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⚡価値
露店の奥では大きな笑い声が響いている。
見れば、二足歩行の大化け猫がふんぞり返り、豪快に客をあしらっていた。
尾はゆったりと揺れ、鋭い目は通り全体を見渡している。
「――アァ!? 本気でその値段で通る思とんかァ!?」
怒鳴られた側は思わず背筋を伸ばし、それでも引かずに食い下がれば――今度は猫がにやりと牙を覗かせる。
「ほう、まだ引かんか。ええ度胸や」
途端に周囲から「おおっ」と声が上がり、小さなどよめきが広がる。やり取りそのものが見世物であり、同時に真剣勝負でもあるのだ。
別の露店では店主同士の言い合いが始まりかけていたが、化け猫がちらりとサングラスの下の視線を向けただけで、ぴたりと収まる。代わりに鼻を鳴らして笑い、どちらも何事もなかったかのように商売へ戻っていく。
どうやら、この場の秩序は、彼の一睨みで保たれているらしい。
近くを通る子どもの妖怪が転びかければ、尻尾で軽く支え、何事もなかったように離す。
客が持ち上げた品を乱暴に扱えば、低く一声だけかけて手を止めさせる。
威勢のいい言葉とは裏腹に、細やかな目配りが行き届いていた。
この市を束ねる大親分、ドラ吉。
その一声が飛ぶたび、空気がぴりっと引き締まり、同時にどっと笑いが起こる。
✦
「おまえら、骨董市に興味はあるか?」
紅涙流離戦の或る最中。君たちを見渡すと、ジャン・ローデンバーグ(裸の王冠・h02072)はそれだけ短く問うた。
今回の舞台は、√妖怪百鬼夜行の一角に広がる巨大な蚤の市だ。
泣く子も黙る大親分、化け猫ドラ吉が率いる√きっての骨董市。人呼んで〈大三毛市〉。
そこは幾重にも露店が連なり、布の天幕が空を覆い、光を鈍く反射している。
主催しているのは地の気を宿した妖怪たち。刀剣、装具、古美術、家具、古本、カトラリー、果ては精巧な装飾が施された楽器、西洋アンティークまで。扱うのは、ありとあらゆる古き良き品。新品はほとんど見当たらない。あるのは、時を経て、誰かの手を渡り、役目を終え、それでもなおここに在るものたちだ。
通りに一歩足を踏み入れれば、鼻をくすぐるのは古い紙や湿った金属、端にある屋台の焼きそばの匂い。
――いらっしゃい! ここは天下の〈大三毛市〉!
赤錆びた鎧を誇らしげに並べる者は、かつての戦場の話を聞いてもいないのに語り出す。
磨き上げられた刃を布で撫で続ける者は、刃文に宿る光をまるで宝石のように愛でている。
古びたティースプーン一本に強い執着を見せる者は、どうやら特別な客を待っているらしい。
どの店主も一癖も二癖もありそうだが――総じて、商売には本気だ。
値札はあってないようなもの。目の前の客を見て、値段も態度もコロコロ変える。
気に入れば破格で譲るし、気に入らなければ倍でも首を縦に振らない。
「ガラクタに見える中に、おまえだけのとびきりの一品が埋もれてる。そういうのを拾えるかどうかが腕の見せどころってわけだ」
人混みは濃く、熱気は重く、道は決して開けてはいない。肩が触れ、声がぶつかり、視界はしょっちゅう遮られる。
それでもなお、誰もが何かを探している。
価値を、物語を、あるいはただの"運"を。
「……ああ、奥には市の親分、ドラ吉ってのがいる。次に何かと戦うなら手を貸してくれるし、飯屋に行くってなら美味いとこに案内してくれるらしい」
ジャンはそこで一度言葉を切り、少しだけ視線を横へと流した。
「しかも奴さん、表に出てる連中とは桁が違う。年代モノ、逸品、いわく付き。簡単に言や"本命"の品を山ほど持ってる」
けどな、と肩をすくめる。
「気に入らなきゃ、金積んでも門前払いらしい。逆に気に入れば、驚くほどあっさり手放すこともあるらしいが……まあ、その基準が厄介でな。根性かもしれねえし、見る目かもしれねえし、あるいは、"そいつがその品に選ばれてるかどうか"かも」
くつ、と笑ってこちらを見る。
「逆に通れば本物だ。試してみるかは好きにしろ」
ジャンは肩をすくめ、少しだけ楽しそうに目を細める。
「ま、難しく考えたって、いいもんは逃げるときゃ逃げるし、逆にふらっと入った店で当たりを引くこともある」
少しだけ口角を上げて、最後に言い添える。
「だから――1個でいい。自分がこれだって思えるもんを、見つけてこいよ」
古きよきものがきらめく市。
価は眠り、値は揺れ、声は飛び交う。
触れれば冷たく、けれどどこかに熱を残した品々が。
君に選ばれるのを、待っている。
これまでのお話
第1章 冒険 『お宝を探し出せ!金属妖怪の骨董市』
「わぁ……」
大三毛市へ足を踏み入れた途端、クラウスは思わず声をこぼした。
人混みと熱気、威勢のいい呼び声。古い紙と湿った金属の匂いに、屋台の焼きそばの香ばしさまで混ざっている。あちこちで値段交渉の声が飛び、どこかで金属の器がかちんと鳴った。
「すごいな。こういうの、久しぶりかも」
√ウォーゾーンでも、時々こういう蚤の市は開かれていた。瓦礫の隙間に布を敷き、拾い集めた部品や古道具を並べるような、もっと簡素なものだったけれど。この雑多な空気は少し似ている。
「俺にとっての、とびきりの一品か……」
見送りの言葉を思い出しながら、クラウスは人の流れに沿って歩き出した。
✦
刀剣の並ぶ店では、店主が聞いてもいない武勇伝を語っている。真鍮の歯車や古い計器を積み上げた店では、妖怪の子どもが怒られながらも目を輝かせていた。
どれも面白い。どれもきっと価値がある。けれど、手に取ろうとすると、少し違う気がした。
……強くなるためのものなら、いくつも見つかる。
でも今日は、そういうものを探しているわけではないような気がする。
人混みを少し抜けたところで、ふと足が止まった。
通りの端に、小さな露店があった。
派手な看板も呼び込みもない。ただ木箱の上に、食器類が丁寧に並べられている。皿、カップ、ポット、カトラリー。銀のスプーンは曇りを残したまま光り、陶器の小皿には淡い絵付けがされていた。
「……あ」
クラウスは自然としゃがみ込む。
そういえば、熱い飲み物を飲むためのカップが欲しかったのだ。
今持っているのは、軍用の金属製のものだけ。軽くて丈夫で、便利ではある。けれど、唇に触れる感触も、手に伝わる温度も、どこか味気ない。
「冷めるのも早いんだよね……」
ぽつりと呟くと、店主らしい小柄な妖怪が片目だけ開けた。
「兄さん、茶ぁ飲むんか」
「あ、はい。温かいものは好きです」
「ほな、手に馴染むやつを選び」
それ以上は何も勧めてこない。
その距離感が、クラウスには少しありがたかった。
並んだカップを一つひとつ見ていく。
背の高いもの、丸いもの、藍色の線が入ったもの。どれもよかったけれど、ふと白地のカップに目が止まった。
ふちの近くに、やわらかな色で小さな花が描かれている。派手ではない。けれど、静かに咲いているその花が、なぜか妙に気になった。
そっと手に取る。
陶器はひんやりとしていたが、金属の冷たさとは違った。
――これだ。
理由はうまく言えない。けれど、そう思った。
「すいません。こちらを買いたいのですが」
クラウスは顔を上げ、まっすぐに店主へ声をかける。
店主はカップとクラウスを交互に見て、それから値段を告げた。高いのか安いのか、正直よく分からない。交渉も得意ではない。だから、クラウスは素直に頷いた。
「はい。それでお願いします」
「値切らんのか」
「……えっと。大切に使いたいので」
答えになっているのか分からなくて、少し困ったように笑う。
「買わせてくれるなら、ちゃんと長く使います。お茶とか、コーヒーとか……温かいものを飲むときに」
店主はしばらく黙っていたが、やがてふんと鼻を鳴らした。
「変な兄さんやな。ほな、包んだる」
古布で丁寧に包まれたカップを受け取り、クラウスは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
戦うためのものではない。誰かを守る道具でもない。
ただ、温かい飲み物を注いで、飲むためだけの道具。
それでも、きっと必要なものだと思った。
人混みに戻ると、また大三毛市のざわめきが押し寄せてくる。どこかでドラ吉の豪快な笑い声が響き、値切り合戦に歓声が上がっていた。
クラウスは少しだけ嬉しそうに息を吐く。
「……帰ったら、まず何を飲もうかな」
紅茶か、コーヒーか。
少し甘いものでもいい。
大三毛市の喧騒の中で、クラウスは自分だけの小さな包みを、静かに抱え直した。
せっかくの骨董市だ。
墨・迅(黒衣の迅・h12802)がまず考えたのは、自分のための掘り出し物ではなかった。
「……贈り物でも探すか」
大三毛市は、どこを向いても騒がしい。
値切りの声、笑い声、金属が触れ合う音。古い油と紙の匂い。
迅の足取りに迷いはない。
人混みは嫌いではなかった。むしろ、こういう場所のほうが分かりやすい。誰が品を見ているか。誰が財布を見ているか。誰が店主の目を盗もうとしているか。スリも、客も、同業も、動きでだいたい分かる。
ぶつかりかけた男が顔をしかめるが、赤い目と合った途端、舌打ちだけを残して身を引く。
「よぉ、旦那。景気はどうだい?」
古びた装身具を並べる店の前で、迅は口角を上げる。
店主の妖怪は片目をぎょろりと動かし、じろじろと彼を見た。
「若いのに目つきが悪いな」
「育ちがよくねぇんでな」
並んだ品を一瞥する。銀細工、真鍮の髪留め、石の嵌まった指輪。
悪くはない。
……だが、足りない。輝きが軽い。あの人に似合うもんじゃなきゃ意味がない。
「銀の髪に翠の瞳、キリッとした別嬪さんへの贈り物を探してる」
何気ない調子で言ったつもりだ。
「……俺には釣り合わねぇくらい好い女だ」
店主がひゅう、と冷やかすように鳴く。
「惚気かい」
「うるせぇ。黙って他の品を出せよ」
気圧された店主は無言で他の品を並べていく。
翠の石が嵌まった腕輪は色が濁っていて駄目。細身の短剣は意匠が派手すぎる。古い簪は悪くなかったが、店主がやたら曰くを盛るのが気に食わない。
値段を鵜呑みにする気はない。こればかりは、高いから良いわけじゃない。安いから駄目なわけでもない。
✦
その調子でいくつか店を回っていると、奥まった露店で足が止まった。
黒い布の上に数点だけ品が置かれている。古びた小箱、銀の鎖、細い護符入れ。それから――深い翠の石が嵌まった、古い耳飾り。
石は大きくない。けれど光を受けると、底のほうで静かに色が揺れた。刃のように澄んでいて、毒のように美しい翠。
迅は黙って、それを手に取る。
「目がいいねぇ。それは持ち主を選ぶよ。気位の高い石だ」
「だろうな」
指先に、ひやりとした感触が残る。
あの人の耳元で揺れたなら、きっと似合う。銀の髪の傍で、この翠は負けない。けれど出しゃばりもしない。
「いくらだ」
告げられた額に、迅は片眉を上げた。
「吹っかけたな」
「それぐらいの価値はある」
「半分」
「冗談だろう」
「こいつが一等居心地のいい主の元に連れてってやるよ」
店主が目を開き、次いで喉を鳴らして笑う。
「言うね」
迅は耳飾りを指先に乗せたまま、低く言う。
「ご主人サマが気に入るもんじゃなきゃ意味ねぇからな」
店主はしばらく迅を見て、やがて最初より少しだけ現実的な値を告げる。
迅は金を払い、小箱に収められた耳飾りを受け取った。
「大事にしな」
懐に入れると、軽い箱なのに妙な重みがあった。
大三毛市のざわめきは続いている。値切り合戦に歓声が上がり、どこかでドラ吉の豪快な笑い声が響いた。
腹が減った。
だが今は、この小箱を落とさないこと。傷つけないこと。それだけを考える。
噛みつく相手は選ぶ。そしてご主人サマには、ちゃんと獲物を持ち帰る。
それも一つ。間違いのない価値。
ラウアール・グランディエ(人間災厄「グリモリウム・ウェルム」の不思議道具屋店主・h08175)は、大三毛市の喧騒を愉しむように歩いていた。
「実に良い市ですね」
新品にはないものがある。誰かが欲し、誰かが手放し、誰かが惜しみ、誰かが呪ったもの。そうした情念の艶こそ、古物の美しさだ。
店に飾るなら、ただ綺麗なだけでは物足りない。
ならば向かうべきは一つ。
いわく付きの本命を扱うという大親分、ドラ吉のもとだ。
✦
市の奥へ進むほど、ざわめきは濃くなる。そこにある秩序は木箱の上にふんぞり返る大化け猫の眼光によって保たれていた。怒鳴り声に、周囲がどっと沸く。
ラウアールはくすりと笑い、他の客の邪魔にならぬよう一歩引いた位置で礼をした。
「お初にお目にかかります、ドラ吉殿。私はラウアール・グランディエ。『小さな鍵』という道具屋を営んでおります。本日は、店に飾る品を探しに参りました」
サングラスの奥で鋭い視線が動く。
「道具屋さんかいな。兄さん、えらい悪そうな顔しとるなァ」
「よく言われます」
「何が欲しいんや。綺麗なだけの飾りなら表にもあるで」
「そう、ですね……」
ラウアールは並べられた品々へ目を向けた。古い香炉、歪んだ鏡、蓋の閉じた小箱。どれも一癖ありそうだ。
その中で、ふと視線が止まる。
一本の刀剣があった。
派手な拵えではない。むしろ地味とすら言える。だが鞘の奥に、水底に落ちた刃のような、冷たく重い気配がある。
「そちらを拝見しても?」
「丁寧にな」
「もちろんです」
白い手袋を着けたまま、ラウアールは慎重に刀へ手を伸ばす。
指先が鞘に触れた瞬間、紫の瞳の奥で、何かが薄くひらめいた。
――雨。泥。叫び声。
月明かりのない夜に抜かれた刃。守るための一振り。奪うための一振り。祈りのように握られ、呪いのように振るわれた幾つもの手。
血は乾いている。だが、消えてはいない。鞘の内側にあるのは、怒り、恐怖、覚悟、未練――。
ラウアールは、ほう、と小さく息を吐いた。
「素晴らしい」
声音には、陶酔に近い熱がある。
「数多の血と情念を秘めながら、今は認めた主の元で静かに収まっている」
ドラ吉が片耳をぴくりと動かす。
「分かるんかい」
「多少は」
ラウアールは刀から手を離し、改めて向き直った。
「良ければ、この刀の主を、私に任せてはいただけませんか?」
売ってくれ、ではない。譲れ、でもない。主を任せろ。その言い方に、周囲の空気がわずかに静まる。
「兄さん。そいつを店の飾りにする言うたな」
「ええ、飾ります。ですが見世物にはいたしません」
穏やかな微笑みのまま、ラウアールは続けた。
「品には相応しい場所があります。この刀は、悲劇を隠す暗がりではなく、美しく見える灯りの下に置きたい。私の店には、そういうものを求めて訪れるお客様も多いのです」
「けったいな店やな」
「否定はいたしません」
ドラ吉はしばらく黙っていたが、やがて大きく牙を覗かせた。
「カカッ! ええやろ。気に入ったわ、その胡散臭さ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めとらんわ」
すかさず返され、周囲から笑いが起こる。
代金は安くなかった。しっかりと吹っかけられている。ラウアールは値を聞き、わずかに目を細めた。
「値切るか?」
「いえ。今回は授業料も含めてお支払いいたしましょう」
「ほんまに胡散臭いなァ、兄さん」
ドラ吉は笑いながら、刀を丁寧に包ませた。
ラウアールはそれを受け取り、手の中に残る重みを確かめる。
店に戻れば、どこへ飾ろうか。扉を開けた客が最初に見る場所か。それとも少し奥まった棚の上か。灯りの角度は慎重に選ぶべきだろう。鞘の沈黙が美しく見えるように。
古物とは、ただ古い品ではない。誰かの願いと、諦めきれなかったものの残響だ。
今日、大三毛市で見つけたこの一振りは――彼の店によく似合う、悲劇の匂いをしていた。
「ふっふっふ……」
大三毛市の人波の中で、栞沢・読美(止まらない大図書館・h00298)は両手に抱えた戦利品を見下ろし、たいへん不敵に笑っていた。
「『雨王子とかえるの冒険』、『すみれ草日記』、『ザ・呪術vol666 読んだ奴全員呪ったろか特集号』……ああもう、どの本も読むのが待ちきれないわ!」
値切り合戦と焼きそばの匂いと金属音が飛び交う市の中でも、その声はなかなかよく通った。通りすがりの妖怪が「最後のやつ、本当に読むんか?」みたいな顔をしたが、読美は気にしない。
本あるところ、私あり。
それが栞沢・読美という女だ。
「いやあ、いい市だね。大三毛市。金物ばかりかと思いきや、古本もちゃんとある。文化への理解がある。実に偉い」
勝手に採点しながら、読美は露店から露店へと渡り歩く。
『猿でもわかる結界術』を発見。即購入。次に『恋する鍋奉行と百年味噌』を発見。表紙の鍋奉行が色男だったので購入。さらに『図解・妖怪式へそくり隠蔽術』を見つけ、これは将来何かの役に立つかもしれないと購入。何に役立つのかは分からないが、本とはそういうものである。読んでから考えればいいのだ。
「お嬢さん、それ以上積むと前が見えんぞ」
「本望だね」
「いや、危ないって意味や」
露店主のもっともな注意を受け、読美はしぶしぶ外套をひらいた。
裏地の奥に、ずらりと並ぶ書棚が現れる。そこへ本を一冊ずつ差し込んでいく手つきは、まるで家へ帰ってきた子どもたちを迎える母のようだった。
「君は幻想文学の棚。君は民俗資料。君は……呪術雑誌だから、封印付き危険図書の仮置き場ね。あとでちゃんと読むから大人しくしてるんだよ」
『すみれ草日記』の背を撫でると、幸福感が全体を包む。
けれど、今日の目的はただの古本漁りではない。
市の奥。大親分ドラ吉の露店に希少本があるという噂を聞いた。
今は亡き世界から流れ着いた本。とある世界を生きた人物が、自らの旅を記した一冊。
その内容にきっと戦略的価値などない。敵の弱点が分かるとか、強大な魔法が身につくとか、宝の在処が示されているとか、そういう都合のいいものではないだろう。
けれど。
「読みたいわね」
読美はぽつりと言った。
「知りたい。どんな空があって、どんな町があって、どんな人が笑って、何を食べて、何に泣いて、どんな道を歩いたのか」
役に立つかどうかではない。残っているなら、読まれるべきだ。語れるなら、語られるべきだ。誰かの生きた世界が一冊の本になっているなら、それはもう、読美にとって立派な宝だった。
「よし。――正面からいこう」
✦
ドラ吉の露店は、市の奥でもひときわ賑やかな場所にあった。
大きな木箱の上で二足歩行の大化け猫がふんぞり返り、客を睨み、笑い、値を吊り上げたり叩き下ろしたりしている。
「カカッ! それを値切るんやったら、まずその震えた声をなんとかしてこい!」
周囲から笑いが起こる。
読美はその場の熱気に、ほう、と感心した。
「いいね。商売という名の演劇だ。しかも観客参加型」
感想を述べながら近づくと、ドラ吉の耳がぴくりと動いた。サングラスの奥の視線が、読美の外套に向く。
「なんや、歩く本棚みたいな姉ちゃんが来たな」
「正解。歩く本棚です」
「認めるんかい」
「事実だからね」
読美は軽く会釈した。
普段なら、希少本のためなら多少の強行突破も辞さない彼女だが――この店は違う。
書の扱いが丁寧だった。湿気除け、虫除け、日差し避け。管理の難しい古書を、ちゃんと本として遇している。
それを見たら、さすがに礼を欠く気にはなれない。
「ドラ吉さん。あなたのところに、世界の狭間から流れ着いた旅の記録があると聞いたわ」
「ああ、あれか。欲しいんか」
「欲しい」
即答だった。
「ただし、私はそれを飾りにしたいわけじゃない。転売もしない」
真顔だった。
ドラ吉は一拍置いてから、カカッと笑う。
「じゃあ、姉ちゃんはその本をどうするんや」
「読む」
読美は胸を張った。
「読みたい。知りたい。その世界のことを。そこにいた人の旅を。役に立つかなんて知らない。ただ、読みたい」
彼女は外套の裏を少し開く。
無数の背表紙が、奥へ奥へと続いていた。
「読んだら、語るわ。広める。残す。誰かが"そんな世界があったんだ"って思えるようにする。たとえもう辿り着けない場所でも、名前も地図も失われた場所でも、本の中にある限り、そこはまだ完全には消えていない」
周囲の騒がしさが、ほんの少しだけ遠のいた。
読美は薄い財布を取り出した。
取り出した瞬間、財布が「やめて」と言った気がした。気のせいであってほしい。
「金に糸目は――」
そこで、ちらりと中を見る。
小銭たちが慎ましく身を寄せ合っていた。
「……つけないわ! さあ、交渉タイムといきましょう!」
薄い財布を手に堂々と言い切る読美に、周囲からどっと歓声が起こった。
読美はにっこり笑った。目は笑っているが、一歩も引く気配はない。
「高いで」
「知ってる」
ドラ吉はしばらく彼女を見つめ、やがて奥の棚から一冊の本を取り出した。布に包まれた古びた小さな本。表紙の文字は、こちらの世界のものではない。けれど触れなくても分かる。長い旅をしてきた、紙の匂いがする。
「値切るか?」
「値切る。けれど、本の価値を下げるためじゃない。――私が昼ご飯を食べる余地を残すために」
「正直やなァ!」
ドラ吉が大笑いした。
そこから始まった交渉は、なかなかに白熱した。読美は本への愛を語り、ドラ吉は値を守り、途中で『恋する鍋奉行と百年味噌』の貸出権が交渉材料に混ざり、なぜか焼きそば一皿が追加条件になった。
最終的に、財布はかなり薄くなった。
けれど彼女の手には、確かにその本がある。
「……ふふ」
読美は大事そうに本を抱える。
頁を開くのは、落ち着いた場所に行ってからだ。風の強い市の中で開くなんて、そんな危険な真似はしない。本には本に相応しい初対面の作法がある。
「ありがとう、ドラ吉さん」
「ちゃんと読んだりや」
「もちろん。そして、ちゃんと残すわ」
彼女は外套をひらき、一番奥の、まだ空いている棚へその本を収めた。
「ようこそ」
読美は小さく呟く。
「あなたの世界の話、私に聞かせてね」
路地に戻ると、大三毛市の喧騒が戻ってくる。
値切り声、笑い声、焼きそばの匂い。財布は軽い。腕も軽い。けれど外套の裏は、たしかに少し重くなった。
それは読美にとって、何より嬉しい重みだった。
読美は身を翻し、颯爽と歩き出し――
「あ!あの本は……!『禁書目録外伝 絶対に開くなと言われると逆に開きたくなる本』!」
――そして、また別の路地へと消えていった。
大三毛市を歩く不忍・ちるは(ちるあうと・h01839)の足取りは、たいへんのんびりしていた。
人混みは濃く、声は大きく、あちらこちらで値切り合戦が起きている。
そんな中、ちるははふらり、ふわり。黒蜜きなこ餅でも探すような顔で、骨董市をおさんぽしていた。
「これは……お皿、ですかね。こっちは、なんだか強そうな壺」
強そうな壺、という評価を受けた壺は、心なしか誇らしげに見えた。
「あの鎧も強そうです」
壺と同じ評価をされた鎧は、どことなく不満げに見えた。
そんな様子で奥へ奥へと分け入っていく。
けれど、今日の目的は自分用ではない。
……ひとさまのおうちに置いて帰る、何か。
美術品なのか、調度品なのか、あるいは古い小瓶に入った種なのか。そこはまだ、ふわっとしている。
でも大丈夫。
ふわっとしているなら、有識者さんに聞けばいいのだ。
✦
ちるはは足取りはそのままに、市の奥へ向かった。
そこでは二足歩行の大化け猫が、木箱の上でふんぞり返っている。
ちるははドラ吉の商談がひと段落するのを待ってから、にっこり会釈した。
「ドラ吉さん、こんにちは」
「あ? なんや、えらいのんびりした姉ちゃんやな」
「いちばん有識者さんの審美眼を買いにきました」
「審美眼を買いに?」
「はい。あると思っていますが、ここになければきっとないので。それはそれで諦めます」
ドラ吉の耳がぴくりと動く。
ちるはは少し考えながら、言葉を選んだ。
「えと、ひとさまのおうちに置いて帰る何かを探していまして。この√に住んでいて、別の市を管理している、とても年上のかたなので。なんとなく近しい感覚のアドバイスを頂ければなと」
「ほう。相手は男か?」
「はい」
「どんな男や」
「ええと」
ちるはは、ほんの少し視線を泳がせた。
――強いひと。長く生きて、戦って、退かずに歩いてきたひと。誇り高くて、声に芯があって、
全部言うには、少し照れる。
「私の、よいひと、ですかね」
言ってから、ちるはは自分で小さく瞬いた。
ドラ吉がニヤリと牙を覗かせる。
「カカッ! ええやんけ。ほな、半端なもんは出されへんな」
「はい。半端じゃないと、嬉しいです」
「ほな、これはどうや」
ドラ吉が取り出したのは古い香炉だった。
掌に収まるほどの青銅製。表面には風をかたどったような文様が刻まれ、蓋の透かし彫りは、鳥にも、雲にも、刃にも見える。古びてはいるが、長く大事にされたのだろう、静かに渋みを増した色だ。
「香炉、ですか」
「火を入れてもええし、入れんでもええ。置いとくだけでも場が締まる。中に石でも入れて、願掛けに使う奴もおるな」
ちるはは香炉を両手でそっと受け取った。重みはある。けれど、不思議と手のひらの中で落ち着く。
文様に指先を滑らせる。
「きれいですね」
「やろ。派手じゃないが、腰が据わっとる」
「腰」
よくわからないけれど、ちるはは納得した。
たぶん、強い壺と同じ種類の話だ。
あのひとの部屋にこれを置いたらどうだろう。
古い木の棚の上。光の当たる場所より、少し影のあるところ。香を焚いたなら、煙がゆるやかに立つ。
きっと、あの人を静かに見守ってくれるだろう。
「……いいですね」
「決まりか?」
「はい」
ちるはは頷き、財布の紐をしっかりと緩めた。
「相談料込みで、きっちりお支払いします」
「値切らんのか?」
「目利き代は大事ですので」
「若いのによう分かっとるやんけ」
ドラ吉は満足そうに笑い、香炉を布で丁寧に包んでくれる。その手つきは、豪快な声とは裏腹にずいぶん細やかだった。
「大事にしたりや」
「はい。だいじにしますね」
「おう、その彼とやらに宜しくな」
カカッ! と最後に笑う声に、ちるははほんの少し、でもしっかりと頷いた。
大三毛市のざわめきの中、ちるははのんびり歩く。
「喜んでくれると、いいですね」
古い香炉は、まだ誰かの家を知らない。けれどきっと、遠くないうちに、誇り高い誰かの傍らで静かに煙を吐くだろう。
香炉の包みは、ちゃんと片腕に抱えている。
落とさないように、揺らさないように。
大三毛市の奥へ進むほど、喧騒はひときわ濃くなっていった。
値切りの声、笑い声、金属の触れ合う音。布の天幕は陽を受けて淡く透け、古い銀器や刀装具の縁に柔らかな光を落としている。風が通れば、吊るされた品々が微かに揺れ、硝子、鉄、真鍮、それぞれ違う音で小さく応えた。
「こういう縛りも面白いね。俺の店は画廊だから、金物は大抵専門外になってしまうのだけど」
早乙女・伽羅(元警察官の画廊店主・h00414)は、隣の目・魄(❄️・h00181)をちらりと見た。彼は、いつものやわらかな笑みを浮かべている。――ように見える。一見は。
「そわそわした風の君を見ているのも楽しいな」
「……そう見えるかい?」
「見えるとも。一見いつも通りの表情だけれど、俺にはわかるよ」
魄は少し困ったように笑った。
その表情は涼しげで、声も穏やかだ。けれど視線だけが、露店の奥へ、さらに奥へと吸い寄せられている。
「いや、良いね。いわく付き……しかも本物。商いに知見があるとしていても、この場はどうしても落ち着かない」
「いいことだ。落ち着ききっていたら、骨董市に来た意味がない」
どの露店も賑やかだが、その中心に近づくにつれ、空気に更に活気に似たものが溢れてくる。
その理由は、木箱の上にふんぞり返る二足歩行の大化け猫だ。
サングラスの奥の鋭い視線が通りを睨み、尾がゆったりと揺れている。怒鳴られた客は背筋を伸ばし、それでも食い下がる。すると大化け猫――ドラ吉は、にやりと牙を覗かせる。
「なるほど。あれが噂の大親分か」
✦
二人は、前の交渉が終わってから悠々とドラ吉の露店へ近づいた。
並んでいるのはさすが大親分の品というべきか。どれも一癖ありそうなものばかりだった。古い香炉、曇った銀盆、異国の燭台、黒漆の小箱、磨き込まれた刀装具。長い時間をくぐり抜けた品々がずらりと並んでいる。
その中で、魄の足が止めたのは、木枠の棚に吊るされた風鈴だった。
鈍い銀灰色をした、古い金属の風鈴。派手ではない。むしろ、一見すれば見落としてしまいそうなほど控えめなもの。けれど表面には細やかな文様が鋳込まれ、光を受けるたび、水面のように静かに揺らめく。
魄は、それを見たまま黙った。
「……天明鋳物の風鈴か」
呟きは小さかったが、ドラ吉の耳はぴくりと動く。
「ほう。分かるんかい兄ちゃん」
「少しだけね」
魄は一歩近づき、礼儀正しく視線を上げる。
「見てもいいかい? 触れてはいけなければ、視るだけで」
「ええわ、丁寧に触れたりや」
「もちろん」
魄は指先を伸ばし、風鈴に触れた。
冷たい。
けれど、ただ金属が冷えているのとは違う。長い時間、夏を経てきたものの冷たさだ。
ふいに、市の通りを風が抜け、ちりんと澄んだ音がした。
細く、涼しく、けれど芯がある。
騒がしい大三毛市の真ん中で、その音だけがまっすぐ耳に残った。
「……うん」
魄はほんの少し目を見開いた。
それから、静かに笑う。
「気に入った」
綺麗だとか、貴重だとか、御託は並べなかった。ただ、その一言で十分だ。
ドラ吉が牙を覗かせる。
「値段も聞かん内からか?」
「高かろうが安かろうが、これが良いんだ」
魄は風鈴から視線を離さない。
「俺の目に残ったのだから、もらうよ」
「惚れ込んだ顔やなァ」
「そうだね。惚れ込んだんだ」
あっさり認めるものだから、伽羅は喉の奥で笑った。
「これは珍しい。魄が何かに執着を見せるのは、なかなかない」
「そうかな」
「そうとも。どれどれ」
伽羅は横から風鈴を覗き込んだ。
風鈴の歴史的な価値などは、伽羅には見当もつかなかった。けれど、銀灰色の肌には、長い夏をくぐってきたような静かな艶がある。
絵画ではない。画廊に飾るものでもない。けれど、確かにいい品だった。
「綺麗な風鈴だねえ」
伽羅は目元をやわらげる。
「つい先日、冬がやっと終わったとホッとしたばかりだと思っていたけど、もう夏の陰が近づいてきているのだものな」
ちりん、と風鈴がまた鳴る。
その音は、猫の耳にも心地よかった。夏の暑さの前触れを、ほんの少しだけ優しくしてくれるような音だ。
「うん。これがあの家の軒先で鳴っていたら、きっと素敵だろう」
魄が、ちらりと伽羅を見る。
「あの家?」
「いつもの縁側だよ」
「……まだ買えると決まっていないけれど」
「なら、決めようじゃないか」
伽羅はドラ吉へ向き直り、にこやかに声をかけた。
「ねえ、大将」
「なんや、今度はでかい猫の兄さんか」
「同族のよしみというわけじゃあないが、良い返事をくれないか」
ドラ吉が片眉を上げる。
「兄さんも欲しいんか?」
「俺も、彼の家でこの音を聞きたいのだよ」
その言い方があまりにも自然だったので、魄は一瞬だけ目を瞬いた。口元を隠すように軽く手を当てる。
「伽羅」
「何かな」
「そういう援護をするのかい」
「効くだろう?」
「……まあね」
魄の声には、少し笑いが混じっていた。
伽羅は何食わぬ顔をしている。けれど、その横顔はどこか楽しげだ。
ドラ吉は二人を見比べ、それから風鈴を見上げた。
しばらく黙っていたが、やがてカカッと笑う。
「そいつが鳴りたい言うてるなら、止めるんも野暮か」
提示された値は、決して安くなかった。けれど魄は表情を変えず、すぐに支払う。値切る気など、最初からなかったらしい。
「ありがとう。大切にするよ」
「落とすなよ。割れはせんが、へそ曲げるで」
「風鈴にもへそがあるのかい?」
「あると思って扱った方が、骨董とは仲良うできるんや」
「それはいい教えだね」
魄は丁寧に包まれた風鈴を受け取り、指先でそっと重みを確かめた。
いつもの穏やかな笑みのままなのに、どこか嬉しさが隠しきれていない。
伽羅はそれを見て、また少し笑う。
「いい顔をしている」
「そうかい」
「うん。俺にはそういうのもわかるんだ」
「便利だね、君は」
大三毛市の喧騒の中、二人はゆっくり歩き出す。
天幕の隙間から落ちる光が、魄の銀髪に淡く触れ、伽羅の眼鏡の縁をかすかに光らせた。遠くでまた値切り合戦が始まり、屋台の湯気が白くほどけていく。
魄は包みを胸元に寄せる。大事な書類でも持つように、けれどそれより少しだけ浮かれた手つきで。
「ありがとう、伽羅」
「俺は少し口を挟んだだけだ」
「その少しが嬉しかったんだよ」
魄はそう言って、ふと目を細める。
「帰ったら、いつもの縁側に吊るそう」
「夏が来るな」
「そうだね。きっと、良い夏になる」
古い風鈴は、今はまだ布の中で眠っている。
けれど二人にはもう聞こえているようだった。
夏の午後。
縁側に落ちる青い影。
冷たい茶と少しぬるい風。
隣の気配。
そして軒先で、ちりんと鳴る音。
そんな、小さな未来。
骨・董・市!!
遊・悠(はるかはるかに・h12535)は、その響きだけで既にだいぶ上機嫌だった。
「何と心の踊る響きであろう。骨董市。古きもの、珍しきもの、誰かの美意識が凝り固まったもの。うむ、よい。非常によい!」
布の天幕の下には、刀剣、飾り皿、古びた楽器、奇妙な置物がずらり。値切りの声、笑い声、金属の鳴る音、そして焼きそばの匂い。すべてが雑多で、少し騒がしくて、妙に胸を弾ませる。悠はまるで宝探しをする小学生のような、軽やかな足取りで通りを進んだ。
「あれも良い。これも良い。む、あの硝子瓶の曲線も悪くないな。おお、あの欠けた皿の縁、まるで月の欠片ではないか」
いちいち立ち止まり、いちいち感心する。
店主たちも最初は「買うのか、買わんのか」と訝しげだったが、あまりにも楽しそうに褒めるので、次第に「まあ見ていけ」という空気になっていく。
だが、悠は首をひねった。
「良い。どれも良いのだ。だが……もっとこう、ピンとくるものが欲しい」
一目見て心が弾むもの。
胸の内側で、泡がぱちんと弾けるようなもの。
そういう出会いを求めて、悠はさらに奥へ進む。
✦
そして。
「ピピーン!!」
突然、悠は一軒の露店の前で止まった。
店主の妖怪がびくりと肩を跳ねさせる。
「な、なんや急に」
「来た。いま来たぞ。私の中の美が、鈴を鳴らした」
「鈴?」
「むしろ銅鑼!」
「はあ」
視線の先にあったのは、一本の煙管だ。古びた銀の地に、細かな雲の彫りが入っている。吸い口はなめらかに磨かれ、雁首の部分には小さな水玉のような意匠が散っていた。派手さはない。けれど手に取れば、するりと指に馴染みそうな美しさがある。
「煙管か……煙草はやらんが」
そこで、ぴたりと動きが止まる。彼の脳内には、たいへん鮮やかな光景が浮かんでいた。
ほわんほわんほわ~~ん。
――それは、澄んだ青空の下。
悠がこの煙管をくわえ、ふうと息を吹く。
すると煙ではなく、七色に輝くシャボン玉がぽこぽこと飛び出すのだ。
雲の彫りに沿って光が走り、泡は大小さまざまに連なって、市の上空へふわりふわり。子ども達が歓声を上げ、それを輝かしい目で眺める。
イイ。
悠は立ち上がった。実に晴れやかな顔だった。
「なんだかすごくイイぞ!!」
「お、おう」
「店主! これを貰おう!」
あまりの即決ぶりに、店主は煙管と悠を交互に見た。それから、少しばかり真面目な顔になる。
「兄さん、ええんか? それ、ちょいと曰く付きやで」
「ほう」
「気に入らん持ち主には祟る。夜中に勝手に煙を吐くわ、枕元で火花散らすわ、ひどい時は髪の毛をちりちりに焦がす」
「ほう!」
なぜか悠の顔はさらに輝いた。
「つまりこの煙管もまた、力を以て己を通す武強の持ち主ということだな?」
「いや、そういう格好ええ話やったかな」
「上等だ。受けて立つ!」
悠は胸を張った。
白い髪が天幕から差す光を受け、妙に神々しく見える。
「美とは馴れ合いではない。時にぶつかり、時に火花を散らし、そして最後には互いを認め合うものだ。煙管よ、キミが私を試すというならば、私もまたキミを見極めよう」
煙管は黙っている。
もちろん煙管なので普通は黙っているのだが、物凄く何か言いたげに黙っているように店主は感じた。
「ほんまに買うんか?」
「ああ。言い値で結構」
「値切らんのか?」
「私にとっては、それだけの価値のある品だ。――それに、天上人が払うべき対価を惜しんだとあっては笑い草であるしな」
悠はさっそく袖から小瓶を取り出し、しゃぼん液の配合を考え始めた。水の粘度、膜の強度、吹き口の角度。煙管の細さを活かすなら、泡は小粒に連なるのがいい。だが一息で大玉を生む仕掛けも捨てがたい。
「まずは試作だな。名付けるなら……『ふわふわ丸』とかどう?」
煙管はやはり物言いたげに黙っている。
大三毛市のざわめきの中、古びた煙管は新たな持ち主の手で、まったく別の未来を勝手に決められていた。
祟る気満々だったとしても、相手が悪い。祟りすら「個性」と呼びかねない男である。
まだ煙も泡も出ていないのに、悠はもう満足そうに笑っていた。
「おこんにちわぁ~、ええ子が揃ってはるようでぇ」
大三毛市の喧騒の中に、やけにのびやかな声が転がり込んだ。
声の主は、桃色の髪を揺らした小さな講談師、階段亭・七段(階談『妖刀屋』・h04273)。にこにこと笑いながらも、その目は露店に並ぶ刀剣をひと振りずつ、きっちり見ていた。
光り輝く刀達を見ながら、しかし七段はそれらに手を伸ばさず――やがて足を止めたのは、市の隅も隅。布の端が少し垂れ、客もろくに足を止めないような露店だった。
箱の底に、他の金物と一緒くたに放られた刀がある。黒錆だらけ。刃こぼれだらけ。身幅は細く、拵えも貧相。抜けば一振りで折れそうな、誰が見てもガラクタ中のガラクタ。
七段の顔が、ぱあっと明るくなった。
「それか? やめとき。ほんまのなまくらやで。飾りにもならん」
七段はしゃがみ込み、刀へそっと目線を合わせた。
「そういう子ほど、ええ噺を持ってるもんですぅ」
「噺も何も……それ、仕入れた時から箱の底やったし」
「箱の底にも底の人生がありますやろ?」
「刀に人生があるんか?」
「ありますよぉ。少なくとも、私が語れば」
七段は胸を張った。
「店主さん。お代は講談でいかがやろか?」
周囲にいた客が、面白そうに足を止める。
値切り合戦には慣れている大三毛市でも、講談で支払う客はそうそういない。
店主も困ったように頭を掻いたが、やがて肩をすくめた。
「まあ、どうせ売れん刀や。面白かったら考えたる」
「おおきに。ほな――」
七段は一歩下がり、扇をぱちんと開いた。
✦
「さて」
その一声で、空気が変わった。
「時は昔、ところはどこぞの骨董市。独り身の浪人ひとり、財布も軽けりゃ心も寒い。腹を空かせてふらりと歩けば、店の隅に転がる一振りのなまくらを見つけた」
まあ、これが斬れない、光らない、鞘はがたつく、鍔はゆるい。褒めるところといえば安いことだけ。
浪人はそれでも妙にそいつが気になった。売れ残りの刀と、売れ残りの己。
見比べているうちに、浪人、ぽつりと呟いた。
『お前も誰にも選ばれなんだか。奇遇やな、俺もや』
その夜のこと。
ぎしりと床が鳴る。浪人が目を開けると、枕元に女がひとり立っていた。錆色の髪、刃こぼれの簪、着物はくたびれているが、目だけは妙に鋭い。
七段は扇で口元を隠し、女の声を真似る。
『ようもまあ、こんな私を買うたなぁ』
今度は浪人の声で、眠そうに。
『安かったからな』
周囲から笑いが漏れる。
女はむっとした。
『なら見せたろ、なまくらにも意地があるところを』
それから二人の奇妙な暮らしが始まった。
女は斬れぬ刀。敵は倒せぬ。妖も払えぬ。
けれど飯はよう作った。大夜更けに浪人が寒い寒いと震えておれば、鞘から抜け出して火鉢の番をする。浪人が寝坊すれば、枕元で鍔を鳴らして起こす。
だがある日、浪人は食うに困って、つい質屋の前に立った。懐は空。腹も空。手元にあるのは、あのなまくら一本だけ。
その日はなんとか家に帰った、その夜のこと。
「女が枕元に立っておりました。いつもの怒り顔ではありません。少しだけ、寂しそうな顔をしております」
『旦那はん。私を売るなら、せめて研いでからにしておくれやす』
見物客が息を詰める。
「浪人は、その一言で質屋に行くのをやめました。代わりに朝一番で研ぎ屋へ走った。財布は軽い。飯は抜き。けれど初めてのことでした
やがて月日が経つ。
刀の女は、相変わらず口が悪い。けれど飯は焦がさず、寝坊は許さず、寒い夜には黙って火鉢を温めている。
「ある夜、浪人は言いました。『お前も冴えん女やな』。女は答えます。『それでも、ずうとここにおります』。浪人は笑って、『なら、十分や』と申しました」
扇がぱちんと閉じられる。
「一席、講談『妖刀屋』より――なまくら女房。これにて読み切りにございますぅ」
一拍。
そして市の片隅に、ぱちぱちと拍手が起きた。やがてそれは広がって、店主も照れくさそうに鼻を鳴らす。
「持ってけ」
「ほんまどすか?」
「おう。ええ噺やったで、坊」
名刀でなくとも、業物でなくとも、誰にも選ばれなかった一振りでも。
――階段亭・七段。彼が語れば、そこに確かに価値ができる。
「よろしゅうなぁ。これからキミの噺、私がちゃあんと語ったげます」
シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)は、人波の少し上をふわりと飛びながら、青い瞳をきらきらと輝かせていた。
これが噂の〈大三毛市〉!
「まあ、まあ、凄い活気!」
もっと近くで市場を見たい。けれど、油断すると人の肩や荷物に巻き込まれそうになる。
身の丈十五センチの妖精にとって、大三毛市は宝の山であり、同時に巨人たちの大海原でもあった。
「ごめんあそばせ、通ります。まあっ、櫛が山脈みたいですわ。あら、こちらの銀匙はわたくしより長いのではなくて?」
ひらり、ふわり。
蝶の翅を震わせ、人混みの隙間を器用に抜けていく。近くの露店で値切り合戦が始まると、威勢のいい声がびりびりと翅に響いた。
「ふう。小さい体でよかったですわ。……いえ、今の声量は小さくても響きますけれど」
少しだけ翅を押さえながらも、顔は楽しそうだ。
美しいものと美味しいものに目がないシルヴァにとって、この市は誘惑が多すぎる。七色に光る硝子玉、繊細な銀細工、全部見たい。――けれど、今日の目的は決まっている。
「まずは、ドラ吉様にご挨拶いたしましょう」
目当てのものを持っているとしたら、きっと彼だ。
✦
シルヴァは笑いの波が落ち着くのを待って、すうっと木箱の前へ降りた。
小さな両手でスカートの端を摘み、きちんとお辞儀をする。
「ごきげんよう、ドラ吉様。アマリリス通りのシルヴァ・ベルと申します」
ドラ吉の耳がぴくりと動いた。サングラスの奥の視線が、ぐっと下へ向く。
「おうおう、ちっこいお嬢さんやな。踏まれんよう気ぃつけや」
「ありがとうございます。踏まれそうになりましたら、押し返しますので」
それを聞いたドラ吉が愉快そうに喉を鳴らす。
「ドラ吉様。わたくし、趣味でティーセットを集めておりますの」
「ほう。茶道具か」
「はい。お客さまにお出しする人間用のもの、自分で使うミニチュアのもの、どちらも。できれば――お揃いなら、なお良いわ」
言いながら、シルヴァの目がきらきらと輝く。人間用のカップと、妖精用の小さなカップ。並べれば親子みたいで、同じ花柄ならもっと素敵だ。
「もしもお心当たりがあれば、売ってくださらないかしら」
「揃いのティーセットなァ……」
ドラ吉は顎を掻き、それから思いついたように奥の棚へ顎をしゃくった。
若い妖怪が箱を一つ抱えてくる。黒塗りの木箱だ。蓋を開けると、中から古布の香りがした。
中に収められていたのは白磁のティーセットだった。金の縁取りに、星のような小花模様。カップ、ソーサー、ポット、砂糖壺。――そして、その横に同じ模様の小さな小さなセットが並んでいる。シルヴァの片手で持てるくらいのポットと、合わせたサイズのカップ。
「まあ……!」
シルヴァは思わず両手を頬に当てた。
「なんて可愛らしいのでしょう。本当にお揃いですわ」
「昔、でっかい奥方とちっこい使い魔が一緒に茶ぁ飲むために作らせた品らしいで」
「一緒に」
その言葉に、シルヴァは少しだけ表情をやわらげた。
ものとひとの間には縁がある。店に流れ着く品は、ただの偶然でそこに来るわけではない。たぶん、このティーセットもそうなのだろう。
シルヴァは手袋を整え、小さなカップにそっと触れた。
使い込まれているが、白磁のつるりとした表面に見えるような傷はない。
「……本当に素敵」
「悪い品やない。せやけど、欲しがる奴が少なくてな。片方だけやと意味が薄い」
「ええ。これは揃っているからこそ、より素晴らしいのです」
シルヴァはきっぱりと言った。ドラ吉がにやりと牙を覗かせる。
「値は安うないで」
「承知しております。わたくしも商いをしておりますから、よい品に正しいお代が必要なことは、よく存じていますわ」
「値切らんのか?」
「少しだけ、可愛らしくお願いしても?」
「カカッ! 正直でええな!」
そこからの交渉は、なかなか和やかなものになり、最後には、小さな砂糖匙を一つおまけにつけてくれた。
「ありがとうございます、ドラ吉様。大切にいたします」
「おう、一緒に使ってやってくれ」
木箱を念動力でふわりと浮かせ、シルヴァは胸を弾ませて市へ戻る。
帰ったらまず磨いて、棚の一番よい場所へ。
人間用のカップにはお客さまのお茶を、自分用の小さなカップには同じ香りの一杯を。
大三毛市のざわめきの中、シルヴァは嬉しそうに微笑んだ。
「骨董市というのがあるらしいな……!」
トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)は、大三毛市の入口で青い瞳をきらきらさせていた。布の天幕が幾重にも重なり、露店の間を人と妖怪が行き交う。値切りの声、笑い声、古い金属の鳴る音。どこからか漂ってくる焼きそばの匂いに、緇・カナト(hellhound・h02325)の腹が小さく鳴った。
「へぇ……賑やかだねぇ」
「古き良きを知るのに好都合だろう。主も暇しているのであれば、共に行こうではないか!」
「もう来てるじゃん」
「主なら、ここからやっぱり帰るとか言いかねないからな! 先回りだ!」
カナトは柔らかく笑い、トールは当然という顔で頷いた。
黒い雷獣がヒトの姿を取ると、どうにも小さく見える。けれど自信たっぷりの足取りは、体格の大小など気にしていない。露店の前に並ぶ品々を眺めながら、トールはふむと顎に手を当てる。
「しかし、主とわたしでは好みも異なっているだろう。別行動になるのならば、それはそれ」
「なあ、オレもちょっと行きたいところがあるしね」
「あの大親分とやらか?」
「折角の機会だし逢いに行きたくて」
カナトの声はいつも通り穏やかだった。
けれど、その灰色の瞳の奥に、少しだけ違う色が差す。
「勿論、化け猫の店主の顔じゃなくって。自分の欲したモノを、手に入れる資格があるか――そっちの方を試しにだけど」
「ふむ」
「トールの御守り探しが二の次になるのはスマンな」
「構わぬ。楽しい思い出話は後で聞かせるがいい」
堂々と言い切って、トールは別の通りへ向かった。
カナトはその背を見送ってから、市の奥へ歩き出す。
✦
大三毛市の奥には、やはり空気が違う場所があった。木箱の上にふんぞり返る大化け猫――ドラ吉が、客を相手に豪快に笑っている。
カナトはその笑いの輪が落ち着くのを待って、するりと近づいた。
「こんにちは、ドラ吉さん。懐剣を探しているんだけど」
「いらっしゃい兄ちゃん。見るだけなら好きに見てき」
ドラ吉の露店には、刀剣がいくつも置かれていた。美しいもの、厳しいもの、静かなもの。どれも長い年月をまとい、ただの金属ではない気配を帯びている。
その中で、カナトは一本の懐剣の前で足を止めた。
小さな守り刀だった。鞘は黒く、古い銀の金具には細い雷文が刻まれている。
「守り刀、と呼ばれるくらいだしね」
カナトは膝を折り、視線を合わせるようにして懐剣を見る。
「――ドラ吉さん。此の場に置かれる物は、とても長い年月を経ているんだと想う。刀剣は何かを斬る為に存在している。持ち主を護る本懐のため、もう既に斬った後なのか。それとも一度も抜かれぬ美しさのまま、今日まで済んだのか」
ドラ吉は黙っている。
カナトは続けた。
「武器とは何の為にある?」
それは誰かへ向けた問いでもあり、自分へ向けた問いでもあった。
首輪と鎖を引きずって夜を彷徨う獣にとって、武器は命令の道具だった。傷つけるための牙だった。
「その答えを識っていそうな此の一振りを、手にする資格があるか。判断を委ねたいんだけど」
ドラ吉は、サングラスの奥からじっとカナトを見た。
それから懐剣へ視線を落とし、低く喉を鳴らす。
「そいつが今、兄さんの手に収まる言うんなら、わしが止める理由はない」
でもな、とドラ吉は尾をゆっくり揺らした。
「その答えはな。そいつの中だけ探しても出てこんで」
カナトは、懐剣を見下ろす。
「武器とは何の為にある? ってやつ?」
「おう。守り刀や言うてもな、兄ちゃんの言うように、刀は斬る為のもんや。守り刀でも、斬らな守れん時がある。せやけど――何のために抜くかは、刀が決めることやない」
ドラ吉は牙を見せ、少しだけ笑った。
「そいつが長生きしとるから、答えを知ってそうに見えるんやろ。けど、長生きした品は答えをぽんと教えるもんやない。それどころか、新しい問いを残してくんや」
「問いを」
「ああ、そいつは性格悪ィからな。問いも一緒に持って帰り。腹ぁ空かせながらでも、適当に歩きながらでも、考えたらええ」
ドラ吉は懐剣を布で包み、カナトへ差し出した。
「ま、兄さんなら噛み砕けるやろ。歯も強そうやしな」
カナトは少しだけ目を瞬き、それから柔らかく笑った。
「それはどうも。……じゃあ、遠慮なく」
「代金はきっちり貰うで」
「うん。問いの代金だと思えば、安い方かもね」
懐剣を受け取ると、手の中にずっしりとした重みを感じた。
布越しの刃は何も言わない。
けれど沈黙ごと連れていくには、悪くない重さだった。
✦
その頃、トールはカトラリーの露店で真剣な顔をしていた。
「これが、カトラリー」
「そうや。匙とか、フォークとか、ナイフやな」
店主の妖怪が並べた木箱の中には、銀匙、真鍮のフォーク、骨の柄がついた小さなナイフ、花の意匠が刻まれたバターナイフまで、大小さまざまな食卓の道具が収まっていた。
トールはその前にしゃがみ込み、青い瞳をまっすぐに向けた。
「食事というのは、日々の行いだろう?」
「まあ、せやな。生きとったら腹は減るしな」
「うむ。腹は減る。主もよく減っている」
「主?」
「こちらの話だ」
並んだ銀匙や真鍮のフォークを眺めていくうちに、ひとつのセットで目が止まった。
細い柄に、蔦と小さな葉の模様が彫られている。少しくすんだ銀色は、長い時を経て曇っているのではなく、森の影を抱いたように静かだった。葉脈の細工は細やかで、指でなぞれば、春先の若葉に触れるような気がする。
「ええ品やで。前の持ち主は、毎朝これで果物を食うてたらしい」
トールはフォークをひとつ手に取り、角度を変えて眺めた。
先端は鋭すぎず、柄は細いが頼りないわけではない。どんな手にも馴染むだろう。使い込まれた傷はあるが、それも乱雑なものではなかった。食卓の中で、丁寧に重ねられてきた傷だ。
「うむ、これはいいな。食卓に並べて使う日が訪れるのも楽しみだ!」
「飾りにせんのか」
「道具であるなら、役目を果たせる方が嬉しかろう?」
店主は少し目を丸くした。
それから、ゆっくり笑う。
「……そやな。わしもそう思うわ」
告げられた値段を、トールは少しも疑わなかった。
しかし、財布を開いてから、――あ、と真剣な顔になる。
「主に食事を奢る余地は残るだろうか……?」
トールの持つ小さな包みの中で、銀の葉は静かに眠っている。いつか食卓に並び、また役目を果たす日を待つように。
その足で、隣の屋台へ向かった。
「団子を二本頼む」
「あいよ!」
というわけで、手には小さな包みの他に、あっつあつの団子が二本。一本は自分用。もう一本は、合流した時のため。
さて、主の方の戦利品はどうなっただろうか? うまく行かなかったなら、
「これは主の分、と」
念のため、先に決めておく。
そうしておかないと、先にうっかり両方食べてしまう可能性がある。美味しそうだからだ。仕方ない。
「うむ。これでよい」
トールは誇らしげに胸を張り、カナトとの合流場所へ向かって歩き出した。
古き良きものを知り、日々へ持ち帰る。
骨董市とは、なかなか奥深く、そして美味しい場所であるらしかった。
「来ました、骨董市!」
シンシア・ウォーカー(放浪淑女・h01919)は、大三毛市の入口でぱっと表情を明るくした。
幾重にも重なる布の天幕。行き交う人と妖怪。値切りの声、笑い声、どこかで鳴る金属の涼しい音。空気には古い紙と湿った金属、それから焼きそばの匂いが混ざっている。
その隣で、神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)は金の瞳をゆるく細めた。
「シンシアさん、とても楽しそうですね」
「もちろんです。旅先の市場ほど、心が弾む場所はありませんから」
そう言ってから、シンシアはきょろきょろと露店を見回す。
年代物の酒瓶。色硝子のグラス。刺繍の古布。よく分からない置物。どれもこれも、こちらを手招きしているように見えた。
「何を探しましょうか。年代物のお酒とか、グラスでも良いのですが……ううむ。境華さんは何が気になりますかっ。やはり書籍?」
「私はそうですね……書籍か、それに関わるような物が気になります」
実にシンシアさんらしい選択肢ですね、と境華は微笑む。
シンシアは「やっぱり」と楽しげに頷く。
「では、まずは本を探しましょう! 私も古い地図とか旅行記なら気になりますし」
「それは素敵です。知らない場所の記録は、知らない物語に近いものがありますから」
二人は並んで市の中へ歩き出した。
最初に立ち寄ったのは、古布と装身具の店。細い引き出しの中に、アンティークレースが丁寧に畳まれている。生成り色、淡い灰色、少し黄ばんだ白。古い時間を吸った糸は、触れずとも柔らかそうに見えた。
「これを手袋に加工しても可愛いかもしれません」
「シンシアさんに似合いそうです」
「本当ですか? では買うべきでしょうか。いえ、でもこちらの眼鏡も素敵で……」
店主に断りを入れると、シンシアは丸い金縁の眼鏡を手に取って、そっと顔に当ててみせる。
「どうでしょう。知的な淑女に見えますか?」
「はい。とても」
「では買うべきでしょうか?」
「シンシアさん、さっきから買う理由を探していませんか?」
「なんとなく、これ! っていうものがなくて」
二人でくすくす笑いながら、また次の店へ。
小さな硝子瓶の店では、境華が瓶のラベルに書かれた古い文字を読み取ろうとして数分黙り込み、シンシアが「境華さ~ん」と手を振る。
逆に酒器の店では、シンシアが「この杯、冷酒が似合いそうですね」と真剣になり、境華が「シンシアさん?」と控えめに引き戻した。
よく目移りしていると、気が付けば随分奥まで来てしまっていたようだ。
そこには噂に聞く大親分、ドラ吉の露店があった。
木箱の上にふんぞり返った大化け猫が客を相手に豪快に笑っている。
シンシアはぱちぱちと瞬きし、境華は少しだけ感心したように見つめた。
「すごい迫力です」
「でも、なんだか楽しそうですね」
ドラ吉の露店は、さすが大店だった。
刀剣や装具だけでなく、古書、巻物、魔導書、額装された古い譜面まで置かれている。境華の金の瞳が、そこで一気に輝いた。
「……あります」
「境華さん?」
「古書や巻物、魔導書……流石です。流石大店です」
少し声がふわふわしている。
読書や物語のことになると周りが見えなくなる自覚はある。あるのだが、目の前に本がある。――ならば仕方がない。
境華は、棚の一角でふと足を止めた。
古びた布表紙の本が一冊、他の本に埋もれるようにして置かれている。表紙には題名らしい文字があるが、擦れていて読みにくい。けれどなぜか、その本はこちらを見ているような気がした。
「……目が合いました」
「本と?」
「はい。本に目はありませんけれど……確かに、見られたような気配がします」
シンシアは真面目に頷いた。
「本が境華さんを選んだのですね。旅先ではそういうこともあります」
「ありますか?」
「あります」
その自信がどこから来るのかは分からない。
けれど、境華は少しだけ安心した。
「ドラ吉さん。……こちら、お売りいただくことはできますか?」
「お、姉ちゃん目ぇ利くなァ。そいつは古い旅語りや。どこのもんかは知らんが、土地の怪異と昔話が混ざっとる」
「旅語り……」
境華の目がさらに輝く。
「あと、こちらと、これと……」
「増えましたね、境華さん」
「この本達が、私に読まれたいそうです」
「それなら仕方ありませんね」
シンシアがにこにこと見守っていると、凄まじい量の本が境華の横に積まれていった。
冊数についてはここでは控えるが、シンシアは最後に「わあ、本が……」と真面目な声でつぶやいたという。
無事に本を包んでもらった頃、シンシアの視線はふと隣の店の棚へ吸い寄せられていた。
古い楽器が並んでいる。その中に一本のアコースティックギターがあった。
使い込まれたマホガニーの胴は、深い飴色をしている。傷もある。けれど雑に扱われた傷ではなく、長い旅の途中でついた小さな記録のようだった。光が当たると、木目がゆるやかな波のように浮かぶ。
「……気になりますね、このアコギ」
「シンシアさん、弾けるのですか?」
「音楽的素養は一切ありません」
「一切」
「はい。一切です」
堂々と言い切ったので、境華は思わず笑った。
「でも綺麗でしょう? このマホガニーの色味。魔術師として、杖に使われる木材の相場観はわかります。加工の手間も考えると……安くはないのでしょうけれど」
シンシアはギターの前にしゃがみ、店主へ丁寧に尋ねた。
「こちら、いかほどで?」
告げられた値段に、彼女は一瞬だけ淑女らしく微笑みを固めた。
「……なるほど。なかなか立派なお値段です」
「ええ品やからな」
店主が軽く弦を弾くと、やわらかな音がこぼれる。
完璧ではない。少し枯れて、少し低く、けれど旅先の夕暮れによく似合いそうな音だった。
「本当ですね……まずは、持ち方から教わる必要がありそうですが」
境華がその横で、包まれた本を見ながらくすりと笑う。
「いつかシンシアさんが弾いて下さるのですか? 楽しみです」
「その言い方をされると練習から逃げられませんね」
「逃げる予定だったのですか?」
「い、いえ……れ、練習しますともっ! 猛烈に!」
✦
――結局、シンシアはギターを買った。
境華は大事そうに大量の本を抱え、シンシアは少し大きなギターケースを抱える。
シンシアが本に埋もれている境華の顔を見る。
「境華さん、本が……増えましたね」
「はい。この本達が、私に読まれたいそうです」
「それは大変です。きちんと読んで差し上げないと」
今度は境華が、シンシアのギターを見る。
「ギターの音色、とても楽しみです」
「境華さんの期待がまっすぐで眩しいですね!」
そう言いながら、シンシアは機嫌がよかった。
旅の途中で予定にない荷物が増えることはよくある。古いレース、変な地図、土地の酒、知らない誰かの記録。
今日はそこに、ギターが加わっただけだ。
たぶん、そう。
突発的に加わったにしては、かなり大きいものだけれど!
境華は嬉しそうに微笑む。
シンシアもその横で笑う。
大三毛市の空気は、尚も賑やかだった。
古い本は読まれる日を待ち、古いギターは弾かれる日を待っている。
そして二人は、今日見つけた物語と音色を抱えて、人混みの中を並んで歩き出した。
「猫さんの骨董市だ~!」
大三毛市の入口へ辿り着くなり、葵・慈雨(掃晴娘・h01028)はぱっと両手を上げた。
幾重にも張られた布の天幕の下、露店がぎっしりと並んでいる。古い金具の匂い、湿った木箱の匂い、焼きそばと甘味の匂い。値切りの声と笑い声が重なって、通り全体が大きな縁日のように揺れていた。
その隣で、野分・時雨(初嵐・h00536)は少しだけ目を細める。
「骨董市って……ウチにはたくさんあるでしょうに」
長屋の萬屋にも、流れ着いた古物は山ほどある。壺、皿、掛け軸、よくわからない木彫り、時々勝手に鳴る鈴。
だからわざわざ骨董市まで来る理由はあるのだろうか、と時雨は思った。
「お目当てのものがあるんですか?」
「あるよ!」
慈雨は胸を張った。
「今日はね、なんと! 大事なものを入れるための、小さい箪笥を探します!」
「小箪笥」
「そう、小箪笥!」
「……それもウチにありそうですけど」
「新しい出会いは、外に探しに行くものなの!」
とてももっともらしい口調だった。
けれど時雨は知っている。慈雨はだいたいこういう時、半分くらい勢いで動いている。
大三毛市の奥から大きな笑い声が聞こえた。噂の大親分、ドラ吉の声だろう。
「猫さん言うて、怖い猫さんだし……」
「大丈夫だよ。きっと良い猫さんだよ」
「良い猫さんは大声で値切り客を叱りますかね」
「元気な猫さんなんだよ」
慈雨はずんずん進んでいく。
時雨はその後ろを小走りで追った。人混みは濃い。慈雨はあっちの皿、こっちの布、向こうの奇妙な棚へ、すぐに視線を吸われる。
「ねー。うろうろしないでくださいよう。はぐれたら、ぼく、叫びますよ」
「気をつけるよう。……さ、叫ぶの!?」
「叫びます」
「それはちょっと恥ずかしいかも」
「なら、はぐれないでください」
時雨が淡々と言うと、慈雨は笑って少しだけ歩幅を緩めた。
✦
市の奥、ひときわ賑やかな一角に、ドラ吉の露店はあった。
木箱の上にふんぞり返った大化け猫が、サングラスの奥から客を睨み、時折カカッと豪快に笑っている。周囲には家具、古道具、小箱、刀装具、掛け軸まで、選ばれた品々が整然と置かれていた。
「こんにちは~!」
慈雨は物怖じしない。
時雨はその半歩後ろに立ち、店主と品物と値札を素早く見た。ふっかけられないように。だって、慈雨だから。
「大切なものをしまう小箪笥を探しています! おすすめのもの、あるかしら?」
「おお、元気な姉ちゃんやな。大切なものなァ……ほな、あれなんてどうやろ」
ドラ吉が顎をしゃくると、奥から若い妖怪が小さな箪笥を運んできた。
抱えられるほどの大きさで、木目は飴色。角には古い金具が打たれ、引き出しの取っ手は小さな輪になっている。
派手ではない。けれど、長く誰かの部屋に置かれ、年月を経てきた、落ち着いた艶があった。
「まあ……」
慈雨の目が輝く。
「かわいい小箪笥さん」
「古い家から出たもんや。よう使い込まれとるやろ」
「大事にされていたのね」
慈雨は小箪笥の前にしゃがみ込む。
指先でそっと木肌に触れ、耳を澄ますように目を閉じた。
「……うん。大事にされていたって、小箪笥さんも言っているもの」
「言ってます?」
時雨は思わず聞いた。
「言ってるよ。たぶん」
「たぶん」
時雨は困ったように小箪笥を見る。
確かに、悪いものではなさそうだった。木はしっかりしているし、引き出しの噛み合わせも良い。金具も古びてはいるが、嫌な錆はない。むしろ、手入れすればよく光りそうだ。
――ただし、値札がある。
そしてその値札は、時雨の眉をぴくりと動かす程度には立派だった。
「た、高い……!」
慈雨も同じところを見ていた。
「でも! それくらい価値があるのよね……!?」
「待ってください。今の反応、買う人のそれですか?」
「だって、良い子だよ!」
「良い子でも交渉はしましょうよ!」
時雨は慈雨の後ろから、そっとドラ吉を見る。
相手は大親分。並の店主より手強い。だが慈雨はこういう時、あっさり言い値で買いそうで危うい。
「大将。こちら、少し――」
「買っちゃおうかな!」
「え、そのまま買うの!?」
時雨の声が、市の喧騒に小さく混ざった。
「値段交渉しないんですか!?」
「でも、大事にされていた子だし」
「大事にされてたら高くても買っていいわけじゃないですよう!」
「だって、しぐちゃんが使うものだから!」
時雨が固まった。
「……はい?」
慈雨は小箪笥を見て、また時雨を見る。
「しぐちゃんの大事なものを入れる小箪笥」
「うぇ、あの、棚って」
「うん」
「ぼくの?」
「うん!」
慈雨はたいへん明るく頷いた。
時雨は少し口を開けて、閉じて、もう一度小箪笥を見た。
「い、いいですよ、ぼく使わないですよ」
「えっ、使わないの!?」
「私物増やしたくないし」
「でも、しぐちゃん、時々そのへんに物を置くでしょう」
「置きますけど」
「手紙とか、古い札とか、貰い物とか」
「……置きますけど」
「それをしまえるよ」
「そりゃ、あれば使いますけど」
そこまで言ってから、時雨は自分でしまったという顔をした。
慈雨はぱっと笑う。
「ほら、使う!」
「今のは言葉の綾です」
「使うって言ったもの」
「慈雨さん」
「それにね」
慈雨は小箪笥を撫でる手を止め、少しだけ声をやわらげた。
「大事なものが増えるのは、良いことでしょう」
その言葉は、値切り声や笑い声の隙間を通って、まっすぐ時雨の耳に届いた。
時雨はすぐに返事ができなかった。
「私も、いつもお世話になっているから」
「……ぼくが?」
「そうだよ。とても」
「別に、ぼくは無為に過ごしてるだけです」
「その無為に、私はずいぶん助けられているよ」
時雨は目を逸らした。
「慈雨さん、ご自身のもの買ってくださいよう」
「私はいいの」
「よくないです」
「お迎えしてーって骨董さんの声は聞こえるけど、これ以上増やしたら、しぐちゃんが寝起きしている物置部屋から溢れちゃうから……!」
「それなのにこの大きさのものを!?」
ドラ吉が二人を見比べ、喉を鳴らした。
「……なんや、えらい仲ええなァあんたら」
「えっ」
時雨が変な声を出す。
「仲良しです」
慈雨が即答する。
「即答しないでください」
「違うの?」
「ち……がわないですけど」
「なら仲良しだね」
「……あ~~、もうそれでいいです」
時雨は顔を背けた。
耳のあたりが、ほんのり熱い。牛鬼にもそういうことはある。
ドラ吉はカカッと笑い、値札を指で弾いた。
「ほな、仲良し代で少し勉強したるわ」
「仲良し代」
「ええ響きやろ」
「大将、僕もうそれで安くなるなら何でもいいです」
時雨はすかさず早口で言った。
慈雨が「あっ、交渉してくれた」と嬉しそうに手を合わせる。
「しぐちゃん、頼もしいね」
「買うならせめて損しないようにするだけです」
「ありがとう」
「まだ買うって決まってません」
「決まってるよ?」
「慈雨さん」
――はい。結局、買うことになった。
慈雨が財布を出し、時雨が横から金額を確認し、ドラ吉が「細かい兄ちゃんやな」と笑い、時雨が「細かくないと慈雨さんが全部言い値で買うんです」と返す。
そのやり取りの間、小箪笥はただそこにあり、まるで二人の会話を静かに聞いているようだった。
「持って帰れるか?」
ドラ吉が聞く。
「大丈夫です。ぼくが持ちます」
「え、しぐちゃん、これけっこう重いよ?」
「このくらい持てます」
時雨はむっとした顔で小箪笥を抱えた。確かに重い。けれど、持てないほどではない。
これは、自分のものになるらしい。
自分の部屋に置かれるらしい。
そこに、何かをしまうらしい。
「どうするの、こんな大きなもの」
「言ったじゃない、しぐちゃんの部屋に置くの」
「物置部屋です」
「じゃあ、物置部屋改め、しぐちゃんのお部屋に」
「……まあ、大事には、しますけど」
言ってしまってから、時雨は口を閉じた。
慈雨がこちらを見る気配がする。きっと嬉しそうな顔をしている。それがわかるから、余計に見られたくない。
「なんか、むずかゆい」
「ふふ」
「あっち向いててください」
「はいはい」
慈雨は素直に横を向いた。
ただし、口元はゆるみっぱなしだった。
✦
買い物を終えて、二人はまた市の中を歩き出す。
時雨は小箪笥を抱え、慈雨はその隣を少し弾んだ足取りで歩いた。途中、慈雨は何度も他の露店に目を奪われたが、そのたびに時雨が「うろうろしない」と小声で言う。慈雨は「はーい」と返す。返すだけで、また別の品に目を輝かせる。
どこかでドラ吉の豪快な笑い声が上がり、値切りに勝った客の歓声が続いた。天幕の隙間から射す光は柔らかく、古い金具や硝子をきらきらと光らせている。
慈雨が隣で、ぽつりと言った。
「おうちに置くの、楽しみだね」
「慈雨さんのものじゃないんでしょう」
「うん。しぐちゃんのもの」
「……なら、ぼくが部屋のどこに置くかを決めます」
「もちろん」
「勝手に中を見ないでください」
「もちろん」
「勝手に何か入れないでください」
「それは……時々、お菓子くらいなら」
「慈雨さん」
「だめ?」
時雨は横目で慈雨を見る。
慈雨はにこにことしている。まったく悪びれていない。
時雨は負けたように息を吐いた。
「……湿気ないものなら」
「やった」
「やったじゃないです」
慈雨は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ると、時雨はもう何も言えなくなる。ずるい、と少し思う。けれど、それを嫌だとは思わなかった。
今日、慈雨が買ったのは、小さな箪笥。
ただの箪笥。
でも。
むずかゆくて、少し重くて。
「……言い忘れてました」
自ら手離す気にはなれない。
「ありがとうございます」
時雨が小さく呟くと、慈雨はただ、いつもの声で答えた。
「どういたしまして」
小箪笥の金具が、歩くたびにかすかに鳴った。
第2章 日常 『ハーモニカ横丁探索』
「夜市に行くで」
君たちを迎えたのは、昼間に見かけた三毛の大化け猫、ドラ吉だ。
二足で立ち、サングラスの奥からぎらりと目を光らせ、尾をゆったり揺らしている。肩には古びた羽織、片手には提灯。そこに描かれた三毛猫の紋が、夜風に揺れていた。
「カカッ! 昼の骨董市もええが、夜の横丁は別腹や。今夜はわしが案内したる」
ドラ吉が顎で示した先には、細い路地があった。√妖怪百鬼夜行、吉祥寺――ハーモニカ横丁。
普段から狭い通路に店が詰め込まれた迷宮じみた場所だが、今夜はさらに様子が違う。
軒先には赤提灯が連なり、店と店の隙間には小さな屋台が無理やり滑り込み、頭上には色とりどりの短冊や幟が揺れている。路地の奥まで灯りが続き、まるで夜そのものに細い金の糸を縫い込んだようだった。
焼き鳥の煙。
鉄板で焦げるソース。
甘い味噌だれ。
揚げたての天ぷら。
湯気立つ小籠包。
冷えたラムネと、注がれる酒の匂い。
夜風に混じったそれらが、容赦なく腹の虫を叩き起こしてくる。
「今夜はハーモニカ横丁の屋台市や。いつもの店に加えて、流れの料理人やら、奥の妖怪やらが集って、何売っとるか分からん屋台まで出とる」
ドラ吉はにやりと牙を見せた。
「食べ歩きにはもってこいやろ?」
入口近くには、炭火でじゅうじゅう焼かれる《猫目焼鳥》。
山椒の香る一口餃子を出す《福々鉄鍋》。
甘辛い味噌おでんの《三日月屋台》。
揚げたてコロッケを紙に包んで渡す《からころ亭》。
黒蜜豆花と冷たい茶でひと息つける《白雨茶房》。
少し奥へ行けば、狐のカミさんの《おまかせ狐火》や、もっとディープな屋台だってある。
「どこから回るかは好きにせえ。飯で攻めても、甘味で攻めても、酒で攻めてもええ。店主と話してもええし、常連に混じっておすすめを聞くんもアリや」
横丁の奥から、どっと笑い声が響く。
それに混じって、笛の音、三味線の音、皿を打つ音。どこかで誰かが乾杯をし、どこかで誰かが熱々のたこ焼きに悶えている。
「一軒目や」
カカッ、と豪快に笑って、化け猫は君たちを手招きする。
「さあ、腹ぁ空かせてついて来い」