シナリオ

無縁に鎹

#√汎神解剖機関 #クヴァリフの仔

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 #√汎神解剖機関
 #クヴァリフの仔

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 孤独は心を蝕む毒だ。
 広い世界で寄る辺なきまま、ひとりぼっちの不安を抱えるのは辛く悲しい。
 きっと皆がそうだ。安心するための居場所があればこそ、健やかに暮らしていくことが出来る。生まれる時、既に赤子ですら知っていることだ。
 だから彼らは産声でもって親に存在を示している。
 寂ししいのは嫌いだと。

 あなたもきっと、そうでしょう。
 けれど大丈夫。
 ここには全てが揃っている。

 父も母も、数多の兄弟たちも。みんな、あなたの誕生を待ち望んでいる。誰しもがその両手に真っ赤な祝福をたずさえて、あなたを待っている。
 かわいいあなたの姿を待っている。
「おいで」
 全てを捧げても良い。
「おいで」
 あなたに出会うためならばこの血肉も魂も、何もかもを差し出したって構わない。
 家族とはそういうものでしょう?
 黄昏に染まる世界の中で父と母が流す涙は、奪われ行く命の嘆きなんかじゃない。喜びを叫ぶ声は空気を揺らして、あなたを呼ぶためだけに使われているのだから。
「おいで」
 失敗しても、|次の両親だっているのだ《・・・・・・・・・・・》。あなたが恥ずかしがって顔を見せてくれなくても、血濡れになった父も母も無駄になることなんてない。
 家族はまだ沢山いる。
 代わりまだ沢山いる。
 あなたという鎹を受け止めるための存在は、まだ沢山用意している。
「おいで」
 私たちは、狂おしいまでに、あなたを待っている。
 末の子供が生まれることを望まぬ家族なんている筈がないのだから。
 だから安心して生まれてきて欲しい。

 あなたを――かみさまのこどもを、待っている。

●親と仔
「アナタ達はご家族と仲良しかしら?」
 そう尋ねる癖に、まぁ色々あるわよねぇ、と碌に返事も聞かぬまま。白い星詠み、僥・楡(Ulmus・h01494)はどこまでも軽い調子て続ける。
「攫ってきた他人を|親《生贄》にして、邪神の仔を呼び出そうとするおかしな集団がいるっぽくてね。ちょっと強めに殴って来てくれないかしら?」
 差し出す資料の上には『かすがいの鐶』と書かれた施設名。場所の仔細がと共に並ぶ写真に写る建物は、おおよそ五階建ての古びたビル。看板も何もなく、窓には板が打ち付けられて中の様子は分らない。
「家族の繋がりを重んじる、なんて。聞こえだけはいい、よくあるキャッチコピーよね。その繋がりとやらを儀式に使って命まで奪おうっていうのに」
 生贄に選定される人間に深い決まりはない。年齢性別すべてがバラバラで、誰が親であろうと構わないらしい。
 それもそうだろう。必要なのはただの役目だ。怪異の子を鎹とし、おままごとのように父や母という役割を背負わせるだけのものでしかないのだから。
 だが、馬鹿げた理論理屈であろうと現に儀式は成功している。
 仔産みの女神クヴァリフは応え、我が仔を彼らへと分け与えてしまった。
「あれに親心があるというよりは、単に気まぐれか何かでしょうけれど……ただ問題の儀式がこの建物のどこで行われているか、っていうのまでは分らなかったのよ。だからまずはここに潜入して、儀式の場所を探し出してほしいの」
 入信者のふりをして、他の信者たちに話を聞いても良い。新たな家族候補として名乗りを上げるも、いかに良き父母になれるのかと子供好きを主張してもいいだろう。彼らが望む理想を、自身が思う家族像で見せてやればいい。
 もしくは、その建物自体を調べるのも手だ。閉ざされている怪しげな鉄扉、信者達が進む薄暗い廊下や階段の先。埃っぽい倉庫や書庫を調べる事も可能だと星詠みは言う。
「その後はどうせ邪魔が入ることは必須でしょうけれど、まぁそれはアナタたちの腕っぷしに期待してるわね」
 ようは見つけ出しさえすればあとは自由に暴れて貰って構わない。
 盛大に、慈悲もなく。二度とこのような真似が出来ぬよう、再起不能なまでに叩きのめしてやるのがいいだろう。

「ああ、でも。クヴァリフの仔は生きたまま回収をお願いね。折角女神がくださるというのだもの、貰っておきましょ」
 既に黄昏を迎えた|この世界《√汎神解剖機関》において、怪異とは人類が延命するために必要な『|新物質《ニューパワー》』に他ならない。まだ未熟な赤子なのだとしても、今後何らかの役に立つ可能性が大いにある。
 仔攫い推奨なんて、あまり人の事をとやかくは言えないかしら? と一度首を傾げるも、まぁいいかと楡はすぐに笑顔を浮かべて。
「それじゃ、お仕事よろしくお願いね」
 ひらりと手を振り見送る白い星詠みの声は、やはり気軽な調子で告げられた。

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第1章 冒険 『カルト教団への潜入』


●異質に潜りゆく
 曇天の中、ひそりと佇むようにそのビルは静かに建っていた。
 元は白かったのであろう壁は、長年の雨風にさらされて薄汚れている。ベニヤ板で塞がれた窓に隙間は無い。けれどどこか浮ついて内緒話でもしているような、隠れきれていない人の気配は色濃い。

 表の扉は開いていた。
 あなたが入信希望だと言えば、良い笑顔を浮かべた信者たちが招いてくれるだろう。今日は新しい家族が増えたばかりなのだと嬉しそうに笑って、あなたの話を聞いてくれる。上手く頼めば、無難なフロアの案内だって叶うかもしれない。

 裏の扉も開いている。
 誰かが荷物を運ぶために開けたのか、それともただの閉め忘れか。ただ非常灯が灯るだけのそこは、暗い屋内へと口を開けている。今はまだ人の気配は遠く、入り込むなら容易いだろう。

 どちらを選んでも構わない。
 邪悪な儀式へと辿り着くのであれば、きっと些細な事なのだから。
詩匣屋・無明
玉巳・鏡真

●師弟分業

 様々に移ろう感情は、誰しもが持つ心の隙間だろう。
「カルト宗教ねえ。碌なことを考えないヤツはいくらでも沸いてくるもんだ」
 路地から、件のビルを見つめて嘆息。拍子に揺れる黒髪を、けれど気にした様子もなく玉巳・鏡真(空蝉・h04769)は視線を隣へと放った。
「|爺さん《詩匣屋》、施設の調査は頼んだ。俺はとりあえず懐に突っ込んでみる」
「なんじゃ、幽霊使いが荒い弟子だのう」
 銀の眼差しの先に人はいなくとも返事は返る。
 呆れたような拗ねたような口ぶりはどこか演技めいて、漂う煙――詩匣屋・無明(百話目・h02668)は揺らめいた。決定事項のように割り振られた役目に不満は一つもない。実体のない幽霊である自分の方が、自由に調べられるのは分り切ったこと。ただ、弟子が下した選択に興味があるのだろう。
 鏡真本人の在り方、無意識であれば暗躍の方が得意なはずだ。彼自身もそれを自覚しているか否か。けれど正々堂々真正面から挑むというのは、なるほど人柄ゆえだろう。
 ふふ、と小さな笑いでくゆる煙が揺らがせたなら、怪訝そうに眉間に皺を寄せられてしまったが。
「……何だよ」
「いや、何。感心しておるのだ」
 むくれるでないぞ?
 付け足した言葉は、されど逆効果だったよう。子ども扱いされるような歳では無いと弟子からの小言が一つ飛んできた。


 物心ついたときには、既に独りだった。
 正面から施設を訊ね、そう身の上を語る鏡真の言葉は真摯だ。頼れる者がいないことが如何程不安であるか。生きていくための指標が無くてはこの世界はあまりに広すぎる。放り出されたまま、たった一人。孤独と向き合ってきたのだと、静かながらも熱意の感じる声色で語って、座った膝の上で拳を握りしめる。
「子どもたちにとって安心できる場所を1つでも増やしたい。俺を親にさせてください」
 そう言って顔を上げ、真っ直ぐに信者を見た。
 銀の瞳はひどく凪いでいる。全てを諦めているからではない。過酷な中で生き抜いてきた者の、覚悟のある目だ――はたして信者がそう思ったのかは分からない。
「お辛かったでしょう、もう安心ですよ」
 だがこの場での信頼には足りたようだ。同情するようでいて、その奥で値踏みをするような気配を薄らとにじませた視線が鏡真に返ってくる。信者の纏う白のケープだけが、しらじらしく無垢な色をしている。
 あと一押しか。
 |家族《生贄》候補として選ばれたなら、最も効率よく儀式の間に行けるだろう。並べ立てた理由だって嘘八百というわけでもない。真実を相手にとって都合よく捏ねまわしてお出ししてやっただけだ。芯が本物であれば、嘘は見破られにくいものである。
 さてどうしてやろう。そう考えていた時新たな来客の音がした。振り返ってみれば夫婦らしき二人組。自分と対応しているのとは別の信者が「お待ちしておりました」とにこやかに告げて奥へと連れていく。
「彼らもご家族ですか?」
「はい。電話で熱心な入信のご予約を頂いていて……ああそうだ。彼らの案内の準備が整っていますから。あなたも一度中をご覧になられますか?」
「――是非」
 どうせ一緒の家族になるんですしね。
 続けた言葉に、相手は満足そうに笑う。扉の向こうへ行った夫婦の後姿を見つめる鏡真の視線を、家族への憧れとでも取ったのだう。
(彼らを荒事に巻き込まないようにしないといけないな)
 思惑を隠したにこやかなやり取りは、闇の奥へと続いていく。


(さて)
 二手に分かれた裏口の方。無明は入り込んだビルの内部をゆるやかに流れていく。風がないのにたなびく煙は、薄暗い中ではあまり目立ちもしない。
 成仏出来ぬままの幽霊の散歩は気ままなもので、信者とすれ違おうと隠れる必要はない。姿は見えず、足音は聞こえず。特殊な才覚でもない限りは存在を悟られはしないもの。
 重い扉を開けるだとか、物を投げるだとか。不得手も出来ぬ事も当然あるとして。こういった探索で幽体ほど便利なものは無い。
(しかし……あまり無暗に歩き回っても仕方あるまい)
 時間をかけて迷子になるより明確な目的をもって動いた方が良い。忙しく動き回る信者は下っ端だろう。儀式の場がどのような広さかは分らぬが、全員が行くとは考えづらい。となれば別な者を負うのが良いか。彼らに指示を出している者も居るが、パソコンと向かい合ってあまり動く様子もないので駄目だ。
 どれを選ぶべきか。無明が見回す中で目についたのは一組の男女。どこか不安げにこわばった顔が、ケープを被った信者に案内されて歩いている。
 なるほど。新しい贄候補か。
 薄煙のようにするりと音もなく流れて、煙の幽体は彼らに憑いていく。階段を上る足音は三つで、意識は四つ。おかしな場所に辿り着くなら僥倖。そうでなくとも、不審なものを見つけたのなら調べればよい。
 そんなことを考えていた矢先だった。少し離れた場所にいた一人の信者と目が合った。驚き強張ったような頬が引き攣って青ざめていく。
(多少の素質がある者もいたのか――否。これは、)
 ニタリと挨拶代わりに笑って近づいてやる。ヒッと引き攣れた声に、煙を首にひと巻き。感触のないそれを、冷えた手で首を絞められたようにでも感じたか、悲鳴も上げずに失神した人物を見下ろして無明は一息つく心地だ。騒がれても困るとは思ったが、想像以上に驚かしてしまったのかもしれない。
 だが仕方あるまい。いくつも捧げられた”親”の気配が色濃い。この者もきっとそれにあてられて見えるようになったのだろう。可哀想に、自業自得だ。
(怨念がましくてならんよ)
 事件を暴き、解決したとて辺りに漂う感情が解放されるかは分からない。
 けれど己のように自ら望んで在る訳でもないものを、良いと思うこともない。
 噂話よりもなお無益な教義など残したところで淀むだけだ。ならば早々に紐解き、消してしまうのが一番だ。
 煙は揺らいで、再び男女の後を追う。見つけた手掛かりを手放さぬように。

天籬・緒

●知られずの影一つ

 家族を――特に親子を求めるというのであれば。
 ひとつ、嘘を差し上げましょう。

 天籬・緒(戀鶺鴒・h02629)が語って聞かせるは親の顔を知らぬ|孤児《みなしご》の身の上。全くもって縁も所縁もない嘘を軽やかに、鈴を転がすような声で信者たちに聞かせてやればすっかりと信じてくれたらしい。
「だから、わたし、家族と云うものを知りたくて」
 そっと色素の薄い目を伏せて、憂う表情は真に孤独を経た者に見えただろう。俯く顔にかかる朱色の髪が頬に悲しげな影をひとつ落とした。
「皆さんとならば、素敵な家族になれると思うのです」
 健気に、窺うように視線を上げる。可哀想にとこちらを悲しげな顔で見つめている信者の顔に嘘偽りはない。
 白いケープを被る彼らは本当に、己達の教義を信じ切っているのだろう。
 無差別に人を贄にする。異形の神を崇めてその仔を貰うために、親という胎を得ようとする。あまりに乱暴すぎる思想だ。
(それくらい、わたしだって判るわ)
 人非ざる身である緒ですら理解できる道理を、人である彼らが何故捻じ曲げるのか。全くもって分からない。けれど、
(篤い信奉を真正面から批するのは駄目よね)
 今は軋轢を生みたくて此処に居るのではない。
 表に出すもの出さないもの。分別はきちんと行って、思いは一先ずそうっと裡に仕舞っておく。
 だから浮かべる表情は柔らかな笑みひとつ。
 行き場なく縋るような弱さと、健気に生き抜いてきた孤児の強さ。丁度いい塩梅で混ぜて、嘘は愛嬌で覆い隠して。
「寂しかったでしょう、もう大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
「ではこちらにどうぞ、私たちの家族をご紹介しましょう」
「本当ですか? わたし、今とても嬉しいです」
 目頭を押さえながら涙声で。促されるまま真正面の入口から奥へと進む。まるで無害な娘が一人、頼りもなくやってきたのだと信じて彼らは疑わない。
 そう、それでいい。
(楼景、闇の向うを明かしてきなさい)
 緒からひとつの影が、誰にも知られず自由に泳いで離れる。
 天つ龍魚の、墨染の式。ゆらめく領巾の影に紛れて尾鰭をひと打ち。向かうは裏口――ぽっかりと口を開けたビルの中。
(他に裏手に向かう方がいらっしゃるならば、お手伝いをして差し上げて)
 任された。
 返事の代わりに頼もしい一匹は、深い底へと潜っていく。

溝渕・浩輝

●愛のかたち
 ――小僧なら正面突破しそうだったが、意外や意外……少しは頭を使うことを覚えたか?
 小馬鹿にしやがって。
 ビルの裏口に足を踏み入れた瞬間から聞こえるニヤけた笑い声を、溝渕・浩輝(worry worry・h02693)は黙殺した。反応すれば負けだ。勝ち負けがあるのかはさておき、相手の思う壺には間違いない筈なので。
 人の気配を探り、足音は立てぬように気を付けて、雑多に積まれた物陰に身を隠すようにして浩輝は建物内を進んでいく。
 その間も彼にだけ聞こえる揶揄い声は止まらない。業務妨害この上ないが無視だ無視と念じてはいたものの。
 ――どういう心境の変化だ? まさか怖気づいたなどは言わんだろう?
 聞き流すには納得のいかぬ煽りに、ぴくりと片眉が跳ねた。
「うるせぇな……」
 ああ、相手をしてしまった。声の相手――狸様こと隠神刑部と呼ばれる大妖怪がにまりと笑みを深めるのが気配でわかる。構ってちゃんめ。舌打ちをおまけにつけてやるが、それに動じる相手ではない。むしろ気分を害するどころかよりニヤついてる気配が色濃くなったようだ。
 この野郎。
「……ここの団体の考えと合わねぇんだよ。多分少し喋ったら手が出る、から……」
 歯切れ悪くそう告げた途端、頭の中に爆音のような大笑いが聞こえてきた。
 ――これは面白い!
 何がだよ。
 もう一度舌打ちをして、今度こそこの狸様のことは無視することにしようと決めた。
 ただでさえ今回の仕事の話を聞いた時点で、浩輝の機嫌はひどく悪い。
(家族だったら、大事にすべきだろうが)
 実家に暮らす両親に弟妹達。彼らに向ける情は惜しみなく与える愛であり、害するものは一つだって持ち得ない。今、浩輝が家族と離れて暮らしているのだって、彼らを傷つけぬ為だ。
 あれこれうるさい狸様にだって、一方的に利用してやろうなんて気はない。
(反吐が出る)
 狂った教義を思い返すだけで拳を強く握りしめる。目の前でぺらぺらと喋られでもしたら、本当に自分が何をするかが分からない。
 深呼吸を一つ挟んで冷静に。今すべき仕事を橙色の瞳は見据えて、仄暗い闇の奥へ。人気のない部屋に身を滑り込ませば、どうやら不要なものを放り込む場所のようだった。中身の分らぬ箱には薄らと埃が積り、人の出入りがほぼ無いことが知れる。
 好都合だ。
「――お前ら、仕事だ。」
 呼びかけに応じて近くにいた|不可視の怪物《インビジブル》たちが、ころころと小さな妖怪狸へと変じていく。
「ここで悪さしてるやつが隠してる場所に、案内を頼めるか」
 お任せあれ!
 返事の鳴き声一つに柔い尾を振り、狸たちは胸を張る。小さくも頼もしい姿に、落ちていた心が少しだけ心が軽くなった気がした。

アナスタシア・ケイ・ラザフォード

●暗闇を泳ぐ

 薄暗い闇の中へと、恐れることなく足を踏み入れる。
 裏口から忍び込むアナスタシア・ケイ・ラザフォード(悪夢のメイド・h05272)の少しばかり丈の短い給仕服の裾が、腰からのびたシャチの尾と揺れる。昔取った杵柄と言うべきが、染みついた特性と言うべきか。二つの静かなモノトーンに、歩む足も物音一つたてはしない。
(あまり無駄なことはしたくありません)
 伝え聞いた仕事をバラして組み立てて、その頂上。最優先とすべきはクヴァリフの仔の回収だ。不確定要素が潜り込む他者との接触を介すよりも、得意分野が生かせる侵入ルートの方が手間は少ない。仕事であるならば家事から汚れ仕事まで、あらゆる業務をこなす女の思考も動きも全て洗練されている。
 侵入者がいるなどと思いもよらぬ信者たちのお喋りは、その居場所が分かりやすく好都合だった。継ぎ接ぎだらけの家族とやらを楽しそうに話す微かな声を頼りに、一定の距離を保ってアナスタシアは迷いない足取りで進んでいく。
 後ろ暗い儀式というならば、おそらくは地下あたりが定石か。しかし下へと続く階段はなかなか見当たらない。
(些か単純すぎましたでしょうか?)
 けれどアナスタシア自身が積み重ねた経験が、直感として足元への違和感を強めている。
 銀の瞳が足元を見た。透視など出来ぬ視線は、床板の向こう側を覗くことはできない。
 その時、微かな音が女の耳に届く。金属が擦れる――重い扉の開く音だ。顔を上げれば信者達が、突き当りの鉄扉を開けて入っていく背中が見えた。
 最後の扉が閉まりきる前にドアノブを掴む。開閉音を押さえれば誰にも気づかれぬまま、そっと隙間から中を覗き見た。

 ――おめでとう
 ――おめでとう

 祝福する、白いケープを被った信者たちの声。その姿が取り囲むように小さなベビーベッドを取り囲んでいる。仔がいるかと目を凝らすが、小さな電球に照らされるそれは生憎と空のようだった。赤黒く、古びた血で汚れている以外は。
 ああ、やっぱり。
(……家族なんて、あまりいい物ではございませんね)
 胸の裡によぎる感情は、無用なものと切り捨てる。かつても、今も、女が出来ることはただ奪うことのみだ。
 静かに、扉を閉める。だから彼らがどれほど歪であろうと己にとっては無関係でしかない。探すべきは、また別の場所だ。 
 海底よりも仄暗い屋内で、非常灯の灯りに影だけが揺らめいて。モノトーンの尾鰭は泳ぐように暗闇の先へ進んでいく。

花倉・月笠

●分からぬ価値

「将来家族になりたい子ができてー」
「それは喜ばしいですね」
「でもおれ家族がわからなくってー」
「まぁ……」
「ここならわかるって聞いてー」
「ええ、任せてください。私達がこれからはあなたの家族ですからね」
 その方もいずれお連れくださいね。間延びした花倉・月笠(童話の魔女にはなれないが・h00281)の言葉に、良い笑顔の信者が相槌を打つ。
 実際のところ、月笠にとってみて家族なんてものは分らない。気が付けばふわふわと海で漂うクラゲであったので、両親の顔すら分からない。仲間たちはどれも似たような透明の体で気が付けばどこかに流されてばかりだ。
 擬人化装置で淡い、浅瀬の海のような髪をした人間になっているだけで、本質は未だ海の生き物でしかない。だから家族なんてものを大事にする場所に潜り込めるかは不安だったけれど。
(花ちゃんが言ってくれた通りっすねー)
 わからないならそれを活かしてみたら、なんて仲良しの|あの子《Anker》が教えてくれた設定は上手くいったようだ。やっぱり花ちゃんは頭が良い。帰ったらお礼を言わなければ。
 信者が話す家族のことはやっぱり、一つも分かりそうになくて右から左へ通り抜けていく。そうなんっすねー、すごいっすねー、と軽い返事を今度は月笠が返す番になれば、ぺらぺらと相手の口は良く回っていた。
「家族っていいものなんすねー」
「ええ、ええ! 分かっていただけましたか」
「今度大事な子と一緒に来たいんでー、ちょっと雰囲気見せてもらうことって出来るっすかー?」
「構いませんよ、新しい兄弟を迎え入れない家族はいませんから」
 どうぞこちらへ。
 招かれるビルの中。赤みの強い紫の瞳を、少年はひそりと静かにめぐらせた。
 廊下の電気はついているのに、窓が塞がれているからだろうか。じとりとした暗さと、妙な息苦しさばかりを感じる。家族なんてものにはこれっぽちも詳しくない。なのに、ちっとも楽しくなさそうなこの場所の雰囲気が、良いものだとも思えない。
(家族ってなんだろうなぁ)
 瞳を閉じて想像してみる。数多の仲間たち。群れをなす魚群に、白いあぶく。いずれもピンと来ない。なら一緒に暮らしているあの子は。
 そこまで考えたところで開いた瞳に、奇妙な違和感が写り込む。
(……あれー?)
 先程と比べて、どうにも廊下の長さが狭くなっている。気のせいかもしれない程度の事だが、目を閉じていた分はっきりと比較が成されたのも事実だ。
(後でトビウオちゃんたちに調べてもらおー)
 玄関に忘れ物でもしたと言って引き返せば、その時にでも能力を使ってみれば分かることだ。
 信者へ適当に返事をしながら、月笠はゆるりと脳内で計画を立てはじめた。

一文字・伽藍

●銀のまたたきは密かに

(不用心ですなぁ)
 お邪魔しま~す、と鍵のかかっていない裏口から一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)は仄暗いビルの内側へ。暗闇でも目立つ髪は、黒い上着ですっかり覆い隠されて。銀はひと時その主張を止めている。あとはヒールが音をたてないようにだけ気を付ければ、敵情視察への準備は万端。
(それにしても、ま~た碌でもねぇことしてる連中がいたもんだね)
 やんなっちゃう、と一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)はひそかに息を吐いた。神だの奇跡だのも蓋を開ければ、存外地に足がついたものだ。人の描く教義が狂っているなら結果も相応に歪むしかないのかもしれない。
(えーっと、儀式やってるとこ探すんだっけ)
 いつ始まるのか、もう始まっているのか――否。始まっていたところで、信者たちは次に手を出す。人は欲深く、愚かだ。一度の成功なので止まるのなら、こうして自分達へ仕事が来ることも無かっただろう。
 急がなくては誰かが傷つく。失われなくていい筈の命が消える。
 考えただけで首の後ろがざわざわと落ち着かない、嫌な感覚だ。思わずと眉間に皴が寄る。
 気配がする方へ近付き過ぎず、人影を目を凝らしながらそろりと追いかけて。慎重さだけ無くさぬように歩みを進めていれば、ひとつ。明かりのついた部屋に辿り着いた。
 そこに足は踏み入れず、近くに積みあがった段ボール箱の傍に身を隠しながら心中で呟く。
(健闘を祈るよ、クイックシルバー)
 応じるように銀閃が走った。
 瞼の裏の光か、それとも眩暈の幻かと思うほどの光は幾筋も。頼りない灯りの下でなら、銀の光――伽藍の護霊はひそやかに紛れて瞬いていた。
 実体のない護霊を知覚出来る人間もそういまい。連絡はスマホの画面に霊障でスムーズに。何か怪しいものがあれば持ってきてねと願う彼女に応えるように、銀は小さく弾けた。
『そっちに誰かが行った』
「――えっ」
 予想外の報告に、思わずと漏れそうになった声を慌てて手で塞ぐ
 まずい。そう焦るも一瞬の事。伽藍が潜む場所より反対側の壁を、護霊の見えぬ手がノックした。誰かいるのかとそちらへ信者が歩いていく間に、別の部屋へと体を滑り込ませる。
 危なかった。ふぅと息を吐き出して身を小さくする。あまり手入れのされていない物置のようで、随分と埃っぽい。汚れるの嫌だな、と先程とは違う意味で顔を顰めた。
『もういいよ』『これを見て』
 そう連絡が入ったのは数分も経たぬうちに。そろりと出てきた伽藍の前に銀の光が弾けながら一枚の紙きれを差し出してくる。

【黄昏は地の底に。親の呼び声は二つ目の地層より深く落ちる。】

「……何かの呪文?」
 怪訝な顔になるのは仕方のない事だろう。紙をひっくり返し裏返し、赤黒い染みだけは見なかったことにしてポケットに突っ込む。
 他の情報を集めるか、他の能力者と出会えば何か分かるかもしれない。ほんの微かにヒールが床を打つ音だけを残して、伽藍は再び探索を再開する。
 瞬きひとつで幻と思うような、小さな銀を一つ引き連れて。

狗狸塚・澄夜

●病の至りし

 長い孤独は強い不安を呼び寄せる。
 それは危惧すべき状況だと言えるだろう。医学的観点からしても、健全とは程遠いものだ。やがて他の病を手招くのならば、改善すべき事柄だ。おかしな価値観の邪法ではなく、現代社会の正しい治療によって正すことなのだろう。
 少なくとも狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)の信ずるものはそうだ。踏み入れたビル内に蔓延する異質な思想は許容しがたい。深い闇をよりよく見通すためのゴーグルをつけて、ざわめく人の気配を避けて彼は奥深くへと進んでいく。
 なにせ潜むにはいささか目立つ昼日向の色だ。少しでも視界に入れば否応なしに目を惹くとは分かっている。だから代わりに飛ばすは黒い小鳥――妖憑きのドローンひとつ。仄暗い中に小さな羽ばたきを紛れさせて、澄夜に道を示してくれる。
 目指すは資料の保管されているであろう場所。資料を手に出てきた信者が先程までいた三階の一番隅の部屋。おそらく書庫の類だろうと目星をつけて、ひかりの色をした男は滑り込むように室内へ。
 バインダーの背が並ぶ狭い部屋だ。廊下と変わらず妙に暗いが、人の気配は感じられない。
「……聞こえているか」
 世界に漂う不可視の者達へ、祈りを乗せて短く呼びかける。小さな海月がひとつ揺らいで、答えるように姿を変えた。
 線の細い、青白い顔をした女だった。あとは消えゆくだけと悟った瞳に覇気は無く、茫洋と澄夜を見つめている。
「貴殿が最期にいた場所は、どこだ」
 ――わかりません。
 ――目隠しをされたまま、気が付いたら私はこうなっていました。
 ――何も、わからないままだったんです。
 孤独から逃げた先がより冷たい絶望の中だったなど、生前に想像一つしていなかっただろう。
 果たしてそれは自業自得だと切り捨てて良いものだろうか。
「家族とはただ産み落とすだけでなれるものでも、醜悪な鎹で繋げるものでもない」
 澄夜の言葉に、幽体の女は顔を歪めた。縋った先はただの暗闇。後戻りのできぬものだったと気付いたのだろう。
「彼らには、必ずや償わせる」
 だから澄夜の続けた短い言葉がどれほど彼女の救いになり得ただろうか。
 ――ありがとう。
 もう終わった命が震えながら指し示す先。ファイル中には、信者の名簿一覧が収められていた。

鮫咬・レケ
楪葉・伶央

●並べ立てるは

 奇妙な客人だ。
 現れた男に、受付にいた信者はまずその感想を抱いた。長い青髪を揺らして、浅瀬を覗き込んだような瞳が瞬く。弧を描く口元は、この施設を訪れる客では珍しい。
「ここが『かすがいの鐶』?」
 そうですよ。そう答えるよりも早く、もう一人の来客が姿を現した。
 こちらは酷く真面目そうな男だった。にこりともせず、扉にぶつかりそうになった先客へ失礼と短く呟くのが聞こえる。育ちの良さは淀みの無い所作にうかがい知れて、折り目正しい挨拶にこちらが少しぎこちなくなってしまった。
 それにしても随分と制反対な二人組だ。同じタイミングでの来客は珍しいが、無いことではない。本来ならば個別に対応するのが良いだろうが――
 もうすぐ、|新しい末っ子《・・・・・・》を迎えに行かなくてはならない。
 時間の無さに焦り、二人同時でも構わないという言葉に甘えて、どちらをもテーブルへと案内する。
 それが間違いだと知る由もなく。


「おれ、ずーっとひとりだったから」
 青い先客、鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)はにこにこと笑みを浮かべたまま身の上を語りだす。間延びした声は緊張感に欠けはするが、だからと言って嘘を吐くメリットがあるなど信者も思ってはいまい。
「かぞくがほしくって~、ここならできるってきいた」
 ぱ、と期待を込めたように青色が瞬いた。声に期待を込めた喜色を乗せて、相手の感情の上を泳ぐようにレケは続けていく。
 ゆらゆらと長い袖を揺らしている様は、今はまだ無害な青年の範疇に見えるだろう。
 そうだろうとも。そう思われるだろうとも。
 彼はこういう場所の人間の事を、|よくよく知っている《・・・・・・・・・》。
「へぇ、あたらしいかぞくが増えたばかりなんだ?」
 そうしていつの間にやら、話す側がすっかり入れ替わってレケは相槌をにこやかに打っていた。そのことに信者も気付いていない。
 人間は話したがりの寂しがり屋だ。少し矛先を向けてやれば、ほら。あとは勝手に一人で転がり落ちていってくれる。
「いいな~、おれにもかぞくできるかなぁ?」
「ええ勿論」
 口から出まかせ嘘八百。本当にそんなことを思っているのかなど、問いただすまでも無い。
 胸中でその様子を呆れながらも、もう一人の来客――楪葉・伶央(Fearless・h00412)は表にその様子は微塵も出さない。その程度装えなくては、捜査官など務まりはしないのだから。
「素敵ですね」
 新しい家族の――子供の話で盛り上がる二人の会話の合間。丁度良いころ合いに、感心した風にそう告げれば信者がおやとこちらを向いた。それを真っ直ぐに、金の瞳が見つめ返す。
「子は宝だ。世界で最も愛されるべきものだろう……だが俺は天涯孤独の身、今のままでは最後は惨めな孤独死だ」
 後半に行くにつれて寂しさがにじむように吐き出される。膝の上で組んだ指に、力がこもる。見せかけだけの時計が灯りに反射して、ちかりと光る。
 先程挨拶の際に差し出した名刺には、架空の資産家としての肩書を乗せていた。こういう団体だ、餌はいくらでもあっていい。
「だから金でも何でも、俺に出せるものがあれば差し出したい」
 思ってもいない言葉を口に出すことに、嫌悪感を覚えないわけではない。だがそれを精神力で全てねじ伏せた伶央の表情は、教義へ真剣に縋る若人に見えただろう。
 隣で青い男が少し笑う気配がするが、無視して続ける。
「此処ならば、俺も良き父になれるのではと」
 ああ、本当に腹立たしい。
「家族のためならば、俺は何だってできる」
 真っ直ぐな視線で告げる台詞に嘘偽りはない。ただ、向ける先がここでは無いというだけだ。。
 青年にとって、最も大事な家族はすでにいる。代わりのいない唯一無二だ。どのような脅威からも守りぬくと決めた、愛すべき者たち。その信念は揺らがず、大きな芯として存在していた。
 その心や彼らの存在を汚すような教義など、聞いているだけでも反吐が出る。
(クヴァリフの仔の事もあるが――潰す)
 心の奥底にくゆる怒りを隠しながら、その牙を着々と研いでいる。
 その本質に気が付いているのはこの場でたった一人。
(れお、よく口まわるな~)
 隣にいる青い男である。
 因縁のある男が心底嫌そうにしている様ほど面白いものは無い。隠しているつもりなんだろうが、己にはバレバレだ。仕事でなければ腹を抱えて、指をさして笑ってやりたい。まぁ後でつつける機会はいくらでもあるだろう。怒られると知ったうえでの悪巧みを笑顔に替えて、愛想よく信者の話を聞き続ける。
 幸不幸を彼らにばら撒けたら、何よりも手っ取り早く宗派の鞍替えをさせてあげられるのに。昔を懐かしく思い返しながら、手の見えぬ両袖へちらりと視線を落とす。
(今はできないのざんねん~)
「ね~、話戻るんだけどさ~。おれもそのあたらしい家族にあえない?」
 隠し事は皆が秘めたまま、落とされた提案に見学を持ちかけられるのはすぐのこと。


 受付の奥、案内された場所にも人はいる。
 大人に子供、みんなそろいのケープを被っていい笑顔だ。沢山の信者たちを見て、懐かしさにレケは小さく笑った。
「あはは、れお出し抜いてやったの思い出す~」
「出し抜いた後に捕まった結果が、今だろ」
 小声で律儀に入ったツッコミはそっけないものだ。
 まぁあたたかな対応など望んでもいない。優しくしてくる伶央を想像して、すごく嫌だなという気持ちが湧いたので浮かんだものは即座に脳内から消しておいた。
「ん~? 今はつかまっておとなしくしてやってるんだよ」
 あくまで、今は。先のことなど、暗い海底のように腹の中など知れぬだろうけど。
 それはきっと今日ではない。未来もまた、誰もが分からぬままなのだから。

佐野川・ジェニファ・橙子

●釣り糸垂らすは

 艶やかな深みのある黒い髪。透けるような白い肌はきめ細かで肌荒れひとつ感じられない。青い硝子玉のような瞳は長い睫毛に縁どられて、どこか異国の血が混じっていると知らしめていた。
 ひとつ笑えばそれだけで人の目を惹きつけてやまないだろう。誰もが美しいと感じる見た目の女だった。
 けれど今。彼女の表情は硬く強張ったまま、精細さを欠いている。心なしか白い肌も青ざめ、薄い涙の膜をはる瞳は深い悲しみの中にいるのだと、言葉にせずとも察せ用ものだ。
「……ずっと子どもが欲しくて」
 でも叶わなくて。
 女――佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)が続ける言葉はか細く震えていた。戦慄く唇を隠すように片手に持ったハンカチが口元を覆う。ごめんなさい、そう続ける言葉に信者たちはいいんですよと労わる言葉を投げかけた。
「此処なら子どもも家族も居るんだって聞いて、藁にも縋る思いで鬼検索して来ました」
 若干おかしな単語が聞こえた気がするが、場の雰囲気に飲まれているため誰も気に留めないまま進む。
 呼吸を整えるように深く息を吐き出す。下したハンカチを強く握りしめて視線を上げて、弱弱しい微笑みを口元に敷けば完璧だ。
「……昔から、子どもは大好きだから」
 トドメの一言に橙子を疑う人間はこの場に誰も居なくなった。
 圧倒的名女優。己のような目立つ美女は潜入より正面突破だと、入信者のふりをしたのは大正解だっただろう。あれこれ複雑な年頃の女を演じて並べる嘘八百。偽りがないのは最後の言葉ぐらいのものだ。
(実際、子育て歴150年くらいあるからね)
 大切に大切に、子らの相手をしてきた市松人形が彼女の正体。育ちゆく者たちを見守る長い年月はきっと幸福だった。
「家族になっていただけるなら、あなたにも可愛い子どもを授かることが可能ですよ」
「本当ですか?」
「ええ、保証します。あなたにも子どもがやってきます」
 食いつくように身を乗り出す橙子に、信者はにこりと笑みを浮かべて深く頷いた。
 ――釣れた。
 腹底の思惑が違う両者は、されど同じことを浮かべていただろう。
「私が目指すべき場所はどこですか。そのために精一杯努力しますから」
 もうすっかり教団を信じ切った声で、女は告げる。
 青の瞳は翳りなく真っ直ぐに相手を見た。引き結んだ唇は意思の表れと感じれる。
 膝の上に置いたハンカチを祈るように、縋るように握りしめる手だけが少し震えていた。
(今年の助演女優賞はいただきだな)
 主演じゃない辺りに若干の慎ましさを見せて、心の中だけで橙子はほくそ笑む。
 では案内してもらおうか――歪な仔を呼び出す、儀式の場へ。

焦香・飴
五槌・惑

●自由演技かくれんぼ

「おや、不用心なのか鼠捕りだか」
 言葉の割には随分と面白がるような響きを乗せて、焦香・飴(星喰・h01609)は開いたままの裏口を覗き込んだ。隣に立つ五槌・惑(大火・h01780)も訝し気に眉をひそめている。
「いっそ襲って来るならやりやすいんだが」
 罠を疑うのも当然の心理と言えよう。ただでさえ生贄など集めている連中だ、何を考えているかなど分かりようもない。
 だが、どうせ中に入らねばこちらの目的とて達成できぬ。緊張は遠く、されど警戒心だけは手放さず。手にした刀はいつでも抜ける心構えは携えたまま足を踏み出す。
 靴底がかすかな音を二人分立てて、仄暗いビルの腹中へ彼らを歓迎するようだった。

 廊下に雑多積み上がった荷物は、客人を迎えない裏方らしかった。薄らと隅に溜まる埃は、お世辞にも手入れが行き届いているは言えない。大人二人が並んでも余裕のある広さだけは、荒事が発生した時には助かりそうだが。
 見通しのよくない物陰。閉ざされた扉の向こう。薄暗い曲がり角の先。人の気配がまだ遠いことを、琥珀の視線が静かに見据えて進む。
 その横で。
「何してるんだ」
「警戒は二人も要らないでしょう。何か使えるものが――あ」
 手近にあった段ボール箱を物色していた飴が中身を掴み上げた。薄手のビニールにつつまれた真白い布地。端の方にクリーニング済みの印がつけられたそれを、躊躇いも遠慮もなく破いて取り出す。
「マント……というよりはケープですかね?」
 袖の無い布地には、簡素な留め具だけがついている。丈の長さは大人の上半身がすっぽり入るほどで、手触りは意外と悪くはない。纏めて洗濯にでも出していたようで、箱の中にはまだ白色が眠っている。
 ここに来る前にちらりと盗み見た、受付にいた信者が確か似たようなものを羽織っていた。
「はいどうぞ」
 常と同じ微笑みを浮かべながら、開けたばかりのそれを惑へ手渡し。自身も次の一つを開ける。俺ら似合いませんね。同感だ。どちらも他人事めいた口調でいるくせに、羽織る事にも躊躇いはない。
 鏡を見るまでもない話は、互いを見ればより顕著だ。長い髪をケープの外側に出せば、被さる暗色で少しは紛れる気だけがした。それで構わないだろう。これは信者を表す記号にすぎず、ただ利用するだけの布切れだ。
 成人男性二人、隠れて忍び込む方が難しい。ならば場に紛れ込み、堂々と振舞っていた方が誤魔化しがきくとうもの。
 とはいえ、と惑は己の頬を擦る。
「神妙に救いを求めるツラを出来る気がしねえ」
「どちらかというと俺たち救いを求められるほうじゃないですか?」
 ほら、と両手を広げて飴がにこやかに微笑んだ。ケープの白が妙に現実離れして、ひらりと揺れている。
 なるほど人を導く神か、誘う悪魔か。そう言われる方が余程納得できそうだ。
 けれど殊勝な信仰心など、惑とて持ち合わせていないので。
「救いも破滅も、自分以外のせいに出来る方が気が楽になるんだろ」
 理解できぬ他人事に、軽く肩を竦めるだけだった。

 最低限と言えど変装は功を奏したらしい。
 時折怪訝な顔を向ける信者もいるが、後ろ暗さなど一切感じさせぬ二人に対し、何も言わずに首を傾げる程度だ。そこに昏い凶星の光が人知れず瞬いたのなら、くらりと酩酊感にも似た心地が信者達を内側から包み込む。
 ふらつく足取りの信者と、遠慮など捨て置いてきたとばかりの自由な二人。どちらがこの場の主なのかはすっかり分からないまま、堂々とした家探しは行われていく。
 奇妙な場所はいくつかあれど、妙に厳重な鉄扉は四階の奥にあった。明らかに怪しいそれを暢気に指さす飴の仕草は、対比して軽い。
「惑さーん、あの鉄扉壊せませんか?」
 言い終わるとほぼ同時。響き渡る鈍い音――惑が扉を蹴りつけた音に促した側は緑の瞳を瞬かせる。試してくれるのが、思ったよりも一秒早かった。
「良い蹴りですね!」
 しかして驚きよりもその力強さの方に興味の天秤は傾く。
 良い音だ、と頷きながらも邪魔が広がっては面白くないのは事実。星の瞬きははしゃぐように暗い光を拡げて、仄暗いビルの中を支配していった。
 ガン、と惑が二度目の前蹴りで扉を歪ませる。鍵を開けた所で、最早普通に開けるのは難しいだろう。今から物理でこじ開けるのだから、気にすることでもないだろうが。
 琥珀の視線が静かに隣の男を見て、扉の歪みを指す。
「力任せは飴の方が得意だろ、自分でも試せ」
「俺も?」
 星の災厄が不思議そうに指すのは己自身。けれどすぐさま納得したように笑みを深めれば、数度軽くその場で飛び跳ね準備運動。そこから全身を捻って、勢いを乗せた回し蹴りが鉄扉へと叩き込まれる。
 ――ガァン!
 猛獣の咆哮もかくやと音が響いた。
「存外脆いですね」
「古かったんだろ」
 惑の蹴りで負荷のかかっていた蝶番が、先に耐えられなくなったらしい。倒れていく扉を眺めながら、淡々とした会話はやけに他人事のようだった。

 流石に人が集まる可能性を考慮して物色は手早く済まされる。埃っぽいその中で建物の見取り図を手に入れたのなら用済みだ。後は落ちつける場所でのんびりと中を確かめればいい。
 何かおかしな音がした気がすると、洗脳でどこか呆けたような信者達にすれ違う飴がこんにちはと声をかければ相手の瞳が一度大きくぶれる。
「今日は確か例の予定がありましたよね」
「ええと……そうですね」
「確か午後から親を連れて、二階に集まるようにと……」
「あの入信希望者か? 案内ご苦労」
 確り頼むぞ。なんて仕上げに惑が悠々と微笑めば、相手の動きが固まった。一拍を挟んだ後に、有難うございます勿体ないお言葉ですと平伏せんばかりに頭を下げられる。挙動不審なまま立ち去っていく彼らの後姿は、飼い主に褒められて喜ぶ犬にも似ていた。
 見送ってしばし、歩く間は沈黙は保たれて。階段を降りるころになって漸く飴が肩を震わせる。
「……なるほど、世の中詐欺が横行するわけだな」
「あア、案外使えるだろこの見た目。便利なとこだけ気に入ってる」
「いっそ騙されてお得だと思いますよ、今の人たち」
 偽りの幸せは、バレぬ限りは本物だろう。この施設がそうであるように。
 だが彼らの信じる幸福は今日で終いだ。
 美しい人の形をした、ひとでなしの者達の足音はひとと変わらない。
 例え破滅を運び込んでいるのだとしても、彼らにとってそれは気に留めるものですら無いのだから。

花咲・マオ

●マオチャンネル特別予告

「こんマオ~!」
 配信画面の中でご機嫌なピンク髪が揺れていた。
 その上には可愛らしい猫耳がぴょこんと可愛く、小さな花飾りと共につけられている。
「マオチャンネルのお時間だよ♡」
 有名女子高校の制服を着た、底抜けに明るい声の挨拶をする配信者――花咲・マオ(勤労娘々・h02295)に対して「待ってた!」「今日は何するの?」「マオマオちゃんかわいい!」なんてコメントがずらずら流れていく。返事代わりに小さく手を振って笑顔一つ。それだけでかわいいと常連達がまたコメントを付けていった。
「今日はなんとぉ~? カルト教団に潜入しちゃいまーす! あっそこの君ぃ、『マオマオちゃんカルト教団なんてヤバくない?』と思ったなぁ?」
 見えてるぞ、と画面に向かって指をさす。ネイルのない爪は学生らしい無垢さで、けれど形は綺麗に整えられていた。
「でもだいじょーぶ! マオマオは特殊な訓練を施されたすーぱーえいじぇんと、だからね☆ 結果はまた配信するから要ちぇけら!」
 お気楽ご機嫌能天気。そんな気配だけを画面の向こう側に届ける彼女は胸を張って決めポーズ。制服の青いリボンについた猫ちゃんもどこか自慢げに揺れている。
「それじゃまた今度!ばいマオ~!」
 元気いっぱいに手を振って別れの挨拶をしたなら、そこで配信は終了する。

 短い、予告編のような配信を終えてマオは重苦しい息を吐き出した。
 気が重い。行きたくない。カルト教団なんて出来れば一生縁が無いものとして生きていきたい。
(まあ家族を喰い物にするのはすげームカついてんだけど)
 本当の女子高生であれば若さと無鉄砲さで、正義感の赴くままに突撃出来ただろう。だがこちとら既に27歳のアラサーだ。世間の苦みも分かる立派な大人だ。今の格好はこんなだけど。
(徹底的にぶっ潰してやる)
 しかし今抱く、教団への不快感は紛れもない本物だ。座った目でビルの表玄関へ向かうマオの様子には、しかし1%ぐらいは八つ当たりが混じっていたかもしれない。
 扉をくぐる前に一呼吸。不機嫌な顔を切り替える。配信の時そうであるように、人を騙すためのものへ。
「すみませーん☆」
 元気で明るい女学生冒険者マオマオの仮面を被りなおして第一声。
 ぽかん、と口を開ける白いケープを被った人――信者が何を言うよりも早く言葉を紡ぐ。
「マオ、パパママにいぢめられてぇ、めちゃぴえんなんですぅ」
 甘ったるい声でお家に帰れなくってぇ、と事前に腕に巻いていた包帯を見せつける。当然ダミーだ。傷なんて一つもない。弟からの無茶ぶりはいつだって絶えないが、負うのは心の傷の方だ。
 思い出したら悲しくなってきた。だが都合が良いとマオはうるんだ瞳で信者を見る。
「ここでほんとの家族について教えてくれませんかぁ?」
(コミュ力だ、コミュ力を信じろ)
 愛想のいい人間を悪く思う奴なんてそうそう居ない。それが子供だというなら、舐めてかかってくれるのが世の常だ。
「……ええ、それはお辛いですね。話を聞きましょう」
 頷く信者に内心ぺろりと舌を出して、マオはするりと教団の内側へと無事に潜り込んだでいく。

刻・懐古
フィーガ・ミハイロヴナ

●偽り敷いて闇中へ

 提示された手段は二つ。
 表か裏。どちらが己に向いているのか、最適解はあるのだろうか。どうしたものかと悩むフィーガ・ミハイロヴナ(デッドマンの怪異解剖士・h01945)に、妙案があると声をかけたのは刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)だった。
 共に向かってくれるその優しさに感動するデッドマンの前で、付喪神の男はこほん、と短い咳ばらいを一つ。瞬く間に青年の姿がするりと変わって――
「おぉ、美しいですね~」
 驚きに目を見開くフィーガの目の前には妙齢の女が一人。常より長い赤茶の髪。柔和な笑みを浮かべる口元の黒子は相変わらずだけれど、手元にあてる白い指先のは美しい。
 何と見事な変身だろう。思わずと拍手をすれば、懐古がくすくすと肩を震わせる。
「僕……いや、私と貴方は子が欲しい夫婦。いいわね?」
「こんな綺麗な奥さんだなんて緊張してしまうなぁ」
「ふふ、確りしてくださいな旦那様」
 友人同士の軽口も、傍目に並ぶ姿がそうでないなら騙されてくれるだろう。
 表入り口から訊ねた二人を、信者の誰もが疑わない。入信希望だと伝えれば、簡易の応接セットの方へと案内される。
 事前の打ち合わせ通り子供に縁がない旨を伝えれば、あちらの目の色が変わった。
「私は物心ついた頃から身寄りがおらず、家族に憧れていまして」
 懐古が悲し気に目を伏せながら告げる。
 事実、本体が物である以上血を分け合った家族というものは存在しない。兄弟のような物たちならいるのかもしれないが、明確に違う個体だ。
 だから血肉を持って生まれる者達の”繋がり”を持ち得ない。そこに僅かばかりの憧れを、彼は持ち続けている。
「新しい命に寄り添いたい、物語を見届けたい、そう思うのです」
 ね、と儚げな笑みを隣へ向けた。そっと寄り添えば、フィーガの緊張が伝わってくる。
 いかんせん今の友人が美人なのだ。引き籠りには慣れぬ状況に、デッドマンはぐっと歯を食いしばって挙動不審になるのをこらえる。達観した友人の意見はすこぶる頼もしいのだ、それを無にしてはいけない。
 その姿が決意を持った人物にでも見えたのか、信者たちが不信がる様子は無い。
「家族とは、何があっても離れ難いもので……」
 そう話しだして脳裏に浮かぶのは、たった一人の|家族《妹》だ。
 やわく甘い声に、愛らしい笑顔の彼女。今自分達を繋ぐ|子のようなもの《日記》のことを思えば、なるほどこの教義のことも多少理解出来なくはない気がする。
「一生離れられないよう、紡いだ想い出を縒って出来た証を……うつしよに繋ぎ止めていたいのです」
 大事な大事な可愛い妹。彼らが言うような鎹が本当にあるなら、自分だって手放さないだろう。熱の入った言葉は真剣さを帯びて、覚悟を決めた夫そのものといった風情だ。当の本人の思考が、だいぶ横道にそれているのだとしても。
「どうかおれ達を新たな家族に会えるよう連れて行ってはくれないでしょうか」
 お願いしますと二人そろって頭を下げれば、|儀を待ちわびる夫婦《丁度いい生贄》に見えたことだろう。
 お辛かったでしょう、大変でしたね。お決まりの上っ面だけの言葉を述べて、信者たちは笑っている。穏やかな笑みの、瞳だけは妙に濁った薄気味の悪い笑みだった。それから目を逸らすことなく、懐古とフィーガは真っ直ぐに視線を返す。
「ようこそ、私たちの新しい家族」
「あなたのことを、仔どもたちも心待ちにしていましたよ」
「さぁどうぞこちらへ」
 そう言って手招きされる奥の扉。開ければ仄暗いビルの、窓の塞がった奇妙な廊下が見える。
 前後を信者たちに挟まれるようにして二人は一歩を踏み出した。異様な空気に、寄り添ったふりをしながら小さくフィーガが咳払いをする。
(な、なんとかなりましたかね……?)
(案内してくれるようだし、成功と言えるんじゃないかな?)
 聞かれないように小声で交わす言葉は足音に紛れ、溶けていく。
 さて一体何処へ向かうのか――分かるのは、至る場所は平穏からは遠い事だけだ。

玉梓・言葉

●偽りの形
 人と人の間には縁が芽生える。
 好悪問わず、何かしらの感情は繋がっていく。生まれ、そして巣立つまでを共に住まう家族も情が無ければ成り立たぬ。親が、子が、それぞれに愛し合っているからこそ続く関係性だ。
 可愛い我が子のために全てを投げ打つ。それもまた親の愛だろう。幼い子らの幸福を最も願う存在であることが多いのだから。
 けれども。
(生贄を使うと言うのは面白味のない話よ)
 形ばかりの家族の間にあるのは情ではなく、ただの利己だろう。少なくとも玉梓・言葉(|紙上の観測者《だいさんしゃ》・h03308)が見上げる先のビル、その中にある教義から感じるのは、そういった後ろ暗い思惑ばかりだ。
「さて」
 まぁそうであるなら、こちらもどのような手段を用いたって構うまい。お主たち、と周囲に漂う|不可視の怪物《インビジブル》へ呼びかければ、応じた者たちが薄い形代へと変じていく。
「儂の目となり耳となり、人の目では届かぬ所を教えておくれ」
 頼んだよ。そう告げればひらりと風に吹かれるようにして裏口の方へと音もなく飛んで行った。扉の隙間であろうと潜り込める彼らならば、内部構造を把握するのは容易い筈。上手くいけば儀式や、呼び出される仔の詳細などもつかめるかもしれない。
 とはいえ任せきりというのも味気ない。自分の耳で目でも確認せねば、物事の輪郭線は引けぬというもの。ごめんください正面から声をかけてビルに立ち入る。
 如何なさいましたか。受付なのだろう信者の答えは人当たりはよく、けれど目に宿るほんの少しの警戒心。
「|家族《主》を亡くしてから独り身での、時折どうしようもなく寂しゅうての」
 それをほぐすように、言葉の声はやわく響く。
 涼し気な白に水縹の扇子で口元隠し、そっと目を伏せて。滲む悲しみの色を、じわりと相手へと沁み込ませる。
「ここであれば、家族が出来るとお聞きしてな」
 一歩。信者へと近づく。
 相手の瞳を覗き込む薄い青色が、細められる。ひやりと奥底まで見通して――捉えるように。
「それとも、儂の様な新参者では新しい家族に会う事は叶わんじゃろうか?」
 受付の瞳が一度大きくぶれた。隠された口元が笑みの形を描く。
 すっかりと心を囚われた信者がふらりと、どこか緩慢な動きで奥の扉へと言葉を手招く。
「大丈夫ですよ、ええ……ご案内します……」
「ああ、それはなんとも――有難い」

賀茂・和奏

●在らずの証明

 賀茂・和奏(火種喰い・h04310)が家族と言われて真っ先に思い浮かぶのは、祖父母や姉のこと。流石に0とは言わないが、喧嘩の数も覚えている限りでは少ない。関係性、なんてあまり考えたことのない事も無かった。
 悩まなくて済んでいるならば、きっと良い方だろう。ただ、彼岸に渡ってしまった両親の事だけは、和奏の中から欠けてしまっているけれど。
「繋がりを重視する……家族になれるって言葉が素敵だと思ったんです」
 もとより柔和で人好きのされる外見をした和奏が真摯に頼めば、嘘をついているとも思われない。これでも立派な異能捜査官であるのだが、纏う雰囲気も含めて彼の長所と言えるのだろう。
 普段の教団の様子や、教義について。興味を持って好意的な相槌と質問を繰り返せば、相手の態度も随分親しみのこもったものになる。
 ――少し見学をしていかれますか。
 そう提案されるまでさして時間はかからない。
「ええ、是非」
 レンズ越しに微笑む、柔らかな緑。
 その瞳の奥の真意に、信者が気付くことはない。

 ビルの内部は窓が塞がれているせいだろうか。空気が淀んでいる感じがして、その閉塞感が気分を少し重くさせる。軽い雑談を挟みながら階段を上った、二階すぐ部屋。
 子供たちにお祈りを教えているんですよ。そう説明された場所には、下は幼稚園ほどから、上は高校生ぐらいだろうか。誰もがみな白いケープを服の上から羽織って、めいめいに楽し気な様子。魔法使いだとごっこ遊びをする少年少女がぱたぱたと小さな足音を立てて和奏の前を駆けていく。
 その微笑ましさに自然と頬が緩んでいれば、別の子供たちから声をかけられた。
「おにいちゃんも、新しい家族なの?」
「そうだね、なれたら嬉しいかな」
 やったぁ! なんて楽しそうにはしゃぐ声を好ましいと思うのは、きっと己が愛されてきた経験を持つからだろう。家族という言葉を聞いて最初に思い浮かべるものが、あたたかで幸福であるものだと知っている。
 今はもう居ない存在なのだとしても、自分の中に根差すものが正しさを教えてくれていた。与えてもらった愛情がやわらかな守りとなって、生き方を間違えないようにしてくれている。
 そう、信じている。
 だからこそ、子を思う親心や人の繋がりを贄という形で消費されるのは、看過できない。
(犠牲ありきのものなわけないでしょうに)
 目の前の子供たちだって、いつか犠牲にされる可能性がある。歪んだ教義に染まって誰かを害すかもしれない。
 そんな道を歩ませるのは、家族がすることではない。
「子供はお好きですか?」
「はい。可愛らしいですよね」
「素晴らしい事です。もしよろしければ見ていかれますか?」
 ――仔がもうすぐ生まれそうなんですよ。
 にこやかに告げる案内人の言葉は、此処で行われることを知らなければ悍ましさのない言葉だったろうに。
 されど全てを知っている和奏とて、動じず、表に出すことも無く。
「わぁ、それはおめでたい。是非新しい家族にご挨拶がしたいですね」
 好機の尻尾を強く捕まえて、やわい笑みだけを浮かべていた。

可惜夜・縡

●残滓に思う
 記憶に残せなかった輪郭を、捉えあぐねている。
「私は親の顔も、家族の愛もわからなくて……」
 入信希望だと施設を訪ねた可惜夜・縡(咎紅・h05587)がどれほど思い出そうとしても、両親の顔は浮かんでこない。
 離別は遠く過去のことで朧げだ。どのような人柄だったのか。自分をどう呼んでくれていたのか。幼い自分はその大切さを分からぬままに手放していた。
 そこに愛情が無かったのかさえ知らない。
 故に親子が本来持ち得るそれを説くことを縡は出来ない。器用な嘘をつけるほど、達者な性格をしているわけでもない。
 だから自分の本音を言葉に乗せていく。座って俯いて、膝の上で握りしめた手を見た。小さなころの自分は両親の手を握ることはあったのだろうか。今は自分の手を握る感触だけが確かで。
「父と母の覚えた感情を、私も知りたいんです」
(……本当にわかったらいいのに)
 落ち着かない気持ちは覚えていないことに対する寂しさだろうか。それとも罪悪感めいたものか。
 それとも。
「受けるはずだった愛情を、私が生まれてくる仔に渡したい」
 胸の奥が締め付けらえるような気持ちを覚えて、思わずと制服の胸元を押さえた。長い灰の髪がゆれて、肩口から流れるように滑る。
 その姿が痛ましくも切実な娘に――取り込みやすいと信者が判断したのか分からない。
 大丈夫ですよ、とにこやかに声をかけられてから縡はゆっくりと顔を上げた。長い前髪の奥に隠れた瞳は、どこかやはり悲しみに囚われたような色をして。
「ここでは皆が家族です。あなただってそう、お辛い思いをたくさんしていたんでしょうね」
「……有難うございます」
「さぁご紹介しましょうね、あなたの新しい家族が沢山いますから」
 白いケープを身に着けた信者は、縡を連れてビルの奥へと案内する。

 あとでもう一人、末っ子が生まれるのよ。
 人の集まるビル内で、信者の一人がそっと教えてくれた。おそらく、それがクヴァリフの仔だろう。その為に誰かの命がまた喪われるのだ。
 それはきっとあまり良くないことだ。
 けれど生まれた仔もまた、人類の延命の為にその身を利用される。
(命に違いはあるのかしら……)
 分からない。だが、それが能力者達に与えられた仕事なのなら。
(せめて無垢な命を、大事に連れ帰りたいです)
 まだ彼らが誰にも害をなさぬうちに、迎えてやれたらいい。
 薄い藤色をした瞳の奥で抱えた決意は、まだ幼さの残る少女の優しさだっただろう。

ユオル・ラノ

●知らぬ感情
 何事もはじめの一歩は、少量の緊張感と期待が混ぜられている。
 『かすがいの鐶』の扉を開いた柔らかな白――ユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)が浮かべる表情もそんな空気を纏っていた。ドアノブを握る指先は白く、引き結ばれた口元は言葉を探って、日差しのような瞳はおそるおそると室内を見渡す。簡素な調度品に、控えめに飾られた花。受付だろう信者達は皆揃いの白いケープをかぶっている。
 そのうちの一人がいかがなされましたか、と声をかけてきたならそちらを向いて。
「ここに、少し興味があるんです」
 そう言って折り目正しく頭を下げれば、無害な入信希望者のフリは完璧。人畜無害といったていでいて、演技は青年の得意とするものだった。ほっと安心したように吐き出す息ですら不自然な様子は欠片もない。
 信者も疑わぬ様子で、ユオルを来客用のテーブルへと手招きした。どこでお知りになりましたか、今のご家族はどうですか。重ねられる質問には、あらかじめ決めておいた解答を淀みなく返せば相手の口はよく回る。
 適度に頷きを返すものの、当然入信が目的は無い。
 本来は怪異の子供――クヴァリフの仔の回収が今回のお仕事。真白の子供じみた探究心を抱えるユオルにとって、怪異の触れる機会は喜ばしい出会いだ。彼らの持つ特性は人の描く科学や理論、そういったものを飛び越えた所にある。
 想像の埒外にある何かに触れるその瞬間、喜び。他の何かでは替えの効かない知識欲を、いつだって追い求めている。
 けれど。
(家族、かぞくかぁ……)
 並べ立てられる”家族のつながり”とやらはユオルにとって未知のものだ。あったであろうそれは、15年前|青年がめざめた《取り替えられた》ことにより壊れている。彼にとって両親と呼ばれる立場の人間は、変わり果てた子を忘れて久しく。今は穏やかに暮らしている筈だ。
「そうですね、その通りだと思います」
 子は幸せになるべく生まれてくる。信者の言葉に異を唱えるつもりはなく、ただ柔らかく青年は微笑みを浮かべた。
「ボクは傍でその手助けをしたいんです。でも自信が無くて…」
 そっと自分の胸に手を当てて、目を逸らす。
「皆さんの思う家族像や、ここの環境を参考にさせて頂けませんか?」
 何ならお手伝いをさせてください。再び視線を戻して自信なさげに笑いかければ、もちろん良いですよと信者も笑い返す。
(我が子を慈しむ親心とは一体何だろう)
 得られなかったその愛情とやらを、欲しているわけではない。もうそんなの今更だ。求めているならばもっと昔に求めていただろう。響かぬ信者の言葉はユオルの演じる誰かの上を滑って流れていくだけだ。
 けれどもその未知を――知りたいとは思う。
 己の中のどこにもないそれが、果たして人々の中でどんな|形《感情》をしているのか。

 未だ知らぬことは世界に溢れている。
 心の内側も、その例外ではなく。

千桜・コノハ

●欲しいものは、

 人が哀れみを抱き、手を差し伸べるのは相手を甘く見ているからだ。
 現に不安げに瞳を揺らして教団の扉を開けた千桜・コノハ(宵鴉・h00358)に対して、信者たちは小動物でも可愛がるかのような声で接してくれる。
「生まれて間もなく両親と生き別れまして……」
 まだ無垢さを残す不安げな声色は少し震えて、言葉を詰まらせていた。演技だとは知らずに労わるような声をかけられた事を、内心冷ややかに少年は聞いている。
 被った猫の分厚さを見破れない程度に、彼らは一人の人間に興味は無いのだろう。
 それで家族の繋がりだのとは笑わせてくれる。
「血の繋がった兄がいたんですが……兄も今は……」
 俯いて、一度鼻をならす。すみませんと呟き、滲んでも無い涙をぬぐうふりをして、そっと自分の胸を押さえた。
 痛みもしないそこは常と変わらぬ鼓動を刻んでいる。
「だから僕、家族が欲しいんです」
 切実な思いを込めた――ように聞こえる言葉で、コノハは信者たちを見た。
 薄紅に空の色をした不思議な虹彩は嘘など無いと、まっすぐに訴える。事実、全てが全て偽りの言葉でもない。多少の真実を混ぜ込む方が、本物に見えるので。
 身寄りのない哀れで純真な少年。正しく彼らはそう理解をし、柔らかに労わりを見せてくる。
 大丈夫、ここにいればもう安心だからね。今日からみんながアナタの家族だから。
(薄っぺらい家族愛だな)
 繋がりや愛を語る口で彼らは誰かの命を奪う。何人も、失敗すれば代わりを捧げて。
 そのことを知っていれば話を聞くだけ心は冷めていく。
「ここが新しい僕の家……って思っていいんですよね?」
「ええ勿論」
 表面だけの価値観に、表面だけの取り繕いを完璧に返す。目を輝かせるフリをしてコノハはぱっと笑みを浮かべて嬉しいですと呟いた。

 折角なので見学していきますか? との言葉には当然二つ返事で頷いた。案内された別の部屋には年齢性別ばらばらの人間たちが、皆同じ白いケープをかぶっていた。傍目に奇妙なそれへ「仲が良さそうで素敵です」と言えば信者達は満足げだった。
(代わりがいる家族なんて本当の家族なわけあるかよ)
 手洗いを借りると部屋を出て、重い溜息を一つ吐く。
 大切な人は変わりがいないからこそ、どうしたって求める気持ちが揺らがぬものだ。寂しさが胸を焦がして苦しくなる。あたたかさを望んで渇いたままのそれは他のものでは満たされない。
 もう一度、今度は深く息を吐いた。
 まあ、いいや。気持ちを切り替えて冷ややかな春色の眼差しは廊下を見る。仄暗い、閉塞感だけが漂うビルの中は家族のあたたかさなんて物からは程遠い。
 口先だけの御飯事なら壊してしまっても、良心など痛まない。
(むしろ好都合だね)
 少し辺りを探ってから戻ろうか。コノハの足先は先程と違う方へ。
 疑われたなら「迷子だった」と、またひとつ嘘を重ねればいいだけだ。

シルヴァ・ベル

●薄暗きに蟠る

 商売には、何よりまずは笑顔から。
 良いものであろうと、相手の信用を失えば取引は成立しない。価値が高いものを扱う際にはより重要だ。
 金の髪をきっちりと結い上げた壮齢の女性が、薄青の瞳で微笑む。派手さは無いが質の良さが分かる品の良い装いの胸元で、輝石で作られた|二羽の燕《ブローチ》が静かにとまっていた。
「わたくしも独りですから。どうせならば良きことに財産を使っていきたいのです」
 子どもは好きだが、自分とは縁がなかった。各施設や団体を調べているうちにここへ辿り着き、その主張に心を強く打たれたのだと彼女は穏やかに続ける。
「是非とも皆さまのご家族に入れて頂ければと思いますわ」
 浮かべる笑みは穏やかなものだ。
 打算は何も感じられない柔らかさで、所作一つとっても人当たりの良い雰囲気をしている。
「生まれてくる子どものため、子どもを育てる父母のため、ぜひとも受け取ってほしいんです」
 小切手を差し出す指先も淀みない。対して信者の方は、何かの間違いでは無いかと思う金額に一呼吸分固まった。
「ああ、ごめんなさい。驚かせてしまいましたわね」
 困ったように、けれど悪戯好きの少女のような声でそう言われてしまえば、挙動不審なまま相手は深く頭を下げた。
 ――交渉に必要なのは、いかに場を支配するかということだろう。
 相手がそうと分からぬうちに出来ているのが良い。利用価値が高いと思わせられたのならもっと良い。
 混乱しながら震える手で受け取った相手へ畳みかけるように、資金の使い方などを問う壮年の女性――人間に化けた妖精シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)は答えに相槌を打ちながら続けていく。
「よければ帳簿も見せて頂ける?」
 一芝居打つ本当の目的へと密かに触れるために。

 部外者に見せるものに、全てを正直に記載はしていまい。だが金銭の流れとは正直なものだ。後ろ暗いことを隠そうとするなら、どこかで綻びが見える筈。
 タブレットに表示される数字を、薄青の眼差しが静かに眺めて。
「あら……随分水道代が高いのね」
「ええと、我々の被っているケープ、白色なので汚れやすくて。洗濯がしょっちゅうあるんです」
 指した箇所を信者がたどたどしく答えてくる。身に着けた真白いそれは確かに汚れも目立つだろう。だがいくら何でも異常な金額だ。あまり落ちなければクリーニングも頼んでいるとの事だが、果たしてそこまで|汚れること《・・・・・》があるものだろうか。
「じゃあ家族分、沢山洗濯機を回さなくてはいけませんわね」
「はい。でも騒音問題もあるので、今は地下に全部置いていますよ」
「あら大変。でも干すのは外でないと乾き辛いのでは?」
「この建物、屋上までの荷物用の小型エレベーターあるんです」
 最近は不調なので直通とは行かないんですが、家族の為なら我々も頑張れるので。そう言って笑う信者の笑顔は貼り付けたように空虚で、どこか淀んだ眼をしている。
 気付かぬふりで微笑みを返すシルヴァには十年より前の記憶は欠けている。だから彼らの語る『家族』なんて、自身にあまり関係のない言葉だ。思いを馳せても実体を掴み切ることは無い。
 けれど小さな身が知らぬとして、識ってはいる。
(わたくしの大切なひとたちが語るその言葉は貴いものです)
 幸福に語るその奥行きの、聞いてるこちらも幸せになれるような彼らの愛情を。
 だから今目の前で並べ立てられるものは歪なものだと分かる。
「少し見学もされていきませんか?」
「あら、嬉しいですわ」
 向かう先が分かったのなら、あとは隙を見て元の姿に戻り向かうのが早いだろう。
 全てを穏やかな笑みの下に隠し。信者の案内する仄暗い扉の奥へとシルヴァは向かっていく。

ララ・キルシュネーテ

●存在証明

(家族の繋がりを何だと思っているのかしら)
 ビルの裏口を見つめるララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)の、幼く愛らしい顔立ちに乗るのは冷たい感情だった。『かすがいの鐶』なんて、名前と表面だけは取り繕って、中身は最悪だ。全くもって反吐がでる。
 邪神の子だというならばララとてそう。迦楼羅と呼ばれる化生がこの身だ。彼女の両親だって彼女をずっと心待ちにして待っていてくれていた。望まれた命として歓迎して、とびきりの愛情を注いでくれていた。そのことを、幼い彼女はよく知っている。
 でなければ、何度も囚われても懸命に助けに来てくれなど――きっとしなかっただろうから。
(ララはお前達とは違う)
 怪異の子と己を重ねるなんて一笑に付すものだ。彼らに愛されたという事実が、強い矜持を彼女に与えている。
 だからこのような歪んだ教義を、誰よりも彼女は否定しなくてはならない。
 小さな足がそっと仄暗い中へと進み込む。小さな身が経てる足音はかすかに、辺りに響くこともなかった。雑多に積み上がった物陰は、小さな彼女が隠れ進むのには最適だった。
(こおり鬼よ)
 さぁ遊びましょうか。
 赤い瞳が瞬く。幼くも美しい白虹から漂う、甘く蕩けるの蠱惑。近くにいた|不可視の怪物《インビジブル》達がそれに触れたなら、光を放つ小さな鳥たちへと姿を現していく。
 形を変え眷属となった彼らは、小さく囀り彼女の傍へ。従順な姿勢を、けれど少女は当然と受取り小さく笑いかける。
「お前達、信者のよく入る部屋や儀式後に向かう部屋はないかしら?」
 例えば生贄に使う者を捕えておくところ。生まれ落ちた仔がいるなら、その居場所。後ろ暗いことなら隠されているかもしれない場所を、漂う彼らなら知っているかもしれない。
 返事の代わりに、ひかりの翼が羽ばたいた。音の無いそれが、ララを導くようにして廊下を飛んでいく。薄暗さの感じる場所では目立つ代わりに、導としては最適だ。とん、と小さなつま先が彼らと共に闇を探索する。
(親は仔の生贄ではないわ)
 そのはずだ。
 そうであってたまるものか。
 ちらつく彼らの言葉が呼ぶ不安は、すぐさま怒りへと転じていく。
 階段を上る道中。出会った信者がララ達の姿に驚き目を見開こうとも、やわい白虹が向けるあかい眼差しに捉えられてしまっては為す術もなく。小さな手が軽く触れたなら、力を失ったように相手はその場に座り込む。
「気にしないで、すぐに終わるから」
 高くて澄んだ甘い声の奥に秘められた真意に、気付かぬままでいるのが彼らの幸福だろう。
(お前達の行為が、ララは気に食わない)
 歪な教えに、終焉は今日訪れる。
 幕引きを担うひかりと白の小鳥たちは、静かに駆けていった。

小沼瀬・回

●親仔の情

 人を外見で判断するのは愚かだ。
 だが印象に影響を感じぬ者は少ない。果たしてその者が安全か否か、誰しもが判断の材料とするだろう。
 黒に沈んだ赤を身にまとう長身の男――小沼瀬・回(忘る笠・h00489)が背を丸めれば、白い相貌に落ちる影は色濃くなるばかり。ただでさえ豪雨を浴びてきたと言わんばかりの顔つきであるというのに、より青褪めたように見えただろう。不幸の海底に沈んだまま、這い上がって来ぬ人間がいればきっとこんな見た目をしているに違いない。
 そう感じてもらえたのなら、それがいい。
「私は子を愛していたが、それを失ったばかりでね」
 今騙るべき身の上話には最も適している。
 施設を表から、静かな声で尋ねた男がそう切り出せば信者達は皆納得したようだ。ぽつり、ぽつりと雨垂れのように落とされる言葉に彼らは知らず耳を傾ける。
 とはいえ回の身は、元より物言わぬ一本の唐傘だ。親子と言われても、そのどちらも彼にとって無縁の存在に他ならぬ。
 ただ作り主が、家族へと向けていた愛は知っている。父として子に向ける情がどのようなものかを、物言わぬ間にも見ていた。
「ゆき場を無くしたこの情を、繋ぐ鎹が、欲しかったのだ」
 骨ばった両の手を、じっと回は見つめた。よくやったと褒めて子の頭をなでる彼奴の手付きの優しさ。ものに触れるのとは違う、慈しみのこもった手付きを思い出しながらそっと指を握り込む。
「あの子は天使のような子だった」
 答える子の笑顔は明るく嬉しそうだった。
「あの子の為なら、何でも出来た」
 そう言って家族の為に働く姿を見ていた。
 思い出を探すように、黒い瞳は一度瞼に閉ざされる。随分と懐かしい記憶だ。良きも悪きも過ごす人生の、彼らの情に歪みは無かった。
「この世に未だ望めるだろうか」
 そんな――家族を。
 現在、器物の男は一人の娘の保護者でもある。不器用ながらに、晴れやかな彼女の成長を見守る日々だ。
 故に実感する。
 誰かの繋がりの代わりになど、容易く成れるものではないと。それが人ではない尚更だ。欠けた孤独の影に収まるも埋まるも、簡単に言って貰っては困る。
(余りにも、図々しい)
 子に情を傾ける事実に異を唱えるつもりはない。
 けれども命を賭す相手となるならば、こちらにだって選ぶ権利はある。
 ふ、と瞼を開いて信者を見ればにこやかな笑顔が返って来ていた。
 かくも白々しい笑みもあったものだ。態度には出さぬまま回は相手の出方を待つ。
「もしあなたが望むのなら、私どもと新たな仔を迎えませんか」
 どうぞこちらへ。
 そう言って、信者達は奥へ続く扉を開く。仄暗い狂った教義の胎の中へと手招きをする。
(――ああ、なんて悍ましい)

一文字・透

●大切を守るため

 「……うん。うん、ありがとうございます」
 |不可視の怪物《インビジブル》へ律儀に頭を下げて、一文字・透(|夕星《ゆうづつ》・h03721)は件のビルの裏口へと静かに駆けていく。その背中に、「気を付けて」とかすかな声がかけられた。
 彼らが言うには、裏側は白いケープを着た人が良く出入りをしているという。逆に表の方は、多くは無いが多様な人間が訪ねてきていたらしい。
 ただ、そこから出てきた人は半分ほどだという。
 嫌な感じだ。出てこなかった人達がどうなったのかを考えて――振り払う。今考えても足を止めてしまうだけでしかない。服の胸元を無意識に強く握って、ぽかりと口を開けたままの裏口へと足を踏み入れる。
 雑多に物が積みあがる廊下は仄暗い。足音を立てぬよう気を付けて、物陰へ隠れながら進んでいく。かくれんぼのようでいて、遊びではないなら妙な緊張感が神経をとがらせる。
(儀式、するならどういう所だろう)
 廊下の塞がれた窓は外から見えないだけではなく、中から助けを呼んでも気付かれにくいだろう。防音室などがあればよりそれらしいか。
(ある程度の広さも必要だよね)
 頑丈に閉ざされている扉の一つに立ち止まって、耳を当ててみる。ひそりと人の気配がしているが、外から見る限りでは狭い気がする。そっと離れて別の場所を探そうとした時だった。

「……儀………祭壇……」
「……準備が…………新しい……」
「贄が…………」

 進もうとした先から誰かの声がして、透は慌てて近くにあった箱の後ろへ身を隠した。心臓がドッと跳ねてうるさい。口を手のひらで押さえて、出そうになった悲鳴を飲み込んで、息を殺す。
 あまり喋りが上手い方では無い自覚がある。もし信者と鉢合わせて問い詰められても、上手くごまかせる自信なんて無かった。どうかバレませんようにと強く祈る気持ちで、瞳を閉じる。
 果たしてそれが届いたのか。少女が隠れる場所より先にあった階段に、信者たちは向かったようだ。登っていく足音がして、安堵の息を細く吐き出す。
 そっと、階段の方へ近付く。無理な深追いは駄目だが、先程少し聞こえた言葉は、探している正解に近い気がした。ぎりぎり追える足音の距離を保って、けれど他の気配にも気を配りながら後をついてく。
(楽しそうな声だったな……)
 家族という繋がりを得て、彼らはきっとこの中で幸福なのだろう。そのことは否定しない。
 透も、今一緒に暮らす家族とは血の繋がりはなかった。けれど本当の家族だと、父のことも兄のことも慕っている。大切な人達だ。
 そう思うからこそ、嫌悪感が募ってしまう。
 彼らに向ける信愛を否定されるような、悪いことに利用されているような、ひどく悲しい気持ちが心の奥に積っていく。

柳楽・鷹

●罪の真偽

 何事にも向き不向きがある。
 そして不向きなことは避ける方が無難だ。背の高い柳楽・鷹(高校生霊能力者・h06165)にとって隠れて潜入することは少し、いや大いに難しい。想像したところですぐに見つかってしまうことしか浮かんでこない。
 ならば正面切って挑む方が良いだろう。
「年の離れた、弟がいたんです」
 ぽつりと、小さく落とされた。案内された応接セットの椅子が小さく見えるほどの長身から発するには弱弱しい声。

 それはたった二人きりの大事な兄弟だった。
 たまに喧嘩ぐらいはしたけれど、仲は良く。どちらもが、どちらもを大切に思っていた筈だった。鷹も日に日に成長していく弟を見守ってきたのに――悲劇はほんの一瞬で訪れる。
 買い与えた玩具が落として転がって。少し目を離した隙に彼は車道へと飛び出していた。
 その後のことは良く覚えていない。何かを叫んだ気がして、何も叫べなかったのかもしれない。駆け寄って、喪われた命を未だに自分は信じられないままでいるのだから。

 震えた声で語られる過去は悲哀に満ちていた。最後の方は言葉を詰まらせながら、鼻を鳴らす。
「弟のことは守れなかった……だからこそ、「家族の繋がりを重んじる」この教団に身を置いてみたいんです。より強い絆があれば、僕はもう二度と大切な人を失わずに済むでしょう……?」
 眼鏡を外して目元を拭った。
 けれども拭いきれなかった雫が、ぽつりと青年の頬を濡らす。
「その為なら|全てを捧げても構いません《・・・・・・・・・・・・》」
 次に生まれてくる子どもたちは守られるべきものだ。
 そう信じて疑わない声に、対応する信者が大丈夫ですよ、お辛かったですねぇと優し気な言葉をかけてくる。その奥に、ほんの少し喜色が滲んでいるのが隠せていない。
 演技にしては大袈裟だったかという危惧は無用だったらしい。
(まぁ身内を亡くしたばかりなのに冷静な方が異常だしね)
 そういう手合いはきっとよく来るのだろう。そしてそれを食い物にしてきたのだろう。
 俯いて「有難うございます」を告げる鷹の黒い冷ややかな眼差しは、彼らに気づかれることは無かった。
「最近もあなたのような方がいらっしゃって……でも新しい末の家族を得られて皆喜んでいたんですよ」
「……本当ですか?」
「ええ、だからあなたも大丈夫。悲しむことは何一つありませんよ」
 真相を知っていれば欺瞞にあふれた言葉だ。
 けれどそれは知らないふり。代わりに期待と喜びを滲ませた表情を作って、鷹は身を乗り出す。
「俺にも会わせてくれませんか」
 断られたって良い。不自然ではない程度に、仔の居場所を探るのが目的だ。他の場所を案内してもらえば、案内してもらえなかった場所にこそ儀式の場がある。
 どこまでも冷静に次の手を。表に出す感情面だけでは分らぬものを抱えて、交渉の手札を切っていく。
 信者はほんの少し迷ったようだった。それもそうだろう。彼らにとって仔は大切なものの筈だ、そうおいそれと部外者に合わせる筈はない。
「分かりました」
 けれど回答は許容を示す。
「いいんですか?」
「ええ、ただ彼らはまだ小さい。あなたに会うと驚いてしまうかもしれません。だから、」
 いい笑顔だった。
 自分たちの行為に何一つ疑いなく、それが良いものだと信じている。目の前の哀れな青年を救ってあげようと、そんな善意すら見えるような笑顔を信者は浮かべている。纏った白のケープが白々しい色で、やけに眩しく見えた。
 鷹の前に手が差し伸べられる。
「あなたも一緒に願いに行きましょう」
 新たな命を望むために。

 仄暗い廊下を案内され、進みながら鷹は静かに考える。
 儀式の成功が重なるたびに、彼らのゆがみは大きくなる。放っておけば被害者は増えていくばかりだ。
(……早く片をつけないとね)
 胸に巣食う罪悪感が、重みを増す。

 生贄なんて――碌なものでは無いのだから。

鬼哭寺・アガシ

●対話の心

 認識や理性など、異質な場ではそう保てはしない。
 世の中とは多数が『正常』と処理される。飲み込んだ疑問は周囲の情報に飲み込まれてすり潰されて消えるのが常だ。
 何も知らなかった。軽い気持ちだった。何か縋るものが欲しかった。理由がいずれにせよ、歪んだ教団に紛れ込んだ夫婦にとってみれば地獄の片道切符だ。窓は全て塞がれて逃げ道は無い。同じような白いケープを被った人々が浮かべる笑みは皆張り付けたよう。話しかけてみても、どうにも奥へ奥へと案内されている気がするばかり。
 外に出たいなどと言い出せる空気ではなく、気持ちばかりが焦る――そんな時だった。
「大丈夫です」
 上から降ってきた低く小さな声に、彼らは大きく肩を震わせる。
 驚かせて申し訳ありませんと続く声には労りが含まれていた。見上げれば、随分と体格のいい男が一人。黒尽くめに身を包む、灰色の髪。威圧感はあるが、深い黒の眼差しには他の者達とは違う理性が宿っている。
 震える声であの、と語りかける夫妻の背をそっと優しく叩く。大丈夫、ともう一度口にするよりその大きな手は安心感を明確に与えただろう。辺りに漂う歪な空気が一時薄れて、呼吸が楽になる。
「自分が外まで案内いたしましょう」
 さぁこちらへ。
 男――鬼哭寺・アガシ(不明居士・h04942)は哀れな一般人を連れ、ビル内を歩んでいく。

 時間は少し前に遡ろう。
「自分は、生まれからの寺院育ちで。父母の顔や、家族というものを知りません」
 教団を訪ねたアガシは実直にそう告げる。
 他宗教のものと聞いて、受付で対応した信者は警戒したように表情を変えた。けれどそれに気分を害した風でもなく、大男は淡々と言葉を重ねていく。ここへ来る前にも、星詠みが驚くほど丁寧な挨拶をする真面目さを持ち合わせている彼にとってみれば、動じない事こそ他者との対話姿勢なのだろう。
「……ですが、教えを授かり。祈り、拝し。役割を得て、捧ぐ喜びは。幸いなものと存じております」
 どこまでも真っ直ぐな瞳は彼らを否定しない。ただ、夜の海のように静謐な空気だけを纏って、全てを包み込むような低い声が心地よく響く。
「よろしければ自分も、皆様と。尊いかたを迎える準備をさせていただきたいのです」
 たとえ教義が異なろうと、歪に思おうと、信仰を抱く者としては同じく。どれほどそれを大切にしているかという点は理解できる。たとえ罪人であろうと尊重されねばならない部分だろう。
 彼らを頭ごなしに糾弾する心も、言葉もアガシは持ち合わせていない。
 それに孤独と寄り添う彼らの教えは、彼にとって興味深い話でもあった。人の本質を正しくとらえている。もしかすると、始まりはもっとささやかで、優しいだけのものだったのかもしれない。ゆるやかに歪な変化を、静かに遂げただけで。
 嘘偽りのない言葉というのは、真摯な態度でこそ伝わるものであった。礼節を欠かぬ態度も良かったのだろう。警戒を少し緩めた信者が、少しお待ちくださいと告げてしばらく。
 こちらへと、ビルの内部へ続く扉へと案内された。


 人気のない裏口へと夫妻を逃がす。
 礼を言って足早に去っていく彼らを見届けて、アガシは来た道を戻る。運良く逃がせたのは運が良かった。善良な彼へ御仏の加護もあったのかもしれないが、真偽は分らない。
 ただ、信じるというのは誰しもに許された権利だ。
 それを悪用するというならば、酷く悲しいことだと思う。ましてや、邪神の仔が絡んでいるというならば見過ごすことは出来ない。彼個人としても、|警視庁異能捜査官《カミガリ》としても。

 はぐれた自分を探す案内役の声が聞こえる。そちらに返事をしながらアガシは足を早めた。

第2章 集団戦 『狂信者達』


●空っぽの団欒

 閉ざされたそこには奇妙な部屋だった。

 裏から忍び込んだものは得た情報から、もしくは出会った|能力者《仲間》がいたならば協力し合い、そう遅くも無い辿り着けただろう。
 表から入った者は、信者たちに連れられて容易くそこへたどり着いただろう。もしくは彼らを撒いて、自力で辿り着いた者もいるだろう。

 それは二階の一室だった。中央にはラグが敷かれ、上にはローテーブルが一つ。それを囲むようにソファがある。モデルハウスのリビングめいた無機質さで、けれどかすかに、先程まで人がいたような気配漂っていた。

 ――ここはなんだ?
 このような場所には似つかわしくない、誰かの家のような一室へ。異質を感じた誰かがいれば、そう呟きもしただろうか。
 団欒するための部屋には似つかわしくない、ローテーブル横には大きな大穴がひとつ。何かを引きずって落としたような跡が、赤く線を引いている。
 薄く開いた奥の扉には、階段が見えている。
 情報を照らし合わせれば、どちらもが地下へとつながるものだと気が付いただろう。

「ああ、みなさま――おいでくださったんですねぇ」
 案内をしてきた信者の一人がそうつぶやいた。
 貼り付けたような笑みの、瞳の奥は虚ろだ。
 そうして身に着けたケープが端からジワリと赤黒く染まっていく。それは他の信者達も同じようで、一様に似通った笑みを浮かべた彼らは昏い色へと転じていく。
 おいで、と誰かが呟く。ざわめきの様に広がるそれが、合唱のように響きだすのはすぐだった。
「あなた方も仔を愛するのでしょう」
 いつから手にしていたのか分からぬ、錆びついた凶器を引きずって能力者たちににじり寄る。床と擦れる耳障りな音が響く。
 おいで。
 揺らめく黒い影が、炎となって燃え上がる。
「ええ、ええ。あなた方の命があればきっと、もっと沢山の仔をいただけますからね」
 嬉しいでしょう? にこやかな声が淀んだ暗さで響く。
「いつもは両手両足を切り落としてから連れて行くので、申し訳ございませんが皆さまもそうなっていただきたいと思います。
 仔の為ならば些細な事でしょう?
 そう言って怪異と変貌しつつある彼らは、能力者達へと襲い掛かる。

 信者達を倒しきって、階段で堅実に進むのもいいだろう。
 野放しに出来ぬ者もいるだろう。灸を据える必要だってある。
 もしくは彼らを無視し、大穴に飛び込んだっていいだろう。
 地下で儀式が行われているのなら、今急げば間に合うかもしれない。

 どちらにせよ。
 向かわなくてはならぬのは、地の底深くにある――儀式の場だ。
玉巳・鏡真
詩匣屋・無明
焦香・飴
五槌・惑

●無慈悲は誰の為成るか

 生きることには価値がある。
 命あるものは皆そうだろう。ただ此処においてそれは、消費するまで死ななければいい、などという歪な考えのもとに成り立っている。
 四肢を切り落とされ芋虫状態。そこからおおよそ二階分の落下をし、生き永らえる確率は如何程だろうか。まだ首を絞めて殺してやった方が、双方にとって簡単で優しい結末だろう。
 彼らが親と称する贄の|悲鳴《鳴き声》も、怪異にとってみれば食事を美味しくするスパイスの一部か。馬鹿馬鹿しい、全くもって反吐が出る。
「|かみさま《クヴァリフ》とやらは死んだ後も面倒を見てくれるのかね? 俺が鬼じゃなくて残念だよ」
 彼らとて元は同じ人間である筈なのに、信仰一つでこうも狂えるものなのか。
 悪辣外道もここまでくると一級品だ。玉巳・鏡真(空蝉・h04769)の吐き捨てるような言葉にも、信者達は動じない。子どもの癇癪を微笑ましく見守るように、貼り付けたような笑みを向けるだけ。
 価値観の相違というには生温く、ただの害意とするには遠くは無い。
「ああ、もうダメですねこの人間たち」
 早々に対話を切り捨てることにして、焦香・飴(星喰・h01609)は肩を竦めた。善意ほど融通の利かぬものも無かろう。罪悪感など欠片も持ち合わせていないのは、隠す気もなく行われた自白が最も分かりやすい。
「安い変装ももう要らねえな」
 ならばもう似合わぬ白など纏わなくて良いことだ。被っていたケープをはぎ取って、五槌・惑(大火・h01780)は遠慮なく床へと投げ捨てる。小さな音だけを立てて、呆気なく捨て去られた布の白々しさが場にそぐわぬ軽さだった。
「そうですね――ではお返ししますね」
 対する飴はやわらかな笑みを浮かべて、信者達の方へと放った。彼らと能力者の間でふわふわとゆっくり落ちていくそれが地に着くよりも、早く。踏み込む軍服姿に、少し遅れて長い焦香色の髪が揺れてなびいた。容赦ない正面からの蹴りで最前列にいた信者が盛大に吹き飛ぶ。

 それが戦いの合図となった。

 危害を加える気に溢れているのに喜色を纏う者達に統率など欠片も無い。ただ闇雲に武器を振り回して、能力者達を捕まえようと腕を伸ばしてくる。
 それを潜り抜け、人の動きの影に隠れて音一つ立てずに鏡真は乱戦を潜り抜けた。繁華街の人混みを行く自然さで、気配は薄く空間に馴染んで溶ける。何よりもそれが不自然であるのに誰もが彼を目に留めない。
「詩匣屋、大穴に向かって一直線に走るぞ」
 向かう先は二つある。だが階段などを使ってのんびり折りていられるか。早々にこんな場所は片付けてしまうに限る。何より愚かに過ぎる者たちをまともに相手になど、していたくはない。
「否応も無しに進むでない」
 声をかけられた詩匣屋・無明(百話目・h02668)の咎めるような声も聞きいれる様子が無いようだ。むしろ幽霊なのだからこっそりやるのは得意だろうとばかりの視線を寄こす始末。
「真っ直ぐなのはお主の美徳だが、時に人を振り回す癖がある」
 幽体の溜息は空気を揺らさない。代わりに手近にいた信者の一人を、見えぬ位置から足を煙で巻き取って転ばせておく。
「わしにこだわりがないことを有難く思うのだぞ、きょーま」
「いつも感謝してるだろ」
「減らず口め」
 軽口を交わし合ったとて、静かな師弟が進むのを見咎める者は多くは無い。目晦ましのように前線で暴れる二人組が、轟々と派手に炎を上げていたのも大きいだろう。
「人に強いる前に、アンタたちの命を焚べたらどうだ」
 今なら火葬の手間も省けるおまけつきだと惑は嘯く。立ち上る信仰の炎を、彼が操る火柱がかき消して散らしていく。声色は酷く低い温度であるというのに、攻撃ばかりが遠慮のない高音だった。弾ける火の粉がちらちらと薄暗い室内を照らして跳ねていく。
「うわ、惑さんそれ派手でいいですね!」
 場違いにはしゃぐ声が隣から聞こえて、それと同じタイミングで火柱の向こう――信者が多い方へと二人揃って飛び込んだ。殴りかからんとしてきた相手の顎を惑が掌底ではね上げて、飴の蹴りが足元を掬い上げる。見事に一回転する勢いで頭から床に落ちた信者には目もくれず、けれど敵の視界を遮るように火柱は再びあがった。
「いや熱ッ、はは! 派手なやんちゃ、好きですよ」
 仕事だと分かっているのかいないのか。戦いの場でなければ両手を叩いていそうな明るい声。
 否。無邪気に笑う飴にとってみれば、面白ければ気分が上がるもの。惑もその気質をよく理解しているのだろう、猛獣の放し飼いとばかりに惑の操る炎に加減などは一切ない。
 ただ一度だけ、琥珀色の眼差しが向けられて。
「アンタ相手に細かい調整する気はねえ、焦げないように気を付けろ」
「はいはい、あなたさては我儘だな」
 おざなりな注意事項には仕方がないなとばかりの口ぶりで、すっかり乗せられていることなど知らず。炎の影から飛び出してきた信者へご挨拶代わりに二人分の長い脚は振りぬかれる。
 信仰を叫ぶ声と、悲鳴と笑い声。
 随分と賑やかな戦場だ。その派手さは先に進む二人にとって何より好都合だった。とはいえ全てを誤魔化せるわけではない。地下へと続く場所で待ち構えている者も少なくは無いのだから。
(少々骨が折れそう、ではあるが)
 走り抜けるには邪魔で、けれど隙間が無いわけでもない。ならばほんの少し退いてもらえればいいだろう。するりと無明の体がたなびく煙のように流れゆく。相手が怪異になりかけている以上、攻撃を喰らえば多少痛くはある、が。
「ほれ、どこを見ておる」
 捕らえづらい残像ばかりを残してやれば簡単に騙されてくれる。それでも尚武器を振りかぶろうというのなら、致し方ない。
 この場が人の命を奪っているなら必然、澱み犇めく魂がいくつもある。恨みを抱えて信者達を眺めている者だって少なくは無い。
 彼らにだって復讐をする権利を差し出そう。
「お主らが招いた客人だ。たんと嘆きを聞くがよい」
 |場所の入れ替わり《インビジブル・ダイブ》は瞬く間に行われる。無明の目の前にいた信者に、犠牲者の魂が霊障となり触れる。
 心臓を冷えた手で掴まれたような、怖気のする感覚が彼には走ったことだろう。びくりと体を震わせて、成すすべもなく倒れ伏す。気を失っただけならば優しいことだ。
 その背を踏みつけ道として、鏡真が駆けていく。やっぱり得意だったな。ぬかせ。男と幽霊のやり取りは短く、けれども信の感じられるものだった。
 さて大穴まではあと数人。流石にもう誤魔化しは効かぬだろうが、もう構うまい。大暴れを見ても折れぬというなら、それは覚悟があって向かってくるのだ。
 刹那、鏡真の姿が掻き消える。
 それは踏み込みから跳躍までがあまりに一瞬であったため、そう見えたに過ぎない。武器を振り上げる隙も、炎が立ち上がる隙もそこにはありはしない。
 ただ、銀の瞳と静かに目が合って――おしまい。
 喉元に深く突き刺さったものが何であったかすらも分からずに。どう死んだのかなど、意識する間もない犯行だった。
 慈悲は無く、無駄な苦しみすら与えずに。
「俺のがよっぽど優しいだろ」
「|暗殺者《ひとごろし》が優しさを説くとはな。世も末かのう」
 殺すことに躊躇いが無いという殺人者らしさ。だというのに、彼は今、理不尽な信仰を喜ぶ者達へ怒りを持っている。何らかの美学というわけでもなく、ただそういう生き方をしているのだ。
 大穴へと飛び込む背を眺めながら、無明は小さく呟く。
「お主はどうも、チグハグで奇妙な男よ」

 さて無自覚に陽動側を担った二人の方は随分と酷い蹂躙を見せていた。
 倒れた人物がどうにか武器を拾おうとするのを惑が強く踏みつけて、侮蔑のこもった視線で見下ろす。情けない悲鳴が耳障りだ。髪を掻き上げて、心中で嘆息する。
 そのまま体重をかければ――骨の、軋む音がした。
「些細な事なんだろ?」
 淡々と冷えた声色が、戦場の中で静かに響く。
 これで馬鹿げた真似を反省するならそれでいい。出来ないのならば、せめて己の行いに近しい痛みを味わうといい。二度と、このような真似が出来ぬように傷をつけ、罅を入れ。魂に刻み込んでしまえば繰り返されることはないだろう。
「ね、次は合わせてくれますね?」
 打って変わって飴の楽しげな声は何一つ変わらない。何がだと問うより早く、人間災厄の手足から焔がごうと上がる。赫々とした揺らめきが、暴挙に似つかわしくない微笑を浮かべる飴を照らした。緑の瞳の奥だけが、子どもじみた無邪気さを隠さない。
「惑さんが信者へ仕置きをしてくれるなら、後片付は俺がしましょう」
 握り込んだ拳が振るわれたなら、炎は辺りへと広がっていく。
 さぁ目一杯遊んでくれますよね。惑の繰り出す火柱と共に広がったなら、威勢のよく焼け付く肉の匂いごと燃やし尽くしていく。逃げようとするものを蹴りつけ殴り、還る場所は|こちら《炎の中》だと言わんばかりに炎と災厄が踊っている。
 火の粉が煌めくさまは美しく、そして無慈悲だ。怪異と成り果てた信者たちを物言わぬ灰へと変えて、焔は全てを呑み込んでいった。
「……加減が必要でしたか?」
「アンタが加減出来ると思ってねえよ、『星喰』」
 大暴れには呆れた口ぶりで、惑に付け足された呼び名。緑の瞳が驚いたように一度見開かれて、まじまじと向けられた。それから肩を揺らして飴は小さく笑う。
「ふふ、久々に呼ばれましたね、それ。結構気に入ってるんですよ」
 例え呼んだ者達の大半が、既にこの世から居なくなっているのだとしても。己を示す災厄の名は|星《いのち》を奪うにふさわしい。
 大した根性だ。否、人の形をして、人でない者であるなら常識の枠外か。
「急ぐぞ」
 どちらにせよ手に負えるものではないなら、好き勝手にさせておくのがいい。

 再び群がろうとする信者を火柱で追い払い。
 目指すは、地下へと続く階段へ。

花倉・月笠
狗狸塚・澄夜
アナスタシア・ケイ・ラザフォード

●水底の雪花

「こんな所にあったのでございますね」
 冷えた声が歪な室内へと落とされる。
 アナスタシア・ケイ・ラザフォード(悪夢のメイド・h05272)が向ける銀の視線の先で、異形となりつつある信者たちが笑っている。
 ああ、邪魔者の鬱陶しいこと。奥にある本命――大穴までの道に立ちふさがる彼らの、なんて邪魔なことだろうか。ひと塊の生き物のように群れをなして、手にした凶器はこちらへの害意だけを感じさせている。
 惨劇は言い逃れも無く目の前の彼らが起こしたのだと、雄弁に過ぎる。
(苦海の波に浚われた海月の方よ。今、貴女の……否、貴女達の無念を晴らそう)
 ただ一度の邂逅をしただけの被害者。その仇討ちなど、狗狸塚・澄夜(天の伽枷・h00944)が行う義理はないのかもしれない。けれど悲痛な声を聞いたのも、また澄夜だけであるならば。
 これはきっと、一つの弔いの形だ。
「汎神解剖機関・主任職、狗狸塚――此れより仔の接収及び咎人の鎮圧を開始する」
 男の足元で影が揺らめく。
 思いに応えるように|荒御魂《スマリ様》が狐火を浮かばせた。ひとつ、ふたつ。みっつと増えて跳ね遊ぶ子狐がじゃれつくように、信者達へと襲い掛かる。
 それを追いかけるようにして、アナスタシアも静かに駆けた。かすかな足音と揺れる尾を引いて、ナイフに手を伸ばし――思い直したように、何も掴まぬまま拳を握った。
 飛び出してきた炎と女に対して、けれど相手は何一つ動じない。迎えるように広げられた両腕と、手にした武器は振り上げられる。立ち退く気はさらさら無いらしい。
 なるほど、いい覚悟をしている。
 それなら、壊してしまってもいいのだろう。
 信者達の衣服に炎が燃えうつる。熱さに叫ぶ声に女の鋭い蹴りが胴へと放たれたのなら、その体は軽々と吹き飛ばされた。一度二度と転がっているうちに消火はなされど、もはや動くこともない。
 汚れひとつない給仕服を纏うアナスタシアにとって、壊すことは何よりも得意だった。武器を持つ手を蹴り上げ、膝を砕き、つま先は音もなく信者達へと食らいつく。
 その動きを脅威とみなしたのか、それともただ贄と捕えようとしたのか。いくつもの手が伸ばされど、彼女をつかまえるには至らない。
「ここは海――|私《わたくし》の領域」
 命の行き着く昏い海底なれば、獰猛な鯱こそが絶対的な王者だ。
 床を強く踏み抜いてアナスタシアが一息に跳躍すれば、瞬きの間もなく信者の目の前へ。銀の瞳に、揺れる藍の髪。それらを認識するよりも早く蹴り飛ばされたなら意識は刈り取られる。
 容易い獲物だ。温度の無いままに影を纏い隠れて、彼女は静かに次の獲物を待つ。
 消えた女の姿に驚いたのは信者だ。慌てふためき意味もなく振り回される武器に、澄夜の放つ弾丸や符が飛び交って阻害する。
 物理的な排除が行われたなら道は開かれていく。所詮は素人じみた動きだ。腕の立つ者たちにとってみれば、ただ数が多いだけの障害に過ぎない。
 それでも戦闘が不慣れなものにとってみれば、刃物などおそろしいものな訳で。
「いくらくらげとはいえ、おれにだって痛覚はあるんすけどーっっ」
 ひときわ大きな悲鳴をあげて逃げ惑う、淡い水色の花倉・月笠(童話の魔女にはなれないが・h00281)の姿はよく目立っていた。ふわふわと漂うばかりが性分だった|過去《海月》から比べて、人間の体は動かしやすい。しかし万全に動き回れるかと言われると、そんなことはない。人間皆アスリートではないのと同じで、向き不向きはどうしたってあるものだ。しかも人が多くて動き辛いことこの上ない。
「家族には詳しくないけどー、これはやっぱりおかしいと思うっすーっ」
 振り下ろされた己が前髪を数本千切っていく。当然ながら月笠の知っているご家庭でこのような所業をしている者もいない。もしかしたらどこかには、なんて思えるほど常識が欠けているわけでもないなら、ここに対する印象は”異常”の一言に尽きた。
「シャコ太ーっ!」
 暴力行為は是としなくとも、抵抗しない生き物は愚かだろう。
 月笠が呼び出す、青く透明な巨大な甲殻類。場所が違えば幻想的な一匹だ。けれどこの場にそんな穏やかさは誰にもない。大きく体をしならせて尾の一撃を信者たちにお見舞いすれば、数人の人影が見事に吹っ飛んだ。それを後ろから援護するように月笠の水の刃が飛び交えば、もう彼らへ容易く近づける者などいない。
「えらいっすよー」
 労りの声をかけてシャコ太の背に乗り、操る水の魔法で援護に徹する。
 海月と甲殻類が水面で遊ぶように駆けまわれば、深い水底から鯱が飛び出す。海中の夢と見るならまだ幸せで、けれどここは戦場なのだと降りだした花弁が語るは雄弁。
「スマリ様、嘗て我らが暮らした霊域を今此処に顕し給え」
 開いた道の真ん中で、澄夜の祝詞は短く告げられた。
 甘やかな香りに、真白い花が降る。神域と化した空間で、美しい雪月の夜天の元に梅花が落ちていく。
 それが死招きの腐毒だと誰が知り得るだろう。
 触れた信者達が倒れ伏して、花弁へと埋もれていく。それを見る青い眼差しは静かだ。それもそうだろう――無辜の命を代償と悲願を果たさんとした彼らに、かける情けなどはない。いずれ捜査の手が広がれば、彼らが大事にしていた”家族の縁”にまで罪を問われる筈。そのようなことも、分からなかったというのだろうか。
 心中に広がる苦みに、澄夜は思わずと奥歯を噛んだ。だが展開する術を緩めることはなく、神経は研ぎ澄ましたままだ。
 咎ある者は罪に潰され、無辜なる者の魂を弔う――それが、彼が自ら背負うと決めた覚悟なのだから。
 痛みを受けてなお動く信者が振るう槍を、アナスタシアが受け流して払い落とす。そこに狐火と銃弾が重なっていく。新たに飛び出した者には流れる水弾が元気にぶつかって、大穴までの道は開かれた。
 悲鳴。笑い。躊躇いのない信者達の行進は未だ続く。その地獄の波間から飛び出すようにして、月笠はシャコ太と共に大きく跳ね上がる。
「シャコ太、あの大穴に飛び込めーっ」
 目指すは――いまだ見えぬ深淵へ。

フィーガ・ミハイロヴナ
刻・懐古
佐野川・ジェニファ・橙子
天籬・緒
玉梓・言葉

●悍ましきと踊れ

 床に広がる赤色は、酸化して深く澱んだ色へと転じていく。
「惨いあか、ね」
「醜いのう……」
 そっと目を伏せて呟く天籬・緒(戀鶺鴒・h02629)と、眉を顰める玉梓・言葉(|紙上の観測者《だいさんしゃ》・h03308)の気持ちは同じだっただろう。
 怪異のこどもを迎えるために、形ばかりの家族を贄と差し出す。どこまでも歪な図式を描くために喪われた命はいかほどになるのか。考えたくはない現実は、けれども彼らの眼前に広がっている。
 ひとでなしの所業だ。
「つまり何、この人たち最初っからヒトじゃなかったってこと?」
 立ちふさがる信者達を見ながら、むっと首を傾げる佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)の長い黒髪がさらりと流れる。回答は無いが、感じる空気は異質さの方が強い。今更ドッキリでしたと告げられたところで、信じる者はいまい。
「えーっじゃあレッドカーペットはー!?」
 折角忍び込むために名演技を披露して見せたというのに、敷かれているのは血染めの赤。
 冗談じゃない! 美しい付喪神の女が求めるのは、天鵞絨の気品ある色ひとつだ。悍ましいばかりの昏い赤など願い下げもいいところ。
 重い空気を払拭するような賑やかさに、震えながら寄り添っていた夫婦もほっと肩の力が抜けたようだった。怯えたように橙色の視線を室内へと巡らせる妻へ、大丈夫ですよと夫が声をかければそっと耳打ちが返ってくる。

 ――階段へ。

 それは女に化けた刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)と、フィーガ・ミハイロヴナ(デッドマンの怪異解剖士・h01945)の一芝居だ。白く細い女の指先が、信者達からも見えるように夫の袖を掴む。か弱い演技に、獲物を狙う信者達の視線が集まっていく。
 なるほど友人はなかなか芸達者のようだ。知らない一面を見ることが出来て楽しかった、なんて場違いだろうかとフィーガは考える。
 ありがとうございました。
 どういたしまして。
 視線だけで交わすやり取りを終えたなら、懐古の姿は元通り。穏やかな雰囲気を纏う青年に、誰しもが呆気にとられたようだった。
「僕から両手両足を落としたら――本体と変わり無いじゃないか」
 一瞬訪れた静寂に常通りのやわい笑みを浮かべたまま、碌でもないことを言う。何なら秒針がぐるりと動くだけマシじゃないだろうか。どうかな? と隣へ問いかければそうですねと世間話でもするかのような相槌が返されて。
「確かに懐古さん、持ち歩くには大きいですしね。四肢の切断はおれも左腕を変えたばかりなので御免被りたいです」
 悪ノリには悪ノリで。ブラックジョークも気の知れた友人同士であればただの軽口でしかない。ひらひらと継ぎ接ぎの左手を振って見せたなら、あとはもう暴れる一仕事があるのみだ。
 捕食される側から、研いだ爪を見せる強者へと。二人の纏う空気が切り替わったのが合図だった。
「ええ、ええ、反抗期もありましょう。喧嘩をするのもまた家族ですからね」
 ――仲直りをしましょうね。
 貼り付けた笑みを浮かべる信者達が駆け寄ってくる。例え己の思い描く家族から外れたのだとしても、思う通りに現実を解釈した言葉を放ちながら。
 彼らには他者の意思など、無価値なのだろう。
「儂は人の愚かな所も好いてはおるが……」
 仕方がない幼子を見るような眼をして、言葉は薄らと口元に笑みを敷く。
「依怙贔屓はする方での」
 歪な殺意に動じもせず、手にした煙管からふっと煙を吐き出した。
 ゆらりと燻る呪詛が薄く広がって形を作る。今この場で言葉だけが知る、彼の人の姿をした幻影が隣に立って、向かい来る者達へと両の腕をゆっくりと広げた。
 おいで。
 彼らの言葉を真似たのは、この場所に満ちる怨嗟が呪詛と混じり合ったからだろうか。導かれるように何人かが幻影に抱きとめられ、意識を奪われ崩れ落ちていく。
 先に進むのであれば露払いはしておいた方が良いだろう。この調子では熱烈に後ろから追いかけてくる、なんて可能性も捨てきれない。
 大穴は口を閉じることなくそこにある。
 彼らを倒さずとも、飛び込めば早く行けそうだ。奥の階段だって使えるならそちらでもいい。今選べる選択肢は二つ。
 けれど。
「取り逃すとか背を向けるとか、そういう選択肢ないんだわ」
 そう宣言した橙子が高いヒールを鳴らして、信者からの一撃を回避する。錆びた斧の一撃は大振りすぎて回避は容易い。
 ただ、少々かくれんぼが上手なのだろう。笑顔のまま、信者の姿がぶれて消え失せる。
「隠れんのは反則じゃない!?」
 青い瞳を巡らせど影一つ見えやしない。舌打ちの一つでもしたいところだが美しくないので却下だ。代わりに苛立ちで奥歯をを強く噛みしめる。さて、こうなればどうくるか。
 手にした二本の卒塔婆を橙子は強く握りしめた。鉄製のそれはしっかりとした重みを両手に伝えてくれている。
 息を吐き出して神経を研ぎ澄まし――突然現れたようにも見える、敵の一撃を身をひねって回避する。足元で再びヒールが甲高く鳴り響いた。そのままの勢いで一回転、武器を振り下ろした敵の無防備な背中を見据えて、強かに卒塔婆で殴りつける。
「沈めやクソッタレ」
 確かな手応えに、短い悲鳴が信者から漏れた。間髪入れずに、今度は下から掬い上げるようにもう一撃。今度は悲鳴の無いままに、見事相手は仰向けに伸びた。

 嗚呼、なんということ。

 型も何もない喧嘩殺法で大暴れの橙子を見て、嘆いた信者たちが砲台を構えた。それを取り囲むように複数の信者達が祈りを捧げている。
 嫌な予感がする。
 彼らの動きに気付いた緒が、ほんの少し眉根を寄せた。他の信者達に囲まれて近づくことは叶わないが、あれが武器だというなら厄介すぎるだろう。相手の数だけでも大変だというのに。
(……ならば、利用してしまいましょう)
 ひらり。ふわり。
 前へ出るように軽やかな一歩が、嫋やかな笑みと共に領巾を揺蕩わせる。その揺れる紅色は鮮やかで、暗さが満ちるこの場所ではひどく美しく映った。
 狂信者達の目が、思わずと奪われるほどに。
 |釘付け《魅了》になった何人かが少しふらついた足取りで緒の方へと近寄ってくる。
「上品の錦はこちらよ」
 手招くように揺れる紅と、緒が笑んで彼らを待つ。他に戦う者たちより本の少し前で足を止めた彼女へ、手が届くにはあと数歩。捕まえようと武器を振り上げる彼らの顔も、惚けたような笑顔だ。
 けれど錆びた刃のいずれもが、彼女には届かない。
 緒に触れることは許さぬと、現れいずるは更紗模様の金魚が一匹。尾で槍斧を弾き、泳ぐ鰭で敵の目を突いて。龍宮の使いは水面に跳ね出るように現れては、優雅に中空で舞い踊る。
 術者が移動すれば消えてしまう泡沫のような存在なれど、逆を言えば留まる限りは戦力が一つ増えるともいう。視界を潰された信者の攻撃は避けるまでもなく、従順なる金魚に押しやられては空振りばかりが繰り返される。
 華やかなに舞うような彼女の術はよく目立ったことだろう。動かないなら尚更で、狙いをつけるのには十分だ。
 砲撃が緒を的と定める。巨大な口径は直撃を食らえばひとたまりも無いのが明らかだ。それを静かに見つめる彼女の視線に、割り込むようにして金魚がその身を滑らせる。
 轟音を響かせる一撃に、更紗模様の鱗が煌めいた。
 薄暗い信仰の炎を、金魚が体当たりをして打ち返す。発射に負けぬ大きな音が衝撃の強さを知らしめるようだった。逆転した炎の進行方向は油断していた信者達を薙ぎ払って、道を作る。
 そこをすかさず駆ける人影は二つ。
「先行っといて、後からちゃんと行く!」
 卒塔婆を両手に構えた橙子が怯んだ信者を更に押しのけて叫ぶ。応じた言葉が奥へ奥へと駆けて、至るは大穴ただ一つ。
「神よ」
 男が躊躇うことなく飛び込めば、重力に導かれるまま落ちていく。はためく着物が鳥の羽ばたきのように響いて、
「手足を捥がれた可哀想な子の所までの災い無き道を、どうか儂らに示しては貰えんだろうか」
 その声は果たしてどの神に響いたか。
 少なくとも地の底で、讃えられているものではなかっただろう。元よりこの地を治めるものは、悍ましい儀式など望むまい。浮遊感が柔らかに支えられるように変わって、ゆるやかに言葉は降りていく。
 その加護は上に残る者たちにも分け与えられる。
 一人先に飛び込んだ故、警戒から大穴への道は塞がれた。その分階段に対しては随分手薄になっている。
「お出で」
 静かな声だった。
 懐古の一言で現れた鴉が応じるように現れた。禍々しい黒の数が、声が、羽ばたきが、ひとときこの場を支配する。統率の取れた動きで信者へ群がって、動きを阻害する。
 どうにかかいくぐって、能力者たちへと向かってくる者たちもいた。けれど。
「駄目ですよ」
 悪い子供にそうするように、諭して響くはフィーガの声。懐からとりだしたメスが銀色に閃いて、走る足を切り裂いた。
 人間専門ではないけれど、バラして調べるのは慣れている。的確な一撃は彼らの移動を阻害する事など容易い。
「そもそも何か下から漏れてますけどまだ足有りますか? この人たち」
 ひっくり返った信者たちを一瞥して、けれども気にしている暇などない。階段の方へ能力者たちは一気に駆け抜けていく。
 倒れた者たちが呻いて転がる様は平和からは遠くある。けれど今はそのまま少し眠っている方が良いだろう。全てが終わる頃まで、かつて自分がどのように世界へと産み落とされたかを夢の中ででも振り返ってみるといい。
「御免なさい。けれど、むざむざ御饌に成るつもりはありませんの」
 美しく笑う緒がそう言葉をかけて最後に階段へ至れば、あとは降りていく足音だけが響いていた。

溝渕・浩輝
賀茂・和奏
小沼瀬・回
可惜夜・縡

●あやかし夜行

「ビンゴだ」
 案内人、もとい案内狸たちの誘導は正しかった。赤く塗れた床は黒ずみ、凶器持った信者達は笑っている。
 目的地で間違いはない。だが正解を引き当てた溝渕・浩輝(worry worry・h02693)の表情は苦いものだ。手足を対価と要求する、対峙した彼らの抱えた狂気は悍ましい。
「良いわけがあるか、馬鹿者」
 付喪神である小沼瀬・回(忘る笠・h00489)にとってみれば、折角得られた四肢だ。いくら長いそれらを不慣れに持て余そうと、要らないと捨ててしまえるかと言われたら御免被る。そう易々と捨てさってしまえるものであったなら、人の形など取ることすら無かったろう。
 しかしどれだけ否を示そうと、皆一律に貼り付けたような笑みは不気味の一言にすぎる。ああ、あれは見たことがある。常識から大きく外れるほどに何かを願う――狂おしい信仰心を持つ者たちは、皆一様にやけに澄んだ目をして、濁った笑みを浮かべるものだ。
 仕事として、怪異とそれにまつわるものに触れる機会が多い賀茂・和奏(火種喰い・h04310)にとってみれば、不本意に慣れたものだった。開いた目がこちらを向いているのに、別のものを見ているような違和感がある。なるほど、と妙な感慨が湧けど、こちらから返せるものは彼らが望むものではない。
「嬉しくはないですよ」
 おだやかな声で、信者達の考えを否定する。
 失う血肉を些細だと言えるのは、結局自分ごとではないからだ。他者を、仔を得るための消耗品と捉えているからにすぎない。我が事になって尚その主張が出来る者は、果たしてどれだけ残るのか。
「仔に限らずですが、愛するって――業を負わせ、尽くしたものの対価じゃないと思いますよ」
 いくら定義が人それぞれと言ったところで、他者の命を踏みにじりながら長く成り立つ愛情などあるまい。
 親を放り込む大穴は彼らの|欲《愛》で汚れ切っている。団欒の場にはあまりに似合わぬ凄惨さが、満たされぬ空虚として大口を開けているようだ。
(子を迎える家庭というには……)
 血腥さに可惜夜・縡(咎紅・h05587)はそっと薄藤の瞳を伏せた。手にした刀を抱きしめるように、強く握り込む。ここには家族の暖かさなんて一つもない。ただ最低限の形だけが整えられた、冷えたがらんどうの部屋でしかない。親の存在が遠く、その身の傍から欠けていたのだとしても違うと分かる。知る悲しみや寂しさの方が、まだきっと近い。
 全くもって馬鹿馬鹿しい。苛立ち交じりに浩輝が息を吐く。
「やぁっぱり正面から入らなくて正解だった」
(今にも手が出そうという事か?)
 落とした呟きを拾って、己に憑いてる隠神刑部が面白がる気配が膨らんだ。
「せっかくだ。一発かましてやってから進んでやろうぜ」
(はっはっは! いいぞ! 乱闘だ!)
 やれ立派な野次馬だが、こんな時ばかりは気の合うやつだ。熱い声援を受けて応えるように、浩輝の踏み込みは早い。手近な信者の懐へ潜り込んで、有無を言わさぬまま鳩尾へ拳を叩き込む。
 鈍い手ごたえに、短い悲鳴。気にしないまま、派手に殴り合いといこう。
「まぁ、言葉でどうこうなる相手じゃないね」
 柔和な笑みを浮かべる和奏とて、対話が叶うなどとは思っていない。こちら側は少々数で劣ってはいるが、皆が能力者だ。手数だけなら負けもしない。
 風よ震え、と己に憑いた怪異の力を借りる。吹き荒れる突風が、身近な信者達を大きく揺さぶってその動きを阻害する間を、和奏は駆けた。何かこちらを攻撃しようと準備をしていたようだが、空気の振動に阻害されて彼らは伏している。その背を無視して、男は走る。
 軽々とした身のこなし。見事なものだと静かに見送る回の視線には、多少の羨望も含まれていたか。どうにも手足というものは扱いが難しい。未だ意識すればするほど、縺れそうになるのだ。この状況でうっかり転んでしまう訳にはいくまい。
「一先ず払わせて頂くとしようか」
 先行く朋輩の為にも、後より駆けつける己の為にも。
 道は切り開かれて然るべきだ。
「物騒な物を持ち込まれては困るね」
 ただでさえ錆びた刃など物騒だというのに、そのうえ砲台など厄介この上ない。運ぶ信者の姿は些か遠い位置にいるが、こちらが射程内に入る前こそ好機だろう。
 すいと差し向ける回の手には一つの古びた、唐傘小僧の提灯だ。ゆらめく妖の炎がぼうと内で燃えて広がり、音もなく放たれ飛び出した。
 降り注ぐのが雨あられではなく怪火であるならば、防ぎ方など人には分かるまい。否、今はもう彼らも怪異の一種であったか。だが上がる悲鳴に、落とす砲が大きな音を立てて転がるなら同じこと。
 どうにか立て直そうとする者にも炎は張り付いて、消そうと藻掻く。けれど怪火は生き物であるかのように揺れるだけ。局所的なパニックは焔降る数だけ上がって、信者達の動きは大きく乱れた。
 ならばと炎を操る回を狙う者が走り来る。
「……させません」
 だがそれを迎え撃つのは縡の操る式神――鬼達だ。
 かつて彼女に調伏された彼らは従順なる僕ともいえた。敵に向かって飛びついて引っ掻いて、能力者を狙う者を重点的に襲いゆく。
 先を行く和奏を追いかけようとする者には足止めを、回を狙う者には撃退を。攻守の役割を振って短い指示を縡は飛ばす。集団での乱戦だ、互いに助け合ってこそ全員の行動が早まるものだろう。一人で全てが為せるなど、きっとこの場の誰もが思ってはいまい。
 そして指揮官たる彼女を狙う者には――ただ静かに、翻る刀が振るわれる。崩れ落ちる相手を見届けるまでもなく、刃は次へと凛と走る。
 暴風に炎、鬼まで出ての騒ぎは随分楽しく映っただろう。
 特に、近しい存在のものにとっては。
「アンタも好きだろ? 狸様よォ!」
 信者の顔面に拳を叩き込みながら浩輝が己の相棒へ呼びかける。
「最後の美味しい所は譲ってやるぜ? 纏めて面倒見てやれよ!」
(よかろう!)
 大きな咆哮が、応じるように轟と放たれる。
 誰しもの耳に届いて、されど空気を震わすその本領は敵にのみ届く。ぐらぐらと揺らぐのは果たして鼓膜かそれとも精神か。隠神刑部の一喝は呪詛のように信者達の体を蝕んで、衝撃を与え続けた。
 百鬼夜行というには少々物足りない数だろうが、賑やかさだけなら能力者たちとて負けやしない。好きに暴れて食らいつけ! 他者の命をもてあそぶことに覚えた苛立ちも不快感も、この場できちんと清算していこう。
 それで多少は気分が晴れたらいい。どこか他人事のように思いながら、浩輝は動きが鈍った信者を、また一人殴り飛ばした。
 しかし相手も諦める気などないようだ。どうにか体勢を立て直しながら、魔力砲を構える信者達。大穴を背に、能力者達を狙って砲口を向ける。
 しかしそれを見逃してやるほど甘くは無い。さぁさ次は前方ご注意あれ、導のように一際明るく灯る提灯を回は呼び出す。明々とした目印は脅威の場所が誰しもに分かりやすいだろう。気を付けてと低い声が一声かければ、放たれる信仰の炎に能力者が焼かれることはない。
 そして敵も味方も避けた一撃は、その直後であれば開けた道となる。
 随分と好都合だ――黒い影が、駆ける。低空を羽ばたく鳥のように、飛び出した和奏の上着がはためいた。止めようとする者を、振るう刀が一閃。柄で揺れる組紐の、新橋色に似た雷撃が跳ねまわってなぎ倒し行く。
 倒れる信者へとどめは必要ないだろう。目的は別にある以上、足止め程度で十分だ。
(迅速な儀式の阻止と、確保優先!)
 次弾、信仰の祈りがまだ注がれていない砲台はまだ沈黙をしている。それを足場に和奏は大きく飛んだ。
 口を開けた大穴の底は見えずとも、その真下が目的地ならば躊躇う必要はない。
「青くん、羽を借りるよ」
 常から寄り添う、美しい瞳の鳥が短く一度鳴いた。その青い眼差しに見守られて、やわらかな風に支えられたなら、和奏の身はゆるやかに落ちていく。
 ひととき誰しもの視線が奪われていた。
 よって、全てが遅い。
「そういえば先程は、“いつも”、と言ったかね?」
 問う回の声は、もう随分と階段の近くだ。ゆれる怪火が床の赤黒い血の名残を静かに照らす。
 嗚呼、――悍ましいにも程がある。
 そうまでして欲しいものなのか。人の身であったとして理解出来はしないだろう。多ければ多いほど、などと嘯く者達を見てきたことはあるが、果たして仔をと求むものはそうは知らなかった。
「やれ、流石に欲張り過ぎだろう」
 集うだけで寂しさが埋まらなかった訳ではあるまい。
 これを強欲と呼ばす、なんと呼ぶ。
「私の子はひとりで手一杯だ。其れ以上は――要らんよ」
 脳裏に浮かぶ彼奴らの忘れ形。天真爛漫を絵にかいたような娘は、回にとってただひとつの帰り道だ。
 昏く赤い道など、あの子には似合わない。健やかに育つ子にとっては、無縁の世界だ。
 彼らの最後尾。縡が振るう銀の一閃が追いかけてきた信者を切り裂く。
 物心ついた時より鬼狩りの一族として育った。言われるがままに数多の悪鬼を屠っては来たけれど。
「……鬼哭、あなたは鬼と認めますか?」
 切り捨て見下ろす信者の背。人の形をして、けれど最早ひとでなしと成った者達。
 彼女の問いに、魔を祓うための刃は静かだ。沈黙のまま、敵の血を啜る。その所業が果たして正しいものであるのかは分らねど。
 無辜の人々へ仇なす歪な教えと、それに従う者たちへは容赦なく翻った。

一文字・伽藍
鮫咬・レケ
楪葉・伶央
千桜・コノハ

●信仰の行く末

 分かりやすい自白は薄汚れて、血の染みとよく似た色だ。
「うわぁ……わかりやすく黒くなったね」
 引いてることを隠しもしない千桜・コノハ(宵鴉・h00358)の声色は先程までと大違い。被った分厚い猫は必要ないとばかりに脱ぎ捨てられて、軽くなったとばかりに少年は肩を竦める。
 演技をするのも疲れてきた頃あいだ、丁度いい。
「家族ごっこはここでおしまい、だね」
 微笑んで見せるさまに弱弱しさは無い。強者のそれでいて、偽りの家族に別れを告げるための皮肉めいた挨拶だ。
「『黄昏は地の底に。親の呼び声は二つ目の地層より深く落ちる』……だっけ?」
 信者の後ろに見える大穴をに、一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)は合点がいったとばかりに吐き捨てた。拾ったメモの言葉はなるほど、この場の事を示していたらしい。美しい顔立ちを顰めて、重い息を吐く。予想はしていたけれど、やはり碌でもない団体だ。
「クヴァリフんとこのバブにゾッコンなのはアンタらの勝手だけど、望んでない人を巻き込むのはNGでしょ」
 青い瞳を細めて睨みつける。それでも彼らは動じない。ただ貼り付けたような笑みを浮かべて、どうぞ手足を差し出し下さいと繰り返すばかりだ。
「両手足きりおとすって~?」
 こわ~い!、と芝居がかった動きで自分の抱く鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)は隣の楪葉・伶央(Fearless・h00412)を覗き込んで言葉を続ける。
「ひどいことするよな~、な~、れお~♡」
 見てる~? と両手をふれば、ひらひらと袖が賑やかに揺れていた。隠されているレケの両の手が|あるけどない《・・・・・・》理由たる男は、それを一瞥して全てを無視した。
 両手両足を切り落とすなど、酷い仕打ちだとは伶央とて承知だ。相手がこれでなければ頷き返事の一つも返しただろう。この災厄には十分にそうされる理由があっただけの簡単な話である以上、話は両手を奪うことが仕置きとして終わっている。
 ただ、そうされる必要が無かったのが今回の被害者達だ。
 青みがかった金の瞳が現場を見渡し、状況を把握すれば握り込んだ拳に力が入る。
 このような形の家族など、赦されるべきではない――決して。
「足まで落とされないよう、確りとやれ」
 正義漢から底冷えのするような低い声が落とされた。
「あしまでやられんようにしとく!」
 ただ一瞥と共に告げられたそれに怯えるではなく、ただ面白がるようにレケは笑うだけ。
 やり取りの間にも信者達がじわりとにじり寄る。武器は手放さず、足元には信仰が炎と見えていた。何一つ反省することなど無いと、彼らはそう信じている。
 ああ、気に入らない。
「潰すわ――クイックシルバー」
 伽藍の青い瞳は、静かに怒りを湛えて燃ゆる。
 呼びかけに応えるように護霊が銀色の一閃と踊った。幾つもに分かれて、増えるそのひかり。青いネイルに彩られた女の手が取り出した釘を盛大に放れば、行儀よく彼らはそれを受け取った。
 時折錆びたものもあるが些事だろう。
「自分たちがどんなことをしてきたのか、ちゃあんと教えたげなきゃね」
 軽い口調に冷えた声色は凍てつく温度。そうして彼女が向ける指先は、信者の手足を静かに示す。
 彼らが何かをするより早く、銀色たちは伽藍の狙い通りに走っていく。護霊の力で太い釘が勢いよく、躊躇いも慈悲も無く突き立てられたなら、悲鳴が大きく上がるのが聞こえた。似たような物なら、彼らだってよく聞いてきた筈だろう。
 因果応報。受けるべき報いは今ここにある。
 彼らの主張する、子が宝であることは伶央にとってもそうだ。守らねばいかないものだからこそ、『仔』など喚ばせはしない。彼らが何を犠牲に、何を喚んだのか。全てにおいて正しさのないそれを肯定するわけにはいかない。手にしたナイフを振るえば、届くのは刃ではなく頑丈な鋼糸。ふわりと広がって、勢いよく引けば数人纏めて捕縛する。それでもなお抵抗するというのなら――致し方ない。今度は刃が正確に走って、武器ごとその手は落とされる。
「こわ~」
 傍観者のように、サンダルをぺたぺた鳴らしたレケは攻撃らしい攻撃はしない。ひょいと覗き込んだ信者はすっかりと気を失っていたので、つまらなさそうに放り出す。
「ぼーりょくはれおにまるなげ~!」
 否、これは伶央にとっての正当防衛だ。
 このような団体、残しておいても仕方が無い。厄介な砲撃を喰らわぬように彼はひとところには留まらず、他能力者と直線状に並ばぬように気を付けながらまた鋼糸を躍らせる。
 貼り付けた笑みに反吐が出る。確実に潰してやろうと仕事への意気込みは確かに。護符を持った手で信者を叩き伏せて、正義の男は戦場を駆ける。
 そうして吹っ飛んできた数人を、軽い足取りで躱してコノハは駆けていく。鬼事に興じる子どものようでいて、伸ばされた手も武器も全てが彼を捕らえられない。宵の色は彼の味方で、薄暗い屋内ならば影に紛れることは得意だ。
 時折しつこい者もいるけれど、それに対しては墨染の大太刀が翻る。命の数だけ黒く染まるそれがまた一つ深い色味へと転じていくのは、今更のことだと気にも留めない。
「悪いけど、僕はお前らに捕まるようなのろまじゃないからさ」
 鬼さんこちら。
 現れては掻き消える姿は、たとえ攻撃が主ではなくとも視線を奪う。つられて追いかける信者達がてんで見当違いの方を追いかけて、コノハの笑い声だけが響く。
「悔しかったら捕まえてみなよ」
 手の鳴る方へ。
 幼い少年が誘う声は、信者の伸ばした指先で届かないまま。
 地獄の中で楽しい遊びだ。追いかけていた一人の信者の前に、青色が揺れる。割り込んだレケの長い髪が揺れて、浅瀬のような水色と目が合ったなら不思議と視線が離せず動けない。
「いまからでもおそくねーよ、おれのしんじゃになろ~?」
 随分と間延びした声だ。
 けれどじわりと心の奥底へ滲むような、不思議な音をしていた。微笑む男の顔とてどこか緩い。強制力なんて何も感じられやしないのに、その声をいつまでたっても聞いていたいと、そう思わせるような。
 優しい――優しすぎる声だった。
 全盛期の力ならこれだけで誰しもが狂っていったが懐かしい。今はちょうどいいぐらい、なんて思いながらレケは彼らへと言葉をかけ続ける。
「そしたらいっぱいやさしくするし、しあわせいっぱいになれるからさ」
 心が溶けていくような毒じみて、惚けた視線がレケに集まる。力の抜けた手から武器が落ちて、足は止まって動かない。
 それを満足げな顔をして元凶は眺めていたが――鈍い音がして、数人が真横に吹っ飛んでいく。
「でもれおがいるうちはつくれねーかな~?」
 かわいそ~と他人事のようにレケが呟く目の前で、伶央が大暴れをしている。絶対に許さないという意思が強く感じられて、懐かしいなとすら思えた。
「正義厨すぎ~……りょうてがあったらじょうずにしんじゃにするのにな」
 袖に隠された己の両手を見る。
 本当に、残念だ。
「あは、おれのしんじゃのほうがどーかんがえてもしあわせっておもうだろ~?」
 吹っ飛んで気を失った信者達だってそう思ってるに違いない。自分ならここまで血生臭いのをつくらない――否、今度はばれないように上手くやる。だから彼らもこんな風に殴られたりしなかっただろうに。
「れお~どう思う~?」
 問いかけようとも視線すらこないのはいつものこと。まぁいいかと暢気に構えて、他の信者を見つけてにんまりと笑う。
 彼が優しく出来ない分、自分が優しい言葉を向けてやらないと!
(などと思っているのだろうな)
 心底嫌そうな表情を浮かべた伶央は嘆息の代わりに鋼糸を操る。聞きたくなくとも耳を塞ぐ余裕はないのだから、耳障りな煽りは全て届くのだ。
 信者だの、教祖だの。そういった類のものを嫌っているのを分かった上でわざわざ声をかけてきている。大した性格だ。両手は切り落としておいて正解だったとしか言いようがない。
「家族は、何があってもこの俺が守る」
 そしてその思いを汚すものは、何人たりとも許しはしない。
 曲がらぬ信念と共に放たれた蹴りが、また信者達を薙ぎ払っていく。

 仕置きで鬼の数が減ったなら、鬼ごっこは程よいところでおしまいとしよう。
 ひょいと交わした信者たちの手のひらの先で、コノハがぐんと走るスピードを上げた。そのまま勢いつけて、目指すは大穴。
 ばさりと春宵の色をした翼が広がる。花弁がその拍子にふわりと舞うのが、この場にそぐわぬ美しさだった。
 ばいばいと振り返りもせず手を振って、躊躇いもしないまま飛び込んで滑空する。
 ――さぁこの先には何が待ち構えているのか。
 恐怖よりも湧きだつのは好奇心と皮肉の滲む感情だ。
「楽しみだね」
 桜色の瞳が見据える暗闇の底はいまだ見えない。
 そしてその後を追いかけるように、銀の女も駆けた。ヒールの音色が高らかに響く。躊躇いがないのは先行く少年と同じていて。
 ただひとつ、違うのは。
「はいポルターガイスト~ごあんな~い」
 どうせなら最後まで”みんなで”一緒に味わおう。
 護霊クイックシルバーが彼女の意思に応じ、信者を何人かを引っ掴んだ。引きずり連れて行くのは穴の奥底、地獄の広がる方へ。
 悲鳴が上がって、共に暗闇の底へ落ちていく。
「バブの餌に|√能力者《アタシら》は勿体無い――|信者《アンタら》で充分だよ」
 お前たちがしてきたことだ、何を今更怯える必要がある?
 命の価値に優劣がないのだとするなら。捧げるべきは|信仰《愛》とやらが深い方が、相手も喜ぶことだろう。

 さぁ、向かうは儀式の場へ。

シルヴァ・ベル
ユオル・ラノ
花咲・マオ
一文字・透

●こころの所在

 昏い赤に、命の匂いが澱んでいる。
 いらいないものは捨ててしまおう。そう言って四肢を取られた何人が、大穴から地獄へ落されたのか。戻ってこれるような深さでは到底無いのは知れて、彼らの言葉にも嘘が無いとすれば。
 無念に喪われた命は、どれほどか。
 眼前の光景から否応なしに連想される結末に、心の奥が冷えていく。自身でもそれが意外だと、ユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)はどこか他人事のように感じていた。
(めざめた時よりは人間らしくなれたのかもね)
 残念ながら信者達は彼の真逆、人から離れる道を選んでいるようだけれど。
 少しでも善良な心が残っているならば出来ぬ所業だろう。他者を命ある生き物と思わぬのなら、それは怪物と呼ばれるものに等しい。
「なんて惨いこと……」
 変化を解き、元の妖精の姿になったシルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)が落とす言葉も苦さが滲むばかり。少し青褪めた顔色は普段よりも白く、思わずと口元にあてた両の手は少しだけ震えていたか。けれど、狼狽えて立ち止まっている訳にもいかない。白い指先を隠すように強く握り込む。
 恐ろしいと感じることは正常だとも言えただろう。一文字・透(夕星・h03721)もまた、息を呑んで体を強張らせた。
 目の前の赤色。おだやかに告げられた、残酷な言葉。そこから連想するように浮かんで消えるの想像上の惨劇は、悍ましいの一言に尽きる。
 けれどそれらは、どれだけ胸を痛めようと過ぎ去りしものでしかない。
 だから今は考えるべきでは無かった。飲み込まれてしまう前に頭を振って打ち消して、言い聞かせるように強く心の中で唱える。
 (感情移入しちゃ駄目)
 おそろしさに慣れることなど出来ようもない。
「うへえ、スプラッタじゃんきっついなぁ」
 そして真っ当な価値観を持つからこそ、花咲・マオ(勤労娘々・h02295)は実直な感想を吐き出した。とてもじゃないが配信に乗せられる現場ではないし、乗せたくもない。理解だってこれっぽちもしたくない実態に、思わずと顔を顰めて続ける。
「てかさぁ、演技とはいえ私はパパママに虐待でぴえんて言ったじゃん?」
 取り繕う方が馬鹿馬鹿しいと、脱ぎ去った分厚い猫を放り出し。苛立ちのままに相手へ人差し指を向けて、声色はだんだん低くなる。
「それなのに仔の為にって、手足切り落とすとか――ナイよりのナイナイ!」
 嫌悪感のまま首を横に振れば、薄い色彩の髪がつられて揺れた。
 だが責められている信者達は動じない。ただ武器を携えて、貼り付けたような笑みを浮かべている。何がいけないのか分からないと言わんばかりに、マオへ視線を向けるだけだった。まるで癇癪を起す子供を見るかのような、あたたかくも話を聞かない視線で。
 ああ、どうしたって話が通じないんだ。
 強く目閉じて、大きく深い溜息をマオは吐き出す。それからゆっくりと瞼を開けば、金色の瞳の奥で怒りがちりちりと燃えていた。言葉届かぬ相手への虚しさと、惨劇へのやるせなさが混ざり合って、彼女は大きく吠える。
「うーし、あったま来たぞこのボケカス共め!」
 太腿のホルスターから拳銃を取り出し、構えるまで一秒とかからない。相手がその気ならこっちだって黙っているものか。ただ大人しく解体されるほど皆が大人しい訳でもないのなら、手痛い反撃が来る事ぐらい分かって然るべきだ。
 それが理解できないのなら、これが最初で最後の勉強代になるだろう。
 マオが手にした花咲重工製精霊拳銃F&B|MSG92《マジでスゴいガン92号》が勢いよく辺りに銃弾をばら撒けば、景気のいい爆発の音が響く。
 だが嫌だと抵抗をされても信者たちは諦めない。武器を振りかざして能力者たちへと向かってくるのを横目に、シルヴァとユオルは顔を見合わせて頷き合う。
「信者たちを此処で止めましょう」
「そうだね」
 この次こそが戦いの本番になるだろう。儀式の場に待ち受けているものが何であるにせよ、後々挟み撃ちになる可能性は減らしておきたい。そういった不安を抱えずに戦えるようにも、今ここで彼らを倒すべきだ。
 遠回りになるのだとしても、結果として合理的であるのなら。二人がその道を選ばぬ理由などどこにあろうか。
 すっと息を吸って吐き出し、シルヴァが己の小さな手を指揮者のように振るう。応じるのは物言わぬ調度品たちで、重量のあるそれらが静かに宙へと浮かびだした。
 音楽は無くてもリズムを刻むように。くるりと一回転をしながら信者達へと重いその身をぶつけに向かう。ソファがじゃれつくように走る背中を押しつぶし、ローテーブルに向う脛を当てられたら短い悲鳴と共にひっくり返る。そんな姿を無視してまた次の信者へ。シルヴァが念動力で操る家具達は軽々と、己の重量を無視しながら軽やかに舞い踊る。
 そんな小さな妖精の横で呪文を口ずさみ始めたのはユオルだ。近づく者は全て家具たちと楽しくダンス中なれば、誰にも邪魔されることはない。途切れぬ永昌は家具たちの踊りに添える歌のようでいて、やわく辺りに良く響いた。
 その歌声のような言葉たちに導かれるまま、ぽつりと雨は降り出す。淡く輝く光の雨粒が細く線を引くように、室内を仄かに照らす様は幻想的と言えたろう。怪異と成り果てた信者達の動きを鈍らし、悪しき心をじわりと光は蝕んで。数の多さこそが利点であった筈の、彼らの統率は雨足と共に崩れていく。
 そこへ透が静かに間合いを詰めた。
(落ち着いて)
 手に握り込んだ寸鉄へ縋るように祈りながら、踏み込む。柔らかな光の雨は緊張すらも解すようにやさしく降っていた。背を押されるように息を吐き出し、対面に向けるは真剣な眼差し。目が合った信者の鳩尾へ、少女は掌底をめり込ませる。
 ぐらりと揺らぐ体を見送り、こちらへと殴りかかってくる相手の手元へ栞を投げつける。多少のコツさえ掴めばよく切れるそれは、信者の手を見事に切り裂いた。
「シロ、お願い!」
 ワン! と元気な返事で忠犬の死霊に足を噛みつかれた相手が転ぶ。その随分先、黒いフード達の向こう側に大穴が見える。
 きっと、あそこに飛び込むのが一番早い。解決を急ぐなら地下に向かうのが最適解の筈だ。
 けれど、その前に。
(二度としないって思って欲しい)
 わがままかもしれない。無駄かもしれない。
 それでも、信じていたい――僅かにでも人の善性が、残っているのだと。
 次の一人へ叩き込む透の回し蹴りに、マオの銃弾が援護に飛び交う。
「こいつ等放って行くとか無し!」
 どこから歪んだのかは分からねど、彼らはもう自ら引き返せない場所にまで行ってしまった。だったら誰かがぶん殴ってでも止めてやらねばならない。かつて善良だった時期があるのだとすれば、余計にそうだ。
 マオが武器を持つ手を撃ち抜けば、重い音を立てて彼らは武器を取り落とす。そのまま動けないよう足も狙って無力化してやればいい。
 そうした者たちとは別の、まだ元気な信者が武器を手に彼女へと走り迫る。だがその前に、透が体を滑り込ませる。邪魔だと押しのけようとする腕を肘で弾いて、がら空きの顎を跳ね上げるように勢いよく蹴り上げる。
「あ」
 よろしくない手ごたえがした。
 相手がのけぞるように倒れていく姿に思わずと声が出た。
「……下手に動かないでください」
 一撃で動きを押さえられるようにと意識はしたが、あくまで死なないようにと加減はしていたのだ。それは未熟さで、捨てきれない彼女の優しさだろう。
 少し戸惑った口調で動揺していれば、後ろに気配。
「私、未熟なので当たりどころが悪いと……」
 振り返りざま足払いをはなって引っくり返す。言葉と裏腹に遠慮や手加減は一切ない。
「気にしちゃ負けでしょ、そいつら頑丈そうだし大丈夫大丈夫!」
 マオの威勢のいい声が励ましと飛ぶ。銃弾を慣れた手つきで装填し終えたら、再び銃を構える姿はなかなかにさまになっている。
「私が学生時代になんて呼ばれてたか教えてあげるよ――暴風の|魔王《マオ》ちゃんだよオラァ!」
 ドスの効いた声と共に問答無用で引かれる引き金が、銃弾の雨あられをプレゼント。とはいえ彼女はあくまで配信者だ。司法が存在する世界であるなら、彼らを裁くべきは警察がすべきこと。撃ち抜くのは手足だけで殺意はない。
 能力者の動きに焦ったのか、信者たちが砲台の準備をし始める。それを見咎めたシルヴァの家具が大きく体当たりをして砲口を誰にも定ませない。それでも尚と向けられたなら、紋白蝶の羽がひらりと羽ばたき中空を走り去って惑わせる。
 こちらへどうぞ、追い付けるものなら。
 牽制する動きを繰り返せば、次第に信者達の動きは単調になっていく。そうして知らず、一箇所へと追い込まれていると気づいたときにはもう遅い。
 彼らの視界が暗闇へと一瞬にして閉ざされる。何事が起ったのかはすぐさま理解し得まい。
 冷静になれば何か重いものが被さってきたのだと分かっただろう。血で汚れたラグが、他の家具たちと同じように妖精の指揮の元彼らの体を包み込む。
 広さのある部屋に敷かれていたものだ。何人もを覆うに大きさは充分。そこから慌てて藻掻いて出ようとする者たちが、外の光を見つけて顔を出したなら。
 薄い色彩の男と目が合ったのが最後――今度は、永遠の暗闇の中に取り残される。
 距離を詰めたユオルの手に握られたメスが、容赦なく信者達の眼球を切り裂いた。ついで首筋、腹部、太腿へ。急所と思わしき箇所へ躊躇いなく銀の刃は突き立てられる。
 きっと油断していたことだろう。暗闇からひかりを見つけた時、誰しもが一瞬無防備だ。それは孤独の中から、何も知らずこの教団へ縋ってきた者達も同じだったろうに。
 淀みのない手付きで切り裂いた相手が地に伏せる。静かなユオルの金色の瞳は、何の感情も乗せずその姿を見下ろす。酷く静かな頭の中で、両手両足を落としてしまおうかとすら考える。そうすれば彼らも己がしてきた悪行をその身をもって理解するかもしれない。
 メスを握る手が、一瞬だけ強くなる。
「――ユオル様」
 けれどそれは友人の声で踏みとどまる。振り返って、大丈夫だよと小さく笑う。安堵で薄青の瞳を緩ませたシルヴァの顔を見て、いけないなとユオルは己に言い聞かせる。
 背中を預ける信に応えるなら、まだ人の節度を捨ててしまう訳にはいかない。
 非道を厭うのであればこそ、自分たちが堕ちては無意味だろう。
 今ここにいるのは新たな悲劇を生むのではなく、赤黒い惨劇を止めるためなのだから。

ララ・キルシュネーテ
鬼哭寺・アガシ

●繋がりを問いて燃ゆる

「なんていう団欒なのかしら!」
 震えそうになる声色は恐怖からではない。
 ララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)の小さな体から溢れんばかりにこみあげる怒りが、そうさせたに過ぎなかった。
 どれほど愛を謳おうとも、結局|彼ら《信者たち》は己の慾を満たすことしか考えていない。都合のいい家族なんて名前を利用して、真実を覆い隠しているに過ぎない。
 ごっこ遊びの方がまだマシだ。
 ああ、本当に。こんな家族であるなら嘘偽りを用いて表から来なくてよかった。汚れた彼らの仲間に一瞬でも加わることは、彼女の愛すべき両親への侮辱になる。
 薄い唇を噛んで、怒りで震える小さな背中のなんと痛ましい事だろう。鬼哭寺・アガシ(不明居士・h04942)はそっと深い黒の瞳を伏せた。
 信じるべき御仏の御加護というならば、先程逃がした夫妻にこそあったように思える。善良さが彼らの命を救い、その手助けができたことがアガシにとっての幸福でもあった。
 信仰に身を捧ぐ|幸い《自業》は、力を持つ自分たちのような者にこそ相応しい。血生臭い汚れも全て引き受けて、戦う力のある者が背負うべきものだ。
 理解出来ぬ者同士の断絶、その憐みではなく。アガシは|同類《他者に手をかけた信仰者》として、相対しようと静かに霊槍を構える。今はただ、前へ進む者たちが心置きなく儀式の場へと向かえるように助力を。
 掃討を決意した男の気配は研ぎ澄まされて、鋭利な刃のごとく。されど下顎を覆う面具はその表情を詠ませない。今鬼と成り果てた男の踏み込みは重く、深い。地鳴りのような足音と共に繰り出される一撃は信者の腹を抉りて吹き飛ばす。
 だがそれを見たとて、誰一人として怯むことは無い。信じるものが、たかが一つの命で揺らぐのであれば、惨劇は繰り返されなかったはずだ。
 昏い血の匂いが辺りに充満して漂う。
 彼らが望んで捧げてきたそれと、同じもの。
「そうやって女神を愉しませたなら望む仔を授けてくれるわね」
 邪神とはそういう存在だ。
 誰もがそう認識しているだろう。願われたなら、気まぐれに応じる。それの繰り返し。ただそれだけ。強大な力を持ちながら全てを分け与えられないからこそ、人は微かな望みをかけて必死になる。
 神の仔を祀り上げるのだってそうだろう。
 それを授かろうと必死にもがくのだってそうだろう。
 その欲がどれほど身勝手なことか、一つだって思ってくれない者たちばかりだった。勝手な思い込みで、こちらにも心があると分かっていないのだろう。捉えて閉じ込めて、都合のいい形で利用して。
 いい加減にして欲しいと何度思ったことか。
「おいたが過ぎるわ」
 冷えた視線の赤が、触れようと手を伸ばしてきた相手を射抜く。輝く金翅鳥と水晶鳥がその姿を大きなカトラリーへと転じさせたなら、少女の手に恭しく収まった。
 指が届くよりも早く、容赦なく繰り出されるナイフが切り裂く。フォークは間髪おかず深く突き刺され、動かなくなった相手を振り払う。
 途端、少女の姿は桜吹雪へと変じた。それは清浄なる迦楼羅焔。舞い散れば少女の姿はひと時隠される。
 どこへ消えたのか。探すように辺りを見回す信者達に、音もなく絹索が巻き付いた。
 その端を力強くつかんだアガシが静かに彼らへと尋ねる。
「……元の家族のもとへ。帰りたいと思いますか?」
 責める響きは無い。ただ、彼らの意思を確認するための問いだ。
「家族ならここにいるでしょう」
 何を可笑しなことをいっているのか。何一つ分からないという顔をする信者の顔は、おおよそ予想できたものだった。
 ただ、それでもアガシが問うたのには、彼らの言葉に思うことがあったからに過ぎない。
 彼らの紡ぐ言葉には家族への思いがあった。元は善き家族のひとりであったのだろう。父か、母か。兄弟やそれこそ子がいたのかもしれない。喪失を経てここへとたどり着いたのかもしれない。想像だ。けれど彼らが実の家族を悲しみと共に忘れてしまうことは難しい事だっただろう。
 そして命を奪い赤く染まった両手で――元の人間に戻ることも同じように苦難の道だ。
 黒曜の瞳が向かい来る敵を見据え、逸らさない。たとえ自分が振るう槍が残酷な結末を彼らに与えようとも躊躇わない。
 これは罰を与える御灸ではなく明確な加害だと、男は自らの決意を揺るがさなかった。
 刃からつたう血が手を濡らす。それでも霊槍を握る手は緩むことは無い。
 彼らが痛みを信仰に準じるべき幸いと受け入れるか。それとも罪悪を思い出し、悔いて罰とするか。
「どうかご自身で決めてください」
 まだ。そのどちらかを選ぶことぐらいは、彼らに残された自由であるのだから。
 屍は答えない。けれど生者はまだ信仰を持ち得たままだ。炎は消えず、昏く揺らいでいる。
 彼らに、本当の|家族《救い》を見出していた者もいたかもしれない。最後の寄る辺だと思った誰かもいただろう。
 なのに、救いをと求めた心を踏みにじってきたのだ。
 ララだって知っている。血の繋がりが無くたって、深く相手を思いやるような紲があれば家族にはなれる。
 それを信じて、親を子を――大事な人が欲しいと思う魂を彼らは無碍に扱った。
「お前達の三毒は酷く不味い」
 幼子が放つには冷徹が過ぎる声だ。断罪するような怒りの孕んだそれは、けれど憐みが強くにじむ。
 愛の何たるかを知らぬままで、なんて可哀想なひとたち。
「骨の髄まで愛してあげる」
 ――だから最後に望むものを与えてあげましょう。
 少女の体から、桜吹雪が晴れやかに舞い上がる。
 桜龍神の祝福と迦楼羅の寵愛は確かにララに向けられた深い愛情の具現化だった。降り積むほどに、裡から湧きだす力が彼女へともたらされる。周囲に桜禍の迦楼羅炎が灯ってぐるりと小さな体を囲めば、この場において余程彼女こそが神のごとしだろう。
 否、事実彼女は神の仔だ。
 だからこそ、歪んだ儀式を滅ぼしに来た。
 カトラリーを打ち鳴らして、大きく振るう。炎は応じるように周囲へと広がっていった。邪悪を打ち払う炎は、信者達の心の奥底へと入り込み暗闇を焼き払っていく。
「ララの焔がお前達の火に負けるわけない」
 一片も残さず、灰すら燃やし尽くして。
「しってる? |ララ《迦楼羅》はね家族を救うためなら神にだって逆らえる」
 これ以上、家族を思う誰かの心を贄に等されてたまるものか。
 纏う炎ごと大穴へ、忌々しい儀式ごと焼き払わんと少女は地の底へと落ちていく。

第3章 ボス戦 『神隠し』


●『おいで、おいで』

 ――おいで。
 ――この手を取って、一緒にいきましょう。


 落下の衝撃は酷く遠い。
 大穴に飛び込んだ者たちの耳元で、風を切る音が呪いの叫びのようだった。そうして至る地の底、石畳の床は薄らと水に濡れていて、着地の衝撃で小さな水飛沫を人数分あげた。
 薄汚れた地下の空間は広い。けれども壁に等間隔で吊るされた灯りのおかげで、暗さは感じられなかった。
 背後には重い鉄の扉。正面には石のテーブル。その前には"父母"の亡骸たち。
 完結で分かりやすいだけの儀式の場で、耳障りな声が聞こえる。テーブルの上に乗った蠢く触手の仔どもたち――クヴァリフの仔らが、生れ落ちた歓喜に鳴いているようだった。赤黒く、その身をうねらせながら。

 ――おいで。

 声がしたのは、信者たちを倒しきった能力者が到着したのと同時だった。先に部屋に辿り着いた彼らが、扉を開いた彼らが、各々にそれを目にする。
 テーブルを挟んで反対側の壁から、手招く巨大な手はいくつも虚空から生え出した。その中心で、巫女装束の女がうすらと笑みを浮かべている。

 ――おいで。

 広げた数多の腕が花咲くように仔を招いている。応じるように赤子の鳴き声はより大きくなった。地下室のなかで反響してわぁんと皆の鼓膜を震わせる。怪異にとっての力の源が、産声を上げている。怪異は果たして教団が呼び出したものか、それとも仔の声に呼ばれたのかは分からない。ただ、仔を回収するのが能力者たちの目的であるならば。
 あれは、倒さねばいけないものだ。

 信者たちは既に倒され、邪魔は入らない。広い場所では全てを気にせず存分に戦うことはできるだろう。
 互いに仔までの距離はある。敵に速度が無いなら、距離を詰めるのは容易の筈だ。
 歪な教えの奥深く、手招く怪異が最後の脅威だ。
鮫咬・レケ
楪葉・伶央
花倉・月笠
佐野川・ジェニファ・橙子
千桜・コノハ

●徒花尽きて

「おいで~だって~」
 手招く怪異が発する言葉に、鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)は軽い笑い声をあげた。
 膨らむ怒気は視線を向けずとも誰のものか分かりやすい。何せ真横からだ。肩を震わせて、ニタニタと災厄は笑みを浮かべて続ける。
「れおはあんなのにさそわれねーもんな」
 怒りで燃える炎へ薪をくべるように、矛先を向けた。けれど視線は向けぬままに隣――楪葉・伶央(Fearless・h00412)の気配がどんどんと急降下していく様はとても楽しい。
 自由気ままな災厄は、水色の瞳を細めて怪異を眺める。おいでと手を差し伸べるなんてまだまだ甘いだろう。
「|上級者《じょーきゅーしゃ》ならさそわなくてもしんじゃからくるんだぜ~」
 つまり自分の方が格上だ。今はちょっとばかり力は削ぎ落されているが、本物を知っているか否かは大きな違いだろう。
 ふふんとドヤ顔で胸を張る。数秒沈黙が流れてから、ちらりと隣を見る。いまや怒気は肌に突き刺さらんばかりで、しかしてこちらに対する反応は無い。
「ん~~? れおきいてるか~??」
 高い位置にある頭を覗き込むようにして、おーいと手を振れば長い袖がぱたぱたと揺れる。それでも視線は一片たりともこちらに向かないままだ。
 真横からのブーイングを完全に無視して、伶央は真っ直ぐに怪異を睨みつけている。力強い眼差しはぶれず、ただ突き刺すように前方へ。
 彼にとって都合のいい奇跡などに縋る信者達の思考が、まず理解できない。きっとこれからも、分かり合えることなどないのだろう。甘言を囁くだけの禍々しい手が導く先が破滅だと、見定める金の瞳の中で冷えたの青白い炎が燃え上がった。
(誰の手を取るかは、俺が自分で決める)
 ナイフを握る手に力がこもる。それはこの戦いが終わるまで、緩むことも開かれるもしない。
 あの怪異の手を取ることは無いのだから。
「すっごい怖怖な感じーっっ」
 怪異へ身を竦める花倉・月笠(童話の魔女にはなれないが・h00281)とてそうだ。怪異の腕は海でよく見たイソギンチャクじみていて、覚える嫌悪感は本能が訴えるもの。
 家族のことはやっぱり分からないままだけれど、これはきっと違う。あれは、幸福と真逆の存在にしか思えない。
「……とはいえ、ここで逃げるわけにはいかないっすよねー」
 元来海に揺蕩っていた穏やかな気質は争いごとなんて得意じゃない。それでも逃げずにいられるのは家で待ってるあの子のため。胸を張ってただいまを告げるのに、後ろ暗いことなんて出来やしない。大事な人がいるからこそ、立ち向かう勇気は湧いてくる。
 震えるな両足。踏ん張って見せれば、共に降りてきたシャコ太も励ますように透き通った体をふるりと震わせた。長い大穴の中を一緒に降りてきてくれた青い体を月笠は軽く撫でて、有難うっすよと呟く。
 外にバレてしまうわけにはいかないからだろう。随分と深くまで掘られた儀式場はたどり着くまでも相応の距離がある。
「お、思ったより深かった……」
 踵の高い靴でで移動する身にもなってほしい。佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)は息を整えている真っ最中だ。ふらつく体を手にした卒塔婆を杖代わりにして支える。戦うよりも若干疲れが勝る気がするのは何故だろう。使う筋肉が違うといえばそうなのかもしれないが。
 でもそんな事を愈々言っている場合ではないのは確かだ。巨大な手を連れた巫女の目的など言わずもがな。随分と血色の悪い手がゆらゆらと揺れて伸ばされ、招くように開いて、ゆっくりと中央に座す仔の方へと近づいている。
 その近くにある、数多の亡骸たちには目もくれぬまま。
(いつも通りでいようと思ってたのに)
 その光景に千桜・コノハ(宵鴉・h00358)が心中で溜息を吐き出すのは、平静を装うとした最後の一つだった。戦いの最中に感傷的になるなんて、相手の思う壺だろう。
 そう、思うのに。
 唇を噛んで、桜色の目を伏せる。死んで尚、彼らはこのような扱いを受けなくてはいけないのか。父や母になれると信じ、あたたかな家族をただ求めた人たちだって少なくない筈だ。
 弄ばれた彼らの気持ちを思えば、とめどない怒りがコノハの裡に湧き上がってくる。
 怒りに身を任せたい衝動に、思考は冷静になれと囁く。うるさい心臓を押さえるように胸に手を当て、息を吸って吐き出した。
 そうして、顔を上げる。
 目の前の凄惨さはそのまま、怪異も消えず。けれど脳に回った酸素のおかげで少しだけ落ち着いた。視線の先、何も知らぬまま鳴く仔の姿は悍ましい肉の色。これも犠牲になった人々の命と引き換えになったものなのだろう。
(ちゃんと回収することで弔いになるのかな……)
 否、そうであればいい。
 そうでないと、きっと彼らが報われない。
 集った能力者達にとっても戦う意味が、前に進むためのものであるのがきっと良い。
 目的は分りやすく明確に。今回の仕事の総仕上げは、怪異の打破と仔の奪取だ。
 すっかり息が整った橙子が勢いよく飛び出す。両手に携えた卒塔婆を振りかぶって、跳躍。石畳に甲高い音を響かせながら、伸ばされた怪異の手の前へ。
「ちょっとそのよくわかんない色したやつ触るのは抵抗があるから、あたしは打倒担当でヨロシクね」
 宣言はどこまでいってもマイペース。着地の勢いを乗せて、振り下ろした頑丈な特性卒塔婆が巨大な手を切り裂いた。
 だが一つ倒したところですぐさま音もなく手は伸びて、女を捕まえようと緩慢に動き出す。それを避けながら、また次の一撃へ。長い黒髪が動きに合わせて動いたなら、照明の光の下艶やかに踊る。
「こいつも手をつかうんだな」
 敵の手を眺めるレケが興味深げなふりをして視線を隣の伶央にちらと向ける。
「ほんと、おれの手が万全なら~」
 両目を閉じて溜息混じり。薄く片目を開けてまた見た。
「こんなのかんたんなのにな~」
 大袈裟に片手を顔に当てながらも、水色の視線は目配せを繰り返す。
「呪符の一枚でもはいでくれたらうれしーんだけどな~」
「――格上だと言うのならば、そのままでもやれるだろう?」
 鰾膠も無い。災厄へは視線一つ寄こさぬまま、伶央は静かな声でそう告げるのみだ。
 静かにナイフを構えれば鋼糸がゆらめく。
「口ばかり動かしてないで、さっさとやれ」
 そう言って、返事も聞かぬまま男は走り出す。薄い水を踏み抜いて、跳ねる水滴と共に響かせる足音は力強い。振るう刃が張り巡らせる鋼糸が、空間に線を引いていく。それは怪異の手を捕縛して伸ばすことを許さない。
 どれほど本数が多かろうと、こちらまで届かぬものに意味は無い。潜り抜けようとするものは符を叩き込むように拳で押し返し、逆手に持ったナイフが切り刻む。
 それをおざなりな、袖越しの拍手をして見守りながらレケは肩を落とした。
「むりか~、まー、手がなくてもやれるけどな~」
 あった方が早くて便利で、ついでに自分も嬉しいのに。まぁ自分の方が書く上なのは確かで――そこまで思ったところで、ん? と首が傾ぐ。
「ちゃんとさっきのも聞いてんじゃん!」
 無視すんなよ~! 性格悪~い! 盛大な棚上げをして叫ぶ声も聞こえないとばかりに、伶央は無言のまま力強い打撃を繰り出すだけだ。その背へ伸ばされた白い腕が、しかして炎の斬撃が斬り飛ばす。
 薄紅の、焔が揺らめく。
「……邪魔な奴にはとっとと退場してもらわないとね」
 抜き放たれた刀は冴え冴えと、美しい刃を晒していた。刀を握るコノハが再び一閃すれば、桜花がちらちらと地下で咲き誇るように舞う。
 桜炎を纏う少年の姿は、よくよく目立つことだろう。宵灯りに群がる羽虫のように、自然と怪異の手はそちらへと向かっていく。
「残念だけど僕は簡単には捕まらないよ」
 ひらりと軽い身のこなしで避けたなら、敵の肘のあたりへとコノハは深く刃を突き立てた。肉よりも、もっと軽い手応えがする。気にもせずそのまま切り落とせば、怪異の腕は炎に焼き尽くされて跡形一つ残さない。
 それを合図とより激しく手は集う。だが小さな身は隙間をぬって、指を踏みつけ、落とす影に紛れて走るだけ。互いの動きが素早ければ素早いほどに、状況は混迷を極めていく。
「なるほど文字通りに手数勝負ってわけね」
 近くを過った一本を卒塔婆で叩き伏せながら、橙子は青い目を楽し気に細めた。多対一なら彼女にも覚えがある。相手がこんな化け物では無かったけれど。
 でも人数ならこっちだって負けてはいないだろう。現に伶央が多くの腕を鋼糸で封じ込めては、力任せに殴り飛ばしている最中だ。ひょこひょこと動くレケもまた、彼の方へと腕を誘導している。
 冷静に、けれど確実に数を減らして戦場を駆けてる姿に無駄は無い。
 そうだ、焦る必要などない。目まぐるしい腕の動きを一度遮るように橙子は目を閉じる。正眼に構えた卒塔婆は不動。深呼吸をして、耳を澄ます。ここは地下だ、風は無い。味方の動きを覚えたなら、あとは生き物では無い音だけに集中すればいい。
「そこ!」
 迫り来る腕の一本を、横に打ち払う。そのまま前に一歩踏み出て、盛大に叩き落とす。単純な動きばかりの相手なら、推し負ける気なんてこれっぽちもない。
 そうして戦線は仔よりも奥へと押しやられる。その隙を見計らって、月笠は亡骸たちの元へと駆けた。
 ひどい有様だ。ぎゅっと目をつぶって黙祷を捧げながら、彼らの遺品へと触れる。間に合わなくてごめんなさい。
 でも、まだ。
「こんな目にあわされた怒りとか、悲しみとか、恨みとか……最後の一矢として、そういうの全部、おれに貸してくれませんか」
 真摯な言葉がぽつりぽつりと落ちていく。あの巫女の怪異が彼らの死因から大きくずれているなら望みは薄いかもしれないけれど、これ以上の悲劇を望まないとするなら。どうか一緒に戦って欲しい。
 祈るように遺品に触れる月笠の手に、そっと触れるものがあった。その感触に赤紫の瞳がはっと見開かれたのなら、そこに映るのは透き通った青色のシャチが一匹。中空をくるりと泳いで甲高い声を上げた。
 ――ありがとう。
 知らない誰かの声は小さく、けれども確かに少年の耳へと届く。
「シャチちゃん! シャコ太!」
 記憶を依り代と呼び出された一匹が、尾鰭で敵の手を弾き飛ばす。そこにシャコ太の体当たりで手は脆くも崩れていった。傷付く二匹へ回復と強化を途切れずに重ね掛けていけば、百人力だろう。頼もしい彼らの背を、月笠が支えて戦っていく。
 数が多いとはいえいつかは尽きる筈。
 我慢比べのような図式だが、負ける気なんて誰にもない。
「おれのほうがつよいからあえてうけてやるよ」
 藻掻く怪異の腕へ、レケが笑って受け入れるように招いた。やれるものなら、やてみればいい。水色の瞳は変わらずに、面白がる気配だけが色濃い。
 握りつぶすように巨大な手のひらが青年を包み込む。骨の軋む、嫌な音が内側から聞こえて空気が吐き出される。
 痛みに、しかしてレケは笑みを絶やさない。
「あは、こんどはおれのばん」
 足元の影が揺らめいて、咢が見えたと思った時にはもうおしまい。
 飛び出した影たちが歓喜するように飛び出し、鋭い歯で怪異の腕を喰らいつくしていく。
「おれの鮫たち、おまえの手よりつよいからな」
 受けた痛みこそ幻だったとばかりの元気な様子で、レケは歪みの鮫影達を遊ぶように操る。それを煩わしがる別の手は伶央が派手に殴り飛ばし、ナイフが切り落とした。
「あはは、れおまた正義厨してる~」
 いけ好かない笑い声だ。
 だがやはり相手にはしなかった。今回の目的は鮫咬への仕置きではない。敵の排除と仔を回収する効率の為ならば、戯言の一つや二つは聞き流そう。
 そして何より――この教団への不快感が勝っている。
「確実に潰す」
 低い声に、鮫の笑う声が重なった。
 押しのけられた手が減ったのなら、巫女までの道は開けた。そこをヒールの音を鳴らして駆ける女は一人。左右から挟み込むように卒塔婆を振るうが――浅い。
 怯んだのか、一歩下がる怪異へと青い鯱と蝦蛄の体当たりが追撃で入る。新たに湧き出た手がそれらをいなして、再び無防備になった巫女の前へ。
 一羽の烏が舞い降りる。
 春宵の翼が、桜花の炎に照らされて美しく羽ばたき畳まれる。艶やかな夜桜の髪が揺れて、流れて、舞う花弁の中で美しいかんばせが微笑んだ。
「魂から燃やし尽くしてあげるね」
 涼やかな声は、凍てつく慈愛に満ちている。
 墨染の刃が振り上げられて、勢いよく下された。魔を祓う一太刀に、一片の容赦などなく。
 邪悪な魂を灰塵へと導くように浄化の炎は大きく上がった。

玉梓・言葉
フィーガ・ミハイロヴナ
アナスタシア・ケイ・ラザフォード
刻・懐古

●命在りて

 巫女の背後、虚空から蠢きだした手は咲いている。
「おや、あれが怪異」
 不気味さなどものともせず、穏やかな様子で刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)は黄昏色の瞳を瞬かせた。どこか古妖と似た、空気がじとりと重くなるような気配を感じる。
 否、古き者たちの方がもう少しばかり我が強いだろうか。
 長き時を生きた古時計は、より記憶をひっくり返そうとして止める。いずれにせよ、純粋な人々の願いを弄ぶ相手だ。歪な信仰は今日ここで、断ち切ってしまうことが美しい結末だろう。
 寂しさからか細い望みを神に託す。そんな不確かな未来を望んで、己の|未来《命》を犠牲にする誰かがこれ以上出ないように。
 静かに決意を固める懐古の隣で、けれども友人――フィーガ・ミハイロヴナ(デッドマンの怪異解剖士・h01945)は手招かれている仔の方を眺めている。
「興味深い」
 ぽつりと漏らされる言葉は、研究者としての気質がそうさせたのだろう。何せ世界に新たな力をもたらすかもしれない金の卵だ。純粋に家族が欲しいと願った者たちが叶えた夢が、その悍ましい仔らなのだから皮肉に過ぎる。肉の触手が蠢くさまを、死んだ彼らが見ずに済んだのは果たして最後の幸運だっただろうか。
「愛し仔というには歪よの」
 玉梓・言葉(|紙上の観測者《だいさんしゃ》・h03308)も眉根を寄せる。クヴァリフの仔らとて、産まれてしまったことには何も罪は無い。
 ただ、その存在が。この世界で生きる人々よりも、悪しき存在にとって有益に過ぎるだけだ。
(可哀想に)
 こちらとて利用するには違いないけれど、彼らの手を取る日が来るならば――その時はきちんと腕に受け止めよう。
 言葉が仔に向ける憐みのような慈悲の腕は、今はまだ届かぬ位置だ。
 三者三様。思うことはある中で、アナスタシア・ケイ・ラザフォード(悪夢のメイド・h05272)だけは一人冷たい目で鳴く仔を静かに見た。
(煩いですね)
 彼女が考えるただひとつ、仕事を遂行させること。彼女にとって|あれは連れ帰るだけ《・・・・・・・・・》の対象だ。
 感情の乗らぬ銀の瞳は周囲へと視線を滑らせる。広い室内、光源はある。足元は多少濡れているが気をつければ問題のない程度。
 戦闘で邪魔になりそうなものは、どこにも無い。
 そう判断出来た瞬間、音もなくアナスタシアは駆けだした。
 彼女に向って手が伸びる。好都合だ。女の狩猟は海中でのそれと同じで、海底へ――深い海の底まで引きずり込むだけなのだから。
 濃紺の髪がふわりと揺らいで、走る速度を上げる。そのままの勢いで、手にしたハチェットナイフを翻す。肉に似た、ちがう手応えがした。けれど気にしない、相手は生き物では無い。そうであっても邪魔ものなら排除をするだけだ。二本切り落とされた指を足場に飛び乗ったなら、別の手のひらへ勢いよく回し蹴りを叩き込む。
 怪異の腕を段差がある程度の足場にしながら、まるで舞い踊るようにアナスタシアは攻撃を繰り出し続ける。給仕服のスカートの裾が、波のようにふわりと翻った。
 そうして幾分かが相手にされても、些か面倒なことに変わりはない。彼女のような身軽さがあってこその戦いは、懐古にとって真似出来そうにない。
「フィーくん、前を頼めるかな」
「フフ……任せてください。まぁ、おれもインドア派ですが、別の方法がありますから」
 友人を後ろに下がらせたフィーガは、『お隣さん』に声をかける。死霊たる彼らの得意分野は隠密作業等ではあるが、戦闘においても頼もしい皆さまだ。
 幾つもの手があるのならば、大人数で対処しよう。さぁお願いしますねと声をかければ彼らは向かってきた手を捕らえて、締め上げる。ぎしぎしと軋んで、骨が大きく砕ける音が響けば、だらりと垂れたまま届かなくなる。
 邪魔な死霊たちを追い払おうと振り上げられた別の手は、けれども飛び交うメスが突き刺さる。
「はぁい、オペを始めますよ」
 危ないので動いちゃだめですよ。まぁ失敗しても構わないんですが。そう続けるデッドマンの声も視線も、平素と変わらない。穏やかなまま的確に、続いて伸ばされる手を固定ベルトで締め上げた。藻掻こうとするそれへ電撃が走ったなら、一度大きく痙攣をして地に落ちる。
 動かなくなった腕は全てどろりと溶けて消えていく。ああ、勿体ない。貴重な怪異の献体として一本ぐらいは欲しかった。お隣さん達への報酬も必要だからどうせなら二、三本くれたって良かったのに。
 まぁ無理なものは仕方ない。
「じゃ、やっちゃってください懐古さん」
 現実にフィーガが小さく肩を竦めて背後へと声をかけた、刹那。
「ありがとう――十分な時間だ」
 飛び出す巨大な影が中空を滑りゆく。
 細く尖ったそれが、時計の針であると気が付いたときには既に遅い。過行く時を刻むように、ぐるりと一回転で手のひらは真っ二つにして掻き消える。それを涼しげな顔のまま眺める懐古は、視線を手の現れる場所――巫女の方へと辿るように向ける。
 無限に湧き続ける腕ばかりを対処していても仕方がない。どういった術かは不明だが、叩くべきは操手だろう彼女の筈。
 自分へと向けられた攻撃は全て友人が押さえつけてくれている。藻掻く腕もこちらへ届かなければ脅威ではないのだから、成すべき仕事を果たさなくては。
「流れて過ぎ去る、時を詠もうか」
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 三秒もあれば影の針はもう一度その姿を表す。正午からから八刻の方。切先じみた針の先の狙いは巫女の方へと定まったのなら、音もなく滑空した。
 防ごうとした手のひらを貫く速さは、けれども目標の脇腹を掠めるに終わる。流石に怯んだのか、蠢く腕の動きが一瞬鈍る。
 それで充分だ。
「――手を招くのはこちらの性分でございまして」
 深海よりの使者にも音は無い。巫女の懐へ入り込んだアナスタシアが纏っていた影は、時計の針と共に消えてる。
 銀色の瞳が、獲物を捕らえる獰猛な光をたたえていた。
 煌めくハチェットナイフの刃が突き立てられる。大口を開けて牙を突き立てる肉食獣の動作にも似て、傷付いた巫女の脇腹へと深く差し込まれた。真っ当な生き物なら致命傷だが、果たして形だけが人間じみた相手ならどうだろう。
 否、やはり知ったことでは無い。
 無理ならばいくらでも攻撃を重ねていけばいいだけの話。アナスタシアはグリップを掴んだ手を捻って、飛び退る。
 一泊遅れて彼女がいた場所を押しつぶすように、力強く怪異の巨大な腕が叩きつけられた。けれど残念、影の残滓だけがそこにはあるだけ。
 音もなく、水底を泳ぐように影に紛れた女は安全圏まで下がりきる。まだ動く敵は死んではいない。ついでに引き掴んできた仔の一匹を、そっと部屋の奥へと置いた。果たしてこれが何の役に立つのか。
 それでも新たなる資源だ。放っておけば誰に狙われるとも分からない。善悪など問うつもりはないけれど、仕事は完遂しなくては。
 再び前へと飛び出したアナスタシアのナイフが、蠢く怪異の腕を切り飛ばす。
 悪い腕だ。
「嬢ちゃんには仕置きが必要じゃな」
 それを操る者はもっと悪い。
 穏やかに、幼子を咎める響きで言葉が告げた。手にした番傘をゆるりと回して、迫りくる手のひらを受け流す。小間で隠れた面影は誰に似て、誰にも分からぬまま、相手の力を食む。
 本当に悪い子だ。
 雨中を散歩でもするかのように、ゆるりと歩む男が右目の|片眼鏡《モノクル》を静かに外す。途端、その目を斜めに走る傷口から溢れ出すのは――呪いだ。
 制御の外された彼の人からの|贈り物《呪い》は洋墨を零すようにぼたぼたと落ちて、染みを広げて、辺りを染めていく。
「可哀想に。ここは人の子の嘆きが多い」
 ならばその想いを晴らす手助けをしてやろう。道具としての本懐は誰かに使って貰うことで果たされる。数多の感情を長く綴ってきた一振りのガラスペンにとって、拾い上げ形にすることは誰よりも得意だと言えただろう。
 差し伸べた手へと悪霊たちが食らいつく。引き裂かれんほどの悲哀は凍えるほどに冷たく、爛れるほどの昏くてあつい憎悪だ。
「喜びも悲しみも全て発露するが良い」
 床を踏む足跡が、呪詛で黒ずんだ。怨念を纏う言葉の一歩は早く、駆ける速度は瞬きの間。命の残滓、その生への飢えに背を押されるように言葉は前に進む。
 振るわれる巨大な手を振り切って、潜り込むは巫女の懐。華奢な体へ彼らの想いを乗せ――いざ。
 突き出した拳が深く鳩尾へとめり込む。犠牲者たちの怨念が、膨らみ爆ぜて食らいついて、巫女の体を吹き飛ばす。
 本当に為したかったことを、彼らは今ここに綴れただろうか。
 願わくば、彼らの未練を断ち切る一打であればいい。

焦香・飴
五槌・惑
一文字・透
小沼瀬・回

●虞は灰へ

 無念のまま生を終えた肉体が、折り重なっている。
 用済みと捨てられているのだ。誰からも顧みられることなど無く、緩やかに朽ちていくだけの亡骸たち。
 痛ましい彼らへ小沼瀬・回(忘る笠・h00489)は少しばかり目を伏せた。安らかにと祈るのは違うかもしれない。だが、誰にも悼まれぬままでは、あまりにも。
 悲しみから逸らすように、上げた視線の先。大きな手を引き連れる女は、格好こそは巫女のそれをしていた。ならば泰平を願って祈りの一つでも捧げるのが本来の役目だろうに。半ば八つ当たりじみた思考が回の中でぐるりと巡って消えていく。
 あれは怪異だ。人の情など、どうあがいても理解しまい。
 色硝子越しの黒い瞳がどれほど剣呑に細められようとも、意も介さぬ様子がその証拠だ。ただ「おいで」と繰り返し、優しく招く腕だけを増やしている。新たな力の源――クヴァリフの仔だけを今欲しているのだ。
「ああ、図々しい、悍ましい」
 なによりも、――忌々しい。
 知らず、傘の男は奥歯を強く噛みしめた。世の中は苦みばかりが強くて嫌になる。
 心の奥がざわつくような、不安になるような怪異の仔ら鳴き声と、上辺だけの甘言ばかりで満たされた地下。思わずと耳を塞ぎたくなるのを、一文字・透(夕星・h03721)は堪える。今、この両手はその為にある訳じゃない。そんなことをしていては戦うことは出来ない。武器を握り、敵を倒すためにある。
 そう分かってはいるのに、亡骸たちから目を逸らしてしまった自分が情けなかった。命の終わりを見るのは初めてでは無い筈なのに。魂が失われて、ただの肉塊と化した誰かを見るのは、どうしたって慣れようもない。
 死への嫌悪感は、人であるなら正しい感性だった。誰に咎められるわけでもないのに、唇を強く噛む。自分を傷つける事ならきっと、彼女の家族は止めるかもしれないけれど。
 震えそうになる足元で、キュウと小さな声がした。視線を向ければ、心配そうな顔で透を見上げている忠犬が小さな前足をたしたしと動かしている。
「ありがとう、シロ。……ひとりじゃないから大丈夫だよ」
 たった独り事件へ挑まなくてはならない訳じゃない。この子も、共に戦う能力者達もいる。深呼吸をすれば、恐ろしさで冷えていた手足に血が巡る感じがした。ゆっくりと、今度は怪異の方へと視線を動かす。
 あのひとを倒し、クヴァリフの仔を回収すれば。こんな怖ろしい事件は繰り返されない。
(大丈夫、ちゃんとやれる)
 ――止めよう。
 覆らぬ状況に俯くのではなく、成すべきことを。世界が黄昏を迎えていても、より良い明日を目指さぬ理由など、どこにもないのだから。
「争奪戦らしくなりましたね」
 能捜査官としてこの手の状況に慣れているのだろう、焦香・飴(星喰・h01609)は穏やかに微笑んだまま。呟く声には、どこか楽しみすら滲ませていた。
 隣に立つ五槌・惑(大火・h01780)もさしたる感慨など無い様子で息を吐く。
「子供をあやすのは結構だが、強盗を無視するのは防犯に難があるな」
 相変わらず巨大な手は、まるで手遊びでもするように指を閉じて、開いて、ゆっくりと進む。目当てを横取りをされるなど微塵も思っていない様子だ。煩わしいならあっさり殺してしまえると、そう思っているのかもしれないが。
「滅茶苦茶にしてやるか」
 涼し気な顔のまま、惑の口元に浮かぶ笑み。零された言葉は分りやすく、碌でもない。しかし咎める者などどこにもいないなら、止められることだってないのだ。
 引き抜かれた長剣が灯りを反射して、冴え冴えと輝く。それとよく似た鋭さで、けれど楽しそうな気配を乗せた琥珀の瞳が隣に投げられる。
「アンタも存分に燥げよ、飴」
「それって大暴れ宣言ですか、乗ります」
 返事はおおよそ食い気味で、ぱっと子供じみた表情で飴が笑う。
 言質を頂きました、怒られるときは一緒ですねと一歩を踏み出す爪先が、黒に染められゆく。夜空というには何一つ光源のない真暗闇。踵を下した先で、石畳が小さな音を立てて罅割れた。
 そして駆けるは一瞬。強く床を蹴り砕いた音が派手に響いてついてくる。
「お呼びですか」
 おいでと手招く言葉に、応える飴の声だけが穏やかだ。手にした軍刀もまた足元とよく似た深い黒。鞘に入ったままのそれを盛大に振りかぶって、走る速度を乗せたまま降りぬく。
 巨大な手は、人の肉よりも随分と歯ごたえのない。肉が潰れて骨が砕ける感触をそのままに、返す刀でもう一本の指をへし折る。
 突然の乱入者についていけなかったのだろう。手は未だ仔の方へ伸ばされていく。その様に、飴はわざとらしく眉根を寄せた。
「ああ、俺を呼んだわけじゃないんですね」
 酷いなあ、傷つきます。
 形だけの言葉に意味などない。ただ相手を覚める口実と発っして、相手の肘辺りへ強かに刀を叩きつけた。刃が隠されたままであれば斬ることは叶わないが、鈍器としてはあまりに優秀だった。おかしな方向へひしゃげた怪異の巨大な手は、力なく床へと落ちていく。
 それが消えるよりも早く、追いかけてきた炎が灰も残さずに消し去った。
 惑の長い髪に混じる赤を、火の粉がいっそう赤く輝かせて揺れる。それを掴もうと伸ばされる悪い手のひらを蹴りつけて、燃ゆる切っ先が斬り裂いていく。血も流れぬ生き物の紛い物へ、重ねるよう符を叩きつけたなら轟々と焔が揺れていた。
 巡る呪毒を撒き散らし、揺れる炎の影は境界を引く。泣き喚く仔らと怪異の手の間に、行き来など許さぬ赤を描く。
 そこで振り回される刃は、流派など知らぬ存ぜぬとばかりに自由な型。ならば暴れる度合いを定めるのも惑のさじ加減一つ。延焼など一つも気に留めず、辺りに積まれた設備ごと灰へ。
「惑さん遅いですよ」
 咎めるような言葉は、けれども遊びの延長戦。炎を避けて引いた飴が、炎ごと追いかけてきた腕を蹴り飛ばす。その爪先ごと燃やさんばかりに、赤々とした焔が踊る。
「俺がついてく義理がどこにある、そっちが待て」
「俺まで燃やしといて我儘言うこの人……」
「アンタに効くとも思ってねえよ。我儘傲慢はそっちの方だろ」
 果たしてどちらが、など。互いに主観でものを見るなら指を差し合うしかない。とはいえそんな無駄な動きをする暇もないなら、真実などは燃える火の中へと放り投げてしまえ。
「でも不吉でいい炎ですよね、もっと行けます?」
 期待する答えなんて一つきりでしかないのに、飴の言葉は質問の形をとっている。返事の代わりに轟々と火力が増せば、ご機嫌な笑い声がまた響く。
 赤々と炎が踊る戦場は賑やかだ。そこに薄い髪色を揺らして透も駆ける。小柄な彼女を捕えようとする怪異の手には、栞を一つ贈り物へ。鋭く裂かれた指先に怯んだ隙を潜り抜けて、青い瞳が見定めるのはその根元。巫女の方へ。スニーカーの底が濡れた石床を踏みつけて小声のような音を立てた。
 しかし近寄るには些か相手の手が多すぎる。どれほどの力を持っているのかは分からねど、捕まって振りほどけるとも思わない。急く気持ちを押さえながらも慎重に、確実に、少女の足は前へ。
 そこに一つ柏手の音が響く。
「――さあさ此方、手の鳴る方へ」
 くるりと回る傘の、大柄な体躯がゆっくりと歩み出た。
 ほら、おいで。もう一度、大きな回の手で打ち鳴らされる音は閉じられた地下室で良く響く。
 前で暴れる能力者たちの仲間と捉えたか。幾つかの腕が軌道を変えて男の方へ。何かされる前に潰してしまおうというのなら良い判断で、単純だ。
 握り込まんと拡げられた手が、回に影を落とす。抵抗などない。立ち尽くしたままの彼にその指先が触れようとしたところで。
「気安く触れれば手に噛み付くぞ」
 男の姿は掻き消える。
 空振りに終わったように見えたそれが、内から崩壊する。じわりと蝕む小さな銀色が、泳ぐ魚の鱗じみて。無垢な幼子のように懐きもしない紙魚たちは悪食であるがゆえに、怪異を紙片のように容易く貪るのみ。
「家族を宣うのなら、その痛みも愛せ」
 少なくとも、父母と消費された彼らはそれを十二分に味わった筈なのだから。
 立ち位置をその紙魚――|不可視の怪物《インビジブル》と入れ替わった回は仔を拾い上げた。
(懐の仔を奪われるのは、さぞ気に喰わんだろうが)
 見逃せるほど、此度の悪行は優しくはない。
 抱えたそれは我が子と迎え入れるには少々不快感の方が強い、生肉のような手触りだ。けれど放っておいても悪用される可能性の方が大きいならば、回収するのが一番だろう。
 見逃すかと伸ばされた腕を、再び入れ替わりにて後方へと退く。再び食い千切られていく手を横目に、やわい手付きで仔を階段前へ下ろした。不気味な仔とはいえ、無下に出来る非道は持ち合わせてはいない。
 少々隙が出来てしまう動きではあるが、問題は無い。男へ伸ばされていた腕の隣に、人影が一つ潜り込む。
 たん、と軽い調子で跳ねた透の、青いジャケットがふわりと翻る。伸ばされる怪異の腕を勢いよく蹴り飛ばせば、相手がつかめるのは精々空気だけ。
 ――今日はいつもよりずっと、周りがはっきりと見える。集中力が途切れずに、肩の力もほどよく抜けて。思ったままに動く手足のなんて軽い事だろう。
 妙にクリアな視界は全てが良く見渡せた。攻撃がこちらに向く、その一瞬前ですら捉えられるほどに。
 無駄のない踏み出しで、勢いよく跳躍した。持ち上がろうとした巨大な手を、透の小さな手のひらが着地の体重をかけて押さえる。小柄とはいえ一人分だ。ひとときその動きを押しとどめるには十分すぎる。
 怪異の手を足場に、もう片方の手で構えた栞を巫女へ向かって強く放り投げる。致命傷を狙えるほどではないが、威力は見た目ほど弱くない。浅く、首筋を裂いたのを見届けて透の体は宵闇に溶けて紛れる。
 痛みに怯んだ巫女に連動したのか、全ての巨大な手が動きを鈍らせたその隙間を縫って――炎が道を作り出す。
 その中から飛び出す刃は二振り。
 久々に解き放たれた飴の愛刀に曇りなく、炎を纏う惑の長剣に合わせて勢いよく振り上げられる。
「そっちも自己流みたいだな」
「力一杯振り下ろせば大体なんでも斬れますよ」
 純粋な暴力の前に、小手先の技巧など不要だろう。
 それでは仲良くご一緒に。
 元凶へと迷いなく走る銀閃は二つ重なり、歪な物語の幕引きの一手となる。

天籬・緒
玉巳・鏡真
詩匣屋・無明
一文字・伽藍

●御伽絵巻にひかりの泳ぐ

 折り重なった亡骸が浮かべている表情は、いずれも安らかとは言い難い。
 騙され使い潰されるだけの命。夢に縋って地獄へと連れ去られるだけの命。終わってからも粗末に扱われる命。
 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
(あーあ、落下なんて楽な死に方さすんじゃなかったかな)
 足元で転がる、無理やり連れてきた信者達を一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)はひどく冷めた目で見下ろした。無念のまま死んだ者たちと同じか、それ以上の苦しみでも与えるべきだったように思う。望まれる復讐の形なのかは不明だけれど、そう思うほどに湧いた怒りは強い。
 上で信者と対峙した時から薄々感じてはいたが、本当に碌でもないクソ儀式だ。
 青い視線を上げ、奥にいる巫女へと伽藍は目を細める。
「で? そこの怪異はどっから湧いたの」
 吐き捨てるように問いかければ、傾げた首筋に銀色の髪が静かに流れた。
 お呼ばれしたのか、元からいたのか、それともただの漁夫の利を狙った存在か。巨大の手のひらだけが変わらず蠢いて、閉じては開く花のようで不気味だ。その中心で、巫女は微笑んだまま答えはしない。
 まともな意思疎通など期待していなかったが、あまりに予想通りな反応に短く乾いた笑いが漏れる。
「どうせバブ目当てでしょ。断固阻止~」
 溢れた怒りに、ぱちりと彼女の横で銀の光が跳ねる。
 彼女が指摘したように、おいでと囁く声は変わらず仔らへと繰り返されていた。母親ではない何かが、己の力を強めるために呼び続けているだけなのだろう。
「どうやら別人らしいな?」
 てっきり|女神さま《クヴァリフ》とやらとのご対面かと思えば、あちらもまた仔攫いの一種のようだ。肩透かしを食らったようで、短く玉巳・鏡真(空蝉・h04769)は溜息を吐く。
 けれどまぁ、些事だ。憂さ晴らしに付き合ってもらえるならば誰だって構わない。この胸糞悪い教団で、ふざけた行いをしていることに違いはなく――殴り飛ばすのに遠慮はいらないだろう。
 そしてあれを倒してさえしまえば、あとは仔の回収だけ。陰惨な物語もそろそろ大詰めといったところだ。
「……しかしながら、神秘とは秘匿されてこそ畏怖となろう」
 堂々と暴れているのはいただけない。目に視えず、超常の存在としてこそその真価を発揮する。互いに殴り合えるのであればそれはただの怪物に外ならぬ。
 怪談話の紡ぎ手としては、いささか不満が出るのは仕方のないこと。どうにも納得がいかぬと口を曲げ唸る詩匣屋・無明(百話目・h02668)に、弟子は少しばかり呆れた息を吐きだした。
「世の中の真実なんてそんなもんだろ」
「いやいや、小説より奇なりでこそよ」
 二人のやりとりに、天籬・緒(戀鶺鴒・h02629)が口元を隠しながら小さく笑う。明るい陽彩のような瞳は怪異と仔から逸らされぬまま、動かす腕にふわりと鰭のような袖が揺れ動く。
「還る仔の胎はあかいと云うのならば───せめて、揺籃は我等が担いましょう」
 小首をかしげて微笑むさまは慈愛に満ちる天女のようでいて、言葉には有無を言わせぬ強さがにじむ。
「神の御手、煩わせはしませんわ」
 だから安心して、どうぞお帰り下さいな。
 緒の赤いつま先の下で影が揺らめく。墨染の天つ龍魚が赤い娘の周りをくるりと泳いで、床の薄い水の膜に波紋を描いた。
 その様を挑発ととったか。少なくとも邪魔だと思うには十分だったのだろう。巨大な腕が能力者の方へとゆるり、伸ばされる。「おいで」何度目かの声だけは、やはり仔以外には向けられはしない。
 未だ乱入者は些末事なのだ。重なる屍に一度も目もくれぬように、怪異にとっては興味を抱くにも至らぬ存在。
「|爺さん《詩匣屋》。一緒に化け物退治と洒落込もうぜ」
 こうまでコケにされたのなら、"かみさまのいうとおり"なんて従順な態度など誰がとるものか。返すものは敬いではなく、刃が似合いだろう。鏡真が薄く口元に浮かべた笑みに、無明も頷き返す。
「ははあ、化け物退治とな。よろしい、乗った」
 ここまでの流れで御伽噺の配役は決まったも同然、ならば愉しく語り尽くそう。
「時は令和、奇怪な父母失踪事件の末に神隠しの正体見たり」
 朗々とした|語り部《無明》が創造したるは何の変哲もない拍子木がひとつ。打ち鳴らせば、甲高い音が物語の幕引きと鋭く響く。
 英雄譚になり得るか、それとも悲劇として幕を閉じるか。未来など見通せるものではないけれど、目指すは前者ひとつ。
「これは怪異狩りか。それとも神狩りか。どちらにせよ昔話に倣うが如く――いざ、尋常に」
 打ち鳴らされる柝の音を合図と、皆が一同に飛び出した。
 その先頭。緒が呼び出す、中空を泳ぐ更紗模様の金魚の姿は絵巻物の一部のようだったろう。捕えようとする巨大な手を尾びれで振り払い、残った残滓を影の魚が飛び跳ねて散らしていく。鮮やかさを引き立てるような薄墨の一匹は音もなく次の相手へと泳ぎ挑む。
 どれほど恐ろしい攻撃だろうと、泡のように溶けて消えれば夢よりも儚い。一度きりの逢瀬と更紗模様の金魚も消えれど、たった三つ数える間に姿をまた現す。
「御前達。ゆめゆめ、|彼等《親御様方》の眠りを妨げては駄目よ」
 優しい声が気遣うのは喪われてしまった無辜の者たちへ。赤い娘が操る魚たちが泳ぎ踊れば、捉えようと攻撃はそちらに引き付けられる。指先でひらりと躱せばまた次へどうぞ。追いかける錦と影の魚たちは、揶揄うように中空に。踊り子に夢中になる客じみて、怪異の狙いが引き付けられる。
 だから銀の光が奔って弾けたとて、相手にそれを妨害できる隙など無かっただろう。伽藍が操る|ポルターガイスト《クイックシルバー》が、仔と亡骸を拾って後方へ移動する。暗い地下の中で、星屑のような煌めきだけが、音もないま弾けていた。
 途中で吸収などされて、力の増幅などされてはたまらない。生贄にされた人達も、望んだとはいえ歪な子供と一緒に居たいのかは分からないけれど。
(ドンパチにまで巻き込まれるこたァないよ)
 自業自得の信者達と違って、ただ巻き込まれただけの人間に罪はない。
 もう十分に彼らは傷ついた筈だ。だから今は安らかに、眠っていて欲しい。
 そんな亡骸の中で――小さな声が聞こえた。
 驚きに目を見開いたのは皆で、真っ先に動いたのは鏡真だった。声の方へ走る男の姿に怪異の手のひらが向かう。それを金魚と銀光が弾いてしまえば、彼に当たる威力などたかが知れていた。
 大穴の落下時から耳の奥で鳴り響く、季節外れの蝉の声はひどいノイズだというのに。聞こえるたびに研ぎ澄まされる感覚が、鏡真の動きを強めていった。まだ移動の済んでいない亡骸の中から、かすかに動いたそれを強く掴んで、引きずり上げる。また、声がした。
 ――生きている。
 苦悶に呻く顔からその声は発せられている。その人の、血濡れの四肢は果たしてその生存を喜ぶべきか迷うところだ。けれどもまだ、死んではいない。その判断は生存者を抱えて後方へ走り出してから、鏡真の中についてきた。赤く塗れた手など今更気にもせず、階段近くへもたれさせれば知らず息を吐いた。治療など分からない以上、出来ることはここまでだ。
 けれども弱っているものから狙おうとでもいうのか。巨大な腕が壁の灯りを掴んで彼らへ向かって投擲する。
「おいたが過ぎますよ」
 緒の意思に従い、影の魚がその身で叩き落とせばそれも無害のまま。仔が鳴く合唱に紛れて、ガラスの砕ける音が響く。
「仔は得てして無辜の命。徒に弄ぶものではないのでしょう」
 ───其れは、貴女も、わたしも、おなじこと。
 がむしゃらに投げつけられるものを防いで弾く。そして、そのうちの一つを金魚が的確に跳ね返す。割れる音は同じで、破片が飛ぶは巫女の方。
 砕けた硝子の破片が女の目の中へ飛び込めば、短い悲鳴が上がった。
「五月蝿いな」
 先程から繰り返されるおいでの三文字だってもう聞き飽きた。そんなにも呼ばれるなら、その懐へ行ってあげよう。
 銀の閃光が走る様は、落雷のようだった。己の護霊と同化し、四肢を光と変えた伽藍の速度は、視界が無事であっても捉えきれはしなかっただろう。道ゆきに巨大な手が塞がろうと構いはせず、ただ真っ直ぐに突き進んだ。
 たとえ潰されても即座に銀色が再生していく。だから怯む事なく、伽藍は巫女へと距離を詰め。
「沈んどけ!」
 振り上げた拳を全力で振り抜く。
 満足感のある手応えに、手のひらを開いて閉じて、よしと頷く。多少スッキリした。
 巨大な手に支えられてまだ起き上がる相手はしぶといけれど、女は一旦飛び退ってまだ移動させていない仔らの前へ。与えたダメージを回復、なんてことになっては意味がない。伸ばされた手を、光の腕で打ち退ける。それでもなおと伸ばされたものは、空間ごと掴んで引寄せ蹴りぬいた。
 その横を、無明の振るうバス停が勢いよく通り過ぎていく。
「失敬、あいにく刀など持っておらぬでな」
 怪異を切り落とす刃のほうが雰囲気はあったか。けれど幽霊の気に入りは確かな質量を持って怪異の腕を砕いた。人間にしては頑丈か、怪異としては脆いのか。どちらにせよ、剛腕の前では大差ない。駅名も時刻表もすっかり褪せて読めなくなってはいるものの、彼方に送り届けるには問題が無い。見えぬ視界を嘆くようにがむしゃらに振り回される巨大な腕を、咎めるようにまた砕いて潰す。
 人に非ざる存在の怪力は果たして一体何処に秘められているのか。
 見目に似合わぬ相変わらずの力は、背を任すならばこれほどまでに頼もしい。
「おい爺さん、ちょっと通るぞ」
 当てないでくれよと一言断りを入れて、大ぶりの一撃の下を一人の男が通り過ぎる。
 鏡真が手にしたナイフが、残った照明の下で密やかに輝いて――巫女の右腕を見事に切り落とした。

ララ・キルシュネーテ
シルヴァ・ベル
ユオル・ラノ
賀茂・和奏
可惜夜・縡
花咲・マオ

●終幕に翻る

 おいで。
 おいで。

 クヴァリフの仔を産み出す糧、その残骸。積み上がった亡骸など怪異にとっては眼中にない。仔の秘めた力のみを求めて、優しい声色で手招きを繰り返している。
「……これがこの世界の災いですのね」
 心の隙間へ入り込む甘やかな言葉。猛毒だと知らずに飛びついたなら、命はただ消費されるだけだ。残酷な現実を知らずにいられるなら、どれほど良いことだろうか。
 けれども立ち向かう力を有しているなら、知らねばならぬこともある。俯きそうになる小さな顔をあげて、シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)は現実を見据えていた。静謐な湖面のような瞳が、痛ましさに少しだけ揺らぐ。
 共に並び立つユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)の金の眼差しもまた、目を逸らさずにいる。
 先程まで冷えていた心の奥が、じわりと静かに熱くなっている。黄昏を迎えて久しく、陰惨な事件など珍しくない世界。彼自身が目覚めた時からずっと、何一つ変わらない。それなのに。
 胸を押さえて、服を握り込んだ。この奥に今あるものは一体何だろう。初めての感覚ばかりが降り積もって、表すべき言葉は見つからない。仕事をする上ではきっと不要に違いないのに、手放すべきでは無いと感じている。
 思考を乱し、不安を煽るように仔らは鳴いていた。けれどもうそれを聞き届けるのは怪異と能力者たちだけ。
「……邪魔立ては、もう入らないようですね」
 辺りをくるりと見渡しが可惜夜・縡(咎紅・h05587)が、共に戦った仲間たちへと短く目礼をした。長い睫毛に縁どられた静かな紫の瞳が、そっと視線を怪異の方へと移す。能力者との戦闘を重ねたせいだろう。巫女の姿は傷付き、欠けた部分が幾つか見える。
 それでも尚、仔を求める姿勢を崩さないのは必要としているからだ。愛があるようには見えない。けれどもし、鳴き声に応じて来たのならば。
(クヴァリフの仔の望み……って可能性も零じゃないのか?)
 怪異のおいでと誘う手こそ、生まれ落ちた命が本当に望むものかもしれない。賀茂・和奏(火種喰い・h04310)の脳裏をよぎる憶測は一瞬で、静かに首を振ってうち払う。そうであっても、渡すわけにはいかないだろう。世界の為にというのもあるが、真に代償を支払った|亡骸《親》たちが望むとも思えないからだ。
 叶わぬ願いを、かみさまに祈って待つ。
 強大な力を振るう、その手へ縋り託す。
 それは自立の放棄で、動く気力を無くしているに過ぎない。世界を包む黄昏は永遠に明けず、じりじりと後退していくのを見守るだけだ。
 眼鏡の奥で、和奏の青みがかった深い緑の双眸が、意思を深くたたえている。
 異形にただ喰われるのを待っていてはいけない。利用するだけではなく、互いの存在をよく知り、いつかは――共生の先を、険しくとも探っていけるのなら。
 自分たちの命を守り切り、あの仔らを連れて行かせるわけにはいくまい。
「アレがクヴァリフの仔かぁ……」
 とはいえ万人が愛するには少々恐ろしい見た目だ。蠢く肉の触手は嫌悪感の方が大きく、触れるにしても抵抗感がある。特にこの√出身ではない花咲・マオ(勤労娘々・h02295)にとってみれば、ダンジョン内の討伐対象だと言われた方が納得がいくものだった。
 世界を維持するために必要な『|新物質《ニューパワー》』といえど薄気味が悪い。おかしな儀式で呼び出されたというのもよろしくない。別の怪異がそれを求める図も相まって、不気味さは増すばかり。

 おいで。
 おいで。

 伸ばされた手がひらいて、とじて、ひらいて。
 血塗られた儀式場は真っ赤な花園のようでいて、広げて咲くのは怪異の腕だ。風情が無さは折り紙付きで、ララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)の冷えた眼差しの温度は下がっていく。
「この|触手《仔》 達の産声は贄となった者たちの子守唄となったのかしら」
 甲高く鳴き続ける声は良く響いている。もう動くことは無い彼らの"親"は、それを聞き届けているのか。自分達を呼ぶこどもがいると知っているのか。誰も答えられる者はいない。
 彼らが生きていたならば、恐れながらもあたたかな腕を差し伸べただろう。そんな光景は夢物語だとしても、巨大な怪異の腕なんかよりずっと良いものであったはずだ。少なくとも、愛したいと思って仔らを望んだはずなのだから。
「残らず連れて帰りましょう」
 生命を糧にうまれ落ちた憐れな子。それを望んだ亡骸たちに罪があるのなら、せめてもの罰の形はそれしかない。
 喪われていい命なんてどこにも無い。
 だからこそ、何かを奪って成り立つだけの連鎖はここで断ち切ろう。
「……終わらせよう」
「ええ」
 ユオルの声が静かに響く。それを合図に、頷いたシルヴァの姿が瞬く間に変わっていった。
 小さな妖精の姿から、黒馬に跨る勇ましい|首無し騎士《ヘッドレス・ホースマン》へ。
 陽だまりの様な金の髪も、愛らしい紋白蝶の翅もすっかりと消えて。代わりに現れたのは、よく磨かれた無骨な甲冑だ。またがる黒馬は強い嘶きを一つ、友人を共に乗せて駆け出した。蹄が石の床を強く蹴り上げて、仔がいるテーブルを高く飛び越していく。
 良き隣人は今や死を運ぶものへ。戦斧を片手に持った騎士の姿は、急に湧き出たようにも見えただろう。それが勢いよく突っ込んで来たのならどうするか。ある程度知性を有するのであれば、脅威に思い避けるか、排除を試みるだろう。
 怪異もその結論に至ったらしい。土気色の巨大な腕が、二人を跳ね飛ばさんと大きく振るわれる――それが彼らの狙いとも知らずに。
 瞬きの間だった。白い白衣の人影が腕の目の前に現れたのは。切りそろえられた髪をかすかに揺らして、ユオルが手にしたメスで敵の指を切り飛ばす。良く磨かれた真珠の輝きは、纏った魔力が見た目以上の力を発揮する。ごとりと鈍い音を立てて、一息に切られた五本が床に落ちた。
 そうして残った手のひらが危害を加える前に、彼の姿は掻き消える。薄く広がる不可視の霧だ。誰にも捉えようが無いまま、幻を生んで広がっていく。
 その幾つもが、ユオルの姿をしていた。佇むもの、走る者。シルヴァと共に動くものは彼女自身すら映し出して、戦場を駆けていく。蹄の音すらあちらこちらと、室内に反響すればどれが本物かは分かるまい。それを殴ろうとすれば、また手痛いメスの一撃は飛んでくる。
 影はいくつも、真実は一つ。移動砲台のように動き回る彼らへ伸ばされた手がまたひとつ、首無し騎士の戦斧に切り落とされた。
 上手くいかなさに腹を立てたのだろう。やがて一つの腕が、霧の中で佇む白い少女へ八つ当たりのように掴みかかった。
 ――嗚呼、忌々しい。
「お前はいくつの花を摘んだの」
 銀が閃いて、その手は阻まれる。
 ララが手にした巨大なフォークが、深々と突き刺さって彼女に触れることは許されない。
 かつて自分を優しい両親から引き離そうとした、有象無象もこうやって腕を伸ばしてきていた。慈しみの心など忘れて、|生命《花》 を呆気なく毟るように。
 慾で塗れた手。悲しみが怒りに変わるほど、小さな彼女の赤い瞳は沢山見てきた。
 勢いよく刺さったフォークを横へ引けば、怪異の肉は呆気なく千切れ飛ぶ。
「手癖が悪い子はお仕置よ」
 宣告は花吹雪と共に、落とされる。魔を祓う白雪のように汚れなくララを守って、その小さな足が向かう道行きを見守っている。
 凍てついた季節から、芽吹きの季節へ塗り替えるような花弁たち。そこに春雷のように、黒い影がひとつ共に行く。
「稲ちゃん!」
 和奏が呼ぶは己に憑いた狐型の神霊だ。呼び声に応えるように、弾けた雷が彼を包み込む。近寄る怪異の手のひらを弾いて、宿主の力を増幅させて駆ける速度を上げた。小さな拍手のように聞こえる電流の跳ねる音は、後でお礼をしっかり弾ませねば機嫌を損ねてしまうかもしれない。
 怪異も能力者も、仔を奪われまいとするのは双方同じ。けれど能力者達の方がテーブルを乗り越え、立ちふさがるのは早かった。
 そうして和奏が刀を引き抜くのだって、怪異の腕が来るよりもずっと速い。
 居合の要領で放たれる一閃は誰の目にも止まらぬ速度。巨大な敵の腕が真っ二つになって、落ちていくのを組紐飾りが見届けるように揺れていた。
 何処にも、誰にも届かないことに敵も焦りを覚えたか。繰り返す「おいで」だけは同じまま、和奏の横を通り過ぎ腕が一本。鳴く仔の手をとって、強化でも図るつもりなのだろう。
 けれどもそこに、甘やかな桃花の香りが混じり込む。
「その手をとってはなりません……いえ、とらせません」
 囁くような縡の声は、怯まぬ芯の強さも秘めていた。薄紅の花弁を纏わせた斬撃が、怪異の手首から先を落とす。
 翻る制服と、灰色の髪だけが軽やかに揺れ動く。鳴らすのはかすかな足音だけで、あとは無音映画のように静かだ。灯りを反射する刃だけが確かな鋭さを見せたなら、振るう一撃に加減などは不要だろう。排除しようと掴みかかる指も、絡みつこうとする腕も、斬ってしまえば無害な塊でしかないのだから。
 刀は流れる血を持たぬ相手の魂を喰らって、彼女へ触れる事は許さない。華やかで甘い花香は心地良いけれど、古くから魔除けの意味を持つもの。花弁と共に祓邪の一閃は怪異へと、黙したまま翻る。
 仔を求める腕は、もはやなりふり構わなくなってきたのだろう。数も速度も増して、乱雑さが目立つばかりになってきた。
「お前、子の抱き方がなってない」
 潰してしまうおつもり? 光蜜の桜焔――迦楼羅焔を纏うララが、小首をかしげて問うた。
 同時に、少女が自在に操る金のナイフが閃く。瞬きの間もなく、怪異の指も腕も綺麗に切り分けられて床へと散らばった。質量だけしかない鈍い音と共に転がって、それを薄紅の炎が燃やし尽くしていく。
 白い爪先が駆けて、可惜夜の小さな翼で羽ばたき飛んで。巨大な手を躱したのなら、金銀のカトラリーで切り裂こう。残すなんて行儀の悪いこともせず、命を吸い取り糧と変え。舞い散る桜炎で何一つ残してなんてやらない。
 穢いお手は綺麗にしなきゃ。
「そこが脆いのね」
 見定める赤だけが、凍てつくように燃えている。
 真白い迦楼羅の子どもが炎と踊る様に、仔らは歓声をあげるかのように鳴いていた。大きな手は拍手すら鳴らさない。
 無作法者と詰った所で、在り方の違いを実感するだけだろう。怪異は形こそ人の真似をしているにすぎないのだから。
 だから倒すべきものだと誰もが割り切れる。特に大人であればそうだろう。
「ま~! 私としては仕事で報酬貰えればなんだっていいんですけど!」
 援護射撃と銃弾を見舞っていたマオの声は誰よりも現実主義だ。
「怪異だかモンスターだか知らないけど私の借金返済のため! ボッコボコにしてやらい!」
 哀しい事件は数あれど、その一つ一つに深く引きずられるほど、もう青くない。自分の持ち得る倫理観も大事だが、明日も続いていく生活だって勿論大切だ。屋内での配信業だけでやっていけるほど、世の中甘くは出来ていないので。
 などと元気よく息巻いたところで、|か弱い乙女《27さい》であるところのマオが出来る事は限られている。歳を重ねるとは、様々な痛みを経験して前に進むことで、無鉄砲さの代わりに堅実さを手に入れることだ。多分。臆病だというなかれ、今まで危ない橋を渡って生きて来れたことだって、十二分な強さだ。
 大きな腕の、見た目に反さぬ攻撃力は近づきたくないの一言に尽きる。配信者に必要なのは気合と根性ではあるが、あんな恐ろしいものに真っ向から立ち向かう勇気は流石にない。
「てなワケで魔眼起動!」
 ならばサポートに徹するが吉だ。
 全身を巡る血液、その中に宿った竜漿を右目に集中させる。マオの気力にその魔法物質が反応して、揺らめく炎を立ち上がらせた。
「隙を見せろや巫女さん!」
 怪異の腕の幾つもがへし折られ、切り刻まれ、数を減らした今ならば――本体への視線を遮るものは何一つない。表情こそは最初と変わりが無いように見えるが、滲む焦りは見逃さない。少し乱れた呼吸、伸ばされる白い指先、そして動く視線が何を見ているのかも。
「次、右側から腕三つ!」
 気を付けて! と叫ぶ声は彼女の元気さだろう。疲労感を吹き飛ばすように、背を押されるような心地すらある。思わずと小さく笑った和奏が、言われた方へと走り込む。
 数が分かっているなら随分とやりやすい。雷の弾ける音と共に速度をあげて駆けて、一つ目の腕を踏んで足場にした。二本目を刀の一撃で断ち切り、三つめは。
「私の代わりにボッコボコにしちゃって!」
 マオの声と同時に、馬の足が蹴りつけて踏み抜いた。|首無し騎士《シルヴァ》が、その手を戦斧で切り落としたなら、再度踏みつけて跳躍。自分を捕えようとする腕をユオルのメスが切り裂いて、仲間を傷つけようとするものは蹄の痛烈な一撃が待っている。
 大いに暴れれば暴れるほど、彼らへ意識は奪われて。和奏の電撃乗せた一閃で道が開けたなら黒馬は巫女目指して駆けていく。
 振り上げられた戦斧の鋭さを、彼女は見ただろう。
 それを持つ騎士の姿を、共に乗る白衣の男の姿も。
「目が合ったね?」
 ユオルの金の瞳が、ゆるく細められた。
 呟くように落とされた声は小さい。けれど届いたはずだ。向けられた敵意を辿って跳躍した彼の姿は、もう巫女の目の前にあるのだから。
 淡い白の輝きを持つメスが突き出される。その動作をとどめるには全てが少し遅い。小さな刃先が怪異の心臓あたりへ深く突き刺さって、抉るように引き抜かれる。
 そこでようやく「おいで」と招く以外の音を、その怪異は発した。
 絶叫を聞き届けるようにしてユオルの姿が溶けて霧になる。追いかけようとしたのか、それともただの反射か。腕はでたらめに振り回されて、彼を跳ね飛ばそうとしたけれどシルヴァの斧はそれを許さない。一撃は重く、肘から先を切断する。刃が石床に当たって大きな音を響かせた。
 それが消えるより早く、ふわりと小さな姿が舞い降りる。皆が皆、同じ方向からくれば手薄になるのは反対側。そこへ回り込んでいたララが羽ばたいて現れた。
 崩れ落ちそうになる巫女へと、迦楼羅の娘が微笑みかける。
「お前は何処にもいけない、何もつかめない」
 鈴を転がすような愛らしい声は、宣託を告げる天使の様だった。その胸元で花が一輪ひらく。生命を喰らう一華――|アドニスの心臓《アイ》。
 幼き彼女の欠落を、ひととき埋めるもの。花祇のしるしは赤い血潮と、美しく可憐に咲く。

「おいで」

 ララの薄い唇が言葉を紡ぐ。
 それは散々と己が口に出してきたものの筈なのに、怪異の意識へ深く刻み込まれる。まだ小さな小鳥のような少女へ、思わずと巫女が自身の手をのばそうとした刹那。
 轟、とその姿は桜色の焔に包み込まれる。
「一切衆生、焚き尽くしてあげる」
 ララが欲しいのは、その手じゃない。
 もっと優しい、あたたかな人たちの|手《アイ》だ。
 姿も、操る腕も、上げようとした悲鳴すら。存在していたという事実すらも呑み込んで、迦楼羅焔が花弁によく似た桜炎を散らす。

 そうして悍ましい、恐ろしいものは。
 跡形すら灰のひとかけらすら残すことなく、還されていく。



●行く先にひかりを

 全てが終わったとしても、失われたものは戻らない。
 二度と目覚めに亡骸たちに、マオはそっと両手を合わせて目を閉じた。果たしてこの戦いで無念が晴れたのかは分からない。けれど、これ以上彼らの尊厳が傷つけられることは無いだろう。
 もしも。まだ彼らを思う誰かが、愛してくれた家族がいるのなら。その人達が幸せな人生を歩んでくれたらいい。赤の他人が無責任なとマオ自身が思うことだけれど、弔いは誰かの優しい祈りの積み重なりだ。
 未だ鳴くクヴァリフの仔らは、何一つ分からないままなのだろう。蠢く肉は生々しく、怪異らしい悍ましさだけれど。
 和奏はそっと、宥めるように彼らへと手を差し伸べる。
「……ただの力とも思ってないよ」
 家族になるのは難しいかもしれない。けれどどうにか良き隣人になれないだろうかと、模索する日々があってもいい筈だ。
 連れて帰る機関の研究が彼らをどう扱うかは不明だけれど、悪くないものであればいい。
 その感情が伝わったのかは分からないが、仔の声がほんの少し静かになった。それを倣うように、ユオルも彼らをそっと抱き上げる。
 じっと仔を見つめる彼の横で、妖精の姿に戻ったシルヴァが彼の手元を覗き込むように薄翅を揺らしていた。暮らす世界には人でない者たちは大勢いる。そのせいか、受ける嫌悪感はさほど無い様子で彼女は小さく微笑みかけた。
「ユオル様は良いお心の持ち主です、悪いことにはなりませんわ」
 優しい子守唄のように妖精の声は紡がれる。
 そうして微笑むように、薄青の瞳が慈愛を含んでユオルを見上げた。腕の中の生き物をじっと見る男の眼差しは真剣に仔へと注がれている。
 この生き物を得るために沢山の命が喪われた。その嘆きを無駄にしたくは無いと思う。家族を思う人の気持ち、その優しさは未だ分からないけれど。いつか理解したいと、願っている。
 だから今日覚えた心の熱も、痛みも。
 ユオルが感じる、ユオルだけのものだから――忘れることなく全部連れて帰ろう。
 随分と大人しくなった仔らを抱えた縡もそっと息を吐き出した。親の記憶などほとんどない彼女にとって、母親の真似事など到底適わないことだろう。それでも、今この腕の中にある命が生まれたことに、罪など無いと筈だ。良いきつく先が悲劇であっても、望まれた生であったと信じたい。
 |怪物《鬼》の子だと見捨てるだけなんてことは、したくはなかった。
「どうか、良い子でありますように──」
 分かれはすぐそこにある。|機関《揺籠》に辿り着くまでの短い間だけれど、あたたかな腕の中でおやすみなさい。
 静かな祈りは、穏やかに空気へと溶けていく。

 寂しさは誰もが持ち得るのだとしても、寄り添う心もまた、人の持つ強さ。
 無くさずにいれるのならきっと、悲劇は繰り返されることはない。

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