シナリオ

微睡みの向こう側

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 あなたが心の底から「会いたい」と願うのは、誰ですか。



「満月に願いを告げ、泉に身を沈めれば、泡沫の中で会いたい人に会える」

 それはまるで御伽噺の一節かと聞き間違うような噂だった。

 冒険者たちが集う酒場から広まった噂の舞台は、とあるダンジョンの最奥。
 決して欠ける事のない|満月《つき》が浮かんでいる泉があるそうだ。空に在る月ではない。水底に沈みながらも宙を照らし続ける奇跡の|光《つき》。

 ある者は、永遠の別れを告げた愛しい人の面影を探しに。
 またある者は、消えぬ憎悪を晴らさんと、かつて刃を向けた仇敵の姿を求めて。

 本来ならば二度と叶う事のなかった邂逅が結ばれる場所。

 愛や郷愁といった“幸福”を求め、一時の慰めを望む者にとってはまさに夢のような逢瀬の時間だった。失われた温もりに触れ、忘れられなかった声を聞き、再会の喜びを胸いっぱいに抱きしめる。気付けば泉の畔で目を覚まし、その甘美な夢をもう一度、とまた訪れ、沈み、また月に願う。
 泡沫のような時間に囚われ、現実を疎かにする者が出てきてしまったのは当然だろう。

 だが、問題はそれだけではない。

 憎悪や復讐心、怨嗟といった仄暗い感情を抱いて泉へ身を浸した者の中には、その激情に呑み込まれ二度と帰って来なくなった者がいるという。

 奇跡とは、本来人の手には余るもの。

 いつしか人を蝕む|蜜《どく》と成り果てた、月の光。

 今や決して見逃せぬ|事件《もの》になってしまったのだった。






 恋人であれ、家族であれ、友であれ、仇であれ。
 本人が心の底から望んだのなら、その願いが叶う事自体は悪いことではないのだろう。まして、それが永遠に失われた存在ならば尚更だ。後悔が、未練がない人は決して少なくはない。会いたいと願う事は弱さであり、向き合う強さでもあるのだから。
 然し。
 もしもその先に|還れぬ《・・・》結末が待っていると知っていたのなら、月へ手を伸ばすことを諦めた者も、きっといるはずだ。

「まあとりあえず、月の調査も大事やねんけど、――お酒は好き?」

 そんな重い話をさらりと脇へ置き、星詠みの一・唯一(狂酔・h00345)はにっこりと笑みを浮かべて話を続ける。

 机の上には資料の束。
 それらを埋め尽くすように並べられた無数の箱。

 箱の中身は、様々な酒器。

 なんで?

「どうやら元々人気な観光地らしいんよ。ダンジョンの上層が、なんと! お酒飲み放題!!」

 つまり、そういうことだった。

 目的地となるダンジョンは、今や陽気な酔客たちが集う一大観光地である。
 岩肌からは絶え間なく琥珀色の雫が滴り落ちる様は、まるで大地が長い年月をかけて醸造した黄金の涙。足元を流れる川は透き通ったスピリッツ。葡萄のように実る赤い花はグラスの中で潰せばワインとなる。滝のように流れるそれも水ではなく日本酒。

 迷宮そのものが巨大な酒樽であり、訪れる者を酩酊へ誘うとんでもねえ場所である。

 熟れた果実の香り、芳醇な麦の香ばしさ、樽の眠りから解き放たれた歳月が漂う空間は、歩くだけで頬が熱を帯びそうだ。
 浅い層は既に安全が確保されており、あちこちから陽気な音楽と、杯を交わす人々の笑い声が反響していることだろう。

「しかめっ面で通り過ぎるんは勿体ないから、とりあえず楽しんでおいでな」

 どうかまずは、その手にお好きな杯を。
 芳醇な酒の海を心ゆくまで泳ぎ、日々の張り詰めた心を、とろけるような微睡みの中へ解きほぐしておいで、と星詠みは笑顔で手を振った。

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第1章 冒険 『酒ダンジョン』



 仄暗い地底の帳を潜れば、そこには現世の憂いを全て融かすような美酒の楽園。
 既に安全が確保された浅い階層は、いつだって陽気な酔客たちで騒がしい。
 一大観光地となった暗がりのあちこちからは、楽しげな弦楽器の爪弾き、杯を交わす人々の笑い声が反響するだろう。

 巨木の化石を目印に行けば、幹や巨大なつらら石の先端からは琥珀色の雫が滴り落ちる。バニラや燻製香が漂う岩肌にグラスを添えれば、熟成されたウイスキーやブランデーが注がれるだろう。傍らの|氷結晶《ロックアイス》も至る所に転がっている。
 爽快な水音に引き寄せられれば、豪快に流れ落ちる黄金色の滝。白くきめ細やかな泡を掬えばたちまち|麦酒《ビール》に早変わり。
 淡い発光苔の傍らに生えた、ルビーやアメジストのような宝石果実。指先で潰せば極上なワインの出来上がりだ。すぐそばを流れる淡い翠の川は新鮮な日本酒で、上流に行けば燗酒、下流だと程よく冷えた|清流《さけ》に、真ん中を掬うとスピリッツ。不思議な変化である。

 至る所に不思議な果実が輝いて、オリジナルカクテル作りも出来そうだ。

 入り口に戻れば水だけは売っている。つまみはない。水しかない。何故だろう。

 なお、未成年には専用のグラスが渡される。
 それを使えばアルコールが吹っ飛んだノンアルやジュースに変化するのだから、倫理観は徹底されているようだ。
天月・八雲

 |迷宮《ダンジョン》へ続く階段を降りた天月・八雲(今日も明日ものらりくらりと・h12271)は、思わず口笛を吹いた。
「いやぁ、これは凄い」

 焼き芋を思わせる甘く香ばしい匂いに惹かれ、八雲は岩壁に咲く琥珀色の結晶へ近寄った。
「これがいいな、旨そうだ」
 花弁のような結晶へグラスを添えると、黄金の雫がグラスを満たしてゆく。
「へえ」
 八雲が口を付けると、花の蜜のような見た目とは裏腹に、濃厚な甘さが喉を撫で、その後から芋焼酎特有の力強い旨味が追いかけてくる。
 向かいの壁一面には透明な果実が生えており、削ると弾けた炭酸に変わる。中央当たりから流れ出すウイスキーと混ぜればハイボールの出来上がり。少し移動すれば発光する薬草からはジンが滴り、水晶サトウキビからはラムが溢れ、氷柱を削ればウォッカも手に入る。蒸留酒好きの八雲にとっては最高なエリアだったようだ。

「ダンジョンで酒盛りなんて、普通は体験できないよねぇ」

 杯を傾けながら、八雲は周囲を眺める。
 酔客たちは陽気に騒ぎ、見知らぬ者同士で肩を組んで踊っている。地上なら警戒するような光景だが、何故かここでは不思議と笑える光景に見えた。

 目を細め、和やかに酒を飲むけれど、八雲の赤い瞳は油断なく周囲を這い続けている。

 酒に強いとかではない。
 きっと、無意識なのだ。
 心の底から楽しめない理由は――八雲が一番解っている。

 ふとした時に過る懐かしい記憶。

「昔のことなんて気にしてたら生きていけないし、気にしなきゃ生きられないし」

 苦笑して、八雲はハイボールと共に苦々しい記憶を喉奥へ流し込む。

 次の瞬間、少し遠くの方で誰かが酒の川に飛び込んで盛大な水飛沫ならぬ酒飛沫を上げた。響く歓声と爆笑。

「ははっ。まあ、難しいことは後だ後だ」

 せめて今だけはこの奇妙で愉快な非日常を味わおうと、八雲は新たな酒を求め歩き出した。

常磐・兼成

 お酒飲み放題のダンジョンがある、なんて情報を仕入れてしまったら行かずにはいられないと腰をあげたのは常磐・兼成(酒侵讃歌・h10142)――またの名を酒精の狂信者バッカス。
 鮭とば、チーズ、ジャーキー系と王道のツマミ類を持参し、お祭りに向かう子供のような軽い足取りで兼成は一大観光地へ遊びに、否、調査に向かった。

「何から飲もうかな」

 そう口では言いつつも、兼成の足取りは軽い。色々なお酒を愉しめるといえど、やはり一番好きな物から手を出したくなるもので。

「うん、やっぱり搾りたてが狙い目か」

 ワイン好きの兼成は迷わずルビー色の果実を摘み取った。硬質な見た目の割に軽く力を込めただけで瑞々しく弾け、砕けた欠片は|葡萄酒《ワイン》となる。
 グラスを傾ければ熟れた葡萄と果樹園を思わせる芳香が立ち昇る。期待に瞳を細めて一口飲めば、甘さと酸味、仄かな渋みが絶妙な調和を奏でた。
「これは……凄いな」
 若い新酒でもなく、樽で眠っていた重厚な年代物とも違う。そこにあるのは果実の瑞々しさだった。
 あっという間に空になったグラスに、アメジスト色を、翠玉色を、金剛石のような透明な果実を順に入れてゆく。|紫色《アメジスト》は果実味豊かなロゼに、|翠色《エメラルド》は柑橘と青林檎を思わせる爽やかな白ワインへと姿を変えた。
「自ら実体験できるとは貴重な時間だな~」
 果皮ごと搾らないからジュースのようになると聞いたことはあったが、まさにその通りだなと兼成は実感する。

 ふと、手にした果実に日本酒、はたまたスピリッツを混ぜればまた違う風味に早変わりだ。

「オリジナルカクテル作りも捗りそうだ」

 感心しながら飲み、持参したツマミとの相性を試し、また飲んだ。

「酒神様が本気で作った|美酒の楽園《テーマパーク》じゃないのか、ここは」

 満面の笑みで兼成は天を仰いだ。

「此のダンジョンに住み着いてしまえそうだ」

 陽気な思い付きに同意するように、近くで飲んでいた者たちの多くが頷いていた。

各務・鏡

 仄暗い入り口とは対照的に奥から溢れて来るのは|喧噪《わらいごえ》。
「これはまた、随分と贅沢な景色だ」
 誘われるように足を踏み入れた各務・鏡(自称写真機の付喪神・h09413)は瞳を細めた。

 そこかしこで開かれる宴会。静かに酒を嗜む後ろ姿。足元をふらつかせながらも次を求めて彷徨う冒険者。まるで御伽噺の酒宴をそのまま封じ込めたような光景だった。

「好きなだけお酒が飲めるっていうのなら、御相伴に与ろうねぇ」
 鏡も足取り軽く酒を選ぶ。
「今日はビールは我慢して日本酒を楽しもう」
 たくさん味わいたいからだ。
 一升瓶を一人で空けるのはなかなか骨が折れる。良い酒ほど開ける機会を逃しがちだからこそ、この迷宮は酒好きにとって夢のような場所だった。

「まずはここかな」
 目当ての看板を見つけ、鏡は下流から楽しむ事にした。
 月光が融け込んだような乳白色の流れは、とろりとした質感。グラスを差し込み一口含めば、まろやかで柔らかな喉越しと米の甘みがふわりと広がる。
「ああ、これは飲みやすい」
 持参したスルメを齧れば塩気の後に甘みが引き立ち、頬も自然と緩んだ。

 少しだけ遡ると川は濁りが薄れ、穏やかな碧色へ変わる。水晶が川底で輝く神秘的な場所を狙って掬った酒は華やかな香りを纏いながらも、先程のどっしりした甘みとは違い、米の旨味とコクがしっかりと残っていた。

「……でも、どうしておつまみ売ってないんだろうね」

 乾き物は口直しにちょうど良いし美味しいのだけれど、やっぱり日本酒にはちょっとした小料理が合うと思う。首を傾げながらも杯は止まらない。
 さらに上流へ足を向ける。源流近くまで来ると、果実を思わせる香りを纏い驚くほどすっきりとした味わいへ変わった。

「やっぱり日本酒には刺身が欲しいと思うんだよ、僕は」

 鏡は真面目な顔でスルメを齧りながら零す。壮大な神秘を前にしてもなお、結局そこへ帰着するのだった。

マルザウアーン・ノーンテッレト

 地上では決して嗅げない芳醇な香りの洪水が押し寄せ、マルザウアーン・ノーンテッレト(銀の星・h08719)の鼻先を擽った。
「むう……これは、なかなか|危険《・・》だな」
 混じるのは愉快な音色と人々の笑い声。然し浮かれてはいけない。ここへ来た目的は奇跡の月とやらの調査だ。

「気を引き締めるぞッ!」

 もはや望めぬ人との再会。幻と解っていても惹かれるのは良く分かる。
「だが命まで囚われるとなれば、話は別!」
 被害者が増えぬよう調査を急がねばならない。

 のだが。

「……はあ〜、良い香りだなあ」

 燈火を映すように黄金に輝く琥珀の雫と、バニラを思わせる燻製香が誘惑してくる。
「途轍もなく心惹かれるが、今は仕事中ッ!」
 鋼の理性で拳を握るマルザウアーンの近くを通りかかった陽気な酔客が笑いながらグラスを差し出してきた。
「兄さんも一杯どうだい?」
「いや、オレは調査が、」
「現場を知るには現場の酒を知ることからだろ?」
 差し出されたグラスをマルザウアーンは反射的に受け取ってしまう。
「危険がないか確かめるんだろ?」
「だったら飲まなきゃ分からないじゃないか」

「なるほどッ!!」

 彼はとても|押しに弱かった《純粋だった》。

「この辺じゃ一番うまいウイスキーだぜ」
「おお……!」

 勧められて一口。
 途端に銀狼の耳がピンと立つ。
 舌を滑る液体は驚くほど滑らかで、蜂蜜のような甘みと果実の風味が広がる。心地よい熱が全身を巡った。
「はあ〜……」
 思わず吐息が漏れる。尻尾がぶんぶん振れていた。
「これは凄いな!」
 青い瞳がきらきらと輝く。
「最初は甘いのに、後から木の香りが来る! それに煙みたいな香りもあるぞ! なんだろう……焚火の近くで本を読んでいる時みたいだ!」

「なんだ兄さん、随分詩的な表現をするじゃないか」
 酔客の一人が愉快そうに声を上げれば、周囲からどっと笑いが起こる。
「オレは“美味い”しか出てこないぞ!」
「もう一杯飲んだらもっと良い感想が出るんじゃないか?」
「おお、それもそうだな!」

「本当に必要か、それは!?」

 迷いのない返答に、一際大きな笑い声が弾けた。

 笑い声と乾杯の音に包まれながら、マルザウアーンは|真面目《・・・》に調査を進めるのだった。

十全・フルル
ルーシー・ショウ

 酒飲みが集う空間の独特の雰囲気と噎せ返るアルコールの香りを前に、十全・フルル(見習い喇叭吹き・h10216)は顔を顰めた。
「|未成年《・・・》を酒場に連れてくるとか正気っすか?」
 付き合ってほしい|仕事《ばしょ》があると言われ仔細を聞かずに連れて来られたのは、まさかの酒ダンジョン。
 意気揚々と楽し気に前を行くルーシー・ショウ(微睡む蛇・h12791)は振り返った。
「仕事ですから」
「絶対それ建前っすよね」

「いいじゃないですか! お酒飲み放題ですよ!」

 満面の笑みだった。

「あんたが飲みたいだけのくせに」
「お酒大好き!」

 グラスを掲げる姿は実に堂々としている――“|蛇《うわばみ》”の名を持つ災厄からすればこの場所は楽園そのものらしい。

「実際、観光地化している場所の調査ですからね」
「それはそうっすけど」
 返ってきたフルルの一言はだいぶ呆れを含んでいたけれど。
「なんだかんだで付き合ってくれるの優しいですよねー」
「しゃーなしで付き合ってやるっす」
 口では文句を言うがルーシーから離れる様子はなく、フルルの足は出口へ向かない。本当に嫌ならばとっくに帰っているだろう。
「フルルと僕は古い付き合いですしね……それこそ四桁年レベルで」
「実年齢の話は禁止!」
 ぴしゃりと言い切るフルルに、ルーシーは愉快そうに笑った。

 進むにつれ迷宮の様相は奇妙さを増していく。酒を溢れさせる木樽、音色に合わせて色鮮やかな酒を生むグラス、ミントの香る月の欠片のような植物。酔客たちはそれぞれ杯を傾け、この不思議な迷宮を楽しんでいた。

 ふたりが足を止めたのは、幻想的な一角。
 薄闇を照らす発光苔、岩肌から伸びる白枝に実る果実は手のひらに収まるほどの大きさで、どれも透き通る輝きがまるで宝石のようだ。
「ノンアルでも美味しそうなものといえば……やっぱり果実系っすよね」
「実は僕も果実酒が気になってまして」
 フルルが渡されたのは未成年用のグラス。アルコールを無効化する仕掛けがあるらしいが、ルーシーの渡されたグラスとの違いはあまり分からない。どうせなら同じ種類が飲みたいと辿り着いたエリアだ。
「甘いのが飲みたいっすねー」
 早速、フルルは紫色の果実へ手を伸ばした。指先で潰せば薄皮が弾け、果肉がゆるりと溶けて葡萄色の星屑がグラスを満たす。宝石果実は潰してもキラキラ美しかった。
「おお……」
 一口。
「甘くて美味しい!」
 ちゃんと美味しい葡萄ジュースだとフルルは目を輝かせてあっという間に飲み干し、次の果実に手を伸ばす。
 ルーシーも同じ色の果実を取りグラスの中で潰し口を付けた。
「僕のはちゃんとワインになってますね」
 豊かな甘みの奥に熟成の深みが顔を出す。見た目は同じでも、こちらは紛れもない極上の赤ワインだった。
「こう、深みがあって、キラキラしてて、いい香りで……とにかく美味しいです!」
 何より酔える、と幸せそうだった。世界を喰らう災厄などという肩書きが泣いて逃げそうな笑顔だった。
 しかしその横でフルルは悔しそうな表情を浮かべている。
「ううん、エンジョイしてる自分が悔しい」
「楽しめているなら何よりです」
 
 林檎や蜜柑、時には見た目と味が一致しない不思議な果実もあり、ふたりのグラスは満たされた傍から空になっていく。

「あ、おやつナッツあるけど食べます?」
「いただくっす」
 香ばしい塩味がより果実の甘みを引き立てる。

「じゃあ自分のあんパンもあげる」
「おお」
「つまみになるかは分かんないけど」
 フルルの言葉にルーシーは真顔で首を横に振る。
「僕はお酒が飲めればつまみは塩だけでも満足できるんですよ」
 あんパンを一口。
「だからあんパンも余裕でおつまみです!」
「雑っ!」
 それでもフルルとしては普通に美味しかったので異論はない。

「なるほど……第一印象は華やかですが決して軽くない。果実味の奥に複雑な層があって、飲むたびに表情が変わりますね」
 神妙な顔をしてルーシーは語る。
「プラムに微かなスパイス、うん、とにかく好きな味です」
「誰に向かって飲みレポしてるんすか」
 突然無言で眉間に皺を寄せるから何かと思えば、ただ味わっていただけなことにフルルは吹き出した。

「……あんたって本当に楽しそうっすよね」
「それはもう」
 即答だった。
「こんな場所ですからね」
「でしょうね」
「……フルルも結構楽しんでますよね?」
 問われたフルルは少しだけ黙る。
 フルルはグラスへ視線を落とした。次々と違う味に出会えるジュースは、確かに悪くない。

「……まあ」
 白い髪を揺らしながら、フルルはそっぽを向く。
「ちょっとくらいは」

「ちょっと?」
 ルーシーの口元が楽しそうに緩む。

「ちょっとっす」

 念押しだった。

 譲らないフルルを見て、今度こそルーシーは声を上げて笑った。

見下・七三子
天使・夜宵
ノイル・リースロス
バリバリ・バリカーン

 酒ダンジョン――一風変わった観光地といえど、一歩足を踏み入れると印象が変わるだろう。

 天井など存在しないかのように高く、頭上には無数の光が揺れている。だがそれは夜に浮か星々ではなく、琥珀や紅玉、月白に輝く無数の雫。岩肌を伝い滴り、酒宴を盛り上げる一滴たちだった。鼻を寄せれば甘い果実の香り、麦を炒った香ばしさ、熟れた木樽の匂い。世界中の酒が持つ香りが混ざり合っていた。

「わああ! すごい! いろんなお酒が飲めるんですね、ここ」
 見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)は思わず声を弾ませた。紅玉の瞳いっぱいに広がるのは、酒飲みが一度は夢見た楽園そのもの。
「ほぅ、こんなに酒があるのか」
 紫の瞳を細め、天使・夜宵(|残煙《ざんえん》・h06264)は僅かに口元を緩めた。近くを流れる川でさえアルコールなのだから驚きだ。
「ウイスキー、ブランデー……この辺気になるな」
 案内掲示板にはどのエリアにどんな酒があるのかも書かれており、目当ての酒を逃す事はなさそうな優しい設計である。
「わぁ、此は……壮観な景色だし、確かに香りを吸い込むだけでも気分が良くなりそうだ」
 感心したように周囲を見渡すのはノイル・リースロス(|闇に揺蕩い影に詠う《ニュイ・エ・ノワール》・h08142)。発光苔の淡い光に誘われて視線を向ければ、目移りしそうな酒器も貸し出しされている。
「酒を飲むダンジョンか。前にも行ったことがあるが良いもんだ」
 最後に入ってきたのはバリバリ・バリカーン(モンゴリアンデスワーム・h02832)。巨躯に劣らぬ大きな袋を背負っているが、どうやら中身はツマミなようで気合の入りようが現れていた。行きがけにノイルが占ったラッキーおつまみである“さきいか”や酒屋のばっちゃんおすすめの“ぼだっこ”も確り納まった渋いラインナップだ。

 四人は地図を頼りに歩き出す。

 酒が生まれる宝石果実の林。ラム酒の沸く泉。日本酒の川。蜂蜜酒が滴る花畑。その名の通り、巨大な酒蔵は右を見ても左を見ても、様々な酒で湧き出ている。

「なんだか夢みたいですね」
「夢だったら酔い損だな」
「それは困るね」
「だったら目が覚める前に飲み尽くさねぇとな!」
 他愛ない会話を交わしつつ、ぐるり、と大通りのような場所を一周する。分かれ道の向こうには知らないお酒の案内もあったりするが、まずはこんな感じかな、と最初に降りた階段の下で足が止まった。
 さて、最初はどうしようか、と迷う中、七三子がぴっと手を挙げる。

「みんなでお気に入りの一杯を持ってきて、乾杯とかしませんか!」

 まずは好きなものを飲むのが良いだろう、と夜宵は頷き、ノイルも同意して、バリバリも勿論と首を縦に振る。
「良いね、乾杯。是非やろう」
「別に構わねぇぞ」
「面白そうだな!」

「じゃあ最初の一杯を探してきましょう!」

 一度解散、とすれば散るのが早かった。



 みんなそんなに飲みたかったんだなぁ、七三子はにこにこ背中を見送り、自らも歩き出す。

「一杯目は何にしようかなあ」

 どうせならちょっと甘めだと嬉しいな、なんて思いながら向かったのは煌びやかなエリア。天井から垂れ下がる水晶の枝。その先に実るのは宝石のような果実。色とりどりの輝きが淡い光を反射し、辺り一面はまるで万華鏡のようだ。
「わあ……!」
 高級宝飾店だってこんなキラキラしていないだろう、と七三子の瞳も輝く。
「あれがいいですね」
 一際目を奪われた紅に手を伸ばす。
「潰しちゃうのがもったいないですけど、……えいっ」

 弾けて溢れ出すのは鮮やかな紅。薔薇の甘い香りが一気に広がる。七三子はグラスを大事に抱え、集合場所に足を向けた。



 夜宵は鍾乳洞の奥へ向かっていた。

 湿った香りのする洞窟を抜ければ、無数の巨木が立ち並んでいる。加工用に樽が積み重なり、表面には黄金の蔦が絡み付いていた。
 幾つかナイフが刺さっており、隙間からは微かに煙が漏れている。
「すげえところだな」
 奇妙な光景だが、心が逸るのは隠せない。

 樽に鼻を寄せれば甘い香り。
「これは違うな」
 次へ、また次へと選んでゆく。
 木の香りが強いが爽やかな果実の風味も混じって、鼻孔を抜ける刺激が心地よい。
「……これだ」

 ナイフの柄を握り僅かにずらせば、刃を伝い琥珀色の液体がグラスを満たした。軽くグラスを光に翳して揺らす。色合いと匂いを確認した夜宵は、集合場所へのんびりと歩き出した。


 
「軽いものから始めても良いのだけど……どうしようかな」
 ノイルはゆったりとした足取りであちこちを眺めて回る。ふと穏やかに流れる水の音が響いている事に気付く。
「おや」
 清流かと思えば予想に反し、漂うのは|酒精《アルコール》の香り。

「へえ、同じ流れでも場所ごとに|表情《おんど》が違うんだね」

 他の川を見れば濁っていたりもするので同じ日本酒の川でも違いがあるようだ。
「折角酒器を持ってきたからね」
 持参したのだから使わなければ勿体ない。

 近くを流れる白糸のような滝が甘口らしい華やかな香りがするのに気付き、ノイルは硝子のちろりに酒を汲み、氷を穴に放り込んで冷酒にしながら集合場所へ向かった。



 バリバリは黄金の滝へ一直線であった。

 豪快な水音を頼り進む。やがて目の前に広がったのは黄金の大瀑布。
「ヒャッハー! こいつはすげぇな!」
 岩肌を砕き流れ落ちるのは水ではなくきめ細やかな泡を纏った麦酒。滝壺では飛沫が弾け辺り一帯に香ばしい麦芽の香りを漂わせていた。
「こういうのは難しく考えるもんじゃねぇよな!」
 バリバリの手には巨大なピッチャー。滝の縁へ近付き迷いなく腕ごと差し込めば、勢いよく麦酒が注がれる。
 瞬く間に泡が盛り上がり白い冠のようにピッチャーを縁取る。
「おおっ、良い泡だ!」
 ピッチャーも程よく冷え、最初の一杯はやはりこうでなくては、といった感じだ。

「さて、みんなはどんな酒を選んだかねぇ」
 仲間たちとの乾杯を心待ちにしながら、バリバリは上機嫌で集合場所へ急ぐのだった。



「ふふ、みんな違いますね」
 七三子が嬉しそうに笑う。
「だな」
 夜宵も自分以外の酒へ視線を向ける。酒の好みはそのまま人柄が出るというが、案外そうかもしれないなと思って。
「中々面白い組み合わせになったね」
 ノイルはお気に入りの月白の切子に酒を注ぎ、準備万端だ。
「誰一人被ってねぇのが良いよな!」
 バリバリは既に楽しそうだった。

「それじゃあ、――乾杯!!!!」

 かちん、と四つの酒器が軽やかな音を鳴らした。

「おいしいです……!」
 果実酒は薔薇を思わせる香りに蜂蜜のような蕩ける甘さで、七三子の頬が一気に緩む。
「……悪くねぇな」
 短い感想だが、夜宵の口角には笑みが浮かんでいる。舌の上を転がる熱は癖になる風味だった。
 ノイルも冷酒を一口。ひんやりとした喉越しに米の甘みが柔らかく広がってゆく。
「うん、良いお酒だ」
 豪快にジョッキを傾けたのはバリバリ。
「ぷはぁーーっ!!」
 周囲の酔客も振り向くほどの大音量。
「いや~最初の一杯はビールに限るな!」
 その豪快な勢いに、三人からも思わず快い笑いが吹き出した。

「私、みんなのお気に入りのお酒、飲んでみたいです」
 折角全員が違うのを選んできたのだから、と。
 さきいかを齧り、ミックスナッツを摘まみながら、早速二杯目を探すついでの飲み歩きである。

「この果実、宝石みたいで綺麗でした」
「成る程、華やかな香りだ」
「花みたいだな」
 ノイルに続き、夜宵も素直に感想を漏らす。
「甘くて飲みやすいぜ!」
「あっ、枝にあった実がもうこんなに減ってます!?」」

「そういやウイスキーなんてあったんだな」
「樽が並んでるエリアだ。ナイフをずらすと出てくる」
「面白い仕組みだね」
 仕掛けのようなエリアもあるんだな、とグラス片手に見て回る。
「大人の味です……!」

 切子越しに揺れる酒は、やはりグラスとは違う良さがあって。
「ふふ、綺麗だねぇ」
「見た目も大事だからね」
「……飲みやすいな」
 水のように沁み渡る感覚が面白い。
「これなら魚が欲しくなるぜ」
「ぼだっこあるじゃないか」
「そうだった!」
 折角持ってきたのに、とバリバリは袋の中を漁って、つまみを手に入れた。

 冷えた黄金の滝は目の前に居るだけで酔ってしまいそうなほどだった。
 七三子とノイルはそっとバリバリの後ろに立つ。勢いが凄い。
「キンキンですね!」
「だろう!」
 なんならちょっと寒い。
「こういうのは酒場じゃ味わえねぇな」
 夜宵も納得したように頷いた。

「そういや天使とは居酒屋で飲んだことがあるが七三子やノイルとは初めてだな」
 バリバリがさきいかを齧りながら笑う。
「一緒に飲めて嬉しいぜ」
 その言葉に七三子は柔らかく微笑んだ。
「私もです」
「うん。こういう時間も悪くない」

 ふと、ナッツを摘まみながら七三子が夜宵を見上げていた。

「?」
「天使さんは、私達よりむしろデートで来た方がよ――」

「……っ!?」
 夜宵が盛大にむせた。
「は、はぁ……?!」
 耳が目に見えて赤い。
「いや、別に……つか、何で|アイツ《・・・》の話題に……!」
 先程までクールに酒を嗜んでいたとは思えぬ反応に、ノイルとバリバリの目が輝く。
「おや、夜宵氏にはいい人がいるのかい?」
「なんだ天使は彼女がいるのか!」
「いねぇ!」
「楽しそうだ、詳しく聞かせて欲しいな」
「聞かせねぇ!」
「よし、ノイル、ちょっと恋愛運でも占ってやったらどうだ」
「面白そうだね」
「だからやらねぇって!」
 即答虚しく三人の追撃は止まらない。

「そう言う七三子も彼氏とじゃなくてよかったのか?」
 にこにこと耳を傾けていた七三子を突然襲ったのはバリバリの一言だった。

「えっ!? わ、私ですか!?」

 賑やかな響きは止まらない。酒のせいもあるだろう。だがそれ以上に気兼ねなく過ごせる相手だからこそ、こうして楽しく過ごせているのだ。

「……あー……その話は良いんだよ!」
 夜宵は諦めたように酒を飲み干す。
「それよりも、飲みに来たんならまだ飲むだろ?」
「その通りだぜ!」
 既にビールをたらふく呑み、ワインを重ね、日本酒を味わい、ウイスキーを傾け、見事なちゃんぽん状態のバリバリのおかげで、夜宵の無理やり切り上げた話題は無事に流れた。

 酒の味はそれぞれ違う。
 甘いものもあれば、辛口もあって、好みだって人それぞれだ。
 けれどそのどれもが美味しく感じるのは、きっと同じ時間を分け合う仲間がいるからなのだろう。

 だから四人は次の一杯を探して歩き出した。酒の香りと笑い声に溢れた夢のような迷宮の中を。

黄菅・晃
コウガミ・ルカ

――酒が飲み放題のダンジョンがある。

 その一文を見た瞬間、黄菅・晃(汎神解剖機関のカウンセラー・医師兼怪異解剖士・h05203)が|依頼書《チケット》を奪うように受け取った瞬間を、コウガミ・ルカ(解剖機関の飼い犬・h03932)は忘れられないだろう。

 深層に存在するという“月”の調査が本来の目的だ。
 喪われた誰かとの再会を叶える奇跡とその代償。人を呑み込む危険な魔性がある以上、放置できる案件ではない。

 ないのだけれど。

「現地の仕事の何が良いって、こういうことができる場合があるからなのよねー。別にお酒飲みたいから来たわけじゃないわよ?」
 ダンジョンへ降りながら、受け取ったパンフレットとグラスを手に何度目かの|理由《・・》を言い切る晃を、背中を見ながらルカは静かに思った。
 絶対に嘘だ。
 だって晃のやる気が全然違う。
「……グルルル」
 普段よりも若干、無気力な雰囲気が低い。
 あからさまに楽しそうなのだ。
「何よ」
「……一部、違わない」
 仕事を受けたのは事実。だがルカの脳裏を過るのは、あの日、ひったくるような食いつく速度。ジトっとした視線を受けて晃は露骨に視線を逸らした。
「ほんとよ、ほんと。気のせい」
「……気のせいじゃない」
「アンタ最近生意気になったわね」
 まるで思春期やら反抗期を迎えた息子を前に肩を竦めた晃の背後、誰のせいだと思っているんだろう、とルカは唸りさえ我慢しながら付いて行く。

 二人の前に広がったのは、黄金と琥珀で彩られた異世界だった。

 甘い果実、焦がした砂糖、木樽の気配。花蜜、香辛料、燻製。数え切れないほどの香りが幾重にも重なり合い、ひとつの空気となって一気に押し寄せる。酒蔵と花畑と食堂を混ぜたような匂い。
「おお」
 晃の目が輝いた。
 ここ数日の中でも一番分かりやすい反応である。それくらいキラキラしていた。
 一方、ルカは眉根を寄せていた。
「……情報量、多い」
 甘い匂い、苦い匂い、心地良い香り、刺激臭、何もかもが全部一緒に押し寄せて、さらに人混みの騒めきまで混ざったせいで感覚が忙しすぎるのだ。
「アンタそういう反応なのね」
「……晃は?」
「ふふ」
 ルカの問いに晃は微笑みで返した。美しい笑顔だった。だがルカは知っている。長い付き合いだ。これは本当に機嫌がいい時の笑い方だと。
「……全種類、飲む気だ」
「失礼ね」
 晃は真顔で答えた。
「当然でしょ」
 否定になっていなかった。

「ちょっとグラス貰ってくるわ」
 そう言い残し、晃はダンジョンの中で使えるグラスを取りに向かった。どうやら割れづらい専用の酒器があるらしい。当たり前のように差し出された荷物をルカは受け取る。
「……グル」
 重い。
 見た目以上に重かった。
 やはり調査の事を考え仕事道具が詰まっているのかと思うが、隙間から覗けて見えたのはジャーキー。
「……」
 スモークチーズ。
 小瓶の中にはおそらく、塩。
 別のチーズもありそうだ。
 あとはルカの知らない肴っぽい何か。
 調査機材は見えない。
 ルカはゆっくりと視線を上げた。上機嫌に戻ってくる晃と視線が合う。
「お待たせー」
「……準備、良い」
 鞄の中身に気付いたんだな、と晃は気にせず鞄を受け取った。
「人生経験の差よ」
「……酒の?」
「酒の」
 即答だった。
 ふと、ルカは少しだけ考える。
「……足りる?」
「おつまみは|少し《・・》あれば十分よ。お酒さえ飲めればいいんだし?」
「すこし……?」
 ルカは理解を諦め、最初の一杯目を目指しに歩き出した晃の後ろを大人しくついて行くことにした。



 まず辿り着いたのは巨木の化石。
 遥かな昔に命を終えたはずの大樹を這うのは黄金の筋。石化した幹に沿う琥珀の流れへグラスを添えると、燻したような木の香りと共に雫が零れ落ちる。一口分が溜まったあたりで晃は迷いなく喉へ流し込んだ。
「……良い」
 晃の機嫌が最高潮なのが良く分かる声音である。
「……仕事中」
 ルカはふと声をかけてみた。
「そうね」
「調査」
「そうね」
「……飲酒」
「そうねー」
 全部肯定され、ルカは溜息をつく。会話が成立しているようで破綻している。
「グル……」
 別に呆れているわけではない。なんなら普段とは違う晃の様子をルカも楽しんでいた。
 視線の先、晃は既に違う酒に意識が向いている。化石の根元に群生する青白い茸。普段であれば決して近付かない色合いだが今は迷いなくグラスを寄せ、滴を受け取る。
「蜂蜜酒ね」
 ダンジョンの中だからか、やはり晃は迷いなく口にした。
 花の香りが柔らかく広がり、くどくない甘さが丁度よい。満足そうに頷く晃を見て、ルカはやはり楽しそうだな、と思う。

 さらに奥へ進む。今度は洞窟の壁を這う発光苔に照らされた、幻想的な空間。薄紅、翡翠、黄金、蒼、菫。晃はそれぞれの色を同じグラスへ落とす。混ざり合った液体は濁らず夕焼けのような薄明のグラデーションとなった。
「へえ」
「……実験してる?」
「ただの試飲よ」
 大差ない気がする、とツッコミを呑み込んだルカの前で晃はそれを飲み干し、そのまま次へ向かう。
 発泡酒が溢れる鍾乳洞。
 果実酒の実る低木。
 香辛料が採れる泉。
 新しいエリアに行くたびに呑んだ。飲んで、呑んで、飲む。たまに鞄の中を漁りチーズだとかを口に放り込み、また飲む。その勢いにルカは感心しっぱなしだ。

「晃」
「なに?」
「……水分補給?」
「失礼ね。ちゃんと味わってるわよ」

 流し込むように酒がまた一杯消えた。説得力が薄い。

 さらに奥へ進めば、様々な高さに実る虹色の宝石たち。潰すまで何の味の果実酒になるかはわからない不思議な実。
 手近に取った白い果実は甘い白桃の香りがした。
 晃は何個か実験のように捥いでは潰し、飲み干しては次を捥ぐ。そしてふと振り返りルカを手招いた。
「……?」
「ルカ、アンタも飲みなー?」
 ふいに伸ばされた手がルカの|口元《マスク》に伸びる。
「マスク外したげるわ。ほら、――“言霊の使用、許可”」
 拘束がゆるむ。
 ある程度歩き回った今なら、ルカの|嗅覚《はな》も多少順応しているだろうという判断であった。別に意地悪で此処まで連れまわし、飲まさなかったわけではない。ルカもそれを理解はしていたから何も言わず着いて来たのだけれど。
「……分かった」
 差し出されたグラスとマスクを交換する。ルカのマスクは酒の肴の奥底へ押しやられた。
 一口。二口。
 沈黙。
「どう?」
「……飲めない、ことは、ない」
「微妙そう」
「……微妙」
 ルカの正直な感想に晃は笑わない。
 苦くて刺激が強い。どこか覚えのある味を探すルカの言葉を待っている。
「……消毒液だ」
「あはは!」
 予想通りの返答だったようで、耐えきれず晃は吹き出した。
「そうそう消毒液。身体の中を消毒してくれるからいくらでも飲めるのよー」
「……晃が飲んでる量、絶対、その量じゃない」
「酒は百薬の長なの」
「……百回分?」
「そのくらい」
 こんな美味しくないものをどうしてそんなに楽しそうに飲めるのだろう、とルカは口直しに渡されたジャーキーを齧りながら思う。

 次に辿り着いたのは、有名らしい日本酒の川。
 待ってましたと言わんばかりに、晃の手にはいつの間にか塩とわさび。
「準備良すぎる」
「経験よ」
「……何の」
「人生の」
 今日|も《・》ルカは、分からないことだらけだった。

 ちょうどよい岩場に腰かけ堪能する気満々の晃を尻目に、ルカは近くに果実酒の樹を見つけた。甘い香りに誘われて、他の人に習って実をひとつ取って潰す。先程までの酒とは違う。苦みが少なく、甘すぎない。新鮮な果実の奥にはちゃんとアルコールもあって、ふんわりと香りに包まれた。
 もう一口、もう一口、と気付けば飲み干していて。

「……これ、好きかも」

 ぽつり、と零れた小さな言葉だったはずなのに、晃が驚いたように顔を上げた。

「今なんて?」
「……好きかも、って」

「アンタ、今好き嫌いを言ったの」

 心底驚いたような声だった。
 ルカは訳が分からず瞬いている。
 アルコールの代謝が早くて酔っていないはずなのに、晃の言葉が理解できなくて。
「それくらい、言う」
「言わないでしょ、普段」
「……言う」
「言わないわよ」
「……グル」
 押し問答に負けたルカを前に、晃は肩を揺らして笑う。
「……?」
「ごめんごめん」
 全く悪びれていない。ルカは不服そうな顔をしたが、晃はさらに面白そうに目を細めた。
「アンタね、自分で選ぶようになったのよ」
「……?」
「昔なら『どれでもいい』だったでしょ」
 言われてみれば。
 確かにそうだった。

 だって、選択肢など存在しなかったのだから。

 与えられた薬を飲み、与えられた食事を摂り、与えられた命令に従う。そこに好きも嫌いも無い。必要か不要か。有効か無効か――それだけだった。
 晃によって、その環境はとっくに変わっているけれど、染みついたものは簡単には消えない。

 だから、ルカは考え込むように手元を見た。

 少しだけ残った果実酒。
 甘い香り。柔らかな風味。嫌いじゃない。また飲みたいと思う。

 これが|好き《・・》という感覚なのか。

「……そうか」
「そうよ」
 晃は満足そうで、どこか嬉しそうだった。
 医者が患者の回復を喜ぶ顔とは違う、もっと、個人的な――まるで長い時間をかけて育てた植物に、綺麗な花が咲いた瞬間を見届けたような表情に似ていた。

「アンタ、前よりずっと人間らしいわ」
「俺、化け物、」
「そういう話じゃないのよ」
 ぴしゃり、と晃の声が遮る。
「何者かなんてどうでもいいのよ。アンタがアンタで、自分の好きなものくらい言えるなら十分」

 ルカは黙る。
 そういうものだろうか。
 分からない。

 分からない、けれど。

 晃が真剣に、嬉しそうに、楽しそうに言うのだから、きっと悪い事ではない。正しい事なのだろう。

 その時だった。
 どこか遠くで歓声が上がる。
 見れば即席の演奏会が始まっていた。陽気な旋律が周囲に響きだす。酔客たちは手拍子を打ち、誰かが歌い出し、楽しそうな気配が広がってゆく。

 晃はグラスを傾けながら、塩をひとつまみ、日本酒と合わせながら耳を澄ませる。
「こういう時間も必要なのよ」
 独り言のような本音が落ちる。
「連勤して、書類書いて、患者診て、解剖して。気付いたら一週間終わってるし」
 隣に座ったルカは小さく頷いた。
「人間、適度に駄目にならないと壊れるのよ」
「……それで酒」
「そう、酒」
 呆れるほど清々しい即答は今日何度目だろうか。
 けれど実際、晃は普段とは違う顔をしていた。何かを脱ぎ捨てたような、肩の力が抜けた雰囲気だった。
 ルカはグラスを持ちあげ、残っていた果実酒を飲む。自分で気付いた、好きなお酒。

「楽しい、な」

「アンタ今、自分から楽しいって言った?」
 するりと零れた言葉を晃は聞き逃さない。
「……言った」
 気恥ずかしくて、けれど否定する余地もなくルカは頷くしかなくて。
「今日は記念日かしら」
「……違う」
「違うの?」
「……違、わない……」
 今日という日は、晃がよく驚き、よく笑う日らしい。ちょっとだけ理不尽を感じるのに、何故か心地よい気がする。矛盾した不思議な感覚だった。

 やがて音楽はさらに賑やかさを増す。
 乾杯の声、笑い声。
 酒器の触れ合う音。
 どこかの誰かが音を外して大笑いされている。

 酒と笑顔が満ちるダンジョンの光景の中、晃とルカは肩を並べて座っていた。

 専属医と患者。
 監視役と災厄。

 そんな肩書は、今だけは遠い場所にあるようだった。

泉・海瑠
黛・巳理

 入り口はただの洞穴のようだった。ぽかりと空いた黒い闇へ勇気を持って飛び込み、やがてダンジョンの喧騒が届いた時、泉・海瑠(妖精丘の狂犬・h02485)はぱっと顔を輝かせた。
「わ、見て見て巳理さん! すっごいお酒の香り……!」
 声に釣られるように黛・巳理(深潭・h02486)も足を止める。

 岩肌から滲み出す甘い酒精の香り。
 焼き菓子を思わせる香ばしい匂いが混ざり、更にその奥からは柑橘の爽やかな何かが混ざって流れて来た。
 不思議なことに、数歩進むだけで香りの主役が入れ替わる。まるで|迷宮《ダンジョン》そのものが手招き、自慢の一杯の在処を進めて来るようで、自然と海瑠の足取りは軽くなる。

「本当だ……凄いな、香りだけで酔ってしまいそうだ」
「たしかに。あまりにも自然に空間に対して酒を混ぜているのが凄いよ」
 巳理の零した感想に海瑠も大きく頷いて同意した。
「どう見ても自然の風景なのにね」
 その中で目を惹いたのは、氷の結晶が山のように積み上げられた場所。
 海瑠の足がぴたりと止まる。
「どうしたんだい?」
 巳理が視線を追いかけた先には、少し開けた岩場があった。
 琥珀色の雫を垂らす鍾乳石。青く透き通る果実。白い花の蜜を受ける小さな泉。そこかしこで思い思いの酒を混ぜ合わせる酔客。
 赤い果実を潰している者や琥珀色の酒へ何かの蜜を注いでいる者、出来上がったグラスを掲げて笑い合う者たちで賑やかな空間になっている。
「あ」
 海瑠の瞳が輝く。
「ここ、自分で作れるやつだ」
「作れる?」
「ほら見て」
 指差した先には木製の案内板。そこには大きく『お好きなお酒でオリジナルカクテルをどうぞ』と書かれていた。
「酒場の中に酒場がある」
「不思議な話だな」
「このダンジョンらしいね」
 色とりどりの素材。好きに組み合わせて良いらしいようだ。こんな場所が楽しくないはずがない。飲み会の王道と聞かれたらビールなのだろうが、目の前の鮮やかな光景を素通りするなんてもったいない気がした。
 ぐるりと辺りを見回してから、海瑠は満面の笑みを浮かべた。
「一杯目はここ!」
「ほう?」
「せっかくこんな場所があるんだし、まずは自分で作ってみたい!」
 きらきらと輝く緑の瞳に、巳理は思わず小さく笑う。胸を張る海瑠に、巳理はどこか楽しそうに頷いた。

「さーて、一杯目は何にしようかなー」
 氷結晶に果実、花蜜、酒の湧く岩肌。まるで大人の遊び場だ。あれこれ見比べ何があるのか眺めていた海瑠の視線が、ふと隣へ向く。深い青を湛えた瞳。静かな夜の湖を思わせる色彩。
「……へへ」
 思わず口元が緩む。
 折角なら思い出をまず一つ目にしよう、と海瑠は決めた。
「海瑠くん?」
「なんでもない! ほら、巳理さんはどうするの?」
「僕は……あまり飲まないから、ピンとこないな」
 巳理は頬をかく。どれも興味はあるし、どれも素敵な香りがしていて惹かれるのは嘘ではないが、普段から積極的に酒を飲むわけではないから何から飲もうか決め手がないのだ。
 そんな話をしながら歩いていると、赤紫色の果実が鈴なりになった低木が目に入る。
 果実の下には案内札があり『潰すとワインになります』と書かれていた。
「ワインか」
「好きなの?」
「比較的」
 おもむろに摘まみ上げた果実からは確かに葡萄の香りがした。
「あ」
「どうしたんだい?」
「これ見て」
 指差した先には別の案内札があり『果実と混ぜてサングリアも作れます』とのこと。巳理が瞬きをする。それから少し嬉しそうに笑った。
「サングリアも作れるのか」
「じゃあオレ作る!」
「え?」
 巳理が目を丸くする。
「せっかくだし巳理さんの分も作るよ」
「いいのかい?」
「もちろん」
 むしろ作りたい。そんな本音は飲み込んで、二つのグラスを並べながら海瑠は密かに気合いを入れるのだった。
「まずはー、」
 グラスの中に落ちた、からん、と涼し気な音を追いかけるように青い果実を絞れば藍色の雫がグラスを満たす。白い果実も絞ると段々と理想に近付いてゆく。匂い的にブルーキュラソーとココナッツリキュールなはずだから、味もきっと好み。
「これで川の水掬ったら炭酸水にならないかなぁ」
 未成年用のグラスも受け取っていた海瑠は、しゅわしゅわ弾ける川の水を掬ってみる。
「なった!」
 なんて便利過ぎるダンジョンなのか。
 注いで混ぜて、檸檬に似た果実をスライスして飾る。
 本来のレシピとは異なるせいか、まるで夜の海を閉じ込めたような|藍《ブルー》のカクテルが完成した。
「ふふ」
 海瑠の口元が自然と緩んだ。
「でーきた」
 藍色が揺れるグラスを光に翳す。
 その様子を巳理は作業の邪魔にならないよう、少しだけ離れた場所から眺めていた。氷結晶を手際よく集め、花蜜を注いだり果実から酒を絞り出したり迷いなく混ぜ合わせてゆく様はまるで魔法のようであった。楽しそうに手を動かしていた海瑠の横顔に、巳理の口元も無意識に柔らかくなる。
「……素晴らしい」
「へ?」
 思わぬ称賛が聴こえ、海瑠が振り返る。
 巳理は出来上がったカクテルと海瑠の手元を見比べながら続けた。
「海瑠くん、どこかで習っていたのかい?」
「え?」
「手筋があまりにも良くて驚いた」
 その声音は本心からの感嘆だった。
「そんな大したものじゃないよ」
 海瑠は照れ臭そうに頬をかく。
「見よう見まねだし」
「そうだろうか」
 巳理は納得していない顔をした。
「少なくとも僕には出来そうにないな」
 そう言いながら完成したグラスを覗き込む。
「綺麗だな」
「でしょ」
「何というお酒なんだい?」
「えっ」
 聞かれて海瑠が固まる。言うべきか。やめるべきか。
 悩んだ末に。
「その……推しカクテル?」
「推し、かく?」
「推しカクテル」
「おしかくてる?」
 巳理は数秒考えた。
「好きなお酒という意味かい?」
「そっ、そんな感じ」
「なるほど」
 納得したらしい様子に海瑠は内心ほっと息を吐く。
 だが。
「どうして好きなんだい?」

 追撃が来た。

「えっ!?」
 思考が止まったように口が廻らない。どうして。どうしてと言われても、理由そのものは単純でしかなくて。開いた口はすぐに閉じる。言葉が出てこない。視線を逸らそうとして、失敗した。
 だって、藍色の瞳が海瑠を真っすぐ見つめていたから。
 決して巳理は急かさず、ただ穏やかに微笑みながら彼の答えを待っている。その顔がずるい。逃げる理由も与えてくれない。
「えと、……その」
 海瑠はちらりとグラスの中の藍色へ視線を落とした。
「……巳理さんの眼の色が綺麗だなーって、思って……その色のカクテルに……」
 ぽつり、と漸く零れた言葉を言い切った瞬間、海瑠は耳まで熱くなる。今すぐ岩陰に隠れたい。穴に飛び込むでも良い。
 数秒。
 沈黙が落ちた。
 勢いで言ってしまったが、冷静に考えれば「あなたの瞳の色をイメージして作りました」なんて重いにも程があるのではとじわじわ後悔が押し寄せてくる。巳理の反応を見るのが怖くて、けれど見ないわけにもいかなくて、海瑠は恐る恐る視線を上げる。
「う、ん? ぼくの、いろ?」
 二度。三度。まるで今の言葉を頭の中で反芻するように巳理が瞬いた。

 そして。

「ふふ」
 小さな笑い声が巳理から零れた。思わぬ反応に海瑠が固まる。巳理は肩を揺らすほどではないものの、確かに楽しそうに笑っていた。
「――かわいいことを」
「っ!?」
 海瑠の心臓が跳ねた。予想していた反応とあまりにも違って。いや違う。そこじゃない。問題はそこではないのだ。かわいいと言われた。言われてしまったことを自覚して海瑠の顔が一気に熱を帯びる。
「あ、いや、その!」
 慌てて海瑠はグラスを差し出す。
「そ、そういうの嫌だったらこれ、巳理さんにあげる!」
 半ば押し付ける勢いだった。
「オレは違うの飲むよ!」
「何故?」
「何故って……!」

 そんなの決まっている。

「ドン引かれたりしたらその方がダメージ大きいもん!」

 本音だった。
 あまりにも素直な本音が飛び出してしまった。

 海瑠は自分で自分の発言に頭を抱えたくなる。巳理はぽかんとした後、またくすりと笑った。

「海瑠」
「う、うん?」
 手招きされる。反射的に近付いてしまったのが失敗だった。
 するり、と次の瞬間には巳理によって海瑠の手首が捕まえられていた。
「え?」
「駄目だよ、海瑠」
 海瑠が目を丸くする中、そのまま巳理は逃がさないと言わんばかりに、海瑠の手の中へグラスを押し戻した。
「えっ」
「ほら」
 巳理の指先がグラスごと海瑠の手を包み、柔らかい声が続いた。
「しっかり離さないで?」
 まるで、当然のことを言うように。
 まるで、最初からそうするつもりだったように。
 海瑠は瞬きを繰り返した。
 離さないで。
 それはグラスの話だろう。

 きっとそうだ。そうなのだろうけれど。

 どうしても別の意味に聞こえてしまう。

 酒の香りのせいだろうか。それとも。目の前で微笑むこの人のせいだろうか。真っ赤になっている海瑠を見ながら、巳理はどこか面白そうに目を細めている。

 どちらにせよ、海瑠の心臓は落ち着く気配を見せなかった。
 困るのに、嫌ではないのが、また困ってしまう。

 だって、|仕方ない《好きだから》。

「……」
「海瑠?」
 不思議そうに名前を呼ばれる。
 近い。
 距離が近い。
 視線まで合う。
 これ以上この話題を続けたら、自分が保たない気がした。
 だから視線から逃げるように、我に返った海瑠は半ば勢いのまま声を上げる。

「つ、次!」

「うん?」

「次は巳理さんのやつ!」

 逃げるように海瑠は隣の作業台へ向かう。その背中を見ながら、巳理はどこか面白そうに目を細めていた。
「ああ、お願いしようかな」
 素直に頷かれてしまう。それだけなのに何故だか緊張して、葡萄によく似た果実を摘まみ取る指先が震えてしまう。変に入った力のせいで果皮が弾けるよう破れ、深紅の雫がグラスへ流れ落ちた。濃いルビー色が氷結晶を赤い宝石に変えてゆく。
「へぇ……」
 巳理が興味深そうに覗き込めば、その近さにまた心臓が跳ねた。
「ね」
 誤魔化すように海瑠は笑いながら頷き、平静を装うように周囲を見回す。薄橙色の果実。星型をした透明な果実はどちらも柑橘の香りがする。
「サングリアなら果物いっぱい入れよ」
 手あたり次第美味しそうな匂いのするのを切っては入れてゆく。最後に蜂蜜酒が湧きだす岩肌から数滴グラスへ注げば、琥珀色の甘みがワインを包んだ。
「完成!」
 夕焼けを閉じ込めたような宝石箱のような出来栄えに、海瑠は得意げにグラスを差し出した。
「どうぞ、巳理さん」
「ありがとう」
 受け取った巳理はグラスを光へ透かした。宝石箱。先程海瑠が思った感想と同じ言葉が脳裏を過ぎったのかもしれない。
 しばらく眺めたあと、巳理はグラスを傾けた。
 柑橘の香りがふわりと立ち上る。ゆっくりと味わうように飲み込んでから、巳理は小さく頷いた。
「美味しい」
 その一言に海瑠の表情がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「ああ」
 巳理はグラスの中の果実を眺めながら続ける。
「ワインだけより飲みやすいな。香りも面白い」
「でしょ! 蜂蜜もちょっと入れたからね」
「なるほど」
 今度は透明な果実を一緒に口へ運ぶ。噛めば果汁が弾け、ワインの香りと混ざり合った。
「これは好きかもしれない」
「やった!」
 本当に嬉しそうな顔をする――海瑠の反応に巳理の口元も緩みっぱなしだ。
「海瑠くんは?」
「あ」
 そういえば自分の分をまだ飲んでいなかった。
 慌てて藍色のカクテルへ視線を落とす。先程のやり取りを思い出して気恥ずかしくなるけれど、せっかく作ったのに飲まないのも勿体ない。
 こくり、と一口。喉を通るか心配だったけれど、ココナッツの甘い香りと柑橘の爽やかさ、炭酸の弾ける感覚が気分さえ晴らすような心地よい刺激となる。
「うまっ」
 思わず声が漏れる。
「そんなにかい?」
 もう一口。今度は落ち着いて味わう。
「うん。甘いんだけど甘すぎなくてさ。夏の海って感じ」
「夏の海」
「そう。青くて涼しくて、なんか元気になる味」
 説明になっているような、なっていないような感想だったが、巳理は笑わなかった。
「海瑠くんらしい表現だな」
「そう?」
「ああ」
 巳理は自分のサングリアを掲げる。
「僕のは夕暮れだ」
「夕暮れ?」
「穏やかな味がする」
 海瑠は少し目を丸くして、それから笑う。
「じゃあ夕暮れと海だ」
「並べると景色になるな」
 そう言って二人でグラスを並べてみる。
 藍色と深紅。
 確かに空と海のようにも見えた。
 思わず顔を見合わせ、どちらからともなく笑みが零れた。

「さて、次はどこへ行こうか」
 あっという間に空になったグラスをくるりと回し、巳理が地図を指差す。
 まだまだ不思議な場所は数え切れないくらいあるのだ。どこへ行っても新しい体験が出会えそうだった。
「海瑠くんが決めるといい」
「いいの?」
「ああ」
 立ち上がった巳理は海瑠へ手を差し出す。はぐれないように、そんな理由で。
「ほら」
「……うん」
 海瑠がその手を取らないはずがない。例え、純粋な理由だったとしても。
 触れた温もりが温かくて、繋がったままの距離が嫌ではないから。



 やがてグラスを片手に進みだした二人の目の前に広がったのは、発光する花畑。

 青、紫、銀。夜空の欠片を閉じ込めたような花々が何処からか吹く|酒精《アルコール》の風で揺れている。花弁の中央には朝露によく似た雫が滲んでいて、海瑠がグラスで受け止めてみると、しゅわりと泡立ちながら澄んだ藍色の発泡酒へ様変わりした。
「うおおっ!」
 その移り変わりに海瑠は思わず歓声を上げる。
「花がお酒になった!」
 さっそく一口。舌の上に広がったのは蜜柑と蜂蜜を合わせたような甘みがしたが、確かにビールだった。王道でありクラフトビールのような初めての風味。初手にはぴったりのお酒だ。
「美味しい!」
「そうかい?」
「うん!」
 感動の勢いのまま、海瑠はグラスを差し出す。
「飲む?」
「では」
 巳理も自然に受け取った。何の躊躇もなく。
「……なるほど」
 一口飲んで頷く。
「確かに美味しいな」
 海瑠は一瞬固まった。
 自分で差し出しておいて今更気付く。自分が口を付けたグラスだったことに。
「海瑠くん?」
「えっ」
「どうしたんだい?」
「な、なんでもない!」
 巳理は首を傾げる。本当に分かっていないらしい。海瑠は慌てて話題を変える。
「ほ、ほら! 次行こう!」
「そうだな」



 今度はまるで酒の見本市のような場所に辿り着いた二人。
 緩やかな坂道に沿って、小さな泉や樹木、岩棚が並んでいる。ひとつひとつから湧き出す酒の種類が異なるらしく、案内板には『飲み比べ区画』と説明書きされていた。
「試飲コーナーだ」
「酒蔵見学みたいだな」
「酒蔵っていうか、もはやテーマパークじゃない?」
 ダンジョンらしいと言えば、それまでなのだろう。
 少量ずつ様々な酒を試しながら、海瑠はそのたびに表情をころころ変える。
 桃色の果実酒は驚くほど甘く、薬草酒は顔をしかめるほど苦い。けれど巳理はその苦味を好んだらしく、海瑠は理解できないものを見るように首を傾げた。

 然し、楽しい事ばかりではない。

「うっ」
 薬草酒を飲んだ海瑠の顔が露骨に歪む。
「苦い」
「そうかい?」
 巳理が同じものを口にして、少し考えるような顔で酒を口の中で転がす。
「確かに苦いな」
「でしょ!」
「だが嫌いではない」
「えぇ?」
 漢方風味な酒の味に理解できないと言わんばかりの声だった。

 キラキラ輝く真紅の酒にグラスを添える。
「辛っ!?」
 今度は巳理が眉を寄せ、海瑠が吹き出す。
「巳理さん辛いの苦手だもんね」
「これは酒なのか?」
「お酒だよ」
「唐辛子の暴力では?」
「ははは!」
 珍しく不満そうな顔をする巳理が面白くて仕方ない。巳理も自分で言ってから少し可笑しくなったらしく、小さく肩を震わせていた。
 笑いながら、また別の酒へ手を伸ばす。そんなことを繰り返しているうちに、少しずつ頬が熱を帯びてきた。飲み比べだから飲酒量としては多くない。けれど種類が多い。
 それに空気まで酒の香りで満ちている。自然と酔いも回るというものだ。

「そういえば、巳理さんって、お酒好き?」
 海瑠が新しい杯を手に尋ねた。
「あんまり飲むイメージないけど……」
「そうだな」
 巳理は少し考える。
「嫌いではないが、積極的に飲む方でもない」
「へぇ」
「機会があれば、くらいかな」
「なるほど」
 海瑠は頷いた。
「オレはまぁ、月一くらいでばーちゃんに付き合わされるくらいかな」
「そうなのかい?」
「うん」
 小さな杯を揺らしながら笑う。
「強いか弱いかで言ったら普通くらい……?」
「疑問形なんだな」
「自信ないし」
 巳理がくすりと笑う。海瑠もつられて笑った。

 何杯目だっただろう。もう覚えていない。ただ心地良かった。酔っているというより、肩の力が抜けている感覚。
 それに、隣には巳理がいる。

 それだけで十分楽しい。

 だからだろう。

「一緒にお酒飲めて、凄く愉しい」

 ぽろりと海瑠の口から本音が零れると同時に、へにゃり、とそんな音が聞こえそうなほど柔らかく破顔する。
 巳理は一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑った。
「そうか」
 その声音はどこまでも優しい。
「こういう時間も悪くは無いね」
 海瑠が顔を上げる。藍色の瞳が柔らかく細められていた。
「僕も楽しいよ、海瑠」

 不意打ちだった。
 また心臓が跳ねる。

「っ」
「海瑠?」
「なんでもない!」

 海瑠は反射的に視線を逸らす。
 その反応が面白かったらしく、巳理はまた笑った。そして自然な仕草で海瑠の頭へ手を伸ばす。

「よく笑うな、きみは」

 くしゃり、と優しく髪を撫でられた。

 甘やかな笑顔を前に海瑠は抵抗も出来ない。

「ねぇ、海瑠」
「……なに?」

「今度僕たちも飲みに行くか」
 さらりと続いた言葉に海瑠が固まる。
「それとも――」
 巳理は少しだけ首を傾げた。

「僕らの家で、楽しむか」

 静かな声音だった。
 特別な意味などないのかもしれない。けれど海瑠の胸には十分すぎるほど響いた。

「……それ、反則だと思う」

「何がだい?」
「なんでもない!」

 今日何度目か分からないやり取りに笑顔が二つ弾ける。

 まだ知らない酒の味があるように、まだ知らない心の景色も、きっとある。
 重なった足音は離れることなく、二人は賑やかな迷宮の奥へと歩いていった。

汀羽・白露
御埜森・華夜

 仄暗い地底へ続く石段を降りるごとに空気が変わってゆく。
 湿った岩の匂い。冷たい土の気配。

 そして、その全てを塗りつぶすような魅惑的な|酒精《アルコール》の香り。

「おおー……」
 御埜森・華夜(雲海を歩む影・h02371)は感嘆の声を漏らす。月光を閉じ込めたような瞳がきらきらと輝いていた。
「まだ入り口だぞ」
 その隣で肩を竦め苦笑を漏らしたのは汀羽・白露(きみだけの御伽噺・h05354)。
「だってすごいじゃーん」
「まぁ、それはそうだが」
 普段なら皮肉のひとつも返すところだが、さすがに否定は出来なかった。
 眼前に広がる光景は、まるで酔いどれの|神様《だれか》が世界を作り変えてしまったかと思う程、御伽噺から飛び出て来たような場所。巨大な鍾乳石から滴る雫、甘い香りを放つ結晶花、泡立つ黄金の滝に煌めく酒精の川。酒を知らぬ者でさえ息を呑むほど美しく、酒を愛する者ならば迷わず楽園と呼ぶだろう。

「そういえばお酒あんま呑まなーい」
 グラスを受け取り歩き出して早々、華夜は笑いながらくるりと振り返った。
「てゆか白ちゃんなんかダメとかいうし、けちけちだしー」
「ケチとはなんだ、ケチとは」
 心外だと白露が即座に返す。
「きみはあまり酒に強い方じゃないんだ」
「むぅ」
「飲み過ぎて悪酔いしたり、羽目を外して大惨事になったりしないようにと思ってだな……」
「でーもー?」
 華夜が両手を広げると、まるでそれを合図にしたかのように陽気な演奏が聴こえてくる。被さるのはどこかの酔客たちの乾杯の音頭。笑い声が響いて、まるでダンジョンそのものが震えているように感じられた。
「なんとー?」
 にやり、と悪戯を思いついた子供のような顔で華夜が笑う。

「今日は無礼講いえーい! ふーぅ!」

 ばんざーいと両手を振り駆け出した。
 早い。
 そしてまだ一滴も飲んでいない。
 なのに遠くに見える酔客たちと同じテンションであった。

「……酒のダンジョンなのであって、誰も無礼講とまでは言っていない……」

「えー」
「えーじゃない」
「じゃあ七割くらい無礼講」
「勝手に割合を決めるな」
「半分!」
「減ったな」
「三割!」
「大人しくしろ」
「むり!」

 深い溜息を落としながら白露は華夜を追うように歩き出す。
 引き留めて注意をした方がいいのかもしれない。けれど、あの笑顔を見てしまっては白露は何も言えなくなってしまう。

(まぁかやが愉しそうならそれで良いか)

 結局はそこなのだ。
 幼い頃からずっとそうだった。
 何も変わらない。
 
 |彼《かや》の笑顔に弱いのだ、|自分《おれ》は。

 いつだって、|華夜《かや》が一番喜ぶ|選択肢《ラスト》を求めてしまう。

 そんな白露の葛藤など知らず、華夜は既に最初の一杯を探し始めていた。

「俺、甘いのが良いっ」

 たむろする酔客たちの間を器用に縫って賑やかな場所を目指して行き、その中でも甘い香りがする方を選んで華夜は止まらない。
 ちゃっかり氷結晶を手に入れながら辿り着いたのは巨大な鍾乳石。先端から滴るのは淡い琥珀色の雫だ。
 グラスを添えればとくり、とくり、とバニラと蜂蜜を混ぜたような独特の芳香が膨れ上がる。
「わぁ……お菓子みたいな匂いする! ねえ白ちゃん、これ絶対おいしいやつだよ」
 ぺろりと舐めてみれば、香りから想像した通りの甘さが口いっぱいに広がった。
「って、その色と香はウイスキーじゃ……!?」
 追いついた白露が覗き込むが時すでに遅し。
「……仕方ない、少量だし大丈夫だろう」
 白露も同じものをグラスに注ぐ。
 近くに転がっていた丸い氷結晶を添えればロック・ウイスキーの完成だ。
 から、と氷を躍らせて一口含めば鼻孔を抜ける樽の香り。蜂蜜の甘さの奥に乾いた木々の香りと遠い焚火の煙が過る。
「どう?」
 期待に満ちた瞳で見上げられ、白露は肩を竦める。
「悔しいが」
「うんうん」
「きみの言う通りだ」
「でしょー!」
「絶対においしいやつだったな」

 鍾乳石から垂れて来る酒精は場所によって異なるようで、華夜は早速次のを試すことにした。

「……これもあまい」
 隣のやつをぺろり。
「おいしい」
 また、ぺろり。
「んふふ」
 段々と頬が緩んでいく。白露は嫌な予感がした。非常に嫌な予感がした。予感というより確信だった。

 案の定。

「しろちゃーん」

 ふわふわしていた。

「……」
「みてみて」
「見ている」
「これもあまーい」

 今度はルビー色の果実を潰して作ったワイン。その次は桃の香りの果実酒。その次は苺のリキュール。その次は杏子酒。その次は。

 その次は。

 その次は。

 白露は数えるのをやめ、近くの岩へ腰掛けた。グラスを傾ければ琥珀色が揺れて、からん、と静かな音が鳴る。

「白ちゃん」
「なんだ」
「おとなっぽい」
「そうか?」
「うん」
「君も大人だろう」
「そうだけどー」
 華夜は首を傾げた。
「なんか違う」
「違うとは」
「白ちゃんはこう……」
 うーんと考える。
「しろちゃん」
「説明になっていないな」
「なってないね」

 酔っ払いらしい答えに白露は肩を竦めるしかない。呆れたような白露の視線の先で華夜の笑顔が咲いていた。

 グラスに咲く氷結晶の花弁を揺らし、幾度となく滴を受け止める。少しずつ溶けて交わりまろやかになる酒の移り変わりを飲み干して。幸せそうにもうひと口を繰り返す彼の、その笑顔をもっと増やしたいと願うのは、きっと、読み返したお気に入りの頁を、もう一度開きたくなる気持ちに似ているのだろう。

「ちょっと貸せ」
 だから白露は容赦なく華夜のグラスを奪い取る。
「かーえーしーてー!」
「少し待て」
 ぷくっと膨れる頬。
 その前で白露は手際よく酒を混ぜ始める。
 |蒸留酒《ビターズ》と夕焼け色の|甘味果実酒《ベルモット》、黄金果実の酸味を取り入れて熟した赤い果実を添える。
「……すごーい」
 グラスを取り返すことも忘れて見入っていた華夜が瞬いた。完成したグラスへ視線を釘付けにしたまま、華夜は待ちきれない子供のように身を乗り出した。
「魔法みたい」
「大袈裟だ」
「きれい」
「ほら」
 白露は出来上がった物を差し出した。
「カクテルだ」
「ね、甘いの?」
「甘くしておいた」
「ほんと?」
「飲めば分かる」
 喉に流した瞬間、華夜の顔がぱぁっと明るくなった。
「へへ、これもあまーい」
「度数は強いままだがな」
「どすう? んー…… おれはつよつよだから、高くてもへーきだよ」

 もうだいぶ酔いが回っているだろうに、本人は欠片も自覚がないらしい。

「なんて名前なの?」
「名前? 『マンハッタン』だ」
「まん、はったん?」
 こくこくと飲み続けながら華夜は首を傾げる。

 舌が少し回っていない。
 可愛い。
 可愛いが、白露は決して口には出さなかった。

「カクテルの女王とも言われている」

 けれど、少しだけ口元を緩める。

「……まあ、かやの場合は女王というより精々王女あたりか」
「おうじょー?」
「威厳が足りない」
「ひどーい」

 言いながら華夜も笑ってしまって、怒ったふりさえ出来ていない。むしろどこか嬉しそうにカクテルを揺らして光に透かしながら愛でては飲むを繰り返している。
 そうしていつの間にか、白露の肩へ寄りかかっていた。温かくて、少しだけお酒の香りがする。心地よい。ふわふわとした気分だった。

 当たり前のように体温を預ける華夜を見て、白露の中に沸いたのは、悪戯心。

「マンハッタンのカクテル言葉、知っているか?」
「かくてる、ことばぁ?」
「知っているか?」
「しらない」
 即答。
「なんてゆーの?」
 真っ直ぐに覗き込んでくる瞳。
 無防備に、躊躇いなく。

 だから、余計に白露は困る。

「『切ない恋心』」

「うん」

「『敬愛』」

「うんうん」

「……『あなたの心を奪いたい』」

 華夜が固まった。
 ぴたりと、まるで時が止まったように。
 硬直した瞬間の違和感を、白露が見逃すはずもなく。

「――かやへの俺の気持ちはどれだと思う?」

 そう告げて、今度は白露が華夜を見据えた。
 試すように。
 誘うように。

 射抜いて離さない。

「だっ、も、もー! なに!?」

 ふわふわ気分よく酔いが廻ってきていたところに並べられた言葉の破壊力と、真剣な緑の眼差しを受けて、華夜は真っ赤になった。爆発したように、みるみる染まってゆく。酒のせいではない。明らかに違う熱だった。
 
「どれだろうな」
「う」
「切ない恋心か?」
「うぅ」
「敬愛か?」
「うぅ〜〜〜……!」
「それとも」
 白露はグラスを傾ける。琥珀色の光が揺れた。

「あなたの心を奪いたい、か」

「ばかばか!」
 華夜の抗議は続く。
「もー!」
 無意識のうちに繋いでいた手に指を絡めて、そしてきゅっと引っ張る。逃がさないように。離れないように。いじわるされたって、華夜は白露を突き放したりは出来ないのだ。

「――“全部”、って言ったらどうする?」

 どれを選んだとしても、その過程でくるくる変わる表情が愛おしい事に変わりはない。ウイスキーを傾けながら、白露は珍しく目許を緩ませ、微笑みさえ向けて。

「しろちゃん! いじわるしないで!」

「そうか」

「そう!」

 試すような視線の中、ぷんぷん怒る華夜はやっぱり手を離さない。むしろ絡める指に力が入る。

 こんなに愛らしい仕草を見せられたらそれこそ、更に意地悪をしたくなると言うものだが。

「その反応は面白い」
「しろちゃん!」
「なんだ」
「きらい!」
「嘘だな」
「う」
「嘘だろう?」

 見透かしたような白露の|台詞《こえ》に、華夜はさらに赤くなった。

「うぅ……」

 反論したい。したいのだが、言葉が出てこない。きらいだなんて嘘だ。そんなこと、自分が一番よく知っている。
 だから余計に悔しい。
 白露はそんな様子を眺めながら、くすりと笑った。幼い頃から知っている顔なのに、今の笑い方はどこか大人びて見えた。

「……もう」
 華夜は恨めしそうに見上げる。
「なんだ」
「白ちゃん今日ずるい」
「そうか?」
「そう」
「心外だな」
「ぜったい心外じゃない」
 言いながらも華夜は白露の肩へ額を預ける。
 自然な仕草だった。
 当たり前のように。
 昔からそうしてきたかのように。

 互いに少しずつ変わっていった今も、この温もりだけは変わらない。

「……かや」
「んー?」
「歩けるか」
「あるけるー」
「本当か?」
「たぶん」
「怪しいな」
「へへ」
 華夜は誤魔化すように笑う。すると白露は立ち上がった。
「少し歩こう」
「どこいくの?」
「さあ、適当だ」
「適当なんだ」

 二人はゆっくり歩き出した。



 黄金の滝の傍を通る。細かな飛沫が光を弾き、まるで液体の星屑が舞っているようだった。

「すごい」
 素直に零れ落ちた感想はすぐに喧噪の中に紛れてしまったけれど、拾い上げて白露は頷く。
「ああ、綺麗だな」
 返事を聞いて、華夜が嬉しそうに笑う。
「なんか意外」
「何がだ」
「こういうの、白ちゃんは綺麗だねーって言うより、危ないから近付くなとか言いそう」

「……否定はしない」

 いつもなら、心配する言葉が先に来たかもしれない。危ない、無茶をするな、気を付けろ、と。

 けれど今は。

 黄金の飛沫。
 酒精の川。
 発光する結晶花。

 そして、その前で笑う華夜。

 白露はただ、その景色を眺めていた。



 しばらく歩くと、二人は不思議な空間へ辿り着いた。
 木々の代わりに巨大な樽が林立している。

 樽。
 樽。
 樽。

 見上げるほど大きなものから、抱えられそうな小さなものまで、まるで森のように無数の酒樽が並んでいるが、奇妙な事にそれらは生き物のように、ゆっくりと呼吸するかの如く膨らんでは萎んでいた。その度に溢れ出す香りは葡萄や柑橘、林檎、蜂蜜、木の香りなど樽ごとに違っていた。
「ねえ白ちゃん」
「なんだ」
「これ全部飲んだらどうなるかな」
「死ぬほど酔う」
「なるほど」
「試すなよ」
「ばれてる」
「当然だ」
 華夜はけらけら笑った。

 その笑い声に釣られて、近くの酔客たちまで笑っている。
 なんなら冗談だったのに本当に飲み干してやろう、なんて試そうとする者もいた。

「ほら見ろ」
「俺じゃないもん」
「原因は君だ」
「えへへ」
 反省の色は皆無だった。



 樽の森を抜ける。

「……っ」

 どちらともなく息を呑んだ。まるで酔いを覚ますような爽やかな風が二人を包む。

 天井も壁も見えない巨大な空洞。暗闇の中には無数の光が浮かんでいた。

 星だと、そう思ったけれど違う。
 近付いてみれば、小さな硝子玉だった。
 掌に乗るほど小さな球体が幾千幾万と宙を漂っているのだ。
 紅、月白、藤、琥珀、翡翠、薄紅、と、よく見えれば全て色合いが違うことが分かる。

 ゆらり、風も無いのに揺れて。
 また、ゆらり。
 まるで星々が呼吸するように明滅しながら暗闇を照らし漂っている。

「綺麗」
 華夜が思わず呟いた声さえ静寂に吸い込まれそうなほどの別世界のようで。遠くから聞こえているはずの酔客たちの笑い声も、何故か届かない。まるで別世界のような空間だった。

 ふと、一つの硝子玉が白露と華夜の間を漂うように降りて来る。
 華夜が指先でそっと触れれば、ぱちんと、軽やかな音を立てて硝子は弾けた。中から溢れ出したのは金色の霧。
「うわっ」
 驚いて身を引いた華夜を、白露が抱き留める。
 次の瞬間、広がったのは焼き林檎のような香ばしさ。混じるのは蜜、そしてシナモン。
「お酒……?」
 冬が似合いそうなスパイシーな匂いだ。
「どうやら香りだけらしいな」
 今度は紅玉色が流れて来る。
 華夜が白露の手を取り、指先で突いてみれば同じように弾けたが、今度は薔薇と葡萄の豊かな香りが広がった。
「これ楽しい!」
「そうだな」
 次々に漂う星々。弾けるたびに違う香りが漂うが長続きはしない。だからこそ楽しむ時間は長く続くのだ。

 ふわり、と月白の珠が華夜の肩へ降りて来る。
 弾けて広がったのは桜の香り。
「……春だ」
「春だな」
 白露も頷いた。ほんの少し、穏やかな微笑みを浮かべたように見えて、華夜の胸の奥は少しだけ苦しくなる。

 思い起こされるのは、先程の問いかけ。

 切ない恋心か。
 敬愛か。
 あなたの心を奪いたい、のか。

 どれか一つなんて決められない。

 だって、どれも正しいのだ。

「しろちゃん」

 白露は呼ばれて顔を向ける。いつの間にか少しだけ開いた距離のせいで、華夜が浮かべる真面目な顔が良く見えた。

「白ちゃんと来れてよかった」

 その言葉に、白露は一瞬だけ言葉を失った。

 その一言は。

 どんな美酒よりも強く心を揺らしたから。

「……そうか」

 悟られないように一呼吸置いてなんとか返した声は、少しだけ掠れていたけれど、華夜は気付かずに笑う。

「うん!」

 心から嬉しそうに、惜しげもなく、何の打算もなく、素直に笑顔を白露に向けるのだ。

「ん?」
 差し出された手を見て華夜が首を傾げる。
「転ぶなよ」
 答えを待たず、白露はグラスを持っていないほうの華夜の手を絡め取るようにして握った。
「酔っているだろう」
「そんなことないよ」
「嘘だな」
「う」
「嘘だろう?」

 今日何度目のやり取りだろうか。

 然し、今度は、揶揄う響きではなく。

 華夜は少しだけ頬を赤くする。

 酒のせいか。
 別の理由か。

 手の中にある温もりが|大切《こたえ》な気がした。

 離れない。
 離さない。

 だから華夜も握り返す。少しだけ。ほんの少しだけ力を込める。
 その仕草に白露が目を細めたのも見ないふりして。

 言葉はいらない。

 ただ隣にいるだけで良かった。

 ふたりは肩を並べて歩いてゆく。

 いつか思い返した時、今日という日をきっと笑って語れるだろう。

 酒の迷宮で過ごした愉快な一日を。
 互いの隣が心地良かった、この気兼ねない時間を――まるで、ひとつの宝物のように。

第2章 冒険 『白線以外を踏んではいけないダンジョン』



 すっかり|へべれけ《・・・・》になり、それでもなお|目的《つき》を忘れない者だけが|心地よい足取り《ちどりあし》でさらにダンジョンの奥、まるで真っ黒な絵の具を融かした水の中を泳いでいるような浮遊感の中、薄暗い洞窟を進む。



 少しだけ|世界《めのまえ》が明るくなる。



 黒い地面。黒い岩。夜を固めたような景色は変わらないが、その上を奔るものがあった。

 白い線。

 何本もの白線が、まるで星の無い夜空に敷かれた光の道標のように四方八方へ伸びている。

 横断の歩道のようだが、ここには車も信号もありはしない。
 ただ黒い世界に白が張り付いている。

 |月《・》を目指す先客の男がすでに白線の向こう側を歩いていた。危うい足取りだが、本人はちゃんと歩けているつもりなのだろう。
 ふと、その足が黒い部分を踏んだ、――その瞬間、音もなく、黒い影が蠢いた。

 べちんっ、

 と。

 男は容赦なく弾き飛ばされ、転がり、壁にぶつかり、跳ね返り、また転がる。途中で何か柔らかな苔のようなものに受け止められたかと思えば、次の瞬間には勢いよく押し出される。
 洞窟の端へ辿り着いた頃、男が動かなくなった。指先だけは辛うじて動いていた。

「……は?」

 楽しく酒を飲み、愉快な気分で、願いが叶う月の元へ行ける、なんて。
 そんなウマい話があるはずもなく。

 一歩でもその白線から足を踏み外せば、闇の奥から這い出る謎の触手、目に見えぬ妖精の全力のデコピン、あるいは奇妙な生物による無慈悲な体当たりが容赦なく飛んでくる。じわりと涙が滲むほどに“地味にめちゃくちゃ痛い攻撃”の洗礼。
 呑まなかった、飲めなかった未成年といえど油断は禁物。
 目の前の白線が物理的にぐにゃりと蛇の如く身悶えて歪み、不安定にのたうつ地面が有無を言わさずその足を振り落とそうと牙を剥く。

 この白線は、ただの悪戯か、あるいは願いの強さを試す「善悪」の境界線か。
マルザウアーン・ノーンテッレト

「何だ〜? なんか白いのが泳いでるなあ!」

 マルザウアーン・ノーンテッレト(銀の星・h08719)の|世界《しかい》はぐらっぐらである。調査という名目で飲み続けた結果がこれだった。おまわりさんなのに。

「……明らかに!! 飲み過ぎたッ!!」
 それでも彼の中にある|使命感《もくてき》は消えていない。奇跡の月によって願いに囚われる危険を調べる為に来たのだ。

「へびさんだったら大変だしなあ、踏まないように気をつけて〜……」

 白線がまるで蛇のように見える。ならば踏まないようにしなければ、と優しい一歩目を踏み出すことにした。

「――ぎゃわーーー!!??」

 銀狼の巨体が宙を舞った。

 べちん。
 どすん。
 ごろごろごろ。

 見事なまでの吹き飛ばされっぷりだった。

「よく見ずともオレ以外にも吹っ飛ばされの民がいらっしゃるッ!」

 飛び交う人影。なにこれ! こわい!

 白線の上を歩かねばならぬ事と、それが酩酊状態の中では難しいと瞬時に判断する。
 だが。

「酔いが覚めるのを待ってはいられない!」

 拳を握る。彼にあるものは、鍛え抜いた身体と諦めない心。

「オレには頑丈さしか取り柄などないのだ!」

 此処で発揮せずして如何する、と気合を入れ――そして。

「突撃だ〜!!!」

 理屈ではなく筋肉と根性で進む。正しい攻略法なのかは誰にも分からない。ただひとつ確かなことがある。マルザウアーンは泥酔していても全力だった。おまわりさんだから。

 べちん。

「うおおおお!?」

 吹き飛ぶ。

「まだだッ!」

 それでも立ち上がる。

 その姿は、格好良いのか間抜けなのか誰にも判断できない。ただ、ひとつだけ確かなのは、彼が最後まで諦めない男だということだった。

天月・八雲

 天月・八雲(今日も明日ものらりくらりと・h12271)は足元を奔る白線を見下ろしていた。

「なるほどねぇ……これはまた、酔っ払い泣かせな道だ」

 何杯呑んだかは覚えていない。頬は熱を帯び、視界もふわふわしているが、本人はまだ冷静なつもりだった。
「白いところだけ歩けばいいんだろう? 簡単じゃないか」
 先を行く者たちの悲劇を目の当たりにして、ルールを把握し一歩踏み出す。

 ふらり。
 ゆらり。
 本人は普段通り歩いているつもりなのだが、傍から見れば完全なる千鳥足。

「危ない危ない。おじさん、痛いの嫌いなんだよねぇ」

 危うく黒い地面へ足が触れる前に、八雲の身体はふわりと浮かぶ。こういう時、浮遊できる力は便利だと思う。だが。
「……あれ?」
 酔っているせいか、浮遊制御が曖昧だった。

 浮かび過ぎる。
 曲がりすぎる。
 そして少しだけ、白線から足先が外れる。

 べちんっ。

「痛っ」
 黒い地面から伸びた影のような何かが容赦なく八雲を叩いた。
「いやぁ、これは想像以上に教育的だねぇ」
 酔い覚ましには少々刺激が強すぎるが、まあこれも珍しい体験というやつだ。
「ほらほら、危ないよ。落ちるよ」
 同じように酔ってふらりと道を外れそうになる冒険者を見れば咄嗟に手が伸びる。然し酔っ払いは酔っ払いを支えられない。

「いやぁ……お互い酔っ払いだと、助け合いも難しいなぁ」

 哀れ、情けない男の悲鳴と共に二人まとめて端っこの方まで転がされた。
 大怪我こそないが、連続ぺちぺち攻撃は地味に痛い。地味に痛い。起き上がりながら“忘れようとする力”を発動させ、節々の痛みを和らげる。

「しょうがないよねえ、まあ」
 仕方ないと諦めつつ、泥酔天使こと八雲は危なっかしい足取りでふよふよ進むのだった。

天使・夜宵
ノイル・リースロス
バリバリ・バリカーン
見下・七三子

 ふわふわ、よたよた、のしのし、ゆらゆら。

 危なっかしい四人分の足音――正確には三人は出来上がり、一人は平然としているようで一番危うい状態である。

 先陣を切る見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)はまるで雲の上を歩いているかのように頼りない足取りだった。
「ちゃんぽんは、よくない……。ひっく」
 赤い瞳の焦点は少しばかり迷子のように彷徨っているが、本人的にはまだ大丈夫だと思っている。
「んん、白線の、上を歩けばいいんです?」
 じぃっと目の前の光景を見つめ、七三子は首を傾げた。
「あはは、白い線……いっぱいあります……?」

 その背を支えるように天使・夜宵(|残煙《ざんえん》・h06264)が手を添えつつ、辺りを警戒するように眺めた。
「……何だこの酔っ払いには地獄な罠は」
 白線以外を踏んではいけない、とても単純で簡単なことだが、それは正常な時に限るだろう。酔った状態で細い道を渡れと言われるとは思わなかった。此処を通らなければ月には辿り着けない。本当に辿り着いた奴がどれだけいるのか、疑いたくなる程度には難題だった。
「俺は何とかなるが……お前らは足元大丈夫か?」

 問いかけられた先、ノイル・リースロス(|闇に揺蕩い影に詠う《ニュイ・エ・ノワール》・h08142)は穏やかに笑いながら頷いた。
「私は問題ないよ」
 確かに沢山呑んでいたはずなのに、不思議なほどに乱れた様子はない。
 否、酔ってはいるのだが、|災厄《人ならざる存在》ゆえか|人間《ヒト》よりは理性を保っているようだ。ゆらりと傾いてはいるが足取りに不安さは感じられない。
「さて、楽しいお酒でふわふわ気持ち良くなったところで此処か」
 ふむ、とノイルは考え、口を開く。

「――なら、浮けば良いのでは?」

 思わず七三子が瞬く。

「え、ずるくないですか?」

 普段、ノイルが浮いて移動することは余りないが、浮けない道理はない。人外宜しくふわりと浮かべば黒い地面の上にいても邪魔が入らなかった。
「ルールの穴を探すのも冒険の醍醐味だよ」

 これならどうにかなりそうか、と安心したのも束の間、最後の|難関《・・》がそこにいた。

「「「問題は……」」」
 三人の視線の先、堂々と胸を張っていたのはバリバリ・バリカーン(モンゴリアンデスワーム・h02832)である。
「俺はこういうの得意なんだぜ……白線くらい余裕だってな!」
 言葉だけ聞けば頼もしい。力強い足取りが、のしのしと先を急ごうとする。
「大丈夫だ、酔ってない酔ってない」
 酔っている人間のベタな台詞と共に踏み出した一歩目。

 ふらり。

 ぐらり。

 千鳥足。

 見てるこっちが冷や冷やするほどのぐらつきだった。

 そして、問題はもう一つ。

「……デカすぎるだろ」

 夜宵の呟きが落ちる。バリバリの足はそもそも普通の人間より大きい。白線の幅など余裕ではみ出す勢いだ。

「お?」

 べいんっ。

「ぐおおおお!?」

 それは当然の結果であった。

 バリバリの巨体が宙を舞う。
 転がり、跳ねる。途中でぶつかった岩を砕きながら、その勢いのまま壁へとぶち当たり、そしてスタートライン近くまで戻された。

「「「…………」」」

 三人の沈黙が重なる。

「……寝てるね」
 ノイルがまず気付いた。
「寝たな」
 息絶えていないか確認した夜宵が続けて頷く。
「……ぐおー、……ぐおー」
 あれは、寝ているというより気絶に近いのではないだろうか。
「バリバリさん……」
 とりあえず無事を確認して、七三子はホッと胸を撫でおろすのだった。

 こうなればもう、手段は一つである。

「おっも……!?」
 仕方なく夜宵がバリバリを担ぐのだが、いくら力に自信があるとはいえ飲酒後に本領発揮出来るはずもなく、上半身を支えるだけでも精一杯だ。
「マーナガルム、出ておいで」
 ノイルの喚び声に応じるように一際大きな体躯の|眷属たる闇狼《マーナガルム》が現れる。バリバリの腰辺りにあるベルトを器用に咥えて持ち上げ、夜宵の負担がだいぶ軽くなる。
「……悪いな、助かる」
「どういたしまして。御前もちゃあんと白線の上を歩くんだよ」

 闇狼の後ろをついて行くように七三子も歩き出すのだが、ふみ、っと何か柔らかいものを踏ん付けてしまい視線は自然と下を向く。
「わ、あれ、戦闘員さんの手が出てる?」
 ふわふわ、ゆらゆら、支えるように数多くの黒い手が七三子を支えている。

「嗚呼、嗚呼、七三子嬢がへべれけに」
 振り返ったノイルが手を伸ばす。
「おい、そっち黒いとこだ。白線、白線」
 休憩がてら振り返った夜宵が足元を指差していた。
「わ。……んー?」
 七三子の動きが途端にぎこちなくなる。
 ロボットのように足が動き、白線の上をなぞる。ぐらぐらする身体は倒れそうで倒れない。
「わあ」
 まるで操り人形のように七三子は歩いていた。
 あまりにも危なっかしすぎて、戦闘員さんたちはきっと見ていられなくなったのだろう。しかしそのおかげで順調に白線の上を歩けている。
「戦闘員さーん、マーナガルムさんのお手伝いも、よろしくですー……」
 そんな気遣いが出来るくらいには、だんだんと操ってもらうコツが分かってきたようで、操り人形状態を楽しむように順応している七三子を見てノイルは目を細めて笑う。
「……ふふ。七三子嬢は本当に面白いね」
「お前、順応早すぎだろ」
 あれでいいのか、と思うが本人が楽しそうだし、なんなら安全そうなので夜宵も強くは言えなかった。

 さて、あともう少し、というところで、バリバリの腕が伸びた。

 ぎゅう。
 起きたかと振り返った夜宵の顔が捕まる。

「ひゃっは~……かわいこちゃんだ……むにゃむにゃ」
 寝言であった。
「髭っ! 髭やめろ!」
 同時に、酔っ払い特有の距離感ゼロ攻撃が突如夜宵を襲う。バリバリは思いっきり夜宵を羽交い締めするように抱きしめ、じょりじょりし始めた。

「夜宵氏も大変そうだね」
 ふよふよ漂いながらノイルが覗き込んでくる。にまにまと口元を緩ませながら。
「笑ってないでどうにかしてくれ」

「ノイルさんも、天使さんもいっぱい飲んだのにしっかり進んでて、すごいなあ」

 ぎゃーぎゃー大惨事になっている三人を後方で眺めつつ、七三子はにこにこしていた。酔いの回った頭で見れば、何でも愉快な光景に早変わり。

「むにゃむにゃ」
 どんなに剥がそうとしても、バリバリの拘束は解けない。
「バリバリさんは……えへへ、楽しそうですね」
「いや、どこをどう見たら楽しそうになるんだよ」
「本当に嫌なら、相手を支えながら文句を言う余裕なんてないものだよ」
 ノイルの指摘に、夜宵は深く溜息を吐いた。
 |被害者《かなしみ》の訴えとは、届きにくいもの。彼の優しさが仇になった瞬間である。

「むにゃ……もう飲めないぜ……迎え酒しないと……」

 眠りこけていたバリバリの身体がもぞりと動いた。ゆっくりと顔を上げて辺りを見回し、視界に入ったのは自分を運ぶマーナガルムの姿。
「……お前も飲むか……?」
 いつの間に拾ったのか大事そうに握られていたものが差し出される。酒器かと思いきや、それは徳利に似ているだけのただの石の塊だった。
「狼に酒を勧めるな」
 即座に夜宵の冷静な声が飛ぶが、そもそも酒ではない。
「……?」
 何かがおかしいことに気付き、バリバリが手元をぼうっと見つめ、――。

「ぐおー……ぐおー……」

 再び眠りについた。

「寝たな」
「寝たね」
「寝ちゃいましたね」

 何度目か、三人の声が重なった。

御埜森・華夜
汀羽・白露

 薄暗い視界に差し込むのは光、――ではなく白線だった。

 御埜森・華夜(雲海を歩む影・h02371)は繋いだ手をぐい、と引っ張りながら首を傾げる。
「……白いね」
「まあそうだな」
 酔っ払いらしい感想に汀羽・白露(きみだけの御伽噺・h05354)は溜息混じりに返す。
 いつもの倍ゆるふわな様子でふらふら揺れる身体は今にも走り出してしまいそうで、ぎゅ、と白露は繋いだ手を握り締め直す。
「えへへ」
 込められた力に華夜は笑みをこぼすが、甘やかな理由などではないのは本人のみ知らない。だって、これはある意味、|手綱《いのちづな》だ。

「俺が先に月まで行くんだぁ」
 ふと、そんな声が二人の横を通り過ぎた。
 酒の力で気分は上々、満面の笑みを浮かべた男は白線を無視して黒い地面を踏みしめる。

 次の瞬間、どぷん、っと地面が揺らぐ。まるでトランポリンのように。
「……え?」
 男の間抜けな声が聞こえた直後、ぼよよんっと勢いよく弾かれた男の身体が高々と宙を舞った。

「うーわ」

 華夜が目を丸くしてその姿を追う。

 壁へ激突し、跳ね返り、苔に受け止められたかと思えば、さらに押し返され、――やがて男は洞窟の端でようやく停止した。

「はーくちゃーん、アレめっちゃやばそー……けど、大丈夫かな」
「多分、生きている」
 繋がれた手をぐいぐいと引っ張りながら哀れな男を指差し華夜は首を傾げたが、白露は冷静な横顔のまま答えた。
「多分なんだ?」
「指が動いている」
 ぴくり、と今にも力尽きそうな弱々しい感じだったけれど。
「あ、ほんとだ」
 感心したように、おお、と華夜が頷いた。

「シンプルが故に攻略難易度が高そうだな」
「んー、じゃあ俺が先に行く!」
「は? 何を馬鹿なことを――」
「ほら。俺吹っ飛んだところで痛くないし!」
 それは、華夜自身が普段語ろうとしない√能力者たる|所以《けつらく》。
「……かや」
「ん?」
「そういうことは……」

 明らかに不機嫌そうな顔。詰まる喉を絞り、言外に孕んだのは制止の言葉。

「やなの?」
「……ああ」
「そっかー……んー、じゃあ、本に戻って♡」
「断る」
「やだやだやだー! 俺、白ちゃんお姫様抱っこ出来ないもんっ!」
「……はぁ……」
 まるで駄々っ子のような華夜を見て白露の何度目かの溜息が落ちた。

「だいじょーぶ、吹っ飛んでも離さない! はず!」
「そこまで言うなら、“はず”じゃなくて断言してほしいところだ、まったく」

 頬を膨らませた華夜。呆れ乍らもそんなところまで愛しいと思ってしまうのだから、白露はとことん華夜に甘い。
「むぅ……白ちゃんは俺が守るもん!」
「気持ちだけは有り難く受け取っておく」
「そんなに信用できないわけ? 何さバカバ、――ぅぇ?!」

「信用できないんじゃなくて……俺がきみを護るんだろう?」

 白露はぷんぷんと拗ねる華夜を引き寄せ、ふわりと抱き上げた。絵本の中の王子が姫を救い出すような姿勢だが、色気より保護者のそれに近い。

「ちょっ、おーろーしーてーー!」
「無理だ」
「なんで!」
「……かやを危険に放り込む趣味はない」

 白露は抗議を無視して歩き出す。
 普段より慎重な足取りは、腕の中の宝物を傷付けぬために。

 ふと、華夜は白露の首に手を回し、ぐい、と顔を寄せた。

 次の瞬間、白露が感じたのは頬に触れる柔らかな感触。小さく瞠目して視線を向ければ、華夜のニヤリとした表情。

「うばっちゃ、」
「奪うっていうのはこういうのを言うんだ」

 悪戯が成功した微笑みを覆うのは、真剣な眼差し。
 冗談めいた空気が、変わる。
 大切なものを確かめるような、触れるだけの、優しい口付け。

「……へ?」
 
 華夜の瞳が瞬き、今起きた事を反芻する。
 やがて、|何を《・・》されたか気付き、首まで真っ赤になりながら、華夜は白露の腕の中で小さく丸まった。

黛・巳理
泉・海瑠

 月へ至る白線の迷宮へ辿り着いた頃には、黛・巳理(深潭・h02486)と泉・海瑠(妖精丘の狂犬・h02485)の足取りはだいぶ軽快なものになっていた。
 身体が軽くて頭は重い、アンバランスな感じを自覚しながら海瑠が振り返った先、普段の淡々とした雰囲気を何処かへ置いてきてしまったような巳理がいた。

「海瑠?」

 藍色の目が、ゆるりと瞬く。
「巳理さん、大丈夫?」
「……だいじょうぶなんじゃない、か?」
 無表情はどこへ。慣れないお酒にふんわりと酔い、少しばかり幼さが垣間見える、巳理の穏やかで優しい笑顔を真正面から喰らった海瑠は数秒固まった。

(……全然大丈夫そうじゃないいい……!)

 出来るだけ顔には出すまいと踏み止まろうとした海瑠だったが、ほろ酔い加減のせいで感情は常以上に表に出てしまう。心の中で溢れ出す涙がうっかり零れそうになるくらいに。

 さあ、どうする。

 海瑠は目の前に広がる白線を睨んだ。
 巳理を先に行かせないようにそっと端っこに寄せながら、どうしたものかと渋い顔を浮かべ、深まる眉間の皺を揉みほぐす。
 黒い地面。蠢く謎の影。聞こえる悲鳴は、どう考えても酔っ払いに優しくない。

「巳理さんがこんなのの餌食になるのは何が何でも阻止しなきゃ……!」

 大切なものを守るべく、|番犬《狂犬》の本能が目を覚ます。

「巳理さん、負ぶっていくから背中乗って」
「ぼくが、きみに?」
 海瑠の姿が僅かに小さくなる。
 √能力“|Claochlaím《ヘンゲ》”による身体変化、機動力や回避能力があがった18歳の姿で巳理を運べば問題解決、と思った、のだけれど。

「ふふ、幼い頃の海瑠も可愛い……可愛いね、よしよし」

 いつもと少し違う海瑠を前にして、巳理はにこにこと微笑みながら手を伸ばす。頬を撫で、頭を撫で、よしよしと目一杯撫ではじめたのだ。

「かわいい」
「……」
「ぼくの海瑠はかわいいね」
「……」
「昔からこんなに可愛かったのかい?」
「……」

 海瑠、完全停止。

 あっという間に海瑠の顔は真っ赤になる。

「困るなぁ……昔からこんなに可愛かったなんて……」

「……っ」

 急な接触過多は心臓に悪いものだ。

 海瑠の中で|何か《・・》が崩れ落ちる。

 これは、危険だ。

「みこっ、みことさっ……ああああああの!」

 超動揺しながら自分を撫でる巳理の手を捕まえて、くるりと身体の向きを変えた。

「負ぶっていくから!!」

 言うが早いか、腕を引っ張るように海瑠は軽々と巳理を背負い上げる。
 この姿になったのは正解だったな、と白線を踏みしめ歩き出した、次の瞬間。

「海瑠」
「――ひゃ!?」

 耳元。

 低く穏やかな声が、近い。

「後でいっぱいなでてあげよう」

 声にならない悲鳴があがった。

「も、じゅ、十分だから……!」
「いい子だね、可愛い」

 巳理としては海瑠を甘やかしているだけなのだが、如何せん、近すぎるのだ。

 衝動のまま海瑠は白線の上を走り抜ける。
 早く、早く向こう側へ行かなければ。いつまでもこの距離では心臓が持たない。
 白線と黒い地面を見極めている余裕など、海瑠にはなかった。伸びる黒い何かを身軽さを活かしてギリギリのところで飛び越え、相打ちを狙い、その隙を狙って奥へ駆ける。

「おお、すごいなあ」
 右に左に揺れながら、巳理はクスクスと笑っていた。
 だが酔っているとはいえ攻撃されている事は理解している。アンプルを割り、宙へ躍らせて解き放つのはクラゲ型の水銀。“|水の月煙る《ツキウカブ》”海月が縋り付く黒い影を弾いてゆく。海瑠の足に絡みつこうとする影を、彼は決して許さない。

「ふふ、落とさないでくれよ」

 ジェットコースターを愉しむような巳理の声が間近で響く。

「落とさない!」

 即答。

「絶対!」

 その勢いに、巳理は小さく笑う。

(ひぇぇ……み、耳に、イケボが……!! 確りしろ、オレ……!)

 白い線の先に待つ月が、どんなものかは、まだ二人は知らない。
 ただ一つ確かなのは、今この瞬間、海瑠にとって最大の試練は月ではなく、背中越しに響く優しい声であった。

十全・フルル
ルーシー・ショウ

「……んー」
 四方八方へ伸びる白線を見渡しながら十全・フルル(見習い喇叭吹き・h10216)は唸る。
 隣ではルーシー・ショウ(微睡む蛇・h12791)はそわそわしていた。
「これはまた、随分と趣向を凝らしてますね」
「趣向って言い方で済ませていいやつっすかね?」
 まるでアトラクションのようで楽しそうだ、と目を輝かせたルーシーを振り返り、フルルは眉を顰めた。
「大丈夫ですよ」
 そう答える瞬間、ちょうどふらりと傾いた。
「……あんた、本当に大丈夫っすか?」
「もちろんです」
「今、三回くらい同じ方向に揺れたっすけど」
「酔っているだけです」
「それを大丈夫って言うんすかね」
 つまり大丈夫ではないのでは、と呆れたようなフルルの視線もルーシーには通用しない。

 どうあっても白線の向こう側へ行かなければならない。
 目的地である月の泉は、この先なのだ。

 明らかに怪しい地帯に何があるのか、と思案していたところ、先を歩いていた酔っ払いが、やはりというべきか足を踏み外す。
 白線の外、転ぶな、と思った矢先。
 べちんっと乾いた、妙に間抜けな音が響いた。

「え?」

 軽々吹っ飛んだ酔客は黒い地面に落ちる前に弾かれ、苔の上を転がりながらようやく止まった。
 呼吸はしている。生きてはいる。ただ、魂だけ少し遠くへ旅立ったような顔をしている。

「……」
「……」

 しばし沈黙。

「地味に痛そうっすね」
 フルルの感想は、それだった。
「ですね」
 ルーシーも頷く。
「もっとこう……派手な罠かと思ったっす」
「例えば?」
「落とし穴とか、炎が出るとか」
「この場所でそんなものがあったら、酔っ払いは全滅しますよ」
「それもそうっすね」

 とはいえ、先へ進まなければ|目的地《つき》へは辿り着かない。
 
「んー……飛ぶのは多分NGっすよね」

 フルルの予想に根拠はない。けれど、そういう予感だけは妙に当たったことがある。だから大人しく白線の上を歩いて進む選択肢を取る事にした。
 一歩、二歩、白線の上を慎重に歩いてみる。
 案外簡単かもしれない。
「あ、待ってフルル、置いていかないで」
 そう、今は一人ではないのだ。
「置いてっちゃ駄目?」
「ダメです」
「駄目かぁ」
 そう言いながらも本当に困っている様子はない。

 正直、フルルはあまり心配していなかった。だって彼がお酒に強いのはよく知っている。実際、推察通りルーシーはほろ酔い気分程度で、たくさん飲んで楽しい気分になっているだけなのだ。

「放っておくのはやめて欲しいですねー」

 だから、少しくらい放っておいても大丈夫だっすよね、と考えていたフルルの脳内を読み取ったかのように突っ込みながら、おもむろに手を伸ばす。
「?」
「手でも繋ぎません?」
「……子どもじゃないんだから」
 真っ直ぐに伸ばされた大きな手。
「ほら、いざという時助け合えますよ!」
 冗談なのか本気なのか分からない、いつもの顔だった。
「……」
「だから!」
 改めてもう一度、差し出される手。
「ほら!」
 まるで大きな身体に似合わない、子供のような催促。

「もー、ワガママ言わないの!」

 根負けしたのはフルル。呆れたように息を吐きながら、その手を取る。

「やっぱり優しいですよね」
「うるさいっす」
 否定する声は、いつもより少し弱い。

 落っこちないようにバランスを取りつつ、二人は手を繋いだまま白線の上を進んでゆく。

「そういえば、この先に不思議な満月があるんすよね」
「ええ」

 少しだけ間が空く。

「……あんたは」

 フルルは前を向いたまま聞いた。

「会いたい人、いるんすか?」
「あ、月の話ですか?」

 突然の問いかけにルーシーが首を傾げる。
 うーん、と唸っては見せるが、そこに深く考えている気配はない。

 願えば誰かに会えるという、泡沫の奇跡。
「昔なら、いたのかもしれませんね」
 ぽつりと零した言葉は、いつもより少しだけ冷たかった。
「フルルは?」
「あんま考えたことなかったっす」

 会いたい人、と問われて。

 すぐに浮かぶ顔がないわけではない。
 共に過ごした時間も、別れ際の言葉も、覚えている。

 けれど。

「今までいろんな人と出会って、別れてきてるっすからね」
「ヒトと生きてる時間が違いますから」

 それは淡々とした事実だった。

 決して同じ場所には立てない。

 |ヒト《・・》としてさまざまな事を愉しんではいても、根本的な事実は変わらない。変えられない。
 背負うものがあり、喰らう刻がくるように。

「……あんたも同じでしょ?」
「その辺は、仕方ないですよ」

 ルーシーはそう言って、ちゃんと、笑った。

 諦めにも似た言葉。
 けれど、二人にとってはきっと、それが当たり前の日常だった。

 だから、握った手は離さない。

「……まあ、せっかくなんでちゃんと月は見て帰るっすよ」
「はい」
「あと少しっすから転ばないでくださいよ」
「フルルもですよ」
「自分は大丈夫っす」
「さっき果実酒の場所で三回くらい迷ってましたよね」

 奇跡の泉に辿り着く前に、まずは白線から落ちないこと――今の二人に必要な願いは、たぶんそれくらい単純なものだった。

コウガミ・ルカ
黄菅・晃

 まるで別世界のような静けさが続く洞窟を、ふたつの足音が進んでゆく。

「……静か」
 先程までの喧騒がまだ耳に残るコウガミ・ルカ(解剖機関の飼い犬・h03932)が呟いた。着け直したマスク越しにも湿った土と冷たい空気が上書きするように流れ込んでくる。
「そうねー」
 隣を歩く黄菅・晃(汎神解剖機関のカウンセラー・医師兼怪異解剖士・h05203)の返事はいつも通り気だるい声音だ。

 否、正確には|いつも通り《・・・・・》ではない。

 足取りが少しだけ不安定で、身体の軸が僅かに揺れていた。

「……晃」

 気のせいか、と暫く晃を後ろから眺めていたルカが声をかける。

「なあに」
「歩き方」
「?」
「変、だ」

 ルカの指摘に晃が視線を落とす。数度足を踏み出し、確かめてから少しだけ首を傾げた。それから何度か手を握る。
「あら」
 ぐーぱーと繰り返した後、晃が顔を上げた。
「これって酔ってる感じ?」
 自分の事なのにわからないといった風で青い瞳が瞬く。
「……珍しい。晃、酔ってる、のか?」
「だって普段ならこんな感覚ないもの」
 不思議そうに晃が頷いた。
「酔うって大変ねー」
 普段は全く酔わないからその感覚が解っていないのだ。まるで自分が被験者になった気分で晃は指先や足先の感覚を確かめている。確かに体が軽く感じ、頭の回転は少し遅い。やんわり揺れる視界は不快ではないが、見えづらいな、と。
「アンタもでしょ?」
「……俺?」
「そう。頭がふわふわするとか、足元がおかしいとか。何か変な感じ、しない?」

 問われて、ルカは晃を真似るように首を傾げた。

 言われれば、音が少し遠い気がする。
 普段を思い出そうとした頭の中が霞んでいる気がして。

「……少し」

 固いはずの地面が柔らかく感じていたのも、酔っているからなのか、とルカは理解した。
「そ」
 その答えに晃は満足そうに頷く。
「じゃあ、ちゃんと酔ってるのね。私だけじゃなくて安心したわ」
「……これが、酔う」
 初めての体験、知らない感覚を知ったルカの目が少しだけ輝いた。
「みんな、これで普通に歩くのか」
 例えば、知らない薬を取り込んだ時に似ている。頭が上手く回らない。少しだけもどかしい、ふわふわとした感覚。
「歩くわね」
「……凄い」

 やがて洞窟の奥、白い光が見えた。

 近付くにつれ、それは光ではなくただの線であることにふたりは気付く。
 警戒するようにルカが足を止め、横に並んだ晃を守る様に軽く腕を上げる。
「白線ねー」
 シンプルな感想が聴こえた。
「見れば分かる」
「じゃあ問題ないわ」
「……」
 どう見ても怪しそうだが、と反論しようとしたところで、ふと人影に気付いた。
 赤みを帯びた横顔と、危うい足取り。頑張って進んでいるようだが、酔った男は一歩、二歩、ふらり、ついに白線の外に足が着く。
「?」
 黒い地面が揺れた。
 音はない。
 ぐわん、と男の身体が吹き飛んだ。

「えっ」

 まさか、と驚いたルカの視線の先で、壁へ飛ばされ、跳ね返り、転がってゆく哀れな人影。
「わああ!?」
 どうしようもならない悲鳴と共に白線の向こう側まで転がされ、ついには派手な水音と共に姿が消えてしまった。

「……」

 ルカは黙ったままその顛末を眺めていた。

「……」

 晃も同じく無言で眺めていたが。

「白線しか踏めないのねー」

 欠伸を噛み殺しながら眠気と戦っている晃には、もうすでにどうでも良い事のようにシンプルな感想だけが返ってくる。

「危険」
 ルカの眉間に皺が寄った。
「そうね」
「……あと、痛そうだ」
「そうねー」
「……晃、……眠い?」
「そうよ」
 ついに我慢しきれなかった欠伸が漏れる。

 しぱしぱ、と何度か瞬いて、白線をなぞる様に指先を動かしたかと思えば、晃がルカの腕をぽんと叩く。

「ルカ、私は歩けそうにないから寝るわ」
「……ここで?」
「ここで」
「……まだ、先は長いぞ?」
「アンタがいるから」
 信頼なのか、放棄なのか。
 定かではないけれど。
 その、当たり前の言葉に少しだけ嬉しく思ってしまったのは、ルカの秘密である。

 たぶんきっと寝る、という発言は決定事項なのだろう。
 担ぐか、とルカが手を差し伸べようとしたところで、晃の指先が|なにか《・・・》を招く。

 呼び起こされたのは幾つもの|喜怒哀楽《かげたち》。混ざり合い影の集合体はやがて巨大な狼となった。
「アンタ達、寝心地悪くなるから揺らさないでちょうだいよ?」
 狼の背に寝転がるように乗りながら、晃は注文を付ける。楽観の影からグッドサインがはみ出た。どうやら了解です、と言いたいらしい。混ざる怒りの影は何処か不満そうだが、大人しく主人を支えている。
「ルカ」
「ん?」
 少しだけ晃が迷うように逡巡する。

 彼だって酔っぱらって、――はいるけれど飲んだのは少しだろうし大丈夫か、まあ知らんけど、どうにかなるでしょ。

「まぁいいか……着いたら起こしてちょうだい」
「? ……分かった」

 親の心、子知らず。そんな言葉があるが、晃とルカの間にも少しだけ似たものがあった。
 
「おやすみー」
「おやすみ」

 数秒後、健やかな寝息が聞こえて来る。

「……早い」

 よほど眠かったのだろう、とルカはこれが酔っ払いの睡眠スピードなのかと学んだ。

 さて、とルカは白線を眺める。
 自分はこの先歩いて行かなければならない。

 影狼もルカを労わる様に傍へ寄り添う。晃を落とさないように、自分も落ちないように、一歩ずつルカは慎重に足を踏み出してゆく。
 ただ歩くだけなのに、それが難しい。
 足元のふわふわは治らない。身体が揺れて、真っ直ぐ進んでいるはずなのに少しずつ逸れてしまう。
「……酔っ払いて、すごい」
 改めてこんな不安定な感覚のまま歩いて会話して、普段通りを取り繕えるなんて凄いな、と変な所に感心しっぱなしであった。

 踏ん張った足先がわずかに黒い地面を踏む。

 よたよた、と歩く姿は独り歩きを覚えたばかりの子供のようである。
「……難しい」
 真っ直ぐ歩く、それだけの行為がこんなにも思い通りにいかない。
 自分の身体が思うように動かせない事が、何故かルカは面白かった。

「ふふ」

 人知れず緩んだ口元から漏れる微笑み。

 敵を倒すことも、銃弾を避けることも、怪異を引き裂くことも、命令に従う事も、ルカにとっては、簡単だった。
 なのに、少しお酒に酔ったぐらいで白線の上を真っすぐ歩くことさえ出来なくなって。

 反射的に腕を振った。
 べしんっと重い音と共に影が弾かれる。
 過剰に強化された聴覚で辛うじて拾った気配と、思考よりも早く動く反射のおかげで影を防ぐことは出来た。戦闘ならば簡単なのに。考える必要はないからか。
「……やりづらい」
 痛覚の麻痺が消えるわけではなく、身体能力が落ちているわけでもない。
 
 その矛盾が、どうしてか愉快に感じられる。

「不思議、だな」

 失敗しない事の方が当然だった。
 だって、間違えたら命に関わる。
 誰かを傷付けてしまう。
 だから、常に正確に、効率よく、必要な事だけを選んできた。

 なのに今は、失敗ばかりだ。
 ほんの少しずつ狙いがズレる。

 また一歩、白線を踏み越えてゆく。

「……おお、出来た」

 今度は思った通りの場所に降り立ったルカが思わず喜ぶ。
 まるで、初めて何かを覚えた時のように。

「……晃」
 彼女が起きる気配はない。
 起こす気もなくて。
「俺、少し、……楽しい」
 返事はない。
 寝ている彼女への、小さな報告。

 好きか、嫌いか。
 必要かどうかではなく。
 自分が選ぶ。
 自分で決める。

 影狼の背で眠る晃が、小さく身じろいだ。
「……ん」
 僅かに青い瞳が覗く。
「起きた?」
「……すこし」
 ぼんやりとした視線がルカを見つけた。
「まだ歩いてるの」
「歩いてる」
「偉いわねー……」
 くあ、と欠伸がひとつ。
「昔なら、簡単だった」
「うん?」
「敵を倒す。命令を聞く。失敗しない、向こう側まで進む」
 思うように動かない身体を前に進めながら。
「今は、失敗してる」
 その言葉に、晃は少しだけ口角が上がる。
「そう」
「でも」
 ルカの声が弾んだ。
「嫌じゃない」
 晃は黙ってルカを眺めている。
「転びそうになるのも」
「うん」
「ふらふらするのも」
「うん」
「考えて、選ぶのも……楽しい」

「そ」
 短い、ただそれだけの返事だった。
 眠くて適当に、だなんて思わない。
 晃はちゃんとルカを見つめて、満足そうに頷いていたから。

「もっと、何か言うかと思った」
 気付いていたけれど、揶揄いたくてルカが言えば、晃は欠伸を噛み殺す。
「言わないわよ。アンタが自分で気付いたなら、それで十分」

 もう少し。

 もう少しで辿り着く。

 ルカは眠る晃を乗せた影狼と共に、ゆっくり歩き続けた。

 ふらふらと。
 危なげに。
 それでも確かに。

 自分で選んだ道を。

 晃は再び目を瞑っていたけれど、その寝顔はいつもの無表情より少しだけ柔らかかった。

第3章 ボス戦 『白月の幻主』



 すっかり酔いの醒めた貴方が辿り着いたのは、静寂の極みたる最奥の地底湖。

 宵を融かした藍色の水底に沈むのは、まるい|黄金《つき》。



―――心の底から「会いたい」と願うのは、誰ですか。



 |思《ねが》え、|願《おも》え。

 その名を呼べば、きっと振り返ってくれる。



 憎い者を想像してはいけない。

 再会の帰り道が、黄泉に繋がってしまうから。
天月・八雲

 静かな湖面の遥か下で月が揺れている。
 天月・八雲(今日も明日ものらりくらりと・h12271)はその光をぼんやり見つめていた。

「会いたい人、ねぇ」
 そんなの最初から決まっている。
 誰に向けたわけでもない言葉が月に吸い込まれてゆく。いつものような調子で呟いたのに、いつものような笑みは浮かべられなかった。
 月を掴む様に、差し伸べた手が水面を乱した、その瞬間。

 名前を、呼ばれた気がした。

 忘れるはずがない声。
 振り返れば、そこにはあの日失った妻の姿。
 昔と変わらない微笑みを浮かべて、見覚えのない幼子――違う、あれは娘だ。生まれることのなかった、自分たちの子を胸に抱いて、八雲を見つめていた。
 笑おうとした。
 けれど喉の奥から零れたのは情けないほど震えるばかりの息。
「……ごめん」
 守れなかった。
 届かなかった。
 あの日の温もり。守れなかった手。最期の瞬間に見た、彼女の顔。

「俺だけ、生き残って、ごめん」

 ずっと胸の奥に燻っていた事だけは伝えたくて、八雲は振り絞る。
 ゆるく首を横に振り、彼女は笑顔を崩さない。
「すっかり老けちゃったよ」
 自虐のような愚痴も、結局は彼女にもう一度笑いかけてほしいという、叶わない願いの裏返しだった。

 優しい時間はあまりにも短くて。触れようと伸ばした手は、届く前に淡い光に溶けていく。

「っ、待ってくれよ……!」

 奇跡は、永遠ではない。

 あっという間に彼女の姿は月明かりに攫われていった。
 八雲は静かに目を閉じる。胸の奥に残った温もりを大切に抱えるように。

 握りしめた拳の中には、何もない。

「またね、なんて言ったら……怒るかい?」

 無理やり作った笑顔で八雲は月を見つめた。

マルザウアーン・ノーンテッレト

 マルザウアーン・ノーンテッレト(銀の星・h08719)は満身創痍であった。ぼこぼこにされ、しょんぼり心も折れかけたが、何とか辿り着いた月の泉。

「……気を引き締めて調査しなくては!」

 黒い水底で輝く月は、あまりにも美しくて。一瞬、此処が危険な場所だという事を忘れそうになる。息を呑むほどの美しさを前に、マルザウアーンは気を引き締め直す。
 誰かが夢に囚われないように。帰る場所を失わないように。
 マルザウアーンはまるで自分に言い聞かせるように呟いた。

 あの月は、人の心の深みを映すのだという。

 会いたいと願うもの。
 心の底から思うもの。

「もし、オレが幻を見るなら……きっと」

 ちゃぷり、と冷たい水に指先を沈ませると水面が崩れた。

 屈折した光が瞳に刺さり、視界が揺らぐ。
 反射的に閉ざした瞼をもう一度開けた時、目の前で揺れたのは黒いスーツの裾。 
「随分とボロボロじゃないか」
 嗚呼、嗚呼。
 マルザウアーンの喉がひゅ、と鳴る。

「……班長」

 記憶の中の姿そのままに、男――九純が「よう」と手を挙げた。
 相変わらずサングラスのせいで表情が読みづらいけれど、口元に浮かんだ笑みは変わらない。
 思わずマルザウアーンは駆け寄ろうとする。なのに縺れた足がばしゃり、と派手な水飛沫を生んだだけだった。無事で良かったと駆け寄りたかったのに。縋り付いて抱き着いてしまいたいのに。されど水を含んだ服が重くて、思うように動けない。

「まさか俺より猪突猛進な奴がいるとは思わなかったぞ」
「えっ」
 混乱するマルザウアーンを余所に、九純は豪快に腹を抱えて笑い出した。
「真っ直ぐで、馬鹿正直で、考えるより先に突っ込む! しかも今は酔っ払った状態でだ!」
 まるで先程までの珍道中を見ていたかのような台詞である。
「班長、それは褒めているのか!?」
「どうだろうな」
「!?」
 苦笑するように、揶揄うように、懐かしい笑い声を遮ったのは鋭い蹴り。
「痛ぇ!」
 デリカシーに欠けた台詞に痺れを切らしたミーのツッコミだった。
「またクズ班長の首吹っ飛ばす気ッスか」
 ひょこりと横からレンジも顔を出して窘めだす。

 胸が締め付けられる光景だった。嗚呼、そうだ、この感じだ。くだらなくて優しい時間。懐かしいやり取りにマルザウアーンは心を奪われる。

 ずっと、ずっと会いたかった“亥-09”の彼等が、今目の前に居る。

 嗚呼、嗚呼。

 |駄目《・・》だ。

 一緒に笑いたい。触れて、抱きしめて、感謝を伝えたい。もう少し頑張れば手が届く。

 けれど。

 マルザウアーンには分かってしまった。
 触れてしまえば、きっと消える。この夢のような|再会《じかん》が。

「……っ」
 目の前に居るのに、と悔しさを押し殺すように拳を握る。
「大丈夫だ」
「九純班長」
「大丈夫」
「ミーさん」
「大丈夫ッスよ」
「レンジさん」
 投げかけられる言葉は、マルザウアーンが言ってもらいたい言葉だったかもしれない。月が見せた残酷な優しさだったのかもしれない。
 それでも、これ以上情けない姿を見せたくなかった。それこそ笑われるし、叱られてしまう。
 レンジなら「気持ちは分かるッスよ」と笑ってくれるかもしれない。

 彼らの姿が薄れてゆく。

「……っ、ありがとう!!」

 消える前に、せめて、幻だったとしても。

「オレを拾ってくれて!」

 後悔がないようにマルザウアーンは叫ぶ。

「オレはちゃんとやっているぞッ!!」

 助けてもらった自分が、今度は誰かを助ける側になれている、と。

 木霊した叫びが再び水面を揺らした。
 もう彼らの姿は何処にも無い。

 あんなに重かった身体が軽く感じる。

 月はまだ眩しく水底に沈んでいたけれど、マルザウアーンはゆっくりと背を向けた。
 失った痛みも、会いたい気持ちも消えないけれど。
「……よし」
 銀狼はゆっくりと立ち上がった。
「オレはもう、ただ助けられるだけじゃないッ!」
 もう怖くない。大丈夫。だって彼等が、そう信じさせてくれた。

 夢ではなく現実を、失ったものではなく、これから守るもののために。
 人を夢へ溺れさせるこの月の力を止めるため、マルザウアーンは歩き出した。

見下・七三子
ノイル・リースロス
天使・夜宵
バリバリ・バリカーン

「……あれ?」
 ふと気づいた時、先程まで聞こえていた声も足音も何もなかった。
 見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)がきょろりと辺りを見渡すが、そこにあるのは静寂だけ。
「ノイルさん……? 夜宵さん……? バリバリさん……?」
 返事はなく気配もない。先に進んでしまったのかとふらつく足を前へ進めれば、辿り着いた藍色の水面。淡く照らす月が七三子をじっと見つめるように輝いていた。
「わあ、きれいな場所です」
 月が、呼んだのだと、何故か理解できる。だからみんなバラバラになったのだと。七三子がそっと泉に近付くと黄金の月を映した水面越し、ほろ酔いで少しだけとろんとした赤い瞳の自分と目が合う――はずだった。

「……え?」

 小さな手。
 青空を閉じ込めたような綺麗な瞳。
 黒と赤しか知らなかった世界に、青空を連れてきたような少女が微笑んでいる。
「……あれ……?」
 名前が出てこない。どうしても思い出せない。
 まだ七三子が√能力者ではなかったあの日、まだただの“735番”だった頃、一緒にたい焼きを食べてくれた――そんな思い出だけは忘れていないのに。
「ごめんなさい、名前、思い出せなくて」
 申し訳なさそうに呟く七三子に向かって、少女が微笑む。責める事も哀しむ様子もなく、ただ仕方ないという風に。
「……でも、ちゃんと、覚えてます。きれいな青空の目だけは」
 路地裏で待機していたあの日、命令を全うしていたあの時、撤退工作の手伝いをしなければならなかったけれど、偶然中止になったから。ふたりだけの小さな冒険をした。互いを恐れず、差し出した手のぬくもりを心地よく感じた記憶は、確かに七三子の中に残っていたのだ。
「あれ、なんか、誰かに、似てるような」
 七三子が首を傾げて手を伸ばせば、水面が揺れ、ばしゃり、と月が歪んだ。

 そして、気付けば、七三子は泉の畔に座っていた。



 会いたい人、だなんて。
 今更思い付きもしないだろうと思っていたけれど――見えた後ろ姿にノイル・リースロス(|闇に揺蕩い影に詠う《ニュイ・エ・ノワール》・h08142)は苦笑を漏らした。
「嗚呼、まあ現れるなら|御前《・・》だよな」
 七三子嬢の心配そうな声も、夜宵君の呆れた声も、バリバリ君の豪快な寝息も、なにもなくなってしまった、まるで転寝から覚めたような一瞬の空白。最初から一人で此処まで来たかのような感覚を壊したのは、揺れる銀糸。

 名を呼べば、その男は素直に振り返る。
 ノイルを見つめ返すのは紫水晶の瞳。
「……久しぶりだね」
 胸の奥に沈めていたものが溢れ出す。
 一族で良く見た色合いなのに、やはり一番輝いて見えるのは贔屓目だろうか。大往生を見送ったはずなのに、目の前の彼は懐かしさを覚える若い頃の侭。
 嗚呼、嗚呼。
 |揺蕩う黒《俺》を|人間《ヒト》にした友よ。
「有難い事に、未だ……愉しく生きているよ」
 もう砂時計が反転するのを待つこともない。
 はにかんだ微笑み、黒と白の混じる髪、|女《ヒト》の形をした|自分《ノイル》を見て彼は何を思うのか。
「……御前なら、今の俺の姿を見て笑うだろう」
 せめて声が届いたならば。
 そう思えど、夢はいつだって物足りない。
 男がふいにノイルに触れるように手を伸ばした、――然しその手は触れる前に透けてゆく。
「……さようなら。良い月夜だったよ」
 消えてゆく影へノイルは別れを告げる。あとひとつ、ふたつ、伝えたかった言葉を呑み込んで息を吐きだした。
「さて、皆の処へ戻らなきゃね」

 ノイルが泉に背を向ければ、ぱちん、と何かが弾けた気がした。



 くだらない騒ぎを起こしながら、酔っ払いを運び、何度も足を止めつつ白線を渡り切ったのは覚えている。だが、天使・夜宵(|残煙《ざんえん》・h06264)はひとりだった。酒を飲んで楽しくなった気分が薄れてゆくのが分かって、目の前に沈む月から視線を逸らす。
「会いたいやつなんか……」
 自分には奇跡を願って再会を乞う存在なんて、いない。だから他の三人が再会するのを微笑ましく眺めていれば良いと思っていた。

 ふと、水面が揺れた気がして、つい夜宵は視線を向けてしまった。
「……は」
 思わず乾いた笑いが零れる。
 見間違えるはずがない。忘れるはずもない。守る事も、言葉を交わす事もままならぬうちに永遠の別れとなってしまった、両親の姿。
 ゆっくりと振り返り、まるで慈しむように彼らは夜宵を見つめていた。
 夜宵が腹の奥底に沈めていたものが、静かに頭をもたげる。
「……何で今更、出てくんだよ」
 視線に耐えきれず、夜宵はついに視線を逸らした。
 弟ばかり見ていた両親。
 夜宵が求められたのは、優秀である事。どんなに頑張っても褒められた記憶ないけれど。
 あの日、帰った家で見たものが過る。血に染まった両親。守れなかった現実。その惨劇を生み出したのは弟だという事実。

「……何で守らなかったんだ、って言うかと思った」

 ぽつりと呟く。
「俺を恨んでくれても構わねぇ」
 未練などないと夜宵は背を向ける。
 何か、聞こえた気がしたけれど、聞いてやる気はなかった。
 自分の居場所は、もう、違うところにあるのだと振り切った。過去は過去でしかなく、幻に縋る必要もないのだから。



「んがっ」
 ぱちん、とバリバリ・バリカーン(モンゴリアンデスワーム・h02832)の鼻提灯が割れた。
 泉の畔で目を覚ましたバリバリは、ぼんやりとする視界で辺りを見回す。文句を言うくせに面倒見の良い夜宵のツッコミ、楽し気に揺れるノイルの笑い声、のんびり子守唄のように響く七三子の声はどこにもない。
「ヒャッハー水だー」
 バリバリは水の匂いに引かれて泉の畔まで近付いた。綺麗な、澄んだ泉だった。冷たい泉の水を顔にかければ少しずつ酔いが醒めてゆく感覚の中、ふと気付けば水底に沈んだ黄金を見つける。
 手を伸ばせば届きそうなのに、バリバリの長い腕でさえ触れられない。
 不思議な泉の水音だけが響く。寝落ちするまで賑やかな場所にいたせいか、何故か少しだけ寒い気がする。
「会いたい人間か~」
 ふむ、と首を捻る。
 食の魅力を覚え、人のように過ごし、グルメを楽しんで格闘術を学んできたバリバリの脳裏をひゅんっと過ったのは、あの熱狂。

「やっぱり、ジェイソンさんだな」

 瞬間、水面が揺れた。
 まるで震動するように、波紋が広がる。

 静寂しかなかった泉を揺らすのは、あの日雷鳴のようにバリバリを劈いた|衝撃《おんがく》。バリバリの世界を塗り替えた轟音。何度も繰り返し聞いた|咆哮《メロディ》。心臓を叩く重低音に稲妻のようなギターリフ。
「!」
 熱狂的な人気を博すバンドグループ――クリスタル・レイク・シティ。そのメインボーカルである男の後ろ姿が逆光の中、バリバリの目の前に現れた。
 月のクレーターも彼がサンドバック代わりにしたから出来た、なんて逸話がファンの間では常識となっているが、実のところ才能に恵まれた穏やかな人物らしいが、真実はどこへやら。
「ジェイソンさんのおかげで、俺は変われたんだぜ」
 静かに、然し力強く。
 デスメタルの凄さを前にバリバリは嬉しそうに目を細めた。



「……ぐおっ、」

 自分のイビキで目が覚めたバリバリが目を開けた。

「お、やっと起きたか」
 呆れた顔の夜宵がバリバリを見下ろしていた。
「心配したよ」
 その隣では苦笑を浮かべつつ穏やかに笑うノイル。
「バリバリさん、寝ながら泣いてましたよ?」
 七三子が少しだけ心配そうに覗き込む。
 四人が揃った。
 ちゃんと、ここにいる。
「……夢だったか」
 呟いてバリバリは上半身を起こした。

「バリバリさんも、会いたい人には会えましたか?」
「おう、ちゃんと会えたぜ」
「ノイルさんと夜宵さんも?」
「ふふ、そうだね」
「俺の方は、……何と会ったか|覚えてねぇ《・・・・・》」
 ノイルが微笑みながら頷くが、対して夜宵はそう答える。
 今は今、それで十分なのだと多くを語らぬ返事に七三子は「そうですか」とだけ応えた。
「そういう七三子はどうなんだ」
「私も、会えましたよ!」
 少しだけ胸に引っかかる疑問は、きっとどんどん薄れてしまうのだろうけど。

「腹減ったな」

 ぐううううう、とバリバリの腹が鳴る。妙に立派な腹の虫だった。

「……お前な」
 夜宵が呆れたように額へ手を当てる。
「さっきまであんだけ呑んで腹も膨れてたろうに」
「酒は別腹だろ?」
「なんだその理屈!」
「ふふっ……いや、実に君らしいね」
 顔を逸らしつつノイルは言うが肩が震えて笑っているのは丸わかりだ。
「腹は減る時ゃ減るんだ!」
「開き直るところじゃねぇ」
 夜宵の即座の突っ込みに、とうとう七三子も堪え切れなくなった。
「あ、あははっ……!」
 肩を揺らし、ノイルと一緒に目尻に涙をにじませるほど笑う。
「今度は飯を食いに行くのも悪くないね」
 ひとりの時間も、決して悪いものではない。
 願いが現れた瞬間、それが幸せだったかと問われれば四人の返答は違うけれど、騒がしくて、面倒で、だけど不思議と落ち着く場所が、今この場所にいる友人たちとの時間がなにより心地よいものであることに違いはないだろう。

 だが笑ってばかりもいられない。
 あの月をどうにかしなければならない。その本来の目的が、まだ四人を待っているのだから。

十全・フルル
ルーシー・ショウ

 白線を渡り切ったと思った、――その瞬間だった。隣に在ったはずの温もりがふっと消える。
「……気付いたら一人になってたっすね」
 十全・フルル(見習い喇叭吹き・h10216)は冷静に状況を理解して何事も無かったかのように水の音がする方へ足を向けてゆく。
 だって、ルーシーは大丈夫。多分。
「今は一人で月に向き合うっす」
 そう呟いて覗き込んだ月は、思っていたより明るくて大きくて丸かった。

 願えば会える。思えば現れる。
 フルルの脳裏を過るのは、年老いたあの後ろ姿。
 得体のしれぬ傷だらけの少女を招き入れ、介抱してくれたおばあさん。もう百年くらい前だ。初めて日本に来た時、お世話になった人。温かい食事と寝床をフルルは忘れられない。

「あ、」

 顔を上げれば懐かしい面影。
 皺だらけの優しい口元に浮かぶ優しい微笑み。
「お礼を、言いに行こうと思ってたんす」
 まだ世界は滅ぶ|時《・》じゃないのに、勝手に滅ぼされては困る――背負う役割を果たせぬまま終わるのは嫌だから、ボロボロになりながらもフルルは世界中の怪異や簒奪者をシバいて回っていた。
 訃報を受け、二度と伝えられないと思っていた言葉を、フルルは漸く叫べる。
「あの時はありがとうございました……今は元気でやってるっすよ!」
 満面の笑みを向ければ、おばあさんが嬉しそうに微笑む。

 月明りに溶けるように、その姿はあっという間に薄れてゆく。
 仮初の再会を引き留める事は許されない。

「ありがとうございました」

 もう一度感謝を伝えながらフルルは深く頭を下げた。



「あら」
 ようやく月の元に辿り着いたルーシー・ショウ(微睡む蛇・h12791)が振り返った先、そこには誰もいなかった。
「僕一人ですか」
 すぐそばを歩いていたはずのフルルの姿は何処にも無い。気配もなく、あるのは静かな湖面の底で妖しげに揺らめく月だけ。
「脱出すればフルルとは合流できるでしょう」
 慌てる理由はないな、とルーシーは肩を竦めた。
「それなら月を見て帰った方がお得ですよね!」
 折角此処まで来たのだから。なんならアレをどうにかしなければならないのが本来の目的だったはずである。

 ひらり、と花が舞う。

 黄金の砂海の匂い。

 遥かな南方を思わせる民族衣装を纏った女性が、月の上に立つようにしてルーシーを見つめていた。
「シャウク」
 人間災厄『終末論のペン』――その名を持つ彼女は、ルーシーやフルルにとって上司にあたるような存在だが、実際にはもっと近しい存在、ほとんど友達みたいな関係だった。
 十年ほど前に消息を絶ったとルーシーは聞いているが、彼女が死んだのか、それとも簒奪者にでもなったのかは定かではない。その答えを、きっと目の前に現れた彼女は答えてくれないのだろう。
「これは幻なのでしょうか?」
 ルーシーが問いかけても返事はない。
「それとも本物?」
 彼女は昔と変わらずニコニコとしているが、本物もあんな感じだったので確証は持てず判別する術もない。
「どっちにせよ、懐かしい顔が見られたことは嬉しく思いますよ」
 答えが得られなくても構わない。
 あの懐かしい笑顔をもう一度見られたのだから。
 ルーシーにとっては、十分といえる時間となった。

 穏やかな沈黙の中、月明かりが強まるにつれ、シャウクの輪郭は静かに霞んでいった。

「願わくば」
 触れられもせぬ幻に手を伸ばし、ルーシーは静かに微笑んだ。
「いつか本当に再会する時にも、笑顔で会いたいものですね」
 光は泡沫のように砕け散る。



 ふと瞬きをすると、湖畔には再び誰かの足音が響いた。

「あ、いた」
 聞き慣れた声にフルルが振り返れば、向こうからルーシーが歩いてくる。
「無事だったんすね」
「そっちこそ」
「月はどうでした?」
「まあ、それなりっす」
「そうですか」
 互いの顔を見て思う所も察するところもあるのだろう。それ以上の会話はなかった。

「……さて」
「さて?」
 首を傾げたフルルを見てルーシーも同じように首を傾げて見せる。
「そろそろ仕事に戻りましょう。この月をどうにかしないといけません」
「あ」
 ぽかり、とフルルの口が開いた。
「思い出しました?」
「完全に忘れてたっす」
「フルルらしいですね」
「あんただって浸ってたじゃないっすか」
「否定はしません」
 人を惑わすこの月を、どうにかしなければならない。そう思い出した二人は、静かな湖畔を歩き出した。

泉・海瑠
黛・巳理

 白線の向こう側、水面の揺れる音だけが聴こえるような静けさのある空間に足を踏み入れた泉・海瑠(妖精丘の狂犬・h02485)。水底に沈む黄金だけが色を持ってるかのように錯覚するほど、鮮やかに輝いていた。
「……巳理さん?」
 問いかけた海瑠の声に反応はない。繋いでいたはずの手も、いつの間にか何もない空間を掴んでいた。胸の奥に湧き上がるのは不安。

「海瑠」

 心配と焦燥から探しに行こうと足を踏み出した瞬間――聞いたことがないはずなのに、|懐かしい《・・・・》声が海瑠を引き留めた。

「え?」

 呼び声に釣られて向けた視線の先には、柔らかな笑みを浮かべる男女の姿。
 何も覚えていないはずなのに。
 顔も、声も、その温もりも。
 それなのに。

「もしかして……」

 声が震える。
 霧の向こうに閉ざされた記憶から滲み出す感覚は説明が出来ない。嗚呼、あれは両親なのだと、海瑠はなぜか確信した。
 二人は何も言わず、ただ優しく微笑んでいる。
「……ごめん」
 ぽろりと零れた台詞。
「覚えてなくて」
 責める視線はない。
「……オレね。今、大事なものがあるんだ」
 緑の瞳に浮かぶのは、藍色の眼差し。それは手を差し伸べてくれた人。守りたいと願う、かけがえのない毎日を歩んでくれる横顔。
 変わらず慈しむ視線を向けてくれる二人が本当に両親かは分からない。男の手が伸び、そっと海瑠の頭を撫でる。言葉の代わりに与えられた温もりはまるで春の日差しのように染み渡る感覚だけは、確かに、嬉しかった。
「     」
 最後にそう聞こえた瞬間、海瑠の視界が濡れる。雨の音が何もかもを覆い隠していった。





「……海瑠くん?」
 ふいに消えた温もりに黛・巳理(深潭・h02486)は訝し気に瞳を瞬かせる。
 白線を越えた、その瞬間の出来事だった。
 返事はない。代わりに夜を映したような水面と沈んだ黄金だけが巳理の傍にあった。
 どうやら“会いたい”と願いを叶える月の元へ辿り着いたのだと巳理は悟る。その過程で彼と離れ離れになったのならば、いずれ合流できるのだろうが安心することは出来ない。

「……会いたい人、か」

 つい先ほどの会話が過る。
 会いたい人はいるかと尋ねられたけれど、濁した答えが、|答え《・・》だった。
 欠落を得たその瞬間から、彼は確かに黛・巳理という一人の|存在《ひと》であり、同時にそれまでとは異なる|存在《もの》になってから、そんな事を考えたことがないはずで。だって|そんなこと《・・・・・》はどうでも良かった。いつだって彼の言葉に耳を傾ける方が好ましいと思っていたから。
 だから「僕のことはいいから」とそう答えたのだ。

 静かな湖面が揺れる。

「先生」

 ふいに誰かの声が響いた。

 黄金が崩れて浮かび上がるのは見覚えのある人影たち。

「へび先生!」
 明るく親しみのある呼び名も混じる。
 幾つもの声が巳理を呼び、通り過ぎてゆく。それは診察室で交わしたようなありふれた会話ばかりだが、何気ない日常の、されど二度と戻らぬ大切なもの。まるで、巳理が会いたいと願ったのではなく、誰かが巳理に会いたいと願った思いが反映されているようであった。
「?」
 自然と口元を緩めていた巳理だったが、ふと気付く。
 現れては消える人々の向こう側を何度も通り過ぎる、緑。揺れる毛先。翻る白衣の隙間に混じる黒緑毛の尾っぽ。

 嗚呼、そうか、と。
 巳理は、ようやく気付いた。





 気付けば、柔らかな風が頬を撫でていた。

「巳理さん!」
 聞きなれた声が意識をはっきりとさせる。 
「海瑠くん……会いたい人には会えた?」
「……うん」
 いつもそうだ。
 出逢ったあの時と同じように、巳理は海瑠の話を聞いてくれる。
 不思議な感覚をうまく表現できないまま、それでも懐かしいと感じたあの瞬間を海瑠は必死で巳理に伝えた。
「でも、えっと……あの、今のオレを形作ってるのは、|こっち《√EDEN》に来てからの記憶と、その……」
「うん?」
「……巳理さんとの、毎日だから」
 口にして気付く。なんかものすごい恥ずかしい台詞だという事に。むしろハッキリ想いを伝えるより恥ずかしいのでは、と海瑠は気付くが既に遅い。言葉は拾って隠せないのだ。
 驚きでもなく、嬉しさでもなく。ストンと|答え合わせ《・・・・・》の音が聞こえた気がして、巳理の藍色の瞳が揺れる。
「――僕は、もう会えていたんだな」
「?」
「あんまりにも僕の中で君は当たり前だったみたいだ」
 広い世界の中で、たったひとり、幾つもの自分を覚えてくれているという|存在《きみ》の大事さ。別れを孕む再会の余韻を打ち破る、彼の笑顔に迎えられた時の安堵感。最後に浮かんだ気付きが確信に変わって。

 だが然し――とんでもない発言を受けた、と巳理の台詞を反芻し気付いた海瑠の顔が真っ赤に染まってゆく。

「あたっ…当たり前…!?」

 満足そうに微笑み続ける巳理を前に、もっと突っ込んで聞きたいけど出来ない海瑠であった。

御埜森・華夜
汀羽・白露

 惑わしの|幻想《ひかり》は以前と変わらず静かに佇んでいるだけだった。

 御埜森・華夜(雲海を歩む影・h02371)がこの月に出会うのは初めてではない。悪い事に使われていなければ、ただ純粋に、もしくはありふれた、ちょっと力の強い不思議な|禱《いの》りの塊なのだろう。
「悪意がないからか、いつ見ても美しいものだな」
 並んで水底の月を眺めて汀羽・白露(きみだけの御伽噺・h05354)が呟いた。
「白ちゃんは今回は何をお願いする?」
「特にないな」
「えー、例えば白ちゃんはさぁ、作者……てゆか、白ちゃんの生みの親に会いたい、とか無いの?」
「無いの?って、何がだ」
 怪訝そうに傾げた白露の視線が華夜に注がれる。
「まぁ色んな誤差はあったとしたってさぁ、白ちゃんの物語を……うー!」
 うまく説明できず悔しがる華夜。
「……つまりは、白ちゃんを作ってくれた人っ! んもぅ! 説明長くなるから! 察してよ!」
「俺だから察してやれるんだ、有り難く思え」
 ぷんすこと怒る華夜も愛らしくて、つい白露は眉尻を下げてしまう。
 彼の言う事も解るな、と思いながら宥めるように頭を撫でてやる。白露にとっては確かに気になることではあるが願うほどでもなく、著名人がどんな奴か見てみたい、そんな程度の思いである。
 なにより、今の白露の生みの親は華夜なのだから。
「そういうきみはどうなんだ」
 その問いに返事はなかった。





「白ちゃん?」
 ぱちくりと瞬いた華夜が辺りを見回せど白露の姿はない。
 どうなんだ、と問われたその瞬間、ふと願ってしまったせいか、水底の月がやけに眩しく見える。

「|華夜《・・・》」

 聞き慣れた声は聞こえるのに、姿が見えない。
 寂しさを、不安を、空っぽな心を埋めてくれるあの穏やかな微笑みはどこにもなくて、華夜は自分を呼ぶ声を遮る様に耳を塞いだ。
「きみは白ちゃんじゃない」
 だって彼なら、そんな呼び方はしない。
「俺が会いたい白ちゃんは、きみじゃないよ」

 数多くの願いを叶えて来た月に罅が入る。僅かな亀裂は、小さな泡沫となって水面を揺らした。



「白ちゃん」
 答えの代わりに返ってきたのは、己を呼ぶ柔らかな声。無邪気な笑顔を向けて来る姿は紛れもなく華夜の姿なのに、それでも彼を|否定《こばむ》ように白露は静かに目を閉じた。
 つい先程まで|本物《かや》がいたはずなのに、と。
「……違う」
 短く告げる声は、驚くほど固い。
 どれほど姿が似ていても声が同じようでも、間違えるはずがない。いくら幻といえど満足できるはずもない。困ったように笑って、頬を膨らませて、手を引いてくれるあの子でなければダメなのだ。こんな聞き分けの良い笑顔で立ち尽くす|偽物《まぼろし》に用はなくて。
「――悪いな。俺の『会いたい』は“幻”では満たされない」

 華夜の姿が淡く溶け、黄金の光へ還ってゆく。水面を揺らす月のざわめきが大きくなった。





 ぱきり、と亀裂が広がる。
 黄金の光は無数の泡となって泉へ溶け去った。

「……白ちゃん!」

「かや」

 泉の畔でいつの間にか立ち尽くしていた二人の視線が交わる。
「ごめん、……多分俺のせい」
「どういうことだ?」
「さっきさ、『そういうきみはどうなんだ』って聞かれたでしょ?」
「ああ」
「あの時、考えちゃったんだ」

 願っていいなら、
 禱っていいなら、

 俺は、

 何も考えず――純粋に、|笑《おも》ってしまったのだ。

「必ず毎日、俺を大事にしてくれる俺だけの白ちゃんに会いたいなって」

 華夜の|話《こくはく》をじっと聞く白露の眉間にはじわじわ皺が寄っていき、やがて盛大な溜息がひとつ落とされた。

「……全く、毎回なにを考えているんだ、きみは」
 そんなもの願わずとも叶っているはずなのに、と言いかけた白露は言葉を呑み込み、不意打ちで華夜の手を引いて自らの腕の中に包み込んだ。
「え」
 困惑する視線が持ち上がった。
「いつもの対応では足りん、ということか」
「ち、違……そういう意味じゃ……」

 白露は、しどろもどろになった華夜の耳元へ唇を寄せた。

「……お望みなら毎日こうしてやる――俺はきみの“かみさま”だからな」

 華夜は返事もできず、小さく肩を震わせた。
 抱き寄せる腕も、繋いだ手も、優しく名前を呼ぶ声も。
 欲しいものは、ずっと最初からここにあったという事実を、華夜は白露に思い知らされるのであった。

コウガミ・ルカ
黄菅・晃

 水底に佇む|黄金《つき》から|泡沫《あわぶく》がひとつ、夜より深い藍色の水面を揺らす。白線を渡り切った者を招く様に。

「……着いた」

 コウガミ・ルカ(解剖機関の飼い犬・h03932)は足を止め、大きく息を吐いた。謎の疲労感がどっと訪れると同時に、やっと自由に移動できる安堵感が染み渡る。
「……晃」
 声を掛けると、青い瞳がゆるりと開く。
「……着いた?」
「着いた」
「んー……良く寝た」
 黄菅・晃(汎神解剖機関のカウンセラー・医師兼怪異解剖士・h05203)はのそりと緩慢な動きで地に足を降ろす。寝起きの身体を解すようにしていれば、影はゆるりと形を変えて晃の足元に吸われてゆく。
「寝すぎ」
「アンタがちゃんと運んでくれるんだから安心してたのよ」
 悪びれない返答に困ったのはルカだ。そう言われては何も言えない。

「会いたい人、決まってるの?」
 月が見える位置まで歩みを進めながら問い、晃がルカを振り返る。
 答えはない。
 迷うような、もどかしい表情を見せるルカを晃は待つが、その沈黙が迷っているせいではなく、思いついていない様子なのに気付いて再び晃が口を開いた
「折角だし、|あの子《・・・》のこと知りたいんじゃない?」
 その言葉に、ルカは首を傾げる。
「……あの子?」
「アンタを作った研究者――要するに、アンタの生みの親ってことよ」
 ルカの瞳が揺れた。
「……っ、会える、なら」
 戸惑い、困惑、そこに期待の色が混ざったような複雑な声音だったが、僅かに前のめりの返答だった。
「会えるわよ。だってそのために来たんだもの」
 願えば会える、思い浮かべた相手に。そのための場所であり、そのために月がふたりを待っているのだ。
 話せるなら、話してみたい、とルカはもう一度頷いた。
「私は会ったら、そうね……一発頭引っ叩いてやりたいわ」
 怒鳴るわけでもなく、明確に怒気を含ませた感情論でもない、ぶっきらぼうな口調が晃の口から零れ落ちる。思う事があるのは同じなのか、とルカは雰囲気だけを拾う。
「……晃、その人間と、どういう、関係?」
 ふと気になったことを口にする。
「その子が新入社員だった時から研修担当とか指導係やってたの」
 要するに付き合いが長いのだと教えてくれた晃。遠い昔を思い出すような横顔に「へえ」とルカの素直な感想が重なった。





 青い瞳が真っ直ぐに月を見つめた。

 その光の向こうに思い浮かべるのは、既に遠い記憶の思い出。
 √汎神解剖機関に点在する研究セクターでのやり取り。同僚となった|あの子《・・・》が語った研究の内容。懸念材料に対する晃の苦言は、実現できる計画だと思っていなかったからこそ深くは言わなかった。
 でも、それは間違いだった。
「『被検体のケアと責任しっかり持ってこその研究者でしょうが』って」
 長い沈黙。
 そして、続く。
「……あとは『止めきれなくて悪かったわ』って言うべきだった」
 泣いているかと聞き間違うほど声音が揺れる。
 長年働いて来た年寄りの役目のように感じていたからこそ、もっと踏み込めばよかった、と。

 自分を呼ぶ声がした。

 顔を上げれば、いつの間にか晃は見覚えのある廊下に立っていて、嗅ぎなれた薬の匂いが広がっている。
 誰もいない。ルカもいない。
 否、あの子――同僚だけが立っていた。
 懐かしい顔が見覚えのある表情のまま手に持った資料は分厚そうで、やはり見覚えがある検体ナンバーが読み取れる。

 嗚呼、そうか、と晃は肩の力を抜いた。

「ルカが痛がってること、ちゃんと知ってた?」
 返答はない。
 だってあれは幻なのだから。
「自我を残すって言い張ったのはアンタだったわよね。だったら、どうして最後まで"人間"として扱わなかったの?」
 平行線だった議論の行方はもうどこにも辿り着けない。
「アンタは、ルカを成功作だと思ってた?」
 兵器としては大成功なのだろう。
 だがひとつの命としてはどうなのか。
 研究者としての見解は、きっとそれぞれの理論と感情で違うはず。
「ルカと、一度でも普通に話した?」
 指示ではなく研究記録としてでもなく、ひとりの、哀れな子供として。
「……後悔してる?」
 恨まれたり殺されたりしてね、なんて冗談を投げたりもしたけれど、研究室に戻る後ろ姿を引き留めることは出来なかった。晃が釘を刺した程度では何も響くことはなく、まだまだお子様な部分を捨てきれないくせに定年退職とは程遠い歳で遠くへ逝ってしまったのだ。

「もしもう一度、最初からやり直せるなら。アンタは、もう一度あの子を創る?」

 その問いに|正解《こたえ》はない。
 きっと、同僚が掲げた研究は、別の研究者だって思い付き実行しただろう。誰がやったか、誰が|生まれたか《第二のルカ》の違いでしかない。

 だから、誰にも分からない。

 おもむろに晃が前へ踏み込み、手を上げる。
 ぱしん、と。
 有言実行で引っ叩いた同僚の頭に手応えはなく、乾いた音だけは響いた。

「私だってミスる時ぐらいあるわよ」
 晃自身の考えが全てではないことを、本人が一番よく理解している。
 もしも、なんてたらればを並べて過去を変えれるとしても、もっと最悪な未来を産むことだってあるだろう。
「……それでも、あの子はいい子に育ったわよ?」
 今ここにルカがいたならば満面の笑みで前に押しやっただろう。
「今も怪異と新物質ごちゃ混ぜで、あそこまで自我が穏やかなことは珍しいでしょ?」
 普通の少年のように笑い過ごす彼を見せてやりたかった、と晃は残念そうだ。

 もし、ずっと前に話す機会があったならば。
 例えば、ルカと向き合い、言葉を交わす時間が同僚にあったとして。

「……ま、あの子頑固だもの」

 何も変わらなかったかもしれない。
 でも、何かは違ったかもしれない。

 やはり、どこにも|正解《こたえ》はなかった。





「……?」
 いつの間にか晃の姿はどこにもなく、風も水もない無機質な部屋のど真ん中にルカは立っていた。
 硬質な壁と床は見覚えしかない。
「……っ」
 ルカの目の前にひとつの人影が浮かび上がる。
 白衣。
 手にはいくつかの書類が挟まったボード。
 強化ガラス越しに見ていた研究者が、再び立っていた。
 あの日のように。
 かつて自分を被験体ナンバー三九三二として扱っていた、研究者。

 ルカが感じたのは“痛み”だった。もう何も感じなくなったはずの痛覚が蘇ったように全身を疼かせる。
 ふと、研究者が顔をあげる。
 真っ直ぐにふたりの視線がぶつかった。

「……グルルル」
 
 咄嗟にルカは視線を逸らしてしまう。

 苦手だった。
 怖いわけじゃない。
 身体が覚えているのだ。
 首を焼かれて絞められて騙されたあの瞬間を。
 声を奪われた痛み、苦しみを。

 本来のルカは痛みに敏感だった。痛くて、苦しくて、それでもなお“実験”は止まる事無く続き、やがて痛みを感じなくなってしまっただけなのだ。
 然し。
 |感じない《うばわれた》はずの感覚がルカの呼吸を浅くする。
 制御のために嵌められた首輪が締まる苦しさまで、|平気《かんじない》になったわけじゃないから。

 研究者は何も言わず、ルカをじっと見つめている。
 その表情から言葉は読み取れない。

 くるしい。

 それでも、ルカは口を開いた。逸らした視線を、自ら合わせて。

「痛いこと、嫌だった」
 掠れた声音は震えている。
「喉も、苦しい」
 研究者はただじっとルカの言葉を聞いている。

――俺は、化け物。

 ルカにとってその認識は変わらない。ツギハギにされ、研究室に隔離されるのも仕方ない。
 それでも。
「今は、苦しいことも、生き方も、自分で選べる」
 嫌な事は拒否して、好きな事を好きだと肯定し、行きたい場所へ行けるようになった自由を取り戻した今を、どうしても言いたかった事だけは、とルカは絞り出す。

「……昔も、あんたと、話せばよかった」

 痛い、苦しい――嫌だ、

 当たり前の感情をルカは叫べなかった。知らなかった。伝える術もないと思っていた。ただ言えばよかっただけなのに。
「人間ってなんだ」
 難しい質問だとは思う。
「俺は、どんな存在なんだ」
 研究者にとっての|正解《こたえ》とルカが望む|答え《せいかい》は違うかもしれないけれど。

 あの時、話していれば何かが変わっていたかもしれない。
 殺さずに済んでいたかもしれない。

「俺は、化け物、だけど……|生きてる《・・・・》」

 ルカの|答《かんが》えを聞いた研究者の目が驚いたように少しだけ開かれた気が、した。

 それに満足したようにルカは微笑んで前へ進み、研究者との距離が縮まり、強化ガラス越しに手が届くほどに近くなる。今度はしっかりと研究者を見据えたまま、ルカは拳を握る。
 そしてただ一歩踏み込みながら、その拳を真っすぐに突き出した。

 耳を劈く挟異音と共に分厚いはずの強化ガラスに蜘蛛の巣のような罅が入り、やがて無数の破片となって弾け飛んだ。





 眩しい光。

「あ」

 そんな声でルカは瞑っていた目を開く。
 黄金がぱちくりと瞬き、晃の「あーあ」っていう微妙な表情を見つけた。
「?」
 晃が指差した方へ素直に視線を向けると、|なにか《・・・》によって砕かれた月が水底に横たわっていた。あれほど神秘的だった雰囲気は、もうどこにもない。
「……」
 ルカは月と自分の拳を交互に見る。
「アンタ、多分あっちで殴った勢いのまま戻ってきたのよ」
 そう言われて、先程のやり取りをルカは思い起こす。
 研究者へ反抗するように強化ガラスを割ってみた、――はずが幻ごと月を砕いた一撃となってしまったのである。

「ふふ」

 どうしようと慌てふためくルカを見て晃はとうとう堪えきれず、小さく吹き出した。
「あはは」
 怒られるかなと思っていたルカは拍子抜けだ。
「願いを叶える神秘の月を、素手で壊す奴なんて」
「笑う、ところ?」
「だって面白いじゃない」
 困ったようにルカが眉を下げる。
「私たちの仕事、元々この月をどうにかすることだったでしょ?」
 晃は砕けた月へ視線を向ける。
「……そう、だった」
「だったら結果オーライじゃない」
 だいぶ物理的な解決法だけれど。
「……そんなもの?」
「そんなものよ」
 結果が残れば多少過程が荒っぽくてもどうにかなる――実に機関らしい考え方を前に、ルカの視線が忙しい。晃と月を交互に見ては、あっさりしている晃を前にやがて無理やり納得することにする。

「で」
「?」
「どうだった?」
 何を、と聞き返す必要はなかった。
 真っ直ぐな晃の視線が分かりやすい。
「……分からない」
 ルカは少しだけ考えて、言葉を探してゆっくりと答えた。
「うん」
「許した、とも違う」
 |感情《こたえ》を探すように胸へ手を当てる。
「……ただ、言えて、良かった」
 化け物ではなく、一人の存在として、自分の言葉で。胸の奥につかえていた何かが、静かにほどけた気がした。
「晃は」
「ん?」
「話せた?」
 晃は小さく息を吐く。
「話せたわよ」
「叩いた?」
「叩いた」
「……痛そう」
「幻だから痛くないわ」
 少しだけ悪戯っぽく笑ってから、晃は湖を見下ろす。あるのは仄暗い水底だけ。
「答え、あった?」
「なかったわ」
 あっさりとした台詞。
「でも、それでいいの」
 過去に正解なんてない。
 あるのは、麻薬犬と呼ばれる存在になったこの子が、何でもできる存在になったのに、その代償だけ誰にも見えていなかった事実だけ。

 それでも、|麻薬犬《ルカ》は生きている。
 好きなものを選び、嫌なことを拒み、誰かと話して笑うこともできる。

 それだけで十分なのだと、思うしかない。

「帰りましょうか」
「ん、帰る」
「報告書書かなきゃねー」
「……大変だな」
 他人事のように労ったルカをじっと晃の視線が貫く。
「アンタも手伝いなさいよ?」
「……文字、多い」
「頑張るの」
「……グル」
 困り果てた唸り声に晃が笑った。

 帰り道でもう少しお酒を飲ませて機嫌をよくしたら免除できるかな、なんて悪戯な事をルカが考えていた、――かもしれない。

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