百鬼封鞘~落花と白雪の刃~
●封印の宮~百鬼の鞘~
強く在りたい。
強くなければ。
渦巻く少年の思いは優しき慕情からであったが、厳しき現実に打ちのめされた者の叫びでもあった。
名を颯真といった。
颯真の人生は半人半妖である不可思議なほどに美しい幼馴染みの少女、桜葉と共にあった。幼い頃から共に遊び、共に学び、時間を過ごす。次第にふたりには兄妹のような絆が芽生え、そして次第に恋心へと育っていった。
だが桜葉の父親は武人だった。この次代の流れに逆らう巌のような武人の精神を以ており、自らの認めた強き男でなければ桜葉の交際相手としても許さぬと。
それは人妖の父ならではかもしれない。儚きひとであった母を守り、その血筋を守ろうとする不器用な慈しみだったかもしれない。
だからこそ颯真は、自らが競い合う武には馴染めないと知りつつも、葉桜の父の元で強く在ろうとした。苦心に向き合い、痛みを受け入れる事は難しくない。
それより誰かを討ち倒す事のほうが、苦痛を与えてしまう心に辛かった。そういう優しい少年なのだ。
だからこそ颯真は強くなれなかった。いいや、武術でいえば偶然であれ、或いは幸運であれ師範から勝利を捥ぎ取る程だ。
並々ならぬ鍛錬と、葉桜の慕情故だろう。
だが、そんな大好きな葉桜の父を前にすれば颯真の優しさは隙だと喝される。ついには葉桜の父親との試合に勝利しなければ娘に近付く事も許さないと断じられる。
武術の腕の差は歴然。人間である颯真と、人妖では産まれ持った身体の差とてある。
愕然としながら、純真な優しさを隙と言われて苦しみ、悩み、それでも葉桜の好いた少年であろうと颯真は惑っていた。
惑っていたから、そこに行き逢う。
――しゃりん、と鈴の音が聞こえた。
「あなや、悲しき不幸。その愛の成就、わっちに手伝わせてくれやしませんか」
気づけば不可思議な宮へ迷い込んでいた。
無数の刀剣に槍、斧の棍。あらゆる武具が封じるように祭られている。
「わっちの剣術を縛るその刀を、わっちに渡してくれるのなら……何時かのあの日、古妖の鬼が身につけた居合の奥義を語らってくれましょう」
対価は不要。
何故なら少年の双眸は、優しい愛に溢れているから。
ああ、そのような眼差しで強さに惑うとは。古妖である女は恐ろしいものであるが、同時に定められた星の運命をねじ曲げる事を求めるものである。
ならば優しさと慕情が招く悲劇。この手で、この刃で断たせてご覧いれましょう。
これは戯れなれど――確かにこの身は恋を知る者故に。
「先駆けに咲くは梅なれども、これは鞘より刃を零す居合の秘伝」
名を急立会・落花の刃。
僅かに戸惑う少年に、女はくすくすと笑って告げた。
「何しろ、既にわっちはその優しさ故に己を呪うような情念に、封印をとかれておりんす。……今はただ、幸福を届けてさしあげましょう」
遠い悲しさを思い出し、女は愛情という懐かしさを抱いた双眸を揺らす。
●星詠みは語りき
「集まって頂いて有り難う御座います、皆様」
物静かにお辞儀をするのは静峰・鈴(夜帳の刃・h00040)。
これは少しばかり不可思議な、不幸を確かに捉えていない星詠みなのだと告げる。
「確かな予兆ではありません。でも微かな、古妖の影を捉えました」
古妖はすべからく封印すべし。
その論に異を挟むことはない。いずれ血に染まる凶念を持つのなら、多少の例外はあっても封じるべき。
今はまだ、その影しか捉えていない。
もしかしたら、今回は何も不幸を起こさないかもしれない。
だが、続く誰かが犠牲になる前に。
「どうか皆様の力をお借りしたいのです」
予兆として影を捉えたのは、とある新年とふたりの婚姻を祝う祭りの会場だ。
奇妙建築として建てられた雅なる宮である。
雪の降りしきる冬の夜。されど、季節を超えた美しさが織り成す幻想の領域であった。
周囲には尽きる事のない桔梗が咲き誇り、螢のような光もふわふわと漂って柔らかく周囲を照らす。
牡丹雪は降り注ぐのに。
螢の光が、桔梗の色が、優しく周囲を包み込む。
寒さばかりは、消え去ることはないけれど。
それは宮の外もであるが、内もである。
奇妙というが、むしろ神秘。自然と建物の調和は溜息をこぼす程に美しく、桔梗の青紫の花びらは楚々と揺れる。
冷たい風は宮の奥に続く、無尽に溢れて流れる滝と池から流れ込んでいるのだという。そこまた、月灯りと星に照らされれば幽玄なる光が美しさで周囲を満たしている。
そんな田舎の地方の夏祭りではある。
が、この宮を解放するのは久しぶりだという。何でも、地方有力者の家の半人半妖の娘が、昔からの許嫁との婚約を許された祝いであると。
何でも人妖である父親の出した『自らを倒せ』という難題を、まさに一刀で解決してみせたという人間の慕情の強さである。
だからこそと満ち足りた顔で人妖の父親は笑い、祭りを用意している。酒も配っているが年齢は確認され、満たないのであれば夏果物より絞ったジュースも振る舞われていた。
裏メニューで成人には桔梗の酒、子供には桔梗の甘水もあるというが、これは少しばかり不思議なものである。
「まずはそこで、ゆるりとお祭りを楽しんでくださいませ。賑わうようなものは何も在りませんが、奇妙建築の見せる不可思議で神秘的な美しさと風雅なる雰囲気は何にも代え難いでしょうから」
螢のような光に照らされた、無数の桔梗が彩る道と宮。
そこを散策するだけで、心で得られるものはあるだろう。
一方で古妖の影ではあるのだが……。
「恐らくは祭りの終わりに現れるとは思います。どのように、何をしてかは分かりませんが……刃が瞬くのを、星詠みとして視ました」
恐らくは相手も星詠みの力を持つ古妖。故に互いに予知しあい、見つからないようにと探り合って動いている。
「ただ私が視たのは、恐ろしい居合でした」
鈴が語る。
霊剣士として、星詠みとして、古妖の女が振るう剣理を微かにでも読み取り、伝えようとする。
「術理の極意は後の先。対峙した相手が動き出す僅かな機微を読み取り、攻めようとすれば攻めに意識が揺れた時に、守り、躱そうとすればその時にと虚実を見抜いて、抜刀を放つ技」
ひとの意識が移ろう刹那を捉える、鋭き居合である。動こうと考えた後に身体は動く。ならば、身体を動かす精神の揺らぎを捉え、確実にと斬り棄てる。
玲瓏なる刃であった。
明鏡止水の心境が為せる、神速を越えた剣理であった。
言うまでも無く間合いとて意味を為さない。一瞬で距離を詰め、先制を放つ歩法をも習得している。
長き時にて互いの血肉を喰らい合うように争った古妖の秘剣であろう。
「対峙して戦うのであればどうぞお覚悟を」
ただ祭りに興じるだけでれば、そんな事も気にせずともよいのだろう。
もしもの為に。
そして、誰かの為に。
星詠みとして鈴は静かに、√能力者たちを見送った。
――これがただ、幸いなる夜の話でありますようにと。
第1章 冒険 『花の迷い路』
● 断章 ~桔梗の宮祭り~
しん、と柔らかな雪が降り注ぐ。
雅なるこの宮は、ただひとの心を震わせる為にある。
新年の祭りの時以外は一般人の立ち入りを禁止しているのも、その不思議な美しさを守る為だった。
床に、壁に、天井に。
麗しき桔梗の花たちが咲き誇る。
だが、それらは無秩序に広がるのではない。
自然とは建造物の調和。建物を飾りながら、しかし華美へとは至らない。
風雅さを味合わせるような青紫の花びらたちである。
奇妙建築と言うが、これは神秘の為せる風景だ。古びることのない建物の床や壁に柱、尽きる事を知らず咲く桔梗の慎ましい美しさ。
天井から吹き抜ける風に揺れる姿は、優しくも切なげに微笑む貌のよう。
加えて数え切れないほどの螢のような光が溢れ、柔らかく周囲を照らしている。
それがこの祭りの舞台。
奥へ、奥へと辿れば涼やかな気配の源である冬月と水の宮に辿り着く。
今はただこの楚々たる花を愛でよう。
まるで日常に咲いた幸福のような、この穏やかな色彩を。
ちりん、と鈴が鳴る。
しんしんと雪が降り積もっていく。
どうやらこの新年のお祭りでは、願い事を書いた小さな紙と鈴を紐で桔梗に結い、まるで短冊のように捧げるらしい。
叶うかどうかは神のみぞ知る。
けれど。
ちりん、ちりんと鈴が鳴れば。
その数だけ思いがあるのだと、願いがあるのだと感じられるだろう。
なら、その全てに祝福あれと桔梗は咲く。
婚約の叶った颯真と桜葉は緩やかに進んでいる。
祝いを云っても、剣や強さの事を問うのは無粋だろう。幸せなひとときに水をさすのは悲しいものだ。
加えてふたり。どう見ても強さに生きるものではない。
穏やかに、優しく、何かを育むことに向いている様子だった。
愛の強いふたりなのだ。
古妖とてそれを叶えてあげたくなるほどに。
そうして時は過ぎていく。
今はまだ、幸せを綴りながら……。
静かに雪の降り積もる中。
ぽてぽてと走る少女の姿があった。
まだ幼くも、美しい風貌である。
和の風雅さを吟ずるような、巫の姫君たる姿。
長髪の色は艶やかなる月白であり、真白き雪の裡でもきらりと輝いている。
肌も透けるように白く、黒い双眸ばかりが鮮やかなコントラストとなっていた。
月に愛され、月灯りに抱擁された巫女、静峰・梢(月光の牙・h09074)は神秘的な姿で雪の上を駆ける。
貌に浮かぶ情緒は幼げながらも一途なものであった。
緊張と興奮。星詠みである姉様より話を伝え聞いて、強敵との戦いの予感を抱いているのだ。
冷たくなった指先はきゅっと握りしめて。
ただ真っ直ぐに、真っ直ぐにと走ろうとする。進もうとする。
けれど梢は座敷で隠されて育った。今まで雪の上を駆けた経験がないから、ぽてぽてと、まるで子犬が飛んで跳ねるように走るのである。
――姉様、梢は行ってまいります!
期待して信頼されている。
そんな自分はきっと何か出来て、誰かの幸せに繋がれる。
梢はそんな夢を見る、まだまだ少女だった。
どれほどに務めというものを教えられても、無垢な少女であった。
全ては静かな月に|愛《狂わ》された娘の人生。
もう既に始まり、梢の心のままに巡り、いずれ何処かへと辿り着く。
今はただ、永久に桔梗の咲き誇る宮に辿り着けいて、ふわりと立ち止まるのだった。
「美しいです……ね、……」
誰かに云うように呟き、けれど独りであると思いだした鈴はむんっと心域をひとつ。
緊張と風の冷たさで固まった頬をぺちぺちと叩き、ふうと暖かな息を吐いた。
温もりを自分の奥で感じて、ふわりと微笑む。
まずはお祝いを。
これからをお幸せにと、ちゃんと笑顔で言うのですと頷いて扉を潜る。
梢の唇から零れたのは感嘆の声だった。
「うわぁ……すごい!」
雪が降り積もる中、屋敷と宮の折り重なったような世界では桔梗の花が咲き誇る。
真白に青紫。
楚々として美しき色が、季節を違える筈の色が伴う場所。
まるで夜と月が、黒と白が共にあるように。
伴に在ることが出来ないものはないんだよと。
優しく囁く、幻想と神秘の領域。
花びらが雪風に揺れ、白ばかりで寂しくないようにと青紫の花びらが微笑む。
螢の光もちらちらと舞っている。
だから薄暗いというとこはなく、降り積もった雪がそれを反射してきらきらとした光景を作りだしていた。
「なんというか、荘厳なお屋敷ですね」
風が吹けばちらちらと雪が相まって、少し肌寒いほど。
ふるりと身を震わせる梢。祝いの席であるのだから、もこもこと幾つもの着込んでしまうのは憚られたものの。
「一枚羽織って正解でした」
冬の寒さ、厳しさ。
それをまだよく分からずとも、ひとつひとつと世界を歩む梢の一歩だった。
雪の飢えには確かに足跡が残っている。
美しき景色に揺れる桔梗の花びらが、よく出来ましたと歌っている。
「ええ、梢はちゃんと出来るんです。考え、考えて、試して。無茶なことも、してしまいますけれど」
それでは悲しむひとがいるのだと分かる、優しい心の持ち主だった。
誰かの幸せに繋がりたい。だからまずは新郎新婦に挨拶をしようとする梢だけれど。
ふと目にとまったのは願掛けの為の場所。
ちりん、と鳴る鈴は美しい音色を雪降る中で続けている。
「桔梗の花に願いと鈴を、ですか」
さくさくと雪を踏みしめて梢が近付き、じっ、と見つめていく。
どれだけのひとの願いが託されているのだろう。
桔梗の色に、鈴の音色に。
そう思うと梢もふわふわと笑顔を浮かべてしまう。
心が温かくなる。願い、祈り、どうか叶いますようにと、この場に立った皆の気持ちに触れた気がして。
「なんだか、可愛らしいですね」
そして、祈りを託すということにひとつ、梢自身も乗ってみようという気持ちが。
少しだけ可愛らしい、普通の年頃の少女のようになれた気がして。
「七夕飾りに近いものでしょうか?」
巫の家系である梢は、教えられた知識を思い出して小首を傾げる。
が、季節を問わないこの神秘的な領域では常識など通じないのだろう。この場に在る神霊、土地神の話でも聞ければまた違ったとしても。
「今、お話を聞いて、お祝いをするべきは新郎新婦のお二人ですから」
だから小さな願いを桔梗と鈴に結んで、柔らかな足取りで奥へと進む梢だった。
紫とは高貴で上品な色とも言う。
ならばこそ引き締まる雰囲気もあって、きっと人生の幸せな節目に似合うのだろう。
いずれは美しくて、幸せな未来に。
そんな姿へとなれるように。ひとりではなく、誰かと共に。
そうなれたら嬉しいなと、淡くて柔らかな雪のような願いを鈴と桔梗に結び、真白の長髪を靡かせる。
雪よりも軽やかに。
風よりも速やかに。
ぽてぽてと雪に脚を取られたのは少しであっても前の話と、雪の上で走ることを覚えた梢は奥の宮へと進む新郎新婦へと笑顔と共に声をかける。
「とっても素敵です! ご結婚おめでとうございます!」
ぴくりと新郎である颯真が驚いたように見えた。
巫女姿の梢に明るく響くお祝いを告げられたのがびっくりとしたのか、それとも胸に微かに残るものがあるのか。
「有り難う。幸せになるよ、もっと素敵であれるように」
「はい、梢もそれを願っています」
ああ、きっと。
彼の情念が古妖の封印を、ひとかけらでも解いたことに後悔しているのだろうか。
ならば此処は自分の務めであると、梢は自らの腰に差す霊刀『鬼王丸』の重さを思いだした。
その刃の鋭さを、その刀身の重さを。
けれど、すぐにそれは心から消え去った。
梢に浮かぶのはひとつだけ。
――姉様も、私もいずれあのように……!
白無垢に身を包み、穏やかで幸せな貌で進むのだろうか。
愛しい誰かと共に。
ふるふると梢は首を左右にふる。
「自分のは、あんまり想像できませんが……」
ただ今は。
雪と桔梗、そして螢が織り成す柔らかくて、優しくて、静かな雰囲気に心を傾けて。
ちりん。
と風に鳴る鈴の音色と、幸せへと歩む足音を重ねるのだった。
しんしんと雪が降る。
その静けさに風雅な趣を感じることこそ、ひとの心であるのか。
真白き色が音を覆い尽くす。
その中を歩く男の姿があった。
鋭い美しさを湛える眉目秀麗な貌である。
男の姿を見て白刃を思い浮かべるのは、長い白髪のせいだけではあるまい。
眼鏡の奥にある金の龍眼。そこにひっそりと匂う気配がある。
まるで白梅の香りに似て、優しくも甘く。
されどひとに徒なすものを斬るという、龍の|威容《やいば》である。
男の名を天國・巽(同族殺し・h02437)と云った。
大罪を犯して天より墜ちて人の身となり、なおも長きに渡り古妖と斬り結んだ剣客である。
「ふ。鈴の奴もなかなか云うね」
煙管より馨しき紫煙をふかして、巽は宮へと向かう。
「対峙して戦うのであればどうぞお覚悟を、か――」
何とも楽しげに。
まるでよい歌に誘われ、乗せられたというように風雅ささえ感じる笑みを浮かべる巽である。
されど口ずさむは、やはり剣士の理であった。
「……その|必要《可能性》が無ければそも、俺達に声なぞ掛けるまいに」
つまる所、最後は斬る、斬られるの場となる。
その覚悟がある方よ、どうぞこの場へ。雪が降り積もる、静かなる死合いの場へ。
誰も語り継がず、歌うこともない剣士たちが対峙する場へと。
嫌はあるまい。刀を持つのであれば。覚悟なければ、そも聞きもするまい。
故に云うねと巽は云う。それほどの剣の遣い手があるというのなら、ましてやそれが古妖というのであれば、巽ほどの強者が退く筈などない。
むしろ今のように果敢にと進むのである。
刃も雪も、同じ冷たき白の色彩を持つと巽は心得ている。
どれほど美しくとも、触れたものの|温もり《いのち》を奪う死神の美貌のひとつである。
それが冬の情景、美しさである。今、まさに赴く死戦を彩るに相応しいだろう。
されど。
この宮においては、冬のみではないのだ。
さくりと。
雪を踏みしめ、宮の門を潜った巽が感嘆の息を零す。
「……ほう」
長きを生きる巽をして、目の前の神秘の光景は心を動かすものがあった。
雪風にふわりと揺れるは数多の桔梗。永久に咲き誇る青紫の花びらが、一色に染め抜いてしまう冬の寂しさを慰めている。
秋に咲く紫の気品。誠実あれ。清楚たれ。
そして変わらぬ愛を花言葉に歌う。
周囲を照らすは、儚き螢の光。
不変なるものはなく、全ては無常に散りゆく儚きもの。
されど巡り巡って、必ずやまた辿り着こう。次なる幸せに導こう。
白雪に桔梗、それに螢。
それぞれが神秘的な風景を織り成し、一枚の夢幻の姿を紡いでいる。
冬、秋、夏の風情を見て示す自然の三玉。
全てを並べて眺めることはなんとも言えぬ贅沢であり、ここが楽園めいた世界であるのかと錯覚するほど。
そぞろ歩く巽とて自らの情感が揺れ動くのを止められず、楽しげに煙管の先がゆるゆると動く。
「えらく贅沢な光景だ。長く生きてもこんな景色にゃそうそう出会うまい」
ある意味では、幸せや美しさを求めて辿り着いた場所なのかもしれない。
そして誰かひとりで秘匿して独占せず、綺麗な世界と道筋をと次の誰かに受け継がせ続けたものなのかもしれない。
儚いひとの命が見出した美しさ。
それを尊び、継承して失わせないという祈りの大切さ。
ふたつが今、この場を作っているのだと思うと巽の美貌にも緩やかな微笑みが浮かぶ。
新年の祈りを捧げる場所。
婚姻という人生の節目、自らの命をあなたのものに。あなたの命を私のものに。
そんな純粋な願いと約束と共にある場所なのだと、巽の胸に柔らかな温もりが宿るからこそ。
「さァて、ならちょいとひとつ、この場に足りねェもンを添えにいこうか」
奥宮へと行こうとする颯真と桜葉。新郎新婦のふたりに出会えば、ひとつ礼を見せると巽が発動させるは花天来訪――草花の香りを周囲に広げながら、白毛の牡鹿を顕現させる秘術である。
雪に隠れた牡鹿が桜の枝を寄越せば、巽は掲げた先に捉えてふたりへと渡す。
「冬、秋、夏、そしてこれで春」
雪、螢、桔梗の上に桜花の色を乗せ、凪いだ声色で告げる巽であった。
ただ心からの祝福を、神霊であった頃のように紡ぎ、届けるのだ。
「これより先の四季を共に越える二人に幸あれ」
幾たびと季節は巡り、過ぎ去ったものは影も残さず消えるであろう。
されど。
このひととき、この神秘の宮であったように。
例え見えずとも、幸せはふたりを包んでいるのだと。
新郎と新婦は驚き、しかし、今に足りない春の花を添えられたことに笑顔を浮かべる。ありがとうございます。その一言は巽の人生の中で幾度となく受け取ったものだが、飽きることのない言葉であった。
この宮を包む四季の美しさに劣ることなく、何時とて巽の心を満たすものであった。
そうして過ぎ去る新郎新婦から離れて、鈴を連ねた短冊たちを前に紙を手にする巽。
そっと人目のつかない場所にと、桔梗と鈴と共に結ぶのは白紙であった。
欠けていた四季の色を添えた風情を知る心とは思えない。
いいや、そんや優しさや雅さを知るからこそ何も綴らないのである。
此処で祈り、願うものではあるまい。
巽が今、胸に懐く欲と衝動は――落花の剣と相見えんとすること。
命と血を徒花と散らし、剣刃の鋭き光を交えること。
誰かが倒れ、誰かが生き残る。
それはあの若きふたりの、ふたりで進む幸福とは相対するものであるが故に。
剣に詠えば残るはひとりだけ。
されど、花に雪、螢という四季の情景を詠えば。
「悠久に続く。それがひとの美しさってもンかねェ」
変わらず凪いだ声色で、聞く者の心を落ち着ける声で巽は雪空に歌うように告げた。
今はまだ、刃を鞘に眠らせたまま。
巽が春を添えた四季の宴を、遠くからゆるりと眺めるのであった。
しんしんと雪が降る。
冷たさと、静けさばかりが満ちる冬。
だというのに、この奇妙建築の宮では季節外れの桔梗が青紫の色を添えていた。
決して寒さに小さくなるようなことはなく、楚々とした色で訪れるものを迎え入れる桔梗たち。
どこか夢のように現実感がなくて。
だからこそ現実ではありえない神秘さが満ちる領域だった。
精霊に祝福されたエルフの少女であっても、その美しさには目を奪われる。心を引き寄せられる。
「わぁ、とっても綺麗……」
エアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)は翠色の双眸を楽しげに揺らし、宮の周囲をゆったりと歩き回っていた。
出身世界である√ドラゴンファンタジーにも、美しくて神秘的な場所は幾つもあるだろう。
だが、趣というものが違う。
風雅であり、品格があり、何より数多の心が募ったようなこの場所。
雪に花、それに螢。
季節を重んじてこそ雅であるというが、まるで楽園のような光景である。
あらゆる美しいものを。
あらゆる愛おしいものを。
抱きしめて、抱きしめられて共にある。
「なんだか神聖な雰囲気がするよね」
神社の宮とは元来、そういう場所だといえばそう。
だが肌に冷たい風さえも、今のエアリィには清らかで素敵なものだと感じるのだ。
「こう、身というか心が洗われるというか……」
まだ幼いエアリィには確かに言葉にすることが出来ないもの。
雪の降り積もる中、風に揺れる桔梗を眺めてふわりと吐息を零すばかり。
真白の傍で揺れる、青紫の花びらたち。
そして優しく揺れて、揺れて、雪の上で光を幾重にも燦めかせる螢の光たち。
どれも優しくも楚々として、上品な姿であった。
だからこそエアリィには四季の幻が織り成す風景が囁き、歌う声さえ聞こえてくるかのよう。
大丈夫だよ。
きっと素敵な一年になるよ。
囁くように揺れて、訪れるものたちを祝福しているようだった。
「雪に花に風、蛍……」
季節の異なる幻想的なものであっても。
「自然もお祝いしているみたいな感じだよね」
四季折々の色と花、光と風情で包まれているのだと感じてエアリィはゆっくり微笑む。
つう、と視線が流れたのは願い事を鈴と桔梗に結んで、捧げる場所。
どうか叶いますように、と。
「へー、願い事を書いて、か」
七夕さんみたいな感じかなぁとエアリィは小首を傾げる。
神霊に祈るということはこの√百鬼夜行ではよくあること。でも、祈る対象が変わればやり方もまるで変わってしまう。
だからこそ、それぞれの美しさというものが際立つのだ。
ひとつ、ひとつ。異なる色があるのだと。
「せっかくだから願い事を書いてみよう……願いは」
ふわりと。
泡雪のように無垢で柔らかな微笑みを浮かべるエアリィ。
まだ切実な願いを知らない年頃である。
幼い儘に、純真な願いと夢ばかりを抱く少女である。
恋や愛。そんな明確な願いがあればとても簡単だけれど。
「あたしにはまだわからないから」
だからこそ、何処までも優しくて、柔らかくて、そして一途な願いをさらさらと紙に書く。
まるで、ふわふわと雪を募らせるように。
ただ、ただ、心に浮かんだことを祈りとして紡ぐ。
「大切な人が、いつまでも笑顔でいられますように……」
ただその想いを。
真っ直ぐな願いを、鈴と桔梗と共に結んで捧げるのだった。
きっと叶う。
だって、それを願うのは他ならないエアリィなのだから。
純真にして元気いっぱい。
何処でも進み続けるエアリィが、その心にこの鈴と桔梗に祈ったことを忘れない限り。
きっと大切なひとは、笑顔で応えてくれるはずなのだから。
と。
花嫁と花婿が宮の奥へと通り過ぎていく。
慈しみと幸福の微笑みを静かに浮かべ、雪と桔梗の間を歩いて行く。
颯真と桜葉。ふたりが近くを通り過ぎるのに合わせて、エアリィは一言を向けた。
「おめでとうございます」
心の底からの祝福に、颯真も桜葉も嬉しそうに頷いて応えた。
「ありがとう」
ただ一言。
それだけで十分に過ぎるもの。
通り過ぎる白無垢と紋付き羽織り姿のふたりの背を見て、エアリィもふと思う。
――いつかあたしもこういう日が来るのかな?
深雪のごとく、しんしんと恋心を募らせて。
花咲くようにと周囲に祝われて、これからの道を進む。
まだ遠い未来だろう。
それでも、そんな眩しいほどの幸せな日を思い浮かべながら。
エアリィは冷たくて清らかな空気を、胸いっぱいに吸い込んでいく。
全身と心で、この綺麗な雰囲気を受け止める為に。
感情の一番奥で、この幸せな静けさを感じて覚えておく為に。
誰かの幸せが募り、花咲いたこの時、この場所を。
こんな時間と誰かの為に、エアリィは冒険を続けるのだろうから。
雪降る新年のお祭り。
幸せあれと、雪の積もる先で桔梗が咲き誇り、風に鈴が鳴る。
風雅であれど心に優しく。
冷たい空気であっても、息をするたびに清らかさが身に染みる。
真白き雪は何処までも降り積もる。
柔らかな純白は冬の色彩そのもの。
空からの吐息に混ざれば雪風。桔梗をふわりと揺らし、青紫の花びらを囁かせる。
ここは、慈しみの場であるのだと。
自分の、誰かの、幸せな始まりを願う場所なのだと。
そんな風景を眺めてクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は青い双眸をゆっくりと瞬かせた。
(綺麗だな……)
数え切れないほどのたくさんの桔梗。
緻密に組み合わされた奇妙建築の建物も。
音を吸うような静かな雪の姿。
ああ、全てがクラウスには憧憬を抱くほどに美しく感じられてしまう。
クラウスが生まれ育った√ウォーゾーン。
生き残る為に全てを燃やして生きる、けれど冷たい世界ではお目にかかれないものなのだから。
心の余裕。まずそこから削ぎ落としているのだろう。
風雅である。だからこそ豊かな情感が生まれ、誰かへの未来を思う優しさとなる。
そんなものが少ししか残っていない世界だからこそ、ああ、だからこそ。
クラウスは瞼を閉じて思った。
(俺が誰かを助けることで、もしも、その少しだけ残ったものを繋いでいけるなら)
それがこの身のある理由になるだろう。
自らの身に十分な幸せはこなくても、呼吸を続けて、鼓動を動かし、世界を渡って戦う理由になる。
他の√から、他の√へ。
幸せで素敵なものを、心を満たすものを。
渡ることが出来る者として、まるで花の種を植えるように荒れ果てた地に施していけたら。
(なんて。少しだけ俺も夢を見てしまうのかな)
クラウスがゆるゆると微笑む。
でも、それも仕方ないこと。
雪も桔梗も慈しみの色を湛え、鈴の音色は祈りの歌のように聞こえる。
幸せあれと。
穏やかに微笑み合う婚約者たちを取り囲むように。
儚く、脆く、繊細なもの。
そう思ってしまう。
クラウスにとっては、いいや、彼の生きる√ウォーゾーンでは、こんな当たり前の幸せがとても不安定なものだった。
常にいつ壊されても可笑しくないという不安が付きまとうからこそ、こうして穏やかに、互いに愛と慈しみと、限りのない未来を誓い合う。
そんな夢のようなことを結び合うことは、√ウォーゾーンでは中々に見ることができないのだから。
決意と覚悟。決して離れないという強い意志はあっても。
あなたとずっと一緒にと、柔らかくて甘い夢の囁きを重ねていくことは出来ない。
きゅう、とクラウスの胸が疼いた。
失うこと。その可能性の影を感じることなく、進み続けるその姿は。
(幸せそのもの、って感じだね)
だから緩やかに微笑む。
今の自分には手の届かないものかもしれないと、憧ればかりを抱きながら。
ただ今は、クラウスも婚約者たちの邪魔にならないように、さくりさくりと雪の中を歩いて行く。
桔梗と鈴と共に、願い事を結びにいくのだ。
願い事はとてもクラウスらしい、単純で優しいものだった。
――『みんなが幸せでありますように』
雪のように柔らかく、花のように優しい願いだった。
そして、脆くも儚くもない。
何故なら、その『みんな』には、ちゃんとクラウス自身も入っているのだから。
以前は自分以外のみんなが幸せであればいいと思っていた。
けれどクラウスは最近知った。自分の幸せが誰かの幸せになる。そうであるのなら、自分を責めるような事は続けられない。
だって周囲のみんなが悲しむようなこと、できるはずがないから。
まだクラウスは無条件に自分を愛し、大切にすることは出来ないかもしれない。
けれど、いずれは。
雪が降り積もるように、みんなとの記憶が増え続ければ。
「いずれできるかな。俺にも」
希望という、クラウスの胸から抜け落ちたものではない。
進むべき未来の道筋として、今はしっかりと見つめられる。
ふと見上げた空は雪雲に覆われた鈍色。けれど、それが怖いとも、不安だとも今のクラウスには思わない。
蒼穹の色を宿した双眸で空を見上げて、失われた心で未来を思う。
――まだ|親友《かれ》のいない世界で幸せになってしまうのは怖いけど。
少しずつ。
ほんの少しずつでいい。
前を向いて、歩いて進んで行きたいと願うのだ。
さくり、さくりと。
新雪の上に足跡を刻みながら。
見上げる柔和な貌、その頬にひとつ雪が落ちて、溶けて。
「冷たいな」
涙のように落ちても、それはもう悲しみと喪失の雫ではないから。
胸にあった澱のようなもの。
それが少しだけ、この神秘的な花と雪が織り成す美しい領域で消えていくのを感じるクラウスだった。
願わくば。
この穏やかで清らかな宮の風を、何処までも届けたいと。
静かなる月の心で思う。|太陽《しあわせ》の届く場所へ、いずれ進む為に。
雪の募る宮に桔梗は咲く。
どれほどに四季が巡ろうと、この花たちは永久の花。
螢の光に照らされ、楚々とした青紫色の花びらを揺らす。
優しく、穏やかに。
冷たい風の中でも、決して色褪せることなく。
ああ、それならば。
儚く散り、実を結ばない徒花はその色を見て何と思うだろうか。
何とも感じず、ただ自らの歩みを見つめるばかりだろうか。
徒花・すふぃあ(|実をつけて《出会った事で》|咲いてしまった徒花《徒花ではなくなったモノ》・h07592)の赤い眸は、ただ楽しげに揺れるばかり。
徒花であり。
徒花でなくなった。
そんな二面性を匂わせることもなく、くすりと微笑んでみせる。
無垢で可愛らしいが、まるで小悪魔のようにひとの視線を奪う貌だった。
徒花はその儚さでひとの心を捉えるが、すふぃあもまた同様なのだろう。
降り積もる雪を狼と狐の要素を持つ獣耳でぱたりと払い、雪と桔梗と螢の舞う宮を眺めていく。
「にん」
少しばかり残念。
そんな気配を滲ませて、さくりと雪の上で一歩跳ねた。
「居合使いと戦えるって話を聞いたから来てみたけれど、如何にもザ・和風って感じの風景だねっ」
元より変化の少ない√百鬼夜行である。
ましてや幻想的な美しさの残る宮であればなおのこと。
風雅さとは残され、受け継がれたものである。
綺麗な景観とは、ひとが必死に守ってきたものである。
――まるで、種を託し続けてきたように。
ましてや今、この宮では婚姻の儀が執り行われている。
新郎新婦に始まり、祝いの為にと正装で集まるひとたちがいれば、すふぃあの姿は白雪の上で浮いてしまうというもの。
「わたし、もしかして場違いだったりしないかな?」
少しばかり悩むすふぃあだった。
けれど、うんと頷けばすぐにその悩みは消えてしまう。
「ま、いっかっ」
雪の上を跳ねるように歩き、自らの心のままにと進むだけなのだ。
むしろ桔梗の花も、雪も、螢の光も、すふぃあの心のままに歩んで欲しいと願うような、柔らかな色彩を抱いている。
「折角だしこの風景を楽しまないとねっ♪」
そうだ。
このひとときしか、この場に留まれないというのならすふぃあも自らの心で触れあう。
景色と情動。
外の静けさと、胸の裡で震えるもの。
雪風に攫われて、すふぃあの白から赤へと移ろう髪がふわりと靡く。
赤い双眸の先には、冬の風を受けても色鮮やかな桔梗の花たち。
「あはっ、綺麗な桔梗の花だね♪」
永久の花。
枯れることも、朽ちることもない色。
そんな神秘の花を前にして、こくりと小首を傾げるすふぃあ。
「確か桔梗の花は徒花とは違って、たくさんの実をつける花だよね」
何も残さず、さらりと散りゆく徒花と違って。
この桔梗たちは朽ちることもないが、もしもそれがあっても多くの実と種を世に残す。受け継がせる。
徒花とはまさに対極的な姿と美しさだった。
すふぃあはくすくすと微笑み、唇より言葉を紡ぐ。
「徒花はどうあがいても実を付けないしねー」
そしてゆらりと。
ほんの一瞬だけ、ゆらりと。
何と形容すべきかも分からない、儚くも激しい情動を眸の奥に揺らすのだった。
美しくも妖しく、何時か何処かの綺譚を歌うかのように。
見ればひとの心を奪う。そんな妖艶さが、匂い立つ。
「……もっとも、わたしは実をつけて咲いてしまった徒花なんだけどね」
悲しげなのか。
嬉しげなのか。
憂うとも希望ともつかない、なんとも儚い声色だった。
もしも聞くものがいれば思わず足を止め、すふぃあの言葉の続きを求めてしまうかのような。
小悪魔の微笑みとはそういうものである。
寂しげな一面を見せて、ひとの興味と関心を引き寄せる。
妖艶さとはその先にある。
この存在を深く知りたいと、甘くて冷たい願いを抱かせること。
すふぃあはそれ以上は語らない。
ふい、と身を翻してぱたぱたと尻尾をふるわせ、雪庭へと歩いて行く。
実をつけて、咲いてしまった徒花。
そんな少女がせめてこの場に出来ることは、何だろう。
純粋無垢に笑って遊ぶことだろうか。
それとも桔梗と鈴を結んで、祈りを捧げることだろうか。
いいや、違うとすふぃあが笑みを浮かべる。
「んに、雪だるまさんを作る?」
ぽてぽてと、ぎゅっぎゅっと、自らの手のひらの中で小さな雪玉を作っていくすふぃあ。
そのまま転がして大きくしていく。
「これだけ雪が降り積もってたら、たくさん作れそうだよねっ」
そのまま弾むような足取りで柔らかな雪を固めていく。
小さな心を、小さな願いを。
ひとつに束ねて、新しい形へと重ねていくように。
「んに、きーめたっ。折角だし作れるだけ作ってみようか、雪だるまさんの家族」
ぽてぽて。
ぽてぽて。
転がる雪玉はすぐに大きくなって、ひとつめの雪だるまを作った。
でもすふぃあが作るのは雪だるまの家族たちなのだ。
もっと沢山。
もっと多く。
幸せと共にあるように。
「婚姻する人達が子宝にも恵まれる事を祈ってねっ」
それが実をつけて咲いてしまった徒花からの、祈りと祝福。
雪色の贈り物を届けよう。
神に祈ることも願うこともなく、ただすふぃあの手で。
雪風の旋律で歌うは桔梗の花びら。
螢の光の舞う真白き舞台で、美しくも清らかに。
静寂の唄を心に届けるのだ。
綺麗だと情緒が震える。
永久の花に、雪に、途絶えることのない螢の光に。
そんな幻想的な記憶として、ずっと心に抱いてもらうためにと在り続ける。
だって、この場所は誰かの幸福を誓い合う場所なのだから。
冬の寒さでも枯れることのないこの桔梗たちよりも永き幸せを。
不滅なる願いをここに結んで、鈴と共に鳴らすのである。
さくりと。
そんな場所に雪を踏みしめる足音を響かせるのは、クレス・ギルバート(晧霄・h01091)。
通り過ぎていく新郎新婦たちの姿を遠目で眺めながら、ひとつのお祝いを心で述べる。
そうして、ふと思うのだ。
――幼馴染、か。
言葉の通り、幼い頃からずっと傍にいる相手。
相手に抱く感情が何であれ、この笑顔と共に育ったという存在。
だからこそ守りたいという気持ちは分かる。
そのために強くなりたい、強くあらねばと願い、自らの心に課す。
ああ、解る。解るとクレスはゆっくりと頷いて、思いを巡らせる。
はらはらと雪が舞い降りる。
静かに桔梗が咲いて、風に揺れる。
螢の儚い光を雪が反射して、きらきらと燦めくように周囲に舞う。
こんな静かで綺麗な場所も、それを大切に想うひとがいてこそ守られるのだから。大事にしようと抱きしめるひとがいて、ずっと在り続けることが出来るのだから。
ひとの想いは儚く、脆く、柔らかくて尊いもの。
そんな感慨に耽っていると、くいとクレスの袖を引っ張る手があった。
白魚のような美しい指先だった。
きゅっとクレスの袖を握りながら、ふわりとした声色を届ける。
まるで唄うかのような声は、クレスが心の底でずっと求め続ける花の唄。
「みて、クレス。土じゃない場所から花が咲いているわ」
ふわり、ぽわり。
雪よりも柔らかく、そして心の温かさを宿す声はオフィーリア・ヴェルデ(新緑の歌姫・h01098)のもの。
オフィーリアは感動と驚きで息すら忘れるように周囲を見つめていた。
奇妙建築物のあらゆる場所に彩を添えるように咲く、桔梗の花。
大地がなくても、水がなくても。
まるで美しいと讃えてくれる心があれば、咲き続けることができるというように。
楚々とした青紫の花びらは、朽ちることも途絶えることもない。
まあ、と。
新緑の色彩を宿した眸が嬉しそうに揺れ、ふんわりと柔らかく微笑む。
――なんて素敵な場所なのかしら。
――どうして、花たちはずっと咲けるのかしら。
――冬の寒さに色褪せることがないのは、まるでひとの心の温かさだわ。
オフィーリアの胸にいっぱいに広がる軽やかな言葉たち。
夢や幻。優しい幻想に触れ、抱きしめられているかのよう。
いいや、きっと此処はそういう場所。幸せを祝い、誓う場所なのだとオフィーリアも心の底で感じ取る。
唄いたい。
唄うように言葉を続けたい。
でも、どれを言っても場の空気を崩してしまいそうで、オフィーリアはクレスの袖をきゅっと握り続けていた。
そして、長い時間をかけてゆっくりと吐息と共に言葉にする。
「まるでクレスみたいに綺麗」
「…………」
「クレスは意地悪な時もあるわ。でも、何時も心に寄り添ってくれるものね。そう、何時もそこにある花なのだわ」
唄うように告げるオフィーリアも、この場所の美しさに心の琴線を振るわされているのだろう。
いいや、そんな事を言っても。
困るようなこともなく、穏やかに見つめてくれるクレスの甘やかな菫色の双眸があるから、安心して心のままに囁けるのだ。
無垢な白金を編んだようなオフィーリアの長い髪。
冬風に触れられて、ふわりと流れて靡く。
まるで彼女の周囲だけ冬の冷たさを忘れたかのように、柔らかな色彩と雰囲気に包まれていた。
それもまた、クレスが傍にいるお陰ではあるのだけれど。
どんな寒さも、ふたりでなら困らないと頬には柔らかな微笑みを浮かべあって、小声で囁くように口にする。
まるで春宵を告げる|金糸雀《カナリア》のように。
「とても品があって凛とした綺麗なお花ね」
クレスもまたそうであると。
オフィーリアは意図してか、していないのか。ただ無垢な心より紡いだ幼馴染の声にクレスはゆっくりと頷いた。
クレスも静かな場に合わせて、オフィーリアへと柔らかな微笑みを向ける。
そっと顔を、頬が触れるほどに傍に寄せた。
いっとう大切な幼馴染との距離。決して、オフィーリアの小さな聲を聞き逃さないための、幼馴染の近さ。
「そうだな」
皓々たる白雪の前髪を少しだけ揺らして、クレスは風景を眺めみる。
雪と花。
そのふたつが織り成し、唄い合うこの場所を。
「螢火に似た光を帯びた桔梗は、夜に瞬く星の花みたいで綺麗だ」
正面から見ればまるで星のような姿をしている桔梗。
青紫の色もまた、星の燦めきに似て咲く花である。
そう。オフィーリアの春のような優しくて、柔らかい色ではないけれど。
「それに、花の彩に包まれているような心地がする――リアの雰囲気に少しだけ似ているな。寒さを忘れさせてくれる、笑顔みたいな」
「まあ。今日のクレスは何時もにまして詩人なのね」
吹く風は冬の冷たさ。
それでもクレスの心が温かいのは、やはりオフィーリアのおかげ。
ずっと傍らで、楚々と花咲む少女がいてくれるから。
君の傍に戻ろう。
クレスがそう薄い菫の眸を揺らせば、春告げる翠の眸をオフィーリアも許す。
いつも傍にいるわ。
身体は離れていても、心はそこに。
ぽやぽやと、ふわふわと。
春に唄う姫君の傍に、新雪の竜の青年は寄り添うのだから。
まだふたりの物語は始まったばかり。
まだ見ていない景色を、色んな場所を。身体の弱いオフィーリアの手を引いて、世界に沢山ある祭りを見に行こう。
そこでクレスに聞こえるようにオフィーリアは唄うのだ。彼の好きな聲で。彼の好きな唄で。
――ちりん、
静かな鈴の音色が、ふたりの意識を現に引き寄せる。
「ね、クレス。私たちも折角だからお願いごとを書いて結んでみましょう。きっと素敵なのだわ。叶っても叶わなくても、ふたり仲良く隣同士なら」
楽しげなオフィーリアの声色に、クレスも眦を緩めて頷く。
そうしてふたりは、ふたりの旋律で歩く。
身長が違う、歩幅が違う。
だというのに、鈴と桔梗と願いごとを記す紙を結ぶ場所には同時に辿り着く。
クレスがゆっくりと歩いたのだろうか。
オフィーリアが、一生懸命に歩いたのだろうか。
ただ、ふたりの想いは同じだった。
――同じ世界を見てみたい。
だから、離れたくないのだと雪の上にふたりぶんの足跡を残す。
そうして紙に記すと、隣同士の桔梗に結わえて祈りを託すのだ。
ああ、これ以外に願いはないとクレスの指先が迷うことはなかった。
『此れからも絶えず、リアの笑みが咲き続けるように』
オフィーリアの笑顔という温もりがあれば、どんなことだって切り抜けられる。
柔かな吐息。暖かい歌声。
そこに呼ばれるように、例え夜空の星と共にあってもクレスはオフィーリアという地上の花のもとへと舞い降りる。
そうだと信じるから、寒さの中でもオフィーリアの指先も震えない。
『ずっと変わらずクレスの隣に居られますように』
それは願いであり、同時に変わることのない事実であるとオフィーリアは胸の奥に抱いている。
そんな些細な、当然のことを鈴と共に桔梗に託す。
変わらず咲き誇る桔梗よ、どうかふたりの願いを見続けて欲しいのだと。
――ちりん、
清らかな鈴の音色が重なり合い、響き合うなかでクレスは暖かな吐息を零した。
春彩の瞳と視線を絡め、優しく優しく、夢を唄うように告げる。
「リアの願い、きっと叶うぜ」
まるでオフィーリアの唄う口調と声色が移ったようなクレスの声。
いいや、オフィーリアの唄も声ももうクレスの一部であるのだから。
それなしの世界なんて、もう考えられない。だからどうか、離れることなく、笑みの咲き続ける世界であるように。
そんな想いを向けられれば、春告げる少女は嬉しげに笑うばかり。
唄う。歌う。あなたのために。
いずれ過ぎ去る冬を越えて、ふたりで届く未来と春のために。
「私の願いが叶うのなら、間違いなくクレスの願いも叶うわ」
新しい年でも変わることなく。
いいや、もっと私の笑みは咲くのよと春彩の双眸が瞬いた。
優しい鼓動のリズムを感じて、自分よりも優しい幼馴染へと言葉を向けるのだ。
「貴方は私に笑顔を運んで来てくれる人ですもの」
大好きな雪の色をした幼馴染へ。
花笑み浮かべ、そう告げれば静かな風がふたりの頬を撫でる。
――ちりん、
響き合う鈴の音色は、ふたりの願いと祈りを。
心の底にある優しさを、互いを慈しむ想いを知らせるかのようだった。
儚いばかりの夢なんてない。
大切な明日を掴むために、まずは。
「行こうか、リア」
「ええ。行きましょうクレス」
幼馴染のふたりは、手を取り合って歩くのだった。
冬の寒さに少しだけ感謝を。
だって互いの温もりを、こんなにも穏やかに感じられるのだから。
――きっと幸せの白い風よ。
――だってクレスも冬の白さを持つもの。
――その後に、私の春の花彩が咲くと知らせるのだもの。
オフィーリアの唄う声が、雪雲を越えて空へと舞い上がる。
まるで幸せな物語の結末のようだ。
幼い頃からずっと傍にいたふたり。
気づけば恋になり、愛慕を募らせていたふたり。
どうしようもない難関が恋人たちを阻むけれど、それを想いの力で越えて結ばれる。
これを幸福な舞台と呼ぶのだろう。
幸いを招く、ひとの心の美しさ。
それを讃えるようにと白雪は降り積もり、桔梗の花が風に揺れる。
きらきらと輝いて見えるのは、蛍の光が雪の上で反射しているせいだろう。
まるで花と雪、そして星彩に抱きしめられたかのような場所。
清らかで、優しくて。
儚くも久遠に続く幻想的な光景。
こんな綺麗な場所で祝福されて、結婚式を挙げるだなんて。
「夢みたいですね、憧れちゃうなあ……」
それこそ隠岐・結羽(人間(√EDEN)のサイコメトラー・h04927)が心から愛する冒険の物語。
戯曲から始まり、数多の物語へと紡がれ、今やゲームやアニメへと広がったハッピーエンドの姿。
いいや、きっとまだまだ先がある。
めでたし、めでたしと綴じるにはこれから先に多くの幸せが待つだろう、新郎新婦。
ふたりの関係がどういうものであったかは解らない。
けれど、種族の違いを超えて。
強さを求めて、進み続けたから叶った今。
そんな恋物語、隠岐に体験できるだろうか。
そんな幸せな舞台に、隠岐がヒロインとして立てるだろうか。
ふるりと身を震わせ、降り積もる雪を払う隠岐には柔らかな微笑みがあった。
「まあ、私みたいな一般人には縁の無い話でしょうけれどね」
でも夢見るのは自由なはず。
柔らかなプラチナブロンドの髪をふわりと靡かせ、琥珀色の眸に羨望と諦めと、同時に希望を宿す。
隠岐は自分の歩みを大事にしている。
今まで√EDENで平和に、安らかに生きて来たのだ。
そんな今までの人生を否定する気にはなれず、けれど甘い欺瞞に満ちた世界の真実と向き合うと決めたのだから。
だからこそ、越えていかないといけないものはある。
待ち受ける困難は隠岐がずっと包まれていた優しい嘘と忘却のぶんだけ、その身と心を削るだろう。撃ち砕こうとするだろう。
「でも決めたんです」
だから雪よりも軽やかな足取りで。
この幸いなる場の空気を吸いながら、少しでも周囲にある理不尽に抗う心の暖かさとして、胸に抱く隠岐だった。
幸せを忘れなければ、どんな痛みだって乗り越えられる。
自分に幸福ではなくても、それは一緒。守るべきものであれば、なおのこと。
義務であり、責務である。
雪のように柔らかで、幼い美貌でありながら――隠岐が胸に秘める決意は、澄み渡る白刃めいた|強靱さ《つよさ》を持っていた。
明澄なる覚悟は空に浮かぶ凍月の如く、揺れることがない。
だからこそ、今もまた隠岐は楽しげな少女の姿で雪の上をぽてりと歩く。
胸の奥にあるものを、誰にも話さないまま。
それこそが隠岐の矜持。永久に咲く秘する花であるのだから。
無邪気な少女の微笑みで、雪の上を踏み出した。
いつも責任に囚われ、自らを見つめて、問い続けるばかりではないのだと。
蛍めいた光に囲まれ、桔梗の揺れる奇妙建築の中へと入り込んでいく。
「まずは」
あの√EDENで見たことがない、それこそファンタジーみたいな綺麗な景色を心いっぱいに楽しもう。
そう想う心とて偽りなく、跳ねるようにと進む隠岐。
この時の為にと、お友達からは着物を借りている。
いわゆる晴れ着である。淡い金色の髪に似合うようにという白を基調とした清楚なもの。
下にいけば青空めいた色がグラデーションのように広がり、淡い色合いの牡丹を始めとした花が咲き誇る。
帯紐ばかりが鮮やかな赤であり、いっとう目を惹く祝いの色であった。
「ふふふ。こういう晴れ着を着られるだけで、特別な気持ちになっちゃいますね」
だからこそ、もっと特別な幸せを感じたい。
奇妙建築の通路に入れば、こっそりと伊邪那美を発動させ、サイコメトラーの能力によって視界内のインビシブルを対話ができる姿へと変えるのだ。
「もしもよければ、道を聞いてもいいですか?」
物質に宿る記憶を引き出す隠岐の力。
その本質は、ある意味では魂との対話である。
過去にあった想いと心を重ね、記憶を受け継ぎ、自らの裡へと積み重ねていく。
今回望んだのはまず、迷路めいた奇妙建築の中を進む為の術である。
在りし日の獣妖の姿を取り戻してインビシブル――人狐めいた姿の女性が道案内をしていく中で、隠岐は幾つか質問を重ねていた。
「新郎新婦の颯真さんと桜葉さん。おふたりはどれだけ周りに祝福されているのでしょう」
聞けばするりと、霊魂の音なき声が隠岐の脳裏に入り込む。
本来、この宮で婚姻の儀を遂げることはとても難しいという。
よほどの地位か実力者であるか。或いは、この一帯の皆が総意として頷かない限りは。
確かに神聖な場所である。
綺麗であり、幻想的。同時に、こんな場所を保つのはとても大変で、そんな場所を挙式にするのはとても凄いことである。
ある意味で、この地域の皆が喜び、祝福している証。
「そんなに颯真さんと桜葉さんは、祝われるような関係なのでしょうか?」
昔からの幼馴染だからね、と。
皆が知っている仲のふたりが結ばれるのは、とてもよいことだと、まるで夢が叶ったようであると霊魂は告げる。
同時に、桜葉の家の特殊さも教えられた。
いわゆる武家に値するような血筋の家であり、過去を遡れば古妖とも争ったものたちである。
ひとの儚さを愛する、今の妖たち。
だが、故にこそ自ら娘が半人半妖として生まれれば、何よりも大切にする。何もかもを魅了する不思議な美貌は、善悪を問わずひとを引き寄せて、禍福の糾える縄を示すのだから。
「つまり、桜葉さんはその美しさで困ったことがたくさんあった?」
だから桜葉の父親は、彼女を娶るものに強さを求めた。
どんな困難が訪れても、必ずや愛する娘を守ってくれるように。
いずれ自分の手が届かなくなるのだから。颯真という青年の優しさや一途さ、自分がどれほど苦しんでも微笑んでみせる心。
覚悟は言うまでも無い。隠岐もそれが強さであると知るから、頷くばかりである。ただ、それだけでは何も出来ないのだと知る、ひとであった。
だから――。
身を削り、心を削り。
それでも進み続けるしかなかった情念の程や、古妖の封印を解くほどに至ったのだろう。
悪いことであると断じられないから、隠岐はこくこくと頷いて、更にはこの家や庭のことも聞く。
「この奥には、静かな池があるのですね?」
今宵は名月が冷たく澄み渡る水面に浮かぶ。
過去の想いが、或いは未来への願いが、月影と共にまぼろしとなって見る者の心に触れるという。
「それもまたファンタジーです」
好きな物語であると。
和風ファンタジーという、最近見慣れないジャンルであっても眺めて頷き、美しさや愛おしさへと思考を傾ける。
月が心を映すというのなら、隠岐の心はどんな色をしているだろう。
そんな風情というもの。
雅さというもののかけらを感じる隠岐だが、ついに迷路めいた奇妙建築を抜けて新郎新婦の元へと辿り着く。
あくまでお祭りの噂を聞いて観光客として振る舞いながらも、礼節を忘れず、簡単な挨拶と結婚の祝辞を届けるのだ。
――あれ、これでいいんでしたっけ?
思えば、普通に生きていて婚姻の儀に出ることは滅多にない。
結婚式に呼ばれることはあっても、正しい礼儀作法で言葉を交わすことは隠岐の年齢ではまだないだろう。
ましてや√が違う。常識が異なって当然。
一瞬だけ緊張に身と表情を固くする隠岐。
けれど颯真が穏やかな声でありがとう、と告げる。桜葉が慎ましく頷き、あなたにも幸いをと囁く。
そうして擦れ違うのであった。
ただそれだけ。でも、それだけで十分。
見ず知らずの人間が時間を取らせてしまっても申し訳ないし、一方で挨拶もなしというのは何だか失礼だし、物悲しいのだから。
そうして別れたあとに、隠岐はぴたりと足を止めて呼吸を繰り返す。
幸せというものは香り立つものであるのだと、隠岐は心の奥底で覚える。
――私みたいな一般人には、縁のない話でしょうけれどね。
そう考える一方で、とても嬉しくて何処か懐かしいような、そんな残り香が心にはあったのだ。
「さて、後は……」
短冊とペンを手に、隠岐は桔梗の咲き誇る場所へ。
鈴と共に結い上げることで、祈りを捧げる場所へと辿り着くのだ。
「願いと言われると、うん、ううん……欲望や煩悩がにじみ出ます……」
ゲームで激運の引きをしたいとか。
自分が好きと思っているキャラが、更に好きになれる性能での新衣装での実装とか。
「……リアルなイベントとかもあっていいですよね。無料ガチャの延長とかいいですよね。何より、ずっと続いて欲しいです……」
ふふふと笑う隠岐の目は、修羅場を潜り抜けたゲーマーのそれだった。
が、それではいけないと小動物のように首を左右に振る隠岐。
欲望も煩悩も振り払って、ここはやはりとあのふたりのことを書きたいと思うのだ。
自分のことは、自分で何とかすればいいから。
運は掴むものだし、機会とは巡り逢うもの。
だから隠岐は自分のことより今も胸の奥にある、あのふたりの幸せの残り香を思う。
「颯真さんと桜葉さんが、末長く幸せに寄り添えますように」
そんな些細な願いも、脆くて儚いものだと隠岐は知るから。
けれど。
この桔梗たちが見守るなかであれば。
とこしえの愛、誠実さ、それらを歌う花言葉を持つ桔梗の花びらに包まれた中であれば。
きっと叶うはずだと隠岐は微笑んで、短冊を吊すのだった。
鈴の音は一途に誰かを、自分ではない誰かの幸せを願う隠岐の心のように、優しく澄んだ音色を響かせるのだった。
刃。
それは何かを断つもの。
降りかかる災いを斬り払い、戦乱を鎮めるもの。
けれど、それは幸いの花をも断つのである。
誠の刃とは何かと問われれば、その時勢によって答えは異なろう。
故に浮かぶ言葉は、何処かへと辿り着くことはない。
「……刃。やいば」
いいや、自らの胸の奥にしっかりと当て嵌まればいいのだと、ルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)は翠色の双眸をゆっくりと瞬かせた。
「成る程ねぇ」
砂糖菓子のように柔らかくて甘い声だった。
刃とはと、自らに問いかけて、答えを得たばかりの声色とは思えない。
それもその筈。ルーシーはお菓子の国である√シュガーヘブンのお姫様。
身体の一部がお菓子で出来ているくらいに脆弱で、けれどその実はとっても素敵な甘さを持つのだから。
今も肩の力を抜いた声で、ゆるゆると微笑んで指先を振る。
何も憂うことなどなく、今すべきことをやるだけなのだと。
「で、で、で」
さくり、さくりと雪を踏みしめて進むルーシーだった。
「見るのが景色なんだよな、今は」
食べ物は後での流れ……だろうか。
あくまで多分である。だが、婚姻の祝いごとには甘い食べ物は付き物である。
相応しいドレスコードとして慎ましい着物を纏い、ルーシーは奇妙建築の中へと足を踏み入れた。
可笑しいということはない。
むしろ楚々と可憐なる美貌である。
朱華色の髪が映えるようにという白い振り袖。
甘やかな朱色の牡丹の姿が施されながら、決して華美とはならない姿。
まさしく、慎ましくも美しい姫君の姿である。
柔らかな微笑みを浮かべれば、優雅さが香り立つというもの。
「ふふ。悪くないね」
これでいいか、と決めたけれど、やはり悪くない。
周囲の視線を奪うようなことはせず、だが場を盛り上げる花の一輪として、ゆっくりと奇妙建築の中を見ていた。
しんしんと、降り続く白雪たち。
その寒さの中でも色褪せることなく咲き誇る、桔梗の花びら。
蛍の光が舞えば、雪がそれを反射して燦めくように浮かび上がらせる。
美しい夢の光景だった。
決して現実ではあり得ない、三つの四季が折り重なる幻想の領域。
雪が優しい静寂を届けるというのなら、柔らかに揺れる桔梗の青紫の花びらも、心に寄り添うかのようである。
「言葉で聞くよりも、やっぱり見てみると凄くその風情が実感できるんだよね」
そして、この桔梗の花びらの色はと見つめるルーシー。
花は同じ種類であっても、色が違えば宿す花言葉が変わって来る。
桔梗も白であれば従順、清楚、誠実を示す。
が、淡雪の傍で咲き誇るこの桔梗は青紫。見る者によっては紫にと取れるだろう。気品、優雅さといった意味を持つ。
なら永久の優美さをと、この宮は抱くのだろうか。
それほどに神秘的な風雅さを湛える奇妙建築の宮だった。
一方で。
「でも、永遠の愛。変わらぬ愛っていう意味だって見つかりそうだよねぇ」
ルーシーの言葉通り、婚姻の儀を執り行うのであれば、永遠の愛という花言葉のほうが相応しいだろう。
永久に咲き誇る桔梗の花たちが、永遠の愛を誓うふたりを包み、見守るというのなら、なんともロマンチックである。
「だって彼らが望むのは、優しさで回していけるしあわせなんだから」
他の何もいらない。
互いの優しさと、愛情だけがあれば世界は巡る。
そんなふたりだけの絆を求めているのだろう。
そんな夢物語のような愛を、此処にて結ぶのだろう。
「それほどに誰かひとりを思えるのなら、素敵かもしれないねぇ……」
ふんわりと笑顔を浮かべ、そんなことに思い耽るルーシーだった。
だからこそ奇妙建築のひとを迷わすような通路を抜けて、新郎新婦である颯真と桜葉には祝いの言葉を届けようとするルーシー。
だって誰のものでも門出というものは嬉しいことなのだから。
新たな人生、新しい物語。
そしてひとつの家族の始まりであるのなら、心から祝ってあげるのがセオリーというもの。
ましてや愛と絆が織り成したものであるのなら。
だから優雅にお辞儀をしてみせたルーシーは、ふわりと微笑んで告げるのだ。
「二人の歩む道がしあわせに満ちる事を、心から願っています」
何か余計なことを言う必要なんてない。
ただ心から心に伝わる、シンプルだからこそ響く祝い方のほうがきっとこの場ではいいのだ。
あなた達にこんな幸せがありますように。
どんな苦難があっても、きっとふたりなら乗り越えられる。
これから未来を、ふたりで彩っていくのを願っています。
そんな凝った言葉は、ふたりをよく知る者たちから沢山投げかけられているのだろうから。
しんしんと降り積もる深雪の美しさがあればよい。
桔梗の花びらのように、永久の愛を祝福する思いさえあればいい。
ただそれだけで十分であるのだとルーシーは身を翻す。颯真も桜葉も、有り難うとだけ告げる。
ふたりの声色には名も知らない相手からでも、心の底から祝福された喜びの色と温もりがあった。
なら、これでいい。
ルーシーからも幸運を分けるというのは、こういうことなのだから。
「さて。あたしももう少しだけ頑張ろうかな」
ふわりと。
表情を綻ばせながらルーシーが断つのは、願い事を託す為の短冊の場所。
美しい指先で紙に言葉を記し、桔梗と鈴を結いあげる。
内容はとても単純。先ほどと何ら変わらない。
――“優しさで二人が幸福を育めます様に”
「これだね。これ以外はないね」
泡雪よりも柔らかな美貌に、優しさを浮かばせるルーシー。
きっと、あのふたりにはそんな優しい“しあわせ”が良い。そればかりと出会い、人生の幸福さを、世界の優しさに揺蕩うといい。
決して道を間違えることも迷うこともなく、何かを欠落させることもなく。
そしてルーシーは、穏やかな様子と雪と桔梗が風に揺れる様を眺める。
ゆるゆると時は流れて、雪がまた積もり始めたかと思えば新郎新婦たちが奇妙建築の奥宮へと移動していっていた。
そんな様子を見ているルーシーは、自分の頬がどうしようもなく、優しくゆるゆると緩んでいくのを感じた。
まるで熱せられたマシュマロみたい。
そんな風に柔らかく、とろりと甘く、ふたりの未来が広がっていくのを考えてしまう。願ってしまう。
――護るべきものがあるから、人は強くなり弱くもなるってよく言うけれどね。
舞い散る雪の囁きのような、ルーシーの声。
誰にも届かず、ただ桔梗の花びらの上に零れるばかりの静かなもの。
強くなりたい。
強くならなければ。
桜葉を思う颯真の気持ちは確かに真実であり、愛であって絆である。
結果として古妖の封印を解いてしまうほどの情念を渦巻かせ、更にひとつ、ひとつと鬼の刃が鞘より流れて出でるのだろう。
ひとの思いは、鼓動が止まったとしても続くのだから。
けれど、あの星詠む古妖の道案内は断つ必要があるのだ。
悲劇を招きますよ。
愛とは強い情念ですよ。
そう言われたとしても。
「はい、そうですねと邪魔立てさせるわけにもいかんのよ」
何しろ、もうふたりだけの幸せではないのだ。
皆が祝っている。ふたりの門出を祝福し、優しさで巡る『さいわい』へと旅立つことを願っている。
そんな数多の想いを、鞘走る鬼の刃で散らせなど出来るはずもない。
ルーシーは悲劇を通ってきた身だからこそ、それでもふわりと柔らかな微笑みを浮かべる心を持つからこそ、護りたいと思うのだ。
幸せが続いて欲しいからこそ、古妖の道案内を断つ必要があるのだ。
刃、やいば。
百鬼に連なる刃のひとつ。
「……急立会・落花の刃、だっけ」
名を紐解けば、恐らくは奇襲、強襲の居合である。
待ち構えて護る為にと鞘に秘める刃ではなく、全身を抜刀の為に構え、僅かな思念を捉えて放つ技。
歩法まで組み合わさるのであれば、やはり殺しの業である。相手を捉え、或いは立ち合いとなる前から急襲する。
花の如く、首を落とせと。
しかし。
刃、やいばである。
戦乱の時勢や、古妖が跋扈していた頃ならば兎も角、今は穏やかに過ごす世界。
簒奪者は古き刃を振るうが、それはどうしようもなく血に濡れた妖刀でしかあるまい。
誠の刃とは、斬るべきを斬るが、斬らずに済むのならば何事も傷つけずに済ますものである。
「なんて、侍になった気分で物思いをしてしまうね。でも、騎士の剣も似たようなものなんじゃない?」
ようするに古今東西、変わらない。
全ての剣刃とは、幸せを紡ぐ為にあり。
災禍を斬り払うべくして、在るものである。
ならばこそ、簒奪者の妖刃が今、再び瞬くというのなら。
「あいまみえた時への覚悟は、今からでもしておきましょっか」
雪と桔梗の上に、ふわりと軽やかな言葉を浮かべるルーシー。
そうだ。
何も覚悟とは、硬くて鋭いものだけではない。
愛と幸せを眺めて、胸に抱くものである。
新郎新婦の笑顔を、それを取り囲む祝福の思いを。
途切れさせてなるものか。
悲劇に沈ませてなるものか。
如何なる未来があったとしても、ただ、ただ優しい吐息と指先で未来を紡げばいいのだから。
そんな護りたいという願いをルーシーは胸に抱きかかえ、落花の刃と相対する決意とするのだった。
甘い吐息、お菓子のような脆さ。その全てが、悲劇を阻むための力になる。ふたりの未来を優しく包むものとなるのだ。
ルーシーの身体はお菓子で出来ているくらいに脆くて、儚くて、でも鼓動の中にある想いはとても強いのだから。
どんな古妖と向き合っても、決して退かないのだともう決めている。
ルーシーが揺らぐことなんて、ありえない。
そうだ。失ったものとして、自分の愛する世界を奪われたものとして――愛する|世界《ふたり》を護りたいと切に願う。
しんしんと雪は降り積もる。
螢めいた光が舞い、それを新雪たちが反射するから燦めくように照らされる桔梗の花たちの奇妙建築の宮。
季節を忘れ、あらゆる美しさを集めるような場所。
けれど、時間の流れは確かにあった。気づけば雪雲から夕暮れの光が差し込み、短い黄昏の訪れを知らせる。
「……桔梗って星みたいな花だよねぇ。なら、光と雪と花と星に祝福された場所なのかな」
渡されるという桔梗のジュースは甘いのだろうか。
そう思いながら、気づけば音も無く夜帳が迫るのを感じてルーシーは空を眺めた。
「ああ……月が出始めたのかな」
言葉の通り、夜空には凍月が覗いていた。
真円を描く姿である。
美しく澄み渡るは氷鏡のよう。
それでもやはり、何処か慈しみの色があった。
「月もふたりを祝福しているってさ。こんな時に刃を取り出すほうが、無粋って奴じゃないかなぁ」
風情がなくてしょうがないなとルーシーは肩を竦めた。
「あたしがどうしようもない刃にはもの申してあげるよ。祝福すべき場では、花と星、月に灯りは必要でも――悲劇はいらないんだってね」
だから今はと。
ゆっくりと過ぎて、夜へと深まる時を過ごすのだった。
雪も花も、音を立てて詠うことはない。
けれど。
ルーシーと共に、ただ颯真と桜葉。新しい新郎新婦の道を、ふたりの優しさで手繰り寄せる幸せへと思いを寄せる。
それは静寂の裡に綴られる、祈りの唄だった。
そうしてまた雪と夜の織り成した始めた神秘と幻想の宮の裡で、ルーシーは甘やかな笑みを浮かべていた。
誰かの幸せを護って、次の朝日を迎えられたらいいな。
そうして世界が巡るといいなと、再び優しげにふわりと微笑む。
雪風が囁けば、桔梗が詠う。
真白き色の中にて楚々と揺れる青紫の花びら。
優しくも気品の溢れる色は、冬の寒さでも色褪せることはない。
幻想的な螢の光に照らされれば、風雅なる彩として心に寄り添う。
悠久に咲き誇る花である。
誠実、永遠の愛。
それの意味を抱く桔梗は、奇妙建築の周囲に宿っている。
これから婚姻を挙げるふたりを祝福するかのように。
ならばただ祝おう。
月光の如き金色の双眸を緩やかに瞬かせて、三珂薙・律(はずれもの・h01989)は冷たくも澄んだ空気に息を零す。
黒糸のような髪は新雪の中でこそ、よりその艶やかさを映えさせるもの。
まさしく神秘的な美貌の男であった。
穏やかな風貌でありながら、あらゆる者の心を奪う。
まるで幻想的なこの雪と花のように。
本来は綾を織り成すことのないふたつの血が、ひとつに溶けた存在。
三珂薙はそんな己を半端物と云う。
あらゆる心を引き寄せるから美しさであるからこそ、禍福が糾える縄であるように善悪を問わず縁と業を引き寄せる美貌であった。
三珂薙はまさしく月の貌である。
ひとを魅了し、惹き付け、だがどうしてか狂わせる。
そんな半端な、どちらとも云えない血を宿すからこその苦労もある。
幾ら云っても解るまい。美貌とはひとと異なるということである。異貌であるのだ。
三珂薙と同じ宿命を宿す少女、桜葉。
その姿は確かに、あらゆる者を惹き付けてしまうからこそ、彼女を護る強さが必要だったのだ。
――お主も……”同類”なのだな。
三珂薙は自らの剣と、巫の力でそれを為すけれど。
桜葉は自らの伴侶、颯真の傍で慎ましくも嬉しそうに、柔らかく微笑んでいた。彼の近くでなら、腕の届く場所であるなら安心だからと。
幸せなふたりの姿は冬の冷たささえ忘れさせるかのようだった。
しんしんと降り積もる雪の中で、愛慕の温もりを脈打たせ続ける。
「ほっほ、何ともめでたい」
藤硝の奥で月光の眸を揺らし、三珂薙はゆっくりと進み出た。
この場に居合わせたのであれば、それが偶然であっても言祝ぐべきなのだから。
偶然と必然。
或いは運命というものに、差異などないのだから。
「末永く倖せに」
静かに、穏やかに告げる三珂薙であった。
周囲に咲き誇る桔梗の花の如く、静けさをもって祝福の言を届けるのであった。
そうしてすぐに身を翻す。
新郎新婦である颯真と桜葉に周囲にはいつもひとが集まっていたし、旧友が言葉を掛けるというのならその邪魔をしてもならないだろう。
それにしてもと。
三珂薙は慈しみに似た微笑みを貌に浮かべ、ゆるりとふたりの姿を眺めみる。
(決め手は愛。絆か)
ひとも妖も、心を持つものはただそれだけで強くなれる。
力量では測れない底知れぬ強さ。
冬の寒さに打ち勝ち、春の突風にも揺らぐことはない。
夏の雨に打たれてもあなたの為にと笑顔を浮かべ、秋の寂しい夜には声を重ねる。
ああ。
そんな心は、どのような刃にも勝るものだろう。
美しく、強く、何より尊きものである。
ひとりでは生きられないひとの脆さ、弱さが、翻って強さと輝きとなる。
(人間の想いと云うものは、まこと奥が深い)
自らの情念を雪に歌い、花に奏でる。
移ろう季節に託すのは自らの命の短さ、儚さを知るが故に。
頷いて理解し、けれど消え去ることを善しとしない。自らの想いよ、何処か遠くまで届き、咲き誇れと願うのだ。
そうやってひとの世界の幸福とは、何処までも広がり続けている。
だからこそ。
そう、だからこそ――半端物の三珂薙は自らの半妖の血が、今ばかりは憎かった。
自らの血筋、出自に悩まされるような心の幼さはとうに過ぎ去った。が、半分はひとであり、半分は妖である。
更にいえばどのような妖の血を引いているかは本人次第、その濃さもまた違うのである。いわば、同じ存在がひとりとしていない。
月は夜空に浮かぶ。
常に美しく、孤独な貌である。
三珂薙にも弟はいるが、彼よりも妖の血を色濃く受け継いでいる。
だからこそ稀に溢れ出す妖の衝動が、血の疼きが――怖いのである。
穏やかな表情をしている三珂薙。
誰かは師匠といって慕う、温和な男である。
だが一時とて妖の血が昂ぶれば、果たしてどうなるのか。
(無意味な赫は流さぬ方が好いのだ)
深紅に染まる月が美しいという者もいるだろう。
だが、そこに不吉や恐ろしさを感じるものがいるならば、月は優しい光を零すだけでいい。
(解って、いる)
理解されないひとりきりの半端物であることを。
共に誰かと進むことのできない、半妖の血の恐ろしさを。
そうして寂しげに微笑み三珂薙の貌は、やはりどうしても――ひとの心を惹き付ける美しさがあった。
甘やかに、秘やかに。
妖艶なる香りを漂わせる、月花の姿であった。
時として血の匂いと色を浮かび上がらせる、不思議な存在。
(解っている)
だからこそ三珂薙は、穏やかな様子を保つ。
心のざわめきを鎮め、不安を溶かし、ひとの心を護る月光たらんとする。
今はそう。契りを結ぶ仲睦まじいふたりを遠くから見守るのである。
ふ、と。
三珂薙は切なげに唇より吐息を零した。
白い。まるで雪のようだ。
けれどすぐに冬の情景にと溶けていく。
――ああ、儚いな。
そう思うからこそ、はらり、はらりと落ちる牡丹雪に手のひらを翳す。
落ちた雪のかけらは、人肌に触れてすぐに溶けて消えてしまう。
けれど螢光を見つめていけば、雪の降り続く景色の裡に懐旧を見出していくのだ。
きらきらと。
螢の光を受けて輝く、雪はまるで星のよう。
その中でかつての、とても遠い思い出を見つけて、想いを馳せていく。
そうあれは幼少時だっただろう。三珂薙は母と一緒に、家の庭で雪遊びをした。
『母様! 母様のために、雪うさぎを作りました』
何も憂うことなく、悲しむことのなかった幼い三珂薙が笑って雪の上を跳ねる。
手のひらにちょこんと乗っているのは、その手で作った雪うさぎ。
今思えば幼い子供の作ったものなのだから、愛嬌ではすまない拙さもあっただろう。
けれど母は、何処までも嬉しそうに笑うのだった。
『まぁ、まぁ。何と愛らしい。これをわたくしに? ――ありがとう、優しい子ね』
ああ。
今、三珂薙が穏やかに。優しく。
慈しむ月の微笑みを浮かべることが出来るのは、過去の|母様《あなた》の愛と優しさがあるから。
そうでなければ、何処かに埋もれていたかもしれない。
そして、まだ何処かで立ち止まりたくないのだと、終わるつもりはないのだというように三珂薙はゆっくりと桔梗の宮を歩いた。
神秘的な桔梗の花である。
永久に咲き誇るものであれど、ひとつひとつにしっかりと手入れがされている。不思議だから、神秘だから。そういって遠ざけるのではなく、優しく丁寧にと手入れをしているのは、やはりひとの心である。
ひとの想いのひとかけら。
それに触れることで、なんと心が安らぐことだろう。
三珂薙が庭師であるからなおのこと。
同時に、人間の想いの奥深さを知り、もっと識りたいと願うからこそ。
そうして辿り着いた短冊に、鈴と桔梗と共に願いを託す。
――これからも彼らの憂いを晴らそう。
澄み渡る月が見つめ、夜帳の中でも迷わず進めるのだと道を示そう。
ひとや物に宿った|記憶《こころ》を読み解き、正しく進めるように。
それこそが。
――俺が”俺”で居られる様に。
その為に大事なことなのだから。
優しい桔梗の宮では、花びらと雪と、そして光が揺れる。
儚くとも永久に在る、ひとの心と魂と共に。
そうして夜が訪れようとしていた。
冷たい月が、しんと射干玉の夜空に浮かぶ。
第2章 冒険 『雪景色の館』
●断章 ~ 月と水面に浮かぶ ~
緩やかに時は流れ、夜へと至る。
新郎新婦のふたりが誓いあった奥宮。
その庭では、見事な池があった。いいや、庭全体に水が流れ込んでいるのである――まるで、奥宮が水の上に建てられているかのように。
澄み渡る水は清らかであり、緩やかに流れ続けている。
凪いだ水面はまるで氷の鏡であった。
夜空には凍て付くような冬の満月も浮かぶ。
しん、と静まりかえった空気。
明澄なる月の姿は、ひとの心を捉えて映すかのよう。
清らかな水面は、ただただ現在を、そして過去も未来をも浮かばせるかのよう。
聞けば、この水庭に満月が浮かぶ時に覗き込めば、ひとの心を映すという。
それは願いである。希望である。或いは過去であるかもしれない。
新しい自分は、未来の自分はこうあって欲しいという幸せな夢が水面と月に浮かぶし、悔恨の記憶や罪の意識が映り込むこともあるだろう。
さらりと流れる水の音は、かつての、或いは未来の声である。
こうして向き合い、何を心に抱いているのかと見て、祭りを終えるのだという。
水の届かない場所には雪が降り積もり、桔梗の咲くこの宮で、この祭りの最後では。
けれど。
そうしたくないなら、ただ雪景色と池、そして月を眺めてゆっくりと過ごすといいだろう。
幾つもの火鉢は庭を眺める一室におかれ、客人をもてなすように桔梗を模した砂糖菓子が用意されている。
新年を祝う食事もまた、豪華なもの。
おおよそ、あるものであれば何でも食べられよう。
桔梗を模した白と紫の甘い餅。それを小豆餡で煮込んだぜんざい。
立派な料理としてはジビエの肉と刺身が用意されているし、縁起のよいものは幾つも並んでいる。
或いは、暖かい火鉢に手を翳しながら風景を眺めて、カルタで遊ぶのもいいだろう。
今はただ、ひとときを。
各々の思う、新しい年と道へのひとときを。
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・解説
選択のPOW/SPD/WIZは基本として無視して頂ければ幸いです。
月の浮かぶ水面に自らの思いを浮かばせるシーンです。
過去や未来のIF、或いはぐらいの感じで書かせて頂ければです。
ある意味では捏造かもしれませんし、もしかしたら過去や未来のひとかけらかもしれません。
全てが真実であるわけではなく、奇妙建築の見せる幻のひとひら――そのような感覚で。
アドリブの多さは指定して頂けると幸いです。ある程度は対応出来ますので。
過去の願い、未来への願い。
どれでもあって、幻のように水面に浮かび、皆様の傍にあるでしょう。
勿論、心を映す水面ではなく食事や雪景色で戯れても大丈夫です。
場の雰囲気を壊さない程度であれば、好きなことをして頂いて大丈夫です。
雪の降りしきる夜。
冷たい静寂の裡で、火鉢の温もりが広がっている。
指先を伸ばせば、まるで大切な誰かと手を重ね合わせるかのようだった。
安堵という暖かさが胸の奥まで伝わる。
ふるりと身を震わせれば、柔らかな吐息が零れた。
「寒いからこそ、暖かさをより感じるのですね……」
寂しいから、より誰かへの想いが膨らむように。
ほんの小さな想いでも、冬の寒さは幾らでも膨らんでいく。
「それが冬の情景、静かさというものなのでしょうか。私には、まだ広い世界はよく解りません」
囁くのは月灯りのような白い長髪に、透き通るような白い肌の少女。
月の寵愛を受けし静峰・梢(月光の牙・h09074)だった。
こくりと不思議そうに小首を傾げるのは、隠されて育ったために世界の多くのことに触れる機会がなかったせい。
まだまだ世界には梢の見たことのない、感じたことのないものが溢れている。数多の色彩は綾模様を紡ぎ、物語として広がるのだ。
いま梢が黒い双眸を揺らすのは空腹を感じてしまっているせいだけれど。
「あまり、お祝いの席ではしたないことはしたくないのですが……。お腹が空きましたね……」
くう、と寂しげに鳴くお腹の虫を感じてぽつりと零す梢である。
それも仕方のないことだろう。座敷で出された料理はどれも素敵なものばかりだった。
色艶に匂い。そのどれもが五感と食欲を刺激するもの。
礼儀作法を忘れずになるべく、がっつかないように……。
でもこの後に戦いがあるのならと、量はちょっとだけ思い切って、心が満ちるまでたくさん食べてみよう。
まず何事も食事から。
気合い十分で挑まなければいけない筈です、とむんっと思いを定めた梢は食事の席に座ると、そろりと箸を動かした。
ぜんざいにお餅。それならお腹にたまるし、はしたないと思われるほど食べる必要はないはず。
ならと口に運ぶのは桔梗の形に切られ、青紫の色に染められたお餅である。はむ、と噛んでみれば僅かな驚きが梢の口の中に広がる。
――甘い。
まるできな粉をまぶしたかのようである。
青紫色の彩りは桔梗の色に近づけただけではなく、お餅の味と食感を殺さない、程よく淡い甘みをつけるものだった。
もぐもぐ、もぐもぐと噛んでいく梢。
甘くて美味しいお餅に頬と表情が緩み、少女らしい幸せな笑顔が浮かぶ。
そのままぜんざいに口をつけた。こちらは暖かい甘さである。微かに残った小豆の食感が、口の中でころころと転がる楽しさがある。
「ふう」
ゆっくりとした食事だったが、気づけばだいぶ食べてしまったことに気づいて梢は僅かに瞬きをする。
失礼だったかなと慌てていると、給仕のひとが楽しそうに、いいや嬉しそうにと近寄ってお代わりのお餅をくれた。
「子供はそれでいいのよ」
熱い緑茶を注いでもらいながら、梢はこくこくと頷きながら聞いていく。
「沢山食べて、沢山幸せの場を感じて、自分の未来を進んで貰えれば。きっと、この場の料理たちも、新郎新婦も笑ってくれる貴女に喜んでくれるはず」
「そうでしょうか。そうであるのなら、私も嬉しいです」
子犬のように素直に笑う梢だった。
そうして、ふと。
静かな夜に浮かぶ月を見上げる。
いと冷たく、いと美しき皓月である。
詠うことはなく、静寂の裡にあるがひとの心に何かしらの想いを湧き上がらせる。ましてや月に愛された梢であるなら、なおのこと。
ぞくりと、鼓動の奥で何かが跳ねた気がする。
その存在へと出来るだけ気づかないフリをしながら、梢はゆっくりと凍月を眺めていた。
――月。この身の、妖たる部分を司るもの。
半人半妖である梢である。
神秘的なほどに美しき美貌は、どうしようもなくひとの心を惹き付けるもの。
月がただ佇むだけで、そうあるように。
雪が、花が、螢が。ただ舞うだけでひとの情動を震わせるように。
だがそれは、ひとから掛け離れているという証拠だった。美貌とは、異貌ということなのである。
だから梢が心の底から正直に言えば、どうして普通に生まれさせてくれなかったのだと、少しばかり恨むような気持ちもある。
離れの座敷に閉じ込められるように育てられることもなく、自由に歩けた筈なのにと。
けれど、月に愛された半人半妖として生まれたおかげで振るえる力とてある。それ故に、故郷が潰えてもなお生き永らえることができたのだ。
自分の全て。自分の起点。
それを全て、今すぐに嫌えるかというとそんなことはない。
一族のような艶やかな黒髪に憧れる気持ちは今もあるけれど、梢の白い髪を美しいといってくれるひともいる。
そんな人たちと関わった今までがあるからこそ嫌いとは言い切れないし、それは時間を経るごとに深くなっていくだろう。
だが生きるほどに、好きだとも言えなくなってしまう。考える時間は増えていって、果たして梢とはどのような存在なのだろうと、
答えが出るはずもない。
どうして私を愛したのですかと月に問うても、ただ静かな月灯りを零すばかりである。
「見ている分には綺麗なのですけれどね」
そんな複雑な気持ちを抱きながら、雪雲の隙間から覗く月を眺める梢だった。
庭では澄み渡る水面が、まるで鏡のように広がっている。
月は空と水の裡にその姿を表し、しんっと静まり返っている。
あの水鏡を覗けば、どのようなものが映るのだろうか。
複雑な思いを抱く梢は、けれど、それを見つめる気持ちを持てなかった。
勇気が足りないのではなく、覚悟がないのでもない。
何を眺めて、見つめたいか。
それが未だに上手く掴むことのできない、少女の心だった。
ただ愛する者を抱くように、月の光が梢を照らし続ける。
静かな水面が、ゆらりと。
眺める者の情動の揺らぎを映すように、揺らめいた。
それは錯覚だろうか。
冷たく、澄み渡る水鏡である。
風ひとつ吹くことなく、凪いだ儘である。
だからこそ澄み渡る凍月が、こうこうと水の裡に映り続けているのである。
いいや、水の奥に抱かれて埋もれているのだろうか。
確かなことは解らない。
三珂薙・律(はずれもの・h01989)の月光に似た金色の双眸でも、月と水面の想いは識ることができない。
何故なら三珂薙は今、その月浮かぶ水面に想いを馳せる側であるのだから。
神秘的なほどに美しき貌に、その血に宿る記憶を託すように。
静謐な月と水の鏡に、過去を浮かばせる。
『母様!』
幼い頃の三珂薙が、自らの母へと雪うさぎを渡していた。
雪の降り積もる庭を無邪気な心のままに跳ねて、歩いて、愛しいひとへと温もりを渡すのである。
冷たい雪とて母への愛情を注いで雪うさぎにすれば、心へと届く暖かさを宿すというもの。
そんな三珂薙の姿を見つめる男がいる。
父親であった。無言で、何も言うことなく、まるで雪の静けさそのままにと見つめている。
その眼差しは確かに”父”のものだった。
子供の成長と日々を見守り、慈しむものであった。
どうして我が子を愛おしまない親がいるだろうか。母のように言葉を交わし、視線を合わせることはなくとも、父の視線を感じるからこそ三珂薙は無邪気な子供として遊び尽くすことができた。
指先と心を伸ばして、感情と思考で世界を識って。
そうしてまたひとつ、ひとつと先へと進んでいく。
ああ。水と月のふたつの鏡は、なんと愛おしい過去を映すのだろう。
夢幻である。
誰かがひとつ、咳でも零せば壊れてしまう儚いものである。
だからそっと三珂薙は吐息さえも秘やかに、水に浮かぶ記憶の欠片を眺める。
もはや手で触れることは出来ないのだから。
心に抱くように、金色の双眸で見つめ続ける。
いずれは母の手も、父の視線も届かない場所へと三珂薙は行くのだろう。
だがそれこそが親の幸せであると、父も母も微笑みを浮かべていた。
紛れもない暖かな家族愛であった。
そのなかで揺れるように動く三珂薙の心は、しっかりと育ち続けていた。
優しさを識り、強さを識り、守るということを識る。
全ては親より託され、何れ誰かへと渡すことになる心の色彩。温もり。そして輝きなのだ。
三珂薙の父は妖である。
凶暴で残忍と詠われる大妖怪であり、戦場に立つ彼を知るものであれば、このような慈しみの眼をするのかと驚くだろう。
だが父として、我が子に優しさと慈しみを惜しむことなく注いでいた。
多くの言葉はなかったかもしれない。だが、眼と表情で、仕草で三珂薙に愛を伝えていた。
まるで雪と月が、音も無く誰かを抱きしめるように。
雪の柔らかさが母であれば、月の静けさが父であった。どちらも掛け替えのない、尊いものであった。
父と母、どちらも偉大な存在である。
愛された子がそう頷くだけではなく、周囲も認める存在だった。
或る大妖怪と退魔師の血を引くもの。ならば、妖の側としても人の側としても、両親に恥じない存在になりたいと、三珂薙の心は優しくも強靱な願いを抱き始めていた。
誇らしくて、愛おしい家族。
なら、愛と誇りをもっていずれ報いたいのだと子供心に願ったのである。
弟との関係も良好である。ただ、弟からの感情は少しばかり複雑なものだった。
『にぃ、にぃ。ぼくにもうさぎ!』
深い雪の上を跳ねて、三珂薙の後を追う弟。
この頃は、今より少しだけ複雑さも薄いものだったかもしれない。
『仕方ないな、特別だぞ』
そんな風に顔を合わせて、笑顔を向けて、話し合うことは――さて、最後は何時だっただろうと今の三珂薙は首を傾げてしまう。
そうしてゆるりと。
しかし時は無常にも流れて、幾つもの冬が過ぎて、また訪れて。
兄弟はまたこの場に訪れていた。
『昔、ここで律兄に雪うさぎ作ってもらったんだっけ。懐かしい』
弟が言う。
懐かしい温もりを、胸の奥に抱いて。
かつて自分たちの家の雪庭だった場所を眺めながら。
『よく覚えてたな』
三珂薙は言う。
覚えていてくれたことは嬉しくて、けれど、何処か擦れ違うような悲しみを感じながら。
『嬉しかったからね? 忘れたくなくて』
何処までも真っ直ぐな言葉に、三珂薙は視線を逸らした。
雪のような優しさがある。
だが、白雪の冷たさとてあった。
『大袈裟な。大したことやっとらんだろう』
けれど、と。
水面に浮かぶ弟は、柔らかな声色を揺らした。
冬の寒さを忘れさせるように。
『僕にとっては大切な思い出なんだよ。……とても、ね』
そう、とても大切。
家族なのだから。血を分けた兄弟なのだから。
だからこれは当然のことだと、弟は続けた。
『例えこの先、離れ離れになっても――僕は律兄を忘れないし、絶対見つけるよ』
泡雪のような柔かな声だった。
だが決して溶けることなく、色褪せることなく三珂薙の心へと届く。
世界の広さを理解しながらも心の儘に言う弟に、ふと三珂薙は言葉を投げかけた。
『……死んでいたら?』
それこそ、なんて冷たい問いだろう。
今思えば、どうしてこんなことを言ったのは三珂薙も解らない。
ああ、なのに。弟は雪よりも柔らかな笑みを、確かに浮かべて詠うように答えたのだった。
『黄泉の国を練り歩くのも悪くないなぁ』
そんな約束を。
交わしてしまった言葉を、願いを、今もまだ確かに三珂薙は覚えている。
今も心の底に揺蕩う言ノ葉。
きっと死を以ても分かつことは出来ず、死を以ても塗り潰すことはできない。
きっとその言葉は、今もまたふたりを結んでいるはず。
そう信じて瞼を閉じる三珂薙。
呼吸を整え、鼓動を鎮める。
ならば憂いを解いて、ただ待とうか。
必ず自らの元へと辿り着くだろう弟の存在を信じて。
だから三珂薙は瞼をあけた。
――しんっ、
と静まり返った水面と月、ふたつの鏡はもう過去の幻を映していない。
進むべき現実と今が、ただ広がるだけだった。
凍月の皓々たる光が、ふたりの姿を照らす。
ひとりは白雪の儚き風貌の青年。
ひとりは春を告げる柔らかなる少女。
柔らかくも楽しげに、まるで靴で旋律を奏でるようにふわりふわりと進む少女を、優しく揺れる青年の菫色の眸が見つめている。
決してふたりが離れることはなかった。
常に一定の距離を保ちながら、くすくすと詠うように微笑む少女が前へと進む。
まるで冬の先へ、暖かな未来へと歩くように足音を響かせるのはオフィーリア・ヴェルデ(新緑の歌姫・h01098)。
新緑の翠を宿す双眸は、きらきらと輝く木漏れ日のようだった。
オフィーリアの姿は冬の寒さを忘れさせ、ひとの心に暖かな気持ちを取り戻させる。
無垢金のような柔らかな長髪はふわふわと靡き、後を追う青年――クレス・ギルバート(晧霄・h01091)に優しい微笑みを浮かべさせる。
月灯りを受けて輝くような白雪の髪に、甘い菫色の眸。
儚げな貌は冬の情景を映すようでありながら、先を進むオフィーリアのお陰か冷たさの一切を感じない。
雪は柔らかなものである。
冴え渡る月は、夜の帳を払うものである。
そんな優しい御伽噺の言葉を思い出せるようなクレスだった。
オフィーリアとクレス。ふたりだからの、春と冬が共に進む道だった。
どちらでも花は咲いて、唄は空へと舞い上がるのだと。
そうして辿り着いた池の水を見て、オフィーリアはぱちりと瞬きをひとつ。
「まあ、なんて綺麗なのかしら。水底まで見通せるように澄んでいて、月影を浮かばせるほどに物静かで」
くすくすと微笑むオフィーリアの声だけが、静寂へと浸み込んでいく。
いいや、オフィーリアだけにはさせないとクレスも柔らかな声を紡いだ。
「ああ、そうだな。過去か未来か、或いは願いを映すというのも頷けるほどに綺麗だ」
静謐な世界で、歓びも哀しみも。
希望も優しさも、嘆きも怒りも。
全てを受け止めて抱きしめ、ヒトの心を汲み取るかのように映す水面がそこにある。
まるで大きな水鏡だった。
ふたりの姿を映すには、大きすぎるほど。
何処か神秘的なほどの美しさを感じるクレスに対して、オフィーリアはふわりと微笑むばかり。
気負うことなく、ただ全てを楽しむようにと胸の前で自らの指を重ねて、祈るようにと言葉を奏でる。
「過去や未来が見えるだなんて、まるでおみくじのようね」
ふと思いだしたように小首を傾げるオフィーリア。
こんな事を聞いた気がすると、くすりと笑って告げるのである。
「そういえば、何処かには水に浸すと文字が浮かぶ、水おみくじというものがあると聞いたことがあるわ。これもそれに似ているかしら?」
「そうなるとおみくじが俺たちの心になってしまうかな」
「それもまた素敵じゃないかしら。今までの、そしてこれからの心が浮かぶのなら、きっと綺麗なものが浮かぶはずよ」
何処までも優しい世界を信じて、疑うことのないオフィーリア。
笑顔を咲かせる貌を見つめて、クレスも緩やかに頷く。
「だから一緒に覗いてみましょう。折角なら一緒によ。新しいものは、一緒に」
幼馴染であるクレスの手を引いて、水辺にと近付くオフィーリア。
仕方ないというようにゆっくりと頬を緩ませるクレス。
今はまだ知らない、新しい世界と景色をみよう。ふたりの瞳で、一緒に映そう。
そんな旅の始まりを思い出しながら、クレスは菫色の双眸を水面に向けた。オフィーリアも、春告げの彩を宿す眸でそっと水面を見つめる。
「まあ」
ぽやぽやと。
花が綻ぶような柔かな吐息を零し、笑みを深めるオフィーリア。
心が躍るままに覗き込めば、綺麗な衣装を身に纏って楽しげに歌う自分の姿がそこにはある。
まるで翼を広げるように自由に。
それでいて、心から安堵して楽しく歌っているのだと一目で分かる表情。
知らない服だからきっと未来の姿なのだろう。
心のままに歌うということ。
感情の旋律で奏でるということ。
その幸せに包まれているということが、何よりも嬉しくて瞼を閉じるオフィーリア。
虚弱な体質も少しは改善されただろうか。
そうであればクレスの不安をひとつだけ取り除けている筈だと、ふふふ、と笑みを漏らす。
そして長い旅路を伴う幼馴染に問いかける。
「ね、クレスには何が見えたかしら」
「――――」
答えは緊迫した沈黙だった。
押し殺したようなクレスの息を感じて、オフィーリアがそっと見上げる。
クレスの甘やかな菫色の双眸は揺れていた。
苦しみ、哀しみ、嘆いて……少しだけ怒っている。
何が見えたのかと幼馴染が視線を向ける水面を見ても、オフィーリアには何も見えない。
だって水面に浮かぶのはクレスの過去だから。クレスだけの幻だから。
どうしても心の底に付きまとって潜む、悲嘆と怒りの記憶だったら。
そればかりは、どれほど傍にいる幼馴染でも一緒に触れてあげることはできない。
そう。クレスが見つめるのは、いつかの幼き日の記憶。
二人が迷い込んだ異界の先。
当時は戦う術も、握る刀も持たない非力なクレス。
かつて竜ではあった。だが、脆いひとの肉体へと落とされたのだ。
暴虐の儘に荒れ狂い、嗤う簒奪者からオフィーリアを守れず、何も出来ずに喪った記憶。
花びらが散るように、深緋の鮮血が飛び散っていた。
その中央で横たわるオフィーリアへと手で触れて、温もりを失い続けていく身体を揺らしている。
――この手が暖かければ、リアの命は喪われずにすむのだろうか。
――俺がほんとうに強ければ、リアの微笑みと温もりが掻き消えることはないのだろうか。
そんな悔恨の念が、自らの弱さという罪を責め立てる怒りがクレスの胸で波打った。
だが、そんなクレスを心配したのだろうか。
激痛と死への恐怖。その最後にあって、オフィーリアは優しい微笑みを浮かべていた。
――クレスのせいではないわ。泣かないで?
そんな優しい子守歌のような聲が聞こえる気がするからこそ、クレスはより自らの弱さを責め立てる。
嘆き、哀しみ、だが怒りを覚えたのは簒奪者にだけではない。こんなにも無力な自分へと、どうしようもない悲憤が向いたのを覚えている。
そうだ。過日の消えぬ罪咎と後悔は、今もクレスの胸に燻っている。
残火は揺れる。膨らんでいく。心が軋み、赤く黒い渦巻いて炎となる。
自らの弱さを許すなと、炎が叫ぶ。
それは大切なものを護ろうとする、竜の怒りであった。
リアを傷つけるものを全て焼き払え。
もっとも大切な一輪の花の為、自らを含めて世界へと灼熱の瞋恚を向けろ。
そうだ。そうするべきなのだと思いながら、だがクレスは寸前で踏み止まる。
過去がそうであったように。
今もまた耳元で歌う花の聲が聞こえたから。
「クレス。どうしたの? 大丈夫かしら?」
ふふふ、と。
疵付いたクレスの心を慈しむからこそ、心から心配するからこそオフィーリアの聲は柔らかだった。
決して咎めるようなことはない。
いつものように優しい声色で、耳朶に触れて心を撫でる。
必要以上に心配すれば、この幼馴染は自らを責めてしまうだろうから。
「もしかしたら寒すぎたのかしら? クレスの指、手が冷たいわ」
両手で優しくクレスの手を包み込み、ふうと暖かな吐息を吹きかけるオフィーリア。
本当は脆い身体なのはオフィーリアで、寒さには人一倍辛いはずなのに。
それでもクレスの心を、暖めようとする春花の聲。
決してクレスはオフィーリアには弱い所を見せるのを嫌う。
だから踏み込まず、恐怖で冷たくなったクレスの心をこそ暖めようと触れるのだ。
そうして何時もの声色のままに、オフィーリアは語る。
自らが見た幸せな未来を。
「私、唄っていたわ。何処かはわからない、何時かもわからない未来だけれど。心のままに、自由に」
「…………」
クレスの呼吸が、掠れている。
だからこそ、もっとゆっくり。
ゆっくり、ゆっくりとオフィーリアは聲を紡ぐ。新緑の眸を向けて、菫の眸から傷みを拭おうとする。
「でもね。未来で私が楽しそうに過ごしているという事は、クレスも健やかに過ごしているという事。だから大丈夫よ」
だってと、春花の聲は告げる。
「私が安心して唄えるのはクレスがいるから。知らない場所でも自由に羽ばたいて、歩けるのはクレスがいるって安心するから」
――私の幸せには、あなたが寄り添うの。
そうでなければ可笑しいわ。
だって、今の私はこんなにも暖かな幸せを感じているもの――
そのひとかけらだけでも返せるように。
クレスの手を抱きしめ、ふうと息を寄せる。
「だから大丈夫よ。クレスがいるなら、どんな夜の底でも怖い事は何もないわ。ふたりなら全て上手くいくわ」
だからこの後もきっと、目的を果たせるはず。
幼馴染への無条件の信頼を――過去から募るその色を瞬かせて、オフィーリアはぽやりと微笑んだ。
夢のように、花のように柔らかく。
ああ、だから護りたいのだとクレスに強く想いを抱かせる可憐さだった。
「必ず無事に帰ってきてね。足枷にならない様に、私はちゃんと大人しく待っているから」
足枷になんてなる筈がない。
今だって、クレスの翼はオフィーリアの心そのものだ。
そんなことを言おうとすれば、それこそ怖いものを見ていたのだと。自分が許せない過去を見ていたのだと認めてしまうから。
そんな心配をかけたくなくて、クレスもゆったりと笑った。とても不器用な、優しさばかりの貌だった。
「大丈夫――俺には何も見えなかった。これ以上を望む必要がないからだろう」
クレスが嘯いて瞼を瞬かせれば、もうオフィーリアが心配するような色はなにひとつとてない。怒りも、哀しみも、悔恨も。
「だって、リアの手を握れている。それだけで十分だろう?」
「まあ。やっぱり今日のクレスはお上手ね」
ただとクレスはオフィーリアの笑みに声を重ねた。
「リアが幸せに唄えている姿が見えたのなら、その願いを大事にして欲しいな」
――だって俺にとっても大切な未来だから。
クレスに柔らかな光と色彩をもたらしてくれるのは、オフィーリアなのだから。
「クレス……」
「大丈夫だよ。心配すんな、前に言っただろう?」
そういって、今度はクレスの両手がオフィーリアの手を包み込む。
冷たくて、小さくて、綺麗な手。
この指先が傷つくことのないように。悲しい血の色に、もう染まることがないように。
「俺の還る場所はお前だ」
クレスは微笑み、自らの外套をオフィーリアの肩へとかけた。
約束を交わすように。
必ず戻るから。いつだって、リアの傍に心はあるから。
だから今回もやるべきことを果たして、一緒に帰り途を歩こう。
「寒いだろう? 少しだけ、これで暖かくなって待っていてくれ。……汚すなよ?」
「ふふふ、もちろんよ。だってクレスの色だもの。綺麗な雪の色だもの」
皓々たる月灯りのもとで。
帰り道の約束を交わすふたりの幼馴染。
春を告げる新緑と、冬の儚い雪の色。
微笑みあって、温もりを分け合って、未来へと進む。
そう、帰り道の後には明日へと進むことだって待っているのだから。
約束よ。
唄う聲の優しさと大切さに、慈しみを乗せて白き姿は頷く。
炎のように熱くはない。
雪氷のように冷たくもない。
心というものは、とても優しい温もりで織られた画布なのだから。
夜の|静寂《しじま》に月灯りが寄り添う。
澄み渡る月と水面。
どちらも冷たく、美しい鏡の姿をしていた。
冬の情景、そのものである。
庭のほぼ全てが池のような、或いは水の上に宮を建てられているかのような景観にふわりと吐息を零す少女がいた。
赤い双眸はまるで艶やかな赤い果実であった。
白から赤へと色づく長髪は、想いを募らせて色づく花びらのようであった。
徒花・すふぃあ(|実をつけて《出会った事で》|咲いてしまった徒花《徒花ではなくなったモノ》・h07592)である。
徒花でありながら実をつけ、咲き誇る少女はこくりと小首を傾げながら、池を覗き込んでいた。
「んに、綺麗な池だねっ」
何処までも透き通る水である。
鏡のようでありながら、池の底の小石さえも見つけてしまえそうなほど。
「透き通っててなんでも見透かせそうなくらいっ」
外も、内も。
全てを映して見せる、夢幻の水鏡であった。
今や夜空に浮かぶ凍月とて浮かぶ。
こうこうと、真円を描く月はさながら誰かの眸であるかのようで――。
「……つまり、わたしの事も見透かしてきそうだね?」
柔らかくも可憐に、そして小悪魔のように微笑むすふぃあ。
自らを映す水面へと、更に身を乗り出してみせるのであった。
もしも見透かせるというのなら、試してみて。
そんな蠱惑的な、見る者の心を惹き付けて惑わすような美貌をより水面へと近づけるのである。
すふぃあは徒花である。
だが、まるでこれはひとの心を狂わせ、惹き寄せる月の魔性にも似ていた。
そんなすふぃあの心と記憶の奥底から、ゆっくりと幻として浮かぶのは――気弱そうな、獣耳のない自分の姿である。
キメラ憑きであると周囲に名乗る前の、人間災厄『徒花』であった頃の姿である。
「あはっ♪」
在りし日の肉体の姿を見て、すふぃあは楽しげに微笑む。
無邪気に、無垢に、弾むように。
だからこそ、よりひとの心を惹き付け、奪い惑わす徒花の笑み。
「やあ、久しぶりだね、人間災厄の徒花ちゃん」
水鏡に映った幻というより、まるで自らへの内側へと囁くようなすふぃあの声色。
指先も自らの心の奥底へと触れようとしているように、豊かな胸にぴたりと止まる。左胸、心臓の真上に。
その裡に眠る存在へと語りかけるように、ゆらゆらと赤い眸を揺らす。
「こうしてその姿を水面に映すなら、やっぱりキミの魂は消えていないようだね」
嬉しそうに、楽しそうに。
自らに等しい存在へと、詠うように語りかけ続ける。
水面も月も、幻も、全ては物音ひとつたてることなく、言葉で返すことはなくとも。
すふぃあは信じている。感じている。それが一番大切なのだから。
「わたしとしても、そうであってくれて嬉しいよ」
だって、消えてしまうなんて悲しいじゃないと。
肉体を譲り受けたからこそ、何の繋がりもないなんて言えないから。
同じもの。同一のもの。だからこそ、無常に消え去ることはなく、共にあることを願うのだ。
「キミとわたしは同じ存在」
まるで自らの感情のひとつの側面。
いいや、自らの身体に眠る魂へと呼びかけるように続けていく。
狼と狐の耳と尾をゆらりゆらりと揺らしながら。
まだ獣の耳も尾ももたない姿へと、何度も何度も。
「ただキミは、数多のスフィアの中でも多分異質だけれどね」
――しんっ、
唐突に静寂が重さを持った。
静けさはそのままに、すふぃあの心へと何かの圧力がかかる。
月の光さえも更に冷たく、そして何かを訴えかけるように。
ぞくりと背筋が震える。心の奥底で何かが揺れる。
そう、まるで魂が囁く声を聞いてしまったかのように。
美しい幽霊の聲を聴けばこうなるだろう。黄泉の歌に触れれば、きっとこんな甘くて冷たい陶酔を感じてしまうのだろう。
それでもすふぃあは、んに、とやはり小悪魔のような笑顔を浮かべて、目を細めた。
「そっか、人間災厄として管理されてたのがそうさせちゃったんだね」
人間社会を崩壊させてしまう災厄そのもの。
だからこそあまりにも徹底した管理が行われたからこそ、儚くて脆く、脆弱な魂は死に瀕してしまったのかもしれない。
死へと抗うことより、徒花として散ることを選んでしまったのかもしれない。
うんうんと、共感を示すようにすふぃあは頷き、指先を滑らせる。豊かな胸の輪郭を撫で、ほっそりとした腰のラインを撫で、首筋に触れ。
これが貴女のものだった。
そして私の姿であると、指先で奏でる。
大丈夫。ちゃんと貴女の肉体は此処に在る。
一緒に生きているよ。まだまだ、未来を楽しもうねと妖しく微笑むのだ。
「作られたモノであるわたしの器も耐えきれなくて壊れたからね」
そうして魂の姿へと、水面へと。
意味はないと分かっているのに、すふぃあは手を伸ばした。
触れればきっと壊れてしまう水鏡の幻である。
だとしても、できることならと。
願いが叶うならば、刹那の触れあいを。
ひとときばかりの交差と接触は、結局は寂しさを募らせるものかもしれないけれど。
「やっぱりわたし達、スフィアは何処か繊細なんだろうねっ」
弾む声と共に指が水面に触れる。
凪いだ湖面は、ただそれだけで波を立てて鏡のような姿を壊してしまった。
そこに浮かんでいたすふぃあの肉体の持ち主、魂の姿さえも。
ああ、結局はこうなるのだと。
徒花を散らした指先をするりと惹き寄せ、すふぃあは唇で触れる。
ぺろりと赤い舌で、自らと同一存在であった魂の|幻《すがた》を壊した指先を舐めて。
くすりと。
んに、と。
小悪魔のように甘やかに微笑み、柔らかな吐息をこぼす。
――キミの魂の味がする気がするね。
いと冷たく、いと美しく。
それこそが今宵の月と水面である。
冬の情景、その静けさを秘めた場所である。
過去と向き合い、新たな希望を見出す為の水鏡の池。
そんな場所を訪れたクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、痛みを覚えたように青い眸を揺らした。
ああ、許されることはないのだ。
希望を欠落させ、それでも生きるこの身は。
幾つも、何度でも、罪を見つめて、心から血を流しながら生きるのだ。
「それでも俺は、今は笑いたいって思うから……」
逃げない。
過去からも、未来からも。
それが今のクラウスの願いであり、心である。
みんなの中に自分も含めて、笑っている世界がいい。
優しくて穏やかで、希望なんて確かな道標がなくても生きていける幸せな世界がいい。
だから、逃げない。
そこに至る為の心の強さを求めるように、クラウスはそっと水面を覗き込んだ。
そこに映るのはきっと過去の罪だろう。
あの赤い眸をした親友が、太陽のような彼が自分を庇って死んだ光景だろう。
罪人の自分には相応しい。
ずっと抱き続ける咎であると、覚悟の上で水面を眺めれば――。
「あれ」
浮かぶ幻は、思っていたものとはまったく違う優しい光景だった。
誰がそれを求めたのだろう。
誰がそれをクラウスに見せているのだろう。
確かなことは何も解らないが、クラウスの鼓動が少しだけ早くて暖かくなる。切なさできゅっと締め付けられて、嬉しさで双眸が揺れる。
水鏡に浮かぶ幻。
それはクラウス自身が誰かと共に幸せそうに笑い合っている姿だった。
相手の顔はぼやけているから見えない。
けれど親友ではないのだけは確かで、つまりこれは過去ではなく未来のものだった。
「え……あ、れ……」
その幸福なひとときを、今のクラウスの心のほうが受け止めきれない。
とても親しげで、幸せそうで。
ゆったりとした柔らかさと穏やかさ、互いを想い合う温もりを感じるから。
こんなにも世界は冷たいのに。
肌に触れる空気は冬の厳しさを、いいやクラウスの生き残った世界の過酷さを何度も囁いている。
でも目の前の幻は、思わず抱きしめたくなるような温もりがあるのだ。
今までの全てを忘れられるような――いいや報われているかのような、そんな優しくて平和なクラウスと誰かの姿。
「どう、して。どうして、俺が……」
まるで考えることもできなかったかのように、呼吸を止めていたクラウスが呟く。
クラウスの背中が震える。
嗚咽のような、涙を零すかのような脆くて小さな震えだった。
こんな未来と可能性なんて、クラウスは考えられなかった。けれど、心の底ではこれを求めているのかもしれないと鼓動が早まる。
とくん、とくん。
冬の静かなる夜の裡で、切なく脈打つ心臓と心。
ああ、と。押し潰したような息がクラウスの唇から零れた。
――あいつ以外と生きる自分なんて、想像すらしていなかったかな。
水面に浮かぶ幻は、幸せそうに笑うふたり。けれど、それは本当に今のクラウスが望む未来なのだろうか。
親友以外の誰かに、心の内側を満たされるのが怖いと思っていた。
彼以外に、胸の奥に触れて欲しくない。感情の内面、もっとも柔らかな部分に触れて欲しくない。
それなら死んだほうがいい――いいや、親友の為に死ねない。
生き残った、いいや生き残らされた命の理由を求め続けたが故に、クラウスの奥底はひどく寂れている。
孤独であるということを実感できないほど、冷たく、褪せていた。
だが今はどうだろう。触れるひとがいる。言葉を交わすひとがいる。
そんなみんなと、或いは誰かひとつと共に生きることが出来るなら。
もしもその先に幸せがあるというのなら、それこそ親友が命を擲っても守りたかった未来ではないのだろうか。
柔らかな微笑みを浮かべるクラウスが、ただ、ただ自らの感情の旋律で歩く日々。
「いつの間にか、俺はそんなことを望むようになっていたのかな」
目の前にあるのは幻である。
必ずある未来ではなく、ただの灯火のようなもの。
だが、幸福を目の前に差し出されたクラウスはどうすればいいのか解らなくなった。
ただ切なくも暖かく、脈動する自らの心臓の上に手のひらを置いた。
――暖かい。
――だって、親友が守ってくれた命だから。
――そんな彼の温もりを宿す命だから。
悲劇のように突き進んで親友が喜ぶ筈がない。
解っている。解っていた。でも突き付けられた事実に、幸せになれる可能性を前に、鳴くようにクラウスは身体を震わせ続ける。
どうすればいいのか、わからない。
泣くことさえ許されないと思うから。
でもきっと、この心臓が告げるように――クラウスは確かに、幸福な未来を求め始めている。希望という道標を喪っても、ただ真っ直ぐに辿り着ける確かな現実。明日のような、ありふれた日常。
優しく包み込んでくれる毎日。
「俺は幸せになっていいのかな……」
そうだ。
解っている。解っていた。
親友はきっと、そう望んでくれているということを。
彼の残した温もりと光が、クラウスの導きだった。
だがどうだろう。今は、どうだろう。
親友の赤い眸が、目の前に広がる幸せな幻を掴めといってくれている気がする。
託された温もりが、また新しい|暖かさ《しあわせ》へと繋がるように。
「それで、いいのかな……」
クラウスはようやく、ひとりぼっちの少年のように夜空を見上げた。
寂しく、脆く、頼りなく。
抱きしめてくれる誰かの腕を求めるように、澄み渡る月を見つめる。
共にあの月を綺麗だねと、言い合いながら誰かと共に歩むのだろうか。
鼓動ばかりが、幸せを求めて鳴いていた。
この夜には涙のひとつもないというのに。
空さえも凍えるが如く静謐な夜であった。
いと冷たく。
いと美しく。
張り詰めた氷の様を夜帳に浮かべる。
皓々と輝く月ばかりが、白雲を裂いて儚げな光の筋を落とす。
ならばこそ、彼が動いたその刹那に天は泣き、落ちた驟雨は儚い淡雪となって、水面に微かな揺らぎを与えたかもしれない。
ひとの心を持つものである。
ひとの肉体にて動くものである。
が、魂は五爪を持つ応龍であるからこそ、過去と未来、或いは願いを映す水面に夢幻を浮かばせることはない。
金の龍眼をするりと向けたとしても。
斬り裂く刃として、ただ物静かに進むばかりである。
彼が降らせた雪は、慈しみの色を宿していた。
白刃の彩でありながら、弱き誰かを想いて救う気高き輝きであった。
故に。
天國・巽(同族殺し・h02437)は羽織を翻して、悠々と進む。
奇妙建築の造りに迷うこともなく、月と水面が浮かばせる幻に心を寄せることもなく。
正道を往くのであると、確かに足音を響かせて進みゆく。
この歩みが違えることさえなければ、我が身を守る術を知らぬ儚きひとを救えよう。刃に詠うは、龍の|矜持《じあい》であるのだと。
――そも、百年前。
√妖怪百鬼夜行で目覚めた時より、巽は今の姿である。
ひとの貌こそすれど、ひとならざる龍人。角、爪、尾に翼。それらがなくとも、明確にひとの領分を越えたものを持っていた。
自らが如何なる龍であったか――巽自身に己が今の姿となる前の記憶はひとつとて残っていないが、人間が許された以上の時間をひとの世で過ごして来たのである。
全ては無常に流れ逝くものであった。
散りゆく花は美しく、溶ける雪は麗しきもの。
移ろうが故に美麗である。
限られた|春宵《とき》の中で咲き誇るからこそ、桜は幽艶なる姿を示すのである。また花にさえ名残惜しむ情動を抱くからこそ、同じように散るひとにも慈しみを向けられるのである。
せめてひととき。
あるいは一夜、泡沫の夢の如きものであれ。
「慈しみ、守り、咲き誇る様を眺めたいものだ」
巽は√妖怪百鬼夜行の世界で自然の風雅さを前にそう心で味わい、また別れを告げた人々の生き様にも想いを抱くのであった。
この刃で護れるのであれば。
もう少し、僅かでも続けることが出来るのであれば。
それは幸いなるものである。夢を、幸福を、織り成すことは容易くないからこそ、仇為すものを斬り払うのである。
露と消えるは、それこそ傲慢なる鬼のみでよかろう。
故に進む。正しきを進み、切り拓く。
気づけば古妖が跋扈する闇は消え果て、儚くも脆く、愛おしきひとの姿と微笑みが溢れるようになった。
――誠に、善き世となったものである。
一振りの刀として生きて来た巽は振り返り、頷くのであった。
だからこそ、このような祝いの酒宴も開かれよう。
激動の世にあっては、浮かれたように酒を飲み、人も妖もなく笑い合うようなことはありえなかったかもしれない。
ならば、今をこそ『めでたき』と巽は頷くのであった。
そのような武人であるからこそ、酒宴に並んだ巽を桜葉の父親はいたく気に入っていた。
守る強さを何よりも尊ぶ。
妖である。だからこそ自らの血に潜む狂乱を鎮め、ひとと世の為に生きたい。
それは娘に対しては過剰なほどに注がれているのは聞いての通りである。一方で、やはりこの父親も巽と同じく正しき道を、守る強さを好いているのである。
巽と気が合うのは当然であったのかもしれない。
「今宵のめでたき儀に立ちあえたこと、これ幸甚の至り。しかしご尊父におかれては庭の桔梗、消える心持では?」
巽が言葉を向ければ、酒を飲んでいた楽しそうに父親は笑う。
「雪が融け、花が散り。されど実を結ぶ喜びもあろう。儂が思うに永久の桔梗は奇妙なるものである。ずっと見守るだけの花は、さぞ悲しかろう」
「…………」
「ならば汝の眼は、金色の桔梗であるか。庭ではなく、世を見つめるは空より見つめる月の眸であるか」
永くを生きたということをすぐに看破した桜葉の父親を賞賛するが如く、巽は盃になみなみと注がれた酒を飲み干す。
良き飲みっぷりである。桜葉の父親もまた、巽を讃えるように頷く中で凪いだ声色が響く。
「この眼が月のように夜闇の底までを見渡せれば、どれほどに善きことか。されど暗影を泳ぐものたちの全てを見通すことなど。――故に、婿殿のような想いと強さをひとりひとりが持つことが肝心かと」
「ひとりの刃で為せることなど、か」
「ひとりでは限りがある――故に、婿殿にと花を向けたのでは」
いいや、娘を預ける相手に加減などせぬと笑う父親だった。
巽の見立てでは剛毅な男である、が純朴でもあると見えていた。
武人として真っ直ぐであり、ならばこそ巽と酒を交わすごとに口は軽くなる。
「百鬼夜行と連なった強さ。されど、その戦いの先には儚くも果敢な心があった。儂の眼には、未だにそれが残っておる」
「然り。志とは斯様なことを言う。ならばと奮い立つ妖が刀となり槍となり、道を斬り拓いた」
儚くも果敢なる花を守らんとする志。
それがあってこその、この水上に浮かぶ美しき宮であろう。
永久の桔梗を手入れしてある奇妙建築でもある。
脆く、脆弱なれど――それは強さとは別の大切さが宿るのである。
ああ、故に故にと言葉を交わし、愛おしきものを並べ、それを守る為にと強さを語るふたりであった。
同じ武人。そして、静かなるひとの世を切り拓いた同胞。
巽の気質を桜葉の父親は好いていたし、ましてやそうであるならば胸襟を開いて語らう。
龍の威厳、ひととての魅力。
それらを薫らせる巽は、まさしく妖を酔わせる銘酒であった。
「私には血を分けた子はありませんが――」
すう、と今までとは違う張り詰めた巽の空気を感じて、桜葉の父親も佇まいを直す。
酒に酔うても、自らを忘れるようなことはない。
何とも、愉快な御仁であるか。
半人半妖の娘の為にと最良を求める、無骨な妖であるか。
巽はうっすらと微笑みを浮かべ、そして龍眼に気迫を募らせ、されど深雪のごとく静かに告げた。
「――技を伝えた生徒、弟子。可愛がっている者はおりす、多少なりともご尊父の心情、お察し出来るかと」
「左様か。ひとに、武で妖を越えろと無理難題を言った父親を解るというてくれるか」
しみじみと言う父親に、巽は言葉を控えた。
巽が思うに、この父親には例え婿殿――颯真が負けても他の手段を懐に抱いていたのであろう。颯真は優しき男と聞く。ならばこそ、必死に強さに手を伸ばして欲しかったのかもしれぬ。
半端な強さは、悲劇にてふたりを引き裂くばかりである。
が、半人半妖である桜葉の美貌は、糾える禍福を示す縄の如くあらゆるを惹き寄せよう。
が、見事と己を破った颯真に、父親は心の底から満足しているようであった。
父が、師が、自らが鍛えた者に負ける。
それは屈辱ではなく、むしろ誉れである。
古妖たちは強さこそ至上、敗北は恥と吠えようが、次が更に強く美しくと咲き誇るならば老骨は去るべきなのである。
孝の文字が示すが如く。
親を越えた子が、また親になってこそのひとの世である。親孝行である。
美しきかな。桜は散れど、夏にはまた夏の花が咲くのである。
故に言葉を止めて巽は桜葉の父親に酌をする。
一瞬ばかり息を止め、愛娘への僅かな名残を酒で腹へと押し流す父親へと巽は鋭く問うた。
「しかし、あなたの技を受け継ぐ彼もまた息子のようなものですから――……おお、そういえば」
視線を合わせて、しっかりと巽は問う。
同時に父親が颯真に敗れた立会。その勝負。
本来であれば覆せぬ勝負と力量差を、如何にして埋めたのか――落花の刃、その名を戴く秘剣の真髄に迫る糸口にせんと試みる。
「かの立会、決め手となったのは――どのような技で御座った?」
「――ほう」
急に空気が鋭くなる。
切っ先のような視線が巽を射貫き、その奥底にあるモノを見抜かんとする。
「娘を守る婿。その技を、初めて逢った者に伝える父親であるとお思いか。刃は抜かずの裡こそ、まことの強さを持つ」
「…………」
「知られてはならぬ。秘剣とは、秘めれば花ということよ」
故に本来、父親が語ることなどなかっただろう。
だが目の前にいるのは巽である。此処まで言って、金の龍眼は揺らぎもしない。
曇りなき眼にして、高潔さを鳴らすような気勢を宿す男である。
更には秘めたる剣とは何も居合のことをさすのではない。無論、泰平の世であればこそ、鞘より抜いた刃を誰かに見られるが恥である。ましてや、立会の相手が刃を見て生き残っているのであれば、禍根を呼ぼう。
されど、それ以上に――颯真が放ったのは初手で葬るとい殺人剣であったからこそ、父親はもう一度と酒を呑み、口を滑らせた。
「落花の刃と言ったか。あれはふたつの剣理にて編んだものよな」
「ほう」
「ひとつは拍子。常に抜刀し、斬れる状態を保つ精神性。明鏡止水というよりは浮鳥の位であるか。敵とこちら、双方の意と剣気という荒波に隠れる鳥を見失うことなく、臨機応変に斬る」
「荒波とは敵と自らの間に交互にと打ち寄せるもの。それを気づかせぬように秘やかに。見えず見切れぬ拍子こそ、落花の刃であると」
無数の拍子、無数の形。
居合というひとつでありながら、相手の気と精神に応じて浮かび上がらせる剣刃である。
理として都でその名を奮わせた天然理心流の極意でもあった。
敵の意志という荒波に揺らされることなく、自らは双方の間で揺れる波に剣を隠す――。
「うむ。しかし、それだけではあるまいよ」
「といいますと?」
「花が落ちる時、汝は何を見る。花びらか? 風か? しかして、それを見る汝を花はどのように見る」
「――なるほど」
居合として凝視するが故に、全体の動き、流れ、呼吸を見失うのである。
凄まじい精神性の圧を込めれば込めるほど。
或いは流水の如き気配を見せれば見せるほど、居合、という花びらに注目してしまう。
そうして花が落ちる――鞘から刃が滑り出す瞬間を見切ろうとすればするほど、見切ろうとした己を敵手が翻弄する。
納得したと巽は頷く。
「つまりは、『俯瞰』の剣でありますかな。故に落花の刃と相対するなら後の先を譲ってやれと」
自由に抜刀させ、放たせるがいい。
落花の刃。それは止めることが叶わぬのであれば、そこに執着せずにいればよい。
拍子、呼吸、その全てを自らが不利な状況で受けると前提でいれば、所詮は居合である。鞘より放たれるという前提は覆らぬ。
落ちる花びらが風もなしに空へと舞い上がる筈もないのだから、鞘を起点とする太刀筋は限定されている。
「迷妄を斬る刃よの」
一方でひどく使い手の精神性に左右される剣である。
居合という型に嵌める為に自らの動きと流れを、どのように見られているかを『俯瞰』する。
「花のように眺めておけと。……美しき刃かな」
「抜かずにいれば、それがよいからな。が、さりとてと勇んで挑み、後の先など破ってくれると気勢を示せば――儂のように敗れるだろうて」
花びらが落ちることは自然なことである。
美しく風雅なことである。
それを遮らんと妄執を抱けば、逆に斬られるというだけのこと。
「なんとも」
挑みがいのある秘剣であるか。
巽が思うは剣理のみらにあらず。
それを慈しみの刃と詠い、鞘に納めた心に頷くのであった。
花が何かを傷つける必要など、ありますまいと。
ならばこの、その慈しみの花刃を血で染める簒奪者は斬らねばならぬとも心に誓う巽であった。
冷たい冬の夜。
風ひとつないというのに、肌寒い。
けれど、これからの未来を祝福するように澄み渡っていた。
皓々と零れ落ちる月光が、ゆらゆらと水面を照らしている。
これもまた冬の情景のひとつである。
透明だと感じる空気と、満ちて降り注ぐ月灯りたち。
寒いけれど、悪くはない。
四季にも精霊がいるのならば、きっとこれは祝っている証拠なのだ。
そう感じながらエアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)はふるりと身を震わせて、庭へと歩き始めた。
――未来や過去を映す、かぁ。
まだ幼いエアリィにはぴんと来ない。
無垢であるが故に未来を疑うことなく信じている。
望む明日は必ず来るのだと思っている。それがずっと続くのだと希望という淡い光さえも不要なほどに純粋に。
笑顔でない日は、ないのだと。
ならば過去は?
大切な記憶は今もずっと胸に抱きしめ、一緒に旅を続けている。
ひとつとて色褪せることのない、毎日のかけらたち。
だからこそエアリィは小首を傾げた。
――あたしには何が見えるんだろ?
ふと浮かんだ好奇心に突き動かされて、エアリィは水庭を覗き込む。
すう、と眺めるように見つめた。
翠色の眸を楽しげに揺らして、青い髪をさらりと靡かせて。
どんな幻が浮かんでも、それは今に連なる幸せなものだと確信めいた感情を抱きながら。
そうして見えるのは未来だった。
とても幸せそうな顔をしているエアリィがそこにいる。
いいや、それは今の幼い顔立ちではない。ずっと先、大人となったエアリィの美貌だった。
今と変わらない群青色の髪に、翠の双眸。明るくて柔らかな風貌。
けれど、それは確かに大人の余裕と優しさを持っている。まるでそう、エアリィの今の母のように。
――あれ……?
ということはと思えば、くすくすと笑うエアリィの傍には子供がいた。
やはり今のエアリィによく似た顔立ちだった。
尽きることのない希望と好奇心に瞳を燦めかせ、ねえ、と新しい魔法と物語を教えてと母となったエアリィの手をひいている。
魔法で出来る、美しい光景を教えてよと。
星や草花、宝石たちに眠る物語。そしてエアリィが子供の頃に旅してきた物語を聞かせてよ、と。
なんて無垢な姿なのだろう。
少しばかり前の自分と重なって、エアリィは胸が温かくなるような、恥ずかしくなるような、とても不思議な心地を覚えていた。
――ということは、結婚とかしているのかな?
未来のエアリィは幸せな路を辿り、相手と巡り逢って、暖かい家庭を作っているのだろうか。
まだまだ子供のエアリィには遠い未来である。
想像することも難しく、思い描くことは更に難しい。
慕情の絡み合う切ない美しさを知らないし、ひとりきりの寂しさとて解らない。
けれど、未来のエアリィは幸福な家庭を作っていた。
――……夢に見ていた。
とくん、と鼓動が高鳴るのを感じた。
暖かく、柔らかく。
鼓動が早まり、吐息が零れる。
――憧れていた、お母さんみたいになりたいって。
水鏡に浮かぶ幻は、未来のエアリィは、憧れを抱いた母のようだった。
慈しみと優しさを無条件に注ぎ、与える。
道を間違えることがないようにと、静かに抱きしめて笑顔と光で照らす。
|愛しい子《あなた》が、道に迷わないように。
そんな母のようになりたいと思っていた。
そんな夢を叶えたものなのだと、エアリィは指先で胸に触れた。
――素敵な人と巡り逢って、家庭をもって……。
また新しい命と共に、明るい世界の中を歩いて行く。
季節は春だろうか。木漏れ日が踊るように揺れて、きらきらと輝いていた。
エアリィも、子供も幸せそうな表情をしていた。
この世界のあらゆるものが、ただお互いがいるだけで愛おしいものになるのだと微笑み合っている。
でも、それだけじゃない。子供にせがまれ、過去の冒険の物語を語るエアリィの声色もやはり幸せそうだった。
暖かくて、ふわりと柔らかく。
なのに時折、楽しげに跳ねる。
まるで子兎が踊るワルツのよう。ああ、もうこのエアリィはお母さんだけれど、そんな子供のような純粋な所を持ち続けている。
忘れることなく、胸の奥に抱き続けられるのだ。
「お母さんも……」
冬の静寂を破るのは、嬉しさに揺れるエアリィの声。
「……あたし達が生まれた時はこんな思いだったのかなぁ」
そうであると、もっと嬉しいなと。
暖かな吐息を零すエアリィ。
冬の寒さに触れて、ふわりと白く染まる。
夢のように、白花のように。すぐに消えてしまうものだけれど。
一度見た未来の幻はずっとエアリィの中に残り続ける。
未来を見て、自分が生まれたときもそうだったのかな。そうだといいなと、過去にも思いを馳せるのだ。
答えはわからない。
だから今度家に帰ったら、まっすぐにお母さんに飛び込んで聞いてみよう。
きっとそうだと頷いてくれるはずだから。
だから、そう。ひとつまた心の中に輝きを宿して。
「……すっごく幸せな未来図を見せてくれてありがと」
白月の浮かぶ水面にエアリィは囁きかけた。
そう。これはきっと夢への路を応援してくるホロスコープ。素敵なものに感謝を捧げて、同時に未来へと眼差しを向けて。
「こうなれるように、今をもっと楽しんでいかないとね」
無理はせず、心の旋律に従って。
感情と共に歩みを続け、でも、どこかで巡りあえる人と一緒にいつか……。
運命のもとでふたつの星が巡り逢う瞬間を待ち望みながら、エアリィは踵を返した。
とても素敵な夢幻をありがとう。
でも、ずっと幻に浸っている訳にはいかないから。
冷たい冬の、清らかな空気を胸いっぱいに吸い込んで。
美しい月と星を見上げて、エアリィはまた歩き出す。自分の願う未来へと向けて。
静かに夜帳に広がる雪明かり。
儚くも楚々とした白光が、空と地に揺蕩っている。
夜闇を払うほどに強くはなく、むしろとても淡いものだけれど。
冷たく澄んだ空気の中では、とても優しく輝いて見えていた。
きらきらと、幾つもの星の欠片が転がっているかのように見えるのだ。
寒くとも、とても綺麗な冬の情景。
艶やかな双眸にその姿を捉えた一文字・透(夕星・h03721)は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ああ、冬なのですね……」
物静かな声を雪の世界へと届けながら、透は長い指先を火鉢へと寄せる。
透が今住んでいる町は雪が降り積もることはあまりない。
だから雪化粧に包まれた景色を少しだけ物珍しげに、そして心が惹かれているかのように幾度となく眺めていくのだった。
「とても寒い。でも、ここは火鉢もあって暖かいですね」
きっと雪の積もる庭へと飛び出せば、すぐに身体は冷えてしまうだろう。
だがそんな寒さがあるからこそ、余計に暖かさというものを深く感じるのだと透はひとり頷いた。
いいや、ひとりではない。
頷き返す黒髪の男がいた。
「雪景色は見事なもの」
息を呑むような美しさに、緩やかに金色の眸を揺らすのは時月・零(影牙・h05243)。
事実、雪というものはひとの心を奪う神秘的ささえある。
真白に染められた世界は、普段触れることのない色彩そのものなのだから。
「だが――嗚呼、そうだな。寒い」
続く言葉をひとたび止めて、時月もまた火鉢へと指を伸ばした。
だが、あれでは闇に紛れるのも難しくなる。
そんな考えは影に潜む職業柄か、それとも己の性質によるものか。
どちらにしても言葉にするには無粋なものである。時月は透と共に、火鉢の傍で暖を取りつつ声を聞く。
言葉を聞く。寒いといって、寒いと柔らかく受け止めてくれる相手と視線を合わせる温もりを感じながら。
「実は寒いのは少し苦手で……体温は高いほうなんですが」
うっすらと微笑むように頬を緩めた透。
何度も何度も火鉢の前で指を翻し、冷たさを払うようにしながら続けた。
「手が悴むと何をするにも不便です」
まるで楽器でも奏でることを趣味にしているかのような、美しい指先と動きだった。
繊細な指運びは鍵盤の上を踊るかのようでありながら、続く言葉は少しばかり物騒なもの。
「前には武器を取り落としたことがあって」
物静かな透の美貌には似合わない、武器、という言葉。
いいや、その程度で驚く仲ではない。時月はほうと少しばかり心配そうに透の指を見つめた。
「……武器を取り落とすのは相応だな」
体温は高いといっていたが、だから余計に寒さが身に浸みるのだろうか。
時月も透も持っている得物はひとつだけ、ということはない。
が、刀を落とせば刀を失うのである。透が幾つかの暗器たちを扱うことは知っているが、それでもひとつ間違えれば恐ろしい事態となる。
「場合によっては致命的になりかねん。無事だったか?」
淡々と、まるで降りしきる雪のような静かな声色を交わす時月と透。
心配し、思いやり、だが感情の揺らぎはいっさい表に出ないような。
時月とはなんとも影のような男である。
が、人見知りだからこそ感情が淡くしか現れない透自身も、また雪のような少女であるのかもしれない。
ただわかるのはひとつだけ。
互いに向ける眼差しの奥に温もりがあるからこそ、こくりと透は頷いた。
「どうにか無事でした」
傷一つないことを示すように、火鉢の前で指をひらりと踊らせる。
まるで本のページをめくり、記憶を示そうとするように。
ああ、でも相手を足蹴りしたことまでは口にしないでおこうと、唇を結ぶ透だった。
そうしてしばしの沈黙が訪れる。
今の関係、状態が心地よいからこその静けさ。
それを破ったのは、ふとした透の思いつきだった。
「私、ぜんざいが食べたいです」
「ああ」
折角の宴である。時月とて止める理由とてない。
「俺もぜんざいを戴くとしよう」
新年を祝う食事。それにしても豪華なものであると、時月は目を細めた。
椀に入れられた餅は桔梗の形に切りそろえられ、青紫色に染まっている。
「……お餅が可愛い」
「餅も桔梗を模しているのか……」
まさしくこの場の為の料理である。
手間暇を惜しまず、味覚のみならず視覚や嗅覚をも喜ばそうとしている。
「やはり見た目が良い食事は、興味と食欲をそそるな」
「そうですね、とても美味しそうです」
透が器を持てば、手も十分以上にぬくもって。
はむりと桔梗の餅を噛めば、柔らかな甘さが口の中に広がる。
控え目だが、どこか上品な匂いである。
そのままするりと小豆の甘さも口に含めば、ほこほこと、ふわふわと幸せな気持ちが透の胸に宿る。
向かい合う時月もまた静かに、だが確かに僅かな驚きと喜びの吐息を零していた。美味しい。寒い中、誰かと共に食べる暖かな料理は、これほどまでにと。
作り手の気持ちも乗っているようである。
だからとても美味しいと思うのだし、心に届いてほっこりとさせるのである。
そうしてしばらく、ふたりはぜんざいを食べていた。
ようやくお腹と気持ちも満ちた頃、透がゆるりと声を揺らす。
ふと、思いだしたように。
こういう場ならとても楽しく聞けるかもしれないというように。
穏やかな声色で問いかける。
「時月さんは、お菓子を作るのがとってもお上手ですけど、作りはじめたきっかけってあるんですか?」
はてと時月が首を傾げた。
どのようなお菓子を振る舞っただろうか。
暇であるから。或いは、息抜きとして。とても自然体として料理を作る時月にとっては、透にどんなものを食べて貰っただろうかと悩むのだ。
その時、嬉しそうにしてくれていただろうかとも。
聞かれていることとは別のことを考えているのは失礼かもしれないが、時月にとってはとても大事なことに思えたから。
「ご馳走になったアップルパイもミルフィーユも絶品でした」
言われて、ああ、あれか。あの時かと時月は瞼を閉じた。
「あの二つか、口に合ったようで何より」
作った二つのお菓子を、そしてそれを届けたことを思い出す時月。
鮮やかに思い出すには難しい。何しろ、とても自然なことである。
牡丹雪の舞う中で吐いた息が真っ白であったことは思い出すのは容易い。
でも日常の中で零した息がどのようなもので、どんなものであったかと思い出すのはとても難しい。
まるで呼吸だった。時月にとってのお菓子というのは。
「……そうだな、きっかけで言えば女家族の影響だろうか」
だいぶ考えてしまっただろうかと思いつつも、時月は語る。
無表情な男である時月。だが、感情がない訳ではない。
楽しいと思うこともあるからこそ息抜きとてするのだろうし、誰かの近しいひとの影響とて受けるのだ。
表情はしんとしたまま、変わることがない。
いと冷たく、いと静かな美貌で淡々と語る時月。
「最初は卵白やクリームの泡立ての手伝いに始まり」
まるで幼い弟が、一番地味で大変な所を手伝わされるかのように。
でも、少しずつ泡立つ卵白やクリームの様子を見て、楽しいと思わなかったと言われれば、はてさてどうだろう。
時月は少しばかり過去への物思いに耽りながら、ゆっくりと綴じる。
「……色々あって、自分で作るようになった」
「お手伝いがきっかけなんですね」
やはり静かな様子で透は言葉を重ねる。
「お姉さんや妹さんがいらっしゃるんですか?」
家族のことを聞くのは少しばかり身を乗り出しすぎだろうか。
いいや、そういうことはないだろう。そうだとしても、火鉢の暖かさと食べたぜんざいの甘さ。それに、前に食べた時月のお菓子がそれほどに素敵だったということにしよう。
何かしら動機や理由は、物静かに心に募るものだから。
激しさや、明確な動きがなくてもちゃんと感情は揺れ動く。
それを示すように、時月は僅かに天井へと視線を寄せた。
「ああ、姉がいて……母も料理を好んでいた」
懐かしいと感慨に耽るように。
聞かれたこと以上とて、今はさらりと唇が紡ぐ。
「或る年から毎年、バレンタインのキッチンは戦場だったな」
「ふふ、賑やかで楽しそうです」
楽しいような、懐かしいような。
それでいて切ないような、過去への感傷の声。
影のような静かな男である時月でも、ちゃんと昔を思う気持ちがあるのだと透は頬を緩めた。
物静かなばかりではない。やはり、ひとの心とは感情の旋律を鳴らすものなのだと。
なら、雪のようなモノとて。
しんしんと降り積もる、静けさの中にとて。
「…………」
「…………」
言葉にならず、する必要も感じず、ふたりは視線を交わす。
ふ、と時月の金の眸が揺れる。自分が話したのならばと、折角なのだから聞いてみたいと思うのだ。
「透の家族の話も少し聞くことがあるが、何か影響を受けた事などあるか?」
「家族からの影響……あ、戦い方は影響を受けています」
「戦い方、か」
ひらりと指先を踊らせる透である。
楽器を演奏するような優美さだが、幾つもの暗器を使い分けるためのものである。
「武器の扱い方とか全部、今の父が教えてくれました」
花びらが舞うような所作である。
だが、それはやはり美しいままに命を奪うものである。
研ぎ澄ましたものは、何であれひとは綺麗に思うものであった。
透は白兵戦が得意という話を、時月は聞いた覚えがあったが、それも其の影響であろうかと思いつつ、透が虚空で示す指使いを眺める。
はらはらと、雪が舞い散るような指の動きだった。
苦無、糸、針に短刀。或いは、髪に挿したかんざしとて、透の手に握られれば刃の瞬きを宿す。
が、ふと。
透の指使いがとても大人しくて、優しいものになる。
火鉢の前で思いだしたことに釣られて、本のページをめくる穏やかな手付きになる。
いつもぼんやりと世界の遠い場所を眺める透。
だが本を読んでいる間は、美しい言の葉たちに囲まれて、その色彩に触れられる。声のひとつ、音のひとつなく、それでも心に届く数多の響き。
本の世界の中に飛び込み、ゆらゆらと静寂と穏やかに身を委ねられる。
ああ、本とは愛おしいものであると透が目を細めた。
そしてはて、どうして本を読み始めたのだろうかと思い返せば、あ、と透は小さな息を零す。
「……そういえば、本をよく読むのも父も兄も同じです」
「本……なるほど」
「血の繋がりはないんですが、それでも似るんですね」
こくり小首を傾げる。
ほんの小さく、これほど近くの正面からでなければ見逃してしまうような、ほんとうに小さくて繊細な動き。
そのことに気づけて嬉しいと、繊細な美貌に喜びの色を浮かべる透だった。
そんな少女の前の、家族を好ましく思う様子に時月は金の双眸を細めた。
「また一つ、繋がりが見つかったようでなによりだ」
しんしんと。
過ぎ去った時は戻らないと告げるように、雪が降り続ける。
だが、これから幾らでも時間は巡る。
物語は進むのだと、慈しみを抱く真白き色彩が世界を覆い続けていた。
静かなる夜帳を歩む。
しん、と雪が音を吸い上げる路を歩く。
少しだけ考えたいことがあったから。
真面目に、そして真っ直ぐに向き合いたい迷いと悩みがあるから。
宴の喧騒より離れて、さくりさくりと自らの音ばかりが鳴る雪景色を歩いて行くのだ。
ふるりと小柄な身体を震わせて、隠岐・結羽(人間(√EDEN)のサイコメトラー・h04927)は雪明かりの中にいる。
とても静かな足取りだった。
さく、さくと雪が踏みしめる音がなければ隠岐の存在を忘れてしまいそうなほど。
元からひとの中にいることが苦手な隠岐だ。
何時も教室の隅で、じっと気配を殺しているのが常だった。
甘くて優しい――けれど残酷なまでの世界の欺瞞。そのヴェールを破って、現実に向き合うと覚悟を定めても自らの性質までは変わらない。
宴は喜ばしいことだけれど。
誰かに何を話していいかはわからない。
もしも何かを語りかけられたら、どうしよう。
上手く答えることができそうにないし、そのせいで相手を困らせてしまったらもっと嫌だ。
だったら寒い中にいたほうがいい。
雪は冷たいけれど、柔らかに包み込んでくれるような真白さがあるから。
何より、隠岐は静けさの中でひとりいたかった。
少しだけ考えを纏めて、自分の中にある疑問に答えが欲しいから。
ああ、今更だと言われるかもしれない。
それでも欲しいと思うからこそ、夜空を見上げる。
しんしんと降り積もる牡丹雪。
その裡で幻のように隠岐の目の前に広がるのは、一緒に歩く新郎新婦のふたりの姿。
「……あ」
喜びも悲しみも分かち合うふたりは隠岐には眩しかった。
努力を重ねて、夢を叶える。理想に触れて、抱きしめる。
幸せという花を掴み取るのはこんな優しく、正しい指先であるべきなのだと。
或いは、人生とはこうあるべきなのだと思うのだ。
だってそうだ。
頑張るひとは報われて欲しいし、優しいひとには幸せになって欲しい。
何もかもが物語のようにと上手くいかなくても、世界とはこうあって欲しいと願い、抗って戦う理由にはなる。
そしてそれは巡り巡って、颯真を助けた古妖にも思考が向いてしまう。
「どうして、彼を助けたのでしょう」
簒奪者である。
ならば邪悪に、自らの欲望のままにあってくれたら楽なのに。
正義の反対は悪ではない。異なる正義であるというだけ。
そんな当たり前の事実に直面して、隠岐は悩んでいた。ひとを害するのは確実で、その前に封じるべきであるとも。
が、敵であると斬ることには躊躇ってしまう。
「だって彼を助けただけで、まだ誰も傷つけていないのでしょう?」
いいや、これからきっとそうなる。
敵は簒奪者である。
繰り返すように起こした惨劇の数がそれを告げている。
まして古妖という存在。力こそが全てで、欲望の儘に荒れ狂うもの。
恐ろしいことこの上ないのに不死身であり、長く殺し合い続けたからこそ簒奪者のなかで一際の脅威である。
何しろ、いま蘇った古妖――落花の刃の使い手とて、無数に分割封印されたものの一欠片なのだ。
もしも封印を破り続けていけば全ての力を取り戻し、どうしようもない存在となってしまう。
理屈としてわかるし、倒して封印することの重要性とて隠岐も頷ける。
「でも、ですよ」
それが正しい路なのだろうか。
真実、戦うだけが本当に正しい路筋なのだろうか。
それしかないと解っている。優しい世界を守るという目的の為には隠岐の私情を挟む余地はない。
だが、自らの感情を完全に排することは出来ない。
星の巡りという運命を、もしも悲劇的なそれを変える為にその古妖がいるのなら。誰かの悲しみを、ひとつでも止めることができるのなら。
――それはひとときであれ、同志と言えるのではないだろうか?
「そんな甘い事を、考えてしまうんです」
残酷な世界と向き合い、強さを持つものとしての責務を果たす。
その為の感情を完全に排除することは出来ず、だからといって倒して封印する以外の手段も選べない。
――会話して終われる相手ではないのだ。
むしろ対話という手段を捨てるほどに追い詰められ、或いは切実なる願いを抱くものたち。それが簒奪者。
欲望と邪悪さに塗れて暴れ回る。
そんな隠岐たちにとって理想的な敵など、早々いるはずもない。
そこまで考えて頭では解っている。それでも悩んでしまう。
力を持ったが故の責任と、少女としての優しい心。
そのふたつの狭間で揺れて、揺れて、懊悩に押し潰されそうになる隠岐。
「……こんな半端な自分を、歯がゆく思うんです」
もしも。
長い時間をかけて、剣や槍といった武術を修めていたのならどうだろう?
ただ優しくて平和な日常を積み重ねていた隠岐と違って、ずっと世界の恐ろしい真実と向き合い続けたひとたちなら、こんな半端な悩みと苦しみなどしない筈だ。
こんなこと、許される筈も無いのだから。
「甘えです。こんなの、所詮は甘えです……」
もしも剣刃のように澄み渡り、曇りなき心であれたのなら。
世界の敵に対して自らの責務を果たし、ただ斬るということを選べたのなら。
或いは、対話の余地を作るほどに隠岐が強かったのなら、きっとこんな悩みなんて不要だった。
現実的な可能性を切り拓く強さか。
迷うことなく進む精神的な強さか。
どちらも今の隠岐にはない。何しろ、隠岐は自分のことを唐突に戦いの世界に放り出された、何も持たない少女であると認識している。
あるのは覚悟だけだ。
だから誰よりも、想いの強さを振り絞らないといけない。
なのに、その覚悟が揺らいでしまっている今、どうすればいいのだろう。
「どうすれば、いいのでしょう」
問い掛ける言葉は降り積もる雪の裡へと消えていく。
全ては真白き彩に包まれ、静けさの中へと埋もれていく。
だからこそ隠岐はこっそりと桔梗の宮を離れて、人気のない道場へと忍び込んだ。颯真と、桜葉の父親が強さを身につける為に努力を続けた場所である。
言うまでも無い。そのふたりだけではなく、色んなひとが戦う強さを、守る強さを求めて自らと向き合ってきた場所。
「少しだけ卑怯かもしれませんが……力を貸してください」
自らの心と想いだけではない。
誰かの助けを借りることに胸を痛ませながら、隠岐はほっそりとした指先を伸ばす。
発動させるのは触れた物品に宿る過去の所有者の記憶と対話する術――隠岐が目覚めたサイコメトラーとしての力だ。
この場合の物品とは、道場そのものである。
刀などが置いてあれば簡単だったが、そう容易くは無かった。ならと、過去の道場の持ち主、つまりは先代の師範の霊魂を呼び出すのである。
――さあ、お話をしましょう。
隠岐が重ねて発動させるのは伊邪那美。
サイコメトラーの能力によって、視界内のインビジブルを対話できる姿へと変えるものである。
つまりは先代の師範と、この場に揺蕩い続けるほどの武への因縁を持つ魂に形と会話する能力を与えたのである。
尊敬すべき先達たち。
ひとつ礼をしたあと、隠岐はその思念へと問い掛ける。
「強さとは、何なのでしょうか……」
強さ。強さとは。
強く在りたい。強くならなければ。
あらゆる困難に直面し、越えるべき時にひとはそれを求め、願い続ける。
だがそれが一意の答えとならないことも明白であり、剣を握るならば生涯を費やして求めるものである。
まるで迷妄の闇に抱かれるように、今の隠岐の心の眼は何も見えずにいた。
『天下無双、という言葉がある』
それを見かねたように、先代の師範が語る。
天下、つまりは世界のあるあらゆるものを倒す強さ。
無類。無双。悉くを倒した強さは、確かにひとつの答えのように映ろうと。
『だが、天下に敵なしとなった時、その強さを誰が証明する?』
「え?」
誰よりも強く、世界で一番の存在。
だが挑むべきものはないから、意味のない強さである。
仮に格下のものに挑まれた時にはそれだけで天下無双の言葉が揺らぐ。
つまり、無意味なのだ。
『挑むべきものがあって、初めて強さがある』
またインビジブルは斯く語る。
刃とは、ただ在るから刃ではない。
斬るべきものがあるから、それを斬らんとする意志こそが刃という心であるのだと。
『でなくば、そこらに転がる鋭い破片も刃』
「…………」
つまり結局、これは禅問答。
考える時点で迷っているし、答えを求めて思考を巡らせるほど、隠岐が『答え』と呼べるものから遠ざかる。
強さとは何であるかという問い。
あえて答えるならば妄念、妄執――そういうものである。
「けど。けれど……」
息と言葉を詰まらせる隠岐だった。
ああ、そうだ。そのようなことは、今時なら子供でもわかること。
実感することや、実際に対面することはなくとも、物語に広がる単語と概念として知ることが出来る。
だが実際に胸に抱けばどうだろう。
なんという重さと苦しさであるのか。
自分で考え続け、問い続けなければいけない、とても難しいこと。
幾度も自分に問い続け、永い時と共に否、否と首を振り続けて、迷いを晴らしていくこと。
隠岐とて、命を奪うということを選び始めた時に――戦うという本質に向き合った時に、その問いを始めていた。
だが一年ちょっとで出る答えではない。
せめてと、隠岐が手を伸ばしたのは理不尽な暴力に抗う為の力と握り絞めた武力。
天魔刃の形なき刃が、いまは酷く危うく、頼りないものに思えてしまう。
――私の刃とは、心とは、どんな姿をしているのでしょう。
だからこそ、インビジブルたちに隠岐は背筋を正して、真っ直ぐに問い掛けた。
「貴方達の強さを、教えてください」
ぺこりと頭をさげ、新しい年に新たなる可能性を掴む為にと希う。
半端に強く、半端に弱い隠岐。
そんな自分でも、せめて目の前の不幸を払う助けになりたいから。
翼なんてなくて、龍虎のような爪牙もない。
けれど、けれど。
「その剣の一端を、学ばせてください」
かつて在った心にて紡がれた剣と向き合い、斬り結ぶことで。
少しでも魂の芯に、胸を張ってこれが強さだと言える答えに迫れたのならと隠岐は天魔刃の刀身を滑らせる。
冷たく澄んだ空気を、切っ先が裂いた。
ならばと頷く先代が大太刀をゆらりと構えた。
これは妖の剣である。
古妖を討つべくあった、護るが為の強さである。
『少女よ、お前の求める強さとは違うと知れ』
「それでもです。違うものを知るからこそ、新しいモノを求められるんです」
迷いながらも、苦しみながらも。
隠岐は真っ直ぐに飛び込み、己が剣を奮う。
痛いほどに冷たい冬の空気。
それが少しだけ、隠岐の心の痛みを薄れさせてくれていた。
雪は静かに降り注ぐ。
月と夜は平等に、あらゆるものを抱きしめる。
その中で少しだけでも前に進みたくて、隠岐は足掻くように剣刃を瞬かせた。
白い満月が雪雲の隙間から覗く。
とても静かな冬の夜。
ふわふわと漂う淡雪は、あらゆる音を吸い込んでいく。
だからこそより静かに、幻想的なほどに月明かりの雪景色は広がっている。
するりと。
穏やかな動きで、翠色の眸が夜空の月を見上げる。
ピンク色の髪は春の花を思わせる暖かな色合い。
柔らかな美貌は、何処かの姫君と言われれば頷くほど。
そんな風貌で、ゆるゆると。
ルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)は月を眺めながら口にした。
「月って丸くてお餅みたいだけどね」
ただ、そればかりではない。
くすりと微笑みを浮かべて池の水面を見つめれば、月影が浮かんでいる。
しんと静かなる姿である。
冷たく澄み渡る様は氷で作られたかのようであった。
「こう水面に映っているとまるごとが神秘の世界を表現しているみたいだよね」
指先の届かない筈の、遙かなる空に浮かぶ月。
それがほんの少し身を乗り出して、指先を伸ばせば届く距離にある。
いいや、結局それは幻である。水面に触れた途端、浮かぶ月は脆く壊れて消え去ってしまうだろう。
なんとも儚い。
まるで夢のようである。
ひとが願う神秘の世界とは、現に生きるものが触れようとするほどに美しく、そして触れることができないものをいうのかもしれない。
月とルーシー。その間にある久遠の距離に思いを馳せながら、こくりと小首を傾げる。
「実際、月に着地できたらどのぐらい広いのかな」
月面とは何もない世界であるという。
荒れ果てた白い荒野。だからこそ、何処までも見渡せてしまう。
いいや、もしかしたら月には何かの神秘があり、科学では解明できない美しさを秘めているのかもしれない。
「未来みたいに果てがなくて、綺麗だと良いな」
辿り着いたものがいないからこそ、ルーシーが言葉にする夢は、美しい夢として広がっていく。
ふるりと白い吐息を零した。
そうしてルーシーは水面を覗く。過去と未来、願う心を映す水鏡に自らを映すのである。
月と水面。
ともに冷たく凍えた、鏡のようだった。
合わせ鏡としてある空間に、ふ、と一瞬だけルーシーの心が奪われた。
直後、水面に浮かぶのは過去の光景である。
その苦しい思い出に、ルーシーの胸がきゅうと傷んだ。
微笑みが崩れることは、なかったけれど。
「――――」
静かな水面に映る過去。
それはルーシーの生まれ育った√が壊滅していく光景だった。
お菓子の国、√シュガーヘヴン。もはや帰ることも出来ない、簒奪者の魔の手によって壊された世界。
ルーシーにとって、やはりそれは愛しいものだっただろうか。
誰とて故郷は大切である。自らの生まれ育った場所に、美しさを感じるものである。だからこそ簒奪者によって蹂躙されていくのは、過去であっても心に痛みを走らせた。
悲劇的に、そして意味さえ持たずに死んでいく民たちの絶望の顔があった。
彷徨い、生き残ろうと足掻き、それでもダメだった。
死ですら救いではなく、インビジブルとして回収されていくのだ。
それがやはり悲劇であり、惨劇でなければ何だろう。美しくて愛おしい√シュガーヘヴンは、気づけば血の色に染まっていた。
少しずつ、少しずつルーシーの世界は失われていく。
はらはらと、花びらがひとつずつ落ちていくかのように。
そこから時系列はだいぶ飛ぶ。
ルーシーの悔恨の念を映すように。
「ああ、そうだね……」
ルーシーが託せず、救えなかった三人の健気な魔女が映る。
彼女たちの顔を、声を、ルーシーは忘れていない。
忘れていないから、ふと心に浮かせばどうしようもない痛みが走る。
過去についてはすべて、真実が映った。
ルーシーにとって都合のいい解釈や、もしもの展開などあり得ない。
希望を抱くだけの余地も残さず、ただ淡々と、氷のように冷たい過去ばかりが現実として浮かび、揺れて、流れていく。
「でも、仕方ないよ」
ルーシーに何が出来たというのか。
出来る限りはした筈だ。
だから、仕方ないの一言で見つめた過去を割り切ってしまうルーシー。
それこそがまた最悪であり、自己嫌悪を胸の裡に湧き上がらせてしまう。とても、苦い。どうしようもなく、粘つく思いがある。
「仕方ないよ」
もう一度繰り返すルーシーだった。
忘れられない胸の痛みだけが、ルーシーに残ったものだ。
過去をどう変えられよう。失ったものをどうやって取り戻せよう。
それこそ実現不可能な願いの為に進むことこそ愚かしく、簒奪者たちの道と似ている。
なら仕方ないと嘯いて、胸に疼く小さな痛みと苦しみを受け止め、頷くだけである。
「人でなしなんてこんなもんだよ」
切実な感傷や、立派な矜持だなんて期待しないで欲しい。
ルーシーは人でなしとして、けれどちゃんと生きている人間として、今の楽園の世界の幸福と柔らかさを味わうつもりなのだから。
未来は甘ければいい。お菓子のように甘くて美味しければいい。
ふんわりと微笑んで、さくりと雪を踏みしめて。
「寒いからね。ずっとここにはいられないよ」
過去の浮かび続ける水面に背を向けようとした瞬間、ルーシーの視線が奪われる。
水面に浮かぶものが変わったのだ。
見たことのないものである。つまりはルーシーの未来だ。
それが自らの希望や願い、祈りによるものではないことは一目瞭然。何しろ、余りにも最悪すぎる。
救いたいと腕を伸ばし、抱きしめようとしたもの。
儚くて、脆くて、お菓子のように大切なものたち。
それらが手からぽろぽろと零れ落ちる。
抱きとめるだけの力はルーシーにはなく、簒奪者がひたすらに奪い尽くしていく光景。
√シュガーヘヴンの時と何ら変わらない。
どれほど尽力しようとも、どれほどに頑張ろうとも、ルーシーには何もできないのだと告げていくからこそ、喪失の嘆きの中でもう全てが嫌になっていた。
だから全てを投げ出した。
守ろうとするから奪われる側に立つ。それが世界の理である。
邪悪なインビジブルは、邪悪なものにしか力を貸さない。だから、どうしようもない力の差が出てしまう。
善悪の道を確かめて歩むからこそ、してはならないことがある。
手段を選んでいるうちに、易々と横から奪われ、壊されていく。
ならとルーシーも正しさを諦めた。善き存在である筈はないと、手段を問わなくなり、犠牲なんてどうでもよくなり、確実に果たせるならと簒奪者という世界の敵へと転がり堕ちていく。
ふんわりと笑う貌は、消え果てていた。
何もかもが良い方向にはひとつも向かわずに、転がって墜落していく未来。
何かがルーシーの首元に当てられた気がした。
とても冷たくて、鋭い気配。
まるで断罪の刃のような気がして、ルーシーは呟く。
「嫌すぎ」
そこから目を離して、見なかったことにするのは簡単だろう。
そういうこともあると、そういうのも仕方ないと胸にある苦い痛みを無視して頷けば、それで終わっただろう。
けれど、ルーシーはそれでも水面を見つめた。
冷静になって、そっと願いを込めて視線を送る。
そうすると、知らない少女の笑顔が浮かんだ。
声が、聞こえた気がする。
――ありがとう、お姉ちゃん
幼い少女だった。
簒奪者との戦闘が起きたばかりなのか。
周囲の建物が壊れ果てた√EDEN。その瓦礫の中で、幼い少女がルーシーを見上げて笑っていた。
憧れを向ける表情だった。
感謝だけではない。明確な夢の姿としてルーシーを捉えていた。
ルーシーの戦う姿が、守ろうと足掻いた背中が、少女の幼い心に何かを芽生えさせたのだろうか。
怪我している手で、これ、と小さなお菓子を渡そうとしている。
いらないと言っても押し付けて、駆け出す少女。ルーシーは仕方ないなとふわりと笑って、お菓子を口に運ぶ。
とても甘かった。素敵な味だった。
少女はきっと忘れようとする力のせいで、時間の経過と共にこのことを忘れてしまうだろう。でも、それでいい。確かに何かを残せて、守ることが出来るのなら。
そんな未来の、小さな幸せを築き上げていくルーシーの姿が浮かんでいる。
人生って、そんなもんかと思った。
こんなに小さい笑顔ひとつで、これだけ嫌な過去と未来を見せられて、頑張ってみようと思えるものなのだろうか。
結局は月が昇るのも、朝が来るのも時間次第。
悲しい夜が通り過ぎて、優しい光が差し込むのも心次第。
今、見たものが幻のひとひらであるというのなら、ルーシーは穏やかに、そして楽に程々に。
肩の力を抜いて、ゆっくりと穏やかに。
「生きてあげるよ」
ふんわりとした笑顔を浮かべて、今度こそ雪の道を辿って座敷に戻るのだった。
食事でも戯れようかな。
火鉢に手を伸ばして暖を取っていたルーシーが、小首を傾げる。
「桔梗を模した白と紫の甘い餅でしょ、ぜんざいも外せないでしょ」
そうやって豪華な食事をとるルーシー。
はむはむと餅を口に運び、ぜんざいをゆっくりと飲んでいく。
どちらも上品な甘さと、香りだった。心が柔らかく優しくなる。
毎日、お菓子ばかりを食べるルーシーだ。甘いものは大好きなのだ。
「桔梗を模した砂糖菓子もすごく綺麗だよねえ。これ、名前なんていうんだろ?」
問いかけながらも、答えを待たずに砂糖菓子を食べるルーシーだった。
いずれ聞けるだろう。帰りに聞いてもいいだろう。
ひとまずは心が満足するまで食べるだけである。儚くて甘い砂糖菓子は、夢を啄むようで素敵だった。
「あとはちゃんとした料理も食べたいよね」
しっかりとお腹にたまるし、食べた後に口と舌が喜ぶもの。
ならばとジビエの肉をローストしたものと、新鮮な魚の刺身を求めるルーシー。でもやっぱり食後のデザートは欲しかった。
何かないかなと聞けば、こっそりと出されたのは桔梗と同じ色をした羊羹。これだけあれば十分だろう。
ジビエの肉は、独特の風味がある。
燻製とされたせいでそれはより強く、同時に口の中で喜ばせるものとなっていた。
刺身も舌の上で脂と旨みが蕩けるようである。
一度、熱いお茶でそれらの残り香を流し込んだあと、口に含む紫色の羊羹は、濃密な甘さだった。
どれも独特の風味がある。
それが特別な料理であるとルーシーに感じさせ、身と心に力を湧き上がらせる。
「いいね、いいねぇ」
全部を味わい、暖かさを得る。
気力が溢れ、前を向いて歩こうという気持ちになる。
まさしく新年を告げるための料理たちだ。
新しいものに挑戦しようとするひとの背中を押してくれる美味しさだった。
「あたし自身も新しくなっていくよ!」
ひとつ。ひとつ。
素敵で甘い未来へと、足音を刻んで。
とても脆くて優しい砂糖菓子のような、幸せへと近付くために。
――だって、小さな希望でもあるのなら嬉しいよね?
第3章 ボス戦 『星詠みの悪妖『椿太夫』』
● 断章 ~ 急立会・落花の刃 ~
夜も深く、宴とて終わりかけたその時であった。
雪雲の隙間から月が覗く。
冷たくも美しい光が差し込み、ふわりとふわりと漂う雪は花びらのようだった。
祝いの祭りは、かくして終わる。
気づいたのは誰であっただろうか。
夜帳の裡にて跳ねる艶やかな彩があった。
赤い色彩は寒椿の如く、雪の中でより美しく見える。
女であった。
一振りの刀を持つ古妖の女であった。
宮の屋根を跳ねていけば、一面の雪が覆う庭へと降りる。
石造りの灯篭が並ぶ。
穏やかな灯りが周囲を照らし、募った雪を美しく見せる。
「さて、如何でありんしたでしょうか。わっちが織り上げた星の巡りは」
螺鈿細工の施された美麗な居合刀を携えた古妖の女――星詠みの悪妖『椿太夫』が妖艶に微笑む。
甘い花の匂いが、雪の世界に満ち溢れて始めていた。
「定められた星の運命をねじ曲げることこそ、わっちの楽しみでございます。……ええ、あのふたりが結ばれぬという悲劇を、断たさせて頂いたので御座います」
何故、と言われれば結ばれるべき縁だと椿太夫が思ったからだ。
それ以上の理由はなく、信念というべきものもない。
「それが愛、という愚かしさでございましょう。もっとも、その情念が沸き立ち、匂い立てばわっちら古妖の封印は解けるというもの」
幸せである。
その思いとて、古妖の封印を解くのであると。
「幸せとなる為に強くなりたい。守る為に強くなりたい。強い、強さ。愛している、愛されている。その気持ちは、わっちたちを自由にする風でありんす」
朗々と歌うような椿太夫が、居合の構えを取る。
双方の間に揺れる意志という荒波の中に、自らの斬るという思念を秘めながら。
斬るという意志の発露より早く、椿太夫の刃は鞘走るであろう。
慈しみの眼にて放たれる後の先の一閃。
――急立会・落花の刃。
急激に間合いを詰める歩法と、凪いだ心境にて放つ花の刃。
居合である以上、鞘より放たれるが故に太刀筋は限定される。が、その限定される太刀筋を見切ろうとすればするほど、落花の刃の術理に嵌まるのである。
花びらが落ちる時、見るのは何であるべきか。
花びらそのものか、流れる風か、それとも枝であるのか。
後の先に抵抗しようと、ひとつを見れば落花の情景を見落とすのである。
さりとて、全てを見ようとすれば刃の閃きを見逃そう。
「さて、わっちと立会ってくださいな。まだ事件も、誰も傷つけていなくとも、わっちがそのように望むのでありんす」
ああ、理由が必要であればと。
くすりと椿太夫は微笑む。
「自らが招いた、ふたりの幸せな星の巡りを壊しはしませぬ。さりとて、この雪化粧を血で染め上げるといえば……ふふふ、皆様とて戦う理由になりましょうぞ」
花は咲いて枯れ、散るように。
「わっちは古妖。愛の情念、悲劇を変えたいという願い、戦うという意志。その全てをもって、わっちの望む星の巡りを引き起こすのでありんす」
この戦いで舞い散る想いの火花。
それを以て、また新しい古妖の封印がとける。
故にこれから連なるは百鬼夜行の武。
剣刃の瞬きを宿すものなり。
「わっちたちの心を以て、百鬼の刃が封じられた鞘を解き放ちましょう。先駆けの一刃たる落花の姿をご覧あれ」
==================================================
解説。
戦闘の章です。
剣戟、心情、矜持の想い。
それらを乗せた戦闘を書かせて頂ければと思っております。
椿太夫は√能力の他に、居合刀を使って戦います。
今回の椿太夫の剣術は達人の腕前であり、鞘より居合を放った後もかなりの強さで刀を振るいます。
特に扱う必剣、『急立会・落花の刃』は確実な後の先――キャラクター側が攻撃しようと瞬間、先制を奪った上でのカウンターを放つ技です。
瞬時に間合いを詰める歩法、神速の抜刀術は勿論の上。
更には相手の意識の間隙を突いての攻撃と、心・技・体の全てで対応する必要があるでしょう。
必殺の居合を防ぎ、或いは破っての戦いとなります。
対策がない、もしくは足りない場合は深い負傷を受けますので、ご注意くださいませ。
特徴として。
・鞘より抜き放つ際にしか出せず、鞘より放つが故に太刀筋は限定される(ただし、鞘に刀身を戻すことが出来れば何度でも使用する)
・意識の間隙を突く抜刀術である。
・逆に椿太夫の斬るという意志は、対峙する相手の思念や気の揺れに隠す為に見切れない。
というものです。少しでも破る方法の参考となれば。
遠距離攻撃だから安心、ということはありません。
また地形や夜であるからというデメリットはPC側には一切ありません。
またアイテムや√能力での無効化は出来ないと思ってください。純粋に技能を絡めたプレイング勝負です。
(例としてはオートキラーでの先制攻撃でも、逆にカウンターで斬られることとなります)
それでは皆様、どうぞご武運を。
・プレイングボーナス
後の先を奪う神速の抜刀術、落花の刃に対抗する。
(補足)
椿太夫の√能力、『惑わしの香』。
こちらは正直病と固定となり、フェイントや騙しといった技が使えなくなり攻撃が非常に読まれやすくなるものと固定させて頂きます。
地には深雪、空には凍月。
冷たくも美しき、冬の真白き情景が広がっている。
柔らかなる雪は踏みしめるごとにさくりと鳴く。
皓々と降り注ぐ月灯りは、ひたすらに夜の空気を澄み渡らせる。
どちらも静けさを広げる美しさである。
そんな雪庭に、艶やかなる古妖の赤花が佇む。
「さて、汝らでありんすな。如何に歌い、如何に踊ってくれますか。風流な雪の舞台を、如何に飾ってくれますか」
名を椿太夫。
星の定めし運命を変えることを望む女。
椿太夫の機嫌ひとつ、思いひとつではあるだろう。
だが、と。
金の瞳を向ける男はなんと因果なものかと胸の奥で吐息を零した。
雪の上に浮かぶ影の如き黒き風貌の持ち主は、時月・零(影牙・h05243)だ。
眩いほどの白雪の上では影のような美貌を隠すことは出来ず、だが、よりその黒を纏う美貌を映えさせる。
場の緊迫を覚え、刃の如き鋭さを示す表情でもあった。
時月は思う。が、此処に斬刃の存在意義などあるのかと。
悲劇は此処には無く、本来ならば己が刃を振るう理由などない。
祝いの場である。幸いの咲く白い夜である。
赤い血の花が登場する必要など皆無のはずである。
だとしても、時月の胸に疼くものがあった。
「武人とは程遠い存在ではあるが……」
それでも刀を携える。
斬ることで禍いを排し、その根源をも絶つのである。
時月はそれを矜持のように憶えていた。自らの存在意義に近しいほど、深く心に抱いていた。
ならば強さを求めるのは道理であろう。
どちらがより強いのか。
この強さに触れて、より強くなれるのならば。
「……強者と刃を交える事に興味が無いと言ったら嘘になる」
強さ、強さ。
強くなりたい、強くなければ。
矜持と渇望により研ぎ澄まされるその願いに、果てなどあるまい。
視線を横へと寄せれば、傍に立つ少女もまた感情の淡い語り口で自らの胸の裡を紡ぐ。
「私も似たようなものかもしれません」
物静かな美貌は、一文字・透(夕星・h03721)である。
儚げな容貌に、仄かにしか感情の浮かばない声色。
さりとて、想いの真っ直ぐさは確かなもの。嘘偽りなく、自らの心の形を締めていく。
「何であれ強さには興味を持ちます」
それが教えられたことであり、出来ることなら。
――強くならなくちゃ、いけないのに。
鼓動と共に在る透の願いは、切実なほどであった。
淡雪のように柔らかくも儚げな声の裡に潜む祈りは、星の瞬きのようである。小さくとも、確かに、消えることなく在り続ける。
ならばそう。時月と透がここで退くはずがない。
「戦いを望むならば、二対一が卑怯とは云うまい」
「無論。ひとりで佇むとは、ひとりで事足りるという自負。相手の数が考えていたより多いから、思っていたりよりも強いからと……背を見せて逃げ卑怯だと囃し立てる――わっちはそんな愚かな娘のような口は持ち合わせません」
はんなりと語る椿太夫が居合に構えた。
「それほどに自らのこの武芸、落花の刃を信じているということでありんす」
ゆらりと。
波打つような剣気が互いの間に張り巡らされた。
成る程、これは秘剣である。抜けば必殺を告げる剣である。
猛威と感じるような激しさはなくとも、時月は確かに憶える。これは脅威である。
ああ、いや。これを破りたいのだと。
そうしてこそ護れるものがあろう。
刃の強さであるのだと、時月は願うのであった。
「その太刀は俺が受けよう」
時月が金の眸で透を一瞥すれば、前へと進みながら己の影に棲まう深潭の狼と混ざり、溶け合い、ひとつと為りながら朔斬を鞘より抜き放つ。
椿太夫が微かな息を零した。
それほどに見事な刀である。
見えぬ者をすら斬ると云われる朔斬の刃には、凄艶なまでの凄みがあった。
それが災禍もたらすというのなら、水底に揺蕩う月影すら斬ろうか。
妖刀が情念を滲ませるような気配があるのだ。
しかしとて、妖刀と断ずることも出来ない。何しろ、朔斬を構える時月の背は、透から見ればとても頼もしいものなのだから。
或いは、別の誰かから見てもそうなのかもしれない。
禍に怯えるものには、救いの手であるように見える影と刃であった。
――なら、私は私の出来ることを。
つう、とその背を見て背後で息を潜める透。
落花の刃を受けてくれるというのなら、信じて託すまで。
その上で透だからこそ出来ることを果たすのだ。
今の透の取り柄と言えるものがあるとすれば、速さぐらいだろうか。
美しい指を繊細に動かし、何時でも受け継いだ暗器たちを手繰れるようにしながら、雪の上で足先を滑らせる。
いざ駆けるとなれば、足は止めず、常に走り続けて。
そうして出来ることをと、開戦を告げる瞬間を待つのだ。
「さて」
「さりとて」
対峙する時月と椿太夫。
威圧とも言えるようなものはなく、ただ緊迫だけが両者の間で揺れて、揺れて――そして、その開幕の拍子は何であったのだろうか。
刹那、地の雪を跳ねて椿太夫が踏み込んでいた。
居合たる落花の刃。その抜刀の起こりどころか、瞬間さえ見せずに放たれるは神速の一閃。
なんという迅さか。
背筋が震えるは、艶やかとさえ思える動きであるから。
まさしく落花の姿である。気づけば落ちる花びらの一瞬を、如何に見切れようか。
意識の間隙を突かれたと、時月が視線を鋭くする。
が、焦ることなどない。居合とはその構えから、元より太刀筋がある程度、制限されるものである。ならば時月は今までの戦闘知識と経験から選択を絞る。
迫る死の刃の気配を確かに掴むは野生の勘。生命の危機、その明暗を捉える心眼である。
数瞬遅れた。だが、まだ死ねない。
「はっ――!」
裂帛の気合いと共に時月が朔斬を振るう。
疾きこと黒き迅雷の閃、それが落花の刃を迎え討つ。
澄み渡る刃金の音色が響く。
龍笛の如く雪の上、月の下に朗々と。
そして鮮血が舞う。
頸を狙った落花の刃を寸前で受け流した時月。
致命は防いだ。けれど首と肩の付け根をごっそりと斬られ、大量の血が吹き出る。
だがこれでは死なない。殺せていない。
ならばと二度は許さぬと纏う影を揺らめかせ、朔斬にて切り返す。
鋭く、静かなる斬撃であった。
まるで影のように忍び寄り、意識の外より斬る。
時月の刃は痛みも、恐れも何も無い明鏡止水を示すが如くである。
白く眩い雪の上にあって、なお見落とす疾さと鋭さ。
故にこそ椿太夫の肩口から胸元が斬り裂かれ、時月と同様に鮮血の花を咲かせる。
「お見事な」
「そちらもな」
斬り結んだ直後、身を翻して後方へと退く時月と椿太夫。
中段に構えあう。隙を見せぬ正眼にと刀を寄せた時月に対し、椿太夫は自らの刀身を隠すような脇構え。
これでは間合いが測れない。不意を再び突かれることを覚悟した時月だが、その背後で雪が跳ねる。
降り積もった雪を巻き上げる速度で駆けるは透である。
いざ始まれば足など止めない。例え一撃の力は弱くとも、幾つとて手数と技はある。
透が忍ばせる暗器たち。その攻撃方法は多彩なものである。
遊撃にと専念されれば、これほど厄介な遣い手も早々いないだろう。
「見切れますか?」
透が放つは栞の投擲。狙いは椿太夫の手元や足下。
見た目はただの紙のひときれ。されど、透の指使いによって巧みに投げれば、まるで刃の吐息を宿したが如くよく斬れる。
椿太夫の太刀筋、足捌きを意識して動きを先んじて制するような投刃は、援護としてこの上ない。かつ何を狙っているのかと読みづらいほどの早業。
「こちらも素晴らしき技」
初見では見切ることが出来ず、足を斬り裂かれた椿太夫が微笑む。
続けて刀を手繰る手首へと栞が放たれるが、これは後方へと跳び退きながらの斬撃で斬り落としてみせた。
「よく斬れる紙。見事でありんすな。鋭き言ノ葉を宿しているかのよう」
「さあ、どうでしょう。一度触れただけで解るほど、ひとの心とは簡単ではありませんから。もう一度肌で触れては?」
「ふふふ。それは避けさせてもらいましょうか」
重ねられる投擲に、右へ左へと跳ねて避ける椿太夫。
だが、それ以上に雪煙を伴って疾走する透は栞の投擲をとめない。不規則に放たれるそれは、ある時は連続して、ある時は来ないと思った拍子に唐突に現れるもの。
これでは再び居合の為に鞘へと戻すこともままならない。
「まるで忍びでありんすね」
ならば透から斬るべきか。
椿太夫が双眸と剣気を透に寄せた瞬間、その身体が唐突に時月へと引き寄せられる。
空間引き寄せによる強引な間合い潰し。
更には、時月自身も切り込んでいく。
決して透へとは近寄らせはしないと異能を吠えさせ、真っ向より気高き影刃を振るいて鳴らす。
再び激突する刀身は、互いに火花を散らして鋼の音色を奏でるのだ。
袈裟斬り、薙ぎ払い、切り上げに唐竹割り。
あらゆる技を尽くして斬り結び、鎬を削りあいながら相手の強さに触れる。
ああ、素晴らしき強者。故に闘争の心は甘美に燃える。
されど譲らぬ。さりとて劣らぬ。勝つのは己であると、円弧を描く切っ先が幾重に紡がれ、競い合うかのように斬り合う。
惑わしの香によって、時月の太刀筋は多少であれ読まれ易くなっているのか。椿太夫の流麗な剣撃によって時月の肌が斬り裂かれ、刻まれた傷口が血を流す。
「如何なされましたか? わっちと真っ向勝負と気炎を吐くなら、身を惜しむこともないでしょうに」
「……もしも力足らずで怪我させてしまった、などと思わせてはならないからな」
「優しい御仁で。誑かしとならないように、ゆめゆめお忘れなきよう」
「……大丈夫です、私は私の最善を尽くしていますから」
だが――透には喜んでいて欲しい。
誰かの傷を見ながら微笑むことは難しく、伴うものが何か嬉しいことを見つけることも難しい。
影の狼と融合した今なら、無謀なほどに斬り合っても時月は問題なかろう。死から即座に蘇ることと出来る。が、それは透の為にしたくない。
折角、読書という共通点に気づいて喜び、笑ってくれた夜なのだ。
「勝つ。俺にとって勝利を遂げるだけだ。強さとは、その為に在るのだろう」
ならばこそ時月は影の異能を更に激しく唸らせ、搦め手を深めるのだ。
斬撃に刃が瞬いた。いや、それと共に影の刃が奔る。
一瞬で双つの剣閃。光と影が放たれ、椿太夫の腕を裂いた。
時月の影を操る技である。影の刃として剣撃とは別に繰り出している。
「ほう。そのような技とて」
時月の挙動から掴めぬ影の異能という二刀目。
更には僅かな隙を見つけて透の栞が跳び、椿太夫から余裕と血を失わせる。
これではまさしく納刀の暇もない。
それどころか、ふたりの連携に晒されて椿太夫をして活路が見えない。
くすくすと艶然と微笑む椿太夫だが、透の放った栞に手首を貫かれ、太刀筋を狂わせる。その一瞬を見逃すことなく、朔斬が椿太夫の太刀を弾き、影の刃がカウンターの剣撃を届ける。
身を深く斬られ、後方へと下がる椿太夫。
いいや、ふと気づいた。時月の影が自らの腕に触れ、掴むように捕縛している。
「これは……!!」
「見事な剣技――無法者に近い相手で悪いな」
椿太夫が後ろに下がったのではない。下がらされたのだ。
気づいた瞬間には既に遅く、雪の上を跳ねて駆ける透が横手から不意打つ強襲を仕掛ける。
迎え討とうする椿太夫。だが影に腕を引かれれば、体勢こそ崩さずとも刀を守りも攻めにも振るうことは出来ない。
一瞬の隙。ましてや時月が紡いだそれ。
透が見逃す筈はなく、自らの直感を信じて果敢にと突き進む。
構えるは月映。祈りの込められた清浄な刃は穢れを知らず。
透の霊力を宿せば、さながら雪明かりのように燦めく白刃であった。
「お覚悟を」
踏み込む勢いを乗せ、更には身を翻す疾さを乗せ、椿太夫の急所へと放たれる月映の刺突一閃。
剣風にて雪が舞う。
月白風清の静かなる美しさを切っ先が語る。
鮮血、椿の名の如く大輪に咲き誇った。
「雅なもの、です、ね……」
透の放った月映の一撃を歌うように賞賛する椿太夫。
だがタダでは散らぬというように、椿太夫は刀を横薙ぎに放つ。
即座に身を翻して後ろに跳び、距離を取った透。だが脇腹を斬られて、血が飛ぶ。
雪と血。
白と赤の花びらが、舞い上がる中。
『――お返しです』
地面に着地した透の足先が、雪を、いいや、雪の奥に埋もれた石を見つけ
それを蹴り上げる。
雪に包まれた世界での不意打ちだ。椿太夫とてそこに石があるとは気づくこともできず、額を強かに打ち据えられる。
乱定剣――定まっている自らの得物ではなく、その場にあらゆるものを活用する攻撃。投げるならば栞、苦無の形をしている月映だが、静かに定まっていないからこそ読みづらい。
更に続く栞の投擲から逃れながら椿太夫が見れば、透の負傷は完全に癒えている。
「無垢なるは花、というよりも、空高くにある星のよう」
そっと目を細める椿太夫。
美しきかな。強きかな。
星の巡り、その定めに打ち克つものたちである。
ああ、ならば。
ならば十分。
雪を跳ね飛ばながら上段に構えた時月が踏み込んでくるが、こういう敗北ならば椿太夫とて嫌ではない。
「浮世の憂いをも忘れる、よき戦いにござんした」
艶やかに微笑む椿の花へ。
戦の理を告げる時月の剣刃が赤花の終わりを告げる。
悔いはないと微笑む椿太夫と、朔斬より血糊を払う時月に呼吸を整える透。勝負あり。ならば、あとは雪と月の清らかな白が全てを包もう。
そうして幸いなる夜に降り注ぐ白雪は、戦いの痕跡の全てを覆い尽くすように。
しん、と。
柔らかさに包まれて。
されど刀の鋭さと、芯の強さを確かに宿して。
新たなる一年の門出に、ひとつの禍の種を断ったのだ。
さくり、と雪を踏みしめる。
周囲は真白に染まり、皓々と降り注ぐ月灯りが暗闇を遠ざける。
反射する雪も小さく燦めくかのよう。
そんな美しい場所で、雪の精霊が祝福しているかのようなこの夜に。
それでもなお、戦うのだろうとエアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)は翠色の瞳を瞬かせた。
「お姉さん、悲劇を幸せにしてくれたことはすっごくありがたい」
今宵が幸いなる色彩で彩られたのは、結ばれることなき男と女の星の巡りを変えられたから。
目の前で佇む椿太夫は、星の定める運命を変えることを求めるものである。
だが同時に、椿太夫は古妖であった。簒奪者である。
今すぐに事件を起こさずとも、時間を与えれば目論見が深まっていく。
「出来れば、このままって言いたいけれど、ダメなんだよね」
「相容れぬものはございましょう。理想、信念、矜持。それらがこの場で戦うがよいと言うのでありんせんか」
理解しあい、頷くことはできない。
戦いの中で咲き誇る情念こそが新しき同胞、或いは自らの更なる封印を解くのであればと椿太夫は居合に構えた。
一方でエアリィも椿太夫を見逃す危険性には気づいていた。
今は争いや悲劇を起こさないが、目の前の椿太夫は古妖である。
機嫌ひとつ、感情ひとつのさざ波で幸福も紡ぐが、不幸も然り。価値観の基準がひととは違う。
「……それじゃ、お相手するよ」
なら仕方ない。
エアリィは自らが取れる手段が限られていると感じながら、精霊剣を両手に握って構える。
精霊の力を宿した白銀の刀身が、白雪の降り積もる中できらりと輝いた。
冷たい冬の色ではなかった。
希望と幸せを求める、暖かな輝きだった。
対峙する椿太夫は緩やかな呼吸と共に居合。だいぶ離れているが、この距離さえも瞬時に詰めてくるのだろう。
張り詰めた静寂がふたりの間に流れる。
甘やかな匂いがエアリィの胸に届き、心にまで何かがすっと染みこむ。
惑わしの香がもたらす正直病である。
だが、それも。
「……正直病ならね、思ったことを言うだけ!」
自分の感情の動きがどうなるか解らないのではないのだから、問題ないと幼くも勇敢な心は自らを励ます。
いつだってそうだ。
自分にも相手にも嘘偽りなく、エアリィは冒険の歩みを続けたいから。
「あたし、まっすぐ行って斬るだけだから!!」
「……ほう」
椿太夫が感嘆にも似た息を零すのは、それがまさしく真実であるから。
「なんとも勇気に溢れる少女でありんすね。きっと、悲劇の星とてその想いの前では路を譲りましょう」
くすりと微笑む、星の定める運命を拒む古妖。
「譲って貰わなくても結構だよ! 私はただ、心のままに自由に進むだけだから!!」
例え阻むものがあっても越えるだけ。
天真爛漫なエアリィの姿は、さながら春告げる風のよう。
疾く、だが想いの儘に強く、
諸手に握る精霊剣の刀身が雪明かりの下で美しく輝く。
「素晴らしきにありんすな」
だがそれを越えてこそ古妖、椿太夫であった。
瞬時に間合いを詰める歩法。
意識の間隙を突いてのそれは残像さえ捉えさせぬと、一息にエアリィを捉えている。
刹那、放たれるは落花の刃。
いいや、その鞘走りの瞬間さえエアリィには捉えることが出来なかった。
間合いを詰められた、と思った時には既に慈しむような静けさで、瞬刃が奔り抜けていた。
まさしく神速の一刀、秘めたる刃が鮮血の花びらを落とす。
「っ、う!」
夥しい血が、深雪を赤く染めていく。
だが、エアリィを死に至らしめるには届かない。
それを成し遂げたのはエアリィの果敢なる想いだ。
春風の如き勇気が、冷たき死を撥ね除けたのだ。
「お見事」
「まだ、だよ……!」
落花の刃、それを放つは刀である。ならば剣先がもっとも斬れ、鍔元であれば刃の鋭さは鈍るというもの。
ならどんな状況でも歩みを止めず、ただ進むだけ。
可能な限り前に進み続けたエアリィ。
結果とした椿太夫の落花の刃はエアリィの腹部に深く食い込むが、急所を斬り裂くものではない。
一撃必殺を狙った居合に対して、深手を負ったとしてもこれならまだ戦える。
「そう、あたしの歩みは、まだまだっ」
痛みを堪えて、更にエアリィが迫る。
椿太夫に刀を引き抜かせない。押し込ませない。
今度は自らの攻勢であると、六芒星と共に二対の魔力翼を紡ぐエアリィ。
輝く翼をはためかせ、急激な加速。
その勢いで地面に降り積もった雪が、空へと舞い上がる。
ふたりの間を揺蕩う真白き花びらたち。
静かなるそれを越え、エアリィが進むのだ。
体当たりのように至近距離まで接近して肩からの体当たりで、椿太夫の体勢を崩す。
「このぐらいで、止まるつもりなんてないの! 幸せな姿が見えたから。願うものがあるんだから!」
星の告げる運命なんて見えなくても、それだけで十分。
自らの足を精霊剣で刺せば、その負傷を代価として更に魔力の輝翼が応える。
燦然と瞬くエアリィは、さながら青い流星のよう。
その身体も剣も、一筋の光と化して椿太夫と擦れ違う。
――肉を斬らせて、骨を断つ!
青い剣光一閃、雪の花が落ちるより迅く椿太夫を袈裟に斬り裂く。
エアリィも落花の刃で深い負傷を受けたが、椿太夫もまた精霊剣によって斬られている。
秘剣であった落花の刃を破るは、果敢なる少女の思い。
まだ見ない理想を、いつか果たせる希望を抱いて、鼓動と共に進む心であった。
「だって、あんなに幸せな姿と幻をみたんだよ。あたしは、痛いぐらいには恐れられない」
いつか素敵なお母さんとなれた時に、家族たちに誇れるように。
暖かくて、強くて、傍にいて安心できる大人になりたいから。
そんな優しくて暖かな願いが、椿太夫が繰り出す落花の刃を越えて、未来へと軌跡を刻むのであった。
見上げれば皓々たる月、足先が踏みしめるは新雪。
天地に冷たき真白き彩が満ちる中、ふたつの艶花が巡りあう。
かたや赤椿。
かたや仇花。
甘くも秘やかなる匂いを放つ少女と女であった。
共に携えた刀を鞘の裡に秘め、静かに吐息と視線を重ね合う。
さくりと。
雪を踏んで鳴らす音さえ逃さず、自らの裡へと絡め取るかのように。
最初に微笑んだのは徒花たる少女である。
されど儚く散ることなどないのだと、赤い双眸に妖艶な光を灯していた。
「んに、お姉さんが居合使いだったんだね」
可憐な声で囁くのは徒花・すふぃあ(|実をつけて《出会った事で》|咲いてしまった徒花《徒花ではなくなったモノ》・h07592)。
雪の降り積もる庭の向こう、居合刀を構える椿太夫を見つめる。
まるで雪と花に戯れる少女のように、それでいて白刃の凄艶さを顕しながら。
「わたしも実は居合使いなんだよっ」
すふぃあが構えるのは光魔刀『ブレイブスピリット』。
自らの精神力をオーラ状の刃として生成するカタナである。
淡い光に見えるが、その刃の鋭さは疑う余地もない。
触れれば死が待つ。
それでも近付きたくなるような妖しい美しさを湛えながら、すふぃあは居合の構えを取る。
寸分の隙もなく、研ぎ澄まされた構えであった。
唇より零れる息が夜に白さを広げていく。
「どちらの居合が上か、勝負しよっか」
互いの生死を賭けた真剣勝負とは思えない、軽やかなすふぃあの声色に椿太夫もゆっくりと頷いた。
「あ、因みにわたしからは攻撃をしないから、そっちに先手を譲るよ」
「安心なさってくださいな。わっちが動くのでありんせん。あなたという風が吹くのでしょう。花とは風に揺れてこそのもの」
「んにっ、風雅だねぇ。……そういう問答は難しいから、よくわかないけれど」
斬れば終わる。
ならば斬る。
それのみであるとすふぃあの居合と、椿太夫の居合が向き合った。
互いにほんの小さな予兆を見て斬り合うのみである。
剣士同士であるなら睨み合うものだが、此処に咲いたのは少女と女。
互いに蠱惑的な笑みを浮かべ、開戦の合図を待つ。
まだか。まだか。
いいや、この瞬間であると互いが確信したのは屋根に積もった雪が崩れた瞬間である。
とさり。
そんな些細な雪音が、緊迫した空間を打ち壊す。
「――――」
「っ」
雪が跳ねて、鞘走る刃金が鳴る。
迅い。意識の間隙を見事に突かれている。
光芒一閃と奔るは、まさしく神速の居合――落花の刃である。
鮮血が舞う。
儚げな赤い花びらが、徒花として。
だが直後に響くは、刃金が噛み合う美しき音色だった。
「ん、に……っ」
「お見事でありんす」
椿太夫が放った落花の刃に、すふぃあの反応は確かに遅れていた。
だがそれでも自負がある。矜持がある。ならばこそ先んじられた数瞬を取り戻すべく、自らの全身全霊を賭した居合で受け止めたのだ。
迫る死神の気配を掴む第六感、生きる相手の放つ太刀筋と拍子を見切る心眼。すふぃあの感覚と技を総動員して放つ居合の迎撃。
それこそがふたつの刃金を激突させて鳴らし、すふぃあへの致命傷を防いでいた。
完全には受け止められず、深く脇腹を斬り裂かれたが急所に至る寸前で光魔刀の刀身で受け止めていた。
いや、すふぃあの繰り出したそれは果たして居合であったのだろうか。
鞘より半ばまで抜きながら、されど刀身の全ては出すことのない受けであった。
椿太夫の落花の刃、その威力を受け止めてみせたのはこれである。握る手のみならず、鞘とそれを握る手で斬撃の衝撃を殺してみせた。
かつ、すふぃあ自身は鞘より完全に抜き放っていない。片手を峰に当てて敵の攻撃を受けきる不動の構え、鳥居受けに近い。しかも手首を捻れば椿太夫の刀に圧力が加わる。
「抜けば負け――それが居合の精神ってやつだよね?」
「確かに。そういう意味では、わっちの負けしょうな」
妖しげな美しさに濡れた眸が、互いを映す。
すふぃあが手首を返しながら椿太夫を押し返せば、雪と共に踊る椿の花。
軽やかな体捌きで翻し、切っ先を向け直す椿太夫。構えるは中段、平正眼。鞘に当てていた左の掌を柄頭にあて、白刃の鋭さを示す。
りぃん、と刃金が鳴いていた。
椿太夫の居合刀が激しく震えているのである。
すふぃあが光魔刀で受け止めると同時に衝撃を与えていた。
玉鋼より紡がれる刀とは強靱なものだ。簡単に折れて刃毀れしないようにと、しなやかさを持たさせられている。
銘刀であろう。でなければ、斬撃の芯を捉えて受けたすふぃあの光魔刀との交差でへし折れていよう。
だが、こうも音を鳴らすほどに激震する刀身は居合使いにとって厄介なものである。何しろこうなってしまえば切っ先も乱れ、剣戟の最中には鞘に納まらない。
「抜けば負け、とは確かに……わっちは抜いて、あなたは抜いていないものならば」
「んに、斬られたぶんはあるけれどね」
すふぃあの光魔刀は未だ鞘にある。
半ばまだ抜いたが、完全ではないのだから納刀は容易い。
つまる所、すふぃあだけが自らの得手とする居合を自在に操れる状況。
「状況はこれで五分かなぁ」
抜いたら負け――精神論である以上に、居合の術理である。
また、ひとを惑わす女が自らの真実は秘めるのにも似よう。
自らの正体を見て、掴まれた女が如何にして妖艶と、魔性と言えるのか。
「では、また追い越させて頂きましょう」
椿太夫が魅せるは、白雪と花びらが舞うが如き流麗な斬撃である。
斬刃を繰り出す度に、妖艶さを匂い立たせる椿太夫。
迎え討つすふぃあもまた、くすりと笑って鞘走らせた。
真白き舞台にて狂い咲くは、少女と女が瞬かせる剣閃たち。
艶やかな肢体が雪の上で跳ねる。花びらのように舞う。
その艶美さたるや天女が催す宴のようであった。例え破滅が待ち受けると理解しても、幾人が夢に求める魔性があった。
眩いほどに夜に映え、雪を燦めかせる。
美しい。麗しい。
されど、触れれば命を奪う妖しき花の彩であった。
「んに。くす、くすくす……楽しいなぁ」
「笑えるのは素晴らしきことでありんせんか。地獄の路でも、女は艶やかに笑ってこそ」
「男に、一緒に地獄においでって誘えるように?」
「幾人もそうやって誘って、転ばせて。はたと男は自分だけが地獄に落ちたと嘆く。ようやく一人前の女でございましょう。……違いますかえ?」
「違わないなぁ。きっとそうあれるといいよねぇ」
言葉を交わし、更に加速するふたりである。
抜けば負け。さりとて、抜いた後の椿太夫の剣技も見事なものであった。
すふぃあの柔肌が幾度も斬り裂かれる。
椿太夫の切っ先が頬を斬り裂き、首筋を撫でる。翻ればすふぃあの手首を狙い、再びと走れば肩を削る。
が、すふぃあの戦意は衰えることなく、むしろ陽炎の如く燃え上がっていた。
あくまですふぃあが繰り出すのは鞘から半ばまで引き抜いての受けである。受ける衝撃を柄を握る手、鞘、鞘に当てた手の三点で殺し、手首を返して梃の原理で椿太夫の刀身に衝撃を跳ね返す技である。
すふぃあばかりが守勢に回り、受けるばかり。
秒数にして二十秒、三十秒と数える間に劣勢に立たされるすふぃあ。
抜かせる暇など与えないと斬り懸かる椿太夫だったが、四十秒を過ぎたあたりにぞわりと背筋に冷たい痺れが走る。
「あはっ♪ 凄い居合だったね♪」
すふぃあの示す笑みは、決して根拠のない強がりではない。
絶対にこの状況を覆す。それだけの秘剣を鞘に秘め、いいや、今も脈動させているのだ。
「わたしもとても楽しくなってきちゃったっ」
事実、すふぃあは未だ鞘から抜いていない。
抜けば負け。秘すればこそ花。
つまりはまだ、すふぃあは居合という自らの武の深奥を覗かせていないのである。
ただそれが息づく、脈打ち、膨れ上がるのを感じる椿太夫。
五十と歌う時、それでも椿太夫は猛攻を示した。すふぃあの必殺の剣が放たれたとしても、真っ向からそれを凌ぐつもりである。
自らの秘剣が破られたのだ。ならば、破り返さねば矜持が泣く。
「負けたままでしくしく泣いては、女がすたるというものでありんす」
「いいねぇ」
ならばと。
六十を数える瞬間、すふぃあが自らの精神を研ぎ澄ますことで、魂に触れるほどの奥深くから赤黒いオーラを引き出す。
ディスオーラを自らの身体に、そして光魔刀にと纏わせながら放つは、此処まで斬り結んだ力の全てを集約させて放つ居合である。
鞘走るは赤黒い光を纏いて、狂奔する徒花の剣刃であった。
その凄艶なる斬衝たるや、皓月を墜とすが如く。
放たれた剣威に周囲一帯の雪が舞い上がり、数瞬だけ空を覆って月を失わせる。
すふぃあの刀身に伝わる手応えは確か。
深い傷を負わせたのだと、白く煙る世界の中で感じる。
一方で双方の傷口から滂沱と鮮血が溢れ出し、激痛と共に数歩後ろへと跳ねて跳ぶ。
「み、ごとで御座いましょうね……。居合たるや、斯くあるべしと歌う様で」
「あはは。わたしはそんな、斯くあれ、という肩苦しいものに自ら嵌まる気はないんだよ♪」
自由奔放さは小悪魔たるすふぃあの性質でもあった。
気づけば広がっていた惑わしの香による正直病の影響は受けても、先手を譲るという言葉に嘘はないし、太刀筋にも迷いはない。
故にこそ、このような勇猛たる剣撃を紡ぐのだろう。
空間さえも咲くかのように吠える斬撃である。
受けた落花の刃、更には立て続けに受けた剣戟。その威力の全てを椿太夫へと返す居合一閃。
はらはらと、舞い上がった雪が再び地へと落ちていく。
互いの白い肌を血で濡らし、より艶やかさを得たふたり。
激痛などに自らの貌と声を染めさせたりしないとすふぃあは艶然と微笑む。ごまかす程度の耐性であっても、この場では十分。
あと数十秒、耐えられるなら。
一分と保たないと理解しているからこそ、すふぃあは自らの精神を更に研ぎ澄ましてオーラの刃を再び鞘へと納める。
そうだ。まだ互いに息があり、戦えるならばと切っ先を翻して踏み込む椿太夫。
再びの平正眼。右手は鍔元までと短く握り、左手は柄頭に添える。
「舞う花びらは、自らの身を委ねる風を選ぶ、と。あなたこそ風流でありんすな」
「わかっているじゃない♪」
瞬刃、凍風を裂いて走る。
舞踊の如く美しき椿太夫の一閃である。確かにすふぃあを捉えたと確信した一撃である。
が、切っ先は牡丹雪を捉えるばかりであった。
驚きに瞬く椿太夫。が、その視線が鋭く流れる。
跳躍斬撃――すふぃあが繰り出した√能力。空間跳躍という異能にさえ反応して見せる椿太夫は、まさしく武芸の花を咲かせていた。
ならばこそ、徒花と散らすのみである。
「あはっ♪ 凄い、凄いっ♪ でも、これならどう?」
今度こそ後の先、カウンターとして放たれるすふぃあの抜刀一閃。
跳ね上がる切っ先が椿太夫の脇腹を捉え、胸を通って肩口まで斬り裂く。そこで止まるどころか更に加速するのは、刃の形をした災厄だった。
すふぃあの左眼、左腕を立て続けに潰すことで、更なる空間跳躍と共に放たれる都合三つの斬撃。
三連の瞬閃を光魔刀が時空に刻む。
「名付けて|狂花鮮乱《キョウカセンラン》! これがわたしのカタナでの戦い方だよっ」
擦れ違うような三連閃は、雪上に影と血を残すのみ。
異能にて紡がれた、まさしく災禍のカタナである。
徒花として散るのはどちらと歌うように刃が舞い、無慈悲な死神の指先を招く。
いいや、ある意味ではもっとも慈悲深く、平等である死の神へと捧げるのか。
月灯りと雪の降り注ぐ中、すふぃあは自らと椿太夫の血に濡れながら笑う。
「あはっ♪」
すふぃあの美しい指先が虚空を滑る。
掴んだのは、先ほど光魔刀が斬りはらった椿太夫の血肉のひとかけらである。
雪のように柔らかいそれに触れれば、躊躇いなく自らく唇へと近づける。放り込む。他者の血と肉の塊を、さも上等な砂糖菓子であるように嬉しげに頬張る人と狐と狼の因子を抱く少女。
吸血鬼。そんな言葉が浮かぶ。
或いは美しき幽鬼。あらゆる命を貪り、破滅へと転がり落ちさせる存在。
無意味にそうしたのではない。重ねて発動していた√能力、禁忌に触れし斬撃の効果で、切断した対象の一部を食すことで負傷を回復させるのだ。
完全とはいえずとも、すふぃあが受けたダメージが軽くなる。特に自分で犠牲にした左腕も自由に動き、居合を放てる程度には。
「あははっ♪ 流石にこう言う事はするとは思わなかった?」
「――――」
流石の古妖とて、自らの肉体の一部だったものを目の前で喰われれば顔色を変える。
ヒトの形をした、何かひとならざるもの。
バケモノの動きを模して、恐怖を与えることができたらとすふぃあは思っていたが、その目的は半分までだった。
「なるほど、精神構造はわっちたち古妖に近いと」
「おや、おやや? そんな悲しいこと言わないで欲しいなぁ。誰かと一緒と、同じと言われて安心するほど、わたしは|愚か《こども》じゃないからねっ」
しかし、古妖とは此処まで強靱な存在であるのか。
幾つもの斬撃で深く身を刻まれながらみ、未だに椿太夫が倒れる気配はなかった。
「つまり――まだ一緒に踊れるってことだよね。切り結べるってことだよね?」
甘やかに誘う小悪魔のような仕草で微笑み、小首を傾げ、耳をぱたぱたと動かすすふぃあ。
そんな妖しさに惑わされることもないが、むしろ乗った方が面白いと椿太夫も艶やかに笑う。
「そうでありんすなぁ……今宵は浮世の憂いごとなど忘れて、咲き誇り、散りゆくがよいものでありんしょう」
「んに、ふふふ。話が分かるようで嬉しいね」
双方、此処まで話してようやく刀身の震えが収まったと見て鞘へと納める。
抜けば負ける。
故に、次にいざ抜くならば剣閃で必ずや仕留めるという必殺の気を刃に灯して。
「それで、わっちの血は甘かったでありんすか? 酔えるほどに、香り立つものでありんしたらよきことにありんす」
「あはっ♪ 知りたければ、私の亡骸に聞くといいよっ」
そうして見つめ合い、再びと剣刃の交錯。
激しくも美しい音色は、さながら龍笛を鳴らす天女がふたりいるかのよう。
そうして真白き雪を互いの色で染めて。
斬撃を鳴らして斬り結ぶのである。
どちらが散るか。残るのか。
艶美なるふたつの花が、命を絡め合うように刃を振るう。
柔らかな雪が月灯りと共に降りそそぐ。
これが今宵の舞台。
幕引きの戦いを踊る場所。
さながら赤き大輪の花の如く、艶やかに佇むは古妖たる椿太夫。
星詠みでもある彼女に、けれど柔和な美貌は安らぎの吐息を向けた。
「少し、安心したよ」
それが心の底の声である。
椿太夫にそう直感させたのは、既に満ちている惑わしの香のせいだけではない。
青い双眸が緩やかに揺れていた。
嬉しいと、感情のさざ波を告げているのである。
幸せを壊そうとしている訳ではないのだ。
婚姻を結んだふたり。或いは、その未来に関わる誰かにある幸福。
脆くて儚く、そして大切なそれを無残に撃ち砕こうとしているのではない。ただ、それだけのこと。
でも十分だ。クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、目の前の椿太夫も誰かのことを思えるのだと、『みんな』という言葉を知るのだと暖かな気持ちを抱いていた。
残虐な古妖である。
世界の敵たる簒奪者である。
そのような隔たりがあっても、同じ想いを抱けるのであればとクラウスは微笑む。
艶然と笑う椿太夫だった。
「星の巡り、定め。そんなものに足を引かれる人生は、悲しいものでありんす」
「ああ。そうかもしれない。自由に歩き、羽ばたいていけるぐらいに世界は広い」
夜空を見上げれば、雪雲の隙間から皓月と星が覗いている。
こんな会話とて、もしかしたら策略の内なのかもしれない。あらゆる情念が古妖の封印を紐解くのであれば、何もかもが椿太夫の目論見通りかもしれず。
「だから彼ら彼女らには、幸福の未来を歩いて欲しいな」
「ただ、その未来はわっちとてわかりません。結ばれる以上のことは、なにひとつとて教えておりませんからな」
ならば、そう。
結ばれるために古妖の手を借りたとしても、これから壊されるものではない。誰かの希望を踏み潰すこともない。
ただ、ただ――その純粋な幸せの姿にクラウスは安堵を憶えるばかりだった。
肌に温もりが宿る。
冷たい夜気に触れてなお、指先が自在に動く。
「じゃあ、後は」
「こちらと向こう。簒奪者とEDEN。わっちとあなた。立つ側が違うが故に、相容れぬと対峙致しましょうか」
すると居合の構えを取る椿太夫。
対するクラウスも、もはや言葉は不要と体内の魔力を掻き集める。
凝縮し、錬成するは月光のような蒼い光を纏う刀――蒼月の刃である。
蒼光の刀身を振るい、冬風に舞う白雪のひとひらを裂く。
そうして呼吸を整え、極限で集中力を高めるクラウスが紡ぐは月下氷雪。雑念、懊悩、その全てを静かに胸の奥へと静め、凪いだ水面の如き心境へと至るもの。
今やまさしく氷鏡の貌を浮かべるクラウス。
構えるは居合。だがクラウスは、同じ術理の上では劣ると素直に自らを判断していた。
驕るつもりなど一切無い。
自らは武芸に特段優れている訳ではないのだ。
ましてや同族殺しを続けた古妖である。
相手を上回るものがあるとすれば、覚悟と意志くらいなものだろう。
そう自らを評するからこそ、勝つのであれば決意を響かせるしかないと眦を決する。
迷いなど、憂いなど、あるはずもない。
負けるべくとして居合の技で負け、冴え渡る心の光で勝利を掴む。
それのみである。
「では参りましょうか。風が花を導くように、月が夜空を越えるように」
「自らの心で、世界と星の巡りも越えるのだと――ああ、俺もそうあって欲しいと思うよ」
ならばと。
先んじて踏み込むのはクラウスである。
後の先を奪う秘剣、落花の刃を舐めてなどいない。
だがまず恐れて二の足を踏んでは勝機など遙か遠くへと霞んで消えてしまう。故に、ただ想いに従って歩を進ませた。
椿太夫の斬撃は来るだろう――その予感の狭間を突いて、雪煙を纏って滑り込む赤花の女の姿があった。
――完全な回避なんて、最初から考えていない。
斬られることは覚悟の上。
椿太夫の必殺の刃に身を晒し、それでも静謐なる青の眼差しでほんの僅かな予備動作、肩から爪先に至るまでの肉体の動き、呼吸に視線。
挙動として起こる前の気の流れを捉えようとする。
幾多の戦場を渡り歩いたが故の戦闘知識。幾つもの死に触れてきたからこその、研ぎ澄まされた第六感。
いや、だからこそクラウスの背筋が甘く痺れた。
目の前にいる椿太夫は、今まで出会ったどの死神よりも鋭く、美しい。
――そんな死神が放つ落花の刃。
鞘走る瞬間を捉えきれず、白刃が散らす残光しか掴めない。
果たしてとふたりが交差した次の瞬間、斬刃が奏でる甲高い音色が響き渡る。
続くは赤い花びら。鮮血である。
雪を染めるほどの量が溢れ、迸り、真白き世界に朱花を添える。
されど。
「お見事でありんす。わっちの居合で死なないとは」
「っ」
神速の抜刀を見切りしは心眼。明鏡止水の心得である。
手も腕も動かない。ならばとクラウスは半歩だけ身を退いて翻し、左胸を襲う切っ先より逃れた。
いいや、それでも胸は斬られ、肋骨は断たれ、重要な血管が幾つも裂かれた。初太刀から重傷。それがクラウスの攻防。
「でも俺は動ける」
なら勝つ為に全てを賭して当然。
みんなの元に帰るのだと、蒼月の刃を手繰り寄せる。
――蒼刃一閃、流星の如し。
居合として鞘より放たれ、夜を翔るは蒼き剣刃。
白き牡丹雪を切っ先で捉え、椿太夫の柔肌をも斬り裂く。
あらゆる装甲を貫く斬撃である。故に椿太夫も容易く受け流す、とは至れない。
なんとも静かな抜刀である。
「重ねて見事。静けさに歌う、わっちには至れぬあなただけの刃でありんす」
椿太夫の右脇腹から腹部、そして胸部へとかけて朱線が走り、鮮血が溢れる。
雪の上に、ふたりの鮮血の花びらが舞う。
更にはクラウスの思念で操るレイン砲台から放たれたレーザーが椿太夫を襲い、艶やかな着物を焼いて身を貫く。
はらりと、後ろへと跳ぶ椿太夫。
一瞬の呼吸があれば再び鞘に納めての居合が出来る。
そのような事を許すか。或いは、挑むか。
誘い、試すような椿太夫の銀の双眸が揺れる。
クラウスの応えは単純明快。元より、一度斬り結べば二度と離れるつもりはない。
「まあ、真っ赤な運命の糸でも感じたかのような激しさでありんすね」
戯れる椿太夫の声に、クラウスは返答する余裕さえなかった。
全てが惜しい。全てを注ぎ込み、戦って勝って見せる。
両者の刀身が激突し、甲高い刃金の悲鳴と火花を散らす。
艶やかなる白刃、幽艶なる蒼月の刃。
重なり合い、絡み合い、喰らい合い、自らの信念を押し付け合う。
――俺も強情だな。
喉の奥から溢れる鮮血を唇から吐いて捨て、なお前へと進むクラウス。
鍔迫りへと持ち込んだ。かと思えばクラウスが躊躇無く放つのは肘撃である。椿太夫の体勢を崩そうと、至近距離から重ねて肩での体当たりを示し、少しでも離れれば下段足蹴りを繰り出す。
「悪いね。風流な剣戟に、付き合ってあげられるほど俺は強くないんだ」
居合、剣術、更には体術。
総合武術の形をしたクラウスの喧嘩殺法。礼節と精妙さを重んじる道場剣術の遣い手がみれば卒倒しかねないものだ。
しかし、知らない。
クラウスの闘い方とは、生きて勝つ為のものである。
ならばと臓腑――恐らくは肺を斬られたせいで喉の奥から溢れ続ける血を椿太夫の顔へと目潰しに吐く。
怯みこそしない。が、見えないのならと更に肘撃。
椿太夫の迎撃の一太刀に首筋を撫でられたが、こうして喰らい付いている限り、達人技とて振るえないだろう。
「柔らかな顔をしていると思えば、獣のような――ああ、ある意味でわっちたちに近くありましたか」
わっちたち。つまりは古妖に。
確かに、死んでも勝つという昔ならそうだろう。
「そうだったかもしれない」
けれど今は違うのだと、みんなの元に勝って、生きて、帰るのだとクラウスは蒼月の刃を翻す。
袈裟斬り、小手撃ち、横薙ぎに斬り払い。
剣風が地に積もった雪を巻き上げ、切っ先は椿太夫の身を掠める。
頬、腕、肩に手首。
ああ、でも朱が滲む程度では――勝てない。
一方でクラウスは初太刀で既に重傷。無理に動けば動くほど、傷口を自ら広げている。
激痛を越える為に気炎を燃やし、根性で立ち続け、攻め掛かる。
一度でも椿太夫が体勢を立て直し、呼吸を整えれば実力差で押し切られるだろう。なら、今しかない。
――今の俺は古妖とは、違う。
幾ら言葉を尽くしても意味がないそれを、剣先にて吠えさせるのだ。
そんな剣戟の応酬が、静かな雪の上で咲き誇る。
繚乱たる刃金の音色、まるで無常なる世界の理を詠うかのよう。
気づけば沙羅双樹の花と同じ色の雪も、必衰の移ろいを示すように血の赤さに染まりかけている。
気づけばクラウスも限界である。
呼吸が苦しい。酸欠である。そもそも血の巡りが足りているのか。
それでもなお、蒼月の刃の柄を握りしめる。魔力の糸で自らの身体を繋ぎ、強引に動かす。
限界を超えるのだ。
不可能の壁を越えて、奇跡を手にするのだ。
その想いこそが、古妖たる椿太夫を越える為に今必要で、勝利するためにクラウスがもっているたったひとつのもの。
怜悧なる蒼き一閃、椿太夫を斬る。
クラウスの持つ技量を極限まで凝らし、理想の動きを身体に実現させた技であった。
――でも、まだいける。
更に皮膚を自ら壊しながらの納刀。
剣戟を交わしながらなど、まさしく神業である。針に糸を通すようなことを瞬時にやってのけるのも、|糸操り人形《マリオネット》の為せる技。
いいや、その動きをクラウスは知っている。解っている。だから、これほどまで精密に動かせるのだ。
自らが知り、戦いを経て身体に染みこませた技の再現。
――もっと、もっといける。
無理矢理に動くからこそ、自壊していく|糸操り人形《クラウス》。それでも、戦いの中で芽吹く何かがある。
歓びであった。俺にはこれができる、もっと上手くやれる。
体得した技を繰り出し、次にはもっと上手く放つと思考を練り、殺すのではなく強さを競う。そんな純粋な激突に、クラウスの心臓は高鳴る。
それこそ死の冷たさを振り払うように。
――この強さを求めて戦うことが。心をぶつけ合う戦いが、古妖なのだろうか?
幾度となく激突し、澄み渡る刃金の音色を響かせる。
それは心の聲でもあった。
「ああ。わっちの見間違いでありんした。あなたは、誰かを守る――今の妖たちにとても似ている」
ほっそりと目を細める椿太夫が、血に染まった頬で艶やかに微笑む。
「けれど、貪欲に強さを求めるのはわっちら古妖か。ああ、どちらにせよ心弾みます。死が互いを喪わせることはなく、鮮やかな心を宿した刃を瞬かせる」
ふたりの切っ先が幾つもの筋を描く。
さながら雪上の大輪の花である。赤と白と蒼の花が狂い咲き、勝利を求めたふたりを舞わせる。
もっと早く、もっと上手く、もっと強く。
そう、強くなければ。強く在らねば。
奇しくもクラウスが抱いた想いは、この椿太夫を復活させた颯真の情念と近しいものであった。
ならばこそ、この戦いが別の古妖を解き放つこともあるだろう。
だとしても。
「悪くないな」
心と信念をぶつけ合い。
どちらかの心を貶すことも、穢すこともなく、敬愛に似た眼差しで己を殺す、相手の剣を見つめること。
奪い合い、不幸を紡ぐものでなければ、技を競い合うことの何と楽しいことか。
可能を見つけ、活路を開き、理想へと至ろうと自らの全てを賭す。魂とて切っ先に張り巡らせ、譲らないと意気を詠わせる。
この技で誰かを護り、またこの強さで誰かの幸せを紡げるなら……。
「それだけが、俺と貴女の違いなのだろうね」
クラウスが透き通るような儚い微笑みを浮かべ、椿太夫は艶やかに笑う。
そうして凄絶さを宿した白刃が、静謐さを湛える蒼刃が、互いに三日月を描いて奔り抜ける。
両者相打ち。
そのように見える交差であった。
ただ雪ばかりが、その勝者を知る。
帰るべき路を月灯りが照らす。
そうして数瞬の後、雪へと倒れ込む小さな音がした。
希望を喪おうとも歩き続ける青年だけが、最後には雪の上に立っていた。
深雪が降り積もり、皓月が照らす。
真白き色は夜帳の裡にあって燦めくかのよう。
まさしく冬の夜。その静かなる情景の舞台。
艶やかな赤花が舞う。
妖しき微笑みで、星の巡りと定めを塗り替える女が。
古妖、椿太夫。落花の刃を秘めるものが、今宵に剣戟の歌を刻むのだ。
「さあ、わっちと踊りましょう。浮世の憂い、悉くを刃で流して」
甘やかな惑わしの香を広げながら、くすりと笑う。
ならば、それに対する少女は如何なるものか。
これもまた白くて儚き風貌。
月の寵愛を受け、純白の長髪を靡かせる姿。
あらゆる心を惹き付ける美貌は、ひとにあってひとにあらず――半人半妖、月の血を受け継ぐ神秘そのもの。
静峰・梢(月光の牙・h09074)である。
「ついに現れましたね……!」
庭へ降り立ち、雪を蹴って前へと出る梢。
無垢な少女は、ただ自らの心に従うばかりなのである。
しんと静まり変える白月のような貌。
世情に疎く、月灯りのような幽艶さを匂わせる。
だが、自らの鼓動にひときわ敏感な娘であった。情動の鳴り響く儘に奔り抜ける、純粋な少女が梢なのだ。
黒い双眸で椿太夫を見つめながら、じゃらりと鎖を鳴らして鞘より引き抜くは霊刀『鬼王丸』。
綾杉肌の麗しき刀身は、しんと静まり変える夜気の中で眩く輝いて見えた。
そうして梢の視線と切っ先が、椿太夫の真実を曝くのである。月光から逃れられはしないと、古妖の力を読み取っていく。
見た目は艶然と微笑む太夫である。
美しい女だろう。決して達人に見えない、八重椿のようである。
だが一度とてその奥を見つめれば、梢にとてはっきりと感じ取れる。
物静かな覇気、とでもいうべきか。
打ち寄せる剣気はゆらりと掴み所がなく、さりとて隙を見せれば斬られるという鋭さがあった。
――これが星詠みたる姉様の仰っていた敵なのですね。
居合の技は、抜かずば解らぬ。
さりとて抜いた後に生きている者がいなければ、それは秘められたる必殺剣として語られるのみである。
では、そんな武芸の境地に立つ椿太夫に梢は勝てるのか。
僅かな緊張を解くように、軽く息を整える。
勝ちたいと脈打つ鼓動と感情を確かに捉え、その為に要らない雑念を排して、心を澄み渡せていく。
「ほう。その歳でお見事なものでありんすな」
「――――」
椿太夫が柔らかな声色で語りかけるが、梢からの反応はない。
妄念、我執、不要なそれらを悉く消し去り、梢の心は凪いだ水面の如きへと至る。
明鏡止水、その心境にて構えて立つ梢。
神秘的な白い美貌と相まって、今や氷鏡の如き姿と映る。
対峙する椿太夫とて容易い相手ではないと、優婉な所作で居合の構えを取った。
後の先を奪う必殺剣、落花の刃。
梢の姉様が危険と語るほどなのだ。その脅威、その武威、もはや云うに及ばず。
が、後の先の剣の遣い手であれば、梢はたくさん、それこそたくさん見て来た。
ひとりとひとりが違った剣理と信念で振るう以上、椿太夫の居合も全く同じ後の先ではないだろう。
それでも同じ結果を得ようとするなら思考と呼吸、そして太刀筋は近しいものになるはず。
あとはただ勇気を振り絞るだけである。
だから梢はもっとも強く信じる優しい存在へと、誓うように言葉を浮かべた。
「ご覧ください姉様。――梢はこの難題を、見事斬り伏せてみせましょう」
信頼を以て見送った姉に応える為に。
鬼王丸の上段に構える梢。
はらり、と落ちる牡丹雪を切っ先が断つ。
華奢な少女の繊手が、凄艶なる光を零す鬼王丸を支える。
ああ、ならば。
そう、ならばあとは問答も不要。
互いに構え、間合いを測る最中、梢の身に宿るは白き月光であった。
否、それは狼の姿をした太古の神霊である。『マガミ様』と呼ばれる月光が紡ぐ神秘の存在を身に宿し、梢は自らの速度を跳ね上げて霊剣術の秘奥に目覚める。
梢の身の上、それは先の先の剣である。
自らを一振りの刀と化し、ただ果敢にと切り込み、斬り伏せる。
故に余計な手数、技の種類など不要。
自らを疑うことなく澄み渡らせ、一刃となって奔るのみ。
故に今、じりじりと足の指先で間合いを詰める梢が放つ思念は強烈なものだ。
行くぞ、斬るぞ。
攻め懸かることこそ、私の信条。
曇り無き刃の心構えは、神道無念流のそれに近しいか。
無念無想。あらゆる心の揺らぎを制し、極限の静けさを持つ。
まるで静かに降り注ぐ月光のように。
しかし、一度駆ければ狼の牙の如く敵を討つ。
それが梢である。構えから、表情から――美しき黒の双眸、麗しき白の髪の一房からさえも、高められた殺気が放たれ椿太夫を威圧する。
揺らがない。
それが椿太夫の感じた梢の剣であった。
まさしく氷鏡、明鏡止水。凪いだ梢の心身から放たれる気は皓々たる月灯りのように静かに、けれど凄まじい圧力を以て迫るのだ。
揺らぎが無い。
この圧力でありながら。
「まさしく、刀のような心でありんすね」
こうなった梢は、果敢な剣光そのものである。
だからこそ、後の先による秘剣を恐れようか。刹那、自らの気持ちに従って地を蹴り、一気に踏み込む。
勢いに押され、地から舞い上がる雪たち。
白い花びらを纏うようにして、氷雪と共に踊る月の少女。
マガミ様の祝福を受けて異常なまでの速度を得た今の梢を、常人であれば見切ることは叶わないだろう。
が、対峙するは椿太夫。居合の達人である。
「――――」
太夫もまた、一瞬で間合いを詰めていた。
雪煙を伴い擦れ違い様での落花の刃で梢の胴を両断せんとする。
最速かつ最小限。先の先を駆ける者に追いつくならば、その挙動は最短を辿る他ならない。いいや、それこそが神速の抜刀をもたらす理である。
避けられず、防げない。
が、狙い通りと梢の双眸が瞬く。
動きに抜刀、共に早ければ早い程、精妙さが求められるのだ。
ならば、神速を詠う為の拍子を狂わせてやればいい。
全身全霊で駆ける梢には加速も減速の術もないように思われた。上段に構えた鬼王丸は、守りにも迎撃にも向かない。
が、交差する一瞬を見切り、早業で振るうは鬼王丸の刀身でも、自らの足運びでもなかった。定められた敗北の一点を知りながら、なお果敢にと斬り進む。
何故。
梢は、信じているから。
――マガミ様!
終局へと至るその数歩手前、梢が振るったのは月に愛されし者の異能である。
月の御使い。護霊であるマガミを我が身より喚び起こし、白光の狼としてその爪牙を向けさせる。
不意打ちの発動であった。
だが、それ自体で椿太夫を討つものではない。
マガミ様の牙が届くより疾くと、落花の刃が放たれる。
鞘走る瞬間、繰り出される太刀筋。
梢にはそれを見ること叶わず、ただ甲高い音色が夜の静寂に響き渡る。
――流星光底、落花の刃が振り抜かれた。
流れて映ろうものは、一時とて止まることない。
風雅とはそれだ。儚さとはそれだ。
故に花よ落ちろと、刃が詠う。
龍笛めいた風切り音は美しく、麗しき凍月へと風流を捧げるかのよう。
だが、それは椿太夫の意ではなかった。切っ先が牡丹雪ばかりを捉えて断つ。雪しか斬れない。
そのことに瞠目し、驚き、緊張に身を強張らせる。
「なぜ」
完全に梢の体捌き、呼吸、明鏡止水に至りながらも、心が示す揺れまで見切った筈である。
だが、まるで椿太夫が拍子を狂わせたかのように、鞘より放たれた落花の刃は虚空を切るばかりであった。
ほんの一歩先では大上段に今、振り上げた梢がいる。
確実に後の先を取った筈なのに。
急激な減速など出来る筈のない、疾走の最中であったというのに。
――いいや、それは果たしてどうか。
事実、梢の速度は一気に三分の一まで低下している。いいや、マガミ様が憑依している時に三倍に跳ね上がり、それを身から分離した瞬間に元に戻ったのだ。
身体そのものではない。
自らを包む月光の祝福を利用しての急激な減速。
緩急自在、それこそ妙なる鋭刃の調べ。
技では越えられないのなら、月光に愛されての異能で梢は示してみせたのだ。他の誰でもでは出来ない、梢だけの落花の刃の破り方。
それを数瞬で椿太夫が理解できる筈もなく、襲い懸かるマガミを翻した刀で斬り払う。
が、そこまでである。
惑わしの香の影響にあり、嘘の付けない梢が何故と――月を映す氷鏡めいた梢の心境と刀身に、椿太夫こそが惑いを憶えてしまう。
真実を言えば、マガミ様という祝福と異能の行使。
自らの心に従い、一瞬の遅れとて出さない果断なる決意。
加えて兵法とは詭道なり。梢が取ったのは即ち、『嘘をつかずに虚を突く』。奇しくも雷切、立花道雪が奇正相生と評した兵法を体現した技であった。
つまり騙すと心に偏るものは、正道に脆い。
正道しかないと頑ななものは、奇道に弱い。
双方使い分けての武術である。梢がその境地に達しているかは明確ではないが、既に感覚として掴んでいるのは確かであった。
故に此処に、鬼王丸の切っ先が吠えるのである。
「いざ、お覚悟を!」
吠えたのは果たして刀であったか。
それとも月に|愛された《狂わされた》少女の聲であったか。
――空から地へ、玲瓏たる一刃が奔る。
音なき斬撃であった。
月光は常に静寂を保つのであれば、当然のことである。
が、その剣威は月が堕ちるような激烈なるもの。
マガミ様を斬り払った直後の刀を撃ち、雪の積もる地面へと切っ先をめり込ませる。そのまま手から叩き落とすつもりだったが、堪えるのは流石は達人、流石は古妖。
「ですが、これからです」
更なる威圧の剣気の波を放つ梢。
牽制と共に身を翻す姿は雪魄氷姿。
雪のように清らかに、氷のように美しく。
そして月光を伴いて舞う、美しき斬刃の神楽である。
地より切り上げる一閃は三日月を描いて椿太夫の身から鮮血の花を散らせ、身ごと翻す横薙ぎの斬撃は椿太夫の腕を裂いて体勢を崩させる。
そうして再びの大上段。
行くぞ。斬るぞ。
細雪のように静かながら、皓々たる月光のように眩しい梢の剣気が満ちる。
いざ引導を告げよう。
黄泉の世界へと導くのだと、ただ果敢な祈りにて振るわれる鬼王丸。
しんっ、と静寂に染みこむ真白き剣刃一閃。
その刃に浮かぶ冷艶さたるや、命を奪うというのに溜息が零れるほどに美しい。
身を斬られる最中、他ならぬ椿太夫がそう思ったのだ。
「ああ。良き刃にありんす。……わっちという花を落とす、素晴らしき光……」
死神とは、斯くごとき美しき貌なのか。
白く、白く。
神秘的な梢の風貌を、振るう冷たくも美しき刀身を。
自らを斬ったものを讃えるかのように椿太夫は艶然と微笑み、血を散らして雪に倒れて、埋もれる。
月ばかりがそれを見ていた。
白き雪庭を果ての地として、赤椿が散りゆくのである。
「――っ」
緊張の途切れた瞬間、凄まじい疲労が梢を襲う。
いまだ少女である梢には肉体はいうまでもなく、精神への負荷が強い死闘であった。
それでもふらつくことなく、刃金が鎮まるのを待って鞘に納めた。
死するものへの礼節を忘れることなく、マガミ様と共に見送るのであった。
ふと視線が流れる。
一年の始まりを告げる白梅の花が、雪の寒さに負けずと咲き始めている。
美しい|月《あした》を目指して。
素晴らしき香りを匂わせながら、雪の上にその楚々たる白さを讃える。
梢によく似た花であった。
先駆けの一輪、雪魄氷姿。まるで先ほどの梢のような花。
ただ今の梢は、梅を手折っても誰も怒りはしないと。
土産にと少女としてその白梅の枝を手折り、袖に仕舞うのであった。
――姉様、見て下さい。梢は、しっかりと果たしました。
そうして雪の中に、気の早い梅を見つけたのだ。姉様でもまだ見つけられていないだろう、もっとも梅花とその香りを勝利の知らせと共に届けたい。
だから帰るべく、雪の上に小さな足跡を残す。
光の狼たるマガミ様は、梢の傍を離れることなくついていく。
鬼王丸を鞘に納めた梢には、幼い子供の情動がふわりと浮かんでいた。
そして月はずっと、見つめていた。
愛しきものを見つめる瞳のように。
雪が何を語る。
月が何を告げる。
風雅なり、美しき。
そのように幾ら言葉を重ねても、ひとの心が憶える幻である。
繊細な情感――ああ、必要だろう。
だが今この時は要らぬものだと、白雪を踏みしめる男の足が告げる。
「御託は要らん」
死合うというのに、わざわざ花で飾る必要はない。
もはやそういう場であると互いが認識すれば、それで十分。
「戦う理由もな」
わざわざそのようなものを用意されずとも、篠村・壮司(楔渡り・h09595)は刃で応じて見せよう。
示すのは強さのみ。
信念、渇望、勝利を求めて突き進む。
その為に必要なのはひとつだけ。
「必要なのはただ、戦意のみ」
茶色の双眸が浮かぶは、剣先のような鋭き光。
なら何も言うまいと、椿太夫は艶やかに微笑む。
「ではよき戦いを」
その裡で情念の花咲くのであれば、それでよいと居合の構えを取った。
落花の刃。
名を聞き、どのようなものか知る篠村は目を細めた。
如何様に破ってくれようか。
戦う以上は勝利を求めて当然。己が強さを疑う筈もない。
一方で、確かに秘剣である。舐めて懸かる訳にはいかないと、押し殺した息を吐く。
後の先――意識の間隙を突く。
僅かな挙動、視線の巡り、先の呼吸の間にとて椿太夫には隙が見えるのかもしれない。
そうして放たれる居合の一閃、まさしく必殺である。
ましてや距離すらも意味をなさない歩法であるという。
――なんという強敵か。
鼓動が疼き、血が騒ぐ。
世を乱すものたちを倒し続けて、今の|警視庁異能捜査官《カミガリ》となった篠村である。
善性は確かに持ち合わせているものの、闘争に燃える心を持つ。
――だから倒すべきだ。
鞘より引き抜くは鋼太刀。
あらゆる装飾を廃した、ただ頑丈でよく斬れる幅広の太刀である。
無骨、というよりは質実剛健。闘い抜く為の、ただそれだけの武器である。
そうした肩に担ぎ上げる。
一応は担ぎ技、というものが武道にはある。
握りを隠し、刀身を潜ませ、間合いを読ませず不意を討つ。
だがそういう構えではなく、篠村の悠々とした歩みは我流剣術のそれであった。
そうして椿太夫の踏み込みの間合いまで、ゆっくりと距離を詰めた。
防御は無駄。先手も取れぬ。
ならばこそ、小細工は不要。
後の先などくれてやるとばかりの姿であった。
勇猛果敢。まさしくその言葉の通り。
「疑うを知らぬ御仁でありんすな」
「何故、戦場で自分を疑う」
言葉はそれだけ。
篠村が荒々しく鋼太刀を振るう瞬間、椿太夫の構えを凝視する。
放たれる太刀筋は常に鞘を起点とする以上、下段からの切り上げか、中段の横薙ぎか。その二択である。
抜刀の刹那は篠村の眼をしても見切れない。
それでも放たれる寸前の構えから、中段の薙ぎ払いであると見て、その一点へと星振波――自らの肉体の内側から活性化させた霊気の波を展開して備える。
居合瞬刃、鮮血の花を咲かせる。
落花の刃、これほどであるかと篠村が賞賛を抱くほど。
「っ、ぐっ」
星振波で守った筈の篠村の腹部が深く切り裂かれる。
臓腑まで断たれたか。いいや、それでも骨にも急所にも達していない。
ならば動ける。後の先、それを受けてなお激痛を燃え上がる気炎でねじ伏せ、即座にと袈裟斬りの一刀を放つ。
神速たる落花の刃に迫るは、疾風迅雷の一太刀。
鋭きこと、まさしく空を裂く稲妻である。我が身を厭わず、斬られてなお切り返す斬撃が椿太夫を斬り裂く。
のみならず。
ああ、これではただの相打ち。いいや、負傷の程度では後の先を取られた篠村が大きい。
それを埋めるべく片腕を破壊するや否や二の太刀を振るう。壊した腕部は霊殻にて強引に稼働させて機能を保っての、逆袈裟の追撃である。
雷刃双閃、白雪の上にふたつの三日月を描く。
「お見事でありんすな」
「……貴様もな」
苛烈な声を向ける篠村と、艶然と微笑む椿太夫。
双方、深い傷を刻まれ血を迸らせている。椿太夫が更なる追撃を警戒して後ろに跳んだが、篠村はそこに佇んだまま。
両者傷を負う。
だが、未だ倒れていないのであれば。
「なら、再び。浮世の憂いを焼く闘志のままに」
椿太夫の刀が鞘に戻され、再び雪と月の元に武の競演を求める。
「いいや――そんな御託は要らん」
そうして再びと、鋼太刀を構えた篠村が間合いを詰め、躊躇うことなく剛剣を振るう。
鋼刃一閃。
雪と花を断つ刃金が、鋭く吠える。
天には凍て付くような白い月。
地にて満ちるは柔らかな白雪。
ああ、斯くも冬の夜とは真白きことか。
夜帳の黒さえも、冬の純白を映えさせるばかり。
皓々と降り注ぐ月光にて、燦めく雪は星々のよう。
ならば今、地に立つのか。
それとも夜空の雲の上に立つのか。
ふとそんな風雅な幻を憶えてしまうような、美しい場所。
だが、此処で刃が鳴り散らされるのである。
避けられぬことと知り、黄金の月を抱く眸がするりと揺れる。
「……君が巡りを歪ませずとも」
藤硝に遮られてなお、ひとの心を奪う綺麗な双眸であった。
声も雪のように柔らかく、月明かりのように透き通る。
「彼らだけで試練を乗り越えていただろう」
そう語るは三珂薙・律(はずれもの・h01989)である。
ひとと、ひとならざるもの。
あらゆるものを魅了する半端物の血を継ぐ美貌が、穏やかに笑ってみせた。
「”舞台”におらぬ俺達は観客として見守るが吉。でなければ、野暮とは思わぬか」
言葉の向けられる先、椿太夫は艶然と微笑んでみせた。
「さりとて。わっちの心は星の巡り、定めを覆すことを願いとしてでございます。花が美しい、蝶よ戯れよ。義を見て助けねば勇なきなり」
そのようなものと同じであると。
心の奥底から疼き、湧き上がり、止めどないものであると。
「ひとは涙を絶やせぬように、わっちも願いを絶やせぬ古妖にありんして」
ひらりと。
艶やかな肢体と着物を舞わせてみせる椿太夫。
つまる所、三珂薙の憂いを晴らすと同じようなことか。
それなくして、生きていると言えないような。生きる為に必要なことのような。
「さりとて。浮世の憂い、花に雪に流して、月に刃を翳すことにいたましょう」
憂い。浮世の憂い。
そのようなものに、目の前の椿太夫の心も縛られているのか。
いいや、だとしても。ならばこそ。
するりと退魔劔、珠月を抜く三珂薙である。
雪明かりを浴びて、白銀の刀身は眩いほどに輝いて見えた。
だがその奥底に、云いようのない凄みとて抱くのである。
邪を払い、穿つ。
そんな一振りを構えて、三珂薙は歌うような軽やかさで告げる。
「では俺の星の運命が如何ほどの耀きを魅せるのか――君自身が確かめておくれ、椿太夫」
「情愛、闘争心、求めて争う心。ああ、ひとの心でありんすね。それこそが星の定めさえ退ける。わっちら古妖の封印とて、紐解く心の輝き」
こちらも歌うように告げる椿太夫だが、その言葉に三珂薙はふと瞼を伏せた。珠月の切っ先も、ゆらりと僅かに下を向く。
隙、といえるものではない。
敵を目の前にして隙を晒す三珂薙ではなく、が、確かに感情の揺らぎがそこにあるのだった。
「俺が識る愛は家族から教わったもののみ」
其れ以外は識らない。
三珂薙の識る情愛とは、理解しえるものはそれのみ。
無条件に愛される。その意味を、どうしても三珂薙は実感することが出来ないのだろう。
神秘性さえ憶える美しい風貌である。
あらゆる者を魅了する貌が、金月の眸が、そしてこの声があるからこそ。
――姿ばかりを愛しているのでは。
――声ばかりを愛でているのでは。
そのようなことが心に浮かぶのである。
いいや、それは間違いではないだろう。そんな浅い程度のものが世に溢れるからこそ、浮世の憂いであるのだ。
ならばと。
三珂薙の金の眸は、椿太夫の銀の眸を見据えた。
双方、今宵の月とは違うものの、月の光の色を宿すものである。
「君も俺と同じ」
「…………」
「解らないから美しいと求めているのだろう」
三珂薙の緩やかな声に椿太夫が視線を伏せる。
答えはしない。ただ袖元で口を隠して、真意は匂わせるばかりである。
「それを云えば、浮世のことを思いだしてしまうでしょう」
浮世の真実、憂いを思い出せれば太夫ともある女がすたる。
はぐらかすように視線を寄越す椿太夫に、三珂薙はただ続けた。
「同胞の、或いは、自分の封印を解く為とはいえ」
「くす。くすす。ならば、わっちを捉える封印を、あなたの想いでといてくださいな。星の耀きがあるというのなら」
そうして椿太夫は居合の構えを取った。
落花の刃。
鞘に秘めた剣刃が瞬く時、命がはらりと落ちる抜刀術。
対する三珂薙が発動するのは軀来――巨大な餓娑髑髏を纏いて、自らの移動速度を飛躍的に跳ね上げるものである。
雪煙を纏いて走る三珂薙。
珠月の澄んだ切っ先が、椿太夫の隙を捉えようとするものの。
「――あな悲しや」
「っ!?」
それはまさしく、意識の間隙を突く技だった。
気づけば三珂薙の間合いに踏み込んでいた椿太夫。
抜刀の瞬間さえ三珂薙には捉えることができず、その右胸を深く斬り裂かれた。
鮮血を咲かせるは峻烈なる刃。
無常を歌う白刃が、剣風を吹かせて赤い花びらを散らす。
「その程度の速度で、わっちから逃れられるとでも?」
蠱惑的な眼差しを受けながら、深手を受けた三珂薙が苦痛を抑えて珠月を奔らせる。
そこからは、抜き身の刃での戦いであった。
剣戟が奏でるは甲高い音色。
龍笛のような音で、戦いの旋律に鳴るふたつの剣刃。
激しく斬れ結べば剣風で、降り積もった雪が舞い上がる。
双方が位置を入れ変え、足を運び、切っ先を廻らせて果敢に切り込む。
斬る。
今、言葉を交わした相手を。
僅かであれ、情を抱いた相手を。
その為に瞬く刃は何処までも冷たく、幾つもの三日月を地に描く。
切っ先が牡丹雪を捉えた。されど、互いの身には触れられない。
またも重なる刃金が火花を散らす。
白く艶やかなる珠月の刀身が、りぃんと微かに震える。
負傷を押して三珂薙が構えるは高霞。切っ先を向けるや否や、跳ねるが如く斬り懸かる。
こうも攻められては鞘に戻す暇もないと、椿太夫はうっすらと笑っていた。
それでもなお、三珂薙を押し切るという自負があるのだ。
「其の奥義、とある古妖の鬼の劔理か」
「はて。誰のものかと云えば、今はわっちのもので御座いましょう」
雪庭を走り、駆けて、何かないかと探す三珂薙の視線。
小さな疵、周囲の障害物、そのようなものないか――。
何もない。単純な技量で押され、ただ鮮血を流す傷口を三珂薙だけが増やしていく。
流麗たるや椿太夫の剣捌き。
花が舞うかのようにと足先を運び、翻す切っ先は柔らかに。
されど敵を捉えるとなれば容赦なく三珂薙の守りを裂いて、身を削っていく。
劣勢である。血を流し過ぎた。
だが、気づけば三珂薙の痛みは消えていた。
ただ熱い。血が疼き、鼓動が跳ねる。胸郭の奥から、何かがじわりと広がっていく。
闘争に酔っているのか。
血の愉悦を憶えているのか。
「此の”血”はもっと君の極意を見たいと訴えているのが」
ついに三珂薙の肉体と心の内側を越え、妖しき力が剣先を瞬かせた。
風雅なる月弧を描き、椿太夫の身体ごと攻勢を弾き返してみせたのだ。
疾い。獰猛さを宿しつつも、精妙さも残る。
まさしく妖しさに濡れた月の姿であった。
「……厭になる」
激しく斬り結び続けたが故に、その剣風と衝撃を受け続けたが故に、藤硝に罅が入る。
斬りて、斬られて、血に溺れていく愉しさ。
まるで取り憑かれたかのように、或いは、血の衝動が内側から三珂薙を動かすように――美しくも熾烈な剣戟が加速していく。
優勢だった椿太夫。
だが気づけば、守勢へと追い込まれていた。
「面白い」
目の前の三珂薙の操る剣、そして心の変貌。
それは何であるのかと、見定めようと銀の眸を向けるのである。
そこにいたのは美しき剣鬼であった。
「実に面白いなァ!」
月を背に跳ねる三珂薙。
跳躍、落下、そして剣撃の勢いを全て乗せた剣撃が受け止めた椿太夫の刀を押し切り、そのほっそりとした女の首筋に白刃を迫らせる。
まるで鬼の牙。月鬼の狂奔。
ああ、この不可思議な美貌とは、ひとと鬼の狭間にあるものなのか。
椿太夫が首筋から血を流しながら、艶然と微笑む。
滾る衝動、恐ろしき渇望、斬り殺すという血色の願いを受け止めるように。
あと少し。
あと少しで、その首筋に珠刃が食い込み、動脈を斬ろう。
だが椿太夫は慈しむような貌と微笑みを浮かべるばかりであった。
そのような情念こそ求めていたのだと、さながら鬼仔の誕生を祝うように。いいや、鬼の仔であってもそれは慈母のような笑顔だから。
「――殺してしまうのが惜しい」
ふっ、と身体の力が抜けたかのように三珂薙の身体が後ろへと流れる。
罅割れた藤硝の奥底から妖しき金色の眸で椿太夫を見つめ、奥底で燃えて揺らめく鬼火を鎮めていく。
これでは、いけない。
殺した後に、憂いが残ってしまうのだから。
「……嗚呼、いけない」
血の酩酊から醒めたように、三珂薙は首を左右に振った。
三珂薙は或る退魔師と大妖怪の血を引く|半端者《半人半妖》。
故にこそ、御巫の力を宿す己が血液が流れれば流れるほど、その甘美さに妖怪の血と本能が疼くのだろう。
清浄なるものを求めてこその妖。
妖を鎮めてこその清浄なる御巫の力。
さながら陽と陰。三珂薙の裡で流転して共に在る、その力。
あの儘では本性を露わとしていただろうが、寸前の所で”ひと”の形を保つのであった。
椿太夫。この者を本当の意味で倒すには、恐らくひとでなければ越えられないであろうという、何かの予感を抱くからこそ。
「”俺”では君に到底、太刀打ちできまい」
再びゆらりと。
月影を思わせる優雅な所作で、珠月を構えてみせる三珂薙。
「俺は人間でも妖でも無い|半端者《はずれもの》」
「おや、そのまま古妖の如き衝動に飲まれても良かったのですが。わっちの血では酔いませんかえ?」
変わらず艶やかに笑う椿太夫である。
恐らく、自らの命を捨てても封印を、或いは星の定めを覆そうとする情念抱く古妖の女。
愛か。狂気か。
|半端者《はずれもの》の三珂薙には判断することが出来ないものの。
「――血に酔って勝っても、それは違うまい。ひとり鬼を斬って、ふたり古妖が出るようでは何も為らない」
古妖に、古妖の衝動で勝っても何もならぬ。
それでは今の安らぎの世を、その先を紡ぐことは出来ない。
儚くも果敢な、故に美しいひとが先頭に立ってこそ起きた百鬼夜行。
そうして出来た今が脅かされたからといって、再び互いが喰らい合うような荒ぶる妖の力で災禍を鎮めようとも過去へと戻るだけである。
半端物――そんな三珂薙だからこそ、取れる道があるはずなのだ。
でなければ未来へと、幸いなる路へと進んでいるなどいえまい。
強いからと、妖の血に宿るようでは。
それは美しくとも、恐ろしき獣の性に他ならぬ。
ああ、つまり己は未来を求めているのかと、三珂薙の頬が緩む。
そんな甘い夢を未だに――見て、求めることが出来るのかと。
「わっちが見るに。あなたの星の耀きが増えているようでありんす」
はんなりと告げて構える椿太夫。
ならばこれが正しい路かと、三珂薙もゆっくりと頷いて、目の前の椿太夫をしかと見つめる。
――母君と同じ……其れ以上の太刀筋
技法はまさしく天晴れ。どれほどの研鑽と、戦いの場を積んだことか。
ならばこそ剣戟の最中に勝機を掴むことは至難の技であった。
――俺の勝ち筋は、否
探そうとして、ふるりと金の妖瞳を揺らす三珂薙であった。
――視ようとするから視えない
それは必ず在る筈なのである。
椿太夫ほどの剣戟と気迫なら、感じられて当然。
ならば余計な雑念は不要。血の滾りと衝動と共に鎮め、心境を凪いだる姿へと変えていく。
或いは、心に静かなる月を抱くが如く。
想いの強さは在り。されど、熾烈なるものではなく静寂のそれ。
川のせせらぎの様に掴ませることなく。
水底の月影の如く揺蕩わせる。
移ろいて流転するは季節や、日々に姿を変える月の貌のように。
するりと。
月光に煌めいて、切っ先が僅かに揺れる。
雪の降る空気が、ゆらりと流れて過ぎる。
ほんの一瞬。ほんの刹那のこと。
眼に映して捉えるのではなく、身体で感じて振るう一太刀――それは落花の刃にも似ていた。
――其処に在るものを只、斬れば好い。
決め手は、ただただ静かなる剣刃一閃。
流れる刃は迅くなく、さりとて遅いとも思えず。
奇妙な間に輝いた珠月の白刃が、雪を払いて椿太夫を斬り棄てる。
一刀両断。
まるで月光が雪景色を刻むかのような、ただただ静かなる斬閃であった。
「――これで、よい」
白雪と赤花が舞う中、珠月の刀身を眺めて三珂薙が囁いた。
残るは静寂と雪の夜ばかりである。
凍月に新雪。
冬の白き情景に包まれながらも、優しく見えるは朱華色。
まるで桜のような柔らかな色の髪。
まるで新緑を告げるような翠色の瞳。
ルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)だった。
いつもはふんわりとした笑顔を浮かべる可憐な姫君のような美貌だが、今は何処か静けさと、透明感に溢れていた。
声色もやはり冷たさを帯びる。
「……あんま弄るもんじゃないよ、それ」
声の先で佇むのは椿太夫。
星の運命を変えることを喜びとする古妖。
だがそれこそルーシーにとっては気に入らないのか。
いいや、簒奪者というものがどうしても受け入れられないのか。
「他人様の運命直接弄る程に無粋なものなんて無い」
冷たくも鋭く、声で告げる。
「粋と両立しないでください」
対する椿太夫は艶然と微笑むばかりだった。
気にしていない。好かれること、嫌われること、どちらも当たり前である。
むしろ嫌われて当然の浮世であるというように、ゆらりと銀の眸を揺らす。
「ふふふ。さりとて、自らの生き方をどれほど美しく見せるかも女の技かと。違いますかえ?」
尋ねられて、ルーシーは肩を竦めた。
そのような生き方も、そのような心得もありはしない。
太夫として、簒奪者として。そんなのわかってあげたいと思わない。
けれど、仕方ないと翠の双眸を真っ直ぐに向けた。
「まあ……ちゃんと臨みますか」
恋と幸せの情念で紐解かれるように。
強さを求める祈りで紐解かれるように。
競い合う願いで、また古妖の花は咲く。
だとしても、ひとの心が揺れることは当然だから。
「楽しみたいのは、これだもんね?」
戦うのは必然。
そして簒奪者を倒すのは、ルーシーにとって当然。
椿太夫の理由がなんであれ知らないと云うし、ルーシーのただ倒すという結果も変わらない。
それに良い物を見せて貰ったのだ。
手招きをひとつと示してみせて――
「おいでよ」
応じるは鍔鳴りであった。
気づけば間合いへと踏み込まれ、抜刀の瞬間も捉えられない。
まさしく神速。目に留まらぬ迅さ。
けれどこの一瞬にとルーシーは自らの心と技を注ぎ込み、すっと間に合わせてみせる。
マカロン・エレガンスブースト――次元加速承認状態に移行し、和の心と優雅な武をルーシーの心身の裡に呼ぶもの。
それを起動させるのはCスフィア・エレガンス。和菓子タイプのもので、食べれば次元加速メモリとして効果を発動させる。優雅の概念、水面に映る月の記憶を内包したそれを纏い、変身してみせるのだ。
――SELECT.
一瞬、という時間を数千に分割したルーシーの精神の中で、水泡のように浮かぶ記憶たち。
ぜんざいも羊羹も美味しかった。
和風というのも悪くないから、姫君と云われる優雅さが欲しくて、変身した姿は和のような、和菓子のような甘やかで優雅な姿。
大和撫子の如き美と、優雅な魅力を秘める紫の着物を纏うのだ。
「エレガンスヤマト、どうでしょ?」
ウィンクをひとつ飛ばしつつ、掌の中の四角いお餅を練り伸ばし、するりと顕すのは刃渡り二尺六寸からなる太刀。ヤマトムーバーである。
「君の大好きな剣戟だよ」
「――――」
瞬間、落花の刃を繰り出す椿太夫の刀の芯を捉えた。
澄んだ刃金の音色が鳴り響き、ルーシーと椿太夫の周囲から雪が舞い上がる。
流石に無傷とはいかず、ルーシーの身体から鮮血が走る。
けれど倒れなければ十分。それでよいというかのように、剣戟の勢いに逆らうことなくするりと後ろへと跳んで間合いを取るルーシー。
「剣豪みたいに打ち合う?」
「ふふふ。そういう風にというのなら、よきにありんすな」
甘いお菓子と共に戦闘知識も囓っている。
今ならばいけると玉鋼のような艶と色を浮かべるヤマトムーバーを諸手に構えてみせた。
けれど、ルーシーが意識しているのは落花の情景ではなかった。
刃の閃きでもなければ、目の前にいる椿太夫の姿でもない。
「あたしの心が視ているのは、月だよ」
ゆらりとルーシーの纏う雰囲気が揺れる。
まるで水面にて揺蕩う花びらのような。
水底に沈む月影のような。
しかして、それはルーシーの情念が揺れているのではない。
見る者の心を映しているのであった。明鏡止水、その言葉の通りに椿太夫の想いの揺れをこそルーシーは水鏡となって映す。
無の境地。その意識。
いつとて隙間を満たされても良いような。
幾ら揺らそうとしても、どれほど強く殴り付けられても、決して変わることのない。
周囲に合わせて移ろう。まるで四季に合わせて世界が色合いを変えるように。だが本質は何も変わってなどいないのだ。
「きっとそんな感じ」
風雅とは、変わらぬ中で変わるものを覚えて、味わうということなればこそ。
椿太夫が攻め懸かる。
疾風の踏み込みと太刀捌きは、今のルーシーから見ても見事の一言。
だからこそ星の定めを狂わせることなんかにと、勿体ないと思うのだ。
情緒がないと、簒奪者の血と咎塗れの手に感じるのだ。
故に間合いが交差する瞬間、一閃で椿太夫の斬撃を斬り伏せ、|三日月《グラインド》スライドでするりと位置を変える。
長くなった朱華色の髪がとても艶やかだった。
月に照らされ、雪に抱かれ、故に桜の色彩はとても心に染みる。
されどその冷艶なる美しさたるや、まるで雪女。
はらり、さらりと。
雪と花が舞うように動いて、太刀を振るう。
次元加速を受け、剣術に依る歩法や身体能力に特化して変質した、人でなしの雪駄が微笑む音を奏でた。
「――心を読むのも無粋だよね。嘘ってさ、甘い砂糖みたいなものだもん」
故に惑わしの香による正直病の効果を脱するべく、リミッター解除によって記憶の雫を活性させ、思考の加速と複雑化を自らに施すルーシー。
「これでも読める?」
否、それなら身体の気の巡りを読むのだと椿太夫が更なる斬撃を繰り出す。
淡い月の輝きが、花びらを照らしていた。
なんと鋭いことか。なんと恐ろしいことか。
加えて両手を狙って、後に首への突きと移行する殺人技。
見切った上でルーシーの背筋が震えた。自らに向けられる殺気は、やはりひとの心に馴染むはずがない。
「いや、私はひとでなしだし」
ふんわりと何時もの|台詞《いいわけ》を囁くルーシー。
「まあ、その程度で刀握れないなんて思わないけどさ」
ひらり、はらり。
月明かりに照らさる中、|泡沫《うたかた》の花びらとして舞うルーシー。
高貴なる紫の色に染め抜かれた着物が、夜帳に浮かぶ。
そうして再び吐息と切っ先定めれば、一切の油断なく歩幅を詰める。
するする、するりと雪の上というよりも、氷の上を滑るような足運び。そこから放つのは|舞心《エレガンスパンチ》。
遊び心と理想を司る魔力として湧き上がるはシュガリスEY7。
ぜんざいのような香気を纏い、更には吹き飛ばす勢いとマヒの効果を帯びながら接近。
交差する刀身。弾ける火花。
でもそれがどうしたと、鍔競りに持ち込む寸前にルーシーの拳が伸びた。
流水の如き体捌きから繰り出されるのは、隙のない美しい演舞が如き拳撃である。椿太夫を打ち据え、後方へと数歩吹き飛ばせば、自らの皮膚を破壊して追撃。
和菓子の香までもが花と月を漂わせ、椿太夫を追い詰めていく。
だが、はてと。
このまま攻めてもよいのか。
後の先の遣い手である椿太夫。ならば、ルーシーが必勝を期した瞬間をこそ、奪うのではないか。
予感は事実であろう。
優勢の勢いに乗らず、甘えず、ルーシーは一度精神を落ち着ける。
見ればその瞬間、椿太夫は刀を鞘に戻していた。何時の間に、と明鏡止水の心境でなければ驚いてだろう。
そうしてトドメと追撃を繰り出そうとして、驚愕した隙を落花の刃にて斬り伏せられていただろう。
「本当に油断も隙もない」
褒め言葉のように言葉を揺蕩わせながら。
来るのは解っていると、ただひたすらに静かに待つ。
心の水面は月の姿を浮かべるように凪いで、花びらひとつと落ちる刹那を見た。
滴、ひとつ。
鞘走る剣気より溢れる、一閃の光。
「――――」
「っ」
瞬時に落花の刃が来る、刹那で迫ると想定するルーシー。
抜かれてからでは遅いとヤマトムーバーの刀身を諸手で構え、神速の居合一閃を受け止める。
ああ、やはり来たか。
受け止めてみせたルーシーの気持ちは、そんなもの。
眼に見えない。抜刀の瞬間は、やはり見えていない。
だが太刀筋は確かに予感した。椿太夫の剣気、殺気を読んで見切って、しっかりと受け止めた後に、ゆるりとヤマトムーバーの刀身を傾ける。
花びらが風に舞うようにするりと、椿太夫の斬刃が逸らされ、受け流される。交差した斬撃の狭間より溢れる月の力の残滓が椿太夫の腕を捕縛し、更なる加速を見せたルーシーの斬撃が奔り抜ける。
やっている事は同じ斬ること。
でも描くは|半月《アジャスト》。
ルーシーの刀身よりEムーンミストの甘い記憶の泡が湧き上がり、明鏡止水の極意を更に強める。
ああ、甘露。
なんて素敵な|一幕《よる》だろう。
「ねぇ、そう思うでしょう?」
返り血を避けるようにひらり、ひらりと着物の袖を揺らして下がる。跳び、距離を自在に変えていくルーシー。
「ねえ、ほら。月が見てる」
君を照らし鎮め給え、って。
古妖の花、現にあるべからずと眠らせ給えと。
「あしたはその代役!」
皓々たる月灯りを浴びて、ルーシーはふんわりと可愛らしく笑った。
和菓子の姫君が、典雅に刃先を手繰る。
「まあ、巫女よりも魔女気質なんですけれどあたし――行くね」
剣撃読まれるならばと、椿太夫が放つは九重椿。
惑わしの妖気を宿す椿花が、百花繚乱と狂い咲く。
ならばくるりと優雅な紫の着物を脱いで、絡め取るようにして防ぎつつ、ルーシーは正面より突き進む。
そのまま雪と共に跳ねてのパルクール。跳んで、跳ねて、転んで廻って、予想出来ない驚きの動きを繰り返して。
肌は斬り裂かれても血は甘い。
雪にその甘やかさを与えながら、避けられる限りを避けて、勢いを乗せてぐるりと真円描いて放つは|満月《ミラーブレイク》の剣閃。
この業や必ず決めてみせるという想い乗せて剣威は、椿太夫を深く斬り裂いた。
はらり、はらり。
雪と月灯りと、血と椿が舞い散る。
互いに傷だらけ。どうしようもなく、血塗れの姿。
それでも構わない。傷を受けることだって厭わない。
だって勝ちたい。理想を、希望をと掴みたい。
「だったら、しょうがないよね」
ゆらゆらと。
水面のように、月影のように、花びらのように。
優婉さを滲ませて微笑むルーシー。
そうして月明かりのもと、燦めく雪の上で再びヤマトムーバーを構えて、切っ先を向け合う。
そのままに静かに。けれど、凄艶に。
甘やかな和菓子が魅了する香気と、月の如く澄み渡る第六感を伴いながら心を無に。心頭滅却、火もまた涼し。
禅の心得などないけれど、恐らくこれが正しいのだとルーシーは心を深くへと進めた。
隙間狙おうとも、流れるように。
そして絢爛たるや華のようにと、激しく斬り結ぶ。
剣風に従って地の雪が舞い、切っ先が反射した月明かりが幾重にも重なり合う。
白く、白く、ただ白く。
されど鮮血と椿の花は、まるで心のように赤い色を燃え上がらせ、舞い散るのだ。
「こんな風に真剣勝負する機会」
それこそ想いを刀身に乗せ、撃ち合うようなこと。
互いの命を切っ先に乗せ、ひとつ過てば自らが散るようなこと。
「中々に無いからさぁ……!」
だからいざ、いざ。
もっと鋭く、疾くと斬り合うのだ。
刃金の音色は想いの声である。
舞い散る火花は、祈りの激しさである。
太刀筋が燦めく斬閃を描き、地に幻の月が姿を顕す。
玲瓏たれ。凛烈たれ。
美しくも命を奪う冬の情景、風雅なる剣刃の姿たれ。
「ふふ、ふふふふ」
「あは、あははは」
互いにひとでなし。
古妖とルーシー。甘やかな笑みを浮かべて、刃の競演に酔い痴れる。
陶酔の痺れよ。肌震わせる痛みよ。
世界を照らす月よ、どうかご笑覧あれと。
そうして、六十秒。
りぃん、と鈴が鳴る。
それは水面に映る満月が如き神秘。
その先の極限をこじ開ける為の、超克の鈴。
ルーシーの手でヤマトムーバーの柄に取り付けられ、下に外せば紐で結ばれるそれ。
りぃん、と鳴り響く。
まるで喚び起こされたかのようにEムーンブラッドが活性化され、刀身に餡子色の剣気が纏われた。
そのまま身ごと、花と月、水と風の如く優雅に舞えば明鏡止水。
落ちる雪のひとひら、椿の花びら。
それさえも、しゅんと鋭く横薙ぎにした太刀筋において、まるで掬いあげるかのように刀身の上へと浮かべてみせる月神の剣閃であった。
「さあ、決着と行こうじゃない?」
ゆらりと刀を捧げ持つように構えて、吐息を零す。
とても甘くて、とても静かな。
まるで夢のようなルーシーの息だった。
「次の一太刀で終わりにしようね……その方がいいでしょ?」
「そうです。長すぎる戯れは、心を痛ませますからね。わっちも、そろそろ暖かい火鉢が欲しいのでありんす」
「でも、君が泊まれる安らぎなんてないでしょう」
だって、とルーシーは続ける。
わかっているのにやっていた筈だもの。
ついつい、自らの想いと衝動にかられて行うのが古妖という存在だもの。
幸せになって欲しい。
そう願っていたとしても、古妖の血がざわめけば災いを起こす。
幸せを告げてふたりを結ばせた先ほどだとしても、次は星の巡りをまた狂わせて悲劇を紡ぐ。
表も裏も同じこと。
ひっくり返すのが大好きな椿太夫。
「君の道案内は必要ないんだよ」
そんな者の導は不要だと。
さくりと雪を踏みしめて、ルーシーは挑む。
「二人を見守りしあわせ浮かべる、星詠みの使命」
それこそがあたしであるのだと。
そんな誇りを胸に、咲いているのだと。
「その証明のために乗ったんだよ、これ」
「…………」
椿太夫も目を細めた。
それならば、よいか。
目の前の少女が星詠みであり、その定めを守ろうとしても。
それは柔らかなしあわせの為であるというのなら、無粋なのは己であると自覚して、椿太夫はくすりと笑う。
「わっちも長く生き過ぎて、硬くなりましたな」
「……それにね」
ルーシーが刀を構えた。
次で終わり。だから、思い残すこともないように、全ての言ノ葉を浮かべるのだ。
「余計な手出しなんかしなくても、二人なら、もしかしたら」
そう。他人様の運命を直接弄るほどに無粋なことをせずとも、ただ粋な想いで見つめていればよかったのだと。
「乗り越えられたかもしれないじゃん?」
その方が美しくて、綺麗で、優しいじゃん。
幸せなのはそっちだよ。自分で叶えた願いほど、綺麗なものはないのだと。
幽艶なる月灯りを背に、ルーシーはふんわりと微笑む。
「愚かでも愚かなりに、しあわせ満たして、さ。……こんな風に」
確かにと頷いた椿太夫。
その呼吸に合わせるように鈴を鳴らし、ルーシーが放つは|桔梗月《エレガンスムーン》。
いざ無の境地をば超えんばかり。此処に掬い上げる花弁をも残して。
花咲いて、極限を超克せし月神の剣閃が刻まれる。
限界突破した剣閃、居合たる落花の刃の太刀筋ごと撃ち抜き、斬り棄て、椿太夫を斬り伏せる。
花びら落つる先の刹那さえ――掬いあげるようにして、斬滅する。
雪煙が吹き荒れ、緋色の椿の花びらが舞う。
雪月花と世界に彩と美しさを添えた中、ルーシーはふうと柔らかな吐息を零した。
「月は雲に隠れるけれど」
ヤマトムーバーをまたお餅に戻しながら、ゆっくりと声を重ねていく。
「水面は隠しものごと映す鏡」
ならばこそ。
感情の儘に花も星も散りばめてみせたら、流れ行くままけせらせら。
何処に辿り着くか。解らないままのほうがきっと楽しい。
定まる夢も、定めを狂わせる夢も、見ない方が。
そうして情念がわき上がれば蘇る古妖があったとしても、ルーシーがいれば大丈夫。
だって心は明鏡止水。
戦う中でひとつとて心が震えていない以上、何の古妖とて蘇らない。
椿太夫の目論見、ここに敗れたりと。
全てがそのようにいかずとも。
「古妖笑う運命でも、あたしたちEDENが現れて、止めてあげるよ」
あとに残るは静寂。
月も雪も、全てが白く。
ただ白い雪の世界が、呼吸を止めたように、しんっと広がる。
甘い香りだけが、ふんわりと漂っていた。
深雪積もる地より、夜天を見上げる。
しんと、澄み渡る月が佇んでいた。
あらゆる迷いを、悩みを払うような清らかで美しい月光。
見ていると心の奥底に溜まっていた澱のようなものが、するりと何処かへと消えていく気がする。
風情に酔うとは、このことだろうか。
わからない。まだ、何もわからない。
ただふるりと小さな身体と、白金の髪を靡かせて。
隠岐・結羽(人間(√EDEN)のサイコメトラー・h04927)は琥珀色の双眸を、目の前の古妖へと戻す。
艶然と微笑む椿太夫がそこにある。
情念の花が咲き、闘争の心が燃える先に願いがあるのだと。
星に定められた運命を覆そうとする古妖が、刀に手をかけていた。
立会いを望み、戦う理由も用意する。
強さとは何だろう。
戦うとは何なのだろう。
そう悩み続けていた隠岐には、椿太夫の言葉は余りにも甘い毒だった。
頷いてしまいたい気持ちもある。が、それは敵に渡された理由である。自らの見出した答え、隠岐自身の思いや願いではない。
戦う理由さえも自分で選べない弱さを抱えたまま、勝てるのだろうか。
もしも今は勝てたとしても、この先はどうなのだろうか。
わからない。
まるで真っ暗闇の路である。何処まで先があるのか、もしかしたらすぐ先が断崖かもしれない場所。
それが戦うという場所なのだと、薄らと隠岐は気づいていた。
だからこそ戦わない選択肢などないというのなら、せめて戦う理由ぐらいは自分で決めたい。
そうだ。自分の心で、戦うと決めたいから。
誰かのせいにたくない。傷つくこと、傷つけること。
幸福に生まれ、恵まれて育った隠岐がいま果たすべき責務だと深く感じるから。
「状況も願いも、生まれた育った√も関係なく」
ゆっくりと隠岐は言葉を紡ぎ、天魔刃『イブリース』の刀身を鞘より引き抜く。
自在に変わる天魔刃、その姿は今は打刀。
更に右手には魔導剣『オルゴール』。軽くて細身の刀身は、名の通りの魔術を自ら奏でる。
それら二つを自らの意志で振るうのだと、構えるは高霞。
頬に寄せた刀身に、隠岐の吐息が触れる。
「一人の先達としてお手合わせを願いましょう」
切っ先も、視線も、剣気も、全てをただ真っ直ぐに椿太夫へと注ぐ。
戦い、打ち勝ち、そして越えるのだと。
剣戟を結ぶ中で、悲願を果たそうとする椿太夫の芯たる|心《つよさ》に触れられるのなら、ひとつの答えを見つけられる気がして。
「星が告げるものなんて、見えません。見えないから、私は私の未来を自分で掴みたい」
純粋な想いで告げる隠岐に、椿太夫は柔らかく笑う。
「それでよいのでありんしょう。誰の手とて、運命の定めを退け、求めるを掴むことができれば、それが幸いにありんす」
すっ、と。
居合の構えを取る椿太夫であった。
所作は穏やか。されど、空気が張り詰めて、しんと静寂が心を冷たくなぞった。
来る。
秘剣たる落花の刃が放たれる。
神速を誇る居合に対して、いまだ未熟な隠岐が完全に打ち破れるなどとは思っていない。そのような根拠のない自信、或いは自負を持てるような少女ではないのだ。
ひとつずつ、自分で積み重ねたものだけを信じている。
だからこそ隠岐は今の自らが出来る全てを尽くすのだ。
太刀筋がわかっていることと、正面以外を警戒しなくてよいことは、むしろ明確なまでの隠岐の優位であると考えた。
それでも無傷では済むまい。
不格好であれ、今は勝たなければならないと隠岐は自らを鼓舞する。
そうして淡い星の光が、雪の上に紡がれる。
隠岐の側面を守るように展開された星光の障壁。それは居合の軌道に合わせて縦に長く、しかし強度を確保する為に細くと圧縮されたもの。
可能であれば掌サイズまで圧縮展開し、強度を跳ね上げたいが太刀筋の多少の変化もあればこれが限界だろう。
果たしてこれで居合が防げるのか。いや、無理だろう。
それでも少しでも受けて時間を稼ぎ、剣撃の勢いと鋭さを削ぐ。
更にはAIの戦闘知識と、今までの戦いで培ってきた眼での見切り。
ほんの僅かな挙動でさえ見逃さず、落花の刃が放たれれば即座に反応できるようにと備える。
「――わっちは思うのですが、皆様は柳生新影流の『合掌』を知らないのです?」
「私は知りません。ここ一年でようやく、戦いの場に出たものですから」
「可愛い後輩ですか。けれど、容赦などしません」
惑わしの香――甘やかな香りが満ちて、嘘がつけなくなる。
それでも隠岐は毅然とした姿で雪の上に佇んでいた。
呼吸と共に剣気を練り上げ、星彩の魔力を循環させていく。
そうして隠岐が身に宿すは星天。
燦めくような星の輝きを纏えば、臆することなく前へと駆ける。
待ってもいても埒があかない。
むしろ攻め懸かる事で迎え討たせる。そうする事で、僅かでも抜刀の瞬間を限定させ、選択肢を奪うのだ。
鼓動が跳ねた。緊張、恐怖、高揚。
その全てを込めて、右手に握る魔導剣『オルゴール』の切っ先を吠えさせ切り込む。
「悲しいでありんすな――」
椿太夫の姿が掻き消え、地に積もった雪が舞う。
意識の間隙を突き、間合いを無為とする歩法。ならば直後に居合が奔ると身構えた隠岐。
だが、右耳が拾った椿太夫の声に冷たい戦慄を覚える。
「――わっちが守りの上から攻める猪と思われるのは」
抜刀一閃、落花の刃。
神速を誇る居合の一太刀は、玲瓏と刃を鳴かせる。
そして月へと届けと、斬り飛ばされた魔導剣を握る少女の右腕が舞う。
「っ」
何故、と言いかけて隠岐が苦鳴をあげる。
言うまでも無い。どうして防御を固めた上から攻め懸かろうか。
俊足を以て隠岐のエネルギーバリアが展開されたとは逆側へと巡り、すれ違い様に椿太夫は居合を放ったのである。
一息で間合いを詰める歩法と速度があるのなら、正面以外で右、左へと回れて当然。正面のみを警戒すればいいとは判断の誤りであった。
守りを固めて示すならと、隠岐の右手側をすれ違うようにしながら、二の腕から先を斬り棄ててみせた椿太夫。
鉄壁の守りがあるなら、その逆を突く。隠岐が相手でも、そうしただろう。誰が防御の上から渾身の一撃を放つものか。隠岐がしようとしたその理論で云えば、誰もが身の丈ほどの大盾を持てばこの秘剣は敗れてしまう。
――柳生新影流『合掌』。
隠岐が取るべきはむしろこれだっただろう。
一部の守りを捨て、他の部位への攻撃へと徹底して備える。
相手には無防備な一部位を晒し、そこのみへの攻撃を誘うことで相手の攻め筋を限定することで躱し、捌き、反撃を繰り出す。
後の先の基本にして極意とされるひとつである。
ましてや椿太夫の居合の太刀筋は限られているのだから、一部を無防備に晒すことで為す『合掌』にはひどく嵌まりやすい。
こうなれば椿太夫とて構えを捨てて一度引くか、不利や誘いを承知で攻めるしかなかった。
「相手の備えに乗る必要がどこにありましょうか。花は風に自由に舞うものでありんす。後の先、その意を死の後に問うとよいでしょうね」
右腕の断面から大量の血を流す。
雪が赤く染まり、視界が薄れる。
それでも隠岐は、少女の魂は吠えた。
「何を勝ちを確信しているんですか――まだ右腕だけでしょう!」
まだ鼓動は脈打っている。息をしている。
両腕が切り落とされても足がある。両脚が潰れても、喰い千切る為の歯がある。
「私は武人ではなくても、覚悟をして此処にいるんです!」
故に隻腕となった隠岐が、それでもと雪を跳ねさせて椿太夫へと迫る。
鮮血の赤を払うように発動させる√能力は流星雨。
星の魔力で放つ雨、そして小型の流星群が椿太夫へと襲い懸かる。
三百からなる輝きの刃。ひとつひとつの威力は低くとも、全てを防ぐことは流石の椿太夫でも不可能である。
急所に至ろうとするものを刀身で弾き、受け流し、艶やかな衣装の袖で払ってみせる。
が、隠岐の流星雨は牽制である。
即座の納刀からの連続した落花の刃を防ぎ、足の動きを止めた椿太夫へと本命を放つための、一瞬の隙を作るもの。
「お願いします……私に力と剣を貸してください!」
自らの記憶世界に保存した剣豪たちの思念と完全融合する十界解廻。
更にはマジックサワーにより星の魔力が淡く燦めく刀身を、光と闇の境を照らす薄明へと変貌させる。
左腕のみの隻腕。
それでも思い描いた達人の技を再現する為、魔力で強化した身体を限界を超えて駆動させる。
成る程、隠岐の技の本質は相手の動きを以て斬る活人剣ではない。相手が動き出すことを許さない殺人剣である。
心技体、その全てがまだ未熟であっても覚悟の凄絶さたるや烈士そのもの。
椿太夫に攻め懸かるのは物静かな少女ではない。深い傷を負い、それでもと喰らい懸かる猛虎の威容そのものだった。
一息にて薄明の剣閃が、四つと雪夜を刻む。
まるで花咲くような斬撃の軌跡を追って、椿太夫の血が舞う。
袈裟斬り、切り上げ、と横薙ぎからの刺突たる『天衝』。
冴え渡るは達人の技量。右腕から大量の血液を零しながら、それでもと狂奔する白き剣威。
椿太夫とて無傷で捌けるものではなく、手傷を負っていく。
されど、それでは終わらない。
重傷を負った隠岐が、自らの残る命を燃やして放つが如き熾烈なる剣戟。刺突で終わる、かに見えたものが強制的に加速して動き出す。
人体の作りなど無視し、自壊を厭わぬ剣であった。
それこそが疾駆――隠岐の死剣の本領である。
「はぁぁぁぁ!」
息さえも要らない。肺が潰れても構わない。
勝ちたい。勝たなければ。
どうして戦うのかと迷っていた少女の心は、鋭き刃の光によって払われている。
勝つ。勝たなければ。
――恵まれて幸せに育った私は、勝って報いる義務がある。
――幸福な世界に抱かれた私は、強さというものがないから、何を燃やし尽くしてでも強さを得る。
「――勝つんです!」
隠岐は意気を燃焼させ、闘争心という炎に命を投げ入れる。
皮膚、腹。まずは自壊させたのは問題のないそこ。
右へ、左へと先の意趣返しのように立ち回りながら、剣撃を瞬かせる。
四方八方、あらゆる角度からの超高速の連撃。
地に積もった雪が舞い上がるが、それさえも斬り裂いて翔る天魔刃。
繚乱と咲く薄明の剣花。
自らの、そして相手の血の赤さを散らす無常なる光であった。
ただ勝利を渇望して、頑なに義務と定めた少女が狂奔する魂を脈動させる。
背中に右目。此処まで潰せば、椿太夫に深く切っ先を食い込ませている。
疾風怒濤。荒れ狂うは隠岐の一念に喚び起こされた剣風である。
まるで四方より迫る狼たちの爪牙だ。終わりなどなく、撃ち払って、弾いてもなお迫り来る。
「ですが、わっちも舐めないでくださんし」
「っ! え、ええ!」
椿太夫も達人であった。
如何に高命中を誇る技でも、連撃と繰り出すならばいずれは見切る。
弾き返してなお猛攻を続ける隠岐の刺突を躱し、左の肩口から胸を斬り裂く。
マジックサワーの効果で受けるダメージも二倍。
高速戦闘の代償が死を近づけるものであると知りながら、白い雪と月に赤い血の花を捧げる隠岐。
美しきかな雪月花と、風情を詠う余裕などありはしない。
「でも、心臓はまだ動いています」
呼吸はできるから。
例え心臓を両断されても、まだ戦えるならば隠岐は戦うだろう。
その一瞬で為せることを琥珀色の双眸で捉えるのならば。
「だから、戦う。戦い続けるんです。私にはそれしか出来ないから!」
この果断さ、果敢さ。
愚直さと凛烈さこそが、隠岐の一番の強み。
それを以て押し斬るのだと、龍に至らんとするが如く剣刃を瞬かせる。
後方へと引こうとした椿太夫だが、それを許さないと隠岐の引き寄せ能力が再び間合いへと引き戻す。
互いに息を整えることができず、ひたすらに攻めるばかりの隠岐。当然、守りはより脆くなり、椿太夫の切っ先が隠岐の腹を抉る。
でも。
傷があっても痛いだけだ。
死んでもしばらくすれば生き返る。
それの何処が問題なのだろう。
ほんとうに怖いのは、喪われることだから。もう戦えないと、自分の中で諦めてしまうことだから。
「私は……!」
天魔刃を吠えさせ、最後の攻勢へと撃って出る。
右腕の残りと両脚。
全てを対価として放つは、一合四連閃からなる十二刃。
薄明の剣刃にて織り成すは、さながら夜明けである。
惑わしの香など知ったことか。
嘘偽りを浮かべる余裕など隠岐にはなく、駆け引きなんて小賢しいことは知らない。
ただ、今の自分は真っ直ぐあるということしか出来ないのだと天魔刃を手繰り、奔らせる。
勝利を渇望する刃が、ついに椿太夫の急所を捉えた。
血が紡いで咲き誇る大輪の花。
如何に強靱な生命力を持つ古妖とて、これならという手応えを感じながら、隠岐は雪の上に膝をつく。壊れた両脚では自重を支えられず、そのまま倒れ伏した。
雪の上に血が滲む。
冷たくて、柔らかな雪に隠岐の身体が抱きしめられる。
そうして降り注ぐ雪と月明かりに照らされながら、隠岐はひとつだけ自らに問う。
――私は、勝てたでしょうか。
冷たい指先は、もはや握る天魔刃の柄の感触さえもわらない。
それでも自らの出来ることを、為すべきことを果たせたのだと、ゆっくりと瞬いて。
――次はもっと上手くやってみせましょう。
何も怖れることのない無垢な少女は、死の淵にあってなお星のように心を燦めかせた。
血の熱さを失い、それでも想いの熾火は確かに胸に灯ったまま。
隠岐は瞼を閉じた。
雪と月の冷たい静寂が、身と心を包む。
深雪と皓月。
天地に満ちる真白き彩の裡で、古き唄を思う。
優しき旋律は春告げの聲。
冷たき冬の色彩を払い、柔らかなる抱擁を与えるもの。
幸せな温もりを宿して笑顔咲くあの貌。
そうだ。
隣で|咲く《ほほえむ》一輪の花を、二度と喪わぬように。
無慈悲な世界の、冷たい指先を払う為に。
どのような死神からもあの花を奪われないように。
強くなりたいと渇望した。
心の底から、魂が軋むほど。
故に幼き日に臆病で弱き己を殺し、缺落させて得たこの力。
春を守り、導く冬であれと自らに科したのである。
一度とて喪わせた罪咎は、例え春の笑顔が許しても冬の色彩が許しはしない。
それこそがクレス・ギルバート(晧霄・h01091)が胸に秘める誓いであり、契りである。
皓々たる白雪の髪に、甘やかな菫色の双眸。
儚げな風貌の青年は何処までも切実な想いをもって、世界を歩く。
ただひとりの少女。
たったひとつの花と共に在れるよう。
その覚悟を貫く為、愛刀たる皓の柄を硬く握り絞めて前を見据える。
今も、過去も。
そして未来も何時だって。
ただ今、白雪に咲くはヒトの愛を歌う災厄なる赤い花であった。
星の巡りがもたらす運命を覆したい。
そう語る椿太夫に嘘偽りなどないだろう。
だが、それでも災禍の花である。
この瞬間はよくとも、翌朝には気まぐれで悲劇を喚び起こすからもしれない。古妖の想いなど、クレスには――いいやひとには解るはずもないのだから。
しん、と静まり返る雪の裡で。
クレスは穏やかに語りかける。
「俺でお気に召すかは知らねぇけど」
艶然と微笑む椿太夫に視線を寄せ、居合の構えを取るクレス。
そっと軽やかに、戦いの始まりを告げた。
「斬り合いたいなら相手になるぜ」
鯉口切れば、凛と鳴るは氷の鈴めいた音色。
「ええ。わっちも、あなたのような美しい想いと斬り結びたくあります」
椿太夫を前に間合いなど無意味。
むしろ相手に選択の自由を与えるだけである。
理解しているクレスは、ただ一息に距離を殺し、間合いへと踏み込んでいく。
地を蹴れば、舞い散る雪の花びらたち。
互いに白花を纏い、冬の色を咲かせ、いざと尋常にと居合にて交差する。
先手は譲る。
どうせ後の先を奪われるならば、それを越すのみである。
言うは容易い。
だが神速の抜刀、落花の刃を前にしたクレスの覚悟たるや如何なるものか。一太刀で自らを両断するほどの剣気に晒され、それでもなお刹那に活路を得ようと息を止めた。
張り詰めた静寂を破るは瞬刃の燦めき。
秘剣――落花の刃。
クレスの想像を遙かに越える、凄艶なまでの居合であった。
触れれば命を落とす。
無常なる世の理、散らぬものはないと告げる鋭刃一閃。
「――――」
いや、クレスをもってしてもその抜刀の瞬間を捉えられない。
意識の間隙を突かれた。事実上の後の先を奪い取る必殺の刃に、クレスの肌が震える。
だとしても。
「もう、喪わない」
そう決めたのだと、心の芯に訴えてクレスもまた鞘より無垢なる刃を放つ。
放たれた太刀筋を予測するのではなく、戦場で培ってきた経験、直感。何より、護りたいという願いに従って放たれた瞬き。
前へ、前へと踏み込みながら、まるで神速の刃に喰らい付くかのように鞘走る皎刃。
真白き色は、理不尽な略奪者の魔の手を払うのだとクレスの渇望に吠えていた。
先手を取った神速に追いすがり、交差するはまさしく信念によるもの。
後手が先手を追い抜く奇跡とて、クレスの想いを以て遂げるのだ。
「お見事」
椿太夫の嬉しそうな囁きが聞こえた気がする、次の刹那。
澄み渡る刃金の絶叫が、雪を払う剣風と共に奔り抜ける。
さらりと、屋根に積もる雪が崩れた。
ふたりの周囲に雪煙が舞い上がり、両者譲らぬと自らの刀に全身全霊を乗せる。
「――帰るんだ。約束したんだ」
「――――」
見ればクレスが皓を握る手は、いつの間にか逆手へと変わっている。
逆手居合。なるほど、身動きも太刀捌きを最短を取れば神速の先手にとて抗える。ましてや剣士の魂で捉えたものであれば。
更には互いの刀身が触れる瞬間、クレスは手首を捻って僅かな角度を付けた。
力は易きに向かって流れるものである。刃金が鳴り響くほどに撃ち合う最中であればなおさら。ならば、あとは少しだけ導いてやればよい。
故に見事。椿太夫はそれをなした情念を言祝ぐように笑っていた。
椿太夫が繰り出した落花の刃――その刃筋が僅かに狂う。逆手の居合のままクレスが更に刀身を滑らせ、虚空へと災花の切っ先を弾き返した。
必殺の秘剣を破ってなお、クレスに驕りなどない。自らの白き刃に更なる想念を込める。
「疵だらけだと、心配されるんでね」
得た好機は決して逃さず、赫焉の焔を身に纏わせるクレス。
純白は決意の緋に染まる。
――夜天を灼き払え、その覚悟。
「情念なら幾らでも咲かせてやる。この刃と共にな……!」
古妖に吐息ひとつ挟ませず、すれ違い様にと幾重もの斬閃を奔らせるクレス。
無垢なる刃から零れる光焔は、さながら八重の花を咲かせるが如く。
流麗である。美麗である。
冬の雪景色に咲いた、刹那の徒花であった。
「ああ、美しいものでありんすな……」
感嘆の声と共に受けようとした椿太夫を斬り裂き、穿ち、刻んで鮮血を散らせる。
刀身の軌跡を追って散る朱葩は、命の色。
冬があらゆるを奪う温もりを宿した、鮮やかな赤。
「故に斬刀に舞ってくださいな」
瞬時に身を翻すクレスだが、椿太夫とてほぼ同じタイミングだった。
むしろクレスが逆手から順手に戻す一瞬だけ椿太夫の剣撃が早い。
流石は古妖。強靱かつしなやな肢体。優婉なる美貌からは思いつかぬほど、熾烈なる斬撃がクレスを襲う。
受けきれない刃がクレスの身を裂いた。
白い姿に血が滲む。痛みが奔る。だが、その程度で怯む筈などありはしない。
椿太夫の流れるような連閃を捌きながらクレスが取るは蛟の構え。近距離での刺突を読んだ椿太夫が後ろへと跳ねるが、最早襲い。
「お姉さんが舞うと、それは誰かの涙を誘うだろう?」
赫灼たる焔を刃に乗せ、禍津を燬き穿つは緋色の流れ星。
夜帳の黒さに、雪明かりの白き燦めきに、クレスの赤い残光が舞い踊る。
繚乱たるは凛烈なるクレスの志ひとつ。
護る。奪わせない。もう喪わない。
無垢なる刃閃に宿りて耀くはその想いばかり。
だが、その赫焔がふつりと消える。唐突に降り注ぐ雪が、赤椿の花びらとなって刀身を包むのだった。
「――――」
「泣いて、鳴いて。それで悪いことでありんすか? 求める儘に、願う儘に、夜の果てまで鳴いて、泣いて、咲くのがわっちでありんす」
星詠み乱れ花。
あらゆるを失敗へと落とす、赤い涙の花びらたちである。
此度はクレスの暁天の覡の維持を失敗させた。速度、装甲を無視する絳燬。その悉くが黒夜の底で潰える。
だが、それがどうした。
「悪いが、男なんでな――泣いてばかりではいられねぇよ!」
それでもなお、クレスは斬り懸かる。
星詠み乱れ花は予測していたこと。不意打ち、不自然、因果の歪みはあることだと心構えを常に持っていたからこそ、椿太夫の袈裟斬りを真っ向から撃ち払う。
弾いた瞬間に舞う火花。
ならばと絡み合う両者の剣戟。呼吸も惜しいと瞬閃を重ね合わせ、剣風を伴って舞い踊る。
剣風によって雪が舞い上がる。
白き花嵐のようにふたりを包み、そしてふたりは刃にしてその柔らかさを裂いて、血を流し合い続けていた。
椿太夫は受け、捌きもまた見事。互いに居合へと戻る隙を狙い、また潰す為にと斬り結ぶ中でクレスに朱線が走る。
切り上げる椿太夫の太刀捌きで、クレスの斬撃が弾かれて虚空へと滑る。
隙である筈が、ざわめく予感に従って椿太夫が後ろへと跳ねる。
「いや、遅ぇよ」
逸れたクレスの切っ先、太刀筋――その軌跡へと集うは白い稲妻である。
霆く無量の閃耀を集めて束ね、累ねて一つの長刃と成せば、さながら龍の息吹の如く薙ぎ払う白閃を放つ。
椿太夫を斬り伏せる白雷。それは肉体を斬り裂いた直後に爆ぜる火でもあった。
轟き、瞬き、大気を震わせて、クレスの魂を更に奮わせる。
凍てつく闇夜の涯てまでをも咲いて燦めく。
――この願いよ、この誓いよ、夜明けに届け。
白光に乗せたクレスが、眩い光と音に怯んだ椿太夫へと横薙ぎを繰り出す。
クレスの想い、情念、その鼓動を宿す祈りの光刃であった。
「ふ、ふふふ。くすくす」
故に楽しげに、とても歓ばそうにと笑う椿太夫。
「誰かが、誰かの為に運命を変えようと戦う姿、その思いは素晴らしきものでありんすね」
白く眩い雷撃とて恐れず、クレスの斬撃を真っ向から受け止め、切っ先を跳ねさせる椿太夫。
「それが私に向かずとも、宿命を越えれば――ああ、星詠みの花の悲願の叶うことやら」
「星の告げる運命が見えても、それに遊ばれては仕方ないだろうよ」
「無論ですとも。ただわっちは、運命の糸に縛られたものが解かれる時を見たいのでありんす。わっちがもう少し剣を振るえば、あなたがもう少し想いを脈打たせれば」
――封じられた同胞、新たな古妖が世に現れましょうか。
――そうして、運命という無慈悲なものを壊していけましょうか。
刃金を鳴り散らす裡に届いたのは、囁きであった。
それとも刀に込められた椿太夫の思念であったか。
限界を超えて戦うクレスには、確かなことは何もわからない。
ただ、ひとつだけ。
「――俺は、俺の運命を悲しいとは思わない」
互いに剣戟を弾き合い、後方へと跳ぶふたり。
椿太夫の手元より聞こえるのは鍔鳴りの音。鞘に戻った秘剣が、再び狂い咲かんとしている。
「過去は変えられない。それでも、進む道は俺が決めている。進めた路は俺が切り拓いたものだ。……運命なんて脆いものに、何を信じるものか」
「はて、あなたは星を斬ると?」
「あんたが云っただろう、お姉さん。運命と運命の間にある災いの糸を斬るんだ。禍つの糸を斬り払うんだよ」
そうして今の自分がいるのだとクレスは胸を張り、自らもまた鞘の裡へと皓の刀身を鎮めた。
再びの居合勝負。
迎え討つは矜持を通すが故に。
この祈りは、願いは、渇望は儚き冬の色ではないと世界に示す為に。
「――春告げる花の聲は幸せでありんすな」
「いや……これからも幸せで在り続けるんだよ」
何故、椿太夫がそれを口にしたかは解らない。
星詠みであればわかるのか。それとも先ほどまでを盗み見していたのか。
どちらにせよクレスが為すべきことは変わらないのだから。
「その為に、俺がいる」
澄み渡るは心、甘やかな菫の双眸。
吐息を零せば、雪と共に白く、白くと染め上がる。
――何度でも凌いでみせる
必殺の剣。
無常を詠う死神の刃。
「花の名前に、そんなものをつけたくないんでね」
故に恐れてはならない。
守る為に強く在れ。
強く在りたい。強く在らねば。
あの花咲く笑顔を、永久のものとしたいから。
悠久なる時の流れで移ろうものだとしても、この腕の届く場所にある限り。
心に掲げた誓いを今一度、燈すのだ。
「優しい方でありんす」
椿太夫が踏み込んだ。
「そして、己に厳しく、強いヒトでありんす。矜持の刃ならば、このように眩く輝いて当然」
「だが涙を払うぐらいの優しさはあるさ。お姉さん、あんたの悲願とやらは、どうだい。刀に、居合に、込められたかい?」
「さて。ただ――あなたの約束はわかった気がするでありんすね。だから、わっちの刃は命に届かない」
「ああ、必ず戻る。だから」
宣言に込めた決意を、居合と共に咲かす。
繚乱と咲き誇るは、凛烈なる誓いと誇りであった。
落花の刃に比するほどの疾さで奔る無垢なる剣閃。
雪と冬の儚さなど不要。強く抱きしめ、守る指先が欲しいと皓の柄を何処までも握りしめる。
月光より鋭く、流星よりも強く。
あらゆる災禍を斬り払い、弾き返すという気概が刃に冷艶なる凄みを浮ばせる。
此処まで美しい刃があるものか。
ならばこそ、落花の刃を以ても進めぬ。斬れぬ。
激しい刃金の絶叫。クレスと椿太夫、双方の切っ先が絡み合い、そして弾き合う。
だがクレスは更に踏み込んでいた。
虚空へと逸れそうになった剣先を引き戻し、まるで約束を掴むかのように皓を構える。
狙うは決着告げる一閃。
椿という冬花に別れを告げ、春花へと戻る為に。
光芒一閃、剣刃が移ろう季節と祈りの路を結ぶ。
何処までも熾烈に、そして我が身を厭わぬ切実さで。
幸福を願い、強さを渇望し、そして誓いの大切さを宿した皓の刀身が、椿太夫を深く貫く。
「俺の大切な花が帰りを待ってるんでな」
あのぽやぽやとした笑顔の前で、ただいまといいたい。
ああ、そうだ。クレスは何よりも、幼馴染との約束を果たしたい。
そんな最初の優しい願いを胸に灯しながら囁いた。
「あんたが何を望もうが今宵の宴はここで終幕だ」
剣戟の裡に情念の花咲き誇るのなら、椿太夫とて悲しき終わり方ではないはず。
ぽとりと、雪に刀を落とす椿太夫。
血で濡れた指先をクレスの胸へと伸ばす。
そうすることで、より自らの胸へと深く皓の刀身が刺さることなど意に介さず。
「――少女との約束。破りましたら、女の私は許しませんからね?」
古妖である以前に女である。
太夫である前は、少女であった。
夢見るような優しい想いの前に、まだ無垢に咲く春花があるならばと椿太夫は願いを託すように触れていた。
「ああ、心得た。だからこそ、今は其の身を彩る椿に相応しく潔く散れ」
翻る皓の刀身。夜天に座す月めがけて、鋭き切っ先が奔る。
昏を燬き、冥邈の涯を裂き咲くは無垢なる皎刃の閃。
今は約束が為に、凜然と鳴りて今宵の雪月花に誓う。
皓月が照らすは白雪の庭。
美しきは冬の風情かな。
静寂に包まれた夜帳もまた、ひとときの会合を彩る雅さであった。
ひとに堕ちた龍と花なる古妖。
天に在りしものと、地に咲くものが刃を以て相対する。
「逢いたかったぜ太夫」
雪中に咲く花へ語るは天國・巽(同族殺し・h02437)である。
居合の達人と聞いて興味を持ち、ならばいざ尋常にと勝負を挑む龍のひとである。
「それは嬉しくありんすね。もっとも、わっちではなく、わっちの刃に情を抱くようなのは妬いてしまうものでありんす」
「はっ。刃もお前自身じャねぇか。ンなら、問題あるまい。簪が美しいだの着物がどうのではなく、お前の芸と心が綺麗だってンだからよ」
誇れよ。
これほどに武人を惹き付ける花も少なかろうよ、と。
朗々と笑う巽に、椿太夫は艶然と微笑んでみせた。
金の龍眼は静かなる炎であった。
闘争心を秘めつつ、表面はひどく凪いで見える。
白い髪は雪に融けるかのようであった。
そうでありながら、その威容は降り続く牡丹雪でも隠せはしない。
さて、ならばどう斬り合うか。
僅かに思考を巡らせつつ、巽は自らが愛刀――龍牙刀『朱引』を鞘より引き抜く。
巽と共に地に堕ちた、かつての己の牙。それを研ぎ上げ作られた一振りの大太刀である。
龍牙。その所以を詠うかのように、なんとも言えぬ艶を帯びた刀身であった。玉鋼より白いそれは、さながら真珠である。
美麗であった。が、稀代の銘刀がそうあるように、鋭き凄みを宿す。
朱塗りの鞘より引き抜いた刀身を冷たい月光に翳しながら、巽は目を細める。
――居合とはそも、守りの剣だ。
不意の攻めに抜き即払い、二の太刀で仕留める技。
無論、それのみであると断じるつもりは巽にはないが、後の先と云うのであればまさしくこれが本筋、王道というものだろう。
しかし、この剣は違う。落花の刃、それは異端の剣である。
時の流れであり、世界の広がり。
その”間”を盗み放たれるそれはまさに二の太刀要らず。
技を越えた魔術の類い。
意識の間隙を突くなど、まさしく異能の嗅覚であろう。
巽はそう感じ取るが故に、さてどう立ち合うと考える。
剣理があり、精神性を感じるならばこちらも術理と技で打ち合える。
一方で成る程と巽も頷いた。魔や妖しの類いと感じるのは、鞘に在る秘剣であるからだと。
抜いて構えれば多少はわかろう。
が、秘めたる花が如何なる色かも解らず、ただ伝言ばかりを聞けば何も解らず、惑うばかりである。
考えて、考えて、それで何も浮かばないのは迷妄に飲まれるということ。
禅問答にて答えを浮かべるには時間が足りず、また悟りに到達するには斬り合いの楽しさに心は躍るものだ。
ならば、どうするか。
巽が己が胸に問えば、返答はなんとも明快なものだった。
「一度は観るしかあるめェよ」
朗らかに笑いながら巽は雪を踏みしめ、前へと出た。
握る龍牙刀、その構えは右脇構え。
あえて身を晒して刀身を隠すは、同じく後の先の剣。
ぴくりと椿太夫の眉が動く。
鏡映しに似た両者の構えである。
そして共に、しんと雪が降り続く中で待ち構えるのである。
数瞬の後、詠うが如く巽は告げた。
「後の先を極めたその一太刀、だが先手が無ければ何処に」
返答は静かなる花の声であった。
「先手とは攻める刀でありんしょうか。それは腕の振り? 足先? はたまた呼吸か、視線か。起点は何処にありましょう。その流れの始まりを知らず、後の先を取ることは難しきものにありんす」
成る程と楽しげに巽は頷いた。
これでも後の先を取るというか。先の通り、僅かな腕や肩の動き、間合いを詰める足捌きに、呼吸と視線という揺らぎ。
或いは見えざる体内の筋肉の収縮と血管の脈動、気の流れからでも取るというか。
「それでこそってもンだ」
実に喜ばしい。これから愉しき剣戟が始まると、巽の鼓動が跳ねる。
そうして。
間境を越える、その刹那。
巽が魅せたのは|無足《空中移動》――間を盗むべく、足を動かさずとも地を這うように低空を滑る動きである。
足先の挙動ひとつとてなし。果たして椿太夫に見切れるだろうか。
だが巽は確信していた。いいや、敵手たる椿太夫を長年の友のように信頼していたとさえ言える。
恐らく、これすら見切って落花の刃は放たれるだろう。
だがそうであるなら、疑う余地も憂う必要もない。
巽へと放たれる落花の刃は、一太刀で殺す為に最適化された抜刀一閃。
どれほど神速であろうとも太刀筋は限られ、かつ巽の無足を捉えるべく繰り出す拍子も完全。
完璧に殺す為の一刀。故にそれは、ただひとつにと絞られる。
――此処で拍子抜けした技など放つまいよ。
居合の瞬刃、鞘走る音さえも遅れる神速。
世の無常なる理を詠うは、落花の刃。
されど迎え討つは、かつて天に在りし龍である。
刃金の噛み合う、凄まじき音色が響き渡る。
龍牙刀を引き上げての龍鱗自在。
それは放たれた落花の刃を、更に下から掬いあげるかのような太刀運びであった。
巽の脇構えはこのためである。
ただ太刀を引き上げれば右半身への攻撃は防げ、また拍子を合わせれば互いの虚空へと弾き合うこととなる。
上へ、上へ。斬る為に目指す椿太夫の刃を、ならば共に月まで昇ろうと誘う龍の一閃。
放たれる拍子、狙われる部位、太刀筋。その全てを誘導し、自らの懐に抱くかのような巽の読みと太刀捌きであった。
「――っ」
椿太夫が驚愕と共に後方へと跳ねて下がったのは、己が秘剣が破られたせいではない。
「なんとも、敵手の強ささえ疑わずに信じるとは、懐の深い御仁で……」
お前ならそうするだろう。
自らにとっての最悪、必死への剣を前提として信じる巽の器と剣の有り様にこそ、椿太夫は息を奪われたのであった。
遅れて、地に積もった雪が舞い上がる。
「――」
すっと息を止めた巽の眼に、鋭き光が灯る。
月を望むが如く、切っ先跳ね上げた龍牙刀を大上段へ。
「万物太極の一より始まり万化する也」
万刀流転極一刀、その語りにて世界の律が歪む。
巽の固有結界へと転じた雪景色の裡で煌めく剣刃は、まさしく龍の吐息。
後の先、絶対命中を詠う絶技である。
しかしとて、椿太夫もまた艶然と微笑んでいた。
「おうよ。それでこそ太夫」
巽も笑うや否や苛烈に踏み込み、熾烈に剣撃を天より落とす。
ふたつ刃金の音色、澄み渡る龍笛の如く。
触れて、撃って、弾いて。
共に火花を散らし、剣戟を奏でながら切っ先を踊らせるふたり。
剣衝に釣られてふたりの周囲に舞う雪煙。
そのまま二撃、三撃と斬り結べば、月明かりでさえも入り込めない絆がふたりを結ぶ。どちらかが死に、どちらかが生きる。ただただ、そういう絆。
何も掴めない虚しき終わりにはしないと、椿太夫の銀の眸が妖しく揺れた。
「面白ェ」
身を翻して再び構える巽。
龍牙刀はりぃんと震えて鳴る。鼓動と共に冬夜の静寂に鳴り響く。
まろび出そうな龍の本質をぐっと堪えるのは、剣士の血が疼くから。
これほどの極上の剣戟など、そうは味わえまい。
ひとつとて太刀運びを誤れば、死へと繋がる。
相手を甘く見ても、過剰に評価してもやはり死ぬ。
くっ、と巽の唇が弧を描く。
――ああ、まるで愛じゃねェかよ。相手の真実、見切れなければ溺れて死ぬってか。
妖艶に、そして柔らかき花のように椿太夫が囁いた。
視れば椿太夫は蛟の構え。巽のそれと同じく、刀身が震えて鞘に戻らぬならばと刺突で応じようとする。
変わらず必殺。一途なる愛と等しき鋭さ。
左手を柄頭に添え、ふるりと身を躍らせる椿太夫。
「わっちと踊ってくれますまえ?」
「宵の果てまで、相手すンぜぇ!」
惑わしの香を合気にて無効化し、自らの意志。自らの心だと告げる巽。
「兵は詭道也――本気じゃなきゃ詰まらねェよ」
「一夜の恋であっても、ああ、本気でなければ」
しゅん、と微かに翻る椿太夫の切っ先。二度、三度、四度。まるで鳥の尾である。鶺鴒鳴。好機を伺い、誘うそれが再びしゅんと鳴く。
受けた龍牙刀の刀身を滑って流れる椿太夫の刺突。確かに外へと外れたが、龍鱗自在を浮かべた巽の首筋を微かにではあるが撫で斬っている。
まるで接吻だ。朱線を浮かばせ、じわりと熱を持つ痛みに巽はくつりと笑い、椿太夫の刀を払って追撃を阻む。
巽の次手は正眼。
磐石の構えを取り、身体の芯を地面まで張り巡らせる。
そうしてするりと、するりと雪を進む。ほとんど荒々しい所作など感じないというのに、その勢いたるや猛烈なる風である。
椿太夫の間合いに踏み込む。けれど斬るでも突くでもなく、ただ間合いを詰める。
遠山の目付。ひとつを視ず、遠くの山を視るように相手の全体を広く捉える心得と姿勢。
椿太夫を見ないその刃、どうするか。ただ待てば、巽の豪腕をもって突き進み、鍔迫りからそのまま剣先は柔い喉を捉えよう。
二歩、三歩と雪の上を跳ねる椿太夫。
悠然と、されど猛烈に進む巽に対して後ろに下がることで時間を稼ぎ、震える切っ先を宥めて納刀である。
常に斬り結ばなければ、このように秘剣が再び狂い咲く。
が、巽からすればどうした。それはまるで斬り結びたい、秘剣を封じさせたいと無意識に相手を誘導する駆け引きとして見えていた。
嫌よ嫌よと女が引くからこそ、男は無理に攻め立てて転ぶのだ。
――まさしく太夫の手練手管。が、今目の前にいるのは剣士ってな。
再び放たれる落花の刃。
神速の抜刀。相手の意識の間隙を突く。故に後の先の秘剣なり。
「だがもう、観た」
鞘より抜けば居合は負け。
巽が小手斬りと見切れたのは、この居合術が精神性における極意であるからだろう。いわば禅問答のひとつであり、初見殺しの性質が強い。
悩むことなく、恐れることなく、明鏡止水の凪いだ心で観れば、成る程とこれは居合を突き詰めた技である。
故に見切ることも、二度目であるなら不可能ではない。
水鳥が自在に翼を開くかのように両手を別けて、手首を断たんとした椿太夫の居合を躱す巽。そのまま上段、柄にて両手を結べば椿太夫が咲かせた花の閃を切落とす。
「――っ」
ぎぃん、と鋼を穿つ音色が響いた。
椿太夫の掴む刀身が歪む。それほどの剣戟の圧を受けて、女の繊手が震えている。
刀を取り落とさなかったのは見事。だが、椿太夫の肩口から脇腹にかけて、巽の放った切落しが艶やかな赤花を咲かせていた。
命も取り落とさなかったのも見事。だが、それ以上に椿太夫の居合もまた精緻なものである。
「――ッ」
一瞬、そう一瞬遅れて巽の右手首から血が迸る。
躱したつもりであったのだが、それでも僅かに落花の刃が掠めていたらしい。そして、血管と神経の集まる手首であればそれで事足りる。
深いか。浅いか。即座に致命傷にはならないと巽が判断するが、手首を裂かれたとなれば。
「その手で自在に大太刀は振るえませんね」
「ああ。そして俺が出せる線香代もそろそろ仕舞だ」
あとは互いに一瞬の攻防に出るのみ。
両者隙を晒している。体勢を乱し、刀の構えも崩れ、息と鼓動はもはや限界。
故に此処ぞ死線であると両者が剣気を脈動させる。
先んじたのは椿太夫である。やはり下段、切っ先跳ね上げて巽の首を薙ごうとする。ともすれば、此処より二の太刀、三の太刀もあるかもしれない。
「が、云っただろう。そろそろ仕舞ってな」
龍牙刀、片手で振るうには大きすぎるそれを巽は捨てる。
結ぶは縮地。極限まで合理化された運足で、積もった雪が音を鳴らさないほど鋭く踏み込む。
左手で握るは懐の小柄、雲龍花椿小柄である。
一方で、この構えと踏み込みでは椿太夫に首を落とされよう。
ならばと巽はもはや刀を振るうに用を足さない右腕を、椿太夫の太刀筋においた。研ぎ澄まされた女の刃、情念を語る剣閃であるが、加速と勢いが不十分であるが故に巽の龍鱗、筋肉に阻まれ、刃が骨をごりっと削るに留まる。
痛い。まるで女に噛まれたようだ。
ならば|龍《おとこ》として噛み返してやらねばなるまい。
確かな|殺意《アイ》に、やはり確かな|刃《アイ》で答えるのだ。
巽の左手で閃く小柄。落ちる椿に雲龍が喰らい付く模様が彫られた、黒金の瞬き。女の首に、名の通りの緋椿咲かせて、花びらを落とさせる。
勝利と死。その狭間であった。
巽が勝ち、椿太夫が死ぬ。敵と敵、そんな両者が憂いなく触れ合える瞬間。浮世の悉く、忘れて戯れる刹那。
一瞬の沈黙。互いの血に濡れ、吐息を浴び、死と命の境で触れ合う。
唇を開いたのは巽であった。
「もう幾度となく、お前たァ殺しあったなァ――…尤も、数え切れないほど生と死を越えるお前は憶えちゃいないだろうが」
更に至近距離に迫り、暖かい血を浴びながら椿太夫を抱きしめ、雪に崩れ落ちそうな命ごと抱きとめて。
「だが今晩この夜のお前が、これまでで一番イイ|女《敵》だったよ」
最後の温もりに云えば、椿太夫も艶然と笑う。
冬の中、殺し合った後、それでも僅かに残る熱に。
「――――」
「ああ、雪が咲いてンな。月が観てンな。お前の想いという花があって、雪月花。いい夜だったぜ」
そうして数瞬の後。
命の失われたことを知り、椿太夫が持っていた螺鈿細工の居合刀を拾い、拭う。
そして納まるべき|鞘《けつまつ》に至らせるようにと、静かに納刀するのであった。
ちりん。と。
鈴のような音が鳴った。
………………
…………
……
一夜明けての去り際のことである。
新郎新婦の颯真と桜葉は、儀を終えて宮から出て行く。
その笑顔はなんとも幸せで、喜びに満ちている。
雪の色に埋もれない、花の色であった。
「俺としたことが無粋なことをしちまったな――もとより春のしるしなど不要だったわ」
巽は颯真と桜葉の顔を眺めて、大きく溜息を零す。
四季あればと思ったが、どうやらひとの心には常に美しさが満ち溢れるらしい。ひとの世は移ろうものなれど、常に綺麗なもので溢れている。
「春は今のお前達自身だったわ。嗚呼、ご馳走さんご馳走さん」
言葉こそだが、声色は何処までも愉しげに、嬉しげに。
背中越しに手を振り、巽はその場より立ち去っていく。
斯くしてこの花と月、そして鬼の剣の物語は幕である。