鍍金の王冠
●悲喜劇
シャンデリアが上げる絶命の声が甲高く響いた。
ラウンジの床に落下してなお、その残骸は美しい。透明度の高いクリスタルガラスが、燃える船内の炎に彩られて赤く煌めいている。壊れた照明は沈黙して、非常灯の薄い緑だけが頼りない。甲板へと開け放たれた扉の、船首のその向こう。凪いだ水面を月が仄かに照らしていることが、別世界の様だった。
非常ベルの耳障りな音と、人々の悲鳴。優秀だと雇った部下たちは皆逃げ出した後。屈強なボディガードも侵入者により伏して動く様子が無い。
何故こうなってしまったのか。
客船の主――ヴィクター・グラッジは憎々し気に顔を歪める。
分かることはただ一つ。
この惨状の原因が、動じもせずにこちらへ歩みを進める侵入者であるということだ。
「お、お前は誰だ!」
呼んだ覚えのない、みずぼらしい、作業員の様な身なりをした髭面の男。フードと季節外れのマフラー、それからサングラスのせいで表情は読み取りづらい。異形の影と額の瞳は何らかのコスプレだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
「許されると思うなよ、私の船で、こんな」
「……許しを請う気など無い」
返ってくるのは低い声だった。火の粉で焦げた絨毯を、無骨な靴が踏みしめるのが見える。その手に、一振りの刃を携えて。
「こんな真似をして――ひっ」
男が進路を塞いでいたテーブルを蹴り飛ばせば、重い音をたてて転がっていった。近付かれた分だけヴィクターも後退れど、震えた膝ではそう上手くはいかない。転がった椅子に躓き無様に転べば、撫でつけていた髪が乱れて顔に落ちる。それを直す間もなく突き付けられた切先に、情けない悲鳴が上がった。
「何が目的なんだ……!」
船の完成お披露目だと、この日の為に仕立てたスーツはすっかり汚れてしまった。口髭もどこか焦げたのだろう臭いがしている。
何故――何故、こんな目に。
「か、金ならいくらでもある! だからどうか、どうか命だけは助けてくれ!」
涙交じりの懇願に、されど侵入者は動じることは無い。
覗く緑の瞳は冷め果て、振りかぶる刃には何の感情も乗らぬまま。
「お前のような人間ばかりなら、俺の仕事も随分楽だっただろう」
命は、散らされる。
●強欲たれ
「みんなは資金繰りってどうしてるかしら?」
開幕下世話な話である。
アタシ個人事業主だから大変なのよ。相変わらず人の話も聞かず星詠みの白い男、僥・楡(Ulmus・h01494)はため息交じりに続けた。
「地道に稼ぐっていうのも手だとは思うわ。でもね、一番良いのは素敵な得意先を見つけることよ」
そう言って差し出す書類には一人の男が記されている。
灰色の髪に、切りそろえられた口髭。細身の体を上等そうなスーツに身を包んでいるが、目付きに性格の悪さが滲み出ていた。名前はヴィクター・グラッジ。年齢は五十代後半。三年前に離婚済みで、大きな企業をいくつか経営していると記されている。
「一代で成り上がるなんて凄いわよねぇ、でもその分後ろ暗いことも沢山。闇取引に騙し合い、従業員にパワハラなんて日常茶飯事みたいよ。まぁ分かりやすく言えば“悪い金持ちオジサン”ね」
雑な言いようである。
だが彼こそが今回、サイコブレイドに狙われるAnker候補だという。
「どうせなら恩でも売っておけば良い金づ……スポンサーになってくれそうじゃない? もっと縁が繋がるようならATMみたいなものよ。だからどうかしらって」
最悪の提案である。
とはいえ、いくら悪人と言えど命は命だ。奪われるのを見逃すのは寝覚めが悪いのもあるだろう。率先して助けたくなる相手ではないとしても、まぁ知ってしまったのだし。遊びついでに行ってらっしゃいな、と楡が差し出す封筒は幾つか。
「ちょっとした客船を作ったみたいで、海上パーティーをするそうなの。はいこれ招待状。事件が起こるまで最上階のプールではしゃぐも良し、デッキから夕陽を見るもよし、カフェでシャーベットを食べるもよし」
ある程度のものは揃った船だ、思い思いにひと夏の思い出が過ごせるだろう。
そして日が暮れ、夜になれば襲撃者がやってくる。帰港できないようにするためか、まず船の破壊を行おうとするらしい。それを阻止し、サイコブレイド本人も撃退すれば今回の仕事は完了だ。
ところでその招待状はどうやって入手したのか。その問いが含まれる視線に気が付いたのか、星詠みの男はにこやかに笑みを浮かべる。
「出来れば行きたくないからって、譲ってくれる人が多かったのよ」
商才はあっても人望が無いのねぇ。
しみじみと落とされた呟きはどこまでも無慈悲だった。
第1章 日常 『楽しい船旅を』
●束の間の
客船の最上階。プールの外縁は水で覆われて、視界に映る境界を曖昧にする。橙色に染まりゆく空と海の中で浮かぶような心地を味わえるだろう。
船前方、一階のラウンジではカフェバーが併設されている。各種ドリンクに冷菓を取り揃えているが、夕方にだけバタフライピーレモネードがメニューに加わっていた。窓辺の席に座って、移り変わる色を目と味覚で味わうのも一興かもしれない。
そこから甲板へと出れば、夕日が一番よく見えた。晴れた空で小さな雲が一つ二つ。海風は夕暮れの向こう側から、夜の気配を少し連れてくる。
広い海原を遮るものは何もない。なだらかなカーブを描く水平線の向こう、沈みゆく太陽が、水面の上にひかりを散りばめる。
夜へと向かう船旅は、未だ暫しの平和に包まれていた。
「皆楽しんでいるかね? この私が作ったものだから当然ではあるが――」
|主たる男《ヴィクター》もまた、襲撃など全く考えていない様子で船内の様子を見て回っている。髭を指でなでつけ、嫌味たらしく革靴を響かせて歩いているので居場所は分かりやすい。
「かけた金の分、しっかりと君たちが楽しんで、船と私をSNSなどにあげてくれ! おっと、これは依頼じゃない。皆の気持ちというやつだ! 良い船に乗る機会を与えてやった私に対する、圧倒的感謝というな!」
調子に乗っている人間の見本がそこにいた。
どこか生温い付き人達の拍手をBGMに、男は高笑いをしながら船内を闊歩する。
――すごく自慢がしたいのだなぁ。
その背を見送る人々の白けた視線には気付かないまま。
そんな若干のノイズがある船旅だが、事が起きるまでは概ね自由だ。
何をしたって構わない。どうせ、人の金である。
●錨たるは
高いヒールのサンダルの足首で、レースの裾が柔らかに踊る。
何事にも相応しい装いというものがある。佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)が纏う深い夜の色をしたパンツドレスはノースリーブのシンプルなシルエットで、黒のビーズが刺繍の波の上でひそやかに瞬いていた。
クローゼットに眠るフォーマルドレスたちは幾つかあれど、後々のことを考えれば動きやすい方が良い。妙に煌びやかな客船に似合いの――そしていずれ悲劇に見舞われる男の餞としては満点だろう。
(……あ、死なせちゃダメ?)
思考のブレーキはぎりぎりの所で踏まれた。まぁ些事だとばかりの軽い調子の胸中は、女の表情に影響は与えない。席についたラウンジでレモネードを注文する間も、悠然と笑みを湛えたままだ。
船の主の取引相手か、どこぞの富豪か、それとも華を添える為のモデルか。客人として疑われる要素なんて欠片も無いまま、手元にやってくる一杯。快活とした青い瞳が興味深げに見つめてから、一口。
爽やかな柑橘の酸味に炭酸はスッキリとした味わいだけれど、それだけだ。期待以上も以下も、驚きの一つもない。
(そういうとこも“っぽい”わ?)
グラスを彩る青から紫のグラデーションは綺麗なのに。どこもかしこもハリボテみたいねとグラスを持ち上げ揺らせば、今日の|主役《ヴィクター》が歩いていくのが見えた。あんなにも踵を鳴らしていれば靴底は良く磨り減ることだろう。きっと贔屓にされている靴屋は大喜びに違いない。
この飲み物に似て外面ばかりの人間が、果たして誰かの|拠り所《Anker》になり得るのか。人だけでなく物や金銭、時には思想や概念のようなもすらそうと機能するのならば、男の持つ財力もそうなのだろう。
(だったら黙って価値を提示してくださる方が良い気もしますけれど)
まぁ考えても仕方が無いことだ。座った足を組みかえれば、爪先が軽くテーブルの脚にぶつかる。その音が聞こえた訳でもあるまいに、男がこちらを見た。
ぱちりと目が合うそちらへ、微笑み一つ。途端相好を崩した相手の顔はやはりちっぽけな人間にしか見えない。挨拶回りで忙しいのか、すぐに慌てた咳ばらいを一つ挟んで立去ってくれたのは有難いけれど。
正直「これが?」と首を捻りたくなるのは否めない人物だ。財布の中身だけ差し出してくれたっていいとすら思う。性格の悪さの溢れる顔立ちのオジサンよりも、現金の方が|愛せる《キュートな》形をしているので。
本人にぶつければ怒り狂うだろう言葉も、グラスの中身と共に飲み干せば誰にも見つからない。
今日も演技派女優として美しい笑みを浮かべたまま、橙子は賑やかな足音を見送った。
●心構えは強く握って
見渡す限りどこもが綺麗に整えられている。
エントランスは彫刻のあしらわれた大階段。廊下の絨毯はふかふかで、照明の一つとっても謎の装飾が施されていた。豪華だなぁとは思いはすれど、それがどういった意味合いなのかはさっぱり分からない。ただ感心する様子で「わあ」と、思わず口を開けて辺りを見回してから、月依・夏灯(遠き灯火・h06906)は慌てて背筋を伸ばす。いけない、明らかに一般人過ぎては摘まみ出されてしまうかもしれない。
ぽいと海の上に放り出される自分を想像して首を竦めた。己に憑いている猫神さまが大激怒してしまうのは面倒なので出来れば避けたい。
だが落ち着かないのも仕方がないこと。何せ仕事でもなければ縁のない場所だと彼自身が思。物心ついたときから慌ただしいばかりの人生を送ってきた身だ。過度の豪華さなんて、絵物語の中でしか知らない。
なるべく余裕があるよう歩みはゆっくり。ラウンジを経由して、向かうは甲板へ。手にはドリンクと軽く摘まめる焼き菓子を。
「にゃんこ、頼むから静かにしててね……あ、これ美味しい」
船に乗った時から不満を訴える猫神を宥めるようにして夏灯は菓子を一つ頬張った。バターがたっぷり効いたこれなら自分を齧ってくることもあるまい。涙ぐましいご機嫌取りの必要性に多少遠い目をしたくはなるが、気を取り直して目当ての姿を探していく。
「やあ、ヴィクターくん!」
分かりやすい足音は見つけやすいにも程があった。
この船の主へ小走りで駆けよれば、結わえた茶色の髪が尻尾のように揺れる。
「今日は招待をありがとう! とても良い船だね、一緒に写真撮ってもいいかい?」
「おお! いいとも、是非撮ろうじゃないか!」
近くにいた警護の人間に撮影を頼めば、船の上階を背景に良い一枚を撮ってもらえた。優美な曲線を描く造形は無機質さからは遠く、絵になるなぁと感心ばかりを覚える。
「君はとてもお金持ちなんだね……大変な苦労もあっただろう」
「当然だ! 私の人生が簡単だと思われたくはないね」
「じゃあ、どうやってこの荒波を乗り越えてきたんだい?」
純粋に興味があった――悪人だとしても、此処に至るまでの彼の人生に。
「航海を続けるには人の力が必要不可欠だからね。君のアドバイスが欲しいんだ」
「なかなか見込みのある坊主じゃないか。いいか、私のモットーは行動無くして成果は得ず、だ!」
好奇心がのぞく夏灯の眼差しの奥に、彼自身の深い苦労を感じたか否か。ヴィクターも片眉をあげて面白がるように応じる。
「どん底にいても這い上がってやろうという意思さえ手放さず、自分で強く持っておくといい」
最期まで立っていた者こそが勝者というだろう?
胸を張るその姿に、思わずと夏灯も噴き出した。夕暮れの中、話を聞いてくれる相手を見つけたヴィクターの声が楽し気に海原を駆ける。
少しばかり長くなりそうな話だけれど――誰かの軌跡を聞くのは悪くない時間になるだろう。
●夏にひといき
猛暑と言っても限度がある。
そう言いたくもなる夏だった。好んで着る服の色と相性が悪すぎる日差しに、気温はどこまでも遠慮が無い。苛立ちは募れど、暴れたところで自分が暑さに茹るだけだ。
そんな不毛さを覚える日々に飛び込んできたのが今回のお仕事。演目は悪い金持ちの悲喜劇ときた。オジサンの悲鳴は涼やかな歌声とは程遠いだろうが構わない。一時この暑さから気を逸らせるなら何でもいい。八つ当たりじみた心情で緇・カナト(hellhound・h02325)は船に乗り込んだ。
最終的には護衛紛いの戦闘も待っていると分かってはいる。しかして海風は涼しく空調もばっちりのクルーズだ。束の間の平和は快適そのもので、自分の財布が痛まないとくれば――まぁ悪くは無い。
下見とばかりに船内をぐるりと巡る足取りは軽い。物珍しさもあれど、襲撃時に戦場を知らぬままでは落ち着かないからだ。仕事に真面目、というよりは生き残るための習性か。階段を一段飛ばしで黒い影はテンポよく降りていく。
そうして廊下に出た瞬間、聞こえてきたのは大きな高笑い。ちら、とそちらに灰色の眼差しを向ければ、仕立てのいいスーツを着たオジサンの後ろ姿が遠くに見える。あれが件の男か。元気そうだ、何も知らないのが平和だとはこの事だろう。
ついでだし顔ぐらい拝んで――
(別にいらないかなァ……)
資料で見たし。近づくとなんか余計五月蠅そうだし。絶対面倒くさい性格だろうし。
うん、いらない。
そうと決まれば回れ右。逆方向へ歩みを向ける決断はに迷いは無かった。
確かこっちはラウンジがある方だったか、ついでだし休憩でもしよう。遠ざかる笑い声をBGMに、カナトは心なしか早足で進んだ。振り返る気は微塵も無い。
無駄に装飾の多い扉をくぐれば、吹き抜けの天井の解放感。時間帯的には少し気の早いアルコールの提供が始まっているようだったが、仕事前ゆえ無難に珈琲を頼むことにする。
西日が差し込む窓辺の席へつけば、テーブルでちらちらと光が跳ね返っていた。外で沈みゆく陽は仄かに赤みを帯びた黄金色で、水平線へと向かっている。夕日は何処で見たって美しいのだろうけれど、建物に邪魔されない海上のそれは格別だ。どうせならこのまま、バカンスだと割り切ってのんびりしたい。
でも戦場がこの船である以上、部外者を装う方が面倒とも言える。
(………気は乗らないけど仕事もするか)
一つ溜息をついて飲んだ珈琲は現実を伝えるほろ苦さ。
まだ時間があるならしばし休息、二杯目はレモネードの方でさっぱりとした夢を見てもいいのかもしれない。
●薄暮に憩い
大きな笑い声が後頭部をノックする。
船内に響いたそれに懐音・るい(明葬筺・h07383)は反射で振り返った。快不快よりもシンプルな驚きが強い。
そして振り返った先にいた姿を見て、紫色の瞳が数度瞬きをする。仕立てのいいスーツに整えられた髪型は決まっていると言えなくはないのに、声も動きもどこか嫌味を感じる風情の男。
「わお」
聞いていた通りではあるが、動きや音が付くと尚の事面倒臭そうな人物だ。
可哀想にも今捕まっているらしい一般人が、少々引き攣った顔で相槌を打っている。ええ、はい、そうですね。おそらくその三つの繰り返しだけ。声が聞こえるわけではないが、あながち外れても居ないだろう。ご愁傷様、とるいは心の中で手を合わせた。
『商才はあるけど人望がない』、そう聞いていたがさもありなん。天は二物を与えずというならその通りだ。彼が両方を手に入れていたなら、招待状が√能力者達に回ってくることも無かっただろう。
だが持ち得る力だけでここまで男はここまできた。一代で成り上がる為に人間性を犠牲にした、というならば分からないでもない話かもしれない。
どちらにせよ、今回の仕事では護衛対象だ。上手くいってもパトロンを頼めるかという金銭の繋がりであれば、性格面にまであれこれ口出しする気も起こらない。
いやいや、決して面倒臭そうだとかそんなこと。
言い訳は心の中でさらりと流し、るいはその場からそっと離れた。ありがとう、見ず知らずの捕まっている誰か。サイコブレイドが襲撃に来たらその時は無事逃げれるように祈っています。
逃げ込んだラウンジは夕暮れ時とあって、ほとんどの人の手の中には鮮やかな色をしたレモネード。るいの注文だって勿論それだ。炭酸と柑橘の爽やかな味わいが、どこかほっとする。
窓辺の席に座れば、橙色に染められ行く空と海の上で、ひかりが飛び跳ねて遊んでいるのが見えた。その煌めく白にそっと目を細める。
このまま何事も起こらずパーティーだけを楽しんで帰れるなら、この夏の良き思い出になっただろう。
けれど仕事があぶくのように無くなるなんて甘いことは、きっとない。
(でも、その時が来るまでは楽しんでてもいいよね)
折角の時間を緊張だけで消費するのは勿体ない。
彼女の心中に応えるように、グラスの中で溶けゆく氷が小さな音を立てた。
●かがやきひとつ、残すなら
「流石金持ちの客船だな」
やたら装飾過剰な船内を一頻り探索するのも一苦労だ。デッキの手すりに凭れ掛かりながら夜鷹・芥(stray・h00864)は息を吐いく。
眼下に見える海面は思ったよりも遠い。白い飛沫が、相応のスピードが出ていることを思い出させてくれた。船体が大きいほど揺れは少なく、何かに乗っているのだという意識は薄くなる。
「客船と言えばこれだよね!」
そんな男の思考など全く存ぜぬとばかりに、本日の同行者――雨夜・氷月(壊月・h00493)はご機嫌な様子で大はしゃぎだ。なるべく先頭の方で何故か両手を広げて数秒。
「ほら、芥! はやくはやく!」
何をすべきか分かるよね? と言わんばかりに宵月を瞳を輝かせて笑いかけてくる。海風が長い銀の髪を揺らす様だけならば様になるだろうに。子どものようなテンションに、近くで写真を撮っていたご婦人が微笑まし気に笑うのが芥の目に映った。
有名な映画のシーンだ。ある種青春的ではあるだろうが、こちらは元気に叫ぶタイプではない。とはいえ再現するまで氷月が梃子でも動きそうにないのも事実だった。その気性を知っているからこそ、芥は頭をかいて溜息一つで応じてやる。
落ちないようにと配慮で腰の辺りを適当に掴んで抱き、零す囁きは悪戯心で。
「『世界の王になったみたい』か……?」
「――俺がこの程度で満足するとでも?」
言い終わるや否や、ふは、と噴き出す声が隣で聞こえる。くつくつと片を震わせて、笑って振り向く氷月顔に浮かぶのは予想外の対応をされたからだろう。
「んっふふ、アンタはノリが良くてイイね」
「ノリ良いねえ……」
相手から手を放しながら、二度目の溜息に遠い目。この銀色の男を筆頭に、振り回してくれる仲間の多い事と言ったらない。それに対してすっかり順応してしまった己がいる証左ではあるだろうけれど。
「わあ顔死んでる、パワハラでも受けた?」
「誰のせいだ誰の」
半眼で睨みつけてもとぼけた顔が返ってくる。完全に分かってやっている顔だこれは。ストレス耐性は高い方な自負はあれど、悲しいかなツッコミを放棄する性根ではない男だった。
「しかしコレやると、沈没フラグ立ちそうだな」
「沈没? させたいの? やろうか?」
「やめろ、お前が言うと洒落にならねぇ」
打てば響く軽口の応酬。そうして返事を返してくれるから、きっと芥の周りには人は集うのだろう。氷月とてその一人で、楽しげな様子のまま伸ばした両手をぷらぷらと振って見せる。
「でもこれ確かにこれは全身で風を浴びれて気持ち良いね。芥もやる?」
「俺は遠慮しとく」
氷月を風よけにしとくからと言いながら、隣にはいてくれるらしい。小さく肩を震わせて銀色の男はわざとらしい溜息を吐く。
「残念、アンタが最初にノらなかったら無理矢理にでもやらせようと思ったのに」
「うわ、おっかねー……! お前を後ろに立たせるの何となく警戒するんですけど」
「え、心外だなぁ、落とさないって」
「うわ、馬鹿やめろよ本当に……いやお前、前出過ぎだろ落ちるぞやめろ!」
「冗談だって」
銀の男の弾けるような笑い声に、さて黒い方は何度目の溜息だっただろう。そんなことどちらも気にせず、記憶にもさして残るまい。重要なのは、ただ平和な楽しい夏の一頁が刻まれたのなら。それこそがきっといい思い出として残る筈だ
二人でくだらない事を言い合いふざけていれば、時間が過ぎるのだって早いもので。
「……ああ、前見てみろよ」
黄金色の光に気が付いて、芥が顔をあげた。
傾いた陽が、水平線の向こうへ眠りにつく時間らしい。
おやすみなさいの言葉の代わりに、空を鮮やかに染めていく。
「夕暮れだ」
「ん? あ、ほんとだ。もうこんな時間か。
続くようにした氷月も、目を細めて海の向こうを眺めた。赤く、二人が光で染まっていく。一日の終わりだ。
地平線に隠れていく太陽の方が好きだけれど、海上のそれも悪くないなと芥が零す。
そう? と陽の名残を眩しそうに見つめる氷月もまた、静かに呟く。
「夕暮れの光、俺は好きだよ」
燃えるような光の赤は鮮烈で、輝きは少しの間だけ。
そうして静かな夜がやってくる感覚は、この時間だけの特権なのだから。
●Happy-Happy!
流れる血筋は神話のそれだとしても、人の手が作った物に価値を見出せぬわけではない。
「豪華な客船だな」
船内を一頻り巡ったあと、レモネードを手に甲板へとやって来た咲樂・祝光(曙光・h07945)はある種感心したように呟く。少々華美すぎるきらいはあるが品位が無いほどでもない。使われた資材も良質なあたりに、持ち主のプライドが見て取れた。
そんな彼の隣にいるエオストレ・イースター(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)といえば。
「すごい船! 動く海上イースターだー!」
春色の瞳をすっかりと輝かせて、先程からあちらこちらと落ち着きなく動き回っている。素敵なもの、楽しいもの、世界のありとあらゆるものが彼にとっては|祝祭《イースター》であり、なるべきものだ。
「こら、エオストレ! 無闇矢鱈にイースターにするなよ」
当然、幼馴染も彼の行動には慣れたもの。暴れる前に苦言は一つ。船の先へと駆けだそうとする祝い兎の額へ、ずいと人差し指を突きつけてのご忠告。
先手を打たれた青年といえば、幼子のように頬を膨らませてご不満! と分かる表情で口をとがらせる。
「むー、いいじゃん」
「高い船だ……弁償しろとか言われるかもしれない」
「少しくらいイースターにしてもまだ大丈夫だよ! それに僕、社会的信用あるもん」
「え? 社会的信用って今言った? 君と最も遠い言葉が飛び出して驚きだよ」
聞き間違いかな。祝光は目を丸くして、まじまじと相手を見た。
何でもかんでも明るくハッピーな春をばら撒いて染め上げていく。比喩ではない、そういう災厄がエオストレだ。目を離した隙に何が起こっているか分からない謎の緊張感がある。明るく元気な人間性なら信用はしているのだが。
だがそんな幼馴染の反応などどこ吹く風の兎は、それはもう良い笑顔で。
「豪華なゴージャスゴールデンイースターにするからさ! ラビット達も大喜び! おじさんも文句ないよ!」
「あー! 言ってる側から!」
静止の声より早く、黄金の桜吹雪を派手に撒き散らした。社会的信用とは何だったのか。
傾いた西日に照らされて、金色がたいそう美しく海風で踊って流れ行く。偶然ではあるが、やけに絵になる光景だ。何か聞かれたら、豪華で素敵な船へのサプライズ祝いだとでも言って誤魔化そう。祝光は心の中で一人静かに決心を決めた。屋内じゃなくて良かったな、なんて言葉も付け足して。
「夕焼けをバックにオシャレなティーを嗜もうよー」
輝かしい黄金の中で、くるくるとエオレストがご機嫌に回っている。銀と真紅の髪を靡かせながら、嬉しそうに祝光へと振り向いて、笑う。
「祝光、お姫様みたいに綺麗だし似合うよ」
「姫じゃないし!?」
突拍子もない誉め言葉に思わずと突っ込んだ。
「エオストレの方が姫だよ!」
「僕が……姫? またまたー」
春の宵に曙を宿したような瞳も、想紫苑を纏う髪も、祝光はこんなにも綺麗だよ。
まっすぐな言葉に眼差しが本心からの誉め言葉だと何よりも分かる。ぐ、と言葉に詰まって言い返せなくなるが、己が目指しているのは別のものだ。力強くも優しく美しい、龍の頂。
だから姫はどう見たって幼馴染の方が似合いだろうに。押し問答になるだけの言葉は、バタフライピーレモネードの炭酸で喉奥へとしまい込んだ。
「あ、僕が写真撮ってあげる! ぱちり!」
自由な友人がシャッターを押すのに、一つ溜息を零しはするが――祝光の顔に浮かぶ笑顔はきっと無意識なのだろう。
「楽しそうで何よりだよ、卯桜」
本当に仕方がないやつ。
そうしていれば何やら賑やかな足音と、笑い声が聞こえてくる。そちらを見遣れば事前資料で見たことのある男が、甲板の方へ出てくるところだった。
「……ヴィクターといったか」
「あのおじさん悪い人なの?」
エオレストの長い耳が、笑い声の大きさすら楽しむようにゆらゆらと揺れる。不思議そうな顔で祝光とヴィクターを交互に見て、それから幼馴染の方へひそひそと声を潜めた。
「死んだら3日後に生き返るとしても終わりだし、生きて悔い改めるチャンスを与えた方がいいんじゃない?」
「まぁそうだね」
――早々人は変わらないけど、な
イースターの辺りは軽く流して、エオレストを見る。名家の若様だというのに、未だ無垢さを失わず。無邪気なままの幼馴染。あの男の暗く冷たい黒々とした噂とは真反対の、柔らかくあたたかな春の日差しのような青年。
「祝光はそんな人だって救うでしょ?」
その春色の瞳が輝いて笑う。
向けられた信頼なんて、今更疑いようもない。
「イースターになれば良いおじさんになれるはず、僕は楽しくイースター出来ればOK!」
これで万事解決、みんな幸せだ!
おかしな理論を振りかざすエオレストの言葉は慣れっこだ。けれど叶うならば確かにハッピーエンドなのだろう。祝光もつられて笑って、レモネードのグラスを揺らす。
恩の一つでも売っておくのならばアリかもな、なんて考えながら。
●働く前の楽しみ一つ
炭酸があげる小さな歓声が、喉の奥へと滑り落ちていく。
「レモネード美味しー!」
暑い夏には、やはりこの爽やかさが無くては。
柑橘の爽やかな後味を満喫しながら、一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)くるりとマドラー代わりにストローを回す。緩やかに変わり行く青から紫は昼と夜のあわいの時間のよう。
バタフライピーの種も仕掛けも知ってはいるけれど、楽しむ心は大事にしていきたい。魔法の種明かしが科学的なものだとしても、その美しさに変わりは無いのだから。
(しかも今日は、こーんな良い|客船《とこ》で飲めるワケだし!)
ラウンジの磨き上げられたテーブルも、座り心地が良いクッションの椅子も、手の中で曲線を描くグラスも。シンプルに美しさを追及したが故の品質だ。街中の映えを意識したお店だって当然好きだけれど、そうと意識されたわけではない高級感がある。
役得ですなァ、とグラスを揺らせばかろやかな氷の音色。
「あ、写真撮っとこ」
いけないいけない、折角の場所なのに。
あとでSNSに乗せちゃおう、きっと良い反響が見込めるだろう。ピースピースと水色のネイルが指先で煌めいて、画角を変えながら数枚。納得いく一枚に満足してスマホを置いた。動画でも悪くなかったかなァ、とは思わなくは無いのだけれど――先程から聞こえる高笑いを入れるのは伽藍のセンスにちょっと合わない。
ちらりと背後を盗み見る。仰け反らんばかりに自慢話を繰り出して、やれ何に拘ったのだと、苦労しただの、いい金額だっただの。最終的には君如きには無理な事業だよ! と笑って締める絶妙な感じの悪さ。
絵にかいたようなテンプレ嫌味金持ちオジサンだ。
星詠みが何枚も招待状を入手できたのも頷ける。一度や二度関わって終わるならいざしらず、継続的に関わるのは勘弁願いたい相手だろう。伽藍とて|√能力者沙汰《お仕事》で無ければ絶対に避けるタイプだ。
やだやだと肩を竦めて前へ向き直る。
(マ、オッサンはどうあれ、伽藍ちゃんはいつも通りにドンパチするだけよ)
視界から外してしまえば、あとはちょっとうるさいだけの雑音だ。それもすぐにどこかへと、大きな足音を立てて立去ってしまう。
残るは夕暮れのゆったりとした空気が流れる時間だけ。仕事前に英気をしっかり養うにはぴったりだ。
(あとでシャーベットも食べちゃお~っと)
確かマスカットと桃があったのは見えた。他には何があるのかな、とレモネードを飲みながら次の楽しみへと思考は移っていく。
楽しまなくては損だもの――何事も。
●約束は一杯に
清濁併せ持ってこそ社会は成り立つ。
船内の廊下をやけに大きな声と足音で歩く|男《ヴィクター》の経歴は、些か澱んだ方に偏っているようだが。
それでも今回彼が狙われるのは、自身が行った悪事が原因ではない。
「彼が無辜の民かについては大いに疑義が生じるが、兎も角阻止しなくては」
「あんなんが無辜の民な訳ねえだろ」
何とか現実を飲み込もうとしたオルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)に、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)は容赦なく言い放った。少し困ったような炎の眼差しが隣を見る。しかして、彼からも否定の言葉は出ない。
ラウンジまでの廊下で運悪く遭遇してしまった上に、進行方向が同じとなれば到着するまでのBGMが高笑いという不運の最中だ。行儀を考えないなら耳を塞いでいたいという心境は二人同じで、距離を詰めないように歩調を常より少し緩めている。
「いやマジで簒奪者じゃねえからセーフってだけだと思うぜ」
隻眼の男の意見に反対するものは居ないだろう。事前に魅せられた資料を読み進めるたびに深くなった眉間の皴が、思い出されたかのように二人に再現されている。
「出来ればアレも一緒に……」
「駄目だぞライリー、倒すのは簒奪者だ」
不穏な言葉に、弟分が間髪入れずに首を横に振った。
「駄目か。流石に」
「うん。簒奪者の方だぞ」
戦闘時のどさくさに紛れて一撃入れるだけで済みそうではあるが、それでは本末転倒になってしまう。念押しの一言に仕方ねぇな、とライナスも一先ず溜息と共に諦めることにしたようだが、眉間の皴は未だ解けない。
「ああいうの得意か? 俺は苦手だ」
「俺も好かねえ。近寄りたくもねえな」
オルテールが小声で尋ねた内容に、ライナスの返す言葉は単純明快直球の感想だ。
純粋にうるさいのだ、あの男が。自慢話も面白ければいいが、嫌味と高慢が間に挟まることにより聞くに堪えがたい。
「お前さん耳も良いだろうから一際煩えだろ、聞き流してさっさと退散しようぜ」
「じゃあ意識から外しておこう」
歩く演説という名のシンプルな騒音から解放されたのは、ラウンジに到着した直後。他の客人の話声で中和され、ヴィクター自身も早々に別の場所へと去って行く。
すっかりと遠ざかった声に、二人揃って大きく息を吐いた。まだ仕事前だというのに疲労感が凄い。
となれば早急に活力を取り戻す必要がある。併設されたカフェバーに置いてあるメニューに並ぶ商品は、何も高級そうだが関係ない。本日は全て船の主から賄われる。
「バタフライピーだ!」
その中でも今の時間限定で出されるメニューにオルテールが目を輝かせた。色の変化を楽しむレモネードにワクワクとした様子でライナスを見る。
「実物を見るのは初めてだ! 遊んでも良いか?」
「あん? 遊べ遊べ、楽しまなきゃ損だぞ」
「ふふ、ありがとう、兄様」
微笑ましいやり取りに、スタッフもにこやかに了承した。お連れ様は? と尋ねる言葉に兄貴分も改めてメニューを眺める。
「……お、酒にも色変わるのあんのか」
じゃあそれで。畏まりました。
そんな返事から暫し、渡されるグラスの青は同じ鮮やかさ。折角だから眺めのいい場所でと窓辺に腰を下ろしたのなら、意気込みひとつと竜の男はストローをくるりとひと回し。
「おお……!」
本で読んだ通りだ。やわい紫へと色を変えていく様が不思議な光景で、瞳の中の焔が楽しげに揺れる。
「……本当に色が変わるんだ! 凄いな!」
「中々良い色に変わるモンだな」
――はしゃいじまってまあ……愉しいなら良いがね。
見守るライナスも同じようにして混ぜれば同じくあわいの空と同じ変化を見せた。
「酒も色が変わるのか」
「カクテルなんかは見た目を楽しむのも多いからな」
「なるほど、成人が楽しみになって来た」
そういやまだ未成年だったか、と隻眼の男が尋ねれば一つ頷きが返ってくる。根が生真面目な青年だ、やんちゃの類はしていないらしい。
「今年のクリスマスイブには酒が飲めるようになってるんだ」
「そうか、ならイブには旨い酒を用意してやるよ」
ぱ、と顔を輝かせて「本当に楽しみにしている!」と告げる弟分の声は、今日一番の機嫌の良さだったかもしれない。
最初のグラスをあければ、まだ飲み足りないとばかりにライナスは次の注文へ。安酒など置いてないなら片っ端から飲んでもハズレはない。
「君ってよく飲むよな」
二杯目の代わりにシャーベットをつつきながら、オルテールがしみじみと呟く。そこに咎める響きは無い。
ライナスも、片眉をあげて応じるだけで呑むペースを緩めはしない。
「戦いに支障ないように、とは言わないよ。俺が君の分まで暴れてやるからな」
「何言ってやがる、この程度で戦えなくなる程ヤワじゃねえよ」
冗談なのか本気なのか。面倒見の良さが滲む青年の軽口に笑ってグラスを掲げる。
人の金で飲む酒に底は無し――一息に飲み干して、時間が許す限りは楽しもう。
●暇つぶしに勝敗は消ゆ
玩具が壊れる寸前にあげる悲鳴じみた声が、背後から聞こえてくる。
溜め息は心中だけで、五槌・惑(大火・h01780)の表情は動かぬままだ。海風に長い髪を遊ばれながらの冷えた視線の先。何やら大きな声で自慢話をしている船の主の姿が見えている。その姿が船内は戻り遠ざかっていくのを見届けてから――ようやく背後へと視線を向けた。
「ちょっとは落ち着いたか」
「はー…………すごい、あんなにテンプレなお金持ち本当にいるんですね」
今の今まで他人のフリをされていた焦香・飴(星喰・h01609)が目尻に溜まった涙を拭う。一応大声で笑うのは堪えようとしていたようだが、声を殺して存分に笑っていたらしい。我慢してたらお腹痛くなっちゃいましたと告げる男はいつだって自由だ。
「さて惑さん」
そしてひとつ面白い事が消えれば次へと行く、気儘な災厄がこの男だ。
「歩く死亡フラグみたいな彼が俺たちのお財布らしいんで、バーでも行きません?」
特に断る理由も見つからなければ、放っておくほうが質の悪い事を知っている。
惑が無言で足先を向けたのを同意と取った飴が、ご機嫌な足取りでその後へと続いた。
まだ日は沈み切っていないが、自分たち以外にも酒を飲んでいる乗客は見える。
未だ騒動が起きるなどとは知らぬまま、良いバカンスをしているのだろう。彼らを横目に選んだのは窓から離れた隅の席。夕景を見ようと窓際に集まる人々から遠く、静かだ。
「勝った方が戦闘で前出ましょうよ」
「賭けて良いのか、公務員」
飴の手元で、先程カウンターで借りてきたトランプが切られる音がする。
それを揶揄するように言いながら、惑いは手元のグラスを傾けた。年代物のウイスキーの、熟成された香りが漂う。遠慮の必要が無ければ高級品を頼んだ方がお得というもの。綺麗な球状にカットされた氷が、天井のシャンデリアに照らされて瞬くように輝いた。
「ダメな賭博も探せばありそうですよね、この船」
探しに行きます? なんて中身のないことを言いながら互いに配るカードは五枚。|ありがちな遊び《ポーカーゲーム》だ。暇をつぶすには適した形をして、数字が手元の中で取捨選択されていく。
「そういえば惑さん、お酒強いほうですか? 俺はザル」
捨てた分のカードを新しく手にしながら、飴は琥珀色のグラスを揺らす。独特な酒精の苦みは好んではいるが、意識をかき回された経験は無い。どんな感じなんですかね、とは好奇心が半分、他人事が半分。
「アンタほどかは知らねえが、酔いが回った経験はない――酒も毒のうちってことなんだろ」
「ああ、酒って毒なんだ。んはは、妙に納得しちゃった」
男の体質を思えば不思議なことは何もなかった。成程なぁと頷いていれば一週目の手順は終わり。手元を見る惑の表情に変化はなく、飴とて薄らと笑みを敷いたままだ。
「じゃあ今後よくよく誘いますね。」
「程々にしてくれ」
「いいんですよ、惑さんから誘ってくれても」
「アンタの奢りでいいのなら」
「いいんですか? タダより高い物って無いんですよ」
「今日の仕事に参加してる時点で今更だろ」
他愛もない雑談を肴に二巡目が終われば互いの手元が明かされる。スリーカードにフルハウス。駆け引きも戦略も無いなら転がっているのは運だけで、本日は惑の方に味方をしたらしい。
「えっ、やだちょっと待って、もう一回」
負けず嫌いの懇願が挟まろうとも、もう終いだとばかりにカードは集められる。未練がましい視線が突き刺さろうとも知らぬとばかりに52枚はケースの中へ。
「ええ、勝ち逃げずるいですよ」
「狡いも何も、喋ってばかりで集中してねえのは飴だろうが」
口をへの字に曲げてむくれる姿は幼子のようだ。呆れたように敗因を指摘してやれば拗ねた口ぶりのままお代わり貰ってきます! と空になっていたグラスを交換しに行った。 そもそも惑だって真剣に遊んでいたわけではないし、勝敗にすらさして拘りは無い。暇つぶし以上の意味を見出す方が難しい。風船より軽い結果など、どうせ互いにすぐ忘れるのだ。
そう欠伸をかみ殺していれば、戻ってきた飴の手元の中にはウィスキーボトル一本。それが一体いくらになるのかは、考える必要も無い。
分かるのは今回の当事者に金があるということだけ。
「後始末の資本があるってのは助かる」
どれだけ何を破壊しようと本日は許される。言外に含まれた意味を理解した飴が小さく肩を震わせた。
「惑さんって実は壊し屋だったりします?」
「加減はするから安心しろ」
二人分の酒が注がれれば、乾杯も無く互いに己のペースで杯を傾ける。
映画であれば最後に炎上する船からの脱出はさぞかし絵にはなるだろうけれど、現実を考えれば面倒が勝る。せいぜい運航に支障のない範囲で収めたいとこだ。
家に無事帰るまでが仕事、酔わぬ身であれば間違う限度も無いまま。
長い時間を経た琥珀は、きっと夜が来る前に飲み干されるのだろう。
●潮風に一息ついて
窓の外。傾きはじめた陽が、暖かな色を少し混ぜはじめていた。
あわいの時間、カフェを利用する客はさほど多くは無い。目当てのメニューを頼むか、それとも時間つぶしか。そういった人の出入りが多い扉の横で、妙齢の女性の姿へと転じたシルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)は佇んでいた。愛らしい翅は無いけれど、妖精の時と変わりのない金の髪はゆるく編み込まれて、ブルーグレーの品の良いワンピースに身を包んでいる。
「お待たせしてしまいましたか、シルヴァさん」
「いいえ、全然。大丈夫ですよ眞澄様。私も先程来たばかりですから」
小さな杖の音、それから真面目な男の気を遣う声に振り向く。肩口で切りそろえられた髪に、静謐な眼差しは眼鏡の向こう側に。どこか気難しさを感じられる雰囲気ばかりが感じられるけれど、これが彼の――氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)の通常運転だ。
「お声がけに応じて頂き有難うございます」
「構いませんわ。ご協力出来ることがあれば喜んで」
傍目には商談か、それとも格式ばったデートにでも見えただろう。それでいい。どうせこの後に起きる騒動のことなど、一般人に説明したところで誰も信じないのだから。
「テラス席はあるかしら? 折角ですもの、海を見ましょうよ」
「いいですね、ちょうど今からなら夕日が綺麗に見えるでしょうね」
ならば仕事が始まるまでは、非日常を楽しむのだって悪くない。給仕の人間に尋ねれば笑顔でデッキにあるテーブルへご案内。海の香りがして、真白いテーブルクロスが暮れの橙色にほんの少し染められて、二人が座るのを待っていた。
潮風が金と黒の髪を駆けるついでとささやかに遊んでいく。
「ほら、見てくださいまし眞澄様。「アフタヌーンティーセット・二名様から」ですって!」
外見が変わっても、中身までそうなってしまうわけではない。少女のように愛らしく目を輝かせるシルヴァの声は弾んで、ではそちらにしましょうかと眞澄が応じる。
やがて運ばれてきた三段重ねのスタンドは、星の意匠が頂に煌めいていた。小さなケーキはそれぞれに艶やかな果実が乗り行儀良く。焼きたてのスコーンは香ばしさにクロテッドクリームと苺のジャムが寄り添って。最下段のサンドイッチは一口サイズにちょうどいい薄さで、シンプルな断面図を見せている。
少しばかり時間は遅いけれど、王道の一品だ。どれから食べようか迷ってしまうと思いながら、まずは喉を潤そう。シルヴァが手にしたグラスの中身は透明な琥珀色――美しく淹れられたアイスティー。濁りのないそれを一口飲めば、茶葉の香りと渋みのないすっきりとした味わいが広がる。
地上であっても腕の良さが感じられるが、それが海上でとなれば本当に贅沢だ。薄氷の色をした瞳が数度瞬きをして息を吐く。
「冷たい紅茶を綺麗に美味しく作るのは難しいのですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。眞澄様は普段から珈琲を好まれていらっしゃるのかしら」
訊ねる先、男の手元には深い黒色の一杯。緑の瞳が一度自分の手元に落ちて、そうですね、と考えるように一度ストローと回す。
酸味は抑えめで香ばしさと後味の良さが夏に丁度いい具合だった。薄くもなく、奥深い風味が丁寧に淹れられていると分かる。
「手軽なので、インスタントばかりですが。……ゆっくりお茶をする暇もない日々を送っているものですから、なんだか今日は新鮮な気分ですね」
仕事に追い回されているのか、追いかけまわしているのか。ただ、どれほど不調であっても男は前線から退く気は無かった。今日とてそうだ。船上だなんて、足場の悪いところまで赴いている。
しかして妖精にとってお茶の時間が無いと聞けば、心配になろうというもの。今度是非私にお茶を入れさせてくださいね。機会があれば是非、喜んで。ひそりとした約束を取り付けていれば大きな足音と賑やかな高笑いが響いてくる。
あれが噂の、と視線を合わせる二人のことなど知らず。ヴィクターはご機嫌に自慢話を部下へと話しているようだった。
「スポンサー……魅力的なお話ではあります」
シルヴァが零す言葉に偽りはない。昔に比べて随分マシになったとはいえ、預かる店の経営は順風満帆とは言い難い。
でも、と続く言葉には迷いもない。
「やはりやめておきます。元がどんなお金かを考えると複雑になりますもの」
「店を経営する以上、資金の話はどうしても切り離せませんね……とはいえ、そういう金は様々なものを惹き込みます」
――止めておくのは、良い判断です。
そう締めくくられた眞澄の声はやはり静かで、その分背中を押すような確かさで響いた。どこかほっとした気持ちが湧いて、シルヴァの顔にも小さく笑みが浮かぶ。細い指がすらりと伸びて、サンドイッチをひと切れ摘まみ上げた。
「とはいえ出来た物に罪はありません。わたくしどもの扱う宝飾品も、この立派なお船も同じですわ」
「ええ。私も彼については管轄外ですから、一旦目を瞑っておきましょう」
不正や悪事で得た金銭に何も思わないわけではないけれど。尻尾を掴むのはこちらの世界の、しかるべき組織が成すべき仕事だ。能力者がらみの仕事では無いものまで、面倒は見るべきではない。
だから今はひと時――混じりけ無いまま、この船旅を楽しんでいよう。
●不慣れに、落ち着く先は
(大丈夫、大丈夫)
緊張をほぐすように一文字・透(夕星・h03721)は自分頬を一度押さえて、深呼吸を大きく一つ。柔らかに揺れる水色のシフォンワンピースも、着替えた時におかしいとこが無いかとチェックしてきたはずだ。
ちゃんとした客船なんて、今まで来たことはない。他の人はみんなちゃんとしているのに、自分ばかりが何かを間違えているんじゃないか。浮いちゃったらどうしよう、という不安が透の心の中に充満していた。
ラウンジに足を踏み入れれば、やはり誰もかれもが煌びやかに見える。怯む心地で選ぶ席は、自然と隅の目立たない方へ。でもあんまり端すぎると、問題が起こった時に動きにくいかもしれない。迷った末に一番奥から二番目のテーブル。ホッとしたのもつかの間、にこやかにメニューを手渡してくる給仕に背筋が再度伸びる。
「バタフライピーレモネードと、シャーベットを……味は……ええと、お勧めを」
しどろもどろの注文でも、ベテランの彼らは動じない。そのことに安心感を覚えて、今度こそ透は肩の力を抜いた。見上げた天井は高く、シャンデリアの輝きが眩しい。空色の瞳を細めて、誰にもばれないようにそっと溜息を吐いた。
ちょうどその時、デッキの方からの扉が賑やかになった。視線を下ろしてそちらを見れば、噂通りの|悪いオジサン《ヴィクター》の姿が見える。
(いざって時に、どんな動きをするのかな)
一応確認しておいた方が良いだろうか。運ばれてきたレモネードを飲みながら、そっと盗み見る。大きな声で自慢話と高笑いで、随分ご機嫌なことが窺えた。
(いい予感はあまりしない、かな……)
事前に聞いていた予想を何も裏切らない挙動に少しだけ感心して、シャーベットを口に運ぶ。爽やかな酸味とすっきりとした後味。美味しい、できれば食べることに集中していたいなぁ、と思っていたその時だ。
ぱち、と視線がかち合った。
慌てて目を逸らしたはいいものの、聞こえてくる足音が真っ直ぐこちらに近づいてきていることが分かる。
「君」
「はい! あ、あの、お招き頂きまして……ありがとうございます」
話しかけられても、何を喋るべきなのか全く分からない。
借りてきた猫のように固まる透を気にした風もなくヴィクターは続ける。
「楽しんでいるかね?」
「はい、楽しいです……景色も綺麗で」
「ならいい! 人生でこんな船に乗れる機会はそうそうあるまい、精々楽しみたまえ! 君と同じ年頃の私の娘も――」
「……?」
不自然に切れた言葉に首を傾げれば、当の男は目頭を押さえて沈黙している。
「……うむ。やめようこの話は。まぁしっかり楽しんで、いい評判を広めてくれたまえ」
「……はい」
――親子関係上手く行ってないんだなぁ。
雄弁な態度に心の中でそっと立去る足音を見送って、透は重く息を吐き出した。
(つ、疲れた……)
これなら早く戦闘が始まってくれた方が良いかも。
平和とは何なのか。本末転倒な思いを胸に、透はひやりとしたシャーベットの残りを口へ運んだ。
●楽しみ一つは鼻先に
煌びやかな世界は、夢のようと称されるのに相応しいのだろう。
客船による海上パーティ。自分の懐から費用を捻出して行く機会はきっと今後も無い。今回みたいに仕事がらみなら――否、そればかりは読めることでは無いな、と賀茂・和奏(火種喰い・h04310)はラウンジのカウンターで独り言ちる。
後々の下見だと、好奇心が多少混じった散歩で船の構造は大体把握できた。と言っても招待客の入っていい場所までではあるが。
どのルートが目的の場所まで最短で辿り着けるかを知っているか否かでは、いざという時に差が出ることもある。現場の下見は基本中の基本、と鮮やかなグラデーションを描くレモネードのグラスを和奏は静かに揺らした。
それにしても。
(はー……どこもかしこも、お金かかってるな……)
薄いグラスは華奢な作りで、曇り一つない。今座っているスツールもやけに座り心地が良すぎるし、カウンターの板面に反射して見えるシャンデリアも豪勢だ。船内を見回っていた時も、階段の手すりから照明の一つに至るまでいずれもが『金をかけれれすぎている』。そういったものを好む訳ではない自分ですら感心するほどに。
途中でヴィクター本人とすれ違った際に少しばかり会話もしたが、余程出来栄えに満足している様子だった。招待を有難うございます、本当に良い船ですねと告げた時のドヤ顔と言ったら。
(……映画だと早めに狙われるか、人質になりそうな人だなぁ……)
実際、今回は命を狙われているわけだが。
今はまだ元気に自慢話をしている彼自身、未だ知らぬことだ。可哀想に、とも思わないがあの声量で叫ばれたら大変そうだなぁと他人事のように思う。
まぁ襲撃があるまではのんびり気ままに楽しむが吉だ。カウンター越しに、季節のシャーベットを一つ注文すれば薄紅のものが差し出される。桃とワインの一皿らしい。
酒精は飛ばしてあるそうで、やわらかに甘い香りに混じるアルコールのほろ苦いような気配が奥行きを与えている。
つられて、このままお酒も頼んでしまいたい気持ちもある――が。
(この後仕事だからなぁ……)
いくらなんでも酒の匂いをさせながら戦うわけには。
酔ってましたとも言えない。曲がり無しにも公務員をやっている真面目さが、和奏の中にはあった。例え人から心臓に毛が生えているなどと称されようとも、流石に。流石にね。
とりあえずこの一皿で今は我慢しておこう。ヴィクターを無事の保護し、今回の仕事を終えることが出来たなら。
――その時こそ存分に祝杯を重ねてやろう、なんて決意はひそやかに。
第2章 集団戦 『EGO』
●自己中心
金さえあれば全てが叶うと思っていた。
権力も名誉も、望むものが手に入るのだと。
望むものを手に入れる為ならば何だってした。
縋る人間の手を振り払い、転倒した者の背を踏みつけ、誰かを暗闇に落とそうとも。
力無き者に世界は微笑まない。
力が有れば自身は害されない。
貧しさに怯え逃れるために足掻いた男は、その価値観を崩されないまま今まで生きていた。愚かな幸福で、乾いた幸福だった。
悲鳴が聞こえたのは太陽が沈み切った頃合い。
エントランス部分で起きたそれが一般招待客か、それともスタッフのものか判別は出来なかった。声の主よりも、その傍にいた歪な生き物へ皆の視線は吸い寄せられる。
薄らと血管が浮かぶ丸い体に、不揃いの翼。大きな裂け目からは行儀よく並ぶ歯列が見えた。口であるのなら、その奥にある瞳は一体何なのだろうか。
連鎖する悲鳴を嘲笑うように、海からやってきた異形たちは船内を飛び交った。そして迷いなく向かうは船の主――ヴィクターの元へ。
「だ、誰かこいつらを追い払え! 私の船だぞ!」
鍛えられた数人の護衛が果敢に挑めど、翼が振りまく有害な粉末を浴びて倒れ込む。
「お前たち! 安くない金額を支払っているのに、何という体たらくだ!」
心配するそぶりすら見せず、ただ喚くばかりの男は逃げ惑う。船内を右へ左へ、追い込まれているともいざ知らず。
逃げる人々に、倒れゆく者。異形の放る卵にぶつかり、凶暴化して目につく者全てを壊そうとする誰かが叫んでいる。
追いかけっこを邪魔立てしないように無力化されていく人々に、異形たちは目もくれぬ。
「誰の差し金だ! こんなことが許されるとでも思っているのか!」
|EGO《利己主義》を糧に生まれる異形にとってみれば、ヴィクターの怒鳴り声は何よりもの栄養だ。
有名になりたい、一番がいい。自分が、自分だけが何よりも尊重されるべきだ。
「――ひっ」
情けない悲鳴をあげ、足を縺れさせながらも男はラウンジへと飛び込む。
だがそこもまた、デッキ側から異形が入ってくるところだった。絶望の顔をしてヴィクターは叫ぶ。
「誰でもいい、何でもくれてやるから、こいつらを追い払ってくれ!」
我が身可愛さは誰も責められはしない。客もスタッフも、皆が逃げ出して去っていく。
残るのは事件が起きるとラウンジで待っていた者か、悲鳴を聞きつけてヴィクターの背を追ってきた者か。いずれにせよ能力者たちだけは、広いこの場で戦う術を持っていた。
●急務は約束と見極めにて
騒がしい足音は、夕暮れに聞いた時より随分と冷静さを欠いている。
「もう少しのんびりしてても良かったのに」
ラウンジへ飛び込んできた今日の主催と異形を見て、懐音・るい(明葬筺・h07383)は溜息をついた。のんびり優雅な休暇という事にしておきたかったが、やはり事件は詠まれた星の通りに起こってしまうらしい。
慌ただしく悲鳴を上げて出ていく人の波は、ヴィクターの事など振り返りもしない。
(あら)
その中に先程男と話をしていた一般客の姿を見つけて思わずと瞬きをした。
(頑張って安全なとこに逃げてね~)
今度は面倒なものには捕まらないように。今日はついてない日だったねと背を見送って、るいは心中で小さく手を振った。ここから遠ざかってくれるのが一番安全で、自分達も動きやすくなって丁度いい。異形たちは未だ暫し、ぎゃあぎゃあと何かしらを喚きながら逃げ惑う船の主に夢中だろうし。
「んー……見事に悲鳴と追いかけっこの観劇だったなァ」
眺める緇・カナト(hellhound・h02325)が零すしみじみとした呟きも、すっかり他人事だ。けれど利己主義をここに来てまだ叫べる元気さは評価すべき点だろう。気高く殉じる人間ではなく、どのような形でも生き抜いてやろうという汚さは生存に必要なことなのだから。
「お、お前たち! 何を眺めているんだ! 報酬は本当だぞ!」
彼らの視線に気付いたヴィクターが駆け寄ってくる。運動不足なのか息が上がって顔色も悪い。
「欲しいものは自分で手にいれる主義なんだけど……まぁ請求書でも送っておきましょう」
「こんなときに、嘘などつくか!」
「あらそう? では月末払いでお願いしますね」
契約って大事よねとばかりに念押しをする佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)が、ふらつく男の襟首をつかんで仲間の方へと放った。ごろりと転がった男が何をするんだと怒声をあげれば、それを覗き込むのは黒い影。
「ちょっと黙っていてくれる?」
仮面の奥、カナトの表情は見えない。弧を描く口元にあてた人差し指は、幼子にする仕草なのに。響く声には温かみはなく冷えていた。気圧されたヴィクターがぐ、と黙り込むのに満足したようにして、黒犬は音もなく敵の方へと駆けだした。男はともかくとして、美しい船を惨劇の舞台と終わらせてしまうのは憚られる。何でも、というなら今望むべきは戦いに集中するための静けさだ。
静かに、滑り込むように。けれど最後の一歩だけは力強く音を立て敵の多い場所へ。ぎょろついた目玉が、歯列の奥でこちらを見た数は及第点だ。
「|Barbed,braved,blooming《引き裂き、叫ばず、咲き誇る》――」
囁く声が終わるよりも早く、足元から伸びるは黒荊棘。一呼吸よりも早く頑丈に、周囲の異形たちを縛り上げて捕らえていく。藻掻こうとすればするほどに、なお深く棘が食い込んで離さない。こうなってしまえば宙を自由に駆ける翼も意味をなさず、奇妙な果実のようにぶら下げられるだけ。
鉄条網じみた荊の強さは、しかしてただの目印。最期の一撃は振り下ろした手斧が無慈悲に与えていくだけだ。
何なんだ、一体。
上体を起こしたヴィクターが呆然と見守っていれば、ふわりとあたたかな空気が彼を包み込む。
「異形の怪物を見るのは初めてかな?」
隣にしゃがみこんだ月依・夏灯(遠き灯火・h06906)が、夕方と変わらぬ柔い笑みで彼を覗き込んだ。脅威さなど感じられない。気の良さそうな雰囲気のまま、騒動に動じた風も無いのが何よりの違和感でそこにいる。
「今の君は力無き者だ、蹂躙される弱者の気持ちがわかったかい?」
「ふ、ふざけるなよ。私が弱者だと、そんなわけが……」
言葉ばかりは強気だが、響く音はも随分と弱気だ。見栄っ張りだなぁと夏灯は苦笑して立ち上がる。赤い視線の先は、今男が逃げてきた敵がいる方へ。真っ直ぐに向けられた強い視線は、逸らされることもない。
「今後はもう少し他人に優しくなれるといいね。さもないといつか怪物に喰われてしまうかも――僕の父のように」
「お前、」
「大丈夫。君はひとりじゃない」
少なくとも、今日ばかりは能力者たちがついている。今後頑張ることが出来るのなら、本当に信頼できる相手だって、きっと出来る筈だ。
「僕たちが君を護るよ、怪我しないよう下がってて」
――さあ、にゃんこ。一緒に遊ぼう。
内なる呼びかけに応じるように、猫神の分霊が足元の影でニャアと一声鳴いた。誰にも聞こえない声を合図に構えた拳銃は、異形たちの翼の先を微かに散らした。込められた燃ゆる炎の力が弾けて、光を放つ。がちがちと鳴らされる歯がこちらを向いて、赤い目玉がぎょろりと彼を見る。熱い眼差しと言えるかもしれないそれへ、けれど返すのは銃弾のみだ。慌てて並びの良い歯が防ごうと、それで構わない。光った一撃が作る濃い影に、猫の黒い姿がするりと伸びて。音もなく床を駆けて行ったなら、鋭い爪で丸いそれへとじゃれついた。深々と刺さったそれは藻掻こうと外れない。
――ニャオン。
空気を震わさない一声と共に、毛糸玉よりあっさり異形はバラされた。
同じ調子でリズムよく、発砲音で刻まれる合図に猫神が跳ねまわっては敵を仕留めていく。
「あっ、弾切れ! にゃんこ、補充する時間作って!」
――ニャアアアン……
折角いいペースだったのにと、宿主を咎める猫の声だけが妙に間延びした。ごめんって、と情けなく謝る声に、返事代わりに黒猫が夏灯に近づく一体を後ろ足で蹴り飛ばした。一蓮托生、助け合いの精神はあとで美味しいものを捧げることによって成り立つのかもしれない。
その様をぶるぶると震えながら他の個体たちは見ていた。果たして怒りか悲しみか、それとも役立たずと罵倒でもしているのか。いずれにせよ可愛さからは程遠い造形だ。
「オジサマも来ちゃったしキミたちも来ちゃったし」
るいが溜息交じりに呟いて、手にした槍をくるりと回す。みんながいるなら休憩続行でいいんじゃないか、なんて気持ちもあるけれど。仕事は仕事。夕方楽しんだ分ぐらいは働かないと。
夏灯の放つ銃弾を追いかけるようにして間合いを詰めれば、振り上げた刃が異形の肉体へと深く突き刺さる。そのまま他の一匹へとぶつけるように振りぬけば、断ち切られた白い肉がぼたぼたと落ちていく。
今日の獲物はどれほどになるのかな、なんて気楽な調子て女は槍を振り回す。
殲滅が目当てではないけれど、こうも数が多いと邪魔だ。見るのが二度目とならば薄気味悪い外見すら多少の飽きがあると、手数の多さで暴れるのは橙子だった。追い払えればいいが、そうする為には素早く確実に仕留めていくのが大事。両手に握るは重量のある卒塔婆が一本ずつ。鈍い風切り音を立てて振り回されるたびに、肉の潰れる音がBGMに加わっていた。
早期解決の為なら椅子も机も派手に使って行こう。ヒールが蹴りつけた椅子が悲鳴を上げて敵にぶつかって転がっていく。その隙間を縫ってヴィクターを狙う別の個体は、ぶん投げた卒塔婆が本来の役目とばかりに突き立って。空いた片手でEGOの片翼を掴めば、それを持ち手と壁の方へ力いっぱいぶん投げてやれば静かになる。
男が「ひぃっ」と引き攣ったような悲鳴を上げたのは果たしてどういう意味か。汲み取る必要なあまりないだろう。大丈夫、とにこやかに笑いかける橙子の顔を見てもう一度悲鳴が上がったが、それも多めに見るので。
「武器は1本でもいけるし手も足もありますから」
「そういう問題ではないだろう! 私の船だぞ!」
「あっそうだわ!」
「聞け! 話を!」
「倒した数だけ賞金を出してくださらない?」
ほら、とても頑張っているのだし。
仕留めた獲物を見せびらかす猫じみて、今しがた卒塔婆で殴り落とした瀕死のEGOを差し出せば、三度目の悲鳴が上がった。近づけるなぁ! と叫ぶ姿を無視してずいと潰れた球の価値を問う様はちょっとばかり悪魔じみていたかもしれない。
これでどうだと立てる指は一本。震える指先を青い瞳が見つめて、一万? と尋ねれば頷きが返ってくる。
「良いでしょう――それではドル建てでお願いしますね!」
「まて、それはいくら何でも」
「月末が楽しみ!」
明確の報酬はやる気をあげてくれるもの。スキップでもしかねない足取りで、女はより多くの獲物を狙いに向かう。
「交渉上手だね、お姉サン」
「それほどでも」
橙子の蹴り上げたテーブルに阻まれた怪異が動きを止めて、そこにカナトが振るう手斧が見事に丸い姿を二つに割った。派手な様子で行われる戦闘に、加減などありはしない。
オレ俺も掛け合ってみようかなぁと嘘ぶくカナトが、荊に捕らわれた順番待ちのEGOたちを狩り取っていく。ぎゃあぎゃあと騒がしい足掻きは見苦しいけれど、生き物としてなら正しいだろう。
「そんなに騒がないでくれるかい?」
なんとか逃げ出したものすら、また捕らえて。順番は大事だから大人しく待っていてねと語り掛ける口ぶりだけが優しく、温度がないままに。
「鬼ごっこをするならねェ――標的はキチンと見定めないとネ」
オレがお手本を見せてあげる、だからあの世では上手く楽しく遊んでね。
はいタッチ。鬼から触れるのは無慈悲な刃で、交代なんて出来ぬままに命だけが奪われていく。
●背中合わせの夜は二つ
日が沈み、水底がただ黒々とした夜闇を揺蕩わせて。
大口の異物が船内へと飛び込むのが見えたなら、心地よい海風に浸る時間はもうおしまい。
「さあて、仕事の時間だね」
行こうか、とラウンジへ飛び込むのは雨夜・氷月(壊月・h00493)と夜鷹・芥(stray・h00864)の白黒二つの影だった。
「ねえ、何でもくれるって本当?」
長い銀の髪がシャンデリアの光を受けて、絹糸のように輝く。男が叫んだ言葉は二人の耳に確りと聞こえていて、その顔を覗き込む宵の色をした双眸が楽し気に細められていた。
それは約束できること? 問いかける声は甘く軽やかで悪魔じみている。応える船の主が勿論だと、恐怖から来る怒鳴り声で答えたのなら益々持って美しい笑みは深められ。
「助けてあげようか」
「い、いいから、早くしろ! 何だってくれてやる、金も、宝石も、なんでもだ!」
「んっふふ……絶対、だよ?」
「おい、オッサン。二言は無いだろうな?」
ちゃっかりと録音まで済ませた氷月の隣で、黒い面を付けた芥が静かに問う。髪から覗く金の瞳の鋭さに、頷きを繰り返した姿を見届けて刀を静かに鞘から引き抜いた。
“等価”交換だ。命を天秤にかけるのならば、支払いは高くつく。高額な報酬でも足りるかどうか。払えぬのならスポンサーにでもついて貰えればいい。芥の上司も大喜びだろう。
いずれにせよ契約は成立。月光のような銀と、夜闇の影のような黒が床を蹴った。滑るように、手近な一匹を芥が振るう刀の一閃が切り飛ばす。
「氷月に背を預けることになるとはな」
「これもまた縁、ってね」
二匹目の翼を、今度は氷月の銃弾が撃ち貫いた。慣れた構えた銃を右へ左へ、気楽な調子に振って役割は? と問いかける声も軽いまま。
「前衛後衛? 右左?」
「俺は右、お前は逆を頼めるか」
「はいはーい、りょうかーい」
特にこれといった拘りなんてありもしない。くるりと身を翻して獲物を捕りに行こうとする銀色の背へ、思い出したかのように芥が一言。
「何体消したか数えとけよ」
「任されました……数えんの忘れそー」
だって敵はこんなにいるのだし。
ラウンジに羽ばたく極彩色の羽のまんまるたち。自然の生き物ではありえない造形は、奇妙で見慣れない。ちょっと面白かも、なんて思ってしまうのはご愛敬。
「芥ぁ、1匹サンプルに持って帰っちゃダメかな」
月光の魔力を込めながら引き金を引く。銃が放つ淡く優しい輝きとは裏腹に、弾丸は無慈悲に対象へ。簡単な的撃ちだ。少々動き回ってはいるものの、それを捉えきれぬほど軟弱な腕前では無いので。
「……見た目最悪だがお前こんなのが良いの?」
どうなんだその趣味は。利己主義と気が合いそうならいいのだろうか、なんて翻す刃で異形の翼を裂く芥の声は怪訝な色ばかり。
「んは! 興味があるのは成り立ちかな」
「成り立ちねえ……」
碌でもない事だけは確かなそれを、識る生業だとは知っているが。
「やめとけ」
捜査官としての芥としては、聞かれた限り止めざるを得ない。他√の怪物が何か自分たちの世界に利をもたらすこともあるかもしれないが――その逆だって多い。四面四角に真面目な質ではないけれど、職業柄許容できぬ範囲だ。
「ザーンネン、今回は全部処分かー」
撃ち落とし、それでも尚床で蠢くEGOを氷月が放つ焔が焼いた。紫陽花の花によく似た色形をして、けれど無情の温度は灰すら残さない。
それでも尚近づいて来ようとするものは小さな銀片の刃が突き刺し、斬り裂いていく。
あちらは元気にやっているようだ。金の視線が自由な銀色を一度だけ見て、相手取った者たちへと向き直る。こちらも十分暴れて目を惹いたのだろう。集まってきた異形たちが襲い来るのに動じることも無く、芥が呼び出す影はいくつも。
「――来い、蒼鷹」
静かに、黒焔は揺らいで無数の夜鷹へとその形を変えた。羽ばたきは聞こえない。けれども確かに彼らは中空を駆けて丸い異形たちへと食らいつく。
嘴が、爪が、その鋭さで敵を捕らえたのなら――轟、と炎が包み込む。
「其のまま海に沈んでな」
暗冥の水底は深く冷たいだろうが、お前たちにはお似合いだ。
どうにか逃げ切った個体も、翻った刀が赫々とした煌めきをほんの一瞬映しながらその命を刈り取っていく。
踏み込んだ足を軸に、勢いよく刀を突き刺した相手を振りぬく要領で投げ飛ばせば、やわらかな月光の加護が芥を包み込んだ。
手助けのつもりか? 問うように振り返った先で宵月の瞳がふざけたウィンク投げてくる。
「氷月、ちょっと屈んでくれ」
「ん? ――おっと危ない」
先程まで頭があった場所を、黒焔が通り過ぎる。何も怒らせたわけじゃないというのは、その先で燃える異形の姿が証明だろう。義理堅いというか何というか、案外優しさのある男だ。
お返しとばかりに放たれた銃弾は、芥の傍に近づいてきた一体へ。
「んっふふ、油断大敵ってね!」
「お互いにな」
守り合うなんて柄ではないが、背を預ける相手がいるということは存外悪くない。
空飛ぶ異形を殲滅するまで暫し。黒銀二つは踊るように戦場を駆けている。
●不変に歪みなし
「はや、早くあいつらを追い払ってくれ! 金ならいくらでも用意してやる!」
大声で喚く|男《ヴィクター》の姿は少々の哀れみを感じなくは無いが、その懐から出されるものが正しいものだとは限らない。
「俺も一応お巡りさんですから、違法な報酬はお縄でお返しますね」
「け、警察なのか貴様!?」
世界は違うんですけどね。という訂正は発しないままに焦香・飴(星喰・h01609)はにこやかに笑みを浮かべていた。意図が読み切れぬそれに深い意味などないのだが、ヴィクターがそんなことを知る由もない。ただ青褪めて違う、違うぞと何かしらの言い訳を並べ立てている。後ろ暗いことを隠す努力は、極限状態においてはなかなか難しい。
「報酬に色を付けてくれるって話ならいいが、違法な金だけは御免だ」
数多の怪異を切り裂き、時に|怪談噺《オカルト》の一端を担おうとも。未だ世の道理から外れるつもりはさらさら無い。呆れた様子を隠しもしない五槌・惑(大火・h01780)の言葉はため息交じりだが、勘違いの訂正はこちらも行わない。
多少委縮してくれていた方が、邪魔にならないからだ。
「そこに居ろ」
震えるばかりの哀れな男の肩を押しやって、怪異から庇うふりは優しさにでも映っただろうか。賭け事の約束を果たすために前に出た一歩で、一瞥するのは怪異の群れ。
「ヴィクターさんは俺と一緒にいましょうか! ああ、余計なお喋りは結構。動かないでいなさい」
背後で聞こえてきた明るい声に、死刑宣告を告げられたかのようなか細い悲鳴が上がったのが聞こえた。可哀想に。あの男も、それを追いかけてきた異形も。
わざわざ狭い屋内へと入って来てくれたのは好都合だ。天上は高いが、飛べる範囲は分かりやすく|限界値《壁》がある。睥睨する琥珀に気圧されたか警戒したか、入り口付近で停滞する群れごと、伸びた惑いの髪が引寄せる。
「残念だったな」
自由に翼を広げることはもう出来ない、二度と。
異形が暴れるほどに、細い髪が深く絡まりゆく。蠍に呪われたそれが流し込む毒の強さも知らぬまま。耳障りに喚いて、藻掻いて、最後に大きく痙攣して、彼らに目覚めは二度とこない。
そうなる前に、長剣の刃がその翼を切り落とすものの方が多かっただろうか。極彩色の羽を散らされ、頼りない足で床に落ちたそれが最期に見るのは靴裏だ。力いっぱい踏み抜かれることで、憐れなその生を終えていく。
所詮は歪な感情から湧いて出たものだ、単純な暴力に打ち勝つほどの強度は無い。
「相変わらず見た目以上にゴリ押しですよね」
型の無い我流の戦闘は乱雑さが目立つ。それでも結果を出すのが惑だった。
本当に面白い。
暴れる友人を眺める飴は、すっかり観戦体勢と手近な椅子に座っている。鼻歌交じりに、真っ青な包装紙に包まれた飴玉を取り出す。口の中へ放り込めば、風味が広がる夏らしい爽やかなサイダー味。
「お、お前は何をしてるんだ……?」
「え? 欲しいですか? あげませんよ、全部俺のなので」
貰ったところで、この状況下でおやつを楽しめるほどヴィクターは図太くは無い。ぶんぶんと横に振られる首に、良かったと飴はマイペースに笑っている。
成り立っているのかいないのか、奇妙な会話をしていればいくつかの敵がこちらへなだれ込んできた。
「腹拵えが済んだなら働け」
酔っぱらっている訳でもないのは知れている。
苦言を呈す長髪の男は振り返りもしないまま、敵を踏み砕くのに忙しいらしい。
「嫌だなぁ、サボってるわけじゃないですよ」
立ち上がって引き抜く軍刀は、久々に戦場の空気へ触れさせた気がする。頭上のシャンデリアを反射して、星が瞬くように刀身が静かに輝きを放つ。
だがそれに怯むほど異形たちとて臆病ではない。今回ばかりは、何よりも愚かしい勇気だっただろうけれど。
「いけませんよ――良い子で待ってなさい」
飴が向ける切先。その向こうへ、黒い星々が降り注ぐ。極彩色の翼を、丸い肉体を、並んだ歯列と、その奥に潜む目玉を喰らいて砕く星の雨が。
願いを叶えるには禍々しい。無慈悲さだけは十二分に足りていて、異形の悲鳴を飲み込んで終わらせる。運良く逃れた者は、飴が翻る刃で真っ二と逃がしはしない。
崩れ落ちる肉の塊を緑の瞳が見つめる。いつものように鞘で殴るのも楽で良かったのだが。
(惑さんが楽しそうだから影響されちゃった)
隣で震えるヴィクターにもう一度動かないようにと念を押して、機嫌のいい災厄は軽いステップで敵の群れへと向かっていく。前線で踊る惑の刃に、黒い流星と共に飴の刃が並んで敵を斬り刻む。
数が多いだけで脅威ではない。放られた卵がもたらす精神汚染も、耐性のある惑にとっては避けるに値しない。ぶつけられたところで、せいぜい嫌そうに顔を顰める程度だ。迷いない太刀筋が、次の卵ごと切り裂いていく。
「大丈夫ですか惑さん。必要とあらば言ってくださいね、めいっぱい殴りますから」
「俺が人疑って凶暴になって、普段と大きく変わるかよ」
「んはは、ホントに変わんないや」
きっと飴だってそう変わることも無い。分かり切った答えを聞くのは、ただ単に楽しいからだ。意味のないお喋りも、加減無く暴れることも。
狂気に飲まれないのか、それともとっくに飲まれてしまっているのか。
どちらでもいい。自分は自分だと変わらぬものを持っている。
その事実だけが確かで、不変のものであるのだから。
●この世で知るべき、最も大事なこと
「イースターエッグみたいなのが襲いかか……」
「は?」
失言だ。慌てて口をつぐんだ咲樂・祝光(曙光・h07945)の言葉に、珍しくエオストレ・イースター(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)が低く声を出した。そろりと隣を伺うが、夜明けのような桜色の瞳は丸い敵を鋭く睨みつけている。
「ハッピーなイースターが……人を襲う!?」
握り込んだエオストレの手がわなわなと震えた。信じられない。否、許せない。
形の良い唇が引き結ばれるのを見て、祝光は一瞬天を見上げた。まだ無事なシャンデリアが、我関せずと煌いている。
ラウンジで飛び交う丸い物体に、馴染み深いものが連想的に浮かんで口に出した自分が悪い。幼馴染の逆鱗だろうことは知れていたのだから。
とはいえ時間は戻せない、持ち直して進むしかないのだ。
「イースターじゃないけど! 行くぞエオストレ」
「分かってるよ、祝光……許さないぞ、邪悪なイースターエッグ共……」
何を分かってくれたんだろう。不穏な呟きが聞こえるが、戦闘に前向きな姿勢は喜ばしいので良しとする。
「1個残らず粉砕してくれる!!」
ちょっとばかり、気合が入りすぎてるのはご愛嬌という事で。
駆ける春の二人組、目指すは|今回の護衛対象《ヴィクター》のもとへ。龍が纏う神桜の衣が揺れて、神桜の香りが翻れば敵を阻む結界を作り上げる。
「ヴィクター、君は下がってて」
「ま、守ってくれるのか……!」
いくら必要だ、と問いかけてくることに祝光は静かに首を横に振った。それに意味が分からないという視線を返されることが、ある種の虚しさを感じさせる。
金銭ばかりが人の繋がりでないと、きっとこの男は知らないのだ――けれど。
「……金も地位も、決して褒められた手段でないにしろ、君が君なりの努力で獲たものだろう」
例え異形に狙われる原因になろうとも結果を出している。その事は否定されるべきでも、ましてや命を奪われることは、きっと違う。
「そう! イースターはハッピーでなきゃ!」
幼馴染が固めてくれた守護に、兎のような身軽さでエオストレが前に出る。手にはカラフルに彩られた卵たち。今まさに大口開けて向かってきた異形の口へと容赦なく投げ込めば、大きな音とともに爆ぜた。拍手でもするかのようにぱちぱちと火薬の名残が、床に落ちるEGOを彩っている。
楽しくないを楽しいでどんどん塗り替えよう! 祝祭を愚弄するような敵に加減など必要ないだろう、幸せの中に囚われなよとばかりに撒き散らす桜吹雪が、飛び交う異形たちの動きを鈍らせた。そしてそこにまたエオストレの卵が放り込まれたのなら、軽快な爆発音がテンポよく鳴り響く。
「君達を満開の花火にしてやるよ!」
ハッピーでしょ? なんてウィンク付きの発言に抗議するようにEGO達が歪な翼でばたばたと藻掻いた。極彩色のそれが不満の数だけ伸びて膨らんで、大きくなっていく。
並んだ歯が打ち合わされたなら響くは不協和音。耳障りなそれを、黙らせるかのように祝光の放つ符が封をする。
ひいらりはらり。言祝千歳桜の花弁たる護符が、念に応じて放つは仕置きの雷。そうして穿ち落とされた異形は、地に伏せ動かない。
「俺と似た色の翼……って言うのは気に入らないな」
別の数匹が復讐とばかりに飛来しようと、空中戦で後れを取る祝光ではない。対の翼は絢爛極彩色で宙を駆ければ、異形の口の中で赤い瞳が引き付けられる。けれど天井に咲く花に誰が触れられよう。ふわりと靡く想紫苑の髪、その一本すら捕らえられぬままにEGO達は雷の符に落とされていった。
その姿をぽかんと口開けて見守るヴィクターが、春宵の視界の端にちらりと映った。誰かを蹴落とすことで生き抜いてきた彼にとっては、きっと不可解なのだろう。誰かの命を救い、守る事を当然とする生き方が。
(……周りに見捨てられてることに気がついたら、懲りて欲しいけどね)
雷が奔って、鮮やかな花火が打ちあがる。生まれたその瞬間から知り合う幼馴染の二人組の息はぴったりで、歪な祭りを消し飛ばしていく賑やかさ。
(ヴィクターは、きんきらきんで豊かだけど、心がひもじいままなんだ)
本人が聞けば怒りそうなことを思ってエオストレは卵の花火を打ち上げる。どれほどのものに囲まれて、外見ばかりを輝かせていようとも。誰かと助け合うことを知らないのは寂しい人生だ。目の前で異形を打ち倒す楽しい卵爆弾たちのように、ハッピーで素敵な力があればきっと彼も負けまい。
「君にも素敵なイースターを教えてあげなきゃね!」
爆風に髪と長い耳を靡かせる。花火より鮮やかな真紅が、紫苑の色に抱かれて踊っていた。
そうしてヴィクターへと振り返る青年の姿は春の祝福じみた眩しさで、輝かしい光を放つように笑って見せるのだった。
●その背に祈る
戦場と化したラウンジは、先ほどまでの優美さが失われている。
暴れる異形に逃げ惑うヴィクターは勝手ばかりなことを叫んで、ただただ煩い。
「絶対感謝されないって分かって助けるのは微妙だ」
あの調子だと事件が収束してからも、反省などないのでは。
顰めっ面で呟くオルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)とて、見返りが欲しくて戦うわけではないけれど。己の取った行動が、取るに足らないものと扱われるのは癪である。
「感謝された処で薄ッ気味悪ぃだけだろうさ」
そんな弟分の背を、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)は軽く宥めるように叩いた。人の世は善人ばかりではない。都合のいい時ばかり手のひらを返す人間の相手だって疲れるものだ。割り切れる分、今回の男の方がマシ――と言えるかは不明だが。分かりやすいだけに対応楽なのも事実だ。
そういうものか、と未だ不服そうな様子を残してオルテールは懐から取り出したペンの蓋を開けた。何の変哲もないように見えるそれを弾けば、途端に両手剣へと形を変える。
「ひと暴れしてやろう、ライリー」
「ああ、あの面を張り倒せねえ鬱憤晴らしの的になって貰うぜ」
ライナスもまた手にした獲物を確りと握り込む。
気に入らないからと手を抜くほど落ちぶれてはいないし、器用でもない。床を蹴る音は二人同時。前に出るのは、隻眼の男の方。
歪な球体の生き物は、耳障りな羽音をたてながら飛び回っている。果たして意思があるのかも分からぬ群れだ。これが人間のエゴから生まれてくるのだとすれば、この湧きようも納得がいく。
「こんだけ居りゃあ、的は選び放題ってなあ!」
なら片端から纏めてぶち壊そう。男が|踏み込む《one》と同時に放たれた衝撃波が、数匹の異形へぶつかりその動きを阻害する。
進んで|二歩目《two》。伸ばされた細い一本の糸が、止まった敵へと絡みついて、縛り上げる。
そうして最後の|三歩目《three!》で終いだ。振り上げる刃の軌跡を、EGOの赤い瞳は捉えられぬままに刻まれる。ぼたりと落ちゆく肉の破片に極彩色の羽が散った。
リズムだけなら|円舞曲《ワルツ》のよう。けれども凶悪な獣の顎じみて、ライナスの振るう武器は敵を屠っていく。鼓動より少し早めのテンポは繰り返し、繰り返し。止まることなく続いて、異形を刻み続ける。
その動きを止めようという意思が敵にもあったのだろうか。ガチガチと並びのいい歯を鳴らして、翼と同じ色をした極彩色の粉が撒き散らされた。羽ばたきで送るはライナスの元へ。
しかしてそれを遮るようにオルテールが真紅の外套を翻す。
「――向かって来たことを後悔したまえよ、劣等種共」
尊大な物言いだ。
しかして、彼の本質を知るものならば当然のものと思うだろう。生きとし生けるもの、その頂点に座する竜だと知っているならば。
脱ぎ捨てた赤が床へと落ちる。異形を迎え撃つは真正面から。鳴らされる歯がこちらへと噛み付こうとする上顎を、鋒が弾いた。傾く球体の体、腹なのか頭なのか不明な青白い肉を、オルテールの剣が叩き斬る。
縦横無尽に自由に駆けるライナスの邪魔にならぬ位置どりで、けれども彼には一つだって触れさせぬよう。
(……もう二度と、誰かが目の前で傷付くのは御免だ)
両手剣を強く握り込んで、瞳の炎は静かに瞬く。それが兄と慕う相手であれば尚のこと。
根底にある意思がどこから来るのか。その奥底を探ることすら知らぬままに敵意を異形達へ向けた。
滅せねば。
大事なものが、また喪われてしまう前に。
ぐ、と踏み出す足に力が籠って周囲に小さく火花が散った。敵の暴れる大口が、小さな爪持つ足が己を傷つけど構わない。我が身より先に優先すべきは――
「……オーティ、前に出過ぎだ」
戦場に落とされた静かな声に引き戻された。
目の前の一匹を切り捨て振り返った先、金の片目がじっと自分を見つめている。
「独り占めは良くねえぜ?」
「あ、ああ、すまない。少し夢中になりすぎたかな」
軽い口振りで向けられたライナスの注意は、咎める響きはあれど怒ってはいない。それが分かるからこそ、ほんの少しばかり居心地の悪さを感じてオルテールは言葉を続ける。
「頑健なんだ、少しくらい傷付いたって支障はない」
事実そう思っているのにどこか言い訳じみたそれに、隻腕の男の眉間が寄る。
「俺よりライリーは? 怪我はないか」
純粋な心配の色だけを乗せて締めくくられた青年の言葉に、ライナスが大きく溜息を吐いた。共闘における“前に立つ”とはどういう事か、きっとこの弟分はまだ不慣れなままなのだ。
あのなぁ、と子どもに言い聞かせるように男は尋ねる。
「お前さん幾ら頑丈と言っても痛みはあんだろう?」
当たり前だとばかりに返ってくる頷き。
ならば余計に、彼がそこまで張り切る必要は無い。ただ背負い込むだけなばら、一人で戦うのと変わりは無いだろう。
「俺ぁ怪我した処で痛かねえし、“上限”は知ってる」
戦場には慣れている。些細な怪我など今更気にしてどうするのか。泣いて世に傷の理不尽さを訴えるほどの幼さなど、遠くに置いてきた。
それに無茶などする気もなければ、引き際が見極められぬほど若くもない。
命の扱いを、分かっているつもりだ。
「安心しとけ」
な? と笑いかけてくる兄貴分に、でもと竜の青年は戸惑いをほんの少し見せて。
「痛くなくても血は出るし、出血するなら、……何でもない」
それでも、一先ずは飲み込んだ。
己の不安は、相手の信頼よりも優先すべきことではないと分かっているから。
「行こうライリー、まだ敵は沢山いる」
「ああ、しっかり頼んだぜオーティ」
考えたくもない『もしも』なんて思考から振り落として。
互いに預けた背中を信じ、二人は再び走り出す。
●手は取らぬままに、夜明けまで
どれほどの財を築こうとも、明確の暴力の前では全てが無意味だ。
それを十分すぎるほどに味わっているだろう。大口を開けた怪異が、今まさに|自身《ヴィクター》を喰らわんとしていれば。
悲鳴は無意味な言葉の羅列で並ぶだけで、無力だ。
けれどそこに、一閃の銀色が迸る。
「はいドーン!」
掛け声と共に綺麗なドロップキック。御霊をその身に宿した一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)の蹴りは、変化した手足のまばゆい光がもつ性質と同じ速度。見事に吹っ飛んだ異形の球体が、ついでとばかりに|念動力《ポルターガイスト》で操作されたのなら――ピンボールよろしく別の個体に勢いよくぶつかって跳ねる球は二つに増える。
「な、ななな、な……」
理解が追い付ていないまま声を震わせる男の姿は些か間抜けだった。夕方に侍らしていた護衛や部下は誰もおらず、ただ床に座り込んでいる男を見て賀茂・和奏(火種喰い・h04310)も小さく苦笑する。
(土壇場だと、築いたものが出ちゃうな)
買える安心は沢山あったとは思うけれど、それだけで終わってしまっていたのだろう。それでもラウンジへ辿り着けた悪運はまだ彼を手放してはいない。広い船内で駆け付けねばならない状況でないなら、充分手が届く距離。
借りるね、と心中で告げるは裡にいる烏の怪異へ。返事はその背に表れる白黒対の翼が証明だ。一度羽ばたくように動かせば、巻き起こる風が異形の放つ極彩色の粉末を退け、その身ごと大きく揺らす。ヴィクターに群がろうとしていた者たちが一時その動きを止めたなら、割り入るように和奏は駆けた。
先程の怒声も悲鳴も、無事を知らせるには十分だけれど。
「喜ばせちゃうだけみたいですよ」
お静かに。人差し指を口元にあてての忠告は軽い調子。命のやり取りには場違いなそれに、男は口をぱくぱくと開閉させるだけでしかない。
「おじさん、怪我はないですか?」
その隣に、やわい色彩が駆け寄った。戦闘が始まったせいか、青空のような瞳にほんの少しの緊張を混ぜて一文字・透(夕星・h03721)はヴィクターを見る。仕立てのいいスーツは多少よれているが、傷らしい傷は負っていない。
良かった。ほっとしたように息を吐く。正直苦手なタイプだけれど、痛い目にあってほしい訳ではない。
「こ、ここここれは一体何だ! 君たち、何か知っているのかね!?」
「あ、いえ……」
等身大の彼女にある種の安心を得たのかどうかは分からないが、調子を取り戻したように男はまくしたてる。とはいえ、和奏の言葉もあってか些か控えめの声量ではあったが。
しかし混乱のままにあれこれと並べ立てられる発言に目が回りそうだ。どうしたものかと迷いは一瞬。思い出すのは尊敬する尊敬する、年上の友人の言葉。
――困ったときは笑っておくと事がスムーズに進みますよ。
下がりそうになる眉をこらえて、口元を笑みの形に。おそらく発した本人の意味とは違うだろうけれど、そう在ろうと取り繕うだけでも心持ちは安定する。大丈夫ですよ、と告げる言葉はしっかりと震えず発することが出来た。
「君のような娘に何ができるというのだね!?」
(戦う方が気が楽かも……)
ほんの少しめげそうになる心を奮い立たせて、視線はそらさぬまま
「安心してもらえないかもしれないけど……おじさんのこと守ります」
「何をふざけた――」
「しょーがねェオッサンだなァ!」
先にしびれを切らしたのは伽藍だった。カツ、と光に溶けた足のヒールを苛立たしげに鳴らす。同じ眩しさの腕を腰に当て、特大の溜息を吐く彼女を誰が責められよう。
常ならば綺麗な弧を描く眉がぎゅっと寄せられて、機嫌の悪さを隠そうともしない。細めた深い青の眼差しがヴィクターを射抜く。短く息を呑む相手に、突き付ける指先は銀のまばゆい光で出来ている。
「死にたくなかったら、伽藍ちゃんがガン萎えする前に黙った方がいいよォ」
アタシはそっちの二人ほど優しくないの、分かる?
冷えた声色で言い聞かせるようにくるくると回す指先。すぐにその仕草も飽いたとばかりに真っ先に背を向けた。ぱちりと銀の閃光が手足で弾けて、向ける意識は敵の方へ。
そちらの方が余程楽しい遊びに違いない。
「レモネードの代金分だけアイツら殴ったら、やる気なくなっちゃうかも」
――なんつって。
ぺろりと見えぬ角度で舌を出す。感情は大事だけれども、私情で手を抜く愚かしさなんて持っちゃいない。この男は面倒には違いは無いけれど、八つ当たり対象が沢山いるのが本日の救いだ。手にした釘を、念動力で異形の大口へと打ち放つ。
それを追いかけるように、銀の女は駆けだした。常人が捉えられる速度ではない。振りぬく腕で二度目のピンボールは見事に連続3HIT。浮いた一つを光る伽藍の足が盛大に蹴って、また次の獲物へ。
「歯並び綺麗だね」
そっと囁く声は場所さえ違えば十分な口説き文句だ。今は降りぬく拳で、ぶち折ってやるという宣言に他ならないが。
銀の光になったような女を見送るヴィクターの顔は、随分と間抜け面だ。先程の威勢は何処に行ったのか。
「何故だ、折角何でもやると言ったのに……」
「――へぇ。何でも、ね?」
惚けた呟きを、和奏が拾い上げる。
別に資金に困っているわけではない。給与は十分貰っている方だ。能力者としての仕事だってこなしているのだし、パトロンなどは必要とはしていない。あれもこれもと多くを欲しがるような、欲深さだってないのだけれど。
にこやかな念押しは、組織の中で生き抜いてきた男のしたたかさが滲んだか。眼鏡の奥の翠が言質を押さえたとばかりに細められた。
嫌な予感に身を震わすヴィクターの懐事情は、この仕事が無事に完遂出来てこそ。翼を一つ打ち鳴らして、和奏は周囲の空気を強く揺らした。突風に異形たち進めず中空で足踏みをする。それが動き出すより早く、男が間合いを詰める方が早い。追い風は自ら、踏み出し着地するまでの一歩は大きく。革靴が、綺麗に磨かれたラウンジの床に小さな音を立てて着地した。軽やかに、刃を抜き放つ姿は踊っているかのように淀みなく。
大きく口を開いたEGOの赤い瞳が、レンズ向こうの翠を見た。深い水底のような、穏やかなそれと、確かに目が合った。
「申し訳ありませんが、彼の命運尽きさせる気はないんです」
邪悪を滅せよと祈りを込める刃は白々と。シャンデリアの煌めきを映して翻る。
その柄に結ばれた新橋色が揺れるのを、果たしてEGOは見ることが叶っただろうか。斬り落とされた翼が、極彩色に散ってふわりと落ちていく。その上にごろりと落ちたその丸い体を、静かに切先が貫けば命が終わる大きな震えが手に伝わって、おしまいだ。
手慣れた早業に、和奏を避けてヴィクターに近寄ろうとするものを、透の手にした栞が迎え撃つ。
他の人のように、数の多い相手が得意というわけではない。なら誰かを守る為に動く方が、敵の予測がしやすくて向いているはず。重ねた鍛錬も、現実の戦闘も、今は透の背を押す自信となっていた。
迷いのない動きを速さに、もう一投放られた栞が異形の白肌を裂く。それでも向かってくるそれへ、自ら一歩間合いを詰める。握りしめた苦無を振りぬく一撃も強くなんかない。けれど、もう一手。重ねる攻撃に、応じるように忠犬がEGOへと飛び掛かった。
極彩色の羽が散る。立ち位置はヴィクターを庇う場所からは引かない強さで、突き刺す一手に力を込めた。
守りは十分ならば、ますます持って自由に暴れるのは伽藍の方だ。他人様の利己主義なんて糞くらえだ、とばかりに遮られることのない光が部屋の中を飛び交う。
それを捕らえようとしたのか、やけくそか。異形が生み出す卵はいくつもで、彼女を狙って放たれる。脆く割れやすい見た目のそれがどういう効果かは伽藍は分かってなどいない。ただ、どうせ厄介で面倒だということだけは知れたこと。
右手を強く振るって握り込む。歪められた空間が、その手元に卵を一気に引寄せて――
「お返し!」
何も分からないまま投げ返された卵で、異形たちが悲鳴を上げる。その声が終わらぬうちに、銀の光はまた迸る。
さぁ何度でも!
全て綺麗に片づけるまで、皆で楽しく踊りましょう!
●素顔の居場所
栄養を求めるのは生き物の本能だ。
我が身可愛さのエゴ出てきた男に向かって、異形達は集まりゆく。膨れ上がった球体の体に大きな口を開けて、美味しい食事に一口ありつかんと歪な翼を羽ばたかせていた。
だがそれは阻まれる。船が大きく揺らぎでもしたかとばかりに、机も椅子も乱雑に転がり異形とヴィクターの間に割り込んだ。優美なカーブを持つ家具の猫足が、ついでとばかりに青白い球体の横っ面を蹴り付けていく。
凪いだ海面であることを、中空にいる彼らが知っていたかは分からない。邪魔をしたのが氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)の扱う不可視の力であることも、理解していたかは分からない。ただ杖をつく細身のその姿が、静かな緑の眼差しが敵あることだけは感じ取れたのだろう。
異形の大きな口で打ち鳴らされる歯列。眞澄が咄嗟に庇うようにして突き出した左腕へ深く噛みついて――青白い肉片へとなり終わる。
残るのは執念深く残った歯だけで、それを緩く腕を振って床へと落とす。服についた皴だけが攻撃の名残だ。動きにさしたる支障はない。
それでも感じた痛みは本物で、霊視の代償は男の体の内を蝕むけれど。
「あの光を此処に」
シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)の短い詠唱と共に、掲げた片手。その上に小さな陽が灯った。とうに水平線の向こうへ沈んだ太陽の欠片が、さざめくように揺れている。
やわらかな光は音もなく転げて、船内を駆けまわって満たした。芽吹きを助け、命を与える真昼のあたたかさが、悪しきものに傷つけられた者たちを癒しゆく。
「助かります」
「お手伝いならお任せ下さいまし」
遠ざかった痛みに礼を言う眞澄に、淑女姿のシルヴァも小さく微笑む。彼の体があまり丈夫でないことは知っていて、だからこそ手助けになればと此度は応じたのだ。
仕事は正確に、隅々まで完璧に。良き妖精としての真面目さと善良さは、これ以上ない補佐役だっただろう。増え行く異形たちがその極彩色の翼を揺らして、悪質な粉を撒き散らそうと。羽ばたきの風が、彼女たちへ強くぶつかろうとも。癒しのひかりが痛みごとその傷を取り去ってしまえば、あとは緑の静かな眼差しが斬り裂くだけ。
異形の翼が散りゆくさまは、その色の鮮やかさをもって華やかだった。派手な船内には似合いで、EGOにとってみれば不愉快極まりなかったのだろう。
けれど眞澄とシルヴァのどちらが攻撃をしているのか、不可視の技では判断がつかなかったに違いない。だから二人に向けられる攻撃は同時で、先に真っ二つにされたのはシルヴァに向かった個体だった。
自動攻撃でもない限り、どのような形であれ目線が最も人の行動を示す。斬り裂かれる二つ目、男の方へ向かったものが向けた視線の先でバラバラになってしまえば答えは明白だ。
優先すべき相手に気付いた異形たちが群れをなして羽ばたいた。杖をつくその姿めがけて、白く丸い歪な生き物が飛び向かう。
「させません」
瞬きの間ほども必要なく、女の姿が獣へと転じた。大きな黒い毛並みの犬となったシルヴァが四つ足でもって跳躍する。眞澄へと体当たりをしようとした異形のいくつかを尾の一振りで弾き飛ばし、残ったものを前足で抑え込んだ。
鳴らす歯が抵抗を試みるも、妖精とて負けはしない。
力比べはほんの一瞬。
「――逃がしません」
ただの一瞥。レンズ越しの緑が静かに向けられたら、それで終いだ。音もなく丸い姿が見せる綺麗な断面図は、二度と元に戻ることなど無い。
獣がじゃれるように跳ねて球体を捕らえたら、男の視線に宿る霊力が刻んでいく。最後の一体が上下の顎を綺麗に分かたれたのなら、眞澄は深く息を吐き出した。
「お疲れ様ですわ眞澄様。お加減はいかがかしら?」
「お気遣い頂き有難うございます、シルヴァさん……お陰でなんとかなってますよ」
シルヴァの黒い前足の爪が、床とぶつかって小さな音を立てていた。眉間を押さえる男を心配するように見つめる瞳の色はいつも変わらぬままの薄い青。それを見返し無意識にその頭を撫でようと一瞬手を伸ばしかけて――指先を握り込んで思いとどまる。
姿形が今は大きな犬の姿だとはいえ、彼女は立派な|女性《レディ》だ。失礼に当たる。能力の使い過ぎで訴える頭痛が、どうも思考を鈍らせていけない。
「構いませんよ?」
「そういうわけには」
軽口を乗せて小さくシルヴァが笑う。あれこれと形を変える変身のまじないは彼女の得意とするものの一つだ。けれど黒い犬の姿はぱたりと尾を振りおしまい。あっという間に元の小さな妖精の姿へ戻って、彼女はほうと息を吐く。
「元の姿がいちばん身軽だわ」
「やはりそういうものですか?」
「ええ。ありのままの自分といいましょうか……」
紋白蝶の薄い翅を震わせて、シルヴァは家具のバリケードの向こうにいる船の主の方を思う。
「取り繕わない自身を見せられるひと、ヴィクター様にはいるのかしら」
「……少しくらい自分の弱さを共有できる相手が居れば、彼もまた違ってくるのかもしれませんね」
自分のように、などとは白髪の相方が調子に乗りそうなことは眞澄も口に出さぬまま。弱音も強がりも。遠慮なく自由に振舞える相手は貴重なのかもしれないと思う。
世界が冷たく厳しいばかりだとしても、呼吸のしやすさを知れるならそれがいい。
その幸運を、誰しもが手にすることは難しい奇跡なのだろうけれど。
第3章 ボス戦 『外星体『サイコブレイド』』
●ラストステージ
羽ばたきはもう聞こえない。
異形は全てが沈黙した後だ。丸い原型も、その翼も、どこまでが元の歪さかも分らぬままに。
「わ、私の船が……」
ようやく立ち上がる気力を得たらしいヴィクターの呆然とした声が虚しく響く。
騒動が片付いたと思っているのだろう。気の抜けた雰囲気は乱れた髪と埃にまみれた衣服で多少間抜けに見えた。ひっくり返った机も椅子も使い物になりそうなものは既にない。頭を抱えた男は命が助かったことに安堵しているのか、それとも損失に嘆いているのか。
この騒動がまだ終わりでないことを知っている能力者達にとってみれば、それはどうでもいい事だっただろう。甲板か、船内か、|本番《サイコブレイド》は果たしてどちらから来るか。
誰もが警戒を怠らぬまま、微かな音がしたのは頭上からだ。吹き抜けの天上にあるシャンデリアが大きく揺れて、落ちてくる人影が一つ。外套を羽ばたかせて、|三つ目の男《殺し屋》が刃を構えて落下してくる。
「ぎゃっ」
しかして悪運はヴィクターに味方をしたらしい。覚束ない足取りで、転んだのは船の微かな揺れだった。その男の裾だけをサイコブレイドの刃が斬り裂くに終わる。
「なん、なんのつもりだ貴様ァ!」
威勢のいい言葉は、ひっくり返った声音で叫ばれた。腰を抜かすことも無く、能力者達の後ろへさっさと避難する動きだけが淀みなく早い。
「わ、私にはこいつらがついているんだぞ! お前など一捻りで――」
「何故邪魔をする」
戯言などただの雑音に過ぎない。サイコブレイドが構えた刃はぶれずに、立ちふさがる能力者達に向けられる。苛立ちも無く、躊躇いも無い声には、ほんの少しの諦念が滲んでいた。
「そいつが消えれば救われる者の方が多いだろう」
Ankerが自分たちにとって、どういう存在になり得るかを知っているくせに。
茶番だ。全てが。
「立ち塞がるというなら、お前たちにも死んでもらわなくてはならない」
●振るうは間断なく
問いかけの意味を捉えきれずに、深い青色の瞳が不思議そうに瞬いて暫し。
「エ、ごめん。別にオッサンの味方ではないんだけど、アタシ」
「なんだと!?」
狙われている張本人が、裏切られたと言わんばかりの顔で一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)を見た。しかし女は悪びれもしない。確かに今回の仕事は対象者の生存が条件に入っている。入ってはいるが、それは別にこの男の善性を考慮したものでは無い。これがまだ助けたくなるように人間ならまだしも、いけ好かないだけのオジサンならば本当に興味はこれっぽちもありはしない。
「このオッサンが死ぬと困る|√能力者《同僚》がいるかもしれないから来ただけなんだわ」
能力者たちにとっての錨たる存在。Ankerと呼ばれる者達は重要だ。欠落を埋め、帰るべき場所と定めた相手。それが無くては、死は本当の不可逆なものとなってしまう。
「貴様ら如きが私を踏み台にするというのか!」
(あんな目にあっても元気いっぱいなのは才能ね)
怯えたり喚いたり怒ったり。生命力あふれる感情の起伏にいっそ感心すら覚える。けれど彼には無事月末まで生き延びて頂かないと困るのだ、佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)にとって。
足元に散らばる先程までの異形の残骸。何匹倒したかは記憶頼りになるが、その全てが報酬額に変わるのだ。潤沢な支払いはより良い仕事につながる。
そして今回は追加の相手がこうして目の前にいるということは――
「そうだわ、出るわよね? 特別褒賞」
「は?」
閃いたように目を輝かせて振り向く女の意図を、ヴィクターが捕らえ損ねて間の抜けた声を出した。サイコブレイドと橙子を交互に見遣って、ようやく合点がいったのだろう。再び怒鳴りだす声は元気だ。
「貴様! 約束の金は十分すぎることになっているだろう!? これ以上などと――」
「こっちだって命張ってんだから、舐めた事言わないで頂戴ね」
にこりと微笑む表情は柔らかいのに、声が途端に低くなる。美人の発する雰囲気に気圧されて、ぐぬぬぬぬ……と男は唸った。
己の命よりもまだ財を優先しかねないのは、愚かな強欲さに満ちている。
「いいひと、だとは確かに思えないかもしれません」
一文字・透(夕星・h03721)の言葉は静かだった。サイコブレイドへ、静かな水色が振り向く。迷いのない、真っ直ぐな視線だった。
「でも、おじさんも誰かの|目印《Anker》になる人かもしれないから……殺させるわけにはいかないの」
声は小さいけれども意志の強さは揺らぎない。
ヴィクターが多くの人に好かれていようと、嫌われていようと関係ない。ただ、Ankerという存在がいかに大切であるかなんて、能力者たちは皆が知っていることだ。それが喪われるなど、我が身に置き換えて想像するだけでも心が引き裂かれそうになる。
だから、止める。
唇を引き結んで、透は彼を敵から守れる位置へ進み出た。
「というワケなの、ごめんなさいね」
契約をきっちりもぎ取った橙子も良い笑顔でサイコブレイドの方へと向き直る。かつ、とヒールが進み出た一歩で鳴った。
「でも彼にはゼロスタートをさせますから、許してくださらない?」
「任務放棄をするつもりはない」
予想通りの返答にこちらも動じてやることは無い。双方譲れぬ要求をして、その妥協点はどこにもないならば。
「では、ここからは斬り合いを話としましょう」
最後に物を言うのは純粋な力のぶつかり合いだ。
両手に携えた卒塔婆を大きく振りかぶって、橙子がサイコブレイドへと斬りかかった。挨拶代わりの攻撃は、しかして男の体へ届く前に刃に受け止められる。金属同士がぶつかる甲高い音が響いて、弾き飛ばされたのは体重の軽い橙子の方。衝撃をいなしながら二歩三歩と後退した彼女へ、距離を詰めようと敵は一歩踏み出す。だがその前に、伽藍の指先から放たれた光が撃ち込まれる。
(怖いんだよなァ、あの剣)
武器自体の重量に、男の腕前も舐めるつもりはない。いくら|護霊《クイックシルバー》で身体強化したところで、接近戦は些か分が悪いだろう。
ならば臨機応変に。倒れた家具を遮蔽物に動き回って、銃の形に構えた伽藍の指先から銀の弾丸は放たれていく。
着弾点から銀の残滓が揺らめいていた。サイコブレイドの足をひっかけて、その動きを音も無いまま邪魔立てする。
銃弾以外の効果は不意打ちだっただろう。僅かに崩れた体制を見計らって、今度は三つ目の真ん中へ。だが届く寸でのところで斬り飛ばされる。
そう甘くは無い――互いに。
一瞬出来た隙を見逃すまいと、踏み込んだのは透だ。少女の背を銀の残滓が支えたなら、懐へ踏み込むのは男の予想よりもずっと速い。逆手に握り込んだ苦無を、上向きへ振りぬく。だが浅い。斬り飛ばされた髭の数本が舞うのだけを見届けて、一歩下がった。
「シロ!」
呼び声に応えた小さな|姿《犬》がサイコブレイドの追撃を阻む。一声鳴いて、立てる牙は小さくともその足元へ。その隙に、また透の一撃が視界の隅から鋭く振るわれた。
力で勝てないのなら立ち回る速度で。それでも小柄な身一つなら追いつかれるかもしれないけれど、頼もしい|相棒《シロ》が一緒にいるなら負けてやる気はない。慣れない靴は脱ぎ捨てて、透は地を蹴る足に力を込めた。
どうぞ一緒に踊りましょう。こちらを確り見てくれたなら、次の相手は背後から。橙子が横凪に振りぬく卒塔婆が、鳴らす風切り音は厚く重い。
透の攻撃を振り払った男が、それを迎え撃つ。先程と同様に、甲高い音が響く。だが今度は武器を握る皮膚が裂けるほどに強い意志で、サイコブレイドは追撃を女へ。
切っ先が、迷いない軌道で振り下ろされる。
だから卒塔婆に刻んだ文字が、それを捉えるのは容易いこと。
「同じばかりではつまらないでしょう?」
小さな溝に引っかけた一撃を受け流せば、残るは男の隙だらけの姿だ。もう片方の卒塔婆を反対側から突き出し、脇腹を抉る。手応えは十分。威力を殺そうとした男の蹴りが衣服を汚そうとも構わない。どうせ新調するには十分なほどの報酬は、確約されているので。
流石によろめくサイコブレイドの体躯に、今度は落ちていた椅子が飛来した。放った分だけ満ちた伽藍の護霊の力は、薄らと銀色に煌めく。広い分だけ大量に落ちている家具の全てが、|手に届く《ポルターガイストの》範囲だ。
「あれもこれも、何もかも! 此処にある全部がアタシの武器だ!」
強欲の船の上に足りぬもの無し。手数勝負の戦いとなったなら、術の多さを持つものこそが強くなる。ヴィクターに悪運があったように、戦場の舞台はサイコブレイドにとっての不運で、伽藍の幸運だ。
飛び交うテーブルに椅子を破壊して、その力を止めようと男も走る。重量のある高価な家具が、容易く破壊されるのを見れば最初の判断は間違っていなかった。
「クイックシルバー!」
ばちん。伽藍の傍でひかりが弾ける。斬りかからんとした男を押しやるように、ポルターガイストで強化された椅子が飛んだ。吹っ飛ぶ男と距離を取るようにして、伽藍自身も後方へと銀の光に運ばれていく。
派手な音がして、サイコブレイドが傾いたテーブルを踏み抜きながら着地した。そこに小さな人影が、白い犬と一緒に走り込む。
透が振りかぶった苦無は、しかして強く打ち払われ。彼女の小さの手のひらから離れて飛んだ。金属が床に当たる音が聞こえる前に、反撃とばかりに払われる足。
けれど地面に転ぶ前に腕をついて身を起こす少女の瞳に、翳りなどやはり無い。空色が、じっと相手を見据えている。
持つ技術は目の前の男の方が上かもしれない。
だがそれは、諦める理由からは程遠い。
「お返しです」
拾っておいたカトラリーを男の足へと勢い良く突き立てる。何を使ったっていい、目的を達成するためならば些事だ。痛みが響いたか、顔を顰めるサイコブレイドの反撃が振り下ろされる。しかして|隠し事《武器》はひとつに留まらない。左手に忍ばせていた暗器が眉間めがけて投げつけられたなら、男もそちらを振り払う方を優先する。
そうしてまた伽藍と銀色と、橙子の卒塔婆が飛び交っていく。
入れ替わり立ち代わり、重ねる攻撃。どちらかが倒れるまでは夜明けよりも早いだろうけれど――色違いの三つの青の眼差しは、夜の眠りからは程遠いままだ。
●夜の目も寝ず
言葉が虚飾であるならば――向けられた殺意と切先の鋭さなど、恐れる必要などない。
分からないものを見る子供のように、雨夜・氷月(壊月・h00493)は小首を傾げて友を見る。
「なぜ邪魔をするかだって、芥」
「なぜ……? 任務や役割を全うしているだけだ」
答える夜鷹・芥(stray・h00864)の声にも温度はない。
柄に添えた手だけはいつでも死合える格好でいて、面に隠された半分の表情は読めなかった。冷えた金色だけが冴え冴えとサイコブレイドを見返している。
「其れはお前さんも多分一緒だろ、三ツ目の」
返事は、無い。
数秒の沈黙が、ラウンジに流れ込む海風に吹かれている。隙一つあればどちらかが斬り込むだろうことだけが、この場に横たわった事実だ。
「ま、俺も今はそれが役目だから、かな?」
そんな空気など我関せずと肩を竦める氷月の声だけが明るい。軽い足取りで隠れようと必死なヴィクターの両肩に手を置く。
「んで、アンタはコイツ消してヒトを救って、何がしたいの? そんなツマンナイ顔してさ!」
細めた瞳の奥で、宵の月が嗤っている。不自由な生き様を咎めるように。
救われるものが多いなど、表面だけで薄っぺらい。行動の正当化など、自分自身で消化して飲み込んだ方が余程マシだ。
そんな歪んだ物差しで決められる物事に、正しさなど見出してはいけない。
「残念、このオッサンは俺達のために、これからも仲良くする約束でな」
軽い調子の友人に、芥が喉奥で小さく笑った。
「獲物を横から掠め取るなんて野暮許せねぇな。なぁ氷月?」
「んは! そうだね、芥」
「何の話をしているのだね!?」
視線だけは敵から逸らさぬまま。軽い口調で冗談めかした彼も、それに笑う銀色も、上がった不満の声は軽やかに無視していく。
「だーいじな金ヅル…玩具……ま、なんでもいっか」
先に目を付けたのはこちら側だ。
邪魔立てするなら仕方がない、こちらも力業で阻止させてもらうまで。
昼と比べて随分埃の多い床を、氷月が蹴った。一度だけ寄こした視線が、芥の金色とぶつかって、すぐに敵へと向けられる。
「さあさあ、俺と遊んでよ!」
散る花弁のように焔が舞った。氷月よりも先にサイコブレイドを遊びに誘うようにゆらゆらと、揺れてその熱を振りまく。
「今ある生を楽しまないと勿体無いよ?」
ほらほら! と急かすように叩く両手をリズムに、足元から影が伸びた。深い夜のような暗闇の色をして、敵の姿を捕らえんと。
「戯言を」
だが易々と捕まってやるほど相手も優しくはない。誘いごと蹴散らすように刃が振るわれて、逆に一歩踏み込む。長く揺れる銀の髪、その持ち主を狙うように返す切先。
だがそれは影から飛び出す夜狐が邪魔をした。耳から尻尾の先まですっかり黒い体で、音も無いまま。闇を固めたような鋭い牙がサイコブレイドの腕に突き刺さる。
体制は崩れぬが、そんなものをぶら下げたまま行動出来ようもない。振り払うように男が腕を振るえば、散らばったテーブルの影へと落ちるようにまた身を潜ませた。
そして意識をそこに奪われている間に、銀の月は夜闇の中へ。
見失った対象に、緑の三つ目がほんの少しぶれた。
「……お前には影は、なにが、見える? 外星体」
「――懐かしい、ただの幻だ」
影の奥底から聞こえる芥の声に、応じる男の声は静かなものだった。
振るわれる花影の、赫い太刀筋をサイコブレイドが受け止めて振り払う。
「くだらない、何もかも」
「こんなやりとりも楽しめないの?」
カワイソウに!
笑う声は背後から。氷月が伸ばした影が男の腕を今度こそ絡めとった。引き千切ろうとする動きを咎めるように、小さな銀片が突き刺さっていく。
そこへ再び花影の刃が閃いた。
異形の形をした左腕は致命傷を避けようと伸ばされたのだろう。その掌を刺し貫くように、芥の一撃は確りと届いた。
斬り裂かれる前に手を引き抜いたサイコブレイドの判断は正しかったのだろう。追撃を避けてバックステップで数歩下がって、そのまま大きなテーブルの後ろに下がり、蹴りつける。
吹っ飛んできたそれを黒と銀が避ける頃には、姿はすっかり別の物陰へ。
「……はぁ、これ過剰労働じゃねぇ? 俺ら」
「んふふ、俺は暴れ足りないかな!」
まぁ|特別手当《ボーナス》ぐらいはたっぷり出してもらえるだろう。その分の働きは十分に、手抜きなんてする気もない。
「終わっても物足りなかったら仕方ないよね。あとで芥で遊ぼっと」
「いや、俺で遊ぶな」
何の言い訳だと睨みつけて、また二人床を蹴って走り出す。
楽しいお仕事は、動けなくなるまで跳ねまわってこそなのだから。
●しあわせを誰しもに
「邪悪イースターは殲滅したね」
悪さをする卵が居なくなってしまったことに、誰よりも安堵したのはエオストレ・イースター(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)だろう。成果に満足した様子で額の汗を拭うふりまでして、幼馴染へとぴかぴかの笑顔で振り向いた。
「清浄なるイースターは守られたね、祝光!」
「そうだな」
(清浄なるイースターとは……)
幼馴染の中でかの祭りがどういう認識になっているのか。
時折疑問は咲樂・祝光(曙光・h07945)の裡に湧いてくれど、訊ねることはやめている。三日三晩経っても説明から解放されない気はするし、理解出来る気もしない。彼がそれを大事に思っているという一点さえ理解していればいい。これで間違いでは無い筈だと目を逸らしているなんて、そんなこと。
今回の事も最初からイースターではないのに、あんな嬉しそうに。やる気に溢れているのが分かる兎耳を揺れを眺めて、祝光は満足げに頷いた。なんやかんやと言いはするが、こちらも大概幼馴染に甘い。
「俺の前で殺しなんてさせない」
だから彼が思う素敵な祭りを、血で汚させるわけにはいかない。
確かにヴィクターがいなくなることで、救われる人間だってでるだろう。踏みにじられ食い物にされた者の無念は晴れて、一時の喜びに満たされる。
けれど、それだけだ。
本当の救いを願うなら、続く未来を見据えてこそ。青ざめた顔ばかりのヴィクターを祝光は一度見遣る。良い人間だとは思えないが、喪われて解決するものなど無い。
「その人だって救われるべきだ……もちろん、君も」
「そういうことだよ、外星おじさん!」
昼夜あわいのと、春の桜宵の二人分の眼差しがサイコブレイドへ向き直る。
ぴしりとエオレストが突き付ける指先の真っ直ぐさは、向けられた刃にだって負けはしない。
「イースターは再誕と復活の日!」
きゅっと眉をほんの少し釣りあげて、悪い子を叱るような口ぶりで彼は続ける。
「そんな日に死は相応しくない。例え君の星のイースターがそうだったとしても」
「何の話だ」
少しだけ困った様子で緑の三つ目が祝光を見た。しかし無言のまま首は横に振られだけに終わる。幼馴染とはいえ全てに通じ合ってるわけではないのだ。
ご機嫌な|兎《災厄》にとって世界の全て祝祭で成り立っている。そうだと信じているし、そのように春を振りまくのだ。
誰が納得しようと、しなくとも。
「君には誰も殺させない!」
ブーツの踵が床を高らかに鳴らす。春風のように軽く駆ける足は、女神のやわい加護で守られている。
「あ、悪金おじさんはちゃんと下がってるんだよ? お金は君を守ってくれないんだから」
「わ、悪金おじさん……!?」
ストレートすぎる呼び名である。
ショックを受けるヴィクターの反応などどこ吹く風。防弾チョッキ代わりにはなるかもね、なんてふわりと紫苑の髪が真紅を抱いて揺れた。飾りの鈴が清い音を立てて揺れたなら、辺りに舞い散るは桜吹雪。
「いくよ、祝光!」
さぁ祝祭のはじまりだ!
風情の分らぬ外星体にもイースターの真骨頂を教えてあげようとばかりに、薄紅が暗殺者たる男へ纏わりつく。一枚一枚がさしたる力は無くとも、束ねれば敵を捕らえるほどの強さだ。そこへ鮮やかに塗られた卵を投げ込めば、軽快な爆発音とともに花火があがる。
振りほどくように腕を振るったサイコブレイドの元へ、しかして祝光の放つ破魔のひかりが放たれる。
「───櫻禍絢爛、咲麗。光のどけき夏風に、華と寿ぎ咲き誇れ」
そして此度紡がれる祝詞はひととせの夏を思うもの。舞い散る花は幼馴染の術と同じ春だというのに、足元でさざめく青い水面の上で踊る光は晴れやかな夏のそれだ。光の神域は広がって、皆の足元で緩やかな波紋を描いている。
「そんな恰好じゃあ暑いだろ、涼しくしてやるよ!」
懐から取り出した氷属性の符が、サイコブレイドの足元へ放られる。瞬間、凍てつく足場に男がたたらを踏んだところへ二度目のひかりが直撃した。
踏みしめる足場が滑るままに、けれど倒れたテーブルにぶつかって止まった彼の三つ目が真っ直ぐに二人を見た。否、その後ろにいる狙うべき相手を。
「私の船が!」
「危ないから下がってな! 船より命の方が大事だろ!」
燦々と差し込む光が、舞う桜吹雪がヴィクターを遮るように覆い隠す。
しかし構わないと向けられた切先、そこに宿るは遠い果ての得も知れぬ力。
「負けないよ、打ち返してやる!」
「噫、エオストレ! 力を合わせて打ち消してやろう!」
二人分の桜花が嵐と舞う。宵と曙、互いの双眸に宿るは自分と、大切な幼馴染を信じぬく強い意志の光。
誰一人、死なせてなんてやるものか。
気高くあるなら有言実行、発言の撤回なんて有り得ない。
「その金ピカもハッピーイースターにしてあげるよ!」
悲しみや怒りなんかじゃなくて、誰もが幸せでありますように。
サイコブレイドから放たれた閃光を、春の色がやわく包んで飲み込んだ。
●破壊遊戯
無骨なばかりの暗殺者の姿で、一際目を惹くのが手にした刃だろう。
「いいですね、格好良い」
玩具を目にした子供ような感想を呟いて、焦香・飴(星喰・h01609)の若草のような目が輝いた。外宇宙の技術で出来ているならば、油断すべきものでは決して無いが。
「タイミングは悪くなかったが……アンタ、随分運が無いと見える」
長い髪をかきあげて、五槌・惑(大火・h01780)は皮肉気な音をサイコブレイドへと放った。能力者がこれだけいる前で行われた暗殺は、対象の悪運で未遂に終わっている。成功していれば随分と派手な見世物になったに違いない。
「そちらもお仕事かもしれませんが、こちらもお仕事なもので。今からでも引く気は?」
「無い」
「ですよね」
飴が発した言葉は最初から何の期待も無い。向けられた切先の殺意も揺るがない。対して常と変わらぬ微笑を浮かべたままでいれば、背を押されておやと隣を見遣る。
「ほら交代だ、楽しんで来い」
「あれ、譲って貰っていいんですか?」
ここで遠慮をする気質でもないなら、素直に足は前へ。視線の先、惑が取り出した銃が揺らされるのを見れば、ぱっと災厄の顔が明るくなった。
「やった、期待して暴れますからね」
「特等席だ、喜べよ」
飴の革靴が床を蹴る音が、プレゼントに跳ねまわる子供のような軽さで響く。ずっと興味があったのだ。惑が剣を使う姿なら何度か見たが、撃つところは今回が初めてだ。
ご機嫌に走り出した災厄の後ろから放たれた炎は前座だろう。隠れるように消えたサイコブレイドの姿を見えやすくしてくれるのは優しさか、それとも仕事熱心だからか。聞くまでも無く後者ではあるが、聞かぬ限りはどちらの可能性も存在する。そうなれば、都合のいい方に取ったっていいだろう。また一歩、足取りは軽くなる。
そんな男が進む先。燃ゆる赤色の揺らぐ場所を、示すように惑の銃弾が撃ち抜いた。
抉れた床からじわりと染み出す毒に怯むことなく、飴が速度を上げる。踏み出すごとに、長い足は夜闇のように黒く染まっていた。着弾音に応じて勢いよく蹴りを放てば、かすかに爪先に感触が残る。
外れだ。続く銃弾の音は少し離れた場所から、手を引くように鳴り響く。
一触即発のかくれんぼ。戦いの割に随分嬉しそうに笑う飴の一歩が、床に重く落とされて亀裂を作る。それもまた外れで、けれど飽きることなく次へ向かう。
近い場所より、遠くから見ている惑の方が当然敵の居場所を特定しやすい。動き回られても邪魔だと銃弾はわざと崩したリズムで、フェイント交じりに撃ち込んでいく。
自分の調子で動けぬことは苛立たしいのだろう。ゆれる炎に、サイコブレイドの人影がふっと滲んだ。それが、惑の方へと駆けてくる。
支援するものから倒していく、それは悪くない判断だったろう。
ただ、惑もそれに動じるほどか弱くないだけの話。冷えた目で弾く引き金は相手の足元に。それを避けた男の、三つ目の鮮やかな緑に向かって炎が一度爆ぜる。
火に怯む姿は、なるほど奇怪な触手を生やしているとはいえちゃんと生き物の範疇だったらしい。咄嗟に振るわれた刃はどこにも届きはしないまま、閃光は無意味に床を抉った。その隙に銃弾を撃ち込みながら距離を再びとれば、追いつく災厄は敵の背後に。
「捕まえ、た!」
鬼ごっこならば正しいのに、勢いをつけた蹴りの重さは言葉に合ってない。駆けた勢いのまま上体を捻り、全体重を乗せて踵を斜めにふり下ろす。先程まで無かった確かな手ごたえ。
ようやく、当たりだ。
蹴りを喰らって倒れた相手を、踏みつけようと再び足を振り上げる。慈悲などそこには存在しない。虫でも縫い留めるかのように感情を乗せぬまま、体重をかけて振り下ろす。
サイコブレイドがそれを刃の腹で受け止めて、拮抗は暫し。
「お、わ」
上からの力を斜めに受け流されれば、何もない床に勢いよく爪先が突き刺さった。あ、という間もなく相手は再び姿をくらませる。
「逃げられちゃった」
「しっかりしろよ」
結構すばしっこいんですよ、なんて言いながら罅割れた床から足を離す。そして良いことを思いついたとばかりに緑の瞳は、友人へ。
「惑さんもこっちで暴れてくださいよ」
「遊び相手に飢えすぎてねえか、アンタ」
胡乱な琥珀の眼差しに、飢えてはないかもと笑う声はいつだって変わらない。それが不自然でいて、本人だけは無垢な子供のように笑顔を浮かべている。
「惑さんと遊びたいんです」
――仕事でないと星喰とは遊んでくれないじゃないですか。
壊れない|相手《玩具》を手に入れて、まだ大型獣の方が大人しいと思わせる無邪気がひとの形をしていた。壊すことに躊躇いの一つでもあれば人間らしくあれただろうに。
否、きっとそんなことは望んでも居ないだろう。それに惑とて既に半身はひとの外側だ。能力者たちにとっての|錨《Anker》の安否を憂うより、さっさと仕事を終わらせる方が性に合っている。
銃を仕舞って、代わりに剣を引き抜いた。揺らめく炎を、刀身が反射して冴え冴えと輝く。良い笑顔を見せる災厄を甘やかすのは良くない気はするが、何をしてもご機嫌な男だ。己の行動など些事の範疇だろう。
「この茶番を終わらせてしまいしょう」
勿論、この船が沈まない程度で。
荒れた屋内に似つかわしくないほど穏やかな飴の声。付け足された言葉は少々言い訳じみて響いたかもしれない。
●銘々動機の底は同じく
荒れ果てた船内は昼の面影を辛うじて、その頭上に残しているだけだった。
視線を下せば行玉並んでいたはずの家具たちが、すっかりへそを曲げてあちらこちらへ散らばっている。
仕方がない。命の奪い合いとなれば、物言わぬもの達まで配慮をするのは難しいのだから。きっと後で、船の主が綺麗にしてくれるだろう。
ならば今はこの形で有効活用を。
今は夜、眠りを見守る月は晴れた空の上。その力を借りたシルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)が、不可視の力で猫足のテーブルを持ち上げ放り投げる。狙いは当然、外星体――サイコブレイドへ。
妖精の悪戯というには豪快な攻撃だった。少々、いやかなりの勢いで床に傷が走ろうと構わない。手加減などする必要も無ければ、できる相手でも無いだろう。直撃を避けて逃げる敵が出来ることは、手にした武器で砕けた家具の破片を打ち払うことぐらいか。だがその腕に、足に、触手に、傷が走っていく。
巻き起こす轟音は氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)が歩むの杖の音すら掻き消していた。潤沢な遮蔽物は体の不自由な彼の大きな味方になる。物陰に隠れて、あとはレンズ越しに相手を視界内に捉えればいい。明確な一打を与えるには移動が少ない方が楽だが、そんな無防備さで相手に挑めはしない。どれだけ二人が念動力の使い手であろうと、純粋な暴力で襲い掛からるのはごめんだ。小さな妖精も、細身の男も肉弾戦が得意とは言い難いのだから。居場所はバレぬ方がいい。
用心深く慎重に。さりとて臆病にはならず。本日のバディは互いの役割分担を冷静にこなして、敵を追い詰めていく。ただあちらとて素直に防戦一方に甘んじるわけではない。砕けた家具の、上等な木片が勢いよく投げ返される。狙いは姿の見えない男でも、小さな乙女のでもない。何もできずに座り込んだ|標的《ヴィクター》に。
だがそれを遮るのは眞澄の扱う念動力。滑り込ませた丸テーブルの天板に当たって砕ける木の音に、ヴィクターが情けない声を上げる。
「随分と真面目な手数ばかりだ、その気質であの男を庇うか」
安い挑発だ。
乗る必要は無い。
「繰り返しますが、彼をどうこうするのはこちらの世界の然るべき機関がすべきこと」
ただ事実は訂正すべきだ。
私刑は許されるものではなく、サイコブレイドの行いを正当化するための理由にはならない。
椅子が床にぶつかり砕ける音に、眞澄の杖の音が紛れて進む。
「今まで野放しにしてきたような奴らに期待を?」
「ヴィクター様が永らえて、救われる者があるかもしれません」
続くシルヴァの言葉にも迷いの色はない。
「わたくしは、ひとはみな、より善い方へ向かえると信じておりますので」
たとえ現実がどのような形であれ、そうと願わぬならば、叶うものも叶うまい。夢見がちだと言われようと、彼女が|妖精《グッドフェロー》であろうとする限り。隣人たちの幸福を願わぬ道理はない。
指揮者のように振られる小さな指先に、家具たちが従って飛び交い転がりゆく。全てが無作為だと思っていたそれが、道を作り、案内するは行き止まり。
積み上がった家具の壁に気が付いて振り返れば、三つの緑は同色の冷えた眼差しにぶつかった。
「……、それに」
同様にして静か声は、ほんの少しの逡巡を混じらせた。けれどその芯が揺らいでいたわけでは無い。当の本人に聞かれたくはない言葉を口に出すか否か、ただそれだけの迷いだ。
「私は――私の|相棒《Anker》を害する可能性のある、あなたを放っておくわけにはいかないのですよ」
視えている。
断ち切るべきものは何か。眞澄の視線はただ音も無く対象を見つめて、それだけでいい。
彼に切りかかろうとしたサイコブレイドの右腕が、肘から静かに外れる。それは痛みを感じるよりも早かっただろう。追撃のように、一際大きなテーブルが飛来すれば何度目かの轟音がラウンジ内に響いた。
それが静まる頃には落ちた腕も男も姿はない。けれど手痛いダメージを与えたはずだ。一つ息をついた細い眞澄の体がぐらついて、けれども支えるように少しだけ端の痛んだソファが支えるように座らせる。随分と青い顔色に、シルヴァが心配そうに眉を寄せた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ですが少々張り切り過ぎてしまったようです」
眞澄は眼鏡のブリッジを押し上げて、眉間を強く揉んだ。先程よりも強くなった頭痛に、体の中すら掻きまわされるような感覚がする。力を呪うべきか、それともこの不自由な体を呪うべきか。
「……ああ言っておいて、私情過ぎたでしょうか」
「いいえ。わたくしだって同じ気持ちです」
(わたくしの大事な子に触れられたら――と思うと、とても我慢なりませんもの)
預かった店で大事に眠る、碧星を纏う白馬。己と同じ目の色をした彼女の姿を思い出して、白い蝶の翅が小さく震える。能力者たちにとっては我が身と同じく、否、我が身以上に大切に思う存在がAnkerだ。想いの理由は誰しもが違って、けれど考えるまでも無く分かること。
それはきっと、あの男だって同じはず。
同じだからこそ、彼の行いは看過してはならない。どれほどの理由があろうと絶対に。
誰かを害し得た先に、平穏など在りはしないのだから。
●
ざらついた空気だ。
荒れ果てたラウンジで、壊れた家具の粉塵が煌めいている。右腕を無くした|外星体《サイコブレイド》は、しかして表情一つ変えていない。無事なもう片方の手に握り込む刃の鋭さも、また。
「命は大事か、どのような形でも」
「あん? 正直アレがどうなろうと構いやしねえが」
興味が無いことを隠しもしない口ぶりで、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)が答える。
悪人が一人減れば救われる人もいる、それに違いはない。だが私欲を隠した断罪は野蛮な行いだ。どのような理由があれ事情を酌んでやる義理も無い。例えこの船の持ち主がどのような素性であろうとも。
「君は文明の敵で――即ち私たちの敵だ」
目の前の|相手《サイコブレイド》の行いこそが、今立ち塞がる理由になる。その両目の炎を静かに揺らすオルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)の言葉は、互いの立ち位置に明確な線を引いた。
「安心しな、きっちり邪魔しきってやるよ」
隻眼の男の声は世間話でもするようでいて、油断が滲むことは無い。慈善事業でも正義感でもなく、ただ仕事を受けたからには完遂してこそ。互いに譲り合う隙間などどこにもなかった。
ならばやはり戦う他に術はない。無言のまま姿を家具の物陰へ隠そうとするサイコブレイドに、先に踏み込んだのはオルテールだ。
進む足が緑の鱗に覆われ、鋭い爪が人ではない者の重みで床をとらえる。両の腕も同じ色の硬さを持って変わっていく。薄皮を張った翼は背伸びをするように一度大きく羽ばたいたのなら、跳躍は一秒にも満たない。今そこに外星体がいた場所へ、勢いよく前肢の伸びた爪が斬り裂いた。
「随分男前な姿だなオーティ」
「お褒めに預かり光栄だ」
ほんの少し驚いたような、けれども納得したようなライナスの声に、頑健な尾が一度床を打つ。竜としての姿を見せるのは初めてだったが、隠している訳でもない。たとえ角が生えようと、|自分《オルテール》を|自分《弟分》だと認めてくれないような兄貴分でないことも知っている。
空振った爪をかちりと打ち鳴らして、焔の瞳が細まった。例えどのような仕組みであろうと、相手の姿を逃がしてはなるものか。転がったテーブルの影、聞こえる足音、呼吸音。図体の割に素早いサイコブレイドの姿をオルテールは追いかける。
「右だ!」
その声に応じるように、ライナスの槍が振り上げられた。甲高い剣戟の音が響いて、跳ね上げた外星体の刃。そこに踏み込むように、柄を短く握りなおして追撃を見舞う。浅く脇腹を裂いただけのそれを確認するまでも無い。己の皮膚に傷をつければ、痛みは無くとも醒める感覚が次の一手へ繋げてくれる。
突進の勢いで穂先を繰り出せば、サイコブレイドの触手が数本斬り飛ばされた。
「上だライリー!」
三つ目の男の、捻った体勢から振り下ろされる刃はさして力がこもっているようには見えない。柄で受け止めれば、その隙にオルテールの腕が横凪に敵を弾き飛ばした。
隻眼とはいえ戦場で敵の姿を逃がすほど甘くはない。人の形をしている以上、足捌きや向ける視線で先読みできることもある。何より、右目を補うようにと響く弟分の声は、どんな場所でも聞き逃すつもりもない。
サイコブレイドの足音に、振り回した石突が繰り出され。反撃と振るわれた刃は頑健な鱗が受け止める。役割分担は確かでいて、攻撃は二人の優勢に見えた。
けれど少々過保護な竜の動きを、暗殺者とて見逃しはしない。オルテールの爪の攻撃が袈裟懸けに敵をとらえようとした瞬間。サイコブレイドが手にした武器をライナスへ向かって勢いよく投げた。
――駄目だ。
男に肩にかかっていた爪を振り下ろすよりも、兄貴分を振り返る方が早い。瞬き一度よりも短い一瞬だというのに、竜の脳裏によみがえる光景は取り返しがつかなかった過去のことばかり。
不可逆の傷を負った大事な妹。目の前で喪われてしまった友人。自分ばかりがいつだって無傷で、呪わしい天運で切り抜けてしまった。
――もう一度だって間違えられない。
伸ばした逆の手がその刃を弾き飛ばしたのは半ば無意識。瞬く火花が、鮮やかに散り咲いた。後ろを向いた勢いで、尾がサイコブレイドを強く打ちつけ吹き飛ばす。転がった家具の山に突っ込んだ男の、派手な音が響くのが聞こえた。
「……感謝は言わねぇ」
ライナスの声にオルテールは我に返る。
金の隻眼は睨みつけるように敵が吹っ飛んだ方を見ていたが、もう既に姿をくらましたのを見れば深く溜息をついた。
投げて来られた刃は、十分己の槍でも対処できた範疇だ。先程の戦いでもやけにこちらを庇う挙動が多かったが、一体何をそんなに怯えているのか。
「無茶して引っ繰り返す適性は後の反動がデケェぞ?」
向き不向きを自覚できていないわけではあるまいに。未だ再襲撃に構えて油断ない気配のまま、苦言は静かに落とされる。
そう、けれども竜は全て分かっている。
「後のことは後の俺が考えるよ」
守護者に向かぬ自身が、荒唐無稽な真似をやっていることぐらい。
引く気のないオルテールの声はやけに落ち着いたままだ。刃を無理に振り払った時に裂けた、鱗の薄い手のひらから滲む血が床に落ちる。それを見咎めて、オーティとライナスが名を呼ぶ。
「盾ってのはな傷付く為に前に立つモンじゃねえ、はき違えるな」
耳が痛くなる言葉だった。口調はきついが滲む心配を感じられぬほど鈍くもない。傷を隠すように手を握り込んでも、流れる血は指の隙間からこぼれていく。
「傷付けさせねえってなら――同じ気持ちを相手も持つって事を忘れんな」
「分かってる」
自分の為を思って言ってくれていることも。
短絡的な自己犠牲がいかに傲慢であるかも。
目の前で誰かが傷つくことが、どれほど辛い事かも。
「だが俺はもう失敗出来ない」
全て分かった上で、曲げることのできない意地だった。
瞳の中で揺れる焔は真っ直ぐで、真正面から受け止めた金色はそれをじっと見つめ返し。最後には大きく息を吐いた。どうしたものかと悩むのは本日二度目で、理由も同じ。
「あのな、お前さんが傷付いたなら他の奴が傷付かねえとは限らねえし――生憎と世の中、不条理の方がまかり通ってやがるんだよ」
真っ直ぐな気質は、本来ならば弟分にとっての美点だろう。ただ命の奪い合いや醜い争いの中において、それは弱さにもなり得る。
「それを飲み込めねえ内は――血は消えねえぞ」
現実を見据えた忠告だった。
いつか致命的な間違いに至らぬようにと、優しさを含んだ言葉だ。
「……はは、世に斯様に不条理が蔓延るから」
――俺の筋書きは、現実にならないんだな。
誰しもにとって|最良な結果《ハッピーエンド》がこんな世界で、常に幸福だけに包まれるとは限らない。分かっている、知っている。それでも、と思う心が叫ぶだけだ。
盾が無傷で場を凌ぎ、守りたかった誰かが血を流す――そんな馬鹿な話があって良いはずがないと。
●終幕
勝敗は日付を超える前には終わるだろうか。
傷だらけになって尚、サイコブレイドが纏う気配に諦めはなかった。同じだけ荒れた屋内には似つかわしいのに、肝心の標的は怪我の一つすら負わせられていないのに。
「ま、まだ諦めないのかね! こっちの戦力の方が大きいと分からんとは愚かだな!」
(悪運強いなヴィクターさん)
若干調子に乗り始めている船の主を賀茂・和奏(火種喰い・h04310)は呆れたように見遣った。この騒動の中でめげない精神力だけは、確かに成り上がるだけの強さがあると見える。まぁ大幅に傷んだ懐に、やけになっている可能性も捨てきれないが。
けれど折角無事だった命は、確りと抱えて大切にして欲しい。
「もう今は口閉じて下がっててくださいな」
戦闘に気が散ってしまうのも嫌なので。
そっと肩を押しやって前に出る。素直に言うことを聞いてくれるあたり、目の前で起こっている状況を飲み込めていないわけでは無いらしい。
組紐飾りを揺らして鞘を握り込めば、鍔で小さな電流が弾けた。踏み出す和奏と入れ替わるように、黒猫がヴィクターの足元でニャアとひと鳴き。
「にゃんこ、頼んだよ。彼はきっと後で美味しいものを奢ってくれるから」
月依・夏灯(遠き灯火・h06906)がそう声をかければ、任されたとばかりに男を護るように足元に控える。すっかり食い気ばかりの神様だ。頼りやすくて助かるけど、と青年は小さく笑う。
「さあ、できるだけ遠く逃げて」
続く言葉はヴィクター自身へ。穏やかな赤い眼差しで微笑み、夏灯は敵へと向き直る。背後で遠ざかる足音を聞きながら、そちらに攻撃が通らぬ位置取りをして銃を構える。片腕の落ちた外星体の男から、目を逸らすことも無い。
「……何故」
「何故? 問わずとも知ってるでしょう」
零された疑問に、和奏の落ち着いた声が答える。己たちにとってAnkerがいかに大事なのかを、サイコブレイドが知らぬはずがない。今、こうして諦めることをしないのが何よりの証拠だ。
聞きたいことはそれではないと、三つ目が視線で問う。
「他者の怒りをや悲しみを借りて、命を奪っても「いい」にはならないからですよ」
「悪人だって護るさ——だって僕は元悪人だもの」
しかしてやはり、彼の行いを肯定する答えなど二人は持ち合わせない。どのような過去を持っているにしても、人生を決めるのは彼自身だ。その生涯を誰かが勝手に終わらせていいはず等ない。
己の行いを肯定しようとするのは根っからの悪人でないことが知れた。訊ねることなど、決意を持っているならする必要がどこにある。彼が|錨《Anker》となる人間の命を断とうとする理由があることを知っているからこそ、ここで止める。
吐いた息に合わせて和奏が駆けだす。迎え撃つ体勢になったサイコブレイドに、けれども先に到達するのは夏灯が呼び出す炎の龍。
「君にも事情があるのはわかるけど、それでも邪魔させてもらうよ」
手元に構えた護符が燃え尽きるようにして姿を変えたそれは、揺らぐ焔の体を持つ。ちらちらと火の粉を撒き散らして、咢を轟と開き。片腕の外星体へと燃え盛る牙を向けた。
よろめく体がその一撃を転がって避けたところに、踊るは組紐飾り。新橋色のそれが結ばれた刀を握り込んだ和奏が、柄ごと勢いよく振り下ろす。
鈍い音が大きく響く。刃で受け止め、はじき返す腕力はサイコブレイドのどこにあったのか。器用に触手を使って飛び起きるそこへ、追撃と横凪のもう一打。逃げたマフラーだけが捉えられて、払いのける和奏の隙へ三つ目の男が踏み込んだ。
しかしそれを夏灯の放つ銃弾が妨げる。軽く頬を裂いて、かけたサングラスのフレームは弾かれた。床に軽い音を立てて落ちることなど、もう誰も気にしない。炎の龍が舞う爪牙の連撃を裂けるように後ろに軽いステップで逃げたサイコブレイドの、手にした刃が鈍く光り始める。
──させるものか。
和奏が地を蹴る速度を上げて、夏灯の放つ弾丸に雷撃か乗せられた。痺れをもたらすそれを避けぬ代わりに触手が受け止める。
「最後だ」
悪あがきは最後まで貫く意地だ。
光を満たした刃を振り下ろす鋭さは確かなものだった。けれどその手を、斬り上げる和奏の一閃の方が少し早い。
抜き放たれた刀身は、稲光りじみて。対象を目にも止まらぬ速度で切断する。
支えを失った刃が、あらぬ方向に光を撒き散らして床に転がった。暴れたそれを封じるように炎龍が飲み込み、ヴィクターの方へ向かうものは夏灯がその身を呈して防いだ。
緑の三つ目が、彼らを見る。
諦めたような、安心したような感情をその奥に滲ませて。
「邪魔しますよ、何度でもきっと」
だから今回はもうお眠りを。
返す刀の一撃で、|暗殺者《サイコブレイド》の命はひとときの終焉を迎えた。
●encore
「終わった……のか……?」
「そうだね。多分もう安全かな」
呆けたような顔をするヴィクターに、少し煤けたよう上着を払って夏灯が答える。直撃しなくてよかった。多少の傷は気にしないけれど、庇いきれるかは別の話になってくる。
「怪我はない?」
「お、おお! しかし君は大丈夫なのかね」
「うん。普段からにゃんこに齧られてるから痛みには慣れてるんだ」
「それは齧られないという選択肢が無いものなのか……?」
何とも言えない顔をする男の横に、にこやかな様子で和奏が歩み寄る。伊達眼鏡の奥で笑う翠の両目は温厚と言えたが、
「お守り出来て良かったです。あとで希望される方の分の請求、頑張ってくださいねー」
続く言葉は残酷な事実を突きつける。
ぐ、と唸って崩れ落ちる体は損失の悲しみに包まれていた。その横で、一緒のようにしゃがむ夏灯が苦笑してハンカチを差し出す。
「ヴィクターくん、僕は君と過ごしたひと時が楽しかった」
「なんだと……?」
「嘘じゃないよ。だから君を命をかけて護ったんだ」
偽りない赤の眼差しは、夕方に会った時から変わらぬ色で男を見ている。
「人に優しくしたり、喜ばせたりすることは君のためにもなる。そのほうがきっと楽しい人生になるよ」
「…………」
「それを忘れないことが僕への報酬だ」
縁は時に他者を縛り付けるけれど、思う力が助けになることはもっと多い筈だ。今回、男はそれを目にしたはずだ。
(必要があるなら、悪さをしたときように通報しようかと思っていたけど)
この様子だとそれよりも情のある枷がついたことだろう。和奏が自分もお金の報酬は結構ですよと言えば、ヴィクターが驚いた様子で見上げてくる。
「代わりに無事なのがあれば一杯飲もうかと」
随分荒れてしまったけれど、探せばひとつぐらい残っているかもしれない。スーツに着いた埃を払って、まずは片付けが必要かもしれませんねと笑う。
「その時、貴方の来し方を教えて下さいよ」
何が好きで、どういう人生を歩んで今の彼が出来上がったのか。そして今日のような騒動があったとしても気質は変わらぬままなのか——それとも。
「……自室の方に一番良い酒を何本か置いてある。特別にお前たちに呑ませてやるから感謝しろ!」
テーブルを起き上がらせ、少々埃っぽい打ち上げは無礼講だ。しまい込んでいた無事な食材や飲み物を並べて、能力者達を労わる姿勢を見せた客船の主も少しは思うこともあったのだろう。
やがて来る朝焼けはこの男の、新しい人生の幕開けとなるかどうかは未だ分からない。磨り減った財産分、また新たな商売をするチャンスだと意気込む姿勢だけは、きっと変わらないのだろうけれど。
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▼ヴィクター・グラッジは月依・夏灯(遠き灯火・h06906)様へ。