⑪うたかたアクアリウム
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透明な檻のような水の中では、何もかもが遠い。
誰かの声も、足音も、つい先程まで聞こえていたはずのショッピングモールの賑わいも。
フロア案内の看板も、色鮮やかな広告も、閉ざされた店舗の硝子戸も――すべてが深い海に沈み、静寂に包まれている。
呼吸をすれば、水泡がふんわりと昇る。
水泡を追いかけるように天井を見上げれば、降り注ぐ|照明《ひかり》はゆらめく水面に淡く歪んでいた。
水中に在るというのに不思議と息苦しさを感じることはない。
見惚れるように周囲を見渡していれば、視界の端をきらりと光るものが横切った。
ゆらり。ふわり。
長い尾鰭を揺らしながら、硝子金魚が泳ぎ去ってゆく。
陳列棚の陰から、吹き抜けの向こうから、停止したエスカレーターの隙間から、無数の硝子金魚たちが姿を現す。
ゆらり、ふわりと優雅に泳ぎ、思い思いの場所へ散ってゆく硝子金魚たちを見送った。
――そのとき。
そこにあるはずの大切なものが、失われていることに気付いた。
手を伸ばせば触れられたはずのもの。
いつも傍らにあったもの。
或いは、決して忘れることなどないと思っていた記憶や、胸の奥で大切に抱えていた感情。
確かに自分のものだったはずの|何か《・・》が、なくなっていた。
●
「ゆらゆら、ふわふわ。水中を泳ぐ硝子の金魚さんは綺麗ですが、いたずらっこで困っちゃうのです」
集まったEDEN達を見渡して、祈紡・フィユ(夢境・h12707)は、ぷくっと頬を膨らませて話しかけた。
新たな王権執行者の手によって、ららぽーと福岡は危険なモンスター城へと変貌してしまった。
今回踏み込んでもらうのは、水中ダンジョンと化した一角だ。
「完全に水没しているのですが、呼吸は問題なくできますし、おしゃべりすることもできるのです。移動は泳ぐことが中心になると思いますが、水底を歩くこともできるのです」
ゆえに、問題となるのは水そのものではない。
問題となるのは、この水中ダンジョンに出現する『シーフフィッシュ』だ。
宝石の瞳と硝子の身体を持つ、ハーバリウムの金魚に似たモンスター。この金魚には少々困った性質がある。
「見た目はとっても綺麗な硝子の金魚さんなのですが、気に入った『宝物』を何でも奪っちゃうという困った性格をしているのです。みなさまも、踏み入れた途端に『宝物』を盗られちゃうと思うのです」
『宝物』は人によって異なる。
例えば、武器や装飾品、長く愛用してきた道具。
誰かから贈られた品や、大切な者の形見――それだけではない。
「思い出や感情のように、本来は形を持たないものまで奪われる可能性があるのです――場合によっては、かけがえのない誰かまで『宝物』にされて、奪われちゃうかもしれないのです」
そうして、奪われたものは、シーフフィッシュの硝子の身体に抱かれる。
そして宝物に込められた想いに応じて、身体の中に異なる花を咲かせるのだという。
「花は、みなさまの宝物を奪った金魚さんを見つける手掛かりになるはずなのです」
シーフフィッシュ自体は、さほど強力なモンスターではなく、√能力者であれば容易く倒せるだろう。
もっとも、数多の金魚が泳ぐ水中ダンジョンから、目当ての一匹を探し出すことは容易ではない。
探すためには、自分の大切なものを想い――場合によっては、向き合う必要がある。
「どうか、取り戻してきてください。みなさまの大切なものを――もう一度、大切に抱き締めるために」
その人にとって、何ものにも代えられない宝物はある。
遠ざかってしまった大切なものを再びその手で抱き締めたとき――もしかしたら、初めて分かる想いもあるかもしれない。
第1章 集団戦 『シーフフィッシュ』
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ゆらめく光がやわらかく雪願・リューリア(願い届けし者・h01522)の姿を淡く照らしていた。
簒奪者と激しい戦いが行われているなんて思えぬほどに、水の中は静寂で満ちていた。
(――夏には、ちょうど良さそうな場所だな)
水中だというのに、不思議なことに息が出来る。
水は心地よくリューリアを包んで、見上げる水面の光だって美しくて。
たとえば、こんな光景を|彼女《・・》に見せたら喜ぶだろうか。
(なんらかの方法で、この光景を収めることはできないだろうか)
息はできるといえど、此処で電子機器を使うのはさすがに毀れてしまうだろうか――其処まで考えて、ふと気付く。
「あれ……我は、この光景を誰に見せたいと考えていたのだろう?」
この光景を誰よりも見せたいと思っていた相手の記憶が、ゆらめく水面のように曖昧になっていることに。
そうして、遠くを眺める。
遙か先で游ぐ硝子の金魚たちを、今は追いかけなくては――。
❀
ゆるりと水中を游ぐ光景を風渡・叶(明るく友達想いのお嬢様・h02930)は、ぼんやりと眺めていた。
(あら、まぁ……)
気がつけば、水中ダンジョンの中で宝物にされてしまっていたらしい。
いったいどのような状態なのかはわからないけれど、どうやら叶は硝子金魚の中から外の光景を眺めているらしい。
「|私《・》は|記憶《宝物》として囚われてしまったようですわ」
斯様に硝子金魚の中で水中の光景を見る叶は、本物の叶ではない。
リューリアの中で形取られた彼女との想い出――其れが、何の因果か一時的に意識を持った存在に過ぎない。
(リューちゃんは必死に探してくれているのでしょうか?)
記憶の持ち主である幼馴染みのことを考える。
(まるで囚われのお姫さまのような気分ですわ)
叶は、何度も辿り読んだ御伽噺を想い出す。
攫われ、囚われた姫は助けにきた王子によって救われて、幸福な結末を迎える。
(……王子様役としてのリューちゃんは、少し危なげですわね)
それでも、大切な幼馴染みのことを信じて、叶は白いガーベラを咲かせた。
❀
朧気になった想い出を辿る。水面のように曖昧な記憶の中で最初に思い出したのは、白いスカートだ。
軽やかな白いスカートの裾が夏風に靡いている。
夏空にも似た双眸を柔らかく細めて、語る夢はお洒落な服を好む彼女らしかった。
行く手を阻む水面を掻き分けて、進んだ先――観葉植物の隅に、白いガーベラの花を咲かせる硝子金魚の姿があった。
「――見つけた」
リューリアには、これが探していた宝物を抱えた硝子金魚なのだと理解できた。
最初は穏便に返してくれさえすればよかった。されど、話が通じるような相手ではないらしい。
仕方在るまい。返してもらうぞ――そう囁いて、リューリアが放った波動弾が金魚を穿つ。
そうして、中から転がり出てきたのは小さいけれども、とても美しいペンデュラム。
拾い上げて、握りしめれば朧気になっていた想い出が輪郭を持った。
『小さい頃から、本当に変わっていませんわね』
脳裡に斯様な声が蘇る。穏やかに笑顔を浮かべて、それでも頬を染めて、不安そうなリューリアを優しげな表情で見守ってくれている。
「仕方ないじゃないか。見つけられたのだから」
『気恥ずかしかったですけれど、嬉しく思いますわ』
そうして、常に傍にある彼女との思い出をリューリアは大切に抱きしめる。
(――この輝く宝石のような宝物は、二度と失わないようにしなければな)
|還るべき場所《Anker》のもとへと、帰るために。
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名称:白花の導
分類:ペンデュラム
設定:清らかな白雪と清らかな空色を宿す水晶が揺れるペンデュラム。あなたへ繋がる道標。
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揺らめく水中を漂うように、天雨・汐璃(レイニー・リフレイン・h09450)は、当て所なく游いでいた。
水面から零れる光は曖昧で、水底に落ちる汐璃の影は頼りなく揺らいでいる。
(なんだか、足元が落ち着かないな)
いつもと何かが違う。
けれど、ぼんやりと己の影を見つめても、汐璃にはその理由が分からなかった。
(そういえば、ここをこんな風にした敵をやっつけなくちゃいけないんだっけ……どこにいるんだろう?)
あてもなく游いでいた汐璃の耳に、ふと、にゃーと鳴く猫の声が届いた。
(あたしのこと、呼んでるの?)
水の中だというのに、その声が己を呼んでいることだけは、不思議とはっきり分かった。
声だけを道標に游いだ先で、一匹の硝子金魚が我が物顔で游いでいる。
硝子金魚の裡に咲くのは、曇り空みたいな灰と水色の不思議なクリスマスローズ。
見たことのない花なのに、見つめればどうにも懐かしさが胸いっぱいに広がった。
「――ああ、そうか。あたしの宝物……猫くん、そこにいるの?」
硝子金魚に向かって汐璃が問えば、返事をするように小さく『にゃん』と鳴く声がする。
己の宝物は、あの硝子金魚の裡に抱えられているらしい。
何故ずっと足元が落ち着かなかったのか、今になってようやく分かった。
「待っててね。すぐに出してあげるから」
もう二度と見失わないよう、汐璃はその硝子の身体をまっすぐに見据える。
汐璃が硝子金魚へ手を翳せば、水中に射す光芒がその身体を貫いた。
砕けた硝子片が水中へ舞い散り、その中から解き放たれた猫がぴょんと胸元へ飛び込んでくる。
しっかりと受け止めると、猫は不満げに耳を伏せ、尻尾の先をぱたぱたと揺らした。
「ごめんね、遅くなって」
少し拗ねているのか、猫はぷいと顔を背けている。
不機嫌を訴えているつもりでも、汐璃の腕から降りようとしないあたり、会いたかった気持ちは隠せていない。
「いっぱい撫でたら、機嫌を直してくれるかな?」
そっと頭を撫でれば、もう一度だけ抗議するように鳴いてから、猫は甘えるように額を押しつけてきた。
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名称:Minou
分類:鍵
設定:古びた銀の鍵。持ち手を飾るラブラドライトが、曇天の彼方で星のような青い光を放つ。
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水面から零れる光は曖昧で、水中の冷たさと幽かな暗闇が、辺りをやわらかく包んでいる。
「すごく綺麗……」
暁・蓮月(霧中之蓮・h12991)は水底を歩きながら、思わず足を止めた。
見上げる先には水面を横切る金魚の群れ。硝子の身体が揺らめく光を反射し燦めいている。
その光景を穏やかな心で見惚れるように眺めているうちに、ふと違和感を覚える。
胸の奥が、妙に静かだった。
奪われたのは、蓮月が抱く|悪への憎悪《立ち上がる理由》。影孔雀に時折喰われることはあっても、尽きたことなど一度もなかった。
絶えず胸の底から湧き上がっていたものを、硝子金魚は跡形もなく飲み込んでしまったらしい。
「無尽蔵に湧き上がるものまで、盗めるんだ」
静かになった心は、穏やかで心地よかった。このまま、水の流れに身を任せて揺蕩っていられたのなら、どれほどに楽だっただろう。
それでも、蓮月はその感情を手放す気にはなれなかった。
「――あの感情は、俺が生きる目的、立ち続けるための理由。前へ進むために必要なんだ」
足を取られそうな水の流れに負けないように、しっかりと水底に足を付けて蓮月を進む。
喪われたものを思いながらひたすらに歩き、辿り着いた先で悠々と游ぐ硝子金魚の姿を見つけた。
硝子金魚の裡には、墨色の枝から深紅の梅が咲き零れていた。
水中に揺らぐ花びらは、消えることのない火種のように赤く燦めいている。
「ねえ、返して。君には必要のない物でしょ?」
紅梅は厳しい冬に花開き、凍てつく寒さの中でも決して俯かない。
その紅は、蓮月が立ち続けるために抱いてきた、消えない火の色だった。
「空っぽだから飲み込むの?」
反応がない硝子金魚に言葉を重ねる。薄暗い水の中で鈍く光る宝石眼には害意も悪意も感じられない。
ただ気に入ったから飲み込んだだけで、奪ったものの重さなど知らないのだろう。けれど、あれを失ったままでは、蓮月の方が空っぽになってしまう。
「でもあげない――力尽くでも返してもらうよ」
幻華扇を振るい、硝子金魚を斬り祓う。
砕けた硝子片が水中を舞い、その間を縫うように、奪われていた感情が蓮月の胸へ還ってきた。
胸元へ手のひらを重ね、確かに再び宿った熱へ安堵する。
「――良かった。これでまた戦える」
❀
水面から射し込む光が、水中に沈んだショッピングモールを淡く照らしている。
水底を歩きながら、与田・宗次郎(半人半妖の汚職警官・h01067)は己の持ち物を確かめていた。
「大切なものねぇ……」
配下妖怪たちは、今は此処にはいない。
武器や防具も、大切に使ってはいるが、言ってしまえば替えが利くものだ。
「なら、おいちゃんは大丈夫――」
胸元へ伸ばした手が、空を切った。
「あっ、警察手帳がないっ!!」
先程までの呑気な調子はどこへやら、宗次郎は慌てて頭上を見上げる。
水中を悠々と游ぐのは、数え切れないほどの硝子金魚。あの中の一匹が、警察手帳を飲み込んでいるらしい。
「警察手帳の紛失、確か偉い人から詰められるんだけど……」
腰の探偵刀へ、藁にも縋る思いで手を掛ける。
謎を斬るというのなら、この中のどれが犯人なのか教えてほしいものだ。
「……それだけじゃないからねぇ」
警察手帳は、身分を示すだけのものではない。
警察官として勤めてきた日々の記憶が、水面に揺れる光のように、ひとつ、またひとつと胸に浮かぶ。
困っている者へ手を差し伸べ、無事に助けられたこと。どれほど手を尽くしても、助けられなかった者がいたこと。
親しくなった者もいれば、敵対した者もいた。人も、妖怪も、等しく記憶に残っている。
どれひとつとして、警察手帳そのものに刻まれているわけではない。
それでも手に取れば、これまで積み重ねてきた経験と、出会った者達の顔が思い起こされた。
警察手帳は、宗次郎が今日まで歩んできた道を示す、ひとつの澪標でもあった。
「おいちゃんは、きっと死ぬまでお巡りさんだからさ」
そう呟いて歩き続けた先で、宗次郎は一匹の硝子金魚を見つける。
透明な身体の裡には、濃青の竜胆が幾輪も咲いていた。
硝子の内に時を留めたように、真っ直ぐな茎を伸ばして凛と咲いている。
「返しておくれよ」
返してほしいのは、偉い人に叱られるからだけではない。
それは、今日まで警察官として歩んできた証であり――これからも歩き続ける己の、かけがえのない宝物なのだから。
❀
水面から射し込む光が、水中に沈んだショッピングモールを淡く照らしている。
游ぎ去る硝子金魚たちを青い瞳で見送って、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は胸元に手を伸ばした。
「……ない」
指先が触れたのは、何もない胸元。
彼から貰って以来、片時も離さず身につけていた|Reminiscence《ネックレス》が消えていた。
「どうして……」
喪失に気付いた途端、胸の内へ冷たい空洞が穿たれた。
広い世界――或いは、光も届かぬ深海へ、たった独りで放り出されたような心細さに襲われ、酷く不安になる。
――早く探さなければ。
焦燥に衝き動かされるまま、喚び出した全てのドローンと感覚を共有して、ネックレスを探しはじめる。
幾つもの視界が水中を飛び交い、陳列棚の陰も、吹き抜けの先も、停止したエスカレーターの隙間も虱潰しに探す。
流れ込む膨大な情報に、頭の奥が軋む。
されど、共有を解かなかったのは身体に掛かる負荷よりも、大切なものを失ったままでいることのほうが耐え難かったからだ。
「――見つけた」
やがて、幾つもの視界のひとつが、悠々と游ぐ一匹の硝子金魚を捉えた。
透明な身体の裡に咲いているのは、夜を溶かしたような青紫の桔梗。
奪われたものの姿は見えない。それでも、その花を認めた瞬間、目当ての一匹だと不思議と分かった。
ドローンの視界を頼りに硝子金魚を追いかけ、辿り着くなり魔力を刀の形へと錬成する。
(――大切なものを、傷つけたら本末転倒だ)
切っ先が狂わぬよう、魔力の刃へ静かに力を籠め、慎重に狙いを定める。
一閃。
居合の一閃が硝子金魚だけを斬り裂き、砕け散る硝子片の中からネックレスが水中へふわりと漂い出た。
クラウスは必死に手を伸ばして宝物を受け止める。
掌に戻った感触を確かめるように、しっかり握りしめてから胸元へ強く抱き寄せた。
そして、ようやくクラウスは冷静さを取り戻す。
戦場で冷静さを失い、己の身を顧みずに探し回っていた。その事実に、今更ながら呆然とする。
いつの間にか彼は、己の中で大きな存在となっていたらしい。
❀
色褪せた広告も、人の気配がない店舗も、止まったままのエスカレーターも、水面から零れる光に照らされていた。
見慣れたはずのフロアは、揺らめく水の膜を隔てただけで、遠い時代に沈んだ遺跡のように見える。
その間を硝子金魚たちが自由気儘に游ぎ、商品棚の陰から現れては、きらりと光を弾いて消えてゆく。
誰にも捕まらない悪戯な宝石だけが、この沈んだショッピングモールの主となったかのようだった。
「……何も奪わせない」
真壁・蒼穹(飛燕空剣流末弟子・h02281)は、水中を游ぎ来る硝子金魚を迎え撃つ。
一瞬、懐へ入り込まれた。されど、すぐさま攻撃を放てば、金魚はくるりと身を翻し――何処かへ游ぎ去ろうとする。
奪われる前に退けられたのか――蒼穹がそう考えたのは、今にして思えば楽観に過ぎなかった。
「アキさん、大丈夫――何か、異常とかは、」
そうして、蒼穹は振り返り――言葉を失った。
恵宮・アキ(恋愛知らぬ心優しき乙女・h13025)は、変わらず其処にいる。
金魚たちに連れ去られたわけでもないし、見た限りでは、身につけていたものを奪われた様子もない。
それなのに蒼穹はすぐに異常を察した。
「……アキさん、ねぇ、返事して」
アキの藍色の双眸は、硝子金魚たちの姿を追っていた。
その表情からはすとんと本来あるべき|感情《いろ》が抜け落ちていた。そうして、アキはおもむろに歩き始めた。
「え、ちょっと、待って!」
蒼穹の制止も聞かずにアキは硝子金魚たちの方へと歩き去る。
アキの感情を奪い去った硝子金魚は、逃げることなく、まるでアキが来るのを待ち構えていた。
あっという間に追いつくと、アキは無言のまま硝子金魚を素手で叩き、拳をぶつける。
けれど、硬い硝子の身体はびくともせず、鈍い音だけが水中へ響いた。
それでもアキは、己から感情を奪った硝子金魚へ拳を打ちつけ続ける。
――その隙だった。
別の一匹がふわりと背後へ回り、その宝石眼をアキへ向ける。
次の瞬間、アキの姿が掻き消えた。
(……何で、アキさんが?)
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
アキを抱えた硝子金魚の裡からは、ひたすら硝子を殴りつける音が響いている。けれど、内側からではどうにもならないらしい。
やがて二匹の硝子金魚は連れ立つように尾鰭を翻し、その場から泳ぎ去ろうとした。
「待ってて、今すぐ助けるから!」
蒼穹は箒へ飛び乗ると、水を裂くように加速した。逃げる硝子金魚たちへ狙いを定め、幾度も攻撃を放ちながら追い縋る。
金魚の裡では、アキが変わらず拳を打ちつけていた。
「アキさん、聞こえる? 私は此処にいる。だから――戻ってきて!」
蒼穹の声に呼ばれたように、内側から硝子金魚を叩く音が止んだ。硝子金魚の裡に抱え込まれたアキが叩くのをやめて、振り返ったのだ。
声が届いた――そう確信すると同時に、蒼穹は攻撃を放つ。
常識改変の炎を宿した一撃が二匹の硝子金魚を捉え、誰かの大切なものを奪うという理そのものを焼き払った。
「あれ……?」
砕けた硝子の中から解放されたアキの顔に、失われていた|感情《いろ》が戻る。
何があったのか記憶はある。それでも実感が追いつかないように、アキは戸惑って瞬いた。
その姿を前に、蒼穹の胸から感情が一度に溢れ出す。けれど、何ひとつ言葉にはならなかった。
ただ無事を確かめるように、アキを強く抱き締める。
アキは僅かに目を見開いた後、蒼穹を安心させるように、そっとその背へ腕を回した。
❀
ゆらめく水面から降り注ぐ光の中を、硝子金魚たちが悠々と游いでいる。
その美しさを眺めていた睡眠寺・静時(移動するフォークロア・h01690)は、不意に視界の狭さを覚えた。顔へ垂れた髪を指で払い、ようやく異変に気付く。
「ヘアピン! 盗られているではありませんか」
指先でぱたぱたと何度もなぞるように前髪を弄って確かめる。
いつも髪を留めていた、水色と銀色のピンがひとつ残らず消えていた。
(うちはお顔を出すことで頑張って人間性を担保しているのですぞ。あれが無いと、どうにも暗〜い気持ちになってしまうのです)
斯様なものを狙って奪い取るとは、なんとも性格の悪いお魚である。否、性格というよりも性質だろうか。
何にせよ、この狼藉を赦して見逃してやる必要もない。
水色のピンも、銀色のピンも、静時にとっては、なにひとつ欠けてはならぬほど大切なもの――此処は取り返しに参るのみ。
「取り返しに参りましょうや――とはいえ、慌てすぎも良くありませんね。深呼吸、深呼吸」
何度か深呼吸を繰り返して、気持ちと呼吸を整える。そして、しっかり前を見据えてから泳ぎ始めた。
ふわりと宙に浮いて、壁を軽く蹴って、時には水底も歩く。
時折硝子金魚たちとすれ違うものの、彼らが抱く花は静時が探すものとは違うものだと、何故か直感できた。
ならば、ひとりで探す必要もない。
静時が喚び出したおばけ達も、逃げた金魚を探すためぷかぷかと水中へ散ってゆく。
ぷかぷか。ゆらゆら。おばけの子たちは、思い思いに水中を漂いながら、賑やかにお魚を探し回る。
棚の陰を覗き込むもの。吹き抜けを漂うもの。天井近くまでふわりと昇って見渡すもの。
やがて一体のおばけが、くるりと振り返って静時を手招いた。
その先を游ぐ硝子金魚の裡には、水色の睡蓮が咲いていた。
「ようやく見つけましたぞ」
驚かせぬよう息を潜め、背後からそっと距離を詰める。
そして逃げられるよりも早く、ぱちりと両手で硝子金魚を挟み込んだ。
「悪い子。うちの大切、返しなさいな」
静時の手の裡で、硝子金魚は小さく尾鰭を揺らした。
༺❀༻ ◌。𓂃𓈒𓏸。◌ ༺❀༻
名称:月映
分類:花
設定:月明かりを映した銀のように淡く輝く硝子の睡蓮。失くせぬ想いを映して咲く。
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水面から射し込む幾筋もの光が、水の揺らぎに合わせてゆらゆらとたゆたっていた。
細長く伸びては揺れ、また目の前へ差しかかる。その動きは、どうにもねこじゃらしめいて見える。
「にゃ……?!」
佐久良・スイ(かぎしっぽの「さくら屋」店主見習い・h04737)は、猫耳をぴくりと動かした。
追いかけたい。手を伸ばして、ぱしりと捕まえてみたい。けれど、まずは隣にいる望月・翼(冀望の翼・h03077)にも教えてあげなくては――。
「たすくくん! あれ、ねこじゃらしみたいなのよ!」
うずうずを隠しきれぬまま振り返る。
だけれど、つい先ほどまで隣に居たはずの翼の姿は、其処にはなかった。
「……たすくくん?」
か細く頼りない光ばかりが、何も知らぬ顔でスイの足下で揺れている。
スイの大切なものは、スイが暮らす『さくらや』のみんなだ。今日一緒に居る翼だってそう。
翼はスイにとって、大切な人――だから、いなくなったら探しに行かなくてはいけない。
「むぅ、さがすのよ!」
スイは祈るように理想の姿を思い浮かべながら念じる。
願うのは、水の中でも自由に泳ぎ回る魚――いいや、魚をぱくりとできてしまうイルカの姿。
ぽん、とスイの周りで無数の泡が弾けた。
次の瞬間、其処に現れたのは、桜色の猫耳とかぎ尻尾を生やした、何とも不思議なイルカであった。
「これなら、たすくくんをさがせるのよ!」
大きく尾鰭を振れば、身体はするりと水を切る。
陳列棚の合間を抜け、吹き抜けを駆け上がり、スイは硝子金魚の群れを掻き分けながら進んでゆく。
❀
一方その頃、翼は懐へ伸ばした手を、愕然としたまま止めていた。
「え、うそ……」
大切にしまっていたはずの写真がない。
顔を上げれば、淡い青の花を裡に咲かせた一匹の硝子金魚が、長い尾鰭を翻して遠ざかってゆく。あの魚に持っていかれたのだと、翼には直感的に解った。
「待って。持っていかないでよ、お魚さん」
それは、自分が自分であるための大事なもの。
取り返さなくては。その一心で追いかけるうちに、いつしかひとりきりで立ち尽くしていた。
上を見上げれば水面。下を見下ろせば水底。周囲は似たようなお店が並んでいる。
此処は一体何処だろう――ともにいたはずのスイとは、いつはぐれてしまったのだろう。
似通った水中の通路で、翼が途方に暮れて足を止めた、その時――。
「にゃあ!」
聞き慣れた猫の声とともに、水の向こうから桜色の奇妙なイルカが飛び出してきた。
「……スイちゃん?」
「たすくくん、みつけたのよ!」
自分を探しに来てくれたのだ。そう気付けば、翼の目尻に涙が浮かび――されど、どうしようもないほどに嬉しくなって笑った。
「そうだね。オレは一人じゃなかったね」
「たすくくんが、さみしいよ、かなしいよって泣いても、ちゃんとねここがついてるわ」
スイは翼の傍へ寄り添い、励ますように尾鰭を揺らす。翼も小さく頷くと、|珈琲色の獅子《カフェオ》を喚び出して、勿忘草の花を抱く硝子金魚を追い詰める。
翼の指示でカフェオが逃げ道を塞いで威嚇し、最後はスイが大きく口を開けた。
「ぱっくん、なのよ!」
硝子が砕け、水中へ放り出された写真を翼は両手で受け止める。胸元へぎゅっと抱き締め、安堵の息を吐いた。
主人格の家族も、写真も大切だ。だけれど、今はそれだけではなくて――。
「ありがと。スイちゃん、カフェオ」
「もうひとりにしないのよ。いっしょにおうちへかえりましょ?」
❀
水底から見上げる光は何よりも燦めいて見える。
それなのにこの胸は、これよりも眩しく、あたたかな輝きを知っていると訴えていた。
(――誰の光を、忘れている……?)
結・惟人(桜竜・h06870)は静かに胸に手を当てて考える。
確かにこの胸には何かがあった。それだけは解る。なのに、それが何かが解らない。
星の消えた場所だけが夜空に残るような――そんな空白が、理由の分からぬ焦燥となって胸を締めつけていた。
伏せるように視線を落とすと、胸元に鈍く燦めく金細工の髪飾りが惟人の髪先で揺らいでいる。
『――この髪飾り綺麗ですね。私たちの目と同じ……』
ふと、斯様な言葉が胸裡に浮かんできた。
声音も、言葉を紡いだ人物の表情も、何ひとつ思い出せない。
この髪飾りは瑶燈市の土産屋で買ったことは覚えている。それなのに、誰と行ったかが思い出せない。
(その人の記憶が奪われたのか……?)
失くした欠片を数えることにも疾うに慣れた自分だ。されど、この記憶だけは――あの人だけは、もう二度と失いたくない。
――早く見つけなくては。
水を蹴る足は急く心に縺れそうになる。それでも惟人は、片っ端から硝子金魚を追い続けた。
やがて見つけたのは身体の裡に木香薔薇を咲かせた硝子金魚。
「……っ」
惟人の胸が痛みを訴え、奪われた記憶の在処を教えてくれた。
あの木香薔薇の硝子金魚の裡に、奪われてしまった己の大切な記憶が抱かれているのだと。
「それを返してくれ、もう何も忘れたくない……!」
焦燥。切望。哀願――胸裡を廻る様々な感情が激情と化す。
伸ばした惟人の手が龍と化して、硝子金魚の身を引き裂く。澄んだ音とともに硝子が砕け、星の光のような煌めきが水中へ散った。
「……嗚呼、良かった」
胸に、彼女の体温にも似たぬくもりが還ってくる。
取り戻した彼女の記憶を抱くように胸を押さえて呟くのは、記憶の中で瞬く愛しい星の名。
木香薔薇は、初めて会った時に咲いていた花。
咲きすぎた花を貰ってくれたあの日から、きっと己の心裡の蕾は彼女の星灯りに綻んでいたのだろう。
星灯りに育まれた花は、とうに胸の奥深くへ根を張っていた。
重ねてきた日々は、大切な記憶と想いとなってこの胸で咲いている。
(――もう、誰にも渡さない)
遙か彼方、天涯に輝く星へと手を伸ばす。
赦されずとも、叶わずとも、届かずとも――もう、この心は、あの星灯りを求めてしまうのだから。
❀
水面から降り注ぐ光は、幾重もの薄絹のように水中でほどけ、沈んだフロアの床や硝子張りの店先を淡く照らしていた。
呼吸のたびに零れる泡がきらきらと昇り、遠くに並ぶ看板や陳列棚の影は、水の揺らぎに合わせてゆっくりと形を変えてゆく。音さえも柔らかな水に包まれた世界で、硝子金魚だけが長い尾鰭を翻し、宝石めいた光を散らしながら自由気儘に游いでいた。
そのとき、ゆらゆらと游ぐ一匹の硝子金魚が、二人の間をすり抜けていった。
長い尾鰭が視界の向こうへ消えた、その直後――。
「……あれ?」
四之宮・榴(虚ろな繭〈|Frei Kokon《ファリィ ココーン》〉・h01965)は首元へ指を添え、そこにあるはずの重みを探した。
指先が触れたのは、何もない素肌だけ。
「……僕のスファレライトのチョーカー……大切なモノは、何処でしょうか? さ、さっきまで……首に掛かっていたのに……!?」
慌てながらも、あの硝子金魚に盗られてしまったのだと直感する。
傍らにいる和田・辰巳(ただの人間・h02649)へ、起きたことを話そう――そう、振り返った時だった。
「え、大丈夫?」
榴の異変を察した|半身《辰巳》が口を開く。されど、辰巳の視線はうまく定まらない。
辰巳もすぐに自らの異常に気付いたらしく、しきりに瞬きを繰り返した後に小首を傾げた。
「あれ、おかしいな……」
右目の調子が悪い。光さえ捉えず、榴の顔も輪郭が曖昧に見える。
それでも、いつもの調子で歩き出そうとした途端、距離を測り損ねて足を縺れさせた。
「……って、辰巳……? 大丈夫、ですか?」
「ごめん、大丈夫じゃないかも。右目の視力を持っていかれたっぽい」
榴は迷わず、辰巳へと手を差し出す。
「……手を貸しますか?」
「うん。今は貸してほしい」
「……はい……僕の手を、握って下さい……?」
微笑んだ榴は、辰巳の手のひらへ自らの指を重ねた。
辰巳がその指を絡めれば、恋人繋ぎになった両手が水中で固く結ばれる。
二人は水底を蹴って駆け出した。
榴は泳げない。辰巳も片目を奪われ、遠近を上手く測れない。
水底を征くふたりの歩調は意識するまでもなく合っていた。榴が一歩を踏み出せば、辰巳も同じだけ進む。辰巳が障害物を避ければ、榴もぴたりと身を寄せる。
陳列棚の合間を縫い、吹き抜けへ続く階段を上り、逃げだした金魚の姿を探す。
片側を失い、距離さえ曖昧になった視界の中でも、辰巳は怯むことなく、狼藉を働いた金魚の姿を探す。
(俺の琥珀の瞳を奪うとか、絶対に許さない。これは半身になった時に、互いの色を分け合った証なんだから)
繋いだ手から、榴の微かな震えが伝わってきた。恐らく、本人は無意識なのだろう。
己が渡したものを大切にしてくれているのは心の底からありがたい――だからこそ。
(榴を悲しませる奴は、無条件で敵だ)
握る手に力を籠めれば、握り返す榴の手にも同じだけの力が籠もった。
やがて二人の感覚が、同時にひとつの影を捉えた。
「急いで追おう!」
「……ええ……!」
吹き抜けの向こうを、例の硝子金魚が長い尾鰭を翻している。
その裡には、寄り添うように蔓を絡ませた二輪の連理草が咲いていた。
「……待って……っ! ……それは僕の大切なモノなのです! か、代わりなんて……無いから……持って行かない、で……っ」
辰巳から贈られた、ただひとつの宝物。
代わりなどない。だからこそ、呼びかける榴の声に切実さが混じる。
「……それは、半身の辰巳が……くれたモノなの。絶対に、絶対に……っ……!」
握り合う手に更に力が籠もった。
「悪いけど、今の僕たちは少し機嫌が悪いよ」
ふたりは息の合った動きで硝子金魚を追い詰め、その身へ同時に攻撃を叩き込む。
幾筋もの亀裂が、透明な身体を駆け抜けた。
澄んだ音とともに硝子が砕け、チョーカーと琥珀色の光が水中へ解き放たれる。
光はそのまま辰巳の右目へ吸い込まれ、閉ざされていた景色が一息に戻ってくる。
「……嗚呼、良かった……」
取り戻した視界で最初にはっきりと見えたのは、失われた宝物へ懸命に手を伸ばす榴の姿だった。
榴は取り戻したチョーカーを両手で受け止めると、傷がないか何度も何度も指先で確かめた。
「……何処も、変わってない? 貰った時の儘……?」
「うん。あの時のままみたいだね。やっぱり榴には、チョーカーが無いとね」
辰巳は榴の背後へ回り、その首へチョーカーを掛け直す。金具を留める際、きゅっと少しだけ絞めるようにして囁いた。
「今度は、きちんと無くさないようにね」
そうして露わになった首筋へ、そっと口づける。
榴は僅かに肩を揺らし、頬を染めながら振り返った。
「……あのぅ、辰巳……もう一回、お願いしても……いいですか……ぁ……?」
「もちろん構わないよ」
もう一度落とされた口づけに、榴はようやく安堵したように目を細めた。
「よかった。これで榴の方は安心だね」
「……ええ」
「榴……なんとか目も戻って来たみたい。僕の目、どうなってる?」
そう問いかければ今度は榴が辰巳の頬を両手で包み、その右目を慎重に覗き込む。
額が触れそうな距離で、ふたりの視線が重なる。されど、榴は照れる様子もなく、真剣な眼差しで辰巳の双眸を見つめていた。
「……辰巳の瞳は、何時も通り……大丈夫です」
琥珀色は、確かにそこに在った。ふたりで分け合った互いの色も、何ひとつ失われてはいない。
辰巳は己の頬を包む榴の手に、更に手を重ね合わせた。
「これで、一件落着……なのかなぁ。榴、そのチョーカーを大切にしてくれてありがとう。これからもよろしくね」
「……はい。こちらこそ……これからも、ずっと」
水面から降る光が揺らめく中、いま互いの瞳に映した表情を、きっと忘れることはないだろう。
❀
水中を満たす光は、透明な硝子を通るたびに淡く屈折し、境華の周囲へ幾重もの揺らめきを落としていた。
硝子の外では、宝石めいた金魚たちが悠然と尾鰭を翻している。
けれど、湾曲した硝子越しに見る景色はひどく遠く、伸ばした手も、昇ってゆく気泡も、すべてが触れられぬ夢の向こうにあるようだった。
(やはり、閉じ込められてしまったようですね)
神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)が気付いた時には、既に世界は硝子の向こうにあった。
見慣れた身体は確かにここにある。呼吸もできるし、手足も動かせる。けれど、どれほど手を伸ばしても、指先は透明な壁に阻まれてしまう。
「美しく幻想的ですが……困りましたね」
境華を閉じ込めた硝子金魚は、彼女の困惑など知らぬ顔で魚群の中を游いでいる。
このまま、何処に連れて行かれてしまうのだろう。気儘に游ぐ硝子金魚に運ばれながら、ぼんやりと外の光景を眺める。
だけれど、境華に不安はなかった。
(シンシアさんなら、必ず探しに来てくれる)
そう信じているから。
硝子越しに金色の髪を探す。幾匹もの金魚が視界を横切るものの、求める姿はなかなか見つからない。
(……強く想えば、発見の助けになるでしょうか)
そう考えて、境華はシンシアの姿を胸に思い描いた。
楽しいことを見つければ、迷うことなく真っ直ぐに飛び込んでゆく人。
戦いとなれば、何の躊躇いもなく背中を預けてくれる人。
美味しいものが好きで、特に酒を前にした時には、普段以上に楽しそうな顔を見せる人。
そのひとつひとつを思い返すたび、透明な檻の中にありながら、胸の裡には温かなものが満ちてゆく。
――そして、ふと気づいた。
(シーフフィッシュは、大切な宝物を奪う――)
物でも、記憶でも、感情でも。
その者が大切にしているものを見抜き、盗み去る|怪物《モンスター》。
(では、何故……私が?)
境華を閉じ込めた硝子金魚は、今も逃げるように水中を游いでいる。
つまり境華は、誰かから奪われたもので――そこまで考えた途端、頬が急に熱を帯びた。
(今……今、見つけられるのは……!)
恥ずかしさに、思わず硝子の奥へ身を隠したくなる。
けれど同時に、見つけてほしいという願いも、同じほど強く胸にあった。
❀
時は少し遡る。
游ぎ去る硝子金魚を視界の端に見送りながら、シンシア・ウォーカー(放浪淑女・h01919)は自らの持ち物をひとつずつ確かめていた。
「レイピアは手元にありますし、手袋もしっかりと……」
こそこそと懐を漁る。
装備品も、お気に入りのハンカチも、後で、こっそりふたりで食べようと思っていたイチゴのチョコレートもある。
ひとかけらだけ先につまみ食いしてしまったのは、此処だけの秘密だ。
「……はて、私は何を奪われたのでしょう?」
何か盗られているものはないでしょうか。
そう、いつも傍らにいるはずの彼女に尋ねようとして――ようやく気付いた。
「まさか――境華さんが?」
確かに、シーフフィッシュは人すら奪うと聞いていた。
けれど、まさか本当に、大切な人そのものを持ち去るとは。
「そうと分かれば、一刻も早く助け出さなければなりませんね!」
とはいえ、眼前には数え切れないほどの魚群が広がっている。
宝物を奪うという性質さえなければ、境華と二人で眺めたかったと思うほど、美しく幻想的な光景が広がっている。
(――彼女のことを考えていれば、見つかるでしょうか)
そうして、シンシアは彼女のことをひとつずつ思い浮かべる。
物語が好きな人。
甘いものが好きで、特にいちごには目がない。だから、福岡のおいしいいちごスイーツを出すお店を実はこっそり調べていた。
真面目でしっかりしているように見えて、実は表情が豊かで、時折見せる年相応の笑顔は、ひどく可愛らしくて――。
「あ、あれ……」
そこまで考えたところで、深い藍色の桔梗を裡に咲かせた一匹の硝子金魚が、ふと目に入り――何故だか、確信めいた予感がシンシアの胸を走り抜けた。
凜として、慎ましく、それでいて視線を奪わずにはいられない花。
「ふふ。実に境華さんらしい……。けれど、眺めている場合ではありませんね。今、助けますから!」
シンシアはレイピアを手に執り、幾重にも交差する魚影の向こうに居るであろう彼女の許へと、一歩ずつ確実に水底を進む。
「シンシアさん……」
一方、真っ直ぐこちらへ向かってくる金色の髪を見つけた瞬間、境華の胸の奥へ安堵が温かく広がった。
やはり、見つけてくれた――数え切れぬ金魚の中から、迷うことなく自分を。
「待っていてください。すぐにお出ししますから!」
シンシアがレイピアの切っ先を硝子金魚へ向ける。狙うのは、ただ一点。
境華を傷つけぬよう研ぎ澄まされた刺突が透明な身体を穿つと、切っ先から幾筋もの亀裂が駆け抜けた。
次の瞬間、ぱりん、と澄んだ音が響き、硝子は光の欠片となって砕け散った。
水中へ解き放たれた境華へ、シンシアは迷わず手を差し伸べた。境華もまた、その手へ躊躇なく自らの手を重ねる。
「ありがとうございます、シンシアさん――きっと、見つけてくださると思っていました」
「ええ。どれほど金魚がいても、必ず見つけますとも」
暫く、ふたりは見つめ合う。
あの花が何を表していたのか。境華には、今はまだ尋ねる勇気がない。
ただ、見つけてほしいと願った自分の手を、シンシアが今も確かに握っている。
――それだけで、今は充分だった。
❀
水面から降る光が、沈んだフロアの床へゆるやかな水の模様を描いていた。
硝子張りの店先も、並んだ陳列棚も、淡い青の底では輪郭を曖昧に揺らしている。
確かに在ったはずの賑わいも今は遠く、静寂の中を游ぐ硝子金魚が尾鰭を翻すたび、ただ幻想的な煌めきが水中へ零れる。
「……不思議な所だなぁ」
常磐・兼成(酒侵讃歌・h10142)は、水に沈んだショッピングモールと悠然と游ぐ硝子金魚を眺めながら水底を歩いていた。
冷たい水の裡には、濡れた石の匂いと――何処か懐かしい、気配がした。
そう、懐かしい――確かに、感じたはずだったのだ。
「あれ……?」
胸の裡を探ってみても、触れるのは不自然な空白ばかりだった。
失われてしまったはずの水辺の光景を、何故いまも懐かしく想えるのか――その心と自らの現状が、上手く結びつかない。
どうして――そう問おうにも、答えてくれるはずの記憶は其処にはなくて、深く息を零せば水泡がぷかりと昇ってゆく。
(――どうやら、大切なものを盗られてしまったようだね)
兼成は頭上を游ぐ硝子金魚たちを眺める。水の世界は我らの領域と主張せんばかりに游ぐ彼らは、きっと悪意など欠片もないのだろう。
かつて、自分があの硝子金魚たちに近い存在であったことは自覚している。
だからこそ、見逃すなんて理由にはならない。
「さて、取り返しに行かないと。手放すわけにはいかないからね」
游ぎ去る魚群を追って水底を進む。
足を運ぶたびに細かな気泡が舞い上がり、遥かな水面へ吸い込まれてゆく。
その眩しさを見上げれば、胸の奥に言葉にならない懐かしさが滲む。
「――みつけた」
記憶の痕跡を辿るように游ぎ進んでいると、いっとう強い懐かしさを覚える一匹の硝子金魚が目に入った。
透明な身体の裡に咲いているのは、水面に浮かび、清らかな水の気配を纏う白い睡蓮。
「あの光景を、手放すわけにはいかないんだよね――悪いけど、返して貰うよ」
兼成は白睡蓮の硝子金魚へと一気に近づいて、その身を捕まえる。
「こういうのは、悪気がないからタチが悪いんだよね」
そうして、捕まえた掌に力を籠めれば、ぱりんと甲高い音が鳴って硝子が散る。
砕けた硝子の向こうから、白睡蓮の花影とともに淡い光が溢れ出す。
水泡に紛れた光は兼成の胸へ還り、途切れていた景色の欠片を静かに結び直してゆく。
水辺を渡る風、遠い人声、移ろう季節――忘れていた懐かしさが、再び輪郭を取り戻した。
「ああ……そうだった」
これは、失くしてはいけない自分の想い出。
人ならざるものとして気儘に游ぐ硝子金魚の姿に、何処かかつての己を重ねる。
今では己も、人間災厄などと呼ばれている――けれど。
「それでも確かに、人々の酒宴は楽しそうだと思ってたんだよなぁ」
もう誰も覚えていない光景だからこそ、今度は決して手放さぬよう、大切に胸へ抱く。
やがて、懐かしい光を抱いたひとつの水泡が、遥かな水面へ昇ってゆく。
兼成は遠い日の面影を見送るように、その行方を静かに目を細めた。
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名称:酔蓮
分類:ミニグッズ
設定:睡蓮が刻まれた切子細工の杯。在りし日の光に酒を透かせば懐かしい煌めきが揺らめく。
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水面から零れる光が、沈んだフロアを淡い青に染めていた。
水に沈んだショッピングモールを游ぐ硝子金魚たちは、長い尾鰭を翻すたびに宝石めいた煌めきを散らしてゆく。
「最近、何かと海洋系の生き物に縁があるよなぁ。たまにはこういうのもいいか」
賑やかだった音さえ水にほどけた世界は、まるで巨大な水族館にも似ている。
水中を気儘に游ぐ硝子金魚を眺めながら、茶藤・梓希(Variable Error・h11552)は、口元に僅かに楽しげな微笑みを浮かべる。
(水族館みたいで楽しいし、あいつが水族館好きだったのも分かるなー)
其処まで考えて、梓希はふと止まる。
「あー、あいつ――誰だっけ? 俺は、誰を思い浮かべてたんだっけ?」
まるで、雑に鋏で切り取られたように、記憶に不自然な空白があった。
確かに、誰かを思い浮かべていたはずなのに、其れが誰なのかわからない。
落ち着かない心に戸惑っていると、ふいにショーウィンドウの硝子に己の姿が淡く映り込んだ。
水に揺らぐ髪に首を傾げ、遅れて全身を確認する。ようやく、異常を把握して目を瞠る。
「ん、あ?! というか武器も取られてるしヘアピンとヘアゴムまで無くね!?」
ダメ元でヘアピンがあったはずの場所に手を遣るものの、其れで現実が変わるはずもない。
気付かぬ間に根こそぎやられたらしい。持っていくのは宝物だけだったはずなのに、とんだ強盗魚類だ――いや、茶化している場合などではないのだが。
(いや――)
梓希は立ち止まり、硝子金魚が游ぎ去る先を見る。
宝物は、何も|ひとつ《・・・》とは限らない。否、奪われたものすべてが|本当の宝物《・・・・・》に繋がっているのだとしたら――。
(絶対、取り返してやる)
梓希は水中を蹴り、逃げ去るように何処かに散ろうとする硝子金魚の群れに飛び込む。
硝子金魚たちを見渡す中で――ふいに、幾輪もの勿忘草を咲かせた硝子金魚を見つけた。
その姿を見た途端、胸が痛いほどに脈打つ。
(そうだ。奪われたものは、全部――)
今の梓希を形作る幾つもの欠片は、ただひとりへと繋がっている。
昔から走ることが好きで、梓希を散々付き合わせてきた幼馴染。
なのに、あの日だけは己を置き去りにして、二度と追いつけない場所へ行ってしまった。
「……ほんと、薄情だよな」
この場所を見たなら、きっと大はしゃぎしただろう。
そう思ったからこそ、梓希も無意識に此処へ足を向けていたのだ。
「人のこと置いていったくせにさ。俺の中には、色んなものを置き去りにしたままでよ……ほんと」
名前を失ってなお残っていた寂しさが、空白の輪郭をなぞってゆく。
そして今、その中心に在る名を、ようやく思い出した。だからこそ、奪わせてたまるものか。
「悪いがお前にはやれないから、返してもらうよ!」
振り下ろした一撃が、硝子の身体を打ち砕く。
澄んだ音とともに硝子が千々に散り、彼女に連なる大切なものが、ひとつ残らず梓希の許へ還ってくる。
「ほんと、手間のかかる幼馴染だよ――栞奈」
何処か遠くで、いまも踏切の残響が消えないままだ。
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名称:縹の追憶
分類:ミニグッズ
設定:光を受けて勿忘草が燦めく硝子細工のブローチ。籠めた想いとともに前を向く。
※|縹《はなだ》:薄い藍色。
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水面から降る光が、水底へゆるやかな円を幾重にも描いていた。
重なり、ほどけ、また同じ場所へ戻ってくる光の揺らぎ。賑わいも足音も沈黙した場所で、それだけが変わらぬ律動を繰り返していた。
その静寂の裡を、硝子金魚たちは何ものにも急かされぬように悠然と游いでいた。
「……ん、あれ?」
白百合・蓮華(徒花の|実《じつ》・h12988)は、ふと左手首へ目を落とす。
そこにあるはずの重みがない。指先で確かめても、触れるのは何も巻かれていない肌だけだった。
「――はは、あれを持っていかれたか。お目が高いね、金魚くん」
奪われた腕時計は、確かに大切なものだった――はずなのだ。
けれど、何故それほど大切なのか。思い出そうとするほど、時計に纏わる記憶の輪郭が薄れてゆく。
(思い出ごと奪われるとは、こういうことか)
笑ってばかりもいられない――すべてが曖昧になる前に、取り返さなくては。
蓮華は水底を歩き、頭上を游ぐ金魚たちを見上げた。
「悠長なことを言っている場合じゃないんだろうけど……」
蓮華は、光を散らして游ぐ魚群へ目を窄める。
紅い花を咲かせるもの、青い花弁を沈めるもの。その裡に抱かれたものは見えずとも、その一匹一匹が誰かの大切な宝物を奪ったのだろう。
「飲み込んでしまいたくなるのも、分かるなぁ。どれもこれも綺麗で、興味を惹かれてしまう」
だが、奪ってしまいたいくらいに魅力的ということは、奪ってもよいということにはならない。
また、奪われたままでよいという理由にもならない。
「……もう少し、近づいて確かめてみようか」
蓮華は水を蹴り、鰭と鰭の隙間を縫うように進んでゆく。
視界に散る無数の硝子金魚たち――その中で、白蓮の花を裡に咲かせた硝子金魚が目に留まる。
「……見つけた」
理由は説明できない。だが、確かに自分の宝物を奪った金魚だということが、直感的に理解できる。
蓮華は魚群を游ぎ分け、白蓮の硝子金魚に問いかける。
「返してくれる?」
水中で蓮華が放つ清涼な花の香りが硝子金魚から抵抗の意思を奪う。
まるで服従するように動きを止めた硝子金魚へ、蓮華は一撃を叩き込む。
ぱりん、と澄んだ音が静寂を震わせ、透明な身体は光の欠片となって砕け散った。
その裡から腕時計が解き放たれ、淡い光とともに水の裡をゆっくりと舞い落ちてゆく。
蓮華は漂う時計を受け止め、傷がないことを確かめてから、再び左手首へ巻いた。
「うん。これで元通り――」
そう言いかけた声が、ふいに途切れる。
天人の古い風習。裏蓋に刻まれた名は自分のいわば真名ともいえるもの。
そのことも、この時計に纏わる記憶も、確かにすべて戻ってきた。
それなのに。
(これは、誰から贈られたものだった?)
贈り主の顔だけが、記憶の何処にも見つからない。
「……家族のことを、ここまで思い出せないなんてことがある?」
蓮華がそう呟けども、規則正しく時を刻む秒針の音は何も答えてはくれない。
「……金魚に飲まれた副作用かな」
蓮華は困ったように笑い、銀の裏蓋を指でそっとなぞる。
「――きっと、そのうち思い出せるね」
水面から降る光が時計の硝子に触れ、淡く輝いた。
❀
世界は静寂に沈んでいる。
光が射し込む水面は遠く揺らめいて、水底に届く光は淡く、温度さえ失ったように、沈んだ世界を照らしていた。
「――ああ、困ったねぇ」
白露・花宵(白煙の帳・h06257)は、胸元へそっと手を添える。
触れた胸の奥で、心臓は確かに鼓動を刻んでいる。
けれど、その鼓動を明日へ繋ぎ止めていたはずの熱がない。命は此処にあるのに、生きようとする|執着《ねつ》だけが失われていた。
「あたしは、|あれ《・・》がないと……」
其れは今にも黄泉へと枯れ落ちてしまいそうな生を、現世へと繋ぎとめていた。
長くは続かぬ天命を背負った、この身。幼い時分にはもう、生きることを諦めていた。
生きてやる。簡単に散るものか。
そう口にしながらも、叶わぬならば願いを抱くほど虚しくなるだけなのだと思うようになったのは、いつの頃からだったか。
水流に袂が揺蕩う。
水底を歩きながら水面を見上げる。裡に|宝物《はな》を咲かせ、水中を気儘に游ぐ硝子金魚たちは確かに美しい。
されど、今は見惚れる余裕も、誰かの宝物を奪い返す余裕もない。
(あぁ……)
再び胸に手を当てて、深い息を吐けば水泡が水面へと昇る。
たったひとつ、|宝物《想い》を盗まれただけで、斯様にも不安が募り、堪えるものだとは考えもしなかった。
普段の花宵を知る者なら、今の姿に驚くだろう。
されど、今は――驚くものも、寒さにぬくもりをくれる者もいない。
独りで取り返さねばならぬのだ。花宵は躍起になって|感情《あたし》を探す。
水底を歩き、水中を游ぎ、探しまわって漸く見つけたのは、裡に紅い花を咲かす硝子金魚。
「ああ、あれだ」
思わず、花宵は呟いた。理屈ではなく、直感で理解した――あれは、己の花だと。
水中なのに香りが分かりそうなほど、見た目の可憐さに反して芯の強い花。
厳しい冬に花開き、重い雪を被っても俯かず、然うして春を告げる紅梅。
「……返しな」
きつく瞼を閉じ、意識を深く己の裡へ沈める。願いと諦めを抱いた|花の亡骸《かつてのあたし》を呼び起こす。
「それはあたしのもんだ。気安く触れていいもんじゃあないよ」
か弱き少女の幻影がイルリガートル台を振り被り、硝子金魚を叩き割る。
澄んだ音とともに、硝子金魚の身体が千々に砕け散る。
水面から射し込む淡い光を受け、硝子片は花弁のように煌めきながら水中を舞った。
花宵はその美しさに見惚れることもなく、迷わず光へ手を伸ばした。
指先が光に触れた途端、赤い光は掌へ溶け込み、腕を伝って胸の奥へと還ってゆく。
「……ああ」
どくん、と心臓が強く脈打った。
先ほどまで、ただ命を繋いでいるだけだった鼓動が、今は確かな熱を伴って胸を打っている。
生きたい。まだ散りたくない。大切な者たちの許へ帰りたい――。
諦めに覆われていた願いが、雪を割って咲く紅梅のように、凍えていた胸の裡で再び息づいてゆく。
(これがあるから、今のあたしがいる)
花宵は抱きしめるかのように己の胸に手を添える。
この|執着《こころ》があったからこそ、今の|あたし《・・・》がいる。
大切な人が待つあの場所へ――名も無き|未来《あす》へと、再び歩み出す。
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名称:未開紅
分類:花
設定:厳しい冬に花開き、甘美な香りを齎す紅い花。雪に吹かれど紅梅は気高く咲き誇る。
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水面から射し込む光が天使の梯子のように水底まで伸びて、世界を淡く照らしている。
「まあ……なんて綺麗なお魚さんでしょう」
天總・アリア(溟涙の|マリアンヌ《聖女》・h12919)は思わず目を奪われそうになるけれど、十字杖を握る手に力が籠もる。
(――どれほど美しくとも、大切なものを奪うのは悪しき行いです)
いつも其処に纏わせていた、純白のストラがない。どうやら、あの硝子金魚に奪われてしまったらしい。
空っぽとなってしまった十字杖を見つめながら、思い起こすのは教会に居た頃の想い出。
あの惨劇が起きる前――教会の皆と幸せに過ごしていた頃。
『君はいつか、このストラが似合う……素晴らしい――になるよ』
そう言った先生は、自らのストラをアリアへ譲ってくれた。
あれから未だ、先生とは逢えていない。
どうか、あの惨劇へ巻き込まれていませんように――今も祈り続けている。
そして、いつか再び逢えたなら、この姿を先生に見てほしい――今も願い続けている。
「……何方に」
アリアは水中を気儘に游ぐ硝子金魚たちの姿を見上げる。
無数に游ぐ光の中――彼方の水面に、僅かにぼやけて見える硝子金魚の姿を見つける。
「見つけました」
はっきりと見えたわけではない。されど、何故か|呼ばれた《・・・・》気がして、アリアは昇るように水面を目指す。
辿り着いた先――硝子金魚の透明な身体の裡には、自らの翼にも咲く沈丁花がやわらかく花開いている。
「お返しくださいませ。皆さまの――わたくしの、大切なたからものです」
アリアは硝子金魚へ向けて十字杖を振るう。
澄んだ音とともに硝子が砕け、遙か彼方にまで春の慶びを告げるような花香が広がる。
「――ああ、おかえりなさいませ」
水中を漂う純白のストラを大切に両腕に抱いて、アリアは小さく言葉を紡ぐ。
あまい沈丁花の香りを纏った純白のストラが、光芒の中でやわらかに揺れた。
༺❀༻ ◌。𓂃𓈒𓏸。◌ ༺❀༻
名称:Fiore Guida
分類:ペンデュラム
設定:裡に沈丁花と光羽を咲かせ舞うペンデュラム。白花があなたの導となりますよう――。
༺❀༻ ◌。𓂃𓈒𓏸。◌ ༺❀༻
❀
遠い水面から射す光が、水底へ届くまでに幾度も揺らぎ、静寂の裡に沈んだ世界を淡く灯していた。
花を抱いた硝子金魚たちの長い尾鰭が水を撫でるたび、宝石めいた煌めきが星屑のように散り、呼吸から零れた水泡は真珠の珠となって遠い水面へ昇ってゆく。
まるで、夢と現の狭間に設えられた、一夜限りの水中舞台。
「零さま。水中は、わたくしの舞台ですわ」
「それは頼もしいな」
欺三・夕蓮(泥中の蓮華・h00360)は錦の袖を水に揺らして、時月・零(影牙・h05243)へと微笑みかけた。
いつもは抱えていただくばかりだからこそ、此度は水の中で彼の手を引きたいというもの。
白い手を零へと差し出せば、彼は眼鏡の奥で金色の双眸を窄めながら、夕蓮の手を取ろうとした――その時。
「……っ」
水の裡を気儘に游いでいた幾匹かの硝子金魚が、不意に身を翻してふたりの傍らへ游ぎ寄る。
いち早く気付いた零が夕蓮を庇うように立ち位置を変えると、金魚たちは二人の間をすり抜け、彼方へ消えていった。
「可愛らしい魚でしたわね」
ゆるりと呟いてから、夕蓮はすぐに違和感に気付く。
「零さま……今、なにか……」
「どうかしたか?」
零に訊ね返されて、夕蓮は恐る恐る己の持ち物を確かめる。
見慣れた荷物たちの中に、あるはずの|鐘鳴《オーナメント》が消えていることに気付く。
「あっ! 待ってくださいまし! ない、ないですわ!! 零さまよりいただきし、わたくしの宝物……!」
気に入らねば煮るなり焼くなり――なんて、不器用な言葉とともに彼がくださった白い掌に収まるほどの小さなオーナメント。
夕蓮の倖を祈った小さな|鐘《ベル》は、どんな高価な金銀財宝よりも尊く大切なもの。
そして、その宝物に結びついた想いには、夕蓮自身も気付かぬふりを――。
「其方は――お前も、奪われたようだな」
「……は、はい」
思考は零の問いかけによってひとたび巡るのを已めた。
その代わり、語尾が僅かに動揺に跳ねた。
心の乱れを気取られぬように、夕蓮が零を伺い見れば、彼の金眸に含まれている温度がいつもと違う気がして、夕蓮は首を傾げる。
「……零さま?」
「問題ないが……このままでは癪だな。取り返しに行く。お前も来てくれるか?」
零は落ち着かない胸を宥めるように手を当てた。何も変わらず鼓動を刻んでいるのに、其処に宿っているはずの熱だけが綺麗に消え失せている。
夕蓮を再び見ても、胸の違和感はどうにも拭えない。
奪われたのは、眼前で首を傾げる華燭の人魚に関する感情なのだと――何故か、直感的に理解ができた。
「零さまも、何かを奪われてしまったのですわね――ならば、取り戻しませんと。勿論お供いたします。幸い水の中でならわたくしも常より機敏に動けますわ」
「――それは頼もしいな」
再び重ねた手を起点に、夕蓮は水を蹴った。
錦の袖が大輪の花のように広がり、零を導いて魚群の間をふわり、ゆらりと進んでゆく。
零はその先導に身を委ねながらも、硝子金魚が近づけば夕蓮を庇うように位置を変え、周囲へ絶えず警戒を巡らせていた。
(はやく、見つけなくては)
夕蓮が探すのは、零の金眸を思わせる花。
零が探すのは、夕蓮の名を映すような蓮花。
星屑めいた煌めきの中へ視線を走らせて――やがて、ふたりはほとんど同時に声を上げた。
「――ありましたわ!」
「――見つけた」
夕蓮の先には、金色の福寿草を裡に咲かせた硝子金魚。
零の金眸が捉えたのは、薄暮の色を帯びた蓮花を抱く一匹だった。
金魚は尾鰭を翻し、それぞれ魚群の奥へ逃れようとする。
「お待ちなさいませ!」
夕蓮は水中を一息に翔け、必死に白い手を伸ばした。指先が長い尾鰭を掠め、もう一度水を蹴って、その透明な身体を確かに掴み取る。
「かえしていただきますわ! これは、わたくしだけの――」
言葉が、不意に止まった。
鐘鳴に結ばれていた想いが、蓮花の蕾を綻ばせるように胸の裡へ広がってゆく。
(ずっと、共にいたい――なんて)
それは、己にはあまりにも過ぎた願い。
気付かぬふりをして、心の奥へ沈めていた想い。けれど、だからといって手放せるはずもない。
夕蓮が|愛《ムツゴト》を語れば蓮の花びらが舞って、福寿草を抱いた硝子金魚が澄んだ音を立てて砕け散る。
こがね色の光とともに解き放たれた鐘鳴を、夕蓮は胸へ抱き留めた。
その傍らでは、零の影から生まれた深潭の狼が水中を駆けていた。蓮花を抱く硝子金魚へ牙を突き立てる。
「返して貰うぞ」
砕け散る硝子片から解き放たれた光が、零の胸へ還った。
夕蓮を慈しみたい――守るべき者としてだけではなく、かけがえのないひとりとして大切にしたい。
守護という役目の陰へ隠していた感情に気づき、零は一瞬、口元を手で覆った。胸裡で揺らぐ僅かな罪悪感を呑み込み、すぐに夕蓮を振り返る。
「取り戻せたか」
「あ、……はい。零さまも、見つかってよかったですわ」
視線が重なった途端、夕蓮は胸の裡まで見透かされる気がして、そっと目を逸らした。
零は夕蓮の白磁の手を改めて取り、甲へ祈るように額を寄せる。
「なら……よかった」
――夕蓮を守る。
その誓いに偽りはない。けれど、それ以上の想いを抱いてしまったと知った今も、手放すつもりはない。
(ならば――是迄以上に尽くすまで)
金眸を細め、夕蓮の姿を眺める。
触れた手から伝わる温度。夕蓮は見透かされぬように視線を逸らし、僅かに憂いを帯びた双眸を伏せた。
(嗚呼――なぜ、わたくしは花魁なのでしょう)
水面から降る光の下、ふたりを繋いだ手だけが互いの温度を確かめていた。
❀
水面から射す光が幾重にも揺らぎ、沈んだフロアを淡く灯している。
その静寂の裡を、花を抱いた硝子金魚たちが気儘に游いでいる。その様は、まるでいつかの|あの場所《・・・・》にも似ていた。
「……あれ?」
水底を歩む不忍・ちるは(ちるあうと・h01839)は僅かに首を傾げた。
(あの場所って、どこでしたっけ……?)
思わず足を止めたちるはは、自らの胸元へ手を添える。
何かが抜け落ちた感覚があった。現にあの場所が何処かがわからない。
あの時の想い出も、その時の気持ちも忘れてはいけない大切なものだったということだけは解るのに。
(……やられちゃいましたね)
相手のこと、抱く気持ち――其れらを確かめれば、ちゃんと己の胸裡にある。
大丈夫、ちゃんとわかる。それらは、己の裡から喪われていない。
縋るように手首に触れて、おそろいのアクセサリーがちゃんとあることを確認した。
だけれど、安堵するには足りなかった。
好きだという気持ちは此処にある。大切なひとだと、今なら迷わず言える。
なのに――その想いが何処から芽吹いたのかを、思い出せない。
(私は、どんな気持ちであのひとを見ていたのでしょう……)
まるで、花だけが咲いたまま、その根を育んだ土をそっくり失くしてしまったように、胸の裡がひどく心許ない。
花を咲かせるなら、種が育つ大地が必要だ。大切に耕し、雨と陽射しを幾度も受け、種が根を張って――そうして芽吹いた先に、ようやく花は咲く。
胸の裡に残るものを辿ろうとしても、指の間から零れる水のように掴めない。
「……もやもや、しますね」
このままでは嫌だ。
ちるはは水底を蹴って、游ぎ去った硝子金魚たちを追いかける。
けれど、何を奪われたのかさえ曖昧なのだから、どんな花を探せばいいのかも分からない。
(あのひとのことなら……)
あのひとにも、しあわせでいてほしい。
己が見つけた幸福を、少しくらいおすそわけしたい。
そんな、とても特別なひと。ならば――。
「水色……でしょうか?」
理由も分からぬまま、ちるはの唇からぽつりと言葉が零れた。
ふわふわ、ゆらゆら――何処かで見たような、淡い水色。
視線を巡らせた先、無数の煌めきの中に一匹だけ、妙に目を惹く硝子金魚がいた。
透明な身体の裡には、ブルーレースフラワーがふわりと寄り集うように咲いている。その姿は水中を揺蕩うクラゲにも似ていて――胸の空洞が、きゅう、と疼いた。
「……見つけました」
ちるはは水を蹴り、一息に距離を詰める。
硝子金魚は逃れようと翻り、何処かへと游ぎ去ろうとする――されど、ちるはは逃がさぬように両腕で透明な身体を捕まえた。
「ひとの大切なものを盗むのは――めっ、ですよ」
抵抗する金魚を窘めるように力を籠めれば、硝子に亀裂が走る。
ひとつ、ふたつ。亀裂は花のように広がって、やがて澄んだ音とともに砕け散った。
解き放たれた淡青の光を抱き締めれば、胸の空洞へ、失くしていた聖夜が帰ってくる。
水族館で過ごした時間も。彼の幸福を願って、小さな海月へ託した『しあわせのおすそわけ』も。
まだ恋とは呼べなかった、けれど確かに特別だった――あの日の気持ちも。
「おかえりなさい。これは、大切な――私の幸福論です」
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名称:しあわせのたね
分類:ミニグッズ
設定:淡い水色の花と海月を閉じ込めたスノードーム。花が咲くまでの日々も、ひとつの幸福。
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水面から零れ落ちる光は、幾度も揺らいで水底を淡く照らしている。
硝子金魚が光を跳ね返しながら游ぎ去る姿を追いつつ、兎沢・深琴(星華夢想・h00008)は胸の裡に空いた空白を持て余すように、水底を歩んでいた。
《深琴、大丈夫かい?》
「ええ、問題ないわ」
余程自分が浮かない表情をしていたのか、傍らを歩く護霊が心配そうに自分のことを見上げている。
(星に心配をかけているようでは駄目ね)
きっと、姉だったらこのような時でも前だけを向いて進んでいたのだろう。
奪われたのは、姉との想い出だった。
忘れたことさえ忘れてしまえば、何を失くしてしまったのかにも気付けない。
それでも、すぐに姉との想い出を奪われてしまったと気付いたのは、ひとえに姉への憧れの気持ちが残っていたから。
――だけれど、姉と過ごした日々が思い出せない。
今も人生の指針になっている程に大きい存在のはずなのに、共に過ごした日々だけが綺麗に抜け落ちている。
(お姉ちゃんって、どんな風に笑うんだっけ)
顔は浮かぶ。優しかったことも、大好きだったことも分かる。
けれど、己の名を呼ぶ声が思い出せない。どんな話をして、何を見て笑ったのかも。
頭を撫でてくれた手の温もりも、一緒に出掛けた景色も、姉が奏でてくれたピアノの音色さえ――何ひとつ、具体的な輪郭を結ばなかった。
「……嫌ね、これ」
胸の一番深い場所にいるはずのひとが、そこにいるという事実だけを残して、ひどく遠い。
《深琴》
「……大丈夫よ、星」
もう一度そう答えて、深琴は前を向いた。
忘れてしまったのなら、取り戻せばいい。
姉ならきっと、こんなところで立ち止まりはしないから。
「探しましょう。きっと、すぐに分かるわ」
輪郭がぼやけても、姉との日々を思い出せずとも、憧れる気持ちはこの胸に深く根付いて咲いている。
優しくて、聡明で、気高くて――其処にあるだけで、人々の心を惹きつけるような人だった。
(――そう、鮮やかで華やかな紅い薔薇のような人だったわ)
深琴は前を見据える。眼前を気儘に游ぐ硝子金魚たちの群れの中に姉の面影を探す。
やがて見つけたのは、大輪の赤薔薇を裡に咲かせた硝子金魚。水の中だというのに鮮烈な紅は少しも褪せることなく、淡青の世界にひときわ鮮やかに浮かび上がっていた。
「見つけた」
其れがすぐに姉の薔薇だと解った。深琴が鮮紅の薔薇の花片を放つと、硝子金魚の身にまるで花のように亀裂が広がって――やがて、砕けた硝子が光を乱反射して水中に舞い散った。
「……あぁ」
すぐに心に還った痛みに、深琴は安堵の笑みを浮かべた。
優しい笑顔も、包み込む声も、撫でてくれたあの手の温かさも、全部覚えている。
一緒に出掛けたあの景色も、奏でてくれたピアノの音色も――私の一言の所為で巻き込まれてしまった事故のことも。
「どんなに苦しくても、この思い出は私の宝物よ」
喪ったものは還らない。過ぎ去ったあの日をやり直すことも出来ない。現実は物語のように都合良くは出来ていない。
未だに喪失は胸を抉って、あの日の悔恨は赤薔薇の棘のように心を刺し続けるけれど。
「――手放さない、絶対に」
どれだけ苦しくても、姉が護ろうとしていたものを繋ぐ為に――私は、これからも歩いていく。
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名称:Rose Never Fades
分類:ジュエリー
設定:紅薔薇のブローチ。胸元に咲く花は喪失も悔恨も抱いたまま、それでも忘れぬ想いの証。
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