⑮夢鏡
鏡の中で、女は一人の男と手を繋いでいた。
夕暮れの街を肩が触れ合うほど近く並んで歩いている。
男が何かを囁けば、鏡の中の女は頬を赤らめて笑った。
ずっと憧れていた人だった。
遠くから見つめることしかできなかった。
声をかける理由を探しては諦め、ようやく交わせた僅かな言葉を何度も思い返した。
いつか気持ちを伝えたいと思いながらその機会は訪れないまま、男は別の誰かを選んだ。
けれど、鏡の中では違う。
『今日は、どこへ行こうか』
男が微笑み、繋いだ手を軽く引く。
『君の行きたい場所なら、どこでもいいよ』
聞きたかった言葉。
いつか自分にも向けられるのではないかと、何度も夢見た声。
鏡の中の女は幸せそうに笑っている。
指を絡め、男の肩へ寄り添い、当たり前のようにその隣を歩いていた。
現実の女は、水鏡の前に立ち尽くしている。
こちら側にあるのは、冷えた石畳と、誰も握っていない右手。
鏡の向こうには、望んでいた相手と過ごす穏やかな時間がある。
男が足を止め、こちらを振り返った。
『どうしたの』
鏡の中の女も立ち止まる。
『早くおいで』
差し出された手が、波紋を広げながら鏡面を越える。
幻のはずの指先が、確かな温もりを持って現実へ伸びてきた。
女の右手が僅かに動く。
あと少し手を伸ばせば届く。
――あの日には得られなかったものが、今度こそ手に入る。
「興味深い」
境内の高所から、穏やかな声が降ってきた。
社殿の屋根の上に腰を下ろし、一頭のパンダが笹の葉を噛んでいる。黑白蓮教教主、食鉄大師。
彼は鏡の中の二人を眺め、静かに目を細めた。
「人は、得られなかったものほど美しく思い描く」
ぱきり、と笹を噛み切る音がする。
「届かなかった者を想い、選ばれなかった己を嘆き、あの時に戻れたならばと願う。そうして心の内に、現実よりも美しい未来を育て続けるのです」
女の前だけではない。
水鏡天満宮の境内には、無数の鏡面が浮かんでいた。
鳥居の間に。
石畳の上に。
社殿の軒先に。
周囲を囲むビルの窓を反射しながら、大小さまざまな鏡が宙に浮かび、淡い星の光を放っている。
その一枚一枚が、誰かの望んだ未来を映していた。
叶わなかった夢。
取り戻せない故郷。
守れなかった命。
結ばれなかった相手。
選ばなかった生き方。
鏡の中の者たちは、皆、幸福そうに笑っている。
「そして一度その未来を知れば、手放すことは難しい」
食鉄大師は丸い身体を揺らし、ゆっくりと立ち上がった。
「弱さは善。その心の弱さを愛しましょう。――どうか、全ての心が安らかでありますように」
声にならない言葉が、鏡越しに幾重にも響く。
✦
「星神ドロッサス・タウラスが、とうとう王劍の力を解放した」
ゾディアック継承戦争の或る最中。君たちを前に、ジャン・ローデンバーグ(裸の王冠・h02072)はそう告げた。
金色の瞳は僅かに細められ、その奥で星の光が揺らいでいる。
「今、√EDEN各地じゃ、奴が集めたゾディアックを巡って争いが起きてる。その一つが福岡、水鏡天満宮だ」
福岡・天神のビル街に鎮座する、小さな神社。
菅原道真が水面へ映った己の憔悴した姿を見て嘆いたという故事から、水鏡の名を持つと伝えられている。
だが今、その名の由来となった鏡が映し出すのは、――現在の己の姿ではない。
「黑白蓮教の教主、食鉄大師が、ドロッサスの集めたゾディアックを奪い取った」
食鉄大師。
健やかなパンダのように生きることを理想としながら、積層都市を破壊し、人々を前時代的な暮らしへ引き戻そうと目論む仙人だ。
「奴は水鏡天満宮にゾディアックを吸い上げさせて、新しい神器を造ろうとしてる。星詠みの力を強化する鏡だそうだ」
その鏡が完成すれば、食鉄大師の星詠みは飛躍的に強化される。
既に鏡ことゾディアック・ミラーは、試作品と呼べる段階まで完成しているらしい。
そこから漏れ出した星詠みの力は、水鏡天満宮の境内を覆い尽くしている。
何もない宙に無数の鏡面が浮かび、足を踏み入れた者の前へ、その者だけの未来を映し出す。
「その鏡に見えるのは、これから起きる未来じゃない」
ジャンの声が、僅かに低くなる。
「……お前たちが望みながら得られなかった、少し先の未来だ」
帰りたかった場所。
取り戻したかった時間。
救いたかった誰か。
手に入れたかった幸福。
本当なら、望んだら、そうなっていたかもしれない。
そんな、あり得たかもしれない未来が鏡の向こうに現れる。
「鏡の中じゃ、何もかもがお前の望んだ通りになってる」
死んだ者は生きている。
失った故郷は滅びていない。
叶わなかった夢は既に叶い、届かなかった相手は自分を選び、救えなかった者が笑っている。
声が聞こえる。
触れれば温もりがある。
懐かしい香りも、忘れかけていた仕草も、記憶の中と何一つ変わらない。
鏡の中の者たちは、こちらへ手を伸ばしてくる。
「境内の奥へ進むには、自分を呼び止めるその鏡を打ち破る必要がある」
鏡を壊す方法は問わない。
武器を振るってもいい。拳で叩き割ってもいい。術や炎で焼き尽くしてもいい。
言葉だけで、鏡の中の未来を否定してもいい。
力を振るわなくても、鏡の中にいる者へ、伝えられなかった言葉を告げてもいい。
一度だけ手を握ってもいい。
最後に抱き締め、それから別れを選んでもいい。
一枚の鏡が砕けるたび、境内を塞ぐ鏡の迷宮も一部が崩れていく。
全員が己を引き止める鏡を破れば、ゾディアック・ミラーが置かれた社殿への道が開くだろう。食鉄大師はその最奥で待っている。
「奴は、鏡を守るために襲いかかってくるつもりはないらしい」
君たちが鏡の中へ逃げ込むなら、それもまた人の自然な心のままに生きることだと、食鉄大師は考えている。
苦しい現実へ戻るより、優しい幻の中で暮らす方が幸福な者もいる。
「……気に入らねえ」
ジャンは吐き捨てるように言った。
「望んだものを全部目の前に並べておいて、そっちへ逃げるのが自然だなんて言うのはよ」
本当は選ばれたかった。
本当は謝ってほしかった。
本当は普通の家庭が欲しかった。
本当は、あの人に生きていてほしかった。
心の奥へ押し込めてきたそんな願いを、鏡は容赦なく掬い上げる。
「現場には何人で行っても構わねえが、鏡は一人に一つだ。他人の鏡を代わりに壊すことはできない。
どうしてそいつを望んだのか。そいつを失うのがどれだけ苦しいのか。他人には全部は分からねえからな」
でも、仲間が隣に立つことはできる。
手を握り、肩を支え、声をかけることもできる。
足が止まった者へ、今ここにいると伝えることもできる。
――けれど、最後に鏡を打ち破るのは、その未来を望んだ本人でなければならない。
「宜しく頼む。くれぐれも……帰ってきてくれ」
怒りをぶつけてもいい。
未練を口にしてもいい。
幻と分かっていても、束の間の再会を喜んでもいい。
鏡の中の者へ、今も大切に思っていると伝えてもいい。
重要なのは、それを乗り越えることではない。
鏡の中へ留まらず、現実へ戻ることだ。
第1章 ボス戦 『食鉄大師』
酒場には仕事上がりの気怠い熱が残っていた。
卓上には空になった皿と、飲みかけの酒。窓の外では雨が降っている。
カウンターの向こうで店主がグラスを磨き、隅の卓では酔客がくだらないことで笑っていた。
レイラ・ウー(h12286)は椅子へ深く腰掛け、差し出された紙束を受け取る。
「ほら、契約書だ。読め」
向かいに座る師匠は、いつものように笑っている。
「師匠、それワタシの仕事ネ」
「お前は細かすぎるんだよ」
「細かいんじゃないヨ。慎重と言ってほしいネ」
口を尖らせながら、レイラは一枚ずつ書類をめくっていく。
報酬、期限、輸送経路、危険手当。裏切りがあった場合の違約条項まで、抜けはない。師匠は呆れたように酒を煽った。
「昔は契約書なんて読まずに飛び出してたくせに」
「昔のミーは若かったネ」
「今も十分若いだろ」
「師匠よりはネ」
軽口を交わせば、師匠は声を上げて笑う。
龍聯會は壊滅していない。
裏切りも起きていない。
師匠は死なず、レイラも賞金首として裏社会を渡り歩く必要はなかった。
仕事を終えれば、こうして同じ酒場で酒を飲む。
次の依頼では互いの背を預け、終わればまたくだらない話をする。
ここでは誰も裏切らない。
ここでは誰も置いていかない。
師匠は椅子の背へ身体を預け、満足そうに目を細めた。
「お前も少しは、人を信用できるようになったな」
その言葉に、レイラの指が止まった。
「次の仕事も一緒に行くぞ」
師匠が手を差し出す。
大きく、傷だらけの手。
何度もレイラを引き起こし、拳の握り方も、命の守り方も教えてくれた手。
手を取れば、きっとこの未来は続く。
裏切りのない世界で。
疑う必要のない場所で。
信じた相手に背を預けて、生きていける。
「……いい夢ネ」
レイラは小さく笑った。
師匠の手は、まだ差し出されたままだった。
「どうした?」
レイラは首を横に振る。
「師匠が教えたヨ」
椅子から立ち上がり、その人物を真っ直ぐに見つめる。
「自分の命を、他人に預けるナ」
師匠は少しだけ困ったように笑った。
「そんなことまで覚えてたのか」
「都合の悪い教えだけ忘れるほど、ミーは不真面目じゃないネ」
レイラは一礼する。
今の自分を形作った人へ。
もう会えない師へ。
「ありがとう、師匠」
それは、あの日に言えなかった言葉だった。
男の姿が僅かに揺らぐ。
酒場も、雨音も、笑い声も、水面に浮かぶ光のように滲み始める。
差し出された手も、酒の匂いも、雨音さえも、あまりに本物らしかった。
それでもレイラは知っている。
――本物の師匠なら、幻の中へ留まれとは決して言わない。
「でも、これは違う未来ネ」
レイラは拳銃を抜いた。
照準は迷わない。
引き金を引けば、乾いた銃声が響く。
弾丸は師匠の胸ではなく、その背後に広がる世界を撃ち抜いた。
鏡面に亀裂が走る。
師匠は最後まで笑っていた。
「上出来だ」
その声と共に、酒場は無数の光片へ砕け散った。
✦
「ちさと、ご飯できたよ」
「はーい!」
涼森・ちさと(h12822)は、ぱたぱたと廊下を駆けて食卓へ向かった。
台所からは湯気が立ち、味噌汁の匂いがする。父は新聞を広げ、母は出来上がった料理を机へ運んでいた。
何でもない夕食だった。
怪人はいない。
戦いもない。
魔法少女になる必要も、拳を鍛える必要もない。
母が笑いながら、ちさとの前へ皿を置く。
「今日はちさとの好きなハンバーグだよ」
「ほんま!?」
「ちゃんと野菜も食べるのよ」
「分かってるって!」
父が新聞の向こうから笑う。
「この前もそう言って、ブロッコリー残してただろ」
「あれは最後に食べようと思ってただけや!」
母が隣へ座り、ちさとの短い髪を撫でる。
温かな手だった。
もう忘れかけていた手。
夢の中で何度追いかけても、目を覚ませば消えてしまう温もり。
「危ないことなんてしなくていいの」
母は優しく笑う。
「ちさとには、普通に笑って、学校へ行って、友達と遊んでくれていてほしいのよ」
父も新聞を畳いた。
「ああ、もう十分だ」
二人とも、ちさとを戦わせようとはしない。
強くなれとも、誰かを守れとも言わない。
ただ子どもでいていいと告げてくれる。
ちさとの瞳に、みるみる涙が溜まった。
「どないしたん?」
母が心配そうに顔を覗き込む。
ちさとは俯き、ぎゅっと拳を握った。
会いたかった。
ずっと会いたかった。
頭を撫でてほしかった。
褒めてほしかった。
怖かった夜には、抱き締めてほしかった。
「……お母さん」
声が震える。
「うちは、会いたかった」
涙が頬を伝う。
「いっぱい甘えたかった」
母が手を伸ばす。
その手を取れば、もう戦わなくていい。
怪我をすることもない。
父を心配させることもない。
誰かを守れなかったと泣くこともない。
ちさとは涙を拭った。
「でもな」
顔を上げる。
「うちには、お父さんがおる」
鏡の中の父ではない。
今も現実で生きている父がいる。
「師匠もおる」
疑り深くて、口が悪くて、それでも決して自分を見捨てない師匠がいる。
厳しい修行も。
失敗して悔しかった日も。
少しだけ上手くできて、褒めてもらえた瞬間も。
全て、今のちさとが歩いてきた道だ。
「うちな。今のうちも、大好きや」
母の顔が、寂しそうに歪んだ。
「ちさと」
「うち、まだ弱いで」
それでも、ちさとは笑った。
「せやけど、もっと強うなりたい」
自分の足で立ち、自分の拳で大切なものを守れるように。
ちさとは一歩下がった。
「だから、行ってきます」
母へ手を振る。
それは毎朝、当たり前のように交わしたかった言葉だった。
母も泣きながら笑い、手を振り返した。
「行ってらっしゃい」
ちさとは拳を握る。
教わった通りに腰を落とし、迷いなく踏み込んだ。
小さな拳が鏡面を打つ。
ひび割れた食卓。
砕ける湯気。
消えていく父と母。
最後に見えた母は、悲しそうではなかった。
誇らしそうに笑っていた、――ように見えた。
✦
鏡の迷宮を抜けた先でレイラは足を止めた。背後では、砕けた鏡の破片が星のように降っている。
少し遅れて、小さな足音が近づいてきた。
「師匠!」
声をかけると、ちさとの顔が明るくなる。
駆け寄ってきた少女の頭へ、レイラはぽんと手を置いた。
何を見たのかは聞かない。
聞かなくても、赤くなった目と、強く握られた拳で十分だった。
「行くヨ」
レイラは前を向く。
その声はいつものように軽く、けれど決して揺らがない。
「うん、師匠!」
ちさとも隣に並ぶ。
失ったものは戻らない。
欲しかった未来も、もう手には入らない。
それでも二人は、今ここにいる。
疑うことしかできない女と。
失った悲しみを抱えた少女。
完璧ではない。
強くもない。
だからこそ、前へ進む。
水鏡の向こうに、遠い時代の街がある。
低く連なる瓦屋根。店先を覆う色褪せた布。
巫・黒星(h08880)は鬼面の奥から、その景色を静かに見つめる。
「あぁ、此れは優しい夢なのね」
大戦の時分。自分が生まれた――否、造られた頃の台湾。
鏡の中では、術師たちが慌ただしく建物を出入りしていた。
香が焚かれ、符が貼られ、中央に置かれた棺を囲んで幾人もの者が祈りを捧げている。
「目覚めよ」
「どうか、我らを護り給え」
幾重にも重なる声。
やがて棺の蓋が押し上げられた。
白い指が縁へ掛かり、黒髪の少女がゆっくりと身を起こす。
鏡の中の黒星だった。
その金の瞳には迷いがなく、託された役目も、自分が何者なのかも、初めから理解しているかのように見える。
完成した護法。期待された時に目覚め、必要とされた戦場へ赴いた最高傑作。
街には警報が鳴り響いていた。
遠くでは黒煙が上がり、人々が逃げ惑っている。
鏡の中の黒星は躊躇わない。
両掌に仙氣を宿し、炎の中へ駆けていく。
襲い来る敵を打ち倒し、崩れる家屋を支え、逃げ遅れた者を抱えて戻ってくる。
誰一人、取り零さない。
その姿に人々は涙を流して喜んだ。
術師たちは互いの肩を叩き合い、完成した最高傑作の働きを称えている。
『間に合った』
『我らの願いは、無駄ではなかった』
黒星は鏡の前で、小さく首を傾げた。
「きっと、アナタ達は望んでいたのね」
護國のために命を落とし。その亡骸を捧げ。一つの器の中へ重ねられた者たち。
その誰もが願っていたのだろう。
護るべきものを取り零さぬことを。
抗うべきものへ立ち向かい、望む結末を掴むことを。
鏡の中では、救われた人々が黒星を囲んでいる。
『ありがとう』
『あなたがいてくれて良かった』
『これで、未来は守られた』
幼い子どもが駆け寄り、鏡の中の黒星の手を握った。
『ずっと、ここにいて』
その声に呼ばれるように、水鏡の表面が揺れる。
過去の街から温かな風が吹き、香の匂いと人々の声が現実側へ流れ込んできた。
あと一歩進めば、間に合った自分になれる。
期待を裏切らず。
役目を果たし。
誰にも失望されなかった護法になれる。
「でも」
黒星は胸元へ片手を添えた。
「其れが叶わない夢なのは、他ならぬワタシ自身が知っているの」
大戦末期に完成しながら、目覚めなかった。
どれほど優しい景色を映されようと、それが事実に変わることはない。
「だって、欠落は――」
鬼面の下で、唇が僅かに動く。
その先の言葉は、鏡の中へ沈んでいった。
代わりに、胸の奥で熱が脈打つ。
一人分ではない。
命を捧げ、願いを託し、黒星の内に眠る幾つもの熱。
「アナタ達。間に合わなくて、ごめんなさいなの」
鏡の中の人々が、静かに彼女を見つめている。
「望んだ時に、目覚められなくて」
仙氣が全身を巡る。
指先へ。
腕へ。
両の掌へ。
「護れなくて、ごめんなさい」
炎が上がった。
右掌と左掌。
陰と陽。
相反する二つの力が、雲手の軌跡を描きながら一つへ練り上げられていく。
鏡の中の黒星も、同じ構えを取った。
けれど、その姿は過去のために戦う護法。
現実の黒星は、今を生きる巫黒星だ。
「けれど、ワタシは、此処にいるの」
腰を落とす。
それは、遅すぎた目覚めであったとしても。
期待された結末を果たせなかったとしても。
内に宿る願いまで、過去へ置いていく必要はない。
「アナタ達の願いは、ワタシが持っていくのね」
鏡の中の人々が笑った。
責める者はいない。
嘆く者もいない。
ただ、旅立つ者を送り出すように、道を開けていく。
『行け』
誰かの声がした。
黒星の両掌が激しく燃え上がる。
鏡面に映る一点。幾つもの可能性が重なり合い、最も脆くなった隙。
そこへ両掌を叩き込んだ。
発勁。
衝撃が水鏡の奥まで突き抜け、台湾の街並みへ無数の亀裂が走る。
瓦屋根が。
黒煙が。
救われた人々の姿が。
光の粒となって崩れていく。
最後に残った鏡の中の黒星は、現実の自分へ深く一礼した。
黒星もまた、同じように頭を下げる。
「……行ってくるのね」
水鏡が砕け散る。
優しい夢は消えた。
けれど胸の熱は、少しも失われていない。
縁側に湯呑みが二つ並んでいた。
片方からは、ほうじ茶の湯気。
もう片方には、少しだけ濃い色のお茶。
庭では風に揺れた葉がさわさわと鳴り、軒先に吊るされた風鈴が涼しい音を立てている。
不忍・ちるは(h01839)は、縁側へ腰掛けたまま、隣にいる老人をじっと見つめていた。
「どうした、ちるは。餅が伸びきってしまうぞ」
大好きなおじいちゃんが、呆れたように笑っている。
手元の皿にはだいすきな黒蜜のきなこ餅。
いつも通りの庭。
いつも通りの声。
何も変わらない、穏やかな午後だった。
「おじいちゃん」
「なんだ」
「話したいことが、いっぱいあります」
「なら、ゆっくり話すといい」
その一言を待っていたみたいに、ちるはの口から言葉が溢れ出した。
「私、大学に行っています。工学部のマテリアル科学科です。難しいこともありますけど、けっこう楽しいです」
「ほう」
「それから、兄さんと一緒に住んでいます。兄さんは相変わらずです。あと、うちにかわいいねこがいて」
「猫か」
「はい。とてもかわいいです。たぶん、おじいちゃんも好きになります」
老人は目を細め、続きを促すように湯呑みを傾けた。
「それと、料理もします。パンも焼きます。お米も食べます。甘いものも、たくさん」
「食べ物の話が多いな」
「大事なことですから」
ちるはは真顔で頷く。
それから、少しだけ声を小さくした。
「あと、とっても大切な人に出会いました」
「そうか」
「はい」
もっと詳しく話したい。
どんな人で、どんな時間を過ごして、どれだけ大切に思っているのか。
けれど、伝えたいことは他にもいくらでもあった。
「あとね、おじいちゃん。私、前より少し強くなりました。兄さんにも助けてもらってますけど、自分でもちゃんと進めています」
「ああ」
「不忍術も、もっと教わりたかったです。まだ聞いていない語録もいっぱいあるでしょうし」
「まだまだあったの」
「あとね、あとね」
言葉が止まらない。
会えなかった時間の分だけ。
隣にいてほしかった分だけ。
甘えたかった気持ちの分だけ。
話したい近況が、胸の奥から次々に溢れてくる。
おじいちゃんは急かさない。
笑って、頷いて、全部聞いてくれる。
ここにいれば、まだ話せる。
教わっていない術も教えてもらえる。
もう一度、頭を撫でてもらえるかもしれない。
「ちるは」
おじいちゃんが自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
ちるはは膝の上で手を握った。
傍にいてほしい。
まだ行かないでほしい。
何も分からないまま、いなくならないでほしい。
その気持ちは、今も少しも薄れていない。
「……はい」
ちるはは小さく息を吐いた。
「本当は、ずっと、お話したいです」
老人は何も言わない。
「もっと甘えたいですし。もっと褒めてもらいたいですし。知らないことも、まだいっぱいあります」
黒い瞳に、うっすらと涙が滲む。
「でも」
一度、深く息を吸う。
庭の匂い。
ほうじ茶の香り。
隣にいる人の気配。
全部を胸へしまうように。
「おじいちゃんが言っていました」
ちるはは顔を上げた。
「生卵はゆで卵になれても、ゆで卵は生卵になれない、と」
老人が目を瞬く。
それから、堪えきれないように笑った。
「そんなことを言ったかの?」
「言いました」
「はい。大事なことだって」
ちるはは、ゆっくりと立ち上がる。
「“今”は非可逆です」
過ぎた時間は戻らない。
選ばなかった道へ、同じ自分のまま帰ることもできない。
けれど、それは悲しいだけではない。
大学へ行った。
兄と暮らした。
猫と出会った。
大切な人と出会った。
――そうして今の自分になった。
「私はもう、今を進んでいますから」
縁側の景色が僅かに揺れる。
これが鏡に映った幻であることを、隠しきれなくなっていく。
「おじいちゃん。私、」
言いかけたちるはの口を、老人が静かに手で制した。そうして、穏やかに頷く。
「なら、行ってこい」
ちるははもう一度、深呼吸する。
「はい、だいじょうぶです」
自分へ言い聞かせるように。
けれど今度は、きちんと頷いて。
「だいじょうぶ」
周囲が薄暗い晦へと変わる。
不忍の語りが現実を塗り替え、鏡面の綻びがくっきりと浮かび上がった。
「不忍術、弎之型」
指先を上げる。
放たれた一撃が、鏡の中心を正確に撃ち抜いた。
亀裂が走る。
黒蜜きなこ餅が。
湯呑みが。
風鈴が。
大好きなおじいちゃんが。
光の欠片になって崩れていく。
「おじいちゃん」
最後に、ちるはは手を振った。
「行ってきます」
老人も笑って、手を振り返す。
鏡が砕けた。
目の前から優しい午後が消えていく。
ちるはは涙を拭い、鏡の迷宮の先へ歩き出した。
ゆで卵は、生卵には戻れない。
だからこそ。
今の自分で、次へ進むのだ。
鏡の向こうには、空を埋め尽くす戦闘機械群も、地を揺らす砲声もない。
晴れやかな空だった。
あの日見上げたことは決してない、遠く青い空。
そこには、戦争のない故郷があった。
クラウス・イーザリー(h05015)は、鏡の前から動けない。
「クラウス」
鏡の中からは懐かしい声が呼んでいる。
そこには両親がいた。幼い頃に失ったはずの二人が、記憶の中より少し年を重ねた姿で笑っている。
「いつまでそこにいるの。帰っておいで」
母が手招きし、父がその隣で穏やかに頷く。
その少し後ろには、学徒兵時代の親友がいた。
「遅いぞ、クラウス」
不満そうに言いながらも、顔にはいつもの笑みがある。
クラウスを庇って死ぬこともなく。
血に濡れた身体で倒れることもなく。
ただ同じ年頃の青年として、そこに立っていた。
けれど、鏡の中にいるのは失った人々だけではない。
彼らを失った後で出会った友人たち。
自分を気にかけ、手を差し伸べ、共に歩いてくれた者たち。
心を分け合った共犯者も、愛しい人も。……皆が同じ場所で笑っている。
本来なら出会うはずのない人々が、まるで昔から互いを知っていたかのように語り合っていた。
父と親友が何かを競い、母が困ったように笑う。その傍らで、今を共に生きる大切な人たちが楽しそうに輪へ加わっている。
何も失っていない世界。
両親もいる。
親友もいる。
新しく出会った者たちも、誰一人欠けていない。
苦しいことなど、初めから何もなかったような世界。
――これが本当なら、どれほど良かっただろう。
「クラウスもおいでよ」
誰かが言った。優しい声だった。
クラウスの胸の奥で、何かが大きく揺れる。
疲れていた。
誰かを助けるたびに、自分だけが生き残った理由を考えた。
守れなかった命を数え、庇われた日のことを思い出し、今度こそ自分が代わりになれたならと思うこともあった。
それでも前へ進もうとしてきた。
けれど、鏡の向こうには、前へ進まなくてもよい場所がある。
傷つくことも。
失うことも。
自分を責めることもない。
ただ幸せな世界へ足を踏み入れ、そこへ溺れてしまえばいい。
鏡の中の母が、両腕を広げた。
「帰っておいで」
その一言だけで、クラウスの足が僅かに前へ出る。
帰りたい。
胸の奥から浮かんだ感情は、あまりにも素直だった。
家族のいる場所へ。
親友の待つ場所へ。
誰も欠けていない世界へ。
――そっちに行きたい。
言葉になりかけた願いを、クラウスは唇を噛んで押し殺した。
口を開いてはいけない。一度でも声にしたなら、きっと止まれなくなる。
会いたかった。
寂しかった。
言いたかったことが、あまりにも多い。
だからクラウスは何も言わなかった。
無言のまま、腰の無明二丁拳銃へ手を伸ばす。
鏡の中の親友が怪訝そうに眉を寄せた。
「クラウス?」
両手に銃を抜くと、細い指が銃把を握り締める。
銃口を上げ、その先へ、愛した者たちのいる景色を捉えた。
腕が震えた。
撃ちたくない。
目の前にいる彼らを消したくない。
もう一度失いたくない。
今度こそ手に入った幸福を、自分の手で壊したくない。
感情の全てが嫌だと叫んでいる。
クラウスはそれを、理性で捩じ伏せた。
この世界は優しい。
優しすぎるからこそ、――偽物だ。
両親と親友を失わなければ、今の友人たちとは出会わなかったかもしれない。
今ここにいる自分も、きっと生まれなかった。
失ったことが正しかったとは思わない。
それでも、その全てをなかったことにした未来は、もう自分の未来ではない。
銃口の先で、皆が悲しそうにこちらを見ている。
クラウスは何も告げない。
別れの言葉を口にすれば声が震える。
愛していると言えば引き金を引けなくなる。
だから、ただ狙う。
鏡の中心を。
幸福な世界の、その向こうを。
否定しなければならない。
彼らが生きる未来をではない。
この都合のいい幻想へ逃げ込み、今を捨てようとする自分を。
そうしなければ、前へ進めない。
クラウスは二つの引き金を同時に引いた。
銃声が響く。
弾丸は鏡の中の誰にも触れず、その世界を支える一点を正確に撃ち抜く。
平和な街並みが割れた。花畑が揺らぎ、両親の姿が光の向こうへ滲んでいく。
親友は最後まで、クラウスを見ていた。
恨むでも責めるでもなく。かつて彼を庇った時と同じように、僅かに笑って。
✦
――そうして世界は、無数の光となって消えた。
クラウスは銃を下ろす。
呼吸がうまくできなかった。
胸が痛み、指先はまだ震えている。
それでも、足は現実の地面を踏んでいた。
クラウスは砕けた光を背に、静かに歩き出す。
前へ進む。
それがどれほど苦しくても。
今度は、自分から誰かを残していかないために。
あーあ。
鳥居をくぐったところで、一文字・胡乱(h02077)は盛大に肩を落とした。
「近くまで来たし、ちょっくら観光してくか~って思っただけなんだけどなァ」
水鏡天満宮。
街の真ん中にある小さな神社なら、適当に参拝して、適当に写真でも撮って、それで終わるはずだった。
鳥居の向こうに人影が見当たらないことも。
何もない宙へ、ぬらりと鏡が浮かんでいることも。
まあ、何か物騒だなとは思っていた。
「やっぱ引き返しとくんだったか」
口ではそう言いながらも胡乱は笑っている。
サングラスの奥の赤い目は、目の前に浮かぶ鏡をじっと見ていた。
映っているのは自分だった。
ただし金髪ではない。髪は黒く、目も黒い。サングラスはなく、耳に開けたピアスも一つとして見当たらない。
どこからどう見ても、品行方正なお利口さんだ。
きちんとした服を着て、行儀よく笑い、知らない誰かへ頭を下げている。
その隣には、同じ黒髪と黒い目を持つ少女がいた。
伽藍。
銀に染まっていない髪。
鮮やかな青ではない瞳。
首元には、傷一つない。
二人はよく似た色を纏い、肩を並べて歩いていた。
『遅いぜ、伽藍』
『胡乱が歩くの速いだけじゃん』
伽藍が呆れた顔をして、胡乱の腕を小突く。
鏡の中の胡乱は笑い、軽く蹴り返す真似をした。
随分と楽しそうだった。
突然、家族の前から姿を消すこともなく。
伽藍の隣から、片割れが欠けることもない。
ずっと一緒に育った双子。
同じ家で眠り。
同じ食卓を囲み。
くだらないことで殴り合い、笑い合いながら、十八歳になった二人。
鏡の中の伽藍がこちらを見る。
『何してんの、胡乱』
まるで、そこにいるのが当然のように手を振った。
『早く来なよ』
胡乱は少しだけ首を傾ける。
鏡面の向こうでは、黒髪の自分も手を差し出していた。
『帰ろうぜ』
――帰る。
その言葉が、ひどく遠く聞こえた。
自分がどこから来たのか。
どうしていなくなったのか。
今どこにいるのか。
胡乱自身、よく分かっていない。
気付いた時にはいなかった。それだけだ。
ならば、鏡の向こうへ行けば全てが元通りになるのかもしれない。
何事もなかったように家へ帰り、妹の隣へ戻り、今まで失った時間を取り返せるのかもしれない。
胡乱は差し出された手を眺める。
「へえ」
口元から、軽い笑いが漏れた。
「俺って、こんなん望んでたのか」
自分と同じ色をした伽藍。
家からいなくならなかった自分。
何も欠けず、何も変わらず、普通に育った双子。
鏡の中の伽藍が眉をひそめる。
『何笑ってんだよ』
「いやァ」
胡乱は頭を掻いた。
「似合わねぇなと思って」
『は?』
「俺も、お前も」
胡乱は鏡へ一歩近づく。
黒い髪。
黒い目。
何も失わなかった二人。
それは確かに、胡乱がどこかで望んだ景色なのだろう。
けれど。
「望みではあるけど、願いじゃねぇな」
鏡の中の伽藍が黙る。
「お前は、ただの良い夢だ」
目が覚めれば、跡形もなく消える。
夢を見た本人だけが惜しみ、少し寂しく思い、それで終わるもの。
そこにいるのは、一文字・胡乱が望んだ自分。
けれど、胡乱がこれからなりたい自分ではない。
「“胡乱”が望んで、そこで終わるだけのもんだろ」
今の自分は、黒髪でもなければお利口さんでもない。
伽藍だって、もう鏡の中の少女ではない。
銀の髪も。
青い瞳も。
首の傷も。
勝手気儘に歌う声も。
全部まとめて、今の伽藍だ。
それを無かったことにした妹など、たとえ隣にいても別人だ。
「俺の未来には不要だね」
胡乱は片足を引く。
鏡の中の自分が困惑した顔をした。伽藍も手を伸ばす。
『胡乱』
「マ、悪い夢じゃなかったぜ」
腰を落とす。
「でも、そろそろ起きるかァ」
蹴りを放つ。
小細工も特別な力もない。体重と筋力をそのまま乗せた、単純極まりない一撃。
踵が鏡面へ叩き込まれた瞬間、境内に鈍い音が響いた。
一度では割れない。
「お」
鏡に細い亀裂が走る。
「結構頑丈じゃん」
胡乱は楽しそうに八重歯を覗かせ、もう一度足を上げた。
「なら、もっかいな」
二撃目。
亀裂が黒髪の自分を裂き、伽藍の姿へ伸びていく。
鏡の中の伽藍は、最後まで胡乱を見ていた。
悲しそうでも、怒っているようでもない。
ただ、少し呆れたように笑っている。
『ほんと、どこ行ってんの』
「それは俺も知りてぇよ」
三撃目で鏡が砕けた。
手の届く場所にいた伽藍も。
何事もなく続いた十八年も。
光の破片となって、足元へ散っていく。
✦
「じゃ、退散退散と」
両手をポケットへ突っ込み、開いた道へ歩き出す。
「観光はまた今度だな。物騒ごとはEDENの皆様にお任せってことで」
軽い足取りだった。
望んだ過去へ戻る気はない。
その代わり、行方不明の現在を終わらせる気があるのかと言えば、――それも、ちょっとばかり怪しかった。
淡い光が水面を走り、何かの輪郭を結ぼうとしては崩れていく。
人の姿にも見えた。古い家屋のようにも、どこかの山影のようにも見えた。
鏡面が幾度も揺らぎ――だが、それらは像となる前に溶けて消えた。
やがて神隠祇・境華(h10121)の前に残ったのは、何一つ映さない静かな水面だけだった。
周囲の鏡は、それぞれの主へ甘い未来を見せている。
亡くした者が笑い。
帰れない故郷が蘇り。
叶わなかった願いが、手を伸ばせば届く場所にある。
けれど境華の鏡には、空も、境華自身の姿さえ映っていない。
「……そうでしょうね」
境華は僅かに目を細めた。
過去に起きた出来事は、既に綴られた頁だ。
文字は乾き、物語の一部として綴じられている。
悲しい結末であったとしても。
違う選択を望んだとしても。
後から都合よく書き換えてしまえば、それはもう同じ物語ではない。
「後悔は、次の頁へ活かすものです」
境華は鏡へ手を伸ばす。
「異なる物語へ置き換えるものではありません」
指先が、鏡面へ触れた。
冷たいはずの水面は、不思議なほど何の感触も返さなかった。
何も映らないのは、望みがないからだろうか。
あるいは。
胸の奥に残る、欠けた頁のような感覚。
温もりだけを残し、その正体も、名前も思い出せない何か。
それが、鏡の探る手から望みを隠しているのかもしれない。
思い出せないものを、望むことはできるのだろうか。
名も知らぬ喪失に、もしもの未来は存在するのだろうか。
境華は答えを探すように水面を見つめた。
……だが、鏡は最後まで何も映さない。
「今は、まだ分からなくてもよい、ということでしょうか」
誰にともなく呟く。
物語には、読み進めなければ明かされない頁がある。
欠けているからといって、無理に想像で埋める必要はない。
見つからない答えを、偽りの言葉で飾る必要もない。
境華の指が、水面をそっと撫でた。
ただ、それだけだった。
音すら立てず、鏡面へ細い亀裂が走る。
亀裂は一瞬で全体へ広がり、何も映さなかった鏡は、まるで初めから形を保つ理由などなかったように崩れ落ちた。
光の欠片が、金の瞳の前を舞っていく。
境華はそれを静かに見送った。
自分の鏡は終わった。
けれど、すぐには先へ進まない。
少し離れた場所に、まだ一枚の鏡が残っていた。
✦
その鏡の向こうには、緑豊かな楽園が広がっていた。
柔らかな草原。澄み渡る空。葉を茂らせた木々の間を、穏やかな風が抜けていく。
朧気な記憶の底にだけ残る景色。
シンシア・ウォーカー(h01919)が、今も探し続けている場所。
存在するのかさえ分からない。
どの世界にあるのかも、どの道を辿れば帰れるのかも知らない。
それでもいつかは辿り着けると信じてきた、セレスティアルの故郷だった。
「まあ」
シンシアは目を細める。
「随分と綺麗に残っているのね」
驚きよりも、感心したような声音だった。
見覚えがある。それでいて、細部はどこか曖昧だった。記憶が欠けている部分を、鏡が都合よく補っているのだろう。
それでも、その場所に立つ青年の姿だけは鮮明だった。
草原の先で腰にロングソードを提げ、一人の男がこちらを見ている。
記憶の中よりも、少し大人びていた。
「ふふ」
シンシアの唇に、笑みが浮かぶ。
「私も身長は伸びましたが、君はもっと大きくなりましたね」
青年は答えない。
「百八十センチくらいですか?」
呼びかけても、ただ静かに見返してくる。
――その態度さえ、記憶の中と変わらない。
くだらないことにこだわり。
肝心なことほど口にせず。
誰かが手を差し伸べても、自分の理由で拒絶する。
シンシアは背の翼へ僅かに視線を向けた。
「さて」
声が少し低くなる。
「君のくだらない――けれど、捨ててほしくはないこだわりのせいで、私の翼もこうなってしまいましたし」
青年の表情が僅かに動く。
鏡の中の故郷は、シンシアを迎え入れようとしていた。
ここへ来ればよい。
もう探さなくてもよい。
旅を続ける必要も、帰る場所が分からぬまま歩き続ける必要もない。
青年もここにいる。
それはきっと、シンシアが長く求めた答えだった。
だが彼女は鏡へ手を伸ばさない。代わりに腰のレイピアを抜いた。淑女たる象徴の手袋を相手に向かって投げる。
「拾いなさい」
銀の切っ先が、青年の腰にある剣を示す。
「そのロングソードは飾りですか?」
青年はそれでも動かない。
困ったような顔も。
懐かしむような顔もせず。
ただシンシアを待っている。
「まあ、決闘に乗らなくても構いません」
シンシアは微笑む。
「その場合は、私が勝手に貴方を刺すだけですから」
優雅な口調に似合わぬ物騒な言葉。
探していた。
聞きたいことが幾つもあった。
どうして拒んだのか。
どうして一人で決めたのか。
どうして自分へ、選ぶ余地を与えなかったのか。
それはずっと胸に残っていた問いだった。
「欲しかったものを拒絶したのは君です」
シンシアは一歩、鏡へ近づく。
「報いは受けてもらわないと!」
青年が剣へ手を掛ける。
ようやく動いた鞘から抜かれた刃が、楽園の光を反射する。
その瞬間、シンシアの笑みが深くなった。
「ええ。それでこそ」
飾りも、守りもなく、ただ一人で正面から立つ。
青年が踏み込み、剣を振るう。
シンシアはレイピアでその一撃を弾いた。
甲高い音が響き、草原の風景に亀裂が走る。
「私は、帰る場所を探しています。まあ、ある種君を探しているのかもしれません」
第二撃を逸らす。
踏み込む。
「けれど」
青年の胸元へ、切っ先を突きつける。
「帰る君は、君ではありませんね」
レイピアが鏡面を貫いた。
青年の身体には傷一つつかない。だが、その背後にある楽園が大きく割れた。
緑の大地が。
青空が。
帰るべき故郷が。
細かな光となって剥がれ落ちていく。
青年は最後まで何も言わなかった。
シンシアも別れを告げない。
まだ、終わったとは決めていないからだ。
「今度会った時には、もう少しきちんと話し合いましょう」
鏡が砕けた。
故郷も青年も、――光の向こうへ消えていく。
✦
シンシアはレイピアを下ろした。
先ほどまで笑っていた唇が、僅かに震える。
戻ってきたのだ。
探し求めた場所から。
もう一度会いたかった相手のもとから。
冷たい石畳の上へ。
「あ……」
不意に、手へ温もりが触れた。
振り向けば、境華が隣に立っていた。
どこか心配そうに金の瞳を細め、シンシアの手を取っている。
「シンシアさん」
いつもより少しだけ強く、指が重ねられる。
「……私は、シンシアさんの鏡に何が映っていたとしても、ずっと隣にいます」
シンシアは瞬きをした。
それから、いつもの柔らかな笑みを取り戻す。
「私、戻ってこられたのですね」
「はい」
境華の答えは短く、確かだった。
シンシアはその手を、ぎゅっと握り返した。
鏡の中には、故郷があった。
今は失った青年がいた。
ずっと欲しかった答えが、そこにあるように見えた。
けれど、触れられた温もりは今ここにある。
幻ではなく。
記憶でもない、温度が。
「さあ、一緒に行きましょう」
境華が前を向く。
「ええ」
シンシアも隣へ並んだ。
「行きましょう。一緒に」
二人は手を繋いだまま、鏡の迷宮の奥へ歩き出す。
まだ綴られていない頁へ。
未だ見つからぬ故郷へ。
答えのない物語の、その先へ。
握り返される手の温もりを道標にして。
鏡の向こうでは、一人の少女が歌っていた。
眩い照明の下、銀幕の歌姫を思わせる衣装を纏い、客席から降り注ぐ歓声へ笑顔を返している。
藍色の髪も、銀の瞳も、架間・透空(h07138)と何一つ変わらない。
けれど、その身体には怪人の痕跡がなかった。
誰かを傷つけることもなく。
人としての人生を失わないまま、幼い頃から憧れていた夢へ辿り着いた少女。
歌が終わる。
鏡の中の透空が深く頭を下げれば、客席から一層大きな拍手が沸き上がった。
舞台袖へ戻ると、待っていた仲間たちが次々に彼女を迎える。
『今日も素敵だったよ』
『次のステージも頑張ろうね』
『透空なら、もっと遠くまで行けるよ』
タオルを差し出す手。肩へ触れる手。夢を信じ、隣で笑ってくれる人々。
透空は鏡の前に立ち尽くしていた。
「……あの日の決断を、私は何度後悔したでしょう」
あんな誘いに乗らなければ。
怪人になることもなかった。
誰かを傷つけることもなかった。
罪を背負い、自分自身を恐れることもなかった。
綺麗なままでいられたのに。
鏡の中の少女は幸せそうだった。
人として夢を叶え。
何一つ欠けることなく。
自分を愛してくれる人々に囲まれている。
『透空』
鏡の中の自分が、こちらへ手を伸ばした。
『こっち!』
優しい声だった。
『もう苦しまなくていいんだよ』
透空の指が、僅かに持ち上がる。
戻れるなら戻りたい。
何も間違える前へ。
誰も傷つける前へ。
ただ夢だけを追いかけていられた頃へ。
――だが、伸ばしかけた手が止まった。
「あれ?」
透空は、鏡の中の光景を改めて見つめる。
夢を応援してくれる人。
失敗しても見放さず、涙を流せば隣へ立ってくれる人。
諦めかけた背中を、何度でも押してくれる人。
どこかで見たことがある。
それどころか。
「今の私と、そう変わらない?」
そうだ。怪人になった自分にも、支えてくれる人たちがいる。
過去を知っても離れなかった人。
罪に苦しむ自分へ、優しく寄り添ってくれた人。
もう一度夢を追いたいと願った時、笑わずに応援してくれた人。
怪人であろうと。
普通の人間であろうと。
彼らはきっと、変わらずそこにいてくれた。
「ああ、そっか」
透空は、ゆっくりと手を下ろした。
「私、とっくの昔に」
鏡の中の少女が、不思議そうに首を傾げる。
「幸せを、皆から貰ってたんだ」
怪人になった過去は消えない。
犯した罪も、誰かを傷つけた事実も、失われた人としての人生も。
全部が全部、なかったことにはできない。
けれど同じように。
差し伸べられた手も、励ましてくれた言葉も、一緒に笑った時間も。
決して消えはしない。
罪だけを本物として抱え込み、皆から受け取った幸福を偽物のように扱うことは、透空にはできなかった。
「――あなたは、私がなれたかもしれない人です」
透空は鏡の中の自分を真っ直ぐに見つめる。
人間のまま夢を追った少女。
羨ましくないわけではない。その人生を欲しくなかったと言えば、嘘になる。
「でも、あなたが持っているものは」
銀の瞳に、確かな光が宿る。
「今の私も、ちゃんと持っています!」
傷ついている。
罪も背負っている。
取り戻せないものもある。
それでも、今の自分は空っぽではない。
「過去は消えません。犯した罪も、消えない」
透空は片腕を掲げると、境内の空気が湿り始める。
頭上へ灰色の雲が集まり、ぽつり、ぽつりと雨粒が鏡面を叩いた。
「でも、皆から貰った幸せも、決して消えません!」
雨脚が強まる。
鏡の中の透空が、こちらへ手を伸ばした。
『透空』
透空は静かに首を横へ振る。
「私は、あなたにはなれません。でも、私の夢も……まだ終わっていないみたいです」
雨音の中、声ははっきりと響いた。
人であった頃に抱いた夢。
怪人になり、道を踏み外し、それでも手放せなかった願い。
それを叶えるのは、何も失わなかった自分ではない。
過ちを犯し、涙を流し。それでも立ち上がった、今の自分だ。
「だから、こんな夢はもう終わりにしましょう」
透空は空へ向けて指を伸ばす。
雲の奥で、巨大な気象機構が唸りを上げた。
「天気予報をお伝えします」
透空の声が、降りしきる雨を切り裂く。
「本日の天気――雨のち霰」
雨粒が、白い氷礫へ変わった。
小さな粒。
だが、その一つ一つが時速百キロを超える速度で天より降り注ぐ。
氷礫が鏡面へ殺到した。無数の衝撃が、舞台を映す世界へ亀裂を走らせる。
霰は逃げ場なく鏡面を打ち据え、照明を砕き、客席を割り、何も失わず夢を叶えた少女の姿を白い飛沫の向こうへ消していく。
鏡の中の透空は、最後まで笑っていた。
まるで、自分には歩めない道の続きを託すように。
最後の氷礫が中心を撃ち抜き、鏡は澄んだ音を立てて砕け散った。
✦
雨が止む。
透空は舞い落ちる光と氷の欠片を見上げた。
過去は消えない。
罪も消えない。
けれど。貰った幸せも胸に抱いた夢も。同様に、決して消えはしないのだ。
透空は前を向いた。
怪人のままで。
傷ついた今の自分のままで。
宙に浮かぶ鏡面が淡く揺らめいた。
篭宮・咲或(h09298)は、その前で立ち止まる。
「願って、叶うことなく沈んだ未来……か」
自分の鏡に何が映るのか。
考えるまでもなかった。
だからこそ、水面に色が差した瞬間、内心で舌打ちしたくなった。
広がっているのは、思った通りの光景だったからだ。
✦
鏡の向こうは夏。
陽炎の立つ道。
濃い緑に覆われた山。
蝉の声が降り注ぎ、照り返す日差しが景色を白く灼いている。
『██!』
失われたはずの名を呼ぶ声がした。
『そんなところにいないで、こっちに来いよ!』
振り向くより先に、誰かが咲或の腕を掴んだ。
遠慮のない強さ。幼い頃から何度も引かれてきた、よく知る手だった。
その反対側には、もう一人。
『本当に夏盛りだわ』
少しだけ呆れたような声。
『貴方、暑いのはあまり得意ではなかったでしょう』
ひんやりとした指先が、咲或の手へ触れる。
二人の幼馴染。
この世界のどこにも存在しない者たちが、当たり前のように彼の両隣を歩いている。
暑い。喉が渇いた。次はどこへ行く。
くだらないことで言い合い、歩調がずれれば腕を引かれ、少し進めばまたどうでもいい話で笑う。
ただ、それだけの未来だった。
深山に封じられることもなく。
幽谷の中で長い刻を過ごすこともなく。
狂い咲く災厄として己を抱えることもない。
三人で夏を歩き。
やがて秋を迎え。
冬になれば寒いと肩を寄せ。
春にはまた花を見る。
そんな、ひととせを重ねていく未来――。
『なあ、次は川へ行こうぜ』
『その前に休みましょう。このままでは貴方が先に倒れます』
「俺を何だと思っているんだろうね」
咲或が笑えば二人も笑った。
その笑い声まで、記憶の奥に残るものと何一つ違わない。
鏡の中の咲或もまた、二人の間で穏やかに笑っている。
失わなかった自分。
失われなかった二人。
何者にも裂かれず、ただ幼馴染として歩めた三人。
咲或の腕を引く力が、僅かに強くなる。
『早く来いよ』
『皆で行きましょう』
鏡面が、水のように柔らかく波打つ。
あと一歩。
たった一歩踏み出せば、夏の中へ入れる。
自分の名を呼ぶ声へ応えられる。
温かな手も、冷たい指先も、もう一度失わずに済む。
「……困ったな」
甘い声で呟く。
本当に、困る。
このまま呑み込まれてしまえたなら。
何も考えず、その手を取れたなら。
それはきっと、とても幸福なことなのだろう。
失っても、在っても、構わない。
自分の内に残っているのなら、それで十分。
そう思っていたはずなのに。
目の前へ差し出されれば、欲しくなる。
もう一度。今度こそ。三人で、何でもない季節を歩きたいと。
咲或は静かに目を伏せた。
「でも、それは駄目だ」
口調から、甘い響きが消える。
交わした約束がある。
いつか辿り着くと。
その時まで待っていてくれと。
幻の中へ逃げ込むためではなく、自分の足でそこへ行くと。
鏡が差し出す未来は優しい。
けれど、ここでその手を取れば、約束を違える。
自分だけが歩みを止め。
待つ者のもとへ、永遠に辿り着けなくなる。
『██』
もう一度、名を呼ばれる。
咲或は目を開いた。
琥珀色の瞳に、夏の景色が映る。
「呼ぶな」
二人の手を、ゆっくりと振りほどく。
拒絶された温もりが、鏡の向こうへ戻っていく。
『どうして』
『一緒に行かないの?』
咲或は答えず、刀へ手を掛けた。
冬桜。鞘から抜かれた刃が、夏の日差しを冷たく反射する。
真夏の景色に、冬の気配が落ちた。
咲或は鏡の中の二人を見つめる。
忘れたわけではない。
捨てるわけでもない。
この未来を望まなかったことにするつもりもない。
だが、幻では受け取れない。
刀を構える。
「俺が其方へ行くまで、待ってて」
告げる言葉は、冬の続き。
鏡の中の二人は、僅かに笑ったように見えた。
咲或は一歩踏み込む。
冬桜の刃が、鏡面ごと夏を切り裂いた。
腕を引いた温もりが。ひんやりと触れた指先が。一本の白い亀裂に断たれ、遅れて鏡が砕けた。
降り注ぐ光の欠片は夏の終わりに舞う蝶のようだ。
咲或は刀を振り、残る雫を払う。
胸の奥には、まだ二人の声がある。
消えない。
消す必要もない。
その声を抱いたまま、彼は鏡へ背を向けた。
約束を違えぬために。
次に会う時は、夢の中ではなく――。
ひどく晴れすぎた夏空だった。雲ひとつない青の下、蝉の声が重なり合っている。
照り返す陽射しの中で、白浜・轟(h04264)は立ち尽くしていた。
鏡の向こうにいる少女が笑っている。
幼い頃と同じ顔で。
何一つ失っていないように。
憂いも、痛みも、胸の奥へ沈めた罪悪感も見せずに。
『ゴウくん』
甘やかな声が、夏の空気を揺らした。
呼ばれただけで胸が痛む。
黒髪が風に揺れ、薄紅色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。
その眼差しの先には、他の誰もいない。轟だけがいた。
『あのね』
少女は少し照れたように笑う。
知っている。
この鏡が何を見せようとしているのか。
自分が何を望み続けてきたのか。考えるまでもない。
『すきだよ』
ああ。そうだ。
その言葉が、ずっと欲しかった。
ずっと隣にいた。
守ってきた。
泣いている時には傍に立ち、笑える時には邪魔をしないよう少し離れた。
それでも彼女の心は、死んだ片割れに奪われたままだった。
もう還ってこない男へ。
どれほど呼んでも答えない相手へ。
彼女は今もなお、恋をしている。
だから、この未来はあり得ない。
鏡の中では、少女が轟へ手を伸ばしていた。
『ずっと一緒にいてくれる?』
胸の奥で、残り火が大きく揺れた。
手を取ればいい。
そうすれば、彼女は自分を選ぶ。
死者を見つめることもなく。自分を責め続けることもなく。轟だけを見て、笑ってくれる。
それはきっと幸福なのだろう。
少なくとも、自分にとっては。
轟は拳を握った。
この程度の鏡なら、どうとでもなる。
殴れば割れる。
蹴れば砕ける。
力任せに壊してしまえば、それで終わる。
鏡の向こうにいるのは、少女の姿を借りた幻想だ。
轟はゆっくりと鏡へ近づいた。
少女は嬉しそうに目を細める。
『どうしたの?』
今度こそ、ただ「何もない」と、その声へ応えたくなる。
だが、轟は手を伸ばさなかった。
「……あいつじゃなくて、ごめんな」
それだけを告げた。
謝る必要など、本当はない。
死んだ兄弟にはなれない。
どれほど大切に思っても。
どれほど長く隣にいても。
彼女の心を奪うことはできない。
それでも、詫びずにはいられなかった。
自分が残ったことを。
自分しか残れなかったことを。
それなのに彼女の欲しいものを、何一つ返してやれないことを。
鏡の中の少女が悲しそうに眉を下げる。
『そうやって、ゴウくんはずっと見ててくれたね』
きっと自分は、このまま言葉を重ねれば願ってしまうのだろう。
自分を選んでくれと。
死者ではなく、今ここにいる自分を見てくれと。
もうすぐ、少女の誕生日が来る。
それから。
兄弟と、父と母の命日も。
きっと今年も、彼女は笑うだろう。明るく振る舞いながら、自分を責めるのだろう。
その時、隣にいなければならない。
ならば。
自分はこの鏡の中で、望んだ愛に浸っている場合ではない。
「オレは、ここには残れない」
少女の手が、鏡面を越えて伸びてくる。
『行かないで』
その声に、拳が震えた。
轟は目を閉じる。
好きだった。
今も好きだ。
一生、手に入らないと分かっていても。
それでも。
そして、――それでいい。
轟は目を開いた。
黒い瞳の奥で、燻っていた残り火が赤く揺れる。
「ひとりぼっちのあの子を守れるのは、オレだけだから」
腰を落とす。
鏡の中の少女へ拳は向けない。
狙うのは、その背後。あり得ない幸福を支えている鏡そのもの。
踏み込むと、拳を振り抜いた。
衝撃が鏡面の奥へ突き抜け、夏空に亀裂が走る。
青が割れ、蝉の声が歪み、少女の笑顔が幾つもの破片へ分かれていく。
『ゴウくん』
最後に、もう一度だけ名前を呼ばれた。
轟は歯を食いしばる。
差し出された手も。
欲しかった言葉も。
自分だけへ向けられた笑顔も。
光となって消えていく。
✦
後には、冷たい石畳だけが残った。
轟は拳を下ろす。
胸の穴は埋まっていない。彼女の心は、これからもきっと死者のものだ。
それでも構わない。
愛されるために守るのではない。
守りたいから、守るのだ。
轟は踵を返す。
もうすぐ来る誕生日に、何を贈るか考えながら。
続いて訪れる命日に、彼女をひとりにしないために。
ずうと続く、夏の夢を背に。
鏡よ鏡、世界で一番――。
「……ってところかなァ」
緇・カナト(h02325)は、宙に浮かぶ水鏡を前にして退屈そうに首を傾けた。
鏡の向こうに、目を奪うような楽園はない。
蘇った死者も。取り戻した故郷も。財宝に満ちた宮殿もなかった。
映っているのは、ごくありふれた朝の風景だ。
窓から柔らかな陽射しが入り、床へ四角い光を落としている。
まだ少し眠そうな黒髪の青年が欠伸をしながら制服の袖へ腕を通していた。
鏡の中のカナト。
灰色の瞳に飢えはない。
首元に千切れた首輪も、引き摺る鎖もない。
鋭い爪も、黒く染まった獣の腕も持たない。
ただの人間の、カナト。
『遅刻するよ』
階下から声がする。
『今行くって』
青年はそう答え、鞄を引っ掴んだ。
玄関には朝食の匂いが残り、机には食べかけのパンと温かな飲み物が置かれている。
慌てて靴を履き、誰かに見送られ、晴れた道へ飛び出していく。
学校へ行く。
友人とくだらない話をして。
授業中に居眠りをして叱られ。
昼休みには購買のパンを奪い合い。
放課後には寄り道をして、日が暮れる頃に家へ帰る。
明日を疑わず眠り。
目覚めれば、また同じような一日が始まる。
そんな平凡な日常を、鏡の中の青年は繰り返していた。
「在り来たりだね」
カナトは口元へ淡い笑みを浮かべる。
「実に退屈そうだ」
けれど、目は逸らさない。
退屈で、穏やかで、何一つ特別ではない。
だからこそ、その景色がひどく眩しい。
鏡の中の季節が巡る。
制服姿だった青年は、やがて少し背を伸ばし、別の服を着るようになった。
机に向かって勉強し。誰かと将来について語り。失敗しては落ち込み、それでも翌日には立ち上がる。
やがては大人になるのだろう。
仕事を得て。
誰かを愛し。
或いは家庭でも築くのかもしれない。
食卓には複数の皿が並び。
玄関には自分以外の靴が置かれ。
夜になれば、帰りを待つ灯りが点る。
鏡の中のカナトは、ただの人の子として生きている。
誰かを殺すために育てられた狗ではない。
組織の命令だけを聞き、血の匂いを追って走る獣でもない。
奪った命の数を覚え、死者を弔いながら夜を歩く黒妖犬でもない。
飢えもなく。
渇きもなく。
うつくしいものを見つけるため、首輪を千切る必要もなかった。
『カナト』
鏡の中から、誰かが青年を呼ぶ。
振り向いた顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
『おかえり』
カナトの目が僅かに細くなる。
帰る場所。
その言葉が、自分へ向けられたことなど、どれほどあっただろう。
組織にいた頃、帰還とは報告のためのものだった。
任務を終え、使い潰されず戻った狗が、次の命令を待つ場所。
そこに温もりなどない。
待つ者もいない。
必要だったのは、まだ使える肉体だけだ。
鏡の中では違うようだ。
青年が帰れば、誰かが喜ぶ。
食事が用意され、今日あったことを聞かれ、明日も帰ってくることを当たり前のように信じてもらえる。
「己だけの眼には、都合の良いモノしか映らず」
カナトは鏡の前へしゃがみ込む。
「理想郷は、理想でしかナイだろうにね」
鏡面の向こうで、青年がこちらへ手を伸ばした。
『こっちに来ないか?』
穏やかな声に、カナトはその手を眺めた。
爪のない手。
血の染み込んでいない手。
誰かの首を折ったことも、引き金を引いたこともない手。
もしも。
そう、これはあくまで「もしも」だ。
自分が初めから人間として生まれていたなら。
誰かの道具として扱われることなく。
殺すためではなく、生きるための術を教えられていたなら。
そんな未来が、存在したのかもしれない。
「悪くない」
カナトは素直に呟いた。
「うん。悪くない夢だ」
食事は毎日腹いっぱい食べられるのだろうか。
夜に散歩へ出ても、誰かが帰りを待ってくれるのだろうか。
賑やかな部屋で、面倒な話を聞き流しながら笑うこともできるのだろう。
このまま一歩踏み込めば、黒妖犬は消える。
殺した者の顔も。
積み重なった骨も。
夜ごと続く飢餓も。
全部、知らなくてよかったことになる。
鏡の中の青年が、さらに腕を伸ばした。
『もういいだろ』
その言葉に、カナトは目を伏せる。
『終わってもいいんだ』
終わり。
確かに、自分の物語はとうに終わっているのかもしれない。
忠実な狗として使われ。
首輪を千切り。
それでも完全に自由にはなれないまま、死者を弔って宵闇を彷徨う。
幸福な結末など、初めから用意されていない。
「でもね」
カナトは立ち上がった。
「終わった物語に、続きは不要なんだ」
鏡の中の青年が、カナトの声に眉を寄せる。
『なら、どうしてまだ生きている』
カナトは少し考えた。
それから、肩をすくめる。
「幕引きの一頁を刻むため、かなァ」
現実に存在している以上。
まだ飢え、まだ夜空を見上げることができる以上。
終わりは自分で選ばなければならない。
都合の良い夢へ逃げ込み、何もなかったことにするためではない。
奪ってきた未来の数だけ。弔うべき死者の数だけ。
黒妖犬として、この身が燃え尽きる場所まで歩くために。
「夢物語なら、美しいままで終わらせるべきだよね」
片手を持ち上げると、指先が変じる。
人間を模した柔らかな肌が黒く染まり、鋭い爪を備えた獣の腕が露わになる。
それは鏡の中の青年には存在しないもの。死者を送るために使う腕。
カナトは煙を吸い込むように、ゆっくりと息を吸った。
「灰は語らず、骨もまた眠る」
吐息と共に、紫煙が溢れ出した。
煙は細く揺蕩いながら水鏡へ触れる。
鏡の中の青年が咳き込み、後ろへ退いた。穏やかな家の中へ紫が広がり、朝の光を曇らせていく。
『これは、お前が欲しかった未来だろう』
「そうだね」
カナトは否定しない。
「欲しかったのかもしれない」
普通に生きること。
誰かに帰りを待たれること。
明日が来ると信じて、眠ること。
奪われたことすら、長い間気づかなかった未来。
「だから、焼くんだよ」
紫煙が濃くなると、鏡の内側が静かに焦げていく。
音もなく黒ずみ、灰へ変わっていく。
鏡の中の青年が手を伸ばす。
その輪郭も、少しずつ煙へ溶け始めていた。
『本当に、これでいいのか』
カナトは、微笑んだ。
「ああ。幸いなだけの夢想なんて、何処にもない」
夢の中で人間になったところで。
現実で奪った命が戻るわけではないのだから。
「黒妖犬には、死地の方がお似合いだろう?」
紫煙が鏡全体を覆う。
鏡の内側で赤黒い光が瞬くと、炎を上げることなく、全てが内側から焼失していく。
そのうち鏡の中の光景は灰となり、風に散った。
最後に残った鏡面へ、カナトは黒い獣の腕を振るう。
爪が亀裂を刻んだ。
一つ。
二つ。
幾重にも。
やがて水鏡は支えを失い、――刹那に砕け落ちる。
✦
割れた破片の一つ一つに、違う未来の断片が映った。
笑う青年。
眠る青年。
誰かと手を繋ぐ青年。
それらは地へ落ちる前に、紫煙へと消えた。
壊れて。
焼けて。
何も残らない。
カナトはしばらくその場に立っていた。
何一つ軽くなってはいない。
何一つ、無くならない。
それでいい。
「さて」
人間の擬装へ戻った手を、軽く振る。
「奥のはもう少し、手応えがあるといいね」
いつもと変わらない調子で呟き、カナトは鏡へ背を向けた。
平凡な未来はもうない。
けれど夜は続いている。
月も。
賑やかな声も。
まだ見つけていない、うつくしいものも。
きっと、この世界には残っている。
蝉の声が部屋いっぱいに満ちていた。
開け放たれた窓の向こうでは真夏の陽射しが庭木の葉を白く照らしている。風が吹くたび、薄いカーテンがゆるやかに膨らんだ。
白百合・蓮華(h12988)は、鏡の前で静かに目を細めた。
「……そうだね。僕が見るなら、これ以外にはない」
鏡の中にあるのは、何十年経とうと忘れることのない一日。
そうだ、あの日――。
✦
寝台に一人の老女が横たわっている。
細くなった腕。
皺の刻まれた頬。
胸の上で重ねられた手。
傍らには、白髪の青年が座っていた。
今と同じ顔で、今と変わらぬ銀の瞳で。歳月に触れられることなく、出会った頃の姿を保ち続けている。
一見すれば、祖母を看取る孫に見えるだろう。
そうではないことを、彼女と蓮華だけが知っていた。
鏡の中の蓮華は、老女の手を両手で包んでいる。
もう握り返されることのない指を、いつまでも離そうとしない。
蝉が鳴いている。
息苦しいほどに。
まるで一つの命が終わることなど知らないように。
『蓮華』
不意に老女の瞼が開いた。
現実には、もう二度と開かなかったはずの目。
鏡の中だけで、彼女は若い頃と同じように柔らかく笑う。
『そんな顔をしないで』
鏡の中の蓮華は答えない。
伏せた顔を上げることもできないまま、ただ手を握っている。
『私は幸せだよ』
その言葉に、現実の蓮華は僅かに息を止めた。
知っている。
本当に幸せだった。
共に過ごした時間は、長く、穏やかで。時に退屈で、時に煩わしく、それでも何にも代え難いものだった。
季節が巡るたび、彼女は少しずつ年老いていった。
蓮華だけが変わらない。
初めは笑い話にできた。
君は本当に老けないね。
僕は元から完成されているからね。
そんな軽口を交わしていた。
けれど、いつしか歩く速さが違ってきた。
声は弱くなり、眠る時間が増え、握る手からも少しずつ力が失われていった。
蓮華には、止められなかった。
進化を研究し。
禁忌へ触れ。
死さえ遠ざけた男にも。
一人の人間が寿命を終えることだけは、変えられなかった。
『もう、いいでしょう』
老女が微笑む。
『一緒に休みましょう』
蝉の声が遠のいた。
鏡の中の部屋から光が薄れ、寝台の周囲だけが、柔らかな闇に包まれていく。
鏡の中の蓮華が初めて顔を上げた。
銀の瞳から涙が落ちる。
それは、現実の彼が誰にも見せなかった顔だった。
彼女の手を握ったまま、静かに目を閉じる。
不老の呪いも。
不死の力も。
これから先の世界も。
すべて手放し、彼女と共に物語を終える。
これが、蓮華の選ばなかった未来だった。
「本当に、幸せだったんだ」
現実の蓮華は、穏やかに笑った。
「君と過ごした人生が」
幸せだったからこそ、終わりに耐えられなかった。
彼女のいない世界で、自分だけが同じ姿のまま生き続ける。
それが、あまりにも理不尽に思えた。
「――だから、一緒に終わってしまいたかった」
今ここで死にたい。
そう願ったのは、後にも先にも、あの一度きりだ。
生を惜しむ男ではない。
死を恐れる男でもない。
世界は面白い。
生命は変わり続ける。
観察すべきものも、研究すべきものも、まだ無数にある。
けれど、あの日だけは。
彼女の手を握ったまま、次の朝など来なければいいと思った。
『今からでも遅くないよ』
鏡の中の老女が囁く。
水面が揺らいだ。
寝台の横にいる蓮華が、こちらへ手を伸ばす。
『ここへおいで』
『そうすれば、』
鏡面の奥では、二人が寄り添っている。
鏡の向こうには、終わりがあった。
終わり。
それ以上、失うものはない。
別れを繰り返す必要もない。
時に置き去りにされることも。
自分だけが変わらぬ姿で生き続けることもない。
「なるほど」
蓮華は顎へ手を添えた。
「向こうの僕と同化できるというお誘いか。正直、とても魅力的だ」
銀の瞳が楽しげに細められる。
強がりではない。
ほんの一歩、鏡の中へ入れば。あの日の願いを、今度こそ叶えられる。
胸の奥にしまい込んだ、誰にも明かさなかった我儘。
蓮華は鏡へ近づいた。
老女が微笑む。
鏡の中の自分も手を伸ばす。
蓮華は、ゆっくりと片手を握った。
「ふふ」
口元から、微かな笑いが漏れる。
「僕だけが知る願いであっても」
一歩。
鏡との距離を詰める。
「僕の我儘に、君を巻き込まなかったことは、――少しだけ、誇っていいかな」
そして腕を引くと、一気に拳を振り抜いた。
真っ直ぐに。
何の術も使わず、妖術も香りも纏わせず。ただ自分の拳だけで、鏡面の中心を殴りつける。
乾いた音が響き、鏡に亀裂が走る。
寝台が割れ、夏の光が裂けた。目を閉じた二人の姿に、白い罅が幾重にも刻まれる。
『蓮華』
老女が名を呼ぶ。
その声には、咎める響きなどなかった。
蓮華はもう一度、拳を振るう。
✦
鏡が砕けた。
光の破片が頬を掠め、白い肌へ細い傷をつける。
赤い血が一筋顎へ伝った。
「……はは」
蓮華は、砕けた鏡を見下ろす。
「この程度で壊れるの?」
底意地の悪い仕掛けにしては、随分と親切だ。
あれほど手放し難い夢を映しておきながら。
壊すために必要だったのは、たった二度の拳だけ。
足元に散った破片には、もう彼女の姿はない。
映っているのは、今の蓮華だけだ。
白衣。
眼鏡。
機嫌良さげに笑う銀の目。
そして、破片で切れた僅かな傷。
蓮華は指先で血を拭ったが、傷口は既に塞がり始めている。
この程度では痕すら残らない。
「それでいい」
不老は罰。
時の流れから取り残され、共に生きた者を見送り続けるための呪い。
不死は幸運。
この世界の変化を、どこまでも観察し続けられる僥倖。
矛盾していようと、どちらも自分のものだ。
罰だけを捨てることも。
幸運だけを選び取ることもできない。
「君との思い出まで持っていけるなら、贅沢すぎるくらいだね」
蓮華は白衣の裾を整える。
共に終われなかったことを、後悔していないわけではない。
あの日、目を閉じたまま目覚めなければよかった。
そう思う心は今も確かに残っている。
笑い声も。
口癖も。
握った手の温度も。
彼女が年老いていく姿も。
蓮華だけが、今も覚えている。
それで十分だ。
忘れない限り、あの日々は失われたことにはならない。
彼女の時間は、蓮華の中でこれから先も折に触れて蘇る。
新しい景色を見た時、面白い発見をした時。
きっとまた、君なら何と言っただろうと考えるのだ。
それもまた、共に生きた時間の続きなのだろう。
蓮華は砕けた鏡へ背を向ける。
その身から、清涼な百合の香りが僅かに溢れた。
人の意志を萎えさせ、服従へ導く香り。
けれど今は、誰かを従わせるためではない。
自分の内に残る甘い虚脱を、静かに押し流すために。
「深呼吸」
自分へ言い聞かせるように息を吸う。
夏の日の蝉の声が、記憶の奥で一度だけ響いた。
蓮華は笑う。
過去ではない。
死でもない。
これからも続いていく、自分自身の生へ向かって。
ただ、笑った。
「望む光景、ねえ……希望なんて、今から自分で掴みに行くよ」
ネメシア・ヘリクリサム(h08297)は水鏡を覗き込み、腕を組む。
そうだ、欲しいものがあるなら自分で探しに行く。
強くなりたいなら剣を振る。
知らない技があるなら、その使い手へ勝負を挑む。
実際、鏡に用意してもらうような望みなど、すぐには思い浮かばなかった。
「それとも、ご馳走がいっぱいとか?」
冗談めかして笑った、その時だった。
鏡は、唐突に何かを映した。
赤茶けた地面。
風に削られた岩。
遠い空を渡っていく、薄い雲。
人の気配はない。
豪華な食卓も。
未知の剣技を持つ強敵も。
甘い菓子が山と積まれた宴もなかった。
そこは、何もない荒野だ。荒涼とした大地。
その奥に、一人の男が立っている。
赤い髪。
銀の瞳。
獣のような佇まい。
その手には、三本の刃を枝分かれさせた異形の刀が握られていた。
ネメシアの笑みが止まる。
「――あぁ」
ふうん。そう、来るのか。
✦
男は、かつて何度も剣を交えた相手だった。
人の言葉を持たず。
こちらの問いにも応えず。
ただ刃だけを通して、己の全てを叩きつけてきた者。
相手が何を思っていたのか。
なぜ戦っていたのか。
何を守り、何を憎み、何を望んでいたのか。
ネメシアは何も知らない。
知る前に、男は死んだ。
最後に聞いたのは、掠れるほど小さな声だけだった。
『ねむ』
自分の名を呼んだ。
それだけ。
それが本当に呼びかけだったのか。
何を伝えようとしたのか。
今となっては、もう確かめることもできない。
鏡の中の男が口を開く。
『ねむ』
今度の声は、はっきりしていた。
低く、たどたどしい。
言葉を使うことに慣れていない者が、一つずつ音を選ぶような話し方だった。
『もっと、はなしたかった』
ネメシアの指先が僅かに動く。
『つたえたい、ことがあった』
男が三支刀を下ろす。
戦うためではなく。
言葉を届けるために、こちらへ一歩近づいてくる。
『ねむに、すくわれた』
「……はは」
ネメシアは乾いた笑いを漏らした。
「そうだね」
こんなふうに話せたのかもしれない。
刃を交えるだけではなく。
焚き火を囲み。互いの生い立ちを語り。何を考えていたのか聞き合うこともできたのかもしれない。
自分と戦った時、彼は楽しかったのか。
ネメシアを敵と見ていたのか。
剣士として認めていたのか。
――最期に名を呼んだ、その意味は何だったのか。
知ることができたなら。
「君が私をどう思っていたのか、理解できたら」
嬉しかったのだろう。
男はもう一歩近づく。
『もっと。いっしょに、たたかいたかった』
鏡の向こうに、別の景色が重なった。
ネメシアと男が肩を並べている。
互いに背を預け、襲い来る敵を斬り伏せていく。
異なる二つの剣技が噛み合い。
三支刀が敵の刃を絡め取り。
ネメシアの愛剣が空いた急所を断つ。
何度も刃を交えたからこそ分かる呼吸。
正面でしか向き合えなかった二人が、今度は味方として戦っている。
『ねむ』
男が笑った。
『ありがとう』
瞬間。
ネメシアの胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「違う」
鏡の中の男が首を傾げる。
『なにが』
「違うよ」
ネメシアは両の愛剣へ手を伸ばす。
違う。
男の声は、あまりにも都合が良かった。
話したかった。
救われた。
一緒に戦いたかった。
それは全部、ネメシアが聞きたかった言葉だ。
彼が本当にそう思っていた証拠など、一つもない。
彼の生まれも。
過去も。
誰に何をされたのかも。
何を望んで戦っていたのかも。
何一つ知らない。
知らないのに。
自分へ感謝していてほしい。
自分を特別に思っていてほしい。
剣士として通じ合っていたのだと信じたい。
そんな願いだけで、目の前の男を作り上げている。
「君は、彼じゃない」
ネメシアは剣を抜く。
金属音が乾いた荒野へ響いた。
鏡の中の男も三支刀を構える。
その動きは記憶の通りだった。
腰の落とし方。
足の運び。
僅かに左へ傾く刃。
何度も戦った。だから、身体の動きだけなら覚えている。
けれど、声は違う。
思いは違う。
心だけは、どれほど望んでも再現できない。
「彼を、勝手に喋らせるな」
男が踏み込んだ。
三支刀が唸りを上げる。
ネメシアは一刀で受け、もう一刀を脇腹へ滑り込ませる。
男は身を捻って躱し、枝分かれした刃でネメシアの剣を絡め取った。
懐かしい。
この技を初めて見た時、胸が躍った。
どう崩す。
どう抜ける。
次はどんな剣が来る。
言葉がなくても、刃のやり取りだけで十分に楽しかった。
『ねむ』
男が呼ぶ。
『おれは――』
「黙れ!」
ネメシアは絡め取られた剣を手放さない。
逆に強く踏み込み、三支刀ごと男の体勢を崩す。
「彼を、私を呼んだ彼の声を、」
二本目の愛剣を振り上げる。
「――勝手に作るな!!」
刃が激突した。
火花が散り、荒野の空へ最初の亀裂が走る。
男は後退する。
それでも三支刀を構え直した。
『ねむに、あえて――』
「それ以上言うな!」
ネメシアの声が震えた。
怒っている。
鏡に。
幻想に。
そして何より、こんな未来を望んでいた自分に。
浅ましいと思った。
彼の本質など何も知らないくせに。
彼の沈黙へ、自分に都合のいい言葉を詰め込んで。
これが真実であってほしいと願っている。
ネメシアは目を閉じる。
十秒。
呼吸を整える。
思い出すのは、彼と剣を交えた日々。
言葉はない。
笑顔もない。
感謝もない。
ただ、刃があった。
生きようとする執念があった。
最後まで折れなかった剣があった。
「こうやって、一緒に戦ってみたかったけどさ」
ネメシアの背後に、人影が立ち上がる。
記憶の中から呼び出された、三支刀の持ち主の影。
声はない。
何も語らない。
ただ生前と同じように、異形の刀を構えている。
鏡の中の男と、記憶から生まれた影。
二つの同じ姿が向かい合った。
「……はは」
ネメシアは寂しそうに笑う。
「本当の君は、こうじゃないんだろうなあ」
影が駆けた。
三支刀同士が噛み合う。
鏡の男は何かを叫ぶが、影は何も答えない。
刃だけで応じる。
その沈黙こそが、ネメシアの知る彼だった。
ネメシアも地を蹴る。
二本の愛剣を左右から振るい、鏡面へ斬撃を重ねた。
三支刀の持ち主と、何度も交えた剣。
彼の技を受け。
彼の隙を探し。
彼の命を奪ったかもしれない刃。
その全てを、今度は幻想へ叩きつける。
鏡の男が手を伸ばした。
『ねむ』
最期に聞いたものと同じ声。
ネメシアの刃が、一瞬だけ止まりかける。
だが。
「……そうだね」
その先は、私が勝手に決めちゃいけない。
交差させた二本の剣を、同時に振り抜く。
男の姿。
三支刀。
語られることのなかった言葉。
それらを映した鏡面が、大きく裂けた。
✦
鏡が割れるのと同時に、記憶から呼び出した影も役目を終えたように薄れていった。
消える寸前で、その口元が、僅かに動いたように見えたが――声は聞こえない。
それでいい。
ネメシアは剣を下ろした。
「分からないままで、いい」
彼が何を思っていたのか。
最後に何を伝えようとしたのか。
答えは、永遠に手に入らない。
「分からないまま、持っていくよ」
三支刀を。
共に交えた剣技を。
最後に呼ばれた、たった二文字を。
都合のいい言葉で飾らずに。
答えのない過去を背負い。
新しい剣技の待つ未来へ。
そうしてネメシアは、砕けた鏡へ背を向ける。
「さて」
愛剣を鞘へ戻すと、顔にはいつもの自信に満ちた笑みが戻った。
彼の剣を携え、まだ見ぬ剣士たちと刃を交える方が、きっと自分らしいから。
ネメシアは迷いなく歩き出した。
前へ。前へと。
食堂には同じ顔が十数人並んでいた。
白い皿。
銀のカトラリー。
寸分違わず揃った椅子の位置。
乳母が料理を配り終えるまで、誰一人として手を付けない。
背筋を伸ばし、定められた角度で前を向き、命じられた通りに待っている。
七・ザネリ(h01301)は長い卓の端に座り、その光景を眺めていた。
自分と瓜二つの顔を、退屈そうに上から下まで。
輪郭。
目。
口元。
並べられた全員が同じ形をしている。
違うのは、表情の僅かな癖と、造られた順番くらいのものだった。
「本日の食事でございます」
乳母がザネリの前へ皿を置く。
魚の煮付けに豆のスープ。柔らかく煮た野菜。いつもとなんら変わりない食卓だ。
隣から、橙色の小さな塊が転がってきた。
甘く煮られた人参。
「おい」
ザネリが横を見る。
人参を寄越した兄弟は、知らぬ顔で食事を続けていた。
他の兄弟たちは好き嫌いなどしない。
出されたものを、決められた順番で、決められた量だけ口へ運ぶ。
だが、こいつだけは違った。
人参を食べず。
乳母の目を盗み。
昔からザネリの皿へ押しつけてくる。
「相変わらずだな、お前」
仕方なく口へ放り込む。
噛めば、甘い味が広がった。
「不味い」
顔を顰めると、隣の兄弟が声を立てて笑う。
その笑い方を、ザネリは知っていた。
何度も見た。何度も腹を立てた。何度も、その首を落とす光景を夢に見た。
いいや、夢ではない。
こいつは、実際ザネリが一度落としたはずの首だ。
皿を置き、食堂を見渡す。
慢性的な頭痛はない。胃の底を掻き回すような吐き気もない。あの忌々しい本も、どこにも見当たらない。
廊下の向こうを男の背が横切った。
恐らく父親だ。
相変わらず、こちらを見ることはない。
兄弟たちの調整に夢中なのだろう。
器具を運ばせ、記録を取り、同じ顔の子どもたちが設計通りに動くか確かめている。
冷え切った視線も、言葉のない食卓も、役割を与えられた兄弟たちも。
何一つ、優しくはない。
だが、壊れてもいない。
そこは、子どもの頃の〈はくちょう座〉だ。
飽きるほど眠り。
目を覚ませば昨日と同じ廊下が続き。
人参嫌いの反抗期が隣にいて。
誰も家出などしない。
ここには白い夏服の女もいない。
川底へ引き摺り込む腕もない。
生温かな水が肺へ流れ込むこともない。
悍ましい美学を、夜ごと朗読する必要もなかった。
兄弟たちは、今日も健やかに動いている。
相変わらず造られた通りに。
それでも確かに、生きている。
「 」
隣の兄弟が、ザネリを呼んだ。
本に奪われる前の名前だが、ノイズはなかった。
もう聞き取れないはずの。
誰かに呼ばれても、自分のものだと分からないはずの名前。
その音が、あまりにも自然に耳へ届く。
「……もう一度呼べ」
「 」
胸の奥で、何かが軋んだ。
そうか。それはきっと、欲しかったものだ。
自分の名前。
呪われる前の人生。
兄弟たちが誰一人欠けず、同じ屋敷で暮らし続ける未来。
確かに愛していた。
自分の身体を千切り。
繋ぎ。
同じ顔へ造られた者たち。
どれほど気味が悪くとも。
どれほど歪な生まれであろうとも。
だからこそ、救えなかったことが今も腹の底へ残っている。
この鏡の中なら、誰も失わずに済む。
自分も七番目のザネリにはならない。
奇人を演じることも。
悪役の美学を振りかざすことも。
口を開くたびに本の思惑を疑うこともない。
名も。
家も。
兄弟も。
全部、ここにある。
「……ふん」
ザネリは頬杖をついた。
隣の反抗期が、人参をもう一つ寄越してくる。
「調子に乗るな」
指で弾き返せば、向こうもこちらの皿へ戻してきた。
下らない応酬を、これを何年も続けるのだろう。
朝が来て。
食事をして。
父親の調整を受け。
夜になれば眠る。
兄弟の誰かが欠けることもなく。
ザネリだけが屋敷を出ることもない。
それは間違いなく、望んでいた未来だった。
だが。
「物足りねぇな」
食堂の空気が止まる。
兄弟が首を傾げる。
「何が?」
「全部だよ」
名前を呼ばれても。
兄弟が生きていても。
呪いがなくても。
胸の穴が、埋まらない。
かつての自分なら、この光景で満足できたかもしれない。
誰にも選ばれず、誰の特別にもなれず、冷たい屋敷でただ同じ顔だけを眺めていた頃なら。
けれど今は違う。
ザネリはもう知っている。
懐へ入り込んだ者たちのことを。
捨てられたものを拾い上げ、自分だけの価値を与える喜びを。
煙草臭い屋敷へ勝手に上がり込み、主人の顔色など構わず居座る従業員たちを。
そして。
この名悪役を、名指しで追う者のことを。
兄弟たちは愛していた。
だが、それだけでは足りない。
ザネリは、自分だけの特別を知ってしまった。
「 」
反抗期が、もう一度昔の名を呼ぶ。
その名はもう、自分のものではない。
失ったのではない。
奪われただけでもない。
ザネリという名前で、ここまで生き延びてきた。
惨めに。
愚かに。
それでも諦め悪く。
生きてきた。
「残念だったな」
ザネリは椅子から立ち上がる。
「昔の名前で呼べば、俺が喜ぶとでも思ったか?」
兄弟たちが一斉にこちらを見る。
同じ顔。
同じ視線。
その中で、反抗期だけが立ち上がった。
「どこへ行く?」
「決まってるだろう」
ザネリは笑う。ギザついた歯を見せて。
「この出来損ないの幸福から、出ていくんだよ」
反抗期の兄弟が、ザネリの腕を掴む。
その手は温かかった。
本物と変わらない。
「ここにいればいい」
「断る」
「兄弟だろう」
「ああ」
ザネリはその顔を見下ろす。
そうだ。確かに愛していた。
だからこそ。
「兄弟なら、喧嘩の一つくらいするもんだろう?」
指先が、兄弟の首へ触れる。
かつて落とした首。
あの日自らの手で断ち切った、取り返しのつかないもの。
鏡の中の兄弟は逃げない。
ザネリの腕を掴んだまま、まっすぐに睨み返してくる。
その顔だけは、悪くなかった。
「さあ」
ザネリは低く笑った。
「一世一代の兄弟喧嘩をしよう、 」
今度はザネリの声だけが、鏡の中でノイズに消えた。
反抗期の口元が歪む。
笑ったのだろう。
ザネリは首へ腕を回す。
迷いはない。
一息。
骨の折れる音はしなかった。
代わりに、鏡面へ鋭い亀裂が走る。
食堂の天井が割れ、整然と並んだ同じ顔が幾つもの断片へ裂けていく。
水晶のような音を立てて。
兄弟の頭部を抱えたまま、ザネリはそれを見下ろした。
目はまだ開いている。
昔の名を呼ぼうとして。
けれど、もう声は届かない。
「悪いな。俺はもう、お前らだけで満足できるほど可愛らしくない」
最後に、人参嫌いの反抗期が呆れたように笑ったように見えた。
やがて、すべてが砕け散る。
✦
ザネリの腕の中には何も残らなかった。
慢性的な頭痛が戻ってくる。
首筋に呪いの気配が這い、胃の底で忌々しい本の悪意が蠢いた。
現実だ。
傷も。
呪いも。
苦痛も。
全部が戻ってきた。
ザネリは額を押さえ、低く笑う。
「今の俺は、世紀の名悪役だ」
穏やかな日々などいらない。
兄弟たちを忘れたわけではない。
失った過去を、正しかったことにするつもりもない。
だが、その願いだけではもう足りない。
七番目のザネリには、結末を待たせている相手がいる。
砕けた鏡の破片を踏み越える。
呪いの本が定めた悪役ではない。
誰かの美学へ従うだけの役者でもない。
「さっさとこの首を取りに来い」
誰もいない鏡の迷宮へ、挑発するように告げる。
「俺を追いかけてるんだろう? なら見失うなよ、主人公」
ピンクの瞳が、楽しげに細められる。
今度こそ。
偽物の幸福ではなく。
誰かに与えられた筋書きでもなく。
自分を特別と呼ぶ者の手で、物語を終えるために。
「嫌らしいことする最低パンダ!」
野分・時雨(h00536)は、宙に浮かぶ鏡へびしりと指を突きつけた。
「まさにパンダにあるまじき行為! 白黒はっきりした外見をしておきながら、やることは陰湿極まりない!」
その後も二、三。黙っているのをいいことに言葉を投げたが、やはり鏡は答えない。
水面に似た表面を静かに揺らしているだけだ。
「……正直、何が映るか、半ば予想できますが」
軽口を叩いていた時雨の声が、少しだけ低くなる。
「あーあ。やだな~」
見たくない。
そう言いながら、目を逸らすこともできなかった。
光景は、まあ、想像していた通り。
鏡に、古びた山寺が浮かび上がる。
✦
季節は夏だ。
深い緑に抱かれた石段に、軒先から吊るされた風鈴。
蝉時雨の隙間を縫って湿った風が畳の匂いを運んでくる。
縁側に、憮然とした様子で一人の男が座っていた。
時雨は笑うのをやめた。
「……先生」
忘れようのない背中だった。
二年前の夏に亡くなった恩師。
かつて、捨てられていた妖を拾い上げ、荒れていた悪童を山寺へ放り込み、四期生九番として生き直す場所を与えた人。
同輩たちは既に各地へ散っているらしい。
鏡の中にいるのは、恩師と時雨だけだった。
「ああ、この頃ですか」
時雨は小さく息を吐く。
「ぼくだけがお傍にいた頃ですねぃ」
独り占めできていた。そんな言い方をすれば、先生は眉を顰めただろう。
けれど実際にそうだった。
同輩が旅立った後。年老いた恩師と、山寺に残った時雨。
身体に不調があれば、食事を用意した。
消化に良いものを調べ、味付けを変え、食べ残しがあれば理由を聞いた。
少しでも痛みを和らげられればと、鍼灸まで習いに行った。
『そこまでする必要はない』
「そう言われましたね」
『好きにしろ』
「それも」
鏡の中で、過去の時雨が湯呑みを差し出している。恩師は呆れた顔をしながら、それを受け取った。
礼を言うでもない。褒めるでもない。けれど、拒みもしなかった。
それだけで良かった。
役に立ちたかった。
拾ってくれた恩人へ報いたかった。
人でも妖でもないような、厄介なものとして捨てられていた自分を、此処へ置いてくれた人。
その人にだけは、役に立つと思ってほしかった。
必要だと。
傍に置く価値があると。
そう思ってほしかった。
「……そんなことを口にしたら」
時雨は自嘲するように笑う。
「呆れられて、拳が飛んできましたが」
『馬鹿者』
鏡の奥から、声がした。
時雨の肩が跳ねる。
縁側に座っていた恩師が、こちらを見ていた。
記憶と同じ顔。
険しく刻まれた皺。威圧感のある目。
けれど、視線の奥には決して冷たくないものがある。
『いつまでそこに立っている』
「いやはや、幻覚の完成度が高いですね」
時雨はわざとらしく肩を竦める。
『来い』
「お断りしても?」
『来い』
「命令形しかご存じないんですか?」
口ではそう言いながら、時雨の足は鏡へ向かって一歩進んでいた。
恩師が生きている。
もう一度、声を聞ける。
食事を作れば、黙って食べてもらえる。
鍼を打てば、余計なことをするなと小言を言われる。役に立とうと躍起になって。呆れられて。拳を落とされて。それでも明日も、傍にいられる。
きっと、鏡の中ではこの夏が終わらないのだろう。恩師は老いても死なない。
時雨は最期の瞬間に立ち会えなかったことを、悔やまずに済む。
「わかってますよ、幻覚だって」
時雨は囁く。
鏡の恩師が、何も言わずこちらを見ている。
「先生は、もう亡くなった」
口にすれば、胸の内側へ鈍い痛みが走る。
「もう何をしても、怒られない。喜んでもらえないんです」
作った食事を残されることもない。
余計な世話を焼くなと叱られることもない。
稽古で投げ飛ばされることもない。
役に立ったと、思ってもらうことも。
もう二度とない。
恩師の最期に時雨はいなかった。
どうして離れていたのか。
何をしていたのか。
思い返せば幾つもの事情はある。
けれど、事情など何の慰めにもならない。
傍にいたかった。
最期の呼吸を聞き、手を握り、何か言葉を交わしたかった。
或いは、何も言わずに見送るだけでもよかった。
「なんで、最期の時……離れていたんでしょうねぃ」
時雨の笑みが歪む。
『時雨』
恩師が名を呼んだ。
「やめてくださいよ」
『来い』
「行ったら、何か言ってくれます?」
『何をだ』
「よくやった、とか」
恩師の眉間に皺が寄る。
「お前がいて助かった、とか」
『くだらん』
「知ってました」
時雨は喉の奥で笑った。
鏡が見せる理想なら、もっと優しい恩師を作ることもできただろう。
頑張ったなとか。お前は役に立ったとか。傍にいてくれて嬉しかったとか。
時雨が欲しかった言葉を、幾らでも言わせられたはずだ。
けれど、目の前の男は言わない。
『いつまでうだうだしている』
「おや」
恩師が、ゆっくりと立ち上がった。
腰を落とす。
片足を引き、両腕を構える。
それは何度も見た姿勢だった。
時雨の顔から、さっと血の気が引く。
「……なんか、幻覚のはずなのに構えてるんですけど」
『来ないなら、こちらから行く』
「やだ!」
恩師が鏡の奥から踏み込んだ。
伸びてきた腕が、時雨の襟を掴む。
「ちょ、待っ、」
身体が宙に浮いた。
鏡を境にしているはずなのに、感触は本物だった。
背を向けられ。
腰へ担ぎ上げられ。
それはそれは、懐かしいほど見事な背負い投げで――。
「うわあああっ!」
時雨は反射的に受け身を取った。
背中から落ちる寸前、景色が反転する。
夏の山寺。
縁側。
恩師の顔。
すべてが水面のように揺らいだ。
次の瞬間、時雨は鏡の前で片膝をついていた。
投げられた痛みはないが、襟を掴まれた感触だけは生々しく残っている。
「……本当に、嫌らしい」
時雨は俯いたまま呟く。
「都合のいい言葉をくれるより、ずっと性質が悪い」
鏡の中で、恩師は再び構えていた。
『立て』
「はいはい」
『返事は一度だ』
「はい」
時雨は立ち上がる。
胸の奥に巣食っていた悔恨は、消えていない。
最期に傍にいられなかった。
恩を返し切れなかった。
自分が本当に必要とされていたのか、今も分からない。
けれど。
先生ならきっと、いつまでも立ち止まる時雨を許さない。
慰める代わりに殴る。抱き締める代わりに投げる。役に立ったかなど問う前に、次の仕事を与える。
そういう人だった。
「懐かしい記憶に触れました」
時雨は拳を握る。
目の前の鏡は、妖の力を使えば簡単に壊せるだろう。
背へ隠した蜘蛛脚で捕らえ、牛鬼の脚力で蹴り砕くこともできる。
けれど、それでは足りない。
幻から現実へ戻るには――この手で、壊さなければならない。
「先生」
『なんだ』
「ぼくは、」
続く言葉が喉へ引っ掛かる。
役に立てましたか。
拾ったことを後悔していませんか。
最期に傍にいなかったぼくを、許してくれますか。
どれも聞けなかった。
今更、幻に答えを求めるべきでもない。
「……いえ」
時雨は笑う。
「何でもありません」
恩師が拳を握る。
時雨も拳を構えた。
『来い』
「ええ」
四期生九番。
悪童だった少年が。拾われた妖が。恩師の傍で青春を過ごした証。
それだけで十分だった。
「参ります」
二人は同時に踏み込んだ。
鏡の中から繰り出される拳を、時雨は身を沈めて躱す。
本物ならば、続けて膝が来る。その後は肩を取られ、また投げられる。
身体が覚えていた。
踏み込みも。呼吸も。拳を放つ一瞬の間も。
時雨は蜘蛛脚も、牛鬼の角も、異能も使わないまま。ただ一人の弟子として、生身の拳を振り抜く。
拳が鏡面へ触れる。
硬い。
皮膚が裂ける。
鈍い痛みが拳から腕へ駆け上がった。
「――っ!」
鏡に亀裂が走り、恩師の頬を白い罅が横切った。
『腰が入っていない』
「壊れかけの幻が、注文をつけますか!」
もう一度、時雨は拳を叩き込む。
骨へ響く。
血が鏡面へ散った。
『踏み込みが浅い』
「ええい、相変わらず!」
三度目は、身体ごと前へ。
牛鬼の脚力ではなく、山寺で鍛えられた、人の踏み込みで。
「……一言くらい、褒めてから消えたらどうです!」
鏡が大きく軋む。
山寺の柱が割れ、縁側が崩れ、夏空に亀裂が広がった。
恩師は、最後まで構えを解かない。
『時雨』
「はい」
『立ち止まるな』
それが幻の作った言葉なのか。
記憶の奥に残っていた声なのか。
時雨には分からない。
だから、ただ返事をした。
「承知しました」
✦
最後の拳を振り抜くと、鏡面が砕けた。
独り占めしていたあの夏が、光の破片となり、時雨の周囲へ降り注ぐ。
時雨は血の滲む拳を下ろした。
痛い。
けれど、悪くない痛みだった。
生きている。
ここが現実だ。
砕けた鏡を見下ろし、時雨は鼻を鳴らす。
「まったく、腹立つ畜生パンダ!」
食鉄大師の姿を思い浮かべるだけで、眉間に皺が寄る。
「弱さを善と説き、強さを悪とするのであれば。オマエもまた、誰かを裁く強者でしょう!」
拳から落ちた血が、石畳へ小さな点を作る。
強いから悪いのではない。
弱いから善いのでもない。
恩師は強かった。
拳も。
心も。
生き方も。
もし強さが悪ならば。
あの日差し伸べられた手まで、悪になってしまう。
「強弱は、善悪にあらず」
時雨は拳の血を衣服で拭う。
「……迷いを離れた心こそが、善と言えましょうに」
もっとも、自分もまだ、迷いを捨て切れてはいない。
恩師の最期へ戻りたいと思う。もう一度会いたいとも、役に立ったと認めてほしいとも。
今も、思う。
けれど、迷いを抱えていることと、迷ったままそこへ居座ることは違うのだろう。
時雨は肩を回し、鏡のあった場所へ背を向けた。
「……しかし、先生に背負い投げされるのは、これで最後にしたいものですねぃ」
一歩、現実へ向かって歩く。
要人の店で無為に過ごす日々も。
長く明けない梅雨も。
語らずにいる過去も。
すべてを抱えたまま。
恩師のいない世界を、生きていく。
地獄の果てこそ楽園ならば。
その道行きも、きっと悪くはない。
鏡面がゆっくりと明るくなっていった。
淡い光の中にひとつの部屋が浮かび上がる。
窓辺には花が飾られ、卓上には湯気の立つ紅茶と焼き菓子が並んでいた。
小弓・佐倉(h08163)は、鏡の前で瞬きをする。
「……安らかな未来って」
ここへ来る前に聞いた言葉を、小さく口に出す。
「今、もう、もったいないくらい……なのに」
保護してくれる人がいる。同じ赤い目を持ち、赤い目だからと嫌われた痛みを知る人がいる。
友達もできた。
会話をして、一緒に出かけて。猫を見つければ、つい目で追ってしまうような穏やかな日々もある。
それまで知らなかった幸福を、今の小弓は少しずつ受け取っている。
「なにが、うつるの?」
鏡の中に、少女が現れた。
黒い髪。白い肌。そして、凶兆と呼ばれ続けた赤い瞳。
小弓自身だった。
けれど、鏡の中の小弓は今より少しだけ幼く見える。
警戒するように肩を縮めることもなく、明るい声で誰かに話しかけていた。
『それでね、わたし、今はとっても、しあわせなの』
隣には男女が座っている。
女が小弓の髪を撫で、男が嬉しそうに頷いていた。
『お友達も、できたの』
『まあ』
『それは良かったな』
優しい声だった。
二人とも、小弓を恐れていない。
赤い瞳を避けることも、不吉なものを見るように顔を顰めることもない。
ただ大切な話を聞くように、笑っている。
小弓は首を傾げた。
「……わたし、と……だぁれ?」
鏡の中の自分を指差す。
分からない。
見覚えのない顔だった。
声にも、仕草にも、何一つ記憶がない。
叔母夫婦ではない。小弓が長い間、両親だと思ってきた者たちとは違う。
知らない誰か。
それなのに。
胸の奥から、理由もなく悲しさが湧き上がってくる。
鏡の中の女が、幼い小弓の頬を両手で包んだ。
『あなたが元気で、本当に良かった』
男も、小弓の頭へ手を置く。
『これからは、ずっと一緒だよ』
その言葉を聞いた瞬間、小弓の喉が小さく鳴った。
知らない。
この人たちを知らない。
知らないはずなのに。
どうして、こんなに会いたかったような気持ちになるのだろう。
「ヤグロ」
小弓の傍らで、二つの鬼火が揺れた。
手の形をした護霊。
小弓がその姿を見ることができなかった頃から、ずっと傍にいた存在。
「……誰か、わかる?」
二つの手は答えない。
言葉を持たない代わりに、焔をゆっくりと揺らす。
片方は小弓を庇うように前へ出た。
もう片方は、慰めるように肩へ触れようとする。
その動きには、いつもの柔らかさがなかった。
迷っている。
何かを知っていて。けれど、それを小弓へ伝えていいのか分からない。
そんなふうに見えた。
「……ヤグロ?」
小弓は鏡へ近づく。
鏡の中の女が、こちらへ手を伸ばした。
『小弓』
名前を呼ぶ声。
初めて聞いた声なのに、身体の奥がその音を覚えている。
『おいで』
『もう、怖いことは何もないよ』
鏡面が水のように波打った。
向こう側から、二人の手が差し出される。
直感的に分かった。
――その手を取れば、きっと分かる。
この人たちが誰なのか。
どうして小弓の幸福の中にいるのか。
なぜ今まで忘れていたのか。
鏡の中の小弓は、朗らかに笑っている。
『お友達も、みんな、よくしてくれるよ』
『猫も、かわいいし』
『わたし、しあわせだよ――ねえ、"わたし"?』
小弓の胸が痛んだ。
知らない人に言われたはずなのに。
知らない"わたし"に言われたはずなのに。
「この、ふたりは……今の日常に、いないひと」
小弓は震える声で呟く。
「知らない、だれか」
けれど、鏡はこの二人を選んだ。
小弓の望んだ幸福に必要な者として。
必要な。
――いいや。
「必要……だった、ひと?」
問いかけても、誰も答えない。
鏡の中の二人は、ただ優しく笑っている。
小弓の頭の奥で、何かが軋んだ。
赤い炎。
鋭い爪。
悲鳴。
床へ広がる血。
一瞬だけ浮かんだ光景は、形を結ぶ前に消えた。
「……っ」
小弓は両手で頭を押さえる。
知らない。
思い出せない。
思い出してはいけない。
そんなふうに、心の奥から何かが扉を押さえている。
鏡の中の女が悲しそうに眉を下げた。
『怖がらないで』
『私たちは――』
「わからない!」
小弓は首を振る。
『小弓』
「わからない、わからない!」
声が崩れていく。
幸せな光景のはずだった。
誰かに愛され。
温かな手で触れられ。
成長を喜んでもらう。
それは、小弓がずっと知らずにいたもの。
けれど、目の前の幸福は、あまりにも怖い。
知らない過去が。
失ったことすら知らない何かが。
今の小弓を、強く引き寄せようとしている。
二つの鬼火手が、すぐに小弓の前へ並んだ。
鏡から庇うように。それでも小弓の赤い瞳は、二人の姿から離れない。
「ヤグロ……この鏡、怖い」
息が浅くなる。
「割って……ッ!」
願いに応え、夜黒の手が大きく燃え上がった。
片方が小弓の背を支える。
もう片方が拳を握り、鏡へ向き直る。
小弓が震える手を前へ伸ばすと、鬼火の手が、その小さな拳へ重なった。
焔が強く揺れる。
応えるように、守ると伝えるように。
小弓の拳を包んだ鬼火が、黒い炎を纏う。
鏡の中の両親が、同時に立ち上がった。
『待って』
その声に、胸が引き裂かれそうになる。
「わたし……だれか、わからないの」
小弓の目から涙が落ちる。
知らないはずの二人へ。
理由もなく悲しくなる相手へ。
「――ごめんなさい」
一歩、踏み込む。
鬼火を纏った拳が鏡面を打ち抜いた。衝撃と共に、黒い炎が走る。
幸福な部屋に亀裂が入り。焼き菓子が崩れ。窓辺の花が、光の粒となって舞い上がる。
女が手を伸ばした。
男が何かを叫んだ。
けれど、その言葉は砕ける音に呑まれて聞こえない。
鏡面が、割れる。
✦
鏡がなくなっても、小弓は拳を下ろさなかった。
赤い目は何もない空間を見つめ続けている。
「……だれ?」
答えはない。
ただ、傍らのヤグロが小弓を包み込む。
二つの鬼火手が、夜帷のように背と肩を抱く。温かい。ずっと前から知っていたような温もりだった。
小弓は俯く。
「わたし、今、しあわせなの」
零壱がいる。
友達がいる。
ヤグロもいる。
怖がらずに赤い目を見てくれる者たちがいる。
その幸福は、鏡の中だけのものではない。
「だから……だいじょうぶ」
自分へ言い聞かせる。
胸の中に残った「だれ?」という問いは、消えない。
これから先、いつかその答えを知る日が来るのかもしれない。
今日、鏡を壊したことを後悔する日も来るかもしれない。
それでも、小弓はヤグロの指を握るように、鬼火へ手を重ねた。
「……行こう」
返事の代わりに、焔が揺れる。
小弓は鏡の迷宮の先へ歩き出す。
思い詰めた顔のまま。
知らない誰かへの悲しみを、胸の奥へ残したまま。
鏡の向こうには、小さな少女がいた。
まだ金の髪も短く、白狐の面も今よりずっと大きく見える。
庭先を駆け回るその少女は、笑いながら誰かのもとへ飛び込んでいった。
『おとうさん!』
大きな腕が少女を抱き上げる。
『おかあさん、見て!』
振り返った先では、もう一人が優しく笑っていた。
矢神・霊菜(h00124)は鏡の前に立ち、その光景を静かに見つめていた。
「自分が奥底で望む、幸せな姿……一体、何が映るのかしらと思っていたけれど」
軽く首を傾げるが、答えはあまりにも素直だった。
「あぁ、これは――おとうさんと、おかあさん」
まだ能力者として覚醒する前。
冒険者になることも。
異なる世界を巡ることも。
氷雪の神霊と共に戦うことも知らなかった頃。
家族三人で暮らしていた、幼い日の景色だった。
鏡の中では、父が少女を肩車している。
母は少し困ったように笑いながら、その様子を見上げていた。
『もう、危ないでしょう?』
『大丈夫だよな?』
『うん!』
明るい声が重なる。
きっと、母がおかしくなる前なのだろう。
家族が壊れる前。恐ろしい何かが、幼い霊菜の記憶を覆い隠す前。
――皆が笑い合っていた頃。
それは、霊菜が今も失ったままの時間だった。
けれど。
「ふふ」
霊菜は小さく笑う。
「こんな時でも、顔は見せてくれないのね」
鏡の中の両親には、確かに顔がある。
笑い。
口を動かし。
互いに視線を交わしている。
だが、霊菜がそこへ意識を向けようとすると、輪郭が淡く滲んだ。
目鼻立ちは光に溶け、声も水の底から聞こえるように遠のいていく。
欠落した記憶。
父の顔も。
母の声も。
どうしても思い出せない。
覚えているのは、幸福だったという感覚だけ。
「少し、寂しいわ」
指先が白狐の面へ触れる。
両親が遺した形見。
顔も声も失った今、唯一残る確かな繋がり。
「でも……少し安心もするの」
鏡が、勝手に両親の顔を作らなかったことに。
自分の都合のいい父と母を与えず、失われた部分は失われたまま映したことに。
それが寂しくもあり。
けれど同時に、少しだけ誠実な気もした。
鏡の中で、幼い霊菜が両親と手を繋ぐ。
三人で道を歩いていく。
春には花を見て。
夏には川へ行き。
秋には木の実を拾い。
冬には肩を寄せ合う。
やがて少女は成長する。
両親に見守られ。
普通の娘として。
戦いなど知らぬまま。
もしかしたら、弟や妹が増えていたかもしれない。
家族は賑やかになり。
食卓には皿が増え。
記念日のたびに、皆で写真を撮ったのかもしれない。
霊菜は鏡の前で、静かに息を吐いた。
「そう」
きっと自分の奥底には、そんな願いがある。
あの頃のまま成長していたなら。
両親を失わず。母が壊れることもなく。家族の記憶を欠落させることもなかったなら。
自分はどんな人生を歩んでいただろう。
「確かに、あの頃は幸せだったもの」
両親がいて。
二人に愛されて。
何も知らず、ただ笑っていられた。
『霊菜』
母親の顔は見えない。
それでも、その呼び方だけで胸が締め付けられる。
『帰っておいで』
父も隣で腕を広げている。
『これからは、ずっと一緒だ』
幼い霊菜が、両親の間からこちらへ手招きをした。
鏡面が柔らかく波打つ。
あと一歩、手を伸ばせば届く。
失われた記憶も、得られなかった年月も、あるはずだった家族の未来も。
そこに入れば、すべて取り戻せるように見えた。
霊菜はしばらくその手を見つめていた。
胸の奥にある少女は駆け出したがっている。
おとうさん。
おかあさん。
もう一度、そう呼びたい。
どんな声だったのか聞きたい。
どんな顔で笑ってくれたのか見たい。
自分がどれほど愛されていたのか、確かめたい。
その願いは、嘘ではない。
「でも」
霊菜は、そっと手を下ろした。
「それは、あり得たかもしれない未来よね」
決して、今から手に入る未来ではない。
過ぎた時間は戻らない。
失った者は、鏡の中から取り戻せない。
「もう手に入ることのない未来を想像したって、詮無いことよ」
少し強がるような声音だった。
だが、その青い瞳は揺れていない。
霊菜は両親の姿を見つめる。
「それよりも、私は今の幸せを選ぶわ」
自分には、夫がいる。
出会った時から真っ直ぐに想いを向けてくれた人。
初めは疑った。素直に信じられず。近づけば離れ、離れればまた追いかけられた。
それでも、彼は諦めなかった。
今では、同じ家へ帰る人になった。
そして、娘がいる。
笑顔が賑やかで。絵を描くことが大好きで。父に甘やかされるたび、母の拳が飛ぶ日常すら楽しそうに笑う子。
今の霊菜には、帰る場所がある。
失った家族ではない。
自分で選び。
愛し。
育ててきた家族がいる。
「それに何より、今の私でなければ――あの人には、出会えなかったでしょうね」
霊菜は僅かに微笑んだ。
風のように現れ、真っ直ぐな笑顔で隣に居座った男。
愛する夫と。
愛する娘と。
家族になることもなかった。
「私があの頃のまま成長していたら、今の家族は、きっとどこにもいないから」
鏡の中の少女へ語りかける。
少女の手が、鏡面を越えて伸びた。
『私たちを選ばないの?』
霊菜は少しだけ目を伏せた。
両親を愛していないのではない。
「……あなたたちは、もう私の中にいるもの」
顔も声も思い出せない。
それでも、幸福だった記憶は残っている。
幼い自分を愛してくれたという確信も、失われてはいない。
「だから、ここへ戻る必要はないのよ」
霊菜は腕を広げた。
冷たい風が、境内を吹き抜ける。
足元から白い霜が広がり、水鏡の表面を覆っていく。
鏡の中の夏が曇る。
両親の姿へ。
幼い霊菜へ。
あり得たかもしれない家族の未来へ。
氷の結晶が静かに這っていく。
『霊菜』
名を呼ばれる。
その声も、やはり最後まで輪郭を持たなかった。
霊菜は白狐の面へ一度だけ触れる。
「ありがとう」
覚えていない両親へ。
それでも確かに、自分を愛してくれた二人へ。
「私は、幸せよ」
強がりではない。
今ここにある幸福を、胸を張って告げる。
「……だから、こんなまやかしの未来は不要」
氷翼漣璃が霊菜の周囲へ舞い降りる。
二体一対の氷の鷹が翼を広げ、冷気が渦を巻いた。
凍結した鏡へ掌を向ける。
「鏡ごと、凍って砕けてしまいなさい」
氷翼が羽ばたくと、吹雪が水鏡を包み込む。
鏡の奥まで凍りつき。
笑う両親も。
幼い自分も。
増えたかもしれない兄弟も。
澄んだ破砕音と共に、無数の氷片へ砕け散る。
✦
光を反射しながら、風花のように破片が舞い上がった。
霊菜はその全てを見届けた。
寂しさは残る。
顔を見たかった。
声を聞きたかった。
その気持ちは消えない。
けれど、消す必要もないのだろう。
両親との記憶が欠けているからこそ。
今の家族へ向ける想いが、誰より深いことを知っている。
霊菜は踵を返す。
夫と娘の待つ場所へ。
娘の描いた絵が飾られ。
夫が笑い。
時々、甘やかしすぎた夫へ拳を落とす。
そんな騒がしい日常へ帰るために。
「さて」
舞い落ちる氷の欠片を見上げ、霊菜は微笑む。
「異世界ピクニックの続きといきましょうか」
失った幸せではなく。
自分の手で築いた幸せを守るために。
氷華は、迷いなく鏡の迷宮の先へ歩き出した。
薔薇の咲く庭で少女が笑っていた。
淡い春の陽射しが芝生へ落ち、風に揺れた花弁がきらきらと舞っている。
庭の中央に敷かれたレジャーシートの上では、今より少し成長した咲月が、両手を広げて楽しそうに何かを話していた。
その話に耳を傾ける、二人の男女。
寄り添うように座った姉夫婦が、あの頃と何一つ変わらない笑顔を浮かべている。
「……お姉ちゃん」
兎沢・深琴(h00008)の唇から、掠れた声が零れた。
鏡の中で姉がこちらを振り向く。
『深琴』
記憶のままの声だった。
優しく。少しだけ姉らしい強さを含んだ声。
『そんなところにいないで、こっちへいらっしゃい』
姉が手招きをする。
義兄も穏やかに笑っている。
咲月は深琴を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
『みことちゃん!』
鏡の中の世界では、誰一人欠けていない。
姉夫婦は旅行先で事故に遭わなかった。
咲月は両親に見守られながら健やかに成長した。
深琴もまた、喪失と罪悪感に心を沈めることなく、家族の輪の中で笑っている。
あの日、自分が余計な提案などしなければ。
姉夫婦だけで出掛けてきたらどうかと、口にしなければ。
二人はあの植物園へ行かなかった。暴走したトラックに巻き込まれることもなかった。
この未来が、きっと本物になっていたのだ。
『深琴』
もう一度、姉が呼ぶ。
深琴の胸に、懐かしさが込み上げる。
大好きだった声。いつも自分を気にかけてくれた人。
また抱き締めてもらいたかった。
何も悪くないのだと、言ってほしかった。
ずっと一人で抱え続けてきた罪を、姉自身の声で赦してほしかった。
鏡面が水のように揺らぎ、姉の手がこちら側へ伸びてくる。
『ほら、どうしたの?』
――その手を取れば、あの輪の中へ加われる。
姉夫婦と咲月と共に、何の憂いもなく笑える。
薔薇の咲く庭で、過ぎていく季節を家族皆で見送ることができる。
深琴の指先が、姉の手へ近づいた。
あと少し。
けれど。
触れる直前で、その手は止まった。
「違う」
姉が首を傾げる。
『何が違うの?』
「あなたは、お姉ちゃんだけれど。……お姉ちゃんではないわ」
深琴の赤い瞳が、鏡の中の姉を真っ直ぐに見つめる。
鏡の中の姉は、優しい。
深琴を責めない。現実へ戻れとも言わない。
ここへ来れば全てが元通りになると、ただ手を差し伸べ続ける。
けれど、深琴の知る姉は、優しいだけの人ではなかった。
時には厳しく。
間違っていればきちんと叱り。
自分の人生を自分の足で切り開く、強さと気高さを持った女性だった。
罪悪感から逃れるために、現実を捨てろなどと言う人ではない。
「……お姉ちゃんなら、きっと怒るわ。こんなところで何をしているのって」
深琴は寂しそうに微笑むと、姉の姿が僅かに揺らいだ。
『深琴は悪くないのよ』
「ええ」
『あの事故は、深琴のせいではないわ』
「……ええ」
何度も、誰かに言われた。
予測できない事故だった。深琴が責任を感じる必要はない。ただ不幸が重なっただけなのだと。
それでも、自分の一言がなければと思う心は消えなかった。
姉本人にそう言ってほしいと、何度願ったか分からない。
理解している。
だから鏡は、今もっとも欲しい言葉を与えているのだ。
深琴が望む、都合のいい姉の姿で。
「これは、私の弱さが見せたお姉ちゃんの姿なのね」
鏡の中の姉が悲しそうに眉を寄せる。
『それでもいいでしょう?』
『深琴が救われるなら』
深琴の胸が痛む。
何もかも投げ出して、姉の腕の中へ戻りたい。
その気持ちがないとも言えなかった。
「いえ」
けれど、現実には咲月がいる。
両親を失いながら。
今も懸命に成長している少女がいる。
鏡の中の咲月は、姉夫婦の間で幸せそうに笑っていた。
けれど、その咲月もまた偽物だ。深琴が守るべき子は、ここにはいない。
「ごめんね、お姉ちゃん」
深琴は、そっと一歩下がった。
差し出された姉の手が遠ざかる。
「私は、そちらへは行けない」
『どうして?』
「咲月ちゃんを置いていけないから」
鏡の中の咲月が駆け寄ってくる。
『みことちゃん、私もいるよ?』
伸ばされる小さな手に、深琴は唇を噛んだ。
「あなたも、違うの」
今の咲月は、両親のいない日々を一生懸命に生きている。
寂しさを抱え。時には無理をして笑い。
それでも少しずつ、未来へ進んでいる。
その子を置き去りにして、何も失わなかった咲月を選ぶことなどできない。
「私が護るべきなのは、鏡の中の理想の未来ではないわ」
深琴の傍らに、濃紺の影が現れる。
夜空のような毛並み。その身体に無数の星を燦めかせる黒猫。
護霊、星の深淵。
深琴が絶望の底で立ち止まっていた時に出会い、何も受け取る資格がないと思っていた心へ、惜しみなく愛情を注いでくれた存在。
「星、力を貸して頂戴」
黒猫が金色の目で深琴を見上げる。
身体から夜空の輝きが溢れ出した。
鏡の中の姉が必死に首を横へ振る。
『深琴、行かないで』
その言葉に、涙が溢れる。
深琴は泣きながら、それでも笑った。
「お姉ちゃん」
今度こそ、きちんと別れを告げるために。
「私、お姉ちゃんが大好きよ」
事故の後も。
罪悪感に潰されそうになっても。
その気持ちだけは、ずっと変わらなかった。
「だから私は……お姉ちゃんの忘れ形見を護るわ」
星が鏡へ飛び掛かる。
星明かりを纏った黒い爪――昏き深淵の爪が、鏡面を鋭く引き裂いた。
亀裂が薔薇の庭を割る。二筋目が、笑う義兄の姿を断つ。三筋目が、姉と咲月の間へ走った。
鏡の中の姉が深琴を見つめている。
最後に浮かべた表情は、引き止める偽物の笑顔ではなかった。
深琴の記憶にある、少し厳しく、それでも誇らしげな姉の顔に見えた。
『行ってらっしゃい』
嘘かもしれない。
ただの幻かもしれない。
姉が本当にそう言ってくれるのか、もう確かめる術はない。
赦してくれるのかも、今なお怒っているのかも、深琴には永遠に分からないのだろう。
それでも、――答えが得られないことを理由に立ち止まり続けることは、きっと姉が望んだ妹の姿ではない。
それだけは、確かだった。
✦
鏡が砕けると、誰も欠けていない家族の日常は無数の星屑となって闇の中へ溶けていった。
深琴はしばらく、その場を動けなかった。
空になった手を胸元へ引き寄せる。
姉の温もりはもうない。
けれど。
足元へ寄り添った星が、深琴の脚へ身体を擦り寄せた。
「……そうね」
前へ進むことは、忘れることではない。
姉夫婦と過ごした日々も、失った悲しみも、これから先ずっと深琴の中に残り続ける。
それでも、その記憶だけを抱いて立ち止まり続けるのではなく、今そばにいる人たちへ手を伸ばしてもいいのだ。
きっと、それは裏切りではない。
帰る場所がある。
店がある。
星がいる。
そして、現実を懸命に生きる咲月がいる。
「帰りましょう、星」
深琴は涙を拭い、砕けた鏡へ背を向けた。
罪悪感が消えたわけではない。
姉夫婦を失った痛みも。
あの日の言葉を悔やむ心も。
これからも、きっと抱えていく。
星明かりが、開かれた道を照らす。
深琴はその輝きを道標にして、現実へ向かって歩き出した。
