蝶の天窓
●|蝶の天窓《パピヨン・オクルス》
「ねえ、隣の冒険王国に『パピヨン・オクルス』が来てるんだって!」
「ぱぴ……なあに?」
「『|蝶の天窓《パピヨン・オクルス》』――有名な魔法露天商だよ。世界を転々としながら、珍しい魔法具を売ってるの。どれにも蝶の意匠が入ってて、すっごくお洒落なんだよ! 私も持ってるんだけど」
声を弾ませて語る友人はごそごそと魔法学園の鞄をあさって、一冊の本を取り出した。
「魔導書?」
「そう!」
大きく頷いた友人の手から魔導書を借りて、表紙から裏表紙までぱらぱらと捲ってみる。けれど。
「でも……蝶、いないよね?」
「そう! 逃げられたの!」
逃げる、と目を丸くしていると、友人はすっかり拗ねた顔になって頬を膨らませた。
「パピヨン・オクルスの蝶は逃げるんだよぉ……。どれも買う前に必ず試しに使えるんだけど、絶対にそのときに逃げちゃうの。上手く捕まえられると帰ってくるんだけど、下手しちゃうと逃げちゃう」
「下手しちゃったんだ」
「そう~……。道具の効力も綺麗に半分。代わりに半額にしてくれるんだけどね」
しょもしょもとしおれた友人は、だから今度こそ捕まえたいの、と意気込んだ拳を握る。それからぱっと笑った。
「よかったら一緒に行こうよ。記憶がないなら楽しい思い出作ってこ!」
「ふふ、うん!」
無邪気に笑った友人に、ドラゴンプロトコルの少女は笑って頷く。――行く先で無力なその命を狙う『喰竜教団』がいるとも知らず。
●肉体簒奪事件
「皆さんもうご存知かと思いますが、こちら『喰竜教団』の案件です。か弱き姿に堕とされたドラゴンプロトコルを殺し、その遺骸を自身の肉体に移植することで、いつか『強き竜の力と姿』を取り戻させる――なんて、随分面白くない教義を掲げていらっしゃる皆さまですね」
狙うのが基本無力なドラゴンプロトコルばかりなのがますますいただけない、と焦香・飴は嘆息する。
「その教祖がとある魔法学園に通うドラゴンプロトコル……ただの少女を襲おうとしている予知を得ました。ちょっと楽しそうなお店もあるので、楽しむついでに阻止してきてくれませんか」
そう言って飴は能力者たちに資料を配る。紙か電子で共有されたそれには『パピヨン・オクルス』と呼ばれる魔法露天商について書かれてあった。
古いものから新しいものまで、さまざまな魔法具を売り歩く露天商が、しばらくとある冒険王国の一角で店を開いているらしい。
「魔導書、ゴブレット、剣、アクセサリーや化粧品、文具……種類は本当に多岐に渡ります。どれも見事な蝶の意匠を施した珍しい魔法具で、誰でも使えるようになっているんだとか。店主の姿を見た人はこれまでいないんですけど、通りに光る蝶が飛び回っていて、その蝶たちが店員として対応してくれます」
光る蝶の舞う魔法具がずらりと並ぶ通りは、足を踏み入れただけで不思議な空間に来たような心地になれるだろう。
「目移りしてしまうほどたくさんありますから、こういうものがないかな、と思い浮かべながら探すのがいいかもしれません。そうすると察しのいい蝶が案内してくれたり、偶然見つかったりするんだとか」
何か目に留まるものがあったなら手にとると、どの魔法具も試すことができる。ただこれには気をつけて、と飴は言葉を添えた。
「魔法具を手に取ると、意匠の蝶が逃げ出します。この蝶を上手く捕まえないと、せっかくの意匠はなくなり魔法具の効力も半分になってしまう。方法はなんでも構いませんから、どうにかして捕まえてみてください」
通りにはたくさんの光る蝶がいるが、逃げた蝶がどれかは魔法具を持っている者にだけわかる。蝶は上へ上へと逃げていく習性があり、やがては空に消えてしまうらしい。その前に捕まえることができれば、魔法具に蝶が戻ってくる。
「ちなみにどの魔法具にも一律で付いている効果は『飛ぶ』です。元から飛べる方はもっと飛べるようになるらしくて。蝶を捕まえるのに上手に使ってくださいね。小さいものやアクセサリーなんかは一つの効果だけですが、魔導書なんかは他にも珍しい魔法が込められていて、魔法学校の生徒には特に人気なんだそうです」
狙われているドラゴンプロトコルの少女もそれを目当てにしている、と飴は穏やかに笑うまま告げる。
「狙われている少女に接触する必要はありません。……その前に全て、片づけてほしい。せっかく楽しい思い出を作りに来るなら、楽しいだけでいいじゃないですか」
同じように思ってくれるなら、不思議な魔法具たちもその思いを汲んでくれるかもしれませんね。どこか確信めいた言葉を残して、星詠みは『|蝶の天窓《パピヨン・オクルス》』の通りへ続く道を指し示した。
第1章 日常 『魔法露天商』

●印された蝶は空をめざす
賑やかな通りに踏み込んだ一歩で、光る蝶がふわりと舞い上がる。
淡い魔法光を纏う蝶たちは時折色を変えながら、通りの両側にずらりと並んだ様々な魔法具の露天を案内するかのように飛び回っていた。
|蝶の天窓《パピヨン・オクルス》には誰でもが使える、様々な魔法具が揃っている。一番人気の魔導書は通路に面してある回転本棚に所狭しと詰まっている。難解なものから一見物語として読めるものまで、込められた魔法は読み解くまでわからない。華々しいもの、シンプルなもの、装丁も様々だ。
ゴブレットや杖、剣などは魔法触媒としても人気が高い。花と蝶を組み合わせたものが多く見られる。水や火など、属性魔法が添えてあるものも多い。
小物の文具や化粧品、アクセサリーは、お土産にと求める人も多いものだ。蝶が戯れる魔法の紙やインクやペン。化粧品やアクセサリーは何よりも蝶のデザインがお洒落だと買い求められる。
古めかしいものは見た通りに古い。どうやらこの露天商は修繕も得意なようで、蝶で美しく繕ったものも多いのだ。店の並びでも一目瞭然ではあるが、新しいものは一目でわかる。好みと必要で探してみるのも面白いだろう。
いずれにも入れられた蝶の意匠は、買うことを決めて手に取ると、ひらりと空へ逃げ出そうとする。
爽やかな初夏の風が吹き通る青い空へ蝶が逃げてしまう前に――背を押すように、手にした魔法具があなたを飛ばせてくれるはずだ。
パピヨン・オクルスが店を開く通りはよく賑わっているが、決して混みすぎることはない。魔法の蝶たちがある程度人入りを管理しているようで、常に魔法具を快適に見ることができるのだ。
目移りするほど並ぶ魔法具と、ふわりひらりと舞う魔法の蝶たちについ頬を緩めて、シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は改めて通りを見渡す。
「見ているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまうわね」
魔法触媒としての剣やアクセサリーも捨てがたく、化粧品にも心惹かれるものがある。かといってあれこれ買い込んでしまえばきりがなくなってしまいそうで、シルフィカは通ってきた店を振り返って、よしと心を決めた。少しだけ通りを戻って、ずらりと並ぶ本棚の前で足を止める。
「やっぱりここは魔導書にしようかしら。……こんにちは、蝶々さん。わたしにぴったりの一冊を選んでくださいな」
本棚のそばを飛ぶ光る蝶へと声をかけてみる。これでいいのだろうかと思っているうちに、一匹の蝶がシルフィカの纏うリラの色に変わって、頷くような羽ばたきで応えてくれた。
「属性は何でも構わないし、戦闘に使えそうなものじゃなくてもいいから。そうね……花や蝶を思わせるような、きらきらしたような、そんな雰囲気の魔法が籠められていそうな魔導書はある?」
少しわがままかしらと思いながらも、そんな魔法が見てみたい希望を込めて問うてみる。するとリラの蝶は困った様子もなく、得意げにひらりと飛び立った。
後に続いて蝶が止まったのは、店の奥一面を埋め尽くす本棚の前だ。ここからここまでと示す羽ばたきは、間違いなくその本棚全てを指している。
「まあ、たくさんあるのね? どうしましょう……。ねえ蝶々さん、なかでもおすすめはある?」
はしゃぐ気持ち半分、迷う気持ち半分でさらに問えば、蝶は本棚の前方に平積みされた一角を囲うように飛ぶ。
特に凝った装丁が施されたその魔導書たちは、シルフィカが求めた通り蝶と花が描かれているようだった。
「ううん……それじゃあ、これ!」
ついじっくりと迷いそうになって、これはいけないと直感でひとつの魔導書を手に取る。夜めく青い背表紙に金の蝶の意匠が描かれたその本は、どうやら物語として魔法が紡がれているようだった。
それなら、どんな魔法が籠められているかは後のお楽しみだ。
ひらり、金色の蝶が空へ逃げ出す。――ここからは、追いかけっこの時間だ。
「わたし、空を飛ぶのは得意なの」
竜の翼を広げて舞い上がれば、いつもよりも体が軽い気がした。どこまでも飛んで行けそうな気がして、シルフィカは我知らず微笑みながら蝶を追って飛ぶ。
「負けないわ」
その手が蝶を捕まえるのは、きっと物語の序章よりも早く。
「ふわぁ……! ルーちゃん、見て見てぇ! 魔道具がいっぱぁい……!」
パピヨン・オクルスの通りを埋め尽くす魔道具たちに、ルチア・リリースノウ(白雪のワルツ・h06795)は声を弾ませ瞳を輝かせながら隣を見た。
「へぇ、こんなに魔法使うための道具がたくさんあるんだな?」
ルチアの声に惹かれるようにして、興味深くルーチェ・モルフロテ(■■を喪失した天使・h01114)も辺りを見渡す。魔法具と一口に言っても、本当にその種類は多岐に渡っているのがひと目でわかった。――同時に、共に来たルチアのほうがこういった分野は得意そうだなとも。
「こりゃ何買おうか悩みそうだけど……そこら辺はルチアに任せる」
「いいのぉ?」
「ああ、得意だろ」
ルーチェは気安く笑う。これは丸投げではなく信頼だ。おっとりと笑うルチアの大きな瞳は、きっとルーチェよりも良い物を見つけてくれるはずだと知っていた。
ふたりは連れ立って通りを見て回る。小さなものから大きなものまである魔法具のなか、共通しているのは、どの魔法具にも『飛ぶ』魔法が込められていることだった。
「話には聞いてたけど、『飛ぶ』魔法が多いんだねぇ」
小さなアクセサリーなどは特にひとつの魔法なことが多いが、少し値段が張るものはそうとも限らない。
「『飛ぶ』魔法は助かるかも。それなら、何かは買っておいた方が依頼に使えそうじゃん」
「ふふ、ルーちゃんらしいねぇ」
ルーチェが実用面を重視するのはルチアもわかっていた。ルチアと相性がいいのは『雪』だが、ルーチェと相性がいいのは『炎』だろうか。どうやら迷っているうちは手に取っても蝶は逃げないらしく、存分にあれこれと手にしては戻す。
しばらく見て回って、ルチアが買い物の候補にしたのは魔法書と綺麗なアイシャドウパレットのいくつか。全部買ってしまってもいいけれどと悩みながら視線を滑らせて――ふとその大きな瞳がぱあっと輝いて留まる。
「ねぇねぇ、これルーちゃんに似合いそうだよぉ」
「ん?」
くいくいと指先を引かれて、ルーチェは見ていた指輪からルチアへ目を戻した。彼女が指指しているのは、蝶をあしらったイヤーカフとピアスがチェーンで繋がったアクセサリーだった。鮮やかな赤と輝く白の色違いがふたつ、並べて置いてある。魔法具としては飛ぶ魔法がひとつと、どうやらそれぞれ炎と雪の属性が付与してあるようだった。
大きなものを持ち運ぶ腕力はないから、見ていた指輪と合わせてもこれなら使いやすそうだ。ただ、
「え、俺に似合うか? あんまりそういうの付けた事ねぇけど……」
「似合うよぉ。あ、そうだぁ、これでルゥとお揃いにしよぉ? 色違いをお互いに買ってぇ、交換こするのぉ」
アクセサリーを撫でていたルチアの白い手が、するりとルーチェの手を取った。甘えるように絡んだ指がぎゅうと握って返事をねだる。ふんわり笑う顔は愛らしく、おねだりを聞いてくれると信じきっていて。――砂糖菓子みたいな甘やかさに、抗えるはずもない。
「ルチアが言うなら、お揃いも悪くねぇか。んじゃ、後で交換しような?」
「やったぁ。ルーちゃん、ありがとぉ」
嬉しげにルチアが笑う。全くもって甘え上手で、毎度のおねだりをいつも断れる気はしないのだ。そして断る理由もない。
ルーチェは絡め合う指に応えながら、つられるように笑い返す。
赤い炎属性のものをルーチェへ、白い雪属性のものをルチアへ。蝶を捕まえ贈りあったアクセサリーは、互いの耳元を彩る。
蝶の天窓――その名前はジェラール・ラ・グランジュ(ラ・グランジュ王国の王弟殿下・h06857)も知っていたものだ。兄も幾つか持っていたことを思い出して、気まぐれに店通りを覗いた先、
「星乃も来ていたのか」
「ジェ、ジェラール先輩も来られてたんですねっ」
知っている声がして、竜宮殿・星乃(或いは駆け出し冒険者ステラ・h06714)は思わず跳び上がるようにして驚いてしまった。咄嗟に後ろ手に隠したのは一足先に入手した自分用の品だ。
振り向いた先にいたのは学校の先輩であるジェラールだった。その視線が隠したものへ行く前にと、星乃は先んじて口を開く。
「そういえば、4月28日が先輩の誕生日でしたよね? 少し過ぎてしまいましたが、何か贈らせて下さい」
「……誕生日プレゼント? 俺に?」
「はい、近頃お世話になってますし……」
頷きながら、星乃はすいと易く距離を詰めてくる。どうにも調子が狂う心地で、ジェラールは僅かに眉を寄せて一歩引いた。それでも距離が変わらない辺り、遠慮しても押し切られそうだ。
「そうだな……俺は冒険者にはなれないし、日常的に使える物で選んでほしい」
俺と兄さんが違うことは痛感し切っているからな、とジェラールは小さく呟く。
星乃はきょとんとしていたが、すぐにわかりましたと元気よく頷いた。そうして周りを見渡して、時計のたぐいが置かれた露店へとジェラールを連れていく。
「この懐中時計はどうでしょうか? 込められてるのは基本の『飛ぶ』魔法と……『夢を叶える』魔法だそうです」
「……『夢を叶える』魔法?」
思わず驚いてジェラールが鸚鵡返しにすると、星乃は笑顔で頷いた。
「具体的にどんな魔法か想像出来ませんけど……何だかジェラール先輩には必要になる、そんな気がするんです」
なんとなくですけど。そう笑ってから、ふと星乃は不安そうな顔をした。
「すみません、他のがいいですか?」
「……いや、君が選んでくれた物に異論は無いよ」
ついつられるようにして笑って、ジェラールは懐中時計を手に取る。――途端、ひらりと刻まれた蝶の意匠が逃げ出した。
「蝶の捕獲には秘策があります。お任せ下さい。――神聖竜、お願いです!」
得意げに言った星乃が、神聖竜を召喚する。呆気に取られているうちに、青空に神秘を纏う竜が現れた。まさか。
「逃げた先輩の蝶を捕まえて下さい!!」
まさかだった。
「……待て、星乃。蝶を捕まえるのに竜を召喚するのは反則だろ……」
言ったところで時すでに遅し――神聖竜は願い通りに、逃げた蝶を捕まえてくれたようだった。
通りを舞う光る蝶が一斉に、ふわりと色を変える。
それだけで望月・翼(希望の翼・h03077)は小さな歓声をあげた。
「わぁ……! すごいね、この場所に立ってるだけでわくわくするね!」
「……確かにすごいな」
翼に半ば無理やり引っ張られて来た春待月・望(春待猫・h02801)も、魔法具の傍らを舞う魔法の蝶の美しさに素直に目を細めた。その様子に、翼も嬉しそうに微笑む。
「ね、来てよかったでしょ?」
「……ああ、悪くはないな。けど、僕より猫連れて来たほうが良かったんじゃないか?」
思い出すのは、間借りしている家で同居している猫娘がやたらジタバタとしていたところだ。ひらひら舞う蝶にじゃれて目を魔法具に目を輝かすさまなんて、ありありと想像がつく。誰かと行きたかったなら、わざわざ無理やり望を引っ張り出さなくても良かっただろう。
けれども翼は困ったように笑って頬を掻いた。
「あー、そうだね。でも、今日はお出かけだけじゃない『お仕事』だから」
妹みたいな幼いあの子に怖い思いをさせたくはないから、と翼が示した答えで、望も腑に落ちた。一見楽しいだけの催しだが、この後現れることを予知された者は、幼いあの子にはあまり会わせたくないのもわかる。
「その分、お土産あればいいかなって……」
「なら、猫の機嫌取るやつにするつもりなのか?」
並んだ魔法具は選ぶに余りある。軽く見て歩いただけでも目を惹くものばかりだ。望はふとそのひとつに目を留める。
「お前、これとか好きそうな気がするけど」
指さしたのは、蝶の意匠が繊細に彫り込まれたガラスペンだ。
「わぁ、いいなぁそのガラスペン!」
ぱあっと翼の金の瞳が輝く。好物のスイーツでも特に細やかな飾りを喜んでいたから、そういうのが好きなのかと思ったのは当たっていたらしい。
「猫のは……この辺りか。そのリボンとか」
「うん、スイちゃん、そのリボン喜んでくれると思う!」
望が示した蝶の飾りのついたリボンを見て、翼は満面の笑みで頷いた。その笑みは至極嬉しそうにやわらかく緩んで望を見る。
「えへへ、望くん、結構よく見てくれてる感じ?」
「……お前らがいつも床の間でわぁわぁうるさいから、聞こえるんだっての」
どこかばつが悪そうに、望はふいと顔を逸らす。それはとてもわかりやすい照れ隠しでなんだかくすぐったい心地で翼は手にしたガラスペンにもう一度目を戻し、
「――あ! 蝶!」
そこにいたはずの蝶の意匠がすっかりいなくなっていることに気づいた。慌てて見上げれば、不思議とあれだとわかる蝶がひらひら空を舞っている。
「望くん、オレの代わりに捕獲できそう? オレ、望くん持ち上げるからジャンプして……」
「いらない」
「……え、いらない?」
魔法具としてペンに込められた『飛ぶ』魔法のおかげでいつもよりは高く持ち上げられるだろうと伸ばしかけた翼の手を、すいと|白鴉《望》がそっけなくすり抜ける。
「それよりどの蝶かちゃんと言え」
「あ! そ、それ!」
白鴉に姿を変えて舞い上がった望が、翼が示した蝶を捕まえる。そのままリボンの蝶も放してしまえと言う言葉に嬉しそうに翼が頷いて――どちらの蝶も無事、意匠に帰ったようだった。
「珍しい魔法具を売る露天商〜? 要る要らないで言えばあんまり要らんような……」
呼び出された緇・カナト(hellhound・h02325)の第一声はそれだった。
しかし呼び出した側のトゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)は、子どもらしい得意顔でそれを綺麗に聞き流す。
「だが主の職業柄、空を飛べるのも便利であろう? ――それに、これだけ見事な景色もそうないぞ」
カナトもトゥルエノも、既にパピヨン・オクルスの通りにいる。光る魔法蝶がそこかしこに舞い、あらゆる魔法具が所狭しと並ぶ、いかにも幻想的な光景は、確かに珍しいと言えばそうだ。
「……まァ、いいか」
空を飛べると言われてもいまいちピンとはこない。と言うより自らの技量でそれ紛いのことはできるカナトだ。実際にあれば便利かもしれないが。
軽く肩を竦め魔法具に目を走らせる主の傍らで、トゥルエノはくふくふとほくそ笑む。
「丸め込みにも成功したぞ此れで良し!」
「声に出てる」
思ったままをすっかり口に出した子どもを軽く小突いた。
いたいぞ。痛いほどはしてないよ。
カナトは子どもの小さな体を人波から庇うように先導する。
「ほら、足短いんだからサッサと行くぞ」
短いのではなくて小さいのだというトゥルエノの主張は届いているのかいないのか。
ともあれトゥルエノとしては、主が同行してくれるのは助かるのだ。何しろ未だヒトの姿に慣れぬ身、珍しい魔法具と聞いてつい興味を惹かれたが、審美眼には疑問が残る。
小さくあるこの身の丈に合いそうな魔法具はと見渡すが――好みが向く杖や剣は既にいくつか備えがある。少し悩んでカナトを見上げると、どうやら主の視線も武器系の魔法触媒のほうに自然と向いているようだった。
「主はやはり剣や槍が気になるか」
「まあ……でも実戦向きじゃないし、わざわざ買う気もないよ。それよりトールの買い物なんだし、方向性くらいはないのか?」
方向性、と言われて少し首を捻る。そのまま青い瞳を巡らせて、トゥルエノはふと文具が並ぶ露店に駆け寄った。
「文具でいえばインクやペンも好みであるな。揃いの雰囲気に、主が羽ペンで我がインク瓶はどうだろうか? 魔法に関わらず、文具のたぐいは実用性が高いかと思ってな」
「オレとお揃いにするの? ああでも、確かにペンなら武器代わり……」
カナトがつい思い浮かべる実用性はどちらかといえば職業病のたぐいのそれだ。トゥルエノが言っているのとは違うことを察して、いやなんでも、と言葉を打ち切る。幸い子どもは素直に首を傾げただけだった。
「それに、空飛び届く手紙など夢があって良いものであろう?」
「空を飛べるのは持ち主側じゃない?」
「蝶の案内では、このペンとインクには飛ぶ他にも、そういう魔法がついているのだそうだ。……結構値は張るが」
「へえ? 紙飛行機のような情景なら、オレも嫌いではないかもしれないよ」
トゥルエノが指差す蝶のあしらわれた揃いのデザインの羽ペンへ、カナトが手を伸ばす。それは買っても良いという意思に違いなく、トゥルエノもインク瓶へと手を伸ばした。
そうして飛び立った二匹の蝶はこの上なく速やかに意匠へと戻される。
「どの本も美しい装丁でうっとりいたしますわ!」
目の前に丁寧に並べられた魔導書たちを見て、ヤルキーヌ・オレワヤルゼ(人間(√EDEN)の護霊「プリズマティック・ブルー」・h06429)は高らかに笑いたくなるのをぐっと堪えた。
ここは公衆の面前。正義の使者でありお嬢様たるもの、人様に迷惑をかけてはならない。美しい縦巻きロールの髪を整えるようにして、ヤルキーヌは居住まいを正して魔導書を見ていく。
このパピヨン・オクルスへ来たのは、一番人気と名高い魔導書に興味を惹かれたからだ。
「コレ! 気に入りましたわ!」
特に目を惹かれた一冊は、赤い表紙に銀の蝶の意匠が美しい魔導書だった。どうやら見る角度によって意匠の蝶が虹色に変わるようで、いくらでも見ていたくなる。中の魔法は読み解くのに時間がかかるだろうが、それも楽しみだ。
「これに決めましたわ! 蝶々さま、こちらをいただけるかしら」
心を決めて店員らしい光る蝶へ声をかけた――それと同時に、色を移り変える銀色の蝶が空へと抜け出す。
まぁ、と声が漏れたのは本当に蝶が逃げ出したせいと、伴うようにふわりとヤルキーヌの体が浮かび上がったからだ。
「本当に空が飛べるようになるのですね」
纏っているドレスの内側が下から見えてしまいそうではあるが、フリルドロワーズがあるから問題はない。とはいえ、
「少々気恥ずかしいですわね!」
思わず声も張ってしまおうというものだ。けれどもさすがは不思議な魔法露天商――多くいる客たちは、まるで気づいていない様子で上を見上げもしないのだ。なるほど客のプライバシーも矜持もスカートの中身も守ってくれるらしい。
「そういうことならば……参りますわよ!」
ふわりと浮き上がった空で、ヤルキーヌはどこからともなく取り出した虫取り網を構えて追いかける。だがしかしひらひら舞う蝶はなかなか捕まらない。
「く……っ、でしたらもう一つの秘密兵器ですわ!」
またヤルキーヌはどこからともなく、香り高い小さな花を取り出した。あれが見た通り蝶だと言うなら、きっとこの甘い香りには抗えないはずだ。
「さあ、わたくしからのご招待ですわ」
ヤルキーヌは花を差し出して、じっと待つ。そのさまはいかにもお嬢様然として美しい。
空を目指していた蝶は、ふと気を変えた様子でひらひらとヤルキーヌの差し出した花へと近づいてくる。虹色に輝く蝶がぴたりと花へ留まるのに、そう時間はかからなかった。
「ふふ、捕まえましたわ」
ヤルキーヌは微笑むと、そっと手で包み込むようにして意匠の蝶を捕まえる。
同時に浮き上がっていた体がひとりでに地上へと降りていき、ヤルキーヌの足裏が地面を捉えたときには、手にしていた蝶は美しい銀色の蝶の意匠が輝く魔導書に姿を変えていた。
ひらひらと舞う小さな光たちは、海の中で群れなす小魚たちに少し似ている。
(蝶、だっけ。小さい翅でふわふわ飛ぶ生き物)
それは伊沙奈・空音(Ner-E-iD・h06656)が人の姿を得てから知ったいきもののひとつだ。|鯨《むかし》は群れで泳ぐ魚たちを可愛らしく思って見ていたけれど。
(こっちもかわいいね)
声には出さずそっと微笑んで、空音は手にしている使い込んだノートとペンを抱え直した。筆談用のそれは、もう随分インクが少なくなってしまっている。
空音がパピヨン・オクルスに来たのは、筆談用の文具を探すためだ。空音は|52Hz《こえ》に災厄を孕むゆえ、普段から人工声帯と筆談の併用で会話をしている。相手が魔法の蝶であれその常を変えることなく、空音はノートにペンを丁寧に走らせた。
――探しているのは筆談用の文具だよ。インクが替えられるペンもいいし、万年筆っていうものでもいいかも。蝶々さん、良いの知らない?
久遠の文字を見た蝶が、ふわりと応じるように藍色に色を変えた。どうやら通じたらしいと嬉しくなって、空音はもうひとつ言葉を連ねる。
――あれば、替えのインク壺も一緒に。
せっかくなら、大事に長く使いたい。その思いも伝わるだろうかと心に浮かべる。
すると承知したと言わんばかりに、藍色の蝶がひらりと舞いはじめた。案内してくれるようだと、つい微笑みながら空音はそのあとを追ってゆく。
やがて蝶が止まったのは、様々な文具が並ぶ露店の前だった。特にペンやインクが並ぶ一角で、藍色の蝶がひらひらと呼ぶように舞う。
(これは……魔法の万年筆?)
蝶が示したのは、深い藍色に白波のような線で描かれた蝶の意匠のある万年筆だった。どこかきらきらとして見えるそれは、暗いところで淡く光り、思った言葉を話すのと同じ速度で書き出してくれる万年筆だと説明書きに添えてある。
ちょこんと蝶が隣で対のデザインになったインク瓶にも留まってみせる。魔法のインク壺――いかにも魔法らしく、このインク壺の藍色のインクは、対のペンで使う限りなくならないそうだ。
思わず空音はやわらかく破顔する。それからノートに書き綴ってゆく。
――ありがとう。素敵だね。見てるだけでも楽しくなれそう。
これが欲しい、と言う代わり、空音はペンとインクをそっと手に取った。
逃げ出した蝶を追って、ふわりと体が浮き上がる。
伸ばした手は声に代わって、海の青に似た空を追う蝶を捕らえた。
賑やかな|魔法露天商《パピヨン・オクルス》、その通りを銀の片目が静かに見通す。
身なりの良い長身の獣人は、人波の中でも頭ひとつかふたつほど高い。視界は良好だ。
珍しい魔法具が揃うとなれば、魔女である主人の手掛かりを得られるやもしれない。
(露店は隅々までチェックせねばなりませんね)
ひとつひとつの露店に足を止めていきながら、ヴィルベルヴィント・ヘル(RED HOOD・h02496)はゆっくりと蝶舞う通りを進んでゆく。
様々な魔法具は、こうして見るだけでも目に楽しい。冒険者や魔法学園の生徒なら尚更胸がときめくのも納得できる。なにより大きいとヴィルベルヴィントが感じるのは、ここの魔法具は『誰にでも使える』ということだ。
記憶を欠落したヴィルベルヴィントは主人に纏わる情報を集めるうち、不明瞭な自身についても明らかになってゆく事柄が多い。
そのうちのひとつが――魔術や竜漿兵器と相性が悪いらしいという事実だ。
(魔女の従僕でありながら、これは由々しき事態で御座います)
この身に於いて使える魔法具があるならば、それはヴィルベルヴィントにとってもありがたい。
しばらく丁寧に品物を見て回り、そのうち自然とヴィルベルヴィントの足が止まる露店があった。――ずらりと並ぶのは、剣や杖、弓などの武器の形を取った魔法触媒。金や銀の装飾が豪奢なもの、あるいは実用性に重きを置いたシンプルなもの、アンティークの装飾として映えそうな古品まで、まるで冒険者が見つける宝の山のような趣さえある。
「……これは、なんとも美しいですね」
その中でヴィルベルヴィントの目を惹いたのは、銀蝶の刻印が美しい細身の片手剣だった。籠められた魔法はパピヨン・オクルスでは基本とされる『飛ぶ』、そして『旋風』だ。
「これならば、私でも扱えそうですね」
そっと触れてみても、反発する感覚はない。むしろ馴染む感覚に僅かに眦を緩めて、ヴィルベルヴィントは店員と聞く光る蝶へと声をかけた。
「ならばこちらを買わせていただけますか」
そう言うと同時に片手剣を手に取れば、するりと銀蝶が空を目指して逃げ出す。ひらひらと舞う意匠の蝶の姿もまた美しくもあるが、逃がしてやるわけにもいかない。
「晩餐の魚を攫った猫殿との攻防であれば心得ておりますが、さて」
銀色の右目に集中する。途端に激しく燃え上がったその瞳は、逃げゆく蝶の隙を容易く見出した。
魔法具のおかげで軽くなった体で、露天の屋根へと跳び上がる。同時に投げやったカトラリーは蝶の行く手の軌道を逸らし――その先でふわりとテーブルクロスを広げて、蝶を迎える。
「さぁ、御戻り下さいませ」
|執事《ヴィルベルヴィント》に穏やかな声で窘められるようにして捕まった蝶は、満足そうに片手剣の刻印へと帰りつく。
「来たぜ√ドラゴンファンタジー!」
元気よく一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)が踏み込んだ一歩で、出迎えるように光る蝶がふわりと舞い上がる。
目の前に広がる数多の魔法具たちと幻想的な魔法蝶が舞う景色に、思わず素直におおと見惚れる声が零れた。
「さすが魔法文明バリバリの世界って感じ。魔法だらけでめっちゃキレー」
興味が惹かれるままにあちらこちらと見渡せば、そこかしこで淡い光が見えたり、ひとりでに動いたりしている物がある。かと思えば重厚に美しく誂えられた武器や、気安く手に取れそうな化粧品なども見つけることができた。
「魔法具っての? じっくり見るの初めてかも。……まァ変なのは結構あるけど」
√EDENかあんまないもんな、と思わず話しながら見て回ってしまうのは、動画配信者としてのさがかもしれない。
「こうして見てると片っ端から欲しくなるけど……やっぱシルバーアクセかなァ」
迷った末に伽藍が足を止めたのは、アクセサリーが並ぶ露店だ。ざっと見ただけでも種類が多く、どれも手の込んだ作りなのがわかる。ついテンションも上がるというものである。
「あ、このへんシルバーアクセっぽい……オッ、可愛いのあるじゃーん!」
どのへんかなと探していれば、不思議と視線が誘導されるようにしてシルバーアクセサリーが並ぶ一角に辿り着いた。
指輪やブレスレットあたりがあればと考えていたそのものが見つかって、思わずはしゃいだ声もあがる。
銀色に刻まれているのは細やかな蝶の意匠だ。揃いになっているデザインのブレスレットと指輪を見つけて、伽藍は楽しげに破顔する。欲しかったこれぞというものがトントン拍子に見つかっている気がする――これも魔法露天商の|魔法《ちから》だろうか。
「噂の蝶々デザインだ~これは大変かわよですわ。着けてたらテンション爆アゲ間違いなし! 買っちゃお」
即決でブレスレットと指輪を手に取る。その途端によしきたとばかり、銀色からするりと青白い蝶が逃げ出した。
そんで飛びましたわ。ぽかんとしながらも伽藍の口元には笑みが広がる。
「逃走開始はえーな。かわいこちゃんは逃さないぞっ」
語尾にハートマークがつく声音で言うと同時、伽藍の体が浮き上がった。
「うわわ、アタシも飛びましたわ。てことでクイックシルバー、捕獲捕獲!」
軽い体をひょいと動かして、銀光を放つ。きらきらと光の尾を引いて蝶を追ったクイックシルバーに、あれあれ、と指示を飛ばす。
「青白くてちょっと小さめの……そうそれ、壁際飛んでるやつ!」
伽藍の声に導かれるようにして、クイックシルバーが逃げ出した蝶を捕まえる。同時にひゅるりと戻ってくる銀色と青白いふたつの光は、すっかり満足そうに伽藍の手元に収まった。
「蝶のアイテム、これは見逃せません!」
蝶の意匠が刻まれた珍しい魔法具が揃う露天商――パピヨン・オクルスの話に玉響・刻(探偵志望の大正娘・h05240)は素直に大きな瞳を輝かせた。
聞けばパピヨン・オクルスの蝶は逃げ出すと言うが、
「対策もばっちりですっ! 田舎育ちの虫取り技術お見せしますっ!」
刻は自信満々に片手に持った虫取り網で地面をとんと鳴らす。小さい頃から虫取りは得意なのだ。
けれども、その前に。
「……どれがいいでしょう、こんなにいっぱいだと迷っちゃいますっ!」
まずは買うものを決めなければならない。様々並ぶ魔法具を眺めながら、あれこれ悩んで歩きまわることしばらく。
「あっ、この蝶のブローチいいですねっ! これにしますっ!」
ふと目についた美しい金の蝶のブローチに刻の心は決まった。
そうしてブローチを手に取れば、話に聞いていた通り、するりと蝶が逃げ出してしまう。同時に刻の体も宙へと浮いた。
「本当に飛べましたっ! では、いざっ!」
持って来た虫取り網をぐぐっと構え、刻はひらひらと空へ飛んでいく蝶へ虫取り網を力いっぱい振り下ろす。
――スカッ。
「……も! もう一回ですっ!」
――スカッ。ひらふわ、ぱたぱた。
網はかすることもなく、蝶はのんびり空へ上っていく。これはまずい。店の蝶が心配そうに見ている気がする。
「……、…………っ、ほ、本気で行きますっ!!」
顔が青くなりかけるが、刻はぐっと力を込め直す。そして本気の言葉通り|√能力《ちから》を解放し、淡く光る無数の黒蝶を纏った。居合の構えを取った手には、虫取り網。
「今度こそっ!!」
よくよく狙いを定め、黒蝶の力を乗せて全速力で移動する。そして逃げる蝶が空に消える寸前――居合の如く振り抜かれた虫取り網が、蝶を捕らえた。
「やったぁ! やりましたっ!」
至極嬉しそうに空で跳ねる刻が、うっかり逆さまに落ちるまで、あと。
変わったものを見つけてくるのは得意らしい、とあきれ半分に見知りから仕事を請け負った五槌・惑(大火・h01780)は、|蝶の天窓《パピヨン・オクルス》の通りへさほど表情も動かさずに踏み入る。
光る蝶が舞い、所狭しと魔法具がひしめく露店はいかにも幻想的な見目だが、生憎素直に感心できる感性は多くない。思うとして、この世界は戦闘の備品が普通に売り買いされてるのが良いな、程度だ。
(ありがたく仕入れの時間にさせて貰うか)
普段は何を仕入れるにも仕事や立場や組織だと、煩雑な手続きしかない。それを合法的にすっ飛ばせるなら好都合。
とはいえ、特に目星をつけて来ているわけでもない。つい目は武器を扱う露店へ向くが、
(武器はこれ以上増やしても手に余るな)
であれば、嵩張らない|装身具《アクセサリー》が妥当だろう。魔法がつくなら、回復か防御あたりがあれば使いやすい。無茶か手間を選ぶ盤面ならば、悩まず無茶を選ぶほうだ。
(手元の感覚は変えたくないし、耳飾りあたりが妥当かね)
そこまで考えたところで、ふと傍らを舞う魔法蝶と目が合った気がした。
「……あるか?」
既に巡らせた思考の説明は省いて惑が問えば、それだけで蝶は察したらしい。専属の案内役を買って出るように赤く色を変えた蝶が、ひらりと先導をはじめる。ここまで軽く見て来た限り、向かっている方向は告げてもいない|目的《アクセサリー》の露店のほうのようだ。
「……こういう繊細な術式を操る奴のことを尊敬するよ」
よくできた術にばかりは素直な賛辞を囁きながら、惑は通りを進んでいく。
赤い蝶の案内した先には、思い浮かべていた通り耳飾りのたぐいがあった。どういった魔法だか、断りなく頭を覗かれた気がするのは少しばかり落ち着かないが、便利はいい。
さて、と気を取り直すようにひとつ息をついて、惑は並ぶ耳飾りへ目を向け直した。琥珀色の瞳が真剣に魔法具をなぞっていく。
仕事にあたって見目を利用することも多い身だ、外れない色――馴染みがいいのはくすんだ赤か。目の色より鮮やかではないもののほうが視線は誘導しやすい。形は、揺れものがひとつあってもいいだろう。あえて左右非対称なデザインは戦闘服にも使いやすい。あとは籠めてある|魔法《もの》かと、爪先でいくつかの耳飾りを揺らしてみる。
(怪我は正直体の頑丈さでどうにか出来る。……ならば防御か、強いて言うなら魔術に対する反射のような技が良い)
丁寧に吟味したのち、惑が手にしたのは術のたぐいの攻撃を跳ね返す魔法が籠められた耳飾りだ。しゃらりと揺れるくすんだ赤を耳元に合わせてみれば――するりと先に揺れていたはずの蝶が鏡の外へ逃げようとしているのが見えた。
「大人しくしてろ」
一瞥もせず髪の一手で引き寄せれば、すぐにも蝶は惑の耳元へ収まり直してひらりと揺れた。
「すごい、魔法だ……!」
パピヨン・オクルスに足を踏み入れるやふわりと飛び立った光る蝶と並ぶ魔法具に、霓裳・エイル(夢騙アイロニー・h02410)の瞳は素直に輝いた。
「魔法は何度見てもワクワクしますね」
その隣で茶治・レモン(魔女代行・h00071)も無表情ながら、瞳ばかりはエイルと同じほどのきらめきを乗せる。ふたりは互いに好きなものを見つけようと頷きあい、しばらくあれこれと賑やかに露天商を見て回ってから――きめた? きめた。と結ぶ視線は同時。
「レモンくんはどれにしたっすか?」
「僕はレターセットにしました。『パピヨン・メサージュ』っていう魔法のレターセットで、どこにいても蝶になって届けてくれるんだそうで……届いてくれたらいいな、なんて」
「レターセット……魔女さんにかな?」
願うように伏せられた檸檬色のひとみに、エイルははたと気づいて首を傾げる。それにはぱっとレモンの瞳が上がった。
「あっ、バレましたか? はい、師匠宛に……」
「うん、きっと届くっすよ!」
エイルが明るく笑って頷くと、本当にそんな気がするから不思議だった。
「エイルさんは……」
「私はね、アップリケ! |愛用《おきにいり》の傘に宿ってもらえたら、もしかして一緒に飛べるかなって」
言いながらエイルは片手に提げた傘を揺らす。既にかわいい傘がもっと可愛くなる気がして選んだのは、レースの蝶のアップリケだ。きらきらの魔法の糸で丁寧に刺繍された蝶はいまにも飛び立ちそうに見える。
「なるほど、素晴らしいアイディアです! きっと傘も一段と可愛くなりますね」
それじゃあ、と見やるのはふたりの傍らに飛ぶ光る蝶だ。選んだ品を預けていいかと言ったら、もちろんと言わんばかりにふわふわ浮かべてキープしてくれている。あとはそれぞれの手に取ればきっと、蝶が逃げ出すのだろう。
それが楽しみなようで、――ほんのすこしだけ、エイルは不安に似たものも抱いていた。
|妖精の取替子《チェンジリング》と言っても、エイルの背中に妖精のような翅はない。それでもなぜか、空に焦がれる。
エイルの指先が、アップリケにふれて――浮かぶ。
「わぁ!」
「さぁエイルさん、行きましょう!」
思わずこぼれたエイルの歓声に応えるように、レモンも空へ浮き上がっていた。
レターセットから逃げ出した蝶はひらりと飛んでいく。捕まえようとレモンが手を伸ばしても、遊ぶように躱されてしまう。
(追ってダメなら、誘うまで)
レモンは伸ばした手を一度引っ込めて、手にある封筒に陽に咲かせた幻想花を一輪添えた。
「花が好きなら、この手紙を送るときにはこうやって花を添えますよ」
蝶はその花につられたように、ゆらりとレモンが飛ぶほうへ戻ってくる。その羽ばたきが誘われるまますっかり封筒に入ってしまうや、きゅっと封をした。それで、レターセットから逃げ出していた蝶の意匠が戻り、便箋のなかで蝶が舞い始める。
同じ頃、エイルも空を飛びながら蝶に手を伸ばしていた。とどかない。ううん、届いてほしい。
(私にできる何かがほしいの。――どうか)
願うように、怯えるように、エイルはやさしく蝶へ手を伸ばす。その指先に逃げていた蝶がエイルの|想い《こえ》に応えるようにふと留まってくれた。
「……戻ってくれる? この中を自由に飛べば狭くないかな?」
微笑んで、エイルは傘を広げた。ふわり、アップリケの蝶が傘へと滑り込む。同時に飛んでいた体が、ゆっくりと地面へ降りていった。
「おかえりなさい、エイルさん。……あっ! エイルさんの傘に、蝶が飛んでる!」
先に降りていたレモンが傘を見て嬉しげな声をあげて、エイルも得意げにピースを返す。
「無事に捕まえられたんですね、おめでとうございます」
「レモン君は捕まったっすか?」
「ふふ、僕もこの通り」
レモンは手にあるレターセットをエイルに見せた。そこには便箋を気持ちよさそうに飛び回る蝶がいる。
「おー楽しそうに飛んでるっすねぇ」
「そうなんです。文字を書き込むのが勿体なくなって来ました」
「ふふっ、一枚は大鍋堂に飾っちゃう? 飛べる様になったのも皆にお披露目しなきゃっすね!」
人懐こくエイルが笑い、いいですね、とレモンがやわく目を細める。そのふたりの手元で、意匠に帰った蝶が翅を機嫌よく羽ばたかせた。
珍しい魔法具が揃うと聞いて、鴛海・ラズリ(✤lapis lazuli✤・h00299)は心が浮き立つようだった。
それがひとりではなく、友人と行けるとなれば尚更だ。
「珍しい魔法具があるそうなのよ。私たちも学校に通っているし、使えそうなものも魅力的」
「めずらしい……わ、どれもとても綺麗ですね」
ラズリと共にパピヨン・オクルスにやってきたセレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)は、空色の瞳を興味深そうにまばたかせた。こういう場所にはあまり赴かないから、セレネにとってはどれもあざやかに映る。
「セレネは欲しいもの、見つかった?」
あちらこちらと探検するように露店を覗いて回ってから、ラズリはセレネを覗き込むように首を傾げた。
「私はさっき見た飛行箒と……お仕事にも使える羽ペンが欲しいかな」
ラズリが見つけたのは、蝶の意匠に五芒星の装飾が施された箒と杖だ。作り手が同じらしく、揃いのように見えるのも気に入っている。
訊いておいて先に答えを示してみせるのは、セレネにも遠慮なく言ってほしいからだ。ラズリがふわりと微笑むと、セレネもそっと口を開いた。
「どれも気になりますが……この氷のような花と蝶の意匠の杖……でしょうか」
セレネが指さすのは、硝子のショーケースに飾るようにして置いてある透き通った杖だ。それから、とおずおずと言葉を続ける。
「その……もしよければ同じ羽ペンを選んでも良いですか……?」
鴛海さんの箒も羽ペンもとても素敵で、とセレネが言うのに、ぱあっとラズリは満面の笑みを浮かべた。
「杖も素敵ね。お揃いも是非、なのよ! ……でも、そのためには」
少しだけ悪戯に微笑んで、ラズリは箒と羽ペンに触れる。途端にするりと意匠の蝶が空へ逃げ出した。
「ふふ、追いかけっこね」
試しがてらに箒に乗れば、ふわりと軽やかに飛び上がる。それ以上に体がうんと軽いのは魔法具の効果だろうか。
「ベル先生、お願いできる?」
蝶を示したラズリの呼び声に、白い木菟がはばたいた。先生はくちばしにくわえたレースリボンをしゅるりと蝶へと結びつける。
「つーかまえた、のよ。……ね、うちの子になってほしいの」
楽しげに、軽やかに蝶を捕まえてみせたラズリを、セレネは思わず目を輝かせて見ていた。
「すごい……私も頑張らなくてはいけませんね」
意を決して杖と羽ペンに触れる。――ふわりと浮かびあがると同時に、杖に込められた六花を解放した。ひらり、空に蝶と天使と、六花が舞う。きらきらと輝く六花は綺麗なまま、蝶の行く手を阻んだ。
「これ以上はとおせんぼ……つかまえました」
「ふふ、すごいすごい! セレネ、とても綺麗だったのよ」
一足先に地面に戻ってセレネの魔法に目を奪われていたラズリが、降りてきたセレネに笑って駆け寄る。その素直な笑みにつられるように、セレネも少し微笑む。ふたりの手元にはそれぞれ選んだ箒と杖――そして、お揃いの羽ペン。
「せっかくだから、瑠璃の洋墨も帰りに買わなきゃ。セレネにお手紙書くのよー!」
「私にお手紙……ぜひとも。ね、帰りに洋墨を買いに行くのも……ご一緒しても良いですか?」
「わ、勿論なの! あなたの好きな色も教えてね」
よく似たあおのひとみを見合わせて、ラズリとセレネはふわふわ笑う。揃いの羽ペンに戻った蝶の意匠は、よく似たふたりの色彩をうつすいろをして。
ひらひらと、光る蝶が舞いながらにその色彩を移ろわせる。
気まぐれなようで優雅なその舞うさまを、繰廻・果月(御伽語の歌唄い・h07074)は機嫌よく眺めて、笑んだ瞳をそのまま、並ぶ魔法具たちへと向けた。
「蝶々の意匠やなんて、ほんま素敵やわぁ」
伸ばされた指先は、品物にぎりぎり触れはせずに意匠の蝶の輪郭だけをするりと撫でる。
この露天商に並ぶ魔法具のいずれにも『飛ぶ』魔法が籠められていると聞いた。
(アタシには羽根が生えへんかったから、実は飛んだことがあらへんし)
半人半妖の身なれど、果月の背に羽根はない。この魔法具とやらがどれほど飛ばせてくれるかは知れないが、せっかくならば一緒に飛んでくれて、いつでも着けておけるようなものがあればいい。
(ブレスレットか根付みたいなん、あらへんやろか)
そうのんびりと足を進めてゆく果月の視界に、ちょうどアクセサリーのたぐいを揃えた露店が入ってくる。
(普段から着けておける、あんまり派手すぎへんけど、綺麗でかいらしいやつがええね)
そう思い巡らせて滑らせてゆく視線の先に、ふと果月の目を惹いたものがあった。
黒と金の組紐で作られた和風のブレスレットだ。蝶の舞うトンボ玉を組み合わせたもの、八重菊結びを飾って留め具に蝶がさりげなく留まるもの――感心するほど品幅が広い。
「どれもかいらしなぁ。……ほな、これにしよか」
ゆるりと目を細めて、果月はひとつのブレスレットを手に取る。それと同時にひらりと逃げ出した蝶を見上げた果月の体もひらりと飛んだ。
「ほんまに飛べるんやなぁ……。て、感心してる場合やないか。待ってや、蝶々。アタシの話でもひとつ、聞いていかはらへん?」
すいすいと飛んで、果月は蝶と高度を合わせ、語り掛けてみる。果たして蝶にも語り草は通じるのか疑問ではあったが――ひら、と動きをゆるめた蝶が耳を傾けたように見えた。
「ふふ、ほな聞いてもらおか。……これは蝶々が大冒険する話なんやけどな」
穏やかに、語り部は噺を語り出す。その語り口は、それこそ魔法のように心地良い。つられたようにひらひらと寄ってくる蝶へ、果月は語りながらに手を伸ばした。
「……それで、蝶々は目ぇ覚ます。今までのは全部夢やったんやって気づいてまう。――けど、夢でも楽しかったんはほんまやろ」
なあ、と囁けば、蝶が果月の指先に留まった。
「ええ子やね。お礼にアタシと、色んなとこ飛んで行こな」
ひらり、蝶がブレスレットの意匠へ戻る。それきり動くことのない蝶が不思議と、うなずくように揺れた気がした。
「わぁ……!」
珍しい魔法具が揃う露天商の話を聞いて、千木良・玖音(九契・h01131)は興味津々に心を躍らせた。
そしてパピヨン・オクルスにやってきて、もっと瞳を輝かせ、いつも持っている魔導書をぎゅっと抱きしめる。
この魔導書は花の図鑑がモチーフになったものだ。蝶がモチーフになった魔法具があれば、まるで対のようになるのではないか、そう思ってやってきた。
そうしたら、見渡す限りに蝶の魔法具があふれていて。
(これなら本当に、魔法具さんたちもお友達みたいで楽しいかも……だからがんばって、蝶々さんを捕まえなきゃ!)
ぐっと小さな手に力を入れて、玖音ははしゃぐ足取りで露店を巡ってゆく。
「これ……とっても綺麗で可愛いの……!」
様々な魔法具が並ぶなか、玖音が目を奪われたのは淡紫の花にとまる薄青の氷の蝶をモチーフにした羽根ペンだった。
なんて綺麗なのだろう。誘われるようにそっと手にすれば――ひらりと氷の蝶が逃げ出す。
「わ、待って、待って」
慌てて呼んでも、蝶は待ってくれない。それならと、玖音は抱いていた魔導書を開く。
開けばふわりと花の香りが漂ってゆく。その香りを纏って、玖音は空へと駆け出した。あまい花の香りを纏って近づけば、逃げていた氷の蝶がふと玖音のほうへつられたように舞う。
「この花とーまれ」
開いた魔導書に咲く花に、ひらひらと蝶が誘われてくる。
――お願い、届いて。
声にはせずに願った玖音に応えるように、氷の蝶は魔導書の花に留まってくれた。
「わ、やったぁ……!」
玖音はそうっと氷の蝶を捕まえる。――羽ペンへ戻った蝶は、魔導書に添うようにきらりと輝いた。
「噂には聞き及んでいたが、誠に蝶が舞うとは何とも幻想的な光景だ」
感心するまま、アダルヘルム・エーレンライヒ(月冴ゆる凍蝶・h05820)はパピヨン・オクルスの蝶舞う通りをほうと眺める。
「まるで夢まぼろしの様だのう」
笑みを湛えてツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は袖の先に魔法蝶を留めた。もの言わず、ただ美しくこの場を彩るかのような蝶たちは、しかしツェイたちの言葉を解しているのだろう。
「しかも店員の役目をも果たすという。……ふふ、偉い子らだ」
ひらりと飛び立った蝶を見送って、ツェイとアダルヘルムは露天商を見て回る。ただ回れば飽きぬ時間潰しにもなりそうだが、アダルヘルムにはいくつか目当てがあった。
「最近髪が鬱陶しくてな。髪留めや魔物討伐に使う剣を探したい」
「ほう、お主の剣技に空舞うすべが加われば、心強い事この上なかろうなあ」
「ふは、飛ぶすべを使い熟せるかは分からんが、一度やってみたくてな」
のんびりと笑うツェイに軽く笑い返して、アダルヘルムも「ツェイ殿は」と問うてみる。
「夏を前に、我も髪留めをと思ってな」
言いながらツェイは自身の後ろ髪を軽く揺らす。
「なにせ後ろは幾ら切れど一晩で元通りでの」
「……一晩で?」
素直な驚きが勝って目を瞠ったアダルヘルムは、すぐに表情を苦笑へ崩す。
「成程、それは確かに困りものだ」
だろう、と笑いながらツェイとアダルヘルムは装身具のたぐいが揃う露店で足を止め、アダルヘルムはその反対側の通りに並ぶ剣の並びでも目星をつける。
やがてふたりの視線はそれぞれ、これぞというものを見つけた。
「しかし、マジで逃げるんだな!?」
菫と蝶の意匠が彫り込まれた剣と髪留めをアダルヘルムが手にした途端、蝶がするりと逃げ出した。前触れもなく当然のような逃走に、聞き及んでいたって驚いた声が出る。
待てと蝶を追う菫色の胡蝶の群れを放つアダルヘルムの身もまた空へと飛び上がった。慣れぬ感覚に刹那だけ戸惑って、すぐに身の置き方を把握する。
宙であれ地と同じように走り飛べばいい。足裏に返る感覚こそなくとも、その代わりのように体は軽く――逃げた蝶は淡い光の鱗粉に含まれた毒で動きが鈍っている。
「大人しく戻ってこい」
蝶の群れが囲い込み、その軌道をなぞってアダルヘルムは剣を試しがてらに振り下ろす。
「――ずいぶん増えたと思うたら、アダル殿の蝶か」
アダルヘルムが豪快に蝶を捕らえるさまを、ツェイは楽しげに微笑んで見物していた。
「うむうむ、飛ぶ練習にもなっておるようだの」
どうやら空駆ける騎士に最早天馬は必要ないようだ。代わる胡蝶の群れが、夢の如くに美しい。
「……おっと」
満足げに目を細めていたツェイの傍らを、ひらひらと飛びゆく蝶がいる。それが手にした白蝶貝の髪留めにいたはずの蝶だと気づいて、ツェイはつい笑い声をこぼした。
「ははは、此方も本当に逃げ出しておる。……ふむ」
彼方此方とひらりふわり舞うさまは目に楽しいが、このまま見送ってやるわけにもいかない。蝶のいない髪留めはいかにも寂しすぎる。
なればとツェイはするりと宙へ浮き上がった。こうして飛ぶのは魔法に頼らずとも簡単なことだが、ますます体は軽い。
蝶を追いながら、願いを叶える花を喚ぶ。ふわりと咲いた花はツェイに応えて、甘いあまい泡の玉を齎した。
「あの子を捕えてきてくれるかの」
逃がさずツェイが視線を据えた先へ、泡は違わず飛んでゆく。ふわふわとした泡が逃げた蝶をやわく包み込んだその傍へ、ツェイも飛んだ。揺らすのは、からの髪留め。
「ほれ、此処へ帰っておいで」
やわらかな声に応えて、蝶が白蝶貝へとひらひら帰りつく。それに満足げに微笑む頃には、ツェイの身は地上へ降りていた。
「お、ツェイ殿は何とも貴殿らしい平和的方法か」
「ふふふ、平和的解決というやつよの」
相変わらずの様子で微笑むツェイに、先に戻っていたアダルヘルムは、誠に美しい光景だったと瞳を細める。
「貴殿の人柄があってこそ可能な方法と言えよう」
「ふふ、互いにの」
友と見交わした視線の先には、互いに手にした|戦利品《・・・》がある。帰りついた蝶は友らの揃いの意匠となって、互いの髪を剣を飾るだろう。
パピヨン・オクルスを舞う光る蝶たちは、この魔法露天商の店員でもあるという。
それこそ夢のような話だが、ナギ・オルファンジア(■からの堕慧仔・h05496)はひらひらと美しく舞う|不思議な空間《ファンタジー》を好ましく眺めた。
「ナギはそういうのも楽しくてすきです」
声ばかりははしゃげど、ナギの表情は動かない。けれどその視線はきょろきょろと好奇心を載せて魔法具をあちこちとなぞってゆく。
ひらひらと近づいてきた光る蝶が、ナギの傍らで留まる。
「こんにちは店員さん。……ああ、本日は煙管を探しにね」
話しかけられたわけでもないが、なにを探しているのか問われた気分で答えてみる。すると蝶が首を傾げるようにひらふわと上下した気がした。
「うん、そう。パイプだとちょっとごついのだよなぁ。……いいもの、知ってる?」
それかシガレットケースでもいいのだけれど、とナギが首を傾げると、ふと話を聞いていた蝶がナギの纏う色を映したように白く色を変えて、ひらりと飛びはじめた。
他の蝶たちは色を変えるとき一斉に色を変えているようだから、この店員がナギの案内を買って出てくれたということだろうか。
ついてきてと言うように舞う白を、ナギは機嫌の良い足音で追う。
「よろしくね」
蝶が止まったのは、煙草に類するものが揃った露店だった。ナギの探していた煙管をはじめ、シガレットケースや灰皿も揃っている。
「本当に品揃えがいいなぁ。……ふむ、どれにしようか。できれば、火属性がついているとうれしいんだけれども」
さらにナギの言葉を聞いて、蝶が三つほどの煙管を示してくれる。どれも少しずつデザインが違い、籠められている魔法も飛行と火に類するものとのふたつ。
「……ああ、優美なボディラインのそれがいいね。彫られている蝶々も素敵!」
迷った末にナギが選んだのは、なかでも一番優美なものだ。一際細やかに彫り込まれた蝶は、なにをせずとも逃げ出しそうですらある。ただし値段もしっかりはしている。
「ありがとう、店員さん。……商売上手でナギはびっくりしました」
冗談めかす口ぶりで言えば、白い蝶はどこか満足げにひらりとはばたいて、また他の蝶たちと色を揃えて店番へ戻ってゆく。
それを見送って、ナギはさて、とちらりとやった視線ひとつで影業を呼び出した。
「それでは準備はよろしいかい御門くん。ナギが手にとって蝶々が飛び立ったなら、素早くぱくん! とお願いね」
鈍色の蜥蜴はナギの言葉を呑むようにひょこりと動く。相手が蝶ならば、捕らえるのは蜥蜴の得意分野だろう。
それじゃあ、とナギは煙管を持ち上げる。体が浮き上がり、途端にひらりと逃げ出した蝶は――ほんの一瞬でぱくん! と影の中に閉じ込められた。
「さすが早いね、御門くん」
籠められた火の魔法を試すまでもない。けれどもそれは、あとの楽しみでも構わなかった。
ナギが手にした煙管には、火がなくとも煙管に火を灯し、夜を明かせる炎がついている。
硝子玉のような澄んだ薄紅のひとみが、丁寧に蝶で飾って繕われた古物を慈しむように見つめる。
「新しいものも、古いものもあるのね」
もういくらかすればあれらも|付喪神《こころ》を宿すだろうかと、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は唇に僅かに笑みを乗せた。そのまま視線を、傍らの友へと移す。
「たくさんあるけれど……りりは欲しいものがあって来たの?」
「実は……ベルちゃんのヴェールがすてきで、おそろいにしたいんですよね」
すこしだけ照れたように、廻里・りり(綴・h01760)がぽそりと口にする。じっと見る先には、ベルナデッタの優美なヴェールがあった。
「あら、りり。ワタシのヴェールが気になっていたの?」
「はい。全く同じものじゃなくてもいいんですけど……ヴェールのついた帽子だとか」
「いいわね。それじゃあ、服や装飾品を見てみましょうか」
「はい! ……あっ、この蝶々さ、案内してくれるみたいです」
ついていってみましょう、と弾んだ声で笑うりりに、ベルナデッタも頷いて、りりと並んで蝶のあとを追ってゆく。
ふたりが蝶に案内された先にあったのは、服や帽子、靴まで揃った露店だった。なかでもおすすめを示すように、光る蝶は青い蝶の意匠があしらわれた靴とベレー帽のそばをひらふわしている。
「|光る蝶《店員さん》のオススメは、靴とベレー帽ね。……青い蝶々、綺麗。貴方によく似合うと思うわ」
「本当ですか? お帽子もすてきだけれど、でもでもお靴もかわいい!」
「どちらにするか迷っていて?」
帽子と靴を見比べて大きな瞳を揺らしているりりに、ベルナデッタはくすくすと笑う。
「なら、どちらも試せばいいわ。……そうね、靴から試してみる?」
「どちらも……! じゃあ、先にお靴を!」
ぱあっと瞳を輝かせたりりが、靴に足を入れる。途端に魔法の靴はりりの足の大きさぴったりに副って――ひらりと蝶が逃げ出した。
「わわっ、本当にすぐに飛んじゃうんですね。……よしっ、いってきます!」
「ふふ、捕まえていらっしゃい。気をつけてね」
ベルナデッタは微笑んで、蝶を追って空へ駆け出すりりを見送る。りりは少しだけふらついていたが、すぐに飛ぶコツを覚えたらしく、楽しそうに蝶を追ってゆく。
(あの子が靴の蝶を追っているあいだに……)
ふとりりから帽子へ視線を戻したベルナデッタは、そっとヴェールのついたベレー帽を手に取った。
「|帽子《アナタ》はワタシが迎えるわ」
ベレー帽を飾っていた青い蝶の意匠がすいと逃げ出す。その蝶を追って、ベルナデッタも空へと浮き上がった。足の裏が空の青を踏んで、遠くなる地面へわすれられた影を伸ばす。
「|黄昏《クレピュス》、手伝いを頼めるかしら。貴方たち、お揃いの仕立てだものね」
ベルナデッタの声と示す方向に応えて、黄昏が蝶を追ってゆく。影が逃げた蝶を捕らえるのに、時間はかからなかった。
「ベルちゃん、見てください! 蝶々さんを捕まえたら、お靴に翅がはえました!」
しばらくして、りりが明るい表情で空から降りてくる。その足元の靴にはりりの言った通り、青い蝶の翅がかわいらしくはえていた。
「おかえりなさい、りり。無事に捕まえられたのね」
「はい! 歩くとね、お花も咲くんですよ」
不思議な魔法ですね、とりりはうれしそうに辺りをぱたぱたと歩きまわってみせる。その足跡は花と咲いて、ふわりと花びらに消えてゆく。
「よかったわね。……はい、じゃあこれも合わせましょ」
穏やかにりりに微笑んだベルナデッタが、りりの頭にぽすりとベレー帽を被せる。ベルナデッタのヴェールとよく似たそれが、ふわりとりりの目の前で揺れた。
「……わぁ! これ、ベルちゃんが?」
「ええ、捕まえておいたの。やっぱりよく似合うわ。靴ともあっているし……よければ貰ってくれるかしら」
「えっ。いただいてもいいんですか?」
「あら、気になっていたんでしょう? ワタシもやってみたかったの、意匠のお揃い。満足よ」
微笑んで、ベルナデッタのしろい指先がりりのヴェールを揺らす。それにりりもふわりと満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます! ヴェールとおそろい、うれしいです!」
せっかくだからと、りりはそのまま靴と帽子を身に着けてゆくことにする。足元に翅と花を、帽子にヴェールを揺らして、りりははしゃいだ心地のまま、ベルナデッタの手を引いた。
「ベルちゃんのものも選びましょう! 鞄はどうですか? さっき見かけたんです!」
「ふふ、いいわね」
「此処が|蝶の天窓《パピヨン・オクルス》かぁ。……綺麗だな」
数歩先んじて通りに踏み入った詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)は、周りに舞う光る蝶と魔法具の並びに春暁の瞳をやわく緩めた。
おいで、と手を伸ばすのは|護衛《シュバリエ》らしく、守るべきララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)へ。
「綺麗……。みんな遊んでるみたいね。ララとも遊んでくれるかしら」
手招かれるまま踏み入ったララも、アネモネの瞳を好奇心にきらめかせて魔法蝶と戯れる。
「あ、こら。あんまり遠くにいくなよ」
ちょこまかとはしゃぐいつも通りのララの姿を見守りながら、イサはそっと息をつく。
この露天商に揃う魔法具には、どれにも『飛ぶ』魔法が籠められていると聞いた。だからこそ、どうしても思ってしまう。
(ララは迦楼羅の雛女……でもまだ、飛べない)
そのことを、ララ自身が一番気にしていることも知っている。普段なんてことない顔をしていても、ときどき天涯を寂しそうに見上げていることも。
イサの見つめる先で、小さな可惜夜の迦楼羅翼が揺れている。
「……飛ぶ魔法」
ふと光る蝶を追うのをやめたララは、そばに並んだアクセサリーの揃う露店に置かれた、翼をモチーフにした根付に視線を落とした。
(ララはまだ飛べない。……迦楼羅なのに)
だからララは、天へかえれない。――だから、迎えにもきてくれない。
綺麗なものを見ているのに、考えはじめてしまえば胸の奥が嫌な心地で詰まりそうになる。
(でも、いつか飛べるはず。……いつかって、いつ?)
ひゅうと気持ちがおちてゆく。冷たくて、自分ではうまく制御できない。
「……ララはこれがいいんじゃない」
不意にララの思考を遮るように、イサが隣から手を伸ばしてきた。彼がこれと指さしたのは、アネモネの花のような翼飾りだ。蝶と連なるアネモネと、薄紅の花びら。
「ほら、ララの好きな桜も寄り添ってる」
「……お前は、いつもそうね」
ん、と不思議そうにまばたく桜をうつす瞳に、ララは瞳を合わす。
(イサはいつも、穹へ至る為の切符を探してくれる)
この前は魔法の箒。今日は――花一華の翼飾り。
「じゃあ、ララはこれ。……可愛いお前が選んだ希みの花。イサは?」
「俺? そうだな…元々飛べないし、アンクレットとかにするかな」
「アンクレット?」
「そう、跳べそうだし。この、蝶と桜のとか」
「ふふ、綺麗ね」
そう音だけは笑ってみせるララの口元は、それでも笑っていない。小さな指先が怯えたように、翼飾りを手に取れないでいる。迷って、躊躇うのは買うことそのものではなくて。
「……あっ」
「あっ! 蝶が逃げた、ほらララ!」
妙に早くなる鼓動を抑えてララが翼飾りを手に取ると、するりと蝶が逃げ出した。それをイサが指さす。ララも見上げる。慌てて空へ手を伸ばす。
けれど、届かない。ひらひらと、蝶は空の高いほうへ飛んでゆく。
(届かない。飛ばなきゃ、でも)
でも――また、真っ逆さまに墜ちたら?
思い出すのは、ひゅうと堕ちてゆく感覚。空が突き放すように、遠くなってゆく嫌なつめたさ。
「ララ!」
「……っ、」
イサの声で息をする。それで息を止めかけていたことに気づく。胸の真ん中が嫌な音と心地であふれていて、至らない翼が揺れる。
「――俺は、ララが飛べたらいいって思う」
「……イサ?」
「ううん、希う。……それが、俺の望み」
イサにとって、それは初めて抱いた望みだった。大丈夫、とわらって小さな背を押す。たぶん、どちらの手も少し震えていた。
「……うん」
こくりと頷いて、ララは空を見上げる。翼飾りを、イサの手が小さな翼につけてくれたのがわかった。
(イサがいる。きっと大丈夫)
躊躇いながら、ララは翼を動かす。懸命に、空へ手を伸ばす。――天へ、穹へ。
小さな手が、光をつかむようにもがいて。
ふわりと、身体が浮いた。
あ、と零れた声はふたりぶん。ララの手が、空へ逃げた|蝶《ひかり》をつかむ。
それで、すとんと身体は地面に降りた。ぽかんとしたララが翼飾りを確かめれば、そこには蝶の意匠が戻っている。
「……ララ、いま、少し飛べた?」
「……飛べてたよ」
イサが頷く。とべてた、と繰り返してくれる声が優しくて、とても嬉しそうで――ララの奥からも、嬉しさがこみ上げた。
「とべた。とべたわ! ねえ、イサ!」
「やったな、ララ! 大きな一歩だ」
思わずぴょんと跳ねて、ララとイサはぱんと手を打ち合わせる。心からの喜びが、ふたりの胸を満たしていた。
ひらり、光る蝶も祝うように舞う。その中でララは満面の笑みを浮かべた。
「噫、なんて――嬉しい」
パピヨン・オクルスの蝶は逃げるのだという。
何気なくそれを思い出しながら店通りを眺めた僥・楡(Ulmus・h01494)は、ふと首を傾げた。
(……もしかして今飛んでる蝶は、みんな逃げ出した子たちなのかしら?)
通りには数えきれないほどの光る蝶が飛んでいる。店員も兼ねるとは聞いたが、もしかすると元は意匠からの脱走を成功させた蝶だったりするのだろうか。だとしたら。
(自由にしている姿を見ちゃうと捕まえるのは可哀想だけれど、どうせなら完璧なのが欲しいわね)
つめたくやわいアイスブルーの瞳が、品定めするように並ぶ魔導書を撫でていく。いかにも小難しそうな重厚な気配のものは素通りして、絵画のように凝った装丁のものにやわらぐ。
楡はさほど魔法に造詣はない。どうせ魔導書としての本懐を遂げさせてやれないのなら、飾っておくだけでも満足できるようなものがいい。
「……あら、アナタ綺麗ね」
いくつか目に留まったもののうち、楡が指先で撫でたのは白い背表紙に青い蝶が舞うものだ。魔法で成るのか、表紙のなかを自由に飛んでは、時折花に成り変わる。縁を彩る金の装丁も凝っていて、鍵までついているのもいい。
「中身はほとんど挿絵なのね。空想の魔法具かしら。……いいわ、これにしましょ」
開いた本をぱらぱらと捲って心を決める。瞬間、青い蝶が本の内側から飛び立とうとして、
――パァンッ。
叶わなかった。
圧倒的に楡が本を閉じるほうが早い。思い切りと勢いのよさに、心なしか周りの蝶たちが楡からさっと距離を取った気がする。失礼しちゃうわね。
「……勢いよくしたけど大丈夫かしら? 潰してない?」
また逃げ出したら困るもの、と楡は確認のため、慎重に再び魔導書を開く。ぱらぱらと捲る内容に変わりは見られず、表紙にも青い蝶の意匠が変わらずあった。
「ごめんなさいね、自由にしてあげられなくて。……でも、アタシと一緒にいた方がいろんな場所へ連れて行ってあげられるから、それで我慢してね」
穏やかに語り掛ける楡の言葉に、魔導書の蝶が応えるようにひらひらと舞う。それに微笑んでから、楡ははたとした。
「……そういえば『飛ぶ』のはどうだったのかしら。慌てちゃったからよくわからなかったわ」
あとでもう一回確認してみましょ、と軽く首を傾げて、楡は魔導書を光る蝶たちに軽く掲げた。
ザッ。
「ねえ、お会計を……って何よ、そんなに逃げなくたっていいじゃない。栞になりたいって言うならしてあげてもいいけれど」
とんでもない、と言わんばかり、光る蝶は素早く丁寧に会計を済ませてくれたようだった。
蝶の意匠を施した魔法具が揃う、パピヨン・オクルス。
その話を聞いてルクス・ナイトシェイド(胡蝶夢幻・h03728)はつい興味を惹かれた。
(少し気になるから、一度見てみようか)
思いつきのようにふらりと通りへ足を向ける。
そして露店に揃う蝶の魔法具に、ルクスは思わず微笑みを浮かべた。
「ふむ、これは確かにどれも美しい意匠です」
あらゆる魔法具にあしらわれた蝶は、それぞれ違う表情を見せる。
しばらく通りを見て回って、ルクスは少し考えた。
「どれもこれも全部素敵で迷いますが、僕はそうですね……魔導書、ピアス、コスメ辺りを頂きましょうか」
どれにも目を惹くものがあった。それぞれ悩んで選んだものを手に取れば――話に聞いた通り、意匠の蝶がするりと逃げ出す。
(話通り――なら、俺の蝶と遊ばせてみるとしようか)
ルクスは自らの蝶を何体か喚び出した。蝶たちは麻痺毒を含む鱗粉をふわりと舞わせて、逃げた蝶の動きを鈍らせる。
そうなれば、あとは捕らえるのは容易い。
捕まえた蝶は、美しい意匠としてルクスの手元へ戻ってくる。
魔導書、ピアス、コスメ――どれもルクスの好みのものばかりだ。
(とてもいい買い物ができた)
微笑んで、ルクスはまた気まぐれにきびすを返す。
「また次に会えるときが楽しみだよ。そのときはまた、別のなにかをいただくとしようか」
「ひゃあ~!! 魔導書に魔法具だらけ! 蝶もいっぱい!! すごぉ~い!!」
パピヨン・オクルスの通りに踏み入るや、ネルネ・ルネルネ(ねっておいしい・h04443)は無邪気にはしゃいだ声をあげた。
|合法《ポーション》でテンションをあげて来ているとはいえ、これだけ魔法具が揃っていれば、殊更にテンションは上がるというものだ。
ネルネのそばで、ふわふわと光が躍る。
「ふふ、なんだかフローラちゃんもはしゃいでるね! 仲間だと思ってるのかな?」
辺りには光る魔法蝶たちがあふれている。同じような光を持つ人工精霊も、仲間を見つけた心地なのかもしれなかった。ふわふわ、ひらひらと光と蝶が遊びあう。
それを眺めていたい心地もあれば、勿論魔法具に目を奪われる心地だってある。
「むふふ〜、どれも良いなぁ〜、目移りしちゃうなぁ〜」
話に聞いた通りだなぁと、ネルネは弾む足取りであちらこちらを忙しなく眺めて回る。
そのうちに、
「お? ――蝶の模型だぁ~!」
ぐっとネルネの心を掴むものがあった。
露店に飾られた蝶の模型。つくりは金で、歯車と螺子やゼンマイが緻密に組み上げられている。
「かぁっこいい〜!! 僕こういうスチパン調のデザイン好き〜!!」
目を輝かせてネルネがそばに寄ると、籠められた魔法か、蝶の模型がゆっくりと羽ばたきはじめた。
「しかもパタパタ動く〜!! これってもしかして飛んじゃう? すご〜い!! 欲しい〜!!」
きゃらきゃらとはしゃいだ声をあげてから、ふとネルネは模型のそばに置かれた値札に目を落とす。
「……、……」
ちょっといつもの買い物ではあまり見ない桁をしていて、数えるのに時間がかかった。それから自分の財布の中を覗き込む。
「……、……――うん! このあとお仕事頑張ればいっか!!!」
ちょっと考えて細かいことは考えるのをやめた。だって今欲しいんだもん。
心の向くまま、ネルネは模型に手を伸ばす。
「ん? ……んあーっ!!? 飛んでった!! やだやだフローラちゃん追いかけて!」
気づけば蝶の模型は空を自由飛行している。見たかった光景ではあるが、逃げられては元も子もない。慌ててフローラがその後を追う。
続いてネルネも片手にあった|相棒《ほうき》に乗った。
「僕らも行こう、飛ばすよヴィヴィアン!」
――果たして、蝶の模型はネルネたちの手に帰る。同時にお財布はすっかり軽くなって飛び立ちそうなありさまだったけれど、それはそれでいいのだ。
まるで本のなかに入ってしまったような、そんな気がした。
ぱちぱちと忙しなくまばたいて、一文字・透(夕星・h03721)はまじまじと光る蝶舞う魔法露天商――パピヨン・オクルスのあちらこちらを眺める。
この世界に来たのも初めてだけれど、透にとってはあまりに現実離れした光景に見えた。どこを見ても眩しくて、どこを見ても幻想的で、けれど夢ではないから歩き回れてしまう。
(すごい……。ここにあるものは、持ってたら飛べるって本当かな?)
魔法とは無縁に過ごしてきたから、ついそんなふうに考えてしまう。
疑っているわけではないけれど、少なくとも飛ぶ感覚は知らなかった。
「飛ぶってどんな感じかな、シロ」
足元で今日も一緒にいてくれる愛犬に話しかけてみる。けれども白露も不思議そうに、こてんと首を傾げた。その仕草はよくよく見慣れたもので、つい気が抜けて透も笑ってしまう。
「ふふ、シロも飛べないもんね」
「わんっ」
元気よく白露が尻尾を振る。その頭を軽く撫でてやってから、透は通りをそっと歩き出す。
飛ぶこと自体に興味はあるが、今回の目的はそれではなかった。見たいのは自分用のものではない。
(お父さんが持ち歩けるものがいい)
探すのは、透の養父への贈り物だ。だから今回は飛ぶより、お守りになるような効果がついていればと思う。
(ペン、かな。大人の人が持っててもおかしくなくて、落ち着いたデザインだといいな)
そう考えながら歩くうち、ふと白露が足を止めた場所があった。
「シロ?」
どうしたのだろうと思ったが、覗くと白露の鼻先に光る蝶が止まっている。その様子につい少し頬が弛んだが、すぐ傍に万年筆やガラスペンが並ぶ露店があることに気づいた。
そういえばこの蝶たちは店員でもあると聞いたが、ひょっとして白露を誘導してくれていたのだろうか。
「ありがとう、蝶々さん、シロ。……あ、これ、綺麗」
たくさん並んだペンの中から透はひとつ目についたものに心を決めた。それはアンティークの雰囲気がある万年筆だ。落ち着いた茶に、金の蝶が彫り込んである。籠められた効果は『幸運』。
(これ、お父さんにあげたいな)
そう思って手に取った――途端に飛び出した蝶を、透は迷わず素早く手で掴み取る。だって、絶対に捕まえたい。お父さんにあげるのだから。
目にも留まらぬ早業とはこのことで、見ていた白露のほうが首を傾げていた。
「やった、シロ見て、捕まえたよ」
「わん?」
「……ちゃんと見てた?」
「わん!」
ほんとかな、と思わずじっと愛犬を見つめて、ふと表情をゆるめた透は確かめるように蝶の帰った万年筆に視線を落とす。
(お父さん、喜んでくれたらいいな)
きっとあの冷静な表情は崩れないのだろうけれど、きっとあのひとにこの万年筆は似合う気がするのだ。
パピヨン・オクルス――その名は魔法学園の生徒たちにとっては、どうやら憧れのひとつらしい。
魔法露天商の通りを歩くうち聞こえてくる楽しげな話し声で、それはユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)にも察することができた。敵の狙いは、この無邪気な声のなかのひとつなのだろう。
(無力な少女を狙うなんて、確かにいただけないねぇ)
彼女たちにとって今日が楽しい思い出となるように力を尽くすことを心に決めながら、今はユオルもこの場を楽しむことにする。
せっかくなら、|大事な友達《Anker》へのお土産を探したい。
(あの子が喜びそうなのは……やっぱり星のなにかかな)
あの子は星が好きだ。そして物語も。なら、とユオルが考えに耽っていると、ふと辺りを舞っていた蝶の一匹が、ユオルの前でひらりと揺れた。
「あ、蝶々さん。案内してくれるの?」
ありがとう、と緩やかに笑って、ユオルは蝶についていく。――その先で蝶が止まったのは、魔導書が並ぶ回転本棚の前だった。
その中でユオルの目を惹いたのは、美しい星空を映した表紙に、金色の蝶が翅を休めている見事な装丁の魔導書だった。
「綺麗だねぇ……」
これなら飾っておくだけでも楽しいだろうし、内容次第では読み物としても楽しめるかもしれない。どうやらこの魔導書はちょうど、物語として魔法が籠められているようだ。
紡がれているのは――星と蝶を巡る、やさしい物語。
軽く目を通しただけでは魔法を読み解くには至らなかったが、それもあの子なら楽しめるかもしれない。
「じゃあ、君にしようか」
そう決めた途端、ひらりと表紙の金色の蝶が逃げ出した。ふわり、舞うたびに光の軌跡が残る。
その動きを、ユオルは丁寧に見極める。自分の体も思ったより浮き上がったから少し驚いたものの、蝶の動きを見逃すことはなかった。
やさしくやさしく、手を伸ばす。
ユオルの指先が金の翅をそっとつまんで――それで満足したように、金色の蝶は光の粒になると、魔導書に淡い光と共に帰ってきた。ユオルは微笑んで、魔導書の表紙を撫でる。
「ふふ、おかえり蝶々さん。……あの子によろしくねぇ」
そこかしこで、歓声が聞こえるようだった。
誰もが魔法具に目を輝かせ、ふれる魔法に心をときめかせているのだとわかる。パピヨン・オクルスを巡る賀茂・和奏(火種喰い・h04310)の足取りもいくらか軽い。
(魔法具って心ときめく響きだな)
普段そこまで魔法に触れるほうではない。とびだす絵本ならば触れたことはあれど――ここの魔法具や|魔導書《えほん》は本当に蝶が飛んで逃げてしまうと聞いた。
とはいえ、和奏が普段触れるのは|魔物《モンスター》よりは|怪異《こんとん》だ。魔導書は気にかかるが、なかに書かれていることを読み使えるかはわからない。
(それなら、文具を探してみようか)
そう決めて視線を巡らせれば、不思議とすぐに、文具が揃う露店を見つけることができた。
通りをひらひらと舞う光る蝶たちの
一匹が、案内を買って出るように和奏の行く手を先導してくれる。
――そういえば、この蝶たちは店員さんなのだっけ。
「綺麗だなぁ」
つい微笑んでその案内についてゆくうち、ふと和奏の視線は蝶のいる手帳に惹かれる。
(今、目が合った……ような)
そう思うのは想像だろうか。自身の空想か魔法か判断するよりはやく、和奏は吸い寄せられるようにその手帳を手にとっていた。
「あっ」
途端、手帳にいた蝶が遊ぶようにひらりと空へ羽ばたいていく。
手にすれば逃げるのだという話を忘れていたわけではない。けれどもだからこそ蝶に誘われた気がして、和奏は笑ってしまった。
「ははっ、これが聞いてた追いかけっこのはじまりかい? 望むところだ。――青くん、協力頼むよ」
空を目指して飛んでゆく蝶を追って、和奏は身の裡に憑く|異形《からす》の翼を借り開く。背に白と黒の双翼が広がると同時、ふわりと風がその背を押して空へと上がった。
(……いつもより身体が軽い気がする?)
慣れた感覚よりも今日は一段と身体が軽い。どこまでも飛べるような気もして、和奏はかろやかに空を飛び駆ける。
ひらひらと空を目指す蝶は遊んでいるようで、見ていても楽しい。
「でも、逃がしてはあげられないから」
緑の瞳がその動きをよく捉え、双翼が大きく羽ばたいて、和奏は蝶の行く手に先んじる。
「つかまえた」
そっと伸ばされた手のひらに、蝶はふわりと捕まった。――手帳のおもてに帰った蝶はどこか楽しげに、その翅をきらめかせる。
「ほわぁ~ステキな魔導書がいっぱいです!」
無邪気に夜明け空の瞳を輝かせて、レア・ハレクラニ(悠久の旅人・h02060)はくるくると回転本棚を回してみる。
パピヨン・オクルスの一番人気といえば魔導書である。一際賑やかな魔導書の露店にレアもつられるようにやってきて、こうして本棚を眺めているが、楽しいばかりでなかなかこれぞというものが決まらない。
「むむ……。――そんなときは! ジャケ買いすればよいのです!!」
どやっと胸を張って腰にも手を当てて、レアはもう一度くるりと本棚を回す。そうして回った本棚がゆっくり止まった先をじいっと眺めて、直感のままに一冊の魔導書を手に取った。
それは淡い水色の背表紙に金細工で装飾が施され、蝶の飾られたリボンで結ばれた一冊だ。
「レア、これにするです~! どんな魔法でしょうか? わくわくです!」
リボンが結ばれているから、まだ中身はわからない。けれどとても可愛くてときめいたのは本当だ。素敵な出会いを得た気がしてぴょこぴょことレアが跳ねていると、
「あ、ちょうちょが逃げたです!?」
リボンにあしらわれた蝶の意匠が、するりと逃げ出していた。
待ってくださいと言う間にも、蝶は空へ舞っていく。
「むむむ! ちょうちょさん、この本借りるのです~! 絶対買いますから!」
店員と聞く光る蝶へきちんと告げて、レアはリボンをほどいて魔導書をひらく。――ふわり、レアの身体が空へ浮き上がった。
舞う蝶へ手を伸ばす。けれどあと少し、届かない。
「届きそうなのに……っ」
さらにむぅっとレアは頬を膨らませた。ならば作戦変更だ。レアはそっと目を伏せて、手にした魔導書に意識を集中させる。触れた手から流れ込んでくるのは、魔導書にある過去の記憶だ。
どうやらこの魔導書は、店頭に並んでから長らく持ち主がいないらしい。というのも、レアも開いたときに気づいてはいたが、この魔導書の中身は多くが|白紙《・・》なのだ。
持ち主が白紙を埋めてはじめて、この魔導書は魔法を完成させるらしい。
「なら、レアが最初の贈り物をあげるです!」
レアはとびきり明るい声でそう言って、白紙の頁にさらりと花の絵を描く。そうしてそれを、蝶へと見せてやった。
「ほら、ここが貴方のお家」
――おうち。
その言葉に惹かれたように、蝶が空ではなく、レアのほうへと戻ってくる。ひらひらと迷うように帰ってきたその蝶に、レアは満面の笑みを向けた。
「おかえりなさいです!」
「――素晴らしいね!」
パピヨン・オクルス、光る蝶が舞い、摩訶不思議な魔法具たちが並ぶ露店通りに足を踏み入れて、キール・フレイザー(唯一無二・h00613)は歓喜の声をあげた。
ドラゴンプロトコルであるキールには現状なんの記憶もない。だからこそ見るもの全てが初めてで、心は躍ってやまない。どれもこれもにはじめましての挨拶をして回ったっていい。
記憶がないと言うと多くは気の毒そうな顔をされるが――記憶がなくとも、日々はこんなにも輝く。
「なんて素晴らしいんだろう! 僕が!」
えっと言うように光る蝶がキールを見た気がする。それにキールもばちんとウィンクをきめた。
「やあ初めまして美しい君、お会いできて光栄だ。僕と言う存在に万歳」
きらめく笑顔で挨拶をする。蝶から声が返ることはないが、なんともなしに呆気にとられているような気がした。僕が輝かしいばっかりに。
「大丈夫、落ち着いて。僕が見つけた希望に間違いはないよ。……というわけで、携帯しやすい指輪タイプの魔法具が欲しいんだけどね」
ひょいと正気に戻るように、キールは蝶へ首を傾げる。
「せっかくなら、何かしらの加護か耐性が得られるものがいいね。……あるかい?」
注文が多いかと少し心配していたが、魔法蝶はキールの言葉を受けて、応じるようにひらりと舞いはじめた。
そのあとについて行くと、辿り着いたのはアクセサリーのたぐいが揃う露店だ。特に指輪の魔法具が並ぶ一角へキールを案内した蝶が、場所を示すようにひらひらと止まる。
おお、とキールが追いつくと、さらに蝶はなかでも三つの指輪を示す。どうやらそれらには『飛ぶ』に加えてそれぞれ違う効果が付与されているようだった。
ひとつは火炎耐性、もうひとつは狂気耐性、さらにひとつは幸運の加護。
それぞれ蝶をあしらう細やかなデザインの指輪で、金銀銅の色違いも完備ときている。
「うううん……よし、君にきめた!」
迷いに迷って、キールは緑の石が飾られた銀の指輪を選ぶ。
「なんと言っても君は|緑《ぼく》の色だからね! 素晴らしいね! さあいざおいで僕の指……とと、そうだった忘れてた」
指輪を手にしようとして、キールは懐からシルクのハンカチを取り出した。それをふぁさーと指輪にかぶせる。これで逃げ出した蝶を確保しようという考えだ。
「窮屈だったら申し訳――いやすり抜けるかも? まあ、そのときは僕の自慢の翼で羽ばたき一回さ。星夜の翼はどこまでも飛べるんだよ。あっ、見たい? そうだよね見たいよね、ふふ、いいとも出ておいで!!」
さあ、とキールは指輪を手に取って――ふわ、とハンカチがちょっと浮いて、すんっと下がる。
「あれ? 蝶の君? それで終わり? いやなるほど、僕の輝きに照れたのかもしれないね、わかる!」
キールは機嫌よく笑って手に指輪を嵌める。――きらめくようなみどりが、銀蝶に守られるようにその指を飾って輝いていた。
喰竜教団の名は近頃よく聞くものだ。そのたびに耳にする『教義』に、白水・縁珠(デイドリーム・h00992)はいつも思う。
(……また、|大きなお節介《・・・・・・》さんの出現予報かぁ)
思うことは数あれど、何よりは穏やかに暮らしているだけの誰かを巻き込むのをやめてほしい。狙われている少女に接触する前に倒せという方針には大いに同感だった。
(まずはふらっと見させてもらいたいな)
後々戦うことになる予感は感じているから、今日も精霊銃は鞄の中にある。けれども今はまだ、楽しんでいい時間だ。縁珠の精霊銃もこの|世界《√》のものゆえに、この世界の不思議な道具には興味があった。
「蝶々さん、少しだけ冷やかしさせてねー」
縁珠は|蝶の天窓《パピヨン・オクルス》の通りに舞う光る蝶に自然と話しかけながら、目当てはなしに魔法具を見て回る。
数多ある魔法具はどれも綺麗で、話に聞いた通りどれにも細やかな蝶の意匠が入っているのが見て取れた。この蝶が、手に取ると飛び出すと聞いたけれど。
「……じゃあ、あなたと同じようなコが魔法具の中にいるのよね?」
縁珠は光る蝶と目を合わせるように首を傾げる。
「持ったら飛び出そうとするのは、ずっと閉じ籠っているから……とか?」
もしかすると、本当はこの意匠の蝶たちもこうして自由に飛びたいのかもしれない。それとも、一度でも飛べれば満足するのだろうか。
そんな想像を巡らせながら何気なく見てゆくばかりだった縁珠の視線が、ふと止まる。
目を惹いたのは蝶飾りのついた細身のカチューシャだ。
シンプルながら上品な|見目《デザイン》のそれは、どんな場面でも使い勝手が良さそうで、つい手が伸びる。
「……あ」
ひらり、縁珠の目の前で蝶が飛び立った。まるで偶然カチューシャにとまっていただけだと言わんばかりの自然な素振りに、しばらく目で追いそうになってから思い出す。
そういえばこのコたちは逃げるんだった。
気持ちよさそうに飛んでいるなと見ているうちに、蝶はひらひらと空へ上がって行ってしまう。
(どうしよう……確か、跳べるんだっけ?)
ふと手にしたままのカチューシャに視線を落として、それも思い出す。これは魔法具という不思議なもので、誰でも飛べるのだと聞いた。
試しに、と軽く地面を蹴ってみる。――すると思いがけず、身体がふわりと軽く浮き上がった。
わ、と小さく声が零れて、視線がぐんぐんと上がっていく。そのうち飛ぶ蝶に声が届きそうな距離まで辿り着いて、縁珠はのんびりと口を開いた。
「あなた、お花は好き?」
蝶だから、と思うのは安直だろうか。そう心配する必要もなく、蝶が縁珠の声に反応したような気がした。
「ウチお花屋さんだから、沢山のコに会えるよー」
説得すると言うよりは誘いかけるように、縁珠はゆっくりした言葉を向ける。
「閉じ篭るのも強要しないから、良かったら、ウチにおいで。いっぱいふわふわしよー」
捕まえたいというよりは、ただ伝えたくて、そう語りかけてみる。
(……フラれちゃったらそのとき)
自由に飛んでいたいなら、このコの気持ちを尊重しよう。そんなふうに考えていた縁珠のほうへ、ひらりと蝶は戻ってくる。
「……いいの?」
確かめるように問えば、蝶は頷く代わりのように、縁珠の手にあったカチューシャにとまって――意匠へ帰る。
光る蝶が舞い踊る通りには、見たこともないような不思議な道具から、普段使えそうな小物まで――様々なものが揃っていた。
「この|世界《√》は好きなんだ、弟妹に読み聞かせした絵本の中みたいで」
目の前に広がる幻想的なパピヨン・オクルスの景色に、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は目を細める。
その様子に久瀬・千影(退魔士・h04810)は首を傾げかけて、はたとする。
「……そう言えば、最近は絵本にも勇者や囚われのお姫様、邪悪な魔法使いや、偉大なドラゴンの存在が語られるんだったか」
代々続く『怪異狩り』の家系で育てられた千影は、そういった読み聞かせを聞いた覚えがさほどない。
「ま、ドラゴンは話の中だけにして欲しい。あんなのを討伐するなんざ命が幾つあっても足らねぇよ」
「はは、俺もドラゴンは討伐したくないなあ」
軽く肩を竦めた千影に、ラムネも笑う。絵本やゲームの中のような世界――けれどそれがこの世界の常で、今目の前にも魔法具という形で揃っている。
(せっかくだから、久瀬と揃いのものが欲しいな)
ふとした思いつきが良い考えに思えて、ラムネはいっそう真剣に魔法具を見つめだす。
そんなラムネから、千影はいつの間にか離れていた。あるものに興味を惹かれたせいだ。
千影が見つけたのは、蝶の意匠が飾られた魔法の絵本だ。開けば籠められた魔法でオルゴールの音が鳴るそれは、店番の蝶に値段を問えば思ったよりは安かった。手早く蝶を捕らえて、千影は買い物を済ませる。
それからラムネのほうへ戻ると、千影を見つけてあからさまにほっとしたラムネの顔が見えた。
「久瀬、はぐれたかと思った」
「ちょっと気になるもんがあって。祭那は?」
「ああ、これ。揃いでどうかと思って」
そう言ってラムネが千影に示したのは濃藍色の下緒だ。揺れるたびに飾られた蝶の意匠が煌めくそれは、ちいさな星空のようでもある。
これ、と思わず千影はラムネの顔を見直す。――彼は千影が夜空が好きだということを知っていただろうか。教えた覚えはなかったけれど、
「久瀬に似合う気がして」
ラムネがそう笑うから、偶然だったのだろう。
「じゃあ、それで」
迷う理由もなく千影が即決すると、むしろラムネのほうが驚いた顔をしていた。構わず下緒を手に取って、逃げ出す蝶を捕まえる。
それにラムネも倣うように下緒を手に取った。
「お、っと」
ひらりと遊ぶように逃げ出した蝶を捕まえる。きらきらと煌めく蝶の軌跡が濃藍色に散って、一際星空のように見えた。
「ああ、やはりよく似合うな」
千影が下緒を無銘刀の鞘に結んでみせると思った通りだとばかりに笑う。
「……祭那」
素直に礼を言うより先に、千影はラムネを呼んで先に買っていた絵本を差し出した。
ラムネはきょとんとしていたが、千影は構わずその手に持たせるようにする。
「――やるよ」
それだけ告げる。
絵本の物語は、勇敢な勇者が攫われた孤児院の子を救う為に邪悪な魔法使いに立ち向かう、そんな光り輝く物語だ。オルゴールが鳴り、絵本を通して描かれた世界が立体的に浮かび、何処からか声がする――子どもたちが喜びそうな、魔法の絵本。
彼の孤児院の弟妹たちへの贈り物に、ぴったりだと思ったのだ。
「……もしかして、弟妹たちに?」
しばらくきょとんとしていたラムネだったが、絵本の中身を確かめて察したようだった。
けれどもあえて問う声に答えてはやらずに千影はきびすを返す。
「待ってくれ、久瀬」
その背を見ながら、ラムネはようやくはっとした。さっき千影がはぐれた理由はこれだったのだ。
(……嬉しい)
彼の心遣いが嬉しくて、胸が苦しいくらいで――どう感謝を伝えればいいのかわからない。
どれだけ嬉しいか言葉にできないもどかしさを抱えながら、それでもせめてとラムネはありったけの気持ちを言葉に込める。満面の笑みは心からあふれるように。
「ありがとう、久瀬。──本当に嬉しい」
第2章 集団戦 『バーゲスト』

●空から来たるもの
「嗚呼、なんて鬱陶しい……! 虫けらどもがドラゴンプロトコルの御方を隠そうとしている!」
空高く、まだ捕捉されぬその場所で、喰竜教団の教祖たるドラゴンストーカーは悔しげに歯噛みする。パピヨン・オクルスのいずこかに|殺す《すくう》ためのドラゴンプロトコルがいることは確かなのだ。けれどそれ以外の虫けらが多すぎて目標を定めることができない。
しかもあろうことか、あの虫けらたちは|真竜《トゥルードラゴン》の統べるべき空を手前勝手に飛ぼうとしている。
「ならば蹴散らせ、|黒犬の妖精《バーゲスト》たち! 空から虫けらたちを叩き落とすのだ!」
――空から数多の黒点が飛来するのに、パピヨン・オクルスへ訪れていた能力者たちはいち早く気づいた。
それが喰竜教団の差し向けたモンスターの群れだということも、すぐに察することができる。
やってくるのは獰猛な牙と爪を持つ|黒犬の妖精《バーゲスト》。悪意に満ちたその妖精たちは、執拗に標的を追い回す習性がある。
あれをパピヨン・オクルスの通りに降ろせば大惨事は免れない。しかし今すぐ人々を逃がすことも叶わない。
ならば、と能力者たちは露店で買い求めたばかりの魔法具を手にする。
一様に『飛ぶ』効果が籠められたそれは、翼なき能力者たちをも空へと運ぶ。
あるいは通りのすぐ傍にある塔を駆け上る者もいる。雲を衝くほど高く聳える塔は、空から来たるものを食い止め得る最終防衛線ともなるだろう。足場が必要ならば、塔で構えて問題はない。
元より空を自由に飛べる者は得意を押し付けてやればいい。
ひとつたりと、|黒犬の妖精《バーゲスト》たちの悪意を、空の下の平穏へ落とさぬように。
「あーあ」
青空の先に黒点を捉えた賀茂・和奏(火種喰い・h04310)からは、自然と落胆の声がこぼれた。
あれがなにかは――考えるまでもない。凶星よりもたちの悪い無粋なきらめきは間違いなく、話に聞いたドラゴンプロトコルを狙っている。このパピヨン・オクルスを楽しんでいる誰もを巻き込むことを厭わずに。
「せっかくいい天気で、皆さんも、ドラゴンプロトコルの子も、このよき日を楽しんでいるだろうのに」
当然、和奏もそうだ。その手には追いかけっこの成果たる蝶の手帳がある。逃げた蝶を追って飛んだ空はああも楽しかったのに、その先から身勝手な|教祖《ストーカー》が見ていたのだと思えば面白くない。
「お邪魔虫はどっちだろうね。……おっと」
低く呟いた言葉の端で思わず舌打ちが出そうになって危うく飲み込む。普段の業務外と思っていささか気が緩み過ぎた。
さて、と和奏は通りと空を見回す。空を仰いで動き出して見えるのは事を知る能力者たちだろう。まだ人々や標的とされる少女には気づかれていない。なら、そのままがいい。
「……力を貸してね」
和奏は手帳のおもての蝶をそっと撫でる。この綺麗な空を覆う黒を倒すために。そのねがいを聞き届けるかのように、手帳にいる蝶の翅が青に黄金に輝いた。途端、ふわりと足元から軽くなる――その魔法の蝶翅が宿ったのは、和奏のくるぶし辺り。
まるで背の領分は他にあるとでも言わんばかりの蝶の加護に、くすくすと和奏は肩を揺らす。青白の翼で追いかけたのを、よく覚えていてくれているらしい。
軽い身体を風に乗せるようにして、和奏は黒い群れ目指して空高く舞い上がる。互いに迫ればぶつかるのは早い。
「こっちへおいで」
獰猛な赤い目と牙をひらりと躱して、和奏はバーゲストたちのなかを飛び回る。群れが空の下へ向かうより先に、獲物はここだと示してやる。
風に乗るたび速度が上がる。その蝶の加護を得たまま、和奏は刀を抜いた。
和奏に気を取られたバーゲストたちは、振り抜いた刀身の軌道を追うように、一斉に標的を和奏に定めて襲いくる。その愚直なまでの凶暴こそがなによりも、
「――あーあ」
なんて見えやすい隙だろう。くつりと喉が鳴ったのは、身の裡で応えた神霊の悪戯か否か。雷を帯びた腕で和奏は握り直した刀を横薙ぎにする。
雷鳴もろとも、一閃がバーゲストたちの胴を斬り飛ばして、名残る黒点を吹き飛ばすようにごうと風が青空に吹き抜けた。
「わァ、黒犬が空に群れてるとか、あんまり見たくない光景なんだが……」
わかりやすく辟易して、緇・カナト(hellhound・h02325)は空を見上げた。黒妖犬と|黒犬の妖精《バーゲスト》――己の原点と類似の伝承を持つそれが使い走りとされて群れている様を見るのはなんとも言えない心地がある。
「おお、敵対したるは黒犬バーゲスト。飛行能力をうまく活かしているではないか。主もアレくらいの気合をみせてみたら?」
舌打ちを呑んだところで傍らのトゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)がくふくふ笑うから、結局舌打ちはしっかり出た。
「精霊だの妖精だの感覚は知らねェよ」
低く言いながら、カナトは通りのすぐ傍の塔を見つけて駆け出している。そっけない背を、トゥルエノもおやと追った。
「……冗談の通じないヤツよな。置いていかないでくれ給えよ」
「別に、平和主義者はムリに着いて来なくとも?」
軽口を交わす僅かなうちに、ふたりは塔を登り切る。
空の程近くに着けば、誘うまでもなく降りてくる群れがあった。
標的を程近くに見つけて、バーゲストたちの目が赤く輝く。
「来るぞ、主。我は飛び回ってくるゆえ、トドメは任せた」
言うや、トゥルエノは返事を聞く前に空を駆けている。雷獣のときほどではないが、魔法具のおかげで身も軽い。ひょいひょいとバーゲストたちの動きを掻き乱すように動いては、その鋭い爪を掻い潜る。執拗に獲物を追おうとするバーゲストたちは見る間にトゥルエノに翻弄され、咆哮と爪が空をきる。その注意が完全にカナトから外れたと見て、トゥルエノは唇に笑みを描いた。
「そろそろか。――なあ、万雷よ」
中心を塔と定めて、雷獣は|霹靂閃電《ミョルニル》を降り注がせる。激しく轟く万雷は空を埋め、避けようもないバーゲストたちを神の鉄槌の如く貫いた。
「変成せよ」
眩しさに過ぎる光の雨に面の下の目を細めて、カナトは灰狐狼の毛皮を纏う。バーゲストたちの爪よりも鋭利な|三叉戟《トリアイナ》を手に塔の足場を蹴り飛べば、標的は定める必要もないほどわかりやすく雷に磔にされている。
(主の機嫌取りにしてはいささか忖度が過ぎる)
けれども常より軽い体ごと、利用しない手もありはしない。加速を乗せて素早くしかし確実に一匹ずつ、バーゲストを貫いてゆく。手応えと、手応えと、
「主ー、爪、爪」
呑気な警告に身を躍らせて躱せば、撃ち漏らしたそれをトゥルエノの放つ光雨が貫く。カナトはトゥルエノへ一瞥を向けて、また黒犬を穿った。
ひとつたりと、空の下の平穏へ落とさぬように黒閃と光閃が交錯する。
パピヨン・オクルス――通りの一角で、玉響・刻(探偵志望の大正娘・h05240)はさすさすと落ちた拍子にぶつけた腰あたりをさすっていた。
「あう~~~」
いつもドジをしてしまう気がするけれどなぜだろう、なんてことを考えるより先に刻も敵の襲来を察知する。
「って、こんな事してる暇はありません! 急いで行動しなければっ!」
はっとして、刻は手にしたばかりのブローチをぎゅっと握りしめる。同時にふわりと身体が浮き上がった。
「わわっ、ちょっと難しい……けど、大丈夫ですっ!」
まだ慣れない空を飛ぶ感覚に身体がバランスを取り損ねそうになる。けれど先程の一閃の感覚を思い出せば、自然と身体は立て直すことができた。
目指す空には既に他の能力者たちの姿がある。充分それには注意することを自身に誓って、刻は再び黒い霊蝶たちを纏い――空に来たる黒い群れ目掛けてぐんと速度を上げた。
その勢いのまま、刻はバーゲストたちの群れへ突っ込むと同時に、鋭く刀を抜き放つ。
横薙ぎの一閃がバーゲストたちを薙ぎ払う。ごう、と風が鳴るほうが遅い。胡蝶が黒く舞ってバーゲストたちを死へいざなってゆく。
(狙い通り……でも問題は着地ですっ!)
刀を薙いだ勢いのまま空に放り出されると、また体勢を崩しかねない。けれど先程はちょっとばかり気がゆるんだからであって。
「とと、えいっ!」
傾きかけた身体を、かろうじて閃刀から逃れていたバーゲストの名残に刀を突き立てるようにして立て直す。
「よし、落ちませんでした!」
やっと飛ぶコツを掴んだのかもしれない。
刻はぱあっと笑いながら、刀を鞘へ収めてブローチへと触れた。
空から来るものを捉えて、一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)は軽く笑った。
「アッハァ、団体さんじゃん」
そろそろなにかしら敵が動くとは思っていたが、ここまで盛大な数で押し寄せるとは、半ばあきれてしまう。
「お店が繁盛するのは良い事だけど、あの数で押し掛けるのは流石にどうかと思うわー。……しかも、暴れるタイプの迷惑客でしょ」
ないわー、と肩をすくめてから、伽藍は買ったばかりの蝶の指輪とブレスレットを片手の指先で撫でる。
「早速だけど、お仕事よろしくね蝶々ちゃん。ふわっと頼むよ、なるべく高くね」
伽藍の声に応えるように、ふわりと身体が浮き上がる。空でやりあうなら、高く飛んでおいたほうがパピヨン・オクルスにも、周りの建物も被害が及ばないはずだ。――その考えはどうやら正しかったと、伽藍は空の高いところで獰猛な唸りをあげるバーゲストたちを見て察する。
「他のお客様の迷惑になるので出禁で~す」
べ、と揶揄うように舌をだして、伽藍は指に釘を揃えた。位置取りは問題ない。
「準備は良いかい? クイックシルバー」
銀光が応えるように瞬いて伽藍の指から釘を借り受けていく。黒い群れが悪意に塗れた爪を振り上げて迫るのに、伽藍は不敵な笑みを唇に乗せた。
「迎え撃つぜ!」
光を無数に分けたクイックシルバーが一斉に釘を放つ。多勢を相手取ることこそクイックシルバーの十八番だ。そのうえ今日は、
「破茶滅茶に調子が良いじゃねぇか! 釘追加、追加! ガハハハ、足んねぇなこれ!」
思わず気持ちのいい笑いが出てしまうくらいには絶好調だ。放たれた釘は過たずバーゲストたちを穿ち貫き、空に縫い留められるように次々とその獰猛な黒が青へと散っていく。
「刺されたいやつから前に出な! 逃げるならよし、そうじゃないなら――」
ドドドド、と最早弾丸の如く釘が飛んではバーゲストの群れを蹴散らしていく。既に正気でもない赤い瞳は、どれほど同類がやられても、狂ったようにその爪を振り上げる。空の下を目指そうとする。
ガァン、と音を鳴らして打ち込まれた釘が、黒犬の爪を空に縫い留めた。
「だーめ。ここで縫い留めたげようね」
悪戯に笑って、伽藍は青い空へ鋭い銀光を走らせる。
パピヨン・オクルスの通りを真っ直ぐ見下ろすように、その塔は佇んでいる。中は上にあがるための螺旋階段以外なにもない。いかにも|空想《ゲーム》の試練めいたその造りに五槌・惑(大火・h01780)は遠慮のない舌打ちを響かせて、数段飛ばしで階段を駆け上がる。
既に塔の中にはいくつかの足音がある。事態を察した能力者だろうというのはその慌しさで察するに余りあった。魔法だなんだと言うなら|便利な移動手段《ワープポイント》のひとつでも設けておけと改めて惑が毒づきかけたところで、ひらりと眼前に見覚えのある白が翻った。
「アンタはどこにいても目立つな」
顔を上げて名を呼ぶより先に、思ったままの感想が口をついて出る。色濃い影と外からの陽光が連続する塔のなかでも、前を駆ける白い男――僥・楡(Ulmus・h01494)の纏う白は目を惹いた。
「意外なとこで会ったわね。惑ちゃんも綺麗で可愛いものがお好きなの?」
振り向いた楡は青い瞳を丸くして、そのまま悪戯に細める。わかりやすく遊ぶ声色に、しかし惑は呆れもせずに更に階段を雑に飛ばす。じきに上に出るだろう塔の外では、既に戦闘音が聞こえ始めていた。
「俺も仕事の仕入れぐらいする。試しの時間も貰えるなら、これ以上ねえ」
「あらぁ、夢のない回答!」
「逆に夢のある回答はどんなだ」
「そりゃあねえ。みんな好きよ、ギャップってやつ。まあ蝶をニコニコ追いかけてる惑ちゃんは……怖いけど」
「知るか。逃げ続けるなら動けなくしてやるまでだ」
にべもなく返せば、働かせすぎでまた蝶に逃げられないよう気をつけなさいね、と楡が笑うと同時にふたりは塔の一番上に出る。
途端に強く吹き付けた風は髪を弄って、その勢いに乗るようにバーゲストたちが塔を掠めて空を駆け下りていく。獰猛な唸りをあげ、鋭利な爪角を備えた黒犬たちを目で追って、楡はあらあらと頬に手を当てた。
「空を飛ぶにしては角も爪も可愛くないワンちゃんだこと。それ、お買い物には不要じゃないかしら」
ちょっとお仕置きしてくるわ、と言うや、楡は欠片も躊躇いを見せずにひょいと塔の上から飛び降りた。
|魔法具《飛ぶすべ》はあるが、今は落ちるほうが目的だ。楡は空を下ろうとするバーゲストたちの脳天に、落下の勢いごと蹴りを、拳を叩き込む。
「動かないでね? 足場ちゃん」
動けないでしょうけど。笑って蹴りつけたついで、既に動かなくなった黒犬を足場に次の頭を潰す。
その頭上に影が差した。振り仰ぐと同時に自由落下を飛翔へ切り替える。群れなす黒犬の追加を蒼天に認めたところで、塔の上から噴きだした火柱がバーゲストたちの行く手を阻んだ。
敵が怯んだ隙に楡は高度を戻しがてら、塔の上で身を潜めた惑を横目で捉えた。
「ありがと。見下されるのって好きじゃないのよ」
「だろうな、気が合ってなによりだ」
言いながら惑の視線は楡から逃れたバーゲストを追っている。上空から降る火柱は過ぎた熱で空を白く灼いて、逃れることを許さない。それでも尚逃れようとするものがいるのは多勢ゆえ。
「やあね、まだいるわ。適当にこっちに戻すから、あとお願いしていいかしら」
「構わねえよ。まだ試してねえこともある」
惑の応えを得て楡が再び空を駆けた。組紐で首輪をつけられた黒犬たちが、ぞんざいな勢い任せで惑のほうへ蹴り飛ばされて来る。
「……楡のやつ、派手だな」
思った以上の勢いで迫ってきたそれを、惑は僅かに眉を顰めて斬り払った。そのまま誘うように塔の内側へ駆け込む。上部の造りは煉瓦――うってつけだ。
外側をいささか吹き飛ばしながら突っ込んでくるバーゲストを躱し斬り払いながら更に数を誘い込む。無粋な角が煉瓦をがりと搔いて、その背が不可視の防壁で塞がれた。仕入れたばかりの反射の護りのそれ。
「護りにしか使っちゃいけないって決まりはねえしな」
刹那、噴き上がった火柱が塔上部の一角を満たしてバーゲストたちを焼き払う。
外からは正しく焼却炉めいて見えた光景に、派手ねえと楡はまばたいた。
「灰一つでも残るといいわね。……無理でしょうけれど」
予想通り、後に残る炎の中からしれっと顔を見せたのは惑のみだ。実戦にも悪くはないと、蝶の飾る耳元に髪を掻き上げて。
「|黒犬の妖精《バーゲスト》……妖精?」
空から迫る黒点を視認できる場所まで行って、茶治・レモン(魔女代行・h00071)は至極怪訝な声色になった。
その名は妖精や魔法に纏わる伝承にも聞くものだが――実際のその姿はといえば、恐ろしい角と爪を持ち、そして燃えるような赤い目をした黒犬にしか見えない。
「もっと可愛いのを想像してましたが、野蛮そうでがっかりです」
素直に小さな肩を落としながら、レモンは買い求めたばかりのレターセットを取り出した。
(これもまた、手紙に書く話にはなりますね)
まだ白いばかりの便箋で遊び飛ぶ蝶に少し瞳を緩めて、レモンはそっと呼びかける。
「『パピヨン・メサージュ』、僕に力を貸してくれますか?」
応えはふわりと身体が浮き上がることで感じられる。最初はやわらかく、次第にぐんと高度が上がる感覚は、どこか楽しい。ただの魔法具――けれども、この子はレモンの声を言葉を聞いていてくれる気がした。
「あの黒犬から、綺麗な空を取り戻しましょう!」
声に応えて遊ぶかのようにレモンの身体は青空のなかで風に乗り、空から来たるバーゲストたちと対峙する。
レモンの得意はどちらかといえば遠距離戦だ。その距離を詰めきられる前にと、レモンは蒼天に手を掲げて頼もしい味方を召喚する。数の暴力には数で対抗しなければ。すなわち、
「|二足歩行する人参《マンドレイク》! 発射!! あの黒犬たちと遊んで来なさい!」
空に現れたのはマンドレイク――ご機嫌に二足歩行する無数の人参の姿のそれである。いつも通り元気よく発射されたそれは、凶悪なバーゲストたちを恐れもせずに突撃していく。鋭い角に牙に突き立つ人参たち。わいわいと群がるそのさまはバーゲストたちの悪辣を一瞬でファンシーに塗り替える。
戦闘の緊張感はもらっておきましょうね。うむうむと頷くレモンが見つめる先で、それにしても今日は一段とマンドレイクたちの活きが良い。すごくいい。なんだかいつもより機動力が段違いに――。
「……えっ、発射したマンドレイクが、飛んでる……!?」
よく見てレモンのほうがぎょっとした。いつもの二足歩行の人参たちの背中に羽が生えているのだ。蝶のそれによく似た光翅は、おそらく魔法具の恩恵――なのだろうか。それはまあ、ありがたい。ありがたいのだけれども。
「うーん……これは思ったより、絵面がひどい!!」
羽の生えた人参たちに一斉攻撃を受ける空駆ける獰猛な黒犬たち。マンドレイクたちも空を飛べるのは楽しいのか、もういっそはしゃいで黒犬たちに絡んでいる気さえする。いくらドラゴンファンタジーといえど見ない絵面だ。というか見たくない絵面だ。遊んで来なさいとは言ったものの。
「一刻も早く倒して解散しましょう。マンドレイク! 遊ぶのやめなさーい!」
レモンの号令でマンドレイクたちが改めてバーゲストたちを愛らしいまま駆逐する。それを見届けるように、便箋から顔を覗かせた蝶がぱたぱたとレモンのそばを飛んだ。その様子に場違いな安堵を覚えてしまう。
「空を舞うのは黒犬でも人参でもなく、やっぱり蝶が1番可憐です」
「せっかくなので飛んでみちゃおうかなっ」
宣言するように廻里・りり(綴・h01760)が言ったのは、急に通りから飛び立つと何も知らない人々が空の上の戦いに気づいてしまうかもしれないと思ったからだ。
「……た、たのしそうだからとか、そんなことはないですよ? ほ、本当ですよ?」
「ふふ、楽しい心は良いものよ」
りりが慌てて付け足した言葉に、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)も察して、くすくすと笑いながら行きましょうかと頷く。ふわりとふたりの身体が浮き上がった。人々はそれを気に留めない。
「ワタシもあなたと空にいるのは、実のところ嬉しいの。――今度、空にお散歩に行きましょう」
秘密を告げるように唇に指を立ててベルナデッタが微笑むと、りりはぱあっと表情を輝かせた。
「わぁっお散歩すてきですね! 約束ですよ? よしっ、はりきっていきましょう!」
青い蝶が添う、買ったばかりの靴と帽子を身に着けて、りりは空へ上がりながら、くるりと回ってみせる。
「それにしても、すてきな子たちをお迎えできました! ベルちゃん、ありがとうございます!」
「ふふ、似合っているわよ、りり。……ワタシも素敵な出会いに恵まれてよかったわ。ありがとう」
贈ったベレー帽を被って嬉しそうにはしゃぐりりに目を細めて、ベルナデッタも空へ導いてくれる赤い蝶が寄り添う鞄を撫でた。これはりりが贈ってくれたものだ。
眼下のパピヨン・オクルスの通りは、ふたりで回ったときと変わらず楽しげな賑やかさであふれている。蝶の導きで数多の魔法具のなかからこれぞという出会いを見つけるのは宝探しのようで、空を飛べるのだってわくわくする。みんな楽しい思い出を作りにきているのだ。――それなのに。
風と迫る空の上では、もう戦いがはじまっている。近づく黒い群れをりりは油断なく見上げた。
「こんなすてきな場所を荒らすのはだめです。かならず止めてみせますよ」
「そうね、ここで食い止めましょう。……穏やかな日々を壊すだなんて、とっても悪い子。許してあげられないものね」
あなたもそう思うでしょう、とベルナデッタは鞄の紅翅に触れる。――伝う記憶は鞄が露店に並びながら見た穏やかな日々の象徴だ。それを壊すことを許さないのは同じだと言わんばかりに、ベルナデッタの手に黒い弓矢が預けられる。
「お仕置きよ、子犬。かかっていらっしゃい」
まずはあなたたちから。ベルナデッタが番えた矢は容赦なくバーゲストたちを次々と穿っていく。それでも距離を詰めようと突っ込んでくる黒犬を|黄昏《クレピュス》が不意撃つ。
「乱暴者は好きじゃないの。許してあげない。……許される気もないでしょうしね?」
「そうですっ、わるい子にはおしおきですっ」
充分にベルナデッタがバーゲストたちの注意を引きつけたところで、りりはバーゲストたちの行く手を塞ぐように飛んで、『あおいとり』たちを放った。
青い空に青い羽根が美しく羽搏く。風に乗る鳥たちはその美しさには似合わぬまでの鋭さで、黒い群れを一斉に蹴散らした。それでもまだ、空には黒点が残る。
一瞬瞳を交わしたりりとベルナデッタは、頷きあってさらに空の上へと飛んだ。
「未来の約束の為にも、ここはしっかりしないとね?」
「はい!元凶さんもしっかりやっつけましょう! みなさんのたのしい時間をこわすのは、ゆるせませんからね」
青い空がしあわせを呼ぶただの青で在るように、ふたりは赤と青の蝶を揺らして空を飛ぶ。
「いややわ、虫やなんて」
空の上――未だ見えぬ教祖が喚く声を微かに捉えた気がして、繰廻・果月(御伽語の歌唄い・h07074)は心外そうに息をつく。
「アタシは羽根はあらへんけど、鳥系の妖怪の半妖やで?」
せめて小鳥くらいにしてくれへんやろか、と空を見上げた果月のつぶやきを耳に留めて、ナギ・オルファンジア(■からの堕慧仔・h05496)も空を仰ぐ。まだ遠い空には、放たれた悪意が黒く広がろうとしていた。
「ふむ、確かに騒がしいこと。喰竜教団にはこれといって興味はないのだけれど、|蝶々さん方《パピヨン・オクルス》に被害があってはいけません」
「せやねえ。楽しい催しを台無しにして、なんも知らへん子を攫おうやなんて……せっかくの日に悲しいことやないの」
何気なく言葉を交わして、ふたりの視線はすいとそれぞれの持つ蝶の意匠の魔法具へと向かう。敵は空、出逢った魔法具には元より『飛ぶ』魔法が籠められている。
「ああそうです、初陣と行こうか! ねえ、君」
「ほな、蝶々さん……アタシらも。最初の冒険やから気張ろな」
ナギの手には蝶の煙管があり、果月の手には鈴と蝶の揺れる黒と金の組紐がある。持ち主の声に応えた魔法具はふわりとふたりの身を空へ飛ばせた。
(……あ、行っちゃった)
ナギと果月が空へ上がるのを、一文字・透(夕星・h03721)は声をかけそびれるままに見送ってしまった。仕事でまで人見知りを発揮している場合ではないのだけれども。
(どちらにしても……空を飛びながら戦うのは、自信ない)
透は当然これまでの訓練を足場のある場所でやってきた。急にそれをなくして立ち回れるかと言われると、不安が大きい。それでも飛んでみたい好奇心ばかりはうずうずとしていたから、自分用の魔法具も準備はしたのだ。装丁の綺麗な魔導書は、小説仕立てになっているらしい。それはともかく。
「……私も行かなきゃ」
透も通りのかたわらにある塔へ駆けこんだ。
浮き上がる身体を風が受け止める。それに慣れた様子でひらりと乗って、ナギはかたわらの塔を横目にさらに高度を上げていく。
「ナギは『飛ぶ』のも慣れていますので。塔が防衛線ならば――更に上のほうを」
「アタシは戦うんは得意やあらへんから助かるけど……気ぃつけてな」
塔の上あたりで高度を止めた果月に無表情のまま軽く手を振って、ナギは雲を突き抜ける。
途端、黒犬の群れがナギを見つけて一斉に唸りをあげた。空の高い場所の澄んだ空気を楽しむ間もなく、ナギは煙管片手に突っ込んできたいくつかを躱す。
「黒い犬かぁ。ちょっとかわいいけれど、本日は捕獲は諦めます」
残念そうに呟いて、さて、とナギは視線を煙管へやった。
「君は『帰蝶』と名付けようね。上手に誘ってくれるかい」
この煙管ならば火がない場所でも関係はない。ほうと吐き出した煙は蝶の形を取って、ひらりひらりとバーゲストたちをおびき寄せる。
つられて寄った黒い群れはしかし、ほんの一瞬あとには下方から突き抜けた鈍色の影に切り裂かれていた。
「引き続きよくできました、御門くん」
言う間にナギが構えたシリンジシューターから|注射器《だんがん》がばら撒かれる。影から逃れたものも帰蝶に追わせてなるだけ逃しはしないが、狙いは上空で毒や麻痺を蓄えていってもらうことだ。なるべく多くを弱らせれば、塔での防衛も容易いだろう。狙い通り逃れてゆく黒犬たちの動きも鈍ったのを確かめて、もう一度ナギは帰蝶の煙を吐いた。
「あとは下の方々にお任せしましょう」
ひとつ雲の下で、滔々と語る声が響いている。
「――神であったことを忘却され畏怖された者達が隠れ住む島がありました」
語る果月の声に合わせて、空にうつくしい島の風景が広がっていく。
「『隠ヶ島』に住んだ神様らは、なにも最初から隠れたかったわけでもない。隠れ住むしかあらへんかった神様たちと、その末裔なんやけど……ああ、やかましわんちゃんらやなぁ」
獲物を求めて荒れ狂うバーゲストたちは噺に耳を傾ける素振りもない。けれど果月の広げた御伽草子の空間に入ってしまえば、その動きは酷く鈍る。神秘的な景色に満ちる破魔のちからは、黒犬たちの悪意には毒のようなものだ。戦いは得意ではないが、守ることならめっぽう得意と言っていい。
バーゲストたちの動きが鈍ったのを確かめて、果月は語り開いた島のなかで悠々と語りを続ける。敵には毒でも味方には穏やかな癒しだ。上で戦うナギにも、下から追いつく味方にも果月の空間は空のなかの休息――止まり木のように広がってゆく。
「わ……、島……?」
少し遅れて塔の上に駆け上がった透は、空のなかに浮かぶ島を見た。目を丸くしている透に、果月はひらりと浮かびながらに手を振る。
「おやま、いらっしゃい。わんちゃんら以外には悪いもんちゃうし、好きに出入りして回復してってくれたらええよ」
足場にもなるし、攻撃も当たりやすいし、と朗らかに言った果月に、透は少しぽかんとしてからこくこくと頷く。足場の心配をしていたが、これなら大丈夫かもしれない。
「じゃあ……その、お邪魔します」
塔の壁を走るようにして、透は果月の開いた空間へと飛び込む。
「こっちにおいで」
既に動きの鈍いバーゲストたちを香りで誘えば、白露が奇襲をかける。とはいえ驚かす程度――けれど、それでいい。
悪辣な牙が開くその前に、透は動きを止めず死角から苦無を投擲する。ナギや果月のおかげで、どれも酷く狙いやすかった。黒犬の頭を、過たず苦無が潰していく。
空に作られた島は常と変わらず身体を支えてくれたし、上空から逃れてくるバーゲストたちの動きは見えやすい。しかし数はどうしてもあちらが上だ。
危うく囲まれそうになったところで、透は空へと飛んだ。――身体は軽く、足裏は空をつかむ。
「……飛べないと思った?」
ふわりと身体が、心が浮くようだった。楽しい、と掠めた思考に自分で驚きながら、透は無防備なバーゲストたちの背後を苦無で一閃に薙ぐ。
お見事、と語り仕舞いに笑った果月の声が風に攫われて、空の上からナギの煙蝶がひらりと舞った。
「蝶々さん、力を貸してちょうだいね」
金色の蝶が翅を広げる青い魔導書を撫でながら呼びかけて、シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)はライラックの翼を広げた。
ひとつ羽ばたくだけで、いつもよりぐんと高く空へ飛び込める。こんなときだけれど、頬を撫でる風が心地いい。このままどこまでも飛べてしまいそうで、シルフィカは思わず笑みを浮かべた。すてきな魔法だと思う。
(魔導書の|物語《まほう》はどんなものかしら。……読み解けば、もっと高く飛べるのかしら?)
魔導書には飛ぶ以外にも、物語として魔法が籠められているようだった。ちらりと触れた冒頭では、空に咲く花を探しにいく少年と少女が描かれていたはずだ。ゆっくりとそれを読むのも楽しみだけれど。
「御機嫌よう、物騒な犬さんたち。……綺麗な空を穢そうとしている邪魔者さんには、さっさとご退場願うわね」
さらにもうひとつ羽ばたいた先で、シルフィカは空駆ける黒犬の群れと邂逅する。晴れ空のようなターコイズブルーの瞳のいろを深くして、シルフィカはふと笑みを消した。迫るバーゲストたちを躱し、大きく翼を翻すようにして旋回する。
「追いかけっこをしましょう」
ほら、と誘って高度を上げる。空の高いところで陽光を浴びた竜の翼の輝きがよく見慣れたものの気がするのは――思い込みか、|消えた記憶《ドラゴン》の名残だろうか。どちらにせよ、それはかの教団にとって魅力的なもののはずだ。
「あなたたちの御主人様が欲しがってるんでしょう? ――喰らいついてご覧なさいな」
挑発的な声色と竜の羽ばたきを一際大きくして、シルフィカは一息に飛ぶ。すると勢いに乗せられたのか、あるいは標的を誤認したのかは知れないが、バーゲストたちの大群がシルフィカのあとを追ってくるのがわかった。
速度を上げる。なるべく街の上空から引き離すためだ。バーゲストたちは獲物を執拗に追い回す習性がある。目の前の獲物を見逃すまいと踏んだのは正しかった。
「ほら、わたしはここよ」
飛びながら抜いた精霊銃の銃口をひとかたまりになって追ってくる黒犬の群れへと向け放つ。煌めく炎花と咲いた弾丸は花火の如く爆ぜながら、バーゲストたちを焼き尽くしていく。伸ばされた凶爪はシルフィカに届かない。
燃え尽きる前に空から墜ちようとするのも許さない。理性なく向かい来る追手にも、シルフィカは迷わず引金を引いた。
「全部まとめて|焼き尽く《はなに》してあげるわ」
空を埋める黒が、青空に眩しい煌花と散り落ちてゆく。
ふんふんとつい鼻歌をこぼしてしまいながら、ネルネ・ルネルネ (ねっておいしい・h04443)は上機嫌な足取りをさらにぴょんと跳ねさせた。
手にしている箒には、お洒落な虫籠が吊るされている。中には虫籠にぴったりの、パタパタ翅を羽ばたかす蝶の模型――パピヨン・オクルスでの戦利品があった。
「んふふふ、模型と一緒に虫籠も買っちゃった!」
ぎゅっと箒ごと虫籠を抱きしめると、ネルネのそばの人工精霊がピカピカと忙しなく光る。なにか言いたげ――というより、十中八九、九分九厘文句か小言なのは察して余りあったから、ネルネはさっとフローラから視線を逸らした。
「だってぇ、セットでお安くって書いてたからぁ……」
大きな買い物をしたあとの狂ったままの金銭感覚でいえば、それは確かに安かったのだ。元気よく即決した。そして財布はからになった。気にしてはいけない。誤差ということにしておこう。
「でもいい買い物したよね、へへ……」
買ったばかりの魔法具は、見ればみるだけ顔が緩む。――とはいえ、いつまでもそうもしていられない。
振り仰いだ空高く、そこから敵はこの通りを目指して降りてこようとしている。
「空を飛ぶのは僕らの十八番! 行こうヴィヴィアン! さーて、お仕事頑張るぞぅ〜!!」
虫籠を揺らす箒に乗って、ネルネは一息に空へ飛んでゆく。
「なにあれぇ〜。すごいトゲトゲ! 痛そう〜!!」
勝手知ったる空で箒を止めて、ネルネは空からくるバーゲストたちを観察する。身体中の角と凶悪な牙と爪、燃え上がるように赤い目の、黒犬の妖精の群れだ。
既に戦いははじまっている。能力者たちは魔法具などを駆使して、あの物騒なモンスターを空で食い止められているようだった。多勢に無勢をものともしない思い切りのいい戦い方を観測して、ひゃあと声が弾む。
「すっご〜い! 誰も痛そうになってなぁい! でもそうだよね、当たらなければどうということはないよね!」
そういうことならと、ネルネはまだバーゲストたちと距離があるうちに詠唱をはじめる。それを重ねて重ねて、さらに重ねて。ネルネの周りの空には魔法陣が無数に浮かんだ。
「――いっくよ〜! フレミーちゃん! 弾幕厚めでよろしくねっ」
空に浮かぶ無数の黒点めがけて、一斉に色とりどりの炎が駆ける。
遠距離から不意を衝かれたバーゲストたちは群れの横腹にまともにそれをくらった。
「うんうん、いい子だねえフレミーちゃん! フローラちゃん、サポートお願い!」
ネルネの声を受けて人工精霊が隙を埋める。青空を鮮やかな色彩が飾り付けていくように、ネルネの魔法は楽しく弾んで、空の不穏を晴らしていく。
「むん! むい! むう!」
ちいさな翼をはためかせながら、ララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)はぴょこぴょこ跳ねる。
けれどもさっきと、はじめてほんの少し飛べた瞬間と同じようにしているのに、身体は浮いてくれない。|魔法具《羽飾り》は同じに力を貸してくれている。けれどまるで、翼に鍵をかけられたように上手くいかない。浮き上がろうとするのに、何かが魔法の力をも阻害しているように、足先が地面から離れると、ぐんと引き戻されてしまう。
「……なぜ?」
ぷく、とララの両頬が大福のように膨れかけたところで――ひょい、とララの身体が浮き上がった。
飛べたわけではない、かたわらで見ていた詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)の腕に抱え上げられたのだと収まり慣れた感覚ですぐわかる。イサはララを抱いたまま強く地面を蹴って、高く空へ跳び――そのまま|魔法具《アンクレット》の力を借りて空を駆け上がる。
「イサ? お前、飛べたのね?」
「しっかり掴まってろよ。……俺は海戦用なんだ、空は専門外なんだからな」
そう言いながら、ララを抱くイサの腕の力はしっかりと強い。細くて頼もしい腕にララもぎゅっと掴まって空を見上げた。あんなに遠かった空が、あっという間に目の前にある。飛べない|雛女《迦楼羅》でも、|護衛《シュバリエ》と一緒ならここまで来れる。
「……少しは見直した?」
「ふふ! さすが、お前だわ。……あら?」
空の青を眩しく映してきらめいたアネモネの瞳が、よく知る|青《いろ》を見つけたのはそのときだ。
白兎の耳と白い髪が星青に靡く。五芒星が刻まれた真新しい箒に乗って魔女のように飛ぶのは、
「ラズリ?」
「……えっ? ララ! 来てたの? イサも飛べたのね」
「それ、いまララにも言われた」
「鴛海さん、どうかし……あ」
「あら、セレネも一緒だったのね」
先んじて空を飛んでいたのは鴛海・ラズリ(✤lapis lazuli✤・h00299)とセレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)だった。見知った顔を偶然見つけて驚きで顔を見合わせた四人は、ふと笑い零す。どうしてどうやってここに、なんてことはそれぞれに添う蝶の意匠で一目瞭然だった。
話したいことはたくさんある。けれども今は――眼前に迫るバーゲストたちが優先だ。
獲物を定め吶喊してくる黒い群れを、ひらりとラズリが箒に乗るまま飛び躱す。空を飛ぶのは得意なのだ。だってラズリは『そういうふうに』作られているから。それに、買ったばかりのこの箒もよく馴染む。
「ふふ、蝶々さん、力を貸してね。――こっちなのよ、悪いわんちゃんたち!」
ラズリはくるくると自由自在に空を飛ぶ。ついはしゃぐ心地になるのは、空が心地よくて、新しい魔法がよく馴染んでいて、そしてそばに友達がいるからだ。
「セレネ、杖はどう? 私、はしゃぎすぎてる?」
「ふふ、頼もしいです。……私も空とは馴染みがありますが、この杖は更に力を与えてくれます。でも、鴛海さんほど上手く飛べるかは」
「大丈夫、セレネには綺麗な翼があるもの。きっともっと高く飛べるのよ」
行こう、とふわりと微笑んで、ラズリは誘うようにまた空を飛ぶ。それと共にセレネも翼を羽搏かせた。
「……楽しそうにやってる」
本領とばかりに飛び回るラズリたちに、イサもつい頬を緩めた。空は専門外だが、いいお手本がそこにいてくれるなら心強い。アンクレットの加護も上々だ。
「ララたちも行きましょう。イサの両手が塞がっているぶん、ララが頑張るわ」
楽しげにラズリたちを見ていたララもつられるようにはしゃぐ心地があった。はいはいとその声に頷いて、イサは空を游ぐ魚のように飛び駆ける。
「お前たちは墜ちなさい」
眼前に迫ったバーゲストの群れを金翅鳥の群れが灼ける焔を纏って包むように穿ち啄み焼き祓う。花一華の萼はララとイサを守り開いて。
「――おいで、流れ星」
次いだ黒犬の群れを、ラズリの呼んだ流星雨が降り穿った。それに寄り添うように氷龍の涙の如き雹鱗が降り注ぐ。
降り止まぬ眩さで空を埋めながら、バーゲストたちへ、セレネはそっと告げる。
「ここはあなたたちが好きにして良い|場所《そら》ではありません。――|世界《そら》の嘆きに、耳を傾けてください」
願ったところで、理性なき獣は声を聞き届けはしない。
獰猛で執拗な角が、爪がイサとララを追い、振り上げられようとした刹那、レーザーが貫いた。
「穢らわしい獣め、聖女サマに近づけさせるかよ!」
海鳴りが空の青を呑み、惑わされた黒犬たちをイサの放つレーザーが薙ぎ払っていく。
「そうよ、わんちゃん。地上にも――ララのところにも行っちゃだめ。ここでマテ! なのよ。ね、セレネ」
「ふふ、ええ。どちらへも行かせません」
風に乗って飛ぶラズリの手に引かれたセレネの手にある杖が六花を呼んで黒犬たちを牽制し、それを金翅鳥の群れがきれいに焼いて、星が攫っていく。
「それにしても……鴛海さんは、わんこさんの扱いに慣れているようですね」
「そうかな? いつも元気すぎる|子《白玉》と一緒だから、かも? ……今はセレネも、イサたちもいるもの」
空の中でラズリはイサたちへ手を振る。イサの腕の中にいるララが手を振り返してくれた。
「はは! 空を游ぐっていうのも案外悪くないな。……ララ?」
イサにとっては慣れない空の青も、ララを抱いていることで生まれる不利も、得意とするラズリやセレネたちがいれば怖くはない。むしろ楽しかった気がして笑えば、腕の中でララがさらに空の高いところを見上げていることに気づいた。
ララはすうっと深く息をする。蒼天を憶えるように、動かない翼を風に靡かせる。幼いアネモネの瞳は、届かない空の先を見据えた。
「――いつか、この空を、ララ自身の翼で飛んでみせるんだから」
意地と矜持と願いと祈り。そのどれもに似た声音で、ララは空へ告げる。それに、イサもやわらかく微笑んだ。
「……ララ、飛べるよ。そのときは、俺も隣にいたいな」
共に願うように囁く。小さな迦楼羅の翼にある羽飾りが、淡く輝いて花を揺らした。
蒼天の彼方から聞こえた|元凶《ドラゴンストーカー》の声にはあきれるばかりでいっそ笑みが浮かんだ。
「空は真竜やドラゴンストーカーの所有物ではなく――」
真面目に言いさした言葉を、アダルヘルム・エーレンライヒ(月冴ゆる凍蝶・h05820)は中途で喉に引き留める。そのままちらりと横目を友へとやって、
「ほら、空は恐らくツェイ殿の支配下だ」
すっかり冗談混じりに得物を構えた。
一瞬呆けたのは唐突にとぼけられたツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)のほうである。
「うん? うむ……ええとー、そう、我こそ宙を統べる妖なるぞ」
いかにもそれらしい声音を作ろうとはしてみるが、そもそも言った張本人がまだ空の彼方でこちらは地上とあっては、さっぱり格好もつかない。
面映ゆさにじわじわと眉間に皺を寄せて、ツェイはアダルヘルムをじとりと見る。
「適当げな物言いが過ぎぬかアダル殿。おかげで滑り気味である」
「ふは、気のせいだろう」
軽く笑ってアダルヘルムは空と、パピヨン・オクルスで手に入れたばかりの魔法具を確かめる。
「知性溢れる脳筋なツェイ殿は飛ぶ方が得意だったよな?」
「ひとことのうちに矛盾をしてみせるでない」
「ふはは! ともあれ、頼りにしているぞ。――さあ、狩りの時間だ」
アダルヘルムの眼光が鋭く空を見据えて、その足が地を蹴り飛んだ。それに続いてツェイも髪留めを起こすように袖で撫でて空へと上がる。飛び慣れた身体は、いつもより軽やかで都合がいい。
「承知」
勢いよくふたりが駆け上がった空の上では既にバーゲストたちとの交戦が始まっていた。新たに姿を見せたふたりへ、黒犬たちはその獰猛な視線を向ける。
その視線を隣の友へと向けさせるように、ツェイはひらりと袖を靡かせた。
「――えー、其処なアダル殿は烈風の騎士と名を馳せておる」
「は? おい待て」
初耳だ、とアダルヘルムが面食らうのにも構わず、ツェイは好々爺と笑う。
「雄姿とくと御覧あれ、とな」
言うなり、ツェイはひらりと空を悠々駆け游いだ。それに一歩遅れて、アダルヘルムも空を駆ける。それにしても。
(なんだ烈風の騎士とは……先程の仕返しだな……!?)
そう戯れを察せど、既に敵は方々にいる。文句を言うより先にアダルヘルムは大剣を黒犬の群れへ振り下ろし、同時に飛び離れた。ごうと吹く風に紛れる砂塵がその姿を隠し、次の一撃をも隠す。不意に飛び込み、離れを繰り返すのはいかにも愉しい。
「逃さんよ」
その背を狙うバーゲストの群れを灼き焦がす白群色の熱風が押せば、更に一撃の強さは増す――ものの。
「――しかしツェイ殿よ、俺を何処まで飛ばす気だ!?」
「うむ? 行き先は風に聞いておくれ」
一際強く自由に空を突き抜けるツェイのもたらす風が、黒犬たちを、アダルヘルムを空の青へ吹き飛ばす。
「ツェイ殿!?」
「ははは、上手く乗りこなされよ」
きゃらきゃらと楽し気に笑い声をあげてから、ツェイは見る間に姿を青に消した友の行く末を見つめて、口元を袖でひそりと覆った。黒犬らの爪ひとつとてかの地を踏むことは許さない、とはいえ。
「……少々強すぎたかもしれぬのう」
――それからしばらくののち、無事にアダルヘルムはバーゲストたちを踏み台にツェイのところへ戻ってきた。
「で、ツェイ殿主催のアダル殿飛ばしの競技は新記録更新となったか?」
「うむ――史上初最高記録である」
満足げにツェイは笑う。更に記録を伸ばす機会は、あってもいいのかもしれない。
「うわぁ……強そう」
空に捉えたバーゲストたちの姿に、望月・翼(希望の翼・h03077)は素直な感想を零した。けれどだからこそ、このパピヨン・オクルスに降ろしてはいけないとも思う。
「ここは頑張って食い止めなくちゃだね!」
「つーか、妖精ってガラかよ」
頷きが返るかと思って翼が見た先で、春待月・望(春待猫・h02801)は空を見上げて目を細め、ち、と小さく舌打ちした。それからすぐ翼のほうに視線を戻して、何、と首を傾ける。
「ううん、頼もしいなって。ね、魔法具の『飛ぶ』魔法は望くんが使ってよ」
さすがに姿を変えたままの戦闘はきついでしょ、と翼はガラスペンを望へと差し出した。
「できれば壊さないでほしいけど……さすがに厳しいかなぁ」
「なんで。壊さないよ。――とりあえず借りる」
苦笑した翼の手からガラスペンを受け取って、望は空へとふわりと飛んだ。
あっという間に上昇していくその姿をつい見送りそうになって、翼も慌てて護霊へと呼びかけた。
「カフェオ、オレに力を貸して!」
翼の呼び声に応えて|珈琲色の獅子《カフェオ》がその姿を顕した。頼もしい背に乗れば、カフェオが空へと駆け出す。
あっという間に青空が迫った。同時に黒い群れが広がり、そちらへ向かって躊躇なく近づいてゆく望を捉える。
望はバーゲストたちの群れに正面から突っ込むようにして、鬼を思わせる漆黒の縛霊手を振り抜いた。手応えは確かで、同時に身体への反動も大きく感じる。
しかし止まってはいられない。囲まれる前に身体を逸らしてその爪を躱す。
「望くん、右側!」
後方から飛んできた翼の声で、半ば勘まかせで動けば、そこを凶悪な牙が掠めていく。あとに見つけた隙に拳を叩き込みがてら敵の攻撃を無効化して一度離脱した。
そのあいだに、白い輝きが望を包んで癒す。――翼の護霊のものだとすぐにわかった。
カフェオが駆けて、やや後方から翼が叫ぶ。
「望くん、大丈夫? 無茶しないでね」
「今はな。……けど、もしいざとなったら回収頼む。敵寄せるから、離れてろ」
早口に告げて飛ぶ速度を上げると、翼が察して離れていく。それでよかった。万一でも、あちらに攻撃を向けさせたくはない。
バーゲストたちの動きを見ながら、望は敵を誘い込む。躱しきれない攻撃は舌打ちで耐えきった。飛び駆けて拳を振り抜き、望は動きを止めることなくひとつでも多くの黒犬を屠っていく。
「――望くん!」
気づいたときには、望はカフェオの背に受け止められていた。どうやら無茶を通し過ぎたらしいと知るが、見上げた空はどうやら青い。青ざめるような翼の顔はいただけないが、そちらも傷はなさそうだ。
無茶しないでって言ったのに、と心配そうに零す翼に、ふいと望は顔を逸らす。そのまま、片手を翼の腹の辺りに押し付けた。
「……あれ、これ」
「ガラスペン。壊してないから」
それだけ言って一度目を瞑る。カフェオの白光が傷を癒してくれているのを感じた。再び目を開くときにはきっと、またなんでもない顔ができるはずだ。
青い空からくる、黒いもの。未だ地上からは遠いそれを見上げて、伊沙奈・空音(Ner-E-iD・h06656)はゆっくりまばたいた。
(お空から降ってきた……。へぇ、あれがバーゲスト。犬という生き物とは、また違うね)
「来たねぇ」
空音の視線を追うようにしてユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)も空を見上げる。今あれに気づいているのは能力者だけだ。ということは、と少し考えてから空音はノートにペンを走らせる。
――間違いなく危険だし、僕達で何とかしないと。
「……同感。あ、ちょうど良さげな高台発見」
筆談で伝えられた言葉に白水・縁珠(デイドリーム・h00992)がこくりと頷いた。そのまま空を滑ったみどりが、通りの傍らに塔を見つける。
「私、あれに登るわ。狙撃ができそうだから……よろしくね、キラキラちゃん」
縁珠は買ったばかりのカチューシャを取り出す。蝶の意匠のそれで何をしようかなんて、訊くまでもなかった。ユオルの指先も、よろしくねと蝶の帰った魔導書を優しく撫でる。
「じゃあ、ボクは敵を見渡しながら行こうかな。ボクたちを追い回してくるみたいだし、攻撃に巻き込まないよう、露店から離れた高所で戦った方が良いね」
ユオルの言葉に空音も頷いて、露店で買ったばかりの万年筆を握りしめる。
三人の身体が、ふわりと浮いた。それぞれが動き出す。けれど、目指す空は同じだ。
(……同じ目的の友達がいるっていいな、一人の時とは違うや)
空音はそっと目を細めてユオルと縁珠を見て、空へ飛び込む。
内側から塔を登りきった縁珠は、飛びながら髪に留まった蝶をそっと撫でた。そうだ、なまえ。
「ありがとう、――ペティーユ。……ぱっと秘密のお仕事終わらせて、お家帰ろうー」
のんびりと言いながら縁珠は塔の一番高いところに降り立って、コートに隠していた狙撃銃を取り出した。
「今日は狙撃銃もあるのよ。コートだからね……私、えらい」
寝そべるようにして銃を構えた先に、ユオルと空音の姿があった。じきに接敵するだろうが、塔に陣取った縁珠は黒犬たちとはまだ少し距離がある。
「……遠距離の内にどんどん削ってこう精霊さん」
銃に篭めるのは、薔薇の棘のように鋭い緑の魔弾。スコープで覗いた先へ丁寧に狙い定めて――撃ち抜く銃声が合図になった。
「――春の吐息、銀翅の蝶。ふりゆくは催花の恵み」
空のなかでユオルはゆるりと詠唱を始める。同時に広がった白銀のオーラが獲物を定めて突っ込んできたバーゲストたちを阻んだ。
空音の不思議な声が放つ音波もバーゲストたちを牽制する。塔から放たれた縁珠の狙撃が、ふたりへ至ろうとする凶爪ごと撃ち抜く。
「我を阻みし者穿ち、夢裡の花をも散らせ」
詠唱を終えたユオルを中心に光の雨が降りはじめた。青空に美しく見えるそれは、味方に癒しを、そして敵には容赦のない精神汚染と麻痺を齎す。
雨に打たれた途端動きを鈍らせた敵に、ユオルはくすくすと笑った。
「飛び回られると面倒だからねぇ」
動きが鈍ったバーゲストたちは、狙撃手の格好の獲物だ。見逃すことなく縁珠の弾丸がまとめて撃ち抜く。それでも執拗に迫る群れを、空を游ぐ空音の声がかき乱していく。
(……泳いでいるとは違った感覚。飛ぶのも楽しいや)
楽しいのは、仲間と呼べる存在がいることも大きいのだろう。黒犬たちは随分空高くで押し留められている。もう一押しなら、と空音は首元に手をやった。そこにある人工声帯を操作する。
『僕たちも頑張ろうか』
その声に呼ばれるようにして空に数多の骨鯨が顕れた。青に透けて見えるその姿は一見して幻だとわかる。けれど一斉に齎す攻撃は幻ではない。黒犬を追って、骨鯨が空を泳ぎゆく。合わせて攻撃を躱し、空音も空をひらりと飛んだ。
楽しげに空飛ぶ鯨たちに、ついユオルも微笑んでしまう。気を抜いたわけではないが――実を言えば、空を飛んでいる今に少しわくわくしていたのだ。
(翅持つ友達を見て憧れていたんだ。……空を飛べたら楽しそうだなぁって)
本当にこうして飛んでみれば、やっぱり楽しい。楽しむついでにぐんと加速してメスを振り抜けば、バーゲストたちの牙はユオルに追いつかなかった。思ったよりも加速がつく。どうやら魔導書が力を貸してくれているらしい。
「ふふ、楽しいねぇ」
自由に空を駆けるユオルたちを援護しながら、縁珠はふと気づいた。
「空中浮遊って……慣れたらつよつよなやつ?」
見ていてもそうだ。ほとんどの敵がその攻撃を届けられずにひらひら躱されている。蝶みたい。呟きかけた縁珠のいる塔の上に、影が差したのはそのときだ。
見上げれば動きの鈍いバーゲストたちがいる。空にいる獲物が捕まらないと気づいて、こちらに来たのだろう。
「……でも、近距離NGとは言ってない」
ひょいと精霊銃に持ち替えて、縁珠はふわりと飛ぶ。
「どかん」
のんびりした声にそぐわない一撃が、空に迫った黒を吹き飛ばす。
「……さて、叩き落されるのはどっちかな」
「あれは無粋オブ無粋でお節介オブザイヤーな教団の差し金だね? ああまったくいつもいつも、困ってしまうね!」
空を見上げて、キール・フレイザー(唯一無二・h00613)は大げさに呆れた素振りで肩をすくめる。
「まあ教団員の誰とも会ったことないけど」
なにせキールの記憶はまっさらだ。いや勿論仕事の情報として教団のいろいろなことは知ってはいる。あれは絶対無粋でお節介オブザイヤーに違いない。今年はまだ半分くらいだけど。早すぎない、過ぎるのが。僕が煌いてるばっかりに。
「よし指輪くん! 一緒にあのトゲトゲドッグをやっつけようか!」
なんであれやることはひとつだ。キールは軽くなる身体で壁を蹴り、勢いよく塔の上へと上がっていく。
「えいっ、えいっ」
一方、空の上。レア・ハレクラニ(悠久の旅人・h02060)は魔導書をぎゅっと抱えてあちらこちらへ飛んでみようとしていた。けれどもなかなか行きたい方向にいけない。
「むむむ、お空を飛ぶのは初めてなのもあって、なかなか上手くできないのです……。さっきは蝶々さんを追いかけるのに夢中だったから上手くできたのですかね?」
これは要練習かもしれない、と魔導書に降ろしてもらおうとして、レアは気づいた。
「ん? なんだか周りがうるさいのです?」
青い空には似つかわしくない唸り声が聞こえた気がして周りを見渡すと――見上げた先に、黒い犬の群れがいた。
「わ! 可愛くないヤツがいっぱいいるのです!」
「ね! 本当に可愛くない。でも僕は美しい!」
急に空に相槌と自画自賛が降ってくる。レアが思わずきょとんとして視線を巡らせると、塔の屋根の上に立つキールと目が合った。ばちんとウインクがひとつ。
「やあこんにちは、僕はキール、こっちは今日逢ったばかりの指輪君。キラキラしてて綺麗だろう? つい見ちゃうんじゃないかな僕とセットで!」
「はい?」
思いきり首を傾げたレアに構わず、キールはその翼を広げた。視界は良好だ。
「戦うときは視界の確保が大事と聞いたからね。フフフ僕は勉強熱心なんだ」
「たたかう……。あっ、戦うひとです?」
「逆に他になにしに来たと思われたの僕」
「わかったです、アイツらをやっつけるですね! 蝶々さん、協力してなのですー!」
「うんうん、僕とも協力しようね!」
ぱあっと笑ってレアは魔導書をさらに手繰る。明確な目的を得てさらに身体は軽くなったようだった。ふわりと風に乗る感覚が心地いい、けれども。
「そっちじゃないです~」
風に乗ってレアの身体は思っていない方向に飛んでしまう。
体勢を立て直せないレアにバーゲストたちが迫ろうとして、
「僕はキール、こっちは今日逢ったばかりの指輪君!」
通りのいい声で再び名乗りが聞こえる。レアの目の前に煌めく漆黒の竜翼が広がった。そのままキールはバーゲストたちとの距離を詰め切る。
ドン、とぶつかる勢いで黒犬の頭に蛇腹剣が突き立った。
「だめだよ、ねえ。君たちは僕を見なきゃね?」
煌めきを散らすように、キールは剣を薙いで空を飛び駆ける。それに釣られてバーゲストたちが唸りをあげて後を追った。
「はは、おいでおいで!」
気持ちよく笑いあげて、キールは遊ぶように空を飛び、距離を詰めてはバーゲストたちを貫いてゆく。
(お星さまみたいです)
ぽかんとその様子を見てしまったレアは、はっとして体勢を立て直す。あんなふうに上手くは飛べないけれども、気づいたのだ。
「いっぱいいるから、どれを倒しても同じなのです!」
そうと決まればレアも風の示すまま飛んで、黒犬へと近づく。ぶんと振り上げるのは――手にある魔導書である。
「レアからのプレゼントです!」
そのままどごんと重い一撃。さらにもう一撃も遠慮なく叩き下ろせば、鈍い音でバーゲストたちが空を殴り飛ばされていく。
「ほら、目の前にお星様いっぱい見えるのですよ!」
「……君けっこうそれえげつないお星さまだね!」
「えっ? キラキラしてて綺麗だったので……」
きょとんと首を傾げたレアに、キールはそっかあじゃあ仕方ないねとにっこり笑う。
「じゃあ、君のお星さまがうっかり届かないところは僕が。――そういうわけで、みんな纏めてさよならだ」
「はい! 避けちゃダメですよ!」
青い空を星が駆ける。ちょっとばかり鈍い音と、煌めきを添えて。
「――俺にとって、『護る』ことが愛情表現だった」
パピヨン・オクルスのかたわらにある塔を駆け上がりながら、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)が語る。
一歩先を駆けながら、久瀬・千影(退魔士・h04810)はその声に耳を傾けた。
「怪異や邪霊を引き寄せる俺の体質のせいで交通事故に巻き込まれ、生まれることなく死なせてしまった実の妹がいる。……その後に入った施設の弟妹たちのことは、久瀬も知ってるだろ」
「……ああ」
ラムネは『護る』ということに異常な執着がある。そのことは千影も知っていた。
己自身の身を差し出しても厭わぬ。その為ならどんな努力だって惜しむことはない、狂気的とすら言えるそれ。その背景にも怪異の影があったのかと、今知っている。
「俺がどれだけ怪我をしても護ること。それが一番の愛だって、相手のためだって思ってた。……今もその考えはある」
「愛、ね」
千影としても、愛情というもの自体を否定するつもりはない。√能力者である以上、誰しも事情と欠落を抱えているものだろう。ラムネは妙に千影についてくる気はしていたが、
(きっと、怪異に関わる俺のことも護りたい、なんざ言ってくるんだろう)
この話の行く先を手前勝手にそう予想する。
けれど後方から聞こえるラムネの声は少し沈んで、思いがけない方向に向く。
「けど、愛情表現はそれだけじゃないって久瀬に気付かされた」
「……俺?」
思わず振り返る。つま先が階段に引っかかりそうになって、誤魔化すように一段飛ばした。肩越しに見えたラムネは、至極真面目で、少し沈んだ顔をしている。
「相手が望まないことをしたって、それはエゴの押しつけに他ならない。……そうだろう」
言って、僅かに俯いていたラムネの視線が上がった。
その視線はまるで千影と『ちゃんと向き合いたい』のだと――対等でありたいのだと、言葉よりも雄弁に語っているようで。
「久瀬」
「――|クソ《・・》がつくほど真面目なヤツだ、本当に」
自分のことなど放っておけと、何度も言っているのに。
それでもこうして正面から自分を見据えようとするこの男は、いつまでだって始末が悪い。
答えを避ける理由代わりに、辿り着いた塔の頂上へ駆け出す。青い空が眼前を埋めた。
「行こう、久瀬」
長槍を顕現させたラムネが青空を背に笑っている。
闇雲に護るだけが手段じゃないと語っておいて、「諦めが悪くてごめんな」と笑うのだ。
揃いで買った下緒が互いの元で、風に靡いて揺れている。
「ああ、行くか」
頬を風が撫でていく。千影は少しだけ微笑んで、無銘を鞘と共に左手に握りこんだ。
バーゲストたちが千影とラムネに気づいて群れをなし迫ってくる。
それを正面から受け止めるようにして、ラムネが風を纏って空を駆けだした。煌めく白焔は流星の如く空の青を汚す敵を穿っていく。
――信じている。
言わずと語るようなその背を預かって、千影は闇を纏った。
蒼天に閃が奔った。間髪入れず、千影は抜き身の無銘を振るう。迫ったバーゲストたちを一刀に伏していく。
愛だのエゴだの、面倒なことを千影は考えない。ただラムネがあきらめないと言う以上、あれの執着を甘く見てもいない。
護ることが愛情表現だとラムネは言った。なんてわかりやすくて愚直だろう。それならこうして背を預けているのだって、意味合いを考えるまでもない。
(信頼、ねえ)
どうして自分にそんなものを向けられるのかと、千影としては甚だ疑問だ。けれどあんなにもあけすけにそれを示されては、突き返すほうが気が引ける。
刀を握り直す。
ラムネが長槍を手に空を駆けていく。高い場所で吹く風がよく似合うことこの上ない。青と白のコントラストが目に眩しくて、やけに痛む気がする。自分が纏う闇とは正反対のようなその色に、背を向ける。
千影は自分の背を、空のラムネへと預けるようにして迫りくるバーゲストたちを見据えた。
(――ああ。悪くねぇ気分だ)
空はじきに、ただの青へ戻るだろう。
第3章 ボス戦 『喰竜教団教祖『ドラゴンストーカー』』

●空の聖堂
蹴散らされたのはバーゲストたちのほうだった。
能力者たちはそのまま空を駆け上がり、その先に不自然に空に浮かぶ白亜の建物を見つける。
それは喰竜教団の縫合聖堂のひとつ。開け放たれた聖堂の扉の奥には、無数の刃物が鈍く光って見えた。
飾りのようですらあるそれには、しかし錆びつくようにこびりついたものが見える。
おそらくは聖堂の中に入れば、あれらの刃が次々と降り注ぐのだ。――そうしてどれだけの無力なドラゴンプロトコルを切り刻んだのかは知れない。
聖堂の奥に、元凶たる喰竜教団の教祖、ドラゴンストーカーを見つける。
「嗚呼、偉大なるドラゴンプロトコルの皆さま……。ここで尊い欠片となり、わたくしとひとつになった皆さま……。大丈夫、大丈夫ですよ。『ちがうもの』を切り刻んだとしても、わたくしが皆さまと間違えるはずがありません」
ですから、とドラゴンストーカーは能力者たちを聖堂の中へと誘う。
能力者たちの空をゆくつま先に、ひらりと光が集まったのはそのときだ。
見ればパピヨン・オクルスにいた光る蝶たちが、いつの間にか空に上がって来ていた。
無数の光る魔法蝶たちは、空に巨大な円を描く。それは空を透かす足場となって、能力者たちの足元に丸く広がった。蝶のふちどる空にはなにもないように見えて、透明な足場が存在する。
「嗚呼、文字通りの虫けらが空を切り取るなんて……! わたくしはいちはやく、ドラゴンプロトコルの御方を救いたいのに」
能力者を誘っていたドラゴンストーカーがつとめて冷静にあろうとした声を震わせた。
刃を恐れず聖堂に乗り込めば、教祖の意表をつくことはできるだろう。
けれど蝶たちがくれた空の足場で待ち構えても、ドラゴンストーカーはしびれを切らせて自ら出てくるはずだ。
――嗚呼、と陶酔したように呼ぶ声を、シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は既に聞き知っていた。
不死性を持つがゆえに、喰竜教団の教祖であるドラゴンストーカーは数多の事件で現れては倒されることを繰り返している。その一度に、シルフィカも携わった。
「……本当に懲りないわね」
空のなか浮かぶ聖堂を見据えたシルフィカの声がひとつ冷たくなる。
「でも、何度蘇ろうとも殺してあげる。――あなたのような紛い物が竜を名乗るなんて許さない」
僅か、竜の怒りが空気を揺らす。
シルフィカはドラゴンプロトコルだ。しかし記憶を失ったとしても、竜の矜持まで失ったわけではない。あの歪んだ狂信を、そのままにしておくつもりもなかった。
外から見ただけでも、聖堂の中に見える刃物は悪辣だ。おそらく飛び込めば、上から無数の凶刃が雨のように降るのだろう。入ってしまえば逃げ道はない。無力なドラゴンプロトコルたちは、きっと為す術もないまま切り刻まれたはずだ。それが救いだと嘯くあの紛い物に。
ならば。
シルフィカは青く気持ちのいい青空を一息に羽搏いて、迷うことなく聖堂へ飛び込んだ。
途端に空気が淀んで、鉄の、血の嫌な匂いが鼻をつく。頭上を見れば降りかかろうと軋む無数の巨大な刃が見え、
「嗚呼、ドラゴンプロトコルの御方……! 此度こそ、わたくしたちに救われに来てくださったのですね」
聖堂の奥、シルフィカの正面で感動に咽ぶようにドラゴンストーカーが喜色に満ちた声をあげる。それをシルフィカは一蹴した。
「そんなわけがないでしょう。わたしは……わたしたちは、あなたの同情も救いも要らない」
悲鳴にも笑い声にも似た軋みをあげて、刃が降り落ちてくる。それを見上げもせずに、シルフィカは身の裡に眠る真竜の力を呼び起こした。
まばたきより早く、その姿はライラックの竜へと変わる。雄大なその身は降り注いだ刃をものともせず、ごうと大きく翼を広げた。
ドラゴンストーカーが崇拝の眼差しを熱く向ける。それがどうにも鬱陶しい。
(この姿を見せるのは癪だけれど)
――それだけ今は、腹立たしい。
その怒りに、竜の本能に、今は敢えて身を任せた。意識せずとも身体が動く。刃を振り払い、喜びに打ち震えながら奪い取った竜の力をふるうドラゴンストーカーを弾き飛ばし、尾を叩きつけた。容赦はしない。できそうもない。
思った通り、戦い方は本能が憶えていた。
(憶えていなくたってわかる。いつかのわたしは、すべてを失くすことになった選択を後悔していないって)
だからこそ腹が立つのだ。まるでその選択を間違いのように憐れまれることが。
「嗚呼、なんて素晴らしい――真竜さま……!」
「黙りなさい」
大いなる怒りが空を張り詰めさせる。シルフィカの目に、ドラゴンストーカーが喜色から畏れへその表情を変えるのが映った。無理にも暴れようとした紛い物の竜の腕を敢えて正面から受け止めてやる。シルフィカの竜の身はびくともしない。今度こそドラゴンストーカーが恐怖の色を濃くした。
「お、お許しを――」
「許さないわ。もう決めたの」
ドラゴンストーカーが暴れようとする。その攻撃をライラックの竜はまるで意にも介さず、ドラゴンストーカーの正面から灼熱のブレスを放った。
聖堂を焼き尽くす勢いで吐き出された灼熱は、シルフィカの身の裡の竜漿をも燃やし尽くす。これではすぐに意識を失うだろうことはわかっていた。けれど構わない。だって今空にいるのは、シルフィカひとりではないのだ。
(大丈夫だって、信じてるわ)
ふと遠ざかる意識のなかで、駆けてゆく能力者たちの背を見る。魔導書の蝶がひらりと光り、人の姿へと戻ったシルフィカの身体を空へと浮かしてくれたような気がした。
空は近いまま、青く遠ざかってゆく。
よく晴れた青空の中に浮かぶ白亜の聖堂は、いかにも美しいものに見えた。
「景色だけは良くて結構」
魔法具の飛行能力を試しがてらに雲を突っ切った五槌・惑(大火・h01780)は、聖堂の内に見える物騒な刃の数々に呆れた様子で閉口する。
「あらホント。物騒じゃなければ素敵な建物だったでしょうに」
惑の隣に追いついた僥・楡(Ulmus・h01494)も聖堂を一瞥してさも残念そうに頬に手を当てた。しかしどうやら、中にいるドラゴンストーカーはまだ出てくる気はないらしい。
「家主を追い出して改装が必要なようね」
「改装後は観光名所か?」
互いに茶化す言葉を鼻で笑い、重力をそれなりに忘れた身体を確かめて、一呼吸先に惑が空に開かれた聖堂へと突っ込んだ。
途端、惑の頭上でぎらりと刃が笑う。食らいつくように落ちてくる凶刃が頬を肩を腕を掠めていく。まだ痛みに成らない熱を無視して、惑は赤に靡く髪で空間ごと降りしきる刃を自らのほうへ引き寄せた。その間隙を惑に続いた楡がすり抜ける。
「ヤダ、惑ちゃんもう怪我してるじゃない。アタシを守ってこんな目にって言っておくべき?」
「言ってくれても構わねえが、場面にはそぐわないな。アンタの服は汚れると目立つだろ、染みのない方が強者らしくて良い」
露払いが開けた道を通っていくのがラスボスだろ、と言いながら惑は額に流れた血を拭いがてら、引き寄せた数多の刃を聖堂の地面へと払い落とす。
「あらお気遣いをどうもありがとう」
それじゃあ、と楡は払われた刃のうちから大剣を呪詛の組紐で束ねあげた。元より悪趣味な造形の大剣たちは、束になればいっそう凶悪に刃をぎらつかせる。
「せっかくたくさん用意してもらったんだから、一つ二つ借りなきゃいけないわよね」
聖堂の手前で束ねられた大剣が、勢いをつけるようにぐんと揺れて奥にいるドラゴンストーカー目掛けて殴り飛ばされる。楡に力いっぱい殴られたそれは刃が降り落ちるよりも早く教祖へ迫った。
「な、」
「遠くからごめんなさいね、アタシは痛いのあまり好きじゃないのよ。刃はお返ししておくわ」
金属が強くぶつかる音が聖堂を埋め尽くす。その音はドラゴンストーカーの叫び声まで掻き消したようだった。
「虫けらの分際で……!!」
一瞬視界を埋めた刃と砂埃のなかからドラゴンストーカーが顔を歪ませながら立ち上がる。その手には自分に突き立っていた大剣のひとつがあった。
「虫と言われると、いささか否定しにくいな」
敵の手の大剣が振られるのを阻むように、惑が長剣を抜いてその大きな刃を抑えにかかる。力を籠めるたび、ぼたぼたと音がするから、どこかから出血はしているようだ。戦場にあるせいか、痛みはまだ薄い。惑は蠍憑きであるゆえに、ある意味『虫』には分類されるのかもしれなかった。ぐ、と互いの刃を鳴らして競り合う。弾きあう刹那に蹴りを一発入れて、まだ降り落ちる刃を躱した。
「俺も別に痛くないってわけじゃねえんでな。下等な生き物なりに、痛い目に遭うとやり返そうって気になるんだ」
そのまま再び距離を詰める惑の傍を掠めて、楡の剣束が飛んでいく。
「虫だろうとなんだろうとツギハギさんよりは真っ当よ。……ところで惑ちゃん、今の当たった?」
「そこそこ血は出た」
「ヤダァ、大丈夫よね」
「話せる程度にはな」
緊張感の足らない応酬がドラゴンストーカーの叫びと衝撃音を聞き流した。ふたりの姿は一方が赤く、一方がただ白いまま物騒な聖堂に浮かぶ。
「わたくしたちは虫けらとは違う……! わたくしたちだけが真にドラゴンプロトコルの御方たちを理解し救うことができる――」
「あらやだ、心の底から性格が不細工なのね、アナタ。何もかも誰かと挿げ替えた見た目も美しいとは思わないけど。独り善がりの救いだなんて綺麗じゃないもの」
「ッ、なにを……!!」
楡の言葉に我を忘れたようにドラゴンストーカーが竜化した腕を振り上げる。その腕を惑の一刀が斬り落とした。そのまま誘い込むようにしていた聖堂の半ばへ、ドラゴンストーカーを突き飛ばす。
「目利きに自信があるなら、自分の亡骸が混ざってもちゃんと選り分けろよ」
ギチリ、引き寄せた空間が戻って、天井で軋んだ数多の刃が次の瞬間鳴り落ちる。自分で仕掛けた罠に囚われたドラゴンストーカーの声は、それきり衝撃音に埋もれてしまった。
「切り刻まれる気分も味わっていけ」
「怖いことするわねえ、惑ちゃん」
「楡の煽りほどじゃねえと思うが」
おかげで挑発いらずだった、と肩をすくめる惑の隣で、楡は煽ってないわよただの事実、とけろりとした顔をしている。
「在り方が美しければいいの。それが正義ってものでしょう」
「……いかにも強者らしい物言いだ。それか|無神経《ノンデリ》」
「やだ、失礼しちゃう」
ところでアナタ毎度血塗れになってない、と首を傾げた楡にぱたぱたと血を滴らせたままろくに表情ひとつ動かさず首を傾げ返した惑も、充分強者らしくはあった。
空に浮かぶ聖堂、その内側に鈍く光って見える刃物の数々に一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)は素直に辟易した様子で肩をすくめた。
「物騒建築ぅ、碌でもねぇ。あんな刃物落ちてきたらたまったもんじゃないよね」
「空にこんな聖堂を用意するとはすごいですが片付けさせて頂きますっ!」
同じく聖堂を視認した玉響・刻(探偵志望の大正娘・h05240)も、気合を入れ直すように手のひらをぎゅっと握った。
その足元に、パピヨン・オクルスの蝶たちが作った足場が現れる。空を透かす、透明な足場。
「わぁ、こんな足場を作って頂けるとは、皆さんありがとうございますっ! これなら戦うのに申し分ありません!」
「へえ、めっちゃ綺麗じゃん。蝶々やるぅ。――マ、それでも伽藍ちゃんは凸っちゃうんだけど!」
え、と刻が伽藍を見る頃には、その姿は既に空にない。通り抜けた風が聖堂目掛けて一直線に身体ごと揺らして行ったのを刻はぽかんとして見送った。
「じゃあ私も……い、いえ駄目です、だからこそ私はここで待ち構えなければ。いざ!」
一瞬釣られて刻も飛び出しそうになったが、ぐっと堪える。いつものように刀に手をかけて待ち構えることしばし。
「……、……、――待ってるだけなんて無理ですっ! やっぱりこっちから行きますっ!」
結局はすぐせっかちが顔を出して、刻も聖堂へ向けて空を駆けた。
「光の速さでお邪魔しまーす!」
クイックシルバーと融け合った伽藍は言葉通り、一筋の銀光として聖堂へと突っ込む。同時に聖堂のあらゆるところに仕掛けられた刃物が高く鳴って落ちてくるのを、速度を頼りに避けていった。
「当たらなければどうってことない、し!」
言ったそばから不意をついて眼前に迫った刃が、銀光に囚われたようにぐんとドラゴンストーカーのほうへ向きを変える。
「物騒なモノはストーカーさんにお返ししちゃうぞ」
悪戯に上がった語尾の愛らしさとは裏腹に、矛先を変えた刃がこぞってドラゴンストーカーを鋭く穿つ。響き渡る絶叫を伽藍は軽く耳を塞いで聞き流した。
「虫けら風情が、ドラゴンプロトコルの方々の肉体に傷を……!」
「なんてェ? クソ儀式で殺してツギハギしてもその程度かァ」
けらけら笑いながら、いまだ降らんとする刃の群れを油断なく警戒する。しかしその僅かな隙に、激昂したドラゴンストーカーが大剣を振り上げて伽藍へと迫った。竜の力を振るう継ぎ接ぎの腕が振り下ろされる刹那、
「――どいてくださーいっ!!」
降る刃のタイミングを上手くずらして聖堂に飛び込んできた刻が、一息にドラゴンストーカーの懐に迫る。淡く光る無数の黒蝶がひらりと教祖の鼻先を掠めて。
「皆さんの楽しみの邪魔はさせません!」
駆けた勢いそのまま、刻は鞘から引き抜かれた刀が超速の横薙ぎを放つ。
継ぎ接ぎの身体を断たれた教祖が、聞くに堪えない絶叫と共に後方へ下がろうとする。それを伽藍の釘が許さない。
「ざァんねん」
教祖の大剣が掠めたせいで肩から腹にかけて走った傷を構わず、伽藍は笑う。少しばかり血を吐いた。あとわずかで命ごと断たれていたのが肌でわかる。
「今日の伽藍ちゃんは、二、三回殺した程度じゃくたばらないのである!」
「ひぇ、だだ、大丈夫ですか……!?」
「へーきへーき、続行!」
血に塗れたまま笑い飛ばした伽藍を刻がぎょっとした顔で心配するが、今は止まっていられない。宙に打ちつけて捕らえたドラゴンストーカーへ、刻の刀が、伽藍の操る刃と釘が迫る。
「|√能力者《アタシ》ひとり碌に殺せないとか、偉大なる方々殺され損じゃん。人様の命ナメてんの?」
ふと笑みを消した伽藍と強く教祖を見据えた刻の刀が、継ぎ接ぎの身体をあるべき形へ戻すように切り裂いた。
ふたりの少女が、さらに高く空を駆ける。
その先に見えた白亜の聖堂に、廻里・りり(綴・h01760)は眩しそうに目を細めた。
「すてきなお城ですけど……中に見えるものは、いたそうですね」
内側に覗く無数の刃、それらにこびりつくものはきっとあの場に追い込まれた無力な者たちの成れの果てなのだろう。そう思えば、少しの息苦しさを覚えるようで、視線が下がる。
「今まで、どのくらいのひとが被害にあわれたんでしょう……」
自然と祈るように両手を組み合わせて目を伏せたりりを見やって、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)も聖堂を眺めた。白に似合う青い空は、まるでその内側の血生臭さを知らないのだろう。
「本当、美しい景色だわ。……でも、あいつにはそんなもの、まるで見えていないみたいね」
ベルナデッタが見据える先――聖堂のその奥にいまだドラゴンストーカーはいる。手前勝手な教義を語り、狂信のままに崇拝するものを切り刻む。
「叱って聞く相手でもないみたい。そうね、そうなら。やることは決まっているわね」
「はい、飛ぶのにも慣れてきましたし、避けるのはとくいです!」
不意をついたほうが有利でしょうか、とつぶやくりりの足元で、蝶の翅もぱたたと応える。任せろと言わんばかりのそれに、りりは笑って、きゅっとベレー帽を被り直した。
「きっと大丈夫です、行きましょう、ベルちゃん!」
「……あなたに怪我をさせたくは無いのだけれど。進む気なのだもの、仕方ないわね」
ベルナデッタの心配そうな視線がりりを捉え、それからやわらかく微笑んだ。それでちょっとの無茶を許してくれるらしいと、りりは胸を張って笑う。
「ふふ、ここで止められるなら、ちょこっといたいくらいなんてことないです。ベルちゃんは、あのひとの隙を見つけて教えていただけますか?」
「ええ、あなたに怪我をさせないためにも、ワタシがよく見ないとね。任せておいて」
「頼りにしてます!」
りりは改めて聖堂の入り口へ向き直った。あの凶悪な刃たちはきっと、突っ込めばすぐに落ちてくる。けれど、怖がることはない。
(ベルちゃんがいます。蝶々さんたちもいます。やくそくだって、ありますから)
帽子に触れて、靴を揺らす。それだけで勇気は充分だった。
「いきます!」
悲鳴のような軋みをあげて、巨大な刃たちが落ちてくる。
その僅かな間隙を、ベルナデッタの硝子の瞳は白く燃えて確と見つめた。右へ、左へ――ベルナデッタの声を頼りに、りりは雨のように降る刃を抜けていく。
それでも刃は僅かにりりを掠めた。僅かな傷がりりに赤く刻まれていくのを、ベルナデッタは僅かに眉をひそめて見る。りりの後を通れば、青い羽根が刃の狙いを散らしてくれるおかげで、ベルナデッタには傷ひとつないけれど。
「りり、もう目の前よ」
「はい、ベルちゃん! ――鳥さん、おねがいします!」
刃を抜けた瞬間、りりが放った青い鳥たちがドラゴンストーカーに一斉に強撃を仕掛ける。刃で刻みきれると踏んでいたドラゴンストーカーは完全に不意を衝かれた顔で息を呑んで、表情が歪む。
「ああ、また虫けらが……! 何故邪魔をするのです、わたくしは!」
「信念をもつことはすてきですけど、それは他のひとを巻き込まない場合です。いのちと身体を奪って、自分のものにするなんて……あまりにも自分勝手すぎます」
りり、とベルナデッタが呼ぶ声を知らせに、振り回される竜化した腕をりりが飛び避ける。刹那、継ぎ接ぎ、暴走した巨大な竜尾がりりを打ち据えた。
「りり!」
「だいじょうぶ、です! ……それにしても他のかたを切り貼りした身体、なんて、ずいぶん不恰好な教義ですね?」
「愚かな、わたくしたちの教義を軽んじるとは――」
「露天で出会いを待っている子達が沢山いるわ。未来の約束があるわ。……お前の野望より、ワタシはそちらの方が大切なの。御生憎様」
ドラゴンストーカーの言葉を遮ってベルナデッタが言い切る。その瞳が教祖の隙を見出した。降り落ちた鳥籠が、その動きを止める。りりは呼んだ青い鳥たち共々、その懐へ突っ込んだ。ベルナデッタがその一部始終を見届ける
「壊すわ、その願い」
聖堂のなかに、青い羽根が散る。
「正しい子とか、悪い子とか、決めるのは教義ではなくワタシの心。それに、……よくもりりに傷をつけたわね? ワタシがお前を許さない理由よ。覚えなくていいわ。――壊れなさい」
信じられないものを見るように瞠られた教祖の瞳が最期に映す光景としては、しあわせの青い鳥はあまりに美しすぎた。
「せっかく素敵な建物なのに無粋な刃でデコレーションされてて台無しね」
「景色はいいんだけどな。飾り付けすぎて逆に良くないってやつ?」
あきれた眼差しで白亜の聖堂を見たララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)を腕に抱いて、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)も似た眼差しで頷いた。
その春暁のひとみを、ララは上目遣いに見上げる。
「いくわよ、イサ」
「……え? わざわざ危険なところに行かなくても」
「待っているのは性に合わないわ。……それに、お前が守ってくれるでしょ」
ね、とララが確信を滲ませた花の瞳で見つめると、イサはすぐにふと笑み崩れた。
「はいはい、聖女サマが望むなら。刃の豪雨の中だって、お供しますよ」
聖堂へ入ると同時に降り出した刃と共に、ララは聖堂を踏みしめ駆け出した。
迫る無数の刃を金のカトラリーが受け止める。その身に至る刃をイサが巡らせたバリアが弾く。
「行け、ララ」
「ええ、イサ」
振り向かずにララが走っていく。空を飛ぼうとしたときに比べればひとつも迷いのない足取りに、自然とイサの口元に笑みが浮かんだ。――信頼を向けられている。その確信が心を定める。
(絶対、護ってみせる)
その背を道を護りながら、イサは|鳴海ノ蝕《アビスバレット》を展開する。溟海の弾丸が、光線となってララとイサの上に降る刃を吹き飛ばした。その先で呆気に取られたように瞠目するドラゴンストーカーを捉える。
「ララに手出しはさせない」
その眼前に、無傷のままのララが瞬く間に走り迫った。教祖。ララもそう呼ばれることがある。けれども、この教祖が掲げる救いは、酷く身勝手だ。
「お前とひとつになりたい竜などいないわ。知ってる? お節介っていうのよ」
「いいえ、わたくしは……わたくしとひとつになったドラゴンプロトコルの皆さまは今も救いを待って――、」
「お前が竜を語るの? じゃあ確かめてあげましょうか。……迦楼羅は竜を食べるのよ? それもとっておきの悪竜をね」
赤いひとみで迦楼羅の雛女が笑う。
「ふふ、狩りの時間よ!」
僅かに吊り上がった口元から牙が覗いて――花嵐が捕まえた教祖の脚を、金のカトラリーが断つ。絶叫を聞き流して、なりふり構わず振り回される大剣を躱す。距離を取ろうとするのを許さず肉薄したララを教祖が振り払おうとして、
「沈めてやるよ」
イサの蛇腹剣が薙ぎ払うようにララを庇った。光線による衝撃波が爆風となって吹き飛ばす。
「あら、傷ができても味見すれば治るのに」
「こんなの食べたら腹壊すよ?」
だいじょうぶよ、ときょとんとしたララとイサの眼前で、土埃のなか|真竜《トゥルードラゴン》が姿を見せた。ドラゴンストーカーがその身をインビジブルに喰わせたのだと察してイサが構え、ララはぺろりと唇にちいさな舌を覗かせる。
「ちょうどいいわ。真の竜たりえるのか味見してあげる」
イサの牽制の弾幕が放たれる。伴う幻影は鈍い竜の動きをさらに鈍らせた。その隙をララが逃すはずもない。鈍重な攻撃をひらりと躱し、銀のカトラリーがその身を貫く。金のカトラリーで斬り分けたその紛い物の竜の味は――。
「……全然だめ」
こくんと喉を鳴らして、ララは至極期待はずれだと言わんばかりに視線を落とす。
「|あの子《キルシュネーテ》 の足元にも及ばないわ」
齧った欠片は、お世辞にも褒められたものではない。悪竜とはいえそれが紛い物だと、ちいさな迦楼羅の舌が裁定を下す。
「悪竜は綺麗に焼却してあげましょう」
切り裂いた竜の巨体を迦楼羅の焔が包み込む。それに海鳴りが重なって、焔が高く燃え上がった。聖堂のなかが、焔で満たされる。
「殺してきた分だけ殺されろ。それがお前のくだらない妄想の犠牲になった竜たちへの手向けだ」
退路が断たれる前に、イサがララの身体を攫うように抱き上げて、空へ躍り出た。空に迦楼羅の焔が眩しく盛るのを、ララはまぶしい心地で見上げた。
空に描き出される、蝶の羽ばたきで描かれた円。
そこにある目に見えぬ空の足場に、伊沙奈・空音(Ner-E-iD・h06656)はそっと降り立つ。見下ろせば空が透けているのに、足裏には地面ほど確かな頼りがあった。
(すごいや、蝶々さんたち)
「ふふ」
空音が笑み零せば、その隣にもやわい笑い声が歩んでくる。視線の先で賀茂・和奏(火種喰い・h04310)は、透明な踏みしめて、嬉しげに微笑んだ。
蝶たちがくれた足場は頼もしくもあり、共に立ち向かおうとしてくれるのが嬉しくもある。
「ありがとう、存分に頼らせてもらうよ。……あれ」
内側で激しい戦闘音を聖堂の音が、ひととき静まる。もしや中だけでことが済んだか。
「――はは、そんなわけないか」
軽やかに笑う声が呼び水になったように、ひとときの静寂が轟然と破られる。燃え盛る聖堂から逃げるように飛び出してきたのは件のドラゴンストーカーで間違いがない。その視線が空に待ち構える能力者たちを捉えて鋭くなった。
『準備はいい?』
首元の人工声帯を操作した空音の声が深海の小魚や貝の群れの幻を呼び起こす。波の代わりに風に乗るようにして響くわだつみの歌声がドラゴンストーカーの動きを一瞬止めた。
「虫けら風情が邪魔ばかり……! わたくしは救わなければならないのに!」
『似てる所もあるよね、|鯨骨生物群集 《こういうの》と君の教義。“死が誰かを生かす”ところ』
空音の不思議な声が鯨の鳴き声と同じほど、穏やかに響く。その声と共に海の幻たちは味方に癒しを広げ、敵を苛んだ。
『でも違う。鯨は“死を活かす”けど、君たちは“活きている者を殺す”。ただの、供物のつもりで殺してるだけ。愛してると言いながらね。困ったな』
「本当に。困りものですよね」
雑談に相槌を打つほどの気楽さで笑いながら、和奏は眼鏡を外す。途端、|眼鏡《ライナスデバイス》で抑えていた全身の魔力が一瞬噴き上がり――左目に収束していく。膨大な魔力は炎と化し、爛々とその左目を金緑に燃え上がらせた。そのひとみは、なりふり構わず力任せに突っ込んでくるドラゴンストーカーの隙を容易に見出す。
「退け!」
「はいはい」
竜化した腕を振るう教祖を、和奏はひらりと飛び躱す。強大な竜の力を暴走させたその衝撃波は相当なものだが、魔力を解放して|防御《オーラ》を巡らせた身にはさほどでもなく、掠るものも空音たちの輪唱が癒してゆく。
透明な蝶の足場に腕を振り下ろし大きな隙を晒したドラゴンストーカーの背に、和奏は刀を抜きざまに突き立てた。手応え。風の音と波の歌声が耳を撫でて、燃ゆる瞳は心地よく青い空を広く映すけれど。
「ふふ。残念、この地にも空にもあなたに救われたい方なんていないみたいですよ?」
「な――、」
じゃあ、おしまいにしましょうね、と音ばかりは笑んで、和奏の切っ先が、空音たちの歌声が、独りよがりの教義を穿つ。
「とある御話があってなぁ、一隻の船を年月かけてあかんくなったところは全部違う素材の新しいパーツに変えてってな、最初の船のパーツは何一つ残らへんくなったら、それはその船やと言えるんか、っていう御話やねんけど」
「……テセウスの船?」
よぉ知っとんねぇ、と繰廻・果月(御伽語の歌唄い・h07074)は一文字・透(夕星・h03721)をのんびり見やる。透は本を好むがゆえに、果月の話にも覚えがあったのだ。人見知りを発動してしまいそうな視線をどうにか逸らさず、こくりと頷く。
足元には変わらず気持ちの良い青空があり、けれど足裏は確と頼りを得ていた。空に魔法蝶たちが描き出した不可視の足場が、能力者たちを支えてくれている。
果月はすいと、燃え落ちる聖堂から飛び出てきたドラゴンストーカーへその視線を流す。
「……あちらさんがしてるんは、元の船があらへんソレやねぇ」
「そう、ですね。……犠牲になったひとたちの嘆きの声が聞こえるよう」
これ以上の犠牲が出ないようにしなきゃ、とささやく透の言葉に、そうだねぇ、と殊更のんびりと応えたユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)が蝶の足場に降りてくる。その身に満ちる魔力がふわりと銀遊色に揺れて、ユオルの身体とメスへと巡った。じきにあの教祖はこちらへ気づくはずだ。
「それにしても、綺麗な足場だよねぇ」
「はい。……こういう状況じゃなかったら、しばらくぼんやり見ていたいかも」
果月とユオルのやわらかな穏やかさのおかげで、透も自然と緊張せずに話すことができた。内心胸を撫でおろして、はたとする。自分のことでいっぱいになっていたけれども、
「シロ、落ちないように気をつけてね」
「わん!」
すっかり縁取る蝶たちの煌めきにつられてふんすふんすと鼻を寄せていたふわもこの白犬である白露が気の抜けるような満面の笑みで顔を上げる。その真上から人影がふわりと飛んだ。
「蝶さんたちありがとう……ダイブしても良いー?」
冗談だけれど、とさほど表情を動かさないまま、白水・縁珠(デイドリーム・h00992)が蝶の足場へ降り立つ。わん、と蝶に代わるように白露が歓迎するのを縁珠は流れるようにもふりとしてから、なんでもない素振りで狙撃銃を取り出した。ぺたんと寝転がるようにしてスコープを覗いた片手で、淵に舞う蝶をそっと撫でる。
「このまま、私の支えになってくれる? 一緒にさ、虫けらって上から目線の顎をベシってしようぞー」
そう言いながら縁珠は標的が射程内に収まるのを待つ。そのスコープの至近に、ひょこりと覗く姿があった。
「わぁ、蝶々さんたちは何でもできるのです~! スゴイ!」
目を輝かせたレア・ハレクラニ(悠久の旅人・h02060)も透明な足場へと降り立つ。けれどもきらめいた瞳は足元を見て、さっと色を変えた。
「うわぁ、高いのです……落ちたらレア、ヤバいです?」
「落ちなかったらいいんだよー。……あ」
のんびりと相槌を打ちながら改めてスコープを覗いた縁珠の見る先に、ドラゴンストーカーが映る。
「みんなー」
きたよ、と告げる代わりに炸裂した縁珠の銃声で、穏やかだった空の気配がぴんと張りつめた。
「――ああ、こんなに虫けらが!」
空を切り取る蝶たちを、その足場に集った能力者を見つけたドラゴンストーカーは既に満身創痍に見えた。しかし狙撃を受けてなお眼差しは狂気に浸されて真っ直ぐなまま、目の前の教義を否定するものたちを容易く唾棄する。
「この美しい光景を見て、よく『虫けら』なんて言いましたね」
そのさまをこそ、茶治・レモン(魔女代行・h00071)は冷たい無表情で見据えた。
「この空に不釣り合いなのは……いえ、この地に不釣り合いなのはあなたの方です。ご退場下さいませ」
なにを、と教祖は激昂する。けれども追い詰められた末に口汚く罵る言葉を、レモンの隣でレアはきょときょととまばたくまま聞き流した。
「この空に真竜さまがた以外が居座っていいはずがない!」
「え? レアはレアの気分で決めるです」
ぷい、とレアは頬を膨らませて顔を逸らす。その隣に、少し遅れてナギ・オルファンジア(■からの堕慧仔・h05496)が降り立った。
「ああ、間に合いましたね。ナギは信仰も贄も否定する事はありませんけれども、自ら差し出されない贄に価値は無いとも思っておりまして」
そこまで語って、ナギは言葉を止める。その口元がほうと呆れた息をついた。
「……まぁ、どうでもよろしいか。君は死骸でその身を飾りたいだけなのだろうからねぇ」
「そうやろねぇ。――ほな、まずはアタシのかいらしい小鳥たちといっぱい遊んでもらうわ」
くすりと笑った果月が、手をひとふりして小鳥たちを喚ぶ。囀りと共に現れたのは、愛らしくもふもふとした小鳥だ。つぶらな瞳で首を傾げる小鳥たちへ果月は微笑んで、遊んどいで、と送り出す。風の刃を纏った小鳥たちは一斉に飛び立ち、ドラゴンストーカーへとその鋭い無数の羽ばたきをあびせる。
それに合わせてユオルも空の足場を駆けて、小鳥たちが容赦なく断つドラゴンストーカーの身の手首をメスですいとなぞる。
「――あぁァ! 貴様、貴様ッ、ドラゴンプロトコルの御方の御体を……!」
「でもキミは同意なく刻むのが好きなんだよね? なら同じ手法を採用してあげる」
ボクでさえ解剖するなら相手の了承を得るのになぁ、とユオルはゆるゆる目を伏せる。仕事柄解剖は慣れたものだ。けれど一方的に切り刻むような真似はしない。
「ボクは眠っている間に組織を切り取ったら、記憶も傷跡も残さず、欠けた部分を綺麗に元通りにするもの。キミと一緒にしないでほしいなぁ。ああでも、もちろんキミは治さないよ」
だってこれがキミのやりかたでしょ、とゆっくりと笑って銀の魔力を纏うメスがドラゴンストーカーの身を刻んでいく。あがる悲鳴は聞くに堪えたものではないが、それでも教祖は手にした大剣を力任せに振り回した。振り上げられた大剣を縁珠の銃弾が阻むように撃ち弾く。
その隙にレモンが空の足場をすいと進んだ。
「だから退場をお願いしましたのに。――それとも、せめてお見送りしましょうか」
集え、集え。
レモンの声に応えるように、蒼天に次々とインビジブルたちが漂うその身を並べた。率いるように並ぶ死神がその列を葬列だと示している。数多のそれらは生者のなれの果て。そこにはドラゴンストーカーが身勝手に|殺した《すくった》ドラゴンプロトコルもいるのかもしれない。
(いいえ、正体が何であれ、どうでもいいことです)
誰かの無念を身勝手に力を翳す理由にすれば、それはある種教祖と同じだ。だからこそ。
「これは僕がただ、あなたを許せないだけ」
自分の意志を自分の力で示す。教祖が語ったことのなにひとつ、レモンは許すつもりもなかった。
「立派な教義ですが、教えなど説いて頂かなくて結構です。理解する気もないので! ……なにより、僕だけに構ってて大丈夫ですか?」
レモンの呼んだインビジブルたちが一斉にドラゴンストーカーへ雪崩れる。それに紛れるように、透も駆け出した。
(力では敵わないだろうから)
ならば取る手段は攻撃の手数。この数に紛れてしまえば、殊更にやり易いはずだ。素早く透明な足場を駆けて、教祖が大剣を大きく振り回してインビジブルたちを払う隙に潜り込む。そうしながら、手にした苦無を投げつけた。的確に教祖の急所を狙う暗器を躱そうとした瞬間を、透の足が強かに蹴りあげる。
(手応え……あしごたえ?)
力いっぱい蹴ると同時に放った毒針は、深くその身に食い込む。それを確かめて大剣が落ちてくる前に透が身を引く――刹那、ドラゴンストーカーが獣めいた声をあげて、衝撃波もろともインビジブルの群れを、能力者たちを吹き飛ばした。
「おや危ない。火事場のなんとやら……でしょうか。聖堂は燃えてますし。|能力者《みなさま》方、よろしければこれを盾にしていただければ」
煙管をふかしてナギが煙に巻くふうで呼んだのは、空を游ぐ『鱗有す者ども』。数多のそれらはインビジブルともヒトともよく似た動きで揺蕩い、その身に鱗を光らせる。こんなふうにね、と鱗のそれらを周りに置けば、足場から押し出すような敵の衝撃を多少いなすことができる。そうしながら、地這い獣にも牽制を頼んだ。
「助かるです~! レア、今から魔導書を確かめるので!」
ぱあっと声をあげたのはレアだ。その手には今日迎えたばかりの魔導書がある。いっそ頼もしいまでのマイペースに、ナギも「それはよかった」と煙を吐いた。
「なら私は少しあちらの傷でも抉ってこようか。準備ができたら、遠慮なく使ってくれてかまわないよ」
「はいです!」
元気よく応えたレアは、ナギの残した鱗の群れに盾を任せて、宣言通りに魔導書を開く。こんなときだけれど、しっかり心はわくわくしていた。
「なにか新しい魔法は増えていないですか~」
ぱらぱらと頁をめくる。――変わらない白紙が続くかと思われた魔導書は、しかし唐突に文字が浮かんでいる頁ができていた。
「え? いつの間に!? これ、呪文です?」
好奇心が赴くまま、レアは素直に呪文をなぞりだす。
それと時を同じくして、ドラゴンストーカーが姿を変質させはじめていた。インビジブルの群れにその身を喰われたドラゴンストーカーが真竜へと姿を変えようとする。
まずい、と囁いたのは縁珠だ。能力者たちがその周囲を離れていることを確かめて放たれたのは氷の魔弾。凍てつくそれは青い流星群のように輝いて、大きな音と共に竜へと降り注ぎ、ドォンと連続で打ちあがる花火のように、空に美しく炸裂した。紛い物の真竜の姿になりかけていた竜が、半端なままにその動きを氷漬けにされる。
「思ったよりちゃんと凍った……、けど」
「なぁんか、やな感じやねぇ」
縁珠がきょとんとしたそばで、果月が小鳥たちを呼び戻す。ギ、ギギ、と凍り付いた竜が巨体を、その口元を大きく開こうとして。
「み、みなさん、これ一度飛んだほうがいいかもしれません!」
レモンが魔道具で空へ一度飛び上がり、咄嗟に他の能力者たちもそれに倣った。
「わかりましたー!」
レアの嬉しそうな声が呪文を紡ぎきったのはそのときだ。魔導書から召喚された幻の蝶は、空に足場を作った蝶たちと反対色の水色で、色は違う。その蝶がひらりと蝶たちに混ざるのと、真竜から灼熱のブレスが放たれるのはほとんど同時だった。
皆が咄嗟に飛び離れた透明な空の足場が青く輝いて、灼熱のブレスを反射する。
「こっちの蝶々さんもスゴイのです……!」
「でもちょっと君は危なかったね、んふ」
きらきらと目を輝かせるレアを鱗たちに運ばせたナギは自身のブレスに焼かれた竜紛いのそれを空から見下ろす。
「すっかり燃やしてしまったら、あの力は半減したりするのかな」
「どうやろねえ、元々本物でもあらへんし」
興味本位に落としたナギのつぶやきを拾った果月は、崩れるばかりの竜のできそこないに静かに目を細めた。
「似てるけど違う欠片を寄せ集めたかて、本来のモノにはならへんのやで」
「これは実に美しき舞台だの。助太刀感謝するよ、蝶々たち」
空に広がる魔法蝶たちが作り出した空を透かす足場に、ツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は微笑んだ。
「ああ、蝶たちの助力は有り難い限りだな。有効に活用させて貰おう」
実用に足るか確かめるようにとんと足を鳴らしたのはアダルヘルム・エーレンライヒ(月冴ゆる凍蝶・h05820)だ。
戦い慣れたその仕草とは真逆に、歓声をあげたのは、望月・翼(希望の翼・h03077)だった。
「わぁ……! 戦いの場だけど、綺麗だね。ありがと、空の足場をくれて。オレも引き続き頑張るね」
「あんまり気を抜いてるなよ」
足場と空――ドラゴンストーカーが聖堂を飛び出してきたそのさまを睨んで、春待月・望(春待猫・h02801)は竜へと姿を変じた。
(ドラゴンプロトコルにご執心なら流石に馬鹿にするなと怒るんだろうが、ニセモノはニセモノらしく暴れてやるよ)
どうせあちらも似たようなものだ。激昂を煽れるのならそれでもいい。
「望くんも気をつけてね。……カフェオ、お願い」
翼は再び護霊の獅子を呼んで、その羽ばたきを竜の姿の望のそばへつける。そうして視線は注意深くいまにもこちらへ突っ込んできそうなドラゴンストーカーへと向いた。
翼と望の様子を、ツェイとアダルヘルムはつい幼子を見守るように見る。
如何せん時の感覚を鈍らせた者同士、ひとらしく真っ直ぐな様子はいっそ眩しくさえある。しかし、正道を彼らが行ってくれるのならば。
「……化かすが妖の本質。姑息な罠には、それ以上に姑息な罠にて報いよう、のう騎士殿」
「ああ、そうだともツェイ殿。知っているか? 妖精種族の中にも、悪戯好きな種は存在しているんだぞ」
交わす笑みは子どもたちとは真逆の悪いそれ。悪童めくひそめた笑い声に、翼がきょとりとまばたいた――その視線の先で、ドラゴンストーカーがこちらへ狙い定めた。
「望くん、来るよ!」
知らせと共に翼の念動力がドラゴンストーカーへ放たれる。その動きが鈍った瞬間、竜の姿の望が変じた巨体の勢いそのままに身体ごとぶつかった。鈍い音と衝撃が空を揺らす。
「その姿……真竜さまへの愚弄と知れ!」
「なんとでも言え」
予想通り教祖の逆鱗には触れたらしい。望は爪を振り下ろすと共に、焔を放ち、既に満身創痍の敵を更に追い詰めていく。
返される大剣を望が躱せば、後の隙を埋めるようにカフェオが攻撃を放つ。
「望くん、カフェオ、まだ来る!」
翼の声で望とカフェオは機敏に動きを変える。竜の姿を取ったとて、教祖の攻撃は重い。身体ごと断とうとする痛みを耐えきったところで、傷をカフェオの光が治してくれる。
「――大丈夫だ」
翼から言われる言葉が予測できたから、先んじて言って再び望はドラゴンストーカーへと向かう。
「お前はご執心かもしれんが行き過ぎて暴走した想いほど厄介なものはない。とっとと失せろ、ストーカー」
振り上げられた竜の爪が、ドラゴンストーカーを蝶たちの足場へと叩き落とす。
轟音と共に落ちてきたそれに、来た来た、とツェイは笑い零した。
「告げよ謳い手。――悪意以て来たる者を抱き留めよ」
既に透明な足場に花を広げていた淡い光を灯す待雪草が教祖を絡め取る。同時に花蔦に潜んだ胡蝶たちがふわりと舞って、麻痺毒を一斉に浴びせた。翼と望が真っ直ぐに攻撃を叩きこんだ上での幻妖な罠は、ぬかるみに引き摺り込むように教祖の動きを酷く鈍らせる。
「ふふふ、花に寄る蝶も相俟って、中々良き眺めではないか。……あとはアダル殿に御任せしよう」
「ふは、荒事は任せ給え」
待っていたとばかり、アダルヘルムはすっかり花蔦と胡蝶に囚われたドラゴンストーカーを覗き込む。その手が蔦ごと教祖の身体を掴み上げた。
「蔦ごと吊し振り回すほうが好みか? それとも大剣で身を削られるほうが好みか?」
「な、にを」
「まあ、好みなぞ知ったこっちゃ無いが」
唇を歪めて至近で笑ってみせたアダルヘルムに、教祖は本能的に身を竦ませたように見えた。それにさえ構わずその身を放り投げ、大剣で削ぐように斬り飛ばす。
ドラゴンストーカーは叫びをあげながら、姿を変じようとしたようだ。しかしアダルヘルムが、絡んだ花蔦が、爆ぜるツェイの符がそれを許さない。
「うむ、やはり荒事となると活き活きしておられる」
「お互い様だろう。――頃合いか?」
「ん?」
ひょいとアダルヘルムがドラゴンストーカーを花と蝶のぬかるみへ再び叩きつけた。それを覗いて、くふくふとツェイは笑って頷く。爆ぜる符が、ばちりと音を立てた。
「そろそろお疲れであろう、狂信も仕舞いにするがよいさ」
全て焼き却す炎が花蔦へ絡む。一瞬のうちに燃え上がるそれは、逃げる間も与えずドラゴンストーカーを飲み込んだ。おそらくあったろう絶叫が、大きく爆ぜる音に紛れる。
すごい、とつぶやいたのはおそらく翼だった。その傍らに戻った望とカフェオも、呆気に取られたように燃え尽きるばかりのドラゴンストーカーを見る。
「ふふ、そちらの奮戦あってのことだ」
「ああ、そうだとも」
ツェイとアダルヘルムが翼と望へ声を向ける。しかし笑って見せながら、ひそめた声はいささかばつが悪そうでもあった。
「……気の所為かの、どちらが悪側ともつかぬのは」
「俺たちが悪者? ――まさか、悪を討っただけの筈だよ」
「蝶々さんは……ここでも力を貸して下さるのですね」
空に描き出される魔法蝶たちが作る足場にそっと足裏をつけて、セレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)は長い睫毛を揺らして微笑んだ。そのひとみが空を見上げる。
「あのひとが……わんこさんたちの飼い主ということでしょうか」
視線の先には燃え落ちた聖堂から逃れたらしいドラゴンストーカーがいる。既に深手は負っているだろうことは、空に揃った能力者たちからして間違いがない。
「鴛海さん、もう少しだけ……お力添えいただけますか?」
おずおずと問えば、鴛海・ラズリ(✤lapis lazuli✤・h00299)は隣でやわらかく頼もしい笑みを浮かべた。
「勿論、セレネ。一緒に行くのよ……!」
セレネと同じように、ラズリも助力してくれる蝶たちを見て微笑む。青空に舞うひかりが、背中を押してくれるようだ。
「わんこさんの飼い主もきっちり懲らしめなきゃ」
「はい」
ほっとしたように微笑んで、セレネは再びドラゴンストーカーをその青いひとみに映した。
「――凍てつく空の嘆きを、あなたに」
空に願えば、応えの代わりに無数の霰が降りしきる。弾丸のように打ちつけるそれはドラゴンストーカーからの視界を塞ぐと同時に容赦なくその継ぎ接ぎの身を打ち据える。
「あなたの望み……叶えさせるわけにはいきません」
「ああまた、また虫けらがわたくしの邪魔をする……!」
ドラゴンストーカーが余裕のない声を零す。セレネが齎す霰の弾丸に耐えきれず、その身は下へ、蝶の足場の近くまでじりじりと落ちてくる。
「逃がさないわ」
それを迎え撃つように、今度はラズリの氷華が一斉に咲いた。教祖が振るいかけた灼熱の竜腕をふたつの美しい青が降り覆っていく。
「これ以上ドラゴンのみんなを弄ぶような振舞いはさせないの」
ラズリは動きの鈍ったドラゴンストーカーの縫合痕を狙って影業の糸を手繰る。
「継ぎ接ぎが雑ね」
あきれたように零すのは、ラズリが縫い上げる側にいればこそだ。無理やりに継ぎ接ぎされた身体からは勝手な自己満足しか見出せない。
「なんだか……かなしいですね。いのちは、他者が好きにして良いものではないのに」
こうして刃を向けなければならないのも悲しいですが、とセレネは空舞う剣で振り回される大剣を弾いた。憂いを帯びるその表情は、しかし真っ直ぐに据えられる。
「あなたが無垢な命を奪うというならば容赦はしません」
「……そうね。――あめあめふれふれ、星の花」
降りしきる氷雪が、六芒星を宿す氷華がドラゴンストーカーのいびつな身体を覆い尽くしていく。
「いのちはどんなときも自分だけのもの。干渉し奪っていいものなんてひとつも無いのに」
それがたとえ、信じるもののためであっても。
そこまで口にして、ラズリはほんの少し澄んだ色の瞳に自嘲するような色を浮かべた。
(人形の私が尊さを説くだなんて、烏滸がましいかもしれないけれど)
それでも等しく、雨は降る。青い空に輝く氷華たちは、ドラゴンストーカーの燃え落ちる身体をきれいに凍らせ、砕ききる。
蝶の作り出す空の足場に、ずるりと蠢くものがある。
満身創痍、あるいはそれ以上に幾度も殺された身を引き摺り起こすドラゴンストーカーに、キール・フレイザー(唯一無二・h00613)はにこにこと笑いかけた。
「やあ、無粋オブ無粋でお節介オブザイヤー君」
ずいぶんと追い詰められているねと覗き込んでやれば、ドラゴンストーカーはキールの姿を目に映して歓喜の色を見せた。キールが崇拝する存在のひとつだと認知したのだ。
「ああ、ドラゴンプロトコルの御方……! わたくしに救われに来てくださったのですね。どうかそのお名前を――そしてその身をわたくしと共に、」
恍惚と伸ばされたその手を、キールはひょいと振り払う。
「僕の名前? 教えてあげない。僕の身体も豆粒一個分だってあげないよ」
ドラゴンストーカーは信じられないように目を瞠る。どうして、と唇をわななかせるその様子に、むしろキールは心底不思議そうに首を傾げた。
「え、当然だよね? 蝶々君への虫けら発言に、名前も顔も知らない同胞への色々……」
キールは言いながら、適当に指を折ってみせる。実際に目にした事件はこれが初めてではある。けれどそれだけで充分判断には足りた。
「君はそう! 万死っていうのに値するからね!」
ばちん、とウインクを至極明るく決めてやる。狂信の徒へなんて|ご褒美《ファンサ》だろう。――だって、キールは決して怒ってはいないのだ。その欠落が怒りを許さない。ただ当然だと思っている。自分が偉大なことも、今日ここで彼女が倒されることも。
「よくご覧」
累積したダメージのせいか、あるいは崇拝する存在からの拒絶のせいか、動きを僅かに止めたドラゴンストーカーの眼前でキールは白い炎を喚んだ。その手のひらで灯る炎は美しい蝶の群れの形を取って教祖の身を燃やしはじめる。
「――あァア!!」
「ほら、綺麗だろう? 虫けらなんて言ったこと、死ぬまでにちゃんと後悔しておくんだよ」
白炎の中でのたうち回るドラゴンストーカーの叫びを聞き流して、キールは炎の勢いを強めていく。その途中で暴れまわる竜紛いの身をひょいと避けて、更に綺麗な蝶で彩ってから目を離した。別に、見届けてやる義理もないのだ。
「それに、僕はとっくのとうに僕自身と鏡君に救われてるからね!」
家で待つ鏡君のことを思えば、にこにことよい気分になってくる。そうだ、帰ったらまず何から話そう。まずは今日あったことがいい。
「指輪君も紹介しなきゃね。きっと君のことも美しく映してくれるよ」
楽しみにしておいでと指輪を撫でながら、キールは見ないままにさらに炎を強めていく。ひらひら舞う白い蝶が美しい。それを背に空に立つ僕だって当然に。
やがてその勢いが小さくなるのを感じて、ようやっとキールは背を振り向いた。
そこに、ドラゴンストーカーの姿はない。気配もなかった。同胞から奪った身体はきっと、ついにすべて燃え尽きたろう。
「君のお節介オブザイヤー更新もここでお終いさ」
身勝手な崇拝を、真なる竜がにっこり笑って拒絶する。
●蝶の天窓
――その頃、空の下で変わらず続くパピヨン・オクルスでは小さな歓声があがっていた。
空に蝶が描く円が見えたのだ。きらきらと、空のそこかしこでなにか光っているような気もする。
|蝶の天窓《パピヨン・オクルス》だ、と誰かが声をあげる。それを友人と共に見上げて、ドラゴンプロトコルの少女も楽しげに微笑んだ。
空を切り取った蝶の天窓のその先で葬られた狂信に、露天を楽しむ誰も気づくことはない。