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今日の残花も昨日は蕾
――だから、瞬きの間に過ぎてしまう春を少しでも留めておきたいと願うのは、傲慢なことだろうか。
●春雨
「ハァ、ここまで来れば大丈夫だよな……?」
裏路地に飛び込んだ青年は用心深く辺りを見回し、物陰に人影がないことを確認する。詰めていた息をようやく吐くと、微かに血の味が滲んだ。
ふと頭上を見上げれば、犇めき合う建物の隙間に僅か顔を覗かせる空から雨がさあさあと幽かな音を立てて地面を濡らしていた。白い糸のように細やかな雨粒。けれど春の花はこんな雨にだってすぐ散らされてしまうのだろう。それも最下層の、殊更弱い花達であれば。
雨が顔を濡らすのも構わず、青年は空を仰ぐ。服の上からぎゅっと握りしめた筒だけが、ただしく彼にとっての一縷の望みだった。
一体どこから噂が流れてきたのだか。さる高名な仙人が遺した秘伝の書物。そこには「常世の春を保つ術」が書かれているのだという。そしてそれを有する富裕層の重鎮が、とある大規模な花の宴に参加するのだと。
目を閉じれば今も瞼裏に残る嫋やかな花の色。天女の羽衣もきっと同じ色をしているのだろう、透かした花弁から漂う馨しい香り。目的を持って忍び込んだ彼ですらつい惹かれてしまうような美酒や茶の数々に豪勢な食事。
常世の春とはああも華やかなものなのだろうか。最下層の住人は乾いた土を食うばかり。ひとつの花すら満足に咲かせることが出来ないというのに。
「でもこれを持ち帰れば、俺だって……」
青年は拳を握り締める。高名な仙人が書いた秘術と言うなら、さぞかし強力な術が眠っているに違いない。宴に乗じて書を盗み出せたのは幸運だった。狙いの人物は余程酒に酔っていたのか、今のところは誰にも見つかっていない。このまま降り切って住処まで逃げ切ることが出来れば。書を読み解くことが出来れば。
「そうすれば、皆のことも守れるはずだ」
武強主義。この地に根付く思想は弱者を決して守ってくれやしない。咲けない花は散らされるだけ。過ぎ行く春をただ見送るのは、もう耐えられなかった。
青年は再び走り出す。けれど追手は影に紛れて、すぐそこまで来ていた。
●春を惜しまずに
「最近行けるようになった積層都市、もう行ってみた?」
見かけたあなたに笑いかけながら、花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)は朗らかに話し始める。
「たくさん階層があるんだよね。その東京Ⅴ層でお花見があるんだって!」
杏に梨。桜はもちろん桃の花。牡丹に沈丁花、菜の花まで。上に下に、その宴会では様々な種類の春の花が咲き誇り、その様はまるでこの世の物とは思えない美しさを誇るのだという。花咲く地に直接敷物を広げて花見酒を楽しむのも良し、近場の茶寮のテラスで下の賑わいを眺めながら、優雅に茶を啜るのも良し。
桜の花びらを共に浮かせた湯圓は、中にも桜餡が入って春の味わい。杏仁豆腐は口の中で蕩けるほどに柔らかく、一口入ると共に上品に杏が香る。
酒の肴に春餅と呼ばれる軽食の餅も良いだろう。薄いクレープ生地に肉味噌を乗せ、春野菜を口いっぱいに頬張ればこの先も健康に過ごせるのだという。伝統の点心もさまざまな色や形で客を楽しませてくれるだろう。箸で割れば熱いスープが湯気と共にたっぷりと零れだす。
「まほろのオススメはお湯を注ぐと花が咲く工芸茶かな? そこに咲いている花を摘み取って作ったお茶なんだって。絶対きれいだよね!」
しかし、華やかな宴会の裏ではひとつ、小さなトラブルがあるのだという。
「そのお花見に来るお客さんが持ってる秘伝の書を盗んじゃう人がいるんだって。犯人は決して悪い人じゃなくて、最下層にいる家族を守りたくて、なんとか強い仙術を手に入れたい! ってだけみたいなんだけど……」
少女は眉を下げる。
「実はその巻物、強い仙術が書いてある訳じゃないみたい。常世の春を保つ術は、その呼び名の通り、ただ花を長く咲かせるだけの魔法なんだよね」
その仙術の成果はご覧の通り。けれど、書物に縋る犯人の青年がそれを簡単に信じるのは難しいだろうと少女は語る。
「だからちょっと危険なんだけど……あえて盗むところまではやらせてあげて、追手が来て危ないところを颯爽とみんなが助けるのがいいと思う。そうしたら、話は聞いてくれるかも」
望んだものでなかったとしても、懸ける思いがあるのかもしれない。書物をそのまま青年に譲るか、それとも返してもらうかは集まった人々で判断しても大丈夫そうだと少女は頷く。
「みんなで納得のいく形で春を迎えて、それから見送っていければいいよね。春が過ぎるのはあっという間だけど、残らないものがないわけじゃないから」
少女はそう締めくくると、殊更明るい笑顔を浮かべた。
「ともかく、まずはみんなも春を楽しんで。いってらっしゃい!」
これまでのお話
第1章 日常 『鈍色に聖域』
今日は生憎の花曇り。しかし仄明るい空の下でも咲く花々はまことに自由なもので、活き活きと鮮やかな笑みを浮かべている。中でも一等色濃い桃の花を見上げながら、荘・夢羽(天人の妖魔妖術士・h12319)は艶やかに瞳を細めた。
「天気は残念だけど変わらず花は美しいね」
奔放に香り立つ花々に囲まれる少女もまた、そこに咲く花のひとつだ。風が吹けばひと瞬きの間に消えてしまいそうな儚さがそこにはあって、張・鷹飛(人間(√仙術サイバー)の黑星鏢師・h12318)は皮肉気に肩を竦める。
「まったく、天人様は悠々自適で羨ましいね」
「そうかな? 来てくれる鷹飛くんも鷹飛くんだけど」
飄々と言い返してみせる夢羽に、男は眉を顰めた。
「花は綺麗なのは悪くはないが……あまり出歩くとよくない」
「だって鷹飛くんと一緒に見たいと思ったんだ」
澄んだ瞳が男を見上げた。益々男の眉間に皺が寄り、夢羽はくすりと唇に笑みを浮かべる。
「僕の身を案じてくれるのは嬉しいけれど、昔みたいに弱くないから多少の事なら大丈夫だよ。いつまでもむかーしに助けたガキの心配をしてたら身がもたないよ?」
「……馬鹿、茶化すな」
固くなった声色におやと少女は首を傾げるも、小突かれた額に痛みは然程ない。
「多少の自衛を身につけた程度で過信してるんじゃねぇ」
「そんなことないと思うんだけどなあ」
「大体、俺じゃなくても夢羽と花を見たいやつならいくらでも居るだろうに」
それでいてしれっとそんな風に言ってのけるのだから、この恩人様は全く乙女心が分かっていないようだ。夢羽はわざとらしく頬を膨らませた。
「僕は鷹飛くんとお花がみたいの。他の人じゃ意味ない」
「そうかい」
「それに香気に簡単に惑わされちゃうようなひと相手じゃつまらないよ」
地に咲く花にこうして人が集う様に、天に咲く花もまた人を集めてしまうのが性。そうした性質を厭う夢羽にとって、ただ在るが儘でいる鷹飛がどんなに少女の中での特別か。知ってか知らずか男の態度はいつも頑なで、それが嬉しくもあれどこか焦ったい。
「香気に惑わされているね……お前はそれにこだわりすぎじゃないか?」
「もう。じゃあ受け入れて好きでもない人と茶を飲めって?」
白い陶器の茶器に茶を注げば、湯気が立つ水面にちょうど花びらが浮かんだ。
「でもそれが性質なんだから受け入れて……」
鷹飛の答えに夢羽はぐいと杯を差し出す。馬鹿はそちらのセリフなんじゃないだろうか。心なしかそんな圧を感じ、男は黙って杯を受け取った。
「僕はやだ。だから僕は鷹飛くんがいいの」
飄々とした、良くも悪くも熱の篭らない紫色の底に滲む欲。それを真正面に見ながら、鷹飛は熱い茶を煽る。
「俺が他と違うなんてお前の勝手な願いでしないんだよ」
「しらなーい」
つんと顔を背ける少女に肩を竦める。こうなればもう、しばらくそっとしておくのが吉だと男は知っていた。
改めて見上げた花々は美しく、同じ様に花を見つめる人々の表情は誰もが穏やかなものだ。この風景のどこかに、負の決意を胸に抱き、悪事に手を染めようとする人がいるのだろうか。
「……。武強というのは、下層にいる程身に染みる」
満開の桃の花を水面に映し、夢羽はぽつりと零す。
「武強ってのは確かに分かりやすい。ルールだとは思うが一足飛ばしに得た力なんてろくなもんじゃねぇ」
憂う少女を横目に、鷹飛も茶を啜った。この世界に生きる者だからこそよく分かる、絶対の規則。しかしどんな力があったとしても、思うがままになるとは限らないのが、この現実の難しいところだ。
「……いや、奪い取ってものにすればそれさえも武強か」
「でも彼にもさ、手を差し出せるなら差し出したいんだ」
あの時鷹飛くんがしてくれたみたいに。ぼやく男を見つめ少女が微笑むから、男はバツが悪そうに視線を逸らした。
「夢羽……。お前は俺を買い被り過ぎなんだ」
「そんなことはないよ。絶対に」
結局頑固なのはお互い様なのかもしれない。おかわりの茶を啜りながら、鷹飛は溜め息を吐いた。
──その時が来るまでにもう少し、花が心を和らげてくれれば良いのだけれど。
システィア・エレノイア(幻月・h10223)とクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)の二人が選んだのは、茶寮のテラスでも端の方の席だった。けれど二人からすれば人で賑わう花見席は少し遠いくらいで十分だ。寄り添って隣にいる君の体温を感じられれば、それだけで春の心地がするから。
「俺、すごく幸せだ」
「うん、俺も幸せだな」
ひらひらと風に揺れる花々を見上げながら、じわりと混じりあっていく温もりと共に気持ちが溢れてくる。同じ言葉で確かめ合って、そうして静かに過ごし続けるのもよかったけれど、本日のお目当ては花ともう一つだ。
システィアが選んだ工芸茶は萬紫千紅。透明な硝子のティーポットの中に入った丸い茶葉の球を二人でじいっと見つめる。
「こんなゴロッとした塊が本当に綺麗な花になるんだろうか」
「うん、不思議」
熱湯によって茶葉が少しずつ綻んでいく。じわじわと姿を変える様子を少しでも見逃したくないと、揃って熱い視線を注げば、あるいっときにぱっと茶葉が緩み切って花開く。その瞬間、システィアの表情もぱっと輝いた。
「……! わ、凄いねクラウス。本当に花が開いてく」
「すごい……。綺麗だね」
互いに顔を見合わせた、その瞳に映るきらめきも同じ色。同じ感動を分かち合い、二人の表情も自然と綻んだ。
やがて硝子の茶器に注がれるのは、仄かに異国の甘い匂いが香る中国茶だ。
「おいしいね、ティア」
「うん。初めて飲むけど、美味しい」
見た目だけでなく味わいもまた格別だ。けれど何より、二人で共に初めてを体験できるのが嬉しいのだろう。システィアは僅かに視線を下げて、花びら浮かぶ薄茶色の水面を見つめる。
──熱い湯に絆されて、解けて綻んでいく花は、今隣にいる彼が溶かしてくれた自分の凍った心と同じ。そうして、解けてもまだ足らずに、もっと日増しに彼へ焦がれていく。
「ふふ」
「どうしたの」
「何でもない」
思わず笑いを零したシスティアに、クラウスは不思議そうに首をかしげてはみるものの、彼が楽しそうならそれだけで幸せには違いなかった。
「ね、次に来る時は別の花を頼もうよ」
気が早いけれど、次の約束を。強請るクラウスに、システィアももちろんだと固く頷いた。
「うん、そうしよう。……これ、鮮やかで綺麗」
今は今で楽しむ為に二人でメニューを覗けば、溢れんばかりの春の色合いに想像も膨らんでいく。
愛する彼と再び巡る春を思えば、自然と頬が緩んで仕方がなかった。
窃盗は犯罪だ。そこにどんな事情があったとしても、変わらない社会の規則。けれど、何かを護りたいという心まで否定することは出来ない。誰かの罪を裁くことの難しさは、新たな世界に行っても変わらないらしい。
(難儀なものですね)
涼しげなかんばせの裏で静かに憂いながら、瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)もまた、華やぐ茶寮を訪れていた。彼が選んだのは花見会場を見渡せるテラス席。見下ろせば賑わいも華やかな光景が目に入るが、彼のまなざしが鋭さを失うことはなかった。全体を客観視しながら、賑わいから外れた、不審な動きをしていそうな人物にアタリを付けて、それとなく動向に意識を置いておく。半ば職業病と化した心配りだ。
「しかし……」
鮮やかな躑躅色の瞳に賑わいを映し、頬杖をつきながら溜め息を吐く。まさしく桃源郷とも呼ぶべきだろう、花々の香りが立ち込める異国の春。それを遠くから眺めていると、余計な感傷が胸の底からふつふつ沸いてくる。このままではいけない、と兎比良は軽く手を挙げた。視線が合った店員がびくりと肩を揺らすと、やや強張った営業スマイルで近づいてくる。仕事への緊張感だけでなく、物思いに更けてしまったこともあって、余計な威圧感を与えてしまったのかもしれない。己の見られ方にも自覚がある兎比良は、努めて表情を緩めようとした。そう、心がけたのだ。
「お忙しいところ恐れ入りますが、この茶寮でオススメの料理は?」
この質問だって、尋問のつもりは全くない。花が似合う友人知人にこの世界に来たら勧められるものを尋ねたかっただけだ。けれど店員の態度はどこかぎこちない。
「ひっ……あっ、この時期だと、こ、工芸茶と茶菓子のセットが人気ですかねえ!」
「ああ、ありがとうございます。ではそれをひとつ」
──不審な態度だ。彼にも後ろめたいことがあったのだろうか。やけに素早く裏へと引っ込んでいく店員の後ろ姿を厳しい視線で見送りながら、兎比良は内心疑問を抱いた。
心なしか他の客より早く届いた気がする工芸茶のセットに舌鼓を打ちながら、兎比良は再び業務へと戻る。別の世界でも須らく平穏な春を護る為に、男は真摯に罪と向き合おうとしていた。
「わぁ……わ~~!!」
色彩ゆたかな春の色を目いっぱいに映し、紫水晶の瞳が一層きらきらと輝く。
「芥さん! 芥さん! 春の花がいっぱい!」
「ああ、見事なもんだな」
戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)は年頃の少女らしく、可愛らしい春の花々に表情を輝かせた。自分がいたところでも華やかなものだけれど、異世界と言うのも相まってこの宴会はどこか特別な雰囲気がある。
「咲く時期が一緒にならないものが一堂に! すごぉい……!」
「嬉しそうだ、くるり」
「だってこんな光景、滅多に見れませんし!」
普段よりはしゃいだ声でくるくる笑う少女の様子に夜鷹・芥(stray・h00864)は金の瞳を僅かに細めた。
薄い曇り空は仄明るく、痛みも悩みも知らない顔で花々は風に揺れる。平穏を絵に描いたような風景。その中心で、少女は屈託なく笑っていた。
「やっぱりお前はこういう場所に居るのが似合う」
微かに感傷の滲んだ静かな声に、少女はきょとんと瞬いた。
「? どこと比べての話ですか?」
「……いーや? 花が似合うってこと」
くるりの問いかけに芥は肩を竦めて、悪戯な色で笑う。素直な少女は頭上に疑問符を増やした。
「私に花が似合うって話でした? んん?」
「あんま気にすんな」
「分かりましたけど……あっ、芥さん、はなびら」
何気なく伸ばした指先でつまんだのは白い梨の花弁。空に透けて黄緑がかったやわらかな花弁と男の顔を交互に眺め、くるりは表情を緩めた。
「ふふ、芥さんもお花、結構似合うと思いますよ」
「え、俺も.....?」
「はい。結構」
その評価は大の成人男性として喜んでいいのかどうか。微笑ましそうに笑うくるりから、芥は花弁に視線を移す。ふと思い立って、舞う桜のひとひらを摘まむと、少女の髪にそっと添えた。
桜の花びらは深緑色の髪の上で淡く色付く。その様子を見つめ、芥は満足げに頷いた。
──やはり、自分よりはよっぽど。
「芥さん?」
「何でも。あ、あっちの方沈丁花が咲いてる」
「あっ、本当だ~!」
ぱっと興味の矛先を変えると、くるりは示された植木の傍へと駆けていく。芥はその後ろをゆっくりと追った。
「うちの庭で咲くより不思議と元気に見える」
「うーん、あっちも綺麗さは変わらないと思いますけど」
でももしそう映るなら、周りの華やかさとのコントラストが故だろうか。改めて並んで花々を見上げ、萬の花が咲き誇る様を目に映していると、ふとくるりの中に疑問が降ってくる。
「……もしかして、部署の萬花って名前、こういう由来です?」
「あー…由来なぁ」
芥は頭を掻いてどこか気まずそうに視線を逸らす。くるりが純粋な好奇心で尋ねているのは分かったから、逡巡は一瞬だった。
「俺達がバラバラな萬の花でも、集まればきっと、誰かにとって必要な景色に――花となる、の意味を込めてる」
「おお……!」
「そんな感じで。美しい個性であれ、全の花であれ、ってな」
「芥さんが、その名前、つけたんですか? 素敵な由来ですね!」
ぐいっと前のめりに表情を輝かせるくるりのまなざしが気恥ずかしい。男は小さく頷いた。
「改まるとハズカシーんで此処だけの話に」
「ここだけの話?」
いつもどこか飄々とした態度を崩さない大人が己の裡をこうして少しでも明かしてくれるのが、なんだか嬉しい。
「えー、じゃあ……ふたりじめですね。なぁんて」
「そういうことでヨロシク」
肩を竦める芥を見てまた表情を緩めると、くるりは背後の沈丁花に目を移した。
──ただ名残の香りを残して、人知れず控えめに咲くこの花も、この場で鮮やかに咲くのなら。それはきっと、沈丁花だって誰かと一緒の方がうれしいということではないだろうか。
「なら、芥さんも」
「? なんか言ったか、くるり」
「……いえ、なんでも!」
思わず零れたちいさな祈りはまだ隠して、少女は明るく笑ってみせた。少女の表情をちらりと見てから、男はまた視線を花々へと戻す。
「ふうん。あ、そういえば近くの茶寮で此処の花を摘んだ工芸茶もあるらしい」
「わ、お花のお茶? 風情がありますねぇ、一緒にお花を見ながら行きましょうか!」
「ああ、散歩がてら休んでいこう」
あたたかな時間はまだ終わるには少し早いから。再び笑顔を咲かせたくるりに、芥もまた、僅かに表情を緩めた。
「うわぁ、桜や桃だけじゃなく、色んな花がいっぱい咲いてる!」
「ほんと、綺麗だね~!」
馥郁たる春の匂いを胸いっぱいに吸い込み、少女達は笑みを交わして花の下で蝶のようにはしゃぐ。
「√ドラゴンファンタジーや√EDENでもここまでの景色はめったにないよねっ」
「うん! 私の田舎にも綺麗なとこあるけど、同じくらい綺麗!」
素足で踏みしめた桜の海はくすぐったい。野分・風音(暴風少女・h00543)の言葉に立本・しおり(蹴撃格闘少女《エアガイツ》・h02809)は頷くと、天蓋を覆う桜を見上げた。心地よい風に後ろで括った黒髪が揺れる。
「まずは英気を養わないとね。しおりちゃん、屋台でいろいろ買うか、茶寮のテラスでのんびりするか、どっちがいい?」
「屋台がいい! しおり、屋台の食べ物大好きなんだ」
「OK、屋台へレッツゴー!」
きゃっきゃとはしゃぎながら少女達は一際賑やかな屋台のある通りへ向かった。
ここでは祭りに乗じた下層の屋台が集まっているのか、馴染みある雑多な雰囲気がむしろ心地よい。花の匂いに負けず、どこもかしこも甘かったりしょっぱかったり、美味しそうな食べものの匂いで溢れんばかりだ。
「屋台、めっちゃ並んでるよ!」
「うん、どれもおいしそー!」
軽やかにしおりに手を引かれ、風音も二人一緒に雑多な景色に混ざる。一通り見て回って、気になる物を買っていく内に、少女達の両手はすっかり食事でいっぱいになっていた。
「この湯圓最高! 初めて食べたけど美味しいね」
つるんとした餅の中に詰まった桜餡は、ほんのり塩気があって甘い。もちもちと噛み締めるほどに広がる春らしい味わいに、風音の頬も緩む。
「すぐなくなっちゃう……。探せば地元でも食べられるかな?」
「うん、最近中華フェアとか増えたもんね。こっちのたこ焼きも美味しいよ、風音ちゃん!」
とろんと蕩けるたこ焼きは、1個お裾分け。ソース味はどこの世界でも人気の様だ。ありがたくちょうだいして、風音は代わりに包子をしおりに差し出す。
「本当だ、美味しいね! こっちの包子もぎっしり具が詰まってて食べ応えあるよ」
「ホントだ、おいしいー!」
きらきらと表情を輝かせてあれもこれも口にするしおりの様子に、風音の表情も明るい。同じ美味しいを共有できる友達と巡れる屋台は、なんと楽しいことか。
「……って、ついつい花より団子になっちゃうね」
「いいんだよ、風音ちゃん。景色が綺麗だと、ご飯も美味しいんだから!」
自信満々に頷くしおりに、それもそうかと納得して、風音も表情をやわらげた。
「うん。綺麗な花に囲まれて美味しい物いっぱい食べるのがお花見の醍醐味だよね!」
「やっぱり春はこうじゃなくっちゃ!」
食欲爛漫も春の楽しみ方。花々は楽し気に笑う少女達を、やさしく見守っていた。
桜の木の下に敷物を敷き、食事や飲み物は現地調達で。硝子の杯になみなみ酒を注げば、風が頃合いを読んだように吹き抜けて、桜の花びらがひらひらと澄んだ水面に降ってきた。
「カンパーイ!」
「ふふ、乾杯」
掲げた杯を重ね、ひと息に煽る。近くで調達してきたらしい白酒は優雅な蜜の香りと共に、爽やかな口あたり。浮かんだ桜の花びらからふわりと春が香って、風情のある味わいだ。自然と表情も綻ぶ。
「アンタと酒なんて新鮮ー」
「ええ。雨夜さんと花見酒を頂けるなんて」
雨夜・氷月(壊月・h00493)の言葉に物部・真宵(憂宵・h02423)はゆるく微笑んだ。いつもの氷月は悪戯やサプライズを飛び越えて流石愉快犯と言った趣きで、怪異などで何かと真宵を怖がらせ──もとい興を凝らしてくれるものだから、こうも穏やかな時間は新鮮なものだ。
「ま、たまにはイイよね。ほら、花もこんなにキレイだし!」
まるでプレゼントボックスを開いたみたいな溢れんばかりの春の色彩はどの世界でもそう見られるものではない。サプライズ好きの氷月もお気に召したのか、口許の笑みは上機嫌なものだ。
「ええ、本当に。Ⅴ層でこの様子ですと上層はもっと華やかなんでしょうか」
この世界には本当に仙人が住まうのだと言う。上層の、仙人たちの春は一体どんなものだろう。真宵が想像に花を咲かせていると、ふと膝の上で抱っこしていた子ぱんだが丸まったままもぞもぞと動き出す。
「あら、お腹が空いたのね?」
ぱちりと目を覚まし、つぶらな瞳がきょとんと真宵を見上げた。まだ起きたてなのだろう、寝ぼけた姿の子ぱんだが可愛らしくて、真宵はつい笑みを零した。
「歓歓、おはよう」
「お、こぱんだも何が食べる?」
氷月が買ってきた肉饅頭を一欠片差し出せば、寝ぼけながらも子ぱんだは匂いに反応してきちんと座りなおすのだから可愛らしい。そのまま受け取った肉饅頭をぱくぱくもぐもぐと食べ始めるのだから、主人である真宵の頬も緩みっぱなしだ。
「美味しい? よかったわね、歓歓」
「んふふ、物部に似て警戒心うすーい!」
一度食事を貰ったからにはもう恩人だと認識したのだろうか。氷月がつんつんもふもふ歓歓の頬っぺた突いてみせても無反応どころか表情を緩めるのだからなんとも素直なものだ。氷月もくすくすと笑みを零す。
「なんだか今とぉっても失礼な言葉が聞こえた気がするのですが?」
「だってイイコトには全部釣られちゃうし?」
歓歓に向けていた視線を真宵に寄越して、にやりと笑われてしまえば、自分が揶揄われてるのだと気付いて真宵もさっと頬を赤らめた。
「もぅ……ずいぶんと輝かしい笑顔で!」
「ねー、歓歓」
「歓歓、彼の真似しなくていいのよっ」
ぷすぷすと頬を両側からつつかれて、子ぱんだは板挟みの中、小首をかしげる。そういう遊びに乗ってしまうからこそ揶揄われているのだと真宵は気付いているのかどうか。どちらにせよ、弄りがいしかない女の反応に、氷月はくつくつと喉を鳴らした。
買ってきた肴が美味しいのはもちろん、呑みやすいというのも相まって酒はどんどん進む。ふと氷月が見やると真宵の鮮やかな青色の目はとろんと蕩けた熱を帯びているように見えた。珍しい様子に男は口角を上げる。
「んふふ、もしかしてもう酔ってるの?」
「……いいえ?」
「ほんとにー?」
先ほどの子パンダのように頬をつんつんと突かれても無抵抗だ。
「お酒、好きですもの。ちょっとだけ、……そう。春の陽気と宴会の熱気にあてられているだけですよ」
「男と出掛けてる時にそんなになっちゃうなんてアブナイよ?」
氷月がぺろりと口を開き獣の顔を覗かせても、真宵はまあこわいとふんわり微笑むばかり。
「そんなつもりなんてない癖に。それくらいお見通しですよ」
いつも裏切られてばかりだと言うのに、女は少女の顔をしながらそんな風に言い切ってみせる。その澄んだ瞳の底の色を見て、男は肩を竦めた。
「そんな風に言ってても、いつかパクッと食べられちゃうかもよ。特に俺は気まぐれだからね」
こんな風に、と身を寄せて男は笑う。底抜けの愉快犯の態度をけれど、真宵が拒むことはなかった。
「まぁ。なら、気まぐれがどうか目覚めませんように。ふふふ」
受け入れて目を瞑ってさえみせる、そんな女に氷月がどう返したかは揺れる花々のみぞが知る。
花曇りの空は明るいながらもどこか湿っぽさがあり、幽霊には心地よい天気だ。鮮やかな花々を見上げながら、チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)は浅く笑みを浮かべる。
「うーん、東京V層でこの景色。Ⅶ層の宴会はどんな楽園なのか、想像もつかないなあ」
この階層でこんな景色が見られるのだから、未だ見ぬ積層都市の頂点はさぞかし美しい場所なのだろう。少年は軽い足取りで、しれっと生者に混じり茶寮のテラスの一席に腰かけた。手首のバングルは今日も痛みで彼の実在を縛るが、対処は既に慣れたもの。痛み止めは抜群の効き目で、チェスターの歩きには余裕すらあった。
「それにしても……」
賑わう下界を見下ろし、チェスターは惚けて息を吐く。そこら一面に広がる花々は風に揺れながら、花曇りの光を照り返し、きらきらと輝くよう。ミモザの柔らかい黄色や甘い匂いを放つマグノリアなんかは近所の家の庭先で、公園で──母国でもよく目にしたものだから、懐かしい反面、梨や杏、芍薬といった鮮やかながら繊細なレース模様のような花々はあちらでも珍しい。同じ春でも、世界や場所が違えば見る色も変わるのだと、改めて実感しながら、瞳を開いて、まじまじと世界の色を映していた。
──これが武強主義の成果なのだろうか?
現代でもそこかしこに階級社会の名残りが感じられるわが国より、ずっと明確な線引きがあるこの|√《世界》。一見弱き者には冷たいその規則も、簡単にひっくり返せない血統なんかよりは易しいように思える。
「実力さえあれば成り上がれるのは夢があるよね~」
ただ、これも弱いモノではないから言えることなのだろうか。少年は思案に暮れながら、何気なく工芸茶に口を付ける。
「うん、……ちょっと味薄いかな。これ」
ふわりとガラスの中で咲く花は目にも美しく、春の味わいは心地よいものだけれど。やっぱりビルダーズ・ティー──母国の味が恋しくなってしまうのは、今もなお彼が、あの国を愛している証明なのかもしれない。
茶寮のテラス席からは、折り重なって美しい織物を作り上げる花々を一面に見渡すことが出来た。花曇りに透けて淡く光るような花々が、わずかに風に揺れているのをただ眺めているだけで、ここが永遠なのではないかと錯覚してしまいそうになる。シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は感慨深く溜め息を零しながら、空色の瞳を笑みの形に細めた。
「もしもどこかに楽園があるのなら、きっとこういう感じなのかもしれないわね」
「うん、きっとそうだね」
花の色を背景に、淑やかに微笑むシルフィカを目に留め、ルミオール・フェルセレグ(星耀のアストルーチェ・h08338)も笑顔で頷く。リラの色彩を纏う少女は、楽園の春とも劣らぬ程に可憐だ。ずっと見ていたくなる気持ちを一度抑えて、テーブルに視線を移す。そこには既に春の色が咲いていた。
「さあ、シルフィカ。何から食べたい?」
「そうね……、では杏仁豆腐から」
つるつるとした白い肌は口の中の熱で蕩け、ふわりと杏とミルクの甘い匂いがした。少女の瞳がぱっと輝く様を見て、青年の表情も緩む。口にした湯圓はもちもちとした弾みのある食感を楽しんでいると、中から桜味の甘じょっぱい餡が零れてきてこちらも絶品だ。
「シルフィカ、こっちも美味しいよ。食べる?」
「ありがとう、ルミオール」
もちろんお互いの皿を交換することも欠かさない。差し出された陶器の器を受け取って一口掬えば、噛み締めると共に花開くように広がる桜の香りに表情を綻ばせた。
「本当。春そのものみたいな味がするのね」
「杏仁豆腐も美味しいね。ふんわりな杏の余韻と優しい甘さが癖になりそう」
スイーツに舌鼓を打った後は、工芸茶で余韻を楽しむ。ガラスの中、ゆっくりと解けていく花を二人でそうっと眺めながら、ルミオールは夢見るように唇を開いた。
「沢山の花があって、こんなにも綺麗なんだから、長く咲かせたい魔法が作られるのもわかる気がするな」
そう出来るだけの手段があれば、自分もそうしてしまうかもしれない。それも、この人が隣にいたのなら。景色と少女をもう一度共に瞳に映し、感慨深げに青年はリラの色彩透ける瞳を眇めた。
「シルフィカとこうして一緒にいられるのが……今でも夢じゃないかって思う時があるくらい、俺にとっては凄いことなんだよ」
「……わたしも」
彼の笑みを見ながら、シルフィカは視線を下げた。
「今でも時折、夢を見ているような気持ちになることがある」
美しいものを見た時、隣で笑うあなたを見ている時。洗われたような青空を見上げる時。こうして声にすれば、目が覚めてから見つけた、あるいはかつてどこかで見たような様々な風景が心の裡で泡のように浮かんで弾ける。けれど、とシルフィカはルミオールの姿をまっすぐに目に映した。
「でも、今はもうちゃんと夢じゃないってわかっているわ」
「……うん」
花の色を重ねて、青年は微笑む。
「これからも一緒に色んな世界を見たいし。春に限らず色んな花も見たいし……また来ようね」
「ええ、もちろん」
笑って頷くシルフィカを見て、ルミオールは柔らかく口許を緩めた。
「あ」
と思えば、急に顔つきを真剣なものに変えた。突然の変化に、シルフィカはきょとんと首をかしげる。
「俺ひとりでじゃなくて、一緒に、だからね。退屈なんてさせないよ」
何を言うのかと思えば、どうやら彼にとってはそこが肝心らしい。殊更に強調してみせる青年がどこか幼い子どもに見えて、くすりとシルフィカの口許が綻んだ。
「そうね、楽しみにしているわ」
見上げた空は太陽がないというのに仄明るく、光を透かした花弁の色合いは鮮やかだ。生憎の天気とは言え、木々を見上げるアンジュ・ペティーユ(ないものねだり・h07189)の表情は今日も晴れやかである。
「ちょーっと曇っちゃってても全然平気! お花見日和だよね、ラズリ!」
「ふふ、うん。曇ってても鮮やかな花を見てると癒されるね」
ゆるりと眦緩めて、鴛海・ラズリ(✤lapis lazuli✤・h00299)もつられたように微笑む。こんな天気でも花の彩は褪せることなく、瑞々しい匂いに満たされた空気は吸い込むだけで心が洗われたような気持ちになる。
「とってもとっても悩んでしまったんだけど……今日はテラス席で楽しもうかな!」
「うん!」
「こっち! ──ほら、いい席がある!」
アンジュが手招いた先は、よく拓けて花々が見下ろせるとっておきのテラス席。高いところから花々を視界いっぱいに見下ろして、ラズリは表情を輝かせた。
「わあ、絶景ね。アンジュ、素敵な席見つけてくれて有難う……!」
「へへー、どういたしまして。ねね、工芸茶だって! なんだかオシャレだよね!」
「本当だ。此処の花のお茶を頂けるの? ステキだね」
はい、とアンジュがラズリに差し出したメニューには、伝統らしい工芸茶の一覧が花の説明と共に並ぶ。それらを上から下まで眺めながら、二人は並んで首を傾げた。
「あたしは桃の花にしようかな。ラズリはどうする?」
「じゃあ……私は桜にしようかなぁ」
たっぷり悩んだ後の答えに、アンジュがぱっと瞳を輝かせる。
「桜の花! ふふふー、春と言えばな花だ!」
「うん。咲いてるうちに、味わいたくて」
盛りの春を口に出来たら、どんな心地がするのだろう。想像しながらラズリは瞳を細めた。
「桃の花も優しい香りが楽しめそうなの」
「こっちも春!」
「ほんとうね」
よく似た春を比べてみるのもきっと楽しいだろう。くすくすと笑い合い、注文を終えた後、そういえばとラズリは傍に置いていたバスケットをテーブルの上に置く。
「せっかくだから、おやつは私が持ってきたの」
そうして皿の上に並べられたのは、菫やパンジーなどの春の花々を纏ったロールケーキだ。やわらかい黄色のパステルカラーの生地の中にはたっぷりと苺クリームと瑞々しい果実が詰まっていて、今にも零れ落ちそうなほど。華やかな外の景色にも負けない花束が現れて、アンジュの表情も華やぐ。
「わあっ、目でも楽しむことのできる綺麗なロールケーキだね……!」
「えへへ、お花尽くしにしちゃった」
屈託ない表情と言葉に、ラズリもほっと表情をやわらげた。
「実はあたしね、果物が大好きで! だからこんなにいっぱいで、嬉しい!」
「アンジュ、果物がすき? 良いこと聞いちゃった」
せっかくだからとラズリがよそえば、アンジュに寄越された皿の上にはたっぷりの苺が乗せられている。思いがけないプレゼントに、アンジュは黄色い声を上げた。
「えっ! いいの? わあい! 苺だ!」
「喜んでくれて良かったあ、たくさん食べてね」
「ふふふー、ありがとう!」
工芸茶が届いたら、声を合わせていただきますのご挨拶を。外を見てもテーブルの上を見ても春は溢れんばかりで、華やかな食卓に心も華やぐ。甘いケーキを頬張って、ふとラズリは唇を開いた。
「ね、アンジュの好きな物もっと教えてくれる?」
もうひとつ花を咲かせるにはとっておきの話題に、アンジュも元気よく首を縦に振る。
「もちろんだよ。あたしの好きな物、こと、たくさんおしえちゃうんだから!」
──だからね、だから、ラズリの好きなものもあたしに教えて!
そうして増えた話の花を食卓に添えて、少女達は心ゆくまで胸いっぱいに春を楽しむのだろう。
「なるほど、ここがウワサの積層都市か……!」
はじめての世界と光景にユニ・リリィ(Unicornis Astrum・h10622)が子どもの様に表情を輝かせる。その様子を隣で穏やかに見守りながら、神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)も揃って目の前の景色を眺めた。
「何度か訪れてはいますが、階層によって景色が全然違いますね」
「うむ。だがどこの世界も皆が花を愛でるのには変わりないのだなぁ」
「ええ。ここでも花を愛する心があるのは嬉しいですね」
こうして同じ喜びを分かち合い、お裾分けまでしてもらえるのだから、喜ばしいことだ。浮き立つ心を足取りに映しながら、二人は並んで花々の下を歩く。
「お花見は美味しいものを食べるのが習わしと聞いたことがある!」
「はい。お花見に美食は必須です……」
ユニの発言に頷く境華の声色には重みがあった。うむうむとユニも頷き返して、好奇心いっぱいの澄んだ瞳が境華を映す。
「境華はなにが気になるのだ? ユニは花が咲く不思議なお茶ととろける杏仁豆腐が食べてみたいのだ」
「ふふ、私もです。……どうやら同じものが気になっていたようですね」
「ほう、境華も同じなのだな!」
ここでも嬉しいお揃いを見つけて、少女の表情がぱっと輝く。その表情に、境華も表情をやわらげた。
「はい。お揃いで楽しみましょう」
目聡く見つけたテラス席からは、花々が広がる様子と賑わう人々の姿がよく見える。白いひかりを受けて淡く光るようにも見える花々を目に映しながら、境華は惚けた様に小さく息を吐いた。
「花曇りなことが幻想的な印象を与えますね……」
「うむ。のんびりと見ていられるな」
どんな花が咲いているのか、見つけた花を指さし話し込んでいる間に、テーブルの上に注文の品々が並べられる。ガラスのポットの中で頑なにうずくまった茶葉の塊を眺め、ユニは首を傾げた。
「おお、工芸茶か! ……これにお湯を注げばいいのか?」
「はい、そうみたいです。やってみますか?」
「うむ!」
元気よく頷いて、シルクの指先が花に水を注ぐ。二人がじっと熱い視線を注ぐ先で花はじわじわと緩み、やがて弾けるように花が身体を広げ始めた。見る見るうちに咲き綻ぶ花に、揃って感嘆の息が漏れる。
「とても趣深いです……」
「ああ。なんだか飲むのがもったいないな」
とは言え、爽やかな匂いに好奇心が勝つ。カップに茶を注げば、ふわりと花の匂いが仄かに漂った。
「ふう……なんだか落ち着きます」
ひと息吐いた境華の隣で、ユニはもう一つの目的である杏仁豆腐を手に取る。スプーンで掬えばつるんとした質感で、逃げてしまいそうな程だ。一すくいをぱくりと口の中へ運ぶと、途端ユニの表情が何度目かの輝きを放つ。
「おお、すごいぞ杏仁豆腐! 口の中でとろけていく!」
その言葉に境華も自分の分の杏仁豆腐を手に取った。口に運べば、柔らかさと広がる甘い杏の香りに珍しく少女の瞳も輝いた。
「これは……幸せになってしまいますね」
「うむ、なんともお上品で幸せな味だ」
そうして舌鼓を打ちながら、そういえばとユニが唇を開く。
「甘味のひと時を終えたなら腹熟しにちょっと歩いてみないか? お花たちも、もっと近くで見てみたいしな!」
思ってもみない提案に、境華も微笑んだ。花より団子に寄りがちとは言え、この絶景も見逃すなんて勿体ない。
「はい、是非」
──それに、花も団子もどちらも愛でてはならないなどと、そんな道理も存在しないのだから。
片や菫やライラックを思わせるやわらかな薄紫色、片や蒲公英やミモザを思わせる朗らかな黄色。お互いの好きな色の敷物を携えて、共に歩くラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)とトゥバ・コルヌコピア(凱風・h09459)の足取りは弾むようだ。二人はこの花尽くしの地でも一際立派な大樹の下までやってくると、頂点の見えない桜の木を見上げる。
「トゥバさま、こちらはいかがでしょう?」
「うん、すごく立派で……いいとおもいます!」
花びらの散る若草の上に敷物を広げれば、またひとつ、ふたつと春の色彩が重なる。ラデュレはやわらかく表情を緩めた。
「まるでわたくしたちもお花の一部になったようです」
「そうですね! ……あっ、そうだ。ラデュレさん、見ててください!」
支度を終えたラデュレの前で、トゥバはおもむろに立ち上がってみせる。こほんと息を整えると、空に向かってころころと甲高い声で鳴いた。かつて故郷の仲間に教わった、コマドリの囀りの真似事だ。世界を跨いでも身に染みた技術は変わらず、白い空に声は吹き抜けていく。
「まあ……!」
何度かそうして囀ってみせて、すると不思議なことに、どこからか小鳥が数羽羽ばたくと、軽やかに少年の傍へと降り立った。その可愛らしさにラデュレは思わず微笑む。
「小鳥の囀りなのでしょうか。とてもお上手なのですね」
「へへ、俺は群れで一番鳥の声がとくいなんです!」
はにかむ少年の指先で小鳥が仲間を探して不思議そうに首をかしげる。二人でくすくすと笑いながらお裾分けに菓子を砕いた。掌で啄む小鳥の嘴が少しくすぐったい。
「わたくしたちもいただきましょうか」
「はいっ、そうしましょう!」
頷き合って、いそいそとバスケットの中身を広げていく。ラデュレが見つけたのは桜の湯圓と点心。皿にはまだしっかりと温もりが残っていて、冷えた手を暖めながら、少女はなんと、と指を二本立てた。
「ふたつも見つけたのです。これなら『おいしい』を二度も味わえるのですよ」
「あはは、本当だ。さすがです……!」
くすくすと笑いながらトゥバが取り出したのは、丸こくなった桃そのもののような可愛らしい風貌の饅頭に、工芸茶だ。
「桃のかたちのお饅頭なんです、なかみは色々で……」
トゥバはわくわくしながら半分に分ける。
「あ! これもさくら餡だ」
「ふふ、わたくしの湯圓とごいっしょなのですね」
「ね、はんぶんこしませんか?」
少年の提案に少女の表情がぱあと光った。
「はんぶんこ、喜んで……!」
二人で見つけたおいしいは、更に分け合って4倍に。膨れ上がったおいしいをそれぞれ口にして、二人の頬も緩む。
トゥバはガラスの茶器に茶葉の球を置くと、水筒のお湯を注いだ。白い湯気を立てるお湯の中、眠りの中から綻んでいく花の球を二人でじっと見守る。
「……あっ」
そう声を上げたのはどちらが先だっただろう。予感に顔を見合わせたのも束の間、少年と少女の目の前で紅色の花がぱちりと目を覚ます。
「わあ……ラデュレさん、みてください! お花が! 咲きました!」
「はい。こうしてお花が咲くのですね、とっても綺麗……!」
たちまち大輪の牡丹はガラスの中で溢れそうな程に身を伸ばす。零れる前に茶を注げば、ふんわりと香しくどこか夢物語の様な甘い香りが辺りに漂った。つられて視線をあげれば、胸いっぱいにあちこちの花の匂いが入ってくる。いつまでも深呼吸していたいような、そんな気持ちだ。
(ラデュレさんもそうだったらいいな)
点心を口いっぱいに頬張りながら、ふとトゥバは隣の少女を見やる。すると視線に気付いたのか、ラデュレの紫色の瞳が少年を映すと、ふっと笑みを形作った。
──声にせずとも、二人が見ている景色も心も、きっと同じなのだろう。そんな風に思わせるような、微かな花の笑みだった。
見上げれば爛漫に咲き乱れる春。はなやかな色彩に、小沼瀬・回(忘る笠・h00489)の唇からも思わず溜め息が零れる。
「ああ、実に美しいものだな」
世界を跨いでも咲く花の美しさは変わらず、魅せられた人々が春を惜しむ心も変わらない。
「だが、此の景と甘味は、そう味わうことは叶わないか」
常世の春をすべて集めてきたらしいふんだんの花々はいくら視線を巡らせても飽きることはなく、テーブルの上に溢れる春も同様だ。回は機嫌よく器のひとつを手に取ると、長らく人の目を楽しませてきたのだろうその華美な装飾から愛でつつ、先ずはと湯圓を匙に取る。
「ふむ、見た目は白玉に似ているが……」
果たして中身はどうなのか。つるりと一口食めば、弾力ある食感の後に広がる桜餡に口端が思わず緩む。上品な味わいは、咲いては散る桜の慎ましさにも似て味わい深い。
「此れは美味だ」
お次は伝統の工芸茶。勧められるがままに頼んでみたが、一見武骨な球がだんだんと綻んでいく様にもどこか風流を感じる。ここから優美な花が咲くなんて、誰が信じられるだろう。
「見事なものだな」
やがて湯の中にゆるりと咲く茉莉花は、味わい、散らすのでさえも、惜しくなる。
「──だが、此は持つ者の我儘だろうな」
回は憂い気に視線を落とした。この会場の何処かで、きっと心火を燃やしながら春の花々を見上げている者が、此処にいるのだ。この春を違えずと見えるのは上澄みだけ、とあるのならば。
「しばし留める春の花が、冬越すための強さになるのならば」
"彼”がその一歩を確りと踏みしめられるのであれば。
「善悪を差し置いても書物なぞくれてやりたいが――さて、」
どうにも「家族」には情が偏ってしまうものだ。己の性に微かに笑いつつ、茶を啜る。ふわりと広がる仄かな香りの中にも、また春が見えた。
今日は春尽くしの場所へ。そう決めた夕星・ツィリ(星想・h08667)の足取りは軽い。
どの季節の花もそれぞれ良さがあるけれど、特に春の花は可愛くて良い香りなのが大好きだ。それも、美味しいものと一緒に愛でられるお花見であるのならいっそのこと。
溢れんばかりの花々の間を駆け、頭の中で膨らむ食欲と共に少女が茶寮のテラス席へ向かえば、見えた後ろ姿にぱちりと瞬く。ふわふわの癖っ毛にときどき揺れる大きな耳。
「りりちゃん!」
「あ、ツィリさん……?」
突然の声かけにきょとんと瞬く青い瞳。廻里・りり(綴・h01760)は顔がくっつくくらいに見つめていたメニューからぱっと顔を上げると、見知った少女の姿を見て表情を緩めた。
「りりちゃんも食べに来てたんだね」
「あっ、はい。なにを食べようかなやんじゃって……」
「わかるよ。どれも美味しそうだもんね~!」
せっかくだからと同じテーブルを囲み、少女達は改めて真剣な表情でメニューを眺める。
「……うん、きめましたっ。工芸茶と……はじめましての春餅! 食べてみたいです!」
「私も工芸茶と、湯圓と、それからこの桜カステラにする!」
元気いっぱい真剣な注文を終えた少女達の前に、すぐに大量の春が運ばれてくる。まずはガラスのポットに入ったオススメの工芸茶だ。ひとつは茉莉花、ひとつは桜。少女達の輝くような視線が注がれる中、春は芽吹き、めいっぱいに茶の中で花を咲かせる。
「わっ、ティーポットの中で花が咲いた……! すごく綺麗……!!」
「はい、お花がすごくかわいい……!」
自然と声を潜めてしまうくらい、その変化は健気で儚い。少女達は視線を交わして頷き合うと、花が壊れてしまわないようにそうっと慎重に、カップへ茶を注ぐ。花びらが浮かんだ桃色の茶を啜れば、りりの青い瞳にきらりと星がきらめいた。
「わ、かわいいだけじゃなくってお味もおいしいっ」
「ほんとうだね。お土産用に販売してないのかな? 家族にも送ってあげたい!」
「そうですね。わたしもおみやげにしたいですっ」
こんなにきれいでおいしいものを、ここだけにしておくのは勿体なくて。せっかくだからと店員さんにお願いしてみれば、明るい二つ返事で購入が叶った。
お土産用の手提げ袋を傍らに、お次はメインのお食事だ。春餅と共に並んだ小皿には肉味噌や甘辛く焼いた豚肉の他、瑞々しい葉物野菜がふんだんにテーブルを彩る。
「どれもおいしそうっ。なにをいれようかな……」
悩みながらも豚肉とスプラウトを生地に挟んで、ぱくりと一口頬張れば、りりの口の中にジューシーな肉汁とほろ苦くもさっぱりとした春の味が広がる。
「おいしい……っ」
「よかったね、りりちゃん」
少女の表情が本当に幸せそうに弛むのを見ながら、ツィリもカップを置き、自分の分の湯圓をぱくりと口に入れる。もちもちの食感を楽しめば、後からじんわり溢れてくる桜餡は甘じょっぱくて飽きが来ない上品なお味。もう一つの桜カステラは桜餡を練り込んでいるらしく、淡い黄色の生地と桜ピンクのマーブル模様がなんとも愛らしい。桜の塩漬けをちょこんと乗せた生クリームをたっぷり乗せて一口頬張れば、しっかりとした甘みの中にふんわりと桜が香った。ふわふわな生地は空気を食べているのではないかと思う程の軽さだ。
「もちもちもふわしゅわも美味しい……」
「……やっぱりあまいものもたのんでいいですかっ」
目の前でそんな風にツィリがじんわりと呟くのだから、りりの食欲がまた膨らんでしまうのも仕方がないこと。その気持ちはツィリもよくわかったから、うんうんと頷いた。
「頼もう、りりちゃん。私も次はおかずを食べたい!」
「はい、そうしますっ。……すみません、杏仁豆腐を追加でください!」
こんなに美味しいものがいっぱいあって、綺麗な花がたくさん咲いているのだから、ちょっとの贅沢もしかたがないこと。少女達は再び食欲を咲かせながら、広がる春を視界からお腹から、たくさん己の中に満たしていくのだった。
「この世界は随分物騒だって聞くけど……」
小明見・結(もう一度その手を掴むまで・h00177)は花に覆われた天蓋を見上げる。鈍色の建物が高く視界を覆っている筈のこの世界だが、ここだけは華やかな色をしていた。全7層から成る積層都市で、V層は上の方だ。争いや剣呑さとは程遠いこの景色は、その高さが故なのだろうか。
「どこでもこの光景が見られるわけではないのよね、きっと」
今もどこかで辛い思いをしているのかもしれない誰かを憂いながらも、結は気を取り直して目の前の風景と向き合う。絢爛に咲き誇る花々を愛でないというのも、きっと花たちに失礼だから。
「湯圓……本で見たことはあるけれど、食べたことはないわね」
元の世界でも最近は見ることが増えた異国の料理だが、一体どんな味だろう。せっかくの機会ということもあり、名物らしい工芸茶と共に注文をする。
やがて運ばれてきた湯圓は一見お湯に入ったただの大きめな白玉で、結は首を傾げながらもつるりとひとつを匙で掬った。
「……あ、桜の味ね。おいしい」
口の中に広がるのは、少女でも馴染みある花の味。上品な味わいを楽しみつつ、一緒にやってきた工芸茶にもお湯を注ぐ。
頑なな茶葉の球からやがて咲くのは、これも同じく桜の花。綻び、ぽんぽんと茶器の中を咲き初める桜の花に、少女の表情も綻んだ。
「素敵ね」
甘くなった口の中を爽やかな茶の味わいで洗い流しながら、ふと視界中に広がる花々を見上げる。
──この特別な場所がずっと続けばいいのに。
いつかそう願った誰かと同じ様に、少女もまたそんな思いを抱きながら、花を眺めていた。
「仕事の前にゆっくり花見ってのも悪くないよねぇ」
篭宮・咲或(Digitalis・h09298)はそう呟きながら、とろりと甘やかな蜜色の瞳で花を仰ぐ。花曇りの空を染める花々は、曇天の下だというのに鮮やかで、光に透ける花弁は噂通りの美しさだった。
「花を見る時は晴天か夜に限ると思ってたけど──これも案外悪くないかも」
少し認識を改めてもいいのかもしれない、なんて思いながら、華やかに咲く桜の木の下に腰を下ろす。小高い丘になっているここからは視界中に淡い春のグラデーションを眺めることが出来た。
「こんな機会、滅多にないしね~」
シートの上にどんと置かれたのはこの辺りで評判らしい果実を使った白酒に肴の軽食たち。器にとくとくと酒を注げば、漬け込んでいるらしい杏の上品な香りがふわりと香った。
「じゃー、カンパイ?」
桜の木に杯を掲げ、ひと息に煽ればすっきりとした味わいの中に喉を焼く熱と爽やかな果実の酸味を感じた。その味わいに機嫌よく春餅を頬張れば、たっぷりと乗せた肉味噌の甘辛さが酒を進ませてくれる。
「この肉味噌ウマ~。あとで追加買ってこなくちゃ」
ふと視線を寄越せば、隣でじっと視線を青年の手元に注ぐ使い魔の姿が目に入った。くすりと笑うと、もう1枚の餅を差し出す。きらきらと期待に輝く瞳に、ゆるりと微笑み頷いた。
「はい、どーぞ」
許可を皮切りにがつがつという効果音が似合いそうな勢いで食べ出した使い魔を見て、更に咲或の表情が緩む。
「あめちゃーん、ゆっくり食べなよ~」
そんな声は聞こえているのか否か。止まらない使い魔の食欲に、笑いが隠せなかった。
「いやあ、雅、雅だねぇ」
空っぽになった皿を置き、すやすやと幸せそうな表情で眠るわたあめを眺めながら咲或はゆったりと酒を煽る。すぴすぴと寝息を立てている様はまるで幼子のようだ。のんびりと流れる時間を思いながら瞳に映した景色をただ愛でるひとときは、何とも心地が良い。
「──あ」
ひらひらと落ちる花びらが不意に杯を彩る。これもまた優美なものだと、咲或は瞳を細めた。
花曇りの元に咲く花々は、だというのにいっそう鮮やかで、白い光に透ける花びらはそよ風に揺れながらあえかな春のグラデーションを形作る。馴染み深い桜だけでなく、桃などの多様な花が作り上げる春の空に、咲樂・祝光(曙光・h07945)は感慨深く息を零した。
「見事だな」
「祝光! ハッピーお花見イースター!」
そんな祝光の隣で、エオストレ・イースター(桜のソワレ・h00475)はパッと表情を輝かせると、おもむろに両手を広げた。途端、彼の周りで桜はより色を増し、どこからかぴょんぴょんとパステルカラーの子ウサギが跳ねまわり、祝光に向かって飛び込んでくる。
「ちょっ、周りをイースターにするなよ!」
「いやいやご覧よ祝光。花曇りの空にイースターバードだって舞飛ぶぞ!」
エオストレが示した頭上では応えるように同じくパステルカラーの小鳥がぽとりと桜の花びらを落とした。なんとも陽気な様子に祝光は呆れて肩を竦める。
「まあ、ハッピーイースターと言いたくなる気持ちもわかるけどさ……」
「ほら、イースターだろう!」
「いや、イースターじゃないから」
けれどそれも彼がこの春を十分に喜んでいる証だから強くは言えない。落っこちてきた花弁を掬い、両腕に抱いた子ウサギの頭を軽く撫ぜてやる祝光の隣で、エオストレは深く息を吸い込み、春の匂いを胸いっぱいに取り入れて笑みを咲かせた。
「本当にいい香りだね〜。でも一番いい香りなのは祝光だけど!」
「……ん?」
しれっとすごいことを言われた気がする。首を傾げた祝光の様子を知ってか知らずか、エオストレは弾むような勢いで辺りを駆け回り春もといイースターを振りまいていた。愉快な祝福に、周りの客たちも笑みを咲かせている。
「ふうっ、いいね! 僕お花見大好き!」
「俺も花見は好きだよ。……あの、それはどうも」
「ハッピーイースター!」
元気よく笑うエオストレは一体何を考えているのやら。祝光は肩を竦めた。少なくともこの騒がしい幼馴染のため、静かな茶寮ではなくこのお花見会場を選んだことは、間違いではなかったらしい。
まさしく春のウサギのように騒がしいエオストレをなんとか引き込みながら、会場の中でもひと際賑やかな場所にシートを敷いて、二人の花の宴は準備万端だ。鮮やかなピンク色が愛らしい桜ソーダは、まだお酒が飲めない二人の祝杯代わり。
「祝光、乾杯イースター!」
「乾杯。零さないようにな」
「もっちろん!」
弾ける泡の喉越しを楽しんだ後で、祝光が取り出したのはガラスのポットだ。固く結ばれた深緑の草の塊を見て、あまりイースターではなさそうな様子にエオストレはきょとんと首を傾げる。
「これなあに?」
「これ? 桜の工芸茶だ」
「工芸茶?」
「うん。噂を聞いたから、飲んでみたかったんだ」
不思議そうに瞬くエオストレの鼻先で、祝光が水筒に汲んでおいたお湯を注ぐ。
じわじわと薄桃色に色付いていく白湯の中で、綻んだ茶葉からぽんぽんと不意に桜の花がいくつも飛び出してくる。突然の変化に、エオストレが歓声を上げた。
「お花が咲いた! イースターだね!」
「エオストレも飲む? 乾杯は優しくね」
「うん! 2度目の乾杯ー!」
今度は丁寧に、ガラスが鳴かない程度に杯を交わし、爽やかな春の匂いを茶と共に味わう。
「そうだ。僕は杏仁豆腐とお花見団子に、湯圓を持ってきた!」
「用意がいいな。俺は桜あんみつと胡麻団子と桜餅を持ってきた」
お互いに集めてきた春スイーツを広げていけば、あっという間にシートの上は美味しそうなもので溢れんばかりだ。中でも見つけた桜餅を指さして、エオストレはあっと声を上げる。
「祝光のそれは桜餅? 君は桜餅好きだもんね!」
「よく覚えてたな」
言いながら好物の桜餅を手に取れば、口の中に広がる桜味に祝光の表情も和らぐ。
「ねーそっちも頂戴!」
「うん、いいよ。そっちの杏仁豆腐と交換こだ」
二人で分け合えば、山盛りの春スイーツだってあっという間にお腹の中だ。話に花を咲かせている内に、不意に風が二人の間を吹き抜けていく。おやと髪を抑え、ふとエオストレが祝光を見やれば、艶やかな髪の上にちょこんと乗った桜の花びらが目に映る。
「……あ、」
「ん?」
「へへ、なんでもなーい」
きょとんと首をかしげる祝光も可愛らしい。幼馴染の油断した姿にくすりと笑うと、エオストレは元気よく首を横に振って団子を頬張った。
「なんだよニヤニヤして。変なやつ」
エオストレが再び口を動かし始めたのを見て、祝光も呆れつつも団子を手に取った。
彼が真相に気付く前はもう少し、このまま穏やかな春の祭りを楽しめることだろう。
「えーいっ!!!」
明るい声と共に、ラナ・ラングドシャ(猫舌甘味・h02157)はパステルカラーの色彩に飛び込んだ。大柄な体をやわらかく受け止めて、原っぱは深い緑と花の匂いに溢れている。まるで自然に戻ったかのような心地に、ラナは桃色の瞳をゆるめて笑った。
そんな彼女の突然の行動に、驚いてしまったのは一瞬のこと。セレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)は白い髪を揺らしながらそっとラナの隣までやってくると、ふわりと微笑みを浮かべる。
「ふふ……ベストポジション、ですね。気持ち良いですか……?」
「にゃは! うん、とってもきもちいい!」
そんな元気な声が言葉が返ってくるのだから、セレネの口許も更に綻んでしまうのは、仕方のないことだろう。携えていた敷物を広げていると、少女は本当に猫に戻っているかのように、ふわふわの髪に花や草やらが付くのも構わず、全身を原っぱに委ねて自由に転がり回っている。
「ボク、原っぱで寝転がるの大好きなんだよね……!」
「ふふ。伝わります、よ」
「それもさ、ここ上は桜、下は菜の花でべすとぽーしょん?だよ!!」
ラナの言葉に、セレネはふと顔を上げる。花曇りの白い空は無垢なキャンバスのよう。何ものにも染まることのなかったそこを、淡い桜色や朗らかな黄色の花々が自由に広がり色を染める。ただしく春の絶景と呼ぶべき光景だ。花に溢れる楽園は見慣れている筈だが、異世界だからだろうか。またどこか雰囲気が異なるのだと知って、セレネは不思議と胸を抑えていた。
「本当に、綺麗ですね」
そうして視線を降ろすと、無邪気に転がるラナの可愛らしさにふっと表情が綻んだ。
「ね、ラナさん…よければ膝枕、しましょうか?」
「──ひざまくら? セレネのお膝に頭を?」
きょとんと丸くなった瞳と目が合う。セレネはゆっくり頷いた。軽く膝を叩いて、少女を誘う。甘やかな問いかけの裏に、そのふわふわもふもふな髪の感触を楽しみたいなどという、ちょっとした下心は秘密だ。
「はい、こちらに頭をどうぞ」
「じゃあ、お邪魔するね?」
ぴょこぴょこと耳を動かしながら、ことんとラナは自身の頭を膝に置く。
「わ、これ、いいね……!」
セレネの膝の上は彼女の性格を表すかのように仄温かい。そこに春の風が吹いてきて、心地よさについ微睡んでしまいそうな程だ。自然と機嫌よく耳は動き、尻尾の先がさらさらと揺れた。
「ふふっ……よかったです」
猫も猫又も感情表現は同じなのだろうか。揺れる耳尻尾に触れてみたい衝動に駆られつつもセレネはふわふわと髪を撫でる。ゆったりと流れる時間の中──不意にラナがうーんと首を傾げた。
「あ、ラナさん。首が痛くなってしまいましたか……?」
「ううん、違うよっ。でもこれもすごく気持ちいいんだけど……えいっ!」
そんな掛け声と共に、どろんと音を立てれば、ラナはまるで焼き菓子の様な色合いの大きな猫の姿に変わる。
「わっ……! ね、猫さん姿……!」
目を丸くするセレネの前で、ラナはうんと身体を一度伸ばし、そのもふもふな肉球でふみふみと膝の感触を確かめる。そうしてくるりと丸々と、深く頷いた。
「うん、お膝の上はやっぱりこっちの姿の方が落ち着くなぁ……!」
「か、かわいい……」
それはもう猫そのもので。猫好きのセレネが、あまりの愛らしさにそれ以上の言葉を失くしてしまったのも仕方のないことだろう。ふるふると小さく感激で震えるセレネを見やり、ラナは自慢げに尻尾を揺らした。
「ふふーん! そうでしょ! こっちの姿、ボクも可愛いと思う!」
「はい、もう。普段も素敵ですが……それはもう」
こくこくと頷くセレネに、ラナも満足げだ。
「これならセレネのブランケット代わりにもなるし、ボクの毛、いっぱいもふもふ出来るよ!」
思ってもみなかったラナの提案に、セレネの瞳がきらりと光った。
「も、もふもふしていいんですか……?」
「もちろん! さっきからずーーっと触りたそうな視線もらってちゃあ、ね?」
「ほんとうに……? ありがとうございます……!」
「にゃふふ! お膝を借りる代わりにどうぞ~!」
ご機嫌よく喉を鳴らして目を瞑ったラナの背に、細い指先がそっと触れる。もふもふと柔らかい感触を確かめるように撫でれば、猫の毛並みはお日様の様にぽかぽかと温かく、花とも違う甘い焼き菓子の匂いが香った。膝から伝わる温もりはまるで贅沢なブランケットに包まれているかのようだ。セレネは喜びに満ちた心のまま、花の様な笑みを浮かべる。
「あったかくて、きもちいい……」
「それはよかった。やさーしく撫でてね!」
「はい……!」
ラナのご指示の通り、セレネは丁寧な手つきで身体を撫でていく。全身の毛並みを整えられながら、ラナも満足そうに尻尾の先を小さく丸めた。
今日は大好きなお日様が見えないけれど、それでも温かい。それはどこか懐かしい温もりだ。
──曇ってる時に見るお花もおともだちと一緒なら悪くないね♪
そう微笑んで、いつの間にか微睡んでしまうまで、暫しの憩いを二人で楽しむのだろう。
見上げれば淡い春の景色が視界いっぱいに広がっている。花吹雪が舞う中、この異世界へ降り立った九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)と香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は花が覆う天蓋を仰いだ。
「ガクト様とお花見へ赴けて嬉しいです。生憎の天気ですが……ああ良い香り」
「んー、そうだね。お花見はいつ来ても良いものだよね」
甘く香る花々に微笑む様はまるで無垢な少女の様だ。ガクトはゆったりと頷くと、心地よさそうに息を吸い込んだ鳰をひとつひとつの花々の前まで導く。
「こっちは桜で、こっちは桃の花」
「ええ、ええ」
「後は……牡丹や菜の花も咲いている。珍しいね」
「多くの花が咲いているようですね。どれも可愛らしいこと!」
燻る景色の中では、香りだけでは色彩の微妙な違いまでは掴めない。それでも女には十分な筈で、けれど手づから説明してくれる主の心遣いがただ嬉しい。鳰はまた微笑んだ。
「良い匂いかい?」
「ええ、とても」
頷く鳰を見て、ガクトは木々へと視線を向けた。溢れる色彩はまるで花束の様だ。
「私はどうにも、こう一緒に居ると混じって匂いが分からなくなるが……きっと鳰は他の人より匂いが敏感そうだね」
「ええ、生き物とは不思議なもので。目が頼りない分、他の何かで補おうとするのでしょう」
女の花曇りの紫色が景色を映す。あの日形を変えた視界は、失うだけでなく彩を変えた。それでもこうして隣で寄り添い、同じ景色を分かち合おうとしてくれる人がいるのは、きっと誰より幸福なことだった。
「ふふ! 早速花見の席の確保と参りましょうか。ガクト様は敷物と茶寮と、どちらになさいますか?」
女の表情を見て、ガクトも口許をゆるりと笑みの形に変える。
「んー、せっかくだから敷物を引いて座ってみようか」
「承知いたしました。こんな事もあろうかと敷物の用意もここに」
さっと目つきを真摯なものに変え、悪戯っぽく唇に笑みを浮かべてみせる完璧な従者ぶりに、主はうむうむと頷いてみせた。
「流石、準備が良いね」
「ふふ、従者としては当然のことです。……あの見事な花木、あれは桜ですか?」
女の白い指先が、一段と大きな木を指す。ガクトは頷いた。
「そうだね。立派な桜だ」
「ガクト様、この木の側は如何でしょう」
「ああ、勿論」
ささっと手早く敷物を広げて花見の席を確保した後は、次はいよいよ花見のお供選びだ。屋台のある通りへ赴く鳰の足取りは軽く、曇った瞳も常より光るようだ。ガクトは女の歩みの後ろをゆっくりと追う。こうして楽し気に揺れる緑の尾を見ているだけでもこの花見に来た甲斐があるというものだ。
「ガクト様、こちらの春餅には健康のご利益があるそうですよ」
「健康なご利益……んー、健康食品に凝ってるね」
酒の肴には確かに良さそうだが、心なしか他の店の物より野菜の比重が高い気がする。逐一身体のことまで気にしてくれるありがたい従者のお言葉に、ガクトは僅かに苦笑を浮かべた。
「私のモノだけじゃ無く鳰が食べたい物もちゃんと選ぶんだよ」
「ですが、主の健康維持は従者の務めですから」
おっとりと微笑んでみせるが、鳰の声色は頑なだ。
「それに、誰かの為に選ぶのは楽しいものですよ」
「……そうか」
──ほっとくと自分よりも私を優先してしまうから困ったモノだ。内心溜め息を吐くガクトを知ってか知らずか、鳰は春餅を手に取りながらくすくすと笑う。
「後は杏仁豆腐と和酒と……工芸茶もですね!」
主の好きな酒だけでなく、せっかくなら名物の工芸茶も手に入れておきたい。目に見えない鳰では十分に楽しむことは出来ないかもしれないが、茶屋処を営む主ならきっと、関心を寄せてくれるだろうから。
張り切る鳰は結局自身より主人を優先しているような気がするが、これ以上水を差すのも野暮と言うものだ。ガクトは小さく肩を竦めた。
「ちゃんと食べ切れる分にしておくんだよ」
「ええ、もちろん!」
そうして両手にたっぷりと花見のお供を携えて、再び敷物の方へ戻る。先ずは乾杯からだと、借りてきた硝子の器に茶葉の塊を入れてお湯を注いだ。
「お待たせ致しました。どうぞお召し上がりくださいませ」
「うん、ありがとう」
熱い湯に絆されて、茶葉はゆるやかに綻んでいく。やがてふわりと顔を出した花弁の先から、真っ白い花が茶器の中で満開の春を見せた。見事な様子に、ガクトはほうと息を吐く。
「ほら、今花が咲いたよ?」
「まあ。それは見事なものなのでしょうね」
実像として捉えられないのなら、せめて触って確かめさせたいが、せっかくの美しい指が火傷で損なわれてはいけない。ガクトは器に茶を注ぐと、鳰へと差し出す。
「どうぞ。ゆっくり飲んでね」
「ありがとうございます、ガクト様」
指先から伝わる温もりに、鳰は表情を緩める。爽やかな茶葉の香りに混じる甘い花の気配に、女はふんわりと微笑んだ。
「……まあ、お茶の香りも咲いたよう」
「んー、本当だ。微かに花の香りがするね」
杯を交わした後は、肴を手に取っていく。にこにこと微笑みながら舌鼓を打つ主の姿は、見ているだけで心臓の底から温かな気持ちが湧いてくるようだ。主が寛げる時間と場を用意できたというだけで、従者としては誇らしい気持ちになるものだ。
「んー? どうしたかい?」
「……ふふ、いいえ。よいお花見ですね」
小さく首をかしげるガクトに、鳰はふるふると首を横に振った。
「楽しいですか、ガクト様」
「私かい? 私も楽しいよ」
視線を流せば、桜の花びらが舞う中で微笑む鳰が目に映る。
「君とゆっくりするこの時間も面白いからね」
そう囁いて、ガクトは盃に唇を付けた。
「巳理さん、ここにしよう!」
朗らかな声が花曇りの空に響く。その声に少しの翳りもなく、年頃より幾分かいとけないかんばせはいつもに増して無邪気なものだ。泉・海瑠(妖精丘の狂犬・h02485)は持ってきたレジャーシートを意気揚々と広げて手を振った。
「ああ、ありがとう。海瑠くん」
「どういたしまして!」
満面の笑みに軽く礼を述べ、黛・巳理(深潭・h02486)はゆるやかに花々へ視線を移す。梨の花は花曇りの空の下でいっそう純粋な白彩に染まり、身近では芍薬の艶やかな色が視界を覆う。ひとつの織物のように、花々が織りなす幻想的な景色を眺め、男は無意識に小さなため息を零していた。
「海瑠くん、ここは美しいな」
「うん、本当綺麗だね。春ってやっぱり良いなぁ」
長閑な風景は時間がいつもに増してゆっくりと流れている様で、つい微睡んでしまうのも仕方ないことだろう。木に凭れ掛かって眠たげに瞬いた巳理に微笑み、海瑠は深く息を吸い込んだ。甘い春の匂いが胸いっぱいに満ちるような心地がする。
「暖かいし長閑だし、花も咲いて華やかだし……あ、巳理さんちょっと待っててね!」
そのまま一緒にお昼寝してしまうのもきっとよかったけれど、今日の目的はお花見にお食事だ。海瑠はパッと立ち上がると、そのまま巳理の首肯を見たか否かという速さで駆け出して行ってしまう。巳理は小さく笑うとそのまま軽く目を瞑った。本格的に夢の中に意識が沈む前に、彼はすぐに自分の下へ戻ってくるだろうということを、男はよく知っていた。
「おまたせー」
「ああ、おかえりなさい」
「美味しそうなものをたくさん買ってきたよ。もちろん、お酒も!」
ほら、このように。巳理が瞳を開くと、両手いっぱいの袋に輝かんばかりの笑顔と目が合う。
「……君はいつ見ても何かを選ぶのがうまい。おかげでいつも僕は美味しい思いをさせてもらってばかりだよ」
「えへへ……そうかな?」
丹精なかんばせに浮かぶ薄い笑みの美しさも、まっすぐに伝えてくれる褒め言葉も何だか気恥ずかしい。はにかみながら、海瑠は袋の中身をレジャーシートの上に広げていく。酒や工芸茶の他、桜餡が詰まっているという淡い桜色のスープに入った湯圓にまだ温もりを残している点心の数々。瑞々しい緑が鮮やかな春野菜や肉味噌をたっぷり挟んだ春餅と、あっという間に宴会の準備が整った。
「巳理さんが好きそうかなーっていうのを選んでみたよ」
「どれも美味しそうだ。どれから選ぶか迷ってしまうな」
「じゃあ……ささ、巳理さん! これは絶対食べて!」
迷う男の手に、ずずいと海瑠が差し出したのは春餅だ。どれも美味しそうではあるが、特段勧められる理由も分からず、きょとんと不思議そうな視線を向ける巳理に、海瑠は朗らかな笑顔を返す。
「食べるとこの先も健康に過ごせるんだって。巳理さんには心身ともにいつまでも健やかにいてほしいからね!」
「……成る程、長生きか」
軽く礼を述べ、期待の眼差しを受けながら、巳理はぱくりと春餅を頬張る。ほの温かい生地の食感と共に、春野菜の苦味と甘みに肉味噌の濃い味付けが程よく混ざり合って調和を生む。香しい調味料が生み出す独特の匂いが鼻腔を僅かにくすぐって、ほうと感心の息を吐いた。
「……ふむ、こういう専門的なというか、本格的な中華料理はあまり食べたことがなかったな」
「美味しい? よかった!」
ぱっと表情を輝かせる海瑠はいかにも大型犬の様だ。巳理は穏やかに微笑む。
「オーソドックスな日本式の中華も美味しいが、また違った風味があるな。……そういえば、海瑠くんは最近よく聞く麻辣湯や、専門店も多いという麻婆豆腐の店は好きかい?」
「うん、麻婆豆腐も好きだよ。巳理さん、詳しいね?」
何でも卒なくこなしがちなこの人がひとつの物事に拘るのは少し珍しい気がして、海瑠は首をかしげる。何気ない問いかけに、巳理は「あぁ、いや」と軽く手を振った。
「以前来ていた子達が連絡をしてきただろう? その時言っていたんだ。いよいよ院の近くにその手の店が出来るらしい」
「へー! それなら、昼休憩のときに食べに行けそうだね」
「ああ、機会があれば行ってみよう」
「うん、楽しみ!」
明るい肯定に笑みを返して、巳理は唐突にもう一つの春餅を海瑠へ差し出す。瞬く海瑠の反応がどこか可愛らしく、巳理はくすりと笑みを浮かべた。
「海瑠くん、君も春餅……食べるだろう? 長生きも健康も、存外一人では面白くない」
誘う言葉を投げかける男のかんばせにはどこか目を離し難い艶やかさがあって、見ているだけで心臓の底がとくんと疼く。細い指先が差し出すそれはどこか、受け取ってしまえばもう戻れないような気がした。
「――へ!? あ、う、うん…たっ、食べるよ!」
それとも彼にはとっくにお見通しだというのだろうか。少しでも長く一緒に居たくて、願掛けとして食べてもらったのだという、拙くも真っ直ぐなこの心が。
「ああ。僕に春餅を食べさせた責任は、君にとってもらわねば」
「せ、責任!?!?」
重い2文字に今度こそ海瑠は顔を真っ赤に染めた。どこか楽し気な視線を感じながら、青年は差し出された願いを受け取る。
「えと、オ…オレで良ければ……」
ぱくりと勢いで齧り付いた春野菜の瑞々しい苦味が今は有難い。
「美味しい……」
じんわりと広がる旨味に思わずそんな感想が零れた。未だ一挙一動を見守られているのを感じながらも、海瑠の心は忙しい。
(巳理さんと出逢う前までは長生きとか気にしたことなかったなぁ)
(大好きな人がいると、どんどん欲深くなって困る…)
良いことなのか、悪いことなのか。分からないけれど、どうしようもなくこの人のために心が揺れ動いて仕方がない。そしてそんな心の動きのままに表情がころころと変わりゆく海瑠を見つめて、巳理は表情を緩めた。
「ほら、海瑠くん、この点心も中々美味しそうだ。エビが丸ごと1匹入っているらしい」
「あ、うん! そっちも食べる!」
割けば熱々のスープが溢れてくる点心を頬張れば、自然と笑顔に戻っていく。大好きな人のことなら、結局なんでも幸せにつながってしまうのは、きっと良いことに違いない。
最後のデザートには工芸茶を添えて。硝子のティーポットの中で綻ぶ花というのは二人にとっても目新しいもの。期待と共に注がれる視線の中、花はゆっくりと温められ、ふとした瞬間に茶の中に満開の春を咲かせる。季節の移り変わりをそのまま閉じ込めたような不思議な光景を前にして、海瑠は堪らず歓声を上げた。
「見て見て、巳理さん! 凄いよ、花が咲いた!」
「あぁ、綺麗だ」
「ね。なんか可愛──っ!?」
花開くまでの時間さえ美しいとはこういうことだろうか。感慨深く水面に視線を注ぐ巳理の方へと、何気なく視線を寄越した海瑠は、そのまま固まった。
(巳理さんの笑顔が甘っっっ!!!! 心臓に悪い……!!)
射貫かれたように高鳴った心臓を抑え、僅かに蹲る。
「海瑠くん? どうかしたのか?」
「いっ、いや!! なんでも!! 何でもないからね!!」
首をかしげる巳理にぶんぶんと首を横に振る。
「そうか? 春の陽気だからってあまり燥ぎすぎるなよ。そうやって小さいころ転んだりしていただろう」
「も、もちろん大丈夫だよもう小さくないんだから! オレお茶注ぐね!」
まだ巳理さんが無自覚で良かった、と深く息を吐く。だってきっとあんな笑みを真正面から受け止めていたら、花なんてそれどころじゃなかっただろうから。
(どきどきしちゃって味どころじゃない……)
しかしそれもまた、大好きな人を想う最高の味であることは、間違いなかった。
第2章 集団戦 『玩偶服団』
甘い土の匂いがして、見上げてみればさあさあと囁くような雨が降っていた。
火照った頬を冷やすには丁度良い雨だ。
青年は堪えていた息を吐き出し、辺りを慎重にうかがった。懐の感触を確かめる。細く固い芯の感触。たしかに、奪い取った"希望"は此処に在った。
花宴の歓声は程遠く、暗い空から降る雨で視界は煙る。
けれどすべて、青年にとっては都合がよかった。
こうして闇に紛れてしまえば、追手も来ないだろう。
──こうして簡単に奪えてしまえる"希望"なら、最初から。
青年はキッと前方の闇を睨み、再び下層へと駆け出す。
しかし、青年の見立ては甘かった。
運命は、或いはこの都市の上層を担う意志はそう簡単に革命なぞ許さない。
青年の背後には、既に数多の影が迫っていた。
見た目に騙されてはならない。
彼らもまた、武侠主義をうたうこの積層都市で、生き抜いてきているのだから。