソース、揚げたての天ぷらの匂いが辺りに漂っていた。
「入口近くは外れが少ない。焼鳥、餃子、おでん。もっと奥へ行きたなったら、灯りを辿ればええ」
「なるほど。それが夜の屋台市の作法なのだな」
 トールは青い瞳を輝かせ、胸を張った。
「買い物も済んだ事だし、ハーモニカ横丁を楽しもうではないか……!」
「ええ返事や」
 ドラ吉は満足げに頷くと、今度はカナトへ視線を向ける。
「兄さんも腹ぁ空いとる顔しとるな」
「いつものことだよ」
「ほな問題ないわ。楽しんでき」
 そう言うと、ドラ吉は他の客に呼ばれ、片手をひらひら振った。
「わしはあっちも見てくる。迷ったら賑やかな方へ行け。だいたい旨いもんがあるで!」
 豪快な笑い声を残して、大化け猫は夜市の灯りの中へ消えていった。
 残されたカナトは、少しだけ肩をすくめる。
「賑やかな方、ねぇ。全部賑やかじゃないか」
「つまり全て旨いということだな」
「全部は時間的に無理があるでしょ」
「じゃあ、先ずは――」



 二人はまず、入口近くの《猫目焼鳥》へ向かった。
 炭火の上で串がじゅうじゅうと音を立て、たれが炎へ落ちるたび、香ばしい煙がふわりと立ち上る。店主の猫妖怪が、手際よく串を返していた。
「――焼鳥からだな!」
「そうだね。匂いで腹が減る」
「主は匂いがなくても腹が減るだろう?」
 塩の焼き鳥串を受け取って、カナトはひと口かじる。
 皮は香ばしく、肉は熱く柔らかい。塩気が舌に乗った瞬間、腹の底がようやく落ち着いた気がした。
「うん、美味い」
 トールも串を持ち、小さな口で真剣にかじる。その表情はひどく真面目だ。
「炭の香りがするな。肉に火を通しただけで、これほど変わるのか」
「料理ってそういうもんだよ」
「興味深い。もう一本頼んでも良いか? こっちの残りは食べてくれていい」
「もちろん」
 そうして焼鳥を追加したところで、カナトはふと思い出した。
「そういえば、トールの住処って野外なのに、カトラリーなんて何処に仕舞うつもりなんだろ……」
「む?」
「いや、何でもない」
 漂ってくる焼き鳥の煙に、カナトはまあいいかと考えを頭の片隅へ追いやった。
 どうせ最終的には、あの植物模様のカトラリーで何かを食べるのだろう。野外でも、岩の上でも、たぶん堂々と。

 次は《福々鉄鍋》。
 丸い鉄鍋には、一口餃子が花のように並べられている。焼き目は見事なきつね色だ。
「一口餃子に山椒。これは気になるぞぅ」
「香りが良いな」
 トールは熱々の餃子をそっと口へ運び、すぐに目を丸くした。
「熱い」
「だろうね」
「だが旨い」
「だろうね」
「主、これも残り食べるか?」
 もらう、とカナトもひとつ頬張る。
 薄い皮の中から肉汁が弾け、山椒の痺れが後から追いかけてくる。
「なんか全部ひと口だけ味見して、残りがオレのとこに回って来そうなのは気のせいか……?」
 そんなことを言いながら、二人は屋台を渡り歩く。

 《からころ亭》では、揚げたてのコロッケを食べ比べた。
 じゃがいも、牛すじ、とうもろこし、かぼちゃ。数えきれないほどの種類があり、カナトは実際、片手に二つ持っていた。
「揚げたては格別だね」
 かぼちゃコロッケを食べたトールは、ふむ、と頷く。
「甘い。これは菓子ではないのか?」
「ご飯にもなる甘いやつだね」
「便利だな」
 なお、このかぼちゃコロッケも一口食べて主人に渡される。
 さらに、匂いに釣られて《湯気雲小籠包》にも寄った。
 竹籠から立ち上る湯気は白く輝いている。小さな包みをレンゲに乗せ、そっと穴を開けると、熱いスープがじゅわりと溢れた。
「これは中に汁が入っているのか」
「気をつけないと火傷するやつね」
「む。では慎重に――」
 トールは慎重に食べた。
 慎重に食べたはずなのに、次の瞬間、少しだけ目を潤ませた。
「……熱い」
「だろうね」
 カナトは笑って、やっぱり残りを食べることになった。
 熱い肉汁をレンゲでほどよく冷ましたら、一気に食べてしまう。夜の冷たい空気まで美味く感じるから不思議だった。

 食べ歩きの合間、トールはしばしばカナトの顔を見た。
 屋台の灯りが、カナトの灰色の瞳にちらちらと映っている。焼鳥の煙を眺める顔、餃子を頬張る顔。
「? なんか楽しそうだね、トール」
「なに、主が楽しそうで、わたしも嬉しいものだと思ってな」
「そ。まあ、今は楽しいよ」
「なら良い」
 トールは満足げに頷いた。
 その素直さが少し眩しくて、カナトは笑う。
 ハーモニカ横丁の夜は眩しかった。
 月明かりではない。刃の反射でもない。提灯、鉄板、湯気、笑い声。誰かが美味いと言って笑うたび、夜のあちこちで小さな火花が散るみたいだった。

 少し甘いものが欲しくなった頃、二人は揃って《白雨茶房》へ入った。
「黒蜜豆花とやらが気になったぞぅ」
「食べ歩きチャレンジはどう? トール」
「挑むべきものが多くて興味深い!」
 白い豆花に黒蜜がとろりとかかり、きなこが少し添えられている。
 トールは匙で掬い、口に入れた。
「やわらかい」
「美味い?」
「うまい!」
 カナトはトールが豆花を食べている様子を眺めた。
 小さな姿で、妙に堂々と、しかし甘味には素直に目を輝かせている。見ているだけで、少し満腹になるような気がした。
 もちろん、実際にはならないので、自分の分は残っていた焼き鳥を食べる。
「この後はどうする?」
「少し奥へ向かって、《おまかせ狐火》を探すとしよう」
「ああ、気になってたんだ。注文した覚えのない料理が出てくるってやつ」
「何が出てくるのやら、楽しみだな」
「美味けりゃ当たり。不味くても土産話にはなる」
「では、いずれにしても得であるな」

 二人は冷たい茶を飲み干し、また夜の横丁へ出た。
 奥へ進むほど、通路はさらに細く、灯りは深く、匂いは複雑になる。焼き魚の香りの向こうに甘酒、天ぷらの奥に香草、誰かの笑い声の下に、知らない歌が流れている。

 まだ食べていないものがある。
 まだ見ていない暖簾がある。
 まだ知らない味が、この奥に眠っている。
「未だまだ夜は此れから……というヤツだな」
「そうだね。夜はこれから。腹もまだいける」
「主は頼もしいな」
 並んで歩きながら、カナトはふと、さっきトールが買ったカトラリーのことを思い出す。
 あの植物模様の道具が、いつか何かの食卓に並ぶのだろう。
 野外かもしれない。屋根の下かもしれない。そこに今日の話も混ざるのかもしれない。
「……今度、それで何か食べようか」
「む。カトラリーのことか?」
「そう。仕舞う場所があるかは知らないけど」
「必要なら作ればよい」
「強いなぁ」
「当然だ」
 トールは胸を張った。
 カナトは笑って、横丁のさらに奥に見える青い狐火の灯りを指さす。

「じゃあ、まずはあそこかな」
「うむ。行こう、主」
 ハーモニカ横丁の屋台市は、まだ終わらない。
 灯りは眩く、匂いは尽きず、夜はどこまでも楽しそうに続いている。

早乙女・伽羅
目・魄

「ほれ。好きなだけ食うていき!」
 先頭で提灯を掲げるドラ吉がカカッと笑った。
 細い路地の頭上には赤提灯が連なり、暖簾の隙間からは炭火の赤や、鉄鍋の湯気、皿を重ねる音がこぼれている。
 焼き鳥の煙、甘辛い味噌、揚げ物の香り、どこかから流れてくる三味線の音。人も妖怪も肩を寄せ合い笑っていた。
「餃子なら山椒効いた《福々鉄鍋》。味噌おでんなら《三日月屋台》。甘味は《白雨茶房》がええな。迷ったら匂いで決めりゃええ」
 その言葉に、伽羅のヒゲがぴんと前向きになる。
「山椒の餃子、いいなあ。食べたい」
 じゅうじゅう音がする程の熱々が、おいしくないはずがない。
 伽羅が金の瞳を細めて笑うと、隣の魄も夜市の空気に少し飲まれたように柔らかく頷いた。
「じゃあ、まずはその山椒餃子からにしようか」
「魄はどれが食べたい?」
「俺は……どれも熱々で悩んでいる所だよ」
「それは困ったねえ。全部おいしそうだから」
「困ったことにね」
 ドラ吉は二人を見比べて、にやりと牙を覗かせる。
「仲ええなァ。ほな、わしは他の客も案内してくるわ。食い過ぎて倒れん程度に楽しみ」
「大将、案内ありがとう」
「おお。財布の紐は緩めとけよ!」
 豪快な笑い声を残して、ドラ吉は別の通りへ消えていった。
 その背を見送って、伽羅は楽しげに目を細める。
「さて、じゃあまずは餃子だ」
「はいはい。猫の足取りは軽いね」

 二人が向かった《福々鉄鍋》では、丸い鉄鍋に小さな餃子が花のように並んでいた。
 仕上げに店主が山椒をぱらりともう一振りすると、香りが夜気の中へ立ち上る。
「熱いで~」
 紙皿に盛られた餃子を受け取り、伽羅は箸でひとつ摘まむ。湯気がふうわり上がった。
「……あっ。そうかあ」
「どうしたんだい?」
「確かに魄には少し熱いかもしれない」
 伽羅は大真面目な顔で、餃子へ息を吹きかけた。
 ふう、ふう。
 熱々の餃子が少しだけ落ち着いた頃、彼はそれを魄の口許へ差し出す。
「ほら、あーん」
 あまりにも自然だったので、魄は違和感なく口を開けた。
 餃子を受け取り、ゆっくり噛む。薄い皮の中から肉汁が広がり、山椒の痺れが後から追いついてきた。
「ん、いいぐらいだ」
「それはよかった」
 伽羅は満足げに笑った。
 親鳥の気分がして楽しい、というのは内緒にしておこうと思った。
「伽羅も食べなよ。冷まし係だけでは腹は膨れないだろう」
「もちろん食べるとも」
 今度は伽羅が餃子を口へ運ぶ。
 熱い。香ばしい。山椒が舌にぱちりと弾ける。彼は目を細めた。
「うん、これはいい。酒が欲しくなる味だ」
「お酒は?」
「今日は抜きでいいよ」
 伽羅はさらりと言った。
「君の隣で飲むと、気を抜きすぎてしまうから」
 魄は少しだけ目を細める。
 夜市の灯りが、その藍色の瞳に揺れた。
「そう。残念だけど、またにしようか」
「うん。また今度」

 次に二人が向かったのは《三日月屋台》。
 大鍋の中では、大根、こんにゃく、卵、つみれ、魚河岸揚げがゆっくり煮えている。湯気は白く、味噌の香りは丸く、先ほどの山椒で痺れた舌を撫でるようだった。
「……この匂いは捨てがたいね」
 魄が鍋を覗き込む。
「冷めても美味しいだろうな。こんにゃく、だいこん。伽羅は何がいい?」
「俺はつみれとか魚河岸揚げが好きだな」
「では、それも入れてもらおう」
 魄は店主に向き直った。
「おでん、一緒に入れてくれ」
「一緒でええんか?」
「持ち物も減るし、いっしょで」
 淡々と言ったその言葉に、伽羅は少しだけ嬉しそうに笑う。
 同じ器に盛られたおでんは、思ったより賑やかだった。大根、こんにゃく、つみれ、魚河岸揚げ、卵が半分ずつ。味噌だれがとろりとかかり、青ねぎが散っている。
「どれぐらいの熱さがいいかな。俺は少し冷まそうか迷うね」
「では、俺が冷ましてあげよう」
「また?」
「得意分野になってきた」
 伽羅はつみれを箸で摘み、ふうふうと丁寧に冷ます。
 そしてまた、魄の口許へ。
「ほら、あーん」
 魄は一瞬だけ伽羅を見た。
 けれど今さら照れる場面でもない気がして、素直に食べた。
「……つみれも良いね」
「だろう?」
「では、お返し」
 今度は魄が魚河岸揚げを箸で取る。
 少し冷ましてから、伽羅の口許へ差し出した。
「はい」
「おや」
 伽羅は遠慮なく食いついた。
 ふわりとした魚河岸揚げの中に、出汁と味噌の甘みがしっかり染みている。
「うん。おいしい」
「いい顔をするね」
「君がくれるから、余計にね」
「そういうことをさらっと言う」
「本当のことだから」
 魄は少しだけ困ったように笑った。
 けれどその手は、また器の中から次の具を選んでいる。

 おでんを平らげた後も、二人の食べ歩きは続いた。
 《からころ亭》では揚げたてコロッケを半分こ。外はさくり、中はほくほく。伽羅が「これも熱い」と言う前に、魄が先に少し割って湯気を逃がした。
 続いて、香ばしい焼きおにぎりの屋台《焦がし米丸》へ。醤油を塗って炙られた米は表面がかりりとしていて、魄はひと口食べて静かに頷いた。
「これは危険だね。ひとつで済まない」
「おかわりも沢山しよう」
「全部とは豪勢だね」
「気になるやつは全部食べよう。ぜーんぶだよ」
 伽羅は自信満々に胸を張る。
「大丈夫、俺の胃袋は魔法のポケット付きだし」
「初耳だね」
「それに、分け合って食べればいいんだからね」
 その言い方があまりにも楽しそうで、魄は小さく笑った。
「ついつい食べ過ぎてしまいそうだ」
「今日はそういう日だよ」
「なら、そうしようか」

 甘味は予定通り《白雨茶房》へ赴いた。
 黒蜜豆花と冷たい茶を受け取ると、夜市の熱気が少しだけ遠のいた。豆花はつるりと柔らかく、黒蜜の甘さは穏やかで、冷たい茶が舌をすっきり洗ってくれる。
「これは、最後に取っておいて正解だったね」
「だろう? 食べ歩きにも順番というものがある」
「警察学校でも教えたのかい?」
「教えておけばよかったな。若い衆の人生に必要な教養だったかもしれない」
「それは平和な授業だ」
「平和が一番だよ」
 伽羅はそう言って、豆花を一匙すくう。
 魄も隣で、ゆっくりと甘味を味わっていた。



 周囲はまだ賑やかだ。
 屋台の灯りは赤く、金色で、時折青い狐火のような光も混じる。誰かが熱々の串に悲鳴を上げ、誰かが笑い、どこかで皿が重なった。
「次はどうする?」
 魄が尋ねると、伽羅は通りの奥を見た。
「まだ気になる暖簾がある」
「まだ食べるんだね」
「もちろん」
「本当に魔法のポケット付きかもしれないな」
「だから言っただろう」
 伽羅が得意げに笑う。
 魄は呆れたように、けれど楽しげに肩をすくめた。
「では、付き合おうか」
 伽羅は嬉しそうに笑って、空いた手をひらりと差し出した。
 魄は少しだけその手を見て、それから何でもない顔で指先を重ねる。
 人混みの中では、はぐれないための当然の仕草だ。
 少なくとも、そういうことにしておく。
「次は、何を分ける?」
「そうだなあ。匂いだけで言えば、あの焼き魚も捨てがたい」
 二人はまた歩き出す。

 分け合えば、食べられるものは増える。
 分け合えば、思い出も少しだけ増える。
 そんな当たり前のことが、やけに嬉しい夜だった。

シンシア・ウォーカー
神隠祇・境華

 そこは、まるで灯りでできた巨大な迷路だった。

 細い路地の上には赤提灯がずらりと連なり、暖簾と幟が夜風に揺れている。
 あちらでは妖怪たちが乾杯し、こちらでは屋台の店主が威勢よく客を呼び込んでいる。
「ここがハーモニカ横丁の屋台市や」
 案内役のドラ吉は、提灯を片手にカカッと笑った。
「入口近くは《福々鉄鍋》の餃子がええで。あとは匂いと勘で行け。食べ歩きは勢いや!」
「ありがとうございます、ドラ吉さん!」
 シンシアがぱっと顔を輝かせる。
 隣の境華も、金の瞳をそっと細めて会釈した。
「ご案内、ありがとうございます」
「おう。楽しんでき」
 ドラ吉はそれだけ言うと、別の客に呼ばれて片手を振る。
「迷ったら明るい方へ行け! だいたい旨いからな!」
 豪快な笑い声を残して、大化け猫は人混みの向こうへ消えていった。



 シンシアはすぐさま境華の方を向く。
「境華さん、食べ歩きしましょう食べ歩き!」
「ふふ。シンシアさん、もうすっかり準備万端ですね」
「もちろんです。旅先の市場、夜の屋台、美味しいもの。これで心が躍らないほうが難しいですよ」
「これだけお店があると目移りしてしまいますね」
 実際、境華の言う通りだった。
 右を見れば鉄鍋の湯気。左を見れば山盛りの唐揚げ。前方ではたこ焼きがくるくる回され、奥からは甘い匂いまで漂ってくる。
「まずは福々鉄鍋の一口餃子です。境華さんもぜひぜひ!」
「山椒が入っている餃子は初めてです。私も気になります」

 二人が向かった《福々鉄鍋》では、丸い鉄鍋に小さな餃子が花のように並べられていた。焼き目はきつね色で、最後に店主が山椒をぱらりともう一振りすると、爽やかな香りが立ち上る。
「熱いから気ぃつけてな」
「はい!」
 紙皿を受け取ったシンシアは、期待に満ちた顔で餃子をひとつ頬張った。
「あっ、肉汁がすごい」
 ぱっと銀の瞳が輝く。
「鼻から抜ける山椒の香りがまたいいですねぇ。いくらでも食べられてしまいそうです」
 境華もそっと一つ口に運ぶ。
 薄い皮の中から肉汁がほどけ、山椒の香りが後味をさっぱりさせてくれた。
「……本当ですね。山椒があると、後味が重くなりすぎないのですね」
「でしょう? これは一軒目にぴったりです」
「シンシアさん、もう屋台市の組み立てを?」
「食べ歩きにも戦略は必要ですから!」
 そう言って胸を張るシンシアは、非常に楽しそうだ。

 次に二人の足を止めたのは、揚げ物屋台《からころ亭》。
 大きな籠の中で、唐揚げがからりと音を立てて油から引き上げられている。香ばしい匂いにシンシアが思わず息を吸い込んだ。
「唐揚げですか!」
「こちらも美味しそうです」
 境華が一包みを買い、竹串でひとつ刺してシンシアへ差し出す。
「お一つどうぞ」
「いいんですか? ではありがたくいただきますっ」
 シンシアは嬉しそうに受け取り、ひと口。
「……これはアタリです」
「アタリ」
「どこの世も、唐揚げの美味しい居酒屋はアタリと決まっているのです」
「なるほど。旅人の知恵ですね」
「はい。これはかなり信頼できます」
 境華も一口食べて、ふんわり微笑む。
 衣は軽く、噛むと熱い肉汁がじゅわりと広がる。生姜と醤油の香りがしっかりしていて、夜風の中で食べるには申し分ない味だった。
「確かに、これは良いお店です」
「でしょう?」
 シンシアはまるで自分の店が褒められたかのように得意そうだった。

 さらに進むと、《満月たこ焼き》の前で足が止まる。
 鉄板の上では、まん丸のたこ焼きがくるりくるりと返されていた。ソースの焦げる香りが甘く、鰹節が湯気の上で踊っている。
「あ、たこ焼き……何かここの特色のあるものでしょうか? 一つ頼んでみましょう」
「たこ焼き。中に入っているこれは、たこ……?」
 シンシアが首を傾げる。
 店主の妖怪がにやりと笑った。
「基本はたこや」
「基本は」
「屋台市やからな」
 境華は少しだけ考えたが、結局一皿頼んだ。
 爪楊枝で割ると、中から湯気が立ち上る。具は……たぶん、たこ。少なくとも食べられるものではありそうだ。
「問題ないように思えますが……どうなのでしょう」
 境華が慎重に口へ運ぶ。
 少し熱さに目を瞬かせ、それから頷いた。
「……美味しいです」
「では私も」
 シンシアもひとつ食べて、少し間を置いた。
「これは、たこですね」
「たこでしたね」
「よかったです」
 二人は顔を見合わせ、ふふ、と笑った。
 でも、その後に食べた二つ目は、なぜか中に小さな餅が入っていた。三つ目はたこ。四つ目はチーズ。屋台市とはそういうものらしい。

 その後も、二人は気になる匂いを頼りに屋台を巡った。
 《じゅうじゅう千鳥》では甘辛い焼きそばを。
 《星屑天ぷら》ではれんこんと小海老の天ぷらをひとつずつ。
 《ぽんぽこ蒸籠》で食べた小籠包では、熱々のスープに二人揃って少し慌てた。
「しかし沢山お店がありますね……あれは何でしょう?」
 シンシアが指さした先には、冷たい甘味の屋台が集まる一角があった。提灯の色も少し淡く、湯気よりも冷気が漂っている。
「この辺りはデザートエリアのようですね」
「甘味、ですか……」
 境華の声も少し弾む。
 ふだん穏やかな彼女だが、甘味の前ではやはり目が輝くのだ。

 二人で入ったのは《白雨茶房》という屋台だ。
 豆花、芋圓、果物、黒蜜、冷たい茶。店先には、涼しげな甘味がたくさん並んでいる。
「豆花いいなぁ……私、このイチゴが乗ったやつで!」
 シンシアが選んだのは、白い豆花にイチゴと黒蜜、練乳のかかった華やかな一品。
 境華は少し迷ってから、もちもちした芋圓が入った豆花を選んだ。
 二人は小さな席に並んで腰掛ける。
 夜市の喧騒はすぐ近くにあるのに、茶房の周りだけは少し涼しい。
「境華さんのそれは……台湾のガイドブックとかによく載ってるやつですね!」
「そうなのですか?」
「はい。旅先で見たことがあります。お味、いかがで……」
 シンシアが先を聞く前に、境華が彼女に向けて匙で芋圓をひとつ掬った。
「はい、どうぞ」
「いいんですか!?」
「もちろん。もちもちしたお団子が入っていて美味しいです」
 差し出された一匙を、シンシアは嬉しそうにいただく。
 芋圓はもちもちで、やさしい甘さの豆花と黒蜜によく合った。
「もちもちで美味しいです!」
「ふふっ、よかったです」
「こっちもよかったら一口どうぞ!」
 シンシアはイチゴの乗った豆花を、少しだけ掬って差し出す。
 境華はそれを受け取り、口へ運んだ。
「ありがとうございます。……あ、思ったよりイチゴの酸味が爽やかですね」
「でしょう? 黒蜜とも合うのです」
 夜風が通り、提灯が揺れる。
 遠くではまだ、たこ焼き屋の店主が「次は当たりや!」と叫んでいる。
 境華は豆花をひと匙食べ、ふと微笑む。
「今日は美味しいものがいくつも見つかりました」
「ええ、よかったですね!やはり空腹で食べた餃子の美味しさが心に残ってますが、たこ焼きも――」
「シンシアさんと一緒でしたから、余計にそう思いました」
 それを聞いたシンシアは少し照れたように、けれど楽しげに匙を揺らした。
「それは光栄です。では、次もまたご一緒しましょう」
「はい。ぜひ」
 食べ歩きの夜は、賑やかで、甘くて、少し熱くて。
 最後の甘味とお茶は、夜市で火照った体にちょうどよかった。

クラウス・イーザリー
不忍・ちるは

 賑わいの中で、ちるはは片手をゆるく上げた。
「クラウスさーん」
「あ、ちるは。こんばんは」
 合流したクラウスも、やわらかく手を振り返す。
 少し後ろでは、三毛の大化け猫――ドラ吉が、提灯片手にふたりを見比べていた。
「今日はどこ行くんや?」
「はい。白雨茶房で、恋語りをします」
「恋語り」
 ドラ吉の耳がぴくりと動く。
「……わしもか?」
「ドラ吉さんにも、ご意見を伺えればと」
「これが女子会というやつなのかな?」
 クラウスが真面目な顔で呟く。
 ドラ吉はカカッと笑った。
「兄ちゃんがおって、わしもおって、女子会名乗るんは豪胆やな」
「では、恋バナ会です」
「まあ、座るだけ座ったるわ」

 《白雨茶房》は横丁の喧騒から少しだけ離れた甘味屋だ。
 軒先には白い布暖簾、店内には小さな丸卓が並び、硝子の器に盛られた豆花やかき氷が涼しげに光っている。
 クラウスは黒蜜豆花を、ちるはは芒果雪花冰を注文した。
 ドラ吉は「わしは茶だけでええ」と言いかけたが、店員に「親分、いつもの醤油団子は?」と聞かれ、ほんの一拍だけ黙った。
「……つけといて」
「はい」
「ドラ吉さん、甘味もいけるんですね」
「言いふらすなよ」
「はい。機密事項ですね」
 ちるはがこくりと頷くので、クラウスがふっと笑った。

 まず運ばれてきた黒蜜豆花を、クラウスは慎重にひと匙掬った。
 白くやわらかな豆花に、とろりと黒蜜が絡む。口に入れると、思ったより軽く、優しい甘さが舌の上でほどけた。
「……初めて食べたけど、美味しいね」
 ちるはの芒果雪花冰は、器いっぱいにふわふわの氷が盛られ、上にマンゴーがたっぷり乗っていた。ひと匙食べると、彼女の表情がゆるりとほどける。
「冷たくて、あまくて、よいです」
 ドラ吉も団子をひとつ口へ運び、満足そうに尾を揺らしている。
「で、恋語りいうんは何を話すんや」
「ええと」
 ちるはは匙を置き、向かいに座るクラウスをじぃっと見た。
 瞳が、何かを見つけたみたいに瞬く。
「クラウスさん。ピアスしてましたっけ?」
「え」
 クラウスは反射的に耳へ手をやった。
 黒髪の間から、小さく光るピアスが見える。
「よ、よく気付いたね」
「ちるはeyesは見逃しません」
「そんな技能があるんだ」
「あります」
 ちるはは真剣だった。ドラ吉は茶をすすりながら、「女子eyes、怖いな」と呟いた。
 クラウスは少し照れたように笑う。
「ピアス、最近するようになったんだ。その……相手と一緒に作った、おそろいのピアスを付けたくて」
「おそろい」
 ちるはの目が少し丸くなる。
「それで、お互いの耳に穴を空けて……」
 そこまで話して、クラウスは自分で言った内容に頬を少し赤くした。
「改めて話すと、結構恥ずかしいね」
「深いです」
「深い?」
「はい。おそろいを作って、一緒にあけて、同じ場所に残すの、すごく……とくべつです」
 ちるははほわほわした顔で頷く。
 ドラ吉も団子を噛みながら、うんうんと頷いた。
「ええやんけ。形に残るもんは強いで。喧嘩しても鏡見たら思い出すしな」
「ドラ吉さん、経験者ですか?」
「所帯は持っとらんが、色々な」
 ちるはは「なるほど…」という顔でちるはeyesを細めた。
 クラウスは少し笑って、それから彼女へ水を向ける。
「そういうちるはは、最近どう?」
「最近」
 ちるはは芒果雪花冰の上のマンゴーを見つめる。少し考える間、匙の先で氷をふわりと崩した。
「ええと……とくべつとか、好きの気持ちとか」
 言葉をひとつずつ拾うように、ゆっくり続ける。
「私のふつうが、少し変わったような気がします」
「ふつうが変わった?」
「はい。前は、ひとりでいる時間がとても大事で、それは今も大事なんですけど」
 ちるはは少しだけ笑う。
「誰かがいることで、もっと落ち着くこともあるんだなあって」
 クラウスは豆花の匙を持ったまま、静かにその話を聞いていた。
 彼の青い瞳も、やわらかく細められる。
「そっかあ。考え方や感じ方が変わるくらい、相手から影響を受けているんだね」
 クラウスは素直に言った。
「ふたりが一緒に過ごしているところ、なんとなく想像できる気がする」
 クラウスは自分のピアスにそっと触れ、少し照れくさそうに笑った。
「おそろい、すごくいいよ」
「そんなに」
「うん。すごく」
 その声には、妙に力が入っていた。
「身に着けていると、離れていても近くに居られる気がするんだ。同じものを選んだこととか、一緒に作った時間とか、そういうものが残っている感じがして」
「なるほど」
「それに、相手が付けてくれているのを見ると……嬉しい」
 言ってから、クラウスはまた少し赤くなる。
「……これ、力説すると結構恥ずかしいな」
「いえ。大変参考になります」
 ちるはは真剣に頷いた。
 まるで講義ノートを取る学生の顔である。
「ちるはも、機会があればやってみてほしい」
「……そう、ですね。できたら一歩進んでみます」
「一歩」
「おそろいの箸置きとか」
「可愛いね」
「湯呑みとか」
「すごくいい」
「おそろいの米びつ……」
「急に大きくなったね」
「米は大事なので」
 ドラ吉がぶはっと笑った。
「嬢ちゃん、なかなか現実的やな」
「日々のごはんが平和を作ります」
「名言や」
 クラウスは楽しそうに笑い、黒蜜豆花をもうひと匙食べた。

 恋の話は、もっと難しいものだと思っていた。
 誰かを想うこと、誰かに想われること。そこには嬉しさも怖さもあって、胸があたたかくなるのに、時々痛くもなる。
「……恋バナ、すごく楽しいな」
「はい。情報共有? 作戦会議? のようです」
「恋の作戦会議か」
「ドラ吉さん、どう思います?」
 ちるはが水を向けると、ドラ吉は腕を組んで、ふむと唸った。
「作戦いうなら、まず兵站やな」
「兵站」
「飯、茶、甘味、休む場所を用意したる。あと、相手の好きなもんを覚えとくことや。記念日もな」
「おお、堅実……」
「大親分の恋愛講座ですね」
「講座料取るで」
 クラウスとちるはが同時に笑った。
 ドラ吉も、つられてカカッと笑う。

 白雨茶房の外では、横丁の夜市がまだ賑やかに続いている。
 提灯の灯りは窓の外で揺れ、茶房の中には甘い黒蜜の香りが漂っていた。
 ちるはは芒果雪花冰をゆっくり食べ終え、匙を置く。
「クラウスさんのおそろいの話、聞けてよかったです」
「俺も、ちるはの話が聞けてよかった」
「私もその、普通が変わるのってちょっと戸惑ってたんですけど」
「うん」
「でも、悪くないです」
「うん。すっごくいいことだと思うよ」
 ちるははまた、にへーっと楽しそうに笑った。
 ドラ吉が茶を飲み干し、ゆらゆら尾を揺らす。
「若いもんの恋バナに付き合うんも、たまには悪うないな」
「また付き合ってくださいますか?」
「甘味付きならな」
「交渉成立ですね」
 クラウスは小さく笑って、自分の耳元のピアスにもう一度だけ触れた。
 ちるははその仕草を見て、少し考えるように瞳を瞬かせる。

 おそろい。
 一緒に選ぶもの。
 日々の中に置くもの。
 それは少し照れるけれど、――たしかに、とっても素敵なものだった。

墨・迅

 夜のハーモニカ横丁は、腹を空かせた獣にはいささか目に毒だった。
 赤提灯が頭上で揺れ、狭い路地の両側には屋台がぎゅうぎゅうに詰まっている。焼き鳥の煙、焦げた醤油、揚げ油の香ばしさ、甘い味噌だれ、冷たいラムネの瓶が触れ合う音。どこからか三味線が鳴り、どこかで誰かが乾杯している。
 その入口で、迅は片眉を上げた。
「招待感謝するぜ、ドラ吉の旦那」
「礼はええ。腹ぁ空かせて来たな?」
 隣で大化け猫のドラ吉が、提灯を片手に豪快に笑う。
「良い雰囲気だな。スラムの繁華街とは比べ物にならねぇ」
「それと比べちゃあなあ」
「はは、ごもっともだ」
 迅も笑った。
 実際、ここは知っている夜とはだいぶ違う。裏路地の濁った熱気とも、獲物を探す視線が行き交う街角とも違う。
 ドラ吉は横丁の奥を顎で示す。
「食べ歩きでもええが、腰落ち着けるなら《おまかせ狐火》やな。何が出るか分からんが、腹は膨れる。味もええ」
「座れるならそこにするぜ」
 迅は懐の小箱を軽く押さえた。
 さっき手に入れた贈り物。人混みで落とすなど、冗談ではない。荒事ならまだしも、こういう時の方が妙に気を遣う。
「えらい大事そうやな」
「落としたら困るんでね」
「誰かへの土産か」
「ま、そんなとこだ」
 ドラ吉はにやりと牙を見せたが、それ以上は聞かなかった。
「ほな、ここや」
 赤い暖簾の前でドラ吉は足を止める。
 暖簾には、狐火のような青い炎と、丸く太った稲荷寿司の絵。奥からは出汁の匂いと、炭火で何かを炙る香りが漂ってきた。
「女将! 客や。腹ぁ空かせた若いの一匹」
「一匹扱いかよ」
「だいたい合うとるやろ」
「否定はしねぇけど」
 暖簾の奥から、狐耳の女将が顔を出した。細い目をさらに細め、迅を上から下まで見て、ふっと笑う。
「いらっしゃい。おまかせでええの?」
「ああ。邪魔するぜ」
 迅が中へ入ると、ドラ吉は入口でひらりと手を振った。
「わしは他の連中も案内せなあかん。食い過ぎて倒れるなよ」
 豪快な笑い声を残して、ドラ吉は夜市の人混みへ消えていった。



 店内は狭いが、妙に居心地がよかった。
 古い木のカウンターに、丸椅子がいくつか。壁には読めない札や、常連の落書き、季節外れの風鈴が吊るされている。
 常連らしい兄さんと姐さんたちが、探るように迅を見る。迅はそれに、ニカっと笑って返した。
「兄さんに姐さん方、おすすめはあるかい? 変なもんでも構わねぇ。美味けりゃ当たり、不味けりゃ土産話だ」
「威勢ええ子やねぇ」
「お酒は?」
 姐さんのひとりが徳利を軽く掲げる。
 迅は笑って、片手を振った。
「悪いが未成年だ。飲める歳になったら付き合う」
「あら、ちゃんとしてる」
「その分、飯は遠慮しねぇ」
 迅はカウンターに腰を下ろし、懐の小箱をもう一度確かめてから、女将を見る。
「狐火の女将。腹に溜まるやつを頼むぜ」
「はいよ。若い子は食べるのが仕事だものね」
 最初に出てきたのは、湯気の立つ肉豆腐だった。
「熱いよ」
「上等」
 迅は大口で一口目をいく。箸で崩した豆腐を肉と一緒に頬張れば、甘辛い出汁と牛脂の熱が舌の上でほどけ、腹の底へまっすぐ落ちていく。
「……美味ぇ」
 素直に言うと、女将が満足そうに笑った。
「次のは?」
「すぐだよ。止めるまで来る」
「良い店じゃねぇか」
 次に出てきたのは、山椒の効いた鶏つくね。
 続いて狐色に焼かれた大きな握り飯。表面に味噌が塗られ、炭火で焦げ目がついている。添えられた漬物は赤く、見た目からして辛そうだ。
 さらに、何の魚か分からないがやたら旨い干物。
「兄ちゃん、どっから来たん」
「いろいろだよ」
「路地の裏の方とか?」
「そう見えるか?」
「おう」
 常連の兄さんがそう言うので、迅は肩をすくめた。
「じゃあ、あんたらもだな」
「そらそうよ」
 どっと笑いが起こる。
 迅も笑った。喧嘩の前の笑いではない。腹を満たしながら、くだらない話に混じるための笑いだ。
 懐の小箱は、ちゃんとそこにある。
 誰かに渡すための品。自分には釣り合わないほどの人に、少しでも似合えばいいと思って選んだもの。
「何や、にやけとるで」
「飯が美味いからだ」
「ほんまかいな」
「半分は」
「もう半分は?」
 迅は答えず、肉豆腐の豆腐を口へ運んだ。
 出汁が染みていて、腹の底まであたたかい。
「良い夜だからな」
 ぽつりと言うと、女将が「そうだろ」と笑った。

 外ではまだ、夜市の灯りが揺れている。
 ドラ吉の笑い声が遠くから聞こえ、どこかの屋台で拍手が起きた。ハーモニカ横丁は狭く、騒がしく、知らない匂いと声に満ちている。
 けれど今夜の迅にとっては、それで十分だった。

シルヴァ・ベル

 提灯の灯りが宝石箱のようにきらめいていた。
 赤、橙、淡い金。
 狭い路地に屋台がぎゅうぎゅうと並び、焼き鳥の煙、鉄鍋の湯気、味噌だれの甘い香り、揚げ物の油の音までが、夜の空気に混ざっている。
「まあ、まあ……!」
 シルヴァは青い瞳を輝かせた。
 背の蝶翅が、期待でふるふると震える。
「ドラ吉様直々のご案内とあれば、どのお店も大当たりですわね」
「任せとき。腹ぁ空かせた客を外れに連れてくほど、わしも野暮やない」
 隣でドラ吉が胸を張る。
「では、失礼して――」
 ふわり、と淡い光が彼女を包む。
 次の瞬間、身の丈十五センチほどの妖精は、普通の人と同じくらいの背丈の少女へと姿を変えていた。金髪はふわりと肩へ落ち、翅の名残のような光だけが背に淡く揺れている。
「小さいのは便利ですけれど、食べるときには少し大変ですからね」
「ほう、よう化けるなァ」
「店番妖精ですもの。必要な努力は惜しみませんわ」
「食う努力もか?」
「もちろん」
 きっぱり答えたシルヴァに、ドラ吉は愉快そうに喉を鳴らした。
「ええ根性や。ほな、まずは入口から行こか」



 最初に向かったのは《猫目焼鳥》だ。
 炭火の上で串がじゅうじゅうと音を立て、甘辛いたれが炎に落ちて、香ばしい煙を上げている。店主の猫妖怪が、目にも止まらぬ手つきで串を返していた。
「入口と言えば通りの顔。こちらは絶対に外せませんわね」
 差し出された焼鳥を、シルヴァは両手で大切そうに受け取る。
 ひと口かじると、皮はぱりり、身はふっくら。たれの甘みと炭の香りが舌いっぱいに広がった。
「……おいしいですわ!」
「ええ食べっぷりや」
 ドラ吉が嬉しそうに笑う。
 小柄な見た目の名残があるせいか、シルヴァがぱくぱく食べる姿は妙に愛らしい。
 だがその速度は、なかなか侮れなかった。

 次は《福々鉄鍋》。
 丸い鉄鍋に小さな餃子がぎっしり並び、焼き目はきつね色。店主が山椒をぱらりと振ると、ふわりと痺れる香りが立ち上がる。
「山椒の痺れる味わいも、たまらないですわ」
 シルヴァは餃子をひとつ口に運び、熱さに一瞬目を丸くした。
「はふ……っ、でも、これは……!」
 肉汁、香味野菜、山椒の痺れ。
「素晴らしいですわ。刺激的です!」
「カカッ! ええやろ、山椒増しもお勧めやで」
「では2つ目はそれを」
「行くんか!?」

 そうして痺れた舌をなだめるため、三軒目は《三日月屋台》へ。
 大鍋の中では、大根、卵、厚揚げ、こんにゃくがゆっくり煮えていた。
「ここでみそおでんを頂くと、痺れた舌がほっと一息……という流れですわね」
「完璧な組み立てやろ」
「ええ。ドラ吉様のご案内は、まるで一皿ごとに物語が進んでいくようですわ」
「口も食べっぷりも上手いお嬢ちゃんやなぁ」
 シルヴァは大根を箸で割り、ふうふう冷ましてから口へ入れる。
 芯まで染みた味噌の甘みが、体の中へじんわり広がっていく。
「……これは、優しいお味ですわ」
「夜市で食うおでんは効くやろ」
「ええ。心まで温まります」

 お腹が温まってきたところで、今度は《からころ亭》。
 揚げたてのコロッケが紙に包まれ手渡される。衣は黄金色で、持っただけでさくさくと音がした。
「出来立てのコロッケ……!」
「熱いで。気ぃつけや」
「承知しておりますわ」
 そう言った次の瞬間、シルヴァははふはふしながら目を輝かせていた。
 ほくほくの芋に、甘い玉ねぎ。少し粗めに潰された食感が楽しくて、つい次のひと口へ手が伸びる。
 ドラ吉はその様子を見て、実に満足そうに頷いた。
「ええなァ。食いもんも、ここまで喜ばれたら本望やろ」
「お料理にも、作った方の心がありますもの。しっかり味わうのが礼儀ですわ」

 次は《白雨茶房》へ。
 黒蜜豆花と冷たい茶で舌をやさしく休ませると、今度は《星屑天ぷら》で小海老と蓮根をひとつずつ。
 さらに《まんまる月餅舗》では、焼きたての小さな月餅を半分こ――のつもりが、シルヴァはきっちり一個食べきった。

「此処には無限とも思えるほどお店があって、けれども時間は有限ですのね」
 名残惜しそうに言いながらも、シルヴァの視線はもう次の暖簾を探している。
「時間っていうのはそういうもんや」
「――ですから、次々食べて、どんどん進みましょう」
 にっこり笑うシルヴァの前で、ドラ吉は一拍置いた。
 それから、腹の底から楽しそうに笑う。
「カカカッ! ほんまにええ食べっぷりや! よっしゃ、次は奥の《御神籤串》行くで!」
「まあ、それはどういった屋台ですの?」
「中身を食べるまで何かわからん博打串や!」
「まあ……なんて冒険的!」
 シルヴァの翅の名残が、嬉しそうに光った。
 美しいものと美味しいものに目がない店番妖精は、まだまだ食べる気満々である。

 ドラ吉の提灯が、夜の路地の奥を照らす。
 その灯りを追って、シルヴァは軽やかに歩き出した。

 ハーモニカ横丁の夜は長い。
 そして小さな妖精の胃袋は、見た目よりずっと頼もしいのだった。

ラウアール・グランディエ

 細い路地の両側には、屋台や居酒屋が肩を寄せ合うように並んでいる。
 焼き鳥の煙、出汁の香り、焦げた醤油、揚げ物の音。あちらでは乾杯の声が上がり、こちらでは誰かが大笑いしている。
「ドラ吉殿のお誘い、喜んでご同行致しましょう」
 ラウアールは、提灯の下でにこやかに一礼した。紫の瞳に横丁の灯りが薄く映る。
「ちなみに、ここで率先して財布を出す人は魅力的に見えますよ。私は先程、想定以上の出費がありましてね……なんて冗談です、ふふ」
「刀を買うたあとに言う冗談かいな。兄さん、ええ面の皮しとるなァ」
 ドラ吉は愉快そうに笑った。
 今夜の大親分は、昼の骨董市で客を叱り飛ばしていた時よりずっと気安い顔をしている。肩には羽織、片手には提灯。尾を悠々と揺らしながら、横丁の奥へ進んでいく。
「ま、今夜はわしの案内や。最初の一杯くらいは出したる」
「おや。では、その魅力的なお姿をよく覚えておきましょう」
「ほんま口が回るやっちゃ」
 そう言いながらも、ドラ吉は機嫌がよさそうだった。
「私の態度が先程と違う、とお思いですか?」
「まあ、さっきより胡散臭さが増しとるな」
「それはそれは。良い観察眼です」
 ラウアールはくすりと笑う。
「ドラ吉殿には、私の本性など既に見抜かれている気がしまして。今更取り繕っても仕方がないかと」
「ほう」
「もっとも、商売人としての手腕は素直に尊敬しておりますよ。これは本心です」
 ドラ吉はサングラスの奥で目を細めた。
「兄さんみたいなんに本心言われると、逆に疑いたくなるなァ」
「それもまた、正しい商売人の勘でしょう」

 二人が辿り着いたのは、横丁の中ほどにある居酒屋だった。
 暖簾には《狸火横丁酒場》と染め抜かれている。
「ここは?」
「わしの通いの店や。騒がしすぎず、静かすぎず。飯も酒もええ」
「それは楽しみです」



 暖簾をくぐると、店内はほどよく賑わっていた。
 古い木の卓がいくつも並び、奥の座敷では妖怪たちが鍋を囲んでいる。カウンターではひとり客が盃を傾け、壁には手書きの品書きがびっしり貼られていた。
 どれも素直に旨そうで、しかも酒に合いそうだ。
「いらっしゃい。あら、親分。今日はまた悪そうなお連れさんで」
 女将らしい狸妖怪が、徳利を片手にこちらを見る。
「よく言われます」
「認めるんかいな」
 ドラ吉が笑う。
 ラウアールは涼しい顔で席についた。
「大抵のものは美味しくいただけますので。おすすめをお願いします」
「女将、塩撒くか?」
「撒いたら余計に喜びそうじゃない?」
「ふふ。ご明察です」

 まず出てきたのは、ぬる燗と大皿料理だった。
 出汁巻き卵は湯気を立て、牛すじ煮込みには青ねぎが山のように乗っている。炙った鯖からは脂がじわりとにじみ、つまみとして漬物も添えられていた。
 ラウアールは盃を持ち上げる。
「今宵は宴会と称して、ドラ吉殿のお話を聞かせていただけませんか?」
「二人で宴会かい」
「人はおりますし、料理も酒もあります。十分でしょう」
「言葉を都合よう使うなァ」
 盃を合わせると、ちん、と小さな音がした。
 そのすぐ後ろで、座敷の妖怪たちも「乾杯!」と声を上げる。
 酒はやわらかく、米の甘みが舌に残る。ラウアールは目を細めた。
「美味しいですね」
「せやろ」
 ドラ吉は牛すじをひと口食べ、満足そうに頷く。
 ラウアールも出汁巻き卵を箸で割った。ふるりと揺れた卵から、出汁がにじむ。
「これは良い。悲劇の味はしませんが、十分に魅力的です」
「飯にまで悲劇を求めるなや」
「職業病です」
「厄介な職業病やな」
 話を聞かせて、の言葉に沿うように、よく喋るのはドラ吉の方で、ラウアールは相槌を打ちながら、ときどき静かに笑う。
 それは商品にするための話ではなく、酒の席で味わうための話。
「良い夜ですね」
 ラウアールが言うと、ドラ吉は鼻を鳴らした。
「兄さんが言うと、なんか裏がありそうやな」
「ありますよ」
「あるんかい」
「このような良い店を知った以上、また来たくなるという裏です」
 ドラ吉は一拍置いて、カカッと笑った。
「それは健全な裏やな」
「私にしては、かなり」
 女将が新しい徳利と、揚げたての天ぷらを置いていく。
「ドラ吉殿。次は私が一軒、面白い店をご案内しましょう」
「清らかな魂を取られん店なら考えたる」
「ご安心を。食事代は普通にいただく店です」
 二人はまた盃を合わせた。
 店内では誰かが笑い、座敷では鍋の具を巡って小さな争いが起き、女将が「喧嘩するなら追加注文してからにしな」と軽く叱っている。

 その片隅で、人間災厄の道具屋と大化け猫の親分は、まるで古くからの飲み友達のように、杯を重ねていった。

野分・時雨
葵・慈雨

 どこかで誰かが「もう一杯!」と景気よく叫んでいた。
 赤提灯が狭い路地の頭上で揺れ、屋台の灯りが湯気の向こうでにじんでいる。
「ドラさんが案内してくれるんだって~!」
 慈雨は提灯に照らされてすっかり楽しそうだった。その隣で時雨は少しだけ肩をすくめる。
「ご飯も食べていきますか? 甘いものであれば、豆花とか?」
「豆花も気になるけど、しぐちゃんは甘いものそんなに得意じゃないよね」
「まあ、食べられないわけではないですけど。……ご興味あるものがあれば着いていきますよう」
 慈雨はにこにこと言った。
「じゃあ、おつまみ美味しそうなところ行こっか!」
「判断がだいぶお酒側に寄ってません?」
「寄ってないよ?」
 慈雨は尚もにこにこしている。
 絶対に少し寄っている顔だった。
 その時、提灯を片手にした三毛の大化け猫――ドラ吉が、横丁の入口から二人を手招きした。
「来たな。今夜は屋台市や。《猫目焼鳥》《福々鉄鍋》《三日月屋台》なんかが近くやったら美味いぞ。甘いもんは奥の《白雨茶房》や」
「わあ、全部おいしそう!」
「あと、酒飲みが集まるならあそこの《だるま徳利》な。まあ、あそこは調子乗る奴が多いから、ほどほどにな」
「ほどほど」
 慈雨が復唱する。
 時雨はその響きに、少し不安を覚えた。
「ドラ吉さん、あなたは?」
「わしは《だるま徳利》におる。何かあったら呼べ。呼ばんでも騒ぎが大きけりゃ見る」
「案内とは……」
「カカッ! ま、あんま若いもんの邪魔してもなァ」
 ドラ吉は豪快に笑うと、巨大な徳利がかかれている暖簾の奥へ入っていった。

 案内はそこまで。
 あとは二人で、夜の横丁を歩く時間だ。



 慈雨がじゃあ行きましょう!とルンルン気分で一歩を踏み出した。
 まずは《猫目焼鳥》。
 炭火の上で串がじゅうじゅうと音を立て、塩を振られた鶏肉が香ばしく焼けている。慈雨は受け取った串を両手で持ち、目を細めた。
「焼き鳥、久しぶり~! 食べ歩きってどうしてこんなに幸せになっちゃうんだろうね……!」
「熱いので気をつけてくださいね」
「はーい」
 返事はいい。
 けれど次の瞬間、慈雨は「熱っ」と小さく言って笑った。
「だから言ったでしょう」
「でもおいしい!」
「おいしいなら良いですけど」
「それに、しぐちゃんだってよく熱い! ってやってるじゃない」
「それはそれ、これはこれです」
 時雨も一本受け取って、ゆっくりかじる。
 塩気と炭火の香りが舌に乗る。たしかに、幸せになる味だった。……認めるのは少し癪だが。

 次は《福々鉄鍋》。
 丸い鉄鍋の中で、一口餃子がまあるく並んでいる。肉だねの中にはたくさんの山椒。仕上げにもぱらりと振られた。
「うまうま餃子!」
「うまうま餃子だねえ」
「紅しょうがかき揚げもあると嬉しいのですが」
 慈雨も餃子をひとつ口に入れ、ぱっと表情を明るくした。
「山椒すごいね、いい香り!」
「慈雨さん、もっとたくさん食べてくださいね」
「食べてる食べてる」
 時雨は紙皿を少し慈雨の方へ寄せた。
 慈雨は笑って、もうひとつ餃子を取る。
「しぐちゃんもちゃんと食べてる?」
「ぼくは食べますよ。食べ物は逃しません」
「えらいこちゃん」
「食べてるだけで褒められる年齢ではないです」
「でもえらい」
「……はいはい」

 そんなふうに言いながら、二人は焼き鳥と餃子を食べ歩いた。
 屋台だけではなく戸を開け放した居酒屋からも笑い声がこぼれている。
 その中でひときわ賑やかな一角がある。さっきドラ吉が入っていった《だるま徳利》だ。
「飲み勝負してる!?」
 時雨の金の瞳がきらりと光る。
 店先では数人の妖怪が大きな盃を並べている。どうやら誰が最後まで平然としていられるか、という実に単純な遊びらしい。
「わあ、酔っ払いさんがたくさんいるね~!」
 慈雨も目を丸くした。
「飲み勝負かあ。妖怪さんはお酒強いもんねぇ」
「参戦したいです! ぼくがお相手します!」
「えっ」
「慈雨さんは飲まなくて大丈夫ですよう。じゃ、一杯目――」
 時雨はそう言って、たいへん自然に盃を受け取った。
 そのあたりまでは慈雨も見ていた。
 見ていた、はずだった。
 ――けれど店先の賑わいは忙しいので。
 横からお通しが届き、誰かが「姉さんも一杯どうや」と笑いかけ、慈雨が「ええと、私は」と返事に迷っている間に時雨は一杯目を空けていた。「どうしそうかな」と考えているうちに、時雨は二杯目を受け取っていた。そして三杯目を前に、店の妖怪と何やら真面目な顔で盃の大きさについて議論していた。
 そう、そんな感じでほんの少し目を離しただけだったのだ。
「……あれ?」
 慈雨が振り向いた時には、時雨は妙に姿勢よく座り、頬をうっすら赤くしていた。
 並んだ空の盃の数は軽く数えて五枚ほどになっている。
「しぐちゃん?」
「はい。慈雨さん、どうしました?」
「飲んだ?」
「飲み勝負ですから」
「どれくらい?」
 時雨は笑っている。
 しかし、いつもより目がきらきらしている。口元も少し緩い。これはかなりご機嫌である。
「もう、しぐちゃん! おみずも飲まないと! ちょ、ちょっともらってくるね……」
 慈雨が慌てて席を立つのを、時雨は妙にきりっとした顔で見送った。

 その時、店の奥の席からドラ吉の声が飛んできた。
「おう兄ちゃん、飲んどるか?」
「――大将、見て!」
 時雨はぱっと顔を上げた。
 酔っているわけではない。たぶん。酔ってないったら酔ってない。
「これ、買ってもらったんです! 見て!」
 そう言って、時雨は大事そうに隅に置いていた小箪笥を持ち上げる。
 ドラ吉は一瞬だけ黙った。それから片耳をぴくりと動かす。
「知っとるわい。昼にわしの店で買うたやろ」
「でも見て!」
「見とる言うとるやろがい」
「これぼくの小箪笥なんですって。嬉しい!」
「おォ、酔うとるなにいちゃん」
「見てるの!? ねえ!」
「見とる! 売ったんワシや!」
 ドラ吉が声を張ると、周りの酔客たちがどっと笑った。
 時雨はまったく怯まない。むしろ誇らしげに小箪笥を抱え直す。
「じうさんにもらいました!」
 その言葉とおんなじぐらいで、ぱたぱたと慈雨が水を持って戻ってきた。
「しぐちゃん!? わわわわわ、酔っぱらいちゃんだ!」
「おーおー、保護者が来はったか。引き取ってくれや。さっきから箪笥箪笥騒いどってな」
「え? 箪笥?」
 水の杯を時雨の前へ置くより先に、慈雨の目はにこにこ顔の時雨に向いた。
 小箪笥をしっかり抱える姿。これは――かわいい!
「ねえねえ、しぐちゃん。素敵な小箪笥だねえ。誰に貰ったの?」
「はい! じうさんにもらいました!」
「うふふ、えらいこちゃんだ」
 褒められた時雨は、ほんの少しだけ背筋を伸ばして、小箪笥をさらに大事そうに抱えた。
「でもねえ、あのねえ、ぼくのものらしいんですよ」
 慈雨は小箪笥の取っ手を指先でそっと撫でる。
「細工が細かいねぇ」
「でしょう」
 時雨の声が弾む。
「見てください。ここ、少し花みたいにも見えるんです」
「うんうん」
 普段ならもう少し皮肉を重ねるところだが、今夜はうまくいかない。小箪笥を褒められると嬉しい。慈雨が「しぐちゃんのもの」と言うたびに、胸の奥が少しむずむずする。
 ドラ吉が奥の席で、ふっと喉を鳴らした。
「ええもん買うてもろたなァ」
「はい」
 時雨は素直に頷いた。
 それから、はっとしたように顔を引き締める。
「……いや、はいって言いましたけど、別に浮かれてるわけでは」
「浮かれとる浮かれとる」
「大将」
「ご機嫌ちゃんだもんねぇ」
「慈雨さんまで」
 慈雨は楽しそうに笑い、時雨の隣へ腰を下ろした。
「しぐちゃん、たくさん飲んだんだねえ」
 隣の妖怪も景気よく笑った。
「姉さんもいっとくかい?」
「え、じゃあ私も、参戦しちゃおうかな……!?」
「いや、こっちの人は――」
 止める前に慈雨は盃を受け取っていた。
 そして、くいっと飲む。
「すごい久しぶりに飲んじゃった……!」
「な、なんで慈雨さん飲んだの!?」
「だって、みんな楽しそうだったから……!」
 またぐいっと慈雨が杯を煽った。
 周囲の妖怪たちが「おおっ」と拍手する。
「お酒って飲んじゃうと止まらなくなるからダメよねぇ。ダメってわかってるのよう」
「じゃあ止まってください!」
「私はあんまり酔えないから……で、でも美味しいから仕方ないのよね……!?」
 時雨は慌てて店員を呼んだ。
「お水たくさん下さい。あと、おつまみもください。何か胃にやさしいもの」
「カカッ! 急にしっかりしたな、坊ちゃん」
「坊ちゃんじゃないです」
 出てきた水の杯を、時雨は慈雨の前へずいと置く。
「お水のんでください!」
「おみず~」
「本当に飲んでます? それお酒じゃないですね?」
「お水だよ。ほら、透明」
「お酒も透明なものありますからね」
 慈雨は素直に水を飲む。時雨もつられて水を飲んだ。
 水で、すこーしだけ頭が冴える。
「――あ! しぐちゃん、さっき紅しょうがかき揚げ食べたいって言ってたよね」
「お品書きにありました?」
「さっき、向こうの屋台にあった気がする!」
「本当ですか」
 時雨の目がまた少し輝く。
 慈雨はそれを見て、にこにこした。
「探しに行く?」



 二人は《だるま徳利》を出て、再び横丁の通りへ戻った。
 酒場の熱気から外へ出ると、夜風が少し涼しい。提灯の灯りは相変わらず赤く、屋台の声はまだまだ尽きる気配がない。
「紅しょうがかき揚げ、どこだったかなぁ」
「慈雨さん、記憶は確かですか?」
「たぶん!」
「……ご興味あるものがあれば着いていきますよう、と言いましたから。お付き合いしますけどね」
「しぐちゃん、律儀だねぇ」
 時雨は小箪笥を大事に抱えながら、その隣を歩いた。
 これには何を入れよう。手紙。古い札。小さな貰い物。勝手に片付けられたくないもの。自分のもの。
 そう言われると、まだ少し落ち着かない。
 でも今夜くらいは、落ち着かなくてもいい気がした。
「しぐちゃん」
「はい」
「小箪笥、嬉しい?」
「……さっき言ったでしょう」
「もう一回聞きたい」
「酔ってます?」
「酔ってないよ。たぶん」
 時雨はため息をついた。
 それから、小さく笑って。
「嬉しいですよ」
 そう答えた。

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