失恋テロル
●純喫茶にて
「皆さんは失恋ってしたことありますか?」
√EDEN、本日貸切と示された純喫茶に落ち着くと、星詠みの|焦香《こがれこう》・|飴《あめ》が珈琲を飲みながらのんびりと問いかけた。
脈絡なく聞こえる問いは、しかしここに呼び集められたのが能力者のみということを踏まえれば何かしらの|事件《しごと》に関わるのだろうと容易に察せる。
飴は俺はさせたことしかないんですけど、とけろりと自分の回答を付け足してから続ける。
「どうやら、失恋でテロを起こそうとしている方々がいらっしゃるようなんです」
穏やかなまま頓珍漢なことを口にして、飴は皆に資料を配る。紙かデータで共有されたそれには、『失恋コンセプトカフェの狂信者について』と題されている。
「まず前提として、√汎神解剖機関に『失恋コンセプトカフェ』があります」
何だそれはと訊かないでくださいね、俺もちょっとよくわかってないんです。と飴は少し困った顔で笑う。√汎神解剖機関にはそういった一風変わったコンセプトカフェや居酒屋が多くあるらしい。
「訪れたお客様は皆、恋をしているかされていて、|店員《キャスト》に失恋するかさせるかをして、複雑な味わいのお茶を楽しむ。……そういう趣旨のカフェだそうです」
なんとも突飛なカフェである。これが日常的に繁盛するというから√汎神解剖機関の終末具合も推して知るべしではあるが、この店が最も客入りを伸ばす時期があるのだと飴は言う。
「今の季節でお察しの方もいるかもしれませんが、バレンタインです」
バレンタイン。すっかり友人同士での交換も当たり前になった昨今ではあるが、やはり告白の定番としても根強い。この時期このカフェに来るのは本番に向けての心の準備、あるいは失恋後に思うさま泣きに――などという、どちらにしてもいささか気まずさの拭えない目的が主ではあるが、この店でしか満たせないものでもある。
「そして、恋愛感情には強い力があるのは皆さんも知っての通りでしょう。――狂信者たちは失恋という強い負の感情を自身に宿し、己さえ怪異に変えてその身を信奉するものへ捧げようとしています。……その信奉するものが何かと言えば、」
一度そこで息をつきがてら珈琲を傾けて、飴はトンと指先で次の資料を示す。
そこには√汎神解剖機関を支える|新物質《ニューパワー》たるクヴァリフ器官について、そしてその器官の礎となる仔産みの女神『クヴァリフ』についての記載がある。クヴァリフの持つ忘我忘却の特性は、忘れたくとも忘れ難い失恋をした者たちにとっては一種の救いであるのかもしれない。
けれど今回最も重要なのは、母たる女神ではなく『クヴァリフの仔』だ。
「『クヴァリフの仔』争奪戦の話は既に耳に届いているかもしれませんが、この狂信者たちの手にも『クヴァリフの仔』があることが確認されています。この『仔』は他の怪異や√能力者と融合することで宿主の戦闘能力を大きく増幅させる。狂信者たちはこの仔と融合、ないしは仔自体を女神へ捧げようとしているようです。果たされれば、おそらくは繁華街の中心で大規模な心霊テロが起きるでしょう」
阻止する必要があります、と飴は資料から顔を上げる。けれども笑わぬ真顔はさほど続かず、柔い笑みに緩んだ。
「とはいえ実は、狂信者たちの本拠地が星を詠んでも割れてないんですよ。ほぼほぼこの『失恋コンセプトカフェ』であるとは思うんですが、裏手にあるのか地下にあるのか、あるいは別地点にあるのか。皆さんにはまず客としてこの店に行って、それを探り出して来てほしい」
おそらく|店員《キャスト》は皆狂信者たちだ。上手く傷心を見せたり、傷心にさせてやれば仲間として手招いてくる可能性もある。
「入店するとまず、失恋するかさせるか、それと|設定《シチュエーション》を選ぶことになります。失恋はするもさせるも心苦しいものでしょうから、どちらでもやりやすそうなほうを選んでください。あ、ちなみに複数人で行くと店員を迎えずそれぞれが失恋する側、させる側に分かれて過ごすこともできますが……後で気まずくならない人と行ってくださいね?」
後で俺に言われてもどうにもできないので、と飴は念を押した。誰かと行くならば、異性同性友人知人恋人は問わない。ちなみに|店員《キャスト》が対応する場合、基本的に同年代の異性が担当することになるという。
「設定はかなり様々あるようで……人気なのは先輩と後輩、上司と部下、幼馴染、あと先生と生徒とか姫と騎士もありましたね。まあだいたい言えばなんでも対応してくれると思うので、そこは個人のご趣味でどうぞ。設定はなにもなしであなた自身で対応することもできます」
ちなみにカフェなので勿論飲食もありまして、と飴はまた資料を進める。示されているメニューは設定とは逆に多くない。――『涙色ソーダ』、『いつまでも苦い珈琲』、『|初恋の終わり《レモンティー》』、セットになっているのはオペラケーキがひとつ。コンセプトがコンセプトだけに何とも言えないネーミングだが、どれも味は良いのだと飴は言い添える。
「失恋するかさせるかは、どちらかしか選べません。皆さんの振り方、振られ方で狂信者たちの出方も変わってくるでしょう。……危険な狂信者、ではありますが、あまりきつく当たってはいけませんよ」
このカフェにいる時点で、狂信者たちは忘れたいほどの失恋を抱えている。カフェのコンセプトを超える余計な刺激は必要ないだろう。
「そもそもがかなり限界に近い心境のはずです。場合によっては先走って小規模な心霊テロを起こすかもしれませんし、そうならなくても本拠地には怪異が待ち構えているでしょう。『クヴァリフの仔』の融合までに間に合うかも定かではない。いずれにしろ行ってみないことにはわかりません。あと――ええ、無茶を承知でお願いするのですが」
少しだけ言い淀んでから、いっそ飴はにこりと笑った。
「できれば『クヴァリフの仔』は、生きたまま回収してほしいんです」
これね、俺も言わされてると思ってほしいんですけど。これでも√汎神解剖機関の公僕なもので、と飴は申し訳なさそうに眉を下げた。
「融合の前ならば奪取を、既に融合していれば生きたままの摘出を。『クヴァリフの仔』からも人類延命の|新物質《ニューパワー》が採取できる可能性が高い――と、上は言っています。可能性が高いからこそ争奪戦となっているわけですが、まあなにごとも奪われるとなると嫌ですしね」
上手く立ち回れそうならお願いします、と言って飴は喫茶店の席を立つと、出口のほうへとすたすたと歩いていく。行き先の案内かと立ち上がりかけた能力者たちを振り向くと、飴は貸し切りの札が掛けられたレトロなドアに手をかけた。
「ちなみに√汎神解剖機関の『失恋コンセプトカフェ』へは、この喫茶から一歩出ることで店内へ辿り着けますので」
カラン。まろい鈴の音ひとつで異界への道が開く。
一歩進めば聞こえてくる、単調な声。
「いらっしゃいませ。どのような失恋をご希望ですか」
第1章 日常 『個性的な飲食店』

――どのような失恋をご希望ですか。
業務的に差し出されたメニュー表に、|皙楮・戻《しろかみ・れい》(曖昧メモリア・h05187)は、わあ、とつい瞳を輝かせて両手を組み合わせた。
「失恋する設定を選ぶことができるのですね? ……では、姫と騎士で。御伽噺のようで楽しそう!」
好奇心のままに、はしゃいだ声が出てしまう。人間災厄ととして保護されている関係もあり、戻はこういった店に来たのははじめてだった。
勿論、失恋どころか恋も知らない。けれどもそれこそ物語や学校で見聞きする失恋は、とても苦しいものとして語られていた。|白紙《なかったこと》にしたいと泣いた人々と同じように、狂信者たちもそれを望んでいるのだろう。そのひとの心に、戻は興味がある。
(体験してみれば理解できるのでしょうか? 恋も知らない私が、心苦しくなるかはわかりませんが!)
では、と店員が案内してくれた席は、白を基調にした西洋風のテーブル席だった。庭園を模しているのか、足元には白い造花が咲いている。
戻が席に着くと、既にそこには店員らしい青年がいた。姫と騎士という設定になぞらえてか、歳は戻より上で白いマントを羽織った騎士は、心苦しそうに目を伏せる。
「……申し訳ありません、姫」
はじまりは唐突だった。どうやら戻は知らぬ間に告白をして振られたらしい。たったいま。
「――立場が違うということはよくわかっています」
呆けそうになる心地を、自分の言葉で引き寄せる。目の前にいるのは戻の騎士で、戻はこのひとのことが好きだった。そういう想像をしてみる。
「けれど、私はあなたのことを諦めきれません……!」
銀の瞳のふちに涙が浮かぶ。悲しいとき、苦しいとき。人間はこういう顔をしている。ただの真似事で、この場において縋ったところで意味はない。そう知ってはいるけれど、不思議とどこか胸が詰まるような気もした。
騎士はゆるゆると首を横にする。
「私は姫の騎士です。これまでも、そしてこれからも」
「それはあなたの望みですか?」
「そうです」
申し訳ありません、と騎士が胸に手を当てて頭を下げる。忠誠を誓う動きと同じそれは、決して崩れない一線があると示されている。
「あなたは、私のことをそういう対象としては見られないのですね」
わかりました、と返す顔が自然と俯いた。立場も言葉も借り物のようなものだ。それでもああなるほど、と知らなかったものを知る感覚が戻の胸の奥にある。
「……暫く一人にしてくれませんか?」
頼りなくなる声で告げれば、騎士は生真面目な返事をひとつして、あらかじめ頼んでいたケーキとレモンティーを置いて退席していく。
ひとりきりになった席で、戻はそっとティーカップを一口分傾けた。『初恋の終わり』――そう名づけられたあたたかな紅茶は甘酸っぱくて、後味がほんの少し苦い。それともこの苦さは、気持ちから来るものなのだろうか。いまはそれを、誰かに問うてみたいとは思わなかった。
「……なるほど。失恋とは、一人になりたくなるものなのですね」
ぽつりとつぶやき落とす。本物よりは、よほど優しい寂寞なのかもしれないけれど。
その静けさに染み出すように戻に甘く囁く声がある。
――ねえ、あなたも振られてしまったのね。忘れてしまいたいとは思わない?
心の隙間に滑り込むような誘いに、戻はまた悲しげな色を銀珠のなかにつくりだす。
「あなたも?」
狂信者たちを手招いたのはきっと、無垢な白の災厄だった。
席についた瞬間、好きです、と安直な言葉が黒兎の耳を掠めていく。夜を溶かし込んだような黒髪にふわりと混ざる長い耳は中身のない愛の言葉にろくに興味も持たず、あらそう、と聞き流しそうになって、リリアーニャ・リアディオ(最期の頁ページ・h00102)は碧の瞳をひとつふたつと瞬かせた。
目の前には、たったいま初めて会う青年がいる。この店の|店員《キャスト》だ。彼はリリアーニャに振られるために、告白を仕掛けた。そういうコンセプトカフェと知っては来たが、こうも唐突だと気持ちを作る暇もない。
(まあ、やれるだけやってみましょ)
リリアーニャは少し物憂げに目を伏せてみる。急に心が用意できないなら、それさえすべにすればいい。
鮮やかな碧が揺れて、彼を見つめる。
「……そんな急に言われても、信じられないわ」
「俺は本気で、」
「もし本当にそうなら」
継ぎかけの彼の言葉を塞ぐように、リリアーニャは自分の声を被せる。ほんの少し張った声を微かな息に溶かして微笑めば、青年が息を呑んだのがわかった。そう、ちゃんと聞いてくれなくちゃ。
「ねえ、私のためになにをしてくれる?」
なに。唇の動きだけで繰り返した青年にリリアーニャはあまい笑みを深くした。
「お金だとか贈り物だとか、そういったことじゃないの。……わからない?」
問いかけながら、テーブルの上を白い指がなぞる。なにか綴りだしそうな指先は、しかしなにも描きはしない。
「……わか、りません」
狼狽しきった声色で、青年は答えを落とす。途端に甘く微笑んでいたリリアーニャの口元から笑みが消えた。
「そう。――あなたならわかってくれるかもって思ってた。期待しすぎた私が馬鹿みたいね」
「……っ、待ってください!」
それは役目の枠を越えて、思わずこぼれた言葉のようだった。その証拠に、青年はしまったという顔で自分の口元を押さえる。きっと本来なら、振られて退席するような流れを予定していたのではないだろうか。
それならばいま溢れたのは、|店員《キャスト》ではなく|本当《かれ》の声だ。
リリアーニャはまた微笑んで、テーブルの上に置かれた彼の手に指先だけをついと触れさせる。びくりとその手が跳ねて、青年の頬が淡く染まるのが見て取れた。
「……私、もっと、心が震えるような。脳が熱で侵されてしまうようななにかがほしいの!」
なにか。今度は掠れた声が青年の吐息に乗った。熱で浮かされたようなその声音に頷いて、
「これは本当にひとつの例えでしかないけど……」
リリアーニャはするりと身を乗り出す。テーブルを挟んであった青年との距離はいとも容易くなくなって、息がかかるほど近くに唇を寄せた彼の耳朶は赤い。
「――ふたりだけの、秘密とか」
甘く蕩けるようなリリアーニャの声が、青年の耳元から流し込まれる。真っ赤になるほど上がりきった熱は青年から店員としての思考を奪い取ったようだった。はくはくとその口元が意味もなく動いて、上擦った声が「あの」と転がる。
指先だけで触れていた手を包み込むように握る手があった。
「……あなたに、教えたい秘密があります」
「まあ、本当? ――うれしいわ」
黒兎の魔女は物語の頁をめくるように、楽しげに微笑んで、狂信者の声にふわりと長い耳を傾ける。
好きです、と町娘は焦がれるような瞳で告げた。
焦がれ、それでもどこか痛みを覚悟したような瞳なのは、アレクシス・カルヴィネン(いつか巡る縁の為に生きる者・h00709)があらかじめ頼んだ設定ゆえか、店のコンセプトゆえか。あるいは狂信者ゆえだろうか。
「……ごめんね」
アレクシスは困ったように微笑んで、首を横に振った。この場においてアレクシスは神仏に誓いを立てた|覡《みこ》だ。本来の生まれに近しい設定を頼んだのは、偽りを少なくしたいからだ。
「俺は修行中の身だから、一人前になるまでは応えられないんだ」
「なら、修行が終わるまで……」
「だめだよ。いつになるかわからないのに、待たせるわけにはいけない。君の時間を無駄にしてしまうから」
そんな、と俯いた町娘に、アレクシスはありがとう、とにっこり笑いかけた。
「君のことが嫌いなわけじゃないんだよ。どうかわかってほしい。……ごめんね?」
必要以上に傷つけることはない。思いやる素振りを見せれば、町娘は悲しげながらも頷いた。けれどそれでアレクシスは終わるつもりもない。
本来の目的は、この失恋コンセプトカフェに潜む狂信者たちを探ることにある。頼んでいたケーキセットを置いて退席しようとする彼女を、アレクシスは優しい声で引き留めた。
「俺も君のことを覚えていたいから、君のことを教えてくれる? どんなふうに生きて、どんなことを思ってきたのか、さ」
「私は……」
アレクシスの穏やかな声に誘われるように、町娘は――狂信者の少女は語り出す。悲しい恋の終わりがあったこと、救いを求めていたこと。設定を思い出したように慌てて口を噤む彼女に、アレクシスは笑みを絶やさない。
「俺はとても高い山の上の村で育ってね。知らないことも多いんだ。だからもう少し、君の話から知りたいな」
知らないことを。君が求めた救いのことを。差し向けた問いはほろ苦く甘い餌の代わりとなって、狂信者の少女の言葉を引きだす。
「……あなたも行ってみませんか? 誓う神がいたとしても、それさえ忘れさせてくれる女神さまがいるところへ」
「好きです」
「え!? す、好き……!?」
席に着くや前置きもなく向けられた告白に、わかっていたにも関わらずワーズ・ディアハルト(葛藤と信仰の歌・h00602)は狼狽えた。
ここはそういう場所で、そういう『コンセプト』だ。ならばワーズが言うべき返答も決まってはいる――けれども。
「い、いや! 自分で言うのもなんだが、やめておけ! 悪いことは言わん! 自分などに告白しても、利点もメリットも有意義な点も、何一つとして存在しないぞ!?」
矢継ぎ早に格好のつかない理由を並びたててしまうのはほとんど本心だ。
「そんなことありません。私はそんなあなたが好きです」
ワーズの目の前の少女はひたむきな瞳と言葉を向けてくる。うぐ、と情けない音が喉から零れた。重ねて断る気概も持てず、ぶんぶんと首を横に振ると、本当に悲しそうな顔をするから心が痛む。
けれど同時に、まっすぐな言葉が臆病な心にじんと沁みるようでもあった。
「……でも、そういう言葉が伝えられるのは、良いものだな」
不思議そうな視線が返る。それに、ワーズは困ったように苦笑を浮かべて頬をかいた。
「いや……懐かしいなと思って。まだ懐かしいというほど時間が経ってもいないのだが、俺にも好きな人がいる――いや、いた、かもしれないが」
行方不明で探していてな、とワーズはそっと目を伏せる。見失ってしまった初恋のひとにはまだ『好き』も『さよなら』も言えてはいない。
「だから、俺みたいに未練がましいのじゃなくて……あなたにはもっと素敵な人がいると思う」
失恋をしたということは、伝える勇気も機会もあったということだ。それを忘れてほしくはなくて、ワーズはなるべくまっすぐに答える。少女は一度目を伏せると、わかりました、と頷いた。
そのまま退席していく彼女の背を見送ろうとしたワーズへ、去り際に少女は囁く。――忘れられないその想いを、忘れられるとしたらどうしますか、と。それは間違いなく、狂信者としての言葉だった。
「あなたのこと、お慕いしています。友人からでも構いません、お付き合いをしていただけませんか?」
丁寧に、穏やかにエトワール・ミシェル(終天列車『|凍星《Orion》』・h05042)はドラマや映画、漫画などの資料から拾い上げてきた言葉を目の前の|彼女《キャスト》へ向ける。
失恋の経験はない。けれどだからこそ、いい体験ができるかもしれない――思わずわくわくしてしまったのは、エトワールが人間厄災であるゆえもある。終天へと導く道すがら、得る愛や恋の噂話は多岐に渡る。それが疑似的にも味わえるのだから。
(とても楽しみです)
微笑んだままのエトワールに、目の前に座る彼女は心苦しそうに目を伏せる。それから返った言葉はとてもシンプルな「ごめんなさい」だった。
「……おや、断られてしまいました」
予定調和だ。なるほどこうして、としみじみ好奇心を堪能しようとして、エトワールははたとする。いけない、いまの自分は失恋した身だ。
「悲しいですね、しくしく」
どうあがいても悲しそうではない声音にはなったが、実際気まずい思いをさせないためにこうして茶化すのも悪くはないのかもしれない。
「と、冗談はさておき理由をうかがいたい」
にこりと微笑んでエトワールは彼女へ問うてみる。人間の心の機微はこの身で再現できずとも、目の前にいる彼女は『本当の失恋』を知っているはずだ。
「私としては、よく使われるパターンを選んでみたのですが……」
「え、ええと……真摯な言葉はとても嬉しかったんです、けど」
戸惑いを見せながらも、ごくごく真面目に問うエトワールに引っ張られるように、彼女は理由を並べてみてくれる。それはもしかすると、彼女が実際に体験した言葉なのかもしれない。
「恋、というのは不思議なものですね。いい勉強になりました」
「……それならよかった、です」
彼女は退席する前に、頼んであったケーキセットを置いていく。珈琲の香りがふわりと鼻をくすぐった。確か『いつまでも苦い珈琲』という名前だったが、おそらくは失恋の苦さを表しているのだろう。実際にも味わってみたかったそれを一口傾ければ、
「これは……確かに苦いですね」
「でしょう?」
エトワールの反応が気になったのか、まだ席の傍らに残っていてくれた彼女に、エトワールは頷いて、そのまま首を傾げた。
「慰めてくださってもいいですよ? むしろ、大歓迎! なんてね」
「……ふふ。なら、こんな話もあるんですけど」
終始茶目っ気たっぷりに向けたエトワールの言葉は、狂信者の心をほどいたらしかった。その口から語られる『噂』に、エトワールは静かに銀の瞳を眇める。
職業暗殺者の仕事というのは場合により様々な技能を求められるものだ。
必ず殺す腕は勿論、騙すこと、騙されるふりをすること――そうして必要な情報を手招く。目的を同じにする同業が揃えば、当然のように|必要な茶番《共闘》は始まる。
「先輩、なんです話って」
席につくや、|野分・時雨《のわけ・しぐれ》(初嵐・h00536)は声と共に視線を落とした。目の前には同業の先輩である緇・カナト(hellhound・h02325)がいる。同じ仕事に居合わせたのだ、これは目隠し美丈夫を合法的に振る楽しみが味わえる。
(お覚悟ください、カナト先輩)
現状を全力で面白がる内心を抑えて、時雨は口からでまかせに設定を練り上げた。
「今のお仕事辞めてまで、先輩についていけないって話しましたよね」
先輩と後輩という偽りない関係値は、詳細を伴わなければいくらでも可能性がある。なかでも暗殺者に思い当たるひとはいないだろうけれど、と時雨は瞬きの隙間に視線を店員たちへ走らせた。ほとんど仕切りのない店だ、店員の視線は注がれやすく、こちらの視線も巡らせやすい。
さてこの先輩はどう出てくるか。
時雨が浮かびそうになる笑みを抑えてカナトへ視線を戻した途端、
「ボクには君が必要なんだ……!」
ぐっと身を乗り出したカナトが、切羽詰まった声音でそう言った。迫真である。しかしなんだボクって。聞いたことないぞ、この一瞬でどういう設定つけたんだこの先輩。
「野分クンはその抜群な後輩力を持って、いつも陰日向に役立ってくれていた。なによりきめ細かな気遣いの精神は、ボクの右腕として惜しみないポテンシャルを秘めている……!」
カナトはつらつらと淀みなく褒め言葉を並びたてていく。時雨は困惑した表情を顔面に固定したまま、それを聞いていた。
褒め言葉自己肯定感上がる~。ちょっとだいぶキャラづけどうしたって感じだけど。
「あんな暗さつきょ……ウチの社みたいな檻のなかで才能を腐らせてしまうのは勿体ない」
先輩、いま完全に『あんさつ』って言った。思いとどまるのが一瞬遅かった。まあ誰も暗殺なんて言葉に結びつけないだろうということにしたい。明らかに店員が耳を澄ましている気配はあるが。
「ふたりで手を取り合い、新天地からあの老が……ライバル社どもを蹴落として、業界ナンバーワンの座を簒奪しようじゃないか!!」
老害って言いかけたなこのひと。気持ちはわからないでもないが。あと業界ナンバーワンとか言い出すと途端に胡散臭さが跳ね上がりますよ先輩わざとですか。
わざとなんだろうな、たぶん。そう思うことにして、時雨はぐっと伸ばされたカナトの手を振り払う。
「申し訳ありません」
「そんな……! 君とならこの世界を手中に収めて半分をやろうプロポーズが叶うと思ったのに……」
「え、世界の半分? じゃあいい……っぶねぇ!」
ちょっといいなって思ってしまった。目隠し美丈夫恐るべし。
いかにも落ち込んだ様子で俯いたカナトに、時雨はけろりと「さーせん先輩」と謝ってみせた。
「ぼく、大切な人がいるんです」
「大切な人?」
「ええ、こちら――|地這い獣《ママ》なんですけど。ママが認めるなら付いて行きます」
すっと時雨は地這い獣を示して、首を傾げる。
「ママどう? 先輩とやっていけそ?」
ふるふる、と地這い獣は首を振った。横に。
「てわけで、申し訳ありません」
そんな、とカナトは立ち上がっていた体をずるずると席に埋める。けれどもその視線はテーブルの隅に置かれたメニューにふと逸れた。
「それはそれとして此処のオペラケーキ気になるし、食べて行こっかな」
「……先輩?」
「珈琲と、セットはひとつだけかァ……ならもう一皿もらお」
すみません、とカナトが店員を呼ぶ。様子をうかがっていたらしい店員はすぐにやってきて、すぐにケーキセットがやってきた。
美味しそうだねえ、とカナトはぱくぱくケーキを食べ始める。そういえばいつもハラペコなんだったこのひと。ひょっとしてお腹すいてたんだろうか。いい匂いするもんな。
「あの先輩」
「うん? 美味しいよ、食べたら?」
「食べたらじゃなくて。ねえ、この人振られてもめちゃくちゃ食ってるんですけど。ぼくと甘味どっちが大事なんですか! 先輩のボケ! 底なし胃袋!! 実家に帰らせていただきます!!」
「まだ結婚してなくなぁい?」
ぎゃんと時雨が喚くあいだにカナトは気の抜けた突っ込みを返して、二つめのオペラケーキに手をつける。勢い賑やかになってしまって、店員たちの視線が集まるのを感じていた。こうなりゃヤケだと時雨は席を飛び出して――慌てて追いかけてきた狂信者の店員に「実家よりいい場所がありますよ」と腕を引かれたことで、どうやら仕事は上手く進みそうだった。
一歩進んだ先で世界の気配が塗り替わる。漂うのは珈琲の香りで、纏わりつくのは薄らとすすり泣く声。
反射のように回れ右を決め込もうとした|五槌・惑《いづち・まどい》(大火・h01780)の腕を、ガッと|僥・楡《ぎょう・にれ》(Ulmus・h01494)が掴んで止めた。
「どこ行くの、惑ちゃん」
「帰らせてくれ」
惑は心の底からの希望を口にするが、振り解こうとしても掴まれた腕が微動だにしない。その細身のどこにそんな力があるんだと怪訝に眉を顰める一方で、楡はにっこりと笑っている。
「お仕事、手伝ってくれるって言ったわよね」
「確かに仕事の手伝いならと約束したが、これなら俺は途中からで良いだろ」
これ、と惑が琥珀色の瞳を向ける先には『失恋コンセプトカフェ』の店内がある。振るだの振られるだの、面倒くさそうな茶番に巻き込むなとばかり、惑は楡を見やる。
「口車はアンタひとりで充分じゃねえか」
「二言が聞こえた気がするわね。きっと気のせいでしょう」
振られる経験なんて初めてだから楽しみよねぇ、と楡は店内を進んでいく。腕をはなして貰えなかった惑がずりずりと不本意そうな音で引きずられる。少しおろおろとした店員に、楡が二人お願いね、と微笑めば、席に座らせられた惑が脱走を成功させるより先に店員らしい少女ふたりがやってきた。
来ちまったじゃねえか、とぼやく惑と楡の前で差し出されるのは|予定《メニュー》通りの台詞がひとつ。
「ごめんなさい」
「……何謝ってんだ?」
低く訝しげに呟いた惑に、彼の前に座った少女がびくりと震えた。端正な顔立ちの迫力というのは一般的なそれとは一線を画するものだ。それをよく知る楡が、テーブルの下で惑の足を軽く蹴る。
「惑ちゃん、脅しちゃだめよ。……アタシたち、いま振られたんだから」
「……ああ?」
注釈を入れるような楡の言葉で、ようやく惑も少女が向けた唐突な言葉を理解した。そういえば、この店はそういう頓珍漢な場所だった。
さてどうしたものかと口のなかで悪態を転がしているうちに、楡のほうが先に口を開く。
「どうして? アタシになにか至らないところがあったかしら。アナタのためにならなんだって尽くしてあげられるのに」
「……あ、それは」
楡の容貌に見惚れるように言葉を失った少女が、狼狽えて視線を逸らす。魔性というのはこういうものかと知見を得るように惑は隣の白を横目に見る。ふと青い瞳が長い睫毛に半ば隠された。
「……駄目ね、こういうのが重いって言われたのよね」
口先に勝手な設定を乗せる。実際には楡は失恋の経験はないのだ、にべもなく振ったことならいくらでもある。いま目の前にいる少女のように狼狽えた覚えはないけれども。
「違うんです、私……あなたが優しいことはわかってて」
少女の言葉に乗せられた『あなた』は果たして本当に楡だろうか。そうでないほうが情報は探りやすそうではある。さも悲しげに伏せた視線の先で、楡はくるくると思考を回す。
そうしているうちに、隣の惑が浅いため息をついたのが聞こえた。
「何が納得出来ねえか言ってみろ」
すぐそこに実例を得て腹を決めたらしい。相変わらず物言いには圧があるが、更に相手が萎縮したのを知ってか、ち、と軽い舌打ちが聞こえた。それ減点ポイント高いわよ惑ちゃん。言葉にはせずテーブルの下のつま先で言っておく。
「……引き留める気はねえよ、興味本位だ」
「その……でも」
「俺とアンタじゃ不釣り合いだって?」
言い淀む少女には、正真正銘理由などないのを知っている。だからこそそういうことにしてもいいと示すように口にしてみるが、これには少女のほうがぶんぶんと大きく首を横にした。隣の楡が笑いを堪えたようにひとつ咳払いをする。
「なア、思ってることあるんだろ、教えてくれよ」
重ねて促す。惑には楡のような口先の演技をするつもりもなければできる気もしない。相変わらず気分は帰りたいままなのだ。なるべく速やかにことを運んでしまいたい。
「怖いか」
はじめから妙に委縮したままの少女に惑は端的に問うて、予想通り答えに詰まってテーブルの上で握りしめられたその手に、手を重ねた。驚いた様子で少女が目を瞠り、唇がなにを言えるでもなく動く。
「ほら、早く振り払ったらどうだ? 手痛く振る側になったらスッキリするだろ」
怖いものを振り払う。そうしてしまえばいいと差し向ける。けれども惑の予想に反して、少女はすっかり動きを止めて、俯いてしまった。じわりと上気して見えるその頬に惑が眉を顰めたところで、耐えかねたように押し殺した息が隣で聞こえる。
見れば、楡が悲しげに唇を噛んでいる――ように見えて、これは違う。
「……おい、楡」
「……んふ、なあに惑ちゃん」
「見世物じゃねえぞ」
「見世物にしてるのアナタでしょうよ」
自分の前にいた少女がケーキセットを置いて退席したのを見て取って、楡が軽くふきだす。ほとんど同時に惑の前にいた少女も、逃げるように珈琲を置いて退席していった。
「連れてきて正解だったわ。見事な手腕よ、惑ちゃん」
「褒められたくもねえ。アンタは随分楽しそうで結構だな」
苦い顔をして、惑は礼儀代わりに頼んだ珈琲を机の端に避けてしまう。既に苦い心地を更に増す趣味はなかった。
くすくすと笑った楡は、楽しげにオペラケーキをつついて苦い珈琲を傾ける。
「苦味だって適量なら人生に良いスパイスだもの。この珈琲だってケーキにぴったりだわ」
それに、と青色が店内を滑るように見渡す。その視線に気づいて惑も目をやれば、先程の少女たちが席の傍に戻ってきていた。
お話したいことがあるんです。秘め事を囁くように口を開いた少女たちは、どこか夢みるように淡く頬を染めて、彼らへ語り出す。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい? ごめんなさいとは??」
|彩音《あやね》・レント(響奏絢爛・h00166)はカフェの席に着くと同時に失恋した――ことになったらしい。
ここはそういう『コンセプトカフェ』だ。一瞬疑問符が頭に飛び交ったが、
「あ、お別れしましょうって、そういうこと???」
理解すればどうにか頭は追いつく。レントの前に座る女性は、悲しげに頷いた。本当にこういう場合はどうするだろうと思考を巡らせる。
「え? なんで?」
「……待ち合わせのとき、いつも遅れて来たでしょう」
勿論レントは目の前の彼女とたったいま会ったばかりだ。けれども設定に話を合わせてみる。
「ああ〜……うんうん、確かに時間にはルーズだったかも」
待ち合わせって苦手なんだよねー。申し訳なさそうに笑ってみせるが、なんともなしに自身に沁みる気がするのは気のせいだろうか。
「あとは?」
「話をちゃんと聞いてくれてないわ」
「いやー……そうかなー? そうかもー?」
この空気めちゃくちゃ気まずいなあ、とレントは弱った心地で頬を掻く。けれどもここはそういう心地になるための場所――らしい。
「なんかさー、僕っていつもいつもすぐ振られるんだけど……なんでだと思うー?」
ひとまず空気を変えるように問うてみるものの、
「そういうところよ」
「え、どういうところ!? 全然わかんない!」
レントが戸惑っているうちに、彼女は『涙色ソーダ』のケーキセットを置いて行こうとする。待って待ってと呼び止めたのは、仕事にしても成果がなさすぎるせいだ。
「このソーダ、なんか一曲できそうなネーミングだよね。思い出に歌おうかー! ……あ、そういうのいらないって?」
困ったな、とレントは苦く笑う。さっぱりどうしたらいいかはわからない。だからそのままを問いかけてみることにした。
「こんな俺は、どうしたらいいかなー?」
弱った様子のレントに、店員であり狂信者であるだろう彼女は、どうにも上手くいかない彼に自分を重ねたように口を開く。
「……あのね、忘れてしまえばいいのよ――」
――どうしてこうなった。
眼前でごめんなさい、と頭を下げる女性を見ながら、|狗狸塚・澄夜《くりつか・とうや》(天の伽枷・h00944)は遠い目をしそうになる。
澄夜はあくまで事件捜査をしに来たはずだったのだ。現場が『失恋コンセプトカフェ』であっただけで。
しかしこうなれば腹を決めるしかない。入口で設定を求められて絞り出したのは『一途な当て馬系後輩(会社員)』である。以前似合うと言われた覚えからだが、よく考えると疑問符が飛びそうになるので考えない。
ひとまず、今やるべきは。
「……なん、で、どうしてですか先輩! 僕のほうがずっとあなたを支えられる!」
それらしく瞳を揺らして、澄夜は目の前の彼女に言い募る。
「でも、私にとってあなたは大事な後輩で」
「年下だからダメなんですか。だったら……!」
澄夜は唇を噛んで俯く。こういう場合は役に入り込んでしまったほうがいい。冷静な思考は忘れずに。
「……いえ、本当はわかってるんです。先輩が、僕が好きになったひとはそんなことを気にするひとじゃないって」
あの人を愛してるんですよね。
さも切なそうに言って、澄夜は顔を伏せる。それから上目遣いに彼女を見つめた。彼女も心苦しそうに表情を曇らせる。こうして感情を追っていけば、なにか見つけられるだろうか。
「最後に手に触れても、いいですか」
「……ええ」
そっと手を取ると、澄夜は役に入り込んだふりでもう少しだけ距離を縮める。
「……追いかけなきゃ、欲しいものは手に入りませんよ」
こうやって、と弱々しく笑んでみせれば――狂信者の瞳が本当に揺れた。
「……なら、追いかけてみる?」
「連れていってくれるんですか」
ええ、あなたも欲しいでしょう。
昏く微笑んで役の境界線をぼやかせた彼女に、澄夜は甘えるように、是非、と頷く。――どうやら|捜査《失恋》は上手く行きそうだった。
案内されたのは、夕暮れの教室を思わせる席だった。
「すまない、捧」
腰掛ければ軋むその椅子も机もレトロなもので、目の前には|捧《ささぎ》あいか(いのち短し弾けよポップスタア・h03017)が設定として頼んだ|先生《キャスト》がいる。あいかよりずっと年上の男性だ。
「……許されるはずがないものね」
先生と生徒。その関係は、決して恋にならない――してはいけない。
夢みがちな年頃の少女が、不意に異性の優しさに心惹かれて恋になる。
夢のようで、だからこそ儚い。きっとそんな感覚なのだろう。そんな想像をする。
「わかりました、先生。……ううん、本当はわかっていたの」
この恋は叶わないって。
切なげにあいかは視線を落とす。目の前にいる彼は心苦しそうに、けれどそれ以上は言わずに席を立った。
置いて行かれたケーキセットに選んだ『涙色ソーダ』が澄んだ色で泡をぱちぱち鳴らしている。
夢見る心は覚めてしまった。あとの現実に残るのは、炭酸の抜けたソーダのような甘い余韻だけ。
まだ知らない淡い感覚を追うように、あいかはソーダに口をつけた。爽やかな味と香りと共に、炭酸で鼻の奥がつんとする。
(もし恋が破れたら、こんな感じなのかしら)
ぎしりと軋む椅子に背を預け、すぐ横にある壁に肩をもたれさせて、あいかは力を抜いていく。
これは演技だ。けれどその様子は、どうしようもない失恋に心を痛める少女そのものだ。この様子も、店員――狂信者たちは見ているだろう。
(誰かを全力で好きになって、それでも叶わないのなら、そのときはどうしたらいいのかしら?)
ここにいるひとたちは皆、そんな思いを抱えている。切なくて苦しくて、どうしようもない。そんなひとたちに歌手としてあいかができることはあるだろうか。
歌う? 笑う? 演技でもこんなにやるせないのに、本当のそれを歌でどこまで応援できるのだろう。
ソーダを飲みながら視線を落としたあいかの元に、先程の男性が戻ってきた。
「先生、」
言いかけてふと気づく。彼もまた傷ついた顔をしている。だからあいかは、困ったように笑った。
「……私は神様ではないけど、歌手としてみんなの気持ちを叶えてあげたい、応援したいと願ってるの」
巡らせていた想いそのままを口にしてみる。席に戻ってきたのを見るに、店員としてではなく狂信者として、あいかに告げたいことがあったのだろうから。
「ならあなたも、俺たちと共に」
彼が差し出す手は、本当に恋をしていたのなら、きっと救いに見えるのかもしれない。そんな想像を巡らせながら、あいかは失恋に囚われた少女のふりをして頷く。
いつか恋を本当に知ったなら、それを歌にもできるだろうか。
――ごめんなさい。
唐突に向けられた謝罪の言葉に、ララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)は眉をひそめた。
「む……いきなり謝られたけど、これはどういうことなの?」
ね、と稚くもうつくしい面立ちが怪訝そうに向けられるのは、眼前ではなく隣にだ。
少女の隣で同じく眼前の女性から「ごめんなさい」を受け取った|誘七・赫桜《イザナ・カグラ》(春茜・h05864)は項垂れていた。ふられた、と胸を押さえて、赫桜は困った笑みをララへ向ける。そういう店だと聞いては来ていたものの、実際に当たってみるとどうにも胸の深いところが痛む気がした。
「ララちゃん、これはね……失恋したの。ぼくたちは振られたってわけ」
「振られた……つまり今、ララの愛は受け入れられなかった?」
「そう、好きですって気持ちが受け入れらえなかったということよ」
自分の言葉にも沁みる心地を覚えながら赫桜がララへ言ううちに、二人を振った|店員《キャスト》たちは役目を終え、ケーキセットを置いて退席していく。
後に残された澄んだ色のソーダをララは小さな両手で引き寄せた。手に感じるひやりとしたものは、どうにも心にまでは届かない。けれど。
「……これが、失恋ってことなのね」
口にした『涙色ソーダ』はしゅわりと爽やかで美味しい。まるで、泡沫のように弾けて消える、淡い想いのようで――きっと、それを形にしたメニューなのだろう。
「ララはよくわからないわ。恋したことがないもの」
「それは、そうだろうね」
口ぶりも仕草もいくら大人びていても、ララはまだ幼い。それでいいんだよ、と淡く苦笑して、赫桜は自分の前に置かれたレモンティーに口をつけた。すっきりとした味わいに滲む仄かな苦味と酸っぱさが口のなかに広がって、香りだけ残して消える。
「はあ……」
「……お前、失恋したことがあるのね?」
思わずため息を漏らした赫桜に、ララは純粋な興味の眼差しを注いだ。知らなくともわかる――味わい方が反芻するようなそれに見えたせいだ。
「若いのに大変ね」
「……ララちゃんに若いって言われると変な感じするな」
赫桜から見ればララのほうがずっと幼いのだ。口ぶりは自分より大人びても感じるけれど、それでも花咲くような不思議な瞳にはこどもらしい興味が煌めく。
「ぼくは、失恋したことあるよ」
ひとたび見つめればとらわれるような感覚を感じながら、赫桜はじっとララを見つめた。
「……どうかしたの?」
なにかを探すようなその視線に、ララはこてんと首を傾げる。
その面差しを赫桜はどこか遠くを見つめる瞳にうつした。
「――面影は、あるね」
ほんの小さく囁いて、赫桜は叶わなかった戀を心に浮かべる。
(きみのお母さんに、とはいえないな)
赫桜は恋をしていた。目の前の少女の『母』となったあの子に。いまもずっと、心の底に花筏のようにたゆたう苦さがある。
なあに、とまた首を傾げるララに、なんでもないよと赫桜は微笑む。
「ララはよくわからないけれど、お前は綺麗だし優しいから、いいひとに出逢えるのではない?」
「ふふ、ありがとう」
「ララは赫桜のこともすき。皆のことが好き。……愛されたいとかは考えたことないわ」
「それはね、ララちゃんが……愛されているからだよ」
それはわかっていてほしくて、そっと口にする。意識せずとも明確に。ララは愛をもらって育っている。
「……そうね?」
それならより愛さねばね、とララは慈しむような笑みを向ける赫桜にまた首を傾げ直す。
「さっきからなぁに、ララばかりみて」
「なんでもないよ。……ソーダ、おいしい?」
「おいしいわ」
そっか、と笑って、赫桜はまた一口『初恋の終わり』を傾ける。
――あの子は間違いなく娘を愛する。あの子の隣にいるのはぼくじゃない。
(けれど、あの子の娘の傍にいまいるのはぼくだ)
初恋のひとの娘を――せめて。
「ぼくが、まもりたいな」
かすかに、けれど確かな声としてこぼれた言葉に、ララはくすくすと笑う。
「ねえ、赫桜。ララ、よくはわかっていないけど……その眼差しは悪くないと思うの」
しゅわり、恋の残り香が淡く溶けていく。
一歩で|世界《√》を踏み越える。
ふと空気が変わり、仄かな珈琲の香りが鼻をくすぐる。
定型の挨拶と共に失恋の希望を問われてユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)は柔和な笑みを浮かべた。
「このカフェは初めてなんだ。ボクは失恋させる側で……店員さんが話しやすい設定をお願いできるかな?」
ユオルがそう頼めば、すぐに了承が返る。では特別な設定は設けずありのままで、と言いながら席へ案内する店員の後ろをユオルは微笑んだままついてゆく。けれど違うふたつ色の瞳は注意深く店内を辿った。
(クヴァリフの仔を回収する機会なんて見逃せないよねぇ)
胸が高鳴るのは失恋に対する感情ではなく、この場に潜んでいるかもしれない怪異解剖士としての性だ。なぜならユオルはまだ『誰かを想う心』というものを理解できていない。
(尊いものだとは思うし、興味深くはあるけどね)
人間は恋慕の感情で如何様にも変質する。心の底に沈む澱となることもあれば、背を押す感情にもなり得るものだとは知れど、いまだその理解には及ばない。
「好きです」
ユオルが席に着くや、唐突に告白が突きつけられた。
聞いていた通りとはいえ思わずきょとんとしてしまうが、ユオルはすぐに眼差しを柔くする。
「……答える前に、なぜ好きになってくれたか聞いても良い?」
ユオルの眼前にいるのは、ユオルの外見年齢と同じほどに見える女性だ。その視線はまっすぐ、けれど痛みをこらえるように据えられていて、問えばそれが揺らぐ。
「はじめは……綺麗なひとだと思ったの」
でも、と彼女はユオルに覚えのない設定を――あるいは自分の心の裡にある恋を語ってくれる。
(ボクを通して、キミは誰を見ているの?)
視線、表情、身振り、言葉選びから、その心の機微をつぶさに観察していく。
「いつから、なんてわからない。気づいたら目で追っていて、胸が苦しくて、あなたのことしか考えられなくなってた。……気づいていたでしょう? 私、ずっと変だった」
「……そうだね。キミらしくないなと思うことはあったな」
微笑みに僅かに演技を混ぜた。話しやすくなるならば、その程度なら笑みに包める。彼女の心が狂信の底に沈んでいるのなら、吐き出したほうが楽にもなるだろう。そして、手がかりの一端にも。
彼女の言葉が終わるまで、ユオルは微笑みを絶やさなかった。そして終わったあとに、ひとつ笑みを柔くする。
「伝えてくれてありがとう。キミの気持ちには答えられないけれど……想いはずっと、心に留めておくよ」
やさしく告げれば、彼女は泣きそうな顔で言葉を詰めて俯いた。なにかまだ言いたげなその様子にユオルが首を傾げると、静かに立ち上がった彼女は席を辞するために立ち上がる。
「……心に留めないで、忘れてしまってほしいの」
注文してあったケーキセットを業務的に置き、きびすを返すその前に、苦しそうに彼女が――狂信者がこぼす。
それにユオルはゆっくり双眸を眇めた。
「――それは、どうやって?」
失恋に潜められたクヴァリフの仔の手掛かりが、顔を出す。
花が咲くような恋を知っている。
それを重ねるように|花片・朱娜《はなひら・しゅな》(もう一度咲って・h03900)が見つめた先で、|店員《キャスト》の女性は心苦しそうに、
「ごめんなさい」
失恋の言葉を紡ぎ出した。はじめから決まっていた言葉だ。けれど朱娜の心は揺れ痛む。
「あ、いえ……ごめんなさい。謝らせてしまって」
少し頭を下げた彼女よりも深く頭を下げ返して、朱娜はどうにか笑う。
「困りますよね。突然一目惚れです、だなんて」
――私はこのお姉さんに一目惚れした。
朱娜が心に降ろした想像はそれだけだ。今会ったばかりでも、ひと目見ただけでも、きっと人は恋に落ちることができる。ひと目見ただけの花を自然と愛するように。
恋は知っていて、失恋は知らない。だから花巫女として見聞きしたものを、身に降ろしてきたものを想像でなぞってみることにしたのだ。
果たしてそれは上手くいった。目の前の彼女を好きなのだと思えば、作ろうとした笑みもぎこちなく崩れて行こうとする。
(もしこの想いが失われたら?)
ふとそんな想像が演技する胸を掠めていく。
朱娜が知っている恋は、片恋でしかない。失恋は知らずとも――不意にいつ失恋になるかもしれない、脆いもの。
笑みが作れなくなって、俯いてしまいそうになる。しっかりするために繰り返す瞬きで、周りがよく見えなくなっていく。
「……大丈夫ですか?」
心配そうに目の前の彼女が朱娜を覗き込んだ。その瞳には純粋な心配と、同じ痛みを抱えるような色がある。
彼女は失恋を知っているのだ。想像だけでも目の前が見えなくなってしまいそうで、花が散るより他愛なく終わるこの感覚を。そう、終わらせなければならない。叶わなかったのなら。
「好きでした」
ぎゅうと胸元を握りしめて、ほんの小さな声で呟いて、無理やりにも終わらせる。過去形にして心を誤魔化せば、やっと少しだけ視界が晴れたような気がした。
――苦しいですよね、と理解を示す彼女の手が朱娜へ伸ばされる。微かに頷くと、彼女はふと切なそうな瞳を昏くした。
忘れてみませんか。
狂信者が招く声は、本当に花が散った後に聞いたなら、きっと容易く正気を失えるものだったろう。それでもこれは想像だ。朱娜は赤い眸を開いて、手がかりを得るために頷く。
告げた設定に応じて案内された席には既視感があった。
小さくまとまったその席は、本物に比べれば安っぽい。けれど『舞台』とするなら充分だろう。ヴァレンティーナ・クレール(マリア・オア・ジョーカー・h05675)は迷わずカジノテーブルのディーラー席のほうへ回った。
本物さながらのルーレットとチップ。そして|常連客《キャスト》からヴァレンティーナへ向けられる視線は熱っぽい。
「好きです」
「ディーラーの前で感情を剥き出すのは、はしたなくてよ」
ヴァレンティーナは顔色ひとつ変えずにテーブルにチップを積んだ。彼はヴァレンティーナを好きでこの店に通っている――そういう設定だ。
「オトナなら、わかるでしょ? 恋もギャンブルのように駆け引きということを」
さあ、賭けましょう。
あかい眸が誘うように彼を映して、躊躇なくチップを積み上げる。
男が応じるようにチップを積んでベットする。
「君はそれでいいの?」
「ええ、あなたが勝てば|お気に召すまま《As You Like It》――あなたの望み通りの私になってあげる」
蠱惑的な微笑みに男が言葉を詰めた。
「赤は私、黒はあなた。……それでいい?」
「はい」
「なら――ノー・モア・ベット」
告げて、ヴァレンティーナはルーレットを回す。回転する赤と黒の円盤をボールが駆け出した。微かな音楽しかない静かな空間に、ルーレットとくるくる踊るボールの音だけが響く。
「……そういえば、レモンティーが飲みたいわ」
ふとヴァレンティーナが口にしたのはこの店のメニューだ。途端に店員として意識を引かれた男が視線を外す。それと同時に、ヴァレンティーナはテーブルの下に手を潜ませた。指先に転がすのは磁気を帯びたボール。偶然に任せて黒に落ちようとするボールを、赤へ手繰り寄せる。
男が視線を戻した瞬間、カラカラと音を立てて廻っていたボールは赤へと滑り落ちた。
あ、と男が短く声をあげる。
「……ごめんなさいね」
聖母のように微笑んで彼へ向けた言葉には、ふたつの意味を潜ませた。失恋と|仕掛け《イカサマ》と。そしてここははじめから失恋が約束された場所でもある。おそらくは男も、ヴァレンティーナが仕掛けたなにかを察しているだろう。
「現実の恋愛も仕掛けだらけ。……易々と心は奪えないの」
「……そう、ですね」
あなたの言う通りだ、と男は苦く笑う。その眸がふと昏いものを映してヴァレンティーナへ向けられた。潜めた声がカジノテーブルに落とされる。
「なら、易くない方法と賭けに、興味はありませんか」
それは間違いなく、狂信者からの手招きだ。正しくそれを見抜いた上で、ヴァレンティーナは銀の髪をさらりと揺らして首を傾げた。
「聞きましょうか」
「冴くんがふられる姿は想像できないから、私がふられるほうね」
「……え?」
妹である|一文字・透《いちもんじ・とおる》(|夕星《ゆうづつ》・h03721)にさらりとそう言われて、|一文字・冴《いちもんじ・さえ》(明星・h03560)は憂いを帯びた美しい顔立ちをぽかんとさせた。
「設定は幼馴染ってことにして」
「ま、待って透ちゃん」
透は言い切ってすっと冴の背で静かになってしまう。
(演技とはいえ透ちゃんをふるの? 僕が?)
解釈違いすぎて無理。
そうは思うが、店員は既に|設定《ちゅうもん》を待っていて、妹を困らせたくもない。そもそもどうして人見知りなこの子がこの仕事を受ける気になってしまったんだろう。くるくると思考は回るが、むやみに時間をかけるわけにもいかず、冴は店員へ設定とメニューを伝える。
「えっと……ずっと前から冴くんが好き」
席に着くと、透はやや棒読みの音でそう切り出した。兄である冴となら、慣れない場でも怖くはない。
冴も意を決した様子で真剣な眼差しで返す。
「気持ちは嬉しい、でもごめんね。……妹みたいにしか思えないんだ」
「うん、わかった」
「あっさり納得するんだね……!?」
特に表情を変えるまでもなく失恋を受け止められて泡を食ったのは冴のほうだ。わたわたしている冴に構わず、透は頷く。
「そうかなって思ってたから。聞いてくれてありがとう。これからもお兄ちゃんでいてね」
「もちろん、ずっと透ちゃんだけのお兄ちゃんだよ」
食い気味に冴が大きく頷くことで、失恋体験はあっけなく終わる。冴としては妙に疲れた気分だったが、透は涼しい顔のままだ。見計らって運ばれてきたケーキセットのレモンティーを気分を落ち着けるために傾ける。
「はあ……」
「そんなに疲れた?」
「気分的にね」
ふうん、と透は首を傾げて綺麗な青色のソーダを一口飲む。おいしい、と呟けば冴のほうが満足そうな顔になった。
「透ちゃんってふられたことないよね?」
「ふられたこと? あるよ」
「……は?」
途端に周りの温度が二度ほど下がった気がする。あっさり答えた透は、うわ、と兄の顔に少しだけ眉を下げた。
「冴くん、お顔こわいよ」
「怖くもなるよ。誰? 僕の妹を無碍に扱う奴は」
お兄ちゃんに言ってごらん。場合によってはどうとでもする。
いっそ物騒に綺麗な顔を凄ませた冴だが、
「冴くんが時々クソジジイって呼んでるひと」
「またあのクソジジイか〜〜」
返った答えに納得のほうが先に落ちてきて文字通り頭を抱えてしまう。解釈違いと一致が一緒にやってきて複雑に撹拌された気分だ。
「俺の知らない頃からあの野郎……。透ちゃんはああいう大人が好きなの?」
「うんと小さい頃の話だよ。頭を撫でてくれる手が優しくて、大好きだったの」
あの野郎、と冴が呼ぶひとを透も思い浮かべる。幼い頃の記憶にあるそのひとは、幼さゆえの脚色抜きに今でもかっこいいと思う。
「透をお嫁さんにしてってお願いしたけど、すごく渋い顔で、俺を殺す気かって言われた」
「ああそう……。きっと可愛かったろうね透ちゃん。あのクソジジイ……」
遠い目と殺意を綯い交ぜにしたような瞳で呟き落とす冴は、努めて冷静を取り戻すように紅茶をもう一口傾けた。
「透ちゃんはああいう大人が好きなの?」
「んー……よくわからないけど、お父さんだから好きだったのかな。今もかっこいいよね、お父さん」
「あー……うん……そうだね、まぁ……かっこいい、ね」
冴としては思っても素直に頷きたくないところである。なにせ|父親《クソジジイ》だ。見目は確かに腹立たしい勢いで良いのがますます気に食わない。
「透ちゃん、僕は透ちゃんが悪い大人に誑かされないか心配になってきたよ」
「どうして?」
不思議そうに透が首を傾げる。両手のなかでソーダがしゅわしゅわと綺麗な泡を溶かしている。
「冴くんのほうが誑かされそう」
「透ちゃんに?」
「……冴くんはたまに私が心配になるくらいぽんこつだよね」
大丈夫かな、大丈夫でいてね。
心底心配そうに兄へ告げながら、透はオペラケーキに手を伸ばす。
「スーや、これはいつか来るやもしれぬ日――そう、お主に懸想する娘御が現れたときの予行演習と思えばよい」
いかにも真面目そうな口ぶりで、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は眼前に座した少年――スス・アクタ(黑狐・h00710)へと告げる。
一方でススはと言えば、
「……ええと、はあ、そうですね」
なんで私はここにいるんでしょう、と身の入りきらない返事を返すしかなかった。久しぶりに街に連れ出されたかと思えば辿り着いた先がここだった。どうにも落ち着かない心地で、黒狐の半面の下をうろつかせてしまう。
「なんですか、ここ」
「失恋こんせぷとかふぇ、と言うらしいぞ。我も初めて来た場だが、なかなか面白そうではないか」
のう、と袖の下に隠した口元でくふくふ機嫌よく笑うツェイがこの場についてのあらましを告げれば、ススは面の下を盛大に困惑させた。真面目ぶって告げられた先の一言はつまり。
「い、いつかの話なんて要りませんし、大きなお世話です。懸想とか古いですし……」
やっとのことで意味を呑み込んで常は少ない言葉を並び立てる。けれどもツェイといえば孫の言い訳を見守る爺のような顔をするのだ。
「我はその日を楽しみにしておるぞ」
「しないでください。というかそれじゃ断る前提になっているし、どんな予行演習ですか――あぁ、もう、めんどくさい」
突っ込みが追いつかず、そもそも席についてしまっている以上引っ込みもつかない。諦めたように頭を抱えたススが言葉を引っ込めたのを見て取って、ツェイはにっこりと微笑みを正した。
「我は通りすがりにお主を見初めた美しき|妖《アヤカシ》。お主は凛々しき獣妖の青年。――思い描き、ほんのひと時騙ってみせよ」
ちなみに我はそれなりに得手としておるぞ、とツェイは小さく咳払いをひとつして茶番のはじまりを告げる。
「――美しき黑狐の方。どうか私を傍に置いて下さりませぬか」
美しきだとか凛々しきだとか、あなたそれ自分で言うんですかすごい、とススが言う間もなく始まってしまって、ススは唸ってしまう。そもそも語り口が昔話レベルで古いなんてことは言っても聞かないのだろう。
「……わた、いや、おれには大事な仕事がありますので、ひとさまには感けていられないのです、はい」
唸って困った末に理由を捻り出してみる。
「ふふ、理由は仕事ときたか」
おぬしも堅い奴よの、とツェイが笑いかけた口元を押さえる。
「慕うものより大事な御仕事なのでございますか」
「……うわ、しつこいひと想定だ」
このひと楽しくなってる、と面の下からじとりと視線を送ってみるが、ツェイはどこ吹く風でさも悲しげな顔をしている。傷ついた人側になられてしまうとさっぱり不利だ。
「すみません、おゆるしください」
ええいもうめんどくさい。そう声に出なかっただけよくやったと自分で思いながら、明らかな棒読みでススは頭を深く下げる。同時にテーブルコツンと頭がついて、さながら土下座のようになってしまった。
(どうしてこんなところでツェイ相手にこんなことにならなければいけないんでしょう)
思わず目が据わる。あちらには見えていないだろうけれど。そうしているうちに、土下座はないだろう、と苦笑する声が小さく聞こえた。誰のせいだと。
「――そこまで申されるなれば、潔く身を引きましょう。……どうか、お幸せに」
綺麗に微笑んで、ツェイは目を細める。それでようやくススも顔を上げて、傍らに置いていた澄んだ色のソーダを一口啜った。
「……これでいいんですか」
「充分だ」
遊ぶように笑ってツェイも珈琲を口に運ぶ。どうも機嫌を損ねてしまったらしい。
(最後の一言だけは本心なのだが)
口にはせずに思うに留める。
見守るように視線を向け続ける先で、ようやく気分に落としどころを見つけたのか、ススがソーダから口を離して息をついた。
「どうだった」
「よくはないです。……ほんものを傷つけなくて済んだのは、よかったけど」
素直に零せばツェイがくすくすと笑うのが、ススとしては不服だった。
「こちらは未経験者も歓迎でしょうか?」
至極真面目に問いかけた|日宮・芥多《ひのみや・あくた》(塵芥に帰す・h00070)に、|設定《ちゅうもん》を受けようとした店員のほうが首を捻った。
「……はい?」
「いえね、失恋経験なしの失恋初心者なんですよ俺」
というのもまぁ、初恋から結婚まで奥さん一筋だったから失恋経験ゼロなだけなのですがね。
丁寧に惚気を付随させた解説に、店員はそうですか、と一歩ずつ距離を求めるような返答になっていく。なんでここに来たんだこの人、とでも言いたげなその顔に芥多は畳み掛けた。
「しかし、ここはひとつビシッとほろ苦い失恋を経験することで、酸いも甘いも噛み分けた深みのある男にランクアップしたい――そういった意気込みで本日は参らせていただいた次第です」
「|店員《キャスト》面接の方でしたか……?」
「いいえ客です。なんなら既婚者です。でも奥さん以外の女性にフラれにいくのは、なんか浮気しようとしてるみたいで嫌なので、設定としては相手は俺の奥さん――注釈として結婚する前、ということでお願いします!」
はあ、と店員は芥多の勢いに巻かれるようにして頷く。需要は様々、どんな無理筋だろうが客の要望に応えるのがこの店だ。細かな人物像を問われたが、そこはこちらのイマジネーションでどうにかしますと言い切った。既に亡いとは芥多のみがわかっていればいい。
「あ、飲み物は珈琲で」
ではよろしくお願いします、と芥多が笑うとほどなく席に案内される。同時にやってきた店員の女性は当然芥多の妻ではないけれども。
(相手は俺の奥さん、嫁、ワイフ……ここは結婚しないパラレルワールド……)
しっかり脳に思い込ませるように繰り返せば、眼前に彼女が座っているように見えてくる。人間の脳とは単純なものだ。元よりないも同然の正気の手綱を緩めてやれば、
『 』
彼女の姿が声がするではないか!
「ごめんなさい」
しかし、記憶のままの姿と声で紡ぎ出されるのは恋を愛にする間もなく突き返す言葉だ。申し訳なさそうに綺麗に笑わないでほしい。
「好きになってくれてありがとう」
喉で言葉を詰めた芥多に代わるように、彼女はそう続ける。
(ありがとうじゃないが?)
反射的に浮かぶ言葉は半ば混乱していた。だってあなたは俺の奥さんでしょう。ああ今は違うんだった、ややこしい!
「……理由をお伺いしても?」
努めて冷静な言葉を選べた自分を褒めたい。それなのに、
「他に好きな人がいて」
NTRじゃないですか! と叫ばなかった自分も褒めたい。そもそも結婚していない設定だ、告白段階ならNTRもクソもない。ああもうややこしい。誰ですかこんなクソ設定敷いたやつ。俺でした。
「……いやキッツいな!」
失恋させるという役目を終えて彼女――店員が席を離れきってから、芥多は思わず机に突っ伏した。
想像とはいえ、この場を伴う想像だからこそ真に迫ってしまって妙にダメージを負ってしまった気がする。愛すべき妻を持つ芥多は本来知るはずも必要もなかった感情だろうけれども、なるほどこれは確かに記憶のごみ箱行きを望んでも致し方ない。なんて攻撃力の高さか。恐るべし疑似NTR。NTRではないが。
(いやしかし、失恋を機に快眠する気力を失うでしょうから、これも一種のNTRかもしれない……)
ぐるぐると無駄に回る思考と共に長いため息を吐き出すと、代わりのように香ばしい珈琲の匂いがしてくる。
どうにか顔を上げると、先程の店員が珈琲を共にしたケーキセットを持って来てくれたようだった。
「失恋って凄いですねぇ……」
しみじみと声に出してしまうと、あまりに実感が籠もっていたせいか、そうですよね、と店員もゆっくり頷いた。
「こんなものを抱えて行ける気は到底しませんよ、俺」
「……置いていくすべもあるんだそうです。全部忘れてしまえるって」
聞いた話ですけど、と白々しく続いていく店員の言葉に、芥多は珈琲を傾けながら、へえ、と僅かに目を細める。
「興味がありますね。俺も彼女を忘れられる気はしないので」
忘れる気など到底ない。
それでもにこりと笑ってやるのは――失恋の底に隠された『仔』を探り出すために。
(失恋したことなくて本当に良かったです)
そう思うのだけは、本当だったけれども。
第2章 集団戦 『さまよう眼球』

●地下倉庫
――ねえ、あなたも忘れてしまいましょうよ。
失恋の痛みを、悲しみを。誰かを傷つけた自覚を、罪悪感を。
終わらせられない感情を持っている仲間として、狂信者たちは能力者たちを手招いた。
まるで帰り道を案内する素振りで連れて行かれたのはカフェの隅にある階段の下。降りるほど暗がりに視界が塗り潰されて、次に見えたのはがらんとした地下倉庫だ。打ちっぱなしのコンクリートに、カツンと冷たい足音が響く。明滅していた蛍光灯がひとつ点けば次々と灯って、倉庫のなかが明らかになる。
暗がりに溶けていた足元には複雑に描かれた幾何学模様があった。既に黒ずんだ血で綴られたそれは自分たちのものなのだと狂信者たちは昏い瞳のままに言う。
「痛いけれどこうすれば、女神様が私たちの痛みごとすくいとってくれるから」
手本を見せるかのように手のひらをナイフで裂いて、狂信者は巨大な方陣へ血を捧ぐ。それが『クヴァリフの仔』の召喚儀式だと、能力者の誰もが察したはずだ。ならばやはりこの地下が、狂信者たちの本拠地。
召喚はいまにも成されようとしている。既に陣があったことから、最早事後でもあるのだろう。倉庫から続く扉は奥にひとつしかない。ならばその奥に狂信者たちが女神と呼ぶそれがいるはずだ。
能力者がつい奥へと行こうとすれば、方陣の周りにある血溜まりからずるりと牙と目玉たちが這い出す。ずるずる、音を立ててそれは増えていった。もはや原型のない肉片が繋ぐ無数の眼球には理性の欠片もない赤が爛々として、牙は眼前のものを全て喰らわんと大きく開く。
「どこに行くの。あなたも一緒に忘れましょう」
無機質に狂信者の声が響いて血が落ちる。
牙を剥く怪異を優先するか、あるいは儀式の中断を優先するか。一瞬のうちに選択を突きつけられた能力者たちが動き出す。
「やだ不細工な儀式!」
地下倉庫に染み付くような陰惨な気配を僥・楡(Ulmus・h01494)の無遠慮な一声が押しのける。
進行する儀式にも血の匂いにも顔色ひとつ変えず、五槌・惑(大火・h01780)は横目で楡を見て肩を竦めた。
「遠慮してやれ、わかってただろ。いかにもやりそうな連中じゃねえか」
「それ惑ちゃんのほうが言ってるまであるわよ。このブサさ見ちゃうと同感だけど」
「同感なら同罪だろ。……さて、やっと俺の仕事だ」
は、と薄い笑いを息に混ぜて惑は頬にかかった黒髪を無造作に掻き上げた。半ば強制的に不本意な店の同伴に連れ出されたが、はじめは|この段階《あらごと》から手伝う予定だったのだ。
「憂さ晴らしをさせて貰うか」
琥珀色の瞳が蠢く眼球たちを捉えて駆け出す。血を流す狂信者たちを素通りして裡に棲み憑いた|呪い《サソリ》を引き摺り出せば、嬉々として廻りだす毒が髪を伝って混じる赤をひけらかした。
「喰うなら喰えよ」
気が狂うまで。
飛び込んできた獲物に眼球たちが牙を鳴らして飢えのままに齧りつく。見越した負傷を意にも解さず、惑は肩に足に突き立てられた牙を払いがてらに殴り踏みつける。手応えはいまひとつ。
しかし赤に靡く黒髪が掠めただけで注ぎ込まれた猛毒に、|惑《えさ》に喰らいついた眼球たちの牙がばらばらとわななく。
「もう気が触れたか。――もともとねえか」
理性のない赤目がぎょろぎょろと喘ぐように動きを鈍らせる。惑は眼前に迫ったそれを力任せに殴り潰す。手袋というのはこういうときに具合がいい。
「どこも行くなよ」
足元から滑り離れようとしたものを滴る毒で息づく蠍の影が引き戻して踏み潰す。惑が派手に動けば動くだけ、眼球たちは毒に侵されていく。澄ました顔で玩具のひとつも逃さぬように引き付けて、獲物の顔をした捕食者が怪異の臓腑を暴き出す。赤く散るのはどちらの血だか。
「――あそこで暴れてる惑ちゃんは血まみれでも美人でしょう?」
ふと耳に差し込まれた名に一瞥を向ける。その先で楡に捕まったらしい狂信者と目が合った。ひ、と引き攣った悲鳴がわずかに聞こえる。
(楡は楡で勝手言ってんな)
示し合わせたわけでもないが、一方が怪異へ向かえば人間のほうは楡のほうが対処するだろうと決めつけたのは正解だったようだ。
それはそれとして、脅しに使うならまだしもどういう文脈で引き合いに出しているのだか。
「人を交渉材料にするのはいいが、もう少し巧く使え」
舌打ちを混ぜなかっただけ行儀のいいぼやきで、開いたあぎとを蹴り飛ばす。
「あらやだ怖い顔~。あれは真似しないほうが良いけど、きっとその通りだって言ってるのね」
全くそんな気はせずにするりと嘯いて、楡は狂信者から取り上げたナイフを投げ捨てる。
儀式を邪魔された狂信者の少女は、絶望に満ちた顔で転がっていくナイフを見、楡を見上げた。
「どうして邪魔するの。あなただって失恋の痛みがわかったはずなのに!」
「ええまあ貴重な体験だったけれどね。だからってアタシ、アナタたちみたいに失恋に負けたりしないのよ」
そもそもね、と言いながら楡は組紐を巡らせて、まだ儀式を続けようとする狂信者たちの手の全てからナイフを奪い取った。無造作に遠くへと投げ捨てれば、カラカラと落ちるナイフの音が呆気ない。
「いい? アナタたちの敗因は心のブサさよ、分かる?」
「ぶ、」
「どうせ忘れられるんだから失敗してもいいって甘さがあるからフラれるの」
情けも容赦も遠慮もなしに言い放てば、いっそ少女たちは呆気にとられて絶句したようだった。その傷ついた手のひらを掴み上げる。いた、と小さく零した声に楡は構わない。
「何より肉体的な痛みで心のつらさを誤魔化して見ないふりするのが一番ダメ」
「だ、だって」
「だってもクソもないのよ。幸せになりたいんだったら強くなりなさい。傷は向き合って治したら、前より綺麗になれるものよ」
言い募ろうとした少女にわずかに語気を強め、それから楡は軽く息をついた。
すっかり少女は意気消沈して、泣きそうな顔をして俯いてしまっている。その傷ついた手のひらを自分で塞がせるように握り込ませてやったところで、あらかたの怪異を始末し終えた惑がすっきりした顔で戻った。
「話はついたか」
「――ほら、頑張ってる人は綺麗なのよ」
すっかり血に塗れた惑を見やれば、ああ? と眉間に皺を寄せる。
「恋に必要なのは度胸と愛嬌とさっき上で見たみたいな鈍感力ってことね。ほら惑ちゃんもお手本! 笑って!」
「うるせえ」
茶化して向けられた楡の言葉を一蹴して、惑は少女たちを見る。
「愛嬌も、慰めの言葉も、此処で安売りしてやるつもりはねえよ。さっさと立ち直ってこんな店辞めろ。そのときは愛想笑いでもくれてやる」
そっけなく言って、惑は奥へ続く扉を目指して踵を返す。
「やぁだ、惑ちゃんそれノンデリ発言よ」
「楡にだけは言われたくねえ」
白黒ふたつの背を半ば呆然と見るしかない少女たちは神に依らずとも、事が済めば彼らの記憶を取り落していくだろう。それでも手のひらに残る傷と痛みと、強く美しいものとしての黒白の名残を、いつか探すのかもしれない。
「本当に忘れられたら、いいのにな」
ほんの一瞬だけそう思ったのはワーズ・ディアハルト(葛藤と信仰の歌・h00602)の本心だった。
けれど連れ出された先に広がった現実は陰惨なものだ。喉の奥が引き攣って情けない音を出す。
(――情けない)
ぶんと頭を振って、甘えた考えを捨てる。抱いた切望は同じだとしても、こんな光景が許されていいはずがない。
「儀式を止めなくては!」
「同感だよ」
狂信者たちの元へ向かったワーズに足並みを揃えたのはアレクシス・カルヴィネン(いつか巡る縁の為に生きる者・h00709)だ。居合わせた友人に一瞬目を瞠るが、今優先すべきは眼前の儀式の中断だ。
「ねえ、あなたも女神さまに――」
「悪いけど、俺の女神さまはちゃんと自分で乗り越える道を示してくださるからね!」
アレクシスは狂信者の少女からの手招きをさらりと一蹴する。牙を剝く怪異に衝撃波で隙を作り出し、僅かな一瞬に狂信者の首元を錫杖で殴って昏倒させれば、
「容赦ないな……」
ワーズがぽつりと呟くのが聞こえた。
「容赦してる余裕はないだろ」
「けど、」
「なら君が優しくしてやれ」
ワーズは既に自分の傷を厭わず怪異をすり抜けてきている。傷を負ってなおワーズが狂信者たちへ心を砕くのは、一瞬でも同じ感情を共有したからに他ならない。彼ら彼女らを傷つけずにこの儀式をほどくには。
「……それなら!」
ワーズは巡らせた思考の末に、神聖竜を喚ぶ。地下倉庫に顕現した荘厳な竜はそれだけでも狂信者たちの動きを止めたが、既に流された血が止まることはない。
「この床に流れた血を、全てただの水に変えてほしい!」
告げた願いを聞き届け、ざあ、と足元に満ちる清涼な水の気配と共に竜が還りゆく。
アレクシスが昏倒させた狂信者を柔らかな水がざばりと受け止め、その血を水に溶かした。これならば倒れる狂信者たちが傷つくこともない。顔から水に落ちることがないようにだけ注意してやる。
なるほど、とアレクシスは笑って、即座に狙う対象を怪異へと切り替えた。
「お山よ、我に守護を!」
錫杖の構えを変えて、祭神たる女神の分霊を喚ぶ。分霊は満ちた水を流れるようにするりと怪異たちに融合し、ぎょろぎょろと動くさまよう眼球の動きを止めた。
アレクシスが錫杖を一振りすれば、シャンと鳴る音と共に、怪異が分霊に導かれて消滅していく。
「行こう!」
「ああ」
ワーズとアレクシスは、狂信者たちが倒れ、怪異が消滅したその先へ、迷わず駆け出した。
血の匂いが地下倉庫に満ちていく。
そのどうしようもない生々しさと、躊躇なく自傷してみせた狂信者たちに花片・朱娜(もう一度咲って・h03900)は胸の奥が嫌な感覚で冷えるのを自覚した。
動き出したのは半ば無意識だった。朱娜は昏い瞳のまま狂信者の彼女が手のひらに押し付けるナイフを掴み捕らえて投げ捨てる。
「なにをするの」
「だって、こんなの放っておけない」
朱娜は舞うように扇を翻す。巫女の招きに応じた花霊が扇に降りる。ひとつあおげば甘く広がる花香が、くらりと狂信者たちを眩ませた。
「あなたたちの神は、止めなければいけないんだ。……ごめんなさい」
確かな意思を宿す赤い瞳を苦く揺らして、朱娜は扇を握る手に力を込める。
(先刻私が貰ったごめんなさいよりも、ずっと酷いな)
心が壊れそうなほど追い詰められた狂信者たちを思えば、どうしたって息が苦しくなる。けれど牙を鳴らして蠢きだした怪異も放置はできない。
「――こちらは私に任せてくれ」
地下倉庫を――狂信者たちを見渡した狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)が朱娜にわずかに遅れて駆け出しながら、叢檻を放った。過たず狂信者たちの足元から芽吹き広がった|楽園《みどり》の檻は、その動きを咎め捕らえる。
「随分と物騒な武器をお持ちのようだが、預からせていただく」
澄夜が狂信者たちの動きが止まったうちにナイフを取り上げると、悲痛な声が耳を打つ。
「嫌、返して! 女神さまに救ってもらえなくなる!」
「……多産の女神は救い主にはならない。唯、己の仔を産むためにあなたたちを利用しているだけだ」
嘘、と少女たちが今にも泣きそうな目を瞠った。
「そんなの嘘、だって、じゃあ、私たちどうしたら……」
狂信の徒に堕ちた昏い瞳がぐらぐら揺れて澄夜を映す。酷く傷ついたその面持ちに、どうしようもなく澄夜の胸も痛んだ。
狂信者たちにとっては、やっと見つけた救いだったのだ。けれどそれを是とすることはできない。
引き攣った息をこぼしてもがく少女の元に、澄夜はそっと歩み寄り、視線を合わす。青い瞳が少女の翳りを掬い上げるようにその姿を捉えた。
「安心するといい。――あなたたちは充分強く、そして優しい」
ゆっくりと、澄夜は語りかける。
「酷く傷ついても他人を犠牲にせず、自分に刃を向ける。……それは誰にでもできることではない」
誇っていい、と澄夜は断言する。
「その選択ができるのならば、新しい戀も、新しい道も見つけられるはずだ」
澄夜の言葉に、少女が見開いた瞳からぽろぽろと涙を溢れさせた。でも、と震える声が、泣き声が檻に囚われた狂信者たちに伝播していく。
「でも、忘れたいの。もう抱えていられないの……!」
悲痛な声に澄夜が寄り添う。そちらへ牙を剥こうとした怪異を、朱娜の操る|花霊《インビジブル》が赤薔薇の齎す鋭い棘で阻んだ。
「私は、忘れない。辛くても……いいこともあった。愛おしい記憶を、ひとかけらも喪いたくない」
囁き落とした朱娜の血を吸った赤薔薇がほどけるように花弁を散らす。鮮やかな花弁は朱娜の霊力を受け無数に広がり、さまよう眼球たちを誘うように舞い踊る。
けれど飢えた怪異に獲物を逃す選択肢はない。その花吹雪にさえ紛れるように互いの居場所を入れ替えながら朱娜の背へ喰らいつこうと剥き出しの牙を大きく開き、
「食べられると思った?」
喰らいついたのは香り高く、鋭い花の棘。
内側から裂かれるように刺し貫かれた眼球たちは声なき声でのたうった。
「綺麗な花には棘があるって言うでしょう」
崩れ落ちる怪異を視界の端に置いて、朱娜はすすり泣く狂信者たちのそばにしゃがみこむ。それから、ナイフで裂かれた手に霊薬を一滴与えた。途端に傷口が塞がっていくのに、狂信者が驚いた声をあげる。
「……こうやって、傷はきっと治るから」
そっと微笑んだ朱娜のそばで、澄夜も狂信者たちを捕らえた檻をほどきながら頷いてみせた。
「どうしても忘れられないなら、私がセラピストとして力になる。……約束だ」
澄夜が渡した名刺に狂信者たちが気を取られているうちに、朱娜と澄夜は奥を見据えて立ち上がる。今の儀式を止めたところで、おそらく既に奥にクヴァリフの仔はいるだろう。
「行かなきゃ」
淡色の髪をふわりと揺らして朱娜が駆け出し、澄夜も続く。後に残ったのは、血の匂いよりも花の香りだった。
怪異の撃退が先か、儀式の中断が先か。
刹那に迫られた選択に、リリアーニャ・リアディオ(最期の|頁《ページ》・h00102)は迷うことなどしなかった。
「答えはひとつじゃない? ――どっちもよ」
夜色をふわりと靡かせて、唇に笑みを乗せたままリリアーニャは怪異がばらりと開いた牙を誘うように跳ねた。喰らいつこうとした怪異の牙が空振って甲高く喚く。
同時に動き出す他の能力者の動きをリリアーニャの青い瞳がなぞる。今ここにいる|能力者《・・・》は、リリアーニャひとりではないのだ。迷いも惑いも必要ない。物語を追うように読み解いてやれば、やるべきことはおのずと見える。半数ほどが狂信者たちの元へゆくのを見てとって、リリアーニャは蠢く怪異へ甘えるような声を向けた。
「こっちよ、こっち」
ひらりひらりと黒兎の耳を踊らせて敵の攻撃を誘っては躱す。遊ぶように攻撃をくぐりながら、いましがた聞いた狂信者の言葉が頭を掠めた。
誰かを傷つけた罪悪感、自覚。それらを忘れたいものにあげつらっていたかしら。
(罪悪感なんてはなからないし、忘れるだなんてもったいないこと、しないのよ)
思わずくすくすと笑みがこぼれる。
彼の紅潮した頬も、震える唇も、臆病な指先も。傷ついた表情の細部まで、リリアーニャは覚えている。だってあれは、演技ではなかった。リリアーニャが向けた言葉に確かに心を揺らして、血を流すような胸の裡を開いてみせてくれたのだ。
弱くて、脆くて、他愛ない。それをこそ、リリアーニャは愛おしむのに。
(傷つけた私だけが見られる尊い一瞬を、忘れる?)
跳ねて躱して影に紛れて怪異たちを誘ううち、眼前には血走った眼球が隙を狙ってぎょろぎょろと這いより、鋭い牙をぞろりを開く。飢えたそれらは理性もなく、ただ衝動のままにそのあぎとを開いた。ああ、なんて可愛げのない。
「――お断り」
ゆっくりと微笑んで、リリアーニャは目のあった|霊体《インビジブル》を手招いてやる。するりと場所が入れ替わり、さまよう眼球たちが喰らいついた先に置かれたのは底なしの闇だ。避ける間もなく、眼球たちは深淵を覗いて落ちてゆく。
「覗いたあなたたちが悪いのよ」
私は進んだほうがいいかしら。
いまだ奥へ進む能力者たちが少ないのを見て取って、リリアーニャは閉じゆく闇の輪郭をつま先で遊ぶように飛び越えて、奥へ向かって軽やかに駆けてゆく。
「あら、まあ」
半ば正気を取り落したまま、躊躇なくナイフで手のひらを裂いた狂信者を、皙楮・戻(曖昧メモリア・h05187)はきょとんとした銀の瞳に映した。
(自分を傷つけてまで女神とやらに縋ってしまうなんて)
戻にとってはさっぱり理解のできないことだ。いつでも人間は自分を追い詰めるように生きている。俯瞰したように観てしまうのは、戻が|厄災《じんがい》であるせいだ。
「人間って本当に脆くてか弱くて、大好きです。――でも|怪異《あなた》は」
くふりと笑って、戻はぎょろぎょろと血走った眼玉を動かす怪異と目を合わす。随分と餓えているらしい。ヒトでないもの。脆くもか弱くもなく、戻のように大人しくヒトの管理下に入ってやる気もない醜いそれもまた、理解はできないものだけれど。
「あなたは、なかったことにしてあげますね」
同じように微笑んだまま、戻はかじりつこうとした牙を霊力を巡らせた炎で防ぎ焼く。
「ふふっ、とってもよく燃えますね!」
怪異たちが動きを止めたうちに戻は距離を取り直す。
だって、醜いモノには触れたくないのだ。匂いも灰も遺さず消えて欲しいところではあったけれど――どうやらまだまだ頑張るらしい。
「阿迦奢、出番ですよ」
醜いモノを消し去ってください。
ふわりと白いワンピースを翻して、戻は澄んだ声音で護霊を喚ぶ。常から傍にいる阿迦奢はすぐに応えて、理性なく戻に殺到しようとする怪異たちへするりとその身を融かし込む。
さまよう眼球たちはギ、と牙をわななかせて動きを止めた。そして次の瞬間には阿迦奢の導くままに、塵も遺さずその姿が消えていく。
「これで綺麗になりましたね」
やっと視界が晴れて、戻は奥へと足を進めようとする前に一度振り返る。
地下倉庫には他の能力者たちに止められた狂信者たちが多くうずくまっていた。すすり泣く声もこの場ではよく響く。
忘れたい、救われたい。酷く痛そうに溢す人間たちを、戻はどこかぼんやりと見た。
「……そんなに忘れたいのなら、戻が全部忘れさせてあげるのに」
ぽつりと呟くと、またそんなことを言って、とすかさず咎める声があった。阿迦奢が傍らに戻ってきていたらしい。
「冗談ですよ」
拗ねたようにぷくりと頬を膨らませて、白紙の少女は先へと進む。
「ばいば~い、先輩。ぼく実家より良いとこ行くんで」
「ええ、移動? ケーキのお代わり……」
「……ケーキ食ったなら、早く来てよ!!」
まだ食べれるんだケド、と名残惜しそうにからの皿を見る緇・カナト(hellhound・h02325)に野分・時雨(初嵐・h00536)はぎゃんと喚いて狂信者たちの招く地下倉庫へと降りる。
途端に重く塗り変わった気配に静かに時雨が目を眇めているうちに、カナトも隣へ追いついた。
あらら、と時雨があきれた声をこぼす。なるほど、狂信者と呼ばれるだけの|精神《メンタル》はしているらしい。
「手切って急にメンブレ?」
「痛みも傷痕も忘れてしまえるのなら、そりゃあ気楽なんだろうけれどね」
連ねられる言葉は、時雨たちからしてみれば言い訳じみた口上にすぎない。なんだかんだと言いながら必死になってこの場に立ち続け、その上自身の存在さえ否定したがる有様に、カナトは面の下の眉をひそめた。
「苦手だなァ、こういう連中」
「そう言わないでくださいよ、先輩」
「だって、オレの知ったことではないのでェ」
そりゃそうですけどね、と時雨も軽く嘆息する。
「予測つかぬは恋心に空模様。……故に人生の彩りとなるものでしょうに」
ここにいる狂信者たちは自分の悲嘆に夢中で、その色すら捉えることができなかったのだ。残念なことですね、と時雨が囁いたその傍らをカナトがするりと進み出る。どう思おうがいまここにいる時点で|仕事《やるべきこと》は決まっているのだ。
「さァて、引き続きお仕事ガンバロ~」
「は~い。ということで――水姫、全部壊して。人間は生け捕り」
時雨の声に応えて、地這い獣は狂信者たちのほうへずるりと這っていく。
そちらを時雨が先に見るならばと、カナトは半面をクイと整えながら焦点を蠢く怪異たちへ合わせた。
(まぁ、壊し屋演ってるほうが気楽なんだケドねぇ)
まるで『普通』に遊ぶみたいに。それでも千切ったはずの鎖も首輪も、容易く昏いほうへと引き摺るけれど。こうして眼前で牙を剥かれれば、敵として噛みついたって構わないだろう。
「――変生せよ」
低く落とした声ひとつで灰狐狼の毛皮を纏う。同時にカナトの片手には|三叉戟《トリアイナ》が顕れた。獣のように低く構えて、一息に速度を上げる。カナトを見失った敵を死角から突き刺した。怪異たちは群れのなかのひとつが倒れたところで構うこともなく、牙を鳴らし互いの視線を合わせて場所を入れ替え、
「真似っこしま~す」
一瞬遠くで聞こえた時雨の声が次の瞬きですぐ傍らにあった。ざあ、と地下に降り出した|霊力弾《あめ》はカナトに齧りつこうとしていた血走った眼球たちをも容赦なく打ち据える。
「フォローが有難いねェ後輩」
「あれ、もしかしてナイスタイミングでした?」
「あァ、えらい、えらい」
「うふふ。褒められた。じゃあこのあとのトドメもよろしくお願いしますね」
先輩お仕事早いですもんね。
機嫌よく笑って時雨はさまよう眼球たちの注意を引きつけながらその数多ある目玉を潰していく。後輩からの|無茶振り《しんらい》には、思わず息で笑ってしまうけれども。
「しょうがないなァ。――思う存分に暴れ回らせて貰おうか」
人狼が駆ける。
カナトの三叉戟が時雨の潰した眼球たちを過たず貫いていく。
「ところで、キミの実家ってこんな雰囲気なの?」
「それまだ引き摺ってんの!? 実家じゃないって! 此処は良いトコですよ!」
良いとこなんだ。思わずカナトは首を傾けたが、問い返すより目の前が開けるほうが早かった。進むべき扉はふたりのすぐ前にある。
「こんなところで儀式をしていたのね」
薄暗い地下に満たされた血の匂い。
気が触れたような昏い瞳で連ねられた言葉は、どれもララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)には理解できなかった。蠢き出す醜悪な怪異につい顔を顰める。
「失恋ってこんなふうに破れた恋心を怪異に喰べさせて忘れるものなの?」
ララには身を焦がすような戀も己を傷つけるほどの失恋もわからない。ただそうしている狂信者たちをこうして目の当たりにして、決してうつくしいとも思わないのだ。――さっきカフェで失恋を語っていたあの子は、あんなに綺麗な顔をしていたのに。
「お前たちがしているのは、いじけて逃げているだけに見えるけど」
まだ稚く、けれどなにもかも見透かすような花咲く瞳に見据えられた狂信者が、狼狽えて息を詰める。
「だって、だってもう耐えられないの。痛いの、苦しいの。ずっと……!」
「ララは、苦しくて痛いというお前たちのその心も……大切にしてほしいわ」
たいせつ。そんなふうに考えたこともなかったと言わんばかりの顔で、狂信者はララを見る。ゆっくりとララはうなずいた。
「それに、誰かを傷つけていい理由にはならない。――これは、お前たち自身もよ」
諭すように白虹の聖女は語りかける。飢えてにじり寄る怪異に躊躇も怯えもせず、一歩を前へ。
「――ララちゃん、気をつけて」
ぎょろりと血走った眼球の視線から庇い遮るように、誘七・赫桜(春茜・h05864)がララの前へ出た。先程と同じくらいに綺麗な横顔を見上げて、ふすりとララは息をつく。
「……お前は本当に過保護だわ」
「そう、かな」
つい体が動いてしまったのだというふうに、赫桜はララをちらと見る。すぐに夕日色の眸が怪異たちを牽制するように戻るのを見上げながら、ララは首を傾けた。
「赫桜、お前も忘れてしまいたいくらい痛いの?」
「……失恋は、痛くて苦しいものだよ」
でもね、と赫桜は狂信者たちの注目が集まっているのを理解した上で、はっきりと続けた。
「酷く傷ついて傷つけるものだったとしても――ぼくはこの戀ができてよかった」
狂信者たちが言葉もなく瞳を彷徨わせる。こみ上げる言葉を堪えるような顔をしている。言いたいことはわかる、綺麗ごとだって。それでもこれは、赫桜の本当だ。
「……あの子のこと、すきになれて良かった。出逢えてよかった」
言葉にすれば、かすかな痛みにほのかなぬくもりが差す。
――この想いを忘れるなんて勿体なさすぎる。この痛みと向き合えないなんて、残念すぎる。
「ぼくはこの傷を受け止めるよ」
強い意志を宿した赫桜の眸を、ララも見ていた。黄昏のように寂しくて、蜜飴のように甘く澄む――その色がやっぱりとても|いい《・・》ものに見えた。
「……お前は強いのね」
赫桜が語った『あの子』が誰かはわからない。けれど。
「その『あの子』も、お前に幸せを願われ愛されて幸福だと思うわ」
ララが言った言葉に赫桜がわずかに震えた気がした。掠れた声が、ララちゃん、と呼ぶ。
「この痛みも何もかもぼくだけのもの。……だけどきみの存在は、あの子が、幸せになった証だから」
きみにそれを言われると、すこし泣いてしまいそうかも。こみ上げた言葉はかろうじて音にならず、代わりのように鋭い視線が騒ぎ出した怪異へと注がれた。
「まずは怪異をなんとかしよう」
「ええ、そうね」
ぞろりとわなないた牙に先に動き出したのは赫桜だ。敵の懐に踏み込む一歩で神刀を抜き、薙ぎ払う。
おいで。赫桜の声に応えて融けるように降りてくるのは龍王妃屠桜。甘やかな破魔の桜が舞い踊り、ララへ至ろうとする牙が叩き斬られた。
(ぼくは選ばれなかったけれど、できることはある)
――今はララちゃんを守ること。
たくさん愛されるこの子を、あの子の幸せの形を決してひとひらも散らさぬように。
両断された怪異のその奥から別の眼球が彷徨い出るのが見えた。その赤い目はララを捉えて、けれど軋むように動きが止まる。
「影踏みしましょ。ララが鬼よ」
小さな一歩が影を射止めて、次の一歩で窕と銀災が踊り飛ぶ。串刺しにされた怪異たちからちからを吸い上げて、仕上げとばかりに迦楼羅炎を放つ。
吹き上がる炎熱から優しくララを、そして赫桜を守るのは母の祝福だ。その気配になにか感じたのか、赫桜が目を細めて、そっと閉じる。
「……桜は散ってもまた、咲くんだ。根を腐らせない限り」
「……そうね?」
どういう意味で赫桜はいまその話をしたのだろう。わからなくて、ララはやっぱり首をかしげる。けれどやっぱり、ちらと見上げた赫桜の横顔は綺麗なのだ。
「ねえ、赫桜」
「うん?」
「ララもいつか知りたいわ。……戀、を」
囁いたララの幼い声を、護りの花弁が優しく撫でて消えてゆく。
貼り付けた笑みはまだかろうじて残っている。
それでも耳に入ってくる狂信者たちの声は腐臭にたかる虫の羽音のように鬱陶しくて、日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)は些か乱雑に手にした怪異兵器を足元に流れる血だまりへと突き立てた。
刃から八つ脚から、斧は芥多が操るままに狂信者たちが流した血を吸い上げていく。
「あなた、何を」
「別に、俺が使ってもいいですよね?」
既に他の能力者たちも動き出している混乱のなか、芥多の行為に気づいたひとり――あれは多分、カフェで芥多の相手を務めた店員だ。先程言葉を交わしたはずの相手の顔をほとんど忘れてはいるが、芥多にとってあれは|妻《・》であったのだから当然である。認知があるだけ褒めて欲しい。
「儀式のために、女神さまのために痛い思いをしながら懸命に流した血液なのでしょうが。――残念でした、一滴残らず俺のためのものにさせていただきますよ」
「どうして、あなただって忘れたい絶望や悲しみが、恋があるのではないの」
ああ、鬱陶しい。
同情も哀れみもない。昏い瞳のままに言葉を連ねる信者へ芥多が向けられるのは、ただの騒音としての不快感のみだ。
は、と失笑に満たない息をついて、芥多は紫苑の眸を狂信者へ冷たく据える。
「俺、実は失恋だけでなく人を意図して昏倒させた経験もないんですよね……」
まだなにか言いかけたその音が成る前に、芥多は狂信者の腹を軽く蹴り飛ばす。どうやら多少不適切な音はしたが、無事昏倒はしてくれたらしい。
「おや、初人体昏倒……気絶? 成功ですね! ではこの調子でどんどん参りましょう!」
もう少し加減はしたほうがいいかもしれない。できればの話だが。
たらふく血を纏った怪異兵器を片手に、芥多は今なお儀式を続けようとしている狂信者たちを次々と蹴り飛ばしていく。
「目が合いましたね、さようなら」
餓えながらも狡猾にあぎとを開くさまよう眼球たちも斧で叩き斬って、びしゃりと飛んだ血痕さえも刃としていけば、みるみる辺りは静かになっていった。
それでもまだ儀式に縋りつく狂信者たちはなにか言い続けている。
忘れたい、救われたい、お前もそうだろうと愚かしさへ手招くさまはあまりにも。
「本当に五月蠅いですね。――忘れるわけねえだろうが」
貼り付けていた笑みを取り落した。
忌々しげに吐き捨てて蹴りつける。ようやく黙った最後の一人は、信じられないものを見るかのように芥多を見ていた。その目の焦点が意識と共に失われるのを、芥多は冷徹に見る。
「俺が愛する唯一の人に与えられた幸せも、喜びも、希望も、記憶も、悲哀も苦痛も後悔も焦燥も戦慄も慟哭も空虚も汚濁も渇望も崩壊も消失も絶望も、」
|最愛《ゆいいつ》に未だ抱く感情が渦を為すように芥多の中に巡りゆく。それは誰に指摘されずとも、誰に共感されずともいいものだ。されたくもないものだ。
いま自分を為すものが全て仮初で偽りであったとて、この想いだけは偽りようもない。
裡にある息の全てを吐き尽くして、芥多はやっとゆったり呼吸をし直した。無駄に力を込めて軋んでいた斧の柄を丁寧に握り直し、また唇に笑みを描く。
「……全てかけがえのない至宝ですのにねえ?」
くつくつと喉を鳴らして、芥多は血を纏う怪異兵器を担ぐまま儀式場の奥へ歩みを進めた。
第3章 ボス戦 『仔産みの女神『クヴァリフ』』

●忘我の教義
女神さま。
狂信者たちは一様にそう口にしながら気を絶やし、新たな儀式は中断される。
だが能力者たちが踏み入った地下倉庫の奥には既に『仔』らがうぞうぞと蠢いていた。
『クヴァリフの仔』――それはぶよぶよとした触手状の怪物だ。大きさはそれこそ人の赤子程度。それらが誂えられた祭壇に並べられている。
そしてその祭壇の前に、仔産みの女神『クヴァリフ』はいた。
「母と仔の|再会《ゆうごう》に水を差しに来たのか?」
くすくす、くすくすと女神は笑う。
己が示し産み落としたその仔らを、女神は再び胎へ取り込もうとしている。なぜ女神がこの召喚手法を狂信者たちへ授けたのか、それは知れない。
確かなのは、あれが取り込まれれば著しく女神の戦闘能力が跳ね上がることだ。仔産みの女神と呼ばれる由縁の通り、この場で仔を産むことすら容易い。
「それとも汝らも、妾の仔になるか? ……などと、訊くだけ無駄なのだろう」
知っているとも。
女神は狂気に浸した笑みで、能力者たちを煽るように手招いた。欲しいならば奪ってみせよと巨大な触手がのたうつ。
祭壇は女神の背にある。
儀式場の奥はどういうわけか、地下倉庫よりも更に縦横が広い空間になっている。太い柱が光源と共に規則正しく並び、壁画めいた絵図が床に柱に刻まれたそこは、神殿と呼んでも良いのだろう。
何を振り回すにも跳び駆けるにも障りはない。その代わり、身を隠すすべもそうありはしない。
女神の触手は仔ではなく、能力者たちへと伸びる。酔狂か遊興か、闖入者たちの一掃が終わるまで、祭壇に捧げられた供物には手を出さぬつもりなのだと知って、能力者たちは狙いをひとつに定めた。
――仔産みの女神クヴァリフを、倒せ。
眼前で女神が笑う。
救いを騙り、失恋の悲哀を愛でるように恍惚と吊り上がった唇に静かな怒りを隠しきれず、誘七・赫桜(春茜・h05864)は整った眉尻を押し上げた。
「人の痛みは美味しかった?」
常に穏やかな声が強く神へと向けられる。背にララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)をすっかり庇い隠しながら、赫桜は怒りと同時に戸惑いも覚えていた。
「人にとっての善きことも、厄災にしかならないことも……神には理解ができないのかな」
「――神なんてそんなものよ?」
答えがあったのは背中からだ。視線だけをやれば、ララがひょこりと小さな頭を覗かせて愛らしく首をかしげ、底知れぬ笑みを唇に乗せている。
「あらゆる心の隙間に入り込み、浸食し、与えることにより奪う。……清々しいほどに『女神様』ね」
神をよく知る口ぶりで、ララは赫桜の背から花彩の瞳に女神を映した。くつりくつりと女神が笑み返す。
「人の子が望んだ救済だ」
「お前の救済は、人にとっては破滅に等しい。……あるいは、全て気まぐれかしら」
破滅、と呟いたのは赫桜の声だ。その面差しはひとらしく揺らぎやすい。
「行き着く先が破滅だとわかっていても、人はどうしてこんな神にすがりついてしまうのだろう」
「さぁ。ララはひとであったことなんて生まれて一度もないからわからないわ」
人ならざる花の瞳が不思議そうに瞬く。その純粋さと妖しさは酷くアンバランスだ。ふわふわと揺れる白に、赫桜は少し言葉を迷ってから、
「……それを識ることは、大切なことだよ」
しるべを示すようにそっと告げる。
ララはあどけない仕草で赫桜を見上げていたが、素直にそう、と頷いた。よくわからないことだけれど、赫桜がいうならそうなのだろう。
「……なら、しりたいわ」
ララに微笑んで、赫桜は女神へと視線を戻すと同時に神剣を抜いた。
――お祖母さま、力を借ります。
己が身に憑いた護霊へと心の裡で語り掛けると同時に神歌を口ずさむ。それに応えるようにごうと桜吹雪が赫桜を中心に吹き荒れた。その花嵐に紛れるように、赫桜は駆け出す。
風ほど速く迫れば、不快に傾いた女神の眸とぶつかる。その唇がなにか言う前に、赫桜は神剣を横様に薙ぎ払った。
途端に地下を震わせたのは、海の底から響くような鳴動だ。それが女神の悲鳴だと知って構え直した赫桜の前に女神の胎から産まれたばかりの|仔《・》が立ちはだかる。蒼白く輪郭ばかりは赫桜を写し取ったそれは、一瞬前の赫桜と全く同じ動きで模造した神剣を薙ぎ払った。
「ッ、ぐ」
斬撃は赫桜に与えられた|加護《桜吹雪》を伴わない。それでも女神を断ったのと同じだけの斬撃を浴びせられて、どうにかいなしながらも赫桜の喉から呻るような声が漏れる。肌を赤く裂く斬撃に覚えがありすぎて嫌な心地だ。それでも。
「決して、負けはしない」
神剣を振り下ろして手応えを得る。仔の姿が掻き消えた。
「ララちゃん、大丈夫……」
赫桜は後ろに置いてきたララへ護りを改めて向けようとしてはたとする。いつの間にか赫桜の背中にララの姿があった。その小さな指先が、斬撃を浴びた赫桜の腕にふれる。
「……この世はララのもの。――ララのものを傷つける者は赦さないわ」
すっと冷たく細められた瞳が、女神へと向かう。
「隠れんぼしましょ? おいで、キルシュネーテ」
いつも大切に抱えている桜色のくまのぬいぐるみを放る。それに招かれたように顕れたのは|上半身だけの巨大な熊《春の骸キルシュネーテ》だ。愛らしさをかなぐり捨てて猛る護霊を傍らに、ララは赫桜を見上げる。
「さ、赫桜。女神の首をいただきましょう」
「わかった。合わせるよ」
「いいこ。――キルシュネーテ、|なさい《・・・》」
キルシュネーテが迫る無数の目玉を串刺しにする。ララの動きと共に再び駆け出した赫桜と挟みうち、大きくしなり迫った触手を斬り飛ばす。女神が伸ばす手から護るように赫桜の纏う桜吹雪がララを包み、ララから伸ばした手は拒絶を示して一切を焼き払う。
「妾の救いを拒むか」
「破れた恋心をもう一度見つめられたことには感謝してる。けど、それだけ。捧げられた仔の贄となったのは、苦い想いたちだ」
赫桜は強く言いきった。
忘却を切望するほどの想いが女神の掌で転がされるだけのものにされている。そう思えば胸も痛むし腹も立つのだ。
「赫桜……お前は優しくて美しいもの。春はきっと、お前に微笑むわ」
「……そうだね」
女神が触手をばらばらと暴れさせ、足元がまた鳴動する。それを春の骸が灼き尽くす。
もういいかい。遊ぶようにララが口ずさんだ。
隠れて、見つからないように終わらせた初恋は、ようやく終わり方を『みつけられた』のかもしれない。あの子が残したこの子の傍で。
「ぼくは『春』の宝物をみつけられたよ」
「恋を願う心の行き着く先が、己の仔すら供物とする女神とは皮肉なものだ」
地下奥深くに広がった神殿めいたその場所に君臨するもの。その存在を狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)もよく知っていた。
確かに神だ。そして怪異だ。――ヒトが決して傾倒してはならぬ類の。
それは女神の背に捧げられた祭壇からして明らかだ。そのさまに、アレクシス・カルヴィネン(いつか巡る縁の為に生きる者・h00709)は嫌悪感を露わにした。
「カミサマというものは大体人間にはわからないことをするものだけど、これは輪をかけてわからない……というか、おぞましいことだけはわかる」
恋の痛みを共通項として救いを求めた狂信者たちが捧げたもの――あるいは成れの果て。それを女神はただ愛でるかのように並べ連ねて笑っているのだ。
おぞましい。そして酷く傲慢で、神らしく、畏れ多い。
「おそれながら、ここで倒れていただく」
アレクシスが綺麗に一礼をして敬意を示す。
その隣で澄夜は微笑みもしなかった。
「来るが良い、邪神。神も怪異も等しく捌いてやろう」
――そのために来たのだ。
澄夜の支持を受けて、霊狐と妖猫が敵へ爪を立てる。焔弾がその背を押すように火を吹いた。
その間に澄夜は術を起こす。
「思考統制シークエンス解凍、降霊座標位置固定。機構式神術『悪行罰示』を開始――」
唱える澄夜の横で、しゃりん、とアレクシスの錫杖が鳴った。
お山の女神の錫杖だ。その神霊は錫杖を中心に、アレクシスへと降りてくる。飛躍的に移動速度が跳ね上がる自認と共に、アレクシスは女神が一時的に産み出した仔の一撃を躱す。
女神の生み出した仔は、まるでアレクシスの輪郭を写し取ったような蒼白いなにかだ。その手には同じに見える錫杖があるが、本物のアレクシスにある加護はない。
(まだ、耐えられる)
多少の傷は致し方ない。そう割り切ってアレクシスは自分によく似た仔と渡り合う。
「――偽りには偽りを、母なる神には子なる神を」
澄夜の詠唱で呼ばれたのは荒御魂――火之迦具土神の分霊だ。
そしてその姿が顕れると同時、澄夜の前にもその輪郭をなぞるクヴァリフの『仔』が顕れた。すぐさま澄夜は偽神の炎を仔へと向ける。
「焼き払え」
澄夜の呼んだ偽神の炎がごうと広がり、一息のうちに仔を殲滅した。そのあいだにも従妖たちは女神へと食らいついている。
「失せよ、邪悪なる神秘。今此処に汎ゆる神を解剖せん」
「一族の守り神よ、その威光を知らしめ給え!」
囁いた澄夜の声を背に、アレクシスが女神まで一息に距離を詰めると同時に錫杖を叩き込んだ。
どうと雪崩のごとき轟音が響き、アレクシスの錫杖が鳴る。澄夜の従妖たちも決して手はゆるめない。
確実に女神はその身を、威光を削り取られる。
「おっと、これが噂のクヴァリフかぁ」
神殿めいて広がる空間を支配するかのようなその女神を、緇・カナト(hellhound・h02325)は見物するかのように眺める。
「仔産みの女神ってのは初めて見たような気もするけれど」
「産み出しておいて胎にしまうなど片腹痛い」
女神の背にある祭壇には『仔』がいる。産み授けそれを捧げよなどとのたまう母たる神を冷たい眸で見やって、野分・時雨(初嵐・h00536)は肩をすくめた。
「残念ながら本日のぼくは|地這い獣《ママ》連れなので。先輩、ママにどうです? お仔さま募集中らしいですよ」
しれっとカナトへ水を向ければ、カナトはえぇ、と気の乗らない声を出す。さしもの先輩もあの女神にママ面されるのは嫌か、と思いかけたところで、
「時雨くんは知り合い? 実はママ友だったとか」
「ママ友なわけないでしょ!」
うちのママに変な友達作らんでください、と思わず反駁してしまう。その勢いにカナトが「なにか情報ないかなァと思っただけなんだケド」と驚いたように呟いた。
「有名|神《じん》だし、情報なんて先輩の手元にも有り余ってるでしょ」
「後輩くんの一聞は百聞よりアテになるかもだし?」
「わぁ素敵な持ち上げ~。ご機嫌です? 先輩」
「大物喰いほどヤル気が出るなぁと思ってネ」
それじゃあ改めて、とカナトは機嫌よく笑って女神の前へ歩を進める。隠しようもない足音を高く歩むごと編む術式は魔香を纏う手斧をカナトの手に寄越した。
「――女神サマ、神殺しなんて初体験でワクワクするなァ」
くつり、喉を鳴らしたのは人か神かあやかしか。
少なくとも時雨は面白がるような面持ちですいとカナトの歩みに追いついた。女神へ近づく畏れ知らずの足音がふたつ。
「邪悪な神様にはどうすべきか。ここはぼくらの得意技!」
「得意技なんてあったの時雨くん。スゴーイ」
「急に梯子外さないでくれます!?」
ぎゃんと喚きながらも段々と駆け出すカナトの速度に合わせて時雨も駆けている。その手に握られるのは卒塔婆だ。供養と言えば卒塔婆である。なにせ大変殴りやすい。
「ぼくらの得意技と言えば――お祈り、暴力!」
女神が従えていた目玉がぐんと迫りくるのを、野球よろしく打ち返してやる。手応え的にはいい当たりだ。
「そりゃァ得意だ」
笑ったカナトも目玉を触手を手斧で叩き斬っていく。手応えに次ぐ手応え。足元が揺らぐように響いてくるのは、女神の悲鳴だろうか。構わない。
――全てこの手で葬り去ってやろう。
時雨が打ち、カナトが断つ。足元を絡め取ろうとするものを地這い獣が押さえつけ、ふたりは見る間に女神までの距離を詰めた。
女神の表情から余裕が抜け落ちるまで、そう時はかからない。
伸びて来たその手をカナトの手斧が腕ごと叩き落として、女神が鳴動する。
「妾の手を――」
「すくってやるために伸ばした御手をニンゲン如きに振り払われるのはどんな気分?」
感想なんてどうでもイイけれど。
カナトはさらりと笑って、激昂したように暴れる触手を掻い潜る。立ち位置を変わるように踏み込んだ時雨の卒塔婆が絡みつこうとしたその先端を叩き返した。
「腕落とされてかわいそう~。でもぼくも照れ屋さんなもので、本日は有難い抱擁はご遠慮しておきますね」
――これは慈悲です。
力いっぱい振り抜かれた卒塔婆が折れながら諸手を失った女神へと突き立てられる。
「お越しいただき恐縮ですが、お帰りくださいませ」
「……って言っても、簡単には諦めてくれないよねェ」
それなら、とカナトと時雨は視線を交わし、悪童のように笑うのだ。
「もっと祈りも暴力も、振る舞ってあげようかァ」
「ぼくらの得意技、ですね!」
「え?」
「だから梯子!!!」
喚いて笑って神の流す血だまりのなか、ふたつの影が跳ねまわる。神を殺すのは経過に過ぎず、その仔の回収という目的を果たすまで。
「女神クヴァリフだぁ……! 仔もたくさんいるねぇ」
眼前に在る神とその仔の存在に、ユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)はその瞳をきらきらと輝かせた。
「ああ、とってもわくわくする」
ユオルはくふくふと機嫌よく笑み零す。怪異解剖士として、あの女神については興味が尽きない。最近で一番目が輝いている気もする――けれどその足取りに油断はない。
オーラを纏って護りを固める。触手、目玉、女神の動きの全てを、違う色の瞳はつぶさに観察する。
浮つく気分とは裏腹に、頭の一部は至極冷静に状況を俯瞰しているのだ。
(貴重な機会だもの。全力で行かないとね)
辺りに身を隠すものはない。構わなかった、そのほうが視界が邪魔されない。遠慮なしに興味に惹かれる素振りで近づけば、目玉が、触手が、動き出す。
その動きを見極めながら、
「――満たせ」
ユオルの周囲を真珠色の霧が覆う。寄ってきた目玉の群れは視線を遮られ、煌めく霧に幻を見てゆらゆら動きをさまよわせた。
「それだけ眼があれば、幻もみ放題だねぇ。……同じ幻を見てる? それとも眼球ごとに違うのかなぁ」
つい気になってしまうが、今は思考を巡らすよりも女神の動きのほうが肝要だった。霧と共に女神のほうへ近づいて行けば、伸びてくるのはその御手。
蒼白い肌に、神としてまだ余裕を見せるその微笑みにユオルも微笑んでふと注意を引き、生まれた隙を影業が縛り捕らえる。
「妾の手を捕らえるなど――」
「うん? 大丈夫、個体ずつ研究内容は違うものだから」
緩やかな笑みを崩さないままその腕を断つ。深海から響くような鳴動は、女神の悲鳴だろうか。女神は研究者のあいだではこの上なく有名だ。あらゆる個体が解体され、解剖され、その研究は重ね続けられている。それでもまだ今回のことのように、知らぬことは多いのだ。好奇心に目を輝かせるユオルに、女神がどこか動きを引き攣らせた気がした。
「あの眼、欲しいなぁ……触手も。仔も、こっそり連れて帰れないかな?」
さすがに無理か、と肩をすくめる。
なによりこの回収を指示しているのが機関である以上、仔は回収できればできるだけ、研究者のもとに降りてくる可能性が高い。
「なら、いまはこの眼と触手だけ、だね」
強撃してくる触手をメスで断ち、幻惑に堕ちた目玉をひっそりと手にして、ユオルは女神へと向き直る。仕事を仕舞いにしなければ、研究にも着手できないのだ。
「ね、おしまいにしようか。――大丈夫、後ろの仔も、ちゃあんと回収していくから」
地下神殿――そう呼んで差し支えないだろうそこは、刻まれた絵図に祭壇に人の手が尽くされて見えるくせ、どこにも温かみはなかった。
冷え切った広大な空間を、深海から這い出したような蒼白い女神が支配している。その背に置かれた|祭壇《目的》を見つけて、五槌・惑(大火・h01780)はやっと仕事の目途がついたとばかりに息をつく。
「話が簡単になってきて助かる。迅速に片づけて後始末ってとこだろ」
庇う相手もねえならなおのことやり易い。ぼやくように落として、惑は凝った肩を解すように軽く回す。そのついでのように長剣を抜いた。先の地下倉庫より余程広い、どう振り回しても問題ないだろう。
「先に行く。楡はその柱の影にでも回り込んでたらどうだ」
「あらそう? また楽しちゃって悪いわねえ」
横目に見た先で僥・楡(Ulmus・h01494)が頬に手を当てて丁寧に眉を下げて見せる。
「アタシ、さっきもメンヘラちゃんたちにお説教してただけなんだけれど」
「楽しておいて損はないと思わねえか」
それはそうね、と楡が頷いたのを見て惑は足を進めだす。惑としても長物を振り回すなら周りに誰かがいないほうが都合がいい。
「まア、綺麗な花道にしてやれるとは言わねえが」
先に女神を見据え、惑はだだっ広い空間へ切り込んだ。寄りつく目玉を払い、唸りをあげて眼前に迫る触手を叩き落とす。踏み込むついでに踏みつければ、惑の足下で目玉と触手がぶちりと潰れる感触がある。構わず踏みしめたまま、鈍い音で床に叩きつけられた触手がただ引くのを許さず、呪毒の炎に追わせた。すぐさま次の手が惑を打ち据えようと迫る。
「なんだ、お代わりか」
呪炎を呑んだ次の触手の動きはいささか鈍い。連撃に息を切らしているのはどちらかといえば敵のほうだ。見切れる程度のそれを躱し払いながら、惑は大きく剣を振り回し、
「どこを狙って――」
「さて、何処だろうな」
外れた斬撃をなぞるように赤く黒く呪炎が巻き上がる。辺りが一瞬にして火の海になり、女神の悲鳴を響かせたように地面が鳴動して触手たちがその攻勢をゆるめた。
「炎のランウェイなんて素敵じゃない?」
柱の影から、飄々と白を靡かせて楡が飛び出したのはそのときだ。気にせず炎を越えたから、女神には突然楡が目の前に現れたように見えたろう。
笑みを湛えていた女神の顔が引き攣って、目玉と触手が暴れ出す。けれど不意を衝かれたせいでひと呼吸遅い。呪詛の組紐が巡るにはその一拍で充分だ。ついでのように目玉を蹴り落とし、勢いそのまま女神の胎を殴り穿つ。奥へと吹き飛ばされた女神の|腕《かいな》は楡に届かない。
「ごめんなさいね、恥ずかしがり屋だからハグは苦手なの」
さも残念そうに口にして、楡は氷碧の瞳を眇めた。
「みんな優しいママに慰めてもらってたのねぇ。でも残念、アタシはマザコンじゃないの。惑ちゃんは?」
「そこで俺に振るな」
前線を譲った惑が楡の数歩後ろから呪符を飛ばしてくる。どうやら辺りに広がる炎からの護りを貰ったらしい。「至れり尽くせりね」と冗談めかせば「俺も出来る分には楽したいんだよ」と惑が息をつく。
「性に合わねえ相手なら特にな。遠慮なく片づけきってくれて構わねえさ」
「なら、美味しいとこいただいて悪いけれど、最初楽させてもらった分、気合入れてやらせてもらうわね」
呪炎の海で未だ触手が蠢く。ずろりと連なる目玉の群れを惑の長剣が薙ぎ払い、その斬撃の先へ楡が踏み込む。
ガツン、と響くのは足音と打撃音。無尽蔵に都合の良い仔を産み為す女神の胎を、拳が抉り切る。
その背の祭壇に蠢く『仔』らが、その胎に還ることはない。
「お片付けして、独り立ちといきましょう」
扉を抜ければ、次の|盤面《ステージ》が待っている。
広大な地下神殿。そこに待ち構えた|女神《ラスボス》は怪異解剖士である日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)にとってはよく知る|個体《かお》だ。かの有名なクヴァリフ器官はあの臓腑を捌いて為されている。今更特段興味を惹かれるかと言えば否である。経験として積むなら、イマジナルワイフから振られる経験のほうがよっぽど響くものがあった。
「女神を殺して、クヴァリフの仔とやらを生きたまま回収すれば今回の仕事はおしまいですか」
さほど興味もなさげに向けた視線の先には祭壇がある。ぶよぶよとした触手状の怪物が今争奪されているものというのも世も末であるが、実際この世界は停滞した終末にある。
「しかし奥さんへのお土産はどうしますかねぇ……帰り道になにか買えるでしょうか。クヴァリフの仔よりも、お土産のほうが俺のなかで重要度高いんですけど」
仕事帰りに妻へのお土産をひとつ。それがいつものお決まりなのだ。あのオペラケーキの味は悪くはなかったからあれだっていいのだけれど、果たしてそういうサービスがあるのだか。
そもそもあなたに振られる想像をして食べてきたケーキです、なんて話をしたら妻がどんな顔をするか。
「……ナシナシ、無しです! ていうか俺が思い出したくない」
腹の真ん中辺りがぎゅっとするような感覚で、芥多はぶんぶんと頭を横に振る。土産はいいケーキ屋でも探して、フルーツとかがたっぷり乗ったぴかぴかのケーキにしよう。それならきっといい顔で喜んでくれるはずだ。
「と、思うんですけど、そちらはどう思われます?」
あ、聞いてない?
カツンカツンと遠慮なく足音を響かせて迫った女神は、芥多の接近を安易に許す。随分疲弊しているようだった。ここまでの能力者たちの攻勢に晒されているなら当然だ。それでも伏せられていた女神の瞼が持ち上げられてその胎が蒼く光る。
――産み出されたのは、芥多の姿をなぞり写したような『仔』だ。
それを見るや、芥多の目の色が変わった。あれはそう、確か前情報によれば。
(召喚されるのは、対象――俺と同等の強さで、得意技を使って戦う『最も強き仔』)
そのはずだ。芥多の口元が無意識に吊り上がる。
「ほう、ならば俺の戦い方における強みとか弱点を客観的に分析できそうで良いですねぇ。長所と短所を把握しておくのは今後においても重要そうですし」
などと早口につぶやくのはそれらしい建前だ。その証拠のように、口角は上がったまま戻らない。つまらない消化試合かと思っていたのが様相を変えて、血を纏ったままの斧を握る手にも力が籠る。
芥多の眼前に迫るのは、芥多の劣化版のようなそれだ。
「普通にとても面白そうです! こんな楽しそうなゲーム、乗らない理由がありません!」
向かいくる仔の手にも斧がある。大きく振りかぶられると共に放たれる血の斬撃を躱した。女神自体の動きは鈍いままだ。ならばゲームを楽しむに限る。
敵の軌道は見ていればある程度読める。さすが自分と言うべきか、思い切りよく振り下ろされる怪異兵器での攻撃は大振りなだけ見切りやすいのだ。
「改善の余地ありですねぇ、俺!」
応えはない。お喋りは映っていないらしい。なんだつまらねえな。
刃を返す。重い音が二度ぶつかり合う。金属音に混ざる血が跳ねる音は、斧に元から纏わせたものか、掠めた傷口からか。
力押しに振り下ろす。放った重さと同じだけの重量が血刃と共に身を抉り潰すように返ってくる。面白い。
「ははッ」
噴き出す血と脳を焼く痛みがある。熱と大げさな拍動で伝わるそれは血を混ぜた笑みで吐き出されていく。
このまま死ぬのも一興だ。そんな考えすら脳裏を掠める。
けれども芥多が死に辿り着くより、仔がその身を崩すほうが早かった。
すっかりなくなった手応えに「あれ」と呆けた声が出る。どうやら時間制限切れらしい。
「ええ、もう出ないんですか?」
血塗れのまま芥多は女神の前へびたびたと血を流しながら進む。けれども既に女神の手はないらしい。その事実に嘆息が漏れた。
「残念ですよ。ならひとまず、ズタズタにしといてあげますね」
今度はひとかけらも笑みもせずに囁いて、芥多はついでのように女神へ斧を振り上げる。
視界が赤い。ああ、お土産のケーキはいちごタルトでもいいかもしれない。
母と仔の再会を謳った女神に、静かな碧が注がれていた。
「水を差す――? 生温いわ、阻止しにきたのよ」
地下神殿に灯された光に照らされて、リリアーニャ・リアディオ(最期の|頁《ページ》・h00102)の足元には色濃い闇が纏いつく。その闇からするりと滑り出て、リリアーニャは魔導書を開く。読み上げるまでもなく広がる黒棘は女神の触手を突き刺しながら絡め捕る。
咲いた黒薔薇は、闇を吸い上げたように美しい。蔦を広げながら息づく花たちに、リリアーニャは女神の胎を指さした。その場で産まれた『クヴァリフの仔』たちがぐずぐずと息づき始めている。祭壇の仔を取り込む気はないにしろ、今そこで産まれたそれは別口だろう。融合されては面倒だ。
「|仔《あれ》を回収なさい。……お願いだから、噛み潰さないでちょうだいよ?」
大きな口をはくりと開け閉めしてみせる黒薔薇たちに忠告だけ向けて、視線を女神へと戻す。
数多の能力者たちに追い詰められ、リリアーニャに捕らえられてなお、女神は笑みを絶やしてはいなかった。
「人は皆忘却を|希《こいねが》う。妾の仔になりたいと縋りつく。汝も母が恋しかろうに」
「……|母親《かぞく》なんて、いまさらいらないわ」
ひとつ声を落として囁く。リリアーニャは笑みを消したまま、気が触れた人の如く笑う女神へ信託のごとく告げてやる。
「あなたはここで|終わる《・・・》の」
たん、と足音が神殿に響く。リリアーニャが引き連れた影が右腕に纏いつき、その形を獰猛なそれへと変えた。鋭い爪が光る華奢な肩に見合わぬ獣手をぐんと振り上げて、黒兎が女神の懐へ軽やかに飛び込む。
凶暴な爪が女神の触手を抉る。引き裂いて、その傷口をさらに抉って捥ぎ取るように。
「見て、私の爪も立派でしょう?」
くすりと唇に笑みを戻して、リリアーニャは肉薄した女神の耳元で囁いた。
「兎だからって舐めないでね」
ぴょんと跳ねて、遊ぶように飛び込んで、一度つけた爪痕を広げていく。捥いだ触手はどうやらそれ以上動かない。けれど数多のは未だリリアーニャを打ち据えようとする。避けて、裂いて、跳ねて、もう一度。
「……ふふ」
――興が乗ってきたかも。
リリアーニャの腹の底に息づく獣が目を開ける。段々と激しくなる攻防は爪が裂くが先か、その腕を捕らえるが先か。碧の眼光が次第に鋭さを増して女神に迫る。
臓腑を裂いた手応えがある。同時に右腕を捕らえられた。嫌な音で腕と爪が軋むのに構わず、リリアーニャは眼前に晒された女神の喉元に喰らいついた。
ぼたぼたと溢れ落ちるのは女神の血かリリアーニャの傷口か、どちらでもいい。ただ獣は獲物の息の根を潰すように牙を立て、その拍動が終わるまで離しはしない。
かつん、と呆気ない音を鳴らしたのはリリアーニャの口元だ。喰らいついていた獲物が塵と掻き消えて、歯同士が当たったのだと理解して、少女は「あら」と大きな瞳をぱちぱちと瞬かせる。
「やだ、汚れちゃった」
響いていた戦闘音が消え、途端に静寂が戻る神殿でひとり、リリアーニャはなにごともなかったかのように乱れた服を整えた。口元を汚した血ごと消えてくれたのは僥倖だ。ふるふると軽く頭を振れば、ぱたりと愛らしく黒兎の耳が揺れる。
落としていた魔導書を拾い上げて、咲いたままの黒薔薇たちへリリアーニャは微笑みかけた。
「さあ、約束通り持ち帰りましょう――『クヴァリフの仔』を」
失恋コンセプトカフェの地下、そこに潜んだ『仔』らは無事回収される。
狂信者たちは機関によって捕縛され、あるいは記憶を失った者もいたようだ。けれど忘却しそびれた者たちは、今度は狂信ではなく、ただ失った恋を悼むように店に戻り――ひっそりと店は、今日も失恋を演じ続ける。