②夕波千鳥
●灯点し頃
夕映えはゆるやかに川面へと沈み、茜の名残を抱いたそらは藍へと溶ける寸前の淡い境界を揺蕩っていた。
中洲の屋台街は、一日の終わりを惜しむようにぽつぽつとあかりを灯してゆく。
赤提灯のあたたかな光が川風に揺れ、暖簾は穏やかな波のように身を翻す。脂の乗った串が香ばしく焼け、鉄板では餃子が軽やかな油を弾く音を立て、ぐつぐつと煮える鍋からはおでんの昆布と鰹出汁が夜気へやさしくほどけていく。甘辛いたれの香り、柚子胡椒の爽やかな刺激、焼酎を割る氷の澄んだ音。幾重にも折り重なる匂いと音は、人の営みそのものが奏でる一夜限りのおんがくのようだった。
笑い声は屋台から屋台へと橋を架け、酔客の陽気な歌声が水面へ落ちれば川はそれを静かに運んでいく。
この街には争いよりも笑顔がよく似合っていた。誰かのために焼かれる串があり、誰かの空腹を満たす一杯があり、見知らぬ者同士が肩を寄せ合えるだけの狭い椅子がある。夜とは本来ひとが孤独を持ち寄りながら、温かな湯気の向こうで少しだけ軽くして帰るための時間なのだとこの場所は何も語らずに証明していた。
だからこそ、その平穏はあまりにも脆い。
夜はひかりだけの領域ではない。
陽が地平へ沈み切るその刹那。夕暮れと宵闇の狭間に滲む薄墨のような境界へ、別種の夜が忍び寄る。川風が止むが、人々はまだ気づかない。箸を動かし、酒を酌み交わし、屋台主は威勢よく客を呼び込んでいる。笑顔も、湯気も、香りも、何ひとつ変わらぬまま。しかし、その賑わいを覆う空気だけが、静かにいろを失っていく。
それは飢え。
血を糧とし、恐怖を愉悦とする者が、この街へ歩み寄っている。
東京Ⅶ最大のマフィア『ガルガンチュア商会』を率いる妖魔公女――冥鈴・ガルガンチュア。彼女にとってこの幸福な夜景は祝祭ではない。ただ壊すべき玩具であり、鮮血を飾る舞台装置に過ぎない。
「……愚かなり。血を、争いを、憎悪を知らぬ楽園の人間どもよ。此れより妾が行うは血の蹂躙である」
その宣告が響く頃には、何もかもがもう遅かったのだ。
●小夜すがら
夕暮れが川面へゆっくりと溶けてゆく頃。中洲の屋台街は一日の終わりではなく、新しい夜の始まりを迎える。
那珂川を渡る風は昼の熱を少しずつほどき、提灯へ火が灯るたびに細い路地は琥珀色の糸で縫い合われていく。屋台が肩を寄せ合って並ぶその景色は、まるで夜の川辺に咲いた花市のようだった。赤や白の暖簾が風に揺れ、湯気は花の吐息のように立ちのぼり、漂う香りが人々の足を自然と引き寄せてゆく。
「みんなは、おまつり以外に……『屋台のごはん』を食べたことはある?」
おさけを嗜むひとは馴染み深い光景かもしれない。反対に、未成年のひとや日本に不慣れなひとは物珍しい光景なのかもしれないと、ゲルダ・ドレッセル(烏夜・h06809)はすこし緊張気味に声を上擦らせながら集まったEDENたちを恐る恐るに仰いだ。
「おおきなたたかいがはじまって、……街の至る所に簒奪者たちが集まっているの。中洲屋台街も、そのなかのひとつで」
妖魔公女『冥鈴・ガルガンチュア』。
√仙術サイバーに於ける東京Ⅶ最大のマフィア『ガルガンチュア商会』の当主である彼女が目を付けたその場所で、今まさに惨劇が起ころうとしているのだと、ゲルダは己が視た星の軌跡に怯えるようにぎゅっと胸の前でてのひらを握り締める。
「でも、……今ならまだ、彼女が引き起こす惨劇を食い止めることができる。そのためには、みんなに屋台街に潜入してほしいの」
言葉で表すだけなら少し物々しい。だけれど、実際には『屋台飯』を楽しむことに重きを置いてくれれば問題ないのだと続け、ゲルダは事前に調べておいたのであろう屋台街の地図を広げて、どんなものが楽しめるのかを実際の場所と結びつけながら語り始めた。
香ばしく焼ける鶏皮が炭火の上で踊る音。甘辛い醤油だれが焦げるにおい。長い時間をかけて仕込まれた豚骨スープのラーメンは、長い一日を終えた心へ『おかえり』と語りかけるように優しい。しろい湯気は夜空へ向かって雲を育て、鉄板では餃子が黄金色の羽根を広げ、明太子をたっぷり乗せた玉子焼きは夕焼けを閉じ込めたような鮮やかな色をしているのだと言う。
屋台ごとに違う匂いがあり、違う笑い声があり、違う物語がある。
仕事帰りの会社員がビールジョッキを打ち鳴らし、旅人は地図を畳んで『おすすめは?』と店主へ尋ねる。学生たちは肩を寄せ合って串を分け合い、年配の常連は顔を見せるだけで黙って好物が出てくる。初めて隣り合った客同士が一杯の酒をきっかけに笑い合い、数十分後には昔からの知り合いのように肩を叩き合っている。
この街では、ひととひととの距離は屋台の横幅ほどしかない。
だからこそ、湯気の向こうで交わされることのはは不思議なほどに温かい。知らない誰かにつられて笑い、隣の皿が美味しそうなら思わず同じものを頼んでしまう。そんな小さな連鎖が幾重にも重なり屋台街そのものがひとつの大きな食卓になっている。
頭上では提灯が星の代わりに灯り、足元には川のさざ波が街明かりを細かく砕いて流してゆく。そのひかりは宝石ではなく人々の笑顔を映した欠片なのだろう。杯を重ねるたびに笑い声は夜空へ放たれる花火のように弾け、湯気はその余韻を包み込む雲になる。
中洲の屋台街はただ料理を味わう場所ではない。
炭火の温もりを囲み、見知らぬ誰かと同じ夜を分け合う場所だ。美味しい一皿が言葉の代わりとなり、一杯の酒が人と人との境界をゆるやかに溶かしていく。ここでは賑わいさえも一つの料理であり、人々の笑顔は隠し味となって夜という名の大鍋をゆっくりと煮込んでいる。
「おいしいものをたくさんたべて。そうして……続く戦いへの英気を養うことだって、きっと、良いことだと思うから」
夜が更けてもこの街の灯りは眠らない。提灯は今日という一日の終わりを惜しむのではなく、『まだ物語は続くよ』と静かに微笑みかけるように川辺を優しく照らし続けている。
楽しんできてね、と締め括ったゲルダは淡く微笑むとEDENたちを夜のとばりへとそっと導くのだった。
第1章 ボス戦 『妖魔公女『冥鈴・ガルガンチュア』』
●やくそく、ひとつ
「屋台がいっぱい! いい匂い〜!」
戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)は朝靄の瞳を輝かせ、あちらこちらへと視線を巡らせていた。
「ああ、食欲の湧く匂いだな」
隣を歩く澪崎・遼馬(地摺耶烏・h00878)も軽く頷く。彼の横顔は至極淡々としているが、その声音には穏やかな温度が宿っていた。
「お酒飲んでる人もたくさん……入っていいのかな……」
少し肩を窄めてしまう。仕事終わりらしい大人たちが杯を交わして笑い合う光景は女子高生のくるりにはほんの少しだけ敷居が高く映る。
「ふふ、確かに学生一人では敷居が高いかもしれないが、今日は当人がいるゆえ任せてくれ」
「……そうでした、遼馬さんがごいっしょでした! はい、楽しみましょう!」
その一言だけで胸の緊張がほどけていくようだ。暖簾を潜ってちいさな椅子へ並んで腰掛けたなら、寸胴鍋では白濁した豚骨スープが静かに湯気を立て、店主が麺を手際よく湯切りする音が軽快に響いていた。
「これ、豚骨の匂いですね! 博多ラーメンだぁ。メニュー色々……うう〜美味しそうだけど全部は食べれない……!」
「おや、弱気な発言だな。次はいつ来れるかわかないのだから、どうせなら全部食べる気概でいこう」
木札に並ぶ料理は、餃子に焼き鳥、おでん、ごまさば、明太子――それから、それから。どれも湯気までおいしそうで迷ってしまう。
「気になるならまずはラーメンから行こうか。その次は餃子、その次は……」
「え? えっ?」
真顔のまま淡々と注文計画を組み立てていく。
もしかして――思っているより、はしゃいでくれているのだろうか?
「す、すごい量になりましたが、遼馬さん大丈夫です!?」
思わず身を乗り出すくるりの姿に、店主までもが肩を震わせて笑っていた。
ほどなくして運ばれた博多ラーメンは乳白色のスープが月あかりを溶かしたようになめらかで、細麺をひと口啜れば濃厚なのに後味は驚くほど軽く豚骨の旨味が舌をやさしく包み込んだ。
「私もおひとついただいちゃったりしても……お裾分け? わ、ありがとうございます!」
「ああ、いいとも。折角色々頼んだのだからお裾分けしよう。これならくるり君も楽しめるだろう?」
一口餃子の焼き色は琥珀色に輝いて。噛めば薄い皮がぱりりと砕け、中から熱々の肉汁が溢れ出す。焼き鳥は炭火の香りを纏い、牛すじは箸だけでほどける柔らかさだった。
「えへへ。はい! 色々食べれちゃう、うれしい〜……、……あの量がどんどんお腹に……!」
二人の間を小皿が何度も行き交う。
屋台の温かな灯りに照らされて、ちいさな思い出が一つずつ積み重なっていく。
「ふふ、遼馬さん、おいしいですねぇ」
「ああ、美味しい。君と来られてよかった。若いのだから、くるり君も沢山食べると良い」
湯気を纏う丼を抱える手は心地よく温かい。賑やかな笑い声さえ、不思議と耳に優しく響いていた。
「はい、いっぱいいただきます! 遼馬さんも、おいしいもの食べて英気を養ってくださいね」
数拍。
笑顔のまま飲み込めれば楽だったのかもしれない。けれど、想いは胸の奥でともしびのように揺れ続けていた。
言おうか言うまいか迷った。でも、言わずに後悔する方がずっと嫌だったから。ずるいと分かっていても、彼を信じてくるりは続くはずのことのはを紡ぐ。
「それで……無事帰ってきたら……おかえりなさい、って言わせてください」
屋台の喧騒が一瞬だけ遠くなる。
遼馬は静かにくるりを見つめ、その双眸に夜のあかりを映した。
「――必ず無事に帰るよ。君にただいま、と言えるように」
その約束は湯気のように儚くそらへ消えるものではない。
川面へ揺れる灯りも、笑いながら分け合った料理の味も、なにもかも。夜がくれたすべての温もりはふたりの胸の奥で『また』を結ぶ、ささやかだけれど確かなみちしるべとなることだろう。
●化かしあい
屋台から立ちのぼる湯気は夜風にほどけ、味噌や醤油、炭火の香ばしさを連れて人々の頬を擽っていく。笑い声と乾杯の音が幾重にも重なり、屋台街そのものが賑やかなひとつの食卓になっているようだった。その中を歩くは長い黒髪と金色の瞳を持つ少女――に、変じた霧島・恵(狐影蕭然・h08837)の姿。愛らしい外見とは裏腹に、仕草は実に奔放なものであった。
「まーったく、こんなに美味ぇおメシ食べれる場所でドンパチなんて何考えてやがるんでしょーね?」
肩を竦めながら腰を下ろせば直ぐに鍋の蓋が開かれた。湯気がふわりと舞い上がり、しろく夜へと溶けていく。ぷるんと艶めく牛もつに、煮えたキャベツ、瑞々しい韮。大蒜の香りと鷹の爪の刺激が鼻先を擽るだけで胃袋は期待にぐぅ、と鳴いた。
「まーそれはそれ。今宵は本場のモツ鍋な気分だぜい」
透き通った黄金色の出汁をひと口。牛もつの脂が舌の上でふわりと蕩け、旨味がじんわりと身体へ染み渡る。野菜の甘さが重なって、あとから追いかける柚子胡椒の爽やかな辛みが味をきりりと引き締めていた。
「普段食べることがある料理でも、本場ってーのがイイね。あと何と言ってもこの屋台の数。雰囲気ってーのも一種のスパイスになるって分かるんだあね」
やがて具材も残りわずかとなり、恵は腕を組んで真剣な表情を浮かべる。
「〆までしっかり食べてーけんど、悩むにゃあ。ちゃんぽん麺も良いけどお雑炊も捨てがたい……悩み多いお年頃っつーワケだあよ」
『どっちがオヌヌメ?』と問うたなら、店主は笑って『今日は雑炊がええよ』と卵を割り入れてくれた。黄金色の出汁をまとった米粒は宝石のように艶めいて、刻み葱の香りがふわりと立ち昇る。熱々を頬張れば、身体の芯まで満たされる幸福が静かに広がっていく。
見た目は鋼鉄の狐型機動兵器、けれど触れればふわふわの眷属たち。
「妖魔公女がドンパチおっ始めようとしたら、機械化一狐分隊をけしかけちゃるからなぁ!」
頼もしい彼らを引き連れたなら。賑わう屋台街の平穏を守るために戦う準備は今、万全に整った。
●五感に触れる
「……凄い」
ソフィア・ルイス(シスター・h13382)の唇から零れた声は夜風にさらわれて那珂川の水面へ溶けていく。『楽しんできてね』と送り出されて辿り着いた中洲の屋台街はまるで夜の川辺に花が咲いたようだった。橙色提灯が幾筋も連なり、そのあかりは水面に揺れる星屑となって瞬いている。胸いっぱいにおいしいにおいを吸い込めば、食欲を誘う香りが優しく夜風と混ざり合っていった。
「めっちゃ香ばしい、串かな?」
炭火が弾けるぱちりという音。脂が火に落ちるたびにちいさな火花が踊り、甘辛いタレの焦げる香りが鼻先を擽っていく。
「ん? 良い音が聞こえる。こっちは餃子ね?」
鉄板の上で焼き上がる餃子は羽根が育つ音まで美味しそうだった。黄金色の皮は月あかりを映した湖面のように艶めき、湯気は肉汁の期待を抱いて立ちのぼる。その向こうでは豚骨スープがしろく湯煙を上げ、長い時間をかけて煮込まれた旨味が夜風へ溶け込んでいる。
こんなに美味しそうなんだもの、ラーメンも捨てがたい。焼き鳥、餃子、豚骨。あまい玉子焼きの香りまで折り重なって、どの屋台へ入ろうか迷う時間さえ幸福だった。
選んだ屋台で供されたおでんは、澄んだ琥珀色の出汁が静かに湯気を立てている。
「昆布と鰹出汁が効いてて、美味しいー。たまらないね」
大根は舌の上で雪のようにほどけ、厚揚げは出汁を抱きしめたまま優しく旨味を返してくれる。身体の奥まで染み渡る温もりに、ソフィアの口元は柔く綻んだ。
敵が現れるまでの束の間、屋台のお客に紛れて彼方此方の屋台を巡って料理を味わおう。炭火の温もりを囲み、見知らぬ誰かと同じ夜を分け合いながら笑い合う時間は、まるで命のともしびを少しずつ分けてもらっているようだった。
「超平穏じゃん。祝祭に鮮血は合わないよね」
響く笑い声、誰かの陽気な歌声、グラスの触れ合う軽やかな音。そのどれもが夜を優しく満たしていた。
この穏やかな景色を壊させるものか。簒奪者が現れたなら追い払い、怪我人が出ないよう援護に回ろう。祭りのあかりを守る祈りを胸に、ソフィアは静かに息を整えた。
●よろこびの旋律
「お祭りの屋台は知っているけれど……美味しそうな匂いのお店がたくさん!」
川沿いに連なる屋台は月あかりを映して金色の花のように水面へ咲きこぼれ、人々の笑い声は夜風に乗っておんがくのように弾んでいる。
肩が触れ合うほど近い席では見知らぬ人同士が自然と言葉を交わし、湯気の向こうでは誰もが柔らかな笑顔を浮かべていた。こんな風に人と人とが近い距離で食事を楽しむことができる素敵な場所が戦場になってしまうなんて見過ごせないと、アニス・ルヴェリエ(夢見る調香師・h01122)はぐっと両のてのひらを握り込む。
「(そのためにも……しっかり食べて英気を養わないと)」
意気込んで屋台を見渡せばどこからもおいしい湯気が手招いてくるようで、視線はあちらこちらへ飛び回る。鉄板で弾ける音、丼へ麺を流し込む軽快な音、威勢のいい呼び込みの声。そのどれもが博多の夜を奏でるひとつの旋律に違いなかった。
「やっぱり豚骨ラーメンかしら? おすすめのメニューは何でしょう?」
店主へはじめて食べるのだとお願いしたなら、『それなら最初はこれが一番』と太鼓判を押された一杯が目の前へ運ばれてくる。乳白色のスープは月あかりを溶かしたように艶めいて、ひとくち含めばスープは濃厚でありながら驚くほどまろやかで。小麦の香る麺は歯切れよく、噛むたびに心地よい弾力が返ってくる。紅生姜の爽やかな酸味、高菜のぴりりとした辛味が味わいへ彩りを添え、身体の芯までじんわりと温めてくれた。
薦められるままに替え玉もお願いすれば湯気の立つ器へ新しい麺が躍るように沈み、もう一度違った表情の一杯を楽しめることに思わず頬が綻んでいく。
「ふふっ。こうして話しながら食べるのも醍醐味ね」
すっかりお腹も満たされたなら、このあとの戦いもきっと頑張れる。
「――あ、もし良ければ博多でおすすめのスイーツも教えてもらえると嬉しいわ!」
笑い声と湯気が交わるこの空間は、まるで人の温もりそのものを煮込んだスープのようだ。満ち足りた心とお腹は、夜空に咲くあかりよりもずっと温かくアニスの胸を照らしてくれた。
●海を越えて
そらがより深いいろへとゆっくりと溶けていくころ。賑わいの中へ足を踏み入れたセージ・エルヴ・ラ・サルトゥリス(花骸・h13171)は杖を支えに周囲を見回しながら穏やかに目を細めていた。
「へえ、日本の屋台街はこんな風になっているんだ」
故郷のフランスとはまた違った空気がこの街には流れている。
人々の笑い声は鈴を重ねたように軽やかで、店主たちの威勢の良い呼び声は夜を彩る音楽の一節のようだった。
「活気があって良いなあ」
初めて訪れた土地であるはずなのに、不思議と胸の奥へ柔らかな温もりが灯る。人の営みが織りなす景色は遠い昔に読んだ御伽噺の一頁を思わせ、異国でありながら心に優しく寄り添ってくれるようだった。
「(美味しい匂いがあちこちから漂ってくるね。でも見慣れない料理ばかりだ)」
湯気をまとった豚骨スープの濃厚な香りや昆布と鰹が染み渡るおでんの芳醇な出汁、香ばしく焼ける串物の煙。それらは夜風に乗って鼻先を擽り、空腹を呼び覚ましてくる。『ラーメン』や『オデン』にも惹かれたけれど、ふと目に入った屋台には馴染み深い名前が並んでいた。異国の港町で故郷の味と再会するなど、誰が想像しただろう。
思わず口元が綻び、誘われるように木の椅子へと腰を下ろす。
ほどなくして運ばれてきたグラタンはこんがり焼けた黄金色のチーズが湯気を纏い、表面を割ればしろいソースがゆっくりと溢れ出す。口へ運べばまろやかな乳の甘みが舌を包み込み、香ばしい焼き目が優しい余韻を添えた。ラタトゥユは瑞々しい野菜が宝石のように艶めいて、トマトの爽やかな酸味と甘み、香草の清々しい香りがひとくちごとに広がっていく。
「……うん、美味しい」
その一言は静かに零れた吐息のようだった。
「(人気の無い、静かな森こそが僕の居場所だと思っていたけど……偶にはこんな日があっても良いよね)」
森を渡る風とは異なる人々の息遣いが織りなす夜風に耳を澄ませながら、セージはゆっくりと微笑んだ。その表情は、長い旅路の果てに見つけたちいさな安らぎを大切に胸へ抱きしめるように穏やかだった。
●きっと、あとで、ねだられる
提灯の橙色は人々の頬を柔らかく染め、鉄板を打つ音や杯の触れ合う音、絶え間ない笑い声が川面を渡る風に乗って軽やかな調べを紡いでいく。藤代・玲慈(桜香の守り手・h12755)はその賑わいへ自然に溶け込み、ひとりの客として腰を下ろしていた。
「こういう場所は良いですね」
ぽつりと漏れた言葉は、湯気へ溶けるように夜へ消えていく。
人と人との距離が近く、湯気も笑い声も混ざっているのに煩わしくはない。目の前では焼き鳥が炭の上でちいさく爆ぜ、滴る脂が炎を弾ませる。香ばしい匂いに誘われながらも玲慈は静かに注文を口にした。
「焼き鳥は塩で、餃子も少し。酒は……、そうですね、軽めのものを」
動けなくなっては本末転倒だ。であれば、酒精の類は程々にしておこう。
焼き上がった鶏肉へ歯を立てれば弾むような食感のあとから透明な肉汁がいっぱいに広がり、塩の輪郭が旨味だけを鮮やかに浮かび上がらせる。餃子は薄い皮がぱりりと心地よく割れ、熱々の餡から溢れる甘みと肉のコクが鼻へ抜ける香味野菜の香りとともに胃を優しく満たしていく。
明太玉子焼きや、ついでに甘味も頼み店主へおすすめを尋ねると、気さくな笑顔とともにもう一品が運ばれてくる。その何気ないやり取りさえこの街では料理の隠し味になるらしい。
「(……彼女なら、こういう賑わいも食べ物も、きっと必要以上に価値を見出し、目を輝かせるのでしょうね)」
脳裏には、奔放な少女の跳ねる赤毛が浮かぶ。
この話を聞けば本気で羨ましがる姿が容易に想像できて、思わず口元が緩んだ。屋台の料理をそのまま土産にするのは難しいけれど、近くの実店舗に寄れば何か買えるだろうか。いや、味の感想だけでも嬉しそうに聞いてくれるはずだ。あるいは、次は本人を連れて来るのも悪くない。
穏やかな夜は、人の温もりを映す灯りによく似合う。だからこそ、その温かな景色を曇らせるものを許すわけにはいかない。
「それを壊す輩には、早々にお帰り願いましょう」
今はまだ。この、心地良い喧騒に身を委ねたまま。
●夕月夜
中洲の夜は川面に映る灯りまでもが賑やかだ。
那珂川を渡る風は昼間の熱をほどよく攫い、暖簾を揺らしては立ちのぼる湯気を細くそらへと運んでいく。赤提灯がまるで熟れた柿のように連なって、橙色のひかりは夜の帳へ蜜を垂らすように柔らかく滲んでいた。
「(そういや、このメンツで飯って言うのも新鮮だな。特に……陽はあまりこういう場所行かなそうだ)」
普段から酒を飲む身には屋台という空気はよく馴染む。天使・夜宵(残煙・h06264)は肩の力を抜きながら、屋台が並ぶ通りをゆっくりと見渡していた。
「さて、何食うか。俺は飲めれば何でも良いんだが……、」
「ああ、一応言っておきますが、天使さん、|仕事《・・》ですからね」
思わず口元を緩めて仲間たちを振り返るけれど。傍らから返ってきた声の硬さに、夜宵はぐっと息を詰まらせた。
「ぐ……仕事だろ、わーってる」
だが、こういう時くらい少しは肩の力を抜いたらどうだと。まるで親に嗜められた子どものように唇を曲げる夜宵へ嘆息を返す史記守・陽(黎明・h04400)とて全くこの場の空気を受け付けていない訳ではない。
「肩の力は抜いてますよ、これが俺の通常なんです。それに俺は一応上司なのでしっかりしておかないと」
それはそれ、これはこれ。任務は任務でしょうと告げかけた陽の言葉に被さるように、屋台街の活気に負けないほど明るい五百住・遊悟(沈黙の掟・h03324の笑い声が響いた。
「陽、あんま固いこと言うなって。仕事するにも空腹じゃ頭が回らないんだし、ここはしっかり食っておこうぜ?」
「……、……はい。飲み過ぎないようにしてくださいね」
「おう! 折角博多まで来たんだし、この地の名物食っておこう!」
『遊悟は良いのかよ!』なんて切実な訴えは聞かないふり。程よい空腹は最高の調味料とも言えることだし、行きましょうかと告げた陽の言葉に夜宵と遊悟は待ってましたとばかりに意気揚々と一歩を踏み出すのだった。
「(夜宵と陽と三人揃ってメシ……もとい、現場に向かうのってあんまり機会ないし、これを機にもっと仲良くなりたいな)」
そんな思いを胸に抱きながら、店先に並ぶ料理へ期待に満ちた視線を向ける。一方の夜宵は焼き台に並ぶ串や餃子を見つめていた。
つまみやすそうな餃子や焼き鳥は多めに頼んでシェアを。男三人でそれだけでは足りなかろうと博多ラーメンも選んだなら、屋台の卓はあっという間に料理を盛られた皿でいっぱいになってしまった。
「うん、うまい。うまいな!」
「あ~~、この一杯の為に生きてるって感じするよな……」
湯気を纏った餃子は羽根が飴細工の如く薄く透け、箸を入れれば軽やかな音とともに割れて中から熱い肉汁が溢れ出る。焼き鳥は炭火の香りを纏い、表面は香ばしく、中は驚くほどに柔らかい。
「あの……ふたりとも、完全にただ普通の食事しにきてますよね」
あまり飲まない人物に対して無理して酒を勧めるつもりはない。度数の高い酒はダメだと陽に咎められそうだなと、先んじて頼んだ格安ハイボールの安っぽい喉越しが全身に沁み入っていくようだ。
「あぁ、でも、ここの屋台群に甘いモンはないのか、残念だなぁ」
「天使さんは早速焼酎頼……、……手を変えれば良い訳ではありません、飲まないでください。五百住さんも甘いものを探そうとしないでください」
「何言ってんだ、遊悟見てみろ。しっかり食ってるぞ」
夜宵は琥珀色に透ける軽い酒を傾ける。氷が涼やかな音を立て、柑橘の爽やかな香りが夜風と共に溶け合っていく。
「まあ、確かに俺は甘いモンが好きだけど、こういう屋台飯だって美味しくいただくから心配するなって!」
遊悟は烏龍茶をひとくち飲み、焼き物が運ばれてくるのを楽しげに待つ間、陽も同じくきんと冷えた烏龍茶で口の中の脂を流し込む。夜宵が酒を嗜むのなら味付けの濃いメニューを増やしても良いだろう。
「……普通のものも食べるんですね、それはよかったです」
陽が本気で安心したように息を吐けば夜宵と遊悟は顔を見合わせ微かに笑う。仕事前だという意識は三人とも共有しているが、それでも腹を満たすことは戦うための準備でもあった。
「……天使さん、アルコールを無理矢理勧めるのはハラスメントですからね」
部下にアルコール・ハラスメントをされるのもおかしな話ではあるが。念押しに、と言い含めれば心外だとばかりに夜宵は両の手を掲げて己の潔白を証明して見せる。
「アルハラはしねぇよ、流石にそこまで押し付けねぇ」
それから、一拍。
「……あんなの、経験するものでもねぇし」
その言葉は短かったが、笑い混じりだった空気にほんの少しだけ静けさを落とした。だからこそ、遊悟はぱん、と手を打って空気を明るく塗り替える。
「まあまあ、いいだろ? 明太だし巻き卵と……あと、焼きラーメンいっとくか!」
運ばれてきた出汁巻き卵は箸を入れるだけで黄金色の層がふわりとほどける。鰹出汁の旨味が舌に染み、そのあとから明太子の塩気と辛味が優しく追いかけてくる。熱々の湯気は頬を撫で、ひとくちごとに身体の芯まで温めてくれた。炭火で焼かれた鶏もも肉は肉汁をたっぷり閉じ込めて、甘くなった白葱が鶏の旨味を優しく包み込んでいた。
陽は静かに頷き、ひと串を大切に味わっていく。
「……おいしいですね。こういう店も、悪くないかも」
その一言に夜宵は酒杯を軽く掲げ、遊悟は嬉しそうにくしゃりと笑った。
赤提灯は変わらず夜を照らし、湯気はしろい雲となってそらへと昇る。賑わいは絶えることなく続き、博多の夜はひとの笑顔も料理の温もりも一緒くたに包み込みながら静かに、静かに更けていく。
●飴色の煙
中洲の賑わいへ足を踏み入れたシルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は、淡い瞳を細めて微笑む。美味しそうなにおいと楽しそうな賑やかな声は戦争が始まっているのだということを束の間忘れさせてくれるようだった。誰もが思い思いの夜を味わい、灯りの下で笑っている。その景色は咲き誇る花畑にも似て、心をふわりと軽くしてくれる。
隣を歩くルミオール・フェルセレグ(星耀のアストルーチェ・h08338)もまた、目を細めながら辺りを見渡していた。お祭り以外でこういう屋台を巡るのは彼女と一緒じゃなかったとしても初めてかもしれない。どこもかしこも活気に満ち溢れていて、歩いてるだけで元気を貰えそうで。
「……なんて思ってたけど、やっぱりお腹が空くね」
「ふふっ。そうね、こんなに香ばしい匂いが溢れてるんだもの」
「ここでしっかり英気を養って、この後の戦いに備えないとね」
言葉とは裏腹に、その表情はどこか少年のように弾んでいる。そのちぐはぐさが可愛らしくて、シルフィカはちいさく笑っておねがいのかたちを取って小首を傾いだ。
「わたし、焼きラーメンが食べたいわ」
スマートフォンを取り出して検索し、評判の屋台を見つけたなら遠慮がちにその店を指し示す。
暖簾を潜れば木の温もりを残した小さな空間が迎えてくれて、湯気の向こうでは店主が忙しく鍋を覗き込み、鉄板の上では麺が躍るように炒められている。改めてメニューを眺めれば、どれもこれもが魅力的だった。
「焼き鳥と、おでんと……焼き明太子ですって、美味しそう」
紙の短冊に並ぶ料理名を目で追うたび、期待が胸いっぱいに膨らんでいく。
「飲み物はジンジャエールにしようかしら」
「おでんは大根とこんにゃくと卵と……あと一口餃子と明太子入りの卵焼きも食べたいな」
せっかくだからと気になる料理を次々に頼み、ふたりは冷えたジンジャエールで静かに杯を合わせた。細かな泡が弾ける音まで心地よく響き、爽やかな生姜の香りが鼻先を擽っていく。焼きラーメンのもっちりとした麺は焼きそばよりもしなやかで、豚骨の旨味が一筋の川となって口内を満たし、最後に胡椒の軽やかな刺激がぴりりと後を追って、――つまりはつまり。
「とても美味しいわ」
自然と零れたその一言には、飾りのない幸福が詰まっていた。
おでんの大根は箸を入れるだけでほろりとやわらかく崩れ、琥珀色の出汁をたっぷりと抱え込んでいる。蒟蒻はぷるんと弾み、卵は黄身まで温かな旨味が染み込んでいた。一口餃子は皮が香ばしく、噛めば肉汁が溢れ、焼き明太子は表面だけが軽く炙られ、ぷちぷちと弾ける粒が潮の香りを運んできた。
「どれも美味しくて、街の明かりも綺麗で……夢みたいだ」
ルミオールは料理を味わいながら耳を澄ませていた。
鉄板が音を立ててるのを聞いているだけでわくわくする。屋台越しに見える街のあかりは川へ金色の帯を描いて、行き交う人々の笑顔も風に揺れる暖簾も、この街を構成する全てがこの夜を祝福しているようだった。
「そうね。それに、ここにはたくさんの花が咲いているわ」
それは花壇の花ではない。笑顔、語らい。湯気の向こうで誰かを待つ温かな時間という花。そのどれもが夜を鮮やかに彩っている。
「お酒を飲まなくても酔えるのは、心地良いわね」
穏やかな笑みに応えるように、ルミオールも静かに頷いた。
「うん、確かにお酒を飲まなくても十分に酔えそうだ」
戦いの気配はまだ遠くで息を潜めている。
けれど今だけは湯気と笑顔とあかりに包まれながら、ふたりはこの街がくれた温かな夜を胸いっぱいに味わっていた。
●千円でべろべろ
人の笑顔は灯火に似ている、と野分・時雨(初嵐・h00536)は思う。思うが、ふと立ち止まると揺れる提灯を見上げて殊更に真剣な面持ちで以って口を開いた。
「あくピ、見て」
「どうしましたか、ちゃんしぐ」
屋台。せんべろ。祭り。
その三つの言葉だけで、この夜はもう十分に幸福だった。時雨は提灯を指差し、こがねいろの瞳をあまく細める。
「提灯が綺麗。ぼくらもあの灯りの元で輝き、胸を張れるような正義のEDENとして人々を守りましょうね!」
その真っ直ぐすぎる理想に日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)は至極真面目な顔をして頷いた。常とはやる気の程が違う。そう、まるで委細承知と言わんばかりに。
「……成る程、理解しました。つまり、ばかすか飲もうぜってことですね!」
木の温もりを残した小さな屋台がふたりを迎える。
冷えた升へ米酒が注がれ、透明な液体は灯りを映して水晶のように輝いていた。
「無色透明の液体は実質水! アルコールを急激に流し込んで脳に適切な刺激を与えましょう」
「そのための純米大吟醸! 実質水!」
――乾杯!
口へ運べば澄んだ酒精は水よりも柔らかく、米の甘みが舌をふわりと包み込んでいく。
「ぼく、地鶏の炭火焼き食べたい。明太子も」
「いいですねぇ、炭火焼き! 炭で焼いたら鶏も家も味わい深くなりますよね」
炭火の上では地鶏がじゅうじゅうと食欲を唆る音を立てている。脂が炭へ落ちるたびにしろい煙が立ち昇り、その香ばしさは鼻先を擽るどころか胃袋を直接揺さぶって――家?
「あれ……いま、家って言った? 聞き間違い? 炭火焼きの……家……?」
芥多は何事もなかったように皿を差し出した。
「ほら時雨さん、明太子どうぞ。今日はひとつ丸ごとキメてもいいんですよ」
「……やった! まずは腹拵えして、頭をアルコール消毒で正気にしないと」
聞かなかったことにした。だってお酒はとても美味しいし。
鮮やかな朱色の明太子は宝石のような粒を纏い、箸で割れば容易くぷちぷちと弾けていく。塩気の奥からじんわりと広がる旨味が酒を呼び、酒はまた次の料理を誘い込む。無限機関とはまさにこのことだ。
「杯空いてるよ!! 注いであげます」
「おっとっと、すいません。どうもどうも」
どばどば。ぐびぐび。
言い終える前に杯は縁まで満たされて、顔を見合わせまた笑う。笑い声まで酒の香りを纏ったように柔らかい。
夜は深まり、提灯はますます鮮やかさを増していく。最後にふたりが辿り着いたのは、湯気がしろい雲のように浮かび上がるラーメンの屋台だった。
「よし、いい感じにアルコールを投入したので……〆に豚骨ラーメン行っときますか!」
「〆ラーメン了解、行くぞ」
先に暖簾を押し上げる時雨の背中を見て、芥多は思わず吹き出す。
「背中かっけぇ。ついていきます、兄貴!」
白濁したスープは月あかりを溶かしたように艶やかで、豚骨の濃厚な香りが立っている。細麺が湯の中で踊る様子は小川を泳ぐ銀糸のようにも感じられた。
「博多ラーメンて硬さ選べるんだっけ? バリカタってほんとに硬いと思う? 頼んでみてよ」
「どうなんですかね、バリカタ。ガッチガチに硬いんですかね……いやいや、そこはせーので頼みましょうよ! 死なば諸共ってやつです」
「えー。共倒れしないかな。……いっか! バリカタ2つ!」
威勢のいい注文に店主が笑って応える。やがて運ばれてきた一杯から立ちのぼる湯気は、今日という一日の思い出をやさしく包むしろい幕のようだった。
麺を啜れば小気味よい歯応えが弾み、濃厚な豚骨スープが舌を満たす。紅生姜の爽やかな酸味に高菜の辛味、胡麻の香ばしさが重なって最後のひとくちまで飽きることがない。
提灯のあかりは相変わらず優しく揺れている。
人を守る正義とは、案外こんな夜を守ることなのかもしれないな、なんて――酔いが回ったふたりがそこまで考えられたかどうかは、些か怪しかったけれど。
●プルケの盃
中洲の屋台街は夜空に咲く夏祭りのような賑わいを見せ始めていた。提灯のあかりが揺れる通りを歩きながら、オルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)は少年のように瞳を輝かせ傍らを仰ぐ。
「夏だ!屋台だ!」
その声に、ラウル・モレノ(大鰐・h12199)もまた黄金の瞳を細めて微笑んだ。
異国の熱気を思わせる喧騒はどこか懐かしく、自分の知っている祭りの空気と似ている。香辛料の香り、焼ける肉のにおいに人々の陽気な笑い声。いつも霧の町にいるものだから、まるで恋しい陽気が戻ってきたような気さえして。胸の奥で静かに眠っていた故郷の記憶が夏風に誘われて目を覚ます。
「戦の本分は忘れてないが、それとして――何事も敵情視察は大事だろう?」
「ああ、そうだな! 友よ」
歩幅の違うふたりが並べば、人波は自然と左右へ流れていく。
「君が夏祭りでタコスの屋台を出すなら。他の屋台を学ぶ絶好の機会だな、ラウル!」
「ああ。|我《おれ》も|タコス職人《taquero》として学ばなくては」
やがて酒を並べる屋台の前で、オルテールが足を止めた。色とりどりのサワーが宝石のようにあかりを映し、氷が涼やかな音を立てている。
「俺は酒が飲めた方が良いと思うんだ。祭りの本分は夜だから集客も見込める」
そう真面目な顔で分析してから、おほん、とちいさな咳払いをひとつ。
「……俺が飲みたいって言ってるんじゃないぞ」
その言葉に、ラウルは思わず肩を揺らして笑った。
「……そうだな、酒もいいな。テキーラばかり飲んでいるから」
「強い酒が好みか?」
「偶には違ったものも飲んでみるか……オルテール、飲みたいものはどれだ? 同じものにするよ」
炭酸の泡が細かな星屑のように立ち昇るグラスは見るからに涼しげだった。爽やかな柑橘の香りが鼻先を擽り、宵の熱気を優しくほどいてくれる。
「俺は下戸だから――この、サワーってのは旨いか?」
飲み物を片手に歩き出したふたりは今度は炭火の香りに誘われる。じゅう、と脂が落ちるたびにちいさな炎が踊って、香ばしい煙は夜風に乗り空腹を遠慮なく刺激してくる。
「|我《おれ》たちが並んで座ると詰まりそうだ。持ち歩きできるくらいの焼き鳥がいいだろう」
「タコスと近い雰囲気なのは焼き鳥だろうか。ははは、確かに横幅を埋め尽くしてしまいそうだ」
ふたりの体格では、小さな屋台の席は少々窮屈である。それでも焼きたての串を受け取れば、そんなことはどうでもよくなった。鶏皮は飴細工のように艶めき、噛めば香ばしい皮の下から熱々の脂がじゅわりと溢れた。塩は輪郭を整えるように素材を引き立て、時折感じる柚子胡椒の爽やかな刺激が夏風のように駆け抜けた。
「俺も折角成人したんだし。焼き鳥をアテに、一旦ここらで乾杯しようじゃないか!」
そう言ってサワーを掲げるオルテールへ、ラウルも軽くグラスを合わせる。
「ああ、乾杯だ! ……飲みすぎないようにな」
「わかっているさ」
澄んだ音が夜へ響く。サワーは想像より軽やかで、柑橘の酸味が炭火の余韻を洗い流し、また次のひとくちを誘う。
「……俺が飲みたいだけじゃないぞ」
「ははは! こういうジャンクなのもたまにはいいな」
ラウルは串を手に人々の楽しげな表情を見渡す。結局、こういうものは雰囲気を楽しみながら友との時間を味わうものかもしれない。どれほど豪華な料理よりも、誰かと笑い合って食べたもの方が心に残る。
「来たる日に向けて良いアイデアは出そうか? 足りなければまだまだ食べ歩こう!」
「――ああ、まだまだ思いつきそうだ!」
屋台の灯火は夏の星座のように連なり、その先にはまだ見ぬ味と、新しいアイデアと。友と過ごす賑やかな夜が、尽きることなく待っていた。
●異なる宵
夜の博多は暖簾の向こうで灯る提灯を星屑のように連ね、中洲の屋台街は一筋の川辺に咲いた灯火の花園だった。鉄板を打つ金属音、丼を重ねる軽やかな音、誰かの乾杯、誰かの笑い声。そのすべてが混ざり合い、この夜だけの一杯を仕上げる出汁のよう。
「屋台メシですか、いいですねぇ。漫画なんかで屋台のラーメン食べるシーンとか憧れだったんですよ」
天・叢雲(咒滓・h00314)少年らしい声音には、まだ見ぬ宝物を見つけたような弾みがある。
――とはいえ、食べ歩きするには懐がね。
肩を竦めた叢雲は、すぐに悪戯っぽく笑みを浮かべた。仕方ないから『財布』を持っていくことにしようと、半ば強制的に連れて来られた真宵・晴(灰残・h12517)は、立ち止まると己の所在を確認するように低く呟く。
「……どこだ、ここ」
「博多です。中洲の屋台街ですよ」
「あァ? 中州ぅ? この辺りに中州に繋がる奇妙建築なんてあったか?」
鼻先を掠める空気を静かに吸い込む。それ以前に、妖の|気配《匂い》もない。
「(――本当に中州か?)」
異なる√に違和感を覚える晴を、叢雲は『細かいことは気にしないでくださいよ』と笑って誤魔化してそのまま人波の中心へと押し込んだ。
暖簾を潜れば屋台は不思議なほど狭く、それ故に温かい。肩が触れ合う距離に知らない誰かがいても窮屈ではなく、夜を分け合う仲間のように感じられる。
疑義はあるが、席に座ればあれこれ穿鑿も無粋か。
「というわけで社長、奢ってくださいよ。この前、スロで勝ったの知ってるんですから」
晴はちいさく鼻を鳴らし、叢雲にメニューを読み上げさせる。
昔食って美味いと感じた記憶のあるものを何品か。焼きラーメンに餃子、あと明太だし巻き玉子を頼もうか。
「そして焼酎、こいつが一番大事だ」
「僕はやっぱり王道の豚骨ラーメンですかね」
ほどなくして、白濁した湯気が目の前で花開く。骨の旨味を幾重にも重ねた濃厚な香りは冬の毛布のように身体を包み込み、焼きラーメンからは鉄板で焼かれた麺の香ばしさが立ちのぼる。明太子を抱いた出汁巻き玉子は箸を入れただけで黄金色の出汁をこぼし、餃子の羽根は薄氷のように軽やかな音を立ててぱりりと割れた。
振る舞われれば香りから、箸付けるのはそれからで遅くない。晴は静かに息を吸い、閉ざされた視界の中でその輪郭を朧に浮かべた。
「(昔と違って眼でも楽しめねぇのは残念だがね)」
それでも鼻孔を擽る湯気は記憶の景色を鮮やかに蘇らせる。焼きラーメンは濃い旨味を纏いながらも重すぎない。
餃子を噛めば肉汁が弾け、明太だし巻きは優しい甘みの奥から海の塩気がふわりと追いかけてきた。焼酎をひとくち含めば芳醇な香りが胸の奥まで落ちてゆき、料理の余韻を静かに抱き締める。
「ほら社長、たまにはコンビニ弁当や冷食だけの夕飯よりも良いでしょう」
熱いスープは舌の上でまろやかにほどけ、細麺はするりと喉を滑っていく。あち、あち、とちいさく溢す叢雲もまた店自慢の一皿に舌鼓を打っていた。
「……確かに悪くはない」
晴の返事は短い。それでも、その一言には十分な満足が滲んでいた。
「これで余計な支払いが無ければ尚良かったがな」
「さて、なんのことでしょうか」
叢雲は涼しい顔で笑う。屋台にはまだ笑い声が満ちていて、提灯は夜風に揺れて小舟のような灯りを川面へと落としていた。腹が満たされると心までもがすこし軽くなるのだから、温かな料理とは不思議なものだ。
やがて叢雲は会計も待たずににふらりと姿を晦ました。公女へ一太刀入れるためだと告げることさえないままに。
晴は席を立って息を吐く。
後で一発はたいてやることは決めている。それまでは夜風と屋台の残り香を道連れに、もう少しだけこの賑わいの中を歩くことにした。
●夜の向こう
「はー、提灯の灯りや看板が賑やかで、皆笑っとってええ景色や」
アストラガルス・シニクス・グリーヴァ(戦場駆ける銀蓮華・h09567)は人々の笑顔を眺めながら目を細める。そのあかい瞳にはただ平穏な夜が映っていた。
「こんなトコ襲おうなんて敵サンも風情がないな」
まあそんなことさせん為に俺等がおるし――さて、待っとる間に屋台飯楽しませて貰おかな。
まずはやっぱり豚骨ラーメンか。
湯気を立てる丼から立ちのぼる香りは白濁した旨味そのもの。硬めの細麺を啜れば歯切れの良い食感と共に濃厚なスープが麺へ艶やかに絡みつき、舌の上で力強い旨味が開いていく。替え玉を頼めば次は紅生姜や胡麻。高菜も加えれば一杯の中に新しい景色が生まれていく。香りも辛味も重なって、最後のひとくちまで飽きることがない。食べ終えたらさっと席を空け、腹も心も弾ませながら次の屋台へと脚を運ぶ。
「次は……お、明太子の屋台。此処にしよ」
網の上で炙られた一本明太子はぷちぷちと粒が弾け、芳ばしい香りが鼻を擽る。箸を入れれば熱でほどけた粒が舌の上に広がって、塩気と旨味がじんわりと沁みていく。明太子をたっぷり抱えた出汁巻き卵は湯気と一緒に出汁の香りを運び、口へ運べば卵の甘みと明太子の刺激が絶妙に寄り添う。湯気をまとったじゃがバターへ黄金色のバターが溶け落ちれば、ほくほくの芋が優しい甘さでその塩気を包み込んだ。
「いやぁ、これは酒が欲しなるなあ」
勧められた地酒をひと口。凛とした冷たさが喉を滑り落ちると米の甘みが料理の旨味をさらに引き立て、自然と頬が緩んでしまう。笑い声の波に身を預けながら杯を傾ける時間は、夜風さえ肴になるような心地よさだった。
やがてグラスも空になる頃、賑わいの向こうから不穏な気配が静かに忍び寄る。温かな空気へ冷たい刃を差し込むような違和感に、アストラガルスはゆっくりと立ち上がった。
「……さていこか。美味かったで、ごっつぉさん!」
店主へ朗らかな笑顔を残し、アストラガルスの背は再び夜へ溶け込んでいく。
今度は戦場へ。その足取りは満ち足りた腹と心のぶんだけ軽やかだった。
●むすび
見知らぬ土地なのに、どこか懐かしい。そんな不思議な温もりがあった。
隣を歩くキアラ・ザ・アスフォデルス(冥花の魔女・h09526)へ、ヨシュア・ヴァルトシュタイン(「森の石」・h09600)はふと視線を向けて首を傾いだ。
「お酒のにおい大丈夫?」
「ええ、平気よ。同僚は良く飲む方ばかりだから、香りには慣れてるの」
「なら良いんだ」
安心したように笑う横顔へ、キアラも柔らかく微笑み返す。
まだ、十七歳。
人間のものさしで考えれば酒は飲めないけれど、夜の屋台街を歩くだけで大人たちの世界へ少しだけ足を踏み入れたような気持ちになる。
「大人に紛れて夜遊びなんて、ちょっと背徳感あって楽しいな」
「確かにちょっと悪いことをしている気分かも。中々ない機会だから、わたくしも楽しいわ」
くすくす、と笑い合う。
肩を寄せるでも手を繋ぐでもない。けれど、やわらかな空気がふたりの間にはあった。
屋台には鉄板が鳴り、炭火があかく熾る。どれも食べたことないものばかり。目移りするたび、さして必要ない筈なのにお腹まで忙しくなるようだ。
「キアラさん、お勧めある? おれは明太子とかいうのが気になる」
「何がいいかしらね、わたくしも知らないものが沢山……こういう場所なのだから温かいものが良いわね」
屋台の主人へ注文を告げる前に、ヨシュアは思いついたように目を細めた。
「シェア出来る奴にしない? 折角だしさ。綺麗な色の卵焼きとか……あっちの、おれらとあんまり変わんないくらいのヒトが頼んでる焼き鳥とか」
炭火の上で並ぶ串は、琥珀色の照りをまとい、滴る肉汁が炎を喜ばせる。
「ええ、焼き鳥も美味しそうだし。わたしも気になるわ、卵焼き」
「卵焼き自体の味付けでも変わりそうだ。食べてみてからのお楽しみだね」
「明太子って少し辛いのよね? 合わせるとどんな味になるのかしら」
運ばれてきた玉子焼きは、夕焼けを閉じ込めたような黄金色だった。箸を入れればぷるんと震え、湯気と一緒に甘い卵の香りが立ちのぼる。その中心には鮮やかな朱色の明太子。ひとくち頬張ればふわりとほどける卵の優しい甘みのあとから、明太子の塩気とぴりりとした辛みが波紋のように広がっていく。
「「美味しい……!」」
思わず声が重なる。
焼き鳥は外側が香ばしく、中は驚くほど柔らかい。噛むたび肉汁がじゅわりと溢れ、炭火の香りが鼻へ抜けていく。その余韻を追いかけるように冷たいお茶を流し込めば、口の中はまた最初のひとくちを迎える準備を始めていた。
「こういうのにお酒合わせたら美味しいのかな?」
周囲では誰かが『最高!』と笑いながら杯を掲げている。きっと、この料理は酒とも仲良しなのだろう。
「おれらに成人なんてほぼ関係ないけどさ。飲めるようになったら一緒に乾杯しようね」
「そうね、肉体の年齢なんてあってないようなものだし。……でも、そういう約束ができるのは素敵だわ」
提灯の灯がキアラの瞳に映り、ちいさなあかい星が揺れる。
「じゃあわたしが飲めるようになるまで待っててくれる?」
一拍置いて、少女は気恥ずかしげに微笑んだ。
「なんて、冗談よ。一年も待たせるのは、」
「……一年くらい何てことないけど」
その返事はあまりにも自然で、まるで『明日また会おう』と言うくらい当たり前だった。
「……、良いの? ありがとう、とっても楽しみだわ」
じわり、じわりと頬に朱がのぼるのを。
提灯のあかりのせいだと、誤魔化すことは出来るかしら。
「じゃ、良いお酒を教えられるようにしとこうかな」
約束はまだ飲めない一杯のために。
ささやかな未来を思い描くだけで胸は温かく満たされる。
それはいつか交わす乾杯の最初のひとくちを、きっと今よりもっと美味しくしてくれる思い出にしてくれることだろう。
●湯気にともして
川面を撫でる風に提灯のあかりを揺らしながら、中洲の屋台街は一日の終わりを祝福するように賑わっている。温かな喧騒へ足を踏み入れた見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)は、すん、とちいさく鼻を鳴らした。
「わあ、すごい、活気があっていいですねえ。どこもかしこもいい匂いがします」
「ふふっ……こうも美味しい匂いばかりだと、お腹がぐうぐうなってきちゃいますね」
隣を歩く架間・透空(天駆翔姫・h07138)も胸いっぱいに夜の香りを吸い込んで。その言葉に七三子のお腹まで応えるように鳴った気がして、ふたりは思わず顔を見合わせて笑ってしまう。
「透空さん、おなかのスペースは大丈夫ですか? 私、もうぺこぺこです!」
「こう見えて私、大食らいさんなので! モーマンタイですよ、七三子さん!」
頼もしく胸を張る透空に、七三子は嬉しそうに笑みを深めながら立ち並ぶ屋台をぐるりと見渡した。
「えへへ、この間約束したスイーツツアーではないですが、これはこれで別腹。今日だけは特別ってことにして、目いっぱい楽しみましょうね」
「そうそう♪ お仕事とはいえ、博多まで来ているんです。折角のこの機会、楽しまないとソンソン♪ ですよねっ!」
「そう、だって、お仕事ですから!しかたないです!」
最後の言い訳めいた一言に、ふたりは今度こそ声を上げて笑い合う。美味しいものを食べる理由なんて、本当はひとつあれば十分なのだ。
屋台を覗けば、寸胴鍋から立ちのぼるしろい湯気が夜気へ溶けていく。乳白色の豚骨スープは艶やかで、細麺をほぐす湯切りの音は軽やかなリズムを刻んでいた。
「私、ラーメン食べたいなあって思うんですけど、透空さんは何か食べたいものありますか?」
「おっ。それじゃ、私もラーメンでお願いします!」
ふたりは暖簾を潜るとちいさな屋台の椅子へ腰掛ける。透空は折角だからと、七三子とは違う味のラーメンを注文した。ひとつは王道の濃厚豚骨、もうひとつは香味油が香る少し趣の異なる一杯。
美味しいものを食べる機会――それも大好きなお友達とそれを分かち合うという時間は、料理そのものに隠し味を添えてくれるよう。器を満たすスープ以上に、心まであたたかく満たされていく感覚が透空はたまらなく嬉しかった。
ほどなく運ばれてきた丼からは、ふわりと湯気が立ちのぼる。鼻先を擽る豚骨のあまい香りに、香味油の芳ばしさや刻み葱の青々しい匂いが重なり、食欲はもう待ってくれそうにない。
「これ、一口どうぞ!」
「じゃあ、その代わり私のもぜひ!」
同じものを食べるのも、違うものを頼んでシェアするのも、なんだか『お友達』なんだと強く感じられることが嬉しくて、素敵なことだと思うから。ちいさな器へ少しずつ取り分ければ、湯気まで分け合える気がする。
濃厚なスープは舌へ纏わりつくようにまろやかで、旨味がゆっくりと広がっていく。もう一杯は香味油の香ばしさが鼻へ抜け、あとから豚骨の深いコクが追いかけてくる。細麺はするりと喉を滑り、噛めば小麦の甘みがふわりと顔を出す。
屋台の外では笑い声が重なり、グラスの触れ合う澄んだ音が夜風へ溶けていく。その賑わいさえ、最高の調味料だった。
「ふふ、透空さんと一緒に楽しめて嬉しいです!」
「私も七三子さんと一緒で! 今……とっても楽しいです!」
夢中で麺をすすれば、七三子も負けじと大きくひとくちを頬張る。
「わ、はふ。熱っ。へへ、舌火傷しちゃいました」
頬を押さえて照れ笑いを浮かべる七三子を見て、透空も思わず吹き出してしまう。
提灯の灯りは少女たちの笑顔をやさしく照らし、屋台街には今夜も変わらず美味しい香りと人の温もりが満ちていた。そのひとときはどんなご馳走よりもあたたかく、博多の夜を忘れられない思い出へと静かに、確かに染めていくのだった。
●記憶は遠く
夜の帳が降りた屋台街は川面に映るあかりをゆらゆらと揺らしながら、人々の笑い声をひとつの音楽のように溶け合わせている。夜風を胸いっぱいに吸い込めば、それだけで心までもが温かくなるようだった。
「どれ、わたしも何か食べてみましょうか」
そう呟き、一歩を踏み出したフルラ・フィル (蜜葬Agnus Dei・h13279)の視線が、ふと、ひとりの少年へと吸い寄せられる。
ちいさな身体に宿る、星色の翼。
星々をあしらった魔女の衣。
まるで夜空そのものを切り取って羽織ったような姿に、胸の奥がかすかに疼いた。
「(――わたしは、それらをしっている……?)」
思考が届くより早く鋭い頭痛がこめかみを貫く。
視界が白く滲んで、世界がぐらりと傾いた。
「屋台だ! いい香り、お腹すいてきちゃった! ……?」
ノーチェ・ノクトスピカ(Nachtsängerin・h06452)は、不意にふわりと揺れる尻尾のうつくしい少女と目が合う。その表情が見る間に青ざめていくのを見た瞬間、弾かれたように駆け出していた。
「(……大変! 倒れちゃう!)」
細い身体を慌てて支え、腕いっぱいで受け止める。
「大丈夫? どこか具合悪いのかな!?」
どうしよう、胸がどきどきする。
友達だったら、こんな時すぐに治療したり、落ち着いて助けられたりするのだろうか。そんな思いが頭を過ぎり、焦燥ばかりが募っていくけれど。
「あぁ、大丈夫……ありがとう……少年」
ほっと胸を撫で下ろしたノーチェへ、フルラは柔らかく微笑んだ。
「わたしはフルラ」
「僕はノーチェ! お姉さんはフルラっていうんだね! よろしくね!」
「そう、ノーチェ。可愛らしいお名前ですね」
言葉を交わすうち、張り詰めていた空気は湯気のようにほどけていく。屋台街の賑わいもまた、『大丈夫』とふたりを包み込んでくれているようだった。
「助けてもらったお礼に、何かご馳走いたします」
「いいの? 何も出来なかったし……気を使わなくてもいいのに」
そう遠慮しながらも、ノーチェの瞳は提灯のあかりに負けないくらいにきらきらと輝きはじめた。
「でもありがとう。……ねえ、一緒に屋台を巡ろうよ!」
「ええ、行きましょう」
並ぶ屋台は宝箱を開いたような楽しさに満ちている。
鉄鍋から立ち上る湯気に威勢のいい店主の声、肩を寄せ合って料理を頬張る人々の笑顔。そのどれもが夜を温める薪火のようだった。
「食べたいものはある? まずは餃子を買ってみましょう、遠慮しないで」
焼きたての餃子はこんがり色づいた羽根が硝子細工のように薄く輝いている。箸を入れればぱりっと心地よい音が夜気へ弾け、もっちりとした皮が歯を優しく受け止めた。噛めば閉じ込められていた肉汁がじゅわりと溢れ、豚肉の旨味と野菜の甘み、大蒜の香りが口いっぱいに花開くものだから、思わず頬が緩んでしまう。
「あっ」
ノーチェの視線は隣の屋台で焼き上がる明太子の玉子焼きへ吸い寄せられる。黄金色の卵は湯気をまとい、切り口から覗く明太子は夕焼けを閉じ込めたように鮮やかだ。
「あら、明太子の玉子焼きもいいですね。食べきれないなら半分こしましょう」
「うん! 半分こしよう! こういうの食べるの初めて」
美味しいものを前にした笑顔は不思議と誰かの心まで満たしてくれる。元気を取り戻したフルラの姿に、ノーチェはそっと安堵する。そのみどりの瞳の奥に――どうしてだろう、遠い昔に見上げた木々のような懐かしさを感じながら。
「とっても美味しいね!」
無邪気に笑うノーチェへ、フルラも自然と微笑み返す。
料理の温もりと、隣で笑う少年の声が夜風よりも優しく心を撫でてくれるから。フルラは胸の裡に湧き上がる理由のわからぬ罪悪感へそっと蓋をして、穏やかな笑みを深めて目を細めるのだった。
●宵にこととう
醤油の香ばしさが風に乗り、ごま油の甘い匂いが鼻先を擽る。焼き鳥から滴る脂は炭火へ落ち、ちいさな火花となって瞬く。そのたび香りは深みを増し、通りを歩く人々の足を自然と屋台へ誘っている。そんな美味しい気配に包まれながら、黒い仔犬――今は人間の子供へ姿を変じた見下・ハヤタ(弾丸黒柴号・h07903が、瞳をきらきらと輝かせながら周囲を忙しく見回していた。
「(うー、おいしいがいっぱいですね、フィユおねーさん。ぼくも、ぼくもたべていいんですか?)」
ことばの意味こそ全ては伝わらないけれど、くうん、と響く鳴き声に耳を澄ませる祈紡・フィユ(夢境・h12707)はふわりと微笑んだ。
「きっと、おいしいものが気になっているのですね」
折角ご一緒できたこの夜に。美味しいものを食べるだけではなく、この子の心へもっと触れてみたい――そんな願いが、桜玉石の瞳に優しく宿る。
「祈りは夢に、夢は星に。……流れて、届いて、やさしい奇跡になるのです」
夢を宿した七彩の流れ星が夜空へ現れ、まるで誰かの希望を縫う糸のように静かに尾を引いていく。
フィユが流星へ願うのはただひとつ。
今宵だけ、この子のこころが言葉となって皆へ届きますように、と。星屑が淡く降り注ぐと、ハヤタは不思議そうにこてんと首を傾げた。
「……うん? ぼくのことば、にんげんにもつうじてますか?」
「わあ、本当に聞こえるのです!」
言葉は風に乗るだけではない。心から生まれた声は、笑顔という花を咲かせながら相手の胸へ届くものなのだと、まるで夜空の流れ星が教えてくれているようだった。
「わあい! おはなしできます、うれしい! ありがとうございます、フィユおねーさん!」
「ふふっ。フィユも嬉しいのですよ」
いそいそと慣れない手つきで屋台の暖簾を潜れば、鉄板の上では餃子が小気味よい音を立てていた。狐色に焼けた皮は羽根のように薄く香ばしく、湯気の奥には肉汁のあまい香りが隠れているのが伝わってくる。
「今日はおいしいものをたべるのがおしごとってききました。ぼくもおいしいものたべたいです!」
お小遣いはご主人からもらっているのだと首に下げた財布をぱちんと開ければ、食べた後にですよ、とフィユが笑ってくれるから。それさえうれしくて、ハヤタの頬っぺたは湯気に誘われるようにあかく、あかく染まっていく。
「せっかくお小遣いをいただいたのなら、ご自分の言葉で店主さまへ注文してみませんか?」
「わかりました! おすすめください!!」
元気いっぱいの声に、店主は目尻を下げて笑う。
「任せとき!」
威勢のよい返事とともに運ばれてきた皿は黄金色の餃子が湯気を纏って、『めしあがれ』と行儀よく整列しているものだから、もう我慢なんて到底出来やしない。
ひとくち頬張れば、ぱりり、と心地よい音が弾ける。続いて溢れる肉汁は熱く、それでいてどこか優しい甘みを抱いて、ごま油の香りと重なって舌の上で解れていく。上手に注文できたご褒美にと、ふたりはひとくちずつ料理を交換することにした。
「これおいしいです! 好きです! フィユおねーさんのもおいしい! 楽しい!」
「ええ、フィユのもどうぞなのです」
おいしい。好き。楽しい。
ひとの言葉になったそのひとつひとつを、フィユは宝物を受け取るように頷いて胸へ仕舞い込む。同じ料理を分け合うだけで、不思議と嬉しさまでもが、はんぶんこではなく二倍に増えていくようだ。
「今夜はまだまだ、たくさんお話ししましょうね」
「えへへ。はい!」
美味しいものはお腹だけではなくこころまでも温めていく。それはきっと、ひととひととを結ぶ糸のようなもので、見えないけれど確かにそこにある。
言葉になったゆめも、笑顔になったねがいも。夜空へ瞬く星々のように、静かにやさしく、いつまでも輝き続けていた。
●結いたてのひら
夕暮れが藍色へと溶けてゆく頃、中洲の屋台街にはひとつ、またひとつと橙色のあかりが灯り始める。那珂川の水面は夜風に細かく揺れ、提灯の明かりを砕いた金箔のようにきらめいていた。
常折・菖蒲(白夢・h13202)はそんな賑わいを見渡しながら、物憂げにちいさな息を吐き出した。
「(悠久と出かけるような日が増えて、色々なものを目にすることは増えたけれど、屋台街というものははじめてね。せっかくだから一緒に楽しみたいのに、……もう)」
その視線の先では、常折・悠久(漂白・h13192)があちらこちらへ落ち着かなく視線を泳がせていた。
「屋台飯を楽しめばよし、かぁ」
そう呟いてから、串焼き、餃子、おでん、明太子料理と並ぶ屋台へ目を向ける。
「あちこちおいしそうなものあるから目移りしちゃうな。ねっ、菖蒲ちゃん」
「ねっ、じゃないの。緊張してるでしょ」
じとりと向けられた視線の意図がわからない訳ではない。だからこそいつもの調子で声をかけたつもりでいたのだけれど、彼女の目を誤魔化すことなど到底出来やしないらしい。そんなことだって、勿論悠久も十分に理解しているのだが。
「え、何その目。緊張してるってそりゃ、するよ~」
「ずっとソワソワしてるもの、気付かないわけないわ」
「だってこんなきらきらしてて、みんなが楽しそうな中にも危険が潜んでるんだろ?」
提灯のひかりは優しい。
それでもひとの波は絶えず、見知らぬ声が絶え間なく交わるこの場所は、凡ゆる悪意と向き合ってきた悠久には油断してはいけない世界のようにも映る。
「楽しんでと言われても、こういうの初めてだし、なにかあったらって思っちゃうよ」
「そうね、たしかに初めてのことばかりで戸惑ってしまうわよね」
菖蒲はふっと微笑み、悠久の手を包み込む。
夜風より少しつめたいそのてのひらは、昔と変わらぬ安心を孕んでいた。
「でも忘れないで。悠久には私がいて、私には悠久がいる。こうして手をつないで、傍にいて、怖がることがあるの?」
「ん? ふふ、そうか」
菖蒲ちゃんがいれば何も怖がることないか、そうだった。
口に出してみれば肩の力まで抜けていく。不思議なくらいに、ぱっと街のいろまでもが鮮やかになっていくようだった。
「わかればいいのよ。たくさん楽しんで、その顔をよく見せて」
気を取り直して足を運んだ屋台で楽しむのならば、まずは鉄鍋で焼き上げる一口餃子。羽根は薄氷のように透き通り、箸を入れると軽やかな音を立てて砕ける。熱々の皮の向こうから肉汁が溢れ、大蒜と生姜の香りが舌いっぱいに広がった。噛むたびに野菜の甘みがほどけ、思わず頬が緩んでいく。
「餃子いいいなー、餃子うまいもん。菖蒲ちゃんも何か気になるものある?」
菖蒲は出汁巻きをひとくち運ぶ。ふわりとほどけた卵から上品な出汁が染み出し、明太子の塩気が優しく寄り添う。その余韻はひだまりのように穏やかで、温もりが胸の奥まで満ちていく。
「卵も美味しいわ。悠久もおひとつどうぞ」
「ありがと。……あ、あと何か怪しいことがあったら教えてね、目をかけることくらいはできるから」
「大丈夫よ。貴方の楽しみのためなら、私も協力は惜しまないわ」
賑やかな夜は、皿を満たす料理だけでなく、互いと過ごす時間まで温めてくれる。湯気は笑顔を包み、灯火は思い出を照らして。食卓は心の距離まで近付けてくれるのだと、この街は静かに教えてくれているようだった。
「(私以外に目を奪われる時間が増えても困るもの、なんて言わないけれど)」
胸の内とは裏腹、菖蒲は餃子を頬張って幸せそうに笑う悠久を見つめ、誰にも気付かれないほど僅かに目を細める。
提灯が揺れるたびにふたりの影も寄り添って揺れる。
人波に紛れて歩いても、繋いだてのひらだけは決して離れることはないのだろう。
●うそか、まことか
「わあ、出来上がってる!」
暖簾を潜った雨夜・氷月(壊月・h00493)を見つけ、嘯・シアン(恣意的思惟・h06837)は大きく手を振った。
「氷月君こっちこっち~」
隣へ迎え入れた頃には、どうやらもう上機嫌も上機嫌だ。頬はほんのり染まり、瞳には提灯のあかりがゆらゆらと揺れる水面のように映っていた。
「そういえばアンタ酒にはそんなに強くなかったっけ」
「弱くもないよ~」
頬をつつかれて、むに、と指先を押し返す。氷月はにまにまと笑いながら遠慮なしに腰を下ろすと、今度は仕返しとばかりに緩み切ったシアンの頬をつついた。柔らかな感触に、ついふたり揃って吹き出してしまう。
「ほら、氷月君は何飲む? 最初の一杯奢っちゃうよ」
「え、奢ってくれんの? じゃあ俺もアンタと同じ日本酒で!」
ほどなくして運ばれてきた猪口を掲げ、乾杯の音頭と共に澄んだ音が夜風へ溶ける。米の甘みを抱いた日本酒は舌の上で丸くほどけ、喉を通れば身体の芯へちいさな灯火を灯してくれた。
「かんぱ~い」
シアンは早くもおかわりを頼み、再び猪口をこつんと鳴らす。
卓上には湯気を立てる明太子乗せ出汁巻き卵。箸を入れるだけで卵は春の雲を割るようにふるりと震え、黄金色の出汁がじゅわりと滲む。明太子の塩気と粒の弾ける食感が、その優しいあまさへ小気味よい波紋を描いていた。
「串焼きも食べたいなぁ。いっそ全部頼んじゃう?」
熱々の餃子は羽根が薄氷のようにぱりりと砕け、閉じ込められていた肉汁が湯気とともに溢れ出す。酢醤油の酸味が後口を軽くし、日本酒をまたひとくちと誘ってくる。
「んっふふ、全部頼んじゃおうよアンタの奢りで」
首を傾げ、
「ダメ?」
きゅるきゅるとした氷月のおねだりに、吹き出しそうになるのを堪えて喉から変な音が鳴った。
「あはは、美人にねだられたら断れないなぁ」
店主へと追加注文が飛んだなら、炭火の上では鶏皮が黄金色に輝き、脂が落ちるたびに火の粉が星のように散る。ねぎまにぼんじり、つくね、砂ずり。次々と焼き上がる串は、さらなる空腹を誘う湯気と共に卓上を彩った。
鼻唄混じりのシアンは、心地よく揺れる提灯を見上げながら微笑む。
「氷月君、俺はねぇ……嘘の未来から来た空っぽな存在だけど、美味しいお酒を一緒に飲める友達がいて幸せだよ」
「へえ、アンタ嘘の未来から来たんだ~」
鶏皮を齧り、ぱりっと香ばしい皮と蕩ける脂を味わいながら『なるほどー』なんて話半分に相槌を打つ。
その気軽さこそが心地よい。
真偽を問い詰めるでもなく、笑い飛ばすでもなく。酒の肴のように受け止めてくれる相手がいる夜は、それだけで少し世界を優しくしてくれる。
「ね~、氷月君のハッピーなトークも聞きたいなぁ」
べしべしと背中を叩く絡み酒も何のその。
可笑しげに笑う氷月だって十二分に上機嫌だ。
「えー俺のハッピーなトーク聞いちゃう? この前仙術サイバーな√で派手な花火を打ち上げた話とか!」
「いいねぇ、花火! 俺も見た~い」
花火という言葉だけで、夜空に大輪の色彩が咲いたような気がした。酒も料理も、語られる思い出も、どれも人の心を温める火足り得るのだろう。
「んー。でもやっぱ俺はシアンの話の方が聞きたいなー」
肩を組み返しながら笑う。
「(だって、酔ってるシアンの話の方が面白いに決まってるよね。シラフに戻った後含めてさ)」
「ふふ、この聞き上手め。なら可愛い妹の話に付き合ってもらおうかな」
屋台街にはまだまだ笑い声が絶えない。提灯のあかりは夜明けを忘れた星のように揺れ続け、酒の香りは川風へと流れ、炭火はあかく静かに息をする。美味しい料理は皿から消えても、共に囲んだ時間は胸の奥でいつまでも温かい。
故にふたりの盃は何度でも満ち、笑顔は何度でも咲いていくのだろう。
――勿論、朝まで!
●ほっぺたいっぱいのしあわせ
屋台のあかりを辿るように、白銀の髪を揺らしながらふたりの少女が歩いていく。
「ツィリ、食べたいものはある?」
鴛海・ラズリ(✤lapis lazuli✤・h00299)が微笑みながら尋ねると、夕星・ツィリ(星想・h08667)は瞳にきらきらと星屑を宿しながら忙しなく屋台を見回した。
「えっとね……全部気になってます……!」
あちらでは鉄板が鳴り、こちらでは湯気が踊る。焼き鳥、餃子。おでんに玉子焼き。夜の街はおもちゃ箱をひっくり返したように美味しいいろで溢れていて、ひとつだけ選ぶなんて到底できそうにない。
「ふふ、それなら全部見ていっちゃおう」
ツィリは鼻先を擽る香ばしいにおいを胸いっぱいに吸い込む。
鉄板の上で踊る油の弾ける音はお腹の虫を目覚めさせる魔法みたい。あっちにもこっちにも美味しい香り。甘辛いタレと炭火のにおい。しあわせというものに香りがあるなら、きっとこんなにおいなのだろう。
自然と足取りまで軽くなって、おいしいにおいに誘われた先では湯気を纏った屋台たちが待っていた。じゅうじゅうと焼ける鉄板餃子や鶏肉を眺めて、ちいさく目を丸くする。焼き色は狐色に輝いて、肉汁を閉じ込めた皮は香ばしく膨らんでいる。食欲そそられちゃうね、なんてふたりで囁き合えば今度は優しい出汁の香りが夜風に乗ってふわりと届くものだから、思わずぴょこっと覗き込む。
「ね、おでんも一緒にどうかな……? いっぱい食べるためにしあわせ共有作戦なの」
「あつあつのおでんー! ぜひぜひ分けっこして食べよ食べよ!」
湯気の向こうでは、大鍋いっぱいに様々な具材が黄金色の出汁に包まれて揺れている。
「好きなタネはある? 私は染み大根、餅巾着と……餃子巻きとシュウマイ巻きもあるの!」
「餃子巻にシュウマイ巻初めてみた……! 場所が変わればおでんの具もかわるんだね」
珍しい具材に目を丸くしながら、ツィリは蒟蒻にごぼう天、それからシュウマイ巻きを選んだ。熱々のおでんを頬張れば大根は箸を入れただけでほろりと崩れ、出汁がじゅわっと口いっぱいに広がる。ごぼう天は香り高く、餅巾着はとろりと伸びて。餃子巻きもシュウマイ巻きもそれぞれ違う旨味を抱えていて、黄金色の出汁がすべてを優しく抱き込んでいた。
「これが博多おでん……! ご当地グルメ美味しい……」
湯気越しの笑顔までほかほかに温まっていくようで。うれしいきもちがどんどん湧いてくるから、ふたりの寄り道は止まらない。
ラズリはツィリについていき、あまい香りの玉子焼きや、ぱりっと香ばしい餃子を見つけるたびに吸い寄せられるように屋台へ近付いていく。途中で玉子焼きや餃子まで欲張って買ってみたり。何時も見慣れてるものと違うから、つい気になって買ってしまったけれど、後悔なんてすこしもありやしない。
「選べないもんね……!」
顔を見合わせて笑うたび、料理はもっともっと美味しくなる気がした。
玉子焼きはぷるりと柔らかく、噛めばじんわりと甘い出汁が染み出してくる。餃子は羽根がぱりぱりと砕け、熱い肉汁が舌の上を駆け抜ける。そのたび思わず『あちち!』と笑い合って、つめたい夜風さえも心地よく感じられた。
美味しいをいっぱいつめて、ふたりで今日はハムスター気分。頬袋がいっぱいになっちゃうくらいに熱々の博多ごはんを堪能して、心までもが満たされていく。
屋台のあかりは相変わらず優しく瞬き、人々の笑い声は夜空へ溶けていく。
「一緒に食べるともっともっと美味しいね」
ツィリが嬉しそうに微笑めば、ラズリも幸せそうに目を細める。
「今日はツィリと一緒だからもっと美味しく感じるのよ」
料理を美味しくする最後の隠し味は、誰かと『美味しい』を分け合えることなのだと、博多の優しい夜は静かに教えてくれているようだった。
●時には麦酒を
「やぁ咲或、今日は屋台案内をよろしく頼むよ。こういう場所にはあまり来たことがなくてね」
灯火の流れを縫うようにふたりは肩を並べて歩く。
銀糸のような髪を夜風に遊ばせたアドニス・ガルダ・インファリリ(プシュケの花檻・h12904)は穏やかに微笑み傍らを仰いだ。
「はい、屋台案内仰せつかりました咲或ちゃんです」
篭宮・咲或(Butterfly effect・h09298)は戯けるように一礼してみせ、琥珀色の双眸をあまく細めた。
「てっきり教皇様はフレンチとか|捧げもの《血》以外は口にしないものかとばかり」
「あはは、そう見える?」
提唱者たる彼ならば、それこそ渇望を満たすほどの捧げ物は足りているだろうに。
柔らかな笑声は夜風へ溶け、提灯を揺らしていく。
「あながち間違ってはいない……が、そればかりでは飽きるからね」
「偶には違うのも口にしたいってヤツかしら」
「そういうことさ」
屋台街はまるで一冊の絵巻物だった。
店ごとに異なる香りが風へ色を与え、歩くだけで腹の虫が目を覚ますよう。ひと通り巡り終える頃には、夜気はすっかり出汁の香りを孕んでいた。
「何か興味ひくものありそう?」
「そうだな……私はあれが気になる。器に麺とスープが入っている……」
らーめん。
「ら……? ……ごめんもう一回いって?」
「ラーメンだよ」
幻聴じゃなかった。
まさか彼からそんな俗っぽい単語が出てくるとは。咲或は思わず漏れ掛けた本音を飲み込みながら肩を竦める。
「いやアドニスがいいならいいんだけど」
教皇様を屋台のラーメンへ案内して本当に大丈夫なのだろうかと一抹の不安を抱いたものの、アドニス本人は実に楽しそうだった。
「はは、怒る者などいないから安心しておくれ」
寸胴から立ちのぼる湯気は冬の雲のように濃く、豚骨を炊き続けた香りが食欲を優しく包み込む。麺を茹でる湯の音、湯切りの小気味よい響き、丼へ注がれる乳白色のスープ。その一杯には、長い時間を火へ預けた職人の誠実さが溶け込んでいた。
「博多といえばやっぱり豚骨よねぇ」
「へぇ……色んな種類があるんだな。では名物の豚骨で」
注文を待つ間、アドニスは静かに思案する。――豚の骨が混入した『らーめん』なるものは、一体どんなものなのだろうか?
ほどなくして丼が置かれ、湯気がふたりの頬を柔らかく撫でた。
「骨入りなのかと思ったらスープの元になっているのか」
「……骨入りは人間の咬合力じゃ厳しいかなぁ」
多分本気だ。だからこそ、堪らず笑みが零れてしまう。
咲或に倣って紅生姜を添え、胡麻を散らして麺を持ち上げる。細麺へ乳白のスープが絡み、啜れば濃厚な旨味が舌を満たした。
「これはなかなか美味しいな……食べたこと無い味だ。咲或はよくラーメンを食べるのかな?」
「ふふ教皇様のお気に召したならなにより~。ラーメンは偶に食べるくらいかしら」
豚骨の深いコクの奥には不思議なほど澄んだ甘みが息衝いている。熱は喉を滑り落ち、身体の芯へかすかな火をともすようだった。
「にしても、これはビール欲しくなっちゃうな」
「ワインは飲むがビールは口にしたことが無いな、君の食生活が気になるよ」
屋台の椅子は決して豪奢ではない。けれど隣り合って湯気を浴びながら麺を啜る時間には、磨き抜かれた晩餐会とは違う幸福があった。
「俺はアドニスの食生活のが気になるなぁ」
「私の? なら今度ご馳走しようか」
「あらいいの? ディナーのお誘い楽しみにしてるねぇ」
笑い声が提灯の灯りへ滲み、川風がそれをさらりと運んでいく。
湯気の向こうで交わされた何気ない約束は、豚骨の余韻よりも温かく胸へ残った。
夜はまだ更けない。屋台街の灯火は星々が地上へ降り立ったように瞬き続け、ふたりの足取りもまた柔らかなひかりの中へ自然と溶け込んでいくのだった。
●ちいさな団欒
「俺はまだ戦い慣れていないが……普通に飲み食いをしていると、妖魔をなんとかできるというのは本当か?」
「そうなんだよ父さん!」
任務とはいえ、中学生の息子を夜の屋台街へ連れてくるのは大海原・新汰(色を失くした夢・h05378)は父親として少し気掛かりだった。酒や煙草の煙が濃い店ではなく、家族でも落ち着いて食事ができそうな屋台を慎重に探す。
そんな折、大海原・藍生(リメンバーミー・h02520)が父の袖を軽く引いた。
「妖魔にとって人の恐怖が愉悦! なのなら、徹底的に楽しんだほうが勝ちだよ」
その言葉に新汰は静かに息を吐いた。
恐怖ではなく笑顔を選ぶ。それは、剣よりも強い意思なのかもしれない。
やがて見つけたのは明るい灯りがあたたかく漏れ、酒臭さも煙草の匂いもほとんど感じない小ぢんまりとした屋台だった。
「……そして現地の美味しいものは現地で食べないとだよね!」
東京の盆踊りや花火、縁日の屋台は慣れているけれど、こういった大人が出入りする屋台ははじめてのことだから。父が足を止めたのなら、きっとこの店はいい店なのだろう。
「東京からの折角の遠征だ、いい思い出にしたいからな」
向かい合って腰掛ければ、木の椅子のぬくもりまで旅情を感じさせる。
ほどなくして運ばれてきた艶やかな黄色に焼き上げられた明太卵焼きは、箸を入れるだけで湯気がふわりと立ちのぼる。半熟の卵が明太子の粒を抱き込み、口へ運べばぷちぷちとはじける塩気と、とろりとした甘みが舌の上で溶け合っていく。
「うわー美味しそう!」
「……しかし、まぁ落ち着け藍生」
藍生の歓声は、料理を待ち焦がれていた子どもそのものだった。
もつ煮込みは白味噌のやさしい甘みをまとい、長時間煮込まれたもつは箸だけでほろりとほどける。噛むたびに旨味がじゅわりと広がり、身体の芯まで温めてくれた。
「明太子卵焼き、もつ煮込み、おでん、一口餃子! ご飯も進んじゃう」
藍生は幸せそうに頬を緩めながら箸を動かしていく。その無邪気な姿に、自然と新汰の目尻も緩んだ。
「ちゃんとよく噛んで食べるんだぞ」
「はーい!」
飯が進むものばかり。
本来なら冷えたビールでも欲しくなるところだが、今は仮にも任務中だ。万が一の襲撃に備え、新汰は湯飲みのお茶を口に含み、気持ちを今一度引き締めた。
「もうこのまま色々なお店を二次会三次会四次会しようよ? 俺まだ食べられるよ」
藍生が本気で言うものだから、新汰は思わず吹き出す。
「ああ、なら焼き鳥もあるぞ。皮がうまいぞ、食うか?」
「うん!」
笑い合い、料理を分け合い、他愛ない話を交わす。その時間は夜という名のキャンバスへ、家族の幸福を一筆ずつ描き足していくようだった。
――今日はいい夜だ。
新汰は湯飲みを置いてちいさく微笑む。腹よりも、心が満ち足りていた。
「お前が一緒ならなおのことだ、藍生」
「えへへ……それじゃあ、〆はバリカタラーメンで!」
運ばれてきた豚骨ラーメンは、乳白色のスープが月明かりを溶かしたように艶めき、細麺は張りのある黄金の糸のようだった。バリカタならではの歯切れの良い食感が心地よく、濃厚な豚骨の旨味が口いっぱいに広がる。
「……どこでそんな言葉覚えてきたんだ?」
「えっ、……よく覚えてないや」
照れ笑いする藍生に、新汰も思わず笑みを零す。
その穏やかな表情の裏で、新汰はさりげなく『すごたんまつ』へ意識を巡らせる。楽しげな人々の笑顔の陰に、妖魔の気配が潜んではいないかと警戒は決して解かない。
それでも今宵は人々の笑い声が恐怖を押し流し、温かな料理が心を満たしてくれる。屋台街には明日へ向かう力を育む灯火が、夜更けになっても絶えることなく揺れ続けていた。
●ひとのよの灯火
腹を鳴らす香りというものがあるのなら、それはきっとこの夜の空気だった。
「此度は屋台飯を楽しめば良いらしいな……!」
期待に瞳を輝かせるトゥルエノ・トニトルス (coup de foudre・h06535)へ、肩を竦めながら緇・カナト(hellhound・h02325)が『はしゃぎ過ぎないように』と笑う。
「美味しいものを沢山食べて、英気を養ってイイんだから良い仕事があったモンだね」
「ふふふ。さっそく屋台街の見学に行こうではないか~」
好奇心の赴くトゥルエノに任せて屋台街をぶらり歩くとしよう。歩いた先には、きっと美味しいものばかりが待っている筈だから。
暖簾の連なる小路へ踏み込めば、世界はたちまち五感を擽る色彩へと変わっていく。炭火の上で串が軽やかにぱちりと踊る音は脂が火へ落ちて弾けるちいさな祝砲のよう。
「どこも楽しそうな音色や香りでいっぱいだなぁ」
「……何処も香ばしくて良い匂いが漂ってるなァ」
鼻先をひくりと動かすカナトに、トゥルエノは弾むような声を重ねる。
「主のよく知る美味しそうは何がある?」
「一口餃子は色んな種類を楽しめるらしいし、博多らしい明太子の玉子焼きも思い出つくりに食べてったら良いんじゃないの」
鉄板の上では餃子が香ばしい羽根を育て、甘辛いタレが焦げる匂いは夜気へ琥珀色の帯を描いて漂っていく。出汁の香りは湯気となって鼻先を撫で、どこか懐かしい温もりまで連れてきた。
「餃子も明太子の玉子焼きも良いな……! あとは香っていた串焼きも気になるぞぅ」
「焼き鳥も串焼きも酒飲む肴に幾らでも味わえそうだし……それぞれ屋台の御目当ては幾つかずつ摘んでいこうか」
まず頬張った一口餃子は薄皮がぱりりと心地よく砕けた瞬間、肉汁が熱い雫となって舌へ溢れる。生姜と肉の旨味が寄り添い、後から届く胡椒の刺激が食欲をもうひとくち先へ誘っていた。
明太子の玉子焼きは箸を入れただけで湯気がふわりと花開く。ふるりと震える玉子は夕焼け雲のように柔らかく、噛めば甘い出汁と明太子の塩気が重なって春の海が寄せるように優しく広がっていった。
串焼きは炭の香りを衣に纏い、滴る脂が旨みの宝石へと姿を変えていく。噛むほどに肉はほどけ、炭火の熱は素材の甘みを丁寧に磨き上げている。焼き鳥は皮のぱりりとした食感と瑞々しい身の対比が楽しく、思わず笑みが零れてしまう味だった。
「味見をしたらば何れも旨いものだな! 主もどんどん食べると良いぞぅ」
「はいはい、ちゃんと食べてるよ」
暖簾を潜るたびに店主が笑顔で迎え、薦められた料理はどれも違う表情を見せる。香ばしいものに優しい出汁が染みるもの、ぴりりと舌を弾くもの。夜という一枚の器へ、色とりどりの味覚が少しずつ盛り付けられていく。
「(社交性はトールに任せて、オレは味わう胃袋担当。屋台街を巡るには丁度よい分業では?)」
そんなカナトの肩越しで、トゥルエノは店主や隣客と言葉を交わし、教わった料理たちへ目を輝かせる。近くの入った屋台で見聞きしたおすすめを味わって。夜を分け合った相手からもまたおすすめを聞いて、おいしいの連鎖はそうしてどんどん続いていく。
「色んな美味しいの料理が並んで、さすがは有名な中洲の屋台街というヤツだな…!」
見知らぬ誰かと『おいしい』を交わせば、その言葉まで料理の隠し味になる。人の温もりもまた、この街が育てた名物なのだろう。
提灯の灯はなお明るく、川風は食後の頬を心地よく撫でてゆく。
「夜が更けても眠らない眩さを楽しんでいったらいいよ」
「うむ! まだまだ美味しく楽しい夜を味わおうではないか」
笑い声と炭火の音は夜空へ昇り、湯気は月あかりへ淡く溶けていく。博多の夜は一皿ごとに思い出を盛り付け、ふたりの旅路へ温かな灯をそっと添えていた。
●乾杯を、きみと
「たくさんの屋台ですよ、ラナ……!」
「ほんと、すごい数だね……!」
しののめいろの瞳を輝かせながらラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)が辺りを見渡せば、ラナ・ラングドシャ(猫舌甘味・h02157)も思わず目を丸くして笑った。屋台という屋台から立ちのぼる湯気はしろい雲のように漂い、たくさんのおいしいにおいがふたりの頬を優しく撫でてゆく。
「とても美味しそうなものが並んでおります、あちらもこちらもいい香り……!」
どれも魅力的で、すぐには決められない。
それなのに、迷う時間さえ胸を弾ませる贅沢だった。
「えへへ、いい匂いのせいでお腹が鳴きはじめちゃった……!」
照れくさそうにお腹を押さえるラナにつられて、ラデュレもくすりと笑う。
不意に炭火の煙が細くたなびき、甘辛いタレの香りがふたりを誘うように流れてきたものだから、ついつい引き寄せられてしまう。
「この香ばしくて甘辛い香りは何でしょう……?」
「ラーレは焼き鳥屋さんが気になる?」
串に刺さった鶏肉は、焼き網の上でじゅっと音を立てるたびに艶を増して滴った脂が炭へ落ちてしろい煙を咲かせていく。その煙さえ食欲を運んでくるから、きゅう、とおなかが鳴ってしまいそうになる。
「焼き鳥、というのですか? そちらもいただいてみたいです」
「ふふっ。じゃあそこで食べよっか!」
暖簾を潜れば炭火は夕焼けの名残を閉じ込めたようにあかあかと燃えていた。
腰を下ろしたラデュレが、少しだけ残念そうに微笑む。
「わたくし、またお酒をいただけませんが……美味しいお飲みもので乾杯をしてみたいです」
「そっか! ラーレまだみせーねん? ってやつだっけ!」
自分よりもずっと大人びているから、彼女のことはずっと同い年ぐらいだと思ってしまっていたけれど。それなら、そうだ、と声を上げてラナはぱっと顔を輝かせた。
「お酒じゃないけどカンパイしたいから……ジョッキに入れてくださいってお願いして、焼き鳥は店主さんのオススメ盛り盛りにしてもらお♪」
「ジョッキに入れていただく、ですか……? なるほど、名案ですね……!」
ほどなくして運ばれてきたのは涼やかな果実の炭酸飲料をたっぷり注いだジョッキと、湯気を纏った焼き鳥の盛り合わせ。照り輝くタレは琥珀を溶かしたように艶めき、塩焼きには細かな結晶が星屑のように散っている。
「それじゃあ今日は好きな飲み物で一緒に、カンパーイ! しよっ♪」
「はい、乾杯……!」
澄んだ音を立ててジョッキが触れ合う。
えいやと思い切って焼き鳥を齧れば外側は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。
「んにゃは~~おいし~!!!!」
「本当に……! 甘くて香ばしいタレがとても美味しいです」
幸せそうに頬を緩めるラナを見てラデュレも自然と笑みを深める。ひとくち進めるたびに鶏肉の旨味が溢れ、甘辛いタレが舌を優しく包み込んでいく。炭火の香りは余韻となって鼻へ抜け、炭酸は心地よく喉を駆け下りた。
「部位ごとに食感も味わいも異なるのですね。何本でもいただけてしまいそうです……!」
「ほんと、いくらでも食べれちゃう♪」
気付けば皿は空になり、お腹だけではなく心までもが満ち足りて。人々の笑い声も、屋台を照らす灯りも、夜風さえどこか優しく感じられるよう。
ラデュレはそっと夜の街を見渡した。
屋台を楽しんでお腹も心も満たしたのなら、きちんとおつとめも果たさなくては。
「――よし! 沢山食べて元気いっぱい!」
「ええ。この、賑やかな場所の平穏を守るのです……!」
このあたたかな夜を守りたいという確かな願いを抱いて、ラナは元気いっぱいに拳を掲げて尻尾を嬉しそうに揺らす。
「サクッと依頼を終わらせて、もう一軒いこ~!!」
夜の博多にはまだまだ、湯気の向こうで待っているふたりの知らない美味しい物語が数えきれないほどに灯っていた。
●憧れ歩く
『甘味スキー同志』である不忍・ちるは(ちるあうと・h01839)とクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、賑わいのなかでもひときわ涼しげな空気を纏ったかき氷の屋台へと吸い寄せられるように歩み寄る。削られた氷がさらさらと器へ積もる音はまるで夏の雪が降る音のようだった。
「何にしますー? 九州名物のしろくまもありますよ」
「しろくま? ってかき氷だよね、食べてみたい!」
屋台に貼られた写真には真っ白な氷の上へ色とりどりの果物や練乳が贅沢に散りばめられている。興味津々に身を乗り出したクラウスへ、ちるははさらにメニューを覗き込みながら目を細める。
「博多すぺしゃる苺ましましもできるみたいです」
「それならせっかくだし苺ましましにしちゃおう」
出来上がりを待つ時間さえ少しわくわくする。
やがて運ばれてきたしろくまは見上げるほどに立派だった。
雪山のように盛られた氷へ練乳がしろく流れ落ち、その上には真紅の苺が惜しげもなく重なっている。つややかな苺のソースが陽を浴びた紅玉のように輝き、甘酸っぱい香りがふわりと鼻先を擽った。
「……わ、すごくおっきい」
「ふふ。食べきれなかったらお手伝いしますよ」
そんなやり取りまで、氷よりもやさしく口の中でほどけていく。
ひと匙すくえば氷は羽毛のように軽く崩れ、舌へ触れた瞬間に音もなく溶けていく。冷たさのあとから練乳のやさしい甘みがひらいて、苺の爽やかな酸味が夏空のように鮮明に広がっていった。
「そうだ、クラウスさんたちは博多で何食べました?」
「俺は今のところ、焼きラーメンと明太だし巻き玉子とおでんと……ふふ、思ったよりいっぱい食べてた」
「おお、博多らしいデートよいですね」
焼きラーメンの香ばしさに出汁の染みた玉子のやさしい味、おでんの湯気。クラウスが話すたびにその香りまで漂ってくるようだ。
おすすめのお店や立ち寄った場所を教えてもらえば、なるほどと頷きながらちるはは懸命にメモを取る。そういえばあそこのケーキも美味しかったですよ、と今度は自分の知っているおいしいものの情報を返せば、クラウスもまたひとつひとつを大切そうに抱いて。『食べたいものが増えたよ』と笑い合えば、ふたりの予定帳にはまだ見ぬ楽しみが増えていく。
やがてちるはは、思い出したように手首を差し出した。
「この前クラウスさんに『おそろい、すごくいい』って聞いて……一緒に作りました……」
照れくさそうに揺れるブレスレットは、提灯の灯りを受けてちいさな星のようにきらりと光る。それを見たクラウスの口元は笑みの形に綻んでいく。
「おそろい、幸せだよね」
その言葉へ何度も頷いてから、ちるはは続ける。
「あとお箸と米びつも見ました、ふふ」
「たくさん語った甲斐があったよ。少しでもふたりの幸せの役に立ったのならすごく嬉しいな」
誰かのさいわいを願う言葉は、あまい練乳よりもやわらかく胸へ染み込んでいく。
恋人たちの暮らしを思い描きながら語り合う時間は不思議とこちらまで温かな気持ちにしてくれる。
感化され、相乗効果のようにふくらんでいく幸せがすこしだけ擽ったい。未来の話をするたびに、世界はすこしだけやさしい色へと塗り替えられていくようだった。
大きなしろくまはなかなか減らない。せっせと食べ進めるクラウスは、ときどき『きーん』となった額を押さえて苦笑する。その様子にちるはも思わず笑ってしまい、またひと匙。苺はあまく練乳はまろやかで、氷は儚く消えていく。夜風はとても心地よく、屋台街の笑い声は絶えない。
あまいかき氷を囲みながら語る恋の話はまるで夏祭りの夜空へ咲く花火のように鮮やかだった。一瞬ごとにきらめいて、食べ終えたあとも胸の奥でやさしい余韻を灯し続ける、そんな幸福なひとときだった。
●びいどろグラス
橙の提灯は水面に揺れる月を細かく砕いたようなひかりを川へ零し、暖簾の向こうからは豚骨を炊き続けたしろい湯気が立ちのぼる。その香りは骨の旨味をじっくりと煮溶かした濃厚さの中へ醤油や葱の青い香気を織り込み、通りを歩くだけで空腹という名の扉を優しく叩いてくる。
鉄板では油が小気味のいい音を弾ませ、串が返されるたび香ばしい煙が夜風へ溶けていく。グラスが触れ合う澄んだ音、店主と常連が交わす威勢のいい声、観光客の笑い声。それらは皆、屋台街という一本の大きな楽譜へ書き込まれた音符のようだった。
「おぉ! 一度は来てみたかった中洲屋台街、いい匂いがして心踊るなぁ」
「おー……! さすが有名な屋台街。『景気づけに一杯』に相応しい舞台だね」
賀茂・和奏(火種喰い・h04310)はその景色を見回し、子どものように瞳を輝かせる。隣で歩く白水・縁珠(デイドリーム・h00992)もまた、視線を緩やかに巡らせた。
「お腹と心満たし気合い入れるにはぴったりだね」
屋台の暖簾が風に揺れる。
縁珠は迷いなく一軒へと歩み寄り、控えめな声で呼びかけた。
「大将、やってるー?」
「あ、暖簾くぐっての定番台詞」
その言葉に、和奏が思わず肩をちいさく揺らす。
ふたりが最初に目指したのは、事前に店を調べる段階で満場一致となった豚骨ラーメンの屋台。店内へ入れば寸胴鍋の蓋が開くたび乳白色の湯気が花のように咲き、長い時間をかけて炊き出された豚骨スープの香りが全身を包んでいく。鼻先とおなかを擽るそれは力強いのに角がなく、長年磨かれた職人芸のような丸みを帯びていた。
「縁はやっぱり豚骨だなー。わっきーは?」
「俺もここなら豚骨一択だなぁ」
和奏は迷うことなく追加トッピングを眺め始めた。バリカタで、高菜、紅生姜、きくらげも乗せて……卵はどうするか迷いもの。注文を聞いた店主が思わず吹き出しそうになるほど豪勢な内容に、縁珠は静かに目を丸くした。
「……え、トッピングメガ盛りははじめて見たんだけど」
「ふふ。縁さんは何トッピングする?」
「縁はそのままの味を楽しむから無し」
付け合わせも、店の味出るだろうから悩むのはわかるけどね、なんて。ちいさく零せば傍からは抑えきれない笑い声が溢れてくる。
ほどなくして目の前へ置かれた器から、濃厚な香りが湯気とともにふわりと立ちのぼり、ひかりを受けて淡い霞となる。琥珀色の油が表面で小さな星のように揺れ、刻み葱の緑が夜明け前の若葉のように映えていた。
「それじゃあ……いただきます」
並んで手を合わせて告げたなら、もうとても我慢なんて出来やしない。
和奏は麺を持ち上げる。細麺は黄金色のスープをまとって艶やかに輝いて、勢いよく啜れば小麦の香りと濃厚な豚骨の旨味が一気に口いっぱいに広がる。高菜の辛味が後から追い掛けて、紅生姜の爽やかな酸味が重たい旨味へ鮮やかな輪郭を与え、きくらげの心地よい歯応えが一杯に小気味よい拍を刻んでいた。
一方の縁珠は猫舌らしく、小皿へ少しずつ取り分ける。ふー、ふー、と丁寧に息を吹きかけ、慎重に温度を測りながら口へ運ぶ。その合間にも、視線は屋台街を行き交う人々や、隣の屋台から漂う焼き物の煙へ静かに向いていた。
「(ふふ、猫舌和む)」
その様子を横目に見た和奏は、心の中だけで微笑んだ。
「奏さんビール派? 焼酎? ワイン?」
今日は飲まないのって聞くのは野暮かも。だから、スープと一緒に飲み込んだ。
不意に齎された問い掛けに和奏は一瞬だけ考えて、麺をきちんと咀嚼し終えた後に口を開く。
「お酒は食べ物に合わせるかなぁ。餃子だと酎ハイとか……今日はご飯メインだけども」
「ふーん。そういうのって一本貫くものと思ってた」
「縁さんも飲めるようになったら、好きな相性探すのも楽しいよ」
縁珠は器の中を見つめたままちいさく頷く。
「……にしても相変わらずの食べっぷり」
話している間も和奏の箸は止まらない。湯気ごと美味しさを迎え入れるように麺を運び、器の中身はみるみる減っていく。その食べる姿には豪快さよりも、食事そのものへの素直な敬意があった。
ふと縁珠が思い出したように小首を傾ぐ。
「稲りんと青やんは……一般人が多いからお留守番かな?」
「屋台では出せなくても、俺の中で味わってるんじゃないかな」
目には見えない。
けれど、彼の傍らには雷を纏う狐の神霊と風を抱く青い瞳の烏が静かに寄り添っているような気配があった。夜風が一筋だけ優しく髪を揺らし、誰にも気付かれぬままふたつの存在が同じ景色を眺めているようだった。
だから、縁珠は思い出したように小さな包みを持ち上げる。
「……ね、ね、さっきフライングして焼き鳥買ったんだ。後で四人で食べよー」
「焼き鳥! いいね」
「……あ。名前は鳥だけど……豚バラもズリもあるよ青やん」
烏のかたちをした青への気遣いに、和奏は堪らずくすりと笑う。
「ありがと、青君は多分気にしないと思うよ」
豚骨の余韻を楽しみながら器を置いた和奏は替え玉の札へ一瞬だけ視線を向ける。
頼めばまだまだ食べられる。
けれど、今夜はこの屋台街そのものが大きな晩餐だったから。
「そだ、軽いデザートやコーヒー出す屋台もあるらしいけど。後でのぞいてみない?」
「え、『まずは外せない』ってホントに先ずは、だった件?」
ふたりの前にはあまい香りも香ばしい珈琲も、夜風に揺れる数え切れない暖簾も待っている。歩き出そうとしたその時、縁珠は川向こうの灯を見つめたまま、ちいさく呟いた。
「……白水家に縁がある土地らしい、ここ」
その声音は淡々としていたが、夜風はほんのすこしだけ静かになった気がした。
「遠い親戚には、もう関わりたくないけど……一般人が巻き込まれるのは見過ごす理由にはならんよね」
和奏はその横顔をただ静かに見つめていた。元よりこの地の人達に被害を出さない為に来たけれど、彼女の決意はとても尊いものだと思うから。
「うん、漏れなく断とう」
提灯のあかりは変わらず温かく揺れている。
誰かが笑い、誰かが乾杯し、誰かが今日という一日に満腹の幸せを見つけている。その当たり前の夜を守るためにここへ来たのだからと、縁珠は静かに頷いた。
「待ち伏せからの迎撃なら、スナイパーに任せんしゃい」
さっきまで頬をくすぐっていた豚骨の香りは、今では戦いへ向かうふたりの背中を送り出す餞別のようだった。
温かな湯気、賑わう笑い声に焼き鳥を包む紙袋のぬくもり。
そのすべてを胸へしまい込み、ふたりは夜の人波の中へと歩き出す。中洲の灯火は帰る場所を知る者だけに向けて、変わらず優しく瞬いていた。
●苺のゆらめき
賑わいというものに形があるのなら、それはきっと夜の中洲を流れるあかりの川に違いない。リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)は思わず足をぴたりと止めた。
「わあ」
見渡す限り並ぶ屋台、人、人、人。行き交う肩が触れ合うたび、焼き鳥の香ばしさや出汁のあまい香りが風に乗って鼻先を擽る。借りられてきた兎のように鮮烈なあおい瞳をきょろきょろと巡らせ、何もかもが初めてという顔で辺りを見回した。
「いやぁ賑やかですねぇ」
その隣で徒々式・橙(花緑青・h06500)はリリアーニャの様子を見てくすくすと微かな笑みを零している。
「不穏な気配もありけりですけど、とりあえず楽しみましょうか」
そう言って自然にリリアーニャの手を引いてくれる。その手は急かすでもなく、迷子にならないよう寄り添う程度の優しい力加減だった。
橙は空いている屋台を見つけると、近くの客へと笑顔を向けた。
「お邪魔しますよー」
その一言だけで輪の中へ溶け込めてしまうのは、きっと彼の人柄なのだろう。酒を片手にした常連たちもと笑って席を詰めてくれる。リリアーニャもちょこんと腰掛けると、店主が威勢よく声を掛けてきた。
「何にする? ……って、早速おすすめ聞いてる!」
リリアーニャがそわそわとしている間にも、橙は店主おすすめの焼き鳥を何本か頼んでいる。炭の上で焼かれる鶏肉は、じゅうっと脂を落としながら黄金色へ染まり、その香りだけでお腹が鳴りそうだった。
「明太子入りのたまご焼きも気になるの。あとは梅酒を頼もうかしら」
「じゃあそれも頼みましょう。あ、私も梅酒にしまーす」
やがて卓へ並んだ料理たちは、夜をちいさく切り取ったかのように賑やかだった。
照りを纏った焼き鳥はぱりりと香ばしく、噛めば肉汁がじゅわりと舌へほどける。明太子入りの玉子焼きは箸を入れるだけで湯気がふわりと立ちのぼる。出汁の優しい甘みの中からぷちぷち弾ける明太子の塩気が顔を覗かせて、その温もりは冷え始めた夜風さえ忘れさせるほどだった。梅酒は琥珀色の月を閉じ込めたように揺れ、含めば梅の甘酸っぱさが喉を優しく撫でていく。
杯を重ねるうち、リリアーニャの頬はほんのりさくらいろに染まっていった。
「ふわふわしてきちゃった。なんだかとってもたのしい!」
笑顔まで柔らかく蕩けている。
料理に舌鼓を打っていた橙は、その様子を見て思わず目を細めた。
「だい、なにをたべてるの? やきとり?」
「ほら、リリ。苺のジュースも頼んでおきましたからとりあえずこれ飲んで」
あかく透き通る苺のジュースは夜店の灯りを映して宝石みたいにきらきらとひかっているけれど、兎が気になっているのはあなたが口にしているもの。
「わたしもたべたあい」
「串が刺さらないように気をつけてくださいよ?」
「へいきよ。いっしょの『おいしい』をたのしみたいのっ」
同じ串へ伸びる手。同じ味に笑う時間。誰かと分け合う料理はひとりで食べるよりもずっとずっと温かい。
リリアーニャは今度は玉子焼きを箸で持ち上げ、ふにゃりと笑った。
「たまごやきもおいしいのよ。はい、あーん」
「……ああ、卵焼きはひとくちください」
その様子を見ていた周囲の酔っぱらいたちは『仲いいねえ!』『若いっていいなあ!』と笑いながら囃し立てるものだから。リリアーニャは酔いに任せて嬉しそうに笑って胸を張った。
「ふふー、なかよしなの!」
その無邪気な宣言に、橙も珍しく肩を竦めながらにこりと応じる。
「そ、ナカヨシさんなので邪魔しないでくださいよ?」
――なんてね。
その一言に屋台中がどっと笑う。
居心地のいいひとと囲む食卓は、料理だけでは満たせない心まで温めてくれる。そんな当たり前で何より贅沢な時間が、提灯のあかりの下でゆっくりと更けていった。
●ひかりの温度
笑い声や鍋の煮える音、焼き台で爆ぜる脂の香りが折り重なって夜を彩る。賑わいは祭囃子のようにひとの心を軽くし、任務のために訪れたはずのジョーニアス・ブランシェ(影の守護者・h03232)も微かに頬を緩ませた。
来れて良かったと思う。出来ることならばこの景色を親友と肩を並べて眺めたかったが――幸い土産話には困ることがなさそうだ。
軒を連ねる屋台を見渡し、豚骨ラーメンの湯気に心惹かれながらも耳にしてきた評判を信じて水炊きの暖簾を潜る。木の椅子や年季の入ったカウンターには不思議な温もりがあり、人と人との距離まで近づけてくれるようだった。
「なかなかいい感じじゃあないか」
隣に座る見知らぬ客へ軽く会釈を送り、勧められるまま焼酎を一杯。それから名物だという酢モツと水炊きを頼んだ。
澄んだ焼酎を口へ運べばふわりと甘い香りが鼻を抜けて喉の奥でやわらかな熱へと変わっていく。続けて酢モツをひと口噛めば、艶めくモツは驚くほど柔らかく、爽やかな酸味が脂の甘さをすっと包み込んでいく。刻み葱や柚子胡椒の香りが後味を軽やかに整えてくれた。
周囲の笑い声や『替え玉!』と飛び交う威勢のいい声をBGMに、お隣さんや店主と言葉を交わす時間は実に気安いものだった。
やがて土鍋が運ばれてくる。
蓋を開けた瞬間にしろい湯気が咲き、鶏の旨味を幾重にも溶かし込んだ濃厚な香りが夜気を満たす。黄金色のスープは艶やかに輝いて、ひとくち含めばまろやかな旨味が舌をやさしく包み骨の髄まで温めるように身体へ染み渡る。ほろりと崩れる鶏肉はしっとりと柔らかく、野菜の甘みがその滋味へと静かに寄り添っていくようだった。
「これは酒が進んでしまうな」
思わず零れた本音に苦笑して杯へ伸びかけた手を止める。この後に待っているのは命を懸けた戦いなのだから、まだ酔いに身を預けるわけにはいかない。最後は鶏の旨味を余すことなく吸った雑炊で締める。米粒のひとつひとつが黄金の雫を抱き、刻み葱と卵のやさしい香りが疲れた心まで満たしていく。空になった土鍋を前に息をつけば、腹も気持ちも不思議なほどに軽くなっていた。
●さいわいを溶かして
立ちのぼる湯気はまるで旅人を歓迎する見えない手招きであり、一歩踏み入れるだけで胸の奥まで空腹が目を覚ます。燦爛堂・あまね(絢爛燦然世界・h06890)はひとの営みをぐるりと見回し、螺鈿煌めく瞳をいっぱいに輝かせた。
「なんて美味しそうな香り! 端から端まで制覇を――、」
弾む声は次の瞬間、ちいさく咳払いに変わる。
「……いえいえ、大事なお勤めで御座いますものね」
浮つくこころを宥めつつ、それでも尾の先だけは嬉しさを隠しきれずにふわりふわりと揺れていた。
「(ふふっ。わたくし、屋台でらーめんを啜ってみたかったの!)」
お品書きは墨文字のひとつひとつが食欲を描く絵筆のよう。どれもこれもがきらめいて見えてしまって、あまねは迷った末に手練と思しき隣席のご老人へ小声でこそこそと尋ねた。
「あのう、おすすめって……とんこつらーめん!」
その即答に思わず頬が綻ぶ。
「ならばわたくしも是非それを」
店主が威勢よく応じる中、さらに目に留まった文字へ声を弾ませた。
「とっぴんぐ……とろとろの煮卵!? まあ素敵! それも下さいな」
やがて運ばれてきた一杯はちいさな丼いっぱいに黄金色の幸福を湛えていた。
乳白色の湯気は芳醇な香りを抱えて、艶やかな麺はひかりを絡め、刻み葱の青が夜空の星のように映える。ふう、ふう、と息を吹きかけるたび、湯気が頬を擽っていく。麺を啜ればもっちりとした歯触りの向こうから豚骨の旨味が波のように押し寄せて、濃厚だけれど柔らかな甘みが舌を優しく包み込んだ。
「――お、おい、しい……!」
感嘆とともに尻尾も『ぴぴん!』と一直線。卵の黄身は夕焼け雲のようにほろりと崩れ、旨味を吸った白身は噛むほどに温かな余韻を返してくれる。
「お汁に浸かった玉子もなんて美味しいの、染み渡るとはこの事でしてよ」
賑やかな笑い声も、夜風の涼しささえ一杯の御馳走へ溶け込んで屋台というちいさな世界を幸福で満たしていた。
「ううっ、我慢が……すみません、餃子も下さいな!」
今度は耳まで嬉しそうに揺れる。
あまねの笑顔は提灯のあかりにも負けぬほど朗らかで、博多の夜を一枚の鮮やかな絵画へと塗り替えていた。
●密心
中洲の屋台街へ足を踏み入れた途端に軒先に連なる提灯の朱が夜気へ溶け、川面へ零れたあかりは幾千もの金魚のように揺れている。人々の笑い声は波紋となって通りを巡り、鉄板を叩く音や鍋の湯気、店主たちの威勢の良い呼び声が幾重にも重なり合ったなら、それはまるでひとつの大きな楽団が街そのものを奏でているかのようだった。
夏風へ豚骨を炊き続けた濃厚な香りが溶け込み、焼き鳥の焦げる香ばしさや甘辛いたれのにおい、揚げ油の弾ける香りが次々と鼻先を擽る。そのひとつひとつが食欲という名の扉を軽やかに叩き、まだ何も食べていないというのに舌の奥へ期待を灯していく。暖簾は色鮮やかな花々のように軒を飾り、赤提灯は熟れた柿の実にも似た温かなひかりを揺らしていた。
人と人との距離は近く、それでいて窮屈さはない。笑顔が行き交うその隙間を、出来立ての料理が湯気を纏って滑るように運ばれてゆく。
「如何ですか弦正さん、去年行った秋祭りの屋台とはまた雰囲気が変わるでしょう」
隣を歩く躑躅森・花寿姫(照らし進む万花の姫・h00076)が声を弾ませながら振り返る。提灯のあかりを受けた薄桃色の髪は、夜咲く芍薬の花弁のように柔らかなひかりを纏っていた。
「√妖怪百鬼夜行の飲み屋街を歩いた事が御座るが、どちらかと言えば其方に似た趣だ」
鬼臨坂・弦正(金輪際・h07880)は辺りを静かに見渡しながら口を開く。
「人と料理が犇めき合うかの如き空間。無秩序な様でいて調和を感じ、嫌いではない」
雑多でありながら不思議と乱れぬ景色は、まるで様々な色糸を織り込んだ一枚の織物だった。誰もが思い思いに食べ、笑い、語り合う。それぞれが違う時間を過ごしているのに、屋台街というひとつの鼓動を分かち合っている。
「何処から入る。先ずは矢張り『らーめん』か」
「色々な屋台巡りましょうね……そうですね、まずはラーメンですね!」
自然と顔を見合わせる。
目が合えば花寿姫は照れくさそうにはにかみ、弦正も僅かに口元を和らげた。言葉よりも先に頷きが重なり、そのまま名物だという焼きラーメンの屋台へと歩み寄る。暖簾を潜れば、鉄板から立ち昇る湯気が歓迎するようにふたりを包み込んでいく。
今だけは、戦いも使命も少しだけ遠くへ置いていこう。
そんな時間が、この街にはよく似合っていた。
「焼きラーメン私も食べるの初めてなのでわくわくです!」
店主が豪快に麺を鉄板へ広げれば、じゅわりと豚骨スープが注がれた瞬間に熱せられた鉄板が歓声を上げるように音を立てた。炒められる麺が踊り、もやしや玉ねぎ、青ねぎが鮮やかな彩りを添えてゆく。香ばしさの中へ白濁した豚骨の深い旨味が立ちのぼり、鼻腔を満たす香りだけで幸福が胃袋へ流れ込んでくるようだった。
その音色へ耳を傾けながら、ふたりは品書きを覗き込む。
「花寿姫殿が勧めていた明太入りの出汁巻卵も有るぞ」
「はい! その辺りも共に頂きましょう。どれもこれも美味しそうです!」
「他に一口餃子、串物の盛合わせ……分けて喰おう」
次々と運ばれる料理は、まるで宝箱を開けるたび新しい輝きが現れるようだった。
焼きラーメンは黄金色に照り、細麺へ豚骨の旨味が艶やかに絡む。出汁巻き玉子は箸を入れただけで湯気を零し、ふわりと開けば琥珀色の出汁が滲んで、その中心には明太子が鮮やかな朱を咲かせていた。一口餃子は羽根が薄氷のように軽く、噛めば肉汁が弾けていく。串物は炭火の香りを纏い、肉も野菜も瑞々しさを閉じ込めている。
能く冷えた烏龍茶が卓へ置かれる。
氷がからん、と軽やかな音を鳴らし、夏の熱気へ一筋の涼を落とした。
「乾杯」
「はい。乾杯、です!」
澄んだ音は、ちいさな鈴のように夜へ溶けていく。
花寿姫は早速焼きラーメンを頬張った。麺はもちりと弾み、噛むたび豚骨の濃厚な旨味が舌いっぱいに広がる。野菜の甘みがその奥行きを優しく支え、香ばしく焼き付いた麺の風味が食欲をさらに呼び起こしていた。
「ん~焼ラーメン美味しいです! 麺や野菜に豚骨スープの旨味がよく絡んで……一品料理もどれも絶品で~!」
その笑顔を見つめながら、弦正も静かに箸を進める。出汁巻玉子は口へ含んだ瞬間、春先の霞がほどけるように柔らかく崩れた。染み渡る出汁の優しさへ明太子の塩気が花弁の一枚を添えるように重なり、餃子は軽やかな皮の奥から熱い肉汁を溢れさせる。
「……人と食事をするという事がこれ程心安らぐものだとは」
「一人で食べ過ごす時間も愛おしいものですが、誰かとお喋りしながら食べる料理も美味しいものです」
どの料理も今日という一日を労う言葉を持たぬ代わりに、その温もりを味へ変えて届けてくれているようだった。
「貴女が連れ出してくれる迄、知らなかった」
その一言に、花寿姫の胸はほのかな熱を帯びていく。
「特に友達なら……ね?」
「……そうだな」
少しだけ照れながら微笑めば、弦正も穏やかに頷いた。卓へ並ぶ料理を見渡しながら、静かにことのはを紡いでいく。
「誰と卓を囲むか、という事も。味わいに大きく寄与するのやも知れぬ」
料理は変わらない。けれど隣に座る誰かひとりの存在で、その味は季節ほどにも姿を変える。笑い声は最高の隠し味となり、他愛ない会話は湯気へ溶け込む香辛料になる。温かな時間とは、きっと舌ではなく心で味わうものなのだ。
食べ終える頃には、まだまだ屋台街のあかりは賑わいを深めていた。
「もつ煮込み、天ぷら、おでん……等々。まだ喰うべきものは有る」
「ええまだまだ食べたいものは沢山ございます!」
「次は何処へ?」
弦正が問えば、花寿姫は瞳をきらきらと輝かせる。
「明太子の天ぷらなどもあるそうですし、もつ鍋もよろしいですね! おでんも普段食べるのとはまた違った味わいのだしのようです!」
夜風はまだ温かく、提灯は変わらず街を照らしている。香ばしい匂いの向こうには、まだ知らない美味しさが幾つも待っているに違いない。
「さあどんどん食べましょう! 夜もお腹もまだまだこれからです!」
花寿姫は一歩先へ駆けるように歩き出し、その背を追う弦正の足取りも先ほどより幾分軽い。
「(――いつか、恋人として共に歩きたい……な。なんて……今は、内緒)」
胸の奥でそっと芽吹いた想いは提灯のあかりよりも淡く、夏夜に咲く蕾のように静かだった。
屋台街には今日も笑い声が満ち、美味しい香りが夜空へ昇ってゆく。その灯の列は明日へ続く星々が地上へ降りてきたかのように、ふたりの歩む道を優しく照らしていた。
●夜だまり、きみと
「やってきました屋台街、いっぱい食べようね璃亜!」
こんな風にお出かけできるなんてゆめみたいだと真白・璃亜(風花の冒険者・h09056)が笑えば、ネメシア・ヘリクリサム(剣と共に歩み、息づき、愉しむ人生・h08297)の頬もぱっと喜色に染まっていく。
「わーい! 美味しそうな屋台がいっぱいだぁ! 一緒に楽しもうね、ネメシアさん!」
「うんっ!」
胸いっぱいに空気を吸い込めば美味しいにおいが広がって、それだけで幸福が体の中へ染み込んでくるようだ。
「さて、パンフに載ってるこのお店どれだろ……あっ、あれだ!」
「本当だぁ!早速行ってみよ!」
暖簾を潜れば目の前では職人の手によって衣をまとった具材が黄金色の油へ沈み、ぱっと花火のように泡が咲く。じゅわりという音は耳まで美味しく、立ちのぼる湯気には小麦と胡麻油の香ばしさが溶け込んでいる。
「目の前揚げたて天麩羅なんて最高!」
「博多といえば明太子だよねぇ! 明太子の天麩羅って初めて知ったんだよー」
揚げたてが皿へ置かれた瞬間、衣がちいさくぱちりと鳴る。
「私は名物の明太天麩羅を食べようかな、夏の夜に大葉の爽やかさを添えて!」
衣を割ればぷちぷちと弾ける明太子が湯気とともに顔を覗かせる。塩気と旨味、そのあとから追いかける大葉の青い香りが口いっぱいに駆け抜けた。
「璃亜は地魚の天麩羅? なんの魚だろ?」
「うーん。何のお魚だろうね?」
さくり、と軽快な音。
ふわりとほどける白身は驚くほど柔らかく、甘みが舌の上で静かに広がっていく。
「これは……わかんないけどめちゃんこ美味しいよー!」
思わず頬が緩み、なんだかおかしくてたまらなくなって。ふたりは顔を見合わせて笑いあった。
「……璃亜も気付いてた? やっぱり香ってくるよね、豚骨スープ……!」
「だよね、だよね! 豚骨の匂いに食欲が刺激されているんだよ!」
屋台を後にして歩き出すと、今度はどこからともなく濃厚な香りが漂ってくる。
しろく立ちのぼる湯気の向こうから豚骨を何時間も炊き上げた、深く豊かなにおいが夜道を満たしていた。
「行っちゃう? ……ようし、お次はラーメンだ!」
「わーい! 行こ行こ! 突撃ー!」
湯気に迎えられながら腰を下ろすと、ほどなく丼が運ばれてくる。乳白色のスープは月あかりを溶かしたように艶やかで、細麺が静かに沈んでいる。
「この身に染みるこってりスープ! 暑いのに夢中になっちゃう!」
ひと口啜ればとろりと濃厚な旨味が舌を包み、後から豚骨の甘みと香味油の香ばしさが幾重にも重なって広がった。
「ほぁぁ……幸せのお味……!」
熱々の麺を頬張る璃亜の頬はほんのりさくらいろに染まり、夢中で麺を啜る姿にネメシアにも自然と笑みが溢れていく。
「璃亜はこういうのどう?」
「豚骨もラーメンもだーい好き! ネメシアさんと一緒だともっと美味しく感じるなぁって!」
その言葉はどんな調味料よりも温かかった。
美味しい料理は人を笑顔にする。でも、その笑顔を誰かと分け合えることこそ、一番のご馳走なのだろう。
「お腹いっぱい! と言いたいけど……実は明太オムレツも調べてあってさ。バターたっぷりらしくて美味しそうで……!」
欲張っても良いかなあ、なんて。
遠慮がちに口を開いたネメシアはこそりと璃亜を覗き込む。
「ねぇ璃亜、まだいける? ふふっ、この時間をまだまだ楽しもう!」
「いけるいける! まだまだたくさん入るんだよー! バターたっぷりの明太オムレツも一緒に食べよう!」
夜はまだ終わらない。
提灯は変わらず柔らかな光を揺らし、新しい香りが次々とふたりを誘っていく。
「(嬉しいなぁ。楽しいなぁ。ずーっとこうしていたいぐらい!)」
璃亜は幸せそうに目を細め、胸の内でちいさく呟く。賑やかな笑い声も、屋台の明かりも、なにもかも。そのすべてがふたりの思い出をひと皿ごとに優しく彩っていた。
●月星は瞬いて
「中洲グルメ、二人でけっこう色々行きましたが……」
シンシア・ウォーカー(放浪淑女・h01919)すこし考え込むように指を折り、次の瞬間には星の双眸をぱっと輝かせた。
「境華さん、私たちまだ餃子食べてないです! 食べたいです! 食べましょう!」
「屋台で餃子も出されているのですね。……わっ、」
その勢いのまま神隠祇・境華(金瞳の御伽守・h10121)の手を取って歩き出すものだから、境華はすこし驚いたように屋台を眺め、それからくすりと楽しげに微笑んだ。
「ふふっ、そんなに手を引かなくても、屋台は逃げないと思いますよ」
「逃げないと頭ではわかっていてもはやる気持ちは抑えられぬものです。――お邪魔します!」
暖簾を潜ると鉄板の熱気がふわりと頬を包む。
店先では次々と餃子が包まれていた。職人の指先は淀みなく皮を開き、餡を乗せてはひだを寄せていく。その動きは紙細工を折るようにうつくしく、並んだ餃子は小舟のような姿で焼き上がりを待っていた。
「目の前で包まれていると、なんだかより美味しそうに見えますね……」
境華は感心したように店主の所作を見つめる。壁の品書きに視線を向ければ王道の焼餃子はもちろん、香り豊かなニラ餃子や肉汁をたっぷり閉じ込めた棒餃子、透き通るような皮の水餃子まで実に多彩だ。
「種類が豊富ですけれど、まずは王道の焼餃子を」
「最初は王道からですね! わあ、黄金色の羽根と聞いてはいましたが本当に……!」
運ばれてきた皿を見たシンシアは思わず目を細める。餃子の底を繋ぐ羽根は飴細工のように繊細で、照明を受けて黄金色に輝いていた。ぱちりと箸を入れれば心地よい音を立てて割れ、その香ばしさが湯気とともに立ちのぼっていく。
「香りも見た目も美味しそうです」
焼き目から漂う香ばしさに、肉汁を予感させるあまい匂いが鼻先へ届くだけで頬が緩んでしまう。
「ちなみに私餃子は醤油+ラー油派なのですが、境華さんは?」
「私は酢醤油に、ラー油を少しだけでしょうか」
小皿へ注がれる調味料が琥珀色に揺れていく。
「焼餃子も好きですが、水餃子もかなり好きです。つるりとした皮と、温かい餡の感じが良くて……」
穏やかに語る境華の横で、シンシアは鉄板を見つめて笑う。餃子がじゅう、と音を立てるたびに油がきらめき、立ちのぼる湯気はしろい雲のように揺れている。その音だけでも十分なご馳走だけれど、
「やはり実食こそ至高! いっただきまーす!」
揃って熱々の餃子を頬張れば羽根は軽やかに砕け、もちりとした皮が歯を受け止める。次の瞬間には閉じ込められていた肉汁が弾け、豚肉の旨味と野菜の甘みが舌いっぱいへ広がった。大蒜の香りは力強く、それでいて後味は驚くほどにまろやかだ。醤油のコクとラー油の辛み、酢の爽やかな酸味が折り重なって、ひとくちごとに箸が止まらなくなる。
「んー! あっついけどおいひいですねっ」
「……熱い、です。けれど、とても美味しいです」
頬を押さえながら笑うシンシアに、境華もすこしだけ息をつく。
その言葉通り、熱ささえも幸福の一部だった。
「これは、一皿簡単に食べ切れてしまいますね」
皿の上はあっという間に空いていく。屋台の向こうでは誰かが笑い、川風が提灯を優しく揺らした。夜はまだ始まったばかりで、美味しい香りも楽しげな声も尽きる気配がない。
「水餃子も行っちゃおうかしら……!」
名残惜しげに品書きに目を向けたシンシアの言葉に境華はちいさく頷き、月の双眸を和らげた。
「水餃子も頼みましょう。あと……棒餃子も」
顔を見合わせたふたりは思わず笑い合う。
次に運ばれてくる湯気も香りも、きっとまた新しい物語になる。博多の夜は、温かな餃子のように人と人との距離をやわらかく包み込みながら更けていくのだった。
●ひとさじのかくしあじ
「見て見て芥さん、屋台がいっぱい! 美味しそうな匂いに満ちてるんだよ……!」
夜鷹・芥(stray・h00864)は橙色に滲む光景を眺めながら、軽やかな足取りで歩く降葩・璃緒(花ひらり・h07233)の後をついていく。弾んだ声に視線を向けたなら、はなのいろを宿した瞳は提灯のあかりを映して星よりもきらきらと輝いていた。
「何から食べようかなぁ。あそこは明太子の玉子焼き、向こうは鶏皮……どの屋台からも呼ばれてる気がする」
「じゃあ気になる屋台全部行こうぜ、二人で分けながら味見したらいい」
屋台から立ちのぼる湯気はしろい手招きのようで、焼き網の上で弾ける脂はちいさな拍手のよう。胃袋まで誘われるその光景に、芥も自然と口元を緩めながら暖簾を潜った。
「うう、お腹の虫が今にもお返事したがってる……!」
「俺もすげぇ腹減ってる。……腹の虫で返事しちゃうんだ?」
「だって全部美味しそうなんだもんっ」
ころころ変わる表情が可笑しくて、普段は乏しい芥の声音にもほんの僅かな笑みが混じる。
「芥さんはどれ食べたい?」
「……まず鶏皮食いたいかな。明太玉子焼きとおでんも……多すぎか?」
炭火で焼かれた鶏皮は琥珀色に輝き、噛めばぱりりと小気味よい音を立て、そのあとに溢れる脂の甘みが舌を満たす。
明太子入りの玉子焼きは箸を入れるだけで湯気を溢し、ぷちぷち弾ける辛子明太子と出汁の優しい甘みが重なる。おでんは透き通る琥珀色のつゆを纏って、大根は箸先だけでほろりと崩れ、熱い旨味が身体の芯まで染み渡っていくようだった。
「まぁ、今日は璃緒がいるから大丈夫だろ」
「うんっ! 二人ならぜーんぶ食べられちゃうんだよ!」
ちいさな身体と思えぬ食欲に思わず肩を揺らしながら、ふたりは次々と屋台を巡る。
「(前に屋台飯行こうって話してたが、思ったより早く叶って良かったな)」
そう胸の内で呟く芥の隣で、璃緒は次の目的地を指差した。
「あのね、ボク本場の豚骨ラーメンは初めてだから絶対に外したくなくて! 他の食べたら最後に行こ?」
「お、気が合うなー璃緒。俺も締めは豚骨ラーメンかなって思ってたんだ」
「ほんと? 良かったー!」
夜も更けた頃に一軒の屋台で待っていたのは、湯気を纏ったしろい丼だった。
「わぁ……スープが輝いて見えるんだよ」
輝くスープに分厚いチャーシュー。乳白色の豚骨スープは月あかりまで溶かし込んだように艶めいている。細麺を持ち上げれば湯気が頬を擽り、鼻先へ届く濃厚な香りの奥に仄かな魚介の上品な余韻が息衝いていた。
「うまい……!」
ひとくち啜ればとろりとした旨味が舌を包み、細麺が心地よい歯切れを残して喉を滑っていく。噛むほどにほどけるチャーシューの脂は甘く、刻み葱の爽やかさが後味を引き締める。その一杯は、歩き続けた夜の締めくくりにふさわしい幸福そのものだった。
「はっ、一口啜っただけのはずなのにもう半分になってる……?」
「……あっという間にスープが無いぞ璃緒?」
顔を見合わせて笑い合う。
「よし、俺の焼豚一枚分けてやろう」
嬉しそうに頬を綻ばせる璃緒を見ていると、自分まで不思議と満たされていく。
「ほんとっ? やったぁ、ありがとうっ」
受け取ったチャーシューを大事そうに頬張る璃緒は、まるで大切な宝物を味わうちいさな子どものようだった。
「へへ、芥さんには絶対に良い事が起こるんだよ」
その無邪気な言葉が、温かなスープよりも静かに胸へと沁み込んでいく。
「んー、美味しい!」
「ああ、美味いな」
屋台街の笑い声は夜風に乗り、提灯は穏やかに揺れ続ける。満たされた胃袋と、気のおけない友人同士で食卓を囲む温もり。そのどちらもがこの夜を何より美味しくする隠し味に違いなかった。
●こころをほどいて
賑わいの中を歩くセレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)は、どこか肩を強張らせていた。
教皇に侍る使徒人形。その肩書きだけで胸の奥にちいさな影が差すようで。隣を歩くカシエル・アズリオン (Blue Grace・h12926)は穏やかな微笑みを浮かべているというのに、心はまだ警戒を解けぬままでいた。
「ふふ、わたくしは猊下に侍る者ではありますが。貴女様に仇為す存在では御座いません」
「……すみません。あなたが悪いわけではないのですが、つい……」
柔らかな声は水面へ落ちる花弁のように静かだった。俯いた銀の髪を、夜風がそっと揺らしていく。
「どうぞ肩の力を抜いて。今は屋台を楽しみ――襲撃者を撃退する事が役目で御座います」
そう言ってカシエルは両のてのひらを隠すことなく見せて敵意など微塵もないことを示すように微笑む。慈愛に満ちたその笑みは、曇天の隙間から射す陽光のような温もりを宿しているかのようだった。
「そう、ですね……今は、やるべきことがありますもん、ね」
自分へ言い聞かせるように頷けば、漸くセレネは周囲へと目を向ける。
すると途端に鼻先を擽る香りが、からっぽだったお腹へ優しく火を灯した。焼き鳥の煙、豚骨の湯気、あまく焼ける玉子焼き。まるで何れもが『こちらへどうぞ』と手招きをしているようだった。
「さあ、空腹を刺激する香りが広がっております。何かお好みのお料理はございますか?」
うつくしいあおいろの瞳が楽しげに細められる。
なんだか見透かされているようで、ほんの少しだけ恥ずかしい。
「好みかは、わかりませんが……餃子が気になります、ね」
「では、餃子の屋台に参りましょう」
差し出された手はあまりにも自然で、押しつけがましさがなかったから。セレネは逡巡したあとに、その温もりへ恐る恐る指先を重ねた。
屋台では丸い鉄鍋に餃子が整然と並び、熱せられた油が『じゅうっ』と歓声を上げる。水が注がれれば蒸気がふわりと立ちのぼり、小麦の香りがあまく膨らみ辺りを柔く包み込んだ。
ぱちぱちと跳ねる油の音。湯気越しに覗くこがねいろ。香ばしさに胸が弾み、セレネは思わずほう、と感嘆の息を吐く。
「いただきます……、……! おいしい……」
ひとくち噛んだ瞬間に香ばしい皮が軽やかに砕け、中から熱々の肉汁がじゅわりと溢れ出す。甘みを帯びた野菜と旨味の濃い餡が舌の上で溶け合い、湯気とともに幸福が胸いっぱいへ広がっていく。
「大変食べ易く、美味しゅうございますね」
「はい、一口サイズで食べやすい、ですね」
熱い餃子をふうふうと冷ましながら頬張る姿に自然と笑みが浮かぶ。夜風は頬を撫で、提灯のあかりは餃子の焼き色をいっそう黄金に染めていた。
「わたくしは決められた場所で食事をするのが常でしたが……」
不意にぽつりと漏らされた言葉へ、セレネは目を瞬かせる。
「……? 決められた場所で……? あまりお外で食べられた事、ないのですか……?」
「ええ。偶にはこうして、外でいただく食事も楽しいですね」
その声にはいつもより少しだけ柔らかな温度があった。屋台の喧騒も、人々の笑い声も。鉄板の音も、すべてが食卓を囲む賑やかな音楽のように耳へ心地よく響く。何時しか緊張の解けたセレネの様子を見つめ、カシエルは穏やかに頬を緩めた。
その笑みを見返しながら、セレネもちいさく笑う。
閉ざされた世界しか知らなかった彼が、この夜の景色を少しでも好きになれたのなら。湯気の向こうに揺れるあかりも香ばしい餃子の匂いも。川風に混じる人々の笑い声も、その記憶の一頁になれたのなら――それはきっと、悪くないこと。
あたたかな想いを胸に、ふたりはもうひとつと熱々の餃子へ箸を伸ばす。
夜の博多は賑わいながら更けて、穏やかな時間は提灯の火に守られるように静かに輝き続けていた。
●明くる日も杯を交わして
「ラーメンはシメで食うとして、鉄板焼きもおでんも気になるな……」
暖簾の隙間から漏れる灯りに誘われるように歩きながら、ヴォルケ・ナクア(慾の巣・h08435)は鼻先をひくりと動かす。その傍らで渡瀬・香月(Gimel店長・h01183)も屋台を見渡し、湯気の向こうに揺れる鉄板へと視線を向けていた。
「ラーメンといえば焼きラーメンってのがあるっぽいけど知ってる? 食ったこと無いから気になるわ」
「……おい、そんな事聞いたら焼きラーメンも気になってくるじゃねぇか」
聞いた瞬間に空腹を刺激されたヴォルケの瞳がすっと細められる。何を食べようか迷う時間さえ、この街では立派なご馳走に違いない。
暖簾を潜れば湯気と活気が一斉に頬へ触れた。鉄板が小気味よく鳴り、ぐつぐつと煮える鍋からは澄んだ出汁の香りが立ち昇る。木札のメニューを一瞥したヴォルケは、迷いという言葉をどこかへ置き忘れたように口を開く。
「……こっからここまで、全部くれ」
店主が思わず目を丸くし、香月も肩を震わせた。
「マジか、めっちゃ食うな!?」
「香月も食うだろ? 遠慮すんなよ」
「や、それでもいきなりメニュー全制覇はすげぇわ」
呆れたように笑いながらも香月の胸は弾んでいた。ひとりなら注文を躊躇う量の料理も分け合えば何種類も味わえる。料理人として未知の味に出会える期待が好奇心を擽っていく。
やがて卓上は皿という皿で埋め尽くされた。
こんがり焼き色をまとった一口餃子は羽根が透き通り、箸を入れればぱりりと軽やかな音を立てる。噛めば閉じ込められていた肉汁が熱を帯びたまま溢れ、旨味が舌の上でちいさな花火をぱっと咲かせた。鉄板焼きは焦げ目の香ばしさが鼻を擽り、おでんは澄んだ出汁をたっぷりと抱えて口へ運ぶたびに身体の芯まで温めてくれる。
「お疲れ、乾杯」
ハイボールのジョッキを軽く触れ合わせれば氷が澄んだ音を鳴らし、琥珀色の液面が提灯のひかりを映して揺れる。
「乾杯!」
喉を抜ける炭酸は夜風よりも爽やかで、ほのかな苦味が脂のあまさを心地よく洗い流した。ヴォルケは熱々の一口餃子を箸で摘まんでは口へ運び、一皿、また一皿と軽々と平らげていく。その見事な食べっぷりに、香月は餃子を頬張る手を止めて思わず笑ってしまった。
酒がほどよく身体を温め始めた頃、ヴォルケがふと思い出したように尋ねる。
「香月は普段ヨソの店で飯食ったりすんのか? 料理できる奴って自分で作って済ませるイメージあるわ」
「もちろん他店にも食べに行くぞ。やっぱ美味い料理食べたら刺激ももらえるし色んな店行くの楽しいし」
香月は料理を味わうたび、隠し味や火加減を自然と考えてしまう。それは職業病のようなものだったが、それ以上に純粋な楽しさでもあった。
「……俺もその内お前の店行ってみてえな。全部大盛で最低10品は食うからいい客になるぜ」
「あはは、ヴォルケめっちゃ良いお客さんだな!」
豪快な宣言に笑いながら、香月も喜んでと頷きを返す。
「是非うちにも食べに来てよ。自炊したりはしないの?」
「自炊はしねえな……人に作ってもらう方がいい」
これだけ食べるなら量を作るだけでも一苦労だろうと。想像すれば自然と笑みが深まっていく。僅かに頬を緩めたヴォルケの横顔は酒のせいか、それとも温かな料理のせいか、普段よりどこか肩の力が抜けて見えた。
屋台を出ると、提灯のあかりはまだ夜を明るく照らしていた。
「そういえば土産何買う? やっぱ明太子かなぁ……結局食べ物になっちゃうな」
「いいじゃねえか、明太子。香月の店で新メニューにして出してくれよ」
笑い声は川面を渡る風へ溶けて、提灯の灯りとともに博多の夜へ静かに浮かんでいく。腹も心も満たされた帰り道は、どんなご馳走よりも温かな余韻をふたりへ残してくれることだろう。
●硝子の宝石
夜は川面に散りばめられたあかりを陽炎のように揺らしていた。
中洲の屋台街には赤提灯が幾筋も連なり、橙色のひかりが人々の笑い声を柔らかく包み込んでいる。暖簾の向こうから立ちのぼる湯気は、まるで食欲そのものが形になってそらへと昇っていくようだった。
豚骨を炊き続けたしろい雲、炭火で焼ける鶏肉の香ばしさに甘辛いタレの焦げる匂い。そこへ川を渡る夜風がひと筋吹き抜けるたび、熱と涼が交じり合って夏という季節そのものが鼻先を擽っていく。赤提灯も川の夜風もなんだかお祭りみたいだと目を細めた日色・真青(穢夏・h08207)は振り返ると、笑顔で仲間たちへと大きく手を振った。
「こっちこっち!」
人波の中で仲間たちが顔を見つけ、自然と輪になって集まっていく。どの屋台にも美味しそうな料理が並び、鉄板の音がリズムを刻んでは威勢のいい『いらっしゃい!』という声が飛び交っていく。視線を向けるたびに違う香りが誘いかけ、胃袋だけでなく心まで忙しくなるようだ。
「すんすん……おいしそなやたいい~っぱい! おいしいのおまつりみたいですね」
「へぇ、屋台ってこんな感じなんだねぇ! 詠むことは多かったけど、来たのは初めてぇ」
ちいさな翼をはためかせながらココ・ロロ(よだまり・h09066)が鼻をひくひく動かす横で、國崎・氷海風(徒花・h03848)も辺りを見回しながら感心したように目を細める。暖簾を潜れば目前に広がる木のカウンターには長年磨かれた艶があり、炭火の熱で頬がほんのり温かくなった。威勢のいい大将の声に迎えられ、真青はおすすめを尋ねながら次々と注文を決めていく。
「みんなで食べるのたのしみだねぇ!」
氷海風の言葉に、自然と全員の口元が同じように綻んだ。
ほどなくして飲み物が並べられていく。氷海風の前には透き通った日本酒。淡くひかりを宿した透明な酒精はまるで月あかりを杯へ閉じ込めたよう。リアン・ツェン(꧁ 揺蕩う黒 ꧂・h13342)には焼酎のラムネ割りと瓶ラムネ。お酒が飲めないココには冷えた瓶ラムネ。皮崎・帝凪(Energeia・h05616)は店内を見渡してから、
「夏の夜空にはやはりビールだな……ほう、クラフトビールが名物なのか? ではそれを頼む!」
と、店主の話に興味深げに頷いた。グラスにも瓶にも水滴が宝石のように浮かび、夏の熱を閉じ込めた空気を冷やしていく。
「それじゃ、かんぱーい!」
「乾杯!」
「かんぱ~い!」
「このキャップならビー玉取れますよ、ココさん」
「む……ビーダマほしい……リアンさんどやってとるので~?」
器用にラムネ瓶に触れながらこそりと、リアンは一生懸命両手で瓶ラムネを抱えるココへと内緒話を持ちかけた。あおい瞳がぱっと星のひかりを映して、ココは見る間に瓶の中に閉じ込められた硝子玉に夢中になっていく。無邪気な姿が微笑ましくて、ついついくすりと笑ってしまう。
「ね、ね、もってかえっていいですか?」
「ええ。でもお店の人に聞いてから、ですよ。今日の記念に持ち帰れたらいいですね」
おおきく頷くココの姿に笑みを深めて店主に問えば、笑ってゆるしを齎してくれることが有難い。良かったなぁと頷いていた真青はラムネ割りをひと口飲んで目を丸くした。
「へぇ、焼酎のラムネ割ってこんな感じなんだ! 甘くて、懐かしくて旨い!」
炭酸の刺激はぱちぱちと優しく、ラムネのあまさの奥に焼酎の香りがふんわりと広がっていく。子どもの頃の夏祭りと、大人になった今がひとつのグラスで溶け合っていくような味だった。
「通な飲み方だ。現代日本で瓶ラムネというのも風情があっていいな」
帝凪は届いたばかりのビールを傾ける。柑橘を思わせる華やかな香りと麦の豊かなコクが重なり、喉を抜ける苦味まで心地いい。
「リアンくんに教えてもらわなかったら一生知らなかった味かも。氷海風くんの日本酒もいいな!」
「良いでしょぉ。オレはオーソドックスに屋台の焼き鳥食べたいなぁ、大将のおすすめで適当に何本か!」
氷海風の注文に大将は笑って頷くと、手際よく炭火へ串を並べた。脂が火へ落ちるたびにぱっと炎が踊る。その香ばしい煙だけで白飯が食べられそうなくらいだった。
「わあ、かっこいい……ココもまねする! たいしょー、めんたいたまごやきくーださい!」
「じゃあ俺は焼きラーメンで、みんなでシェアしよ! 博多では有名らしくってさあ」
「焼きラーメン?」
帝凪が興味深そうに皿を覗き込む。
豚骨スープをまとった細麺は鉄板で焼かれ、ところどころに香ばしい焼き目がついている。湯気の向こうで艶やかに輝く麺は焼きそばよりもしっとりとして、それでいて噛むたびに小麦の香りと豚骨の旨味が重なっていくようだ。
「ふふ、焼きラーメン美味しいよねぇ」
「香ばしい良い香り……これは氷海風の焼鳥か」
「焼き鳥も美味しそう。野菜巻きもいかかですか? お野菜たくさん食べれて良いですよ」
炭火で焼かれた皮はぱりりと弾け、もも肉は肉汁を閉じ込めたままふっくらと柔らかい。瑞々しいレタスやアスパラを豚肉で巻いた野菜巻きの串からは、肉の旨味と野菜の甘みが一緒に溢れてくる。
「は! やきとり……ヒソカさん、タレのくださいな~。まさおさんのはやいたラーメン……? おいし!」
「あはは、良いねぇ! もちろん俺の頼んだのもどうぞぉ!」
料理は次々と皿を渡り歩き、一人前が五人前の楽しさへ変わっていく。
そうして、程なくして帝凪の前には熱々の一口餃子が運ばれてきた。羽根は飴細工のように薄く、美しいきつねいろ。箸を入れた瞬間、ぱりり、と心地よい音が鳴る。
「皮崎さんなにたのんだのぉ? あ、餃子だぁ!」
「うむ。一個一個小さいから、分け合って食べるにも丁度良いな」
「いいですね。まあるくお花みたいに鍋いっぱいに焼いたのが大皿にどーんってヤツ、憧れです」
餃子を噛めば、肉汁がじゅわりと舌へ広がる。大蒜の香り、生姜の爽やかさ、皮の香ばしさ。それぞれが重なり合って、熱いうちにしか味わえない幸福を届けてくれる。
「ダイナさまのココもきになる……ぎょーざだ~!」
「うわ、メッチャ旨そう! 俺もひとつ頂戴!」
「うむ、好きに取っていくが良い」
四方から伸びてくる箸を咎めることもなく、うんうんと頷く帝凪もまた焼きたての餃子をぱくりと頬張る。笑い声は重なり合って、料理の湯気よりも高く昇っていった。
「いつかココくんともお酒飲みたいな。大人になったらまた付き合ってくれる?」
「……オトナになったら?」
「うんうん。ココさんは大人になってからお酒飲もうねぇ」
ラムネ瓶の中でビー玉が転がる音は、ちいさな鈴のように涼やかだった。
オトナになることなんて、いまのココには想像もできないくらいに遠い未来のように思えたけれど、でも。
「もちろん! いっしょにのむのです! でもいまはしゅわしゅわラムネでオトナきぶん~」
「しゅわしゅわ仲間だな!」
「ふふふ、しゅわしゅわなかまなのです」
今は『おそろい』は楽しめなくても。おいしい空気は一緒に分かち合うことができる。それが嬉しくて、ココの笑顔は深まっていくばかり。
「二杯目は何にしよう。……それ美味しいですか?」
リアンが氷海風と帝凪の酒を見比べる。ちょうど空になったグラスを手に、真青も『え、良いな!』と声を上げた。
「俺もちゃんぽんしちゃおっかな」
「ふふ。みんな違ってみんなの美味しいねぇ!」
その一言に否を唱える者などいやしない。
味覚は違えど、美味しいと思う気持ちは同じだった。
「博多ラーメンだけは食べたいところだねぇ」
最後は全員で名物の博多ラーメンを。
白濁した豚骨スープは湯気とともに濃厚な香りを立ちのぼらせ、細麺はこがねいろの湖へ泳ぐ糸のようだった。
「博多ラーメン……麺は固めで!」
リアンは明太子をたっぷり載せる。ぷちぷちと弾ける辛味が豚骨のまろやかさを引き締め、麺を啜るたび幸福が喉を駆け抜ける。丼の底が見える頃には、誰もが満ち足りた笑顔になっていた。
「でも甘いもの食べたくありませんか。コンビニ行ってアイス買いません?」
「えっ、甘いもの!? 食べる食べる!」
「わあ! アイスもたべる!」
「スイーツは別腹だよな!」
夜風が少しだけ涼しくなっていた。
赤提灯を振り返れば、笑い声と湯気はまだ変わらず賑わいを紡いでいる。
「真青さん、今日はお誘い感謝です。皆さんとお話しできて美味しいご飯も食べれて楽しかったです」
「ははっ、どういたしまして! 俺も楽しかった!」
そのやり取りに、帝凪は静かに周囲を見渡した。
頼んだ料理は誰一人同じではない。好きな酒も、好みの味もそれぞれ違う。それでも皿は自然と中央へ集まり、『これも食べる?』という言葉が何度も飛び交って、最後には全員が同じような笑顔になっていた。
「――屋台とは良いものだな」
ひとつの暖簾の下で湯気を分け合い、料理を分け合い、笑顔を分け合う。
中洲の夜は満腹になった人々の幸福を川面へ映しながら更けていく。どこか遠くでラムネ瓶のビー玉が、ころん、と澄んだ音を立てた。その音はこの夏の夜がきっと忘れられない思い出になることを、ちいさく祝福しているかのようだった。
●星は廻る
「こ、此奴ら……何時の間に紛れ込んでいたというのだ!?」
屋台の灯が心へ注いだ温もりはEDENたちの胸奥で静かな焔となって燃え広がる。そのひかりは星詠みすら見落とした運命の綻びを縫うように、妖魔公女『冥鈴・ガルガンチュア』の策謀へと容赦なく差し込んだ。
「――……此度は退こう。だが、妾の計画が此れで終わったなどと思うでないぞ、白蟻どもめ!」
侮ったちいさき命は群青を裂いて昇る暁光のように一斉に立ち上がり、その歩みだけで闇は音もなく後退る。
やがて冥鈴は翻る外套に敗色を隠し、怨嗟を夜風へ残して戦場を去っていった。
その瞳に宿る凶星はなお消えず、祭りの余韻へ細く影を落としていたけれど――今はただ、このあたたかなひかりを守り抜けたことを喜ぶべきだろう。
戦いはまだ始まったばかり。
星明かりを道標に、EDENたちは新たな戦場へと迷いなく歩みを進めていく。
夜のとばりは世界を深く包み込み、たくさんの提灯のあかりは遥かな戦路を照らす篝火のようにいつまでも揺らめいていた。
