剣聖天女と百年の|葡萄酒《ワイン》
その年の秋、葡萄の畑は祝福されていた。
陽は穏やかで、夜は冷え、果皮は張り、香りは深く――醸造家たちは口々に言った。
「百年に一度の出来だ」と。
|大人《酔いどれ》たちは十一月を待った。
今年のボジョレー・ヌーボーは、きっと特別になる。そう信じて疑わなかった。
だが、奇跡の葡萄酒が発売されることは無かった。
その時の造庫は惨憺たる状況であった。樽が満たされるはずの果汁は、畑から消えた。
葡萄の瑞々しさは奪われ、房はしぼみ、土は粉のように乾き、井戸は底を見せた。雨は来ず、川は細り、湿気すら漂わない。
そして人々は、ダンジョンの奥に杯を掲げる異形の群れを目撃し始める。
――旱の眷属たち。
怪しげな呪杯が、降雨から流水、漂う湿気、生体内の水分に至るまで、一帯の“水”を吸い寄せて奪い去る。
そうして干上がり、棄てられた地の底から、新たな同族が這い出すのだという。
如月・縁は、遠い天の運行を読みながら、その災厄の輪郭を掴んでいた。
依頼の場に選んだのは、夜の帳が落ちる少し前――薄明の酒場。香のよい湯気と、甘い酒の匂いの中で、縁はあなたがたを迎える。
「……今年の葡萄は、本来なら“祝福”だったのです。でも祝福ほど、奪われた時の呪いは深い」
縁は空のグラスを手にしてため息をつく。
あそこの|葡萄酒《ワイン》とっても楽しみにしていたのに、と独言る。
「ワイン酒造庫のダンジョンが、開いています。樽が積み上がった迷宮……匂いが染みつきすぎて、入り口に立つだけで酔う人もいるほど。あの奥に、旱の眷属たちが巣食っているようです」
迷宮の奥へ進むほど、年代の古いワインが保存されているという。
百年を超える瓶も眠り、葡萄酒の歴史が静かに並ぶ――本来なら、祝杯のための“宝物庫”だ。
縁の眼差しが、ほんの少しだけ鋭くなる。
「眷属の呪杯は、水分を奪う波動で周囲の抵抗を削るもの。さらに、太陽光を水滴で反射し集めた灼光を降らせる……乾きと熱は、ヒトを容易く殺します」
一息。
そして、縁は続けた。
「でも、それだけじゃない。私が見たのは……“天女”」
星詠みの言葉に、場の空気が変わる。
長い黒髪。東洋の美女を思わせる切長の瞳。魅惑的なボディライン。
その手には、虹色に輝く銃。
「剣聖天女『シルメリア・ゴースト』――その可能性が高いかと」
ーーー彼女が、眷属を“呼び寄せた”のか。それとも、別の何かが彼女を呼んだのか。
「ワイン酒造庫ダンジョンへ向かってください。旱の眷属たちを退けて、葡萄と土地を取り戻し、そのうえで……“天女”の正体を確かめてください」
窓の外、夕暮れの風が乾いている。
喉の奥が、理由もなく渇く気がした。
百年の祝福は、百年の渇きへ変わりつつある。
――迷宮の入り口は、葡萄酒の香りで満ちている。
一歩踏み込むだけで、酔いが回るほどに。
そしてその酔いは、甘いだけでは終わらない。
乾きと熱が、すぐそこで笑っている。
第1章 冒険 『ワイン酒造庫ダンジョン』
葡萄畑の奥、石造りの酒造庫は夕陽を受けて蜂蜜色に輝いていた。
扉の前に立つだけで、木樽の甘い香りと果実の匂いがふわりと鼻をくすぐる。重い扉を押し開ければ、ひやりとした蔵の涼しさ――の中に、しっかりと染みついた葡萄酒の気配。左右にも天井近くにも樽が積まれ、通路は迷路のように続いている。
足音が石床に心地よく響き、どこかで樽が「きゅ」と鳴いた。
その瞬間、あなたの手元にいつの間にかグラスがあった。
透明な器は指に馴染み、次の拍で空中から葡萄酒が注がれ始める。
とく、とく、とく。
注ぎ手は見えないのに、香りだけは雄弁だ。軽やかな白、厚みのある赤、泡立つ一杯、貴腐めいた甘さ――能力者が想像した葡萄酒が、このダンジョンに呼応して満たされるらしい。
誰かがひと口含んで目を見開き、誰かが「うまい!」と笑う。
思わず乾杯が起き、ガラスの音が樽の壁に柔らかく反射した。
所々に置かれた小さなテーブルにはチーズや生ハム、チョコレート。ワインのおともにどうぞと言わんばかりである。
角を曲がるたび香りが変わる。
花のように華やかな区画、ハーブの涼しさが走る区画、カカオのように深い区画。
樽の側面には「去年」「十年」「五十年」と年代札が残り、奥へ進むほど空気が静かに落ち着いていく。
次の樽角でどんな一杯に出会うのか――それだけで足取りが軽くなる。
酒は良きものである。
フォルゴトン・シヴィライゼーション(忘れられた文明神・h09429)は呟き、石造りの酒造庫へ足を踏み入れた。
樽の木香と果実の甘い香り、発酵の澱が空気に溶け、文明が積み上げた「腐敗の利」を静かに誇っている。腐敗の過程のなかで利点を見いだし、発酵と名付けた人類の知恵。
わしから見ても称賛に値する。
ゆっくりと庫内へ足を入れると、ひやりとした蔵の涼しさが頬を撫でる。積み上がる樽は迷路の壁で、石床に落ちる足音は心地よく反響した。
角を曲がるたび香りが変わる。
花のように華やかな区画、ハーブの涼しさが走る区画、カカオのように深い区画。年代札には「今年」「十年」「五十年」と並び、奥へ進むほど空気が落ち着いていく。歴史とは、こうして香りの層にも刻まれるものか。
その瞬間、手の中にいつの間にかグラスがあった。透明な器へ、空中から葡萄酒がとく、とく、とく、と注がれていく。
ああ。フォルゴトンは知性に満ちた茶色の瞳を細める。
捧げ物の中で葡萄酒は比較的多く目にした記憶がある。収穫の祝いで供えられた若酒、祈りの唄、火の粉の舞う夜。時代は移ろえど、杯が人を繋ぐ理は変わらぬ。
「よい。危険の中で副産物を楽しむことに否定はせぬ。知恵と不思議に乾杯といこう」
ひと口。舌の上で香りがほどけ、胸の奥が温かくなる。酔いは怖さではなく、長い歴史に触れたときの穏やかな高揚だ。だが同時に、√を蝕む異質の気配が、かすかな違和感として蔵の奥に張りついているのも感じ取れる。
ここは祝福の蔵であるべきだ。
ならば穢れは祓うのみ。フォルゴトンは杯を掲げ直し、笑みとも溜息ともつかぬ吐息を零した。
葡萄畑が百年に一度の祝福を迎えた――はずだった。
「葡萄畑の祝福……な、ないの!? ないんだ……。」
野分・時雨(初嵐・h00536)は肩を落とし、すぐに目を輝かせた。
「でも、グラスの中に希望のものが満たされる、と」
「ワイン酒造庫ダンジョンやったー? よく分かんないけど、旱の眷属とかを倒せば良いんだねェ」
緇・カナト(hellhound・h02325)は茶色の髪を揺らして軽い調子で言い、扉を押し開けた。
「その前に酒造庫エンジョイして行こ〜」
ひやりとした空気の奥から、木樽と果実と発酵の甘い香りがふわっと押し寄せる。思わず深呼吸したところで、手元にいつの間にかグラスが現れた。透明な器へ、空中からとく、とく、とく、と注がれていく。誰が注ぐでもないのに、きっちり満ちていく。
「カナトさん何飲むんですか。予想、赤」
「んー、ロゼと白が好きだなぁ。作り方がジュースみたいだからパカパカ飲めるし」
「予想ちがった。ぼくシャンパンいただきます。赤酔うので」
時雨のグラスに泡が立ち、金の粒が踊る。
カナトの方には淡い桜色のロゼ。乾いた蔵の空気に、瑞々しい香りが咲いた。
目を向ければ、所々に置かれたテーブルにワインのお供が見える。
「普段ワイン飲まなそうな牛君のお勧めは……?」
カナトが首をかしげると、時雨は真面目に考え込んでから言う。
「オススメわかんないけど……チーズ食べたいです。ピザでワイン楽しんだくらいですから、外れなさそう」
その瞬間、まるで注文を聞いたみたいに、樽の陰から塩っぱいチーズが現れた。
皿の上で艶が光り、香りが鼻をくすぐる。
「塩っぽいチーズと生ハムは大体何でも合うしねぇ……お。オツマミおいしい。伸びる手がすすむ」
「あーそっか。適宜ツマミいただけるんでしたっけ。」
便利ぃ、とミモザチーズを頬張りながら時雨は金色の粒を喉に滑らせる。
「手に入れたら奥へ向かいましょうか。」
「え、奥に向かうの?」
角を曲がるたび、区画ごとに香りが変わる。
「ハーブの香りのところ気になります。さっぱりしてそうじゃないですか。」
ハーブワインはワインにハーブの風味をつけたフレーバードワインだ。
消化不良、殺菌効果、鎮静作用などハーブが持つ効能を纏うワインの香りは独特で、薬っぽさも感じられる。
「華やかな区画はともかく、ハーブとカカオの所はちょっと警戒。」
「なんで警戒?」
時雨が覗き込むと、カナトは肩をすくめる。
「ぼくは薬酒ぽいの好きです。名前わかんないけど、グラス満たされたのであるのかな」
時雨のグラスがふっと満ち、草の苦味と蜜の甘さが混ざった一杯になる。口に含んだ瞬間、目が丸くなった。
「うま。うま! ボトル持って帰りたい」
ちょっとボトルが出ないか期待したけど出てくれなかった、残念。
さらに奥へ進めば、カカオの香りが濃くなり、樽の札に刻まれた年代が古くなる。
「熟成ワインは香りも濃厚そう〜」
待ってました、とカナトのグラスに深い赤が満たされる。
ついでにグラスにチョコレートも添えられるおまけつき。
ひと口で頬が熱くなり、彼は楽しげに笑った。
「合間に飲む分には良いんだよなぁ……酔うけど」
安心しよう。
いくらエンジョイしても、このお兄さん達は怪異を|ボッコボコに《オーバーキル》できちゃうのである。
「これでうまなら、奇跡の葡萄畑どんなんだったの……」
「奇跡の葡萄畑を求めるなら、トレジャーハンターでもなったら?」
カナトの冗談に、時雨は小さく笑った。
酒造庫の扉をくぐった瞬間、蓬平・藍花(彼誰行灯・h06110)は思わず息を呑んだ。
聞いていた通り、空気そのものが酒精の香りで満ちている。木樽の甘い香り、葡萄の瑞々しさ、発酵の澱の温かさ――それらが混ざり合い、胸の奥までくすぐってくる。
(…わ、すごい…)
わくわくと肩を揺らし、くふふ、と目を細めて楽しげに笑う呑兵衛がひとり。
傍らには|妖精猫の円舞歌《フェアリーズ・ワルツ》で顕現させた翼を持つ妖精猫の珠花。
翼猫はふわりと宙を歩くように藍花に寄り添い、主の浮かれぶりを見ているのか、どこか呆れたように尻尾を揺らした。
本日の目的は、教えてくれた酔いどれ天使さんへのお土産確保――。
そのはずだった。
なのに、いつの間にか手の中に握られていたグラスが、ひやりと冷たく指に馴染むのを見た途端、目的がちょこっと遠のく。
透明な器へ、空中からとく、とく、と注がれていく甘いしゅわしゅわ。頭の端っこで麗しの黎明が嘆いたような気はしたけれど、口に広がる泡がそれをさらりと流してしまう。
(あ、おいし…)
舌の上で弾ける泡。
果実味が花のように開き、喉を通るころには胸の奥がふわりと温かい。
ブルーベリージャムを溶かしたような瞳がふんわりと酒精にとろけ、足取りまで軽くなる。
テーブルに置かれた生ハムを一枚取り、チーズを巻いてぱくり。塩気と脂の旨みに、泡の甘さがするりと寄り添った。
「これに合うなら、辛口の白かなぁ」
知り合いのお店なら、頼んじゃいそう。
そう思った次の瞬間、グラスの中身がすっと表情を変える。
柑橘の香りをまとった白が満ち、藍花は「んまんま…♪」と満足げに舌鼓を打つ。
角を曲がるたび樽の札の年代が変わり、香りの層が深くなる。藍花は急ぐでもなく、のんびりと奥へ奥へ。
珠花は浮かぶように主人へ寄り添いながら、短く「にゃ」と鳴いた。
――呆れた様子だけど、どこか楽しそうでもあった。
「ワインを浴びるように飲めるダンジョンがあると聞いて!」
サン・アスペラ(ぶらり殴り旅・h07235)は居酒屋に飛び込むみたいな勢いで、ワイン酒造庫の扉を押し開けた。
どこかで|「前にも似たようなことが……」と脳裏を掠めた気がした《以前は種類関係なく飲み放題でしたね》が、次の瞬間には肩をすくめて笑う。
細かいことはどうでもいい。今日の目的は、ただひとつだ――飲む!
目の前に広がるのは、樽、樽、樽。サンは目を輝かせ、思わず声を上げた。
「おぉ、すごい樽の数! これ全部ワイン樽なの? たまりませんなぁ!」
その瞬間、手元にグラスが現れる。
透明な器へ、空中からとく、とく、と赤が注がれていく。サンは迷いなく言い切った。
「へへへ、それじゃあとりあえず、オススメの赤ワインをひとつ」
応えるように、香りがぐっと濃くなる。
ひと口含めば、舌に渋みが骨格を作り、奥から果実味が追いかけてくる。
「へぇ、ちょっと渋みが強い? けど美味しい……」
普段は安物ばかり飲むが、これは良いワインだ、と身体が先に理解している。
「なんか肉食べたくなるし。絶対に肉に合うヤツだよコレ」
言うが早いか、サンはおもむろに持参した肉を取り出し、豪快に齧った。
……視界の端で一瞬ステーキ皿が現れて消えた気がしたけど、気のせいかな。
噛むほどに脂が甘く、赤の渋みがそれをきゅっと締める。
「ん~、やっぱ合う!」
満足げに笑い、グラスをもう一度煽る。
目を向ければ、テーブルにはチーズやつまみが並び、香りが誘ってくる。
「そういやチーズとかも用意されてるんだっけ。んふふ」
サンは指先で一片つまみ、赤と合わせて頬を緩めた。
戦いの前だとか、旱の眷属だとか――それは、後で拳が解決すればいい。
今日はまず、心ゆくまでワインを満喫しちゃおっと。
サンは樽の迷路の奥へ、鼻歌混じりに歩き出した。
樽の迷路へ一歩踏み入れた瞬間、和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)は喉の奥で小さく息を吐いた。
「この醸造された芳醇な香り……堪らんな。そう思うだろう、真理よ」
木肌に染みた葡萄の甘さ、発酵の澱、長い眠りの温度。
漂う芳醇さが、蜚廉の胸を満たしていく。
「いやぁ、全くもって同意見だよ、蜚廉の旦那」
隣で六合・真理(ゆるふわ系森ガール仙人・h02163)も、ふふ、と愉快そうに目を細めた。
「名立たる強者や高僧、果ては怪物さえも飲みたがる。酒とは斯くも奥深く、罪深い」
酒造庫に眠る膨大な数の樽を見上げながら、真理は小さく息を吐く。
天井まで届きそうな樽の道。小柄な真理の姿は簡単に隠れてしまいそうだ。
「年を経て生ずる酒の変化も味わわんとねぇ」
ふわりと優しい風が吹いたと思えば、ふたりの手元にグラスが現れた。
透明な器へ、空中から淡い黄金の白ワインがとく、とく、と満ちていく。
柑橘と白い花。ひと口含めば、舌先は瑞々しく、後に石のようなミネラルが残る。
「うむ、食前酒には申し分ない。この味わいだと……」
塩気の控えめなチーズと合わせると、乳の甘さが際立って美味くなる。
蜚廉が思考すると、まるで相槌を打つように、テーブルの上へ小さな白チーズが現れた。
真理はひょいと摘まみ、ゆるりと頷く。
「白いのに合うもんかい? 定番なら牡蠣は外せない。洋風の酢の物……ぴくるすも間違いないねぇ」
次の瞬間、殻の艶めく牡蠣と、酸の香り立つパプリカのピクルスが並ぶ。
蜚廉は一瞬だけ目を瞬かせ、真理は「便利なもんだ」と笑った。
「辛い白なら、炙りを入れた白身魚も良いぞ」
火を入れた旨味と皮目の香ばしさが、より引き立つ。口の中に広がる脂の旨みをさっぱりと流してくれるのだ。
――気がつけば白身魚のポアレが二人のテーブルに並んでいた。
本当になんでも出てくる。二人は楽しくなってきて顔を見合わせる。
「詳しいねぇ。辛口の白なら冷奴も案外悪くないよ」
醤油との相性は悪いはずなのに、豆腐が上手く取り持ってくれるんだ、と真理が語ればまたふわり風が。
涼やかな白い角、醤油の小皿。蜚廉は試すように口へ運び、わずかに口元を上げた。確かに、豆腐が橋を架けている。
歩けば香りが層を変える。
華やかな区画を抜け、ハーブの青さが鼻先をくすぐる通路へ。蜚廉のグラスに、草の気配を纏う白が満ちた。
「ハーブの香りがする白もあるな。香草を効かせた鶏肉や、柑橘を添えた前菜がよく合う」
言い終える前に、炙りの焦げ目が香ばしい鶏と、薄い柑橘が添えられた皿が現れる。真理は目を細め、杯を傾けた。
「あぁ、甘口なら果物も合うね。甘さに甘さを、と思うかも知れんが方向性が変わって面白いよ」
長年酒を嗜む二人からは、ありとあらゆるワインとのマリアージュが紹介される。
その語りから、酒への愛と敬意が滲んでいた。
――幾らでも注がれる杯。底を気にせず、次を望めば次が来る。
ふたりは奥へ進みながら、味の変化と年代札を楽しむ。「十年」「五十年」と進むほどに香りは落ち着き、白は蜜を帯び、赤は陰影を増す。
「幾らでも飲めるのは嬉しいけど……もう無くなっちまうって寂しさを感じられないのは、勿体なくもあるねぇ」
真理の言葉に、蜚廉はグラスを見つめた。満ち続ける液面の向こうで、香りだけが少しずつ移ろっていく。
「いつか無くなると分かって飲む一杯と、幾らでも注がれる杯とでは、向き合い方も変わる」
だからこそ、楽しみながら選んで進もう。今この一杯を、どう味わうかを。
ふたりは、ゆっくりと奥へと進む。
樽の迷路の奥には、奪われた祝福の理由が待つだろう。それでも今は、酒の奥深さに敬意を払いながら、確かな足取りで進んでいく。
「ほほう、ボジョレー・ヌーヴォー? 聞いたことはあるで。なんでもスゴイ・ウマイ・ワインやとか」
ドクター・トーマス(『博士』・h07991)は、軽い調子で肩を揺らしながら酒造庫へ足を踏み入れた。
√ウォーゾーン育ちの身には、葡萄酒は遠い話だ。
――けれど今回、事件に絡んでいるとなれば話は別。剣聖天女の影もちらつくなら、なおさらだ。
「まー、何にせよ……試飲会に参加させてもらうでぇ!」
酒造庫からは樽の木香と果実の甘さがどっと押し寄せる。トーマスはメガネの奥の金瞳を輝かせる。
「ここがワイン酒造庫ダンジョンかぁ、テンション上がるわぁ!」
きょろりと見回すが、自分と同じ√能力者以外の気配はない。
「ほな駆け付け一杯。うちはそない種類には詳しくないんで、お任せで頼みますわ!」
次の瞬間、手元にグラスが現れ、空中から淡い黄金が注がれた。表面がきらりと揺れ、飲みやすそうな柑橘の匂いが立つ。不思議な現象だが、ダンジョンはなんでもありだ。トーマスは一瞬だけ目を丸くし、すぐに笑った。
トーマスは「テイスティングって、こうやっけ」と聞きかじりの所作で軽く香りを楽しむ。詳しそうな者がいればと、さりげなく真似できないかと視線を送ってみる。
――観察は研究者の癖だ。
どうやら、あまりマナーは気にしなくてよさそうだった。周囲の能力者たちはそれぞれこの葡萄酒を楽しんでいる。
「いただきます」
ならば自分も、ひと口。舌先は瑞々しい。想像していたよりずっと淡く飲みやすい。
トーマスは思わず息を吐いた。
「う~ん, ええ味わいや……これがほんまもんのワイン!」
テーブルにはいつの間にかチーズ、生ハム、香ばしい何かの炙りが並ぶ。
思わず頬を緩めて摘まみ、グラスをもう一度傾けた。味が合わさって、香りが広がる。
「おつまみも美味しくて、とてもええわー!」
乾くことのないグラスを片手に、トーマスは軽やかな足取りで樽の迷路へ踏み込むのであった。
第2章 集団戦 『旱の眷属たち』
樽の迷路を進むほど、香りは濃く、空気は甘くなる――はずだった。
だが、百年樽の区画に近づいた瞬間、鼻腔を撫でる葡萄の匂いが、不意に「乾き」へ変わる。喉が渇く。肌がつっぱる。湿り気が、どこかへ吸い寄せられていく感覚。
影が揺れた。
怪しげな杯を掲げる、異形の群れ――『旱の眷属たち』だ。
彼らは雨も、流水も、漂う湿気も、そして生き物の体内の水分すら、杯へと吸い寄せ奪い去る。奪われて干上がった地の底からは、また新たな同族が這い出すという。
そして今、彼らの体内には――百年に一度の出来栄えと謳われた葡萄酒が、丸ごと吸い込まれていた。
眷属へ一撃を入れるたび、裂け目から最高の香りが噴き、濃密な葡萄酒が流れ出す。
倒す方法は二つ。
力で叩き伏せ、体内の葡萄酒を出し切らせて消滅させるか。あるいは工夫して、杯に溜め込んだ“祝福”を一滴残らず流し出させること。
――百年の祝福を取り戻すため、能力者たちは杯を掲げる乾きと対峙する。
<MSからの補足>
断章にある通り、旱の眷属たちを倒す方法は2つあります。
どちらを選んでいただいても構いません。
状況として、お手元にあるグラスは戦闘なんかで割れないスゴイ・カタイ・グラスです。安全を確保して思いっきり飲むのもありです。
また、第1章の酒造庫の葡萄酒は作り手の経営のため、お持ち帰りできません。
ただし、旱の眷属たちから得た葡萄酒は次の章や外部へ持ち帰り可能とします。
樽の迷路を抜けてしばらくしたときだった。
甘いはずの香りが、喉の奥で「乾き」に変わる。空気は冷たいのに、肌の水分だけがするすると奪われていくようで、唇がひりつき、呼気が粉っぽく感じられた。
「喉潤ったのですが。すごい乾く。」
野分・時雨(初嵐・h00536)は自分の腕をさすり、眉をしかめる。
「冬だから? ぼく乾燥肌なので辛い」
|混合《金剛》肌ってやつ? 時雨は両頬に手を添えてわざとらしいため息をついてみせる。
「外乾燥肌で中身湿気ってるんです。外はサクサク、中身しけしけ」
「牛鬼クンが乾燥肌なんて初耳だなぁ」
水妖だったら湿ってそうなのに。性格とか。
最後まで牛鬼クンに聞こえていたかはさして興味はなく、緇・カナト(hellhound・h02325)がのんびりと返す。
灯りは淡く、影が濃い。そこへ――影がいくつも立ち上がった。木の節のようにひび割れた胴、杯を掲げる腕。『旱の眷属たち』が杯を持ち上げるたび、漂う湿気が吸い上げられ、床石の冷たさまで乾く気がした。
「…おっと、ワインみたいな香りの樹が沢山〜。此れが旱の眷属たちかァ。悪い妖怪みたいな見た目してるネ」
カナトは目を細める。
「遠慮なくザクザク斬り倒そうねェ」
時雨は絹索を指先で弾いた。解き汚された五色の糸は静かに張り、樽の間を走れる距離を測る。
「この木々のせいで葡萄酒無くなったと。育てた方の怒り、理解できますよね。代わりに伐採しましょうか」
眷属が杯を掲げ、周囲の湿りを引き寄せる。喉が鳴るほど渇く。だが――次の瞬間、絹索が音もなく走った。白い糸が灯りを切り裂くように伸び、眷属の足を絡め取る。蜘蛛脚のように展開された捕縛が、杯を持つ腕を縛り、逃げ場を奪う。
『忽ち、獣を見たり』
時雨が発動したのは|見牛《ケンギュウ》――。
拳が牽制を打ち、床を踏む脚力が石を鳴らす。強撃が胴へ入った拍子に、眷属の体がきしみ、ひび割れが走る。その裂け目から――とろり、とろり。赤い液体が溢れた。葡萄酒だ。香りが一気に戻り、濃密な甘さが空気に花開く。
「うわ、やだぁ。なんか樹液かかった」
時雨は眉をひそめ――次の瞬間、指先についた一滴を舐めて目を丸くした。
「…………うま。あれ、あの、これ」
頬がぱっと明るくなる。
「カナトさん見て~! 奇跡の葡萄酒! あった!! もう飲めないのかと思ってました!」
カナトの口元が上がる。
「出るんだ。…なら、勿体ないねぇ」
黒い荊棘が、指定地点から一斉に咲いた。鉄条網のような黒荊棘が床から噴き上がり、眷属たちの足を、腕を、杯ごと絡め取る。
『|Barbed,braved,blooming《引き裂き、叫ばず、咲き誇る》』
カナトは歌うように、呪うように、軽やかに詠唱する。
『|荊棘の杜《シュワルツワルト》』。痛みより先に拘束が来る。獲物は逃げられず、ただ裂け目を作られる位置に“印”を付けられる。荊棘の印は彼らにとって死の宣告と同義である。
「一体、一体、丁寧に裂いていったら葡萄酒も沢山?」
カナトは黒荊棘に縛られた眷属へ歩み寄り、|手斧《Blood》でざくりと裂く。裂け目から、香り高い赤が弧を描いて零れ流れるのを見て、足元の影業に転がっていたグラスをいくつか持たせた。
「絞ります? ぼく生レモンサワーの果実絞るのだって得意なので」
時雨は星空のような無邪気な笑顔で宣言し、縛ったままの眷属を牛の力で捻り上げた。
「上手だよ。全部ちゃんと絞れる自信あります」
少し力を入れるだけで、最高の葡萄酒を味わえるなんて!
ワインが苦手とむかし友に言った気もするけど、この葡萄酒なら話は別だ。
|怪力ウシ君《時雨》は楽しんで怪力を発揮して捻っていく。
眷属が来れば葡萄酒が飲めるのだ。喜んで絹索で縛り上げていく。
「まだコチラ絞りきれてないので! 順番に!」
「ワイン葡萄搾りと生レモンサワーの果実絞るのは、得意と言ってもちょっと違うくない…?」
カナトは言いながらも、楽しんでいる彼を止める気はない。影のグラスをひとつ受け取り、ちび、と啜った。
「……うん、すご。ほんとに“祝福”だ」
だが、乾きは止まらない。
時雨は絹索を握り直し、次の個体へ糸の先を向ける。カナトも手斧を肩に担ぎ、黒荊棘をさらに広げる準備を整えた。足元には“絞りきれていない”眷属が転がり、そこからまだ最高の赤が滴っている。祝福は回収しなければならない。だが敵も尽きない。
「全滅させるまで刈り尽くそうっと。……でも、まだ始まったばかりだねェ」
カナトの軽い声に、時雨は喉で笑い、頷いた。
湿りを奪う気配と、祝福の芳醇がせめぎ合う区画へ――フォルゴトン・シヴィライゼーション(忘れられた文明神・h09429)は静かに歩み出た。
彼は、人に火を与えた神だ。だからこそ「燃やせば終わる」は選べない。炎は救いにもなるが、祝福を焼き、香りを殺す刃にもなり得る。
「成る程。維管束などの話ではないな。……半ば虚になっているところへ、酒が取り込まれている」
視線の先、杯を掲げる異形の体は、木でも肉でもない“器”に近い。ならば必要なのは火ではなく、割って、抜くための技術。フォルゴトンの肩に、神秘の織物――羅紗がふわりと翻った。数百世代分の知識が文様となって織り込まれた布は、揺れるだけで理の気配を放つ。
そして、彼の足元に浮かぶのは直径二十センチほどの光球生命体。ミニオン「ハローワールド」。光の核から形状自在の腕を伸ばし、工具として働く存在だ。小さく瞬き、聞いたこともない言語で短く告げる。
「⟊⟐⟟ ⟄⟐⟊ ⟟⟟⟐⟄……」
「よい。効率を上げよう。」
フォルゴトンは掌に文明の火を灯す。熱ではない、進歩の概念だ。視界内の対象――ハローワールドの“|果なき理想の形へ《エボリューション》”へ、技術革新が流し込まれる。
「これが次の形だ……」
ハローワールドの腕が、刃でも槍でもない“抜き出すための形”へ変わる。羅紗が眷属の腕と胴をしなやかに縛り、杯を掲げる動きを止めた。乾きの吸引が一瞬弱まる。その隙に、光球が滑り込み、進化した腕で表面をぱきり、と割った。
裂け目から、とろり。濃密な赤があふれ出す。床へ落ちる前に、ハローワールドが腕を器の形へ変え、丁寧に受け止める。乾いた殻だけが残り、もう祝福を奪う力は薄れていく。
「⟟⟐⟊……⟟⟟」
樽の影で別の杯が持ち上がる。干上がった底から、新たな同族がぞろりと這い出す気配――戦いはまだ浅瀬だ。フォルゴトンは抽出された赤を一滴、指先に取る。変質の有無を確かめるため、慎重に口へ運ぶ……はずだった。
ひと口。
舌の上で香りがほどけた瞬間、フォルゴトンの瞳がわずかに見開かれた。思わず息を止める。喉へ落ちる熱が、静かで、深く、圧倒的に“旨い”。
「変質は……しておらぬ。……もっとも、元々の味を知らないのだがな。」
彼は口元を歪める。笑みとも、驚愕を噛み殺す仕草ともつかないそれを残したまま、次の個体へ視線を移した。尽きぬ乾きに対して、尽きぬ理想の工具を進化させながら――祝福の一滴も、無駄にせぬために。
樽の迷路の奥、百年樽の区画は甘い香りに満ちている――はずだった。
だが杯が掲げられるたび、湿り気は引き抜かれ、喉の奥がざらりと乾く。床石は冷たいのに、空気だけがからからに軽い。
『旱の眷属たち』は乾いた身体で列をなし、怪しげな呪杯を揺らしながら、なおも祝福を啜り取ろうとしていた。
「無論、我らは一択だ」
星詠みの提案を一通り聞いた和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)は静かに頷く。潜響骨は、樽の木香の奥にある“漏れ”を拾っていた。水分の漏れ出す音。酒の沸き立つ香り。裂け目の位置。乾いた殻の脆い箇所。
「叩き伏せて、酒を出し切る」
「応とも、無手の殴り合いこそわしらの生業」
六合・真理(ゆるふわ系森ガール仙人・h02163)は、肩をほぐすように笑った。酒精の香りが濃い。目を細めれば、眷属のひび割れた胴から微かに赤が透ける。
「知恵を絞るが悪手とは言わんが、こっちの方が早いのは事実だからねぇ」
真理が一歩踏み込み、掌を開く。
「さぁ、ちょいとばかり揺れるよ」
柏手が鳴った。
乾いた空気を裂く音は、蔵の梁に跳ね返り、次の瞬間には床そのものが唸り始める。
震動は無差別ではない。真理が選んだ“対象だけ”が揺さぶられ、杯を掲げた眷属の体内で、溜め込んだ葡萄酒が液状化するように波打った。ひび割れた胴の内側で、赤がざわりと目覚める。
――|勁打・開手飄忽震蕩《サイコクェイク》。
豪快で無茶にも見えるのは、仙人へ登り詰めた者だけが「揺らし方」を選べるからだ。眷属の胴だけを、足だけを。杯を掲げる腕だけを。真理は震度を調整し、逃げ道を塞ぐように揺れを敷いていく。
「……出たねぇ」
漏れ出した葡萄酒を慌てて吸い上げるように、眷属からも波動が放たれる。真理は足元へ視線を落とした。呪杯の波動で乾いた脚――そこを砕けば、間合いの外へ逃がさない。
同時に蜚廉が駆けた。
真理の震動で“中身”が動いた瞬間を逃さない。乾いた殻の内側から、酒が押し出される音がする――そこが弱点だ。蜚廉は床を蹴り、脆い箇所へ連肢を叩き込んだ。鈍い衝撃。ひび割れが走り、裂け目から濃密な赤が弧を描いて噴く。香りが一気に咲き、乾きが一瞬だけ遠のいた。
「なんと、濃厚な」
蜚廉の声は落ち着いているが、鼻先を撫でる酒気は否応なく強い。
「はは、これ程の酒気を浴びるとは……流石に酔いが回ってしまうかもしれん」
「おやおや旦那」
真理が肩を揺らして笑う。揺れ続ける床の上で、彼女の足取りは軽い。
「気持ちは分かるけど、年長のわしらが暴れた挙句に酒に飲まれてぶっ倒れちまうなんて、若い衆等に示しがつかないよ? うふふ」
ふわりふわりと重力を感じさせない動きを見せる彼女の容姿で侮ってはいけない。揺れの中でも体幹は微塵も崩れず、次の柏手へ向けて呼吸を整えている。
「ふ、心配はいらんよ」
蜚廉は裂けた胴へさらに拳を打ち込みながら、淡々と返す。
「今更若気に戻るつもりもないからな」
殴りつけるたびに、|黒銀の糸《斥殻紐》が巻き付く。異様な粘着性と弾性を持つその紐に、逃げようとした脚が絡め取られ、杯を掲げる腕が引き倒される。崩れた外殻は剥ぎ取り、握りつぶす。乾いた器が砕けるたび、溜め込まれていた葡萄酒がどっと解放され、床を赤く濡らして流れた。
『我が連肢、止まらぬが、理』
蜚廉の拳――|連肢襲掌《レンシシュウショウ》――は止まらない。命中するたび、拳打と共に√能力が軋み、眷属の呪杯の波動が一瞬だけ鈍る。その隙に真理の震動が追い打ちをかけ、内部の赤をさらに揺り起こす。殴る、揺らす、割る、縛る。連携は呼吸のように噛み合っていた。
しかし――樽の影が濃くなるたび、別の杯が持ち上がる。干上がった底から、新たな同族がぞろりと這い出し、乾きの気配がまた強まる。今砕いた一体は、まだ“出し切ってはいない”。裂け目から滴る祝福は確かに甘いが、敵はまだ尽きない。
「……順番に潰していくかい」
真理はもう一度、掌を開いた。揺れは止めない。止めれば、祝福がまた奪われる。
蜚廉は赤に濡れた床を踏みしめ、次の脆い音を探る。酒の沸き立つ香りが、彼らの足元で渦を巻いた。
百年樽の区画は、甘いはずの香りを奪われていた。
杯が掲げられるたび、湿り気が吸い上げられ、吐く息まで乾いていく。ひび割れた異形――『旱の眷属たち』が列を成し、祝福を啜り取る。床に落ちた赤はすぐに薄まり、香りだけが残っては消えた。
「百年の祝福ワインがあると聴いて!……其れがなんだって?!」
常磐・兼成(酒侵讃歌・h10142)――またの名を酒精の狂信者バッカス。
陽気で社交的、酒場では友好的に笑い、酔えば多種多様に酒癖が悪いとも言う。
「旱の眷属たちの影響で消えてしまった? とても一大事じゃないか。雨も、流水も、漂う湿気も吸い寄せ奪い去る旱だなんて――厄介すぎる。よし。へし折ろう」
緑の瞳が怒りと期待に光る。
次の瞬間、兼成の足取りが変わった。ゆらりとした昼行燈めいた気配が消え、獣じみた鋭さへ切り替わる。
『古龍降臨』
太古の神霊の気配が背に重なり、空気が震える。空を駆ける龍のごとく、その速度は跳ね上がる。樽の影を滑るように駆け、牽制の蔓も捕縛の絡みも、踊るみたいに躱していく――まるで酒に誘われる足取りそのままに。
目の前に、杯を掲げる“旱の樹”。乾いた胴のひび割れが、喉の渇きを誘う。兼成は間合いに入った瞬間、霊剣を一閃した。装甲を貫く威力が倍になる斬撃が、硬い殻を正面から割り開く。
ぱきん、と乾いた音。裂け目から、とろり。赤い液が溢れる。
同時に、鼻腔を突き抜ける濃密な芳香。葡萄の甘さと樽の眠り、百年分の気配が一気に立ち上がる。
「おっと……葡萄酒の香りが漂っているな」
兼成は喉を鳴らし、笑う。笑いながら目が真剣だ。
「此れが百年に一度の出来栄えと謳われた葡萄酒……ぜひ飲みたい!」
手元の|やけに硬そうなグラス《スゴイ・カタイ・グラス》で赤を受け止める。その神の涙を丁寧に口元へ運んだ――一夜の夢に溺れる儀式みたいに。
「……っ、ウマーイ」
驚きと快楽を隠す気もなく、肩が弾む。香りが胸の奥で花開き、乾きでざらついていた喉が、瞬く間に祝福に塗り替えられていく。
「さて、ヤル気も出てきた事だし」
兼成は、赤い滴の向こうに次の杯を見据えた。毒にも薬にもなる男の思考は、酒に濡れるほど妙に冴える――気がする。
「なんとかボトルにでも詰めて、外部へ持ち帰り作戦も考えようっと。酒が美味いと知恵も頭もよく回る…!!」
気のせい?と笑いながらも、足は止めない。古龍の気配を纏ったまま、次の“旱の樹”へ。斬ればまた赤が溢れる。だが、杯の列はまだ長い。
すべて溺れて、総て沈めて――泡沫の夢。けれど今は、その夢から一滴でも多く掬い上げるために。酒精の狂信者は樽の迷路を、夢見るように駆けていった。
百年樽の区画は、甘いはずの香りが薄かった。
杯が掲げられるたび、湿り気が吸い上げられ、肌がちりりと乾いていく。葡萄が育つのに良くなさそうな空気――その中心で、『旱の眷属たち』が乾いた身体を軋ませ、怪しげな呪杯を揺らしていた。
蜂蜜色の髪を揺らし、睫毛の奥にブルーベリージャムを溶かした瞳を細めた|人形《ビスクドール》――蓬平・藍花(彼誰行灯・h06110)は、ふむ?と首を傾ける。可憐な顔立ちの割に、手元のグラスを離さない。
「…あの子たちが、悪さをしているのかしら…?」
頭の上に乗る、こぱんだ妖怪・|小蘭《シャオラン》へ囁く。空のグラスを軽く揺らすと、こぱんだは珍しくやる気の顔をした。くるり、と身を翻し――觔斗雲へ跳び乗って、異形の群れへ一直線。
「|小蘭《シャオラン》、遊んでおいで…?」
|蘭舞《ランノマイ》。
小蘭は小さな躯体をひょいひょいと動かす。杯を蹴り上げ、腕を揺らし、乾いた胴をぽん、と叩くように跳ね回る。範囲に散る攻撃は遊戯のようでいて、眷属たちの呪杯のリズムを崩していく。次の瞬間――ひび割れた胴から、とろり。赤い滴がこぼれた。
藍花は目を瞬かせる。原理は分からない。けれど、こぱんだが頑張ると――葡萄酒がこぼれる。ならば答えは簡単だ。
「小蘭、がんばってー…♪」
応援しながら、藍花はちゃっかりグラスを傾ける。甘く、濃く、胸の奥がふわりと温まる。さらに近くにあった瓶へも詰めていく。先ほどは少し忘れかけていたが、ここに来た理由を思い出したのだ。
その横で、もう一つの“答え”が轟音を連れて来た。
「お前たちかー! 私の……じゃなくって、みんなが楽しみにしてたワインを奪い取ったのは!」
サン・アスペラ(ぶらり殴り旅・h07235)が、酔いの勢いそのままに前へ躍り出る。くんくん、と鼻を鳴らし、眷属のひび割れた胴を見て笑った。
「へぇ、体内にたっぷり溜め込んでるみたいだね? そういうことなら話は早い! ぶん殴って! 全部全部吐き出してもらうよ!」
初手から全力。サンの拳が唸りを上げた。
「陽が昇る前に終わらせる!」
サン式コンボアーツ《|黎明《ドーン》》がお見舞いされる。前方一直線を薙ぐ全力パンチが、眷属をまとめて吹き飛ばした。乾いた殻がきしみ、裂け目が走った瞬間、赤が噴水みたいに弾ける。間髪入れずに、貫通効果の無差別攻撃――拳の嵐が叩き込まれた。
「どりゃああああ! わはははは! まいったかー!」
思いっきり殴るタイプのエルフである。重ねて酒精も入れば手加減ができるはずも……というより暴走しているに近い。それでも狙いは敵から逸れないのは歴戦の経験が成せる技。飛び散る葡萄酒のシャワーが、サンの肩と髪を濡らす。彼女はそれすらご褒美みたいに笑い、さらに前へ。乾きの空気は一瞬だけ後退し、代わりに百年の芳醇が広がった。
藍花は瓶を抱えたまま、ふわりと一歩、影の濃い場所へ寄る。小蘭が觔斗雲で低く旋回し、杯の列の“中心”へ跳び込んだ。二度攻撃の連なりが、輪のように広がる。
吸い上げる波動はほどけ、眷属たちの体内で溜め込まれていた祝福が一斉に暴れ出した。ひび割れの奥で赤が波打ち、内圧が高まる。乾いた器はもう、祝福を抱えきれない。
「小蘭、いいこ…♪」
藍花の声が甘く落ちるのと同時に、サンがにっと笑って踏み込んだ。
「まだ残ってる分も、全部全部吐いてもらうよ!」
サンの拳がもう一度、空気を裂いた。直線の一撃が最後列を薙ぎ、震脚が床を揺らして逃げ場を奪い、無差別の貫通が残った殻の芯まで叩き割る。殴るたび、乾いた器がほどけるたび、葡萄酒が噴き出しては流れ出す。床の赤は薄まらない。今度は吸われない。吸い上げの波動そのものが、途切れていく。
やがて――最後の一体が、ひび割れの向こうの赤を出し切った。杯がからん、と乾いた音を立てて落ちる。
代わりに、酒造庫いっぱいに満ちるのは、完熟の芳醇と木樽の甘い温度。奪われていた祝福が、ようやく空気に戻ってきた。
「終わった終わったー!」
サンは葡萄酒の雫を浴びた髪をかき上げ、満面の笑みで胸を張る。
「ね? 私たち、最高にいい仕事したよね!」
乾きは去った。祝福は戻った。
床を流れる赤は、誰にも奪われず、ただ甘く香り立つ。藍花は瓶を抱え直し、小蘭の頭をそっと撫でた。
「……お土産、いっぱい。えへ」
サンは樽の迷路の先へ、鼻歌まじりに歩き出す。戦いの終わりは、次の乾杯の始まりだ。
第3章 ボス戦 『剣聖天女『シルメリア・ゴースト』』
⚫︎
奥で、光がひとつ瞬いた。
硝子が擦れるような澄んだ音。次いで、空気を切り裂く細い熱。
壁に刻まれた年代札の金箔が、焼ける寸前にきらりと反射した。
樽の列の向こうに、長い黒髪の影が滲む。東洋の美女を思わせる切れ長の瞳、整いすぎた輪郭。
彼女の視線が、床に残る赤い流れへ落ちる。砕け散った『旱の眷属たち』の名残だった。乾きの波動が失われた場所にだけ、葡萄酒の芳醇が濃く残っていた。
「……ほう。出し切らせたか」
淡々とした声に、どこか感心の響きが混じる。計算外を数えるのではない。結果を受け取り、次の手に組み替える声音だ。
――目をつけていたのは、あの異形の性質だった。
降雨から流水、漂う湿気、生体内の水分に至るまで、一帯の“水”を吸い寄せ、奪い去る。ならば、水ではないもの――仙術機械の源たるインビジブルすら、同じ理屈で吸い上げられはしないか。吸う器があるなら、吸われる側を“液”へ見立てればいい。奪う杯を、収奪の装置へ。
『雷素崩壊』以降、彼女たちは常にインビジブルを汲み続けてきた。だが低層は尽き、高層まで都市を積層せねばならぬほどに状況は逼迫している。この星の限界が迫っている。だからこそ、伝説の『楽園EDEN』へ侵入し、インビジブルを収奪する――そのための試作だった。
だが、目の前の能力者たちは“試作”ごと叩き潰した。
シルメリア・ゴーストは静かに息を吐く。失望ではない。むしろ、かすかな笑みが唇の端に浮かぶ。
「……見事だ」
レーザー拳銃「ガバメント・ゴースト」が、彼女の手の中でかすかな虹色を帯びる。銃口は下がったままなのに、周囲の温度だけが上がった。撃つ準備ではない。撃てるという事実を、ただ置く。
背の玻璃骨格が、翼として確かに広がった。微かな羽音。硝子の羽根が空気を裂き、酒造庫の影を持ち上げる。彼女は一歩も踏まずに高度を取り、樽の迷路を見下ろす位置へ。
次の瞬間――熱が閃いた。壁際の樽の金具が赤く照り、空気の層が焼ける匂いが立つ。葡萄酒の甘さと、焦げた世界の匂いが混ざり合う。
「感心した。だからこそ――迎え撃とう」
剣聖天女『シルメリア・ゴースト』は、計画の終わりを戦いの始まりへ変えて、静かに引き金へ指を掛けた。
<MSからの補足>
剣聖天女『シルメリア・ゴースト』の撃破です。
こちらも戦い方はいくつかあります。正真正銘の戦いを挑んでもいいですし、対話やお酒の力を借りて退散させても構いません。皆様のプレイングをお待ちしております。
葡萄酒の甘い温度と、焦げた世界の匂いが混ざる中で、
――剣聖天女『シルメリア・ゴースト』は、玻璃骨格の翼を広げたまま宙に留まっていた。
「酒を奪おうとした黒幕はおぬしか、魔女殿」
「ふん」
フォルゴトン・シヴィライゼーション(忘れられた文明神・h09429)は、静かに杯を置いた。
怒りはある。だがそれ以上に、目の前の相手は“文明”の匂いがする。奪い、組み替え、継ぎ足してなお前へ進む者の匂いだ。
「文明の争いは文明同士で……と言いたいところだが、わしは少しばかり依怙贔屓する性質でな」
このまま引くならそれでも良し。
だがきっと彼女は、引けぬ理由があってこそここにいるのだろう。
であれば、フォルゴトンは目の前の神秘とも言える女に目を細める。
――理由を作る。
呼吸を整え、移動せず三秒。
|文明の火《シヴィライゼーション・シード》。
掌の傍に、ちいさな火が灯る。攻にも防にも、反射にも目潰しにもなり得る“文明の火”。ひとつ、またひとつ。酒造庫の影に、暖かな点が増えていく。
『文明の種を一粒、君に与えよう』
シルメリアの視線が、火の軌跡を追った。
戦闘になるかと思ったが、フォルゴトンは全く戦闘を仕掛ける様子はなく……。
「その脊椎のような器官、実に興味深い。もしや魔女殿の√では、それを実用化できているのか?」
「……は?」
視線が向かうのは彼女自身――脊椎のように連なる器官へ、フォルゴトンの視線が刺さる。
玻璃骨格。翼状変形。外界の情報と神経束を結びつける、空想科学の文章芸術で語られるような技術……否、これは実用だ。まさに異なる文明、文明神の興味が泉のように溢れ出る。
「是非とも君の√へ案内してほしいものだ」
「可笑しいことをいう男だ。|楽園《EDEN》にいながらも崩壊する私の世界に来たいだと?」
シルメリアは口元に、かすかな笑みを浮かべた。感心か、挑発か。銃口が下がることはない。熱線が走る。フォルゴトンは動かない。創った火は揺らめき、動揺の影を映したかのように燃えた。
宙に留まる剣聖天女『シルメリア・ゴースト』は、玻璃骨格の翼をひとしずく揺らし、虹色の銃口をこちらへ向けたまま――引き金の指だけは、まだ決めきれていない。
そこへ、気配が“沈む”。
和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)は床に落ちた赤を踏まぬよう、静かに歩を止めた。周囲を自身の気配で満たし、无二打の体勢を取る。『|穢土潛行《エドセンコウ》』――肉眼以外の探知を閉ざしながら、それでも先に差し出したのは刃ではなく盃だった。
「そんなに急いて撃っては、搾り取った酒が勿体ないではないか」
頑丈な盃の底で、百年に一度の出来の葡萄酒がとろりと揺れる。
血と熱で散らすには惜しい香りが、薄闇の中で花開いた。
「構えを取る前に、一口どうだ。奪うために来たとしても、味わうことまで捨てる必要はあるまい」
銃口が、わずかに跳ねた。
撃つためではない。香りに反射した――そんな揺れだった。シルメリアの切れ長の瞳が、盃の縁に吸い寄せられる。喉の奥が乾くはずの場所で、彼女は一瞬だけ唇を閉じた。
隣で、六合・真理(ゆるふわ系森ガール仙人・h02163)が一歩前へ出る。肩の力を抜いた笑みのまま、しかし足の置き方は武のそれだ。
「はじめまして、異界の同輩『剣聖天女』。わしは『六合真人』、こっちの世界に住む仙人だよ」
真理もまた杯を掲げ、場の空気を“宴の始まり”へ寄せる。
「ほう… この世界にも仙人がいるとはな」
「出会い頭に殴り合うのも悪くは無いが、折角の場だ。まずは言葉と杯を交わそうじゃないか」
シルメリアは真理の言葉に目を細める。
「……貴様らは、何を企む」
「企みではない」蜚廉は盃を揺らさず答えた。
「我としては、貴重な仙人の話にも興味がある。酒を注ぎ分けながら、交わせる限りの言葉を交わそう」
真理が続ける。柔らかい口調の奥に、神仙としての理が立つ。
「お前さんが何を思って此方に攻め入るか、知りはしないが、よその連中と変わりはなかろう」
「しかし神仙なれば知っての通り、何事にも天が定めた命数というものがある」
「……。」
シルメリアの銃口が、ほんの少しだけ下がる。
「滅ぶる定めを良しとせず抗うのは、分からんでもない。だが、助けを求める道をなぜ捨てる? 『最も豊かな最も弱い世界』と額面通りに見ちまったかい?」
翼が開き、逃走ではなく間合いの調整として空気を裂いた。迷いが、そこに見えた。
目の前の二人は、敵か? それとも――そんな動揺。
蜚廉は盃を差し出したまま、言葉を置く。
「己の住む世界のために藻掻く姿を、悪いものだとは思わんさ。誰しも生きている限り、その意志を通そうとする権利はある」
沈黙が落ちる。百年に一度と言われた葡萄酒の香りだけが、ほんの一拍遅れて満ちた。
シルメリアは盃へ手を伸ばさない。
代わりに、ガバメント・ゴーストの銃口が、蜚廉の胸へわずかに照準を合わせる。
引き金に掛かった指は外れない。――そのまま、反対の手で、空中に“器”を作るように掌を開いた。
玻璃骨格の一部が、薄い皿のように形を変える。即席の杯。彼女はそれを受け皿にし、蜚廉の盃から注がれる赤を一滴も逃さず受け取った。
真理は愉快そうに目を細め、自分の杯を少し持ち上げる。
「よし。乾杯といこうじゃないか」
蜚廉は頷き、短く息を吐いた。
「乾杯」
シルメリアは最後まで警戒を解かぬまま、杯を唇へ運ぶ。銃は下げない。翼も畳まない。――それでも、ほんの一口。
液体が舌に触れた瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれた。
まず香りが、骨の奥へ滑り込む。完熟の果実味、樽の眠り、時間の重なり。次いで、光のような甘みが広がり、舌先の警戒心をほどく。余韻に残るのは、瑞々しさ――奪い取ったはずの祝福が、奪われずに、なお生きている。
シルメリアは喉を鳴らさない。だが、呼吸が一瞬だけ乱れた。冷たい仮面の縁が、ほんの僅かに綻ぶ。
「……これは……」
言葉が続かない。続ければ、感動だと認めてしまう。だが舌は嘘をつけなかった。彼女はもう一口だけ、確かめるように含む。
その瞬間、ほんの短い時間だけ――ガバメント・ゴーストの銃口が揺れた。
真理が静かに言う。
「飲めば分かる。奪うより、守る方が難しい酒もあるんだよ」
蜚廉は淡々と、しかし確かに告げた。
「焼き払っていれば、味わうことなど出来なかったであろうよ」
シルメリアは杯を下ろし、赤の残光を見つめる。警戒は消えない。引く気もない。けれど、確実に――胸の奥で何かが揺れた。
彼女は小さく笑った。嘲りではない。理解できないものを前にした、刃の笑みだ。
「貴様たちの言うことも一理ある。だが……」
次の瞬間、翼が鳴る。銃口が上がる。だがその引き金の指は、さっきより僅かに重くなっていた。
杯ひとつ分の間が、彼女の計算へじわり染み込み始めていた。
百年樽の区画に満ちるのは、葡萄酒の甘い温度と、焦げた世界の匂い――その狭間で、玻璃骨格の翼が鳴った。宙に留まる剣聖天女『シルメリア・ゴースト』は、虹色の銃口を構え直し、こちらの呼吸を量っている。
「綺麗なおねーさんきた! ハピ」
野分・時雨(初嵐・h00536)は、ふらりと笑って手を振った。
頬は上気し、目はとろり。今の彼は、ご機嫌な酔っ払いである。
「さて、ワインは取り戻せたことだし……」
その様子を見て、カナトは「そろそろ落ちる頃合いなのだろう」と後輩を見やった。
「酔っ払い妖怪の相手はしたくないし〜で、帰ろうかなァ……やっぱりダメ?」
緇・カナト(hellhound・h02325)は、軽い調子で肩をすくめる。
「帰っちゃダメ。酔っ払い妖怪じゃなくて、綺麗なおねーさんの相手してください」
「何をごちゃごちゃ話している。私を倒しに来たのだろう?」
「いや、どっちかっていうと飲みを……」
返事の代わりに走ったのは、細い熱――熱線。眩しくて、見えない。時雨は目をしぱしぱさせた。
「……眩しくて見えない! 物理的に! ぼくが酔ってるせいかもしれません」
とはいえ、酔っていても身体は闘い慣れている。
霊的防護が薄い膜となって肌を撫で、時雨はひゅっと距離を取る。
足元の赤い流れを蹴らぬよう、樽の影へ滑り込んだ瞬間――空気が軋む音と共に、金剛杭が展開された。
『未だ悟るに能わず』
複製された複数本の|金剛杭《プルパ》が、一斉に、一直線に――飛ぶ。数を増した分だけ狙いは鈍るはずなのに、弾幕は言い訳を許さない。銃の虹が閃き、玻璃の翼が翻り、熱線が杭を弾く。
「くっ……!」
だが、弾き切れない。ひとつ、ふたつ、かすめた瞬間、空が鈍く鳴った。
「強くて綺麗って、すごいね~……」
時雨は感心したように呟き、どこか満足げに笑う。手元には|まだ《・・》葡萄酒がある。
乾杯したい、と言いかけて――胃がきゅ、と捻れた。
込み上げてくる酸っぱい感じ。思考が鈍り、視界も歪む。ああこれは……。
「……悪酔いして、気持ち悪い……一気に飲むものじゃなかった。飲み放題だったからさぁ……」
ふらり、と壁に背を預ける。
「ぼく、休憩します。ワインはおねーさんにあげます。……ワインでおなかいっぱい」
牛さん、休憩。――そして最後に、無責任で優しいエール。
「カナトさん頑張ってください」
「えぇ? あのくらいで悪酔いする?」
揶揄うけれど、カナトの視線は宙に浮く天女から外れない。
「剣聖天女って呼ばれてる存在らしいねェ。初見だけど噂なら予々〜」
レーザー拳銃、光る骨格。SFみたいで――どこか工芸品みたいでもある。
「七宝でも目指してそうな……あと、どこかしらの水の精霊にでも似てる? アムリタって酒でも知ってたら分かりやすいケド、まぁいいか」
葡萄酒の香りに満ちた蔵で、カナトは薄く笑った。
「この世界の葡萄酒の香りは……お気に召さなかったかい?」
――これは不死の酒ではないみたいだよ? と続けてやる。
答えの代わりに、虹の銃口が動き、熱線が走る。
樽の金具が赤く光り、空気が焼ける匂いが増した。
「オレも銃は得意だけど――此処は何となく、こっち」
カナトは携えた|手斧《Blood》に、蒼焔を纏わせる。青い火が、影を噛むように揺れた。
『其の焔はすべてを焼き尽くす、』
|黎の禍い《ラグナロック》。
蒼焔を帯びた斧が、二度、円を描く。範囲に咲く焔は、熱線よりも逃げ場を奪う。壁のように立ち上がる青い火が、樽の迷路の通路を区切り、シルメリアの軌道を選ばせた。
「高鬼ごっこでもするとしようか? その高そうなプライドをへし折らせた方の勝ち!」
「見くびりおって……私が簡単にやられると思うな」
撃ち込まれた金剛杭の残響へ、追撃の蒼焔が重なる。硝子の翼が翻って、熱線が焔を貫こうとする。だが焔は壁であり、縄であり、遊戯のルールだ。焦げた匂いと葡萄酒の甘さが混ざる中、天女の呼吸が、ほんの一拍だけ乱れた。
樽の影で時雨が「うぇ……」と小さく呻き、指先でゆらゆらと手を振る。休憩。撤退ではない。
カナトは笑いながら、もう一度斧を構えた。
「ほら、見てよ。焔の壁のほうが熱線よりも優秀でしょう?」
子供のように無邪気で、残忍さを垣間見せる二人に、天女は動きと体力を確実に封じられるのだった。
百年樽の区画に満ちるのは、葡萄酒の甘い温度と、焦げた世界の匂い――その狭間で、剣聖天女『シルメリア・ゴースト』は宙に留まりながらも動けずにいた。
玻璃骨格の翼、その付け根と影の軌道を、複数の|金剛杭《プルパ》が縫い留めている。眩い楔は「逃がさない」と世界に命じるように静かで、翼がわずかに震えるたび、きい、と乾いた音を返した。
そこへ、ふわり、と甘やかな香りが一段濃くなる。
蓬平・藍花(彼誰行灯・h06110)が、ころころと楽しげに笑いながら歩み出たのだ。
蜂蜜色の髪を揺らし、蕩けきった藍色の瞳を細めて、芳醇な雫がたっぷり揺れるワイン瓶を大事そうに抱える。もう片方の手では、いまだ勝手に満ちていくグラスを軽く揺らし――戦場のただなかとは思えないほど、酔っ払いの仕草で。
「この場に|その子《武器》は……無粋、だと思うのよ……?」
ふにゃり、と言葉尻まで甘い。だが、視線はまっすぐにシルメリアを捉えていた。
「――“|命の水《お酒》”が欲しいのなら……一緒に飲みましょ? 美味しいよ……?」
シルメリアは睫毛の影で瞳を細めた。
「……近づくな」
拒絶の形は崩さない。だが――抵抗の気配がない。翼は杭に固定されたまま、暴れるでもなく、銃口も撃ち出すほどには据わらない。藍花はそれを確認するみたいに、唇の端だけで笑う。
「うん。近づきすぎない」
藍花は瓶を抱えたまま、そっと片手を伸ばした。小さな指先が金剛杭の根元に触れる。冷たいはずの光が、触れた瞬間だけぬくもりを帯びたように見えた。
「……抜くね。痛いの、やだもの」
すぽん、と一本目が抜ける。
固定が解けた翼が、びくりと跳ねた。藍花は驚かない。むしろ「よしよし」と言うみたいに、グラスを揺らして香りを散らす。二本目、三本目。抜くたびに楔の光が薄れていく。藍花はそれを見て、目を丸くしてから、嬉しそうに頬を緩める。
最後の一本を抜くと、玻璃骨格の翼がふわりと広がり直し、宙に留まるための本来の角度へ戻った。動ける。逃げられる。戦える。――その条件が整ったのに、シルメリアはすぐには動かなかった。
「退け。私は――」
「ね。この場は、お酒を楽しむ人たちの場所、だよ?」
藍花は瓶を抱き直し、胸の前で守るようにして笑った。
「せっかくの香り、焦がしちゃだめ」
足元で、ふわり、と翼の影が増える。
こぱんだ妖怪・小蘭はさっきまで頑張ってくれていた。戦う気概など一欠片も見えない主人を足元から見上げたのち、疲れたから~と主の頭へ飛び乗った。……代わりに顕れたのは、翼を持つ妖精猫の珠花――|妖精猫の円舞歌《フェアリーズ・ワルツ》が呼び出した小さな守り手だった。珠花は宙を歩くように藍花の肩へ寄り添い、呆れ顔で「にゃ」と短く鳴く。
藍花は、そんな珠花を指でつん、と撫でてから、右へ左へと視線を揺らした。
「せっかく飲むなら……おつまみも? ね?」
次の瞬間、どこからともなく塩気の控えめなチーズと、薄い生ハム、焼き目の香ばしい小さな炙りが、まるで当然みたいに並ぶ。
「あ、出てきた…♪」
藍花は一片を摘まむと、シルメリアへ差し出した。
「はい、あーん」
「……っ」
銃口が、わずかにぶれる。撃つためではない。理解できない行為を前にした動揺だった。藍花は気にせず、自分の口にも放り込み、んまんま、と満足そうにグラスを傾ける。
「さっき飲んだ白が美味しかったの。あの辺で飲んだやつも、また飲みたい……」
言いながら、藍花のグラスの液色がふっと淡い黄金に変わる。柑橘の香りが立ち、白い花の余韻が、焦げた匂いをやさしく塗り替えていった。
シルメリアは、動かない。動けないのではない。動けば、この妙な間を壊すと直感しているようだった。彼女の世界は逼迫している。低層のインビジブルは尽き、高層へ積層し、限界が迫る。だからこそ奪う。だからこそ引けない。――そのはずなのに。
藍花は、にこり、と柔らかく笑う。
「ねえ。欲しいなら、奪わないで。分けるの。だって……お酒って、そういうものだと思うのよ」
そして、珠花へ小さく囁いた。
「美味しいお酒を気が済むまで飲んだら……お家に帰ろう? ね?」
珠花の瞳が、きらり、と縫い針みたいに光る。猫は踊る。鋏は謡を鳴らす。見えない縁の糸が、樽の迷路の空気をすべり、誰も傷つけない形で困難の結び目を探し当てた。
「乾杯して。飲んだら、帰ろう。……また、会える糸も紡いで」
刃の天女は、最後まで警戒を捨てないまま――それでも、唇に触れるだけの量を受け取った。白の香りが舌にほどける。先ほど口にした百年の赤の余韻が追いかけてくる。奪った味ではない。守り抜いた味。分け与える味。
シルメリアは、銃を構え直す代わりに、翼をたたむ。
奪うではなく、分ける。その考えはシルメリアには無いものであり、受け入れるべき概念なのかすらわからなかった。
ーーーこの世界は自分の想像とは違う何かが、ある。
「貴様らは、私の想定を超えている。……次に会う時、同じ茶番が通じると思うな」
「うん。次も、美味しいの用意する」
藍花はにへら、と笑った。
「絶対ね」
玻璃が擦れる澄んだ音がして、剣聖天女『シルメリア・ゴースト』の姿は淡く消える。
残されたのは、葡萄酒の香りと、ほどけた焦げの匂い。
珠花が遠い目で「にゃあ」と鳴き、藍花は瓶を抱え直して、満ち続けるグラスを見下ろした。