シナリオ

Trampling on Blooming

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 美辞麗句と共に語られる形なきものの何と脆いことか。
 たとえば友情。たとえば家族愛。たとえば絆。
 たとえば――狂おしいほどの慕情も。
「このくらいで壊れちゃうくらい簡単なのに、永遠なんて誓おうとしちゃったの? ヒトって不思議だね」
 打ち捨てられた花を意にも介さず踏みしめた悪魔が無邪気に首を傾いだ。頭を垂れる男を見下ろし、鋭利な尾を女の首に向けたまま、十字の眼が笑う。
 愛も絆も踏みにじられた花弁と同じだ。甘美な未練と後悔と罪悪感の味に楽しげに笑う女の声が静謐な泉の湖面に響いた。
「あんなに一生懸命だったのに。よく分かんないけど、絆っていうのを確かめに来たんでしょ? なら、もっと頑張らなきゃ! ね! くふ、ふふふ!」


「花に興味はあるか?」
 炎の燻る眼差しが瞬く。オルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)の指先がペンを回して、懐こく笑みを零した。
「√ドラゴンファンタジーの小国に、花畑を売りにしてるところがあるらしい。付近に長らく発生してるダンジョンの影響か、でなければ土地柄か、竜漿を宿した花が咲くそうだ」
 曰く、花畑の中には未だ蕾のままの花もあるという。その咲くところを目に出来れば幸福の祝福が与えられる――との伝承つきである。殊にこの時期は随分と賑わうようで、人々がこぞって花畑に訪れているようだ。
 一人一本、好きな花を切って持って行って良いことになっている。同行者と交換しても、己のお守りとして持っていても構わない。持ち帰って差し出したい相手がいるのならば土産にするのも良いだろう。
「ジューンブライド、だったか。すっかりプロポーズ目当てのカップルメインのイベントのようになってるが、本来の意義は特段そういうわけでもないようだよ。実際、世話になってる友人だとか、家族だとかに贈る者も多いらしい。むろん意中の相手に、だとかも含めて」
 そういうものに興味がなければ――星詠みは自らをペン先で指しながら朗々と続ける。
「そこらの飲食店から花畑を遠目に眺めるだとか、土産物屋でも見て回るだとか、どうだ。押し花の栞は幸運のお守りとして評判だそうだよ」
 むろん効果のあるものではないが、こういうものは気分の問題だ。ともあれ時間を潰して、問題となる付近のダンジョンに向かってもらいたいと、人竜は言う。
 ――特段危険のあるものではなかった。つい最近までは。
 死に至るような危険性がある場所ではないものの、構造が複雑で深部に辿り着くことも難しい。やたらと攻略しにくいだけで|映える《・・・》ような場所ではないせいか、ぽつぽつと訪れる冒険者も今の今まで踏破しえなかったようだ。
 そこに悪魔が棲みついた。他者の心を喰らい魂を支配することを望む女は、危険のあるとも思わず訪れた者の幸福を蹂躙して食い物にしようとしている。
「それを討伐して欲しいわけだ。ダンジョンそのものがどうなるかは分からないが、当座の危険は取り除かねばなるまい」
 来訪者を狙う悪魔をおびき寄せるために、もう一つ手順がある。星詠みはもう一度ペンを回した。
「少し進んだ先にある泉に捧げものをして欲しい。どうやらこれがメインイベントのようだから」
 静謐な湖面に何らかの物品を捧げれば、未来が映るのだという。心の裡の、希望と不安の天秤のようなものだ――と、人竜は語る。
 希望を映すのならば|望む未来《・・・・》が。
 不安が勝るのならば|最も避けたい未来《・・・・・・・・》が。
 二人で同時に捧げたとき、両者に望む未来が見えれば、その絆は永遠のものである――という伝承だ。
「流れで摘んだ花を捧げる者が多いようだね。とはいえ拘る必要もない。別途押し花を買い求めるなり、逆に押し花の方を土産にして花を捧げるなり、持ち込んだものを投げ込むなり……即ちこの辺は自由、ってわけだ」
 かくして泉を訪れた幸福を望む者を見とめれば、悪魔は楽しげに姿を現すことだろう。
 その心を破滅と堕落に導くために。
「面白半分で全てぶち壊されたのでは堪ったものじゃない。私はロマンスはからきしだがね、愛も絆も情も尊ぶべきものだとは分かってるよ」
 もしも泉に避けたい未来が映ったらどうすれば良いか――問えば、手を振る楽天家の人竜はからりと笑うだろう。
「避ければ良いんじゃないのかな。なに、見えたんだから、出来るさ」

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第1章 日常 『花咲く大地と幸運の蕾』



 蒼天に花弁が煌めいている。
 街の中央を占拠する色とりどりの花畑を観光資源として利用していることは、見ればすぐにも分かるだろう。整えられた遊歩道を老若男女が絶えず行き交っている。彼らの視線は軒を連ねる店を一瞥するばかりで、すぐに竜漿を宿した花々に向かった。
 目立つのは性別を問わず仲睦まじいカップルの姿だ。互いに好む花を選んで贈り合おうと躍起になっている。花畑の中にあるという蕾を探して覗き込む者の中には、己の幸ある未来を切実に求めている姿もあるだろう。年端もいかない子供の、父母への贈り物を求めて真剣に吟味している背も、安全柵が万全に整備されているから何らの憂いもない。
 遊歩道に隣接したカフェの売りは珈琲だ。青い薔薇の花弁を模した小さなチョコレート片を融かして嗜むそれが看板商品であるらしい。
 土産屋には押し花の栞が大々的に並べられている。広く明るい店内にはプリザーブドフラワーの花束もあれば、花をあしらった簪や、アンティーク調の調度品が並ぶ一角もある。
 彼らを待ち受ける暗雲の一片も見えぬ快晴に賑わう街で、いかに過ごすも自由である。泉に捧げるべき|何か《・・》の選定ばかりを忘れなければ。
シリウス・ローゼンハイム
プロキオン・ローゼンハイム


 二人で会話に夢中になっていると周囲の景色にも意識が向かなくなるのもお互い様であろうか。
 仲睦まじく買い物を楽しんでいたはずが、気付けば見知らぬ場所に出ていた。揃いの赤い眼差しをどちらともなく絡ませたシリウス・ローゼンハイム(吸血鬼の|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h03123)とプロキオン・ローゼンハイム(シリウス・ローゼンハイムのAnkerの弟・h03159)は、しかしすぐに現状に適応した。
 何より兄弟二人で寄り添っているのだ。迷い込んだことよりも、眼前に広がる光景の華やかさに目を奪われるのも致し方のないことであろう。
「とても綺麗な場所……いろんな花が咲いているね」
「ああ。こういう美しい場所もいいな」
 しゃがみ込んだプロキオンの指先が、遊歩道の方へと揺らぐ花弁を撫でる。色とりどりの花々よりも弟の方に視線を向けているシリウスを知ってか知らずか、立ち上がった銀の吸血鬼は軒を連ねる店舗の方へ目を遣った。
「兄さん、あそこで店が並んでるよ、窓からみたら落ち着いて見れそうだよ」
 入ろう――と言われればシリウスに否やはない。嬉しげに頷いて店の看板を流し見ているうち、彼の目に留まったのは珈琲店の手描きの黒板だった。
 何より目を惹いたのは青薔薇の花弁を模したチョコレートだ。珈琲に融かして飲むとは、見目にも楽しめる看板商品である。
 足を止めてまじまじと見詰める兄に、プロキオンの唇が小さく笑った。
「入ってみる?」
「ああ。ぜひ頂きたい。ここへ行こう」
 中に入ればテラス席を案内される。ちらほらといる客たちが花畑に視線を投じる中、すぐにも運ばれて来た珈琲を二人揃って口にするのだ。
「ここの珈琲、おいしいね」
 プロキオンの声にシリウスも首肯した。甘やかな花の芳香が溶けているようだ。目を遣る先の花畑の風景と、苦味の強い珈琲に主張するチョコレートの柔らかな甘みが舌を楽しませてくれる。
 ――特段耳を傾けていたわけではないが、噂話はどこからでも耳に入って来るものである。
 曰く花々の裡から蕾を探し、咲くところを目に出来れば幸いが訪れる。しかし二人の気を惹いたのは続く伝承だった。
 即ち、ダンジョン内の泉に何かを捧げれば、二人の心を映すような未来が見える――と。
 視線を交わした二人は早々に軽食を平らげ遊歩道に繰り出した。並ぶ店のうち、次に足を向けるのは土産物屋だ。
「色々あるね」
「そうだな。ロキは他の物が良いか?」
「ううん、栞にしよう」
 店内を見渡す弟が首を横に振るのに従って、シリウスの足取りは一番に賑わう一角へと進む。並ぶのは押し花を閉じ込めた栞だ。
 数多ある花の裡へまず手を伸ばしたのは兄の方である。
「そうだな……これで」
 手に取ったのはカスミソウだ。真白の小ぶりな花が煌めくように見える。満足げに目を細めた彼の横合いで、弟の方は未だ唸り声を上げていた。
 果たしてどれを選んだものだろうか。売り物とだけあって丁寧に作られていて、どれも魅力的に見えるものだ。顎に指先を当てて暫し、巡らせていた視線がふとひとところに留まる。
「あ、これで」
 手に取ったのは勿忘草である。
 柔らかな青い色彩が目を惹いた。プロキオンが手中に望むものを収めたのを確認して、シリウスの足はレジへと向く。
 丁寧な包装と共に差し出されたそれを、互いに向けるのは殆ど同時だった。どちらも相手にプレゼントするために買ったのだ。泉に投げ込む花は外の花畑で幾らでも選べる――というところまでお揃いだ。
 目を輝かせたシリウスが目に見えて喜ぶのを横目に、プロキオンは苦笑じみて目を伏せる。
「俺にくれるのか? 嬉しいな!!!」
「兄さんもくれたんだから、これは交換だよ」
 ――然れども、その眼差しに喜色の滲むことを、彼以外の誰も知らない。
 今ある幸福に無邪気な感謝を。或いは――誠実なる愛の果てに、私をどうか、忘れないでと。

メイ・リシェル


 この世に数多の花はあれど、竜漿を孕んで咲き誇る花を見るのは初めてだ。
 人々の弾む足取りと声の中にも甘い香りが満ちている。メイ・リシェル(名もなき魔法使い・h02451)の未だ柔らかく小さな指先は、熱に浮かされた人間たちの視線の先にある花弁へと慎重に触れる。
 恋の味も情愛の温度もメイの掌には未だ遠い。それでも、住居の周辺にも咲き誇る愛らしい命が揺れるのは、心に柔らかな温度を与えてくれる。みずみずしく元気な花弁が露を弾くのに目を細め、エルフの少年は暫し花畑に視線を向けていた。
 摘んでも良い――とは聞いている。
 しかし手ずから手折るのは気が引けた。竜漿のお陰で咲いているのだとしたら、折角の美しい花弁に元気をなくさせてしまうのも忍びない。結局、メイは遊歩道を周遊する間、一度も花には手を伸ばさなかった。
 代わりに店が軒先を連ねる方へ足を進める。花を摘み取らぬ代わり、土産屋の押し花の栞を手にすることと決めたのだ。
 清潔な店内は、人の多さに比べてよく掃除が行き届いている。所狭しと並べられた多種多様の花飾りを横目に、メイが歩み寄るのは賑わう一角だ。
 並んだ栞を背伸びをして見詰めてみる。帽子を抱えた彼が人波の間から顔を覗かせているのに気付いた大人たちが微笑ましげに場所を譲ってくれるのに甘えて、その背は目的のものの至近に辿り着いた。
 ――赤い花はあるかな。
 巡らせる視線が探すのは、メイの眸と同じ色だった。
 嘗ての友が好んでいた色だ。人とエルフの間に横たわる時間の差によって、共に道を歩んで来た彼も疾うに生涯を終えた。それでもメイの記憶の裡には思い出が根付いて花を咲かせている。赤はいつしか、何とはなしに彼の心に咲く色にもなった。
 ようやく手に入れたのはゼラニウムである。大きな花弁を閉じ込めたそれを己の持ち帰るものとして、泉に捧げるためのもう一つを、今度は悩まずに選び取る。
 白い押し花は数多並んでいたからだ。裡から一つ、ライラックを手に取って、メイは早々に売り場を後にする。
 見上げた大人たちの表情はどれも明るい。恋人への贈り物に胸を弾ませる彼らの平穏を守らねばならないのは勿論のことだが、何より彼の心に決意を抱かせるのは、己とさして変わらぬ背丈の方だった。
 父母のために熱心に花畑を見詰める子供たちの心を踏みにじることは許せない。ほんの幼い純粋な家族愛が泣き顔に変わることを思えば胸が痛む。だから――。
「ぜったい倒さなくちゃいけないね」
 呟く声音を栞に籠めて、赤い双眸は瞬いた。無垢なる祈りを、戯れ半分の悪魔なぞに、狙われてなるものか。

ジュード・サリヴァン


 絶えず心に荒ぶ吹雪の中で、胸元ばかりが暖かい。
 黄昏に傾きつつある世界の閉塞した灰色の空と比べ、花畑に降り注ぐ快晴の何と晴れやかなことか。足許に咲く数多の花々が自由に揺れるさまを見下ろしてなお、ジュード・サリヴァン(彼誰・h06812)の裡にはただ一人の思い出が去来する。
 咲き綻ぶ花は美しい。まるで君の微笑むさまに似て。
 今にも花開く時を待つ蕾の裡に、人々が屈託なく信じる未来が閉じ込められているようだ。やがて開花を迎えれば、世に祝福の如く、まったき光が降り注ぐのだろう。
 良い街だ。
「……叶うなら君を、連れて来たかった」
 せめて首に掛けた指輪ばかりは片時も離さない。宿った唯一の熱を指先で確かめて、ジュードは吐息と共に目を伏せた。
 手向けの花を選ぶのだ――とは、思いたくなかった。
 目を開く。快晴の下に揺れる美しい花々の裡から男の指が選び取ったのは、黄金の輝きを閉じ込めたマリアの花だった。掲げた花弁のみずみずしい煌めきは、喪ったものへの悼みと共に墓前へ供えるものではない。
 ただ、心に宿したただ一筋の熱が嘗てとひとたびも変わらぬことの証明として、遥か遠き空の彼方にまどろむ君へ届くように。
 春は彼女の季節だった。花綻ぶような君を映すが如き鮮烈な黄金の春色に、ジュードは淡く目を細める。
 百では足りぬほどの愛を囁いた。ならば今は、春を映し取ったような面影に、命の芽吹きの色を捧げる方が良い。
 吹き荒ぶ吹雪の裡に閉じ込められたまま、ジュードは未だ身を切る寒風の中を孤独に歩いている。それでも僅かずつ、日差しを見上げることを覚えた。見渡せば歓声と祝福に満ちる幸福の光景ばかりが目に映ることにも、胸の痛みより眦の緩む方が勝るようになって来た。
 鎖されたままの灰色の世界にほんの僅かの色が差す。君なしで受け取る色が、それを美しいと思ってしまうことが恐ろしいまま、凍てつく指先は鮮明な世界に目を伏せて来た。
 それでも――。
 叶わなかった幸いの先を目指し、屈託なく笑い合う顔がある。得られなかった日々を歩む人々の、まったき未来の光を信じて疑わぬ声がある。未だその全てを受け入れて、鮮やかな色合いの全てを心に受け止めることの出来る雪解けは遠くとも。
 見下ろした先のマリアの花が煌めくさまに、ジュードの心が眩しげに目を細めることを赦すようになったことを。
 それに唇を綻ばせて笑うことの出来るようになったことを――。
 君は、喜んでくれるだろうか。

駒月・咲
堀・允人


 花を愛でもせぬのは意外であった。
 案内された窓際の席に腰を下ろした堀・允人(魂剥ギ・h07457)の一瞥を、駒月・咲(Jaculus・h00701)の方は幾度か瞬いて見返す。彼にしてみれば允人の方が花を一顧だにせぬことを想定していたが故の行動であったが、裏を返せばその無関心さが同行者に幾らの驚きを齎していた。
 ともあれ運ばれて来た珈琲には青い花弁が添えてある。食にも興味を示さぬ允人に代わり、咲の方が頼んだものだ。
 日頃カフェに勤める身として、観光地の喫茶店の類には関心を寄せている。わざわざ花弁の形にするのは、ここまで甘やかな香りを運んでくれる花畑を中心とした観光地であるからだろうか。
 まずは融かす前に口を付けてみる。珈琲そのものの味に浅く息を零した男は、先から珈琲よりも手中の斧の方に視線を遣っている允人に声を投げた。
「他人が淹れた珈琲は美味いってのはやっぱあるな」
「それは良うございました」
 およそ平和なカフェに似つかわしくない斧の手入れを重ねるさまも、この√であれば流れの冒険者のそれとしか受け取られないらしい。周囲の観光客は良くも悪くも無関心だ。ならば允人の方も過剰に気を払う必要はない。
 入ったときに一瞥したきりの花畑よりも、気になるのはその先のことである。
「それで、いかがです? この度の案件」
 抽象的な問い掛けだった。蟲の血に似た色の眼差しが一瞥した先で、咲の方は花の方に視線を投じている。花そのものを見詰めているというよりは、答えを手繰るに近しい間であった。
「悪魔が住み着いただったか、観光地で人も集まるし喰い放題なんだろうな」
 味に拘りがあるのか否かは分からぬが、そればかりは事実だ。
 これほどの人々がこぞって居城に足を踏み入れる。そのうえ自ら隙を晒してくれるとなれば、悪魔の方からすれば仕留めやすいに違いあるまい。
 裏稼業の人間らしいともいえる返答を聞き遂げ、允人の方もようやく珈琲に手を付けた。気のない所作にすら品を宿し、一口を呑み込んで声に変える。
「私は以前“悪魔”を名乗る者にお会いしたことがあります。――しかし、こうして敵対する局面ではなかった」
 思い返せば平和なものだった。悪魔と名の付く相手にしては――だ。
 とまれ仕事であるのならば|何《・》が出て来ようとも祓う他にやりようはない。淡々と告げれば首肯する咲の、相変わらず読めぬ内心に緩慢な瞬きを返し、允人の問い掛けが続く。
「貴方がこれまで仕留めた中に、おりませんでしたか。それらしいものは」
「今まで仕留めた中にはいないな、前に俺を拷問したヤツはそうだったかもだけどな」
 こればかりは眉を顰めるのも致し方がない。悪夢さえ見るようになった元凶の顔を思えば、心に浮かぶのは鬼か悪魔かといった言葉ばかりである。そのどれもさして外れているようにも思えぬのだから始末に悪い。
 苦虫を嚙み潰したような咲の表情に幽かに目許を細めた允人に、切り替えるが如く咲が質問を投げ返した。
「喰うのは心らしいが、味っていうか個人差はあると思うか?」
 ――といっても、|人間《・・》は心を喰らわぬのだから、問うたところで知る由もないのだろうが。
 手慰みのような話題に一瞥をくれて、生白い指先が一口飲んだきりのカップの淵をなぞる。答えのあるにせよないにせよ――。
「さぁね。ただ、何を喰っても同じということはないでしょう」
 允人にすら食事の善し悪しは分かるのであるから。
 一顧だにしない花畑の如く、青い花弁は目下、カップの横に置き去りにされたままだった。

久瀬・彰


 眩しいばかりの蒼天に、色鮮やかな花弁が揺れている。
 遠目に見るだけでも壮観だ。久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)に花に関する知識はそう多く宿っていないが、その美しさを受け止める感受性は十全に心に備わっている。
 然れども、まず彼が歩を進めたのは遊歩道の順路ではなかった。
 泉へ捧げる花は後でゆっくりと選べば良いだろう。それよりも先に、今は心の中央に据わった目的を果たす方を優先したかった。
 軒を連ねる店々は、花畑を眺めるための遊歩道に比べれば閑散としている。それでも人のいないわけではないから、夢中になっている彼らに注意を払って、彰は土産屋の入口を潜った。
 ――渡せる宛のない贈り物が増えていく。
 嘗てと変わったのは心境ばかりだ。途方に暮れるように、幽かな期待を大いなる躊躇に阻まれながら抱えた贈り物の数々を、今の彰はしかと手に持っている。
 片割れとは、未だ会えない。
 物理的な距離の話ではなかった。それを問題の中心に据えるのは止めたのだ。誰しもから■■を奪われた|少年《・・》は、きっと|片割れ《・・・》とは出会えない。
 久瀬・彰が贈るのではならぬのだ。生まれる以前、母の胎の裡から全てを分け合って、繋いだ手の離れることなど想像したこともなかった|双子の兄《はんしん》が選んだものであるのだと――彼女に贈るものなのだと伝えられるようにならねば、幾度出会ったところで意味がない。
 決意を心に据えてから、彼の足取りが彼女のことで迷うことは殆どなくなった。しかし指先と視線ばかりは話が別だ。何せ二十余年を離れて暮らし、今やどんな背格好であるのかすらも想像の中にしかない相手のことである。幾ら血を分かち合った双子であったとしても、そればかりは共有出来ぬ。
 ――本は今でも好きだろう。
 ならば栞にするか。しかし安直すぎるのではないかと懸念が鎌首を擡げる。安牌を選びすぎて陳腐になるのもいかがなものか。だが身に着けるものは好みが分かれるところだろう。結局、悩みに悩んだ末に決めかねて、彰の眼差しは品出しの店員に向いた。
「すみません、贈り物を探していて――離れて暮らす妹に贈りたいんです」
 綻ぶように笑った店員の勧めで、花の香りを纏う一角に案内される。コスメ、香水――それだけではなく、匂い袋などもあるらしい。
 並べられていく|女性の好み《・・・・・》に目を遣りながら、彰の唇が笑みを刷く。嘗て彼女の話をするときに纏った影は、すっかり|なり《・・》を潜めていた。

黑・宵刃
森本・依鹿


 連れる寒気も今日は|まし《・・》だ。隣の熱が幾らも緩和してくれる。
 お陰で晴天を曇らせるようなことはせずに済んでいる。眼鏡の底から赤い眼差しを花畑に注ぐ森本・依鹿(HUNTRESS・h13088)の横合いで、意気揚々と黑・宵刃(|无貌《Wúmào》・h12479)が尾を揺らした。
「依鹿さん、お花に興味は?」
「触ると凍らせちゃうから、見てるだけかな」
 今であっても依鹿が手を伸ばせばたちどころに凍り付くに違いない。殊にみずみずしいものは駄目だ。水分が多ければ多いほど、寒気に反応しやすい。
 理解したように頷いた宵刃の方は尚のこと上機嫌である。隣にあれば恐ろしいほどの執着心の箍が落ち着くのだ。少なくとも別れ際までは、攫ってしまいたいとは思わずに済む。
 故に続ける声も弾んだ。
「私は好きです。いい香りがしますし、素直なものですよ」
 結局のところ手入れをする者の手腕を映すのだ。病気になりやすい、虫に食われる、暑さ寒さに弱い――それらの条件を肌で感じ、上手く乗り熟す力量があるかどうかである。
「上手く咲かせてやれた時は、達成感があります」
「へえ、宵刃くん、キミ、お花の世話得意なんだね」
 己に関心を示してくれたことに、宵刃の尾が揺れたのも一瞬のことだった。
「どこで培ってきたの? お仕事で、かな。詳しく教えてよ、訳ありそうな庭師さん」
 眼鏡の底の眼差しを受け、怪物の舌が唇を舐める。正しい応答を見出せぬまま尾の動きを止めて暫し、宵刃は結局、視線を遣った先の花畑に話題を移した。
「……花を、選びましょうか」
 揶揄いすぎたか――笑む依鹿の方にも否やはなかった。
 色とりどりの裡から先に摘み取ったのも彼女の方である。何やら目標を定めているのか、様子を気にしながらも視線を巡らせる宵刃の眼前に、ふと一輪が差し出された。
 種類は見ればすぐに分かる。
「ガーベラ?」
「うん、キミに似合うかなって。だって愛嬌があるでしょう」
「……そうですか?」
 ――この花が似合うとは、また随分と。
 その目に己がどう映っているのか確かめたい。しかし人間の貌をしている今は必要以上に近寄るのも憚られた。何より心の底に落ち着かぬ感覚が芽生えてどうにもならぬ。
「宵刃くん、表情が可愛いんだよね」
 実家の犬みたいで。
 頻りに唇を舐めるさまを見遣って軽やかに投げられた依鹿の言葉の真意を理解するには、未だ人間としての機微が足りぬ。己を褒める言葉だけを真っ向から受け取って、宵刃は窺うように眼差しを持ち上げた。
「嫌ではなくて、慣れていないので。どう、反応したらいいか……」
「……はは」
 ――そういうところなんだよな。
「そのままでいいんじゃない?」
 大切にガーベラを抱えた宵刃が贈り物を見付けるのは、それから数分の後だった。
 差し出された黒薔薇をしげしげと見詰める。さまざまな色があるのは依鹿も知っていたが――。
「薔薇って黒いのあるんだ」
「珍しい花です。これは病みやすく、脆いものですから」
 竜漿の影響か美しく咲いていた。屈託ない笑みを向ける宵刃とは裏腹、受け取った一輪に視線を落とした依鹿の方は曖昧に目を眇める。
 いかに学がなくともメジャーな意味合いは知ってる。薔薇を一輪なんぞと、|友人《・・》に贈るには、あまりにも――。
 見遣った先で尾を振る貌は花に詳しいらしい。ならばこれくらいは知っているのではなかろうか。それともその身に宿しているという魔性が、無意識のうちにそうした行動を取らせるのか。考えても分からぬことにぐるぐると時間を使うのは止めた。
「ありがとう。じゃあ交換成立で」
「はい!」
 大きく頷いた宵刃の手に可憐なガーベラが、依鹿の手には鮮烈な黒薔薇が収まった。本題に足を進める前に、厚着の女が一つ願い出る。
「先に進む前にもう一杯コーヒー飲ませて」
「またコーヒーをお求めに?」
 カフェインに依存気味であるらしい彼女の横顔を見据えて――。
 傍と思い付いたように、宵刃が破顔した。
「そうだ、今度淹れてさしあげます。お任せください!」
「……それは嬉しいんだけど、どこで?」
 ――まさか、うちで?
 依鹿の内心の問い掛けに返答は戻らぬ。溌溂とした歩様に身を引き摺るようなそれが並んで、僅かの寒気が喫茶店へと足を向けた。

ララ・キルシュネーテ
詠櫻・イサ


「イサ、お前に似合う花を見繕ってあげようかしら?」
「は?! 普通、逆じゃない?」
 甘やかな香りの街に足を踏み入れて開口一番、妙案を思い付いたとばかりに胸を張るララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)に、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が目を丸くした。
 こういうのは普通は護衛から聖女に――或いは年長者から年少者に選ぶものではないのか。どちらにせよ立場は逆であるし、イサの面目も立たない。然れども言い出せば聞かぬ聖女は尚も尤もらしい理屈を続けるのだ。
「イサは、ララ自慢の|護衛《かぞく》だもの」
「……仕方ないな」
 そう言われてしまえば浮つく心を押さえるすべもない。差し出した掌ばかりはぞんざいに、しかしふふりと小さく笑って差し出された小さな手を宝物のように繋いで、素直になれない女神人形は白虹の聖女を連れて遊歩道へ続く道を行く。
「こうして歩くと兄妹のように見えるのかしら」
 ぽつりと零すララの声は上機嫌だ。繋いだ手に軽く力を籠めてさえ見せる。|かぞく《・・・》と共に歩く道すがら、向けられる微笑ましげな視線にそうした意味が籠っているなら、悪い気分ではない。
 他方のイサは横合いの少女を一瞥した。仲の良い兄妹――。
「……それも悪くない」
 言葉と裏腹に胸に蟠るような思いは何なのか。暗雲の晴れた先にある感情の色が眼前に現れる前に、大きく首を横に振って振り払う。
 ただの人形には過ぎたる待遇だ。|これ以上《・・・・》を望む気持ちなぞ生まれる由もない。もしも理由があるとすれば、それは周囲を包む浮ついた空気のせいに決まっている。
 裡の暗雲を晴れ間ごと遠ざけるイサの姿を不思議そうに見上げて、ララの指先は無邪気に行く手を向いた。
「イサ、ララはお花畑にいきたいわ」
 竜漿を宿した花を見る機会は殆どない。四季折々の花が咲くのは樂園であっても同じだが、宿した力の違うそれがどういう色をしているのか興味があった。
「押し花じゃなくていいの?」
「それなら、一緒に摘んだお花を押し花にするのがいいわ」
「……そうだな。特別なのができそう――」
 問い掛けに戻る弾んだ声音に、イサもまたまだ見ぬ花畑を想起した。二人で摘んだ花を枯れぬ形にするのは、きっといたく――。
 不意にすり抜けた指先が彼の思考を現実に引き戻す。気付いたときには駆け出していたお転婆の聖女が、見えて来た花束の中へと意気揚々と足を進めていた。
「決まりね。どちらが先に綺麗な蕾を見つけられるか競走よ」
「だからって急に駆け出したら危ないだろ!」
 ――追い付いた護衛は、目の端にララを捉えたまま、花畑に向き合った。縦横無尽の聖女の方に意識を割きながら、それでも探す色は決まっている。
 ララの色は――桜色だ。
 しかしやはり先に見つけ出したのはララの方であるようだった。白い花を掲げて戻って来た彼女は、アネモネの双眸で笑ってみせた。
「どう? お前らしいわ」
 差し出された城を手に取って、イサは幾度か瞬く。己はどう考えても、白というより――
「黒だと思ってた。奈落とかそういう……」
「黒より白が似合うと思うの。奈落ではなく、浄土よ」
 ――他ならぬ聖女がそう言うならば。
 受け取った白花を傷付けぬように飾る。やっぱり似合うわ――笑う眼前の色彩と、同じ色だ。
 返すように人魚の指先が摘み取ったのは。桜の彩りを湛えた淡い花弁だった。
「ララはこれ」
「むきゅ、ララは桜色のお花なの?」
「ああ。優しい春の色だよ」
 アネモネではない。しかし手にしたそれは想うよりずっと愛おしく思えて、ララの指先は大切に握った。その仕草に気に入ったことを確信して、イサの唇が緩む。
 ララの見詰める先の色合いは、彼女だけのものだ。イサの選んでくれたそれを同じように慎重に飾って――。
「誰にもあげないわ。ララのものよ」
 屈託なく笑う聖女を見詰める女神人形の声が、花畑に零れ落ちた。
「……俺だって、渡したくないよ」

クラウス・イーザリー


 爛漫の花の香りがここまで届くようだ。
 カフェのテラス席を案内されて、珈琲に青薔薇のチョコレートを融かす。仄かな香りに淡く息を零したクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)の視線はごく自然と花畑の方に向いた。
 誰もが幸福そうだ。晴天の裡に照らされる花々と同じだけ、人々の笑う表情が眩しい。この先に描かれる未来の幸いを探して蕾に願いを託す――彼の生まれ育った√では殆ど目にしえない、優しく穏やかな光景である。
 芽吹いた想いを戯れに摘み取り、踏みにじることを許してなるものか。当たり前のように満ちる幸福に暗雲を運ぶ権利など誰にもありはしないのだ。
 決然とした思いばかりは確かに、しかしクラウスの視線は今ばかりは花畑を巡っている。成程、確かにあらゆる花が咲き誇っていそうな場所だ。
 これほど選択肢があるとなると迷うのも人の性分であろうか。一番に目についたのは亡き親友を想起させる朗々とした向日葵だが――。
 今、クラウスの心に在るのは、そればかりではない。
 大切な人がいる。共に過ごす時間に目にしたり、またこの手に預けてもらった花のことも、同じように巡るのだ。思い出すだけでも胸の底の暖まるような記憶は、気付けば随分と増えていたものだと思う。
 桔梗か、或いはカーネーションか――一頻り迷いながらチョコレートの融けた珈琲を味わう。心が定まったのは、カップが空になるのと殆ど同時だった。
 退店の後に迷いなく足を進めた花畑の中で、選び取るのはカスミソウだ。みずみずしい小さな花の香りに目を細めて、クラウスは己を囲む人々の顔を思い出す。
 花言葉に詳しいわけではない。故郷にあって、斯様に穏やかな知識は何らの必要もないものだったからだ。しかし学んだ記憶を手繰り寄せれば、|感謝《・・》の二文字が思い付く。
 誰か一人に捧げる花ではなかった。彼の傍には気付けば明るい声が増えている。彼の手を取ってくれる人は数多いて、そのどれもに、彼は報いたいと思う。
 過去の暗がりの泥濘から抜け出せぬままでも少しずつ前を向けるようになったのは、親友との思い出を分かち合えるようになったのは――彼が今、花を捧げたいと思う全ての相手があってこそだ。
 しかしこの一輪を全員に与えるわけにもいくまい。感謝の思いを籠めたまま、捧げる先は泉である。
 振り返った先、蒼天の向こうに見えるダンジョンの裡。人々の幸いを餌にして、不幸を喰らう悪魔の居城へ、クラウスは歩み出した。

シルフィカ・フィリアーヌ
ルミオール・フェルセレグ


 すぐ隣で鳴ったシャッターの音に顔を上げる。
 瞬くルミオール・フェルセレグ(星耀のアストルーチェ・h08338)とスマートフォン越しに目が合って、シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は幾分ばつが悪そうに眉尻を下げた。
 花畑と彼とを収めた一枚に気付かれないわけもないと分かっていても、保存された写真の横顔が、今は画面に映って相好を崩すのが気恥ずかしい。端末に両手を添えたシルフィカを、画面の向こうのルミオールが手招いた。
 幾ら蕾探しに夢中になっていたとして、彼女のことを見逃すはずがない。何よりこうして二人で並んでいるのだから、保存される写真にも、二人が映っていなければ意味がない。
「一緒に撮ろうよ」
「そうね」
 おずおずと並んだシルフィカに身を寄せて、ルミオールが首尾よく切り替えた内カメラが一面の花々と二人を映し出す。シャッター音のすぐ後に画面に残った一枚の、己の唇がしっかり持ち上がっていることを確認して、シルフィカはようやく安堵した。
「シルフィカの花、俺が選びたい」
「それじゃあ、わたしがルミオールの花を選ぶわね」
 交換の約束を取り付けて、二人は花畑にしゃがみ込む。言い出したルミオールの方は、彼女がこちらを見ていないのを良いことに、幾分か難しそうな顔をした。
 選択肢が多いと目移りする。ただでさえ花のよく似合う人に、たった一本を選び抜くのだから当然だ。暫し迷った眼差しと手は、果たして最初に目に留まった花弁に伸ばされた。
 彼女を写すような優しいライラックの色を宿した八重咲の花弁を手折る前に、もう一度だけ考える。どの花よりもしっくり来るように思えたのを確認してから、ようやく指先は花を持ち上げた。
 他方のシルフィカは、彼の選ぶ花もお見通しだ。己の色を渡してくれるのは分かり切っている。だから彼女が返すなら、ルミオールの色が良いだろう。
 定めた心はより|彼らしい《・・・・》彩りを探した。ふと目を遣った先にあったのは、煌めく紫水晶の如き星の形だった。
 竜漿の作用か、みずみずしい花弁は本物の宝石に勝るとも劣らない。風にも破られそうなそれに傷の一筋もないことを確かめて、シルフィカは淡い光を閉じ込めたような薄紫を持ち上げた。
 斯くして手中に収まった互いの色を見遣り、口火を切ったのはルミオールの方である。
「……シルフィカは、どんな未来が見えると思う?」
 指先で回す花を見詰める眼差しは真っ直ぐだ。しかしその奥にあるものを、シルフィカは深く感じ取ってもいる。
 だから。
「未来はわからないけれど、でも、今なら……あなたの目に映る景色と同じものが見えるのではないかしら?」
 己の思うままを告げたとき、顔を上げた彼と目が合うように、横顔を見据えていた。
「……不安だったの?」
「うん、ちょっとだけ。でも、もう大丈夫」
 くれた答えが心の幽かな蟠りを融かしてくれた。一度覚えた喪失の味は容易に忘れられはしないが――。
 当然のように与えられる答えだけは、確かさを教えてくれる。
「わたしの傍を離れるつもりなんてないんでしょう?」
「……勿論、もう二度と見失わないよ」
 だから迷いなく立ち上がった。花畑に背を向けて、見遣った先には軒を連ねる店がある。
 此度の事案に片を付けたら、どこもゆっくりと見て回れるだろう。看板をなぞったシルフィカの眼差しは、やがて付近に見えるダンジョンの方へ投げかけられる。
「たくさんの花が捧げられた湖も、きっととても綺麗なのでしょうね」
「そうだね」
 華やかなそれを楽しんで――そればかりでは済まない仕事を終えたなら、カフェで看板メニューの珈琲を楽しもう。土産物をじっくり選んで、二人の彩を増やすことも出来るはずだ。
「そのためにも、不届きな悪魔さんには帰って貰わないとね」
 気兼ねない足取りを思って瞬くルミオールの声に頷いたシルフィカの手の中で、柔らかなライラックが風にそよいだ。

一文字・伽藍


 希望通りに案内されたテラス席から見渡す花畑に、人々の幸福が燦然と輝いている。
 目の前に差し出されたブラックコーヒーに融かす奇跡の花言葉より甘く、一面の愛が一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)を包み込んでいた。唇に刷いた笑みは時間を経るごとに深くなるばかりだ。
 |いかにも《・・・・》な前評判通り、花を探す面々にはカップルが目立つ。どこを見ても頬を上気させた二人が見詰め合っているのだから、致死量の|愛《LOVE》の波動が花の香りと共に押し寄せているも同然だ。
 零れる溜息も陶然とする。何と目に優しい光景であることか。
 贈るべき花を探して真剣に選び抜く横顔の可愛らしいことといったらない。ただ一人のためのただ一つの花の選定には往々にして時間も労力もかかるのだ。それをものともせずに、寧ろ率先して担おうというのだから、いじらしさとひたむきさに心が甘く締め付けられるのも致し方があるまい。
 ――分かるよそこの彼氏ィ。
 伽藍の眼前を歩いていく彼の手が、引っ込んでは伸び、また引っ込む。美しく華やかに咲き誇る情熱的な一輪花と、控えめで可憐な花弁の間を彷徨う指先は、究極の二者択一をいつまでも決めかねているようだった。
 艶やかな花はそれだけで彼女の存在の輪郭を明瞭にするだろうが、しかし控えめな花こそが本来の魅力を引き立てる側面も否定出来ない。どちらも捨てがたく、しかし乱獲を防ぐためか手許に残せるのは一本だけ――ともなれば、迷う手に熱が籠るのも当然のことだ。
 その向こうでは老夫婦が仲睦まじく笑い合っている。重ねる年齢に磨かれた審美眼は互いに贈るべき花をすぐに定めたようだ。赤い薔薇を白髪混じりの夫の髪に挿してやれば、どこか照れたような彼も全く同じ花を彼女の耳に添えていた。
 お揃いの花飾りにはにかみ合う姿に嘗てのうら若い二人を思う。見たことのない少女と青年を重ね見て、零れた溜息には感極まった色が乗る。
「てぇてぇ……」
 叶うことならば今すぐにその横に寄り添い、|恋バナ《馴れ初め》をインタビューでもしたい気分だ。斯様に野暮なことをせぬだけの理性こそが伽藍の誇るべきものであり、同時に彼女を今苦しめている者でもある。
 口に含んだ珈琲は先より甘く感じる。地上に満ちる全ての愛情に幸福あれ。心の底から願ったところで、彼女はふと己のことに立ち返る。
「……あ、捧げ物」
 泉には何らかを捧げねばならないらしい。然れども今の彼女はカップルたちの美しき愛を見守るので忙しい。
「後で良い感じの花一輪もらっとくかァ」
 ――誰かが誰かに捧げたい花を、伽藍が先んじて摘み取ってしまうのも、不可抗力の野暮というものであろうし。

アドニス・ガルダ・インファリリ
リュセル・アネスピア


 みずみずしい花弁の鮮やかさは、人々の幸福を集めて蓄えるに似る。
「見てご覧。美しい花園だよ、リュセル」
「はい、猊下にお似合いの素晴らしい景色です!」
 小さな体で主を見上げるリュセル・アネスピア(夢醒・h12927)は、アドニス・ガルダ・インファリリ(プシュケの花檻・h12904)が隣にいなければ飛び上がって喜んでいたかもしれない。しかし他ならぬ教皇の前にあってはしたない姿を晒したいはずもなかった。
 抑えきれず小さな翼を動かす使徒人形の姿に満足げに目を細めたアドニスへ、リュセルの眼差しがおずおずと問う。
「猊下、あの……お手を拝借しても……」
 ここは人が多いから――断られることを半ば承知の申し出がいじらしい。穏やかに眦を緩めた男は、頑張り屋の愛し子へご褒美を差し伸べた。
「勿論だ。君が花に攫われてしまわないようにしっかり手を繋いでおこうか」
 ――花畑を目にしたときよりいっとう嬉しげに、少年人形が手を重ねる。
「はい! ありがとうございます、猊下! 本日の護衛はぼくがしっかりとつとめますね!」
「頼もしいね」
 固く握った掌で懸命に導く小さな歩幅を緩やかに追った先で、カフェのテラス席に腰掛ける。開いたメニュー表には幾つもの軽食が並んでいた。
 そのうちからリュセルが目に留めたのは、花に彩られたショートケーキだ。
「わぁ、このケーキすごいですね!」
 子供らしい歓声は写真に釘付けである。しかし可食部が少ないような気がして彷徨わせた視線の意味を汲み取ったアドニスが、小さな笑声と共に白い指先で注意を惹いた。
 まるで本物のように作られた花の砂糖菓子を、教皇の手が指し示す。
「リュセル、この花も食べられるよ」
「食べられるおはな……」
 幾度も瞬く少年のために、黒板に書かれていた看板メニューと共にケーキの皿を一つ。他のことであれば慌てて首を横に振るか、もう一つ同じものを注文するであろうリュセルも、殊こうしたものに関してはその高配に有難く与る。
 アドニスは斯様なものを食さない。代わりに楽しむのは、珈琲の湯気越しに見える使徒人形の、煌めく宝石眼の方だ。
「どう? 美味しい?」
「えへへ、とってもおいしいです」
「ならよかった」
 天真爛漫な、まさしく天使の如き笑みを浮かべる頬についた甘いクリームをハンカチーフで拭ってやりながら、アドニスは緩慢なひと時に珈琲を傾けた。
 チョコレートの甘みが苦みの強い珈琲によく合っている。舌の上で転がす|甘露《けつえき》とは違う口当たりを楽しんでいる彼に、ケーキを食べ終えた少年人形がそわそわと声を上げた。
「実は……猊下に渡したいものがあります」
「私に?」
 瞬く宝石眼の前に小さなブーケが差し出される。
 ここに来るまでにリュセルが購入していたものだ。カンパニュラの花弁はアドニスの眸の色に似て、みずみずしい光を揺らがせている。
「その……もしよければ、感謝の気持ち、受け取ってください」
 緊張に頬を紅潮させる愛し子の思いを無碍にすることなど出来ようはずもない。男の手は包み込むようにしてブーケを受け取って、その香りに目を伏せた。
「可愛らしいブーケをありがとう。では私からはこれをあげる」
 ――彼もまた、同じ花の栞を買っているのだ。
「ふふ、お揃いだね?」
 差し出された望外の贈り物にいっぱいに目を見開くリュセルの眼差しが、与えられた言葉を咀嚼する。
 お揃い――。
「はわ、本当によろしいのでしょうか?」
「勿論。君が導くべき朝を、見失わぬように印をつけておくといい」
 何と素晴らしい贈り物であろうか。両手で受け取ったリュセルが目を伏せて、胸元に栞を当てる。体の内部までも暖まっていくようだ。
「ありがとうございます。大切にします、猊下」
 噛み締めるような喜びの声を聞き遂げて、アドニスはやはり楽しげに目を細めた。

和紋・蜚廉
不忍・ちるは


 二人訪れた都には、命そのものの歓びが満ちている。
「一面お花ですね……!」
「ああ。美しい光景だ」
 弾む声音に肯定を返しながら、しかし和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)の眼差しは花畑よりも不忍・ちるは(ちるあうと・h01839)に向いている。繋ぐ柔らかな掌から伝わる高揚も、楽しげに風を見詰める唇も、咲き渡るいかなる花よりも美しい。
 他方のちるはの浮つく足取りは、しかと此度の趣旨を理解している。これはいわば嵐の前の静けさのようなものだ。戦いが待っている――と幾ら自分に言い聞かせても、握る掌に僅かに力が籠るのは避けられない。
 見渡す限り寄り添うふたり。その背を後押ししてくれる伝承。隣にいるひとと、自分の関係――並べてみれば、常の穏やかな心にも暖かな漣が立つ。
 しかし、さてどうしたものか。贈る花を選びたいし、幸福になれるという蕾も探したい。土産を選ぶのも魅力的に感じられる。巡って迷うちるはの視線を絡め取り、顎を撫でた蜚廉が一つ声を零す。
「ちるは。丁度、|喉も渇いた《お腹が空いた》だろう? ここはひとつ、現地の者にお勧めを聞くがてら休憩しようか」
「わ、良いですね」
 彼はいつでもちるはを気遣って、のみならず彼女が一番に頷きたくなるような提案をしてくれる。幾度も首肯する屈託のない表情を愛おしく見返して、柔らかな足取りでついて来る彼女と共に、蜚廉はカフェへ足を進めた。
 二人揃って頼んだのは花の形のケーキと看板商品の珈琲のセットだ。先に進むための花を決めあぐね、見える花畑の中に良い色はないものかと考えていた蜚廉の前に、白く細い指先が摘まんだ青い花弁が一枚差し出される。
「蜚廉さん、あーん」
 息が詰まる。
 ちるはの笑みはいつもの通りだ。それでも少しばかり頬が上気しているように思えるのは錯覚か。ともあれ考えるより先に口を開いた彼は、兎も角気を落ち着けるために珈琲に口を付け――。
 ――一枚しか融かしていないはずのそれが苦味より甘みを伝えて来ることに、なお息を零した。
 注文したものは同じだから、ちるはが差し出さなくても食べられたはずだということは、彼女も承知している。しかしどうしても彼女の手で花を贈りたかった。フォークで掬って差し出されるお返しの|花弁《クリーム》に、ふわふわと熱い耳の奥が更に熱を持つ。
「お返しだ」
「イタダキマス」
 甘く美味しい応酬の後、退店の折にはそれとなくお勧めを聞いておく。二人の関係を見抜いたか、それとも人気であるものか、幾つも並べられる花をメモしたちるはがスマートフォンの画面に熱心に指を滑らせる。
「芒はどうですか? 花言葉がとても素敵です」
 並ぶ文字に蜚廉も目を遣った。曰く活力、生命力、心が通じる――。
「ああ、良いな」
 見目としては些か地味でこそあるが、それもまた二人にとっては良いところだ。花畑の中にあって人のまばらな一帯で、より良く咲いたものを選べるところも含めて。
 揃いの花を携えて遊歩道を歩く。見えるダンジョンの中には泉があるという。未来を映すというそれに、誰もが願いと期待と一筋の不安を託しているのが分かる。
 それは並んで歩く二人も同じだ。片方を硬く繋いで、空いた手に携えた花を楽しみながら、蜚廉の声が浅く笑う。
「一体何が映るのか――楽しみだな、ちるは」
「そうですね、何が映りますかねー?」
 足取りは明るく穏やかだ。憂いの一つもないような声の奥に、ちるははそっと、己の思いを抱き締めている。
 ――こうして繋いだ手の向こう、未来を映す湖面に、二人共に望む未来が映るといいな。

ケヴィン・ランツ・アブレイズ
神崎・涼


 未だ√能力者ではなくとも――或いはだからこそ、戦いに巻き込まれたのであれば知らねばならぬことは数多ある。
 ケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)の明るい声に修行の一環として連れて来られた先にあった花畑に視線を巡らせ、神崎・涼(あすなろ|付与魔術師《エンチャンター》・h13219)は幾度も瞬いた。
 兄貴分の故郷が別の|√《せかい》であるとは聞いていた。己のいた場所とは全く異なる様相の光景を見渡し、涼は浅く溜息を零す。確かにこうしたものは見ておかねばならないのかもしれないが――。
「……何だかオレら場違いじゃねえ? 男女のカップルばっかじゃねえか」
 弟分が零す言葉に顎を一つ撫で、ケヴィンも改めて花々に目を遣った。これから歩む茨の道の一端に触れさせるための良い機会だと思って来たが、確かにこう見ると随分と華やかだ。
「確かに男女のペアが多いねェ。……なンだィ、こういうトコに連れてきたい淑女レディにアテがあるのかィ?」
「なッ」
 途端に頬を紅色に染めた少年が食って掛かる。未だ青い涼にしてみれば、恋だの愛だのは心の照れ臭い場所に位置するのだ。
「違ぇ! カノジョなんていねーよ! アンタもだろ!」
「そうかそうか、じゃ、俺が女だったらよかったかもなァ?」
「バッ、別にそういうんじゃ……ってああもう、人を揶揄うなこのヤロー!」
 ますます紅潮した肌は頬に留まらず、耳までも染め上げて渾身の力でケヴィンの背を叩く。幾度も繰り返されるそれも、人間としての身を鍛え上げた嘗ての竜にしてみれば単なる児戯だ。
 悪戯っぽい笑声は相変わらず揺るがなかった。彼が一頻り笑い終えた頃には、弟分はすっかり息を切らせている。まだまだ修行不足の証左だ。
 冗談はそこまでだった。歩み入る花畑のみずみずしい花弁に触れながら、ケヴィンが横合いを一瞥する。
「お前には、捧げるべきモンは何かあるかィ?」
「オレは――別に」
 涼の返答が萎むのを掬い取って、兄貴分は笑った。素直になることを厭う年頃の性分に添えるのは、眼前に広がる青空だけで充分だ。
 見渡す限り誰もが己のことに夢中だ。一心に面影を思い浮かべながら花を探す姿を嗤える者は、ここには誰もいない。
「ここにはお前を知る奴は他に誰も居ねえ。俺もお前を嗤ったりはしねェ。自分テメエの気持ちを正直に出せるなンて、そうそうある機会じゃねェだろう?」
 観念したように、涼が浅く息を零して俯いた。
 大切にしたいものといわれれば、心に去来る面影は一つではない。こうして人知れず戦う者たちの存在を知り、己も力の一端を手にしたともあれば、尚のことだ。
 幾つもの心配と不安が付き纏うのは、それだけ相手が大事だからだ。何かあったときのことを考えて打ち沈むのも。だから――常には口に出来ぬ言葉が、花の上を転がり落ちていく。
「いっぱいある。家族も、友達も……出来るならもっと皆の支えになりてえ」
 何もかもが未熟だ。戦いはおろか己のことすら己では儘ならぬ時分の歳である。それでも彼らのために少しでも力を添えたいと思う心に偽りはない。
 今ばかりは――それを口先の反抗心で押し潰してしまいたくなかった。
 眼前にあった花に引き寄せられるように手を伸ばす。迷いなく手折ったそれに祈りを籠めて、実直な少年はようやく眦を緩めるケヴィンに目を遣った。
「アンタは?」
「ン、俺かィ?」
 ――足取りと同じだけ迷いのない無骨な指先が、迷うことなく一輪を摘み取った。
「……ある意味、お前と同じモンだろうサ」
 花弁の甘やかな香りに目を細めて、ケヴィンは小さく笑う。
 その眼差しの向こうに今は何も見通せず、しかし何を問うこともなく、涼は己の花に視線を落とした。

佐野川・ジェニファ・橙子
五槌・惑


「一番綺麗な右のをね」
「花の善し悪しなンざよく判らねえよ」
 斯くして早々に互いに花を手にした二人は、喜び勇んで幸福の種を探す者たちに早々に場所を譲った。
 辿り着いたカフェのテラス席に腰掛け、背筋を伸ばした佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)の指先がカップを持ち上げる。花弁の融けた柔らかな甘みが混じる苦い液体の向こうで、見るともなしに花畑に目を遣っていた五槌・惑(大火・h01780)が視線をくれる。
 カップを置いた手は摘んだばかりの花に伸びる。花々と人々を透かし見ながら手慰みに回してみせるそれの向こう――惑の手許にある植物は、目に鮮やかな紅色に控えめな白を携えていた。
「季節関係なく咲いていてよかった。レッドロビン、アナタに似てるなって思っていたの」
 ――花というよりも葉だが。
 燃えるように鮮やかな新芽の色に控えめで小さな白花がよく映える。役に立つとすれば控えている荒事ばかりの惑は、時間を潰すために彼女の仕草を見遣っていた眼差しを呆れに似る温度で眇めて見せる。
「似てるって色だけの話じゃねえか」
「いいじゃない見た目〜。毒キノコにでも似るつもり?」
 それとも大輪の花がよかったか――橙子の零す戯れの問い掛けになお浅く首を横に振る。
 そも花の名前なぞよくは知らぬ。子供の頃に幾らか覚えて、それきりだ。風雅に傾注して美しく育て上げることも、花々と聞いて足を運ぶほど惹かれることもない。
 触れれば大火の如き熱を孕んでいるわけでもなかろうに。上機嫌な橙子が彼の態度をさして気にせぬのもいつものことだ。
「その子、春先は特に綺麗なんだから。思わず足を止めるくらいにね」
 言われて惑も視線を落とす。手許の花の小ぶりな白と、目にも鮮やかな尽きせぬ炎の色に一度目を伏せる。
「次の春に覚えていたら探すよ」
「あら。お連れしますよ」
 朗々とした女の声が笑う。そのまま視線を回す花――男が唯々諾々と選んだ、彼女の好きな高山植物へ移す。
 斯様な花畑に紛れている花ではない。根には毒を宿すし、美しく咲き誇れるのは険しい山々のあわいだけである。それがかくも平然と花弁を広げているのだから、竜漿の恩恵というべきだろう。
 橙子の唇はなお同行者へ声を紡ぐ。先の花畑で彼女が石楠花の名を口にしたとき、惑が特徴も聞かぬうちから周辺に視線を巡らせた仕草を見とめていたからだ。
「興味がなさそうなのに、迷いませんでしたね」
「石楠花ぐらいは流石に分かる」
「あら意外」
「俺だって親がいるンだよ。出掛けた時に教わりもした」
「小さい時に? 良いご家族ね」
 常人として生まれ、常人として育った。産み落とし育んだ面影が惑の裡に刻んだ知識の幾らかは、こうして時折、思っても見なかった形で役に立つ。
 橙子が彼の分を選ぶというのだから礼儀として用立てをした。それがたまさか、彼の知っているものだったというだけの話だが――それも、嘗て培ったものの一端に違いはあるまい。
 主として女が一頻りの軽食を楽しんだのち、二人はやはり楽しげな二人組に席を譲ることにした。ダンジョンに向かう道程が舗装されているのは珍しいことであろう。
「泉の神だか精霊だか知らねえが、こんなやり方でも通してくれるのかね」
 石畳を踏みながら、問うともなしに惑が呟く。橙子の方は己の手にある花弁に視線を向けた。甘やかな香りを、ここで手放すには惜しいのだ。
「折角だから持ち帰りたいのだけれど……」
「持って歩くなら戦闘の時は後ろに下がれよ。土産ってことなら形を保って帰りたいだろ」
「それは確かに」
 彼女を一瞥した男の、言葉少なの提言に眦を緩めて、女の声が弾む。
「じゃあ今日は特等席から支援といきますね」

暁・蓮月


 初めての仕事で見据える光景が、心の裡に秘めた想いを燃え立たせるようだ。
 集まった人々は皆幸せそうな顔をしている。どこか切実に蕾を探しているのだろう者にも願いがある。ひたむきな彼らの前に続く未来が、しかし信じるほどに堅牢でないことも、暁・蓮月(霧中之蓮・h12991)は知っている。
 心ひとつ揺るがさずに踏みにじる者が、魔の手を伸ばそうとしている。その指先が彼らの歓びを戯れに摘み取らぬように、彼は制服を纏うことを決めたのだ。
 ――しっかりやり遂げないと。
 一つ頷いた蓮月の足取りは、それでもまず、眼前にある鮮やかな花畑に和らいだ。
 花は好きだ。咲き誇る甘やかな香りは目も鼻も優しく包んでくれる。張り詰めた胸中を安らかにして、心のどこかにある罅割れを満たされるような心地がする。
 巡らせる視線の先に留まったのは、柔らかな薄紫の花弁だった。引き寄せた紫苑に目を細めれば、唇に自然と呟きが載る。
「これを捧げ物にしようかな」
 声にしてみれば尚魅力的な選択肢に思えるのだから不思議なものだ。ごく自然と巡らせた花言葉への思索は、しかしすぐに打ち切られた。
 追憶――。
 何を追憶するというのか。何故だか思い浮かんだ両親は、斯様に思いを巡らせる相手ではない。蓮月には分からぬやむなき事情があってただ引っ越しただけだ。いつか――。
 生きてさえいれば、いつか会えるはずだろう。
 心の奥底が引き裂かれるように痛む理由に思い当たる前に、彼は立ち上がった。それよりも、視線を遣った先の店々の方に意識を向けるべきだ。
 土産物を買って帰りたい。花は捧げものとして持ち帰れないから、今日ここに来た記念を手にしておきたかった。
 店内に並ぶ数多の品々の中で、やはり目立つのは栞のコーナーである。読書を嗜む蓮月にはうってつけの品物である。しかし種類が多すぎる。集まった人々の間で視線を巡らせて、心の裡と相談してみても、これといった答えは見付けられそうにない。
 こういうときは早々に観念するのも大切だ。品出しをしている若い店員は、軽く手を挙げて声を掛ければすぐに振り返った。
「すみません、お勧めはありますか?」
「自分用ですか? でしたら、ゼラニウムの花弁はどうでしょう」
 ――かくして決意の花言葉を手に、蓮月は店を出た。
 途端に広がる青空の鮮烈な光に目を細める。美しく揺れる花畑が心に刻まれるようだ。つい足を留めて、ここにいたくなってしまうけれど――。
 やるべきことがある。
 だから、前に進まねばならない。
 握るゼラニウムの花弁は、主の心を映すように煌めいた。

セージ・エルヴ・ラ・サルトゥリス


 不自由な半身を引き摺っての長旅は、想像よりもずっと険しかった。
 杖で地面を叩くのも何度目か。ようやく人心地ついたセージ・エルヴ・ラ・サルトゥリス(花骸・h13171)の眼差しが、映し出した鮮やかな煌めきに綻んだ。
 殆ど世界を映さぬ左の目にも鮮烈な色が飛び込んで来る。人々が幸福そうに花弁を愛でる仕草も含めて――蓄積した疲労など問題にもならぬ光景だ。
 花も、実をつけない植物も、全てセージの良き隣人である。しかし幾つもの花と出会い、幾つもの植物と手を取って来た彼も、こうして竜漿の恩恵に与る花を見るのは初めてだ。
 遊歩道から見えるそれらは季節を混ぜ返したように咲き誇っている。見渡す限り病気と無縁の健全な花弁だ。みずみずしいそれの中から、一本だけを連れ帰っても良い――。
 そう言われると迷うのも致し方のないことだった。誰も彼も己の魅力を理解しているように揺れている。セージの伸ばす右手の惑いが思い出すのは、必然、己の畑のことである。
「どの子にしようかな」
 こことは条件が全く異なる。竜漿の豊富な土地でしか咲かないだとか、土壌の条件が整っていないと上手く咲かせ続けてやれないだとか、そういう花を連れ帰ってしまっては互いにとって不幸だろう。
 ようよう選び取ったのは柔らかな黄色の花弁だった。小ぶりなそれを土ごと慎重に掬って、セージの唇が声を零す。
「……ちゃんと根付いてくれると良いなあ」
 共に帰る運命の出会いを携えた彼の足取りは、緩慢に店の方へと向いた。
 花を捧げる者が多いというが、セージは持ち帰るつもりだ。泉に捧げるための物品を選ばねばならぬ。しかし清潔な店内に足を踏み入れて、緑の眼差しが煌めくのと裏腹、困ったように眉尻を下げた。
 ――好みのものが多すぎて、ついつい目移りしてしまう。
 栞だけでも数え切れぬ種類がある。そのうえどれも一点ものだというのだから困りものだ。日頃読む本のためにも幾つでも欲しいところであるが、独り占めをするわけにもいくまい。結局は数枚を選び取る。
 プリザーブドフラワーは手入れの手間が少ないから、幾らでも飾っておける。植物の絡みついたランプは点灯させれば大きな百合が咲くのが愛らしい。アンティーク調の卓上鏡は草木のあしらいが精緻だ。眺めているだけでも時間が過ぎていくやも分からぬ。
 結局、あれやこれやと手にするうちに店員が運んで来てくれた籠を会計に通したときには、片手に持つには些か多すぎる荷物が残された。
「色々と買い過ぎてしまったかな」
 反省の言葉とは裏腹、なお鼻に届く甘やかな香りを見詰めて、セージの唇が綻んだ。

夕星・ツィリ
ココ・ロロ


 想いを伝えるのは、どんなことでも素敵なことだ。
 眼前の花畑に煌めく花々の香りに尊い心を託す――祝祭に照らされる人々の合間に歩を進め、夕星・ツィリ(星想・h08667)が笑い掛けるのは横合いを飛ぶ小さな翼だった。
「それで想いが通じたり、より深まるなら、きっとお花も嬉しいと思うの」
「はい! ココもそうおもうのです」
 大きく頷くココ・ロロ(よだまり・h09066)の黒い体が陽光を反射して輝いている。小さな黒い手と白い手を繋いで、並んだ二つの姿は花畑の中に足を踏み入れた。
 ココの小さな体は一生懸命になると花に沈んでしまう。揺れ動く草と音だけが彼の位置を伝えるから、ツィリはそちらに幾分意識を割きながら、自分の目にいっとう輝く一輪を探して花弁に顔を近付けた。
 やがて先に大きな声を上げたのは黒く小さな毛並みの方である。
「あった! しろいたんぽぽ!」
「わ! 白の……タンポポなの?」
「ずかんでみてね、きになってたのです」
 寄って来たココが両手で見せてくれるのは、彼とは真逆の――彼の仲間たちと同じ色だ。一目見て、思った通りテーブルに飾ればよく映えるだろうことが分かった。
 目を輝かせたツィリの眼前で揺れているのは確かに蒲公英の花弁である。しかしトレードマークともいえよう黄色はすっかり真白だ。初めて見るそれに破顔した少女が、けものに屈託のない謝意を告げる。
「新しい出会いをありがとう、ココくん」
 笑み返したココの青空の眼差しは、自身の選んだ真白からツィリの方へと向けられた。彼女が後ろ手に隠しているのが花であることは分かっているのだ。
「ツィリさんのは?」
「これです! ピンク色のガーベラ!」
 じゃん。効果音付きで前に差し出されたのは、愛らしい花である。自身を彩る花を待っている一輪挿しに、よく似合いそうだったのだ――語るツィリの綻ぶ唇に、ココも幾度も頷いた。
「ふふふ、こころがほっとするような、やさしいいろですね」
 家に飾ってあれば見るたびに笑みが毀れてしまいそうな可愛らしさだ。ツィリの柔らかな印象にも、よく似合っているように思える。
 かくして花を選び終えた一人と一匹が遊歩道を緩慢に進む。リードする少女の視線が向くのは、人々が集まる一角だ。
「甘いもので休憩したくなりませんか……!」
「あっちできゅうけいするです?」
「えへへ。そう、カフェです」
「もちろん!」
 ――案内されたのは窓際の席。花畑の鮮やかな色を見詰める二人の前に並ぶのは、めいめい頼んだ軽食だ。
 ツィリが選んだのは『幸せ四つ葉のクローバーパンケーキ』。悩みに悩んだココが指差したのは『花畑のフルーツケーキ』。どちらも名を示す通りの見目である。ツィリが合わせるのは、勿論黒板に記されていた一押しだ。
「看板メニューにしようかな」
「コーヒーにチョコいれるですか?」
 苦いものに甘いものを合わせたらどんな味になるのだろう。首を傾げて想像してみても及ぶことはないから、ココもチャレンジすることに決めた。
「ん~……きになるからココも!」
 やがて届いた珈琲は、彼と彼女でサイズが違う。小さなココにも持てるよう店が配慮してくれたのだろう。
 まずカップを傾けるツィリを、青空の眼差しはじっと見詰める。青薔薇を融かした繊手は味わうように珈琲を飲み込んで、ほっと息を零した。
「コクがでて美味しい!」
 といっても彼女の舌には些か早かった。苦味が舌先に残る感覚に眉尻を下げるツィリを横目に、ココも大人の味に挑戦して――。
「……やっぱりおさとうもいれる」
 二人の指先は同じ角砂糖の小瓶に伸びた。
 然れども苦味とは甘味を引き立てるためのものでもある。大人の味を刻まれた口に、パンケーキとフルーツケーキはなお甘い。
 塩バターの乗ったそれを一つ掬って、ツィリがココへと差し出した。瞬く彼が意図を理解するのに時間は掛からない。
「パンケーキ、よかったら一口どうぞ!」
「わ~い! フルーツケーキもひとくちどーぞ!」
 分け合う幸福の甘い花々が、二人の舌先に咲き誇る。

夜鷹・芥


 漆黒の出で立ちが似合う場ではなかったやも分からぬ。
 花畑と互いに夢中のペアばかりがいる。一人遠巻きに眺める夜鷹・芥(stray・h00864)は、特段の意味もなく狐面に触れた。
 場違いであるか否かは問題ではない。どうせ誰も彼も自分の隣か、心の中にいる誰かのことしか考えていないのだ。何より芥の目的は、世話を頼まれた双子への土産探しである。
 買って来て――とねだる姿も見慣れた。職務に従い居を空けるときには恒例の、半ば儀式のようなものだ。いつぞや斯くも欲しがる理由を問うたとき、戻った答えを聞いてから、彼は約束を反故にすることが出来なくなった。
 ――だって絶対帰ってこなきゃいけなくなるでしょ?
 そう言われてしまえば弱い。一度目を伏せて花畑に背を向けた足取りは、最も目立つ土産物屋へと歩を進めた。
 といっても年頃の子供の好むものなぞ分からぬ。元より|年頃《・・》なぞあってなきような出自のせいで、記憶を遡っても硝煙と血の香りしかしない。
 カウンターに座る店主に概要を言い渡して尋ねてみれば、顎を撫でた年若い彼が店内を見渡した。
「数がありますからね。花に拘りはありますか? あればそれから探してみましょう」
「そうだな、折角だから……夏の花が良いだろうか」
 やがて案内された一角に、向日葵のあしらわれたポーチと朝顔の刺繍の霊感タオルがある。このところの猛暑を乗り切るのにお勧めだ――と言われて、分かりはせぬままそのまま手に取った。
 小綺麗なラッピングはやはり己には似合わないような気がしたが――。
 道を踏み外さぬままに幸福な人生を歩むべき笑顔には、よく似合うように思えた。
 やがて大人になるだろう。誰かに心を寄せ、いつか手を離れ家族が出来る。愛情を分け与えながら笑って暮らす日々が訪れたとして、記憶に残る背には永劫手が届かぬ事実は変わらぬままであっても。
 芥はそれを見届ける。託されたが故ではない。同じ背を追う者として、大切なものと引き換えにしてまでも遺された|命《おのれ》の使い道を、他ならぬ彼自身が定めたからだ。
 花弁がそれを導いてくれるのかは分からぬ。それでも、甘い金木犀の香りは未だ心に疼くし――それは、きっと彼らも同じであろうから。
 土産物屋から外に繰り出したとき、芥の手には袋が二つ増えていた。その中身を気にしながら、金色の眼差しは僅かに細められる。
 年頃の子供の考えることなど分からない。今となっては遠慮のない彼らが、芥の用意したものを率直に気に入ってくれると良いのだが。

チェスター・ストックウェル


「ママ、おにいちゃんが浮いてる!」
「魔法使いかな。凄いねえ」
 無垢な子供の指先が母を呼び止め中空を指差した。万人がインビジブルを僅かに見ることの出来る魔法の世界にあって、チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)の堂々たる幽霊姿を見とめた者が叫び声を上げることはなかった。
 死者の特権を活かして寝転んだままの特等席から見て回る花畑は壮観だ。そのさなかで時折こうして彼を目に留める黄色い子供の声があれば、コートでそうしたように手を振ってやる。
 調子に乗った|お騒がせ幽霊《フーリガン》たちも次々決めポーズを披露している。父親の腕の中にいた赤子がそれを見て笑った。
 √を渡れば斯様にも溶け込めるものか。超常現象の類がごく当たり前に生活に寄り添っていれば、確かに宙を漂う人間程度は見慣れたものかもしれない。白昼堂々姿を見られ、それを一瞥と共に受け入れられるのは、チェスターにとっては嬉しいことだ。
 ――嬉しいことではあるのだが。
 これでは悪戯が出来ぬ。周辺を漂う死霊たちにとってもそれは惜しいようで、大人たちに近付いては笑われてしょぼくれていた。
 ともあれ、今はやるべきことが他にある。猫じみた眼差しは花畑の方に注がれた。好きな花を一輪――といわれても、選択肢が多すぎるのも困りものだ。
 チェスターが名を知っている花はごく少ない。たとえば母の庭園に植わっていたつる薔薇。万国共通の愛の証としてガールフレンドへ贈ったことのある深紅の薔薇――並べてみれば実質のところは殆ど人種類といって差し支えない。
 むろん花言葉など知る由もなく、決めあぐねた彼はくるりと中空で反転して、一度抜けるような青空に視線を移した。
「ねえ、君たちはどれがいいと思う?」
 死霊たちが一斉に|自分ですか《・・・・・》――とでも言いたげな顔をした。然れども気儘な少年幽霊に忠実な彼らは、めいめい花畑に視線を落としては、己の心に留まる花弁を探し始める。
 やがて一人が指差した先に目を遣れば、冴え冴えとした青色の特徴的な花が植わっている。どうやらこの形に惹かれたらしい。
 近寄ったチェスターが会心の笑みを浮かべた。一輪を摘み取って太陽に翳せば、みずみずしい花弁が花脈を透かす。
「お、この花は見たことがある!」
 いかに興味がなくとも、これほど形が変わっていれば覚えているものだ。いつぞや何で目にしたかも分からぬが、ともあれ夏にぴったりの涼やかな色合いは気に入った。
「後で名前を調べてみようか」
 今時は写真一枚で何でも調べがつくのだ。次の楽しみを胸に秘め、大きく伸びをした少年の姿を、幼い少女が不思議そうに見上げていた。

雨夜・氷月
物部・真宵


 季節柄か、雨の気配を連れて来る花が咲いている。
 いかに竜漿の恩恵を受けているといえども、いっとう華やかなのは紫陽花だ。窓際の一角を鮮やかに彩る小さな花弁を見遣り、雨夜・氷月(壊月・h00493)は漆黒の湖面に青い薔薇の花弁を落とした。
 甘やかなチョコレートが熱い液体に呑み込まれていく。マドラーで掻き混ぜる彼の横合いで、物部・真宵(憂宵・h02423)が口に運ぶのは纏わり付く湿気を打ち払ってくれるかき氷だ。
 窓辺の紫陽花と同じ色をしている。花を映し取ったような青越しの華やかな香りに眦を緩め、真宵は暑気を祓う冷たさの向こうに人々の和やかな声を聞く。
「カップルで賑わってますねぇ。皆さん祝福目当てなんでしょうか」
「そうだねえ、見た感じ、祝福を大切なヒトにっていうのは多そ」
 甘みを融かした苦い熱を舌先に踊らせて、氷月の方も銀月の眼差しを花畑に注いだ。花を交換する男女の見詰め合う表情を見遣りながら――。
 ふと思い出して横を見る。
「……なんです?」
 真宵のあからさまに不服そうな声の理由は自明だ。猫のようににまにまと唇を吊り上げるときの氷月は、大抵面白い揶揄いの種を見付けている。
 彼女の懸念にますます笑んだ男が、案の定含みのある声で問うた。
「いやあ、アンタはイイヒトいないの? って思って」
「いいひと……? 恋人はおりませんが……」
「アレ、いないの?」
 拍子抜けした表情の氷月の顔から毒気が抜ける。仲睦まじいからそういう関係だと思っていたのだが――。
「よく一緒にいるカミガリは?」
 紫陽花に見立てたチョコレートがたっぷり使われたパフェが溶けないうちに一口。何らの気負いもない男の問い掛けに、真宵の方は分かりやすく肩を揺らした。
 カミガリといわれれば幾つも名前が浮かぶのに、一番に心に過ぎる面影は一つだけだ。
 大きく首を横に振ったのは、否定と同時にそれを振り払うためだった。しかしそうすればするほど強く意識に乗ってしまうのも避けられぬまま、袋小路の女は大きく声を上げる。
「ち、違いますよ! 彼には確かにお世話にはなっていますけれど……ど、どうしてそんな風に思われるんです? わたし、なにか……へん、でした?」
「ヘンというか」
 ――違う、というべきか。
 氷月といるときは勿論だが、他の誰と話していても見せない顔をしているように思える。ともすればお互いに、なのかもしれないが。
「物部も満更でもなさそうだったしー? なんか2割増しで嬉しそう?」
 真宵の頬が紅潮した。
 かき氷が冷ましてくれたはずの熱が急速に籠り始めたような錯覚がする。客観的に突き付けられた事実が思考を加熱させていくようだ。
「あら、まぁ……」
 その表情を横から見詰めて――。
「ね、実際あのカミガリのコトどう思ってるの?」
 氷月の問い掛けは、先よりは意地の悪い声音ではなかった。
 だから真宵も素直にかき氷を口に運ぶ。思い出す眼差しと声を反芻すれば、ごく自然と口が開く。
「……頼もしい方だと思っていますよ。やさしいですし……」
「えー、ソレだけー? 一緒にいてなんかキモチがーとかないの?」
「もうっ、今日はやけに食いついてきますね?」
「んふふ、だって実質カップルイベントだし気になって」
 否定したい思いも、何故だか否定したくない思いも同じだけ同居する。鮮やかな色をスプーンで差し崩しながら、女は幾つも重ねた時間を思い出す。
「一緒に居てうれしいのは否定しません。その……」
 ――厭な気持ちでは、断じてないのだけれど。
「ちょっと、どきどきすることも……ありますけど……」
「お、もうちょい詳しく!」
 身を乗り出すように食いついた氷月を睨むように見るのも頬が染まっていては迫力がない。案の定にやりと唇を持ち上げただけの銀月の眼差しに反論するような気分にもなれないまま、真宵はともあれ熱を冷まそうと氷を一匙掬った。
「……手を繋いだとき……とか……」
「えっ」
 思い出せば顔から火が出るような気分だ。誤魔化しの一口を噛み締める彼女を、氷月が遠慮なく覗き込む。
「手繋いだの? それからそれから?」
「わぁっ、もぉっ! 覗かないでください!」
「んっふふ、イイ顔」
 悪戯好きの猫めいた声が笑う。何度目かの怒り顔は、かき氷を食べ切る頃にはすっかり溶けていた。
 パフェを食べ終えた氷月と会計を終える。銀月は楽しげに煌めいて、軽やかな声が真宵を誘う。
「んじゃ、そのカミガリ宛にお土産とか花選んだりしてかないとね! ほら、いこいこ!」
 ――差し出された掌は、さながらエスコートのようだ。
 瞬いた真宵が逡巡するように指を丸めた。しかしそれも一瞬のことである。差し出された白い異性の指先は、中性的な見目と裏腹に大きく骨ばっている。体温の薄いように見えて、存外に柔らかな温度が伝わって来る。
 意外だ――と、ただそれだけである。
 己の裡にある熱の所在に首を傾げながら、手を引かれる真宵が花畑に目を遣る。隣の男に問い返したのはごく自然なことだろう。
「そういう雨夜さんこそお土産は?」
「俺?」
 ふと視線が逸らされる。
「何の口実もない俺からの贈り物なんて邪魔なだけだよ」
 冷たい声だった。
 投げ遣りという方が正確か。唐突の変調と共に昏く陰った銀月の眸に瞬いた真宵が、なお声を紡ぐ。
「あら、以前わたしに簪を見繕ってくれると言ってましたけど」
「それは合意の上でしょ」
 思い浮かぶ顔はある。これだけ花があるのだから、渡したいと思うものもあるのだろう――と、他人事のように思う。
 それでも、氷月はたった一本を選ぶつもりはなかった。引き結ぶ口許が幽かに溜息を零すのは、人々の和やかな談笑に呑まれて消えた。
「欲しいかもわかんない相手には渡せないや」
 眇められた眼差しの先に、それでも花畑を見る男を見上げて、真宵もまた思案げに息を零す。視線を外して鮮やかな花弁を見据えても、彼の腹の裡にある暗がりは見えそうにない。
 だから。
「わたしはそういうのも贈り物だと思いますよ」
 せめてその暗雲の一筋でも払えるように、殊更いつも通りの声で告げた。

九鬼・ガクト
香柄・鳰


 満開の花々の香りは混じり合ってなお甘やかだ。季節を感じさせぬ花畑を行き交う人々の浮かれた足取りを前髪の奥から見通して、九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)は顎を一つ撫でた。
 彼の営む店にも同じように季節を問わず咲く花がある。彼の髪の色と同じ藤の花が乱れ咲く様子を思い浮かべたのは店主ばかりでなく、横で目を細める従者もまた同様だった。
「不思議な場所は案外、世界中にあるのですね」
 香柄・鳰(玉緒御前・h00313)の茫洋とした視界にも鮮やかな色はよく映える。鮮烈な蒼天の下で混ざり合う、一見して混沌とした花々の並びも、彼女の焦点を結ばぬ目には一枚絵のようだ。
 首肯するガクトの脳裡には数多渡って来た√の記憶が過ぎる。未だ彼らが――或いは誰もが――足を踏み入れたことのない、奇妙でありながら美しい土地は、夜空の星の如く数え切れぬほどに広がっているのだろう。
「それこそ、鳰と色々観に行けたらいいね」
「まあ! 有難きお言葉。我が主となら世界の何処なりとも」
 弾む少女の声色には、しかし絶対の忠義が滲む。常と変わらぬ従者の姿に微笑んだガクトが歩調を合わせるのもいつも通りだ。
 近寄った花畑の横合いで、係員が声を上げている。一人一本までです――再三繰り返される注意を、主従二人は一本ならば貰っても良いと捉えた。
 遊歩道から花畑へ、花を踏んでしまわぬよう慎重に歩む。こうした感覚には目の利かぬ鳰の方が鋭い。足許の感触を丁寧に確かめて前を進む彼女に従い、ガクトは周辺をのんびりと見渡した。
「んー、色々あり過ぎて悩んでしまうね」
「季節に縛られない分、選択肢も広がりますね」
 距離の遠い花は種別までは断定出来ない。近付かねば見えぬ鳰は勿論、ガクトの方も自然と足許を見下ろす形になる。
 目についた花を一つ一つ数え、戦場になければ穏やかな主の声が幾つかの花を見定めた。
「夏椿やジャスミンも良いね。夏を感じるし、どちらも良い香りがする」
「素敵でいいですね」
 香りを優先するのはこのところ染み着いた性分ゆえだろうか。目の利かぬ従者は、必然耳や鼻に頼る機会が多い。
 その鳰はガクトよりも間近に花を検分する。眼差しが追うのは鮮やかな色合いの中になお美しい真白ばかりだ。
「私は……ジューンブライドなんて言葉を聞いたせいかしら。つい白いお花に目が留まってしまいます」
「ジューンブライド? ――あぁ、花嫁さんの意味だったね?」
 純白のドレスを連想するのは当然のことだろうか。祝福の穢れなき色であるせいもあるやも分からぬが、どこか擽ったく笑う少女が顔を上げた。
「ガクト様は何を選ばれますか?」
「私かい? 私は……どれにしようかね?」
「あら」
 悩むように一つ一つに指先を伸ばし、厚い前髪の奥から花畑を覗くガクトの声に、鳰が瞬いた。
 彼を象徴する花といえば一つばかりしか思い当たらない。故にそれを手に取るものだと思い込んでいたが――。
「てっきり藤を選ばれるとばかり」
「んー? それも考えたけど、藤はいつでも傍にいるからね」
 たまには他の花を選ぶのも面白いものだろう。旅先の、斯様に不思議な花畑に足を運んだ記念にもなる。
 主の手が迷っている間に、鳰の繊手が一つを摘まみ上げる方が先だった。真白ばかりを辿っていた焦点を結ばぬ目にも、蕾と花の差異は分かる。たまさか見付けた蕾の一本は、ちょうど彼女の心を映すようであったから、手折るに迷いはなかった。
「白梅かい?」
「ええ。花言葉は『忠義』だと聞きまして」
 気付いたガクトに、やはり迷いのない手が己の選んだ花を差し出した。
 ――こうして並んでいるとき、鳰が考えるのはいつでも同じことばかりだ。主に捧げるに足る、似合いのものを、心に宿す芯と共に贈ること。
「どうかお受け取り下さいませ」
 跪いて恭しく伸ばされる蕾にガクトが驚くことはなかった。彼女の忠義が全てを通じてガクトに捧げられることは、既に理解している。
「んー? 私の為の花かい? 相変わらず私一番だね」
 心意を示す花を、その信義と共に何気なく受け取ることを礼として、主の眼差しはようやく一本を定めた。
「それでは私も鳰の為の一本を」
 手折られたのは牡丹一華。アネモネの鮮やかな花弁は、奇跡の如き青色をみずみずしく湛えて、幾度となく血を浴びた男の手に収まった。
 くるくると手遊びに回して見せた彼が瞬く従者へ笑みかける。戦場に立ち続けていたときはむろんのこと、一歩を引いても藤が宿す意味すら考えたこともなかった。それが、横でしげしげと花を見遣る鳰が控えるようになってからというもの、目に留めたことすらない景色が見えるようになったように思う。
「花言葉など昔は気にした事なかったが、鳰のおかげで詳しくなったね」
「まあ……私から覚えてくださったのですか?」
 望外の栄誉に弾むように笑った従者へと、主の指が迷いなく青い花を差し出した。
「『固い誓い』。こんなモノ無くても鳰は傍に居るだろうけど、一応ね」
 たかが花一輪。それでも籠められた意味を知った者は、それをある種の縄のように思わずにはいられまい。これ一つで縛れるというのなら安いものだ。
 両手で包むように受け取った鳰が笑った。そのまま凛然と頭を垂れるさまからは、やはり花のあるなしに左右されるような心でないことばかりが伝わって来る。
「ふふ、そうですね。私の心は既に白梅に託しておりますが――幾度なりと誓いましょう」
 真っ直ぐに真の通った声が幾度となく繰り返された誓いを再び唱えた直後――。
 少女の顔が持ち上がった。かぐわしい香気が鼻を刺激したのだ。
「――あら、花の香りが一段と」
「んー?」
「もしや咲き開いておりませんか」
 指摘されれば遅れてガクトも気が付いた。手中の白梅に目を遣れば、今にも綻びそうだった蕾が鮮やかに花弁を広げているのが見える。
 鳰の目にもよく見えるよう差し出してやれば、殊の外嬉しそうに、従者は笑った。
「綺麗に咲いているよ」
「ふふ、よかった」
 これでガクト様に祝福が訪れますね――。
 己の選んだ花が咲き綻んでなお、主の未来が寿ぐことばかりを屈託なく願う姿にこそ、ガクトは微笑んだ。
「君の誓いは美しいね」

夢見月・桜紅


 常日頃、髪を彩る淡い紅色とは違う、丸みを帯びた桜の花弁を光に翳す。
 造花は色褪せても、残ったものの美しさは変わらない。夢見月・桜紅(夢見蝶・h02454)の眼前に広がる花畑と、今ここにある人々の笑みほどには、鮮烈には映らずとも。
 やれることが沢山あるらしい。どれもこれも気になるばかりで選択肢を絞るには苦労する。折角の催しの片隅に足を踏み入れるのだから、花を一輪選びたいが――。
 風に舞う桜の散花に似た足取りはカフェの鎮座する一角を選んだ。一つを選び取るより前に、花畑の全体をゆっくりと見ていたかったのだ。
 看板商品の珈琲は慣れた手付きですぐに提供された。青薔薇の花弁を黒い湖面に浮かべ、桜紅の眼差しはごく自然と花畑を行き交う人々に移される。
 睦まじく顔を寄せ合い花を贈り合う。柔らかな表情と紅潮する頬は未来の祝福を疑いもしない。その仕草を目で追えば、我知らず唇に笑みが灯った。
「……どうか、幸せな未来がありますよう、に」
 唱える祈りが真実になるよう、今は道行きの暗雲を払う――珈琲を口に運びながら、寄り添う彼らの未来の光に決意を一つ固めて、桜紅の眼差しはふと机上に落ちる。
 ――思い出す人がいる。
 口振りも声も、顔ほどにはよく思い出せない。元より言葉少なな彼が心を示してくれるときには、声よりも指先を向けられることが多かった。彼女が今も大切にしている贈り物の一つを見詰め、ふと紅色の眼差しが影を帯びた。
 今更、誰かの幸いと己の喪ったものを重ね合わせることはない。それでも、もしも彼が未だここにいてくれたなら、きっとああして共に歩いて花を探せたのだろう――と思うことは止められない。
 |紫葉《しよう》。
「……いけません、ね」
 甘いチョコレートの味わいが、苦い珈琲に呑まれてしまうようだった。こんな想いで折角の祝福に満ちた一角に陰りを生んではいけない。大きく首を横に振ってみても、面影ばかりは追い出せはしなかった。
 珈琲を飲み終えたら、次は花に近付いてみる。見渡す限りの花々の中には未だ綻びかけた蕾が混じっているらしい。開花する瞬間を見ることが出来れば幸運の祝福が降り注ぐ――というが。
 桜紅の繊手は今にも花開きそうなそれには触れなかった。
 この場にいる他の誰かに――或いは、誰かの幸運を願う誰かの手に収まる方が、彼女自身の幸いよりも貴ばしく思える。
 代わりに手を伸ばしたのは既に開ききった花だった。一輪の芍薬の濃紫は、桜紅の心の裡に住まうその人の眼差しの色によく似ている。
 瞼の裡から見詰めてくれる紫色が好きだった。今も喪失の鈍い痛みと共に、確かに唇に笑みを灯してくれるほど。
 握った茎はみずみずしい。花弁の一枚に至るまで凛とした芍薬の香りを楽しみながら、桜紅は己の胸中に満ちた惑いに答えを出した。
 もう片方の指先には桜のヘアピンがある。古びてしまったそれと、手の中にある彼の色と――泉の底に捧げるものを、どちらにすべきかと思ったのだ。どちらも手放しがたく、しかしどちらもが相応しいように感ぜられる。
 遊歩道にめがけて花畑を戻る僅かな間の思索は、しかし最終的にひとところの決意に収まった。
「やっぱり、花にしましょう、か」
 光を受けるヘアピンは既に花弁が丸くなり始めて、彼のいない年月の長さを痛切に訴える。それでも桜紅にとってみれば、今や指折り数えるばかりの痕跡のうち、忘れ得ぬ大切なものだった。
 陽光を辿り、桜花の足取りは柔らかに人々の幸福の合間を縫っていく。やがて辿り着いたダンジョンの先、立ち込める暗雲を振り払うために。

ラナ・ラングドシャ
ラデュレ・ディア


「ラナ、お花がいっぱい咲いていますよ……!」
「わぁ~~! ほんとだ!」
 重なる歓声は二つ分。花畑に遣っていた視線をどちらからともなく見合わせたラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)とラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は、慣れ切って久しい身長差にも同時に破顔した。
 甘やかな香りにも花弁の一枚一枚にも何らの瑕疵もない。鮮烈な蒼天を僅かに湿り気のある風が撫でていくのも含め、五感の全てを楽しませてくれる花の群れを見渡して、ラナの耳が興味深そうに揺れた。
「二人で来てる人が多いんだね?」
「ええ。ジューンブライド、というお祭りなのです」
「じゅんぶれーど……?」
 ――大きな猫の頭に思い浮かぶのは、花弁の露のように煌めく荘厳な剣である。その輪郭を曖昧になぞった桃色の眼差しがラデュレを見下ろした。
「なんかかっこいいね!」
 思わず小さく笑みを零した小さな兎が訂正することはなかった。今ここにあって大切なのは正しい知識と講釈ではなくて、弾けるようなラナの笑顔であるからだ。
 二人並んで歩き出す遊歩道にも幸せの煌めきが満ちている。互いに夢中の人々の合間を縫いながらでも、ロップイヤーの兎の控えめな声は猫の耳によく届く。
「泉への贈りものは、何にいたしましょう」
 問われてラナも空を見上げた。持ち込んだものでも買ったものでも花でも、選択肢は幾らでもあると星詠みは言った。しかし――。
「なんでもいいが1番考えものだよねぇ……」
 そう言われると迷ってしまうのは生き物の性か。腕を組んで唸るラナは、ふと返るはずの返事が聞こえないことに気が付いた。
 横を見ればラデュレが俯いている。足取りもどこか覚束ないような、今この瞬間から切り離されているような姿に首を傾いだ大きな猫が、瞬きと共に声を上げた。
「――? ラーレ、大丈夫?」
「……はっ」
 顔を上げたラデュレの焦点がラナに定まる。
 湖面に映るものが|何《・》であるのかに気を取られて、すっかり意識が現実を離れていたようだ。苦笑めいた控えめな笑みで、ロップイヤーを揺らした兎が首を横に振った。
「つい、ぼうっとしてしまいました」
「にゃ……疲れちゃった? ちょっと休む?」
「ありがとうございます、ラナ」
 歩くに支障はない。しかし友人の純粋な心配も受け取りたかったし、何より行きたい場所もある。繊手で指差した黒板には、青い薔薇の花弁を溶かして飲む珈琲が手描きされていた。
「お花畑を眺めながらお茶をするのは如何でしょう?」
「! お茶したーい!」
 案内されたのはテラスの一角である。泉への贈り物を考えるのには充分すぎるほどの光景に目を遣って、ラデュレがふと笑った。
「お花は以前、ラナから贈っていただきましたね」
 とても嬉しかったのを、覚えているのですよ――声音は思い出すように、或いは今も傍にある心を取り出すように、ごく自然と響いた。
 他方のラナは首を傾げる。互いに幾つも交換して来た思い出のうちで、花といえば。
「あ、キーロッドのことかな……?」
「ふふ、そうです」
「えへへ、気に入って貰えてたなら良かった!」
 誕生日に贈ったキーロッドの花も、互いに贈り合った思い出の一つである。どちらの手にも大切に収まっているのもお揃いだ。
「ボクもラーレに貰ったキーロッド、大切にしてるよ♪︎」
 弾けるようなラナの笑顔と、控えめなラデュレの微笑みの間に、もう一つ違いがあるとすれば――。
「早くラーレと並んで使いたいなぁ」
 ラデュレはそうした力に親しんでいて、ラナは練習中の身であることくらいか。
 未来を切望するように煌めく桃色の眸へ、紫紺が首を横に振る。ラデュレとて完璧に使いこなせているわけではない。未だ秘めたる力を並んで揮える日のためにも、伸ばした手に籠めた決意はお揃いだ。
「頑張りましょう、ふたりで……!」
「……! うん! 一緒に頑張ろう!」
 運ばれて来た珈琲にも仲良く薔薇の花弁を浮かべる。どちらにとっても珈琲は未だ大人の飲み物だったが、チョコレートを入れれば甘やかになるはずだ。チャレンジも奏功するだろう。
 気合いを入れて青薔薇を見詰める猫舌の猫を促すようにして、ラデュレもまた弾む心を連れて黒い湖面を掻き混ぜた。徐々に融け出していく青は黒に呑まれて色を失っていくけれど、その解けていくさまと共に立ち昇る甘い香りは、花束を思わせて期待を煽った。
 そうして二人とも、ちょうど良い温度になった珈琲に口をつけて――。
「ふふ、まろやかで美味しいです……!」
「――にゃっ! 美味しい~~!」
 苦味は柔らかく解されて、甘いチョコレートが口内に優しさを残してくれる。二人だけのパーティーはあっという間に過ぎ去って、後には贈り物を選ぶ任務が立ち塞がるのみだ。
 二人並んで訪れた土産物屋の扉を身をかがめて潜り、ラナが耳を忙しなく動かして問うた。
「ラーレは見たいのある?」
「わたくしはプリザーブドフラワーの花束が気になっております」
「ぷりざぶどふらわー……! なんか言ってたヤツだ!」
 どういったものかまでは想像が及ばなかった。しかし目の前でラデュレが選び取るのを見れば、彼女が好みそうなものであることは分かる。
 友人の手にすっかり似合った夏色の花束を嬉しそうに見詰めたラナも、ごく自然と己の贈り物を手に取った。
「じゃあボクは、この栞にしよっかな♪」
 花畑に似ていたからだ。花の一輪ではなくて、その花弁を幾重にも折り重ねて作った押し花の栞――目にも鮮やかなこの土地の花々を閉じ込めたようなそれが、確かにラナの笑顔によく似合うように思えて、ラデュレも楽しげに頷いた。
 そうと決まればやることは決まっている。お互いらしい捧げ物を手にして、もう片方の手に相手の手を握って、二人は逸れないように歩き出した。
「では、心を込めて泉へとお贈りいたしましょう……!」
「うんうん! 早速贈りに行こう!」
 鮮やかな晴天が二人の前に映し出すダンジョンの中にあるという、未来を映す湖面――。
 映るものへの一抹の不安も、今は繋いだ手の温もりに解けて、花の香りと共に宙を踊るばかりだ。

キアラ・ザ・アスフォデルス


 金色の髪も漆黒のゴシックドレスも人目を惹く。
 凛と伸ばす背も、自信に溢れる表情も、蒼天に映える存在感を理解しているからだ。本拠地とは国を違えど配信は√を違えねばどこでも見られる。キアラ・ザ・アスフォデルス(|冥花の魔女《The Asphodelos》・h09526)の名を知る誰かが|画面の外《プライベート》の彼女を見て意外な印象を受けることなどあってはならぬ。
「失礼しますわ」
 故に、遊歩道のうちでも細い道で立ち止まったカップルたちに掛ける声も台詞も、ぬかりなく|キアラ《魔女》の色をしていた。
 道を譲ってもらった先に目当ての花が咲いている。迷いなく摘み取る一輪は、|キアラ《魔女》を象徴する真白の不凋花だ。冥府の野に咲き誇るといわれる花弁が、己が心を映す鏡面に捧げるに相応しく日差しを反射するから、キアラも眼帯に隠れぬ赤い眸を満足げに細めた。
 やがて立ち戻った大きな遊歩道から見る景色は壮観だ。四季折々の花々が全て一堂に会する光景を見る機会など、ともすればこれ一度きりかも分からない。竜漿が豊富に融けた土の齎す恩恵は、成程観光資源として扱うに相応しい、ここだけの光景といって差し支えなかろう。
「……一緒に来たかったわ」
 思わず零れた声に片手で口を塞いだ。
 美しい景色を見るたびに思い出す顔があるのも、最近ではよくあることになってしまった。そのたびに無意識に残念がる己に思考が追い付いては驚いてばかりだ。斯様な心など、これまで抱いたこともない。
 同時に脳裡を掠める一抹の思考が眼帯の下の右目の煌めきを曇らせる。|見える《・・・》ところには一片たりとも滲ませてはならない――人目のあることが奏功したか、|キアラ《魔女》は浅い吐息一つで全てを振り払った。
 振り払えたかは兎も角として――。
 楽しいことを思い付くことは出来た。土産物屋に向かう人々の波に乗って、体験を共有出来ぬ代わりに物品を贈ることにしたのである。
 調度品であれば住まいにも似合うだろう。アンティーク調の卓上鏡は季節別に巻き付く花が違うらしい。どれもあしらいが美しいし、飾られる花を引き立てるためにシックな色合いをした花瓶にも使う当てがあるはずだ。ラグやクッションは座るときには重宝するだろうし、何より大きく刺繍されている花々は華やかである。
 幾らか迷ったキアラの繊手は、しかし最終的には別の一角へと伸びた。
 栞に次いで人気であるのだろう、種類の豊富なプリザーブドフラワーである。元より花束になっているものも幾つも並んでいたが、彼女が視線を遣ったのは一輪ずつ選べる花々の方だ。
 これならば魔術なしでも枯れないし、手入れの難もあるまい。好きなものはあまりない――と言っていたのを思い出せば、指先が自然と選び取るのは、|キアラ《・・・》自身の好むものだった。
 どの花にも表の花畑と同じで傷一つない。色褪せているふうもないトルコキキョウを幾つかと、室内の灯りにも大輪を鮮やかに主張している薔薇は、合わせてみれば思うよりもずっと華やかな花束になる。
 それでも幾らも迷うのも不思議な気分だった。より|良い《・・》一輪を選び抜くために睨めっこを続け、やがてようやく納得のいった花束を手にカウンターへ向かう。
「纏めてしまってよろしいですか?」
「ええ。よろしくお願いいたしますわね」
 紙の色は一番映えるものを。リボンは――青を。
 手慣れた様子で作業を続ける女性店員の手許を見詰めて、キアラは誰にも拾われぬよう、吐息を零した。
 大丈夫だ。|キアラ《魔女》らしい物言いも表情も変わりはしない。斯くあらねばならぬと、己の胸中を戒めて立っていられる。
 ――わたし、まだ、自分を騙せるわ。

第2章 冒険 『捧げの泉』



 ダンジョンの入り口から件の泉までは、一本の隘路が続いている。
 二人並んでちょうど歩ける程度だろうか。恋人たちは寄り添って抜けるのだろう道の横には、踏み入る者を導くように、淡く光を零す鉱石が煌めく。
 やがて開けた場所で、静謐な湖面だけが客人を迎えてくれるだろう。
 捧げ物を投げ込む前に泉を覗き込めば、以前ここを訪れた人々の祈りの証が、驚くほど透明な水底に揺らいで見える。しかしひとたび何かを浮かべれば、たちどころに鏡面の如く底を隠した水面に胸裡が浮かび上がる。
 希望と不安の天秤が重い方に傾いた先――。
 心に抱くのが煌めく光であるならば、心底から望んでいる未来を。
 或いは暗澹たる闇の方が濃いのであれば、心底から忌避すべき未来を。
 二人で覗く者のどちらの目にも輝きが眩しく映るときには望みが約束される――もしどちらかが希望より強く不安を抱いているのであれば、二人で歩む道を定めるには時期尚早だというだけの御伽噺だ。信じることも、迷信だと笑うことも出来る。
 一人で覗けば己の裡へ向き合うこととなるだろう。映った先見は確たる預言とはなりえずとも、今の胸中を映し出す鏡の役割を果たす。
 何が映るにせよ。
 悪魔が客人に気付くまで、未だ時間は残されている。
暁・蓮月


 恐れることも躊躇うことも何もないはずだ。
 心の天秤を映し出す湖面は静謐に来訪者を迎えた。紫苑の花を握り締め、暁・蓮月(霧中之蓮・h12991)はその前に立ち竦んでいる。
 心の裡を探れど理由らしい理由は見付からない。何らの憂いもなく歩むべき道の先が暗渠に途切れたような漠然とした重圧が、胃の腑に蓋をする感覚で青年の足を縫い留めている。
 ――だが、いつまでもこうしているわけにもいくまい。
 何にせよやらねばならぬことは目の前に迫っているのだ。己を鼓舞するために吐き出した息がやけに弱々しいのも捨て置いて、蓮月は手にきつく握っていた紫苑の花を泉に浮かべた。
 刹那に目を逸らしたくなる。
 何が映るのかを予期していた。荒唐無稽なはずの、一笑に伏すことすら容易なはずの想像がやけに現実味を帯びて背にのしかかる。しかし恐れを自覚してしまえば余計に現実味を帯びるような気がして、振り払うように目を凝らす。
 蓮月の抵抗も虚しく、泉の湖面は無慈悲に彼の心を映した。
 灯りの点らない部屋に独り蹲り、肩を震わせている己の姿をまざまざと直視する。涙の理由には見当もつかない。心を守るために歪めた認識が正されて、|引っ越した《・・・・・》育ての親に二度と会うことも出来ない未来を――理解出来るはずもない。
 ただ、泉の向こうには、彼の背を支えてくれる誰かも、彼に寄り添ってくれる誰かもいないことだけが事実だった。
 親しんだ誰もが呆気なくいなくなるのではないか――漠然とした不安は癒えぬ傷となって深層心理に刻みついた。それを正しく見詰めることすら出来ない蓮月は、しかし得心に近しい息で湖面に応ずる。
 最初から分かっていた。理由は何も分からずとも。
 星詠みに曰く、望む未来か避けたい未来が湖面を彩るらしい。斯様な結末に至りたいと思うはずもなかった。即ち、忌避すべき幕引きであるということだろう。
 大丈夫だ。
 これは預言ではない。
 蓮月の中に蟠る正体不明の不安が映し出した幻のようなものだ。これから先の道行は、彼自身が幾らでも変えていける。未来へ抱く恐怖は恐怖でしかあり得ず、それが即ち現実に圧し掛かることなどない。
 ――ないようにしなくてはならない。
 今の彼は非力ではないのだ。研鑽の機会も幾らでもある。信念なき力は唾棄すべき悪を呼ぶが、力なき信念は蹂躙されるのも√仙術サイバーの掟だ。
 強くならねば。
 |今度こそ《・・・・》――誰も失わないように。
「もう、俺は子供じゃない」
 きつく握り締める拳と零れた言葉を乗せて、紫苑の花は音もなく湖面の向こうに呑まれて消えた。

メイ・リシェル


 広い空間に響く足音が、出来る限り小さくなるように気を付けた。
 仄灯りの間を抜けたメイ・リシェル(名もなき魔法使い・h02451)を出迎えてくれたのは、静謐に澄んだ泉だった。荘厳な祈りの場であるようにも、ただ小さな子供らのための秘密基地のようにも見える湖面に浮かぶ静けさを壊さないよう、少年の足取りは慎重に水面を覗き込んだ。
 土産物屋で買い求めたライラックの押し花を小さな掌に握っている。底に沈んだ誰かの捧げ物までも見通せる美しい湖面を揺らしてしまうのは些か忍びないが――。
「これも必要なことだからね」
 囁く声と共に、メイの指先は栞の舟を慎重に手放した。
 ほんの幽かな波紋と共に着水した押し花が音もなく沈んでいく。しゃがみ込んだ彼の前でたちどころに鏡面の如く揺らいだ泉が、心の天秤を映し出す。
 ――水面の向こうの少年はひどく孤独に見えた。
 見えない友人との間にあった見えない糸は無慈悲に絶たれた。己の心の思う最も忌避すべき未来の先で、メイは自らの|碇《Anker》との間にあったはずの堅固な繫がりを永久に喪失している。
 起こり得ないことだ。分かっている。Ankerの居場所はメイの空想世界であるのだから、彼が頭の片隅にでもそれを保持し続ける限り、いなくなることも感じ取れなくなることもない。だというのに胸が軋むのは、永劫の時間と定められた寿命の間にある別離の味を、未だ鮮明に覚えているからだ。
 置いて逝く方はいつも勝手だ。
 短いばかりに鮮烈な輝きで世界を照らして、矢の如き光陰の中を駆け抜けて、永き時間を生きる者の前からいなくなる。遺された者が褪せない思い出を握り締めてどれほどの孤独を受け取るのかなぞ知りもしないのだ。あまつさえ、会えて良かった――なぞと笑いさえする。
 握りあった手との間に、少しずつ生まれる大きさの差など知りもしない。どんどん離れていった背丈があっという間に近付いた頃には、幼かった顔には深く皺が刻まれている。それを。
 メイがどんな気持ちで見詰めていたか、きっと考えもしなかったに違いない。
 それでも。
 少年は立ち上がった。自由になった両手で帽子の縁を握る。屈託のない短い光の笑みに再び出会ったとしても、出会わなければ良かった――とは口が裂けても言えないから、今、彼はここに立っているのだ。
 当て所なく続くダンジョンの向こう側の闇から、やがて悪魔が現れるのだろう。その指先が戯れに人々の幸福を切り裂いて、その足が玩具のように人々の喜びを踏みにじらないために――。
 メイはただ、浅く息を零して暗闇を見る。

堀・允人
駒月・咲


 占いは好まぬ。
 横合いを歩く男が全く無造作に足許に転がる灯りの一つを手に取ったものだから、堀・允人(魂剥ギ・h07457)は深々と溜息を吐いた。
「拾いモノでいいんですか? 討伐対象と会うためなんですから、少し真面目にやってくださいよ」
「摘んだ花もこの辺の鉱石も同じじゃないか?」
 対する駒月・咲(Jaculus・h00701)はといえば、手にした仄灯りの鉱石を幾度か手遊びに投げ上げて、常と変わらぬ笑みで首を傾いだ。
 どうあれ現地で調達しているのであるから大差はないだろう――というのが彼の言い分だ。どうあれ映るものが変わりないのであれば良かろうと判じた允人の方も、それ以上の言及はしなかった。
 静謐な湖面が眼前に広がっている。むろんのこと二人揃って投げ入れて伝承に従うつもりはない。口火を切ったのは咲の方である。
「堀、先にやるか?」
「よろしいので」
「俺は何ってわけでもないしな」
「私も同じですケド、そう仰るのであれば」
 懐から取り出したコインを眺める蟲の血色の眼差しには気のない色ばかりが乗る。
 悪魔なるものが他者の心を弄ぶのは理に適っているとして、泉までも未来を――それも己の願望なぞを映したものをそれと騙るとは、腹に不愉快が蠢く。預言の鏡であっても眉を顰めるところだ。徒に人心を惑わす意味では、この後に待つ悪魔と大差はない。
 他に思索もなかった。ただ義務的にコインを弾いた允人の眼差しは、己の胸裡の湖面に映したものが何であるのかさえ、目にするまで歯牙にもかけたことはなかった。
 揺らぐ泉が映すのは、ただ秩序を失った街である。
 誰もが己のことだけを考えているようだった。他者を信じた者から踏み抜かれて消えていく。欺瞞と暴力と抑圧と――およそ世において悪と呼ばれるものの全てが蔓延ることを、誰しもが当然と受け入れる世界だ。
 心震えるほどの歓喜はない。しかし厭な気もしなかった。であればこれは|希望《・・》であろう。
 やがて天よりの火と硫黄が捌きを下すとき、使いが誰かを逃がすこともないのだろうそれに背を向けて、允人は凍てた眼差しで同行者を一瞥した。
 視線に気付いた咲が顔を上げる。先まで覗き込んでいた街に忌避も恐怖も抱くような性分ではなかったが、それが照らす光であるのか、それとも伸びた影であるのかは、彼には予測がつかない。
 交錯した細い眸からも分かりはしなかった。ともあれ当人が気にしていないのであれば言及することでもないだろうと判じて、咲の手は光る鉱石を投げ入れた。
「ふは、マジか」
 映すのは――闇である。
 いつでも鏡の向こうに見る己の姿だった。それが微動だにせず崩れ落ちている。目に光の宿らぬことは見て取れたし、飛び散る血痕を見れば相当の目に遭ったことは易々理解出来る。
 成程二度目の失敗は許されなかったということか。既にターゲットか横入りの何某かは現場を去っているらしい。後は彼の骸が冷えていくだけだろう。
 咲の心にある忌避すべき未来の形があまりに一度目のそれと似通っていたせいか、凄惨な光景とは裏腹に唇は笑声を零した。
 斯様な死に方を最も厭うか。
 ――それもそうか。
 ――|あれ《・・》は一度で良いな。
 覗き込むともなしに見遣っていた允人の声が呆れを滲ませて、今日何度目かの溜息を零した。散々トラウマになっていることは承知の上として、|これ《・・》に映る姿は咲の言と殆ど一致している。
「そこそこ現実じゃないですか」
「分かってるなら同じ轍は踏まないさ」
 やはりやけに他人事じみたような声に目を糸の如く眇め、允人は同行者から奥へ続く道へ視線を移した。
 義務は熟した。この下らぬお遊びが、本当に悪魔の目に留まるのだかどうだか。

雨夜・氷月
物部・真宵


 曰く湖に何かを捧げれば、未来が映し出されるという。
「アンタは何が見えると思う?」
 今は己の顔の他に何も見えない泉を見詰め、雨夜・氷月(壊月・h00493)の銀月が問うた。足先で湖面に波紋を作る彼を後方から目を眇めて見遣る物部・真宵(憂宵・h02423)は、いざ直面すれば幽かに揺らぐ不安を振り払うように小さく首を横に振った。
「感情に左右されるのでしたら、そう悪いものではないと思いたいですね……」
 底に揺らぐ無数の捧げ物から離れた氷月の手は彼自身の最も親しんだ武器を手にしている。手で弄ぶ煌石を一瞥したのちに湖面を見下ろす。
「俺は捧げたところでロクなモノは見えないだろうけど、悪魔を呼ぶのに必要なら投げとかないとね」
「これまで悪戯してきた人たちからの仕返しの様子かもしれませんね?」
「んっふふ、その方がなんか軽そうだね!」
 ――笑声と共に、胸裡にあるものも全て吹き飛ばしてしまえれば良かった。
 期待など疾うに捨てたつもりだ。それでも敢えて|爆弾《・・》を選んだのは、一抹の光を望んだからに他ならぬ。希望と不安の天秤が前者に傾くことを求める心は、しかし氷月がいつでもそうされて来たように、失望の痛みで応えた。
 血に塗れている。今度はどうして死んだのだろうか。花街の廃墟の一角であることだけは何も見ぬうちから分かるのだから奇妙なものだ。
 花を贈りたいと思った相手も、彼の名を当たり前に呼ぶ声も応えない。彼らと過ごした部屋に血をぶちまけた光景がやけに見慣れたものに思える。
 どれだけ保証を貰っても足りない。いつか必ず訪れるのだろう破局を忘れられず、しかし諦め切るには信じすぎて、昏く陰る銀月は軋む胸中を笑みに変えた。
「こんなもんか」
 押し殺した声もそこまでだ。目を背けるようにしていきおい振り返った彼は、殊更楽しげに何やら考え込んでいる同行者へ近寄っていく。
「ね、アンタは? 早く入れてみてよ、はやくはやく!」
「あっ、はい!」
 果たして、真宵が氷月の変調に気付くことは出来なかった。彼の背を見ているようで、脳裡には先の会話がぐるぐると巡っていたからだ。
 未来――などというものに思いを馳せたことはない。不透明に揺らぐ向こう側の景色よりも、今手にした灯りで見えるほんの一歩先を考えるばかりだ。 
 それでもふと思い浮かべてしまうのは、黒髪から覗く穏やかな八の字眉である。
「カミガリと付き合う未来かな?」
「な、なに言ってるんですか! もぅっ!」
 まるで脳内を言い当てられたような気になって肩をいからせる真宵を揶揄うように、氷月の声は軽やかに笑った。
 気を取り直して大きく呼吸をする。明日には会えるだろうか。細やかな願いの積み重ねの先を見通すように、紫陽花を歩み寄った湖面に捧げる。沈んでいったそれの向こうにいるのは――。
 ――慌てて両手で顔を覆い、目をきつく伏せた真宵の変調に、氷月の方はすぐに気が付いた。
 横から覗くまでもなく耳まで紅色に染まっているのがよく分かる。己の胸中も忘れて瞬いた男に、真宵の声がひどく弱々しく問い掛ける。
「……あの、雨夜さん。付き合うって具体的にどういう状況を指すんです……?」
「え?」
 質問の意味を咄嗟に掴みあぐねる。首を傾いだ氷月は、揶揄より先に素直な回答を口に出す。
「……好意を伝え合って一緒にいるとか?」
 真宵がますます赤く染まるのを見た。
「そう、なんですね……」
 何を見たのかは明白だった。思わず零れた声がひどく意外そうな響きを帯びるのも、彼の制御の外だ。
「マジな感じ?」
 小さく、しかし確かに頷いて――真宵は忘れられもせぬ湖面の姿を思い出す。
 己を真っ直ぐに見詰める眼差しは優しい。開いた口の音は聞き取れずとも、それが己を呼んでいたのはすぐに分かる。その愛おしげな微笑みが、痛みを訴えるほどに熱い頬に宿って、抜けてくれなかった。

シリウス・ローゼンハイム
プロキオン・ローゼンハイム


 構造物によって仄かに照らされたダンジョンの道行は、幸いにして二人を阻むような代物ではなかった。
 底までもを見通せる美しい湖面を一瞥した兄と弟――シリウス・ローゼンハイム(吸血鬼の|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h03123)とプロキオン・ローゼンハイム(シリウス・ローゼンハイムのAnkerの弟・h03159)は、揃いの色の双眸を、どちらからともなく水面へと注いだ。
 ――兄の目に映るのは弟の姿だった。
 しかし今そうしているように手を繋ぎ笑い合う幸福の未来ではない。揺らいだ湖面が顔を覆う、女とも男ともつかない誰かの凶刃に成すすべなく晒されて、眸と同じ生命の色を止めどなく零して倒れ伏す銀の髪である。
 プロキオンは√能力者ではない。
 戦う力はむろんのこと、心臓を穿たれれば二度とは元には戻らないのだ。
 息を詰めるシリウスの眦が険しく吊り上がる。たとえ湖面に映る幻であったとしても許せはしない。そも、彼は斯様な未来を齎さぬために武器を取っているのだ。
 ならば何故――自問するまでもなく、兄は理解していた。一度限り守るのは決して難しいことでなくとも、守り続けるのは易いことではないからだ。いつかたった一つのミスが、この未来を現実とするかもしれない。押し殺す漠然とした不安は、穏やかな蜜月の日々にも決して拭いきれるものではなかったらしい。
 他方、弟の前には己の姿だけが揺らぐ。
 日頃から彼らが過ごしている家は、今や見る影もなく荒れ果てていた。その中にただ一つ置かれたベッドの上で眠っているのはプロキオン一人だ。ただそれだけの、委細の知れぬ映像が何を示しているのか、彼には直感的に理解出来た。
 戦いに赴く兄を見送った後で、弟に出来ることはただ無事を祈ることだけだ。その願いが届かなかったとき――即ちプロキオンの告げるべき|おかえり《・・・・》も、シリウスが告げてくれる|ただいま《・・・・》もない世界である。
 花畑の中で喧伝されていた伝承と比べ、目の前に示された湖面の写し取るものはひどく悪趣味だ。プロキオンが恐れ、いつでも心のどこかに抱く怯えを、まざまざと示して見せるとは。
 今の生活が永遠に続けば良いと思う。その他に望むことなど、もはやプロキオンの心の中にはありはしない。だからこそ――。
 呆気なく砕かれる日が来ることが、このうえなく恐ろしい。
 足許から凍えるような不安が背筋を遡上する。振り払うように伸ばし、力を込めた指先は、兄の掌の温もりをきつく握り締めた。
 それで、シリウスは弟が己と同じようなものを――回避すべき未来を見たことを悟った。
 安心させるように握り返したのは、何もプロキオンのためだけではなかったかも分からない。彼自身もまた、弟を離したくはなかった。
 空いた手に握っていた花は未だみずみずしく咲いている。殆ど同時に、兄弟の指先はそれを泉に投げ入れる。
 兄のカスミソウは、漠然と抱き続ける恐怖から逃れるために。
 弟の勿忘草は、彼自身によっては変え得ぬ未来を回避するための祈りとして。
 二人の不安を希望に塗り替えるため、花々は音もなく泉に触れた。途端に二人の眼差しに映った恐ろしい姿が掻き消える。地に零れ落ちて染みる紅色も、荒れ果てた部屋で現実に背を向けるように眠り続ける銀色も、花の生み出した揺らぎによって乱れて――。
 沈んでいった二輪を贄とするかの如く、二人の胸の奥底に揺蕩う不安を映し出した景色は、音一つ立てずに掻き消えた。
 後に残る静謐な湖面を覗き込んでも、生きる彼らの他には何も映らない。

チェスター・ストックウェル


 青白い画面は知りたいことを何でも教えてくれる。
 横に浮かべた一輪をカメラで撮影する。ダンジョン内部の構造のせいか、やけに音が響いた。ややあってチェスター・ストックウェル(幽明・h07379)の前に示されたのは、色は違うが同じ形の花についての情報だ。
 アイリス。花言葉は希望と信念。
「ふうん」
 独り言ちるような声音に呼応したのはここまでついて来た|お騒がせ幽霊《フーリガン》たちだ。めいめい彼の手にある端末を覗き込もうとするものだから、同じ幽霊同士の質量がそこかしこから襲い掛かって、チェスターは頓狂な声を上げた。
「わ、近いって!」
 揺らいだ念動力を見るや蜘蛛の子を散らすように離れたフーリガンたちはいたく楽しげだ。思わず不服げな溜息を零したチェスターは、気を取り直して花に視線を移す。
 こうして花の一種一種に意味を付与するというのは面白い。短い時間といえどもここまで運んで来た特徴的な花弁が背負った意図を理解すると、途端に湧き始めていた愛着が盤石なものに変わっていくのを自覚した。
 こうなると些かならず手放し難い。泉に投げ入れてしまえば手許に残らないわけであるし――。
 いつまでも花を見詰めているチェスターへ、フーリガンたちが劈くようなブーイングを始めるのに時間は掛からなかった。ゴールの瞬間を見たがる彼らから耳を塞いでみせて、エースストライカーは二度目の溜息を吐いた。
「わかってるよ。そのためにここに来たんだから」
 みずみずしいアイリスを念動力で泉の方へ押しやる。静謐なそれに慎重に浮かべてやれば、僅かに立った波紋が映る幽霊たちを掻き消して――。
 映るのは見慣れた顔だった。
 相変わらず厳めしい顔の男がチェスターに小言をぶつけている。どれもこれも聞き飽きたものだから早々に離脱して、追い掛けて来る声が溜息に変わった頃に班室に辿り着く。仲間たちは誰も彼も変わりなくチェスターを迎え入れ、ソファを一席開けてくれた。
 雑談の横から無表情な薬師が現れるのもいつものことだ。無感情な揶揄いに応じて最後には笑うのも。
 違うことがあるとすれば、泉の向こうのチェスターは既に大人になっていることか。
 歳を重ねる幽霊なぞ聞いたことはない。事実、彼は己の生命の途切れたところで永劫に足を止めたままだ。誰もが彼の死を悼むべき輝かしい思い出の一節にする中で、チェスター一人があのときのままサッカーボールを転がしている。
 たとえ夢物語の中で再び肉体を得ることがが叶って、二度目の生を受け取るとして、体が成長しようはずもないのに。
 曖昧な笑みが、永遠の少年の裡より零れた。
「ちょっと笑えるね」

和紋・蜚廉
不忍・ちるは


 どちらからともなく伸ばした腕が絡み合う。
 狭い道を寄り添って歩くとき、指を絡ませているだけでは不十分だった。歩調を合わせる和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)の腕へ身を寄せて、不忍・ちるは(ちるあうと・h01839)の足音が規則的に硬い地を踏む。
「どんな未来が映るんでしょうね」
「そうだな。きっと望むものだ」
 常よりも体温が近い。香りも声も殊にはっきりと感ぜられるものだから、蜚廉は己の心拍が狂うことが伝わらぬように願う他になかった。
 ダンジョン内部の構造のせいか、やけに反響する吐息が耳に障る。変調に気付かれぬよう殊更に気を鎮めんとする男の横で、泉のあるのだろう道の先を見詰めるちるはの内情も、表情とは裏腹にいたく忙しなかった。
 思い付く|未来《ロマン》の数々は相応に抱いている。しかしそのどれにも大きく期待しすぎて浮つくのもいかがなものか。今にも走り出して確かめたいような、ぐるぐると巡る空想の一つ一つをじっくり確かめたいような――散り散りに幸福を求める思考が可能な限り一匙も表に出ぬように、彼女もまた努めて常と変わらぬ歩様を意識している。
 互いの考え事に気を取られていたせいか、或いは距離の近しい故か、長く感ぜられた通路もじきに途切れる。辿り着いた先の静謐な湖面へそのまま近寄って、二人はちらと視線を交錯させた。
 手にした芒を水面に浮かべる。二つ分の幽かな揺らぎをまんじりともせずに見詰めていた二人の前で、沈み込んだ穂の向こうに|同じ光景《・・・・》が映った。
 蜚廉にとっては見慣れた生活拠点だ。カーテンから差し込む清澄な日差しは朝のものだろうか。焼き魚と湯気を立てる白米の慎ましやかな食卓を囲み、|二人《・・》が笑い合っている。
 心底から穏やかな時間である。何やら会話をしているようだが、声までは届かない。
 男は安らいだ己の表情に得心した。当然だ。ちるはがいるのだから――。
 ――朝に、彼の家に。
 思わずと隣に遣った視線が交錯する。瞬きを繰り返した後に水面に目を遣るちるはの反応といい、どうやら映る景色は二人で揃いであるようだ。
 いつか訪れるのだろうと頭の片隅に思い描いていた日々の形が同じである事実にも、泉に籠められた伝承にも、否応なしに落ち着かぬ脈拍が速度を上げる。己の口が落ち着くためでも溜息を零さぬよう念ずるほかに、蜚廉にやりようはなかった。
 他方のちるはは石のように泉を見詰めている。映る光景を処理するので手いっぱいで、幸か不幸か隣の男の様子には気付いている余裕がない。まずは望む未来が映ったことに安堵して、それからそこに蜚廉がいることに素直に喜んだ。食卓に並ぶのはメニューと日差しからして朝食のようだな――と思ったところで二度見する。
 朝食を二人で。
 意味するところを理解せずにはいられない。映る光景にある二人の慣れた様子からしても、弾んだ調子からしても、都合の悪い想像は一片たりとも挟まる余地がない。
 ぐるぐると渦巻く思考を吸い取って、花が咲いたような気分だった。ありとあらゆる感情に浮足立った脳内から、それでも伝えねばならない感想が、たった一つの言葉に変わる。
「おいしそうですね」
 ぽつりと零れた幸いの声に、蜚廉はようやく己を取り戻した。
 逸り昂る心は湖面から隣のちるはに移る。じっと水面を見詰める横顔に確かな幸いの色を見た。言葉と同じ、暖かく柔らかな未来への希望を湛えた表情を見ていると、高鳴っていた心臓が奇妙に落ち着いていく。
 代わりに胸中を占める穏やかな愛おしさに任せて、男は小さく笑った。
「そうだな」
 ――水面に映る己と、奇しくも同じ顔をしているとも知らず。
「とても……|幸せ《おいし》そうだ」

五槌・惑
佐野川・ジェニファ・橙子


 曰く望む未来か忌避すべき未来かが映るそうだが。
「アナタって『わ〜いハッピー♪』って思うこととかあります?」
「有るか無いかと言えば無いが」
 己を想起させると同行者が言って憚らない花を手に淡々と返す五槌・惑(大火・h01780)のそれが、足るを知るに近しいものであれば、佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)も唇を尖らせずに済んだのだが。
「もっと楽しくあれ」
「こういう性分なンだよ」
 惑に足りぬのは興味の方である。幸いだの不幸だの、目の前の揺らぎに一喜一憂して泉を覗き込むような|性《しょう》ではない。であるから、元より泉に大したものが映るとも思っていない。
 仕事だというなら従うまでだ。無造作に手放した赤々と燃える葉が湖面に揺らぐのを、一歩下がったところから橙子が覗き込む。彼女の握った分の花は持ち帰りの土産物だ。此度は惑の裡にあるものを映してみよう――というのは、ここに来るまでの取り留めのない会話で互いに承知している。
「……どう?」
 返事の代わりに惑が僅かに横へずれた。
 橙子の目にも、むろん彼の目にも、何ら変わりのない水面が映っている。ただ|今《・》を反射するばかりのそれも彼らしいといえようが――。
「解釈に困りますね」
「良い方に解釈するのが前向きで良いンじゃねえか」
 少なくとも惑にとっては悪いものではない。化生として追い回されることも暴威を揮うこともなく、世間様に紛れて平穏無事に、最悪の想定からすれば些少の不合理を飲み干して生きている。
「自分が自分でなくならないなら何でも良い」
 望みはそれだけだ。流星を眺めたときと何ら変わりはしない。
 女の唇が息を零した。映り込んだものが彼にとって悪いものでなかった――というのに安堵したのもそうだ。しかし何より、かの一夜に聞いた言葉がようやく腑に落ちた。
「曖昧だったの、実はね。性質の話でしたら、あたしの返事は間違ってなかったと思うのだけれど」
 男は応とも否とも口にはしなかった。
 代わりに琥珀の眼差しが一度泉を見下ろして、それから溌溂とした女の眸を一瞥する。
「アンタの永い一生の暇潰しになれるなら幸運ではあるだろうよ」
「あら、そう? この遊興を幸運と判定してくれるのでしたら、精々アナタの平穏を守れるようにはしますよ」
 上機嫌に唇が持ち上がる。もう一つの可能性として指折り数えたものを湖面に映すようにしてみても、どうやら橙子は|判定《・・》から弾かれているらしい。
「他人の評価の話となると……」
 こればかりは永く生きたところで見通せぬ。
 千差万別の眸の奥を全て覗き込むことなど出来るわけもなし、いざそうして惑が他者の不躾な視線に怯えられたとして、取りうる手段があるとすれば――。
「あたしがアナタ以上に暴れて有耶無耶にしちゃうって手もありますよ」
「有耶無耶になるか、掌返して泣きつかれるかの何方かだな」
 とはいえ彼女が腹を決めて大暴れを始めたら、およそ誰かに抑えられるような状況にはならないのだろうが。
 なってしまえばなるようにしかならぬのも事実である。惑は元より他者の眼差しによって態度を変えるつもりもなし、いざ噛み合わせの悪さで何らかの不都合が起きたとして、橙子がどう反応するも彼女に一任するほかない。
 面倒でしょう――と笑う女が、映らぬ湖面を見遣って男の隣に並ぶ。
「お互い、そうならないよう頑張りましょ」
 それは今から考えておくことでもないだろう。起こるときは何事も起こるものだ。
 起こってしまったことを数えれば、惑が集中すべきは今のところ一つである。
「ひとまず無事に土産を持ち返らせることから努力する」
「期待してるわ」
 後ろ手の花は、女の手中で未だ甘く咲き誇っている。

ジュード・サリヴァン


 燃え落ちた灰に再び火の灯ることはない。
 希望は飽き足らず食んで来て、絶望は飽きるほど飲み干した。ジュード・サリヴァン(彼誰・h06812)の眼差しの先にあるのは、今より彼自身の未来への天秤を映し取るらしい水面というより、その向こうに沈んだ祈りの証左である。
 旧いものは朽ちてしまったのだろうか。それでも数多、積み上がるほどの人々の願いが沈んでいる水底へ、ジュードは己の手にした太陽の如き花を添える。
 映るものを予期して揺らぐ心は、疾うに嵐の中で凍てついてしまった。過ぎ去った日々の揺らめく灯火を懐かしむばかりの眼差しには、希望も絶望も映りはすまい。
 だから――これはただ、花が好きだった|彼女《・・》のところへ、この想いごと花弁を届けるための儀式にすぎない。
 指先を柔く離した。ほんの幽かな波紋を立てたマリアが音もなく湖面の向こうに消えていく。やがて鏡面のように揺らいだそれが写し取る景色の中にジュードはいない。
『もう、ジュードったら。また、難しいことを考えているの?』
 唇を尖らせた愛らしい非難の色は、彼の記憶の中にあるものと変わりはしなかった。だが並び立つ未来も応える己も、男の目に映ることはない。
 分かっているからだ。
 忘れ得ぬ声も面影もどこにもない。永遠に喪われてしまったものの隣で微笑む道は疾うに鎖された。彼女とジュードの間に隔たった凍てつく悲しみの川は、二人の間を永久に|別《わか》って、此岸に遺された心を根雪の中に沈めてしまった。
 |未来《きぼう》はない。|過去《ぜつぼう》も。
 今も水面の向こうで笑いながら、再び彼に笑い掛けてくれることは二度とない、彼女の姿の他には――何も。
 それでも、泉を覗き込んだジュードの唇は笑みを刷いた。ただ一つ彼の心に雪解けを運んでくれるはずの、今はどこにもない笑顔は、思い出の中にある通りに彼を見詰めてくれている。男の眼差しが彼女に向けられたときにはいつもそうしてくれたように、先までの拗ねるに似た表情をすぐにも明るく花咲かせてくれるのだ。
 捧げた黄金のマリアよりも美しい。あの花畑の中で燦燦と光を浴び、揺らぎひらめいていた花弁のどれも、彼女には敵わない。幾度も――彼女が隣に在ったときから、それが永遠に続く幸福であると疑わなかったときから繰り返した心の裡が、今も変わりなく湖面に揺らめいている。
 刹那の邂逅はやがて失せていくだろう。その手を取ることも叶わぬまま、在りし日を写し取った水面の幸福が静かに解けて――。
 後に映るのは、唇に幽かな笑みの名残を刷いた、男の姿が一つだけ。

シルフィカ・フィリアーヌ
ルミオール・フェルセレグ


 水底には朽ちず褪せない花が咲いている。
 根を失ったそれらも、やがては泉の一部になっていくのだろう。しかし今シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)の目に映る湖面の奥には、数え切れない人々が祈りを託した証の一部が、今もみずみずしく咲いていた。
 ルミオール・フェルセレグ(星耀のアストルーチェ・h08338)の気配が隣にいることは、いつの間にか疑いようもなくなっていた。静謐な水面へ視線を向けたまま、女の指が傍らの大きな掌に重なる。
 ――控えめなそれを、ルミオールの手は迷いなく握り締める。
 二度目の別離が襲い来る不安が頭の奥底にこびり付いていたのはここに来るまでの話だ。シルフィカの言葉は彼の裡にある蟠りを綺麗に拭い去ってくれた。笑み返す余裕さえ見せる彼の仕草に安堵するのは、今度は女の方だった。
 彼を元気付けるための言葉は、果たして彼女自身を鼓舞するためのものでもあった。一人であれば仄かな不安は灯りに照らされて膨れ上がって、花を浮かべることに幾らも躊躇したかも分からない。
 それでも――二人だから。
 祈りの証左を揺らがせる水面に、己の願いを込めた花を託すのに、何らの恐怖も抱かない。
 泉はまた一つ声なき祈りを受け止める。応じるように鏡面が映し出すのは、二人の裡にある希望への祝福だ。
 手を繋いで笑い合うルミオールとシルフィカの前に、何らの影も掛かっているようには思えなかった。どうやら年季の入ったらしい家は彼らと同じように歳を経て、しかし語らう表情の柔らかさには何らの代わりもない。
「ねえ、シルフィカ」
 浮ついた心を制する方法も見当たらぬまま、ルミオールの声が小さく弾んだ。
 泉の映す穏やかな幸いが眩しいのは――彼女が共にこれを望んでくれていることを、理解したからだ。
「君とずっと一緒に居たいって、思っても良い? 今視えたこの景色を、いつか本物にしたいって」
 じっと湖面に注がれる眼差しを見上げたシルフィカが小さく笑う。
「……ずっとそう思っていたんでしょう?」
「……うん、ずっと思ってるんだけど」
 言葉にしたことはなかった。きっとお互いに。
 女も視線を落とす。その先に笑う己の姿をなぞりながら、取り戻せぬ過去を思う。嘗て竜であった己が果たして彼の心に応ずるに足るだけのものを差し出せていたのか、記憶のないシルフィカには分からない。まして全てを忘れた今の彼女が、どれほどのものを手渡せているのかなぞ尚のことだ。
 それでも――。
 二度目の出会いからずっと、ルミオールは彼女との未来を、驚くくらい真っ直ぐに願い続けてくれている。
 それが心の底からの願いであることを前にして、彼女の唇は観念したように微笑んだ。応えの代わりに掌を握り返して問い返す。
「……わたしも、あなたとの未来を願っても良い?」
 全ての答えを受けて――ルミオールは心底から安堵したように笑った。
「うん。それなら、きっと本当の未来になるよ」
 優しい声にシルフィカが顔を上げる。いつかの己が見ていたよりも背が伸びたのだろう。嘗ての己が知るよりも、ずっと大人らしい顔をしているのだろう。
 それでも、ルミオールの眩しいほどの眼差しは、ずっとシルフィカに注がれ続けているのだろうことだけは――疑いようもない。彼が隣にいるのが、いつの間にか当たり前になっていたのと同じように。
「初めて逢ったあの時からずっと、今も――俺の命も想いも全部、君のものだよ」
 想像よりずっと穏やかな未来の温度への一歩が、互いの掌を伝播する。

クラウス・イーザリー


 天秤の片方がそっくり抜け落ちている。
 己の目に満ち足るものが映ることはないだろう。クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)の欠落は|希望《・・》だ。斯様な身の上で望む未来を双眸に映すことが出来るとは、それこそ最初から望むべくもないと理解している。
 それでも、彼の指先はここまで握って来たカスミソウを持ち上げた。清澄な水面の奥に揺蕩う数多の祈りの証を見詰めながら、クラウスの心に浮かべる面影へ告げるための感謝の思いを投げ込む。
 音もなく湖面に沈み込んだそれが波紋を作る。広がる鏡面の向こうで――クラウス一人が、地にへたり込んでいる。
 夥しい血痕は混じり合い、誰のものかも分からなくなっている。今や指先一つも動かぬ人間だったものが、彼を囲むように斃れているばかりだ。見るまでもなく名を思い出せる顔と、親しんだ髪の色が鉄錆の香りを吐き出しながら転がっている事実に、鏡面の中のクラウスは涙さえも枯らしたようだった。
 映し出されて初めて――青年は自覚した。
 数多を喪った傷は癒えず膿んでいる。未だ血を吐き続けるそれを忘れることも振り切ることも出来ずにいる。しかし彼の中には同じだけ、今ある絆の煌めきが宿っているのだ。同じことを繰り返す未来を、心底忌避すべきものだと無意識に定義づけるほどに。
 ただの夢占いじみた迷信だとは思えない。そう思えるだけの希望すら、彼の裡からは欠落している。ともすれば明日にも迫っているのかもしれない未来を前にして、しかしクラウスは立ち尽くすばかりではいられないことも理解していた。
 希望を抱くには足りない天秤で、絶望するのはまだ早い。この悍ましい光景を現実にしてしまわないために出来ることを指折り数えるのは簡単なことだ。
 ――もっと強くなりたい。
 実力のことでもあった。或いは心のことやも分からない。どちらにせよ、クラウスの手が確かな|強さ《・・》を握り締めることさえ叶えば、眼前の凄惨な末路に背を向けて起こり得ない空想だと笑い飛ばせるようになるだろう。
 守られていることを自覚している。数多の手に縋りながら、力を借りてようやく笑えていることも理解している。だから――クラウスも、斯様な未来を避けるために、彼らに応じたいと思う。
 水面は揺らぐ。やがて鏡面は静謐な泉へと戻っていくだろう。清澄な水に沈んだ己のカスミソウと、隣り合うように湖面へ映る己の姿を見詰めて、青年は祈りの如き決意を手に握る。
 幸福を踏みにじり、誓いと祈りを引き裂くために暗がりより現れる悪魔を――待っている。

リュセル・アネスピア
アドニス・ガルダ・インファリリ


 勢いよく駆け寄って、覗き込む湖面に翠玉の眼差しが映り込む。
「見てください! 猊下! 泉にぼくの姿がうつっています!」
 背にある小さな翼までもそっくり写し取られた己に釘付けのまま、リュセル・アネスピア(夢醒・h12927)は幾度も瞬いた。後方より緩やかに歩み寄るアドニス・ガルダ・インファリリ(プシュケの花檻・h12904)の眼差しが、身を乗り出した被造物を穏やかに咎める。
「リュセル、落ちないように気をつけなさい。君が捧げ物になってしまったら哀しい」
「はっ」
 途端に体を離して立ち上がる仕草は、正しく年端もいかぬ少年のそれと変わりなかった。
 リュセルは己の責を忘れていない。うっかり泉に落ちてしまえば教皇猊下を守護する栄誉ある任務も台無しであるし、何より彼はアドニスのものだ。間違ってもいるともいないとも分からぬ湖面の主のものになるわけにはいかない。
 大人しく隣に戻って来たテディベア耳の頭を撫でて、アドニスは改めて水面を見遣った。
「捧げ物をしないと。リュセルはどうする?」
「捧げる、ですか」
 難しげに首を捻ったリュセルは、何を捧げるかに迷ったわけではない。そも|捧げる《・・・》という行為の意味が理解出来ていないのだ。
「まだ難しいかな。見ていてごらん」
 耳に伸びた白く長い指先が桜のピアスを惜しげもなく外す。愛しいSeraphからの贈り物と比べれば大した価値もないそれを、教皇は手本を示すように泉へと投げ遣った。
 仕草を瞬きもせずに見守っていたリュセルもそれに倣う。ダンジョン内の仄かに光る鉱石を一つ、綺麗だからと拾い上げていたのだ。
 やがて二つの波紋が混じり合う。映った景色を覗き込んだアドニスが不可解げに小さく息を零した。
 ――一面のさくらいろが、湖面を染め上げている。
 これが未来であるという。それもアドニスが心から望んでいるか、さもなくば心から忌避しているものらしい。とこしえの春、歪みなき幸いの祝福に埋もれて眠る、美しく穏やかな未来を示唆しているのか。或いは――。
「まるで猊下みたいに優しい桜色ですね」
 無邪気な声ではたと我に返った。
 リュセルには己の湖面に映り込んだものの意味が分からない。現は夢を見ないのだ。希望も絶望も夢想の果てにあるものであれば、彼にはそも理解が及ばない。
 故にアドニスのそれを横合いから覗いていた。翠玉の眼差しは紫水晶に屈託なく笑って見せている。
「ぼくがちゃんと目覚めのおうたを歌いますので、安心してお眠りください」
「君が起こしてくれるなら、私は問題ないね」
 アドニスが再び視線を落とした先、春の甘い色の意味は、やはり分からないが――。
「リュセル、君は現を絆ぐ者だ」
「はい」
 夢想は幸福である。
 苦しみを忘れさせてくれる甘い幻想は、しかしそれのみでは何をも解決しない。微睡みは何れ終わりを告げねばならぬ。苦難の満ちる現実こそが、生きるべき地であると告げるように。
「ぼくは現をつかさどる人形なので夢を見ることはできません。でも、素晴らしくて幸せな世界を猊下とともに作っていけると思っています」
「勿論。君が傍にいれば、とこしえの祝福が咲くだろうね」
 それこそがアドニスの|役割《存在理由》だ。
 幸福を祈っている。あらゆる手段を用いてとこしえの祝福に満ちた大地に微睡みなき幸いを咲かせること。それを永遠にすることが、彼がかの地に未だ在る理由だった。
 真っ直ぐに湖面を見詰める横顔を見上げたリュセルもまた、桜の色を湛えた水面へ決然と声を零す。
「猊下の理想と幸福を咲かすため、ぼくもとこしえにおそばにおります」
「いいこだね」
 伸ばした指先で柔らかな少年人形の髪を遊びながら、男は淡く目を細めて、笑った。
「きっと――春も喜ぶよ」

一文字・伽藍


 小さな花をつけた一輪は、名をアストランティアというらしい。
 星に願いを――共に在る護霊を思わせる花言葉だったからか、或いは単純にカフェを出て見渡した足許に咲いていてちょうど良かったからか、ともあれ一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)はそれを手折って泉に連れて来た。
 うろ覚えの記憶によればもう一つ花言葉がある気がする。確かシリアスなものだったはずだ。愛の渇き――であるとか。
 ともあれ伽藍には関係のないことである。|色恋沙汰《LOVEのはどう》を浴びに浴びて吸収した今、彼女に渇望すべき愛情などありはせぬ。否、馴れ初めトークは渇望しているかも分からぬが。
 ともあれ花弁を手放す指先には何らの迷いもなかった。見詰める泉に揺れる小さな花弁の先に何が映るかも、殆ど心配はしていない。
 今日が楽しく在れば良い。出来れば明日もそう在れば良い。そうして重ねていく日々に不安や恐怖の挟まる余地はなく、希望と絶望の天秤は片方が殆ど空のままだ。
 大それた願い事があるわけでもない。大仰な苦しみを飲み干しているわけでもない。昨日と今日に連なる明日が恙なく喜ばしく過ぎていくことを、毎日疑うこともせずに信じているだけだ。
 まあ――そういう日々に暗雲を見出すことがあるとするならば、全ての学生の怨敵くらいのものだろうか。
 長期休みの課題、厄介な授業の宿題、直近でいえば差し迫る夏休みに向けての期末テストが来週行われることだ。白紙の解答用紙にどれだけ答案を書き込めるか、またそれに幾つ点数がついて伽藍の元に戻って来るかと考えると気が滅入る。
 総じて極めて平凡で緩やかな未来予想図であるといえようか。しかし斯様な仕事をしていれば、世にある平穏の尊さも身に染みて分かっていようというものであろう。
「あれよ、平和が一番ってやつ。ね〜|アストランティア《お花ちゃん》」
 良い雰囲気の総括に、沈みゆく花は答えない。代わりに鏡面の如く漣を立てる湖面が伽藍に応じた。その揺らぎを見詰めているうちに、急速に現実的な不安が背筋を遡上し始める。
「……口に出したらホント怖くなってきた」
 幾らその日暮らしの楽しさを集めて出来ているような存在であるからといって、未来を予見せぬわけではない。予習もまた必要である。未来の己が今を楽しむための最低限の嗜みとして。
 やがて揺らいだ水面の先に、友人と笑い合っては配信画面に向き合う己の姿が映ったか、それとも誰にも見せられない点数のテストを抱えて蹲る己の姿が映ったか――。
 全ては伽藍とアストランティアのみぞ知る。

詠櫻・イサ
ララ・キルシュネーテ


 煌めく鉱石の輝きが、続く道を導いているようだ。
 みずみずしい花を手にして弾む足取りと共に、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)の双眸は上機嫌に弧を描く。もう片方の手を握り締める詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)は、間違っても彼女がどこかに飛んで行ってしまわぬように人を模した指先に力を込めた。
 今にも浮き上がりそうなララの姿に、イサの心までも同じだけの浮力を得たようだ。然れども彼は護衛であるから、聖女よりは地に足をつけていた。
 やがて見えて来た泉が目に入るや否や、小さな掌が燥いだ声で人形の手を引く。
「イサ、ついたわ!」
 二人の前には澄んだ湖面が広がっている。人々の祈りの証を底に眠らせたそれを見下ろして、人工の人魚が小さく声を零した。
「綺麗だな」
「そうね……泳ぎたくなるくらい」
「……気持ちはわかるけどやめとけ。ララが捧げ物だと思われたら嫌だ」
 思わず力を込めた掌と、思うよりも真剣になった声を自覚する。誤魔化すように溜息を零してわざとらしく視線を向けた先で、ララのアネモネが瞬いた。
「落としたのは金のララか銀のララか、とか聞かれても困るし」
「む! ララは金にも銀にもならないのよ!」
 とはいえイサが本気で困りそうなことはしないでおくのも嗜みだ。
 大人しく捧げ物を選ぶことにして、ララは可惜夜を孕んだ翼に迷いなく手を伸ばした。花を手折るより簡単に摘み取ったそれに目を剥いたのはイサの方だ。
「気分がいいから特別なのをあげるの」
「ええ!? |迦楼羅天《ララ》の羽根って勿体なくない?」
「そんなことはないわ」
 奇跡齎す神の翼も――迷いなく差し出す一枚の先にいる|かぞく《・・・》と共に未来を垣間見るためであれば、惜しくもない。
「イサ、一緒にやりましょう」
「聖女サマが望むんなら、いいですよ!」
 笑みに応じて渋々といった調子で受け取った羽を、イサの指先は柔らかく握った。
 無邪気な聖女と裏腹に、彼の方は同時に泉に捧げるのを些か照れ臭くも感ずる。共同作業――といって連想されるものは、どうしても心を暖かく揺らすからだ。
 やがて二人の前に現れたのは、見慣れた春の日差しだった。
 飽きることなく降り注ぐ桜吹雪の中で共に歩くのもいつものことだ。しかし映るララは幼い娘とは言い難い。背が伸びて大人びた輪郭を今と変わらず無邪気に緩めて、隣の青年へと何か語り掛けている。
 まず目を遣った聖女から己へ目を移して、イサは絶句した。
 ――継ぎ目のない関節を日差しに晒した彼は、ララと同じだけとは言い難くとも、歳を重ねているように見える。
 忌まわしい被造物を脱ぎ捨て、聖戦のための道具でなくなる日を夢見ていた。作られた心に抱く揺らぎが真実ヒトのものであれば良いと願っていた。
 それが叶って――まして成長する聖女の隣を、今と変わらずに歩く未来を見られたことに、胸の奥底が締め付けられるような喜びが込み上げた。
 煌めくララの花瞳がイサを見る。心底から幸福そうに笑い合う二人は、きっとララの大好物のうな重を食べに行くに違いない。きっと人間になった彼も、同じものを食べられるのだ。
「期待するのよイサ! ララ達の未来は明るいわ」
「ああ――こんな未来が訪れたなら……」
 ただの夢幻だと思いたくない。いつか願い続ければ叶うのだと、信じていたい――。
 目を細めるイサに、ララが首を傾げる。
「イサ、未来は自分でつくるのよ? 挫くものがあれば全力で粉砕してこそよ」
 思わずと湖面から視線を移した先にいつも通りのララがいる。今はまだ小さな背丈に我知らず笑みめいた溜息が零れた。
「……ララらしいな」
「そうでしょう?」
 胸を張る聖女のお転婆に――。
「うん。俺も、そうありたい」
 今ばかりは、小言は零れなかった。

夕星・ツィリ
ココ・ロロ


 想像の中の未来を映し出す泉とは、果たしてどこまでを叶えてくれるものか。
「小さな願いの先も映ったりするのかな」
「む~……どうでしょう」
 鉱石の仄灯りに照らされる夕星・ツィリ(星想・h08667)の横顔が首を傾いで問えば、それとは逆に同じだけ首を捻るココ・ロロ(よだまり・h09066)が難しげに応じる。
 見てみねば分からぬものは見てみねばなるまい。すぐにも破顔した黒い毛並みは、ころころと笑いながら隣を歩く友を見た。
「えへへ、ふたりでたしかめなきゃですね!」
「楽しみだね!」
「はい! たのしみなのです!」
 意気揚々と進めば細い道も何のその。待ち遠しく足音と翼音を重ねた先で、まず瞬いたのはツィリの煌めき宿す眼差しだった。
「あれ! 例の泉じゃないかな」
「……! どこどこ~?」
 白い指先を追ってココの眼差しが行ったり来たり――やがて見えて来た泉に顔を輝かせ、同時に駆け寄った先の水面を覗き込む。
 二人の顔を映し出した透明な湖面の奥底には、数多の祈りの数々がまどろんでいる。静かに揺れる証を数え、ココの声も期待に弾んだ。
「いずみのソコにいろんなのありますね」
「ね。色々な人が此処で祈りを捧げたんだね」
 摘んで来た花が一番に目立つだろうか。他にも土産屋で買い求めたのだろう栞や、花束も見える。私物と思しきものが何であるのかを目で追おうとするツィリを、はたと友人の頓狂な声が引き戻した。
「……あっ! ささげものしなきゃ!」
「あっ。そうだね」
 花は持ち帰る予定だ。各々が鞄から取り出すのは、ここまで旅を共にして来た物品だ。
 ツィリの指先は長い旅路の合間に見付けた羽を摘む。淡く白い輝きを一度目に焼き付けてから、そっと泉へ浮かべた。
 ココの小さな手は常に鞄の中にある一輪を取り出した。真白の花弁は魔法の気配を孕んで艶やかに輝いている。隣の手に倣うように水へ渡した刹那、波紋は鏡面となって二人が抱く未来を映し出した。
 ――黒いころころとした姿は今のココと変わりない。しかしその隣で跳ねるようにいるのは、猫のような形をした、二人の知らないふわふわの生き物だった。
 首を傾げたココが何度か瞬く。どこか馴染み深く感ぜられる色をじっと見詰めて、動きをつぶさに目で追った彼は、ついに答えに辿り着いた。
「……ツィリさんのいろ!」
「……えっ私!?」
 やはり水面の姿に首を傾げていたツィリが弾かれたように顔を上げる。もう一度まじまじと見てみれば、確かに猫のような耳を持ったふわふわとした毛は青を孕んだ白であるし、空と海を思わせる煌めく青色をしている。
 鏡を見たときに映る己の面影を感じ取って、彼女もまた幾度か瞬いて頷いた。
「確かに……色同じかも」
 ココがいつもそうするように跳ね回り、小さな翼で空を飛ぶ。繋いだ手の大きさも同じくらいだろうか。自由に空を泳ぎ回って、満足すれば花畑にダイブする。
 先程の彼のように花に埋もれてしまった姿を見れば、ツィリの唇からはごく自然と笑声が零れた。釣られたように、ココも笑う。
「えへへ、とってもたのしそう」
「友達と同じ姿で遊んでみたいなって想いを映してるのかな」
「ふふふ、そうやも!」
 湖面から目を上げたのは同時だった。見合わせた表情に浮かぶ喜色も同様である。明るい未来に希望の天秤を映し出して、ツィリが指を差し出した。
「もしも何時かあの姿になれる日が来たら、素敵なところたくさん教えてね!」
「もちろんです!」
 どちらともなく絡ませた小指が二人を結んだ。指きりげんまんの細やかな約束が互いの指先に点る。
「ココのだいすきななところ、ともだちにたくさんおしえたいのです!」
「えへへ。約束だよ……!」
 けものの小さな手のふわふわとした感触と、人の指先の細くも確かな温もりが、小さな未来を祝福していた。

黑・宵刃
森本・依鹿


 指先で回す花に、疾うに命の気配がない。
 案の定凍てついたそれを見遣る森本・依鹿(HUNTRESS・h13088)の横合いで、耳を揺らした黑・宵刃(|无貌《Wúmào》・h12479)が昏い紅色を瞬かせた。
「依鹿さんに触れられると、凍ってしまうのですか」
「ずっと接触してると、どうしてもね」
 貪欲な精霊は依鹿自身を蝕んでなお足りぬらしい。体から溢れ出る冷気があらゆるものを凍てつかせるから、彼女の指は命あるものに長くは触れられない。例に漏れずみずみずしいまま永久に時を止めた花の霜を、底抜けに明るい声が吹き飛ばすようだった。
「私はそうなりませんので安心して触れてください」
 胸を張った宵刃の声色は、ダンジョンの中にあっては常よりよく響く。思わず眼鏡の奥から見遣った先の、依鹿を唯一溶かし得る温度とよく似た無邪気な表情に、思わず溜息が口を衝く。
 伸ばした指先を疑いもしない。鼻を摘まんだ途端に耳と尻尾をぴんと立てた宵刃へ向ける声が呆れ混じりの笑声に変わった。
「……キミってほんと、お調子者だ」
「哎呀、鼻はご勘弁くださ……!」
 戯れ混じりに歩く仄灯りの隘路はやがて終わりを告げる。拓けた視界の先にある泉に歩み寄り、宵刃は手にしたガーベラを名残惜しげに見詰める。
 恐ろしいまでの分離不安も執着も、気に入ったものを手放すことを拒んでいる。一人であれば背を向けていたかも分からぬが、今日は手の中の花よりもずっと欲しいものが横にあるから、指先はすんなりと水面の方へ伸びた。
「いただいた花を捧げないといけないのは惜しく寂しいものですが――何、また別のものを頂戴すればいい」
 昏い紅色が媚びるように依鹿を見る。
「魂ですとか」
「はいはい。魂より前に、もっと私から欲しいもの探そうね」
 またぞろごく軽い声音であっさりと躱された。宵刃が分かりやすく尾と耳を垂れ下げるものだから、依鹿の喉が抑えきれない笑声を零した。
 怪物は果敢にも食い下がる。誰をも狂わせ得る貌の通じぬ相手は、果たして真っ直ぐに昏い赤を見据えて、揃いの眼差しで笑った。
「たとえば?」
「そうだね、たとえば――手をつないでほしい、とか」
 延べられた手にやはり分かりやすく破顔した宵刃が、目を輝かせて迷いなく凍てた掌に指先を重ねた。
「好的!」
 二輪の花が水面に吸い込まれていくのを、怪物の赤い双眸は大した感慨もなく見詰めていた。
 何かを恐れたことがない。不安を予期する力そのものを会得したばかりだ。あるとして、本能的に背筋を遡上する|死《・》への忌避感が似たような形を取るときばかりである。
 生きたいとは思えども、死にたくないとは思わない。斯様な身の上に見えるのが恐ろしい妄念のはずもなかった。
 今と変わらず、水面の向こうの宵刃の隣には依鹿がいる。違いがあるとすれば眼鏡の底の赤い眸が屈託なく笑っていることか。怪物の為すことの全てに笑みを返し、差し出すものを受け取って、どこか森の中で豊かに手を取り合っている。
 泉に映る依鹿にも怪物が必要だと一目で分かった。宵刃がもはや彼女のいない未来を描けないのと同じように。そうして永遠に二人寄り添い合って生きていければ良い。誰かと誓う玩具のような戯れではなく、本当の――。
 そこではたと宵刃は首を傾いだ。
 この未来を現実にするのなら、魂を手中に収めて良いのだろうか。
 真剣に悩む怪物の横で、瞬きもせずに鏡面の水面を見詰めていた依鹿は、諦めたように目を眇めた。
 未来に夢を抱く日々は疾うに過ぎ去っている。隣の怪物ほど煌めく眸をしていない。安心を知らぬ胸裡に浮かぶのは、案の定、忌避すべき未来の形だった。
 囁く木々が怯えるのは精霊のためで、風が悲鳴を上げるのは依鹿のためであるのかも分からない。凍てた雪に覆われる山中には生きた温度は一つもなかった。精霊の声に導かれるように足を踏み入れた|獲物《・・》が、|彼女《・・》のための紅色の絨毯の上に体を投げ出している。
 昏い赤をした眸。黒い髪に絡みつく鉄錆のにおいも凍れる風に薄らいでいる。夥しい命の証が誰にも踏み荒らされていない真白の新雪に染み込み、唯一残された足跡に溜まるのを――。
 依鹿は見ている。いつものように。
 死した宵刃を夢中で喰らう己の額に珠のような汗が浮いている。白い鹿も黒い犬も現れない夢に果てはない。起きれば――泉の向こうの己は今度こそ全てに絶望するのだろうか。
「ねえ、宵刃くん」
 ――浮かれてはいないと思っていた。
 情熱の矛先を全て奪われて久しい。今更になって戯れに熱を与えられて何になるというのか。運命なんぞと紐付けられた赤い糸が依鹿の体を否応なしに引っ張っていくのだとして、その先にあるものを唯々諾々と受け入れるしかない決まり切った無味乾燥な人生に、諸手を上げて喜んでどうなる。
 そう――思っていたはずだ。
「もし私がさ……」
 週末までの日にちを数えるようになった。
 心が弾むのは使い先もない休日手当のせいではなかった。何の気なしの|またね《・・・》の約束は宵刃のためだけではなかったし、来週のことを考えるのは職責のためではなかった。
 人並みに浮足立っていた。
 ――誰かの人並みを奪って生きている癖に。
「依鹿さん、依鹿さん」
 名を呼んだきり俯いて口を閉じた女を、怪物の声が呼ぶ。幾度も舌なめずりをするのは落ち着くための癖であると、今はもう知っている。
「随分、餓えているように見えます」
「――はは。そう?」
「ええ。手持ちに食料がなく、申し訳ありません」
 謝る声はいつもと変わりない。何を憂うこともなく、彼女が他者と同じものを喰らえると信じて疑わない。
 期待に応じられなかったことばかりを気にする声音が重くのしかかるようだった。水面の己の満ち足りた表情を瞬きもせずに見据えながら、依鹿は呻くように呟いた。
「そうだね。おなか、空いてる」
 あの夜から、ずっと。
「……依鹿さん?」
 彼女の香りは薄くて上手く嗅ぎ取れない。どうすれば良いのか分からず、曖昧に広げられた宵刃の腕が、以前の彼女を真似ようとしていることに気付いて――。
 依鹿は笑った。
 乾いた声だった。

香柄・鳰
九鬼・ガクト


 道幅はちょうど二人が並んで通れるほど。恋人同士であれば何ともお誂え向きの道程だ。
「何ともロマンチックですねえ」
 仄かな光を放つ鉱石が昏い隘路を照らしてくれる。ここを手を繋いで通れば、二人を祝福するようにも思えるだろう――幾度も頷く香柄・鳰(玉緒御前・h00313)の靴音がダンジョン内に反響する。
 横を歩く九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)の方は壁を彩る光を一瞥したきりだ。藤色の前髪の下の眼差しが次に向かうのは、意気揚々と連れ立つ従者の方である。
 今でこそ穏やかな茶屋の店主としての側面ばかりが表に出るが、元来のガクトは戦場を馳せた鬼神の如き男だ。見目の印象よりも大きいのは身長のみならず、鍛えられた体格もまた同様だった。
「んー、確かにロマンチックだけど、私では鳰を潰しそうだね」
「あら! 幅が足りない時は私が主を背負ってゆきますからご心配なく!」
「私が抱き上げた方が良いのでは?」
 如何ともしがたい性差も、未だ及びもつかない戦歴も含め、彼の方が力に優れるのは鳰も承知のうえだ。それでも自身の腕をにこやかに幾度か叩いたのは、彼女の自信の現れとでもいえようか。まさか主に抱えられる従者なぞ示しもつかぬところだ。
 ともあれ彼らの心配は杞憂に終わり、互いに地に足を付けたまま対面の叶った水面へと、鳰は己の荷物から取り出した藤の枝を一房差し出した。
「んー? 鳰も茶屋処の藤かい?」
「あら。ガクト様もですか?」
 奇遇というべきか――同じようにガクトが湖面へ浮かべようとしたのも、二人の日頃過ごす茶屋に咲く花である。
「同じでも問題ないよね?」
「きっと大丈夫ですし、お揃いなんて光栄です」
 同じことを考えていたというだけでも喜ばしいことだ。弾む胸中を隠すのも今更であるから、従者はもう片方の手に大切に握った花弁を指先に遊ばせる。
「先程いただいたアネモネは手放せませんもの」
「そんなに気に入って貰えて良かった」
「ええ! 勿論、主から頂いたものですから」
 常よりガクトを一心に優先する鳰の屈託のない言葉は相変わらずだ。すっかり慣れ親しんだ返しに微笑んで、主は手中の梅花に目を遣った。
 贈られた直後、咲いたばかりの花を泉に沈めてしまうのは些かならず忍びない。さりとて生花のままではどの程度もつものかも分からぬし――。
「栞にでもしてお土産にするかね」
「いいですね、私も押し花にしましょうか」
 鮮明な青は青空の如く鳰の眸に映る。褪せたとて名残が在り続ければ、花畑の美しい色彩と咲き零れた梅のいっとう際立つ香りを、きっといつでも思い出せるようになるはずだ。
 揃って指を離した先で、藤が静かに湖面へ吸い込まれていった。揺らぐ鏡面の向こうに映るのがどちらの秤であるのか、鳰には未だ確信が持てない。
 未来と呼べるようなものは考えないようにして来た。
 考えたところで訪れるとも思えなかったからだ。ぼやけた視界を補うために鈴を鳴らして位置を報せる命しらずにとっては、明日の朝日ですら遥か百年先の光明のように思えた。
 しかし――隣の藤色を横目に盗み見る。
 己だけであれば、何を見るとも知れないというだけのことだ。頭を垂れることを選んだガクトのことを思えば、心に満ちるのは安堵に似た柔らかな光ばかりである。
 彼は――。
 ガクトは鳰より先にはいかない。
 死すら傅く男の苛烈な性分を見て、彼女が恐怖することはなかった。ひとたび戦場に立てば往時の鮮烈な眼光を取り戻す彼が、彼女より先に斃れる未来を想像することが出来ないことに、いっそ安心すらしていたかも分からない。
 従者として、主を守りたい思いに変わりはない。それでもガクトが己よりも遥かに強く、揺るぎ一つない戦士であることを、鳰はもう知っている。
 明瞭な像を結ばぬ紫紺を静かに湖面に投げかける従者の隣で、主もまた真っ直ぐに泉へ視線を注いでいた。
 曰く希望と不安の天秤を映すというが、そもどちらにも錘の乗らないガクトにとって、この儀式が意味を成すのであろうか。
 争いのただなかに身を投じ血を浴びた日々の高揚は、我に返ってみれば一つも手中に残らなかった。己の死にも他者の死にも大した興味はない。戦場においてはあまりに身近にありすぎたそれは、一線を退いた今でさえ彼の隣人である。
 闘いの中で魅入った女はガクトに戦場に立つことを望んだ。今も性向は変わらぬだろう。それを受け入れていた己であれば――他者が闇と称する鉄錆のにおいこそ、希望であったのやも分からない。
 だが、今は。
 視線を遣った先の鳰が、彼と似通った|性《しょう》を持っていることを知っている。命を擲ってまでもガクトを護ろうとするのは、己の命の在り様に興味がないからだ。
 ガクトが死に身を投じることを望めば、従者は黙りはせぬだろう。或いはその忠誠で以て地獄の果てまで侍るのか。ともすれば闇そのものを切り裂いて、向こうにある光を指差してみせるのかも分からない。ならば。
 前髪に隠した眼差しにどちらが映るのだとしても――。
「どうされました? ガクト様。突然笑ったりして」
「んー?」
 小さく零れた笑み混じりの吐息を聞き遂げて、鳰は心底不思議そうに主を見上げた。穏やかな声音のガクトが見返してやれば、瞬く紫紺の双眸がなお少女らしい色をしているように思える。
「どっちにしろ、鳰と一緒なら楽しいと思ってね」
 紛れもない真実を告げた先で、いよいよ従者は破顔した。
「ええ、何処までもお供します」
 きっと――地獄の果てであろうとも。
 揺らいだ湖面が視界の端で形を変える。鏡面に映る光景をいち早く察知した鳰が、ぱっと焦点を結ばぬ視線を投じて燥ぐ声を上げた。
「おや、泉が何かを映している様ですよ!」
「あぁ、本当だね」
 二人にとって見慣れた光景だ。
 見ればすぐに分かる。輪郭のぼやけた視界でも、まさか日頃過ごす場所を忘れはしない。咲き乱れる藤の色、歩き慣れたショーケースの間――。
「これは……もしや」
 ガクトの茶屋処で彼の新作を味見する、湖面の向こうの己と同じ顔で、鳰が笑う。
 その横顔を一瞥して――ガクトもまた小さく穏やかな笑みを零した。
「なるほど。いつもの『普通の日常』が、一番の幸福なのかもしれないね」

ラデュレ・ディア
ラナ・ラングドシャ


 花畑のような栞を手にした大きな猫と、プリザーブドフラワーの花束を抱き締めた小さな兎が、泉の前に並び立つ。
 静謐な水面はどこか荘厳である。祈りの証の沈む湖底から反射する薄水が仄灯りのダンジョンに反射するのを見渡して、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は思わず息を潜めた。
 他方のラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)は上機嫌だ。唇は今にも鼻歌を口ずさみそうだったが、足音すらよく響く広場であるから、耳を揺らすに留めている。
 揃って捧げたものと共に揺らぐ鏡面を覗き込む。目配せで絡ませた視線の向こうで、友人たちが密やかに笑った。
「どんな景色が映るのかなぁ……!」
「ふふ。わたくしも楽しみ……です」
 ――煌めく未来が映ると、今のラナは信じてやまない。
 ほんの少し前まで、希望を考えるときにはいつも背筋に漠然とした不穏が這い寄っていた。形を変え、色を変えるそれに自慢の尻尾が下がらずにいられたのは、隣に立つ友人と|かぞく《・・・》の存在が隣にあるからだ。
 ラナがラナの心を信じていられるのも彼女たちが手を繋いでくれるから。きっとこの鏡面が見せるだろう輝かしい希望も、間違いなくラデュレたちの姿を映しているに違いない――。
 瞬く桃色の眸の奥に、光が瞬くのが分かった気がした。
 背中合わせにキーロッドを構えているのは大きな猫と小さな兎だ。二人とも常より勇ましい表情をして、沢山の敵を軽々と薙ぎ倒していく。ラナの隙をラデュレが埋め、ラデュレの背中をラナが守る。そうしてようやく取り戻した束の間の平和に、二人は小指を絡めて笑い合うのだ。
 ――これからもずっと一緒だよ。
 ――はい。ラナとわたくしはずっとお友達です。
 ラデュレを助け、|かぞく《・・・》の笑顔を守る。大切な友人たちも、ラナとは未だ縁の浅いいつか出会う誰かのことも、彼女の大きな体と力が守り救うのだ。
 泉の向こうで未来が燦然と煌めく。いつか叶うかもしれない、きっと手にすることの出来るだろう光がラナの眸を染め上げていく。
 心底に抱いた願いが燃え上がる。瞬く眼差しから零れ落ちる期待が、大きな猫の前で揺らいだ。
 ──■■■■■様みたいになれるよね……?
 刹那、ほんの僅かの一瞬に、眼前の鏡面が別の光景を映し出す。
 心に燃える炎が全てを包み込んだようだった。盛る烈火の中には見慣れた姿がある。自慢の尻尾を焼かれ、たっぷりとした耳も焦げ付いて、なおも|ラナ《・・》は一心に誰かを見詰めていた。
 焔の向こうに隠れた姿は見て取れない。燃え落ちていく己のことすら知らぬげに微笑む彼女の真意を見出す前に、全ては赤く鮮やかな光の向こうに呑まれて消えた。
 首を傾げるより早く、鏡面の光はすぐに美しい夢想に変わった。今度の光景は庭園だろうか。ラデュレと|かぞく《・・・》と共に囲む細やかなティーパーティーを桃色の目に見とめれば、先までの奇妙な炎の記憶はたちどころに吹き飛んだ。
 並べられた紅茶菓子に手を伸ばすラナを、ラデュレがいつものように笑って見詰めている。仔猫たちもくるくると気儘に飛び回った。幸福ばかりに満ちた未来に相好を崩した猫の脳裡には、先に見えた烈火の中の誰かのことなど、一片も残されてはいなかった。
 並んだ小さな兎もまた、穏やかで明るい日々が映る湖面を見詰めている。
 今と変わらない――ともすれば今よりも美しく平穏な時間を写し取るのは、ラデュレの相反する心の半分を確かに反映しているように思える。何も知らないまま、追い求めた過去をよそに続いていく幸福を受け止めることも出来ないまま、ラデュレの脳裡には幾度も巡った問いがまた渦巻いている。
 本当に、何も知らずに歩んでいるままで良いのか。
『───判決、』
 ふいに声が聞こえた気がした。反射的に触れた首筋が熱を帯びている気がする。しかしそれを気にするよりも前に、光景が紅色に塗り替わる。
 鮮血の如き深紅の向こうで、ラデュレの不安ごと抱き締めてくれる暖かな温もりが屈託なく笑っている。共に歩む旅路を疑わぬ表情は、しかしすぐに首から裂けるが如くして揺らめいて、消えた。
 代わりに映し出されたのは己の姿である。
『わたくしはもう、ラナと居られません』
 広げられた大きな猫の腕を、俯いた兎が押し退けようとしていた。
 冷たく凍るような声だ。表情は見えなかった。胸が痛んだのは、己の悲痛な決意を感じさせる声音が故ではない。そうして拒絶された大きく優しい大切な彼女が、泣きそうに歪んだ顔をするからだ。
『───いては、いけないのです』
 背を向けるラデュレを、ラナは止められない。忌避すべき未来の形を前に疼く胸を強く握り込んだ兎がか細い吐息を零した。
 何故。
 この心に、希望を食い潰すほどの不安など、ないはずなのに。
 引き結んだ唇で水面を見詰める。なかったはずの恐怖がふいに背筋を遡上して、脳裡にあるはずの楽天的な心を何もかも紅色に塗り替えていくようだった。半ば言い聞かせるように、ラデュレは胸中で繰り返す。
 大丈夫だ。
 斯様な未来が訪れるはずはない。たとえ全てを知ったとしても、ラナを拒絶して独り背を向けなくてはいけないようなことが起こりうるはずがない。
 取り戻したい――と思う。同じだけ、知りたくないとも、どこかで思っている。
 今この瞬間が続けば良いのではないか。白紙だった頃とは違うのだ。まっさらな記憶の中に幾つもの足跡を刻んだ今、もしかすれば手にした幸福の全てを否定するかもしれない忘却の先など、知らずとも良いのではないか。
 ――それでも、ラデュレはそれを否定する。
 前へ進まねばならない。今ここにある安穏とした日々に停滞するのではなく、未来へ続く自発的な幸いのために。
 だからラデュレは――。
「ラーレ、大丈夫?」
「あ……」
 問い掛けられて顔を上げた先に、いつもと変わらぬラナの桃色の眸があった。
 耳を僅かに伏せた彼女に首を横に振ってみせて、ラデュレはようやく、己の中にあった不安を、少しだけ払いのけることが出来たような気がした。

夢見月・桜紅


 芍薬の茎をしかと握る。仄灯りの道の先に煌めく水面を目指す足取りは、常と変わらず柔らかな歩調を保っていた。
 夢見月・桜紅(夢見蝶・h02454)の覗き込んだ先に、澄み切った泉がある。
 微睡む祈りの証が湖底に揺らいでいた。数え切れぬ人々がここに期待と不安を託したのだろう。そのうちの幾つかを目で追って、桜紅は己の指先に携えた一輪をそっと水面に浮かべた。
 渡したそれが音もなく沈んでいく。代わりに広がる波紋の向こうへ見えなくなる、今もまだ愛しい色を追う彼女の眼差しは、平穏に折り重なる毎日を思っている。
 託された古書店には幾人もが出入りするようになった。懇意にしている友人も、常連客も、一見の者もある。彼らが入れ替わり立ち替わり本棚を覗き遣る表情を思い浮かべた。懸命に目当ての本を探す横顔。運命の一冊を手に取ったときの綻ぶ口許。自分のものになった本を抱えて去っていく、軽やかな足取り――。
 全て桜紅が愛してやまないものだ。
 こういう日々が続けば良いと思っている。誰もが笑ってくれる日々の安穏とした幸いが、世界の片隅に永遠に近しく在れば良い。
 そう思う心は――本物であるのに。
 泉が映し出したのは、最初のうちは彼女の心根に違わぬものだった。早回しのように過ぎ去っていく水面の向こうの古書店の日々に、しかし徐々に暗雲が立ち込めるのが分かる。
 現れる客人の顔から笑顔が失われていく。誰もが暗い顔をして本棚の前に立ち尽くす。誰にも分からないのだろうか。彼らが立つ床を覆うように――或いは侵食するように、木の根が緩慢に広がっていくことが。
 まるで現れる人々の幸福を吸い上げているようだった。人の紡いだ暦のうち、半分近くを共にしたはずの青々と茂った大樹でさえも、急速に全てを黒く染め上げていく根に負ける日が来た。
 灰色に枯れ散った葉の代わりに、咲き誇る漆黒が揺らめいている。
 この世の悲嘆の全てを詰め込んだような、黒い桜が――。
 無情なる未来の形を前にして、桜紅はただ息を詰めているだけだった。不思議はない。きっとこうなるのだろうと、心のどこかで予期していた。
 桜紅は人間ではない。疾うに理解していることだ。幾度も繰り返された悲劇は彼女の心に幾つもの傷を刻み、未だ鮮烈な痛みを携えて拍動する。
 恐れが拭えない。否応なく、存在するだけで振り撒かれる力が、またしても何もかもを歪めて黒く染めるのではないか。希望がどれほど強くなろうとも、彼女に絡みついた不可分の根の齎す影は色濃く落ちたままだ。
 大切な友人たちが傍にいなくなることと引き換えに、桜紅は平穏を得た。抑えられた力は安穏とした日々に染み出すこともない。人々は桜紅の本来の形も、古書店の本当の主も知らぬまま、彼女の元を訪れては疑いなく笑って去っていく。
 ――この日々が永久に続けば良いと思う。
 永久に続く保証など、どこにもないからだ。
 明日には現実になるかもしれないと、心のどこかに思っている。振り払えない疑念は、まざまざと見せつけられれば尚のこと、軋むような苦痛を齎した。強く握り込んだ胸中――人の形をしたそれの中に渦巻いている|黒桜《もの》が、いつ溢れ出して全てを塗り替えてしまうのかなど、誰にも分からない。
 そんな日が永遠に来ないように、幾度も心に軛を打った。それでも、彼女がそうしたいと願ったことが一度もなくとも、結局は破局が訪れるのも理解している。だから。
 どれだけ己を安心させようと繰り返す言葉も――気休めの他に、意味は持たない。
 祈るように組んだ指は忌避すべき未来を避けるためではなかった。訪れてはいけない未来を防ぐのは当然のことだから――。
 どうか、いつか、この恐れを断ち切れますように。

久瀬・彰


 感じられないことと存在そのものが消え失せていることの間には、大きな隔たりがある。
 知ったのは、三十年の人生を思えば最近といって差し支えない。それでも分かっていれば心の準備は出来る。久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)の指先は、迷いなく泉に菖蒲の花を捧げた。
 二人揃って生まれて来たから誕生花も揃いだ。そういうことに詳しかった母が教えてくれた言葉も、信心深かった曾祖母と共に歩む信仰の中心地に咲いていたのも、よく覚えている。
 ――揺らぐ湖面に思うのは、結局は妹のことだった。
 置いて来てしまった片割れのことを想うときに、随分と前向きな考えが浮かぶようになった。元より感じられなかった不安が|あった《・・・》ことを理解したのは少なからずそのお陰だ。薄らいで始めて、己が抱えていたものの輪郭を知る。
 互いの心が同じであるのなら、いつかは叶う。それがどれほど先になるのかも分からないが――少なくとも、もう二度と会えないのではないかと荒唐無稽な想像を抱く必要はない。
 彰と彼女は生まれたときから繋がっている。
 結ばれた糸が切れたことはない。永久とも思える別離を経た後でも、漠然とした感覚は彼女の健在を訴えた。最近は幽かに、しかし確かに強まった繫がりが、この先にある再会への予感を確信じみたものに塗り替えてくれている。
 それでも――。
 彼の裡に掛かる霧が全てを覆い尽くす光景が見えても、或いは彼自身に知覚することの出来ない悍ましい未来が映り込んでも、驚きもすまい。
 鏡面のように揺らいだ水面の波紋の向こうへ、大輪が消えていく。静謐なそれにやがて映し出されたのは漆黒だった。
 |今《・》の彼女を、彰は知らない。
 だがすぐにも分かった。泉の向こうで彼の隣を歩くのは、紛れもなく彼の|半身《かたわれ》だ。
 あの頃とは違って体格には随分と性差が出た。纏う雰囲気も真逆であるのに、どこか似通った感覚を覚えもする。揃いの色をした黒い髪は、彰のそれとは違い長く美しく伸ばされている。
 着物を纏っているのは相変わらずだ。ともすれば、あの村には未だ洋装が流入していないのかも分からないとすら思う。どれほど文明的になったのだろう。彰の住まう|外の世界《・・・・》が、二十余年の間に目まぐるしく移り変わっていたせいか、あの村がどれほど変わっているのか――或いは変わらないのかに、想像が及ばない。
 談笑しているのだろうか。唇が動いているのが分かる。しかし声までは水面の奥底に沈んで聞こえなかった。笑い合う二人の穏やかな表情が、長きに渡る隔たりを感じさせないことだけが確かだ。
 ――奇跡を越えた先になお願いがある。
 もう一度会うことは決まっている。命運はやがて二人を結ぶだろう。だから、その先のことは、彰の我儘のようなものだ。
 名前を呼んで欲しい。
 彼女の名前を呼びたい。
 久瀬・彰ではない本当の名を取り戻さねば叶うことはない祈りだ。代償として支払ったはずのものにもう一度近付いて、どこかで諦めるように受容していた現実を乗り越えようとしている。それがとうとう叶った未来であるのか――それとも、未だ途上にあるのかは分からぬままである。
 分からぬということは、即ちどちらでもあるということだ。
 鏡面に映る未来が本物になったとき、そこにあるものだけが真実である。それが心の底から望むままの形をしているかどうかは彰が決めることだ。
 いつも通りの|楽観的《・・・》な考えで、唇に笑みを刷いた。知覚出来ないだけで、ともすれば存在するのかもしれない不安を、今だけは|ない《・・》と言い切れる。
 湖面の向こうで楽しげに声を交わす二人の姿は――そう信じるに充分なほど、幸福だった。

神崎・涼
ケヴィン・ランツ・アブレイズ


「なァるほど。ムーディーと言うかロマンティックと言うか、男女の逢瀬にはお誂え向きだねェ」
 仄灯りが照らす通路の先で清澄な泉が出迎えてくれる。揺らぐ湖面に己の心にある未来が映るともなれば、期待と不安の高揚も相まって、パートナーとの絆も盛り上がろうというものか。
 ケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)が小さく笑う声色は、横合いの少年へ向けた揶揄いを孕む。
「やっぱり|淑女《レディ》と一緒に来た方が……」
 ――林檎のように染まる頬を予期して見遣った先の横顔が、思うよりも愁いに沈んで見えて、男は続けざまの言葉を呑み込んだ。
 神崎・涼(あすなろ|付与魔術師《エンチャンター》・h13219)の視線は手にした花に向いている。花畑で一輪を摘み取ったときから、仄暗い隘路を歩いている間も、彼はずっと足を踏み出すのに躊躇していた。
 隣にいる兄貴分の声も、実のところ思索に掻き消されてよく届いてはいない。どんな言葉も他人事のように心の表面を流れていくだけで、真に迫った感情に変わらないのだ。
 それだけ深く、涼の思考は己の裡に沈み込んでいた。
 弟分の神妙な顔に、ケヴィンは心当たりがある。一つ息を吐いて思い起こすのは星詠みだ。
「行きがけにオルテールに言われたことを気にしてるのかィ」
 涼がようやく顔を上げた。
 √能力者ではない涼にとって、星詠みというのが何を示しているのかはよく分からない。どうやら作家らしい彼が気取った言い回しで告げた、この泉に映るのが希望と不安の天秤である――という事実だけが、胸の奥底に蟠っている。
 希望を抱けば望む未来が。不安を抱けば忌避すべき未来が。
 再び視線を落とした先の花越しに、今度は澄んだ水面を見る。
「正直な話、今のオレの心にあるのが何なのか。オレ自身にもよくわかってねえ」
「重症だねェ……」
 肩を竦めたケヴィンの方は、殆ど躊躇なく湖面へ近付いた。手にした花を一瞥する眼差しにも、愁いや惑いの色はない。
「まァ、こればかりは助けてやれねェ。ちゃぁンと|己《テメェ》と向き合わないとなァ」
「分かってる」
 唐突に力を得る前から、涼の裡には幾つもの割り切れぬ思いが渦巻いていた。
 心根は表出する態度ほどにぶっきらぼうではない。大人たちが何のかんのと口と手を出して来るのが、彼の未来を案ずるが故の行動であることも分かっている。厳しい声の裏に籠る激励を、少年の心は確かに受け取っている。
 だが――この先の未来に何が広がっているのか、涼はよく知らない。
 家と学校の狭い領分だけで生きている。世界は広いと人は言うが、どれほど広いのかを教えてくれる者は少ない。今は目の前に示される成績表の、時に惨澹たる数字と、漠然とした向き不向きの概念ばかりが彼の未来を定義している。
 夢を持てと言われても、生涯を賭してしたいことも分からない。手に職をつけろと言われても、この手に何が馴染むのかも知らない。
 惑いばかりの子供は、唐突に手に入れた魔法の力で戦えと運命に命ぜられ、なお深い困惑の海に突き落とされた。何をどうすれば良いのかも分かりはしない。兄貴分は|付与魔術《エンチャントメント》の希少性をさらりと口にしたが、さりとて超常の力を手に入れたこと自体に実感の薄い涼には喜んで良いものかさえ判断がつかない。
 それでも――顔を上げた先に澄んだ湖面がある。
 得た力は、少なくとも世界の広さを教えてくれている。
 燻り蟠り心の中ばかりが忙しない、代わり映えしない現実の中で、ただ時を重ねて惑うだけだった少年を変えてくれるかもしれない。或いは今こうして全く知らない世界を歩くように、彼に選択の切欠をくれるかも分からない。羽ばたくための羽化を待つ涼に、彼を覆う繭を破るための力をくれるかもしれない――。
 青い不安になお青い期待が揺らぐ。漠然と描く未来の形が、思うより美しいことを願う心に、こびりついて離れぬ不安が折り重なる。
 未だ惑いの最中にある弟分を横目に、ケヴィンは己の花に添えた指を離した。
 出自を在り来りの言葉で並べれば、決して誰もが羨むようなものではなかった――と思う。労苦も期待も一身に受け止めて来た。それでも今になって思い返してみれば、ケヴィンは恵まれた環境にあったのだろう。
 家族仲は悪くなかった。仲間たちも彼の道を応援してくれていた。街の人々に悪意のあることは少なかったし、ケヴィンは期待を背負って己の研鑽に打ち込める日々を疑ったこともなかった。
 騎士となるために重ねて来た日々には想像を上回る辛苦が付き纏う。その中で折れることなく前を見据えられたのも、弱冠十六にして正騎士としての称号を手に出来たのも、それ自体が天より賜った才覚の結実であったことを否定はしない。同じだけの艱難辛苦に立ち向かい、同じように血の滲む努力を続けても、誰もが同じ場所に到達し得るわけではないのだ。
 人々がケヴィンに掛けた期待の矛先は、彼の成し遂げたい夢と道を違えはしなかった。生まれ持った才能は推進力となって彼の背を支えた。往時には自覚すらしていなかったが、人間としての年齢を重ねた今から思い返せば、それは得難い奇跡のようなものだったのだろう。道を見失うことも、分岐に惑うこともなかったのは、ひとえに彼自身がただ一つを見据えていられるだけのものを手にしていたからに他ならない。
 幸福だった。人間として生きていくうえで纏わり付く挫折のうちでも最も深い場所を、頭打ちの実力を悟り全てを諦め、妥協の果てに歩きたかった場所に背を向ける苦痛を――知らずに済んでいたことは。
 悲劇が全てを薙ぎ払い、彼に秘められた宿命を目の前に差し出しても、ケヴィンは真実の意味では絶望しなかった。
 何もかもがこの手をすり抜けたのではない。覆し得ない喪失と引き換えに、手中には一片の希望の息吹が種を残した。嘗て竜であったことを思い出し、ほんの僅かの砂粒めいた断片が掌に宿った。その記憶に導かれるようにして、ケヴィンは炎の中に見失いかけた運命の先に新たな道を見出だした。
 膝をつくことを強要する絶望に打ち勝ち、十字架を背負って立ち上がったとき、眼前に見える光を希望と呼ぶのだろうか。或いはそれほどに大仰なものではないのかも分からない。
 脆弱で儚い人間という生き物として生きていくことは、嘗ての高すぎる視座を地上に近付けるということだ。花の色がよく見えること、小さな獣の肉で腹が満ちること――小さな歩幅と短い命で、最果てを目指して前に進み続けること。
 人間の歓びがどこにあるのか、探し求める光明は確かに強く輪郭を描くようになっている。いつかその輝きを真に理解する日が来ると、ケヴィンは確信している。
 弟分の惑う横顔に必要なのは――きっとそういうものなのだ。
 言葉では分からぬことは数多ある。結局は魂から理解するしかないそれを、繰り言のように説教する気はない。ただ。
 乗り越えるべき壁には幾度立ち向かっても良いのだ。何度も滑り落ち、やり方を考えて、挑み続ける。そのために壁の在処を自覚して、いつか必ず踏破してみせると心に定める――それさえ出来れば、壁の向こうにはずっと自由な世界が広がっている。
 一心に念じ努力を怠らなければ、涼は何にでもなれる。どこにでも行ける。他ならぬ己自身の力で――。
 今は惑いの渦の中にあっても、いつか分かってくれるだろうか。ケヴィンの胸中に応じたわけではないだろうが、涼はようやく意を決したように深く息を吐いた。
 傷だらけの手に巻かれたバンテージが、彼の行く先に決意を齎してくれるように思える。彼が定めたのは心ではない。定まらない心のまま、映るものを受け入れることだ。
 そっと浮かべた一輪が静かに湖面に飲まれていく。手を離してなお揺らぐ曖昧な思索の果てに、不安定な天秤がどちらに傾くのかも分からない。希望も不安も同じだけ抱えながら、涼はそれでも真っ直ぐに、瞬きもせず泉を見据えていた。
 やがて――。
 水鏡は揺らぐ。鏡面が映し出す景色を固唾を呑んで見守る弟分を一瞥し、兄貴分も己の裡を写し取るという水面に視線を移した。
 何が映ったのかを知るのは二人の眼差しばかりである。
 少なくとも、彼らの決意と願いを違えるようなものでなかったことだけは、違いあるまい。

キアラ・ザ・アスフォデルス


 迷いがなかったのは希望を抱いていたからではなかった。
 己を象徴する花が水面に音もなく呑まれていく。投げ入れた拍子に立った大きな波紋が澄んだ湖底を掻き消した。
 鏡面の向こうに何が映るのか、キアラ・ザ・アスフォデルス(|冥花の魔女《The Asphodelos》・h09526)は予見している。
 どれほど完璧に繕い、己さえも騙したところで、奥底に抱くものがそっくり入れ替わりはすまい。投影される現実が夢想によって塗り替えられることもないだろう。
 覚悟は疾うに定まっていた。不凋花の描かれた眼帯が映る水面が、キアラの裡を反射する。
 ――最初に見えたのは、彼女の思った通りの光景だった。
 燻る炎だけが惨劇の一部始終を知っている。灰になった森と瓦礫に覆われた街の中に生命の気配はない。飽きもせず命の色を吐き出す骸が無造作に放られているのに、泣き縋る者すら死に絶えた。
 いつか彼女の爪牙が下した|裁可《災禍》とは比較にならぬ光景の中心に臥した体だけが、思い描いていた現実と色を違えている。
 長い黒髪に混ざる青が、乾いた紅色に汚れていた。無惨にへし折られた角と剥がされかけた翼は――それだけは、キアラが齎した傷ではなかった。
 指に触れても握り返してはくれない。虚ろな金色の眼差しが彼女を映して微笑むこともない。穏やかな声が彼女の名を呼んで、他愛ない会話を紡ぐこともない――。
 我知らず詰めていた息をようやく吐き出した。散らばる有象無象の骸と灰と瓦礫の中で、見知ったただ一つの色彩だけが、紅色の隻眼を鮮烈に染め上げる。
 祈りというには苛烈で、願いというには深すぎる思いが、ずっと心の底で鎌首をもたげている。
 腕の中に抱えたものに傷の付くことが許せない。己の巣の中に無遠慮に手を伸ばすものは引き裂いてしまいたい。もしも――。
 ――もしも宝物が永久に喪われてしまったら、斯様な世界に価値も意味もありはしない。
 分かっている。大切なものが奪われたのはキアラに端を発することだった。原初の罪を辿るなら、責は彼女自身にある。だというのに、破局を迎えたことの代償を――その矛先を、世界に向けている。
 |この世界《√ドラゴンファンタジー》において、竜は神だ。
 強大な力は|信者《たみ》のために振るわれるべきだ。なべて平等で、無私の偶像であらねばならない。理解していながら心の裡に渦巻く不条理を噛み殺しきれず、なおそれを悪しき思考だと断ずることすら出来はしない。
 壊れているのだ――と思う。ともすれば形を喪ったときに神としての在り方すら喪ってしまったか。歪な心が未だ鮮明なままの傷から溢れ出せば、やがては世界そのものさえも壊してしまうのだろう。
 ――そう思っていた。
 臥した骸の輪郭をなぞる。痛みと共に片時も忘れたことのない姿とはまるで違う形が、拒絶よりも先に得心を呼んだ。
 世界を壊すなら|あの子《・・・》のためであろうと、疑ったことはなかった。それでも。
 世界のどこを探してももう二度と咲きはしない、記憶の中に残る花の色と同じだけ――ともすればそれよりも鮮烈に、今ある色を心に抱えてしまった。
 永劫埋まらぬ空席と同じ場所に置いてしまったものの喪われた世界を、湖面の向こうに見据えている。感じたことのなかった惑いの在処が言葉になって輪郭を得るのを、なすすべもなく受け入れる。
 伸べられた手を握り返すのは自分が良い。キアラの知らないどこかで知らない顔をするのだろう彼の、一番近くに在りたい。傍に寄り添って生きていたい。
 ――あなたが、好きなの。
 もう二度と間違えまいと律して来た。|竜《かみ》の軛に|配信者《ぐうぞう》の形を与えて、|二人《・・》で見た夢で綻びに蓋をした。いつか望まれたキアラを繋ぎ止め続ける、竜にとっては脆く細い糸を編み続けることだけに心を傾けて来た。
 だから分かる。
 こんな想いは――抱いてはならなかった。
 いつか描かれた在るべきだった姿と、何もかもを違えている。幾重にも閉じ込めた心の奥底を、己の裡すらも騙しきるための仮面で、また飲み干さねばならないと分かっている。
 分かっているのに――。
 掌で触れた胸元を握り込んだ。形を得た感情がどうしようもなく溢れている。彼に纏われば何も上手くいかないのは常と同じだ。それを悪いことだとは思えないことさえ、憎らしいほどいつもと変わりない。
 騙さねばならない。世界も、他者も、己自身でさえも。だというのに、一片の綻びもなく作られなくてはならなかったはずの身がただ一本の糸を引いたばかりに崩れ落ちていくのを、止めるすべさえ思い付かない。
 もう――己を騙せない。
 いつの間にか心の裡を映すことを止めた澄み渡る湖面に、キアラの顔が反射している。
 鏡の前で幾度も確かめたはずの表情をしていないことも――疾うに分かっていたことだった。

第3章 ボス戦 『ヤエル・エーデルシュタイン』



 無粋な羽音が静寂を引き裂いた。奥に繋がる暗がりから現れた悪魔が無邪気な笑みを怪訝に塗り替える。
「んえ? 何かいつもと違う……ような?」
 幾ばくか、悪魔は当惑するように視線を落とした。しかしそれも僅かの間だ。甘い声音はすぐにも笑い出すだろう。
 銀青の眼差しがさしたる興味もなさげにEDENの顔を見渡した。女の指先は泉を無遠慮に指差して、集まった者の胸の奥底を覗き込むに似た仕草で溌剌と問いかける。
「まあ良いか! ねえ、もう泉は見たんだよね? 何が見えた? 良い未来? 悪い未来? 誓いっていう奴、もう立てた? あ、答えなくて良いよ、興味ないし」
 幼子じみて不安定な情緒を隠しもしない。悪魔は最初から、獲物と同じ壇上で話をするつもりはない。
 しなる尾先に宿した毒は苦痛の幻惑を注ぎ込む。暗がりのどこからでも伸びる影の腕はひた隠す罪過を暴き立てる。
 無防備に広げられた腕は――悔悟を赦すふりをして、心を戯れに踏み潰す。
「前までのヒトたちはすぐ諦めちゃって、つまんなかったの。貴方たちはそんなことなさそうだし、諦めないでいっぱい頑張ってね! 後悔して、苦しんで、懺悔するところ、ゆーっくり見せて欲しいな! 最後には、ちゃんと私に屈服するんだよ! くふふ、ふ、ふ!」
 悪魔が笑う。罪の在処を問うように。誓いの強さを、祈りの脆さを、抱く決意を試すように。
「魂の芯から――泣いて、喚いて、跪いて!」
暁・蓮月


 揺らがぬ一歩で踏みしめた足跡は、過たず憎悪の色をしていた。
「大切な想いを、尊い絆を、戯れに踏み躙るなんて絶対に許さない……!」
 先までの表情はどこにもない。眼前の悪魔を唸るように睥睨する暁・蓮月(霧中之蓮・h12991)の声が、表情と同じく強張った調子で己が影を呼び起こす。
「影孔雀。与我共舞一緒」
 声はない。代わりに漆黒の孔雀が鉱石の燐光に照らされる影の裡より現れた。猛々しく威嚇の声を上げる巨大な鳥に瞬いた悪魔の指先は、しかしいたく楽しげに踊る。
 さながら指揮棒の如くして翻る爪に忠実に、影の腕が蓮月に殺到する。
「そんなに怒らないでよ。何で怒っちゃったの? く、ふふ!」
 どこからでも伸び上がる漆黒の腕は、|腕《・》であるからこそ対処が容易だ。幾度も相手取って来た悪人たちが己にどのようにして手を伸ばすのか、蓮月は知っている。彼の影から伸び上がる植物の蔓めいた構造が悪魔を絡め取るまで、手中の鉄扇を揮う先は彼を狙う腕の数々だ。
 先から己の情動に忠実な悪魔の心中に近しい動きだ。見切るのは容易い。襲い来るそれを半ば必死に受け流し、体に指先一つ掠らぬように身を躱したのは、先に水面を覗き込もうとしたときと同じ感覚が心に渦巻いたからだった。
 ――怖い。
 裡に秘めたるものを暴かれることが恐ろしくてたまらない。何故こうまで焦燥に胸裡が強張るのかすら分からない。いつまでも捕まらぬ青年に焦れた悪魔が早々にヒステリックな声を上げた。
「もう! すばしっこい!」
 甲高い声にさえ憎悪が燃え立つ。請け負った仕事のためではない。彼自身の感情が故だ。
 幸福を壊されたことさえ覚えていない。燃え落ちた家の残骸も心の奥底に封じて尚、蓮月の裡からは悪人に対する憤怒が溢れ出す。何故――考えるより先に、眼前で肩を怒らせる悪魔へ視線を投じる。
 他者の苦しみに露ほどの罪悪感も覚えていない。悪びれもせずに平和を踏みにじる足を憎まずにおれようか。
 蔦に足を取られた悪魔が小さく悲鳴を上げたのを見逃しはしない。
「お前の思い通りにはさせないよ」
 己が心から今にも蘇りそうになる記憶に、幾度目か分からぬ綻びた蓋をする。代わりに翻した鉄扇は二度踊った。眸の色と同じ、人ならざる色の体液が悪魔の身から零れ落ちるのにも構わずに、蓮月が目を眇める。
「EDENとしても軍警としても、無辜の民の幸せを守るのが俺の仕事だから」
 そうすれば。
 ――そうすれば、救われる気がする。
 誰がどこから掬い上げられるとも分からぬまま、青年の眼差しはただ、討つべき悪を睨んだ。

メイ・リシェル


 悪魔の声は無邪気に笑った。いつもと違う――。
「そうだろうね。ボクたちはお前に屈服するつもりなんてないから」
 幼げな赤い双眸が眇められる。杖を構えるメイ・リシェル(名もなき魔法使い・h02451)を見下ろして、捩れた角の女が首を傾げるより先に、紡がれるのは彼自身の裡に溢れる空想世界の物語だった。
「他のひとたちが巻き込まれる前に、ここから消えてもらうよ」
 鮮やかな新緑が溢れ出る。
 たちどころにダンジョンを塗り替えた鮮やかな森は、メイと彼に与する者を守るヴェールだ。悪魔の扱う武器の全てを防ぎきれるとは思わないが、少なからず傷や苦痛を和らげることが出来よう。両手で杖を握る少年の思惑も知らぬげに、悪魔はいたく楽しげに――或いは無垢なる悪辣さを湛えて笑う。
「私も森は好きだよ!」
 広げられた腕と声音とは裏腹、鋭い尾は少年を狙いすますように動いた。それでもなお、メイが敢えて至近に飛び込んだのは、射程圏内で振るえば確実に敵を捉える武器を存分に揮うためだ。
 悪魔が翼を広げれば振り上げた杖で牽制する。権能を注ぐ――というのであれば、|注ぐ《・・》ための準備を要するはずだ。僅かな予兆を汲み取るメイに焦れたか、森そのものを破壊するように不機嫌に爪を振るう女の試みも、すぐにも語り直される物語によって阻まれる。
 どうやらひどく短気らしい悪魔が眉間に皺を寄せているのが、横凪ぎに杖を揮った少年の紅色に映り込んだ。
 ――刹那、その動きが阻まれる。
「もう! 赦してあげるって言ってるのに!」
 見目に不釣り合いに幼い物言いと共に、女の呼び起こした影の腕がメイの一撃を受け止めたのだ。霧消するほんの僅かの隙に注がれた権能は、悪魔の苛立ちの分だけ威力を増しているようにも思えた。
 永きを生きれば生きるほど罪が山積する。些細な言葉の取り違えも、もっと致命的な齟齬も、メイの裡には思い当たる節が幾つもあった。
 故にか足が軋む。一転して満足げに牙を見せる悪魔の、ひどく邪悪な笑みすらも、救済の一助のように思う心が注ぎ込まれる。
 だが。
 息を止めて、少年は踏み止まった。杖を握り締める指先が白むほどに力を籠める。
 メイの罪は――メイのものだ。
「お前なんかに赦されるものじゃない」
 赦す権利がある者は、彼がこれまでに傷付けて来た、幾つもの場面に在る誰かの他にいない。
 無防備に広げられた腕の裡に跳躍するのは簡単なことだった。思い切り振り上げた杖で過たず胸の中心を穿つ拒絶に、悪魔が小さく悲鳴を上げた。

雨夜・氷月
物部・真宵


 つまらない発想だな、と思う。
 壊し果ててそれにも飽きた。雨夜・氷月(壊月・h00493)の心にあるのは得心ばかりである。蹂躙を心待ちに笑う悪魔のさまから横合いに視線を移した男が唇に笑みを刷く。
「物部は大人しくしてて、アイツは俺が遊ぶから」
「あら、おひとりで大丈夫です?」
「誰に向かって言ってるの?」
 向けられた眼差しを受け取った物部・真宵(憂宵・h02423)が冗談めかして笑う。一度手を振って前に出る氷月にも、彼女の心配が本気のそれであるとは思えなかった。
「……ふふ、冗談ですよ。どうぞお気をつけて」
 彼の内情を肯定するように手を振り返す。共闘はそれなりに重ねて来たし、真宵とて彼が手練れであることは承知している。やり方も相応に見て来ているのだから、必要以上に心配を重ねることもない。
 彼女は彼女でやるべきことを為すだけだ。
「さぁ、あなたたち、出番ですよ」
 広げる腕と声に応じて、無数に近しい管狐が現れる。出遅れた小さな管狐も纏めて、彼女らを取り囲まんとする眷属に取りついた。
 漆黒の蛇と真白の狐の長く伸びる体が絡み合う。狡猾に布陣を突破して、狐たちの主の首筋に牙を立てんとする蛇は、同じ色の狐が影から屠る。そうでなくとも不可視の防護は真宵への干渉を防いでいるが――。
 念には念を入れる。前に出た氷月が悪魔の気を惹いてくれているのだ。意識を逸らす幻惑は、果たして容易く真宵の存在を秘匿した。
 揺れる銀の髪ばかりに気を取られる十字の双眸を前に氷月が笑う。虚空から零れ落ちるように煌めくのは、彼の手に最もよく馴染む武器だ。
「そうだ、俺からもアンタにプレゼントがあんの。気に入ってくれたら嬉しいなあ!」
 刹那の輝きが人を破滅に誘う。滑稽劇を生み出すのは、いつでも己を苛む疑義ばかりだ。たとえば眼前の悪魔が利用せねばならぬような感情――。
 疑心暗鬼を。
「――ねえ」
 放られた爆弾が、しなる尾ごと爆ぜる。
「アンタのそれ、本当に愉しい?」
 悪魔の足がたたらを踏んだ。信じられぬとばかりに男を見詰める眼差しが、まるでいつぞやに見た思い出せぬ誰かの顔のようで、嗤う氷月の銀月がなお細められる。
「後悔して、苦しんで、懺悔する……ソレはアンタがするべきコトじゃない?」
「違う――違う、違う、違うもん!」
 幼子と変わりないヒステリックさで地団太を踏む悪魔の尾が、他責の怒り任せに振り回される。単調な動きに爆弾を合わせるのはそう難しいことではない。近寄る蛇ごと霧消させるそれが、なお悪魔の裡に猜疑心を積み重ねる。
 そのさまを見遣りながら、真宵の唇が小さく息を吐いた。
「小さなさいわいが心の支えになるひとだっているの」
 世には視たくないものの方が多いだろう。彼女とて茫洋と世を渡って来たわけではない。幾つもの不安が、幾つもの不穏が、彼女の腕を暗がりに引き込もうと迫って来た。
 水面に映った幸いの形が現実になると信じ切ったわけでもない。それでも、彼女の心に淡い熱と共に宿った光景は、悍ましい幻惑を齎すという毒尾が迫れども、真宵の裡に根付いて消えはしない。
「それを面白半分で壊そうとするなんて、あなたとっても意地悪だわ。こわぁいお月さまに融かされてしまいますよ」
「んふふ、物部はヤサシイねえ。このオイタを意地悪で済ませるんだ」
 氷月はそうしてやるつもりはなかった。
 指先に生み出される爆弾のリソースは未だ潤沢だ。放り投げれば束の間の閃光で目を焼くそれの効果を煽るように、咲う男が高らかに問う。
「ぜーんぶ壊されて、屈服するのは俺?」
 そうだ、と答えようとするのだろう。怒り任せに口を開いた悪魔は、しかし己が声を心に過ぎる疑心に呑み込まれる。
 ――本当に?
「ねえねえ、答えて。ほらほら!」
 絶え間ない煌めきが爆ぜる。今度こそ、水面に映る未来ごと、悪魔を焼き払うように。

シルフィカ・フィリアーヌ
ルミオール・フェルセレグ


「そうやって、君は色んな人たちの大切な想いを踏み躙ってきたんだね」
 悪びれもせぬところがいかにも悪魔らしい。眼前にあるものの価値には何ら興味がないのだ。貶められる――ということ以外。
 しかし、そうであれば葛藤する必要すらもない。構える剣に一片の躊躇いもなく、ルミオール・フェルセレグ(星耀のアストルーチェ・h08338)は眼前の悪魔へ目を眇める。
「でも、生憎と君の目の前にいる人たちは皆、君が思うよりずっと諦めが悪いからさ。今回ばかりは君が諦めるほうが先かもしれないね」
 頷くのは並び立つシルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)だった。
 心の裡に罪過のないことはない。しかし生きる限り道に折り重なるそれを振り返り、胸を締め付ける痛苦に懺悔するのも、全てはシルフィカただ一人の権利だ。
「残念だけれど、あなたに見せられるものも、あげられるものも何ひとつないわ」
「くふ、ふ……良いよ」
 悪魔は――。
 相対する男女に、初めてひどく悪魔じみて笑った。
「貴方たちがどんなに隠したって、もう全部、私のだから!」
 広げられた両腕と共に呼び起こされた漆黒の蛇が踊る。同時に翻るのは空を駆ける竜の翼だ。往時の如き大きさでなくとも、地を這う翼なき爬虫類を振り切るには充分だった。
 シルフィカを追う蛇を置き去りに飛翔する。彼女を狙う鋭利な毒尾に捉えられるより先に、その指先は引鉄を引いていた。
 魔を破る力が閃光を放つ。たたらを踏んだ悪魔が束の間の輝きに灼かれている間に、煌めく花弁が舞い上がる。
「ルミオール!」
 眩んだ目をきつく覆った悪魔が無防備に身を晒した刹那、シルフィカの声が耳に届くよりも先に、ルミオールは地を蹴っていた。
 竜の生み出した眩い輝きは彼を咎めたりはしない。纏う祝福の燐光が流星の如く尾を引いた。握り締めた剣を薙ぎ払えば、悪魔が悲鳴を上げる。
「後悔してる癖に! 可愛くない!」
 ――否定するすべは、ルミオールにはない。
 シルフィカの嘗ての姿を知っている。彼自身の、今にして思えば軽率な行動が、彼女から強大な力と記憶を奪った。それと引き換えに生きる命をして罪と呼ばうならば、ルミオールは頷くほかにないのだ。
 しかし――。
 輝く花弁の向こうで、シルフィカの眼差しが彼を見詰めている。
 赦しを乞えるのだとすれば――ルミオールの罪過を受け入れる相手がいるのだとすれば、彼女の他には誰もいない。
 ただ気紛れに、踏みにじるためだけに腕を広げる悪魔なぞに屈して、傀儡になってやる義理はない。
「君の嘘に騙されてあげたりなんかしないよ」
 ますます歯噛みする悪魔の尾が苛立たしげに揺れる。然れども身を蝕んだ魔を打ち破る光が動きを阻む。煌めく花弁に身を覆い、再び銃口を向けたシルフィカが目を眇めた。
「いつものように容易く喰らえると思っていたのでしょうけれど、思い通りにいかないことだってあるものよ」
 或いは今までなかったのだとしても、此度ばかりは手酷い代償を支払うことになるだろう。
 ルミオールの剣は再び構えられた。ただ真っ向から注がれるばかりの、強度だけを無理矢理に増していくような権能に抗うのは、一度撥ね付けてしまえば簡単なことだ。
 真っ直ぐに悪魔を見据える青年に、竜は僅かに眦を緩めた。しかし敵へと向き直った視線は既に隙をなくしている。
「今のあなたの前に、この泉はどんな未来を見せるのかしらね?」
 そのつもりなんてないと思うけれど、わざわざ試す必要はないわよ――嘗て神とすら呼ばれた種であった女の声は、魔を打ち払う宣誓の如くして響く。
「あなたの手で、この泉が穢されてしまうのは嫌だもの」

リュセル・アネスピア
アドニス・ガルダ・インファリリ


 いかなるときにも礼節を忘れてはいない。
 少年の小さな体が前に出る。真っ直ぐに悪魔を見据える翠玉の宝石眼が、それでも決意の煌めきを宿す。
「悪魔さん、こんにちは。せっかくいらしたところ、まことに申し訳ありませんが、我らのうるわしき猊下に触れさせることはできません」
 リュセル・アネスピア(夢醒・h12927)はアドニス・ガルダ・インファリリ(プシュケの花檻・h12904)の護衛だ。彼の身に傷の一筋も付ければ名折れである。
「ですから、お帰りいただけますでしょうか」
「|嫌《ヤ》に決まってるでしょ! もう! 諦めないでって言ったけど、こういうことじゃないのに!」
 まるで少年人形と対等な幼子の如き癇癪だった。広がる蝙蝠の翼を見遣り、アドニスは僅かに目を細める。
 |使徒天使《Seraph》も女神も、樂園の|人形《・・》は元を糺せば彼の手がけたものだ。しかし悪魔とは、作ってみようと試みたこともない。
「罪悪感や後悔、感情が強い程に傷つき足掻き苦悩し……果ては救いを求める様は実に愉快だよね」
 ――唇から零れ落ちるのは、他称とは裏腹の同意だった。瞬いた悪魔はやはり子供じみた興味の移り変わりで怒りを忘れたらしい。首を傾いでアドニスへ目を遣る。
「貴方、悪魔には見えないけど」
「そうだね。悪魔かもしれないし、そうではないかもしれない」
「げ、猊下! 猊下は悪魔ではありません!」
 慌てるのはリュセルの方だ。よもや麗しき教皇と斯様な悪魔を横並びにすることなぞ許せようはずもなく、小さな足は迷いなく守るべき男の前に出る。
「猊下はぼくがお守りいたします」
「リュセルはいい子だね」
 小さなテディベアの耳がついた頭を撫でてやれば、少年人形は嬉しげに笑った。
 現を告げる天使の翼が漆黒に染まるようなことはあってはならない。無邪気な永遠の少年は、無垢なる真白の小さな翼で現を羽搏けば良いのだ。
「余計な悪夢を見ることがあれば、私が|忘れさせて《調律して》あげるから安心なさい」
「はい、猊下! 身に余る光栄です」
 意気揚々と朝を告げる使徒天使に悪魔の悪意は届かない。恐れるべき罪過すらも、リュセルには存在せぬからだ。|幻想《ゆめ》を醒まし現を呼び戻す朝告のラッパが、|怖い夢《・・・》をどうして恐れよう。
 存在し得ぬ夜の闇は朝の光に掻き消える。それを憐れむ者もあるだろう。或いは――抱くべき半分を喪ったようなありさまを嘆く者も。
 然れどもリュセルがそれに苦しんだことは一度もない。これから先もありはすまい。後方に立つ、守るべきアドニスが、彼に眼差しを注いでくれるだけで幸福なのだから――。
 果たして注がれる権能がアドニスに取りつくことはなかった。リュセルが全てを掻き消すのみならず、彼にはそも罪が赦されるべきであるという通念がない。
 どれほど堅固に思える祈りも、永久と感ぜられる誓いも、畢竟いつかは覆るものだ。それに後ろめたさを感じたことは一度もない。そも――彼が飽くほどの途方もない歳月の中で、それより遥かに短い命を散らす人間ですら、生涯の誓いを果たせた例は指折り数えるほどである。
 赦すも裁くも悪魔の裁量ではない。アドニスの指先こそが、天秤の傾きを決めるのだ。
「──Errare humanum est」
 悪魔は|人間《・・》ではないやもしれないが。
 穿てば分かる罪はどこに眠っているだろう。いかにして暴けば悪魔の真髄が見えるだろうか。眇めた眼差しに敵意も怒りもないまま、教皇はいっそ穏やかに笑った。
「もっと見せてくれないか」
 相対したことのない、悪魔の宿した根幹を。

クラウス・イーザリー


「お断りだよ」
 響く声に常の穏やかさはない。クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)の構えた銃口は過たず悪魔の方を向いて、心臓のあるべき位置へ翳されている。
 思い通りにさせはしない。涙を零すのも、誰かの腕へ縋るのも、膝を折って頭を垂れるのも――少なくとも、この悪魔のための余興などではないのだ。
 盈ちたる月の祈りを籠めた銃は真白の輝きを宿す。美しい月光の如きそれを携えて、クラウスは走り出した。
 伸びる影を振り切りながら、眼前の悪魔へ引鉄を引く。無数に現れる腕が防いだところで、月の煌めきは影を暴いて霧消させるに充分だ。
 然れども数が多すぎる。やがて足許から不意に伸びた一本が青年の足に絡みついて――。
 悪魔が嗤う。
「つーかまーえた!」
 ――覚えているのは、眼前で散った飛沫の鮮やかな紅色。
 クラウスの命を守るため、彼と引き換えに消えた太陽の悪夢は、擦り切れるほど突き付けられてなお鮮明に心に爪を立てる。暴かれた記憶に息を詰めたのは一瞬だった。
 銃を振るえば短剣が露わになる。自らの足許を強く握った腕を迷いなく振り払う彼に、悪魔が驚きを隠さず目を丸くするのが見えた。
 あの悲劇を一つでも減らすこと――希望を見失い、その輪郭の他には確かめることさえ出来ないクラウスの心が代わりに宿した使命感が、足を止めることを許さない。
「何で? すっごく後悔してるんじゃないの?」
 心底不思議そうな顔をする悪魔の捩れた角を銃弾が穿った。零れ落ちる眸と同じ色の体液を視界の端に確認して、しかし足も攻撃も止めはしない。
 容赦のない悪魔の攻め手に怯むことも、回避を考えることもしなかった。クラウスの身を掠めていくそれから身を守るための魔力的な防護壁が、届くはずの致命を防いでくれる。籠めた祈りの力が月と同じように幽かにずつ薄れていくのを感じるのだ。その効力が切れて真っ向から撃ち合うことになる前に、出来る限り損耗を与えておきたかった。
 幾度目かも分からぬ銃砲が鳴いたとき、悪魔は月の輝きを前に苛立ちを隠さず尻尾を振っていた。その鋭い先が己を狙うのも構わずに、クラウスは冷然と目を眇め、二丁の銃口の先に女の姿をした化生を捉える。
 他者の幸福を食い物にするという。それがどれほど罪深いことなのか――幸福さえも贅沢品となった|世界《√》に生まれ育ったクラウスには痛いほどによく分かる。己の罪過を理解することもないのだろう悪魔の眼差しが彼に向く前に、再び引鉄を引く。
「屈服するのはお前の方だよ」
 人間の尊厳を――その幸いを、悪魔の所業に引き裂かれてなるものか。

五槌・惑
佐野川・ジェニファ・橙子


 暇がなければ思いを馳せることもない。
 眼前に差し迫る日々を十全に熟すのは存外に難儀だ。余裕がなければ先々の無明を見通そうと目を凝らすことも、過去の暗闇に視線を投じることもない。であるから――。
「アンタにとって楽しい時間にはならねえよ。残念だな」
「そうですね。あたしの場合封印してるってこともあるでしょうから、思い出した方が厄介かもしれませんよ」
 五槌・惑(大火・h01780)は心の裡の暗がりに醒めた一瞥をくれたきりで、佐野川・ジェニファ・橙子(かみひとえ・h04442)はそも後悔に縁がない。
「ところでアレ、ちょっぴりアナタみたい」
「あア」
 橙子の軽やかな声を受け、惑が目を遣った先にいるのは漆黒の眷属を従える悪魔だ。地を這う忌むべき獣が威嚇の声を立てるのを、毒の染み入る男が聞く。
「実際似てンだろう。手先の蛇と蠍で共々嫌われ者だ」
「もう、能力の話よ」
 ――橙子のいうことも正鵠を射ている。
 染み出す毒尾のしなる動きは厭というほど見た鏡に似ている。遣り口の想像も概ねつこうというものだ。白光を湛える剣を手に前に出る男に、女の声はなお笑った。
「丁度惑が暴れるところが見たかったの」
「我流で振り回す剣に見所があるかは分からねえが」
「あるわよ。露払いは任せてくださいね」
 ピアスとネックレスは外せば即ち武器となる。投じられた分銅鎖を軽やかに絡め取った悪魔の尾が、美しい装飾品を前に無邪気に笑みを零す。
「綺麗だね。これ、私のにする!」
「ええ、どうぞ」
 橙子の本命は分銅鎖そのものではない。
 投擲したのは破壊の力の起点だ。先に尾にぶつかった瞬間に、既に滴る毒を生成する機能を失っている。無防備な悪魔の翼からは飛翔が奪われたが――。
 広げることも、しならせることも、奪いはしなかった。
 悪魔は単純な陽動にすっかり夢中になっている。仄灯りの作り出す影に潜んだ惑には気付く様子も見せぬままの背に切りかかるのは簡単なことだった。
 迫る焔の気配に尾がしなる。呼び起こされた地獄の業火が暴威を飲まんとすれども、同じ炎の形を取る以上はさしたる効力も及ぼしはすまい。
 橙子の破壊の弾丸を免れた細身の蛇が襲い掛かるのも知ったことではない。光をますます強める剣の|鋩《きっさき》から逃れんと、悪魔が翼を広げた。尾先の毒で動きを止めようとしたか、或いは応戦しようとしたか――しかしその羽搏きは一度たりとも空を穿たず、体が浮き上がることもない。
 |出来る《・・・》と思えば手札に勘定するだろう。本来失った、未だ手中にあると勘違いしたままの手を切ろうとしたときに、一番の隙が出来る。
「できると思ったことができない時の顔って見ものじゃない?」
「な――」
 たたらを踏んだ悪魔の十字の瞳孔が瞬いた。眼前に迫る刃を避ける手段は、この距離では尽きている。
「そもそも惑にお前の力が通用すると思ってないのよね」
「煽り過ぎるなよ」
「本当のことですしー」
 忠告も知らぬげの橙子の物言いは、果たして幼子の如き情緒には予想通りに突き刺さったらしい。悪足掻きのように鋭い尾を振り回せども、裂いた皮膚から零れる惑の血液さえも牽制の一手に変わる。
「私のこと言えない癖に!」
「そうかもね」
 であるから尚のこと、その身の理を破壊してでも押し通る。
 剣が飛び掛かる眷属を貫いた。取り出した呪符に纏う赫灼の厄が、地獄より来たる魔へ迸る。
「火で苦しんだ覚えはあるか」
 やがて訪れる黙示録の日よりも早く、消えぬ炎が悪魔を焼いた。
 或いはそれは神火というほどに神聖なものではなかったのやも分からぬが――どうにせよ。
「彼の力は効くでしょう」
 ――お前の方が、泣いて悔いたらよろしいわ。

和紋・蜚廉
不忍・ちるは


 拳に握り締める同じ形の誓いは、幾度確かめても飽きはせぬ。
「生憎と、汝の福は一つたりとも叶えさせぬ」
 和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)の声は凛然とする。心の裡に宿した矜持の色は変わらぬまま、その形を僅かに変えた。
 ――与えられた理不尽を数えるよりも、果ての幸福の在処を見詰める方が有意義だ。
「何故ならば我らが福を招くからだ」
 今この刹那にすら、隣を見れば幸いの形がある。まして泉の底より浮かび上がった未来の形が同じ色をしていたのだから、この道の先に耐え難き苦痛などありはすまい。
 故に。
「それを妨げる輩へ容赦はせぬ」
 蜚廉の一歩後方に立った不忍・ちるは(ちるあうと・h01839)が首肯する。不思議なものだ。平穏であること以上に重んじて来たものなど片手で数えるほどだった彼女の内情は、そんな細やかな願いを簡単に放り捨ててしまうことがある。
 幸福の形が目の前に映れば思考は千々に乱れるし、早鐘の心臓に合わせて思考も加速してしまうし、それを一つも嫌だと思えない。深呼吸でも足りない落ち着きを取り戻してから、渦巻く温もりを咀嚼して消化して、口の中に残る甘みすらも味わい尽くしているには、時間はあまりにも早く過ぎ去るから――。
「……悪魔さんに構う余地はないんです、すみません」
 ちるはの声に、愛を解さぬ悪魔は嗤った。
「ああ、誓いを立てるヒトたちの仲間なんだね! くふ、ふ。そういうの、一番好きだな!」
 伸びやかな声を合図に影が迸る。腕の形をしたそれが無遠慮に心を引き裂かんとするのを許しはしない。
 悪魔が狙うのは前に出た蜚廉だった。嗅ぎ取る幽かな予兆の残痕は単純ゆえに読み切るに易い。跳躍と同時、甲殻の合間より現れた刃が漆黒を切り裂いた。
 そのまま爪で縫い留めた先、毒の染み込むさまは悪魔そのものにも効力を齎す。苛立たしげに翼を広げた女がヒステリックに叫ぶ。
「可愛くなーい!」
 物量を増やせば良いと考えるのも短絡的だ。その影が大きく揺らめいた刹那、ちるはの足許より小さな獣の鳴き声がする。
「あいにくあなたに渡すのは禍しかないです……って蜚廉さんが」
 禍福は縄の如く表裏を紡ぐというが、彼女の招き猫は彼女らにのみ福を呼ぶ。
 同時に踏み込む蜚廉の足に迷いはなかった。鹵獲した王剣の力を解放するより先、ちるはの猫たちの招く福が悪魔の呼ばう災いを霧消させる。
 果てのない灰燼の中で後ろ指を差されながら彷徨う日々は見飽きた。永遠とも思える日々は天文台に触れた温もりが融かしてくれた。だから――。
「汝へ与える福など、一つも無い」
 動きを止めた悪魔を切り裂く剣の凛々しさを、ちるはの双眸はしかと見詰めていた。
 ――昆虫はきっと今も苦手で。
 だから今、その形を愛おしいと思うのも、相手が蜚廉であるからに他ならぬ。彼の歩いて来た道行きの暗がりの色よりも、彼自身に深く近付けたことを有意義だと思うほどに。
 走り出した足は、彼のつける傷痕をより確かなものにするため悪魔に蹴りかかる。二人分け合って生きると決めたのだから。
「帰ったら、互いに好きな献立でも語り合おうか」
 場違いとも思える蜚廉の声に、ちるはもまた笑う。
「帰ってからではなく、“ながら”もありですよ」
 いつかの未来に思いを馳せながらでも、少しだけ近くにある幸いを作ることは出来る。今日か明日か、二人で囲む食卓を実現させるのは、荷物を移動させるよりも簡単だ。彼女たちが集まれば良いのだから。
 折り重ねる何のことはない日々が足許に積み重なっていく。今は輪郭を帯びたばかりの未来に手が届く頃には、殆ど日常と変わりなくなっているだろう。
 そうして噛み締める穏やかな日常の味こそが、二人の|幸福《おいしさ》の形だ。

シリウス・ローゼンハイム
プロキオン・ローゼンハイム


 見たくもないものを先んじて眼前に突き付けられた。
 湧き立つ苛立ちが眼前の悪魔の物言いになお火を煽られる。理解しながら歯止めを掛ける必要もあるまい。シリウス・ローゼンハイム(吸血鬼の|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h03123)の紅色の双眸が、青い髪を睨む。
「煩い、黙っていろ」
 唸るような声音に似た色で、プロキオン・ローゼンハイム(シリウス・ローゼンハイムのAnkerの弟・h03159)が息を零した。泉の映した未来を、果てには己の欲望のために利用しようという。実に悪魔じみたその性根こそ――。
「ほんっとうに……悪趣味だね」
 吐き捨てる弟を後方に庇って兄が前に出る。振り返らぬその背を見上げるプロキオンの眼差しがいかなる色をしていたのか、シリウスは知る由もない。
「ロキ、下がっていてくれ、こいつは俺が相手する」
「分かった。……無理しないで、兄さん」
 護身のために持ち歩く剣を手中に収めながら付け加えたのも、やはり泉の光景が脳裡に焼き付いていたからやも分からない。開いた魔導書を握る指先にも力が籠る。√能力こそ発現せぬまでも、プロキオンとて戦うすべは身に着けて来たのだ。
 二人の姿を見据えた悪魔は、初めて幾らか羨望らしき色を浮かべた。しかしそれもすぐに無邪気な悪意に塗り替わる。
「くふ、ふ。兄弟愛っていう奴?」
 現れる影の腕を同じ闇の色が祓う。日頃は確かに、傷を受けて帰るのだろう兄を祈り待つことの他に出来ることはないかもしれない。だが――だからこそ、共に戦場に立つときに、護られるばかりの足手纏いでは在りたくない。
 弟の援護を受け、シリウスもまた腕を掲げた。
 ダンジョンの景色が揺らぐ。紅の月が昇る。夜闇に覆われた血の色の中で、槍が無数に等しく空間を裂いた。
 絶望に陥る未来などただの妄想だ。それを振り払うのは己の他に在りはせぬ。細く短い槍は近接戦闘には向かぬやも分からぬが、弓矢の如く投擲するにはうってつけだ。
「一生懸命だね。じゃあ――こういうのは?」
 悪魔が嗤う。影より伸びる腕が向かう先はシリウスではない。彼の後方で剣を構えるプロキオンの背後より、音もなく現れるそれを察知して、兄は考えるよりも先に走り出した。
「ロキ!」
 押しのけるように弟を庇い、槍を振るえば腕は霧消する。だが心に残された爪痕からは絶えず血が零れ出した。
 罪などない。己の矜持に従って生きてきたはずだ。だというのに、心には今も眼前にある弟の顔が去来する。
 √能力者が戦場にて真実の死を迎えることは滅多にない。何れ元に戻って帰るとき、それでもプロキオンがひどく寂しげな顔をするのが、胸の奥に突き刺さる痛みを鮮烈に浮かび上がらせる。
 仕方のないことだ。愛する弟を守るために避け得ぬことであるならば、シリウスはそれを受け入れるのに――。
 崩れ落ちそうになった体を温もりが掴む。抱き締めるように彼を拘束した温度を確かめるより前に、横っ面に思い切り衝撃を喰らってたたらを踏んだ。
「兄さん、しっかりして!」
「ロキ……」
 プロキオンは理解している。兄がどれほど己を溺愛しているのか。Ankerの手によってのみ死を迎えるシリウスが真実の死を迎えかねないことの他には、弟が何をしようともこうして目を瞬かせるばかりだ。
 ――困った人だよね。
 揃いの赤い双眸を見詰め、シリウスはようやく己を取り戻した。そうだ。プロキオンにあんな顔をさせたくない。少なくとも、今だけは。
 槍を握り締めて立ち上がった足に迷いはない。今度こそ揺らがぬ双眸が悪魔を睨んだ。
「今日も一緒に帰ろうな、ロキ」
「うん。はやく、|悪夢《・・》から目を覚まさないと。それで――」
 独りきり眠る未来を嘘にするために。
「一緒に家に帰ろうね」

ラデュレ・ディア
ラナ・ラングドシャ


 広げられた翼も長い角も、全て不吉の象徴だ。
「この方が、件の悪魔なのですね」
「……うん、そうみたいだね」
 応じながら、ラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)の視線がラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)の横顔を見下ろす。何故だか浮かない表情の彼女に何か声を掛けるより早く、小さな兎が口を開く。
「水面に映った景色は受け入れ難いもの。それは、間違いありません」
「ラーレ……」
 ――だからそんな顔をしていたのか。
 ようやく、彼女の水面が映し出したのが目を逸らしたい未来であったことを知る。励ましの声を掛けようとしたか、或いは心配を告げようとしたかも分からぬラナの唇が開き切る前に、ラデュレは顔を上げた。
「けれど、今は止まっては居られないのです」
 知りたいことがある。知りたくないことも同じだけ。清濁というには混沌としすぎたそれを飲み干す覚悟は幾度も定めて、揺らぎかけた分だけ堅固になっていく。
 飛び散った卵殻の全てを掻き集め、ラデュレは前に進んでいくのだ。白紙の頁の上、紅色のインクを辿るように続けた旅は、今は独りで震えながら歩むものでなくなったのだ。
「ラナと、共に征くと約束をしたのですから」
 眉尻を下げていたラナが耳を立てた。聞き逃してはいない。彼女は確かに、己と共に進むことを足がかりに前を向いてくれている。
 その堅牢なる意志に安堵した。その隣にあるのが当たり前のように己の足であることには、喜びの方が大きく揺れる。
「まいりましょう、ラナ。わたくしたちが、先へと進むために」
「うん!」
 大きく頷いた猫の視線は今度こそ悪魔に定められる。さして興味もなさげに爪を眺めていた彼女は、はたと十字の瞳孔を二人に投じた。
「お話は終わった? 仲良しなんだね! まあ、ここに来るヒトたちって、みーんな仲良しだけど――」
 唇が嗤う。正しく悪魔の如くして。
「そういうのを壊すのが、一番好きだな」
 呼び起こされるのは漆黒の蛇どもだ。二人を取り囲んで鋭く威嚇音を立てた。
 しかし信ずる友が隣にあって怯むことなどありはしない。立ちはだかった困難は全て打ち砕く。眼前で嗤う悪魔も同じだ。
「あなたを、退けて進みます……!」
 ラデュレの指先が呼び起こすのは日頃扱う指揮棒でもベルでもない。鍵杖の形を目にしたラナの桃色hが、希望でますます輝いた。
「──! それ……使ってくれるんだね……!」
「勿論です。わたくしに必要なのは、困難を払う“力”……!」
 ラナから貰った大切な鍵杖が光を与えてくれる。ラデュレが、彼女と共に先へと進むために。
 本当は同じように構えられたら良かったのかも分からない。あの泉に映った未来は、そのとき現実になったろう。
 しかし今のラナには十全に使いこなせない。だからとっておきはいつかのために大切に箱にしまっておいて、出来ることをしよう。
 恐ろしいものを見たラデュレが、それでもその力に自信を持てるように――変化したのは自慢の毛並みを映したような被毛竜だった。温もりを纏うラナが自在に空を飛び回り、牽制のように焔を吐き出せば、眷属も悪魔も彼女を射止めようと上を向く。
 ラデュレが好機を逃すことはない。
 ――吹き荒れるのは春の祝祭。目覚めの豊穣を告げる花嵐が甘やかな香りを纏い、共に往く道に祝福の盛りを贈る。友から貰った力の美しさに目を細め、兎は決意と共に鍵杖を握り締めた。
「使いこなしてみせます……!」
 小さな体を見下ろして、ラナは確かな心の温度を握り締めた。
 ラデュレの道はラデュレが決める。しかし彼女がどこへ向かうのだとしても、春のような煌めきでてらしていたい。
 その隣を歩くのは――ラナでありたい。

夢見月・桜紅


 心に抱くのは、いつも己のことよりも誰かのことばかりだ。
 泉の未来で涙していたのも、思えば彼女自身より他者だった。時間が幾重の変遷を運べども、√がどれほど変われども、夢見月・桜紅(夢見蝶・h02454)の握り締めた決意の色は変わらない。
「……私は、今いる人達を守りたい」
 贖罪であったのか。それとも悔悟であったのか。或いはもっと別の想い故だったかも分からない。ただ、今は、紅色の眼差しを真っ直ぐに悪魔に投ずる。
「これからここに訪れる人達のためにも、あなたを倒させていただきます、ね」
「それ、知って! 自己犠牲っていうんだよね! そういうヒトってだーい好き! 美味しいんだもん」
 覚えたての言葉をはしゃいで使う幼子めいた仕草で悪魔が笑う。その指先が無造作に翻るのは、玩具を扱うに似ていた。
「私が赦してあげるね」
 甘い声が偽りの救済を囁く。それに小さく首を横に振るのは、何も権能を振り払うためではなかった。
 歩いて来た罪が赦されることはあるだろう。しかし全てが帳消しになって、事実が消えるわけではない。取り返しのつかない罪過を受け入れると嘯く悪魔の腕を受け入れたところで、桜紅自身が己の軛を真実開け放つことはしてはならないのだ。
 そのために――。
 使うべきでなかった力だと分かっている。この力こそが桜紅から全てを奪い果たしたものだとも。それでも、今は抗えぬ|歪み《・・》を守るために使う。
 拒絶するように翳した掌の向こう、襲い来る甘やかな誘いが歪んでいく。やがて漆黒の桜へ塗り替えられたそれは、呪詛となって悪魔へ吹きすさぶ。
 ――いつか、悪魔と呼ばれるものと対峙したことがある。
 神とも悪魔とも戦った。超常の者が持つ悍ましき力に、往時ほどの力を持たぬ己のそれがどれほど届くのかは分からない。しかし少なくとも動きを止めることには成功したようだ。
 たたらを踏んだ悪魔に真名を告げることはない――幾度もの闘争のうちで学んだことだ。心の裡でそっと呟く黒き桜の名が、樹木の根となって悪魔を絡め取る。
 鋭い鉱石の破片が藻掻く女へ突き立つのを見遣りながら、桜紅の脳裡に鮮烈に蘇るのは、眼前にある力の根源が全てを呑み込む未来のことだった。
 泉に映り込んだそれを否定し得るほど、己自身を信じ切れてはいない。胸に恐怖ばかりが巡るのはそのせいだ。いつとも知れないいつかに解き放たれてしまうのかもしれない歪みが、彼女の大切なものを幾度でも奪っていくのかも分からない。
 だが。
 それでも――視線を落とすことはしない。
 立ち止まりたくないと願う想いの方が、確かに強く、心に根を張っている。

一文字・伽藍


「趣味のよろしいことで」
 簒奪者の狙いなんぞ見飽きた。他者のものを壊すか奪うか踏みにじるか――どれも一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)の心底嫌う代物だ。
 然れども悪辣さで眼前の悪魔に敵う者はそうあるまい。取り出した釘を無造作に弄び、彼女の眼差しは長躯を睥睨する。
「アンタはとびっきり最高に気に食わねェ。人の大事なもんダメにしてニヤつくのはフィクションだけにしなよね」
「そんなに大事なの? こんなのが? じゃあ守れば良いのに。ヒトって不思議だなあ」
 さながら子供が路傍の石を蹴り上げるが如き気軽さで、愛を解さぬ悪魔は首を傾ぐ。ますます眉間に皺を寄せる伽藍の表情を読み取る気もないらしい。いっそ快哉とさえ感ぜられる笑みで、無邪気な悪意が眷属を呼び起こす。
「貴女は守ってみせてね!」
 ――影より這い出る漆黒の蛇の向こうで毒尾が揺れる。
 伽藍を包囲した地を這う獣を前にして、しかし伽藍が臨戦の姿勢を取ることはなかった。囲むのが己のファンであればいざ知らず、斯様な意志なき悪意の凝集体では癪に障るばかりだ。
「ちょっと〜囲み行為厳禁なんですけど〜」
 この程度で済むと思われているのもなお腹立たしい。眼前の悪魔の知るところではないだろうが――数で勝負するとあれば彼女もまた負けてはいないのだ。
「クイックシルバー!」
 軽やかな声で呼ばう護霊が雷の如く光り出す。常の光体と比べ、分裂したそれらは決して大きいとはいえない。然れども数でいえば――。
「絶好調じゃん?」
 伽藍の怒りを理解しているのか、或いは環境の要因か。ポルターガイストを扱う護霊はいっぱいに持ち込んだ釘の在庫を全て吐き出してなお有り余る。毒の滴る尾の動きを数体がかりで止めても手持無沙汰が出て来る始末だ。
「まァここらには無限に武器あるし? アタシの勝ちってことで」
 仄灯りを孕む鉱石の名残はダンジョンの床じゅうに散らばっている。|鋩《きっさき》の鋭利なものを選び取って投げつけてやれば、それだけで日頃使っている釘と大差のない威力が出るだろう。
 いかに無力化しようとも数が違う。所詮本体は一匹の悪魔にすぎぬのだ。囲う護霊の輝き全てを押し留めることなど出来はしない。
 鋭い爪で振り払えど実体なき光を掴むことは出来まい。暴れ回ることも出来ぬ哀れな悪魔と、次々貫かれて霧消していく眷属どもの影を踏みしめて、夏空の色をした眼差しが眇められた。
「で、後悔して苦しんで、泣いて喚いて跪くんだっけ? 伽藍ちゃん、そゆのよく分かんないからお手本見せてほしいな」
 ――ほら、やってみせなよ。

チェスター・ストックウェル


 湖面の届かぬ幸福は柔らかな波紋に呑まれ、代わりに悪魔の翼が広がっている。
 視得ぬはずのものを捉える眼差しは過たずチェスター・ストックウェル(幽明・h07379)を見詰めているようだった。十字の瞳孔が生者と死者の境を殆ど感じていないのは、受け取る視線の色で容易に知れる。
「あはは。人間じゃ飽き足らず、幽霊にまでちょっかいをかける悪魔がいたなんて。だけど生憎どうすれば君を満足させられるか、わからないんだ」
 泣くのも喚くのも跪くのも御免被る。暗闇の仄灯りに透ける|幽霊仲間《フーリガン》たちは、コート上への部外者の乱入に気合十分だ。
「これで合ってる?」
 指先で合図を送ってやれば、簒奪者には見えぬ凍てた腕が人の形の魔物を絡め取ろうとする。
 その向こうで。
「私は|幽霊《ゴースト》のこと好きだよ! 魂の質量は変わらないし――」
 嗤う悪魔の指先は、真っ直ぐにチェスターを示している。
 背後の暗闇からふいに現れた漆黒の蛇に反応が遅れた。咄嗟に防御姿勢を取った彼が晒す無防備な背中の、あるはずのない肉体が貫かれる。
 毒尾から流し込まれるのは在りし日の情景だった。二度と戻らぬ幸いがチェスターの眼前で燃え尽きたその日の悔悟が、頭の奥底に込み上がる。
「死んじゃってもまだ、ここにいるんでしょ? 美味しい未練が、いーっぱいあるはずだよね」
 ――サッカーなんてしなければ良かったと思ったのは、あれが最初で最後だ。
 早く帰っていれば良かった。ちょっとした遊び心なんて出さなければ良かった。あの日、あの場所を、あの時間に通りさえしなければ――或いはほんの数秒でも歩く速度が違えば運命を変えられたはずだ。
 後悔はいつでも取り返しのつかなくなったときに襲い来る。二度と開くはずのない目が開いたとき、目の前にあったのは嘆き悲しみ心を壊した大好きな両親の背中だった。
 未練はなかったのだろう。愛する一人息子に会いに行くために、自ら現世の肉体を脱ぎ捨てることを決めた両親に、現世に留まった息子の悲鳴は届かない。透ける体では抱き留めることも出来ず――未練なき魂が繋ぎ止められることもなく、二人は地の底の消えぬ業火に身を投げた。
 必要のない呼吸が止まった拍動を凍り付かせるようだった。あるはずのない血流が乱れて眩暈がする。膝をついたチェスターの懺悔を楽しげに見下ろす悪魔を前に、顔を上げる気力すら――。
 頭に軽く衝撃を受けた気がして目を上げる。
 間髪入れず額に一打。肩にもう一打。同じ幽体の干渉は感じ取れるが、結局互いに肉体がないのだからすり抜ける。
 ――まるでどうしようもない子分を見下ろすように、|お騒がせ幽霊《フーリガン》たちが肩を竦めてチェスターを見ている。
 深々とした溜息に笑声が載った。それでようやく、要らない呼吸の仕方を思い出す。
「しょうがないだろ。俺は君たちよりずっと幽霊歴が短いんだから」
 立ち上がりながら膝の土を払ったのもいつぶりだろう。コートの上ではよくやっていた気がするのだが。
 サッカーのことを思えば大半の悩みは吹き飛ぶのがいつものことだ。忘れることは出来ずとも、鬱陶しく顔に掛かる髪を掻き上げて、エースストライカーは取り返しのつかない過去の気配を追い払うことには成功した。
「十数年前のことだって、ようやく瘡蓋になってきたところなんだよ」
 終わったことだと思うほど割り切れはしない。ともすれば永遠に、この記憶を真の意味で噛み砕くことは出来ないのかもしれない。
 それでも今は為すべきことがある。
「さ、俺をエンタメとして消費した代金は高くつくよ」
そろそろ手に馴染んだ自動拳銃の銃口が吐き出す弾丸は、仲間たちへの悪態ほどに軽くはない。

神崎・涼
ケヴィン・ランツ・アブレイズ


 どこまでも続く雲一つない蒼穹に吸い込まれる気がした。
 湖面に見下ろしたはずの己の未来の形が、まるで頭上から彼を見下ろしているようだった。神崎・涼(あすなろ|付与魔術師《エンチャンター》・h13219)の垣間見た旅路の先は、あまりにも希望に満ちていて、いっそ幽かな眩暈に似る恐怖さえ覚える。
 どこにでも行けるというのだろうか。今こうして雁字搦めになっている己自身が。
 だとしたら、望みすらも漠然とした決意としてしか定まらぬ涼が、あの鮮やかな青空のどこへ羽搏けば欲しい未来に届くというのか――。
 横目に弟分を見遣ったケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)の眼差しは、既に進むべき先を過たず理解している。
 涼とは真逆の空だった。垂れ込める暗雲と渦巻く嵐は運命の如くして、しかしその向こうにいっとう強く煌めく蒼き星の輝きをなお強めるようにさえ思えた。
 遥か彼方からケヴィンに語り掛けるそれが何を示しているのか、彼は知っている。この嵐のただなかに己の眼差しが見出すべきものも同じだ。嘗て神とすら呼ばれた生命の魂を宿したまま、卑小でありながら鮮やかに光る人へと転生を果たした身は、過たず全てを理解している
 だが――きっと、今難しげな顔をして俯き惑う弟分に見えたのは、ケヴィンの命運を示唆するような烈しい嵐ではあるまい。その意味するところを、涼は恐らく未だ掴みあぐねているところも、彼とは異なるだろう。
 抜けるような蒼天の如き青い揺らぎを見詰めるケヴィンの唇が我知らず緩む。ほんの幽かな吐息じみた笑声は、それでも昏いダンジョンの中によく響いたらしい。目を上げた涼はあからさまに顔を顰めた。
「何だよ、笑うな」
 己がどんな顔をしていたのか、兄貴分の表情で何とはなしに知れた。
 妙な表情だったのだろう。でなければ、いつでも大抵快哉と笑っているか、さもなくば揶揄うように唇を持ち上げるケヴィンが、斯様にも困ったような顔で涼を見ているはずがないからだ。
 いっそ演技的なまでにぶっきらぼうで不機嫌な声と共に、心なしか強い力で背中を叩いたときの感情を、正しく言葉にするのは難しい。そうされても黙ったままのケヴィンとの間に息継ぎめいた沈黙が零れたせいか、それとも眼前にいる悪魔に目を向けるためにそうする必要があったからなのかも分からぬまま、涼の唇が幽かに――兄貴分が零した笑みよりも小さく、短い言葉を告げた。
「……ありがとよ」
 どうやら笑みの理由は、言葉にならぬまでも確かに届いていたらしい。ケヴィンには嗤ったつもりはなかった。彼からすれば遠くなったものであっても、どれほど幼い憂いも惑いも来た道だ。嗤うことは勿論、嗤わせることもするものか。
 瞬きと共に全身を鎧った甲冑は漆黒の裡に人竜を隠した。常にもまして強大に思える長躯を一瞥し、涼もまた己の拳を固める。傷だらけの手を覆うバンテージが、彼の目に飛び込んだ。
 ――そうだ。
 覚悟を決めるためにここに来た。知らぬ|世界《√》に踏み込んだのは、何も分からぬまま圧倒されるばかりでいないためだ。
 あらゆる局面で未熟であることは理解している。泉に映るものに怯み、揺らぐ心を簡単に見透かされて、今も拳を固めるまでに兄貴分の力を借りた。実力も、精神も、およそ戦場に立つ者としては柔らかすぎる。
 それでも――いつまでもそのまま立ち止まっているわけではない。
 漠然と、しかし確かに決意の矛先が定まっている。どこに繋がるかも分からない信じた道は涼の目前に真っ直ぐに手招いている。この先に何が待っているのだとしても、一度走り出せば引き返すことの出来ない隘路を前に、今はひた走るための助走をつけようと前を向いたのだ。
 その覚悟を。
「つまらねえだとか興味無ぇだとか、そんなクソくだらねえ理由で踏みつけにするような悪魔に簡単に負けてやるほど、オレは行儀よくなんかねーんだよ……!」
 引き絞るような声音で拳を構える涼を、悪魔は心底不思議そうに見詰めた。決意も希望も愛も情も解さない魔物は、手持無沙汰に足先でつついていた地面にヒールを打ち鳴らす。
「お話終わった?」
 幼子じみて無邪気な表情には同じだけの悪意ばかりが揺らいでいる。
 獲物と同じ壇上に立つ気のない、傲慢なる怪物に、ケヴィンの眼差しは鎧の下で眇められた。
「確かにテメェらにとっちゃ絶望も希望も同じ括りだ。もとよりテメェにゃ理解する必要は無いだろうねェ」
 影より伸びる腕が気儘に暴こうとするものがどんな形をしていようと、それを尊ぶのは人間だからだ。真実遥かなる高みに在ったケヴィンは、矮小なる人の肉に押し込められてようやく、弱く小さな生命と同じ視座を手に入れた。
 眼前の悪魔とは違う――同じ目線に立つことで、その美しさを心底から解したのだ。
「だが弁えてるかィ|魂喰らい《ソウルイーター》よォ? テメェの糧を提供しているのは確かにニンゲンだが、卑小な生物とて邪慳に扱われりゃ恨みも懐こうモンだ。況して、|食い物の恨み《・・・・・・》を軽く見るような阿呆には、相応の|教育《おしおき》が必要だよなァ……!」
 燃え立つ怒りには殆ど興味を示さない。決意を路傍の石のように蹴り上げて、悪魔が眉尻を下げたのは、ただ|おしおき《・・・・》の四文字が想像させる痛みの方へ目掛けてだった。
「んえ……私、痛いのきらーい」
 拒絶と共に襲い掛かる影が暴かんとする記憶なぞ、一片たりとも渡してやる義理はなかった。ケヴィンの右腕が一薙ぎすればたちどころに霧消するそれが、一筋の隘路を指し示す。駆け出せばすぐにも悪魔へ届くだろう道に、ケヴィンが呼んだのは弟分だ。
「リョウ!」
「応!」
 兄貴分がやり方を示してくれた。悪魔の誘惑を振り解くための強き意志と堅固な誓いは心にある。彼を縫い留めようとした影を振り払い、一心に走り出した拳に意識を集中する。
 宿した力は|付与魔術《エンチャントメント》。同じ要領で魔力を注ぎ込めば、即ち岩すら叩き割るだけの強き武器になる。
 思い切り横っ面を殴りつけた弟分の気合いに幽かに笑って――。
 ケヴィンもまた、己が信念の鉄斧を振り上げた。

ララ・キルシュネーテ
詠櫻・イサ


 一片の曇りもない春の日差しのような未来を見たと思えば、次は過去の過ちを暴かれる。
「ふん、趣味が悪いわ」
「ほんと、悪魔の所業ってやつだな」
 後悔や懺悔や後ろめたさや、それを生み出す嘗ての記憶――一見すれば神にとっては必要のないものも、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は大切に抱えている。それもまた彼女を作り上げる詩編の一つであるからだ。
 不愉快に奥歯を噛み締める行為に意味があるのかも、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)には分からない。当たり前のようにここにある|情動《・・》が果たして正しいものであるのか――作り上げられた人形の胸の奥底が幽かに揺らぐ。
 相対する悪魔は上機嫌だった。尾をしならせ、影の腕を無遠慮に嗾けながら、無邪気な悪意が歌うように嗤う。
「ね、何がそんなに悲しいの? 何をそんなに苦しんでるの? 見せて欲しいな!」
 ――ララにとって、思い起こせるのはただ一つ。
 心の底に蟠る曖昧な暗闇の名前を知らない。神が抱く必要のないはずの後ろめたさが鎌首を擡げる。
 √キルシュネーテに辿り着いてから少し、幼い少女は目覚めを待つ女神人形を見上げていた。未だ家族の元で安穏と暮らしているはずの小さな娘は、頭を撫でて優しく子守唄を奏でてくれる|母《・》に逢いたくてならなかった。
 それを誰が責められよう。昏々と眠る冬の女神人形に持っていた母の血を分け与えた。目覚めた眼差しがララのよく知る微笑みを浮かべてくれれば良いと、ほんの僅かの期待を抱いて。
 果たして目を開いた人形は、ララの名も知らず、少年の声を上げた。
 そのときの感情の名前はよく思い出せない。それでも、今は|イサ《・・》が目覚めてくれたことを喜ばしいと思っている。
 イサはイサだ。母ではないし、母にすべきでもない。だが。
 時折思うことがある。時に必死にララを護り、手を握ってくれるのは――あのとき、少女が犯した|過ち《・・》のせいなのではないか。
 母の血がそうさせているだけなのではないか。本当の|イサ《・・》はこうまで離さず手を握ってくれる存在ではなくて、ララがそうさせてしまっただけなのではないか。
 ――そう思うこと自体が、今も胸中に渦巻く黒い靄に変わる。
 悪魔に促される必要もない。何故だか正面から口に出来ない真実を、いつかララの口から打ち明ける。そのときこそイサに謝るのだ。彼がどう思ったとしても――ララは、そうすべきだと思うから。
 胸の底と相対しながら、俯くことなく花眸で瞬く少女の横顔を、イサはどうしても見詰められない。そういう己に力ない苦笑が零れた。
 どうしようもなく湧き上がる罪は、淡い希望を打ち払うには充分だった。
 過ぎたる夢だ。人形だからというだけではない。奇跡が起きて人間になったとて、ララの傍にいる資格なぞ疾うにないのかもしれないとさえ思う。
 ずっと黙っていた。
 彼女を取り戻しに来た本当の|家族《あに》の、真っ直ぐな眼差しを覚えている。相生結びの双眸に夜明けの桜の色が映るのも。妹を探して必死に迎えに行こうとする彼を阻んだのはイサだ。
 絶対に迎えに行く――その言葉が心の底にこびりついて、恐怖が脳裡を覆ったからだった。
 白虹の幼き聖女は家族を愛している。ほんの幼い娘の顔で、会いたいと願っているのを知っている。きっと告げれば飛び上がらんばかりに喜んで会いたいと言うのだろう。そして。
 きっと、あの少年の手を取って、ここからいなくなってしまう。
 嫌だった。湧き上がる衝動を優先してしまう己が何より穢れている。キルシュネーテの為だと嘯いて、己の本音を吐き出すことさえ出来なかったことも。
 卑怯だ。卑怯な手を使ってでも、ララをここに留めておきたかった。イサの元から去るときを、出来得る限り先延ばしにしたかった。
 千々に乱れる焦燥の中に声がする。裡に宿された本能の如く、聖女を渡すな――と。
「イサ?」
 瞬くララの声が耳に突き刺さる。責められているはずがないのに胸の裡が揺らぐ。漸う見返した花眸へ向けた表情が、果たして笑みになっていたのかも分からぬまま、イサはまた己の罪業を飲み干した。
「何でもないよ、」
 辛いのだ――ということだけが分かった。
 可愛いイサはララのものだというのに、悪魔の齎した幻惑が彼を苦しめている。その顔を見上げて湧き上がる情念は、紅の双眸になお強く怒りを刻む。
「許さないわ」
 迦楼羅焔の天輪が燃え盛る。神なる力は悪魔の宿した毒の在処を遍く見通している。魔を打ち祓い神聖なる光を宿す劫焔は、現世に蔓延る悪にとってはあまりに眩い輝きだろう。
「見物したいというなら、見物料をいただくわ。そうね……お代はお前の生命でどうかしら?」
 見詰めていれば目が焼けるのが先かも分からぬが。
 焔の輝きの向こうで顔を顰め目を覆う悪魔をめがけ、イサの呼び起こした女神の力が賦活する。神に寄り添う冥府の闇の力は迦楼羅の齎す光によっても祓われぬ。水底から湧き上がるのと同じ、弾けては消える泡沫の裡に憂いも罪過も懺悔も融かし隠して、代わりに吼えるのは無数の光線だった。
 打ち砕きたかったのは悪魔であったか、それとも己が感情であったか――僅かに細めた目に映る、いとう美しい迦楼羅の焔が掻き消してくれた暗闇を否定するように、イサは眦に力を込めた。
「ただの悪魔が、|邪魔をするなよ《・・・・・・》」
 泉の向こうの未来は輝いていた。たとえ夢物語であっても、それを手にする資格など疾うにないのだとしても――。
「叶えるんだろ? 明るい未来を」
 零した声音が己に言い聞かせるためだったのか、それともララの背を押すためだったのかさえ、もう分かりはしなくとも。
 幼き迦楼羅は確かに笑った。春に宿す木漏れ日の中を、成長した二人が手を繋いで渡る――ただの夢想だと否定するには近しくて惜しい道へ、手を伸ばしもせぬうちに背を向ける必要はない。
「そうよ、イサ!」
 心底から叶えたいと願うなら、如何なる泡沫も理想だ。ならば。
 理想とは――己が手を伸ばして掴み取るものである。

香柄・鳰
九鬼・ガクト


 悪魔の楽しげな笑声はさておいて、どうにも脳裡を過ぎる感覚がある。
 九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)の記憶は常に染み着きすぎた鉄錆のにおいと共にある。安穏を象徴する藤の香りが導いてくれるのはごく最近になって紡いで来たものばかりだ。もっと奥底にあるものは、いつも戦場の気配を纏っている。
 泣いて、喚いて、跪いて――随分と嗜虐的で高慢な態度も、それを隠しもせずに腕を広げる傲慢も、少しずつガクトの記憶の裡を掠めていく。ようやく辿り着いた懐かしさの答えに頷くさまは、およそ今より闘いに赴く者とは思えぬ長閑さだった。
「あー、なるほど。居たね、こういう人」
「何か思い浮かぶものがおありですか? ガクト様」
 他方の香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は既に主の前に出ている。手に馴染んだ大太刀の柄を握り、鯉口を切った前傾姿勢は、ガクトの許可一つで弾丸より早く駆け出すだろう。
 しかし今は焦点を結ばぬ双眸も考え込む主に向けられている。厚い前髪の奥から鳰を見下ろすガクトの思考が結んだ像は、有象無象の姿を揺らがせたままだ。
 戦のさなかにあっても余裕がある者はいるもので、手より口がよく回る手合いは腐るほど見た。親が偉いのだか己の地位の問題だか知らぬが、敵方を従者と端から勘違いしている連中だ。
「敵相手に高圧的に上から目線で言う人、鳰の所にも居なかったかい?」
「ああ……成程。こちらにも居ないとは申しませんが」
「そう言う事をいう人ほどヘタレで弱かったよね」
 瞬きのみで肯定する。鳰の脳裡に過ぎる姿は幾つかあるが、どれも視界以上に朧げだ。
 顔を覚え、声を覚えるほど長く、世に留まれていたためしがないからである。
「じゃ、君もそうかな? 弱い奴ほど良く喋るって」
「む。なーんか馬鹿にしてる?」
 あからさまに機嫌を損ねたらしい悪魔は、しかし彼らの遣り取りにそこまで興味を示してはいないようだった。尾をしならせる半ば無防備な姿は、殺意の混じらぬ純然たる悪意を体現しているとも、人間を路傍の石の如き代物としか思わぬ傲岸を示しているとも映る。
 であれば――。
「あの方がどうかは分かりませんが、少なくとも喜ばせる必要性は感じませんね」
 この膝もつくまいし、主の膝もつかせはすまい。
「私が首を垂れるのは主の他におりませんし、主の膝をつかせようとするならば万死に値します」
「んー、私が膝をつく事はないよ、安心して鳰」
「ええ、勿論! 可能とは思いませんが、試みる事自体が許しがたいのです」
 確かに人ならざる者であろう。強大な力を戯れに振り回す幼子の傲慢だ。だが世界が己の思い通りになると信じて疑わず伸ばす気儘な悪辣さが、鳰の忠心と主の存在に手を出すことを赦せはせぬ。
 眇めた女の目に笑みはない。唇ばかりが弧を描く従者の意を尊重し、今ばかりは前に出ぬガクトの手も、漸う己が武器に伸びた。
「んー、それにね。私が隊長の座に着いてる時に、よくつっかかって来た子達が居たけど――」
 引き抜くは一本の藤刀。磨き上げられたそれが待ちかねたように仄灯りを反射する。映る男は徐に前髪を掻き上げて――。
「そういう奴ほど、俺が叩き潰してたけどな」
 露わになった紅が唇を吊り上げる。
 死すらも魅了した男の纏う本性は獰猛な獣に似ている。今や共に馳せた戦場にて感じ慣れた気配に、従者の声は軽やかに笑った。
「あらまあ……教育熱心な隊長さんだったようで!」
「鳰、お前さんの方が余程勉強熱心だな」
 それが合図だ。
 走り出した鳰と悪魔の反応は殆ど同時だった。腕が伸びて来るまで起点が探れぬのは厄介だが、なれば動きを止めれば良いだけのこと。
 地面に突き立てた刃から放たれる神気は悪徳の従僕には覿面だった。怯んだそれのうちガクトに向かうものを斬り落とし、同時に体勢を崩した悪魔に斬りかかる。
「腕なんて生優しいな」
 ――ガクトの呼び起こす藤蔦は、藤の馨りを伴い、悪魔を縛り上げる。
 口ばかりが達者な煩い連中は切り刻んでやれば良い。それこそ原型を留めぬほどに。
「今日の晩御飯はハンバーグにしようか」
「何故此処でハンバーグを!?」
 物騒なミンチを頭に思い浮かべるガクトに声を返すほどには、鳰にも余裕が残っている。己を暴かんとする影の腕は斬り払いはしなかった。きりがないならば、主を守れさえすれば良いからだ。
 分かっている。
 結局、鳰の罪過の在処も、泉に映る幸いの未来も、同じ形をしているのだ。
 穏やかな日常の続くことが手の届かぬ幸福である世界に育った。幾つもの寄る辺を喪ってようやく得た飾り気のない笑顔の向く先は、彼女の心にどうしようもなく温もりの傷を刻んでいる。
 生き残ってしまった。大切な人の命を目の前で喪って。仲間の悲鳴も閃光も、幾ら現実が霞んだところで|眼裏《まなうら》から消えてはくれない。
 過ぎたる熱だ。存在せぬ死者の声に、きっと耳を傾けてしまうほど。
 だが。
 燃え立つ忠心は今や死に惹かれたが故のものではなくなった。ガクトが傍に在って、鳰が斃れることなどあるはずがない。
「んー、鳰の忠誠心はいつも度が過ぎる事があるけど……私も幻の様に過ごせたら嬉しい、ね」
「そんなに度を越しています?」
 そんなつもりは毛頭なかった――否、己の忠義そのものを疑ったことはないのだが、折に触れて主自身から言及されるものだとは思っていなかった。
 然れども斯様に言われていれば幾らも自覚はするものだ。首を傾いで心に浮かべるガクトの反応が、言われたことのない|控えなさい《・・・・・》であるくらいには。
 とはいえ、たとえ空想が現実になったところで引き下がれるとも思えない。
「だから自分を傷つける事は許さないよ?」
 ――すっかりいつもの姿に戻ったガクトが下す命令は、いつも鳰を慮っているからだ。
 思わず零れた笑声を隠すこともなく、従者が主に寄り添う。茶目っ気を孕む表情は戦士というには些か幼かったやも分からない。
「ほら。そうやって何時も甘やかして下さる」
「んー? 甘いかい?」
「ええ! 忠心は増すばかりです」
 鳥の如く軽やかな声で少女が続けた言葉になお、ガクトも小さく笑うのだ。
「それは、もっと甘やかさないとね」

ジュード・サリヴァン


「欲しいかい、俺の心が崩れていく瞬間が」
 見目に違わぬ悪魔の如き要求だった。受け入れるつもりで伸ばされたのだろう腕は我慢を知らない幼子に似て、強請るようにも映る。
 ジュード・サリヴァン(彼誰・h06812)の裡に、希望も絶望も燃え落ちた灰の他にない。
 嗤う悪魔に奪われる熱すらも宿さない。誓いの光も後悔の黄昏も、全て過ぎ去った夜闇の風雪を唯一払う指の熱に捧げてしまった。無遠慮な腕がいかに胸裡を踏み荒らしたとて、凍り付いた想いが血を流すこともないだろう。
 それでも構わないというなら――。
 奪う感触すらもない、虚しい遊戯に過ぎぬ嘲笑にも意義があるというのなら。
「おいで。『長く遊べる玩具』になってあげる」
 僅かに広げた腕と伸べた掌は、相対する悪魔と同じほどには無防備だったろう。静謐なジュードの声に短絡な許しを得たつもりで、見目と比してひどく幼い声音が笑う。
「本当? 嬉しいな! くふ、ふ。貴方って優しいヒトなんだね!」
「いいや」
 空疎な褒め言葉だ。己の思い通りになってくれる者を好くだけの、次の瞬間には翻される好意だ。それすらも――男の心に、何らの動揺も与えはしない。
「……踊り狂うのは俺か、君か。試してご覧」
 目的は速やかに果たされるべきだ。ここへ来たからには。
 裏切りの名を冠した黒刃が翻る。幾重にも揮う先に奇しくも|悪魔《・・》を捉えんとするのは皮肉な運命やも分からぬ。
 ジュードの握り締める刃は、今は届かずとも構わない。求めるのは悪魔自身に付け入る隙を与えぬことだ。周辺から殺到する腕が、他の誰かにそうしたように、心の暗がりを暴こうとしても関係はない。
 元より――|永遠《・・》は男の中だけにある。
 凍てた冬の気配が吐息を白く染める頃だった。朝から降りしきる雪すら凍るような寒風をものともせずに、ジュードの掌は未だ温もりを握り締めて、常と何ら変わりない幸福を特別なものに変える準備を整えていた。
 やがて訪れる最大の歓びを前にしてはほんの些細な――しかし続く未来を約束するための日になるはずだ。信じて疑いもしなかった。
 悍ましき異形が全てを冬の根雪に埋めてしまうまでは。
 ――私が私で居るうちに、あなたの手で終わらせて。
 震える指先が最期まで笑っていたのを覚えている。鮮やかな黄金の春は世を塗り潰す黄昏を前に散り果てて、後には腐り果てた朽木ばかりが残ると、彼女は予見していたに違いない。
 振り絞るように零された最期の願いを目前に、男が首を横に振ることは出来なかった。
 朦朧とした記憶の中に、ただあの日の雪を融かす鮮烈な紅色の命の証を覚えている。全てが終わって立ち尽くす愚かな男の前に残されたのは、もう二度と笑い掛けてはくれぬ愛しい肢体と――。
 ポケットの中でひと揃いになり損ねた、誓いの指輪だけだった。
「……分からないだろう、どうして俺が今も生きているのか」
 空いた掌が握ったのは黒い影だった。手応え一つ残さずに霧消していくそれには目もくれぬまま、ジュードの足は致命の一歩を踏みしめる。
 疑心を拭い払う力は這い寄る悪魔の誘惑を拭い去る。伸ばした指先が掴み取れるものは疾うに死に絶えたとしても、伸ばす腕の先にあるものを守ることは――出来る。
 信じるべきは彼に与する者たちばかりではない。肉薄した先の十字の瞳孔を真っ直ぐに見据えた蒼天の双眸は、心の何をも知るつもりもない|少女《ヤエル》にすら、その想いを|信じさせる《・・・・・》。
「――それでも、愛は死なないんだ」
 それは、|絶対善《ひかり》の対に生まれた|絶対悪《かげ》には、あまりに目映い想いだった。
 信じることも、愛することも、元来の悪魔には出来ない。それを理解せぬから無関心で、路傍に咲いた名も分からぬ雑草を手折るのと同じように踏みにじるのだ。だから。
 真っ直ぐに見据えるジュードの眼差しの奥にあるものを|信じた《・・・》とき、悪魔は初めて心の底から恐怖したような顔をした。
「なに、それ……気持ち悪い!」
 己の感情を明瞭に言葉にすることさえ出来ない、幼子と同じ反射的な拒絶はひどく単調だ。むずがるような動揺の証左が殺到するより前に、ジュードの刃が|心臓《こころ》の在処に届いている。
 肉を裂く手応えは人間と何ら変わりなかった。理を違えた眼前の魔物を、男の眼差しは静謐に見る。
「人間は愚かだ。何かに縋らなければ生きていけない」
 それをして超常の怪物の付け入る隙だといわれるならば、否定のしようもないだろう。だが。
「だからこそ、愛は美しいのだと俺は思う」
 憎むことはすまい。恨むことも。風雪のただなかに置き去りにされた心が抱くのは、熱量とさえ言い難い受容だけだ。
 悪魔であるとて唾棄出来ようか。一片の光すらも拒む闇の裡より、目を焼く光を捕らえんと伸ばされた腕に――真実、その煌めきを抱くことも出来ぬというならば。

堀・允人
駒月・咲


 思えば花占いにも似ている。
 だが物も言わない花弁を引き千切るより、人間の指を手折る方が興が乗る。悲鳴も苦悶もかかずらうほどの価値はなく、寧ろ魂が吐き出す感情の方が心を充足させてくれる。|同じ生命《・・・・》であることを道義の中心に据える人間の倫理は、幼少の折より脆弱で卑小な命を己と同様だと思ったことのない堀・允人(魂剥ギ・h07457)には、何らの枷も及ぼさない。
「だって、壊れるのが悪いんですもの、ねぇ?」
 眼前の悪魔との違いといえば、壊すのが心であるか体であるかというだけだ。嬉々と発された素朴な加害への欲求はいっそ身に馴染みさえする。
 零れた呟きを聞き遂げて、隣から視線を遣った駒月・咲(Jaculus・h00701)が笑う。
「意外と似たもの同士か?」
 まあ、壊れるのが悪いのも分かるけどな――悪びれた様子もなく続ける暗殺者の表情は相変わらず読めない。いっそ楽しげにすら見える表情へ允人が首を横に振る。
「人のことを言えないじゃないですか」
 果たして悪魔は二人の遣り取りには意識を向けてもいないようだ。気儘に移ろう不安定な言動の幼さは、咲の目には種族的な問題とは映らない。人間に個人差のあるのであるから、同じだけの知性を宿した存在に個体の揺らぎがないとは思わない。
 しかし蟒蛇といえども毒を飲み干したくはない。無邪気な残虐さは理性的な暴力より|性質《たち》が悪いのだ。膝を折ってどうなったものか、あまり考えたいことではなかった。
 ともあれ為すべきを為さねばならぬ。殆ど同時に握り直した得物と共に、互いの視線が交錯することはなかった。
「手筈通りに」
「おう、任せろ」
 確認の一瞥をくれる咲とは裏腹、允人の双眸は悪魔のみを見ている。槍と斧の|鋩《きっさき》を向けられて、悪魔はますます唇に笑みを深める。
 足先が地面をつついた。無数の影の腕が現れるのを見据え、允人が浅く零した吐息が何の意味を孕んでいたのかは、彼の他には理解し得まい。
 常と変わらず槍を握る咲の掌に必要以上の力は籠らない。油断と隙を晒せばすぐにも首を獲られる仕事であれど、敵と相対していちいち緊張していたのでは続きもせぬのが暗殺業だ。たとえ隣に立つ男と戦場にて並び立つのが初めてであっても――。
 長躯を見遣る。
 まあ、何とかなるだろう。
 元より楽観的な性分だ。結局のところ、そうであるから、悪夢に悩まされながらも大した葛藤なく武器を握っているともいえるやも分からない。
 咲のやり方は変わらない。獲物の隙を見付け出して迅速に仕留める。見当たらないならこじ開けるまでだ。
 徐に痛んだ髪を一本抜いた允人の手中で頼りないそれが鎖に変わった。同時に蠕動する影のうち幾らかは咲の呼び出したものだが、眼前の悪魔にそれは伝わるまい。
 暗殺者の長躯は仄灯りが作り出す闇の裡へ不思議と溶け込む。真っ向武器を交えるばかりが仕事ではない。不快な羽音を立てる同行者の爆弾蟲が作り出す光は悪魔の目を晦ませているだろう。名も知らぬ旧き蛇神の力は身に満ちて、槍を握る指先に神懸かりの力を与えてくれる。後は影の腕を捌きながら、叩き込む機を十全に狙うだけだ。
 咲の位置を一瞥にて確かめながら、允人の指先が指揮棒の如く翻る。
 しかし――。
 允人の目に映る悪魔の姿にはいやに見覚えがある。性別ばかりを違えただけの、面影というにはあまりに重なりすぎる顔は、同じ|悪魔《・・》であるというだけでは説明のつかない符号だ。
 まるで|そのもの《・・・・》だ。束の間の惨禍の夢より這い出た、允人の知る悪魔と。
 蠢く影に合わせて指先を弾いたのは、それが己のものであると錯覚させるためだった。奇しくも咲と同じくする得物は、支配者を誤認させるにちょうど良い。暗殺者の方も元よりそのつもりであるから、交錯した視線は一瞬で意思疎通を済ませた。
「貴方、多くは問いません」
 人間の道義と倫理が所業を許さぬことを知っている。
 誰もが允人の|矯正《・・》を試みた。結局のところ何一つとして奏功しなかった説得の数々は、男の中に堅牢な軛を齎しこそすれ、性根までを正道に導き直すことは出来なかった。
 聞けば誰もが耳を塞ぐだろう非道を罪だと|認識し《おもっ》たことがない。さながら人々が欠かさず、しかし翌朝には忘れる食事と大差なく、男の加害は繰り返されて来た。大半の人間が家畜を噛み砕くのに味の他に思いを馳せぬのと同じように――。
 眼前の悪魔が後悔を求めるが如くして。
「私たち、ある部分でそう差はないように思えますのに、何を以て悪魔たりえるのでしょう」
 問い掛けに長い耳が揺らいだ。瞬く十字の瞳孔が男を見る。
「|地獄の底《・・・・》を知ってるか、そうじゃないかじゃないのかな? どう?」
 暫し悩ましげに顎に指を当てながらも緩まぬ攻勢と裏腹、まるで|同族《・・》に語らうが如く弾んだ声は、無邪気に笑った。
 その答えの正否は誰もが与り知らぬことだろう。然れども青い髪を見据える蟲の血の色をした眼差しは、糸の如く細く細められる。
「――ああ、その仰りよう。美しいと断ずるに迷うところはありません」
 質問の対価は質問だ。防御のために女を覆う影の腕を無造作に斬り落とす允人へ、悪魔の十字は問い返す。
「貴方こそ、どうして|現世《そっち》にいるの?」
 陥れるための声音ではなかった。純粋な問い掛けに幽かに目を眇め、允人は淡々と声を返す。
「質問の意図を測りかねます」
「んえ? だって貴方、まるで」
 唇が紡ごうとした音が何なのかを知る前に――。
 槍が悪魔に肉薄した。一度の跳躍で余人には詰め得ぬ距離を詰める咲の一撃こそが本命だ。故知らぬ権能にて速度を高め、主力のふりで彼に繋がる隙を作り出すために、允人は影の腕を排除していたにすぎぬ。
 無防備な身を切り裂かれた悪魔の身からは、眸と同じ色の体液が溢れ出る。人と同じ色をし得ない血液を零し、邪眼に増幅された身を蝕む痛苦に悲鳴を上げた女がヒステリックに叫んだ。
「お喋りしてるのに! 邪魔しないでよ!」
「敵の前で隙を晒す方が悪いんじゃないか?」
 暗殺者の声音は追撃を用意しながらも変わりない。横薙ぎに傷を抉る穂先を器用に回し、すぐに二打目を用意する。
 赦されたい罪――といわれて、咲にすぐに思い当たる節はない。
 命を奪う稼業だ。その一つ一つを指折り罪と数えていればじきに心身に限界が来る。秩序が罪過と定めるものと、心が罪悪と思って抱えるものには、往々にして隔絶があるものだ。
 強いて言うなら弱さであろうか。真の強者は一度や二度の拷問死で悪夢を見もせぬのだろう。まして、それを引き摺って眠りの浅くなるようなことを他者に看破されるなど、尚のことである。
 悪魔からして、弱きは罪と捉えられるのだか、この場に立つまで分からなかった。然れども考えてみれば眼前の女は罪過から生まれる感情そのものを求めているのであって、思い当たってしまった時点で付け入られるものなのは必定だ。
 さりとて操られてやるつもりはなかった。穂先は一度も揺らがない。
 嫌悪しているのは、細い紫の双眸が失望と呆れの色を孕むことの方だった。対等――であるか否かは兎も角、少なくとも信頼を置くに不足ない相手ではありたい。槍を向ける相手を違えることはあってはならぬ。
 しかし――躊躇なく振り上げられる斧を見遣る。咲とて相手が誰でも容赦をするつもりはないが、允人も負けず劣らずの苛烈さだ。
 事実、允人は影の腕ごと悪魔を引き裂くに躊躇はない。己の感情の置き所と明日を食い繋ぐための職責は切り分けている。ノルマは達成されるべきだ。相手が何であろうとも。
 無防備になった心臓を貫いたとき、咲の腕に残った感触は、およそ人のものと違いはなかった。
 跡形もなく消滅する悪魔の身が消え去った直後、深々と溜息を吐いた咲が徐に身を屈める。降ろした蛇神の力は人妖の身にも些かならず負荷が重い。ましてあの悪夢が白昼夢の如く脳裡に薄らと過ぎっていたせいで、精神の方もやけに疲弊した。
 立ったままの允人の方は、額に手を当てて首を横に振る連れに手を伸ばす。生白い手の意図を汲んで己の手を重ね、引き起こされた咲の表情は、浅い息の後には元に戻っている。
「……拙い連携でしたが、いかがでした?」
「拙いのはこっちだった気もするが、良かったんじゃないか」
 感想というには些かならず曖昧である。しかしまあ、背中を預けるには足りたのではないか。双方ともに。
「少しは夢見が良いんじゃないですか、今日は」
「そうだな」
 ――散々思い出しながら武器を揮って、すっかり体も疲れたわけであるし。
「今日は悪夢は見ずに済みそうだ」

黑・宵刃
森本・依鹿


「おやおや! これはこれは、大した手技ですね。一体どれほど模倣の腕が良いか、比べてさし上げますよ」
 呵呵大笑の声色は薄暗いダンジョンに大きく反響した。成程、赦しを乞うべき相手が揺らがず定まっていれば、救済の幻惑が誰かの形を取ることもあろう。
 黑・宵刃(|无貌《Wúmào》・h12479)の眼前に立ち並ぶのは、己の貌を寸分違わず写した存在である。質量を伴う無数の己を指折り数え、唇は楽しげに弧を描いたままだ。
 しかしどうにも数の多いような気がする。特段の意図もなく、耳を立てたままで見遣った隣の女の表情が、全ての答えを示していた。
「――おや。依鹿さんも同じものを思い浮かべてくださったのですね」
 宵刃を赦すものと同じように、森本・依鹿(HUNTRESS・h13088)の救済もまた、二足の形を取る最悪の家の犬の他にない。
 いっそ嬉しげな笑みで己を見下ろす昏い赤の双眸を信じがたい気分で見返した。ますます愉快に持ち上がる唇の端が依鹿と同じものを見ているとは思えない。
 思いたくもない。
 無数の宵刃が前にある。隣にいる彼女と同じ貌で笑っている。出口のない万華鏡の中に閉じ込められて、しかしどこを見ても己の姿は見当たらず、武器を向けるべき先には武器を向けたくない相手が笑っていて――。
 それなのに。
「……どうしてそんなに愉しそうなの?」
「何故? 決まっています!」
 広げられた腕は、依鹿の千々に乱れる内情をまるで知らぬげに、立ち並ぶ己に指を向けるのだ。
「こんなに楽しいことはありませんよ、依鹿さん! ――自分との腕試しができる機会は滅多とありません!」
 悪魔が引き摺り出すのは地獄と相場が決まっている。眼前に映し出された現状は、絶望すれども笑えども変わりはすまい。
 宵刃は知っている。人間が現世に産みつける、地獄の底を踏みつけるときの感触を。
「同じ地獄ならば踊らなければ損ではありませんか! 哈哈哈!」
 しかしその腕は硬直する依鹿に寄り添いもした。穏やかに歩み寄った声が耳許に囁く。
「あなたは斧を振るい、気にせず銃で私を撃ち殺していけばいいのです。何、本物であれば――避けてみせますよ」
 ――まるで悪魔の如くして。
「的撃ちだと思えばいいのですから」
 嫌だ。
 悲鳴の代わりに銃砲が啼いた。血を吐き出して断末魔も上げず掻き消えた宵刃の一つを埋めるように、隣にあった長躯が敵陣へと躍り出る。
 こんなつもりじゃなかった。こんなはずじゃなかった。何度繰り返せども現実は否応なしに依鹿の前に立ちはだかる。やらねばならぬことに追われ、己の意志は強硬な運命の波濤の前に置き去りにされて、それにも慣れてしまった。思えば思うほどにあの夜の寒風に似た温度を孕む諦観が引き裂くように鈍く疼く。
 それでも巨大な斧を投げる腕を止める気にはなれなかった。引鉄を引く指が震えることもない。踊るように殺し合う怪物たちの群れの中にある|彼女《・・》ただ一人を血に塗れさせるわけにはいかないのだ。ただ衝動的に動くだけの、直感任せの銃弾と刃が飛び交う。その先にいる宵刃が血だけを残して消えて初めて、ようやく依鹿は己が正しい選択をしたことに気付くのだ。
 極限の緊張と混乱の中で思考が狂乱していく。脳裡に貼り付いているのは無数の同じ貌が笑んでいることと、そのうちの一つがこちらを振り返っていたく楽しげに笑ってみせることだけだ。
 幾つ目か分からぬ頭が弾け飛ぶ。崩れ落ちる体が霧消する。宵刃の貌を穿っているのに安堵の溜息が零れることに自己嫌悪が膨らんで、押し潰されていく正気が荒い吐息に変わっていく。
 宵刃が己の貌を一つ切り裂く。隣を掠める依鹿の軌道が精確になっていくのが分かる。猟犬の如くして振る舞うのは慣れたものだ。狩りはいつでも順化された果ての一抹の野生に火をつけてくれる。ますます鋭くなる足先で吠え立て、主の銃口が向く先に獲物を追い込むさまは、人の形をした怪物が行えばダンスにも似た。
 依鹿が美しく踊る必要はない。手を引く宵刃に身を委ね、赴くままに足を出せば良い。いかに拙い足捌きも、怪物の指先が引き取ろう。
 その先で狂気に歪んでいく表情を、いっとう間近で見る権利は、宵刃にのみ与えられているものだ。
 無数の己が笑ったまま死んでいくのを見ている。掻き消えてしまうのは惜しいが、所詮は悪魔の齎した仮初であれば致し方のないことか。しかしそれなりに筋が良いものだ――己のことだけで頭を満たす愛しい人を前にして、怪物が苦悶の表情なぞ浮かべるはずがないからだ。
 しかし羨ましい。
 靴を紅色に染めても踊り狂う足を切り裂いてくれるのが、己ではなく依鹿であるとは。
「お前と遊んでいるのではない。彼女は私と戯れているのです」
 影の裡より昏い紅色が嗤う。
 すっかり退屈そうな悪魔が瞬いた。そうだろう。依鹿から罪悪感と後悔が搾取出来たのは最初のうちだけだ。今の彼女は混濁する意識の中で狂気に身を傾けている。一時的にも狂った精神はそれ以上に暴けようはずもない。
「お前はそこで指を咥えて、せいぜい物欲しげな貌をしていろ、出来損ないめ」
「む……獲物の癖に生意気。ヒトの方がよっぽど出来損ないでしょ!」
「哈哈哈! |今の私《・・・》が人間に見えると仰る!」
 迫る己の牙を易々往なして、宵刃の服の下が奇妙に蠕動した。隠した影の形が零れ出る。|それ《・・》が齎す狂気を、悪魔が好まぬのも知っている。
「人の狂わせ方すら二流、型落ち、幼稚でくだらない! これでは誰も満足できないではありませんか」
 薄青の十字の眸に思慮の色はない。単純な力任せのやり方が通じる相手が限られることも分かってはいるまい。技巧の欠片もない遣り口には興醒めだ。同じ毒を持つものとしても――。
「あなたの|兄《・》と大違いだ」
 同じ方策を知っているものとしても。
「――匂いでわかりますよ、|衰女《ダメな子》」
 見開かれた十字の眼差しが、初めて憤怒を湛えるのを見た。唇に笑みを深める理由など決まっている。
 怒りは狂気だ。
 宵刃の敷く罠は、いつでも狂気を引き出すに十全な役割を果たす。
「どうしてお前がおにいちゃんのことを知ってるの!」
 絶叫と同時に注がれる権能が怪物に効力を齎すことはない。ただ強度を高めるばかりで芸のない支配は、己と似た毒に冒されることはないと知っていた|兄《・》の足許にも及びそうにはない。
 |廉《やす》い挑発に浮かされて意識を宵刃に集中した悪魔を――。
「|かかった《・・・・》な、愚か者」
 斧が穿った。
 ぎらついた赤い双眸がずれた眼鏡の奥から睨む。地面に縫い留められた悪魔に襲い掛かる依鹿の斧の向こうから、昏い紅色が見下ろしている。
「いつから自分は舞台の役者ではないと思っていたのです? そこがお前の限界でしょうね」
 宵刃は依鹿を穿てない。
 たとえ彼女直々の命令であったとしても、祖の思し召しであったとしても、或いは神の如き長兄の腕の一つが定めたとしても――爪も牙も、凍てた肌を切り裂く寸前で止まることだろう。
「何故だと思います?」
 いかに優秀な支配者であろうとも掌握出来ぬものを、二流以下の幼子が掴めようはずもないだろう。
「――|台無しに《ほうとく》してやる」
 声が聞こえたかどうかは誰にも分かるまい。酷寒の山々を吹きすさぶ風の如き呻きが絶えず依鹿の喉から盛れているし、それと同じだけ、骨を穿つ斧の音が響いている。
 何がいけなかったのかを考えるのが癖だった。大抵の場合は失敗ばかりで、叱り飛ばされることはあっても褒められることはない。持て囃されるのはせいぜい実利のあるときだけだ。何故、何故、何故――繰り返す問いの答えが出たことも一度もない。此度もそうだ。依鹿の何が悪かったのか。人間もどきの癖に一端に嫌がって、どうせそれを覆せてしまう癖に悲劇の壇上に立つ主役ぶったことか。或いは。
 夥しい血のにおいの中に、気付けば嗅ぎ慣れた彼女の香りを確かに感じ取るたび、湧き上がる感情のせいなのか。
 何も分からぬままに世界が紅色に染まる。瞼の裏に血が滲むように、頭の裏から激情が這い出るように、酷寒の精霊の暴威が現実を侵食する。
 悪夢の中でいつも見る光景だった。白昼夢の中に雪嵐が吹き荒れている。新雪さえも真っ赤に染まる視界の中で、唯一色を変えない漆黒が|獲物《・・》と声を交わすのが――。
 許せない。
 振り下ろす斧の向こうで、悪魔の目の色と同じ体液が飛び散る。どうでも良い。赤い世界の中ではそれすら人間の体液と何らの代わりもない。
「キミが悪いんだ!」
 必死になって掛けていた理性の箍を外すから。
「キミがいけないんだ!」
 懸命に押し留めて来た諦念の楔を抜いたから。
「キミが、キミが!! すべて、キミが!!」
 気が狂うほど腹が減っているのに。
 勝手に掻き乱すから。無理矢理に暴くから。静かな拍動が人間と同じ時間を刻むから。乱れる呼吸が白く染まるから。内耳を反響する音が、寒さが、熱が、あの夜が。
「殺してやる、殺してやる! |喰ってやる《ころしてやる》!」
 依鹿は何も悪くない。
 何一つ踏み外したことはない。踏み外さぬように歩いて来た。何度自問自答を繰り返しても掴めぬ答えの先にあるのは、いつでも世界の理不尽だ。
 そうに違いない。そうでなければ何故――。
 依鹿がこうなっているというのだ。
 腹が立つ。許せない。何もかもが。|胼胝《たこ》も豆も作ったこともないだろう細い腕も、翼がなければ空を切ることすら出来ないだろうか弱い足も、やけに整っているばかりで憎らしい貌も。
 総て――。
「残らず喰ってやる、|悪魔《・・》めッ!!」
 吼える狂気にようやく満足した貌をして、宵刃がその肩に手を添える。
 短い狂乱の宴だった。今や主賓も斧の下に死に絶えて、残るはただ一つ残された貌だけである。躊躇うことはない。怪物は踊り狂う客人を持て成すためにここにいるのであるから。
「さあ、依鹿さん」
 ――|夢から醒めて《・・・・・・》?
 重い銃砲が再び啼いた。

 ◆

 やがて女は目を上げる。茫洋としていた悪夢は疾うに過ぎ去り、風雪はどこにも見当たらない。
 寒い――と思う。座ったまま寝ていたような心地だ。体には疲弊よりも活力の方が巡っているし、息は依鹿自身の齎した寒さの名残に白く融けていく。
 地面についていた両手が血に塗れていた。心身に満ちる恐ろしいほどの充足感が意味するものが何なのか、彼女は知っている。
 知っているが。
 ――ここに喰らえるような|人間《からだ》はないはずだ。満足げに彼女を見下ろす宵刃を除いては。
 悪魔がどこに消えたのかも分からない。或いは、その行方を知っていて、|それ《・・》を|そう《・・》したことを受け入れ難かっただけかも分からない。
 ただ。
 見上げた先で、宵刃の表情がやけに満足げに微笑んでいたことだけが確かだった。
「宵刃くん?」
 名を呼ばれた怪物が首を傾ぐ。穏やかで、どこか無垢にも見える仕草で、彼女はますます笑みを深める。
 やはり依鹿には赤がよく似合う。血に塗れた手の、貌の、髪の、体の、何と美しいことだろう。女神だというなら、彼女の方であろうと思うほどには。
 茫洋とした焦点で、依鹿は宵刃を見上げていた。体も心も満ちているのに立ち上がる気力がない。食い入るように見詰める先の昏い赤に充足以外の色を探そうとして、鮮やかな赤い双眸が細かく揺れる。
 結局は何も見付けられぬまま、依鹿は力なく声を零した。
「……どうして笑うの」
「いけませんか」
 いつものように返せば良い。それが出来ないのが何故なのか分かっているのに、何を応えても宵刃がなお唇に弧を描くような直感に抗えず、どこにも定められない視線を地に向けた。
「笑わないでよ」
 ねえ。
 幽かな声音に混じる震えの意味を言葉にすることを拒む女を見下ろして――。
 手を伸べた怪物は、なお嬉しげな口許を隠すことで、願いに応じることと決めた。

久瀬・彰


 悪魔が人を騙す手口は言葉であると相場が決まっているものだが、それにしては暴力的で直截な手段に出るものだ。
 稚拙で単純な遣り口に違わず、やけに幼げな言動だ。見抜こうとするまでもなく内情が筒抜けの表情を揺らしてやる必要もないだろう。敢えて|意地の悪い《・・・・・》ことを言葉にする意義も見出せず、久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)は声の応酬より先に己の影をさざめかせることを定めた。
 漆黒の腕は暗がりの全てから湧いて出る。幸か不幸か身体に致命傷を与えるのが目的ではないようであるし、無尽蔵の代物に一つ一つに対処するより、幾らかは甘んじて受け取る方が良いだろう。
 どうにせよ――彰に効力のあるものではないのだ。
 暴き立てられた罪過はいつでも昏い霧の色をしている。彼自身を永き悪夢に閉じ込める冷たい闇の底で、幼い心はいつでも一心に指を組んでいる。
 ――約束を果たせなくてごめんなさい。
 赦しを乞うべき神は黙して応えない。それでも頭を上げることなく今日まで片隅に紡ぎ続けた懺悔そのものが、彰の裡に|罪《・》と共に浮かび上がる。
 漠然と理解してはいた。
 己の信ずるべきカミサマに、己を奉じたつもりでいた。死して永久に傍に寄り添うはずだった魂は、しかしその大いなる指先をすり抜けて、現世に留まり目を開いた。
 長い間、そう思って来た。だが正しいとも思わなかった。目を伏せて懸命に願い祈るとき、捧げるべきは懺悔だったのか。赦しを乞う言葉だったのか。|カミ《・・》が真に求めているのは――。
 信仰ではないのか。
 拾い上げたというのも烏滸がましい命だ。死するはずだった当然の運命を免れた己は|失敗《・・》したのだと思ったから、元来捧げなければいけなかったこの身を奉じ損ねたことに罪過の意識を向けて来た。
 それは信仰ではあるまい。
 最期になるとき手を伸ばした崖下に、少年は一心に祈りを捧げていた。己が助かるためではない。傍に誰かを連れて行くことを望む寂しがり屋のカミのために、生きた村の人々のために、ただ無垢に願っただけだ。いつからか取り落とした|信仰《それ》成り替わった罪悪感は、大人になった少年の裡に晴れぬ黒霧となって垂れ込めている。
 夜毎支払う悪夢を対価だと思い込んで来た。それがある限り、己の祈りは保証されているのだと安堵した。そうして甘んじて来た生の裡で、彷徨い続ける冷たく昏い霧の底に何があるのかを見通すことさえ出来ないのも当然だろう。
 曰く信仰とは光であるというのだから。
 然れども、影の刀を握り締めた腕も、駆け抜ける足も軋みはしない。取り返しのつかない過去に苦悩する機微も、今までやってきたことが間違っていたと断ぜられることに対する戸惑いも、未来を仕切り直すことへの躊躇いも、彰は|欠落《・・》している。
 ある種の幸いであろう。同じだけの不幸でもある。
 しかし今ばかりは幸福だったといえる。今この瞬間に為すべきことを、感情に押し流されて見失うことはないからだ。
「何で動けるの! ちゃんと後悔して!」
「これでもしてるつもりだよ」
 成程、他者の心の裡を感じ取る力ばかりはあるらしい。不満げな悪魔が腕の数を増やすばかりなのも、やはり|悪魔《・・》の遣り口としてはあまりに幼稚だ。
 無数に蠢く影の腕をめがけ振り下ろしたのは彰の影から作られた刀だ。単調な軌道は御するに易いだろう。さながら眼前の悪魔の手口と同じほどには分かりやすい。だが。
 彰の狙いはその先にある。
 当然の如く避けられた刃が地に突き立った。同時に解けるそれがたちどころにダンジョンの内部へと広がっていく。鉱石が照らす仄灯りを覆い、冥府の闇を思わせる漆黒に塗り潰す。
 |地獄《・・》は悪魔の領分であろうが、この昏い霧の中にあっては、優位なのは彰の方だ。
 カミの力を借りるには儀式が必要だ。次の一手に対する悪魔の妨害を防げれば、腕そのものを斬り祓う必要性は薄い。
「――悪いけど、きみに垂れる頭は持ち合わせてないんだ」
 赤い石を縫い留めた鎖に触れる。
「俺の|心《信仰》を預ける相手は、ずっと前から決まってる」
 ――カミサマ、力を貸してくれますか。
 祈りの形を取った懺悔の指先で、カミと己を繋ぐ|徴《しるし》に触れて来た。しかしそれでは何一つも解決せぬというならば、彰はそれに背を向けてはいられない。
 霧の中を手探りで歩くのには慣れている。しかしそれを取り払うために何をすれば良いのか、彼の心に明瞭な答えは未だない。それでもいつかは手が届くのだろうから――。
 否。
 届かせようと決めたのだから。
 最果てにある景色の朧げな色を手繰り寄せるようにして、握り締めた影の槍が親しんだ濁水の力に揺れるのを、今ばかりの祝福と捉えても良いだろうか。

キアラ・ザ・アスフォデルス


 羽搏く蝙蝠の翼の音を知っている。鮮やかに髪を染める青を知っている。甘ったるく甲高い声も、しなる尾先の鋭さも、塗りたくられた無遠慮な悪意は知らずとも――。
 キアラ・ザ・アスフォデルス(|冥花の魔女《The Asphodelos》・h09526)は、悪魔そのものの姿を写したような女の最奥に、思い出すまでもなく見知った|魔力《におい》を感じ取った。
 絢爛な大弓に矢を番える。指先に宿る力が上手く制御出来ない。赤い双眸の奥へ辛うじて封じたはずの動揺は、|冥花の魔女《・・・・・》の声音には載らなかったはずだ。
「お前のような者に、人の夢も希望も奪えると思わないことね」
 カメラは回っていない。それでもここは|護るべき世界《√ドラゴンファンタジー》だ。まして気儘に悪意を振り撒く敵を前にしては、ただの一片も揺らがせるべきでない魔女の仮面に、今ばかりは自信が持てない。
 果たして十字の瞳孔が泉の鏡面の如くキアラの姿を写し取ることはなく――。
 続く無邪気な声音が、いつかの記憶を不快に擽るだけだった。
「正義のヒーローって奴? く、ふふ! 私、そういうの大好きだな!」
 答えの代わりに弓が啼いた。載せた魔力に加減が利いていたかも判断はつかない。元より穿つと決めた相手であれば気にする必要のないことばかりが頭を過ぎるのは、混乱する思考を戦場に括りつけるための、半ば現実逃避じみた|演技《・・》であったのかも分からなかった。
 何故。
 ――何故、|彼《・》の魔力と殆ど同質のものを、眼前の女が抱いているのだ。
 現れる無数の眷属の形に覚えがある。もっと多彩な姿をしていたが、影に融けるそれらの中に漆黒の蛇がいたことを忘れようはずもない。明星の煌めく夜明けの空を写したような鮮やかな青い髪は、夜の帳が世界を覆った後の色のあわいから覗くそれと変わりない。無邪気な言葉の端々に、或いは指先の仕草一つにすら、泉に映った未来の中央に在った姿と重なる温度が見て取れる。
 何本を射ったかに意識を向けることさえ叶わない。|上手く《・・・》やらなくてはいけないはずの全てが惑わされる。律すべき軛が心拍と同じだけ乱れるのを感じながら、次の一矢を番えたとき――。
 キアラは初めて、相対する悪魔が怪訝な表情で彼女を見ていることに気が付いた。
 しなる尾がいつ身を掠めていたのだか分からなかった。在るべき姿に集中せんとするあまり、或いは思索に身を委ねるあまりに晒した隙を後悔する暇もない。
 頑健な竜の鱗は注ぎ込まれる魔術毒をも振り払うことは出来ない。魂の奥底を引き摺り出すそれが眼前に映し出した光景へ、今にも引き絞るはずだった矢へかけた指先が軋む。
 声と同じだけ震える唇で、片時も脳裡から離れてくれない名を呼びかける彼女の仕草へ、悪魔の凍てた憤怒の声が重なる。
「――やっぱり」
 心底から|厭う《・・》幻影の中、|彼《・》はキアラの呼び声には振り返らずに、隣にいる悪魔の声に金色の視線を移した。
「お前、おにいちゃんに近付いたんだ?」
 他者の記憶を暴く悪魔は、寸分たがわずキアラの見たものを受け取ったらしい。溢れ出る眷属が威嚇の噴気音を立てる。影の腕は|遊ぶ《・・》ためではなく、|殺す《・・》ために暗闇より湧いた。しなる毒尾は今や鋭利な凶器に他ならぬ。
 魂ではなく命を穿つための準備を整える悪魔の隣を見据えて――。
 キアラは悟る。
 飲み込んだものは吐き出せない。一度得てしまったものは手放せない。鏡面を覗き込むより前に戻ったところで、厭わしい幻覚が|自分でない誰か《・・・・・・・》の隣にいる|彼《・》を映すというのなら。
 もう、致命的な綻びに目を瞑ることは出来ない。
 力を失う指先をすり抜けた竜漿兵器が乾いた音を立てた。ダンジョン内部を反響するそれの主をめがけ殺到する影を――。
 爪が穿つ。
 漆黒の竜爪を横薙ぎに揮うだけで良い。弓は竜種の膂力を覆い隠すための枷にすぎぬ。呆気なく掻き消える腕と蛇の形をした影の向こうでいきり立つ悪魔を視界に入れるだけで、煮え立つ情動が地獄の底よりも凍てる寒気となって溢れ出る。
 竜は神だ。神はかくあれと願われた姿を叶えるものだ。だというのに抗えない。与えられた願いと約束で身と力を縛り付け、何を喪っても存続すべき世界にも、世を生きるべき誰にも、自分にさえ隠して来た衝動に。
 ――わたしの大切なものを奪うなら、全て消えてしまえばいいのに!
 腕を伸ばしたのは|魔女の象徴《ゆみや》を拾うためではなかった。眼前に溢れ返る影の全て、キアラの命に牙を立てようとする何もかもを退けるためだ。その先にある明けの空の色も、蝙蝠の翼も、角も尾も叩き潰して消し去りたい。抗う気にすらならない衝動を叩きつけるように、長い黒尾と爪が同じ色の影へ振り下ろされる。
 暴きたければ暴けば良い。膝をつかせたければ試してみれば良い。新たな幻覚を引き摺り出すなら、それにも構いはしない。
 |今の《・・》キアラにとって最も見たくなかったものは、疾うに映し出されて脳裡に焼き付いた。
 引き裂かれた傷口から滴る赤と黒の交わる竜種の血液には一瞥もくれる必要はなかった。尾を無造作に掴んで悪魔の身を引き寄せる。細い肢体に返すように鋭い尾棘を突き立ててやれば、相手の傷口を広げる代わりに、キアラの傷は消えて失せる。
 分かっている。
 置き去りにされた弓が花を咲かせるために在るとして、この暴威は花を散らす蛮行に似る。願われ、願い、追い求めた夢と希望を振り撒く|冒険者《ぐうぞう》の在るべき形とは似ても似つかない。|最初の贈り物《キアラ》に相応しき煌めきも、名によって手にした光の力も掻き消す悍ましい姿だ。
 悲鳴を上げる悪魔から吐き出される、眸と同じ色をした体液を浴びる漆黒の爪は、およそ神の持ち物とはいえぬ。
 律さねばならなかった。軛を掛け直さねばならなかった。たとえ相手が悪魔であったとしても――或いは悪魔であればこそ、神の如くして華々しき戦場を演出せねばならなかったはずだ。しかし幾ら理性的に理解しようとしても、キアラの裡で煮え立つように噴き上がる昏い衝動が塗り潰す。
 どうでも良い。
 眼前にある不愉快な|代物《・・》を、ここから滅することが出来るのならば。
 ともすれば――冷静な脳裡の一片が可能性の話に意識を遣ったのは、振り上げた爪が悪魔の胸元を貫くことを予見していたからかも分からない。
 泉の鏡面に映ったのがキアラの思ったものと寸分たがわぬ形をしていたのであれば、斯様にまでも在るべき姿をかなぐり捨てることはなかっただろうか。せめて矢を番える指先に力が籠りすぎるくらいで済ませてやれたかもしれない。
 そのどれも、ほんの僅かに思い浮かべただけだ。
 どうあれキアラは|魔女《・・》ではあれまい。
 眼前の悪魔が眉間に皺を寄せるのを見た。迫る死の苦痛より逃れようと身をよじり、憎々しげに竜を睨み上げる眼差しが視界を覆う。
 ――笑みを消すと余計に似ている。
「お前を見て|彼《・》を思い出してしまうなんて、本当に、不愉快よ」
 息をしていることも、また蘇るのだろうことも、業腹だ。
 だがある意味では幸運か。このまま千々に引き裂いたとて気の済まないだろう胸裡の衝動に、|もう一度《・・・・》の機があるのなら――。
 竜爪の|鋩《きっさき》が悪魔を穿つ。断末魔の悲鳴すら斬り裂いた竜だけが、後に独り立ち尽くす。

 ◆

 並び立った二人が目を合わせる。どちらからともなく唇に寄せた花は、先程互いを想って手折って来たものだった。
 泉の縁に立って手を繋いだ二人は、幾らかの逡巡を孕んだ手で捧げるべきものを湖面に翳した。後方から向かい来る二人分の足音に気を遣って、迷う心を振り払う。意を決して手を離すのもまた同時だ。
 やがて揺らいだ水面の向こうに目を瞠る。交錯した眼差しにはただ喜びだけが湛えられて、互いの見たものが同じ形をしていることを知る。
 繋いだ手に力を籠めて、二つ分の影は笑い合った。仄灯りの中で徐に差し出される小箱を受け取って、涙の浮かぶ眸が幾度も瞬く。
 祝福されるべき曇りなき未来に――。
 もう、悪魔の影は差さない。

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