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剣聖天女と百年の|葡萄酒《ワイン》
その年の秋、葡萄の畑は祝福されていた。
陽は穏やかで、夜は冷え、果皮は張り、香りは深く――醸造家たちは口々に言った。
「百年に一度の出来だ」と。
|大人《酔いどれ》たちは十一月を待った。
今年のボジョレー・ヌーボーは、きっと特別になる。そう信じて疑わなかった。
だが、奇跡の葡萄酒が発売されることは無かった。
その時の造庫は惨憺たる状況であった。樽が満たされるはずの果汁は、畑から消えた。
葡萄の瑞々しさは奪われ、房はしぼみ、土は粉のように乾き、井戸は底を見せた。雨は来ず、川は細り、湿気すら漂わない。
そして人々は、ダンジョンの奥に杯を掲げる異形の群れを目撃し始める。
――旱の眷属たち。
怪しげな呪杯が、降雨から流水、漂う湿気、生体内の水分に至るまで、一帯の“水”を吸い寄せて奪い去る。
そうして干上がり、棄てられた地の底から、新たな同族が這い出すのだという。
如月・縁は、遠い天の運行を読みながら、その災厄の輪郭を掴んでいた。
依頼の場に選んだのは、夜の帳が落ちる少し前――薄明の酒場。香のよい湯気と、甘い酒の匂いの中で、縁はあなたがたを迎える。
「……今年の葡萄は、本来なら“祝福”だったのです。でも祝福ほど、奪われた時の呪いは深い」
縁は空のグラスを手にしてため息をつく。
あそこの|葡萄酒《ワイン》とっても楽しみにしていたのに、と独言る。
「ワイン酒造庫のダンジョンが、開いています。樽が積み上がった迷宮……匂いが染みつきすぎて、入り口に立つだけで酔う人もいるほど。あの奥に、旱の眷属たちが巣食っているようです」
迷宮の奥へ進むほど、年代の古いワインが保存されているという。
百年を超える瓶も眠り、葡萄酒の歴史が静かに並ぶ――本来なら、祝杯のための“宝物庫”だ。
縁の眼差しが、ほんの少しだけ鋭くなる。
「眷属の呪杯は、水分を奪う波動で周囲の抵抗を削るもの。さらに、太陽光を水滴で反射し集めた灼光を降らせる……乾きと熱は、ヒトを容易く殺します」
一息。
そして、縁は続けた。
「でも、それだけじゃない。私が見たのは……“天女”」
星詠みの言葉に、場の空気が変わる。
長い黒髪。東洋の美女を思わせる切長の瞳。魅惑的なボディライン。
その手には、虹色に輝く銃。
「剣聖天女『シルメリア・ゴースト』――その可能性が高いかと」
ーーー彼女が、眷属を“呼び寄せた”のか。それとも、別の何かが彼女を呼んだのか。
「ワイン酒造庫ダンジョンへ向かってください。旱の眷属たちを退けて、葡萄と土地を取り戻し、そのうえで……“天女”の正体を確かめてください」
窓の外、夕暮れの風が乾いている。
喉の奥が、理由もなく渇く気がした。
百年の祝福は、百年の渇きへ変わりつつある。
――迷宮の入り口は、葡萄酒の香りで満ちている。
一歩踏み込むだけで、酔いが回るほどに。
そしてその酔いは、甘いだけでは終わらない。
乾きと熱が、すぐそこで笑っている。
これまでのお話
第1章 冒険 『ワイン酒造庫ダンジョン』
葡萄畑の奥、石造りの酒造庫は夕陽を受けて蜂蜜色に輝いていた。
扉の前に立つだけで、木樽の甘い香りと果実の匂いがふわりと鼻をくすぐる。重い扉を押し開ければ、ひやりとした蔵の涼しさ――の中に、しっかりと染みついた葡萄酒の気配。左右にも天井近くにも樽が積まれ、通路は迷路のように続いている。
足音が石床に心地よく響き、どこかで樽が「きゅ」と鳴いた。
その瞬間、あなたの手元にいつの間にかグラスがあった。
透明な器は指に馴染み、次の拍で空中から葡萄酒が注がれ始める。
とく、とく、とく。
注ぎ手は見えないのに、香りだけは雄弁だ。軽やかな白、厚みのある赤、泡立つ一杯、貴腐めいた甘さ――能力者が想像した葡萄酒が、このダンジョンに呼応して満たされるらしい。
誰かがひと口含んで目を見開き、誰かが「うまい!」と笑う。
思わず乾杯が起き、ガラスの音が樽の壁に柔らかく反射した。
所々に置かれた小さなテーブルにはチーズや生ハム、チョコレート。ワインのおともにどうぞと言わんばかりである。
角を曲がるたび香りが変わる。
花のように華やかな区画、ハーブの涼しさが走る区画、カカオのように深い区画。
樽の側面には「去年」「十年」「五十年」と年代札が残り、奥へ進むほど空気が静かに落ち着いていく。
次の樽角でどんな一杯に出会うのか――それだけで足取りが軽くなる。
酒は良きものである。
フォルゴトン・シヴィライゼーション(忘れられた文明神・h09429)は呟き、石造りの酒造庫へ足を踏み入れた。
樽の木香と果実の甘い香り、発酵の澱が空気に溶け、文明が積み上げた「腐敗の利」を静かに誇っている。腐敗の過程のなかで利点を見いだし、発酵と名付けた人類の知恵。
わしから見ても称賛に値する。
ゆっくりと庫内へ足を入れると、ひやりとした蔵の涼しさが頬を撫でる。積み上がる樽は迷路の壁で、石床に落ちる足音は心地よく反響した。
角を曲がるたび香りが変わる。
花のように華やかな区画、ハーブの涼しさが走る区画、カカオのように深い区画。年代札には「今年」「十年」「五十年」と並び、奥へ進むほど空気が落ち着いていく。歴史とは、こうして香りの層にも刻まれるものか。
その瞬間、手の中にいつの間にかグラスがあった。透明な器へ、空中から葡萄酒がとく、とく、とく、と注がれていく。
ああ。フォルゴトンは知性に満ちた茶色の瞳を細める。
捧げ物の中で葡萄酒は比較的多く目にした記憶がある。収穫の祝いで供えられた若酒、祈りの唄、火の粉の舞う夜。時代は移ろえど、杯が人を繋ぐ理は変わらぬ。
「よい。危険の中で副産物を楽しむことに否定はせぬ。知恵と不思議に乾杯といこう」
ひと口。舌の上で香りがほどけ、胸の奥が温かくなる。酔いは怖さではなく、長い歴史に触れたときの穏やかな高揚だ。だが同時に、√を蝕む異質の気配が、かすかな違和感として蔵の奥に張りついているのも感じ取れる。
ここは祝福の蔵であるべきだ。
ならば穢れは祓うのみ。フォルゴトンは杯を掲げ直し、笑みとも溜息ともつかぬ吐息を零した。
葡萄畑が百年に一度の祝福を迎えた――はずだった。
「葡萄畑の祝福……な、ないの!? ないんだ……。」
野分・時雨(初嵐・h00536)は肩を落とし、すぐに目を輝かせた。
「でも、グラスの中に希望のものが満たされる、と」
「ワイン酒造庫ダンジョンやったー? よく分かんないけど、旱の眷属とかを倒せば良いんだねェ」
緇・カナト(hellhound・h02325)は茶色の髪を揺らして軽い調子で言い、扉を押し開けた。
「その前に酒造庫エンジョイして行こ〜」
ひやりとした空気の奥から、木樽と果実と発酵の甘い香りがふわっと押し寄せる。思わず深呼吸したところで、手元にいつの間にかグラスが現れた。透明な器へ、空中からとく、とく、とく、と注がれていく。誰が注ぐでもないのに、きっちり満ちていく。
「カナトさん何飲むんですか。予想、赤」
「んー、ロゼと白が好きだなぁ。作り方がジュースみたいだからパカパカ飲めるし」
「予想ちがった。ぼくシャンパンいただきます。赤酔うので」
時雨のグラスに泡が立ち、金の粒が踊る。
カナトの方には淡い桜色のロゼ。乾いた蔵の空気に、瑞々しい香りが咲いた。
目を向ければ、所々に置かれたテーブルにワインのお供が見える。
「普段ワイン飲まなそうな牛君のお勧めは……?」
カナトが首をかしげると、時雨は真面目に考え込んでから言う。
「オススメわかんないけど……チーズ食べたいです。ピザでワイン楽しんだくらいですから、外れなさそう」
その瞬間、まるで注文を聞いたみたいに、樽の陰から塩っぱいチーズが現れた。
皿の上で艶が光り、香りが鼻をくすぐる。
「塩っぽいチーズと生ハムは大体何でも合うしねぇ……お。オツマミおいしい。伸びる手がすすむ」
「あーそっか。適宜ツマミいただけるんでしたっけ。」
便利ぃ、とミモザチーズを頬張りながら時雨は金色の粒を喉に滑らせる。
「手に入れたら奥へ向かいましょうか。」
「え、奥に向かうの?」
角を曲がるたび、区画ごとに香りが変わる。
「ハーブの香りのところ気になります。さっぱりしてそうじゃないですか。」
ハーブワインはワインにハーブの風味をつけたフレーバードワインだ。
消化不良、殺菌効果、鎮静作用などハーブが持つ効能を纏うワインの香りは独特で、薬っぽさも感じられる。
「華やかな区画はともかく、ハーブとカカオの所はちょっと警戒。」
「なんで警戒?」
時雨が覗き込むと、カナトは肩をすくめる。
「ぼくは薬酒ぽいの好きです。名前わかんないけど、グラス満たされたのであるのかな」
時雨のグラスがふっと満ち、草の苦味と蜜の甘さが混ざった一杯になる。口に含んだ瞬間、目が丸くなった。
「うま。うま! ボトル持って帰りたい」
ちょっとボトルが出ないか期待したけど出てくれなかった、残念。
さらに奥へ進めば、カカオの香りが濃くなり、樽の札に刻まれた年代が古くなる。
「熟成ワインは香りも濃厚そう〜」
待ってました、とカナトのグラスに深い赤が満たされる。
ついでにグラスにチョコレートも添えられるおまけつき。
ひと口で頬が熱くなり、彼は楽しげに笑った。
「合間に飲む分には良いんだよなぁ……酔うけど」
安心しよう。
いくらエンジョイしても、このお兄さん達は怪異を|ボッコボコに《オーバーキル》できちゃうのである。
「これでうまなら、奇跡の葡萄畑どんなんだったの……」
「奇跡の葡萄畑を求めるなら、トレジャーハンターでもなったら?」
カナトの冗談に、時雨は小さく笑った。
酒造庫の扉をくぐった瞬間、蓬平・藍花(彼誰行灯・h06110)は思わず息を呑んだ。
聞いていた通り、空気そのものが酒精の香りで満ちている。木樽の甘い香り、葡萄の瑞々しさ、発酵の澱の温かさ――それらが混ざり合い、胸の奥までくすぐってくる。
(…わ、すごい…)
わくわくと肩を揺らし、くふふ、と目を細めて楽しげに笑う呑兵衛がひとり。
傍らには|妖精猫の円舞歌《フェアリーズ・ワルツ》で顕現させた翼を持つ妖精猫の珠花。
翼猫はふわりと宙を歩くように藍花に寄り添い、主の浮かれぶりを見ているのか、どこか呆れたように尻尾を揺らした。
本日の目的は、教えてくれた酔いどれ天使さんへのお土産確保――。
そのはずだった。
なのに、いつの間にか手の中に握られていたグラスが、ひやりと冷たく指に馴染むのを見た途端、目的がちょこっと遠のく。
透明な器へ、空中からとく、とく、と注がれていく甘いしゅわしゅわ。頭の端っこで麗しの黎明が嘆いたような気はしたけれど、口に広がる泡がそれをさらりと流してしまう。
(あ、おいし…)
舌の上で弾ける泡。
果実味が花のように開き、喉を通るころには胸の奥がふわりと温かい。
ブルーベリージャムを溶かしたような瞳がふんわりと酒精にとろけ、足取りまで軽くなる。
テーブルに置かれた生ハムを一枚取り、チーズを巻いてぱくり。塩気と脂の旨みに、泡の甘さがするりと寄り添った。
「これに合うなら、辛口の白かなぁ」
知り合いのお店なら、頼んじゃいそう。
そう思った次の瞬間、グラスの中身がすっと表情を変える。
柑橘の香りをまとった白が満ち、藍花は「んまんま…♪」と満足げに舌鼓を打つ。
角を曲がるたび樽の札の年代が変わり、香りの層が深くなる。藍花は急ぐでもなく、のんびりと奥へ奥へ。
珠花は浮かぶように主人へ寄り添いながら、短く「にゃ」と鳴いた。
――呆れた様子だけど、どこか楽しそうでもあった。
「ワインを浴びるように飲めるダンジョンがあると聞いて!」
サン・アスペラ(ぶらり殴り旅・h07235)は居酒屋に飛び込むみたいな勢いで、ワイン酒造庫の扉を押し開けた。
どこかで|「前にも似たようなことが……」と脳裏を掠めた気がした《以前は種類関係なく飲み放題でしたね》が、次の瞬間には肩をすくめて笑う。
細かいことはどうでもいい。今日の目的は、ただひとつだ――飲む!
目の前に広がるのは、樽、樽、樽。サンは目を輝かせ、思わず声を上げた。
「おぉ、すごい樽の数! これ全部ワイン樽なの? たまりませんなぁ!」
その瞬間、手元にグラスが現れる。
透明な器へ、空中からとく、とく、と赤が注がれていく。サンは迷いなく言い切った。
「へへへ、それじゃあとりあえず、オススメの赤ワインをひとつ」
応えるように、香りがぐっと濃くなる。
ひと口含めば、舌に渋みが骨格を作り、奥から果実味が追いかけてくる。
「へぇ、ちょっと渋みが強い? けど美味しい……」
普段は安物ばかり飲むが、これは良いワインだ、と身体が先に理解している。
「なんか肉食べたくなるし。絶対に肉に合うヤツだよコレ」
言うが早いか、サンはおもむろに持参した肉を取り出し、豪快に齧った。
……視界の端で一瞬ステーキ皿が現れて消えた気がしたけど、気のせいかな。
噛むほどに脂が甘く、赤の渋みがそれをきゅっと締める。
「ん~、やっぱ合う!」
満足げに笑い、グラスをもう一度煽る。
目を向ければ、テーブルにはチーズやつまみが並び、香りが誘ってくる。
「そういやチーズとかも用意されてるんだっけ。んふふ」
サンは指先で一片つまみ、赤と合わせて頬を緩めた。
戦いの前だとか、旱の眷属だとか――それは、後で拳が解決すればいい。
今日はまず、心ゆくまでワインを満喫しちゃおっと。
サンは樽の迷路の奥へ、鼻歌混じりに歩き出した。
樽の迷路へ一歩踏み入れた瞬間、和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)は喉の奥で小さく息を吐いた。
「この醸造された芳醇な香り……堪らんな。そう思うだろう、真理よ」
木肌に染みた葡萄の甘さ、発酵の澱、長い眠りの温度。
漂う芳醇さが、蜚廉の胸を満たしていく。
「いやぁ、全くもって同意見だよ、蜚廉の旦那」
隣で六合・真理(ゆるふわ系森ガール仙人・h02163)も、ふふ、と愉快そうに目を細めた。
「名立たる強者や高僧、果ては怪物さえも飲みたがる。酒とは斯くも奥深く、罪深い」
酒造庫に眠る膨大な数の樽を見上げながら、真理は小さく息を吐く。
天井まで届きそうな樽の道。小柄な真理の姿は簡単に隠れてしまいそうだ。
「年を経て生ずる酒の変化も味わわんとねぇ」
ふわりと優しい風が吹いたと思えば、ふたりの手元にグラスが現れた。
透明な器へ、空中から淡い黄金の白ワインがとく、とく、と満ちていく。
柑橘と白い花。ひと口含めば、舌先は瑞々しく、後に石のようなミネラルが残る。
「うむ、食前酒には申し分ない。この味わいだと……」
塩気の控えめなチーズと合わせると、乳の甘さが際立って美味くなる。
蜚廉が思考すると、まるで相槌を打つように、テーブルの上へ小さな白チーズが現れた。
真理はひょいと摘まみ、ゆるりと頷く。
「白いのに合うもんかい? 定番なら牡蠣は外せない。洋風の酢の物……ぴくるすも間違いないねぇ」
次の瞬間、殻の艶めく牡蠣と、酸の香り立つパプリカのピクルスが並ぶ。
蜚廉は一瞬だけ目を瞬かせ、真理は「便利なもんだ」と笑った。
「辛い白なら、炙りを入れた白身魚も良いぞ」
火を入れた旨味と皮目の香ばしさが、より引き立つ。口の中に広がる脂の旨みをさっぱりと流してくれるのだ。
――気がつけば白身魚のポアレが二人のテーブルに並んでいた。
本当になんでも出てくる。二人は楽しくなってきて顔を見合わせる。
「詳しいねぇ。辛口の白なら冷奴も案外悪くないよ」
醤油との相性は悪いはずなのに、豆腐が上手く取り持ってくれるんだ、と真理が語ればまたふわり風が。
涼やかな白い角、醤油の小皿。蜚廉は試すように口へ運び、わずかに口元を上げた。確かに、豆腐が橋を架けている。
歩けば香りが層を変える。
華やかな区画を抜け、ハーブの青さが鼻先をくすぐる通路へ。蜚廉のグラスに、草の気配を纏う白が満ちた。
「ハーブの香りがする白もあるな。香草を効かせた鶏肉や、柑橘を添えた前菜がよく合う」
言い終える前に、炙りの焦げ目が香ばしい鶏と、薄い柑橘が添えられた皿が現れる。真理は目を細め、杯を傾けた。
「あぁ、甘口なら果物も合うね。甘さに甘さを、と思うかも知れんが方向性が変わって面白いよ」
長年酒を嗜む二人からは、ありとあらゆるワインとのマリアージュが紹介される。
その語りから、酒への愛と敬意が滲んでいた。
――幾らでも注がれる杯。底を気にせず、次を望めば次が来る。
ふたりは奥へ進みながら、味の変化と年代札を楽しむ。「十年」「五十年」と進むほどに香りは落ち着き、白は蜜を帯び、赤は陰影を増す。
「幾らでも飲めるのは嬉しいけど……もう無くなっちまうって寂しさを感じられないのは、勿体なくもあるねぇ」
真理の言葉に、蜚廉はグラスを見つめた。満ち続ける液面の向こうで、香りだけが少しずつ移ろっていく。
「いつか無くなると分かって飲む一杯と、幾らでも注がれる杯とでは、向き合い方も変わる」
だからこそ、楽しみながら選んで進もう。今この一杯を、どう味わうかを。
ふたりは、ゆっくりと奥へと進む。
樽の迷路の奥には、奪われた祝福の理由が待つだろう。それでも今は、酒の奥深さに敬意を払いながら、確かな足取りで進んでいく。
「ほほう、ボジョレー・ヌーヴォー? 聞いたことはあるで。なんでもスゴイ・ウマイ・ワインやとか」
ドクター・トーマス(『博士』・h07991)は、軽い調子で肩を揺らしながら酒造庫へ足を踏み入れた。
√ウォーゾーン育ちの身には、葡萄酒は遠い話だ。
――けれど今回、事件に絡んでいるとなれば話は別。剣聖天女の影もちらつくなら、なおさらだ。
「まー、何にせよ……試飲会に参加させてもらうでぇ!」
酒造庫からは樽の木香と果実の甘さがどっと押し寄せる。トーマスはメガネの奥の金瞳を輝かせる。
「ここがワイン酒造庫ダンジョンかぁ、テンション上がるわぁ!」
きょろりと見回すが、自分と同じ√能力者以外の気配はない。
「ほな駆け付け一杯。うちはそない種類には詳しくないんで、お任せで頼みますわ!」
次の瞬間、手元にグラスが現れ、空中から淡い黄金が注がれた。表面がきらりと揺れ、飲みやすそうな柑橘の匂いが立つ。不思議な現象だが、ダンジョンはなんでもありだ。トーマスは一瞬だけ目を丸くし、すぐに笑った。
トーマスは「テイスティングって、こうやっけ」と聞きかじりの所作で軽く香りを楽しむ。詳しそうな者がいればと、さりげなく真似できないかと視線を送ってみる。
――観察は研究者の癖だ。
どうやら、あまりマナーは気にしなくてよさそうだった。周囲の能力者たちはそれぞれこの葡萄酒を楽しんでいる。
「いただきます」
ならば自分も、ひと口。舌先は瑞々しい。想像していたよりずっと淡く飲みやすい。
トーマスは思わず息を吐いた。
「う~ん, ええ味わいや……これがほんまもんのワイン!」
テーブルにはいつの間にかチーズ、生ハム、香ばしい何かの炙りが並ぶ。
思わず頬を緩めて摘まみ、グラスをもう一度傾けた。味が合わさって、香りが広がる。
「おつまみも美味しくて、とてもええわー!」
乾くことのないグラスを片手に、トーマスは軽やかな足取りで樽の迷路へ踏み込むのであった。
第2章 集団戦 『旱の眷属たち』
樽の迷路を進むほど、香りは濃く、空気は甘くなる――はずだった。
だが、百年樽の区画に近づいた瞬間、鼻腔を撫でる葡萄の匂いが、不意に「乾き」へ変わる。喉が渇く。肌がつっぱる。湿り気が、どこかへ吸い寄せられていく感覚。
影が揺れた。
怪しげな杯を掲げる、異形の群れ――『旱の眷属たち』だ。
彼らは雨も、流水も、漂う湿気も、そして生き物の体内の水分すら、杯へと吸い寄せ奪い去る。奪われて干上がった地の底からは、また新たな同族が這い出すという。
そして今、彼らの体内には――百年に一度の出来栄えと謳われた葡萄酒が、丸ごと吸い込まれていた。
眷属へ一撃を入れるたび、裂け目から最高の香りが噴き、濃密な葡萄酒が流れ出す。
倒す方法は二つ。
力で叩き伏せ、体内の葡萄酒を出し切らせて消滅させるか。あるいは工夫して、杯に溜め込んだ“祝福”を一滴残らず流し出させること。
――百年の祝福を取り戻すため、能力者たちは杯を掲げる乾きと対峙する。
<MSからの補足>
断章にある通り、旱の眷属たちを倒す方法は2つあります。
どちらを選んでいただいても構いません。
状況として、お手元にあるグラスは戦闘なんかで割れないスゴイ・カタイ・グラスです。安全を確保して思いっきり飲むのもありです。
また、第1章の酒造庫の葡萄酒は作り手の経営のため、お持ち帰りできません。
ただし、旱の眷属たちから得た葡萄酒は次の章や外部へ持ち帰り可能とします。