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⚡黄昏小路
●Accident
「ああ、良かった……来てくださったのですね」
駆け付けた者たちを見て物部・真宵(憂宵・h02423)はひどく安心したように胸を撫で下ろした。机上に散らばった資料は星詠みの焦燥を如実に示しているように思われ、事の重大さに緊迫感が伝染する。
「女性の情念に引き寄せられるようにして現れる古妖『紅涙』については、もうご存じかと思いますが、彼女が有する並外れた恨みの力が『|紅涙流離軍《こうるいりゅうりぐん》』を結成するに至ってしまったのです」
女性の嘆きさえあれば、どんな√にも飛べてしまう紅涙の√能力を利用すれば、ありとあらゆる√への侵略が可能となってしまう。そのような悪しき企みを放置できるはずがない。
「危機的な状況には違いありません。ですが、ここは√妖怪百鬼夜行。人間を愛することを知った妖怪たちは団結し、群れ集い|百鬼夜行《デモクラシィ》となりて古妖たちを退けて封印してきた歴史があるのです」
善狐と人間が結ばれ産まれたという真宵は「大丈夫」力強く頷いた。
「夜行の住民たちはきっと力を貸してくれます。再び|百鬼夜行《デモクラシィ》を起こすことが出来れば、紅涙流離軍の侵略を阻止することも夢ではないのです」
ただ、懸念がひとつ。
集結しつつある紅涙流離軍の影響なのか、どうやら夜行のあちらこちらでは異常な事件や不思議現象が発生しているのが確認されており、皆が現場に到着する矢庭にそれに巻き込まれてしまうことが分かっている。
「ちいさな自分に出会うようです」
黄昏時。
町並みの|涯《は》てに引っかかった西日が石畳に影法師を伸ばしている。建物に明かりが灯っていても人の気配はなく、ぬるい風が通りの暗がりに蟠る不気味な静けさのなか。
ぽつんとちいさな自分が佇んでいる。
「幼い自分がどのような表情を浮かべていて、どんな言葉をかけてくるのか……それはきっと、皆さんがよくご存じだと思います」
人によっては過去のトラウマを掻き立ててしまうかもしれない。けれど、過去との決別も出来るかもしれない。幻とはいえ幼い自分に出会うなど本来ならば不可能なこと。
「かけてあげたい言葉など、ありませんか? あるいは……誰かに言ってほしかった言葉を、ご自身で伝えても良いかもしれません」
そう進言する真宵の表情はやさしかった。
幼い自分が抱える恐れを払拭してあげたり、今はこんなにも元気なのだと胸を張ってみたり。大切なひとが出来たのだと、教えてあげたり。
「心を惑わせてくる幻ですので、触れることは叶わないでしょう。黄昏の邂逅をどう過ごすのか、それは皆さんにおまかせします」
そうして一呼吸した真宵は散らばった資料を搔き集めると、皆によく見えるように差し出し、赤いペンで作戦名をぐるりと囲う。
「作戦についてご説明します」
其の一『紅涙の撃破』
玉川上水に身投げした者だけが死後辿り着ける『雨濁りの藤の屋敷』に侵入して、屋敷にひとり佇み儀式を執り行う紅涙と直接対決。
其の二『紅涙流離軍の壊滅』
√妖怪百鬼夜行のJR荻窪駅を中心に展開した『紅涙流離軍』と正面から戦う。様々な√から軍勢が集結しており、その内どれかひとつの√の大隊を撃破。
其の三『ハーモニカ横丁の探索』
√妖怪百鬼夜行の吉祥寺「ハーモニカ横丁」は奇妙建築によって狭い通路に無数の食事処が詰め込まれた迷宮と化しており、食べまくり飲みまくればより深層の店に辿り着くことができる。最深部にはかつて百鬼夜行を先導した妖怪大将達が酔い潰れているので、叩き起こして再び働いてもらう。
其の四『土地神の救出』
紅涙流離軍は、流離軍を倒すべく集まった東京の土地神達とその「つがい」達を罠にかけ、東京のへそと呼ばれる大宮八幡宮の地下深くに飲み込んだ。巨大な奇妙建築と化した大宮八幡宮を攻略し、土地神とつがいを救出する。
其の五『文車古妖との対話』
中野ブロードウェイをひとりで占拠し、現代の書物や映像を漁る、名を持たぬ『文車古妖』と対話。彼はその出自故に「創作物の悪役のような悪事」を働かなければならないが、できれば人死にの出る悪事は避けたいと考えているようだ。この作戦を選んだ場合は、現代の創作物に存在する『他人を心から不愉快にするのに余り人が死なない悪事』を、彼と一緒に考える事になるだろう。
ふぅ、と小さく吐息した真宵はペンのキャップをしめながら皆を見渡した。
「一気に情報を詰め込まれてたいへんですよね」
微苦笑を携えた気遣う微笑みに少し肩の力が抜けてゆく。
「作戦はどれも大切なものですが、皆さんの心のままに選んで頂いてかまいませんよ」
ちなみに、と問われた真宵は瞠目したのち、頬に手のひらを宛がうと資料に再び視線を落とす。
「納得させることさえできれば古妖の有害性を大きく減じさせられますので、文車古妖との対話は望ましいですね。……けれど、捕らわれた土地神さまとそのつがいたちも救ってあげたいです。私欲を捨てて、つがいと共に歩む道を選んだ土地神さまのこころを、そしてふたりの平和を取り戻してあげたいと……そう、わたしは思います」
夏宵の色を宿した瞳はやさしさに満ちている。
「あくまでもわたしは、ですよ」
参考までに。と、微笑み、それから表情を引き締めた星詠みは深く頭を下げた。
「どうか皆さんのお力を、お貸しください」
これまでのお話
第1章 冒険 『ちいさなじぶん』
夜から|遁《のが》れるように|涯《は》てに沈む夕陽が、落とした影を濃く引き摺ってゆく。細く伸びた影法師をまるで縋るように踏んだ子どもがひとり、夕闇のなか虚ろに佇んでいた。
裕福そうな身なりをしているのに、覗く膚は血が滲む包帯やガーゼが当てられており痛々しく、およそふくふくと育てられた子どもとは思えない虚無を顔に貼り付けている。眼窩に嵌る眼球もまた光を透かさず濁っていた。
虚ろな表情、虚ろな瞳。
まるで違うのに、無を背負ったその子どもはシスティア・エレノイア (幻月・h10223)なのだと直感してしまったクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、締め付けられるような胸の痛みに唇を引き結ぶ。
――つらい。
幼少期の話は知っていた。だからこそ、彼の語った昔日がまるでそのまま抜け出てきたかのような姿を突き付けられれば呼気が浅くなる。
『御当主様、奥様、御目汚し失礼致しました。申し訳ございません』
物言わず、近付きもせず、己をじぃっと見つめるふたりの視線をどう誤認したか、子どもは深く頭を垂れた。
当時を客観的に寄越されてシスティアは唇を開いては閉じ、言葉を探しては飲み込んでを繰り返す。かけてあげたい言葉はたくさんある、そのはずなのに。きっと届かないのだろうと分ってしまうのだ。だってこの子は、自分だから。
『奥様、お願いです。どうか嬲らず、|殺《許》していただけませんか?』
傍らでちいさく息を呑む音を聞いた。
ぎこちない、その下手くそな笑みを張り付けた唇は微かに震えていた。
悲しさで胸を詰まらせながら、そうとは悟られぬようなるべくやさしい笑みを意識してクラウスは子どもの前にそっと膝を突く。目線を等しくされて驚いたか、子どもの肩がちいさく跳ねた。
「……俺は、痛いことも怖いこともしないよ」
触れてしまえば、この子は消える。
抱きしめてやりたいのに。頭を撫でてあげたいのに。それが出来ないことがひどくもどかしくて、悔しい。
自身の膝を抱くクラウスのは指先は、きつく握りしめられていた。システィアはたったそれだけのことがうれしくて、いちど隠すように吐息して傍らに寄り添いしゃがむ。
「今は辛くても、未来の君は笑っているから……諦めないで」
慰めは時にこころを傷付ける。気安めにもならないかもしれない。それでもこの子に言葉を届けないなどという選択肢を、クラウスは選ばなかった。たとえ幻であったとしても、伝えたいことがたくさんある。
「……いずれお前は、」
虚ろが己を覗く。
ああ、かつての自分はこのような目をしていたのか。世界を何も映さず、狭い箱庭だけを見てきた虚無の硝子玉。
「魔女に生きたいと願うよ」
『……ま、じょ?』
肯く。
「それでさ、愛し合う人が出来るんだ。もうそんな顔を浮かべる機会も無いくらいに、毎日が幸せであたたかくて」
言いながら、泣きそうになる。
「クラウスは、俺が憧れて諦めたもの……全部くれるんだ」
くしゃりと顔を歪ませて、それでも笑うシスティアはたいせつなひとを紹介するように視線で傍らを促す。あたたかな彼は心臓の欠片ととろけあい混じり合うと青い瞳を柔和に細くして「ほら」微笑んだ。頭上には、見慣れた灰色の耳がぴょこりと立っている。
手を握り、姿が解ける間に伝えると。
『――クラウス』
子どもはつたなくその名を呼んで、夕闇に紛れるようにするりと消えていった。
消える瞬間から目を逸らさず、最後まで見届けたクラウスは、項垂れて堰を切ったように声を押し殺して泣く大きな身体を抱きしめる。
「生きたいと願ってくれて、ありがとう」
微笑みを携えた言葉に、孤独だったはずの男は何度も、何度も頷いた。
縋るように、確かめるように、あるいは互いの熱を分けるように、ふたりはきつく手を握り締めていた。いつまでも。
その子どもは夜が始まる東の空を見ていた。
だから夕陽を背にした鳴宮・響希(白狗剣士・h00528)には、その表情を窺い知ることは出来ないはずなのに、|彼《・》が今どんな気持ちで、どんな眼差しで夜を見上げているのかよく解る。解って、しまう。
――七歳のときのぼくだ。
響希は七つの頃『事故』に遭った。界を渡った先での惨劇は響希の記憶を真っ白に塗り潰してしまったので、今もなお家族だったはずの人たちの顔を、過ごしたはずの記憶を思い出すことが出来ずにいる。
――こわくて、たまらなかった。
なにもかも。この世の全て敵なのではないか、やさしさの裏に獰猛な性根が隠れているのではないか。包帯だらけの子どもは養子として引き取ってくれた夫婦すら、信じることができなかった。
――懐かしいな。
包帯だらけのちいさな背中を見て、いまの響希は純粋にそう思うことができた。
「ねえ、『ぼく』、聞いて」
背中がびくりと震える。恐々と振り返るその瞳は怯えに濡れていた。
「もう少ししたら、家族になろうって言ってくれる人が来るよ。僕を本当の子のように接してくれる。普通の家と同じように学校に行かせてくれたんだ」
そっとしゃがみ込み、かつての自分と見つめ合う。
「今、友達も憧れの人もできて、色んな世界を見れるようになってるよ」
やさしく包むような穏やかな声に、強張った肩が少しずつほどけていく。赤茶けた瞳が、そろりと響希の傍らに落ちた。
「今も……思い出そうとすると頭が痛くて苦しくなるけど、それでも……元気に、幸せに過ごしている」
響希は子どもが見ているものに気付いて目口を下げるように微笑むと、それまで黙って寄り添ってくれていた犬神の頭に手のひらを乗せる。白いふわふわの毛並みが、ゆるく撫でられるのをじっと子どもは見つめている。
「だから、泣かないで。僕は、ひとりじゃないから」
はらはらと眦から零れ落ちる透明な雫は、確かに石畳に落ちているのにそこに濡れた跡はない。犬神――シロはちゃかちゃか石畳を掻いて子どもに近付くと、涙で濡れた頬を舐めた。
唯一信じていたシロからの慰めに心がほどけたのか、ちいさな響希はふわりと霧散する。なにか言葉が聞こえたような気がするけれど、ぬるい風に攫われてしまい終ぞ分からない。
響希は昔日が佇んでいた場所を、しばらく見つめていた。隣にいてくれるあたたかな存在を感じながら。
「|小《ちっ》せェのいる」
夕間暮れの這う石畳の小路に子どもがひとり佇んでいる。
思わずと言った風に口をついた一文字・伽藍(Q・h01774)の声に、びくりと肩を跳ねさせて胡乱に寄こしてきた視線の黒色は今となっては新鮮だ。髪も今とは違って真逆なほどに昏い。
「え〜これ幾つン時のアタシ? 五歳くらい?」
きゃらきゃらと笑いながら近付いてくる伽藍を仰ぐ眼差しは多分に警戒を含んでいるけれど、硝子玉は光を|透《す》いていない。|クイックシルバー《ポルターガイスト》がくっつく前の自分とは、こんなに暗かったのか。もはや懐かしい。
「無表情どころの話じゃないわ、もはや陰鬱ゥ」
『――だれ?』
笑われていることが腹に据えかねたのか、あるいは正体を探る糸口を掴みたかったのか。くすんだふたつの硝子玉がじぃっと自分を見上げてくる眼差しに対し口端に笑みを乗せた伽藍は、目線を同じくするようにしゃがみ込み、膝に頬杖を突く。
「アタシ? ――伽藍ちゃんだよ」
紡がれた言葉に硝子玉が幽かに瞬いた。
「だから知ってるよ。その頃はね、お外出らんないくらい体よわよわだったもんね。楽しいこととかほとんどなかったし」
つまらなかったことを指折り数える伽藍のそれに身に覚えがあるのだろう。見開かれた子どもの瞳はちいさく震え、視線があっちへこっちへ走っている。
『……ほんと?』
伽藍は笑った。
そのちいさな身体で抱えていたもの全て吹き飛ばすような明るい笑みで、笑いかけてやった。ほう、と吐息が落ちる。
『……いまは? たのしい?』
「すっげェ楽しい!」
即答だった。
「学校行けるし、友達と色んなとこ遊びに行けるし。オシャレだって好き放題だもんね。最高」
美味しいものだって食べ放題。綺麗な景色だって自分の足で見に行けるし、かわいいもの、すてきなものだってたくさん出会ってきた。
「……いや、そんなむくれた顔されましても」
むぅ、と頬を膨らませた子どものジト目に伽藍は笑い声を忍ばせる。
『じまん、しないで』
「自慢も何も、アンタの未来がこの伽藍ちゃんなワケ。ほっぺた膨らますんじゃなくて、ニヤニヤしながら楽しみにしとけば良いんだよ」
思わず、その頬に触れそうになった人差し指を、寸前で握り込む。触れたらこの幻は消えてしまう。だから、その前に。
「だいじょぶだいじょぶ。十年なんてあっという間だから」
本当に、大丈夫だったよ。
今のアタシは、アンタが諦めなかった未来だから。
伽藍はやさしく頬っぺたをちょんとつつく。お別れは、やわらかかった。
――子どもらしい子どもではなかった。
すれ違うひとの顔すら分からぬ夕間暮れに在っても、這う闇に紛れさせたこの鋭い視線は、喉元を掻き切ってやりたいと思っていることが膚で感じ取れてしまうほどだ。生まれを思うと無理もない。
「我ながら生意気そうだ」
隠すことも出来ない下手くそな殺気を受けて、わずかに首を傾げて口端を歪めるように吐き捨てた。窖で育った唯の薄汚れたクソガキ。夜鷹・芥(stray・h00864)はかつての幼少期を、そう評した。
「在り方は今も変わっちゃいないが、お前は今の俺よりもっと孤独だったんだろう」
爪先を少し浮かせただけでもこちらに飛び掛かってきそうな、まるで手負いの獣のような子どもを興味深そうに眺めている銀月の如き男は、芥にもこのような過去があったのかと、胸の裡ではすこし感動にも似た驚きを覚えている。
「子供っぽくて可愛らしいじゃん」
生意気そうなのは否定しないけど。雨夜・氷月(壊月・h00493)は明るい口調で言った。あの眼差しは必死に生きている者が持つ目だと思った。同時に、孤独を抱えているとも。
こちらの行く手を遮るように立ちはだかった小さな気配から目を逸らさずに、けれど芥は胸に詰まったものを吐き出すように細く吐息した。
「案外、此の頃の方が必死に足掻いてたかもしれない」
「……今もちゃんと足掻いてると思うけど」
――俺よりずっと。
言外に匂わされた言葉に気付いたか、芥は満月の双眸を傍らに滑らせて宵の滲む銀月を窺い見る。だがわずかに交錯した視線はすぐに剥がされ、子どもに落ちた。
「孤独じゃなくなった分、掛ける力の場所が変わっただけでしょ。悪いコトばかりでは無いと思うけど?」
まるで、子どもに自分の未来を示唆するような呼びかけにも、ここから今の芥に成るまで過ごしてきた彼の生き様を称えるようにも聞こえる言葉に、ふたりが瞬く気配が揃う。
――大体さ。
氷月の視線は、相応の子供らしさを残した芥の幼少期から、その隣で茫洋と佇む霞のような気配に注がれる。
腰まで伸びた髪、瞳の月は半分ほどに満ち、しかし表情はどこぞに全て置いてきたかと思うほどに抜け落ちた虚ろを浮かべている。これは子どもではない。子どもの姿をしているだけのがらんどう、あるいは虚像。
「……子供の俺ってこんな感じなんだ」
なにも|識《し》らない、満たそうとしても無数の穴からすべて零れてゆきそうだ。「空っぽな物は?」と問われたらきっと氷月はこれを指す。
「氷月の小せえ姿、今よりも……守ってやりたくなる感じ?」
――これが?
「そりゃそうか、子供の姿なんだから」
横目に見遣った芥は、しげしげと興味深そうに氷月の幼少期を見つめて、怪訝な、いっそ不愉快とも思える氷月自身の眼差しに気付いていない。
「こんな空っぽを守ってやりたいとか思うんだ?」
「空っぽ?」
そこでようやく芥は氷月を向いた。それから寄越された視線に温度がないことを知ると黒狐で隠した唇をわずかに吊り上げ眦を和らげる。
「じゃあ叶うなら子供のお前と話してみたかったが。すげぇ甘やかしてやれたんだけど」
子どもは光を透かぬ虚ろな硝子玉で芥を仰いでいる。唇が開かれることはなかったが、芥をじぃっと見つめているのは言葉が届いた証拠だろう。
「……折角甘やかすなら今の俺にしてよ」
不貞腐れながら芥の腕を小突く氷月は、内心では、たとえそれが芥であっても己を肯定する事を嫌悪した。ざわつく。奇妙な鼓動の刻み方をしている。胸が詰まる。ああ厭でたまらない。置いてきたものに煩わされるだなんて。
言葉にならぬ感情を飲み下し、かつての自分を冷たく睥睨する氷月の耳朶に幽かな笑い声が掠めていった。
「なあ、お前は過去の自分からやり直してみたい?」
瞬く。
「記憶を持ったままってこと?」
頷いた。
「……多分、やり直してもロクな事にならないしNOかな」
「はは、だよなあ。歩む途も未来も結局変わらねえ」
――それならば、変わらない痛みを繰り返すくらいならいっそ、
「それより今、アンタといる方がずっと良い」
自然と口をついたような言葉に、芥は唇を静かに引き結ぶ。
それから再び子どもの自分と向き合おうとしたけれど、ふたりはもうそこには居なかった。は、と掠れた呼気がぬるい風に攫われていく。
「……俺も、今のお前がいい」
「……うん」
ふたりはしばらく、|涯《は》てに伸びていく影法師を見つめていた。
――ずっと、そう思ってこれまでを生きてきた。
わたしは可哀想なんだ、って。
――だってそうでしょう?
世界に生まれ落ちた瞬間、平等で尊いはずの命は暗闇に閉ざされた。
やさしい指先も、あたたかな皮膚の熱も、空の広さも知らないままで、はじめに貰える名すら与えられず価値を放られ、無に過ごしたあの遠い日々を。
這い蹲るこの無力さが惨めだと|識《し》ってから、それでも胸の裡に抱えた命の灯火が消えぬよう両手で囲って、必死で生へと縋り付いあの日のことを、リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)が忘れることはない。忘れられるはずもないのだ。
――ほら。
今回もまた、彼女は願う。まるで祈りのように「置いていかないで」と。
夕闇の奥から鎖を引き摺りながら近付いてくる小さなそれは、縋るようにリリアーニャを見つめていて、もうそれしか出来ないのだとばかりに傷付いた指先を伸ばしてくる。
それしか出来ないというのは、今も同じではないだろうか。
『置いていけないのなら連れて行くしかない』
言われた言葉が脳内で|反響《リフレイン》する。
彼女――幼い自分を前にして、妙に冷静で居られるのは、リリアーニャ自身が切り離して、もっと遠くへと押しやろうとしているからなのだろうか。そういう、ものだと思うけれど。違うのだろうか。
逡巡する。それからそろりと手を伸ばしてみた。
あの頃と違ってきれいに整えられた爪は淡く色付いて、傷なんて一つも見当たらない。美しい指だときっと誰もが称えるだろう。何にも知らない癖にね。
触れるつもりはなかった。でも今は、そうしたい気持ちだったから。戯れかと言われれば否定は出来ないけれど。
「あなたも一緒に来る?」
これはリリアーニャにとって、ちいさくもあり、おおきな一歩でもあった。胸が熱を帯び始める。過去の私は、どんな反応を示すだろう。言われれば、喜んだだろうか。自分のことなのに、誰よりも分からない。
問いかけに返って来たのは、真ん丸としたふたつの瞳。驚きを張り付けた子どもはリリアーニャを真似るようにちいさく首を傾げ、それから幽かに震える唇から何がしかの言葉ともつかぬ音を零す。
手が取られることは、なかった。
自分を追い越していくぬるい風が哀れな姿を攫ってゆく。
――時間切れ、か。
はらはらと夕闇に溶けるように、あるいは散らされる花のように消えゆく姿をどこか残念に思いながら、吐息をその場に残したリリアーニャは石畳を歩き始めた。今日もまた、彼女を置いていく。
――光だけを、|識《し》っていました。
産まれながらの盲目は天が与えたもうた試練なのだと天總・アリア(溟涙のマリアンヌ・h12919)は考える。拾われた先、教会の孤児院で育った価値観はあの日までのアリアを清廉に包んでいた。今もそれは確かに胸の裡に残っている、けれど――。
は、と掠れた呼気が唇の隙間から零れ落ちた。苦しくなってアリアはそっと胸を抑える。黄昏はあちらこちらに夕闇が蟠り、ひどく不気味だ。灯りは点いているのに誰の気配も感じられない静けさが、そうさせているのかもしれなかった。
――こんな時、みんなが居て下さったら。
孤児院にはアリアを助けてくれるたくさんの友人や大人たちが居てくれた。ひとりではなんにもできない、生きていくことすらできなかったアリアを助けてくれるやさしい人たちだった。
たとえ光を知らなかったとしても、アリアには心に温かい光を識っていたから、己の不幸を嘆いたことなんて一度もないし、元より不幸であると考えたことすらない。
――だから、でしょうか。
無知であったからこそ、無私の心を抱いて天使へと至ったのは。
『|羽化《成功》したぞ!』
『素晴らしい』
大人たちはアリアの姿を見て賞賛した。
それからだった。世界のありとあらゆる業を目の当たりにしたのは。
悍ましいという言葉を識った。識りたくもない感情が、表情がどんどんやさしいあたたかであった|清廉《ヴェール》に織られて、真白であったアリアを秘すようにどんどん広がってゆく。
――そんなわたくしは、天使として……在り続けられるのでしょうか。
それは正しいことなのだろうか。答えてくれる人は、もう居ない。
まだ見初めたばかりの世界は瞼の裏を刺すほどに眩しくて、あの日報われずに散ったあの子たちの嘆きが残響している。いつまでも耳朶に揺れる思いの音を聞きながら、アリアは黄昏の薄暗さに惑うようにひとり佇むちいさな子どもの名を呼んだ。細い頤が探るように持ち上がる。視線は合わなかった。
「小さなわたくしへ。世界を識っても――どうか、世界を呪わないで」
祈りは届くのだと、そう教えてもらったから。アリアはその心を忘れたくなくて、小さな自分にやさしく呼びかける。
――大丈夫。
おまじないを、ひとつかけて。
左右に軒を連ねた古い町並みには、あたたかな色をした明かりが灯っている。
人の気配はなく、すれ違う猫の一匹すらいないのに、石畳に投げかけられた光の中でひとりぽつんと佇んでいるその姿は、まるで世界から取り残されたようにひどく寂しいものだった。
泣き出すのを必死でこらえているのか、スカートをぎゅうっと握り締めた両手が微かに震えている。
「だれもいないの。おともだち」
大きな耳も尻尾もぺしゃりと垂れて、冬の星空を宿したような澄んだ青色の瞳には涙の膜が張っていた。瞬きをすれば涙が零れ落ちてしまいそうなくらい潤んでいるのが見ていられなくて、ちいさな自分の前に屈み込んだ廻里・りり(綴・h01760)は、ここに居るよって伝えるように俯く顔を覗き込む。
「おとうさんと、おかあさんと、おねえちゃんはいるの。でも、おともだちはいないの。……りりのこと、みんなきらいなのかな」
――ちがうよ。
思わず大きく否定しそうになって反射的に口を開いたりりは、そのままゆっくりと深呼吸、言葉を探す。
「それは機会がないだけで、ちょこっとゆうきを出してお外に出たら、あなたを見てくれるひとはいっぱいいますっ」
曇って星の瞬きが見えない瞳がそろりと上向く。
「いまわたしね、毎日たのしいんですよ! お話しをしたり、おでかけをしたり。それに、お店にお客さんも来てくれてご縁を結ぶおてつだいもできるんです」
この一年、色んな所へおでかけした。色んな人と巡り会えた。
異なる世界に遊びに行っては様々なイベントを体験したし、お友達と美味しい物もいっぱい食べた。両手に抱えれきれないくらい素敵なものもお迎えしたし、出逢ったひとたちに貰った|宝物《プレゼント》だってたくさんある。
指折り数えるりりは、思い返すだけでなんだか胸がいっぱいになってしまって目頭の奥がツンとしたけれど、いつかこの子も同じ経験をするんだって信じたいから――信じてほしいから、そっと手を差し出した。
「あなたに、わたしのゆうきをわけてあげますねっ」
きっと片手だけじゃ足りないから、両手でめいっぱい溢れるくらいのありったけを。
ちいさな自分は差し出された手をじぃっと見つめている。
たとえ幻でもかまわないし、無意味かもしれないけれど関係ない。今はただ、この子が安心してくれたらそれでいい。
それに。
――わたしは、ひとりじゃないってわかったから。
「もう、だいじょうぶ」
それを伝えたくて。
笑顔が添えられたおまじないは、やがてふたりの手を結ぶ。ちいさな手のひらはりりの指先の熱にとけるように透けていき、夕闇に紛れて分からなくなってしまった。何か囁くような言葉が耳朶に触れた気がしたけれど、ぬるい風が攫っていってしまった。
闇が交じった橙色の空は低く垂れこめ、瞬きするごとに濃さを増してゆくような夕間暮れが影法師をどこまでも伸ばしてゆく。
それは、小路の先で佇むちいさな人影を容易く押し潰してしまいそうだと破場・美禰子(駄菓子屋BAR店主・h00437)は|厭《あ》いたように吐息した。
あの厳格な家じゃあ無理もない。
すれ違う人の顔すらはっきりとは判らぬ黄昏時。いくら西の|涯《は》てに夕陽が残っていたとしても、こんな陽の光が少ない時間帯を歩くことなぞ習い事の帰り道であったとしても許されなかっただろうと断言できる。
白い襟に紺色の制服は、当時にしてはハイカラだった。一筋の乱れもなく結った髪はつやつやと手入れの行き届いた絹の如し黒髪で、誰の目にも裕福な生まれと育ちに見えたであろうし、恵まれた象徴でしかないと美禰子ですら俯瞰できる。
(例え子供心ってなモンを持つことを徹底的に、つゆ程も許されずともね)
ああ、なんてつまらない子どもだろう!
子どもの時分に許されるはずの総てを奪われた、綺麗な綺麗なお人形さん。どれほどの羨望を集めたって、ヒトの形をした厳格が無理やり詰め込んだものしか身の内に詰まっておらず、笑いかたひとつろくに知りゃしない。
ああ、なんて窮屈そうな子どもだろう。
呼吸の仕方、視線の配り方、仕草の一つ取っても厳しい目を向けられれば、|こう《・・》もなる。
カツカツと己の存在を知らしめるように踵を鳴らして石畳を往く美禰子は、裾が汚れるのも構わずその場に屈む。世界の高さを等しくした美禰子に寄越されたのは美しい、けれど胡乱な眼差し。
「あー肌ピッチピチじゃァないのさ、羨ましいッたらないねェ!」
見なよ、と腕を伸ばして相応に歳を取っていく指先の皺を見せて、わざとらしく歯噛みする。でもこの指先は、たくさんの子どもたちを笑顔にしてきたと、そう自負しているから美禰子は決して嫌いではなかった。
突然現れた老婆に向ける視線は硝子玉に闇を搔き集めたかのように昏かった。探るように覗き込めば、闇の奥底で蹲った自分が必死でかち鳴らす火花が見える。
「……ふ、ははは! うん、良い目だね!」
たとえそれがどれほど昏くとも、死んでいないのであればいくらだって足掻いていける。
「その感情を、鬱屈を、よぉく憶えておくんだ。いつかソレがアンタを動かすよ」
だから美禰子は今日まで生きてこれた。悪ガキどもに揉まれるのだって悪くない。かわいい猫とだって一緒に暮らしていけるなんて、まるで夢のようではないか。
「きっとね」
頭を撫でるようなやさしい声に、ちいさな自分はすこし瞬いて、それから眩しいものを見るように両目を細めたかと思うと、身体がするりと闇に溶けていく。
「ちゃァんと宝物だってできた。安心しな」
最後に投げた言葉は届いただろうか。そうであればいい。吐息した美禰子は、そっと立ち上がると人々を惑わせる小路を踵を鳴らして去ってゆく。
夕間暮れの中、ひとり佇むちいさな自分は俯いていた。
そろりと周囲を窺うように巡らされていた視線がやがて石畳に落ちるのは、頼るべき者を見つけられずに諦めてしまったかのようだ。鏡に映る自分を見るのとは違う客観的な視点はアリス・アイオライト(菫青石の魔法宝石使い・h02511)にひとつの事実を齎した。
(|あの頃《小学生》の私はあんなに不安そうな顔をしていたのですね)
そして、そんな風に俯瞰できるほどに自分は大人になったのだな、と。
――学生時代は短いから、夢中になれるものを見つけなさい。
それが母の教えであった。
しかしかつてのアリスには、それが何か分からなかった。とりあえず勉強を頑張れば母は満足するだろうという漠然とした考えで、毎日机に向かっては教科書にかじりついて勉強に取り組んだ。
真面目だったと思う。
でも母が褒めてくれたことなど一度もなかったから、勉学に励み続けることが本当に正しいのか、わからないままだった。
「お勉強は、楽しいですか?」
ふわりとしたやさしい微笑みに問いかけられたちいさな自分が、そろり上目で見上げてくる。警戒心を多分に含んだ眼差しを受けてもアリスの笑みは崩れない。
「ふふ、驚きますよね。わかります、楽しむなんて、そんな意識なかったでしょう」
遠い記憶を思い出すように、暮れてゆく空をちらりと見上げたアリスは「でも」そっと、子どもの前にしゃがみ込む。
「楽しんだ方がいいんです。あなたの努力は実を結びます」
『……そんなの』
「でたらめだと思いますか?」
首を傾ぐとちいさな自分は唇を引き結び、気まずそうに視線を落とした。
そんな自分をどこか懐かしい気持ちで見つめることが出来ているアリスは、いつも忍ばせている魔法宝石のかけらを手のひらに集めると、菫青石をひとつ摘まんで夕空に翳してみる。
「今の私は、あなたが頑張って学んだことのおかげで、夢中になれるもの――魔法宝石の研究ができています」
通りに投げ掛けられたあたたかな光を透くのは、ふたりの瞳と同じ菫色。
「お勉強に無駄なものなんてなかったです、もっと学んでおけばよかったと思うくらいで!」
『……もっと?』
「はい!」
即答するとちいさな自分は目を真ん丸とさせて、きょとんとする。だって、今もたくさん勉強しているのに、それが足りないなんて思いもしなかった――そんな表情。
いつだってあとになって思ってしまう。もっとうまくやれたはずなのに、って。でも、きっと誰もがそんな風に生きていく。
「だから、不安にならなくて大丈夫ですよ。……それに、お母さんも、お父さんも。ちゃんとあなたのこと見てくれてますからね」
胸の裡に隠していたものに触れられてしまったことを怖れたように、アリスを映す瞳が微かに震えて戸惑った。でも、やさしい微笑みに見つめられていれば疑心も次第にほどけていき、やがてちいさな自分は両肩を落として、安堵の吐息を小さく零す。
(ほっとする顔を見れば、こちらもなんだか救われた気持ちになってしまいますね)
ちいさな自分は双眸を和らげると何を感じ取ったか、そっと頭を下げた。
そうして次に顔を上げたとき、淡く笑みを浮かべた彼女の白い膚には夕闇が滲み|涯《は》てに消えかかる夕陽を透かしていた。幻が、消えようとしている。
「お別れですね」
幻とも、かつての不安そうな子どもの自分とも。
さよならを言う前に、幻は夕闇に消えていった。次第に軒を連ねた町屋から営む人の気配がひとつ、ふたつ、戻ってくる。現象が終わりを迎えたのだ。
ふと、ぬるい風がアリスの背中を押した。小路の先に待つ者へと、導くように。
第2章 集団戦 『金華猫』
「――あれ。ここまで来ちゃったんだ」
それは、|天鵞絨《ビロード》のように美しい灰色の被毛をした猫であった。
黄昏に微睡む小路を抜けると辺りはすでに夜の闇に呑まれており、そこかしこの暗がりには紅涙の元に集う古妖たちが齎す禍々しい気が這っている。
大宮八幡宮。
東京のへそと呼ばれる宮へと繋がる正参道は、そこに在るだけで押し潰されそうな無数の|圧力《プレッシャー》に満ちており、自然と呼気を浅くさせるように思えた。
「イイ顔してるね。変だなぁ、死にそうな顔をしてると思ったのに」
大樹の緑に抱かれて屹立する二之鳥居の下で|双《ふた》つの満月が嗤っている。
宙に浮かぶ青白い鬼火がちろちろと照らし出すのは、黒い和装を召した化け猫だった。二又に分かれた尾は、まるでこちらの仔細を舐め回すかのように右へ左へゆったり振れている。
「もっと悲愴に満ちていれば、ボク|たち《・・》が慰めてあげられたのに、ねぇ?」
鳥居の上、左右の茂み、大樹の枝の上から、気配と共にぎらりと光る目が、ひい、ふう、み――無数に増えてゆく。
地下深くに幽閉された土地神たちとそのつがいたちを救出するためには、この化け猫『|金華猫《きんかびょう》』たちを倒す必要があるようだ。
「さぁ、おいでよ。ボクと遊ぼう」
枝葉に切り取られた狭い夜空に浮かぶ月の下で、猫がにゃあと鳴いた。