聖夜に見る夢の名は
●12月のとある日に
イルミネーション。クリスマスツリー。ポインセチア。星空。雪。
冬とホリデーシーズンに染まった古き街並みはいつも以上に幻想的で、いつもと違った美しさに満ちている。どこかから流れてくるクリスマスメロディはささやかなボリュームで、時折誰かがそれに合わせて歌を口ずさんでいた。
今だけの輝きに溢れるそこは、年間を通して多くの人々が訪れる人気観光地。ホリデーシーズンともなれば、特別な数日間を過ごそうと考える人々で、より賑わっていた。
そこから、ひとり。また、ひとり。
誰かが消えて、発見される。
どこでどう消えた? その時の状況は?
確かにある筈の事実が、雪に覆われたかのように朧気になっていく。
●√EDEN
地元民、観光客問わず起きる行方不明事件の原因は、√EDENの豊富なインビジブルに惹かれて現れた√汎神解剖機関の怪異だ。その怪異は配下も引き連れ、ヨーロッパのとある街に潜んでいるという。
「怪異にとってのインビジブルって、イルミネーションなのかしら……」
竜宮・永遠(恋心・h00149)は不思議そうに尾鰭を揺らし、現状、行方不明になった人々は全員その後発見されていると告げた。ただ、保護された人は全員眠ったままで目覚める様子もないという。
「衰弱死する心配はないの。でも眠ったままだなんて、誰の心も晴れないわ」
解決するには、失踪事件を起こす怪異を倒すしかない。
√EDENでは関係者からの証言を得るのは非常に難しいものの、クリスマスに染まった街でひととき過ごせば、クリスマスらしからぬ手掛かりが見つかる筈だ。
失踪事件が起きている地でクリスマスを楽しんでもいいのだろうか。
その憂いに、永遠は「大丈夫」とふんわり笑う。
「地元の人達は、自分達が住む街の風景も、街のクリスマスも誇りに思っているの。『よその人が楽しんでいるのを見るのが何よりの楽しみだ』ってインタビューも見た事があるわ」
だからクリスマスに染まった街を楽しんで。
そして、事件解決の糸口を掴んでほしい。
そう告げた永遠が見つめる先には、街を彩る金色の光がきらきらと揺れていた。
第1章 日常 『ようこそ、クリスマスへ』
●クリスマス・ナイト
イルミネーションとクリスマスツリーの輝きが街を染め、照らしている。ちらちらと降る雪も金の光に染まりながら街を彩って、石畳の道を行き交う人々は地元か観光客かを問わず、仲良く白い息を吐いていた。
長く愛されているパン屋では、日々の定番と共にシュトーレンやクリスマスリース風の飾りパンが並び、肉屋ではローストビーフや骨付きチキンが観光客に買われては日々の売上額を競っている。食べ歩き出来るソーセージロールも大人気で、噛めばパリッと皮が破れて旨味たっぷりの肉汁が溢れ出て――美味しいけれど火傷にご注意と評判だ。
パティスリーやチョコレートショップ、レストランでも、聖夜に華を添える品々が華麗に並んでいる。定番も今だけの季節品も、舌を満足させるだろう。
それらにはイートイン可能な店が多く、この街と共に歴史を重ねてきた店舗ばかり。椅子やテーブル、照明に至るまで歴史を感じられるアンティークな世界が、シェフやスタッフ達からのもてなしと共に今日という日を彩る筈だ。
職人達が連綿と繋いできた技が光る店も、クリスマスの街に軒を連ねている。食器、アクセサリー、ファッションアイテム――どれも人々の心と財布を引き付けて止まないものばかり。
クリスマスのオーナメントで溢れる店は宝石箱のような眩しさで、クリスマスリースの専門店も負けていない。グリューワインを提供するワゴン車では、今年のデザインマグを求める人が列を作っているだろう。
一番大きなクリスマスツリーは? そう訊ねたなら、街で一番古いホテルと中央広場にあるよと笑顔が返る。昔はどっちが一番と争っていたそうだけれど、今は同じ高さで楽しく彩っているそうだ。
聖夜の輝きは命の形問わず全てへと降り注いでいる。
それは街に紛れた『異質』にも等しく注いでいて――それに気付けない、覚えていられない人々の間を、√能力者達が歩き出す。
きんと冷えて透明感に満ちた空気の中を、ふわりとした白色が淡く舞う。それは静かに降る小さな雪であり、行き交う人々の吐息でもあった。その後者には、手を恋人繋ぎにして歩く花喰・小鳥(夢渡りのフリージア・h01076)と瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)もいて――。
「欧州でのクリスマス、なかなか得難いシチュエーションです」
小鳥は微笑みながらもう片方の手を空中へと伸ばし、イルミネーションの輝きに染まりながら降る雪をひとつふたつと掌に受け止めていく。
日本国内のクリスマスもいいものだけれど、本場海外のクリスマスも魅力的だ。それを恋人と過ごせるとなればまた格別だろう。今年のクリスマスは2人きり――の、筈だったのに。
「仕事が入るだけではなく、海外にまで及ぶとは……」
そうこぼした兎比良は元々彼女と過ごす為、クリスマスの予定は空けるつもりでいた。そこへ舞い込んだ今回の話と書いて仕事と読む、に追われ儚く散ってしまったのである。けれど小鳥はくすりと笑みをこぼして、繋いだままの手を軽く握り直した。
「これはこれで素敵な夜だとも思いますよ」
宝石のような赤い眼差しは兎比良から周囲へ。街を染める光を数多映し、また兎比良を見て美しく微笑む。変わらない微笑みと軽やかな言葉、現状を楽しんでいる恋人の姿に、兎比良は意識を切り替えた。
(「……いえ、今は任務に集中しましょう。俺ばかりが憂慮してもいられません」)
「それに今夜中に片をつければよいのです」
そうすれば憂いなく2人きりです。
緩やかに細められた赤色と添えられた言葉で、兎比良の目元がかすかに和らいだ。
「そうですね、確実に片を付けましょう」
手を繋いだ恋人達はクリスマスに染まって煌めく街のあちこちをゆく。
連なる星屑と掌サイズの星。雪の結晶。巨大なキャンディケーン。空を翔けるサンタクロース御一行。様々なイルミネーションが古くからその形を繋いできた街並みに溶け込み、夜の暗さや冬の厳しさを愉しげに遠ざけている。
そんな輝きに照らされたショーウインドウも、イルミネーションに負けない眩しさばかり。プレゼントとトナカイの大きなぬいぐるみ、セピアがかった金と白のリボンによるラッピング、冷たさで縁を白く染め雪だるまも浮かぶスノースプレー等々。
自分達の目を染めるこの街のクリスマスに兎比良はただただ感服していた。
小鳥はどうしているだろう。彼女の目に何が映っているだろう。
ふと目をやれば鮮やかな赤色は自分のそれとよく似た美酒に注がれていて――。
こほん
美酒へと伸びそうになっていた指先が兎比良の咳払いでぴたっと止まる。
「勿論、仕事中のアルコールは控えていただきますよ」
「ああ、残念。お楽しみは片をつけた後ですね」
大袈裟に竦められた肩はすぐ、くすくすと笑う声と共に揺れた。
そして2人はまた歩き出す。
何かが起きているとは思えないほど、この街はクリスマスという祝福で煌めいている。調査よりもデートを愉しむを第一とした小鳥の目は、歩みを進めるごとに出逢う店やイルミネーションに――ワインやシャンパンといったアルコール類含む――を映しては笑っていた。その目が時折、するりと『街』を撫でる。
失踪し、眠った状態で発見される行方不明者達。彼らに何が起きたか今は解らなくとも、“そういう事件なら、|向こうからやってくる《おびき寄せる》。
(「確信はありませんが……」)
眠りに捕らえるというそれには覚えがある。
小鳥は自分に注がれる視線に気付くと、それを見上げて微笑んだ。
人間災厄『夢蝕み』。小鳥が持つその力と性質は、良くも悪くも小鳥と相性が合うだろう。だからこそ兎比良は繋いだままの手に力を込めた。事件の手掛かりが重要だという事は解っている。それでも彼女自身が“誘われる”事は認められなくて――。
「焦らずとも“手がかり”は現れます。それまで楽しみましょう」
「恋人の手を取るのは当然の事でしょう」
心配し過ぎだと言われても、今しがた言葉にしたように、デートならば恋人の事を想うのは当然の事。
兎比良らしい言動に赤い目が細められる。美しい微笑は恋人へと向けられたまま。白い指先が、心を惹いたものへと向けられていく。
イルミネーションを始めとする無数の光が街を明るく染め、照らしている。
視線を上げれば澄み切った夜空が星々を浮かべ広がっていた。
エレノール・ムーンレイカー(|蒼月の守護者《ガーディアン》・h05517)は暫し無言で眺めた後、夜空に向けていた視線を地上――周囲へと戻す。
夫婦。恋人。親子。1人。友人。
様々な人々がそれぞれの関係を現しながらすれ違っていく。
彼らの顔にある表情も様々で、ひとつに留まらない。弾むような笑顔に穏やかな微笑、静かな無表情に――友人同士と見られるグループはお互いを小突きながらお喋りした後、どっと笑っていた。
それらはこの街に来て目にした『クリスマス』のひとつだった。
今までのエレノールなら、そんなクリスマスの光景を見ても、さして心に残らなかったかもしれない。けれど今は違う。
(「こうして誰かと一緒にイルミネーションに彩られた街並みの中を歩くのも、中々いいですね」)
そう思うようになった今の自分を以前の自分が見たら、どう思うだろう。
変化を自覚するエレノールの目は、静かに他へと移った。やわらかな陽色のポニーテールが翅の羽ばたきに合わせてくるりと舞う。
「うわあ凄いね! 妖精の国以外でクリスマスを過ごすのって初めてだから、ワクワクしちゃうな!」
満面の笑顔で振り返ったミモザ・ブルーミン(明朗快活な花妖精・h05534)に、エレノールはかすかに微笑んで頷く。
2人で√EDENへやって来た理由は、エレノールが受けた依頼にミモザが頼んで付いて来た為だ。あたしはお願いしてついて来てるんだしと、ミモザはサンタクロース衣装のように鮮やかな赤い目をやる気で輝かす。
「できる限りは協力するからね!」
「ええ。よろしくお願いします。……早速ですが、どこから見て行きましょうか?」
「うーん、そうだね……あっちはどう? 遠くにツリーが見えるし!」
「いいですね。行きましょう」
遠くのクリスマスツリーを目印に行く通路の両サイドは、心弾ませるクリスマスの雰囲気に溢れている――だけでなく、心惹かれるショップばかりが並んでいた。その中で最初にエレノールの視線を引き止めたのは、ドライフルーツたっぷりの断面をこちらへと向けているシュトーレンだった。店内をしっかりと見せるガラス越しで『美味しそう』と感じるあれを食べたら、どれほどの『美味しい』が広がるだろう?
そんな誘惑に抗える筈もなく、エレノールの手には買ったばかりのシュトーレンを収めた紙袋が握られる事となる。
そして。
「ねえねえ! あそこのマカロン凄く可愛くない!?」
生地とクリームの色はまろやかな赤や緑。表面を彩るクリスマスらしいデコレーションは、チョコレートだろうか。ミモザの行動は素早く、見付けたマカロンをしっかりと確保する。
それぞれの手に、腕に抱えたクリスマスなグルメ達は、勿論出会いが新鮮なうちに味わいたい。2人の足は迷わず休憩スペースへと向かい、軽やかに流れるクリスマスメロディを耳にすとんと腰を下ろした。それぞれ買った物を取り出せば、食べる瞬間への期待がトキメキと共に膨らんでいく。
「ミモザ、シェアしましょう」
「やった♪ あたしのマカロンも食べて食べて!」
まずはシュトーレンから。店のスタッフが切ってくれたその断面では、生地に練り込まれたドライフルーツがツヤツヤと煌めくよう。食べてみると、粉砂糖の甘さの後に生地とたっぷりドライフルーツの味わいがふわっと広がって、2人の目は揃ってパチッと瞬いた。丸ごとひとつを買っていたら、どれくらいのスピードでなくなっただろう?
マカロンは摘んですぐに生地の繊細さに驚き、慎重に口へと運ぶ事になる。けれど食べた瞬間、クリームから贅沢に香ったフルーツの存在感が一気に幸せをくれた。
「んー、おいし♪」
「苺に……こちらはマンゴーですね。凄い……」
そうして美味しいひとときを終えた2人は、人気のない路地に場所を移していた。人々への聞き込みが期待出来なくとも、インビジブルなら? エレノールの交霊呪法に応じたインビジブルが周囲を漂い、ミモザもスマホを使いネットの海で情報収集に当たる。その結果。
「“青薔薇が誘う”? それは、どういう……」
「薔薇? この青い花びらを見付けたって投稿と関係あるのかな?」
首を傾げる2人の頭上では、金の光に染まった雪がちらちらと降り続いていた。
世の中『不可思議な事』というものは真偽問わずまま在るものだ。しかし橋本・凌充郎(鏖殺連合代表・h00303)に起ったそれは、今この時も驚きを含んで凌充郎を取り巻いている。
(「―――――よもや、怪異を狩るついでに楽しむなどという話が俺に舞い込んでくるとはな」)
イルミネーションにツリー、グリーンとレッドの御馴染みカラー。バケツ越しに見る風景は紛れもなくホリデーシーズン真っ只中で、澄んだ金色の光と共に凌充郎の視界を埋めていた。
確かに怪異や人間災厄が起こした事件であれば凌充郎に断る理由はない。
ないのだが。
(「我等鏖殺連合、人の澱みを殺し、人の腐りを殺し尽くす為に何の犠牲も厭わぬというに」)
そんな凌充郎がなぜこの場に赴いているのかというと。
「凌充郎さん、すごいです!」
弾む声に宿る熱が白に変わり、発せられた喜びと共にふわっと勢いよく舞う。
凌充郎の少し前を歩いていた如月・縁(不眠的酒精女神・h06356)が振り返れば、その表情は声から想像出来る通りの笑顔に染まっていた。
“怪異を探りつつ、よかったらクリスマスも楽しみませんか?”
√汎神解剖機関の怪異が事件の原因だと知った縁からの誘いでなければ、凌充郎はこうしてクリスマスに染まる街中をぶらぶらしなかったろう。
(「――――――まぁ、麗しの女神が楽しそうであるならば致し方あるまい」)
バケツの下にあるその目に見守られている女神の目は、自分達の周囲に宿り、照らすイルミネーションの輝きへと。はあ、と満ち足りた吐息をこぼせば、それは先程と同じく白く染まって儚く消えた。
「街中が灯りで満たされてとても綺麗……眩しいくらいです」
「――――――まったくもって眩しい限りだ」
いつも影を闇を渡り歩く身としては、この街のクリスマスは目が焼かれてしまいそうだ。歩いてはいないが、路地裏もイルミネーションで彩られているのではなかろうか。すいと視線を向けた先、今歩いている大通りからいずこかへと向かう横道では、石造りの壁で雪の結晶が花の如く輝いていた。
「あっ、ホットワインが売ってますよ。よかったら一緒に飲みませんか?」
クリスマス名物といえるそれを見付けて輝いた縁の表情は、そこから少しだけ視線を横へと移動させた瞬間により輝いた。
「あ、シャンパンもある! ホットカクテルも……」
真冬だからこそ、ホリデーだからこそ格別の味わいを齎すだろうアルコール各種との出逢いが、縁の双眸に数多のキラキラを生み出していく。街だけでなく自分を誘った女神の目もイルミネーションの如く輝く様は、バケツ越しでもよく見えていて――嬉しそうにキョロキョロしていた縁の動きが、緩やかにスピードを落としていった。
どうかしたか。
そう問いかける凌充郎の視線に、縁は碧い視線をそわそわと迷わせる。
「どうしましょう、全部飲んだら流石に酔いそうです」
と口にした所で縁は「は」と小さく息を呑んだ。
「楽しいから浮かれています。……ご一緒してるからですよ?」
一緒にクリスマスに行くのが憧れだった。
それが叶い、あちこちに心惹かれる酒精がある。
だからどうしたって浮かれてしまうのだ。
少しばかり頬を染めて気になるものと凌充郎とを交互に見る縁へ、すぐには言葉は返らず。
「――――――確かに、多く飲み過ぎると支障が出る」
その言葉に縁の肩がしょんぼりと下がりかけた。
が。
「同じものを俺にも寄越せ」
「そうですね、せっかくのお出かけだしほどほどに飲み……え、一緒に飲んでくれるんですか?」
凌充郎は無言で頷いた。麗しの女神は諸々の事情で日々アルコールが欠かせない。しかし酔わないわけではない。今回彼女が惹かれたもの全てを飲めば、本人が言った通りの結果になるだろう。――とはいえ、彼女の楽しみを奪うわけにもいかない。
「2人で飲む分には、問題あるまい?」
ぱちぱちと目を瞬かせる縁を連れ、まずはホットワインから。
ふわりふわりと熱を上らせるそこに縁が唇を寄せて――こくん。一口味わってすぐ嬉色に染まった笑顔が咲く。
「美味しい……」
一層『美味しい』と感じる。
さっきよりも、体が温まる。
それはきっと――あなたと一緒だから。
クリスマス。日本ではケーキやフライドチキン、√によるのだろうがサーモンを食べる事でお馴染みの、笑顔とご馳走とプレゼント等々が飛び交うキラキラシーズンだ。
けれどその裏では様々な業種がホリデーを支えている。人知れずという意味で√能力者はその最たるものだろう。怪異が√EDENに現れたとなれば徒歩で出張もせねばならないのだから、五槌・惑(大火・h01780)の口から溜息のひとつくらい重たく吐かれもする。
「クリスマスにまでお仕事なんて大変ですねえ」
鉤尾・えの(根無し狗尾草・h01781)がチラリと見たその横顔には『面倒』の2文字がありありと浮かんでいた。『クリスマス』というどこも人で賑わうこのシーズンに、怪異が現れたというのがこの√とは。
「全くだ。余所に迷惑掛けられると困るンだよ。管轄内で暴れてくれるなら斬って終わりで楽なんだが」
「でしょうねえ」
メインストリートから外れたこの道でも、常に地元民やら観光客やら、誰かしら居る。完全に人が失せるのは、日付が変わってから1時間は経ってからになりそうだ。
「いつも手伝っていただいてますし、猫の手ならばいつでもお貸ししますよ」
「ああ」
欧州であるここでは語学が要る上に、この√の特性上聞き込みも微妙と来ている。探偵の手腕に頼むのが楽と即座に判断した惑の目の前で、クリスマス一色となった街の隅に探偵事務所が出来上がる。営業中の看板を出せば、中からお手伝い妖怪猫がひょこりと顔だけを出した。
「……どうかしたのか」
「寒さにちょっと驚いてるみたいですね」
サッと引っ込んだ妖怪猫はしかし、防寒着を纏ってぴょんと飛び出してきた。
「何をご所望で?」
「怪異の痕跡、沈んだ様子の人間、秘密の抜け道。そういったもんを探ってくれ」
「聞き込みは地元の猫さん方へお願いしますね。後ほどここで合流しましょう」
「ラジャー!」
妖怪猫は敬礼ポーズの後に駆けていき――。
「惑さん、あったか~いシチューを出してるお店がありますよ! わたくしめ買って参りますので席取りお願いいたしま~す!」
「飲みもんも任せた」
普段は勘働きでどうにかしている苦手なものをえのと妖怪猫に任せた次は、飲食物の選定及び買い物を。元気に返る「は~い!」と走り出した姿を見送った惑だが、何もかもを任せはしない。
(「席取りぐらいはな」)
体よく使う分の報酬をさくっと確保して腰を下ろす。
これで1食分選ぶ手間がなくなる事は確定した。相変わらず楽しめるものが多いかの探偵は、もう列に並んでいる頃だろうか――と、一定の間隔で白い息を吐く事暫し。やって来たえのの手は木のお盆を掴んでおり、そこには大きめの肉が野菜と共に浮かぶシチューが2つと――。
「パンか」
「はい。ハードなやつです。そのまま食べても美味しいそうですよ」
シチューにつけても美味しいってお店の方が。そう付け加えながら椅子に座ったえのは、ほかほかと熱気が昇るシチューで満たされたカップに触れる。指と掌をじんわり温めてから手を合わせ、スプーンで簡単に崩れた肉を一匙に乗せて――ぱくり。コクのあるシチューに旨味たっぷりの肉。うんうんと頷きながら2口目に取り掛かる向かいでは、惑も黙々と味わっていて。
「あ、そうだ。お店の方が教えて下さいましたけど、ツリーのオーナメントをひとつ飾って良いそうですよ! 食べ終わったら行きましょうよ~。わたくしめ、てっぺんの星が良いです!」
やはり金色だろうか。雪のような白銀も悪くない。雪の影めいた、ほの青い白色も浪漫がある。飾る星についてもワクワクとイメージするえのに、パンをちぎった惑は暫し考えてから突っ込んだ。
「……天辺のは初めから飾られてるもんじゃねえのか」
「ご心配なく! 星の到来を待つツリーもあるという情報、ちゃんと入手しておりますゆえ!」
えへん。胸を張ったえのは、その中身はグリューワインですと惑の手前にあるマグを指す。そうかと惑は短く返して口をつけ――休憩エリア中央にどどんとあるツリーを見やった。あれにはもう星があるけれど。
「出来る限り高くって言うならそれこそ猫に頼んだらどうなんだ。俺が掛けてもアンタの手柄にはならねえだろ」
「あら惑さん、ご存知ないんですか?」
「あ? 何が」
猫ってクリスマスツリーを倒しちゃうものなんですよ。
華が浮かび、泡煌めく双眸に金の光が揺らいで映る。
欺三・夕蓮(泥中の蓮華・h00360)が見つめるそこには、クリスマスの光が水面のように煌めいていた。それは気怠い闇でしかなかった夜に、こんなにも美しい世界が在ると示している。
(「光の洪水に溺れてしまいそう――」)
人魚でも、地上ならばそうして溺れもするのだろうか。
時月・零(影牙・h05243)は声をかけず、夕蓮の傍に居る。
けれど光り輝く夜に見入るその姿はあまりにも眩い。唯でさえ人々を魅了する人魚である彼女を、暗い海を照らす月にも星にも変えてしまう。その煌めきに気付いた者に囲われてしまわない保証は、自分が傍に居る現状で無いとは言い切れず――。
「夕蓮」
名を呼んでから差し出した手が細い指先に触れれば、そこに灯った熱が人魚の意識を戻した。
「……手を引くのが俺では不服かもしれないが、少し我慢してくれ」
こうも人で賑わっているのだ。逸れないようにという気遣いに、夕蓮は花咲くような柔らかさで微笑んだ。
「不服だなんて。零様、わたくしはとっても光栄でしてよ。斯様な夜に、連れ出してくださったのだもの。不服だと思うのでしたら、たんと、楽しませてくださいまし」
そっと握り返された繊細な指先を骨ばった指が静かに包む。
「ああ、せめて楽しめるよう善処しよう」
「ふふ。さぁ、行きましょう!」
桜色に染まった尾鰭が揺れ、白雪舞う冬の空気を撫でた。
シュトーレン。チョコレート。シチュー。チキン。クリスマスなショートブレッド。
彼方は食べ物、では此方はと夕蓮の視線を惹いた先には、クリスマスをより彩る様々な雑貨を揃えたショップが軒を連ねている。人魚の心を魅了するもの達はこの道の先にも、横道から奥、ここからは見えないそこにも在るのだろう。ふわりふわりと移ろう視線に敏い零は、行き交う人々という波から夕蓮を守りつつ、彼女の目に映るものを自身の目にも映していった。
「何か気になるものはあるか?」
「零様、あの食べ物はなんですの? 渦巻きのお肉かしら?」
「あれは……異国ではよくあるソーセージらしい。食べてみるか?」
「ええ、是非!」
渦巻き飴のように串に刺さったソーセージロールは、提供直前まで熱が薄れないよう守られていた事もあり、串を持つとジューシーな香りと共に熱がほのかに伝わってくる。
「熱いから気をつけろ」
「では、少し冷ましてから……」
ふう、ふう。唇から息を送って――あ、と小さく開けた口がぷつりと皮を破った。同時に弾けた肉汁と中を隙間なく満たしていた肉が人魚の顔に驚きと喜びの彩を射し、火傷せず初めての一口を味わえた人魚に男は密かに安堵する。
「まあ……零様、御覧下さいな。あちらの置物は随分と可愛らしい! 何故木に飾っておりますの?」
「木に飾るのは宗教的な意味合いもあるらしいが、俺も詳しくはないな……」
クリスマスツリーにオーナメントを飾る事はあまりにも当たり前で、けれど日本という国では『どうしてか』まで深く浸透していない。
現地人に訊ねてみるか。零は思案しながら夕蓮の手を引き、雑貨屋へと入っていく。夕蓮は引かれるままに花めいた尾鰭を揺らし、付いていった。
この地を訪れてから続く彼方此方の花逍遥。気付けば夕蓮の身には聖夜や祝福を謳う花が咲いていた。
(「ポインセチアか」)
引いている手の甲にふわりと咲いた鮮やかな赤。クリスマスの象徴である花を咲かせた夕蓮の瞳は、広がる聖夜を映し輝き続けている。彼女の心ゆくまで付き合おう。零の心に咲いた想いにふと射し込んだ金の煌めき、その小さな輝きは、碧い瞳にも映っていた。
「夕蓮。これを」
静かな言葉と共に手渡された小さな紙袋を、夕蓮は微笑みながら礼と共に受け取った。まあ、何でしょう。けれど整った微笑は中身を見た瞬間に綻んだ。白い指先が袋から小さなベルを掬い上げる。
「これは……」
「――記念に」
夕蓮の白い掌に軽々収まるほどのサイズだ。零はかすかに瞠られた碧眼から小さなベルへと視線を変えた。
「気に入らなければ煮るなり焼くなり――」
しかし見ていた小さな金色は、その白い指先で包まれ見えなくなる。
きゅ、と抱えた人魚は、自分に戻った視線へと無垢に笑んだ。
「返せと言われても返しませぬ」
あの店で気になっていたものだった。見ていたのは、そう長い時間ではなかったと思う。けれどあのベルを、この掌へと連れて来てくれた。だからこれは。
「わたくしの、クリスマスですわ」
「……気に入ったのならば、何よりだ」
目の前で咲いた無垢な花咲みに鋭い金眼が細められる。
男の口元は、雪解けのような静けさで自然と緩んでいた。
「ふー、外寒かったねえ」
「ねー」
集真藍・命璃(|生命《いのち》の|理《ことわり》・h04610)と月夜見・洸惺(|北極星《Navigatoria》・h00065)は笑い合う。空調の効いた部屋は息を吐いても白くならないし、ふいに震える事もない。けれど窓の向こうに見える景色はやっぱり綺麗だった。
きらきらと広がる金色の光。お伽噺で見るような建築物。
そんな中のひとつに、2人は泊まっている。
淡い珈琲とミルク色のボーダーライン壁紙は落ち着いた雰囲気で、ワインレッドのクッションを使った椅子やテーブルは艶のあるチョコレート色。シックな雰囲気の部屋にあるソファは椅子のクッションと揃いの色で、2人はそこに手荷物を置いてから、抱えていた物をテーブルの上へと広げていった。
まだ切る前のシュトーレン。食べる前に撮っておきたくなる飾りパン。こんがりきつね色の骨付きチキンに、人気と聞いて迷わず買ったソーセージロール。袋から取り出して並べていくごとに膨らんでいたワクワク感が、テーブルの上で隙間なく並ぶご馳走達で華麗にゴールテープ切った。
「じゃじゃーん! プチパーティーの準備は完璧だよねえ!」
「うんうん、準備はもうバッチリ! 選びきれなくて全部買っちゃったけど、大正解だね!」
椅子に座ればクリスマスに染まった街並みが自然と目に入る。贅沢なプチパーティーの始まりは、ちょっと大人になった気分だ。14歳と11歳だからまだまだ子供だとわかっているけれど、今日くらいはちょっと背伸びしちゃっても――良いに決まってる!
2人はくすくす笑いながら煌めく瞳をご馳走達へと向けた。
「ねね、どれから食べよっか?」
「うーん、どれからにしよう? どれも美味しそうで選びきれないよ……!」
やっぱりチキンかな、それともソーセージロール?
ウキウキワクワクで迷っていた洸惺は、夜空めいた青い目をぱちくりさせた。
「……あれ? 命璃お姉ちゃん、ローストビーフは?」
「え、ローストビーフ?」
命璃は笑顔で首を傾げた。
ローストビーフ。
じっくり熱を通して丁寧に作られた一品はとっても魅力的で――。
コソッと味見したら美味しくて、
全部食べちゃった。
とか。
(「そ、そんなことありませんとも!?」)
こてん。こてん。
にっこり笑顔でローストビーフないねーと首を傾げる命璃は、洸惺から見て控えめに言ってもすっごく怪しかった。怪しかったのだけれど、ないものはない。仕方がない。
(「今はお肉屋さんに忘れてきちゃったことにしておこうかな」)
「と、ともかく乾杯だよ!」
ほらコレ!と命璃が手にしたのはヨーロッパクリスマスではお馴染みの飲み物だ。大人達が楽しむグリューワインのノンアルコール版、キンダープンシュをデザインマグへと注いで――うん、ここまで。ぴたりと止めたら、きらきら笑顔がテーブルを挟んで交差する。
「ぷろーじっと!」
「プロージット!」
乾杯の声を弾ませて、プチパーティーの始まりを一口味わう。こういう味なんだねと笑いあった2人は、それぞれ気になる物に手を伸ばした。それがチキンとソーセージロールだったのは、まだあったかいうちにという思いから。
「ん~! 命璃お姉ちゃん、このソーセージすっごくジューシー!」
「わあ、ほんと? こっちのチキンもね、お肉がぷりっぷりで皮も美味しいよ!」
絶品と聞いた2人は揃って皿の上へソーセージまたはチキン置き、ナイフとフォークをきこきこと。一口どうぞと交わしたそれは、命璃と洸惺それぞれにお揃いの幸せ笑顔を弾けさせた。
シュトーレンはどんな味?
飾りパンは食べる前に記念写真を撮ってから!
そんな風にしてプチパーティーの時間は美味しく楽しく進んでいき――キンダープンシュを一口飲んで、ふう、と一息。中身を注ぎ足した洸惺はデザインマグを改めて眺め、ニッコリ笑った。
「この街みたいなデザインで可愛いよね」
「うんうん。他のデザインも可愛かったし……」
色んなデザインを前にどれで買おうか迷った事を思い出す。毎年デザインが変わると知った時、命璃は心底驚いたし自分も集めたくなっていた。
「何だか大人になった気分っ。来年もこうして過ごせたら良いなあ」
「えへへ、来年もその先も一緒に来ようよ」
いつか僕らが大人になっても。
その願いが冬を何度も超えて『いつか』へ繋がりますように――ぶつけあったマグが、コツンと軽やかな音を響かせた。
どこを見てもきらきらと明るい。雪がちらちらと降っているというのに、行き交う人々の数は全く減る様子がない。これがここのクリスマスかと、与田・宗次郎(半人半妖の汚職警官・h01067)は腰をさする。服の上から貼っておいた温まるアレの熱が、じんわりと存在感を強めてくれた。
(「いやあ、みんな華やかに楽しみに来てるんだろうけどね。おいちゃんは浮いた話なんてないから」)
汚職が付くけれども警官の1人であり√能力者だ。真面目に働こうかなとのんびり歩くその手には、しっかり翻訳アプリをインストールしておいたスマホがある。
さて、どこから行こうか。
宗次郎は普段通りの親しさ与える笑みで周囲を確認し――あっ、と表情を引き締めた。
間違いない。あれは。
「ホットチョコレートください」
音声で行う翻訳アプリがすかさず現地語に訳し、音声を流してくれる。
買ったばかりのそれはミルクとビターの塩梅が丁度いい。甘過ぎず、苦過ぎない。
(「そうそうこれがいいのよ。……ここのホットチョコレートは初めてだけど」)
美味しい上に体も温まる。いい事尽くしだ。何口か飲んだ所で「はぁ~」と満足げな吐息をこぼした宗次郎は、その反応良しと喜んだ現地人から笑顔でマグを掲げられる。あちらも同じものを飲んでいたらしい。
(「こりゃあいい」)
ハァーイと同じようにマグを掲げ、翻訳アプリを駆使して挨拶をする。そこから旅行客を装って会話の切欠を掴んだ宗次郎は、さり気なく失踪事件について触れた。そうして解った事は――。
「うーん、やっぱこの√じゃ聞き込みは難しいかあ。被害者の年齢や性別、発見場所がこの街って事以外に共通点なし……と」
同じ能力者なら情報が得られたのだろうけれど、一般人相手となると芳しくない。こりゃ自分の足で捜査するかな。宗次郎は温まった体に力を入れ、よっこいしょと椅子から立つ。まずは発見場所から当たってみよう。道中怪しい場所があるかもしれない。
(「少しでも、絞り込みたいところだね。……あっ」)
もしやあれは。
宗次郎は早足で向かい――サッとスマホを出した。
「シュトーレンください!」
店も、ホテルも、どこもかしこも。格式や歴史の高さ古さに関わらず、街の全てが清らかな金のイルミネーションできらきらと彩られている。雨粒や星屑めいた小さな光や、大きな星。そこに交じって舞う雪も眩くて――白椛・氷菜(雪涙・h04711)と空廼・皓(春の歌・h04840)は揃って目を瞠っていた。
「わ……イルミネーション、綺麗ね」
「ほわわ……すごいね。きらきら、どこもとってもきれい」
こくこく頷いた皓の尾も心を映して嬉しそうに揺れている。その目は目の前以外の風景も見ようと周りへ向き――並ぶ店の数々に、小さな煌めきを宿しながら氷菜に向いた。
「氷菜氷菜どこ行く?」
「ん?」
「俺パン屋さん! リース風の飾りパン、ほしい」
「私もパン屋の飾りパンは見たいわ」
そういえば、リース風という事はドアに飾ってもいいのだろうか。氷菜はまだ見ぬリースパンをイメージし、それを脳内でドアに掛け――ふるり。静かに首を振る。
(「……いえ、食べた方が良いわね」)
カチンコチンになるか、厳しい冬を生きる動物達のご馳走になる未来しか見えない。ああけれど、樹脂粘土のリースパンなら? 皓と一緒にリースパンがあるパン屋を探し歩きながら、雑貨屋もついでにチェックしていた氷菜の目に、綺羅びやかなオーナメントで彩られた空間が飛び込んできた。
(「……あ、飾りが色々」)
オーナメントをメインとした雑貨店のショーウインドウだった。イルミネーションの輝きも加わったそこは宝石箱のように眩しい。氷菜が何か見てると気付いた皓が、ぴかぴかだと呟く。
「あ。あれツリーに飾ったりする奴?」
「そうみたいね、ツリーの飾りっぽい」
「氷菜ちょっと見てこ」
「うん、私も見たいわ」
スノースプレーでメリークリスマスと書かれたドアを開けると、カランコロンと鈴の音がした。温かな店内の壁には様々なオーナメントがきちんと並んでいて、レジの傍には電飾とセットで飾りつけられたツリーがひとつある。色々と見ていく中で皓の目がひとつの星に止まった。
「おほしさまきらきら……でもこれ1個しか付けれないね?」
「それは天辺のお星様、かな」
「壁に飾る奴とかだったらいける?」
「壁飾りなら大丈夫とは思うけど」
きらきら星が並ぶ壁。想像した皓の尻尾がぱたぱたと揺れる中、リボンをキュッと結ばれた贈り物達も気になっていく。
「この小さいプレゼントの箱は……何か入ってる、の? 飾るだけ?」
「箱は飾る用だと思う……多分」
中身が――プレゼントが入っていたら、それはそれで楽しそうだ。色も形も様々なオーナメントを見ていくうちに、皓の中で『一緒にやってみたい』が膨らんでいった。
「氷菜。色々買って、折角だから飾り付け、しよ。ツリー、も買っちゃう?」
「そうね、小さな木を用意すれば装飾出来るかしら」
小さなツリーにするならオーナメントもこのサイズ? 相談しながら決めたいくつかを抱えて店を出て暫く歩くと、人々で賑わう列が目に入る。彼らは何がお目当てなのかと探ってみれば――。
「おお……グリューワイン、ワゴン車なのに凄いわね」
「グリューワイン?」
「クリスマス定番のお酒ね。マグ良いなぁ……」
「マグ欲しいけど……ノンアルコール、ある、かな……」
「子供も欲しいと思うし、ノンアルコールもあると思うけど……」
自分達はまだ成人していない。並んでいた人に訊ねれば嬉しい事にあるという。大人達が味わう方はいつかの楽しみに取っておこう。2人はノンアルコールのグリューワイン片手にワゴン車を離れ――遠くてもわかるほどに煌めく大きなツリーに、氷菜の視線がそわそわと揺れていた。勿論皓はすぐそれに気付き、今は遠いきらきらをじいと見つめる事数秒。
「氷菜、あそこ座れる場所、あるかな? パン、そこでツリー見ながら食べない?」
「え、良いの? なら、見られるベンチでも探そうか」
真冬の今はとても寒いけれど、光り輝くツリーの傍で食べられるのは今この時だけ。この街のクリスマスをもっと味わおうと、2人は遥か天辺にあるきらきら星を目指していく――。
イルミネーションを始めとしたクリスマスの装いは、この街にある店全てに聖夜の魔法を掛けている。金の光は清らかで不思議と柔らかく、軒下にその輝き宿したイルミネーションを連ねた店は、外観だけでなくちらりと見える店内もクリスマス仕様だ。
それぞれの個性やこだわり、センスが煌めく様に夕星・ツィリ(星想・h08667)の目は静かに瞬き、ココ・ロロ(よだまり・h09066)もいつも以上に目を煌めかせていた。
「わあ~……まちがクリスマスでいっぱいですね!」
クリスマスの街を映していた目がわくわくを目一杯宿してツィリへ向く。この街には色んなおいしい屋さんがあるようだけれど。
「どこもいきたいですが……パン屋さんにゴー!なのです!」
「そうだねココくん! 今日の目的はパン屋さんだもんね! ごーごー!」
人々の間を楽しくすり抜けて、石畳の道に足音を響かせて。そうして到着したパン屋はイートイン付きで、店内がしっかりと見えるガラス窓がスノースプレーで可愛らしい事になっていた。沢山のパンを作る雪だるま達で縁取られたそこについつい目が行きながらドアを開ければ、カランコロンと鈴が鳴って――ふわわん。温かく漂ってきた香りを2人は大いに吸い込む。
「わあぁ……やきたておいしそのにおい……」
「パンの焼ける匂いって幸せの香りがして大好き!」
その香りに包まれながら並ぶパンを見る事の幸せ度といったらもう、とんでもない。2人はトレーとトングをいそいそと手にし、まずは近い所から見ていく事にした。
「ツィリさんはたべたいのきめましたか?」
「ん~パンは迷うけど……これにしようかな。緑色の生地に粉砂糖がかかってるの!」
ツィリがトレーに載せたリースパンを見たココは、クリスマス感抜群なビジュアルに目を輝かせた。
「リースにあまいゆきが……! ふふ、ゆきだるまさんもたのしそう」
ひとりじゃなくて、ふたり、さんにん――と集まっている雪だるまはクッキー製。顔はそれぞれで違っていて、聖夜に集まったお友達のようにも見えた。
「ココくんはどのパンにするの?」
「ふふー、それはですね……」
落とさないようしっかりトングで掴んでトレーへ乗せたのは、サンタクロースにトナカイ――クリスマスの顔といえる彼らがビッグサイズなリース風ちぎりパンだ。しかも。
「あじは……んと……いろいろあるよう? いっしょになかみあてっこしましょ~」
「するする! ちぎりパン中身あてがんばるぞー!」
幸せと楽しいの予感を連れ、一緒に注文したココアもトレーに乗せて席につく。自然と合った目は揃って楽しそうに煌めいて、笑顔もぱあっと咲いていた。
「いただきます!」
「わ~い! いただきまーす」
ツィリは雪だるまも一緒にはむっと食べる。パン生地と粉砂糖の甘さがふかふかと広がって、そこに被ったのはクッキー雪だるまのザクッと食感と――。
「中にチョコとクランベリー入ってるー!」
光煌めく水面のように輝いた目は、すぐに向かいへ座るココのトレーへ注がれた。リースパンをちぎって、勿論雪だるま飾りも乗せたなら。
「お裾分けどうぞ!」
「わぁい、いただきまーす! んん、あまずっぱくておいし~! ココのサンタさんたちもおすそわけ~」
「サンタさん嬉しい。ありがとう!」
パンを分けて嬉しさ倍増のその次は――そう、ココが買ったパンの中身は何だろなというお楽しみ時間の到来だ。2人はドキドキしながらちぎり――わっ、と歓声を上げた。
「ベーコンチーズ~! こっちはグラタンだー!」
「食べる前からわかるよ、両方とも間違いない美味しさ!」
「ココもそう思います! これは……なんでしょー?」
「うーん……コーンマヨっぽい?」
正解は? あーん、と食べれば生地と一緒に何かをぷつりと噛んだ食感。そして弾ける甘い味に、2人はもごもご声で『コーンマヨ!』と揃えた後、くすくす笑い合う。
ココアは濃さも味もしっかりとしていて、飲むたびに美味しい幸せが重なっていく。カップが空になる頃にはトレーの上も綺麗になっていた――のだけれど。
「ツィリさん、おなかはまだだいじょーぶですか?」
「大丈夫だよ。ココくんも?」
「はい! えへへ、おかわりしましょ~!」
「おかわり行こ行こ! 生クリームたっぷりのツリーパン気になってたの」
「わぁ、生くりーむ……!」
輝く目がおかわりのパンを映し、トングがパンをトレーに載せる。
さあ、美味しい幸せをもう1周!
星のどこにあるかで大陸の様が違うように、国が違えば文化も変わる。それを目の当たりにしたトゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)は、ほほう、と感心したように目を丸くしてキョロキョロしていた。
「クリスマスの過ごし方は色々あるのだなぁ。この街の雰囲気もとても良きものだ……! 早速観光して回ろうではないか~」
「そうだな、観光してて良いなら目一杯楽しませて貰うかねぇ」
どこから回ろうかとウキウキしているトゥルエノの横で、緇・カナト(hellhound・h02325)は変わらぬ調子でゆるりと周りを見る。
古き良きを残すヨーロッパの街並み。そこを彩るイルミネーションやクリスマスの飾り達。テレビやスマホが当たり前の現代では、こういう風景を見ようと思えばいくらでも観られる。仕事という機会が訪れなければ、わざわざヨーロッパまで足を運び、目にする事はなかったろう。
それにしても。
(「何処もクリスマスってのは賑わってんなぁ」)
ここは人気観光地なのか、自分達のような明らかに現地民でない者をよく見かける。まあ観光地はどこもこんなもんか――と思っていると、鼻がひくりと反応した。吐く息を白く染める空気の中に、食欲そそる香りが混じっている。
「街中のあちこちから美味しそうな匂いが漂っているなぁ、主よ。先ずはあのパン屋さんから行ってみよう~」
どちらが先にパン屋の香りに気付いたかは、吐いた息のように不明瞭。
2人は小麦の穂を象った吊り看板が目印のパン屋へと吸い込まれた。中は程々に賑わっていて、カナトがぐるりと見た限りでは現地民が多いように見えた。彼らが選ぶものは間違いなく美味いのだろうけれど――。
「我はシュトーレンと言うのが気になってな。むむ、いくつか種類があるなぁ……」
粉砂糖たっぷりな所はどれも同じで、しかし、ルビーのように艷やかな赤色が覗くドライフルーツたっぷりタイプに、ドライフルーツや胡桃と一緒にチーズを練り込んだもの、マジパンの芯を中央に抱えたもの――という具合にトゥルエノを迷わせた。
「そっちはリースパンか」
「こちらも良いな……! シュトーレンは少しずつ食べて日々を刻んで行くのだったか」
「そう聞いてるけどな。オレの場合シュトーレンは大体1日と持たないだろうな」
「……主の口に掛かれば全てが一瞬である!」
トゥルエノが言ったような食べ方は風情もあるのだろうと解っていても、晴れない飢餓を抱えているカナトに掛かればシュトーレンでも儚きもののとなる。けれど食べ物として生まれたなら、飾りパンと共に美味しく速やかに食べられた方が本望だろう多分きっとメイビー。
「……で、次どこ行くんだ?」
「やはり肉屋さんだなぁ。むむっ、主! 丁度あそこに肉屋さんが!」
距離が縮まり間近になればなるほど強まる香りの正体は、ぐるぐる廻って焼かれている鶏の丸焼きだ。勿論ローストビーフや骨付きチキンも豪勢に並んでいて、カナトの腹は今にもクリスマスソングを歌い出しそうだった。
ひとまず2人は食べ歩き出来る骨付きチキンと大人気というソーセージロールをいくつか買い、ジューシーな美味と街並みを一緒に楽しみながらクリスマスの街をゆく。――と、トゥルエノはメイン以外の事も思い出しハッとした。
「主、我は飲めないがワインも愉しむと良い!」
「おー、そうするか」
カナトの口が笑む。自分はここで待つぞと手を振るトゥルエノは楽しそうだ。連れの飽きる気配のなさにカナトはまた笑い、視線を巡らせる。今この瞬間も――それ以前も。歴史ある街並みはクリスマスの輝きに染まり、そこをゆく人々の顔も、1人1人が聖夜というひとときを形作る光となっている。
「主、今年のデザインマグというのを土産にするのも良さそうではないか?」
(「……別に今はワゴン車を見てた訳でもないんだが」)
ふう。
吐息が白く染まってふかりと舞う。それはすぐ聖夜の夜空に溶けて消え――。
「まあ、そうだな」
土産が欲しいなら、1つくらい提供してやろうか。
メインディッシュは腹をそれなりに満たしてくれるけれど、それに相応しいアルコール(土産付き)も、あっていい。カナトは見付けたワゴン車へゆるりと向かい――。
「ハッ。主~、肉屋さんのおかわりは大丈夫か?」
シュトーレンもぺろりな胃袋を気遣う声が、その背中へと明るく投げかけられた。
その金色は、冬の冷たさも、果てまで澄み切った星空さえも、明るく温かく照らすようだった。街全体に満ちるキラキラ感に、不忍・ちるは(ちるあうと・h01839)の顔に現れていた笑顔はどんどん輝いていく。ご機嫌な目に映る街の煌めき溢れてこぼれ落ちそうで――和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)は口に笑みを浮かべた。繋いだ手が楽しげに揺らされ、蜚廉からすれば可愛らしい勢いで引っ張られるのにも逆らわず、ちるはの足取りにつられながら隣を歩いていた。
「あ、蜚廉さん。グリューワインですよ」
「ふむ。飲んでみるか」
今では日本でも定着しているクリスマスの定番、それを提供しているワゴン車周辺はなかなかの賑わいだ。回転は早く、すぐに自分達の番が来て頼んだ数は勿論2つ。そして。
「来年は一緒のグリューワイン飲みたいですね」
「ああ、楽しみにしているよ」
雪の結晶を散らしたプレゼント靴下風マグで掌を温めながら、ちるはは蜚廉が手渡してくれたノンアルコールに口をつけた。
成人したら、同じものが飲める。その時に飲むグリューワインはどんな味だろう? 来年の冬を想像しながら味わえば、グリューワインの温かさが掌からじんわりぽかぽか、手から体全体へと広がった。
温まった心地がほどけないうちに。また冷えてしまわないように。温もりを守るように再び手を繋ぐと、先程よりも互いの温度が流れるような自然さで馴染むようだった。
温かさのおかげか街歩きは順調で――お喋りを挟みながらの道中、ちるはの目が新たなワゴン車を発見する。
「……食べ歩きができますよ」
「はは、言うと思っていた。構わない。寄り道も想定内だ」
じぃっと見つめていた目は頭上からの『OK』で即座にパッと笑顔に変わる。まず並んだのはチュロスで、砂糖を雪のように纏ったそれを片手に今度はソーセージロールの列へ。サクッともちっと甘いものと、パリッとジューシーで肉肉しいもの。誘惑のままにもぐもぐ堪能していたちるはは、にっこり笑ってチュロスから傾けた。
「蜚廉さんにもはい、どうぞー」
「……確かに、この美味さは評判になるな」
チュロスもソーセージロールも温かく、それが美味さを十分発揮している。
グリューワインに続いてそれぞれを味わい終えれば、胃袋は程よく満ちて心地よい。そんな腹拵えを終えた所で、2人は今回の本命――本題である買い物へと向かった。少し歩けばいくつもの雑貨店が見つかる為、あっちを覗いて次はこっちを覗いてと、本命探しの旅路、その行き先には困らない。
「どんな飾り買います? 季節感ある置物とか……?」
やっぱりサンタクロース?
それとも雪の結晶を戴く天使?
手にした陶器の小さな置物2つを見比べるちるはの横で、蜚廉は指先で顎をさする。
「大仰でなくとも、持ち運びやすいツリーやオーナメントがあれば十分だが……」
「だが?」
首を傾げて見上げるちるはへ返ったのは、蜚廉からのかすかな笑みだった。
「助言、頼りにしているぞ」
「ふふ。お任せあれ。うーん、なら……」
これなんてどうですか。
そう言って勧められたものに蜚廉の表情筋が一時停止した。
「……サンタの猫?」
しかも可愛いというよりもファニーな猫だ。
独特の味わいを醸し出すサンタ猫と蜚廉が見つめ合っている間、ちるはは玄関へ飾るのにぴったりのリースと出逢っていた。オーナメントが編まれたリースは、クリスマスらしい清らかさと華やかさが寄り添っていて、玄関に飾れば間違いなく素敵な事になるだろう。
会計を済ませて外に出ると一時遠ざかっていた冷気にくるまれる。ちるはは少しだけぶるっと震え、蜚廉はほんの僅かに目をしかめた。けれどまた、しっかり手を繋げば大丈夫。
「街一番のツリーも見ていこう」
「そうですね」
訪れた中央広場は、これまで見てきた街のどこよりも明るかった。中心に立つツリーの輝きに染まりながら、金の光と夜空の星、ふたつのひかりを目にしながら息を吸う。目に見えない透明なそれがなぜだかキラキラと感じられて、ちるはは胸いっぱいの特別感と共に蜚廉をにこーっと見上げた。その明るさが引っ張ったのか、光に包まれたツリーを仰いでいた蜚廉の顔がちるはの方を向く。
「綺麗ですね、蜚廉さん」
「うむ、とても綺麗だ」
雪が降る。夜が更けていく。
けれど世界は眩しくて、心はぽかぽかと温かい。
遥か彼方、頭上に広がる夜空には数多の星が瞬いて、地上である此方ではイルミネーションや街の灯りが温かに煌めいている。古くから守られてきた建築物から成る街並みと合わされば、お伽噺の中や魔法の世界へ訪れたかのようだった。
けれど物部・真宵(憂宵・h02423)の表情は、いつもの柔く優しい微笑みを湛えてはいなかった。むむ、と小さく寄せられた眉間の皺。ルールブルーの双眸に現れている彩に、それを向けられていた雨夜・氷月(壊月・h00493)は声をこぼし肩を震わせる。
「んっふふ、今日は何もしないからそんな警戒しないでよ」
「今日『は』……?」
「そ。今日は」
月浮かぶ宵色の目はいつものように笑っている。そこに不穏の2文字を感じるから真宵は警戒するのだけれど、それでも綺麗な街並みを見ていると警戒心は薄れ、心が躍りだす。
周りに向き始めた微笑に氷月はにっこりと笑み、左から右へと視線をすいーっと動かした。何から見て行こうか。
「あ、物部みてみて。あそこにグリューワイン売ってる」
サンタ帽子を被ったスタッフが赤いキッチンカーから顔を覗かせている。そこをゴールとした列に近づけば、今年のマグはこれ!という立て看板も目に入った。小さな金色の星々が煌めくインディゴのマグで、よく見ればインディゴ部分には動物達のシルエットがうすらとあり、縁にはマグと同じ陶器製の真っ白な雪と、そこから滴る氷柱があった。
「デザインマグ可愛いし、買っていかない?」
「まぁ、これ頂けるんですか? かわいいですねぇ。ではせっかくですからおひとつ」
毎年ここで出店しているキッチンカーの客捌きは流れるよう。2人の番はすぐに訪れて、たっぷりのグリューワインで満たされたマグが手渡された。早速一口飲んだ氷月は、掌から伝わる熱もワインの風味も楽しんで口に弧を描く。
「わたしグリューワインって飲んだことないんです」
「あ、そうなの? 美味しいよ」
笑って差し出されたマグを受け取った真宵は、とぷりと揺れるワインの水面をじいと見つめる。人生初のグリューワイン、そのお味は? どきどきしながら口をつけ――きゅっ。顔が顰められる。
「う……、香辛料の味が……いっぱい……」
「あっはは! もしかしてちょっと苦手だった? んっふふ、可愛いところあるねえ」
「もぉぉ、そんなに笑わないでください!」
「飲めないならそれチョーダイ。マグは返してあげるからさ」
「……とぉっても不服ですが……お願いします……」
まだ『いっぱい香辛料』が口に残る真宵が見る中、氷月はグリューワインをすいすい飲んでいく。そう待たずに空になったマグは約束通り真宵の手に収まった。
「あ、いいモノみっけ。物部、おいで」
「はい?」
一応警戒しながら手招く氷月に付いて行くとビスケット風タイルの壁が何ともメルヘンな菓子屋に迎えられ、真宵の表情がぱあっと明るくなっていく。氷月は軽快に中へ入り、楽しげにあちらを見てこちらを見て。ああこれかな。決めたものをさくっと買うとまた真宵を手招き、外を指す。
「?」
何でしょう。不思議なまま出ていく氷月の後に続いて――。
「ほら、あーん」
「えっ、あの……っ」
あーん、と差し出されたというよりも口へどうぞとやって来たビスケットサンドをむぐ、と受け止め、真宵は目をぱちくりさせる。何か挟んである。
「これマシュマロですか?」
「そ。どう? 美味しい?」
口を満たすのはビスケットとマシュマロは甘く、氷月が訊ねた通り、美味しい。
美味しいけれど。
(「わたし……子どもだと思われてるのかしら……?」)
「口直し、他にも色々あるからイートインで食べてこ!」
年は1つしか変わらない筈。内心首を捻ていた真宵は、相変わらず楽しそうな氷月の誘いに考える。
「あはは、また警戒してる。言ったよね、今日は何もしないって」
「そうですけど。前回の事、忘れていませんから」
とっても怖い目に遭わされましたからね。そう言って睨んでも氷月にはどこ吹く風。真宵は小さく息を吐いて、でしたらと微笑んだ。
「美味しい物でも奢ってくれますよね?」
「うん? 良いよ、色々奢ったげる。何が良いかなー、やっぱローストビーフ?」
「えっ、ちいさなお菓子で十分ですよっ」
「あは、遠慮しないで! じゃあ行こうか。あっちに美味しそうなお店あったんだよね」
「え、いつの間に見付けたんですか……というかあの、本当に……!」
ほんの冗談だったのに。真宵の表情も声も空気もそう語るけれど、氷月の足は止まらないし笑顔も消えはしない。こっちこっちと手招く銀を白が慌てて追いかける――そんな光景が、光に染まる街にとけていく。
夜空では星が、地上では人々が作り出す光が、数多の煌めきを見せている。古くからこの地にある建物を彩るイルミネーションは、彼方の星々や降る雪を集めたかのようで、その中に時折交じる大きな星が何やら愛らしい。そしてそんな輝きに満ちた街が、香柄・鳰(玉緒御前・h00313)の心を照らし、魅了してやまない。
「ああ、何て素晴らしいんでしょう……」
どこを向いても煌めきが視界に映る。夜空の星、イルミネーション、窓ガラス越しに溢れる店内の照明――それから、人々の笑顔。全てがその眩しさで照らしてくれる。
白い息を吐きながら笑むその横顔に、天神・リゼ(|Pualani《プアラニ》・h02997)も柔らかに目を細めた。この街から生まれる煌めきが彼女の瞳に数え切れないほど映っている。その嬉しさに笑みは隠せず、どうしたって現れるあたたかな笑みに鳰の微笑がくるりと向いた。
「クリスマスは空間全てがキラキラしているよう!」
「ええ。世界中が輝きに祝福されているようです」
「故にお祭りに水をさすような真似は捨て置けません」
「……必ず守りましょう」
微笑みと決意を交えた2人はクリスマスを楽しみながらも、それに似つかわしくないものがないかと警戒を怠らない。人ならざる気配を持った者は――居ない。何かしらの影響を齎す魔術的な絵や文字といった仕掛けは――無い。それでも2人の目は、クリスマスに染まった街を満たす煌めき、それを陰らせるものはないかと静かに巡る。そして。
「あら?」
薔薇の花だ。咲いた形のまま、青い薔薇の花が道端にぽつんとあった。造花か生花か。落とし物かもしれないと2人は近寄り、手に取って――生花とわかった青薔薇から香った気配に顔を見合わせた。あまりにも幽かだった気配に邪悪さはないものの、それは普通の青薔薇が持ち得ないものだ。
「……一先ず、しまっておきましょうか」
「ええ、それがいいです。誰かが拾ってしまうと心配ですしね」
手にしただけで特に異常は起きず、気配以外の何かも感じられない。2人は念の為周囲を確認してから街巡りを再開し――ほわん、と漂った香りで仲良く足を止めた。
「あらまあ! ね、リゼさん? 右手のお店から良い香りがしません?」
「あら~! いい香りがすると思ったらっ」
心もお腹もくすぐるこの香りは、紛れもなく焼き立てパンの香り!
その源泉である右手のパン屋は、トナカイの力を借りてソリを走らせるサンタ――のリースをドアに飾っていた。ドア左手の大きなガラス窓からは温かな色をした店内と、抜群のビジュアルが魅力的なパン達がよく見える。
「私、実はパンに目がなくて……宜しければ入りませんか。特にシュトーレンはパン屋さんの数だけ試してみたくなるんです」
鳰からの誘いにリゼは満面の笑みを浮かべた。断る理由なんてどこにもない。軽く鳰の袖を引き、行きましょとパン屋へ歩き始める。
「鳰さん、そんなに遠慮しないで。だって私も焼きたてのパンが大好きだもの!」
「リゼさんも? ふふ、嬉しいわ」
「それにシュトーレンは作る人によって味も深みも違うもの。端から端まで頂きにゆきましょう!」
ドアを開ければとびきりの香りと温もりで全身がくるまれる。冬の寒さをしゅわりと消すような感覚に、2人は思わず息をこぼしながらトレーとトングを意気揚々と装備した。数種類並ぶシュトーレンはまず確定として、と楽しげに考えていたリゼの目が可愛らしいリース風飾りパンに留まった。
「見て、鳰さん。小さな雪だるまとシロクマよ」
「ふふ、可愛らしい。パンのリースも素敵ですね。これも購入決定……はっ」
「あ!」
もうひとつ、大事なものがあった。
「グリューワインも勿論!」
「ふふ、クリスマスといえば欠かせないわよねっ。もちろん、ノンアルにして……」
鳰さんはと言いかけたそこに、くすりと笑う音が被る。
「今日は私もノンアルコールで。折角なら同じものを頂きたいもの」
「……! 鳰さんってば、本当に嬉しい事を」
ぱっと笑顔を輝かせたリゼの両手がトレーとトングをしっかり握り込むのを見て、鳰は彼女の中で弾けた喜びのハグ衝動を感じ取る。両手が塞がっていた為、今は出来ないけれど。
「ふふ、親愛の抱擁はパンを頂いてからですね。マグをお土産に頂けるそうで。それも楽しみです」
「ええ! マグも楽しみに、グリューワインを頂きにゆきましょう」
こちらのクロワッサンはどうです?
あら美味しそう、あっピザのようなパンもあるわ!
そんな会話を何度も交わして、あれもこれもと今日の出逢いに喜びながら思うままに買い求めた2人は、パン屋へ入る前と後で大違い。両腕いっぱいのパンという大荷物を抱えて、また白い息を吐きながら笑い合う。
「クリスマスプレゼントみたい♪」
「まあ! 己への贈り物と思えば確かに……それも良し、ですね」
沢山の美味しいプレゼントをしっかり抱えた2人の足は、パン屋を出た時からキラキラ見えていたクリスマスツリーの根本、中央広場へと向かった。
それまでの道中沢山の光を見たというのに、中央広場に在るクリスマスツリーの輝きはまるで――その、源のよう。
「何と眩い!」
鳰は思わず声を弾ませた。見上げるほどの大木はいくつものオーナメントと光で彩られていて、天辺にある星は、彼方で輝いていたものをそのまま飾ったかのよう。その眩さは見上げる2人も同じ彩に染めていた。
「ね、鳰さん。眩いくらいにツリーが輝いてるわ! ……あら?」
鳰の視線が周囲を静かに撫でている。どうしたのと問う柔らかな声に、鳰の目がぱちりと瞬いてからリゼを見て笑う。
「此処にいる皆が同じものに見惚れているのが、少し不思議で。……でも、悪くないですね」
「……ふふ、そうね」
生まれも育ちも、年齢も。全てが違う人々がひとつの輝きを見上げている。
その胸にはどんな思いがあるのだろう?
人々と共にリゼはツリーを見上げ、天辺で輝く星を見つめる。どこかあたたかな白色は、イルミネーションの光と溶け合ってほのかに金を帯びていた。
「さ! 今度は、パンを楽しみましょうか。冷めないうちに♪」
「ええ! 折角の出来立てだもの。頂きましょう!」
席を確保して、グリューワインのワゴン車に並んで。
そしてお揃いのマグを煌めく聖夜に掲げたら――美味しい香ばしいクリスマスプレゼントでいっぱいの、煌めく聖夜なひとときを!
夜空の星と街を彩る光。そして、どこからか聞こえるクリスマスソング。初めて訪れた街を満たす聖夜の空気に皮崎・帝凪(Energeia・h05616)はうむうむと満足気に笑みながら頷いた。これは良い。実に良い。
「クリスマス! 街中が俺にも負けないくらい輝いているな!」
「そうですわね。どこもかしこも眩しくって……」
――と微笑むライラ・カメリア(白椿・h06574)だったが、その心は感動の嵐がシャラララと吹き荒れていた。
(「なんという幸せでしょう。聖夜とダイナ様の共演で目が潰れそうです……!」)
目もぴかぴか煌めいてしまうものの、幸いな事にあっちこっちでイルミネーションが輝いており、何よりライラが表面上落ち着いていた為、帝凪に気付かれる事はなかった。
「さて、まずは……」
帝凪の呼びかけに機械生物が一斉に現れる。この街を満たす煌びやかさに隠れ、影に紛れてしまった者がいないか警戒すべし――その指令を彼らは忠実に守るだろう。ライラも帝凪と歩き始めながら、自身の感覚に怪しいものが引っかからないかと気を配っていた。
「今のところおかしなものはいないようですわ」
「そのようだ。上手く隠れているか、そもそも活動していないか……」
けれどこの街では確かに事件が起きている。2人は警戒を続けながら中央広場へと向かい――そこで燦然と在るクリスマスツリーを笑顔で見上げていた。
周囲を明るく照らすそのツリーはいくつものオーナメントとライトで飾られていて、全体を見るだけでなく、そのひとつひとつを見ていく楽しさにも溢れている。近寄ればそれぞれの作りがより鮮明に見え、帝凪は「ほほう?」と笑みをこぼしていた。
「ツリー飾りの木製人形に、こっちは硝子細工で出来ているのか。随分と繊細な技術で作られているようだ。この街の伝統の積み重ねなのだな!」
「ええ、本当に見事な芸術ですわね」
絶やされる事なく今日まで繋がれてきたもの、目の前の芸術に喜びながら指し示す帝凪にライラは微笑み――その心にシャララとした輝きを猛烈に溢れさせていた。
(「歴史に敬意を示すダイナ様……尊いですわ!」)
こういう人柄だから推さずにはいられない。帝凪という存在がこの世に在る事への感謝と、彼の尊さで胸がいっぱいになる。それを噛みしめるライラの横顔は、帝凪から見ると普段と変わりない為、またも気付かれずに済んでいた。
「……そうだ、ライラはこれまでどんなクリスマスを過ごしたのだ?」
「……わたし、ですか? 幼い頃のクリスマスは家族で過ごしておりました」
けれど幼少期のクリスマスを振り返れば、それは決して豪奢なものではなかった。帝凪に語るその思い出は、童話に出てくるような慎ましいクリスマスの光景だ。
「近頃はあまり……いえ、なんでもありませんわ。ですから、こうして誰かと街を歩くのは新鮮で……」
やや言い淀んだライラの青い目がクリスマスの光に染まった周囲を映していく。その姿に帝凪はどうしたのかと思うも、それを口にはしないし、探りもしない。ふむと軽くこぼすと、ぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「では、今日という日を近年で最も楽しいクリスマスにしようではないか!」
「まあ、ふふ。そうですわね! ダイナ様とのクリスマスが最高にならないはずありませんもの」
「その通り! そしてヨーロッパのクリスマスといえば……!」
“これ”がなくては始まらない。
帝凪は首を傾げたライラを連れ、中央広場近辺の店を巡る。1つの店へ入る度にライラの笑顔は輝いて、それが2店舗目、3店舗目となるにつれ頬も高揚感でほんのり赤くなった。そしてそれは、帰還した中央広場のイートインスペースにて最高潮を迎える。
「まあ……! ダイナ様、これは……!」
粉砂糖の雪を被ったブッシュ・ド・ノエル、カット待ちのドライフルーツたっぷりシュトーレン、まろやかラインを描くドーム形にヒイラギ飾りが可愛らしいクリスマスプディング――テーブルの上を彩るクリスマススイーツ達に目を瞠るライラへ、帝凪は「うむ」と頷きながら椅子を引き、着席を促した。向かいに座ると、まだ驚いている様子のライラに「フッ」と堂々たる笑みを返して胸を張る。
「男1人ではやり辛くてな、同行してくれて助かった!」
「はわわ……!」
スイーツを買いに行く。それを、この完全無欠の魔王様は気にしておられた。その事実がライラの心をこれでもかと震わせた。
(「ダイナ様、たまらなくお可愛らしい~~!!! そのお姿はまさに国宝級……!」)
それを拝見する機会に恵まれるとは前世で相当徳を積んだのでは? そんな可能性に思い至ったライラは、ハッとしてテーブル上のスイーツ達と帝凪を交互に見る。
「わ、わたしも御相伴に預かっても?」
「勿論だ。さ、ライラも遠慮なく食べると良い!」
完全無欠の魔王は度量も器量も大きいもの。好印象を抱いている少女にNOを示し、独占なんてしない。――何よりそれはクリスマスらしからぬ行いだろう。
帝凪は早速ブッシュ・ド・ノエルに手を伸ばし、付属のナイフで切り分けていく。甘い丸太という見た目をしていたそのケーキは、切ってみれば中に大粒の苺をクリームと一緒に抱えていた。悪くない。が、その味はどうだろうか? 帝凪は期待と共に早速頬張って――琥珀色の双眸がぱっと輝いた。
「うむ!!」
美味い、が詰まった声をこぼすその向かいでライラも笑顔いっぱいで頬張っていた。
表面と中のクリームはチョコレートの存在感が抜群で、柔らかなスポンジ生地に苺が甘みと爽やかさをセットで連れてきている。くどくないその味わいは一口、もう一口、更に一口と大変にフォークが進むものだった。
(「――はっ! 俺とした事が!」)
無意識に頬張っていた。完全無欠に眉目秀麗も加わる魔王たる身、そのような食べ方は気品を損ねてしまう。魔王の自覚をしっかりと持つ帝凪は誤魔化すように咳払いをひとつ挟む。
「クリスマスに相応しいな」
「ええ、本当に!」
帝凪は深く頷き、改めてブッシュ・ド・ノエルを口にした。
これで良し。万事解決だ。
(「ファンの前では常に美しく気品ある俺でいなくてはな!」)
けれどファンにとって推しという存在は基本どんな姿でも尊さを覚えるもの。
しかもそれを間近で見られるとなれば――。
(「ファン冥利に尽きますわ……!」)
特大のクリスマスプレゼントにスイーツが華を添え、シュトーレン、クリスマスプディングとフォークが伸びていく。心もお腹も満たすひとときはもう少し続きそうだった。
屋根の縁、店前のツリー、花壇――様々な場所で星屑や雪のような形をした小さな光が連なり、たまに大きめの星も加わりながら、澄んだ金の光を溢れさせている。遠くに見えたとんがり屋根の天辺では北極星に負けじと輝く『星』も見えた。
街がクリスマスらしい装いをするのはこの時期ではごく自然で、けれど『聖夜は仕事』が当然になっていた賀茂・和奏(火種喰い・h04310)には、目に映るクリスマスが少しばかり新鮮だ。
(「汎神解剖機関の怪異が絡んでるからって欧州に来ることになるとは……」)
慣れっこである筈の『聖夜は仕事』がいつもと違う理由は、もうひとつある。
「この時期の街の飾りは心弾むね!」
白い陶器の天使――ツリーの飾りに目を細めたモリス・ガルニエ(déferlant・h09495)が、横にいる。どこからどう見てもウキウキな様に和奏が漏らした苦笑、男の耳はかすかだったそれをしっかり拾っていた。
「なんだい? 隣を歩くのが私では不服かな」
「嫌ってわけじゃ無いですよ、貴方、毎年聖夜と前後は頑張って早めに帰る組じゃないですか。現場に出てくるとか意外だなって」
だからこうして一緒に赴くとは予想出来なかった。
するとモリスは和奏から煌めく周囲へと視線を戻し、楽しげに語る。
「ああ、宿に妻にも来てもらっているからね。今年の聖夜はこちらで過ごす方向にしただけだから、問題ないとも。片付けたら彼女とディナーが待っている」
「成る程?」
こちらは事件が解決したら即帰国だが、そちらは数日ホリデーを過ごすらしい。色々と納得がいった。
「なら早めに懸念点の事件を解消しないとですね」
「そうとも。夢見人を眠りから目を覚まして、この美しい街並みと灯で彩られた場で、街を愛する誰もが、喜びに溢れた聖夜を過ごせるよう頑張ろうじゃないか」
愛情深いモリスらしい言い回しだ。和奏は瞬きを1回の後に小さく笑う。
今度は苦笑ではない。だってそうだろう。今はクリスマスだ。過ごすのが見ているかどうかもわからない夢の中では、あんまりだ。眠ったままである人々の目を覚まし、誰にとってもいい日になるように――そう思わずには、いられない。歩いていてすれ違う人々も、ふと目を向けた店内にいる誰かも。皆が聖夜の中に在ったなら、と。
「それに」
「? 何ですかモリスさん」
「毎年怪異とデートじゃつまらんだろう」
「……」
急に何だろう。毎年の聖夜御馴染み仕様へ話を振られ、和奏はきょとんとした。
そんな反応にモリスは「そう、君の話だ」と笑みながら頷く。自覚があるのは良い事だ。
「事件解決は最優先だが、折角だ。美味い食事に、旅好きな君が楽しめそうな街並みも満喫できるなら、両得かと思ったのもある」
これは。もしかして。
気遣われて――る?
(「そういえば、この人、愛や芸術好きな国の出身だったな……」)
自分を見ながら何か納得しているような、何か言いたげにも見えるような。そんな和奏の表情に、上司である男はくすりと笑う。
「おや、余計な気遣いだったかな?」
勿論、無粋な詮索をする気はない。しかし和奏はまだ25歳だというのに、若人らしからぬところがある。それは上司としても、51歳という年上としても、少々気になる部分であった。
「君はどうにも……食以外の欲を潜めすぎている気がして、つつきたくなってね」
「……」
そう。賀茂・和奏という異能捜査官は、どれだけ激務でも食事だけは抜かずにいる。朝昼晩ときっかり3食だ。1つも抜かない。――その代わり削られるのが睡眠なのだが。
一応自覚はある為、和奏はあれやらこれやらを胸の中でだけもにょもにょさせるに留めた。そんな自分に約10cmほど上から注がれる視線が、また笑ったのを感じとる。けれどそこに馬鹿にするような意図は欠片もなく、あるのは親愛と気遣いだと解った。――のだが。
「和奏のその癖、いいことないぞ。楽しみたまえよ、全てを」
「あの、俺だって前後で友達とお祭りの雰囲気楽しむぐらいしてますよ」
激務になると睡眠を削りがちなだけで、プライベートが枯れに枯れているわけじゃない。愛と芸術好きな国出身である上司から見ると心配になるレベルなのかもしれないけれど。
「そういうのより、頑張るので、先に軽く腹ごしらえしましょ。ソーセージロールとか気になったんですよねぇ」
噂によればジューシーで大変美味いらしい。一般的なソーセージ以外もあるだろうか? 例えば黒胡椒がぴりりと利いたものや、ハーブを利かせたものだ。
他にもこの街には腹ごしらえにぴったりのものがあると聞く。シュトーレンを数枚頂くのも悪くないだろうし、グリューワインで体を温めておくのもクリスマスらしさを味わえる。
和奏は楽しげに顎をさする男をちらりと見上げ――ふわり。鼻をくすぐった匂いに足を止めた。間違いない。これは肉系だ。方向を探れば、茶色い渦巻きの飾りを屋根にくっつけたキッチンカーが見えた。
「例のソーセージロールだな」
「ですね。じゃ、行きましょうか。奥方とのディナー前でも、軽食ぐらいいけるでしょ」
モリスは肩を竦める。躱された。まあ、仕方ない。無駄な詮索をしなかったようにそれ以上深追いはせず、いいともと低い笑い声をこぼす。
「なら、私は土産に飾りパンも買って行こうかな」
良さそうな店を見かけたら教えてくれるかな。微笑むモリスからのお願いに、和奏はいいですよとさらりと返した。そういう店があれば自分の腹を満たすパンとも出会えそうだ。
最初の腹ごしらえにと選んだソーセージロールは食べ歩きに丁度いい。ほかほかと熱いそれに齧りつきながらゆくクリスマスの街は、事件の影も見えないほどに煌めいていて――。
「モリスさん、今」
「ああ」
邪悪ではない。けれど普通ではない気配が、かすかに覗いた。
ふわり浮かび上がるようだったそれを追う2人の姿はメインストリートから外れ――それでも、2人が行く先には金の光が変わらず在った。
イルミネーションやリース、ツリーといったクリスマスでお馴染みのアイテムに加え、ガラスにはスノースプレーでクリスマスメイクを。そんな街を黛・巳理(深潭・h02486)と並んで歩く泉・海瑠(妖精丘の狂犬・h02485)の心は、どこからか聞こえてくるクリスマスメロディでムード満点だ。
(「一緒にクリスマス過ごせるとか……! これもうデートだよね!?」)
ちらっと巳理へ目をやれば、つい先程入った本屋で買った物を手に、興味深そうに周囲を観察している。
(「……分かってるよもう……これはただのお仕事! でもちょっとくらい妄想に浸っても良いよね……?」)
例えばクリスマスから年越しまでたっぷりお休みを取って、ヨーロッパ各国を2人きりでのんびりとか――なんて妄想が展開している間、巳理は広がる街並みとそこで生活する人々を見ては思案を捗らせていた。
(「やはりヨーロッパの文献は日本と異なり興味深いものが多いな。臨床が足りず日本では試せないものも多いが、見るだけでも十分学びになる」)
この本を買って正解だった。巳理は表紙を撫で――ふと隣を見、目をぱちくりさせた。海瑠が百面相をしている。にやけるのを我慢したと思えば、しょぼんと肩を落とし遠くを見つめてと、一喜一憂が加算され続けていた。
(「……もしかして、こんな年末まで上司と同じなのは嫌か。まぁ、確かに」)
心の声は届かない。当たり前のそれが生じている為、巳理は海瑠が一喜一憂からのやはり一喜の真っ最中だなんてわからない。依頼の為に上司と一緒の年末? その上司が巳理ならば海瑠の心は何やかんやウキウキからのトキメキハッピーだ。
(「巳理さんと一緒にクリスマス過ごせるのは確かだし! ……去年も一緒だったけど、職場でだしね……」)
――と、こっそり握り拳を作って夜空の星を見上げた時だった。
「その、海瑠くん。また今年も私と一緒に過ごさせてすまない」
「えっ!? な、なんで謝るの!?」
仰天のあまり目を丸くする海瑠へ、巳理は視線を外す事なく眉尻を下げた。
「常に一緒だと、君も苦しいだろう? だが、この後の件も共に頑張れたらと思う」
どうしてそうなったのかわからないけれど物凄く誤解されている!
海瑠は小さくぱたつかせた両手をぎゅっと握り込んだ。
「あっ、あの……オレはその……、っ……! 苦しくなんてないよ! オレが一番にずっと一緒に居たいのは……っ」
赤くなった顔がしゅんと俯く。彼が百面相をした時にまま見る動きだと、何度か見たそれに巳理はひとつの予感を抱えていた。この続きは、恐らく――。
「えっ、えっと巳理さん、ほら露店いっぱいある! お腹減ったし、なんか食べてこ? やっぱりチキンかな。ローストビーフとグリューワインも良いなー」
明るいけれど、僅かに焦りが窺える声。誤魔化されるのは承知の上だった。だから巳理は毎度のように“そうか”と諦める海瑠の言葉を――追おうとして、つい躊躇う。
(「なぜ」)
予想していた。承知の上だった。
自分の事であるそれを探ろうとした一瞬を、ぱっと振り向いた海瑠の笑顔が遮る。
「巳理さんはなににする? 折角だし、食べたいもの全部買おう!」
「――ミンスパイやポットシチューも、美味しいんじゃないかな」
「あっ、いいね! えっとそれじゃ、あそこから覗いてみない?」
Bakeryとあるそこは紛れもなくパン屋だ。聞けば中央広場にはテーブル席が沢山用意されているらしい。まずはパン屋を覗いて、それから肉系を探して、ご馳走と一緒にそこを目指そう。そんなプランと共に2人はパン屋でこれとこれとと買い物を済ませ――。
「さて、」
「オレが持つよ。ほら巳理さん、行こ行こ」
「え? ああ……」
会計が終わったばかりのパンが詰まった紙袋が華麗に横から攫われてしまった。器用だなあと感心していた巳理はすぐ海瑠の横に並び、2人は肉屋でのミッションも無事に完遂する。
グリューワイン? それは両手に買い物荷物を抱えていても器用な海瑠が巳理を導いた先、中央広場でぽかりと空いていたテーブル席を確保してからだ。
それも無事に終えれば、大きなツリーの光に照らされながらのディナーが――の、その前に。海瑠は、巳理の目が周囲をさっと見た事に気付いた。
「さっきの人ですか?」
「ああ。どうやらここには来ていないようだね」
買い物途中、視界の端を掠めた人影。どこか不安げに辺りを見回す住民が引っかかった巳理は、その場ですぐに海瑠と共有していた。食べ終えたら、あの辺りを見てみようか――そう思案する巳理の顔は本日も麗しく。
(「お、思ったよりすぐそこに巳理さんの顔があるッ」)
内心緊張していると、ふいに向かいからくすりと音がこぼれた。何か変に思われてないかと不安を抱えながら目をやれば、巳理の視線はテーブル上で犇めく料理達に注がれている。
「君と行く場所は、いつも賑やかでいいね」
「そ、そう? 喜んで貰えたなら良か――」
「唯一気になると言えば、“君の隠し事”ぐらいだが――……」
「ゲホゴホッ」
思わず咳き込むも、巳理が珍しくパッと笑うのを見て胸が高鳴る。と同時に不安も湧き上がった。隠し事を伝えて、もし嫌われでもしたら――それこそ精神を病んでしまう。だから言えず、心の中で謝るしか出来なかった。
「……巳理さんって、今の時期どう過ごしてたの……? オレは……1人で通りかかった道のイルミ見るとかかなぁ。特別な相手もいないしね」
「クリスマスはいつも通り仕事だとも。学生時代は……そうだね、誰かの誘いで興味も無いパーティーに参加するか、君と同じく通り掛かりにこの輝きを横目に帰るかの二択だったよ」
「ふふ、一緒だ」
「しかし、君に特定の相手がいないというのも不思議なものだ。君ほど人が良ければいそうなのに」
「――えっ!? い、いやぁ……前まで人を好きになったこととかなかったから……」
「え、そうなのか……」
そういう事も――まあ、生きていればあるか。巳理は百面相の気配を醸す海瑠にそれ以上追求はせず、ツリーを飾るようにオーナメントや光――の絵が交差するマグを掴んだ。中には温かなワインが満ちている。
「そうだ海瑠くん、乾杯をしよう。折角の夜だ、多少気になるものはあるが楽しもうじゃないか」
「う、うん……乾杯!」
コツン。互いのマグが触れて、グリューワインの熱が一瞬躍った。
焦げ目も美味しそうな骨付きチキン。ポットシチュー。ミンスパイ。カット済みのシュトーレン。ひとつひとつに手を伸ばし、味わっていく。それはささやかで嬉しいクリスマスディナーであり――。
「これは美味しい。買ってよかったね、海瑠くん」
「おいしいねみことさん」
海瑠はニッコリ笑って、ひょいぱくり。
しかしその心は。
(「顔も近いし笑ってくれてるしで、食べ物の味なんて全然分からない……」)
海瑠以外でその真実を知るのは、ツリーの天辺にて輝く星くらい。
錆が滲む黒髪の下、瞠られたライムに似た緑の双眸に金の光が映り込む。それはイルミネーションの光であり、クリスマスツリーの輝きであり、人々の営みの印――店内の灯りでもあった。数え切れないほどのそれが、古出水・蒔生(Flow-ov-er・h00725)の心をただただ躍らせる。
「見て見てリーガルさん! 大っきいツリー! ランタンもきれーだし、あっちのイルミも見たい!」
喋るたびにこぼれる息の白さは実に鮮やかだ。リーガル・ハワード(イヴリスの炁物・h00539)は静かな紫彩をじとりと細める。眉間に少しばかり皺も寄っていた。蒔生がいつもより更にうるさ――賑やかだ。今のうちに釘を刺さないと。
「うん、うん。分かったからちょっと落ち着け蒔生。そんなにはしゃいでいるとはぐれるぞ」
途端に目にあったキラキラがすんっと引っ込んだ。ぶす、と唇が尖る。
「……いいじゃん、ちょっとくらい。晩ご飯は途中で食べていいって言われてるんでしょ?」
「まあな。けど、はしゃいではぐれたら困るだろ」
「……だって。クリスマスに外……しかも人通りの多いとこに来られるなんて初めてなんだもん。ご飯食べたらちゃんと捜査するから、ね?」
しゅんと落とされた肩、約25cm下からの上目遣い、両手を合わせたおねだりポーズ。リーガルの目は、じっとそんな蒔生を見下ろして――溜息をこぼした。こいつ僕が折れるの分かってやってるな?
「……駄目とは言ってない」
「よし、決まり! 何食べる? さっきのパン屋さんとかどう?」
途端蒔生の目にはキラキラが復活し、元気なお喋りも再開される。その姿に吠える小型犬の幻が被って見えそうで、リーガルは一足先に足を踏み出したその背中を呆れながら見下ろしていた。
「だから待てって。あんたを見失わないよう意識を割いていて店をあまり見れてな――」
「すっごい美味しそうだっ――あっ!」
いきなり手を掴まれた。突然の行動は本物の小型犬といい勝負だ。リーガルの翼が驚きのあまりぶわりと膨らんだのも構わず、蒔生は笑顔で走り出した。
「いいこと考えた! 来て来て!」
「は!? ちょ、おい蒔生!」
一体どこへ来いと? けれど蒔生はリーガルの翼だけでなく疑問もよそに人波を避けて行く。その勢いにまたも小型犬の幻が妙な明瞭さで並走し――。
「パン屋?」
「そう!」
入店するやいなやリーガルの手はパッと開放された。蒔生は手早くリースパンとバケットを購入し、切込みも入れてもらう。
「それじゃあ次は屋台ね!」
「は? おい!」
またも手を掴まれたリーガルの視界が、ぐんっと揺れた。人波を行く勢いは渓流下りのようで、屋台ってどの屋台だとリーガルが思っている間に列に並んでいたその屋台は――ソーセージロールとローストビーフ?
(「何を考えてるんだ?」)
リーガルが見ている間に、会計を済ませたその2つはそれぞれ別のパンの切込みへ華麗にイン。合体してなかなかのボリュームになったそれを、蒔生は満面の笑みと共にリーガルのすぐ目の前へ差し出した。
「ほら、サンドイッチ! 即席にしては美味しそうでしょ? リーガルさん好きだよね、どっち食べる?」
「僕の好物を何故あんたが知っている?」
「兄貴に聞いたに決まってるじゃん」
兄貴というと――。
(「まあ、あいつしかいないよな」)
はあ、とリーガルの口から白い息がこぼれたのは、出来立てソーセージロールサンドイッチとローストビーフサンドイッチと交互に見比べてすぐだ。
「じゃあ、半分こで。どこかで座って食べよう」
「やったぁ! 半分こ! そう言ってくんないかなって思ってた~」
どこかいい場所はと歩き始めたリーガルと、その横について歩く蒔生。先ほどまでと立場が逆転した2人の足は、リーガルの目に飛び込んだ店の手前で留まった。蒔生が何だろうと目をぱちぱちさせている間にさくっと購入を済ませたリーガルの手には――。
「ん? なにそれ?」
クリスマスモチーフの刺繍風絵付けがされた赤いマグ2つ。中身は身長差の為見えないけれど、温かさを伝える熱がふわりふわり、白く染まって揺らいでいた。
「スパイス入りのフルーツジュースだよ。温まるぞ」
「へぇ、美味しそうかも」
「場所は……あそこでいいか?」
「うん! いい感じだし賛成!」
リーガルが顎で示した先を見た蒔生は即座に頷いた。石階段を上った先、少し開けたそこは賑わいから程よく距離がありつつも、イルミネーションやツリーがよく見えるという、ちょっとした穴場スポットだった。
よく誰かがお茶飲みに使っているのか、ぽつんとあったテーブルの上にサンドイッチ達を広げていく。早速大きく口を開けてかぶりついた蒔生は、香ばしいリースパンの風味と、その後にぷつんと弾けたソーセージロールのジューシーさに目を輝かせる。
リーガルも半分こにした同じものを食べて「美味いな」とこぼした。ではローストビーフを挟んだバケットは――うん。美味い。温かなフルヒテプンシュもあるから、寒さに震える事もなく広がるクリスマスの光とグルメを纏めて味わえる。
「綺麗だな」
「うん!」
「――あんたもそう思うだろ?」
すい、とリーガルがテーブルを撫でた瞬間、そこにあった冷気が白い靄となって現れる。靄はコップから溢れた水のようにテーブルから地面へと流れ落ち、けれど落ちたそこへ積み重なるようにして高さを増していく。
(「もう仕事してるし。真面目だなぁ」)
もうちょっと楽しんでもいいじゃん。蒔生は口を尖らせるも、リーガルほどの高さにまでなった靄が人になっていく様を眺めた。
初老の男だ。カジュアルな軽装はクリスマスにしては寒そうだが、熱を持たない男はぼんやりとした表情で数回瞬きをした後に、2人をしっかり認識したらしい。
「この街で起きている行方不明騒ぎについて訊きたい。彼らが消えた時に何があったのか。教えてくれないか」
『ああ、いいとも! 俺は善良な市民だからなぁ。こういうのは協力するもんだ』
クリスマスだしな。ぱちんとウインクした男は、生前随分と社交的だったようだ。陽キャかなと蒔生がフルヒテプンシュを飲む間に、男は身振り手振りで語る。
『何もない空中からヘンテコなのがこう、出てきたんだ。あんなの、この街じゃあ見た事ないぜ。初めて見た時は青い薔薇だけだったな』
そこに穴が空いていたのだろうか。ふいに現れた青薔薇の花は街のあちこちに落ちた。それはメインストリートや裏道の隅や、店舗裏に積まれたケースの上だったという。青薔薇は冬の冷気に傷む様子もなく、その青に気付いた誰かが拾い上げるまでそこにあったと男は言った。
『するとどうなったと思う? 拾った奴らみぃんな、拾った途端にふらふら歩き始めたんだ!』
「行き先は? 全員同じか?」
『いんやぁ、バラバラだったな。北へ歩き出した奴もいたし、南へ行った奴もいる。同じ範囲をぐるぐる歩いてる奴もいたぞ』
「? 何で?」
『そこは俺にはわからんよ、お嬢さん。ただ……』
青薔薇を拾った全員に、途中で“お迎え”が現れた。
男は、どう見ても人間ではなかったそれの手が薔薇を落とす所も見たという。
雪が降る。
金の光が街を照らす。
聖夜の彩りに染まる世界で、街に潜む怪異の輪郭が露わになっていく――。
第2章 集団戦 『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』
●クリスマス・チェイス
夜が更けても雪は降り、イルミネーションの光が街を彩り続けている。けれど出歩く人の数は時が経つにつれて控えめになり、静けさが増しつつある街で誰かが「メリークリスマス!」と笑う声が、さざ波のように広がっていく。
街のあちこちで|空中から手が生えてきた《・・・・・・・・・・・》のは、そんな夜中の事だった。
苺ミルクのような愛らしい白手袋。丸い関節で繋いだ棒の腕。人ならざる手は上向きにしていた掌をくるりと反転し、乗せていた青薔薇を落とした。
道の隅に寄せられていた雪の上。
店舗裏口に通じる3段だけの階段。
路上駐車中の車のボンネット。
地元民憩いの場、道端ティータイム用の小さなテーブル。
雪を被った公園の遊具。
青薔薇の花は降る雪のような穏やかさで落下し、花が何かしらの上に落ちた頃には手が生えていた空中には何もなく――代わりに『それ』が、曲がり角の先や積まれた樽の奥から顔を出す。
『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』。
それは少女のようであり、お姫様のようであり、魔女のようでもあった。
いくつものお伽噺を混ぜて組み立てたような怪異は、無垢で無邪気な空気を漂わせながら時折愛らしい笑い声をこぼし、落とした青薔薇を見つめている。
青薔薇を拾えば怪異の目は√能力者に向き、今宵新たな被害者が出る事はないだろう。
奇襲すれば怪異が逃げる可能性はあるものの、黒幕への道筋が生まれるだろう。
――何であれ。
どちらを選んでも。
どんな手段を選んでも。
√能力者の行動は、この街のクリスマスを一層輝かせる筈だ。
呼吸のたびに視界の隅で白色がふわりと舞う。それはかなりハッキリとしていて、けれど推しの輝きをクリスマスと共に間近で浴びた後のライラには今夜の冷えが丁度いい。
(「夢のように幸せな時間だったわ」)
思い出すだけで頬がふにゃりと緩んでしまう。ライラはくすくすと笑みをこぼし、頬の緩みをそのままに歩き続けた。けれど温かな心地に鮮やかな青が混じるようになり、緩やかに立ち止まる。
「……あら?」
青薔薇だ。それもあちこちに。
花びらに宿る色は濃く、雪の上に散りばめられた青は鮮やかだ。その美しさにライラは傍へと近寄り、雪に触れるのも構わずしゃがみ込んで拾い上げる。
「……冷たい」
いつからあったのか、花びらはしっかり冷えていた。そっと包んだ指先や掌に冷たさがじわりと伝う中、ライラは周囲を見回し――眉を寄せる。
(「誰かがただ落としただけ?」)
けれど覚えた違和感は薄れない。ライラは周囲へと視線を彷徨わせて――、
(「――見つけた!」)
纏う色は甘く賑やかで可愛らしいのに、空中を漂うその気配は、クリスマスだけでなくこの√においても異質だった。
自分を捉えた青い眼差しに気付いたのだろう。『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』がぱっと下を向いた次の瞬間、慌てる仕草をバタバタしながら何メートルも先にぽすんッと着地した。そのままサンタクロースに負けない慌てっぷりで曲がり角の向こうへ跳ねていく。
迷わず追いかけるライラの心はもう戦いに備えていて――曲がり角の先にあったお菓子の家には、少し驚きもしたが。甘い家へ童話めいた怪異が飛び込み、ビスケットのドアをばたんと閉めるのを見た瞬間、剣をそうするように夜空へ掲げた片手を真っ直ぐ下ろした。数え切れないほどの光が降り注ぎ、飴を嵌めた窓が割れ、ビスケットの煙突や壁が穴だらけになり、アイシングの白を纏う屋根瓦が次々吹っ飛んでいく。
たまらず飛び出してきた怪異だが、全身に光の雨を浴び――綿飴が溶けるように崩れて消えた後、ライラは周囲を確認し、駆け出した。
(「この青薔薇が導く先に何があるのか、見届けなくては」)
そして他の場所にも青薔薇があるのなら。
聖夜に相応しいひかりで、優しい終焉を齎そう。
青い薔薇。クリスマスに染まった街を巡る間、そういった飾りつけは見なかった。だからこそ“それ”を見付けた瞬間、ミモザは一切の疑いを抱かずツバメのように空中をひらりと翔ける。
「あ、あれよあれ! あの青い花びら!」
翔けだしたミモザの隣へすぐ追いついたエレノールはこくりと頷く。『青薔薇が誘う』という噂。ネットに漂っていた『話』。そして一連の事件における共通点。
「――見つけました」
元々は仲良くひとつの花を形作っていたのだろう青色は、ばらばらにほどけて花びらになっていた。エレノールは周囲を確認しながら近付き、その場にしゃがみ込んだ横へミモザも並んだ。
「きっと今回の事件にかかわってるやつだよ!」
「ええ。間違いないと思います。恐らく、この花びらを手に取った人々は、何者かに襲われ連れ去られたのでしょう」
その全員が眠ったままではあるが、失踪後に発見、保護されている。
ならば。
「今この花びらを拾えば、対象が出てくるはず――」
隣から飛び出した言葉にミモザの目が丸くなり、パチパチと何度も瞬きをした。すぐ落ち着いたものの、背中の翅も一瞬強く羽ばたいていた。
「え? 拾うの? 危なくない?」
拾えばエレノールが口にした『何者か』が現れる可能性は、大いにある。しかしこの青い花びら――青薔薇が失踪の鍵だとするなら、拾う意思を見せた彼女を心配せずにいられなかった。
「花びらを拾った人って、多分襲われて連れていかれるんだよ?」
「恐らくは」
けれどこれまでの失踪者と違って自分は√能力者だ。
エレノールの中で『この花びらを拾う』という選択肢は非常に強固で、外れる様子がない。それを彼女の表情から見て取ったミモザは息をこぼして笑う。
「――まあ、エレノールがそこらの怪異に後れを取るとは思えないけどね。でも気をつけてね?」
温かな気遣いにエレノールが頷きを返してすぐ、ミモザは再び空中を翔けた。ひらりと向かった曲がり角の向こうはエレノールがいる場所から少し離れているが、隠れながら見守るには丁度いい距離と方向だった。
エレノールはひょこりと覗く明るい色から、雪の上に散らばる青い花びらへと視線を戻す。無言で1枚、2枚と花びらを拾う間も、拾い終えた後も、周囲に巡らせた意識が緩む事はない。その姿は一見するとただ静かに居るだけのようで――『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』には、そう見えたのだろう。上空に現れた可愛らしい怪異は、スカートをクラゲのようにたわませながら静かに降りてきた。
虚空から絵本を『ぽんっ』と現して。片手で勢いよく撫でて、開いて。そうして展開した絵本のページから現実へとやって来たオオカミが、お祖母さんの格好のままご自慢の口をがばあと開く。その大きさといったら、ばくんと行った場合エレノールの腰から上が綺麗に食べられてしまいそうなほど。
――食べられたら、の話になるが。
「おっと」
直前でエレノールの姿は消えていた。
軽やかに跳躍した姿は獲物を見失って慌てふためくオオカミ――と、それより一足先に獲物を見付けた怪異を空中から見下ろす。怪異達が次の行動を取るよりも速く、一瞬を塞ぐようにエレノールは精霊銃を構えた。
連続して響いた銃声は水精霊の加護と共にオオカミを貫き、瞬く間に無数の紙片に変える。童話めいた風貌の怪異が、現したばかりのオオカミが消えたのを見て両手でパッ!と口を押さえたかと思えば、ばたばたと上下に振り回す。芝居がかったような動きは、そういう性質だからなのか――目に見えて慌てていた怪異だが、あれ?と首を傾げた。|エレノール《標的》がおらず、霧が掛かっている。
(「……ま、本当はいるんだけど。見えないと探しちゃうよね」)
ミモザが見つめる先には怪異の傍を漂う霧がある。魔法の霧が纏うエレノールを見事に覆い隠しているのだが、そうと知らない怪異は何度もキョロキョロした後、左右にみょーん、みょーん。考えるようにバネを揺らすと、びょいんびょいんと跳ねながらどこかへ向かい始めた。
怪異からこちらが見えなくなったと確認してからミモザは飛び出し、霧の傍へ行く。すると扉が開くように霧が割れ、晴れていき――。
「もしかしたら、ボスの下に撤退するかもしれません。追跡してみましょう」
「うん、行こうエレノール! ……それにしても、一体なんで眠ったままにしておくんだろうね。そうすることに何か意味があるのかな」
服の中に収まりながら掛けられた疑問に、エレノールは考えながら走り出す。意味があるのか、無いのか。それは、聖夜の先に隠れる怪異の正体と共に、いずれ明らかになるのだろう。
聖夜の賑わいが少しずつ静まっていく。それでも街を彩る煌めきは絶えず、街全体にきらきらとした空気が漂っている。――そして失踪事件の種も、まだ。
「……んふふ、ワルイコが悪戯してるみたいだ。相手は怪異っぽいけど、帰らなくて大丈夫?」
ハロウィンでは恐怖で泣いていた彼女が耐えられるかどうか。意地悪く笑う男に、周囲を気にしていた真宵は「あら」と目を瞬かせた。
「被害者が出ると分かっているのに帰れませんよ。それとも雨夜さんはお帰りになられます?」
「俺が帰る訳ないじゃん、こんな楽しそうなヤツがいるのに」
「まぁ、なんて悪いお顔」
歩くうちに2人はきらきらとした表通りを離れ、路地裏へ入っていた。それでも誰かが飾り付けたものが、ささやかなクリスマスを演出している。壊れないようにと窓の縁に乗るミニ雪だるまは、住民と観光客のどちらが作ったのだろう? ――それを紐解く前に。
「……」
ふわり。上から落ちてきた鮮やかな青色が昏い石畳の上に落ちた。色も形も綺麗な青薔薇だ。真宵は白い息を吐きながらしゃがみ込み、落ちたばかりの青薔薇をそっと拾い上げる。
「これは、あなたの?」
問いかける声に、停められていたバイクの影からぴょいんと飛び出した怪異――『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』が体を左右に揺らし、綿雲のような桃色髪をふわわんとたわませる。
「どうしてこんなことをしているのか教えては……」
「あ。追加来た」
氷月の笑う声に、バネと箱の音がびょんびょんパカポコ重なった。
左右に揺れていた怪異の向こうから同型の怪異がわらわらとやって来る中、真宵に話しかけられた怪異が楽しげに両手を後ろに隠し――ジャジャーン! 高々と掲げる手には、どこからどう見ても毒リンゴなリンゴがある。
「……そうね。教えてはくれないわよね」
「あっはは、ドクロ描いてある」
青薔薇を拾う真宵を見守っていた氷月は、チープだなあと笑いながら彼女と怪異の間に立った。毒リンゴを持つ怪異や他の怪異が怒りをアピールする仕草をし、よく見てと言いたげにバネをびょんびょんさせ近付けてくる――のを、氷月はハイハイと適当に受け流しながら真宵が拾った青薔薇を指す。
「行方不明者が出るって話だし、案外ソレは御伽話の世界への招待状なのかもよ?」
「なるほど……」
じっと見つめるその薔薇がそうだと言われたら、信じてしまいそうだ。
「こんなにきれいな薔薇なら、拾ってしまうのも無理はないですもの」
でも気を付けて。
だって。
「どっちかと言えばホラー世界っぽいけど!」
「えっ」
笑った氷月の手元で銀月が街灯を弾いて煌めいた。その一瞬に淡く浮かんだ月光の力が怪異達のボタン目を惑わせる。怪異達がヒロインならば白馬の王子様か素敵な紳士が支えてくれるのだろうけれど、生憎と氷月はそうじゃない。毒リンゴを持つ両手をスパッと断つと、他の怪異にも次々見舞い――。
「へえ、物騒なの持ってるね」
視界に入った大きな形。あのサイズでは泉にいるという女神も困るだろうに。怪異が現した斧は、それを手にした怪異自身に大きな影を落としていた。
にっこり笑顔のまま振り下ろされたそれを氷月は冷え切った石畳を蹴って躱す。すると斧を持った怪異も他の怪異もくるりっ。180度方向転換し、びょんびょんぱかぽこ跳ねていく。
「あからさまに誘ってない?」
「追いかけましょう!」
綺麗な青薔薇の招待状、その先が恐怖やスプラッターまみれでない事を祈った真宵は、追いかけた先にあったものを見て心から安堵した。同時に「まあ」と目を丸くする。
ヘクセンハウス――クリスマスの定番アイテムであるお菓子の家。カラフルチョコビーンズを並べたドアの奥、家の中へと飛び込んだ怪異達を追いかければ、ビスケットやチョコレートといった甘い香りに包まれる。まさに御伽噺だ。――ゆえに、そこには『魔女』がいた。
「ヨク来タネエ。サア、コッチヘオイデ」
「オ腹ガ空イタダロウ?」
ここへ飛び込んだ怪異の数だけ待ち構えていた魔女達は、本性を表せば特徴的な鷲鼻や皺だらけの顔がとびきり恐ろしくなるだろう。しかし真宵の顔にはおっとりとした微笑があり、その手には――、
「わたしも魔女の真似事ならできますよ」
蒼硝子がきんとした音色をこぼす。冷たい狐火が舞い始めれば甘く温かな屋内に吹雪が起きた吹雪が、粉砂糖をかけたように魔女の全身を真っ白に覆い尽くした。
やめておくれという声はその姿と共に消え、テーブルの下や階段の先に隠れていた怪異達を、漆黒の狐尾による一撃が容赦なく食らう。氷月は勿論攻撃の対象外。まだいた怪異の視界も意識も揺らめく月光で塗り潰し――すぱっ。真っ直ぐ走った軌跡から綺麗な断面を生んだ男は、んふふと笑う。
「この場合アンタはイイ魔法使いかな、ワルイ魔法使いかな。どっちが主人公なんだろうね」
容赦ない切り込みに少し丸くなっていた目が、軽い口調を受けてふわりと緩む。ほどけた分だけ気が抜けてしまったかもしれない。真宵が思わず吐いた息は笑っていた。
「雨夜さんったら。その台詞が出てくる時点でもう悪役ですよ?」
「さあ……俺がワルモノの配役なら成敗されちゃうかも?」
笑った氷月の息も月のように白い。
柔く漂う真白の向こうでは、お菓子の家が崩壊しながら消えていく真っ最中。静かな街並みはすぐに帰ってきて、次の青薔薇へと2人は向かう。
冬の冷たさ。聖夜の煌めきと賑わい。2人その中のひとつとなって巡る時間は、ふいに射し込まれた青薔薇によって歩みが止められた。ピンクと真紅、2人の目が同じ青をひたりと映す。
「デートはひとまず中断ですね」
小鳥は繋いでいた手を静かにほどいた。青薔薇へと近寄る間に小鳥と兎比良、それぞれの手にあった互いの温もりはすぐ冬によって冷やされていくが、小鳥はそれを嘆きはしない。鮮やかな真紅に青を映し、静かに微笑む。
(「楽しい夜の歓声を悲鳴に塗り替えるわけにはいかない」)
例えば、一緒にいた子供がいなくなったら? 親は絶望し、半狂乱になって探すだろう。
例えば、友人とはぐれたと思っていたが実は疾走したのなら? すぐ探しておけばと後悔にのまれるだろう。
だから小鳥は迷わない。この青が撒き餌なら拾うだけだ。
兎比良は躊躇う様子が一切ない恋人の動きを見守りながら、その目で素早く周囲を見る。あの青を視界に捉えてから、兎比良の意識は恋人の言葉通り仕事へと切り替えてあった。白い指先が青い花びらに触れて――、
「私は守られてばかりのお姫様じゃありませんから」
じ、と注がれる眼差しに女が笑った瞬間。冷たく静かなそこに、ぽこんっ、ぽこんっと奇妙な音が可愛らしい色彩と共に飛び込んだ。
びょんびょんと上下にたわむバネ。ネジ巻き付きの箱。そんな足を持った可愛らしい少女――のような、人ならざるもの。『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』がニッコリ笑顔で手をぱたぱたり。こっちこっちと誘う仕草に、青薔薇を拾った小鳥が緩やかな足取りで付いていけば、御伽噺の集合体めいた怪異は一定の距離を保ったまま跳ね、小鳥をどこかへいざなおうとしている。その数は、少しずつ増えていた。
(「随分と歓迎されていますね」)
しかし小鳥は涼しい微笑で付いて行く。導かれるまま路地裏に入り、3つ目の角で曲がって――クリスマスの一部かのように建つお菓子の家に、ぱちりと目を瞬かせた。
板チョコのドアが中から開いて、老婆がよく来たねと笑う。怪異達も左右に列を作って小鳥の為に道を開け、どうぞ中へと手を向けて――あれれ、と首を傾げた。
ビスケット、飴、カラフルチョコビーンズ、グミ、アイシング。色んなお菓子で出来た家は完璧で、なのにそれを建てた地面が|違う《・・》。石畳だった筈のそこは鮮やかな白と黒のスクエア模様と化していた。
それがどういう意味をなすのか。
怪異達には、わからない。
一番手前にいた怪異がびょんと跳ね、小鳥の両手を取ろうとする。白手袋は汚れひとつなく、武器だって持ってはいなかった。――だからといって小鳥も、そして兎比良も、接触を許しはしない。
「私も薔薇を持っているんです。綺麗な黒でしょう?」
胸元から取り出した|自動小銃《黒薔薇》が怪異の額に穴を開け、兎比良が最上かつ最良のタイミングで響かせた銃声が胴を貫く。
「影に隠すつもりはありませんが、肩を並べるくらいは良いでしょう」
衝撃で後ろに倒れた怪異の体がチェス盤に触れた瞬間、その肉体はパンッと無数の紙吹雪となって四散した。
色違いのボタンの目が一斉に兎比良を見る。チェス盤の地を理解出来なくとも排除すべきものを知った怪異達は、手にした絵本から次々にオオカミを飛び出させた。
綿が詰まったぬいぐるみの体。怪異と同じボタンの目。メルヘンなパッチワークも覗くオオカミ達が、お祖母さんや赤頭巾の代わりに2人を腹に収めようと跳躍する。
(「ああ。牙は刃物ですか」)
数も多い。だが兎比良の目は撃つべきものを冷静に捉え、牙が届く前に落としていく。それでも数の多さに追いつかない時があれば――。
「いけませんよ。彼に触れる事は、私が許しません」
小鳥の甘く香るような声が静かに落ちると同時、軽快に響いた銃声が獣を狩り、間を置かず響いた次の銃声が今度は怪異を撃つ。それは歌声のように途切れない。
銃を手に前に出て戦う小鳥と、小鳥に前を預けて“必ず当たる”銃撃を見舞う兎比良。立ち位置も距離も関係ない――そもそも意味を成さない2人の前で、怪異がカラフルな紙吹雪となって散り、オオカミがポップコーンのように綿を弾けさせ消えていく。
共に戦っているからこそ互いを完璧にカバーし合う2人の視界にあったメルヘンカラーは、その割合を順調に減らされていった。可愛らしい反撃が盾となった小鳥の腕を掠めた事もあったけれど――砂のような音を立てて崩れて消えていくお菓子の家を後ろに、2人は軽く一息吐く。さてと目を向けた先には、慌てた様子でびょんびょん跳ねて逃走を図る怪異が2体。
「彼女たちには案内をお願いしましょう」
「そうですね。泳がせて|元締め《ホシ》まで誘導させましょうか」
この場で即殲滅するよりも、適当に相手をして逃走させる事で黒幕への道しるべとする。二手に別れようとした気配に、兎比良はすかさず1発見舞って進路を修正させた。下ろした銃の引き金から指を外し――さっと視線をやったのは小鳥の腕にあるかすかな傷だ。
「傷は問題ありませんね? では、対象の追跡を開始します」
「ええ。いきましょう、兎比良さん」
この街に幸せなクリスマスが満ちるまで、2人の足が止まる事はない。
煌めく景色と季節ものまたはご当地グルメ。この街のクリスマスというひとときを満喫したトゥルエノはキラキラほくほく笑顔で、カナトは「まだ入るけどまあ悪くなかった」という顔で、ふうと白い息を吐いた。
「さて其れじゃあ、お仕事時間も始めるとするかねェ」
「うむ。真面目に仕事時間も開始というヤツだなぁ、主」
「そうそう。昏い月夜に御用心、っとな」
足元から溶け出すように浮かび上がった影が狼を形作り、2人を取り囲む。大人しくカナトを見上げる様は群れのボスに対するそれだ。
「お前達は索敵だ。残りは俺達と来い」
「我々と情報収集だな、主!」
素早く駆け出し、あっという間に夜の色に溶け込んだ狼達は実に便利だ。彼らに索敵を任せられる分、街なかの調査という役割がトゥルエノの目にじわじわと煌めきを湧かせていく。
「何やら探偵……?とか言うのみたいで、ちょっぴりワクワクもしているぞ!」
「言われてみればそうだな」
探偵モノといえば真相を解き明かす探偵とその助手、もしくは相棒的なキャラクターがお約束。どちらが探偵でどちらが助手もしくは相棒か――なんて考えていた所に、索敵に向かっていた1頭が戻ってきてすぐにどこかへ向かおうとする。しかし足を止め振り返る様に、トゥルエノはもしやと閃いた。
「何か見付けたのでは?」
「当たりだ」
「おお!」
2人が駆け出すとその速度に影狼がぴたりと合わせ、先導する。辿り着いたのはごく普通の路地で、誰かの作品らしき聖夜のウォールアートが華を添えていた。そこにぽとりと落ちてきた別の花――普通では有り得ない気配を薄らと香らせる青薔薇に、2人は揃って落ちてきた始点であろう頭上を見て、「あ」とこぼす。
空中に見えない穴でも開いているのか、コラージュしたように上半身から先を覗かせていた怪異『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』がパッ!と両手で口を押さえた――と思えば体を出しているそこから、ずるり。石畳に落ちて響いた派手な音にトゥルエノの肩が跳ねた。
「うう、実に痛そうだ……!」
(「何だこいつ」)
対してジト目になっていたカナトだが、がばっと起き上がった怪異が箱とバネの下半身を駆使し、びょいんびょいんと逃げ出したのを見てすぐに意識を切り替える。間抜けな個体だがどこからどう見てもアレが青薔薇を撒いている。ならば追いかけ――狩ればいい。
しかし。
「ん?」
「おお? 主、これは……」
影狼達も連れて追うさなか、曲がり角の向こうや車の陰といったあちこちから怪異が飛び出し、逃げていく。最初の怪異と同じ方へ逃げる者がいれば、途中で別方向へ逃げていく者もいた。周囲に雷槍を浮遊させていたトゥルエノが1体ずつそれで貫くものの、数も多い。
「主、これはもしかすると~」
「誘われてんなぁ。ま、行きますけど。お前らはあっちを追え。分かれたらお前らも分かれろ」
簡潔な指令に影狼達が疾風の如く駆けていく。その気配を背に2人は最初の怪異を追い――。
「青薔薇を目印のように落として行くのは、自然界にはあまり無い珍しい花だからだろうか……?」
「そういや青い薔薇って自然には無いんだったか」
「うむ。故に花言葉は奇跡だったり夢叶うだったり……単純な花言葉だけなら美しいモノなのになぁ」
残念さを乗せた息が白く染まって、駆ける勢いに乗れず流れて消えていく。
「怪異に利用されているとは、何とも言えない心地だが~……っと! あそこだ主! ん? 随分と美味しそうな家が~」
「お菓子の家? 建てたのか?」
足代わりのネジ巻き付きの箱を止めていた怪異目掛け、トゥルエノが放った雷槍が鋭く翔ける。帽子をズドンと撃ち抜かれ片腕もバギャンと吹っ飛ばされた怪異が、飛び上がってすぐに甘い家へと飛び込んだ。
クッキーの枠に飴をはめ込んだ窓、ビスケットの壁、板チョコの屋根と煙突。中の様子が見えないそれは、入れば罠に囲まれるかもしれない――が。カナトは迷わずドアノブを掴んで開け、ついでにノブをぼっきり折って口に放り込む。
「主、味はどうだ?」
「美味い」
「おお~」
影狼を数頭外に残し、残りを連れて入った家の中はどうしてか温かい。焼き立てスイーツの甘い香りも漂うそこは更に広々としており、その最奥、ビスケットの壁際に怪異はいた。その手には。
「手本みたいな毒リンゴだな」
(「流石の主でも、あれを食べては腹を壊してしまうだろうか……?」)
(「――何か考えてんな?」)
2人の視線が交わった時だった。視界そのものが掻き混ぜられた鍋の中身めいて、色も形も渦を巻いて混ざっていき――ふいにそれが全く別の光景という形で定まった。
にっこり笑顔で定められて変化しない笑顔が、すぐそこにある。転送されたのだ。手を伸ばせばすぐ捕まえられる距離にまで。
しかしそれで慌てる2人ではなかった。
トゥルエノの周りにあった雷槍が一斉に怪異へと迸り、カナトも抜いたばかりの精霊銃の銃口を脳天に押し付けた。頭の隅に浮かんだ「移動の手間が省けたな」に銃声が重たく重なれば、雷槍で帽子も髪も手も――そして箱もズタボロにされた怪異が倒れ、床に触れた途端色とりどりの紙吹雪になって散っていく。
怪異が消えたお菓子の家はすぐに崩壊を始めた。崩れたそこから空気へ溶けるように消える中、カナトは未だ消えずにある青薔薇に目を落とす。狼達からの情報によれは、落とす場所に規則性は無いようだ。
「青薔薇を用意している者は別にいる……?」
「陽動と黒幕が別々ならば、見つけ切れぬも仕方なし。街並みを綺麗にするのも立派な務めだろう」
「そうだな。虱潰しにでも、街の平和を取り戻すかネ」
丁度いい事に、ほら。
青い薔薇が落とされていく。
探偵が登場する物語では、真相解明の鍵となるものが様々な形でもって登場する。それは探偵でも見落としかねないささやかなものや、被害者が命をかけて残したメッセージという形を取る。
そして今。
えのの目には青薔薇の花が映っていた。
「あらあらまあまあ! 分かりやすい目印!」
拾ってくれと言わんばかりじゃありません? ご機嫌なえのの声に、惑は任せたと言う代わりに目線だけをやった。その反応にえのは笑顔で頷き、誰かが止めていた自転車の籠に収まる青色へと手を伸ばす。
「これはわたくしめが拾って囮になるのが良いでしょう。大船に乗った事間違いなしですから、惑さんはどうぞ安心して身を潜めていて下さいまし」
「アンタが何でも面白がってくれる性質で助かる」
お陰で楽だ。さっきも、今も。
惑はえのが青薔薇を拾うのを見送ると、静かな足取りで建物の影へと溶け込んだ。身を潜めていると周囲はただただ静かだ。――そこに漣を立てるものがいるとすれば、それは。
(「怪異か」)
ぴょこん。
ちらっ。
あちこちから顔を覗かせた怪異達が、友人をパーティへ誘うような明るさでえのへと手を振り、近付いてくる。にっこり笑顔と明るくメルヘンな色使い。クリスマスの夜に似合いそうな、けれど明らかに人ではない『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』達からの誘いに、えのは笑顔で礼を返した。
「こんばんは、お人形さん方」
ですが!
高らかに響かせた声は冬の夜を照らすよう。
「そろそろおうちに帰ってサンタさんを待つ時間ですよ!」
(「クリスマスの贈り物なんぞ貰ったことなさそうなくせ、臆面もなくよく言うよ」)
そして失踪事件の容疑者ともいえる怪異のもとを訪れるのは、サンタクロースではなくクランプスに違いない。
けれどえののアドバイスに童話めいた怪異達は楽しげに跳ね、1体が開いた絵本から膨らんだユメカワ色の雲がポップコーンのように弾け飛ぶ。スモークが溢れ、カラフルな紙吹雪も愉快に舞う――そこに現れたお菓子の家が、えのの双眸を甘く彩った。ぴょんぴょん跳ねるメルヘンカラーは――怪異だ。こっちにおいでとえのに近付き、ぽ、ぽ、ぽん、と可愛らしい花も飛ばしながら手を伸ばしてくる。
「ああ、お家へご招待して下さるんですね? ですが結構!」
決して善意でも厚意でもない気配漂う手が触れる直前、えのの視界が鮮やかに切り替わる。“お菓子の家を背景に近付く怪異が目の前に”だった視界は、インビジブルに触れている怪異と、その後ろに建つお菓子の家を離れて眺める画角へ。
一瞬での入れ替わりに、瞬く瞼のない怪異の手がばたつきかけた寸前。クラッキング状態となったインビジブルから迸った力が、メルヘンなビジュアルの全身を駆け巡った。
勢いよくバーン!と倒れた1体がたちまちカラフル紙吹雪になって散れば、怪異達は蜂の巣を突いたような大騒ぎ。怪異達は慌てふためき集まって――その間にえのは笑顔ですうっと深呼吸。からの、
「屋外ですし気兼ねなく着火してくださいな~!」
響いた声への返答は一瞬で隣に着地した気配と、冷え切った地面に突き立てた剣の音色だった。剣先が触れたそこからごうと上がった炎が、お菓子の家を中心にぐるりと周囲を巡り――閉ざす。
「此れで逃げられもしねえだろ」
溢れた炎の壁と惑の参戦に怪異達の混乱も少し焼かれたか、色違いのボタンの目が次々に2人へ向いた。ぽふんっと現した斧の刃は怪異の顔くらいある。それを手にした怪異達のバネが、ぐぐぐと歪む様が2人の目には映っていて――。
「あら残念でしたね!」
「……」
再びの入れ替わりを行ったえのの代わりに、インビジブルの体が斧を振り下ろした怪異の全身を震わせ、惑目掛け落とされた斧は揮う長剣によってあっさりと弾かれていた。その向こうから飛びかかってきた怪異の斧もまた受け止めて――しかし惑は致命の一撃を与えない。間をおかず繰り出される斧を捌いて、捌いて、捌き続ける。
時折、琥珀の目にえのの姿がぱっぱっと映り込む。映るたびにその位置は違っていた。それに翻弄されてはインビジブルに触れ、大変な目に遭う怪異の姿も。
踊るように奏でるように。戦いの音色は絶え間なく続く。
(「――そろそろか」)
惑の冷えた眼差しが怪異達を撫でた。
「弱って来た連中から順に狙え。アンタの出来た目なら分かるだろ、探偵」
「お任せあれ! わたくしめ、|そういう事《暗視》は得意でして!」
ではまずあなたから!
指名の声は溌剌としているが、言われた怪異からすれば|真犯人はあなたと言われた《退場宣告》に等しい。それを覆す材料は――残念ながら、どの怪異も持ち得ていない。
近くを漂っていたインビジブルがえのと入れ替わっては妖懐刀が鮮やかに閃き、更に惑が移動を揃えた為、怪異は1体ずつ丁寧に確実に倒されていく結末しか得られない。数の多さにものを言わせて激しい横槍を入れれば、長剣の柄で容赦なく叩き落されて――鋭く散った赤に、惑の目が傷だらけの怪異へ向く。
「毒が好みなら俺の血でも飲むと良い。文字通り、浴びるほど」
赤を散らせた怪異にえのはぶっすりとトドメを刺しながら「あらまあ」と目を丸くする。
「惑さんの血なんて劇薬じゃないですか。お人形さん方たぶん溶けちゃいますよ。ねえ? ほらもうそことか溶けてません?」
目を凝らすえのに、怪異が力の入らなくなった手で果実を差し出した。光沢感ある赤色は見事だ。見事だが。
「え、毒林檎? まあ、危ない。これも切っちゃいましょうね~」
「……毒を盛るにしても直球過ぎるだろ」
この街のクリスマスを彩る料理を味わって、自分達のクリスマスを彩ってくれるアイテムを買う。クリスマス一色の買い物を終えた今は、2人でクリスマス夜さんぽの真っ最中だ。
澄み切った空気の中でちるはが見たイルミネーションの輝きはやわらかで、その向こうに広がる夜空にある星々も、とびきりきれいだった。
「夜の静かな知らない街のお散歩もわくわくしますね」
街の灯りばかりに目を奪われていた蜚廉は、その綻ぶような声で頭上のひかりに気付いた。ちるはと同じように夜空を見てみれば、自然と笑みが、感嘆の息がこぼれる。
「夜空の星々にも、見所はある。良い発見をしたな、ちるは」
「へへ。……ただ」
ちるはの笑顔が、笑みを湛えたまま少し引き締まる。その視線は頭上の星空から、冬の街並みにぽとんと落ちてきた青色へ。
「失踪者を増やすわけにはいきませんから」
「……ああ。景観に似つかわしくない匂いだ」
鋭い感覚から蜚廉も『異物』を感じ取っていた。同時に、ちるはの考えも。じ、と青薔薇を映していた金の双眸は手に温もり伝える娘へと向けられる。
「我は直ぐに駆け付ける。頼むぞ、ちるは」
「はい」
触れ合っていた掌が離れ、指先が遠ざかる。ぴたりと触れていた熱が離れて生まれた隙間は、あっという間に冬が冷やしてしまった。熱と一緒に互いの気配も離れ、蜚廉が覚えたものはひとつではなかったが、それも僅かだと理解していた男は青い薔薇へと向かう様を静かに見守る。
一旦蜚廉と離れたちるはは、ごく普通の足取りで花の傍に立ち、拾い上げる。花びらを満たす青色が降る雪の結晶を鮮やかに見せてくれるが――綺麗、と感動する前に。
ぴょこっ。
曲がり角の向こうからまず覗いたのは梟帽子で、ボリューミーな桃色の髪がふわわんと揺れながら続く。愛らしいカラーリングと造形の登場は、全く別のクリスマスがやって来たかのようだった。
小さい子供なら喜んで駆け寄るだろう存在に対し、ちるははその場で足を止め、拾った青薔薇を掌に収める。
「……おなまえは、」
ぽんっ! それがネジ巻き付きボックスとバネの下半身で跳ね、手品のようにカラフルガーランドを現した。赤、青、オレンジの3色が繰り返される旗にはよく見れば文字がある。J、A、N――。
「『E』……ジェーンさん?」
パチパチパチ! 人でない怪異の笑顔は固定されたものだったが、嬉しそうに拍手をした怪異がカーテシーをするとちるはを手招き、ぴょんぴょん、ぴょん。跳ねて少し遠ざかり、振り返る。
(「ついておいで、って言ってるみたいですね」)
今日までに起きた失踪事件の『続き』を防ぐ為、ちるはは迷わず追いかけて――開けた場所に建つお菓子の家を、目をぱちぱちさせ見上げる事となる。
ショートブレッドのドアを開けてドウゾと手招く怪異には歓迎の色しか見えず、誘われるまま近付けば全て本物の菓子だとわかってちょっぴりときめいた。わあ、とこぼれた声に怪異が嬉しそうに跳ねる。無邪気な様子は何だか微笑ましくて、しかしその手に顔と同じくらいある斧が握られていたら話は別だ。どう見ても穏やかでないそれは怪異の両手でしっかりと握られて、薪割りをするフォームでちるはの頭目掛け振り下ろされる。
筈だった。
猫が障子にするようにキャンディガラス窓を破壊せし闖入者、招き猫が響かせた音が、勢いよく振り下ろしたその瞬間にかけられていたパワーをダルマ落としの如く吹っ飛ばしたのだ。
結果、怪異の手から斧はすっぽ抜け――正確なコントロールを失った攻撃はちるはに悠々回避され、ショートブレッドのドアが深々受け止める事となる。更に。
「悪戯は終いだ」
怪異の目の前に蜚廉がいた。
両手を上げて飛び上がった怪異の髪がびゃわわと逆立つ。子供向けアニメめいた仕草は、ちるはと蜚廉、2人からの挟撃によるインパクトでそこに固定されたかのようだった。
お菓子の家といえば欠かせない悪役、怖ろしい魔女の出番すらない。怪異はその場に倒れてすぐにカラフルな紙吹雪となって舞い、同時にお菓子の家が砂糖粒のように崩れて消え始める。降る傍から消えるとはいえ全身にかかるそれから、蜚廉は自身の体と手でちるはを庇いながら外に出た。
「待たせてしまったか?」
離れた手を惜しむ間もない再会は『ここにいてください』と、何処であろうと聞き取れる呼び声が起こした。だがそれでも掛けた言葉に、にこ、と穏やかな笑みが返る。
「絶対来てくれるの分かってましたから、だいじょうぶですよ。……あっ」
「ん? ――む」
同胞に合流しようとしたのだろうか。広場に通じる路地にぽつんと立つのは、先程消えた怪異と全く同じ姿をした個体だ。2人とバチンと目が合った怪異が即座にUターンし、びょいんびょいいんと跳ねていく。遠ざかる姿が曲がり角の先に行くか、大きく跳躍し屋根を使えば間違いなく見えなくなる。だが微かな感情の滲みまでも拾う蜚廉の感覚が、怪異の辿った道をしっかりと掴んでいた。
「さて、何処へ向かうつもりか。行くぞ、ちるは」
「はい。夢の中は素敵かもしれませんけど、起こさないほうが……とも言えませんからね」
逃がすのではなく、事態解決の為に泳がせる。
走り出した2人の足音が聖夜に染まる街に響く。
その行き先は青薔薇の源――黒幕の下だろう。
感じ取った|異変《それ》を追いかけてみれば、路地に残されていた青薔薇ひとつ。色の鮮やかさ、花びらの状態、全体のバランス――全てが美しい青薔薇は、まるで誰かが摘み取ったばかりのようだった。
「ふむ、明らかに場から浮いた印象の青薔薇だ。そして……」
「魔女さん、でしょうか。とんがり帽子被ってますし」
そう添えて『魔女』、もとい、体を左右に揺らしてバネをきぃきぃ鳴らす怪異から目を離さない和奏に、モリスはプリンセスかもしれないと耳打ちする。ティアラは――帽子の下に秘められているだろうか? それを確かめてみるのもいいけれど。
「遊びのお誘いのつもりかな? なら乗ってみようか」
「え?」
「一般人の被害者を出さないことを優先すべきだろう?」
判断の早さに和奏が目を丸くしている間に、モリスは掌で青薔薇を優しく掬いあげた。さて、怪異が撒いた青薔薇はどんな香りがするだろう。鼻に寄せてみれば自然と笑みがこぼれていく。
「ああ、悪くない。実に優美な香りだ。和奏もどうだい」
「大丈夫です。で、一般人の被害を抑えるのが最優先ですね、了解。でも何でもかんでも気になるものすぐ触ってみる癖、やめてくださいね」
「触ったものを標的にする場合なら絞りやすくていいだろう」
ほら、と笑うモリスと、毒が含まれてたらどうするんですかとチクリと刺した和奏。2人の目はずっと怪異を映していた。聞こえる笑い声の無邪気さは、にっこりカーブを描いて微動だにしない口と同じく変わらない。けれど左右への揺れ幅が段々と増していて、ぐるぐるとしたバネが耳障りな音を立て始めている。
「和奏、任せるよ。前線向きではないんだ、私に触れさせないで」
「いいですよ」
ピタリ。
怪異が不自然なほど中心で停止した瞬間、にっこり笑顔の前にポンッ!と絵本が現れて。
“うふふ!”
近いような、遠いような。奇妙な響きで届いた笑い声と共に絵本が勢いよく開かれ、恐らく世界で一番有名なオオカミが飛び出した。
(「ナイトキャップにゆったりワンピース。赤頭巾の狼か。じゃあ掛けてる眼鏡は老眼鏡で――わかりやすいけど気の抜けるビジュアルだなぁ」)
和奏が抱いた感想は日常の地続きめいた空気で、しかし抜刀の速さは戦闘中だからこその一瞬で終わる。夜の路地、街灯の光を反射した白が躍ったその瞬間を雷が貫く。“一瞬”すらも凌駕する速さはオオカミとの間にあった距離までも断ち、閃いた刃が絵本との繋がりを両断した。
――オォン。
悲しげな遠吠えはすぐ『おばあさん』のフリをしたオオカミと共に消え、名残すらも置かせてもらえない。
(「噛みちぎられる心配なかったな」)
けれど油断大敵。とある仔ヤギの兄弟は、最後まで気を付けなかった為に腹ペコオオカミに食べられてしまったのだから。
纏った守護を捨てずに動く和奏は、怪異からすれば瞬間移動してきたも同じだろう。怪異は両手をばたつかせながら絵本を何とか抱え込み、びょいんと後ろへ跳躍して少しでも和奏から距離を取ろうとする。そして白手袋をはめた手がまた絵本を開いて――手の甲をナイフが掠めていった。
「おいたはいけないな、お嬢さん。物語は読み聞かせるものであって、獣をけしかけるものではないよ」
「って言って聞く相手じゃないと思いますよ。ああ、ほら」
にっこり笑顔だが絵本を抱えるのとは別の手で拳を作り、肩を怒らせながらびょんびょん跳ねている。あれは多分、地団駄を踏んでいる。すると今度はモリスと和奏を指差し始めた。今度は多分、物凄く文句を言われている。
「……」
「……」
2人は顔を見合わせて――肩を竦めた。
途端に怪異が派手に飛び跳ねる。笑い声以外を発せたなら、子供がするような癇癪が響いただろう。しかしにっこり唇は言葉を紡げない。代わりに使えなくなった方の肘と、まだ自由な片手で乱暴に絵本を開くと、物語綴られたそこから新しいオオカミを喚び出した。
ナイトキャップ、ワンピース、老眼鏡。ああ、スリッパも履いている。
石畳の上へダンッと四肢で着地したオオカミが、眠る子も飛び起きそうな咆哮を響かす前に。和奏が刀から奔らせた雷がまたも『距離』そのものを斬り、無にした。
思い描いていた狩りのタイミングをずらされたオオカミが怪異とお揃いのボタン目をぐりぐりさせている間に、刀が再び閃いて――街灯の光がかすかに躍り、おばあさんも赤ずきんも余裕で平らげるだろう大きなオオカミが、ぷしゅんと風船のように萎んですぐに消える。そしてオオカミがいた所をモリスのナイフが音もなく翔けた直後。桃色をした前髪越しに怪異の額へ突き刺さり、童話を集めたような怪異の体が倒れていく。
ぽんッ!
地面に触れた瞬間弾けた体はカラフルな紙吹雪となり、雪が溶けるように色も形も薄れ、消えていった。残ったのは――。
「持って行くんですか?」
「ああ。花自体に罪はないし、興味があるのでね」
散らずにあった青薔薇がモリスの胸ポケットに収められる。そうすると最初からそういうアクセサリーだったかのようだが、紛れもなく怪異が持ち込んだものだ。それに、興味?
(「後で普通の薔薇か異形の性質帯びてるかみる気かな?」)
そこは任せよう。和奏はふうと一息つき――遠くに落とされてゆく青色を見てすぐ、上司の名を呼んだ。
男がインビジブルに戻り、消えた後。蒔生はマグに口をつけ、最後の一口を味わった。まだ温かいそれはふとしたら全身を覆いそうな冷気をまろやかにくるんでくれる。けれど男から得た情報が、穏やかな気分をどうしたって遠ざけた。
「……青い薔薇、ね」
「用意したのは黒幕か、配下の方か。……どっちであれ、禄でもなさそうだ」
呟いたリーガルは既にフルヒテプンシュを飲み終えていた。味わいと温もりがまだあるうちにマフラーを巻き直したその表情は、周囲へと鋭く向けられている。
「飲み終えたか」
「うん。ちょっと待って」
せっかくの可愛いマグカップだ。蒔生はハンカチでしっかり包んでから鞄にしまい込み――座っていたベンチから勢いよく飛び出した。
「リーガルさん、あとおねがい!」
青い薔薇。名前も知らない人が教えてくれたそれが、今まさに、座っていたこのベンチの隣にある花壇へ落ちてきた。
蒔生の行動と視線。伸ばした手が取った青色。再び飛び出した|蒔生《小型犬》と始まった異変に、リーガルは目を細め溜め息を落とす。
「……了解」
“拾った奴らみぃんな、拾った途端にふらふら歩き始めたんだ!”
一般人でそうなるのなら√能力者である蒔生はどうなる? どこかへ歩き始めるというのなら、それはこの青薔薇を落とした怪異の元へだろうか? それとも――と思考を巡らせながら蒔生の様子を見ていたリーガルは、何も言わず歩き出したのを見て眉間に皺を寄せた。
「蒔生」
返事をしない。
――足も、止まる様子がない。
「おい、蒔生!」
強く呼びかけてみるが効果がなく、しかしそれも当然かと納得した。呼ぶだけでこの状態が解けるのなら、この街で起きている失踪事件に『連続』が付きはしない。
幸いにも小型犬の幻が被るような全力疾走ではない為、リーガルは蒔生の横を歩きながら考える。――といっても、その思考はものの2秒で終わったが。
「うん。物理だな」
良くも悪くも青薔薇と蒔生の相性が抜群でこうなったのか。それを確かめるのも後回しにしたリーガルは、翼でばさりと音を立て――ばふっ。叩いた瞬間蒔生の体がガクンと揺れたが、今自分の翼は冬毛だ。そう痛くはない筈である。
「……まだ駄目か。よし」
名前、が。
名前を、呼ばれた気がした。
霧がかったような意識の中で蒔生が次に覚えたのは、柔らかい衝撃だった。ちょっともふもふしていたかもしれない。
だれ。
なに。
ぼんやりとした感覚の中、声と衝撃はうすらと届いて――あ、さっきりも強くなっ――いや待ってこれすごいばっふばっふ言ってる!
「はへっ? 何!?」
「蒔生!」
覚醒した蒔生が聞いたのはリーガルの声。それから思い切り叩きにきている翼の音だった。
「待っ、リーガルさん! も、そんなにやんなくても大丈夫だってば!」
「ああ、正気に戻ったのか」
「もう平気! 平気だし――」
きっと鋭い視線を送ったそこ、|いつの間にか近くに来ている《自分が近付いたんだろう》怪異へネイルガンを向けた。ボタンの目とにっこりラインの口。形が定まっていて表情を生まない怪異の顔に、ぎくりと冷や汗が浮かんで見えた。慌てて開かれた絵本から、どう見ても赤頭巾のおばあさんなオオカミが飛び出すが、蒔生は定めた狙いを欠片も動かさなかった。
大きく開かれたオオカミの口にネイルガンを容赦なく叩き込み、そのまま力いっぱい押し付ける。絵本から飛び出したばかりのオオカミの頭は、自分をここに現した怪異の胸元にべちんッと激突した。その手応えに、蒔生の双眸が鋭さを増す。
「あんたも錆びつけ!」
響いた音と衝撃がオオカミの全身を一瞬で萎ませる。空気が派手に抜けた風船といい勝負だ。オオカミが消え、怪異はというと――。
「大穴を開けられてもまだ動くのか」
髪とよく似たユメカワカラーの断面に、リーガルから冷えた眼差しと黒槍を向けられていた。
怪異の表情はやはり変化がなく、しかし振り上げた拳に怒りが見えた。その手が虚空から現れた斧を掴み、自分の顔と同じくらいあるそれを折れそうな細腕で平気で振り上げている。あの大きさだ。叩きつけられれば肉が割れるように裂かれ、骨が覗くだろう。
相手がリーガルでは至難の業だが。
斧が黒槍とリーガルとの間を縮めていくさなか、僅か数秒、その瞬間。世界の歪みと災厄の力が、斧の一撃が齎す全てを歪めて消し飛ばしてしまう。二度目の挑戦をしたとしても、それは変わらない。
そして二度目というものを与える気は、蒔生は勿論、リーガルにもなかった。
蒔生が開けた胴の大穴をいくつもの氷塊が貫き、みしみしと音を立てながら新たな氷塊を生やし、穴を拡げる。石畳の路地を突き破って現れたそれは大地の深い脈動までも連れてきて、怪異の全身をとんでもない衝撃で震わせた。それに怪異が耐えられる筈もなく――。
「全く……相談くらいしろよ」
「えっと、違うの!」
両腕を組んで見下ろすリーガルに蒔生は両手をあわあわとばたつかせ、きゅ、と握る。
「青色の花って酸化すると変色しやすいから、わたしが触ったら劣化して効果なくなるんじゃないかな~……なんて」
リーガルの目が蒔生のポケットから覗く薔薇に行った。
全く変色していない。綺麗な青色だ。
「劣化?」
「ご、ごめんなさい! 無茶しました!」
「まあ、でも」
頭上からの声が少し柔らかくなった。そろりと見上げる蒔生から街へ、リーガルの視線が移っていく。
「あんたのおかげで、この街の住人のひとりは行方不明を免れたってことだな」
そして今日以降もゼロにするには――。
蒔生の目も、夜の中に沈みゆく街へと移る。
クリスマスのひかりは、まだ灯っていた。
餌を点々と置いて、その先に棒と籠で作った罠を用意して。それを物陰からワクワクと眺める。氷菜と皓が見た怪異達―― 『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』が青薔薇を見つめる様は、まさにそんな図だった。
足音を立てず気配を殺して迂回し、背後を取れば奇襲は叶うだろう。しかし氷菜は青薔薇を指しながら皓にそっと耳打ちした。
「奇襲は止めておいて、あの青薔薇を拾ってこちらに目を向けるわ」
「ん、わかった。じゃあ……俺、拾う?」
「ええ。お願い」
身を潜めていた路地から姿を現せば、こっそり伺っているつもりの怪異が目に見て嬉しそうにソワソワし始めた。2人は色違いボタンからの熱視線を感じながら青薔薇の傍へと行き、皓の手が自転車のサドルに乗った青色に伸びる。
「こうやって青いバラがおちてたら、拾っちゃう、よね。……めずらしいし」
自然界には存在しない青い薔薇。それは人々の長年の研究と品種改良によって作り出されているが、ここまで青いものは未だ生まれていない。
皓がひょいと青薔薇を拾い上げた瞬間、上手く隠れているつもりだった怪異達が一斉に色めき立ったのがわかった。その中の1体が下半身のバネにめいっぱい力を込め、大跳躍で2人の頭上を取る。
赤と青のボタンの目。綺麗なU字で固定された笑顔。悠々と見下ろす顔に、氷菜の視線と妖力拳銃の銃口が即座に向いて火を噴く。銃声が響いたのと同時に怪異の顔がガクンッと上を向き、空中でバランスを落とした体は真っ逆さま。ガンと非常に痛そうな音がして、銃の一撃に耳がぴんと立っていた皓の耳が思わずそちらを向く。
「おおお、えっすご、氷菜すごっ」
「……行くわよ、晧」
「! うん」
怪異達が次々飛び出す中、真っ逆さま着地をした怪異が勢いをつけて起き上がった。氷菜はその関節目掛けすかさず1発撃ち込む。銃声が響いた瞬間凍りついた体は、仕掛けようと力を入れられていた体からギッと歪な音を立てさせた。
ひゅうと広がった冷気と共に、小さな雪だるま達も2人に加勢する。氷の上を滑るようにしながら怪異達に迫り、しゅぱしゅぱ飛ばす小さな氷柱が怪異達を思うように進ませない。
そんな彼らに怪異が反撃の姿勢を見せた瞬間、皓は最初の銃撃を浴びた怪異の前へと飛び出した。皓は自分に向いた色違いボタンを正面から映しつつ怪異の後ろを取るべく挑み――それを良しとしない怪異が軽く跳ね、足代わりの箱の角を使って器用に回ってみせた。
怪異の背中は反対側。皓の目には怪異の正面だけが映っている。
それで、いい。
(「氷菜の方に、背中、向いてる」)
皓に夢中な怪異の背中。ふわふわ桃色綿雲髪で覆われたそこに銃弾が叩き込まれ、ぐんっと前のめりになった怪異に皓の一撃がトドメを刺す。
風船が割れるように怪異の体が無数のカラフル紙吹雪になって弾けた瞬間、他の怪異達がピタリ。2人が警戒と共にハテナを浮かべた瞬間――、
「あ、逃げた」
「はぁ……追いましょう」
わあわあと両手を上げる怪異、ブンブン振り回す怪異。バネでびょんびょん箱をパカポコいわせながら遠ざかる様は緊張感に欠けていて、正直言ってとても怪しい。誘われていると感じながら追いかければ、いつ建てたのか不明なお菓子の家へとむぎゅむぎゅ飛び込んでいくのが見えた。
甘く美味しそう、かつメルヘンな戸建てに2人の目は一度ぱちくりするものの、街に青薔薇を撒いた怪異達を見逃す理由にはならない。2人はすぐにホワイトチョコのドアを開けて――、
「わ」
横から迫った圧と殺気。振り落とされた大きな斧による一撃を、皓は思い切り前転して躱す。転がってすぐに体勢を立て直せば、外観からは想像つかないほど広いそこに怪異達がいた。いっぱいいる、とお驚きはしたけれど。
「おおきいおのの攻撃、分かりやすい、ね」
相手の数が多いものの、よく見て立ち回れば大丈夫だ。見切って行ける。
慣れてくれば罠を仕掛ける事だって出来る。例えば、相手の攻撃に合わせて防御してすぐにエネルギーバリアを張れば――ガンッ! すかさずもう一撃と叩き込まれた斧が派手な音と共に弾かれて、丸いパーツで繋いだ細い腕に骨折という特大悲劇が訪れるのだ。すかさず限界を超えた速度で迫り、甲の刃を複雑に閃かす。
(「皓は、大丈夫そうね」)
氷菜は心の中で安堵しながら素早く銃を構えた。外からお菓子の家という屋内での戦闘に変わったが、しっかり応戦している。これならと奥にいた怪異へ1発見舞い、雪だるま達と共にお菓子の家へ入った瞬間だった。嫌な予感がすぐ傍を駆け抜ける。
考えるより先に直感に従い飛び退いた氷菜の視界が、ガラリと変わった。お菓子の家に入ったばかりのそこから、飴板が嵌められた窓の前へ。では背後には? 素早く振り向いた氷菜は毒リンゴを手にした怪異を見て――好都合だわと囁いた。それに。
「寝るの俺も好きだけど……クリスマスはみんながたのしい日、だから」
床に手をつき転がり距離を取った氷菜に合わせて動いた皓が、自分を起点に力を迸らせる。
「これ以上はさせない、よ。氷菜、まとめてやっちゃお」
「そうね」
怪異だけに訪れた凄まじい震動。鋭く翔けて迫る氷輪。
2人の力が合わさった後、倒れた怪異達が綿飴のように溶けたりカラフル紙吹雪になったりと、視界に一瞬の賑やかさを残し消えていく。
「……正にあやつり人形、だったのかしら」
お菓子の家も同様に崩れながら消えゆく中。
それでも残った薔薇は、未だ鮮やかな青をしていた。
クリスマスを楽しむ道中で見付けた青薔薇が、リゼの手の上で静かに雪の粒を纏っていく。深くまで沁みるような寒さと青の鮮やかさは、花びらに舞い降りた雪が持つ繊細な形――小さな小さな結晶をしっかりと見せていた。その美しさを静かに見つめていたリゼは、ふいに溜息をつく。
「普通の青薔薇ではないと感じていたけれど――やはり、美しい薔薇には曰くは在るもの。此度は愛らしい怪異を招く標なのね」
「そうですね、唯の花では無いと思いましたが……」
この青薔薇が誰かの作り上げた芸術品ならば、聖夜を彩る青だと喜べたかもしれない。けれどこの青は異なる√からやって来た怪異が齎した『印』だ。
共に薔薇を見つめていた鳰はその目を静かに先へと向けた。リゼの目も同じ方へと向き――そっと細められる。
魔女。お姫様。魔法使い。ヒロイン。御伽噺に登場する様々を、少女を模した人形というカタチにしたかのような怪異――『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』が。
「ならば……いらっしゃい」
見せつけるように、手にある青薔薇を口元へ寄せる。
こうして持っていれば、他の誰かに危害は及ばないだろう。ならばこのままとリゼは軽やかな足音を立てた。行き先は誰も巻き込まず、戦いやすいどこか。――すぐ続いた駈ける音に、くすりと笑みがこぼれる。
「後ろは鳰さんに任せるわ」
囮を買って出たリゼの言葉に、鳰は一瞬眉尻を下げた。
友人に危険な役割を担わせるのは心苦しいけれど、他でもない彼女がそれを決めたのなら。
「……承知しました。それでは私はリゼさんが引き付けた敵を後ろから強襲するとしましょう。ご安心ください。貴女の御髪一本とて傷は付けさせませんからね」
「ええ、頼りにしてるわ!」
声が弾む。吐いた瞬間白く染まった息も躍るようだった。
この良き日に皆を眠り姫にはさせない。人々を想うリゼが青薔薇を抱え駈けて行くその、やや後方。身を潜めつつ追っていた鳰は怪異がぴょんぴょんと跳ねていくのを見た。
リゼのスピードと現在地を考えれば追いつかれる心配はないだろう。こうして彼女の足音から現在地を測れば、それを裏付ける証が胸を満たす。
――他の誰かの足音と聞き間違える可能性?
何度も歩みを一緒にした友の足音だ。必ず聞き分けて見せる。
響く足音から離れず、聞き逃さず。研ぎ澄ませた感覚で追い続けて、そして辿り着いた鳰は、目にしたものに微笑を浮かべた。円を描く開けた空間にリゼがいる。しんしんと雪が降る中、手にした青薔薇を胸元に寄せる姿は、今日見たクリスマスのように美しい。
そこへ迫る怪異の、何と無粋な事。
故に鳰はその身を神気と完全融合させた。金桜で彩った黒鞘から一瞬で抜刀し、嬉々として絵本を開いていた怪異との間にあった空間を斬る。確かな手応えの直後、ページから飛び出したばかりのオオカミ諸共問答無用で自分へと引き寄せた。
突然の事で固まっていた怪異。飛び出した時の姿勢のままだったオオカミ。どちらも『聖夜』を守ろうとする友を襲おうとした不届き者だ。掛ける言葉など存在しない。代わりに鋭い微笑と共に、引き寄せた勢いのまま一気に刺し貫く。
「流石ね、鳰さん!」
響いたリゼの素直な称賛が鳰の表情を綻ばす。
距離があってもわかる笑顔にリゼも笑顔を返して――ここに通じる道を跳ねてやって来る怪異の姿に、するりと目を細め深く深く息を吸う。
澄み切った冬の空気は冷たくて、それが全身へと巡るのが心地よい。その空気を糧に響かせたものは、聖夜の美しき世界を彩るに相応しい歌声だ。黄金のように輝く|生命《いのち》の歌声はたちまち棘のカタチを得、四方に翔けて広場へ飛び込んだ怪異達を次々に捕らえていく。
歌声から紡がれた棘から脱しようと怪異達が身を捩る。
駄々をこねる幼子のように思い切り身を反らす者。拘束されたままだが、現した斧をどうにかして揮えないかと試す者。共に捕まって閉じられた絵本が生き物のように暴れているのは、そこからオオカミを放とうとしているのだろう。
しかし棘はあまりにも強力だった。
眠り姫を外界から隠すかの茨と並んでも遜色がないほどに、怪異達を捕らえ、離さない。
リゼはここに着いた時から1歩も動かないまま、抵抗し続ける怪異達を見上げて微笑んだ。手にしている青薔薇を、もう一方の手で、指先で、そうっと撫でる。
「この青薔薇が欲しい? 私が欲しい?」
怪異達が暴れる。まるで陸に揚げられた魚だ。
でも、残念でした。
「手は届かないようね?」
そう。届かない。
鳰もそれを許さない。認めない。
得物を手に微笑む女の足が石畳を蹴り、茨に囚われた怪異達よりもずっとずっと高い所まで跳ぶ。眼下にいる敵をその目に、感覚に、等しく捕らえて笑う。
「残念ですね。その方への手出しは許しませんよ?」
無論、クリスマスを過ごす人々にも。
青き薔薇が繋ぐものを正す為。揮われた刃が怪異達を夢へと帰す。
クリスマスのアルコール代表、グリューワインを始めとした酒精を味わえば、心も体も温まる。自然と湧き出す笑顔と楽しさに浸りながら、緑は満足気な吐息をこぼした。白くなった息がふんわりと舞い、クリスマスの夜に溶けて消えていく。
けれど楽しい心地ばかりではない。
凌充郎と共に見つめる先。路地の隅に、青い薔薇の花がぽつんとあった。
太陽が眠る時間だというのに花に宿る色は不思議と鮮やかだ。日差しの下で見たなら、その色をより楽しめただろう。――あれが、普通の薔薇であったなら。
「酔う前に怪異の正体がわかってよかったです。可愛らしいですが、子供を連れ去るのはいけません」
クリスマスに染まった日々の中、子供があの青薔薇を見付けたら、ほぼ間違いなく拾ってしまうだろう。公園でいい感じの棒やドングリを、川では石をと、行く先々で宝物を見付ける無垢な彼らはあの青に抗えない可能性が大だ。
そして子供が姿を消してしまったら。
親が、兄弟姉妹が、祖父母が、友人が、近所の人が悲しみに包まれる。
縁は短く息を吐くとニッコリ笑った。
「自分で良ければ囮になりましょう」
「―――――まったく。この状況であれば、その大本である黒幕を叩きに行く方が確実だろうに」
「そうですね……けれど、やっぱり子供達の方が気になってしまうのです」
凌充郎の意見は正しい。
それでも縁は、自分がそう出来たように、人々に煌めく夜を楽しんでもらいたかった。
「ワガママをごめんなさい」
「とはいえ、貴様が一度そうと決めたのであれば致し方あるまい」
「!」
ハッと目を瞠る縁へ、凌充郎は静かに頷いた。
互いの方法論を語るより、やるべき事を突き詰めた方がいいのは道理だ。何より『あそこに青薔薇が在る』今、前者を選んでもただいたずらに時間を消費するだけで、『次の被害者が生まれる』という可能性を潰せない。
「ありがとうございます、凌充郎さん……!」
「気にするな」
笑顔を輝かせた縁はそれでも再び礼を言い、青薔薇の傍へと向か――おうとして、「あ」と動きを止めた。どうかしたのかと向けられる視線に、囮になるその前にと微笑んだ縁から力が溢れていく。
透光の糸が水中を流れるような滑らかさで空中を舞い、凌充郎に触れた。その途端に、縁と繋ぐその糸から力が注がれた事がわかる。感覚がより研ぎ澄まされたのに気付いた凌充郎が頷くと、縁もしっかりと頷き返した。今から暫し離れるが、これなら少し役に立てるだろうか?
「では、行ってきます」
近くに行って見た青薔薇は、芯まで冷えるような夜であっても傷んだ様子がない。花びらは傷ひとつなく、青色にムラも見えなかった。その理由がついさっき落とされたばかりだからなのか、怪異絡みなのか――縁は手を伸ばし、そっと拾い上げた。
(「――――――さて」)
凌充郎は静かに待つ。
見守る先では、縁が拾い上げた青薔薇を鼻先に寄せていた。香りを確かめているのだろうか。その様は、道端に落ちていた花を愛でるという優しさだけがあるように見える。
怪異にもそう見えたのだろう。
バネとネジ巻き付きの箱という下半身で、スキップをするような軽快さで現れた怪異が1体。跳ねるたびに箱がパカポコと音を響かせ、それが縁との距離が縮まるごとに力強くなっていく。まるで、黎明の光に咲くような|華《縁》に引き寄せられた誘蛾だ。
振り返った縁に怪異が両手をブンブンと振る。おまたせ、おまたせ。みつけたよ。そう告げるように明るく無邪気な雰囲気で距離を詰め、ぽんっと現した絵本を勢いよく開いた。
「それは……!」
飛び出す絵本よりも派手に現れた『オオカミ』に縁は目を瞠る。水彩調の挿絵のタッチをそのまま立体化したようなそれは、女性ものの寝間着姿だった。どこからどう見てもお祖母さんを食べてしまったオオカミが、絵本にある姿そのままで飛びかかってくる。開かれた口の大きさは、赤頭巾が「どうして」と尋ねるのも納得のもので――。
(「ですが」)
恐ろしくない。
見栄でも、虚勢でもない。
物語に登場するオオカミと、絵本を抱えて跳ねる怪異。その向こうから、風のような速さで彼が来ている。
跳躍ひとつで怪異とオオカミを飛び越え、縁の前に立った凌充郎は、怪異とオオカミからは突然現れたように見えただろう。それほどに一瞬だった割り込みの直後に凌充郎の得物がオオカミを上半身と下半身に分断した。
「―――――深き眠りを齎す事は決して悪ではない」
だが。
天使を背に守る男の目が、バケツの下から怪異を睨む。怪異が絵本から斧へと持ち物を変える数秒の間に、凌充郎の中で知られざる鏖殺本能が目を覚ます。それは透光の糸から齎される力とひとつになり、爆発的なパワーを全身へと巡らせた。
「その眠りが覚めぬことだけはいただけん。故に……」
|夜明け《目覚め》を、返してもらうぞ。
男がそう告げた時にはもう、斧が宙を舞い、がら空きとなった胴に強烈過ぎる一撃が叩き込まれていた。
空中から“生えた”人ならざる手は白く、そこから街の各所へと落とされた薔薇は鮮やかな青。澄み切った空気の中に見たそれらは、クリスマスのひかりや夜空の星々とは、色も、気配も、全てが違う。能力のない一般人ならすぐには気付けないそれを見た海瑠と巳理は、無言で視線を交えた後に頷いた。――と、海瑠の顔に悪戯な笑顔が浮かぶ。
「ここは折角だし、奇襲狙ってみない?」
「奇襲?」
「大丈夫大丈夫! オレ、こういうの得意だから! それに、奇襲の方がオレ達にアドバンテージできるでしょ?」
「君が言うならそうしよう」
犬の尾が見えていたならブンブン振っていただろう海瑠の目が、巳理にはキラキラとして見えた。“役に立てるのが嬉しい”――顔にそう書いてあるようにも見えて、海瑠提案の奇襲作戦に薄く笑って乗ったその心に、かすかなハテナが浮かび上がる。
(「どうしてか僕は海瑠くんのその顔に否とは言えないらしい。何故だろう?」)
自分の中にあるそれを把握しようにも今一分からず、カタチを掴みきれない。ただ、|海瑠《彼》が嬉しければ自分も嬉しい。同時に、こういう素直さを持つ海瑠が可愛いとも思っていた。
「それにしても、青薔薇か……この聖夜に、なんとも不思議なものだね、海瑠くん」
「あ、確かに。クリスマスっていうとポインセチアだし」
他にクリスマスに縁ある植物といえば、クリスマスの顔でもあるツリーやヤドリギだろうか。しかし“手”がばら撒いていたのは青い薔薇だ。
「今この時、想いまでは汲んでやれないが……生き物とは不思議なもので存外“奇跡”を信じるものだ。もしかすれば、それは怪異もまた同じなのかもしれないね」
対峙したなら、怪異が抱いているかもしれない想いが分かるだろうか。そんな事を話しながら2人は人気を避けるように路地を行く。冬の空を見上げれば普通の星空が広がっていて、新たな手も青薔薇も見当たらない。
「そういえば、青色の薔薇の花言葉って“奇跡”だっけ?」
「ああ。何らかの“奇跡”を求めているのかもしれない。奇しくも僕たちが答えるわけにはいかないが。――さて」
巳理の靴が冷えた石畳に足音を刻み、同時に放られたアンプルがパリンと砕ける。中の水銀は波紋が広がるような軟さでクラゲへと形を変え、すいすいと四方へ散った。空中を泳げる彼らの目が屋根にも向く中、海瑠もクリスマスの夜に紛れて青薔薇を探していく。そして。
(「あった」)
クラゲ達が青薔薇を見付けた地点へと走った巳理は、すぐさま海瑠もクラゲを通して観測する。確かこの辺りに落とされた筈、と目星つけた先へ向かっていた海瑠は、傍に現れたクラゲに笑ってから同じ青色を見付け、路上駐車中の車の陰に身を潜めた。
雪を被った小さな花壇の上にある青薔薇は、静かにそこにある。その青に無邪気な視線を向けているのは――。
(「薔薇を落としてたのと同じ手だ」)
青薔薇を見付け、手を伸ばす誰かを今か今かと待つのは、少女のような、プリンセスのような、魔女のような――その全てであるかのような怪異だった。
色違いのボタンの目がこの街にいる誰かを映す前に、海瑠は裡に潜む妖精犬の魔力を全身に纏った。足音だけでなく移動で起こる気流の乱れすらそこに置いて忍び寄る海瑠に、青薔薇へ夢中な怪異が気付ける筈もない。
「はーい診察のお時間ですよー♪」
とびきり明るくかけた声に怪異の全身がびくんと跳ね上がったのは当然だろう。振り返るのに合わせてふわふわとした髪が揺れる僅かな時間を、海瑠は生成したての得物でスパッと斬った。
「あらら、可愛い顔して物騒なもの持ってるね。まずはそれ、ぽいしちゃおう?」
口調は幼い患者へするように。けれど両腕を“落とす”事には一切の躊躇いがない。
石畳に落ちた両腕がガランガランと大きな音を立てる中、怪異が全身を震わせ響かせた金切り声は近いような遠いような、まるでスピーカーから流れるような――奇妙な距離感と響きのそれに海瑠は目をぱちくりさせた。しかしいつも通りの軽快で親愛を抱く空気を纏いながら繰り出すのは、認識するのも困難な銅線による容赦ない一撃だった。
(「流石だな、海瑠くん」)
一瞬だけ巳理の目に映った糸状の閃き。直後に宙を待った怪異の体が固く冷たい石畳に叩きつけられる。途端弾けるように飛び出したカラフルな花やキャンディが、容赦の無さをより露わにしていた。
(「あれでは逃げられない……いや、海瑠くんが逃がさないな」)
現に寸分の間を置かず繰り出された攻撃が、怪異に僅かな移動も許していない。
風よりも素早く、機械以上に的確。そんな海瑠の戦いっぷりは安心して見ていられるほどで、だからこそ巳理は怪異を中心に雨を起こす。
(「何の奇跡を求めるのか。それとも、彼らはそれを求めざるを得ない環境に置かれているのか……さて、どうしよう」)
何であれ、しとしとと静かな音を紡ぐ雨を止める気はない。それは怪異に触れた瞬間、怪異だけに牙を剥く凶器と化した。
陸に揚げられた魚のように暴れ出した怪異に海瑠は目を丸くして、けれど銅線を幾重にも閃かし、しっかりぎっちり捕らえながら巳理の方を見て笑う。こくりと返された頷きが嬉しくて、作った拳に熱く力がこもった。
(「巳理さんとの共闘、格好悪いところ見せられないよね!」)
街に住む誰か。観光でやって来た誰か。名前も顔も、これまでの人生も知らない誰かが疾走し、眠りに囚われてしまわないように。拳は怪異の頭へと真っ直ぐに落ち――、
「わっ」
「!」
ぼふんッ! 御伽噺が集まったような可愛らしい姿は無数のカラフル紙吹雪となって弾け、ぱらぱらと降りながら消えていく。そうして最後の紙吹雪も消えた後、2人は互いの無事を確認しながら笑みを交え――花壇の上、そこに残っていた青薔薇がひとりでに転がり落ちるのを見た。
第3章 ボス戦 『眠る乙女』
●クリスマス・ドリーム
掌。雪の上。花壇。様々な場所にあった青い薔薇の全てが、ふいに転がり風のない夜へと飛び始めた。高くても幼児の頭までという青薔薇の飛行は水中を游ぐように滑らかだ。
青薔薇を追いかけるうちに街の賑わいから離れ、クリスマスのひかりもすっかり遠ざかって。青薔薇が閉じられた縦格子の鉄門、その隙間をするりと抜けていった先に広がるのは、自然豊かな公園だった。だが深夜である今は静けさと冬の冷たさだけが満ちている。
いつの間にか群れた鳥のように列をなしていた青薔薇は、子供達が愛する遊具も、心穏やかにしてくれる小川も通り過ぎた。木々も、茂みも。冬に逞しく咲く花も。全てを通過し、どんどんどんどん公園の奥へと向かう。
そこは、公園に来た人々も管理しているスタッフも来ないだろう空間だった。好き勝手に枝葉を伸ばした草木のせいで、ネズミや虫でなければ先へは進めない――そんな緑の壁に、『眠る乙女』はいた。
きらきらとした真鍮。純白の枕とシーツ。そこに横たわり腹部で手を重ねて眠る姿は、御伽噺に出てくる姫を思わせる。
乙女の瞼が震えて開かれる気配は欠片もなく、時折、青薔薇が花びらをかすかに揺らしていた。深く、静かに、呼吸をするように。そのたびに薔薇の香りは濃くなり、ふいに眠気が芽吹く。――呪いだ。
恐らく、これまでの失踪者は『ジェーン・イン・ザ・ドリームボックス』によってここまで連れて来られたのだろう。そして一般人である為、眠りへ誘う呪いに抗えず、乙女の夢に囚われ続けている。
乙女がどのような夢を見ているのか、無垢な寝顔から窺い知れない。
名前も出自も、見ている夢も。全てがヴェールに包まれた乙女は、無数の青薔薇と茨に囲われながら、ただ静かに寝息を立てている。
冬の澄んだ空気。人の手が届いていない緑の壁。そこに眠る乙女と、咲き誇る青い薔薇。ただそれだけであったなら絵画のようだと楽しめただろう。しかし目の前にある光景が連続失踪事件の真犯人である以上、兎比良も小鳥も、選ぶ手段は『排除』のみだった。
挨拶も、確認もない。深淵から引き抜かれた黒薔薇からの銃弾がまず叩き込まれ、小鳥からの容赦ない『始まり』に兎比良が響かせた銃声がぴたりと寄り添う。普通の薔薇よりも遥かに大きかった花のいくつかが弾けるように散った。直後、漂う薔薇の香りがより強くなる。眠る乙女を囲っている青薔薇の花びらが、波間のようにゆらゆら揺れた。
(「眠りの呪い。俺は問題ありませんが――」)
耐性がある自分は、この程度で正気を欠く事はない。放たれた青薔薇に後れも取らない。後者については小鳥も同じだろう。現に、彼女は風のような軽やかさで自分の前へと飛び出していた。手にした黒薔薇で青薔薇を薙ぐように払った小鳥が、その美しい微笑を兎比良へ向ける。
「あなたを守ります」
告げた言葉も、静かに浮かべた微笑も、自身のものという感覚がある。しかし青薔薇の香気は髪にも肌にも染み込むほどだった。これは、夢だろうか。それとも現実だろうか。自身もフリージアの甘い香りを漂わせ敵を誘いながら戦っているうち、ふたつの区別が判然としなくなる。
そこへふいに覚えた熱――鋭く舞った青薔薇の、花びらによってつけられた傷が程よい眠気覚ましになった。それでも眠気の波は途切れる様子がなく、本物の波とよく似て、絶えずひらひらふわふわと寄せてくる。
だからこそ、兎比良の声が何よりも効いた。
「小鳥」
名が呼ばれ、腕を引かれる。
それだけでさっと波が引くように眠気が遠のいた。
「――兎比良さん」
「大丈夫ですか」
自身や他者の眠りに入り込み、夢や精神を操る、食事として夢・記憶・精気を喰らう――人間災厄『夢蝕み』である小鳥は、今回の目標といい意味でも悪い意味でも相性が良い。
「はい」
小鳥は微笑み、頷き返した。
薔薇の香りは健在だ。遠のいたとはいえ眠気は完全に晴れてはない。それでも兎比良の声が意識を繋ぎ止めてくれる。深まる香気と眠気に囚われ、溺れはしない。決して。
(「夢に溺れてずっとそのまま。……甘美な誘惑でしょうね」)
だが小鳥はわかっていた。それは自分自身の想像を超える事はなく、手を繋ぐぬくもりもきっと、空々しい。小鳥はただ静かに黒薔薇を構え、銃声を響かせた。その音と銃弾が散らした青薔薇に、兎比良は目の前へ意識を集中させる。
「本体への対処は、任せます」
薔薇の香りはどうにも慣れない。
そう感じた事が、備えた耐性にプラスで作用しているか否かはわからない。
ただ、引くという事を知らない波の如く寄せられる薔薇の香気――夢へと誘うそれがどれほど向けられようとも、フリージアの甘い香りに敵うわけがなかった。
(「俺が身を委ねる夢は、もう先約がある」)
ひどく美しいその夢の前では、どんな薔薇も、無垢な乙女も歯が立たないのだ。
冬の夜。茂る緑。それらから成る暗いそこを鉄茨がざあっと翔けた。
「眠ることは赦さない」
抗おうとうねる茨に鉄茨が遠慮なく絡まり、動きを縛る様に小鳥はくすりと微笑んだ。鉄茨に交わられてもなお鮮やかな青薔薇。ベッドとの境界めいたその奥で、名前も声も、何もかもがわからない乙女は未だ眠り続けている。
人々に夢を見せ、溺れさせている彼女が見る夢はどんなものだろう。傍には誰もおらず、青薔薇だけが溢れるようにあるベッドの上で――夢の中に、ぬくもりはあるのだろうか。
「眠りについてそれで満足なら、こうして誰かを招く必要はないでしょう?」
けれど、何も知らない乙女の気持ちは少しだけわかる気がした。
(「独りは、寂しいから」)
だからこれを贈ろう。
自分は夢蝕みだ。彼女の夢を黒く塗り潰すなら――これがいい。
黒薔薇の銃口を向け、響かせた音色に鉄火が重なった。鮮やかに広がったそれは花びらのように青薔薇を撃ち抜いて、兎比良の紡いだ『いばら姫』から現れた緑炎が、花びらの欠片も、他の薔薇にもその熱を延ばしていった。
青薔薇に炎の熱が赤く浮かび、その青を黒へと変えられていく。
それは乙女の見る夢が塗り潰されていく様そのものであり、塗り替えられていく夢物語の先にあるもの――現実の在処を何よりも鮮やかに識らしめる。
それは絵画と言っても遜色ない光景だった。しかし身を包む冷気は本物の冬がもたらすものであり、茂る草木も同様。ここにあるのはフィクションではなく現実で――そして連続失踪事件と失踪者達が目覚めない原因でもある。
「香気の対処は任せたぞ、ちるは。覚めぬ夢など、良きものであれ悪夢と変わらん」
「はい。ジェーンさんが連れてきたのか連れてこさせたのか……」
むむっ、いい香り。しかし高級かつ上質なパフュームにも負けないだろう香気には、確かな“呪い”が宿っている。香ったそれに、ちるはは目つきを鋭くさせた蜚廉に並びながら姫君めいた乙女と、溢れるほど咲く青薔薇をふわりとした視線で撫でていった。
「真意はさておき被害は解決しないといけませんからね」
「ああ。その通りだ」
夢から覚めないままでは、今この瞬間もあるクリスマスだけでなく、あらゆる温もりが遠ざかってしまう。積み重なるのは夢に囚われている時間と、それをただ見守るしか出来ない人々の悲しみや不安だろう。漂い続ける薔薇の香りは2人もそこに取り込もうとする証。だが蜚廉は、鋭い眼光を静かにそよぐ青薔薇へと移していた。
(「我が欲するのは、穏やかな眠りのみ」)
かつての蜚廉にはない願いだ。そう望めるようになった理由はただひとつ。普段よりも目つきをとろんと眠たげにし、船を漕ぎかけてからハッと体を跳ねさせたちるはのお陰だ。彼女が過ごした年月は自分のものよりも遥かに短いが、その掌は19という年齢を遥かに超える頼もしさを宿している。
「大丈夫か、ちるは」
「大丈夫です。こういう時は“すき”を思い出してテンション上げるといいんですよ」
例えば――そう。今日食べたおいしいごはん。
グリューワイン、チュロス、ソーセージロール達。それと。
(「ふぁにーなねこちゃんと見つめ合う蜚廉さんも、すき」)
それからそれからと、“すき”は次々浮かんでくる。かわいいがいっぱいだ。ふふ、と表情筋を柔らかに綻ばせたちるはは、ほっこり心地のまま目にも止まらぬ速さで距離を詰めた。青薔薇の花びらが動く前に、両の掌でそっと乙女に触れる。
その瞬間、溢れるほどあった香気が霧散した。
いや。在るには在る。
だがどれだけ気をしっかり保っていても存在していた眠気が、いなくなっていた。
それを合図に蜚廉は凄まじい速度で青薔薇に迫った。自身の鉤爪を展開し、そこに注ぎ込むのは長い年月で極めてきたもののひとつ――毒。倍にまで高めたそれをたちまち枯死毒として生成すると、不気味に蠢き始めた茨へと鋭く見舞う。
与えた毒はひとたび巡れば、もう止められない。やがて全体に回り、青薔薇はその色彩含めた今ある美しさを、生命力と共に失う筈だ。
(「だが、念には念を」)
ひらり。
“それ”が宙を躍っても捉える事は難しい。斥殻紐は細い上に色は黒銀と、目立たない要素をしっかりと備えている。
それでも一瞬だけ煌めいた瞬間を見付けていたちるはは、それが柔らかなラインを描きながらも、茂る茨へと鮮やかに襲いかかる様を見ていた。
黒銀の糸は茨へぴったり絡みつく寸前に数多の鉤爪を生やし、重なる時は柔らかだったのが嘘のような鋭さで青薔薇咲く茨を覆い、自由を絡め取る。
動きを封じられたからか、青薔薇達が花の身をざわざわと蠢かした。不満を露わにするような様に、蜚廉は表情を変えない。視線も外さない。眠りという呪いを流す青薔薇と、茨を押さえられても目を覚まさず眠り続ける乙女を油断する事なく見つめ続ける。
その隣で、ちるはも「ふう」と一息ついて蠢く青薔薇達を見た。
自然界にない青薔薇の花言葉は、人々の情熱と研究が実を結び始めるまでは『不可能』だった。青色の遺伝子を導入する、染めるといった手法で青薔薇が現実となってきた今は、『夢が叶う』『奇跡』『神の祝福』に変わっている。
「青薔薇の花言葉は素敵なものばかりで惜しいんですけど……」
ちら、と蜚廉を見ると、彼もこちらへと目を向けたところだった。ぱちりと合った視線は互いの頷きが交わるものとなり、2人の視線は再び青薔薇と、眠る乙女に向く。
「乙女の夢は、ここで終わらせよう」
「ここではないどこかでゆっくりお眠りください」
きっと全てが無事終わった時も真夜中で、開いている店はないだろう。けれど残り時間、共に周りたい場所はまだまだあって――そうだ。ホテルの大きなツリーを見てから帰ろうか。
特別な聖夜が、ここにはある。
見るのなら夢ではなく、あたたかな|現実《今》がいい。
きらきらとしたクリスマスの街を抜けて、静寂に浸った公園の奥で、青薔薇に囲まれて眠る乙女と出会う――なんて。んふふ、と笑みがこぼれていく。
「御伽話の世界への招待状、あながち間違いでは無かったかもね? 可愛らしいお嬢サマみたいだけど……」
氷月は双眸をすうっと細めた。そのものは見えないが、わかる。薔薇の香りと共に遠慮なく送られる眠気。慎ましそうでいて問答無用のそれはどう考えても呪いだ。
見た目は可愛らしいのに変なの撒き散らしてるなあと氷月は笑みながら、眠る乙女と周囲の青薔薇を見ながら「ねえ」と隣に話しかけた。
「どうする物部、一緒に眠っちゃう?」
――返事がない。
固まっちゃうほど怖い相手じゃない筈だけどと、氷月は浮かべた笑みをそのまま、隣の真宵を見た。――瞼を重たそうにしていた。普段穏やかで柔和な目が、ふんわりとろりとしている。
「……あれ、持ってかれちゃってる?」
その通りだった。
呼吸は小さく、けれどその1回だけで肺を満たしにきた甘い香りが、どこかから引き連れてきた眠気で、現実を見る瞼という幕を下ろしにかかる。それは意識にも優しく降り掛かって、氷月からの言葉も隠そうとした。すぐ近くの音が、どこか遠くにあるようにぼやけたものにされて――。
「おーい、物部ー」
氷月は白い頬をつんつんしてみた。
「えい」
反応がないので今度は鼻を摘んでみた。
頬への刺激には特に反応がなかったのだが、鼻を摘まれるとやはり息苦しくなるらしい。控えめに現れた眉間の皺。ふんわりとろりとしていた目つきが、徐々にいつもの彩へと近付いていく。
「んむ……? あまや、さん……?」
「起きた? んっふふ」
真宵に届く音だけでなく、ものの輪郭も戻っていた。ぱちぱちと瞬きをしていた目が、面白そうに笑う氷月の肩越しにスヤスヤと眠る乙女を見つけた瞬間ハッと丸くなる。
「えっ、わたし……まさか寝てました!?」
「ダメだよ、そんな簡単に寝ちゃ。悪いヤツに連れてかれちゃうよ」
恥ずかしさで顔を真赤にした真宵に氷月は目を細め唇に弧を描いてそう告げ、くるり。足を向ける先は眠る乙女と、彼女を囲む青薔薇の境界だ。動かした足のつま先が再び地面に触れる直前、伸びる茨の一部が、ぐっと不自然に膨らんで――しゅぱっ! 発射された棘を氷月は体を軽く傾け難なく避ける。
「しかし、コイツ何がしたいんだろうね? やることは変わんないけど」
「うぅん……夢の中の住人を増やそうとしている、とか? さみしがりなのかしら」
乙女以外誰もいないベッドを見つめながらの言葉に、氷月はふーんとだけ返して手にした銀片を指に引っ掛け、くるりと回す。1回転する間に喚んだ『花』は、刃を閃かせるたび共に青薔薇を焼きにかかった。
ふたつの彩が躍れば躍るほど青薔薇が切り裂かれ、花びらに炎の熱が芽吹いて欠けさせていく。花びらがやられる間を縫うように棘が放たれる事も少なくないが、放たれた棘以上の数を誇る|百鬼夜行《デモクラシィ》が自慢の白い毛並みでもっふりと防ぎ、応じた。
「あなた達もいらっしゃい」
呼ぶ声に応えた青白い燐火が仔狐に変わる。炎の尾を揺らした仔狐はきゃらきゃら笑い、真冬の空気を楽しげに蹴っては棘に体当りし、尾で払い落として、また笑う。仔狐が植物を相手にじゃれるような様は、青薔薇に囲まれて眠る乙女とはまた違った雰囲気で――そう。あちらが御伽噺なら、こちらは童謡のような。けれど真宵と共にしっかりと棘を取り払っていくその働きは、氷月の支えとなって彼に自由を与えていた。
(「それにしても……」)
ぱしゅっと放たれた棘を、紡いだ炎で、ジュッ。真宵はひとつずつ丁寧に対処しながら、棘を気にせず動き回れるようになった氷月を見やる。眠る乙女の傍にいるその姿は、呪いで眠らされた姫君を救いに来た王子のようだけれど。
「どーも、眠るオヒメサマ」
安らかに眠る乙女の体から発現したいくつもの刃が、月色の煌めきを四方に降らす。それでも乙女の瞼は動かず、唇も静かに閉じられたまま。氷月は、乙女の寝息がささやかな音で鼓膜を震わせるのを知覚しながら、探るように、計るように寝顔を見つめた。
「アンタは何者で、ヒトを集めて何をしたいのかな」
喋ってくれればすぐわかって楽なのに。
それとも。
「|解剖《バラ》したらわかるかな?」
聞こえたそれに真宵は心中で「まあ」とこぼし、やっぱり、と納得した。
(「活き活きしてますねぇ。雨夜さんも、|あの子《雨花幻》も」)
その分だけ茨も青薔薇もその量を減らされて――夢に囚われた人々の目覚めが、近付いていく。
古今東西、『呪い』というものは真偽や程度問わず、様々な形でもって作用する。青薔薇とそれに囲まれ眠る乙女も『呪い』というものを齎すようだが、その効果は『眠くなる』という単純明快なものだった。
成程。
えのは頷いた。
「大人しい呪いです。ですが一見無害そうな呪いが一番たちが悪い。……そうですよね?」
「無害じゃなさそうな呪われ者で悪イな」
真っ直ぐ自分に向いた視線を惑は視界に収めないまま返し、頭の中にうすらぼんやりと掛かる|眠気《それ》に短く息を吐く。
「俺は俺以外のことを知らねえが、まアあれよりマシだと思ってるつもりだよ」
増していく香りと、心地よさも連れた眠気。その源に惑が向ける視線は、乙女と青薔薇を映しているとは思えない素っ気なさだ。えのは乙女とその取り巻きともいえる青薔薇に視線を移し、改めて現場の状況を確認し、こくんと一度頷いた。成程。
「奥まった場所ですし多少荒れても大丈夫でしょう! 火事と過度な剪定にだけご注意をば」
「ああ」
仕掛けるべく、2人の足が冷え切った芝生をぐっと踏む。それを乙女達は見ていないが、それを合図とするように咲き誇る青薔薇が花びらをゆらりと閃かせた。途端放たれた棘は、刺さればただでさえ痛いというのに『眠りへ誘う呪い』というオマケ付きだ。すかさず身を伏せたえのはその厄介さを見抜くと同時にサッと身を起こし、澄み切った冬の空気を深く吸い込み叫んだ。
「さあさあ、“いい子になさい”!」
よく通った声はたちまち薔薇のざわめきを抑え込み、乙女の寝息もかすかにさせた。それと同時に、薔薇という薔薇へ火柱が“落ちた”。青が赤に染められ焼かれ、黒くなっていく瞬間が周囲を煌々と明るくする。
「あら」
「この程度で火事にはならねえだろ」
先ほど言質を取った為加減はしなかったが、乙女の周りを中心として落とした火柱の威力は100分の1だ。クレームは一切受け付けないという気配に「まあそうですね」と声が返る。その僅かな間に、惑は眠る乙女と青薔薇を得物の領域内に捉えていた。
至近まで来た男を拒絶するように茨がうねり、運良く残っていた青薔薇が手裏剣めいた旋回で放たれる。しかしどちらも勢いは鈍く、惑は顔色ひとつ変えずに伸びた茨を剣で叩き斬り、ブーメランのように弧を描いて迫る青薔薇を銃で撃ち落とした。
――と、あちら側の勢いが元のものを取り戻し始める。えのが目を閉じた事で、怪異側に起きていた麻痺が引き始めたのだ。
(「解除したか。まあ問題はねえな」)
剣は届いていて、遠いものには銃弾を叩き込めばいい。数の多さで攻められ流石に手が回らない時は――。
「援護はお任せあれ。あっ、こちらの事はご心配なく!」
自分にはこれがあると胸を張ったえのの眼前、ふいに現れた守り刀が旋回した。一瞬の軌跡で真っ二つにされた棘が『ぽとっ』とか弱い音を最期に残した傍で、えのは前に出ている惑目掛け飛んできた青薔薇を撃ち抜く。
ね?と語る視線に惑は無言の視線だけを一瞬返し、すぐさま冷え切っている大地を蹴った。雪を被って真っ白だったそこはもう、EDEN達の立ち回りによってその白さを薄くしている箇所が多数ある。そこに惑もえのも新しいものを追加していき――ふわ、あ。柔らかにこぼれたものに惑の視線が飛ぶ。
「ううん、やっぱり一番たちが悪い……」
「おい。起こしてやれ、纏めて焼かれたくはねえだろう」
目を擦る様を見ての即断即決。惑からのそれに二股の尾を持つ黒猫も素早かった。跳躍でえのの肩までひとっ飛び、からの――。
「あっこら仙狸、猫パンチはおやめなさい」
一応加減はしてくれていた。ぺしぺしとした刺激はそれなりの眠気覚ましになり、しかし緑玉の視線はまた眠くなったらとえのに熱く注がれている。ご心配なくと響いた声は仙狸だけでなく惑にも向けたものだ。後者は乙女に銃弾も毒も撃ち込みつつ、視線だけを返してきたけれど、いつもの様だからこれといって問題はない。
ところで。
「これって本当に就寝の手伝いになってます?」
就寝の手伝いと言えば絵本の読み聞かせや子守唄では?
目をぱちくりさせるえのに惑の視線が向いた。
「寝るのが好きなら本望だろ。邪魔どころか深く寝入る手助けしてやってンだから」
成程。
えのは頷いた。
「まあクリスマスですし、派手な爆発ぐらいあった方が景気いいですよね!」
「……やっぱりアンタの想像するクリスマスって何か違うよな」
自然界に『完全に青い』薔薇はなく、人々の技術と情熱で生まれた青薔薇も、色という意味では完全な青に至っていない。どちらかといえば、青みがかった薄紫か。けれどモリスが胸にさした薔薇は空に似た柔らかで美しい青色をしていた。
「薔薇はこちらの乙女のものだったか」
眠る乙女が生み出したのか、それとも普通ではない薔薇が生まれ持った色なのか。モリスは戦いの真っ最中でも青薔薇に囲まれながら眠り続ける乙女を観察し――ふむ、と指先で自身の顎を撫でる。
「寂しがりなのかな」
「どうなんでしょうね」
目の前にあるものは、まるで御伽噺の一幕だ。和奏は静かに得物へ手を掛ける。
「彼女が静かに眠りについてるだけなら、暴くのは、しのびないんですけれど」
連続失踪事件の真犯人である乙女と青薔薇を見つめるその目に、首をもたげた蛇のようにしゅるりと上げられた茨が映る。乙女からも、生き物めいて動く青薔薇からも、明確な悪意や殺意は感じない。――ただ。
「眠りに引き摺り込み捉われる方々を増やすわけにも行きませんしね」
星詠みの少女から聞いた、眠り続ける被害者のことが過ぎる。1人1人の顔や名前はわからないが、今この時も夢の中から出られぬままの誰かが大勢いる。
「無垢な寝顔だが茨は積極的なようだね。どちらが本体なのだかわからないな」
軽口を叩きながらモリスは静かに、僅かに横へ移動した。それに合わせて別の茨が緩やかに先端をこちらへ向けてくる。もしかして君が本体かなと笑いかけても、植物である青薔薇は何も応えてはくれないのだろう。だからこそ、薔薇の挙動と漂う香りへの警戒を怠らない。
静寂は数秒。モリスがオーラで自身を守りつつ前に出た瞬間、咲いていた青薔薇が一斉にざわめいた。茨がぐねぐねとうねり、放たれた棘が冷気を切って飛ぶ。そのいくつか、躱す必要のあったそれをナイフと刀が両断し――ぐんと伸びてきた茨もモリスの揮うナイフに斬られ、伸びた勢いそのままに、放られるような勢いで遠くへ落ちた。
(「動いていない」)
和奏は一瞥して即、前に出る。斬った茨もびょんと飛びかかってきたら面倒だが、その心配がないのは良い。速やかに次の行動へと向かうその背中に、低い声が掛けられる。
「ありがとう、頼むよ」
「ええ、引き続き露払いは任されました」
軽口ではない、短いやり取り。数秒の間にも放たれた棘をレンズ越しの目が捉え、霊力を込めた刀で横薙ぎに斬る。斬られ小さくされ、地面に落ちた棘が立てる僅かな音は、和奏とモリスが駆ける足音と、蠢く茨から聞こえる軋むような音ですぐにかき消され――再び放たれた棘が刃の前に散り、落ちて――静かな冬の夜、眠る乙女の周囲で音が重なり続けた。
前に出たからか、棘の殆どが自分に向いている。和奏は冷静に捉えながら、穏やかな寝顔で眠り続ける乙女を見た。
「一緒におやすみは、できないんです」
その眠りに誘われた方々の、目覚めを待つ人達もいる。
見知らぬ大勢を案じるその声に、そうだなとモリスは穏やかな声を重ねた。
「見目は安らかに眠る姫だが、覚めぬ夢に耽る人を増やす……そういうものを、人は古来から災いと呼ぶものだ」
命を失う状況でない事は不幸中の幸いだが、友人知人、家族や恋人が突然失踪し、見付かっても眠ったままでは、安らかな日々は遠のくばかりだ。
ばさり。借り物の翼が広げられた音に、いくつかの薔薇が向きを変えた。
「道、開きます……頼みますよ」
「勿論だ」
モリスの返事に続いた翼の音は先程よりもずっと力強い。そこから迸った衝撃波は呪いを孕んだ香気を一気に押し流し、加えられた枝の剪定がモリスの望む道を鮮やかに現す。和奏は真っ直ぐそこを行く背と、その先にある青薔薇の囲い――そして眠る乙女を静かに見た。
(「目覚めない夢は、おしまいにしましょう」)
その為の一手へ、モリスは握るナイフへと実に痺れるオマケを塗り、迷わず茨へと突き刺した。途端、茨は身を縮こまらせる蛇のように蠢いて――それでも乙女は、微動だにしない。寝息も寝顔も、全てが初めて見た時のままだった。
例えば。
もしかしたら。
今見ているこの姿が、怪異の見せるかたちでしかなかったとして。
(「それでも、安らかなまま終われるよう」)
それはそれとして。
先ほど切断した部位が興味深かったので。
「……何拾ってるんですか」
「ん? 研究用に持ち帰ろうかなと」
はあ。
こぼされた溜息が、真っ白に染まった。
ちょっとしたお出かけで。旅行先で。仕事の出張で。そんな経緯で訪れた場所で知り合いとバッタリ、なんて話はままあるものだ。そしてそれはEDENと怪異でも起きる。その場合、バッタリスポットとなる√は固定されない。その為。
「おお、何やら見覚えがあると思いきや」
「青薔薇を操っていた大ボスは眠る乙女だったかぁ」
なんて具合に「ほほー」とのんびり驚く事もある。
公園の奥も奥、ダントツに奥であるこの場所で、EDEN達から繰り出される攻撃の真っ只中にあっても謎の乙女は美しい寝顔を保ちながら眠り続けている。その顔も、その周りでしぶとく咲いている青薔薇も、そう言えばあの時あの√で――と思い出していたカナトとトゥルエノは互いに隣を見て、ぱちりと視線を交差させた。
姿が変わらない事と同じく、謎の乙女は相変わらずヒトを呼び寄せては眠りの国へと招いているようだ。ならば。
「悪だと断じ切るつもりもないが、望まぬ眠りや夢を、良しとする訳にはいかぬしなぁ」
「クリスマスドリームは目覚めた先にも楽しむものだろうし、とっとと片付けてお帰り頂くかねェ」
ではどう片付けようか。
ふーむと策を練るトゥルエノの横で、カナトは思い浮かんだ案をさくっと告げた。
「無数の青薔薇と茨に囲われていることだし、燃やそうか」
「……自然公園を荒らすような解決方法は如何かと思うのだが?」
向けていた表情丸ごと固まったトゥルエノからの意見に、カナトは瞬きを1回。
見つめ合う2人。
カナトがもう1回、ぱちりと瞬きをした。
「……やっぱりダメ?」
「なるべくならば平和的解決で……!」
やっぱりダメだった。
「となると――」
すい、とカナトの視線が乙女と青薔薇へ向いた瞬間。一斉に放たれた青薔薇が宙を舞った。その勢いはワインボトルから飛んだコルクのようで、視界に広がった様は押し寄せる波を思わせる。
その只中を、別の彩が迸った。
闇夜を引き裂く万雷の閃光よ――トゥルエノの囁きが白い吐息を僅かに残す、ほんの一瞬。降り注いだ万雷は、冬の夜の暗さも静けさも、全てを纏めて引き裂くようだった。
「雷獣クンに合わせてオレもカミナリ遊びでもしておこうかね」
雷獣からの贈り物にカナトも視たインビジブルを引き連れ、自由気ままな飛び入り参加を決める。カナトがいたそこにはインビジブルが朧気に浮かび、入れ替わったカナトは朧気だった筈の存在がたちまち雷光を帯び、姿形を、その数を鮮やかに変えゆく様を眺めていた。カナトの足が地面に触れたのと同時。黒影犬の群れが雷光を帯び青薔薇の波間を一気に駆ける。
トゥルエノが紡いだ万雷によって青薔薇は一瞬で光と衝撃に貫かれ、雷光纏う黒影犬の群れにも蹂躙され――そうして青薔薇はただの花となって次々地面に落ちていく。
雷撃による焦げ跡が刻まれた優美な青色の残骸達。その上を翔けるように新たな青薔薇が放たれるも、辿る運命は同じだった。
「まばゆく、雷鳴も轟き、眠気だって吹き飛ぶことであろう名案だな……!」
「あー、そういやちょっと眠いなぁ」
だがしかし、トゥルエノが言った通り。耳にも視界にも鮮やかすぎる雷鳴が、いい具合に作用している。絶えず向けられる呪いの濃さも、段々と薄れているように思えた。集ったEDEN達による攻勢が、呪いの源泉たる怪異の体力も生命力も削っていったからだろう。中には現在進行系の毒もある。
「で、寄ってきた茨はこうすりゃいいしなぁ」
「おお! 流石、用意がいいな主!」
慣れた手つきでカバーを外し、片手で軽々揮った手斧が茨の群れを『ぶつり』。茨が攻める数を増やしたなら――。
「丁度イイ」
薄ら笑った瞬間。裂けて奔り、雷を喰む。
その目で捉えたインビジブルと瞬時に入れ替われば、見えていた視界も足元の感覚も、ぐんと変わった。僅か1秒の浮遊感。カナトの視界で黒影犬達が雷光と共に駆け、彼らの目と雷光が届かなかった部分はトゥルエノのレイン砲台から迸ったレーザーがしっかりとカバーしていく。
薔薇が飛ぶ。
雷が、黒影犬がそれを狩る。
忍び寄る茨は手斧で剪定を。
――うーん。なんというかこれは。考える様子のカナトにトゥルエノがハテナの視線をやれば、気付いたカナトは手斧をくるり回して茨へと刃を叩き落とした。
「庭師にでもなれそうな気分だなぁ」
「主の造る庭ならば、もう少しおとなしい花々の方が良い気もするな」
例えばあんな花。こんな花。
息も冷える冬の日に、庭談義の花が咲く。
街に青薔薇を振り撒いていた怪異は、御伽噺の集合体めいた見た目だった。
青薔薇が集ったそこにいた怪異は、自由な緑の中、ベッドの上で眠る乙女だった。
警戒する蛇のような動きを見せている茨――青薔薇と比べ、眠り続けている乙女は全くもって無害に見える。他のEDENによる攻撃に晒されてもなお、だ。皓は青薔薇から乙女へと視線を移し、尻尾をそわりとさせた。
「とても……気持ちよさそうにねてる、ね……」
その声は心なしか羨ましげだった。乙女の寝顔がとても静かで穏やかで、ベッドもふかふかとした枕とシーツで構成されているせいだろうか。
氷菜も謎の乙女が眠るベッドを見つめ――ざわり、と青薔薇が蠢いた様を見てかすかに眉をひそめた。
「眠り姫、にしては物騒ね」
街に眠りの呪いを宿した青薔薇を振り撒き、人々をここまで連れてきて――後に発見へと至っているものの、失踪した全員を夢の中に囚え続けている。自分はそういった呪いに多少の耐性を得ているが――。
「それにしても薔薇の香り、すごい……気持ちよさそうだし俺まで眠くなりそう……」
(「皓、お昼寝するの好きなのよね」)
その可能性ありと自覚していても、皓本人が言ったように薔薇の香りを完全に消すには怪異を倒す以外ないだろう。うっかり寝てしまわないだろうかと氷菜が危機感を覚えていると、皓が少しばかり耳を伏せてこちらを向いた。
「氷菜、俺が寝そうになったら起こして、ね」
「起こせたらね」
定期的に声を掛ければいいかしら。
そう考えながら手には銃を。傍らには氷輪を。静かな眼差しにひんやりとしたものを浮かべた氷菜の隣で、皓も籠手で覆われた両手に力を込めた。
「行くわよ、皓」
「うん」
銃声が響き、氷輪が鋭く翔ける。同時に放たれた棘は、青薔薇よりも先に撃ち抜かれ斬り裂かれた。妖力の銃弾と氷輪はそのまま青薔薇を喰らい、氷菜の一撃が届かなかったものには皓の一撃が素早く向かう。
一瞬の間に二度重ねた攻撃は棘をぱんっと破裂させ、細かな破片に変えた。地面にそれがパラパラと降って、音を立てる前に。
「どんどん切る、よ」
地面を蹴って方向を変えて。宣言通りの動きをする皓の動きは機敏で、眠ってしまいそうな気配はない。さり気なく様子を見ていた氷菜の視線は乙女が眠るベッドへと移り――その瞬間に、撃ち出した一発がベッドへ纏わりつくようにして咲いていた薔薇をひとつ、弾けるような勢いで散らした。
途端に薔薇がざざざと音を立て、茨を高くし、密集する。乙女を守るような動きに氷菜は何も返さない。ただ心のなかで「そう」と納得し、次々に攻撃を見舞っていく。それは皓も同じだった。
「何か草刈り?してるみたい。ちょっともったいないけどしかたない、ね」
普通の薔薇だったなら、きれいだねと純粋に楽しめただろう。しゅんと倒れかけた獣耳はすぐにぴんと立てられて――ざわっと覚えた感覚に総毛立つ。同時に発生した氷刃吹雪がいくつもの棘を切り裂いた。氷菜の起こしたそれは落ちた棘による音を雨のように生み、対し、ふんわり眠気を覚えた皓の意識をスッキリさせる。
「これはほんと、に。寝てしまう……あぶない」
自力で耐えた分に癒しの雪も加われば百人力だ。お返しだよ、と呟いた皓の左手が獣のものと化す。掌はずっと大きくなり、それに合わせて爪も三日月のよう。遠慮なく揮われた左手は皓が狙うままに棘をスパッと切り裂いて――その向こうからびゅんと飛んできた1つを皓は反射的に飛び退き、避けた。小さくとも濃い呪いを匂わせているから、よくわかる。
「もう当たらない、よ。俺も寝るのは好きだし、たまにはいっしょにお昼寝もいいけど。ずっと寝てたらいっしょにあそべない、から」
ぐっと力を込めた獣の手が花壇のように集まっていた青薔薇へ向かい、巻き起こる氷雪が妖力の弾と共に更なる冬へと閉ざしていく。
「……周りを巻き込まず、静かに眠ることね」
眠るタイミングも、眠り方も、ひとそれぞれ。
怪異の都合に合わせられたそれは、安らかなひとときとは程遠い。
「だからもうおしまい、だよ」
棘が破片となって振り、青い花びらが散る。
眠り続ける乙女の周囲は、ちぎれた青で染まりつつあった。
風に転がる木の葉のように、どこかへと行く青薔薇を追いかけた先。公園の最奥で、青薔薇に囲まれベッドの上で眠る乙女と出会う――という展開に、ミモザの双眸がぱっと嬉しげに輝いた。
「お、ビンゴじゃん♪ さっすが、冴えてるわね♪」
「うん、やはりあの子の後をつけて正解だったようですね。あの薔薇のベッドで眠る彼女が今回の事件の大元でしょう」
「あとはこの子をどうにかすればいいだけかぁ……やっぱり倒すしかないんだろうなぁ」
冷静なエレノールが告げた『事件の大元』に、ミモザは両腕を組んで考える。
他のEDEN達の攻撃もあり青薔薇の数はだいぶ減っており、その数がゼロになれば漂う|香り《呪い》も同じになるだろう。かといって『怪異だと解っている乙女を見逃す』という道は選べず、選ぶ考えもなかった。
(「だって、死んでないとはいえ、何人も被害に遭ってるんだし」)
それを理解しているからこそミモザは両腕を組んだまま数回頷き――エレノールも、同じように顔も名前も知らない被害者達の事を思っていた。
(「――彼女のせいで眠りから目覚めぬ人々が出ているというのならば、やはりここできっちりと倒さねばならないのでしょうね」)
その為に自分が選ぶものは。
エレノールが詠唱錬成剣を掴むと、柄部に内包されている賢者の石を通じて刀身の輪郭が現れた。仕掛けるのだと察したミモザも表情をキリリとさせ――。
「ミモザ」
「ん?」
「今回は貴方の力も借りますよ。準備は良いですね?」
「ああ、精霊を憑依させるの? おっけーおっけー♪ どんと来ーい!」
ひらりと上昇したミモザの後を、エレノールから起こった風が爽やかに追う。冬の風は冷たくて時には刺すような痛みをもたらすものだが、精霊である風は温かさと共にミモザへ憑依し、その力の扱い方を瞬時に解らせてくれる。
「行きましょうミモザ」
「おっけー! 支援は任せて!」
わかる。今の自分は風の精霊魔法の達人だ。そんな今なら自分でも十分に戦える!
けれど普段ひ弱だと自覚しているからこそミモザは一気に飛び出す真似はしない。自身に宿った風精霊の力を刃に変えて、エレノールの邪魔となるもの――次々に放たれる青薔薇の花や、忍び寄って足を絡め取ろうと企む茨へと向けた。
「行って!」
全力で連発される魔法の音とその効果。目の前で繰り広げられる光景は頼もしさしかない。ミモザからの援護が派手に展開する中を、エレノールは乙女の下へ向かうべく迷わず飛び込んだ。風の如く駆けながら、新たに放たれた青薔薇を感覚のままに速度にものをいわせ躱していく。
駆けるべき道が見えているかのように行くエレノールの姿に、ミモザは安堵を覚えながら頭上で両手を掲げ、掌に風魔法を収束させていった。――と、自分にも放たれた青薔薇に慌てて翅を羽ばたかせ――ふわふわりと意識に重なろうとする眠気を、飛行速度をぐんと上げて押しのける。更に。
「眠っちゃダメよ、あたしっ!」
持ち前の元気と自身への鼓舞。その両方で耐えながら放った一撃が、エレノールの行く手を阻もうと絡み合った茨の壁に大穴を開けた。
そこを速度を保ったまま駆け抜けたエレノールもまた、ふいに訪れた眠気を精神力のみで耐え抜いた。眠気の影響で落ちそうだった速度は、大地をしっかりと蹴って速度を保った。剣の柄を握る手に、より力を込めた。
エレノールの双眸に、ベッドの上で眠る乙女が映る。
その寝顔は美しく、無垢なままだ。薔薇がどれだけ散らされ、茨がどれほど斬られても、乙女の眠りだけが変わらない。
(「貴方が見る夢が、どのようなものかはわかりませんが――」)
柄を握る手から一気に力を注ぐ。力は炎の刀身となって現れ、そこから迸った炎がベッドや枕の白さを、乙女の寝顔を赤々と染め、照らした。
ざああと聞こえた音は壁を編もうとする茨の音だ。だがミモザの放った風魔法が、その風圧で押しのけていく。
「――楽しいクリスマスの日にこんな事をしちゃうのはダメなんだからね! お仕置きはきっちりさせてもらうよ!」
その通りだ。
ミモザは炎の剣を振り上げ、両手で柄を握りしめる。
「――これ以上、誰も貴方に眠らさせはしません! 覚悟してください!」
咲いた花はいつか必ず散るものだ。
そしてこの青薔薇は、今宵散るべき花だった。
体の芯まで冷えそうな冬の夜。
止まないEDEN達の攻撃。
そんな状況でも、ベッドで眠る乙女の寝顔は安らかさが翳らず、寝相が乱れる事もない。どんな音でも衝撃でも目を覚まさず、変わらず、保たれている。
怪異であるという点を除けばただの眠る乙女だ。しかしそうではないからこそ、リゼも鳰も、目的を成すまで帰る気はなかった。
「とても可愛らしいお姫様……どんな夢を見ているのかしら?」
美しい花畑にいるの? 王子様とは出逢った?
それとも――優しい魔法使いから素敵な贈り物を授かっているところ?
乙女が夢の中で見るものがそういうものだと思えるほど、そこにいる乙女は御伽噺に出てくる眠り姫のようだった。あれに登場するのは魔法使いではなく、妖精か精霊だったろうか。思い出していた鳰は静かに得物へ手をかけた。ここは『今は昔』の世界ではない。この街で起きた連続失踪事件も、この眠る乙女も、異常でしかないのだ。それに。
「この眠気……リゼさんは大丈夫です?」
恐らくこの|眠気《呪い》は、どれだけ耐性があろうとも、じわりと意識に掛かってくるものだ。EDENであっても油断すれば夢の中に旅立ってしまいそうなその中で、リゼはあたたかな笑顔を咲かせた。
「ええ、大丈夫! 私の声で眠気なんて吹っ飛ばしてあげるわ」
「まあ心強い! 寧ろ聞き入ってしまわないようにしなくては、ふふふ」
だって彼女の声は、どんな王子様もお姫様も振り返るだろう煌めきを宿している。こうしてお喋りしているだけでも眠気が和らいだのがわかる。
「さて」
そうこぼした鳰の眼差しが、ひたりと青薔薇へ向いた。
「薔薇は手入れしてこそ美しく咲くと聞きますが、どうやら剪定が足りていない様ね」
幸いにも必要な刃はここに在って――ああけれど、今回は鈴の音で相手のかたちを見るのは止そうか。鳰はしぶとく咲く青薔薇の動き――葉ずれや、花びらうねる音に耳を澄ませる。
その選択にすぐさま気付いたリゼの目が鳰へ向いた時、魚が鰭をそうするように青薔薇の花びらが一斉に揺らめいた。それは水中でそよぐ海藻やイソギンチャクのようで、しかし茨全体にぐっと力が込められる様は、攻撃を予感させるのに十分過ぎるものだった。
弾けるポップコーンめいた勢いで放たれた青薔薇が2人の目に映る。ちりばめるような青色に、鳰は唇に弧を描いて刃を抜いた。
望むなら踊ってあげましょう。
どう踊るか決めるのは此方ですけれど。
揮われた刀が大きな弧を描いた。視界に一瞬残ったその軌跡は即座に次を描き、空中にあった青をたちまち細切れにする。そこへ、澄んだ音色が重なった。
「La――!」
澄み切った冬はリゼの声が響くに相応しい。一気に広がったその音色は、次々放たれる青薔薇へと向かう鳰を、ぱあっと開かせた。その歌声は止まず、そこから躍った音響弾が刀で捌ききれなかった青薔薇を反発させ、受け流していく。
(「花は傷つけるためにあるものではないの」)
花の力を借りる時は、誰かを守る為。
それを、この青薔薇にしっかり教えてあげよう。
「さぁ、踊りましょう!」
この現実でも夢のように。
宿る花の力を自身の霊力に流す。そこから顕したものは星屑が一斉に咲くような愛らしさで鳰の視界を彩った。瞬間、あたたかな黄色――舞う金木犀の花びらに、鳰の表情はたまらず綻ぶ。花びらが青薔薇を押さえ、ぶつかり合うたび、花びらからは気高く甘い香りが降ってくる。
呪いを宿す花を弾き、この身を守ってくれる金木犀に、歌い続けるリゼに。鳰は嬉しさを隠さない。
「嗚、いい香り!」
喜びの声と笑顔はすぐさまリゼと交わった。柔らかく細められた緑の双眸は鳰を映してすぐにっこりと弧を描く。そのあたたかさは緩やかに、眠り続ける乙女へと向けられた。
「お姫様。いつか王子様が迎えに来るといいわね」
けれどここに王子様はいない。
いるのはこの街を覆う悲しみを払おうとする、EDEN達だけ。
だから。
「今はただ、花達と深い眠りに還りなさい」
「金木犀の香りに包まれて、さようなら。どうぞ良い夢を」
冬の澄んだ空気は薔薇の香りをよく届けてくれる。青薔薇の数が減りつつある今、その濃度は当初より低いかもしれない。しかし縁は冷気と共に吸い込んだ空気に、青薔薇の確かな存在感を覚えた。
「この香り、いい香りですがなんだか……眠くなります」
ふわ、と小さく噛み殺した欠伸が控えめな白色となって漂い、消える。それを後ろに乙女が眠るベッドへ数歩近付けば、謎の乙女は少女といっても差し支えないだろう年頃だとよくわかった。
「綺麗な乙女……」
腹の上で組んでいる両手に武器の類はなく、本当に、ただ眠っているだけだ。そんな|乙女《子》が青薔薇を動かしている? どういう事なのか。どういうものなのか。どちらもわからず首を傾げる縁の隣で、凌充郎もまた眠る乙女をその目に映していた。
(「――――――この人型が青薔薇を意識して操れているのか、はたまた人型はやはり器でしかなく、本体はどこまでも青薔薇なのか」)
乙女が先か、青薔薇が先なのか。人々を眠りに誘う理由も含め、不明点が多い。
(「いずれにせよ、また別の意味で厄介な手合いときた。あくまでも深き眠りにすぎんからな」)
――と。乙女の寝顔を見ていた縁がくすりと笑みをこぼした。
「まるでお姫様です。王子様のキスで目が覚めるかもしれませんよ?」
王子様のキス。御伽噺では定番の解呪方法だが、凌充郎の顔もといバケツが無言で自分へ向き、縁はしゅんと肩を落とす。
「……冗談です。でも彼女を傷つけるのはちょっと……」
「――――――致し方あるまい」
「え?」
気が引ける、と言おうとしていた縁はその言葉に瞬きを返す。その様子にバケツの下で笑う音がした。
「業腹だが、取れる手段はとるとしようか。鏖殺連合とて、|殺す順番位は付けるさ《・・・・・・・・・・》。」
そう言って凌充郎が取り出したのは端末だ。迷わず汎神解剖機関に掛け、相手が出た瞬間に告げる。
「―――――俺だ」
そう言うなり端末の向こうから返ったものに男の肩が揺れた。
「クハハ、そう身構えるな。此度は貴様等にとっても悪い話ではない。今から、怪異を無力化する。後は収容するなり研究するなり、好きにしろ。とはいえ、勿論その収容でなにかしらやらかしたのならば――――――|わかるな《・・・・》?」
そこで言葉が一旦止まった。その間も縁は大人しく待機しながらも、内容を把握しきれず首を傾げる。しかし今、聞き間違いでなければ『怪異を無効化』と言わなかっただろうか? 凌充郎の顔が、表情を明るくしていった縁の方を向く。
「―――――さて。段取りは付いたぞ、如月縁。珍しい事だが……これより、対象の|無力化《・・・》に入る。異論はないな」
「……! ということは、彼女を傷つけなくていいんですね? もちろん異論なんてありません」
凌充郎が頷き、乙女の方へ向き直る。縁も動きを同じくし――。
「―――――草刈りの時間だ」
その表現に、苦笑いがこぼれた。
けれどこれで青薔薇の眠りの呪いを断ち切れる。共に立ち向かうEDENが凌充郎ならば、自分は彼の支えとなるに相応しいものを。
縁は弾けるようにポンッと頭上へ放たれた青薔薇の群れを見上げ、微笑んだ。笑む眼差しは、青薔薇の花びら、その陰に隠れるようにしてこちらを狙う棘をも捉えている。
「凌充郎さん、ちょっと風を起こしますね」
そう言った直後。召喚した風精『アネモイ』が、縁が望むままに凄まじい風を巻き起こした。文字通り抉るそれはたちまち青い花びらを散らして、花びらも棘も、仲良く綺麗に遠ざける。
そうして視界が大きく開ければ、邪魔な青色は随分と減っていて――しかし未だ残る青薔薇が、茨をざわざわとうねらせ、寄せて、少しでも壁を作ろうとするのが見えた。
それを見て足を止める凌充郎ではない。
そして凌充郎が足を止めなくていいよう、縁の声にアネモイが応える。
再び巻き起こった風が青薔薇と棘だけを力強く押し退け、その瞬間に凌充郎は自身の腕力に任せた一撃を叩き込んだ。呪いの影響で眠りたいという欲を覚えないわけではないが、それに耐えられない精神ではない。多少呪いが強まろうとも強引にそれを超えていく。
そうして見舞われた攻撃は、ただただ重い。乙女の周りを守るようにあった青薔薇を問答無用で薙ぎ払い、その圧だけで切断した。
抗いようのない重量に溢れた攻撃。
風精が放つ抉る風。
溢れるほどあった青薔薇はすっかりその数を減らし、終わりの訪れを強く予感させる。その時がやって来れば――心身を温める一杯をもう一度、となるだろう。
眠るという行為はほとんどの生命が必要とするものだろう。人類であれば、完全に眠れなくとも、ただ横になり目を閉じるだけで意味があるという。
しかしそれが他者から齎されるものであり、更には本人の意思も意識も考慮していないのであれば――。
「医療は睡眠も治癒に必要な要素のひとつだけど、この眠りは……快癒のためのものじゃないことは確かだよね」
そうこぼした海瑠の目には、青薔薇の数が減り、周囲が随分と寂しくなった見知らぬ乙女が映っている。その寝顔はぴくりとも変化せず、胸部と腹部が静かに上下しているが、怪異とわかっているとその動きが生命由来によるものかどうか定かではない。
しかしベッドの上で横になっている乙女は、確かに『眠っている』。
「眠らざるを得ない――……例え怪異であれど、海瑠くんの見立て通り理由が存在するのか。
それとも、“|初めからそう在る《・・・・・・・・》”ことに意味がある怪異なのか……」
今見えている範囲で怪異を診た巳理は暫し考え、口を開く。
「初めて会う僕たちでは測りかねる事情が、彼の怪異にもあるのだろう」
そう。この怪異は初めてだ。
どれだけの攻撃を浴びても乙女の寝顔も寝姿も一切変化がなく、寝言もこぼさない。眠り続ける姿は敢えて心を閉ざしているように見え、やるべき事はわかっているが――眠る呪い以外何も示さない乙女と、自分はどんな想いで対峙すればいいかわからない。
海瑠の視線は自然と巳理へ向き、すぐに頷きが返された。
「ふむ……海瑠くん、“同情”と“慈悲”は違う。他者に当たる怪異に“思うところ”が出来たとしても、それは今我々が考慮するべき材料ではないと思うよ、僕はね」
海瑠の目がかすかに瞠られる。
ああ、そうだ。
(「――|あのとき《出逢ったとき》みたいに、いつだってオレに答えをくれる」)
このひとは自分よりも聡明で、人の心に触れてきた人だ。
そんな巳理さんなら。
「……そうだね、そうだった」
最後に患者がどうあるべきかを決めるのは、患者本人。
海瑠の目は再び乙女へ向こうとして――ふいに手を取られた。
「っ……!? み、巳理さん!?」
驚きを浮かべる顔は巳理が時々見かける海瑠百面相のひとつ。けれど先程まで見えていたのは、なぜか至極眠れる怪異を慮り、どこか引っ張られている姿だった。そんな海瑠が心配でつい手を取っていたのだが、海瑠をドキッとさせたその行動が――触れる手の熱で、『いつもの自分』に戻れた気がした。
(「オレのやることはひとつだけ。――巳理さんに害成す者は全て排除する」)
(「……おや?」)
一度だけぎゅっと握り返された。海瑠はいつも通りの顔で笑んでいる――ように見える。
その胸の内は見えない。
見えないけれど。
(「心配ばかりでは、現場は変わらないな」)
それは百も承知だ。
そして当然、自分達が今最も救うべきものは何かという事も。
「始めようか、海瑠くん」
「うん、巳理さん」
今この時も夢に囚われている、無辜の|人々《患者》の為に。
今ある数は、毒リンゴを食べてしまった姫君を囲む小人よりもいくらか多い程度。そんな少数となった青薔薇が、花びら全体を波の如く揺らめかせた。
普通の薔薇であれば有り得ない動きの『続き』が来る前に、巳理の前に立った海瑠が懐から素早く取り出した|得物《注射器》が銃へと変わる。銃声が響くまでの時間は更に速く、青薔薇は棘も花そのものも放てないまま、大きな穴だけを咲かせられる。
銃口は素早く外の青薔薇にも向けられて――その一瞬に、ふわふわぷかりと煌めく海月が泳ぎだす。水銀で出来た海月が躊躇いなく青薔薇と茨の海に飛び込めば、海瑠の銃撃から染み渡り始めた毒と共に、緑の体を蝕み始めた。
歪にうねりだした茨を見れば、植物に声がなくとも、表情がなくとも、『毒が廻っている』とわかる。巳理はその動きを捉えた瞬間素早く視線を巡らせ、捉えたそこ――まだ毒が廻りきっていない茨を青薔薇ごと糸雨で圧し潰す。
残り僅かだった青薔薇の『剪定』は恙無く進み、全ての青薔薇がその姿形を失くしていく。
その形も色も完全に消えた後。眠っていた乙女の瞼は閉じられたまま。彼女もまた消えるのかと思えば、別のEDENが所属機関に声をかけ、収容に来るという。
なら後はそっちに任せればいいかなと海瑠は軽く伸びをして――んん、と声をこぼし、自分達が通ってきた道を振り返った。
「……これで、眠ったままの人達も目覚めるかな」
「あぁ、恐らく。大丈夫、ただ眠っていただけならば数日で正常な動きができる程度には戻れるはずだ」
「巳理さんも、今日はゆっくり休んでね」
その言葉に巳理は目を瞬かせる。
それからかすかな音を立てて笑うまでは、すぐだった。
「何だ、夜更かしは駄目かね海瑠くん」
「だーめ。巳理さんの健康はオレが護るんだから。あ、なんなら明日の朝、起こしてあげようか?」
異国のクリスマス。怪異の撃破。眠る呪いの終わり。
楽しんで、すべき事をした後は眠って――もしかしたら、夢を見て。
そうしてまた、いつもの日常がやって来る。