シナリオ

⑪LAMENT:離したくない。

#√ドラゴンファンタジー #ゾディアック継承戦争 #ゾディアック継承戦争⑪

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⚔️王劍戦争:ゾディアック継承戦争

これは1章構成の戦争シナリオです。シナリオ毎の「プレイングボーナス」を満たすと、判定が有利になります!
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(毎日16時更新)

 金色に輝く太陽が、影になった街の向こうへ沈んでいく。
 カナカナナカナ。
 聞こえる蝉時雨は、ヒグラシの聲。
 その寂し気な音色が、アスファルトが抱え込んだままの熱を遠ざけている。

 全ては虚像。
 幻で作り出された夏夕景の鏡迷宮。
 張り合わされた無数の鏡は、サイズはいろいろだけれど、縦横の比率は全て同じ。
 1.48:1――近ごろではすっかり出番の減った葉書のそれ。
 だからだろうか、映し出される一瞬一瞬が、美しい絵葉書のように心に残る。
 そしてどの瞬間も。
 あなたは誰かと手を繋いでいるのだ。まるで「離したくない」と駄々を捏ねるように。

●離したくない。
 魔物達の聖母『ユリア・クラウディウス』によって、ららぽーと福岡は今や「モンスター城」へと変貌を遂げている。
 鏡の迷宮と化したのもその一角で、巣食っているのは――。
「面影のレヴナント。悪意も善意もない、無垢で素直な幼い幽霊だ」
 だから危険はさほどないよ、と。
 人好きのする笑顔でエヴァン・劉(h12164)は言う。

「要は面影のレヴナントを連れて鏡の迷宮を抜ければいい。それだけだ」
 エヴァンは肩を竦めた。軽妙な仕草からも危険性の低さが伺える。
 しかし決して無害ではない。
 面影のレヴナントは自由に姿を変えられるから。
「景色の影響かな、あんた達の心の奥底にある郷愁とか、そういう琴線に触れられる覚悟だけはしといて」

 いつもは忘れている誰か。
 ずっと大好きだった犬や猫。
 人間だけではない、懐かしい何か。
 今も忘れていない。
 ずっと会いたかった。

「未練にひきずられたら、迷宮からは出られない」
 唯一の危険性を口にするエヴァンの眉は下がっていた。
 だって誰の心にも振り切りがたいものはある。
 もう二度と離したくない、と強く思ってしまうものはある。
 しかしそれでは、前へ進めない。敗者と化して、ユリア・クラウディウスのモンスター城の一員になってしまう。
「大丈夫。ちょっとした同窓会気分でいればいいさ」
 エヴァンは敢えて軽薄に声を響かせた。


 経験のあり無しは関係ない。
 作り物の夏の夕暮れは、本能的な懐旧を暴き出し、あなたの最も『離したくない』一瞬を鮮やかに切り取る。
 繋いだ手は、解きたくないだろう。
 景色はひたすらに優しい。
 きっと無意識に、足は止まりたがる。
 だとしてもあなたは歩み続けなくてはならない。
 時に唇を噛み、涙を堪え、『|終わり《出口》』を自ら選択するのだ。

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第1章 集団戦 『面影のレヴナント』


クラウス・イーザリー

●|Last Light《沈んだ太陽》
 見上げた空は黄金色だ。
 しかし鏡に写し取られた色彩は少し赤みが強い。

(あの日も、こんな夕焼けだったかな――)

 クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は握る手の感触を確かめる。
 固いような、柔らかいような。
 覚えのあるそれに、クラウスは歩調を緩めた。
 ゆっくりと周囲へ目を遣る。鏡に映っているのは自分と、もう一人。幼げな輪郭をした面影のレヴナントではなく、クラウスより背が高い短髪の青年。

 夕暮れに、二人。
 覚えのある景色だった。
 あれは兵士養成学園の訓練の帰りだったか。それとも戦場の帰りだったか。或いは、誰かを弔った帰りだったか。

(……その全て、だったよね)

 手を繋いだ相手を、鏡越しに見上げる。
 未来を照らすみたいな、赤い瞳と目が合った。
 込み上げる熱にクラウスの喉が詰まる。
 傍らから降る声はない。なくてよかった、とクラウスは細く吐き出す息に安堵を混ぜた。もしも何か言われたら――意味のあるものでなかったとしても――泣いてしまっていたかもしれないから。
 当然、クラウスからも呼びかけはしない。呼びかけられない。

 彼、は。今みたいな夕焼けの中、クラウスを庇って死んだ|親友《Anker》。

 二人並んで、ゆっくりと歩く。
 鏡が切り取るひとつひとつの景色に、またひとつ、またひとつと在りし日が重なる。
 何もかもが思い出の中、戻る事のない過去。
 噛み締めざるを得ない|現実《今》に、胸が寂しさでいっぱいになる。
 いっそこのままどこかに連れて行って欲しいとさえ思ってしまう。
 でも、思うだけ。
 願いはしない。望みもしない。
 何故なら、甘い夢に浸ることを、他の誰でもないクラウスの中の|衝動《EDEN》が許さないのだ。

「――あ」
 どれくらいの時間、迷宮を逍遥していただろう。
 永遠に続くかのようであった鏡の切れ間に、感嘆とも悲嘆ともつかない音がクラウスの唇を吐く。
 意を決し、いつもの歩調へ戻す。そのまま脇目もふらず、出口を抜ける。
 するり。握っていた大きな手から、力が抜けた。抗わずに、クラウスは手を離す。
「また――」
 言いかけた言葉をクラウスは飲み込む。

 またいつか、会いたい。そうしてまた、手を繋ぎたい。

 叶わぬ願いは、胸の奥底へ沈め。
 未練を振り切り、クラウスは慕わしい気配に背を向け、足を早める。
 どこからか吹く風がクラウスの髪を揺らす。
 その余韻に誘われて目を閉じると、瞼の奥に熾火のような赤が焼き付いていた。

狩々・十坐武郎

●暑中見舞
「ちょっと、じいちゃん!」
 むくれた子供のように|狩々《かりがり》・|十坐武郎《じゅうざぶろう》(春霞の訪れ・h09497)は声を跳ねさせた。
 それでも老いた男は、歩む速度を落とさない。
 ぐんぐんと男が進む。手を繋いだ十坐武郎も、同じ速さでずんずん歩く。
「じいちゃん、じいちゃんってば」
 十坐武郎の喉がくつくつと鳴る。笑い出すのは辛うじて堪えるが、どうしても語尾は上がってしまう。
「何をゆっくりしているんだ」
 ああ、やっぱり。
 振り向いた顔の眉間には皺が寄っていた。
 あまりの|らしさ《・・・》に、十坐武郎はたまらず破顔する。

 |祖父《・・》と手を繋ぐのは、かれこれ二十年ぶりのこと。
 そもそもが、なんともむず痒い。
「なあ、じいちゃんー」
 鏡の迷宮の中、面影のレヴナントを見つけたのは覚えている。
 しかし気が付いたら、祖父が隣に立っていた。
 正直、ちょっとビビった。
(ちゃんと見るの、何年ぶりだろ)
 おじいおばあっ子な十坐武郎だ、怖いとか、気持ち悪いとか、そういうのは微塵もない。
 どちらかというと、楽しい。あと、嬉しい。

 ――もうちょっと一緒にいないか。
 ――飯でも食っていかないか。
(ないない。じいちゃんがそんなこと言うわけない)
 祖父に連れられて進む迷宮は、あっという間に終わりを迎える。
 郷愁を誘う夕景に、心を揺らされる暇は指先ほどもない。
 祖父と十坐武郎の二人分。姿を映す鏡にも、惑わされることはなかった。胸の中にあるのは、どうにか書き上げた夏休みの絵日記を、提出間際に読み返しているような。そんな感慨。

「さっさと仕事に戻って困ってる人を助けなさい」
 出口を跨ぎながら、ピシャリと云い放たれる。
 あまりの気持ちの良さに、十坐武郎はついに声に出して笑う。
「さすがじいちゃん。やっぱりじいちゃんはそうでないと!」
 名残惜しさはある。
 もうちょっと一緒にいたいし、夕飯を二人で食べるくらいは許されてもいいんじゃないかとか、考えてしまう。
 けれど、|握られた《引っ張られた》時と同じ唐突さで、手を解かれる。だから十坐武郎も手を離す。
「ありがとう、じいちゃん。やる気、もりもり出たわ!」
「いいから、さっさと行け」
 背中をどつかんばかりの応えは、色気皆無。求めるつもりは端からないが、漏れた笑いに少しの苦さが含まれるのはしょうがない。
 ああ、やはり。
 幻だろうが、思い出だろうが。
 |祖父《じいちゃん》は|祖父《じいちゃん》だ。

「んじゃあ、行ってきます!」
 振り返らず、十坐武郎は手だけ振る。
 置き去りにする夏の夕映えに、|矍鑠《かくしゃく》とした笑い声を聞いた気がした。

ノーチェ・ノクトスピカ

●片割れ星
 金色は西の彼方に飲み込まれ、気付けば空は深い群青色に変わっていた。
 チラチラと数え切れない星たちが瞬いている。囲む鏡もそれらを映し、ノーチェ・ノクトスピカ(|Nachtsängerin《星歌い》・h06452)は星の海を泳いでいるような心地を覚える。
 溺れる心配は要らない。だって繋ぐ手があるから。

「星と星をつなぐと星の路ができるんだよ」
 空いた手を空へ高く伸ばして、|君《・》が笑う。
 指さしているのは、綺麗な綺麗な夏の夜空。
 どこか懐かしくて、どこか切なくなるような。
(ああ、そうだ)
 僕は思い出す。
 瞳を引き付けて止まない、この夜空は。
(ずっと|かえりたかった《・・・・・・・》空だ)

「星の路ができたら、夜汽車がはしるんだ!」
 夜空を見上げていた君が、僕を見る。
 それだけで僕の心臓がとくんと弾む。
「夜汽車はね、僕の故郷へ連れていってくれる!」
 がたごとがたごと。
 星の路を走る夜汽車を想像する。行先表示器に記されているのは、君の故郷。
 思い描いた光景に、心臓が駆け足進めのリズムを奏で出す。
 うん、とっても素敵!
「僕も、君と一緒に故郷に行きたいな」
 行ってみたい。
 そう思ったから、僕は君に答えた。
 そしたら君が笑った。とてもとても嬉しそうに!
「一緒においで」
 君が僕を誘う。
 握った手に力を篭めて、僕も一緒に行こうという。
 でも、どうしてだろう。
 君の姿はとても朧げ。そのくせ、僕と同じ姿をしてるって分かるんだ。
 違うのは……髪の長さくらい?

 ――かえりたい。
 ――行きたい。

 想いは漠然。しかしノーチェの胸の奥深くに、しっかりと根付いている。
(『君』はだれ?)
 はぐれないよう繋いだ手が、急にほどけてしまいそうに感じて、ノーチェは指先をぎゅうっとする。
 そして母譲りの星の翼をはためかす。
 刹那、きらり。
 泣きたくなるくらい綺麗な夜空を、片割れ星が流れた。
「ねえ、一緒に――」
 金色の軌跡をスピカの双眸で追いかけ、ノーチェは願う。

 ――離れたくない。
 ――もう離したくない。

『いつもそばに居るよ』
 聞こえた声に、ノーチェは瞬く。
 相変わらず輪郭のはっきりしない|君《・》は、ノーチェへ笑いかけていた。
 一緒に願わず、ただ穏やかに。まるでノーチェを慰めるみたいに。
「慰めるべきは、僕だったのに――、あ」
 呟いて、ノーチェは目を見張る。
 金色が西の空を覆っている。小さな星たちがさざめいているのは、まだ東の空だけ。何より、繋いでいたはずの手は空っぽだった。

 ――かえりたい。
 ――行きたい。
 ――離れたくない。
 ――もう離したくない。

 息衝く想いは確か。いつもより早い心音が、証明している。
 けれどノーチェは夕暮れの迷宮を振り返らず、唇を湿らせたささめごとだけを反芻する。

「慰めるべきは、僕だったのに」

 茜色の空に、片割れ星がひとつ横切った。

アリス・アイオライト

●Twilight, Morganite
 白い頬がモルガナイトの色に染まっている。西日を浴びているのだから当然――ではなくて。
(少し、幼い?)
 伏し目がちに視線は外しているけれど、先の尖った耳が隣を歩く人の声に集中している。
 ほら、今だって。近付きすぎた肘が腕に触れただけなのに、肩が跳ねた。そのくせ、繋いだ手を解こうとはしていない。
 あまりの分かりやすさに、アリス・アイオライト(菫青石の魔法宝石使い・h02511)の顔は熱を持つ。
(これはきっと、私がまだ√能力者ではなく|彼《・》のAnkerだった頃)
 鏡に映る二人から情報を読み解く思考は冷静なのに、もたらされた結果が感情を揺らす。
「ルシウス」
 呟いただけで、心臓は鷲掴みされたみたいにぎゅうっと痛んだ。
 もう、わかる。
 全てを思い出した今ならば、わかる。
 わかってしまえる、僅かも否定の余地がないほどに。
(あの日々の中で、私は彼に恋をしていたのね)

 恋をしていた。
 学生の頃からずっと、ずっと。
 ルシウス、ただひとりに。
 そのことを、ずっと、ずっと忘れていた。
 でも。思い出した。
 思い出せた。

「だからって……っ」
 数歩、進めた歩み。合わせて、目にする鏡も変わる。手を繋ぐルシウスとアリスの姿も、変わっていた。
 かつてより大人びた青年は、アクアマリンの瞳を蕩けさせてアリスを見ている。見返そうとするアリスの視線は、右へ左へと落ち着きなく揺れていた。
 その反応は、まるっきり自分自身で。だからこそ、勘違いしてしまいそう。
「違う。わかってます。これは本物のルシウスじゃない」
 鏡から、傍らへと視線を移す。
 見上げる青年の甘い笑顔に、アリスの頭はくらりと回る。頬はさっきからずっと熱くてしょうがない。
 違う、わかっている。
 このルシウスは幻。
(私は。|宿敵《今》のルシウスに会わなくっちゃいけないの)
 誰も傷付かない、傷付けることのない、この優しい|時間《迷宮》に心は揺れる。
 けれど惑わされていては、|先《未来》へ進むことも出来ない。
『どうしたの? アリ――』
「きっ、聞きません。聞こえません、何も、何も聞こえないったら聞こえないのっ」
 顔を覗きこまれる気配に、アリスは走り出す。
 途端、繋いだ手を強く意識する。
(昔もこんな風に……って、駄目よ私っ)
 ドキドキ、ドキドキ。
 高鳴る心音は、過去のものか、今のものか。区別する余裕は疾うにない。
(ど、どうしましょうっ。こ、こ、この手っ。手!)
 込み上げる羞恥に、手を振り解きたい衝動に駆られる。なれど頭の隅に残った理性が、それはこの迷宮に屈するのと同義だと警鐘を鳴らす。

「こ、このまま一気に出口まで行くわよ」
 知らず、口調は気安く。変わらず顔は、うまく見れないままに。
 頬が赤いのは夕焼けのせいにして、銀の髪をなびかせアリスは走る。一分一秒でも早く、いつもの自分に戻る為に。
 しかし最後は、きっとそっと手を離すのだ。名残惜しさに、後ろ髪を引かれながら。

ゾーイ・コールドムーン

●夕彩
 ふ、と。
 ゾーイ・コールドムーン(黄金の災厄・h01339)の笑みを模る口角に、喜色が混じる。
 成程、確かに。
(あの子にそっくりだ)
 鏡に映る、自分と|彼女《・・》を見る。
 いかにも学生の姿をしている。ささやかな買い物に付き合った|時《過日》のようだ。

 覚えている、今でも。忘れていない。

 当時の自分は、力を抑える|腕輪《魔具》がなくて。
 だから直接触れ合えない代わり、彼女はゾーイの服の袖を引いていた。
 でも、今は。
 夕暮れの太陽にも似た金の眼を眇め、ゾーイは鏡を注意深く観察する。腕輪はきちんとあった。
 ならば、とゾーイは彼女へ手を伸ばす。
 指先が彼女の手に触れた。掬い上げるように、握り込む。
 彼女が本物ではないのは理解していた。だとしても、嬉しさはある。
 実際に触れられたのは、最期の時だけだったから。
(じゃあ、もう一度)
 ゾーイは夕暮れの中を歩き出す。繋いだ手のままに、彼女も歩き始める。ゾーイは歩幅を、彼女に合わせた。
(あの穏やかな日をなぞろうか)
 いつもよりゆったりとした足取りで、ゾーイは彼女と共に鏡の迷宮を逍遥する。

「なんか欲しいものある?」
 いったい何がそんなに楽しいのだか。
 視線を交わす面影も、四方の鏡に映る姿も、どれもがにこやかにゾーイの応えを待っている。
 そんな彼女にゾーイはひとこと。
「無い」
 あっさりとした応えに、彼女の頬が少し膨らんだ。
(そう、あの時もこんな風に)
 ゾーイは横目に彼女の様子を眺める。夕焼けに染められた横顔は、拗ねたような不満に縁取られていた。
 推し量りかねる彼女の胸の内。
 かつてその横顔を興味深く思ったのを振り返り、今のゾーイは懐かしさに内を満たす。
 やはり直接、顔を向けることはない。しかしずっと、横目で彼女を見ながらゾーイは歩く。
 歩幅は先ほどまでと同じ。しかしゾーイはことさらゆったり足を運ぶ。
 そして――。

 逡巡は僅かの間だけ。
 辿り着いた出口で、ゾーイは彼女の手をそっと離す。
(これはもう、戻らないもの)
 ゾーイが手を伸ばすべきは、思い出ではなく、いま大事なもの。
 それらを護る戦いへ赴く為に、ゾーイは美しい夕彩の迷宮に背を向けた。

シンシア・ウォーカー

●夕凪に青嵐
 ヒグラシの声が遠くに聞こえた。
 それだけで、日中の余韻を含んだ生温い風の中に、涼を見つけられる。
 尖った耳の先を撫でる心地よさに、シンシア・ウォーカー(放浪淑女・h01919)は目を細めた。
 そのまま薄目で隣を見ると、『君』が笑っている。
「――ふふ」
 酔っぱらってもいないのに、笑いが自然と唇から零れた。不思議そうに顔を覗き込んでくるのは、同種族の青年。
 これは、たぶん。
 二十年くらい前の記憶。
 シンシアより七つだか年上のはずの|彼《君》もまた、あの時のまま。

「学校には行っているのですかって?」
 並んで歩く。歩幅は大きく変わらない。けれど青年はシンシアのことを幼子のように扱う。
「嫌ですねえ、もうとっくに卒業してますし」
 反芻した青年の台詞へさらなる追撃をかけたシンシアは、得意げに胸を反らす。
「ちなみに、お酒も飲める年齢ですよ」
 青年が目を見張った。分かりやすい驚愕に、シンシアの鼻がご機嫌に鳴る。
 でも。
 こんな経験は無い。
 張り巡らされる鏡へ目を遣れば、一枚、二枚、と幼げな少女の姿を見つけられるのではないだろうか。
 けれどシンシアは鏡を見ない。
(貴方の家に夕方まで預けられていた頃は、私はまだ十歳にもなっていなかったですしね)
 歩きながらずっと、シンシアは隣の笑顔だけを眺める。
 そうだ、この笑顔だ。
 青年の輪郭を視線でなぞり、記憶を辿る。
(大きな本棚のある部屋で、読み聞かせてくれたりしてさ)
「"淑女たれ"――今でも覚えてますよ」
 シンシアが告げると、青年の瞳が大きく夕焼け空を映し取った。何か言いたげな態度に、シンシアは少しだけ唇を尖らせる。
「……本当ですよ?」
 
 ――分かる。
 ――きっと彼が私のAnkerだ。
 ――彼こそが、|Anker《護るべきもの》だ。

「そうですよね」
 予告なく、突き付ける。
 鏡を見ないシンシアは、自分がどんな表情をしているか知らない。想像もしない。
 ただ、もう。郷愁に浸る時間は終わりと、足を早める。
「私は貴方のことを恨んでもいるので」
 なんて、と。語尾を少し濁しはするが、もう歩みを並べない。青年の手を引いて、シンシアは先をゆく。

 長く続く階段の一段を踏み飛ばすような、そんな軽やかさで、シンシアは迷宮の出口を抜ける。
「だって私の翼を切ったの貴方でしょう?」
 躊躇いなく、ぱっと手を離す。
 空っぽになった手のひらを、涼しさを増した風が掠めた。
「あ、答えは大丈夫です」

 いつか本物に聞きます!

 はっきりと言いきったシンシアは、セレスティアルにしては小振りな翼を羽ばたかせる。

ララ・キルシュネーテ

●|逢魔が時《Under One’s Wing》
 大きな手だ。
 自分の手なら、すっぽりと包み込んでしまえるだろう。
 でも爪の色は同じ、|逢魔が時の彩《金色》。
 口元は自然と緩む。無理やり引き締める必要はない。だって――。
「パパ」
 昼と夜の狭間。
 此岸と彼岸。
 |あちら《・・・》と|こちら《・・・》の境が曖昧に溶け合う刻。
 |ララ・キルシュネーテ 《꒰ঌ❀..**。.:*:.。.咲樂*桜樂.。.:*:.。.✽.。❀໒꒱》(白虹迦楼羅・h00189)は空に広がるのと同じ色の指先を、父のそれへきゅっと絡めた。

「ララは“こわい”を識ったの」
 ララは、いつも抱き上げられていた胸を見上げる。
 ゆらゆら揺られていたそこは、|安寧の地《ララの特等席》。けれど手を繋ぐのだって、とても素敵。
「こわい、は。冷たくて、震えてしまうわ」
 父の向こうには、父とララの爪と同じ色の空が広がっている。
 昔、龍達に閉じ込められた父は、逢魔が時にしか外へ出られなかった。返して言えば、強固な龍の封を以てしても、父の自由を奪えなかった時分。
 つまり逢魔が時は、迦楼羅天である父の領域。
「どうしていいのかわからない――でも、誰にも明かせないの」
 ぎゅう、と。指先に、無意識のうちに力が籠った。やわらかく握り返された手のひら越しに、心地よい温もりがララへと染み入る。
「だって。神は怖がってはいけないでしょう?」

 ララは迦楼羅天の|雛女《ひめ》。
 冬の聖女として|樂園《√キルシュネーテ》に招かれ、吸収し過ぎた人の三毒によって悪徳に堕ちてしまった|キルシュネーテ《龍王》を討ちし、救世の神鳥。
(パパはきっと『しって』る)
 ララの歩幅は父の半分にも満たない。だのに小走りにもならずにいるのは、父が歩調を合わせてくれているせい。
 分かっていて、ララはもう少し、あと少し、とゆっくり足を運ぶ。
 鏡は父とララのそのままを映している。だからこそ幻なのだ。
(キルシュネーテとママのこと)
 刹那、一枚の鏡に美しいハーバリウムの尾を視た気がした。
 込み上げた何かを、ララは身の裡へとぐっと沈める。
(けれどララはここに居て、迎えの掌はない)
 尋ねるでなく、自らの決意を語るように。紡ぐ小さな唇を父がどんな顔で見ていたのか。鏡に気を取られたララは知らない。
 それでも。
「……ララが、やらねばならないのでしょう」
 どこまでもララに合わせてくれる父の|想い《優しさ》が、ララの背中を押す。

「うん、パパ」
 覚えたばかりの“こわさ”が消えてなくなったわけではない。
 何より、父へ「ただいま」と言えないだろうことを、どれだけ幼くともララは理解している。
 だとしても。
(みていてね、パパ。ララはこわいにも打勝つわ)
 還ることの出来ない父の胸を今一度、見上げ。それからララはぱっと父の手を離す。
「いってきます」
 踏み越える迷宮の出口は、逢魔が時の終わり。
 空の金色が、夜の深藍に飲まれて消える。されど鮮やかな色彩は、ララの爪にずっと、ずっと――。

戀ヶ仲・くるり
くらがりの・こえ

●たそがれの影
 世間が騒がしい。しかも『|よろしくないこと《悪い事》』でだ。
 自分の使える√能力では、大したことは出来ない。
 卑下ではなく、明確な事実だ。だからといって、早々に傍観者を決め込めるほど、|戀ヶ仲《こいがなか》・|くるり《ーーー》(Rolling days・h01025)は図太くも、ひねくれてもいない。
 普通の女子高生に毛が生えた程度でも、きっと危険な場所から一般人を避難させることくらいは出来る。
 なのに、今。
 くるりは歪な夕暮れの中に立ち尽くす。
「私、どうして……どうして、ここにいるの?」

 | 《声を大にして嗤いたい。》
 | 《嗤いたくてしょうがない。》
 | 《どうして? だなんて!》
 | 《本当にきみはこういう場所に好かれるなぁ。》
 | 《言っておくけど、オレが誘導したわけじゃないよ?》
 | 《ああごめん。言っておくけど、とか言いながら、言ってないや。》
 | 《まあ、そんなの些末事だよね。》
 | 《でもせっかくだから、教えてあげる。》
 | 《“見せたら心を寄せる”って思われるから、呼ばれるんだよ!》
 | 《あ、教えてあげようって言いながら、教えてあげてないや。》
 | 《あはは!》
 | 《ふはは!》
 | 《きみをピン留め出来れば座標になるからね。だから、きみは呼ばれる。》
 | 《オレは笑う。》
 | 《影のなかで“見”ながら笑う。》
 | 《こういう場所だと、オレも“出”やすいからさ。》
 | 《きみに聲を届けよう。》
 | 《ほら、ちゃあんと聞くんだよ。》

『帰りたい?』

「帰りたい」
 踏み込んだ鏡の迷宮。夏の残照と無数の反射と、同じだけの影に囲まれ、くるりは絞り出すように呟く。
 帰りたい。
 一度、堰を切ってしまえば、思春期の少女らしい弱音が次から次へと口を吐く。
「お父さん」
 いない。
「お母さん」
 いない。
「お兄ちゃんたち」
 いない。
「ごめんね、連絡もらってるのに。ごめんね、ごめんね」
 しゃくり上げる間際の震える声で、くるりは繰り返す。
 その度に、ひとつ、ふたつ。みっつ、よっつ、……――嘆きに引き寄せられたのか、くるりの周囲に気配が集う。

 | 《ほらね、ほらね。来ただろう、そりゃあ来るさ。》
 | 《あはは!》
 | 《きみはなにがしたい?》

「私、読み上げてもらわないと読めないの」
 証明しようとくるりは鞄の中からスマートフォンを取り出そうとして、手を止めた。
 くるりの一挙手一投足を映す鏡に、見知った面影が像を結んでいる。

 | 《きみはなにを求める?》

「声も、聞こえないの」
 まるで棒切れにでもなったみたいだ。強張る足は、踏み出したくても動かない。
 情けなさに抗って、くるりは拳を握り締める。けれど力はほとんど入らなかった。
「……会っても、見えないだろうから。家に連れて行ってもらうの、こわくて出来ない」
 全身が小刻みに戦慄いている。
 かえりたい。
 かえりたい。
 かえりたい。
 求めるのはただ一つ。魂はこんなにも、叫んでいる。ずっとずっと、叫んでいる。
 呼応したのか、慕わしい姿となった|何か《面影》がくるりへ手を差し伸べた。
 まるで慰めるみたいに。

 | 《くるしそうだねえ、たいへんだねえ。》
 | 《現在を捨ててしまう?》
 | 《それは──×××だなぁ。》

『手を取ったら、帰れる?』

「うるさい、黙って!」
 不意にくるりは、腹から声を張り上げる。
 ぜえはあと、荒い息に肩が揺れた。
 聞こえている、|アクマのこえ《くらがりのこえ》。
 他は聞こえないのに、ずっとずっと。

 | 《うんうん、黙ってあげるよ。》
 | 《あはは、あはは!》

『あははは!』
 くるりは息を止める。
 耳の奥に出来た空気の膜が、五月蠅いわらい声を少しだけ遠ざけた。
 聞かない。
 聞こえない。
 心の中で唱えながら、くるりは寄り付いてきた面影へ手を差し伸べる。
「さびしい?」
 姿は家族のもの。でも、分かる。これは家族じゃない誰か。
「……いっしょにいかない?」
 いいものか、わるいものかも、分からない。
 それでも握り返された右手と左手。その両方の感触に、ささくれ立っていたくるりの心が、わずかに和む。
「いこう」
 くるりの足は動いた。そして広いとはいえない通路を、横並びで歩く。くるりの脳裡に、夕焼けの帰路を詠う童歌が響いた。
(ちがう)
 踏みしめる一歩一歩に、くるりは冷静な思考を積み重ねる。
 違う、これは家族じゃない。ただ一緒に出口を目指す、一時の|同胞《道連れ》。その為に、くるりはこの迷宮にやってきたのだ。
 だから幻の郷愁に惑わされたりはしない。
(私は……|代わり《・・》はいらない――だって)

「帰るから、ぜったいに」

●くらがりのこえ
 |それ《・・》は一頻り嗤いに笑い、わらい疲れたところで、ふと声を潜める。
「へぇ?」
 |影《くらがり》の向こうに、人影が見えた。
「オレにも?」
 くつくつ。
 せっかく止まったわらいが、深淵の底から込み上げ、目には見えない波となって何かを揺らす。
「へぇ、へぇ、へぇ、そうなんだ! そう認識されるようになったんだ」
 ヒトならば、腹を抱えていただろう。或いは、のたうち回って手足をばたつかせていたかもしれない。
「そうだね、そうだ。オレが“見”るなら“あの日のきみ”だろう」

 ――過去の虚像、幻想はいらない。

「そんなの、無為だからね」
 |くらがりのこえ(I'm Devil・h06570)《アクマ》はほくそ笑む。
「オレはちゃぁんと、実像をつかみとるよ!」

『ねぇ、“くるり”!』

花途・過日

●One Day, in the Forest
 生い茂る枝葉の隙間から、オレンジ色の光が斜めに差し込んで来る。
 鏡の反射が眩しくて、視線を落とす。足元には黄色いスミレが咲いていた。
 馴染み深い、夏の森の景色だ。
 でも、ふとまた上げた視線の先。つるりとした肌の頬に、|花途《はなみち》・|過日《かじつ》(かいがらの|ゆめ《Regret》・h09026)はことりと首を傾げた。
 無造作に跳ねる髪の合間から覗く耳のフォルムは、獣特有の丸っこさを残している。その左側の縁から垂れさがる白い貝殻のイヤリングが、過日の仕草にそっと揺れた。
(……そうか)
 琥珀色に染まった自分の頬を眺めた過日は、今の自分がただの|獣《こぐま》でないのを改めて実感する。
 いや、頬よりも。繋いだ手の感覚の方が、心を強く震えさせる。
(きみと同じかたち)
 あの頃とは大きく違う。だのに|きみ《・・》は、あの頃とおんなじ笑顔で笑いかけてくれた。
 ぎゅう。
 過日の心臓は、何かに締め付けられたみたいに痛む。

 あの子は、過日を『ともだち』と呼んでくれた。
 あの子はニンゲンで、過日はくまだったのに。
 そして、あの子は。過日のせいで命を落としてしまった。

『逃げて』

 そういったあの子を置いて、|こぐま《過日》は暗い森を走った。
 あの時も森にはスミレが咲いていたかもしれない――そうではなくて。

 体が重い。二本足で歩いているせいではない。膨れ上がった後悔で、全身が大岩になってしまったよう。
 せっかく、きみと同じことばでお喋りができるのに。
 絞り出そうとする声は喉で震え、ひゅーひゅーと掠れた音にしかならない。
(おれはおくびょうものだから)
 だから、きみを置いて。おれだけが。おれ、ひとりだけが。

 ――まって?
「……あ」
 聞こえた少女の訴えに、過日は足を止める。
「ご、ごめん」
 無意識に繋いだ手に力を込めてしまっていた。
「痛かったよな、ごめ――」
 慌てて離そうとした手を、まろやかな少女の手が引き止める。
 ――だいじょうぶ。
 ――だいじょうぶ?
 過日の様子を窺う少女の眉は下がっていた。『かなしい』とは違う、『しんぱい』の顔なのを、人のかたちになった過日は|知っている《わかる》。
「……ごめん」
 一度は遮られた謝罪を、過日は今度こそ伝えきる。
 声の震えは止まらない。けれど構わなかった。構うはずがない。だって、だって。
「おれはきみに謝りたかったんだ、ずっと」
 ずっと、ずっと。
 ずっと、ずっと、ずっと。
 なのに。
(きみじゃない)
 目の前にいて、手を繋いでいてくれる少女は、『あの女の子』ではない。
 夏の夕焼け、無数の鏡。
 映し出されるものも、そうでないものも、全ては幻。そういうものだと、最初から識らされている。
(きみじゃ、ないんだ……)
 |こぐま《過日》を「ともだち」と呼んでくれたあの子は、もういない。
 過日を苛む現実は、夏の終わりに押し寄せる風雨のよう。強くて、激しくて、身を隠した窖の中まで容赦なく蹂躙する。
 現実は、どうしようもなく現実で。|今《・》は覆らない。
「……あ」
 頬を何かが伝った感触に、少女に引き止められた時と同じ呟きを、過日は繰り返す。
 ぽろり。
 胸に滴が落ちた。
 続けてぽろぽろと零れそうな|それ《涙》を、過日は慌てて手の甲で拭う。
「……ひとのすがたは、こういう時に不便だ」
 謝りたかった。
 けれどそれは永遠に叶うことのない“ねがい”。
「いこう?」
 わだかまる痛みを胸に、過日は再び歩き出す。

 夕闇はいつも静かに近付いて来る。
 同じように目前に迫った迷路の終わりに、過日の歩みは鈍さを増す。
 ――だいじょうぶ?
 また、少女が尋ねる。
(これも、うそ)
 全部、全部、全部、|嘘《紛い物》。
 分かっていても、過日の足は止まりそうになる。
(きみの手を、)
 離せない、離したくない。
 振り払えないやるせなさに、過日は歯を噛み締めた――その時。
「あ」
 小さな衝撃に、過日は目を見張る。
 はっきりと輪郭を結ぶ鏡の中、頭の上で羽ばたく|ともだち《小鳥》が、白い貝殻のイヤリングをつついていた。
(そうだ)
 過日は目を閉じる。
 目蓋の裏に浮かぶ|光景《記憶》をなぞる。
 おもいでが、白く煌めく。

(これ、は。あの子が落としていったもの。あの子が、託してくれたもの)

「……そうだな、立ち止まってはいられない」
 過日は瞼を押し上げ、力強く踏み出す。
 手は離さない。
 嘘であっても、なくても。
 |きみ《・・》をここに残してはゆけない。この面影は、外に出ることを望んでいるから。
「いっしょに、いこう」
 置いてはいかない。

 二本の足で地面を踏み締め、過日は“あの子”と同じ形になった手で、自分より小さな手を柔らかく握り、迷いなく引く。
 緑も花もないコンクリートの地面に、ブーツの踵が高く鳴った。

鬼臨坂・弦正

●夜去方、独り
 高く聳える|巨塔《ビル》も鉛丹色に染まっている。
 何処とも知れぬ世界より訪れ、幾許の時が流れたか。未だ馴染まぬ風景を射干玉の眼に映しながら、|鬼臨坂《きりんざか》・|弦正《げんじょう》(金輪際・h07880)は手を引かれて歩く。
 一歩、また一歩。
 足を進める度に、一枚、また一枚と世界を映す鏡も変わる。
 天を目指して咲く金色の大輪の群れ、色とりどりの電飾に賑わう隘路、南風にそよぐ水稲の海原、影が長く伸びた何の変哲もない道、他。夫々、様々。
 翳を落とす前髪の下、弦正は眩しさに目を細めた。
(……妙な感慨だ)
 何れの景色にも覚えはない。
 弦正が手にすることを許されたのは、霊剣や妖剣の柄ばかり。そも、世俗に触れるのを禁じられていた。
 故に、夏景色を眺めながらの逍遥など、弦正の|道《生》に有ろうわけがない。

 だというのに。

 白い半衿の内側を覗きでもするように、弦正は視線を落とす。
 膚の下に息衝くものの動静は知れぬ。が、疼きに似た何かを裡に感じる。
 おそらくこれは、懐古の念。
 このまま歩み行けば、帰郷を果たせるのではなかろうか。
(まさか)
 砂浜を洗う波が如く寄せる思念に、弦正はとりとめのない息を吐く。
(郷愁――?)
 くすぶる淡い望みには首を傾げるより他はなく。しかも望郷に端を発しているとは、我が事ながら釈然としない。

(嘗ての俺に友はない)
 手を引かれ、弦正は尚も歩く。
(親は在ったが、傍には無かった)
 柄を持つのが然るべき右手を引かれ、歩いている。
(なれば)
「たそがれ刻、か」
 褪めた己が膚さえも茜に彩る時分をなぞって弦正は呟く。
 黄昏。
 たそがれ。
 たそかれ。
 誰そ彼。
 斯様に手を引く者は誰そ。
 一様に同じ装束に身を包んだ、|巫《おんな》や|覡《おとこ》の一人であろうか。
 確かによくよく、何から何まで世話してもらいはした。
 さりとて、こうまで懐旧を誘う由縁や如何に。

 つ、と。弦正は目を向ける先を上げる。
 そして、ゆっくりと首を横へと巡らせた。
(……能く、見えぬ)
 流れ行く夕景は、変わらず鮮やかな像を結び続けている。
 にも関わらず、その手前に在る面影だけが、輪郭をどうにも暈けて、姿形を弦正に捉えさせない。

「……、」

 はく、と。
 中途半端に吐き出した息が、唇の際で掠れた音を立てた。
(かわたれそ)
 彼は誰そ。
 そうは問えぬ。そうは問わぬ。
 覚えている、分かっている。
 手を引いてくれる者なぞいないのだ。
(……居なかったのだから)

 弦正は歩く。
 草履が奏でる調子は、早くもなく、遅くもなく。ひたすらに一定を保ち、刻んで。
 引かれるに任せた身は、時に右へ左へ。
 やがて空は深藍が優勢となり、東の方から星がぽつぽつと瞬き始める。
 鏡の中の畦道。数羽のハクセキレイがチチン、チチンと鳴きながら低く飛ぶ。家路を急ぐ、家族のようだ。
「……矢張り、俺には向いていない」
 ひたりと足を止め、弦正はぱっと手を離す。
 此れは夢。見続ける事は、自分には不似合い。
「もう結構、これより先は己で探す」
 追い縋る手はなかった。
 虚ろになった掌を、弦正はやんわりと握り込む。
「ここからならば、お前も往けるだろう」
 研ぎ澄ます五感に障る害意は皆無。非力な面影であっても、振り返りさえしなければ、迷宮を脱し果せるはずだ。
 ともすれば――否、おそらく。親和性の高さを鑑みれば、面影の方が容易く出口へ辿り着けるだろう。それだけの時間を、共に|歩いた《過ごした》。

 弦正は目を閉じる。
 小さな足音が遠ざかってゆく。
 瞼を押し上げると、夏の残滓の夕暮れに、弦正はひとり。
 引く手はなく、夜の帳はもうすぐそこ。
 間もなく足元さえ見えぬ闇が来る。
 弦正は背筋を伸ばし、歩き出す。
 標なき道の永さは知れぬ。しかし弦正は立ち止まらず、美しい景色を映し続ける鏡にも惑わされない。

(独りでも往く――真に帰路を見付け出す迄)


 やがて深い夜が戦場に訪れる。
 その頃、魔物達の聖母の思惑より外れし鏡の迷宮は、争乱無き静寂へと帰す。

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