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彼岸に結ぶ
●黄泉返り
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨!《GAOOOOOOOOOOOOOONNNN!!!!!!!!!!》」
咆哮が世界そのものを震わせた。振り下ろされた漆黒の拳が地面を無惨に破壊する。それは圧倒的な破壊力に満ち、けれど無限とも称される妖力を備えた古妖の気は晴れない。
「或れから何年経った? 十年か?百年か? 糞が、糞糞糞餓鬼共が!!!!」
果てない恨みと怒りと苛立ちにまみれた咆哮の主は、溢れる感情のままに周囲を破壊しながら叫び続けた。
「此のマガツヘビ様を轢き潰し殺しやがって、糞糞糞が!!! 誰が『無限の妖力と矮小なる頭脳の持ち主』だ! 調べたぞ矮小の意味この野郎!! どいつもこいつも糞馬鹿にしやがって! 今度こそ、全部全部ぶち壊してやる!! 人も妖も、全ての√も、あとあれだ、勿論√EDENもだ……!!」
この俺がこんなに腸煮えくり返っているのに――。
あらゆる生命への怒りがほんの一瞬収まりかけるも、マガツヘビの怒りは再び燃え上がった。拳を受けた大地がまたも轟音を響かせ、砕け散る。
「なんで出てこねえんだ、|王劍『天叢雲』《おうけんあめのむらくも》! どう考えても俺こそが、お前に相応しき主だろうがよ!!!!」
●√妖怪百鬼夜行
“全てのあやかしよ、マガツヘビを討ち滅ぼすべし”。
√妖怪百鬼夜行に存在するそれは『マガツヘビの掟』と呼ばれ、その√に住む全ての者が知る取り決めだ。それは邪悪な古妖達も従うものであり、一時休戦と共闘を持ちかけてきた彼らと共に、現在進行系で果たされようとしている。
「その為にもまずはお花見をしてほしいの。お弁当を食べたり桜を撮ったり……」
花見。春の風物詩。
ちゃんと理由があるのよと、星詠みとして語る竜宮・永遠(恋心・h00149)は尾鰭を揺らす。
「マガツヘビも気にしていたけれど、頭脳は矮小でも妖力は無限。その妖力に汚染された桜があって、今、出鱈目な早さで咲いて散ってを繰り返してるのよ。このままだと、√妖怪百鬼夜行が桜で埋め尽くされそうなの」
今はまだ、満開桜と桜吹雪が常に堪能でき、足元がすっかり花筏状態というところ。
ただしその花筏がマガツヘビの移動経路までも隠しきっている為、桜の異常を解決しなくてはならず――その為の花見なのだ。
「みんなにお花見してもらいたい広場の桜は『彼岸結びの桜』って呼ばれていて、普通の桜とは違うの。そこで過ごしていると、いつの間にか誰かや何かが傍にいて――え? ええ、そう。亡くなったひとや、壊れてしまった物が現れるんですって」
それは過去の記憶を強く呼び起こす事も、今抱える痛みを強くさせもするだろう。未来へと歩き出す切欠になる可能性だってある。
確かなのは、『いつの間にか現れるものは危害を加えてこない』という事だ。
そんな不思議桜の下で花見をしていれば、マガツヘビの妖力に汚染された桜は正常に戻るだろう。そうすれば超強大な古妖への手がかりも見えるようになり、マガツヘビへ滅びのひとつを見舞う機会も結ばれる筈だ。
「その時は、普段敵対している古妖も協力してくれる。力を合わせれば、相手があのマガツヘビでもきっと倒せるわ」
海の目を煌めかせ笑った少女の指先が、すい、と行くべき場所を示す。そちらへ向かうにつれ、ひらひら、はらり。春を象徴する儚い色が増えていき――。
これまでのお話
第1章 冒険 『不可思議桜の舞い散る刻に。』

●散る散る、満ちる
ふわふわとした花弁を持つ淡い桜色が、澄みきったその彩で色濃い枝を飾っている。今が見頃という美しさで咲き誇る様は春の空にも似合っていて、けれど、ひらひらはらりと静かに降る桜吹雪は止まず、中にはふとした拍子に花ごと落ちる桜もあった。
「……お。もう新しい蕾が出てきたぞ。少ししたら咲くな、ありゃ」
「早ぇなあ。『彼岸結びの桜』、今日だけで何回春を繰り返してんだ?」
そうこぼした妖怪2人――レジャーシートの上に焼き鳥各種と日本酒とワインの瓶を並べ、花見の真っ最中である彼らが座るそこだけでなく、見える範囲全てが、花筏で桜色に染まり尽くしていた。歩けば覚える感触はふかりとしたものばかりで、桜と桜吹雪が常に降る状況だからとビーチパラソルを持参した若者グループの姿もある。
降る桜の多さを無邪気に楽しむ妖怪達もいて、花や花弁を集めて作った小さな山へは、飼い主らしき女性とリードに繋がれた犬や、子供達が元気に飛び込んではしゃいでいた。
「あれ? ままー! どこかのわんちゃんがいる!」
「え? ……ふふ。じゃあ一緒に遊ぼっか!」
「キャン!」
友人、知人。家族連れ。1人でふらりと。
花見をするのなら自分達でも力になれる、とやって来たこの√の住人達の中には、花見に『食』という華を添える形で取り組む者も多い。
「濃厚ソースの焼きそばと、さっぱりして上手い塩焼きそばいかがッスかー!」
「コッペパンに挟んだ焼きそばパンと塩焼きそばパンもありまーす!」
「スパイ並に色んな名前を持つ円形で分厚いアレ屋~、スパイ並に色んな名前を持つ円形で分厚いアレ屋~。中身はこし餡、チョコクリーム、カスタードホイップ、おかず系でカレーもあるよ~~」
「うわ、色々ある。どれ買う? あたしはあっちの唐揚げボール屋気になっててさあ」
「いいよねー。私はあっちのお好み焼きも気になるー。あとデザート! フルーツ食べたいからフルーツ串か、いやでも生クリームもあるクレープ……ジェラート屋台まである!?」
「あらお目が高いわねお嬢さん。うちの豪華屋クレープはフルーツたっぷりだよ! 冷たいのが食べたかったらあっちにかき氷出てたからね。串違いだけど肉とか魚介の串焼き屋は向こうだよ」
賑わう屋台エリアには、フランクフルトやチョコバナナ、綿飴にベビーカステラといった定番に加えて、コロッケやカツが並ぶ揚げ物屋台に、ホットドッグとケバブと餃子と――と、よその国からやってきて定着したグルメも並んでいる。
食べ物に困らず、咲いて散って降り続く桜もある。
もしかしたら彼岸へ行った何かとの縁がひととき結ばれるかもしれないけれど。
そんな花見を――マガツヘビの妖力に汚染されてもなお爛漫の春へ、いざ。
見上げたそこで清らかな桜色が咲き誇っている。伸びた枝から2つ3つ、4つと集まって咲く花はどれも、春空から射す陽の下で透き通り、輝くようだった。
「はぁー…こりゃまた壮観だな」
けれど数え切れないほど舞い落ちていく桜の花と花びらに、白・琥珀(一に焦がれ一を求めず・h00174)の口から溜息がこぼれる。
「妖力にあてられたとはいえ、無駄に桜の生命力を使わされてるみたいでなんだか哀しくなるな」
地面をすっかり覆い尽くす花筏の歩き心地はふかふかとしている。
己がここへ来るまで、頭上の桜だけでどれだけの花が咲いて散ったのだろう。
琥珀は緩やかに首を振ると小さめの毛氈を敷き、そっと腰を下ろした。傍らに置いたのはごくごく普通の水筒ひとつ。今日の花見の供は、この中にたっぷり入れてきた茶のみ。けれど花見をするにはこれで十分だった。
琥珀は茶を味わいながら、散る桜を黙って眺める。
春の空と桜ばかりを映す目は、小鳥もいないのにぽとりと落ちた桜へ時折視線を奪われては、また頭上で揺れる桜に戻ってを繰り返す。桜が落ちた筈のそこに新しい蕾がゆっくりと顔を出した。蕾は陽射しのぬくもりでほどけるようにして開花し――。
(「ん?」)
傍らに気配が在る。それはすぐに消え――また現れ、そして消えた。それが静かに繰り返される。感じるのは気配のみで、姿やその輪郭、匂いは無かった。しかし琥珀はその気配達に覚えがある。それは気配達の存在感と同様、ぼやけた記憶によるものだけれど。
(「かつての持ち主たちか」)
視線を向ける事は、決してない。
ロイヤルアンバーから生まれた勾玉、その付喪神として生を受けてから、とても長い年月が経った。気分で移ろう瞳で彼らを見たところで、本当にその人だったと確証は持てない。琥珀が経てきた年月は、それ程に長いのだ。
けれど。
「……、」
見えずとも。わからずとも。
今、一緒に居られる。
その幸いを噛みしめる琥珀の目は、穏やかに春を映していた。
桜が舞う。桜が落ちる。
それは雨のようであり、雪のようでもあった。
風が少し強めに吹けば鮮やかに躍る桜色。その中に霞むようにして、けれど人混みからは外れた場所に氷薙月・静琉(想雪・h04167) はいた。誰に視認されなくともこうしてしまうのは、幽霊としての性かもしれない。感情に似て凪いだ眼差しは、ひらりはらりと舞う白花を漠然と見上げた。
「夢見草とはよく言ったものだ」
その眼差しが不意に落とされた。
「……」
鏡がそこにあるようだった。
貌も佇まいも、静琉と違わない存在がそこに居る。まるで生き写しだ。まるで、に留まる|理由《差異》は、眼の前にいる存在が短髪である事。
『……まだ、其処にいるのか』
かすかに届いた声に、静流の目が緩やかに瞬く。
懐かしい声だ。
『悪い。お前だけに背負わせて……』
「いや……そんな大層な事じゃない。俺がただ、忘れられずにいるだけだ」
それだけなのだから、謝る必要なんてどこにもない。
静流の言葉に相手が静かに目を閉じて――ちりん。不意に鳴いた音でぱちりと開かれる。静流とよく似た目は、漆黒の髪を括る古鈴に向いていた。
『その紐鈴……まだ持ってるんだな』
「お前に託されたものだからな。……あいつの、数少ない名残だから」
古鈴の音が、静流の記憶からひとつの彩を掬い上げる。
それは周囲を包むような桜よりもずっとずっと白い――それこそ、
(「雪の様に、」)
想い出されたもうひとつの存在。
(「美しかった」)
彼女の名は――。
『……逝かないのか?』
問いかけに首を振る。
「……逝けないんだ」
なぜ、と問う声はない。
落ちた沈黙に、花見に興じる人々の声がかすかに重なった。
「俺が、俺を赦せないんだ。だから今は、まだ……」
『彼』の唇が動きかけた時、風が強く吹いた。枝から離れた桜。足元を覆う花筏。それぞれから舞い上がった桜が2人の視界を染め――いっとき、2人を分かつようだった。
「……すまない。俺の大事な片我月」
いつか。
いつの日か。
自分を赦せる時が来たら、その時は――。
もうこの世にない誰かや何かが現れる。
ゆえに、名は。
「これが『彼岸結びの桜』? 咲いて、散って……輪廻を繰り返すようだ」
ぱちりと目を瞬かせた花七五三・椿斬(椿寿・h06995) の肩で、シマエナガが小さく跳ねた。もふもふとした白雪めいた姿を飾る赤椿も一緒に揺れ、つぶらな目は椿斬と同じく桜をじっと見つめていた。
「綺麗だねぇ、六花」
どこもかしこも桜色だ。地面を覆う花筏には、降り積もった後の、まだ誰も来ていない新雪とはまた違う眩さがある。
椿斬の言葉に|シマエナガ《六花》が『チッ』と鳴いて、ぴょん、ぴょんっと椿斬の肩から腕、腕から手首へと軽やかに移っていった。相棒の意思表示に椿斬は「いいよ」と手にしていた甘味――豪華屋自慢のクレープを傾ける。
バター香る生地と真っ白ホイップ。そこを贅沢に彩る赤い宝石は甘さ抜群の苺達。啄んだ果実に六花は上機嫌で囀る。椿斬も一口頬張っては美味しいねと相棒に笑いかけ――桜吹雪の向こう側に見た姿に凍りついた。
大きな翼。
靡く髪。
ここに――今居る筈のない2人にヒュウと息が詰まる。温かな心地は一瞬で消え、椿斬の顔には冷や汗が吹き出る。心身を染め上げる後悔で立っていられず、その場にしゃがんだ手からクレープが落ちた。花筏が甘味に濡れ、汚れていくのにも気付かない。それほどに。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
謝らずにいられなかった。
「父様母様、僕がいけない」
ごめんなさい。
「僕がうまれてしまったから」
ごめんなさい。
兄様、
たすけて
後悔に凍りついたまま沈みかけた刹那、ふわりと覚えた冷たさにハッとする。
手に覚えた冷たさの主は――。
「六、花」
気付けば在るのは舞い散る桜の花びらだけ。
椿斬は震える指先で相棒を撫でる。ふわふわとした白雪の小鳥はその指にぴょんと乗り、じっと見つめてくる目は心配そうだった。
「ごめんね、六花」
指は、まだ震えるけれど。
「大丈夫。お花見、やり直そうか」
桜が舞う。桜が咲く。
あれほど鮮やかに見えた姿は――どこにもない。
贅沢に降る桜吹雪が対象的な2人の髪を飾っていく。風がなければ、銀と黒の髪は数刻で桜色に染まっただろう。けれど丁度いい塩梅で吹く風によって、2人の髪は今ここだけの桜色を程よく纏っていた。
「なんだこの浮世離れした景色は。本当に彼岸ではないのか?」
硝子玉のような目を丸くした神楽・更紗(深淵の獄・h04673)の手が、ガザミ・ロクモン (葬河の渡し・h02950)の頬を軽く摘む。
「どうだガザミ?」
「ちゃんと感覚がありまふし、彼岸じゃないれすよ」
「では現か……」
友人の行動。ぱっと離された手。両方にガザミは笑い、ふかふか花筏の上に茣蓙を敷いた。そこへ桜の花や花びらがふわふわひらりと降りてくる。
「そうですね。ここの桜には『彼岸』がつきますけど、間違いなく現実です」
『彼岸結びの桜』に続いてその上へお邪魔した更紗の目は、ガザミがてきぱきと進めていく花見準備へと真っ直ぐ注がれていた。
中央にどどんと鎮座するはミニ重箱。それがぱかりと開かれれば、おつまみ各種が茣蓙の上を彩っていく。イカとホタテの酒粕漬け焼き、手羽先の梅酒煮、酒饅頭――そして甘酒もセッティングされれば準備完了。更紗の目は機嫌よく目を細められ、狐尾も楽しげにふわりと揺れた。
「なんと美味そうな料理だ」
しかもガザミが選んだここは眺めもいい。広く枝を伸ばす樹の下は、頭上に青空を程よく覗かす『彼岸結びの桜』の天蓋が広がっている。そんな場所で桜と多彩なおつまみを甘酒と共に味わえる、とくれば機嫌が良くなるに決まっていた。
「どれもお酒を使った料理ですよ。更紗さんさんはどれから食べたいですか?」
彼女の味覚は特別だけれど、酒を使った料理なら味がわかるかもしれない。
おつまみをそれぞれの皿に乗せていくガザミの顔には、その事への期待と楽しみが如実に現れていた。自信作だから早く食べて欲しいという気持ちも加われば、更紗をニヤニヤと見るガザミの出来上がりである。
(「こうも見られていると食べ辛いな」)
そわ、と尻尾を揺らした更紗だが『食べない』という選択肢は皆無だった。ぱっと酒粕漬け焼きが乗った皿を取ると、そっぽを向いてまずはホタテを一口。そのお味はというと。
「ほう、美味い」
「!」
「ではイカは……うん。これもよいな」
口に入れた瞬間明るくなった表情。次のおつまみへと向かう箸。
ゆるり頷きながら笑む横顔にガザミのニヤニヤ顔も実に満足げで、他のものはどうだろうかと変わらず注がれる視線の先、更紗の目が手羽先へと向いた。口元に寄せれば食欲そそる香りがより露わになる。歯を立てて食めば期待通りの味が広がって、更紗は無言のまま数回頷いた。
(「しかし、美味いが手が汚れるな」)
こればかりは仕方ないか。そう思っているとタレのついた手を取られ、手拭きで優しく拭われていく。驚いて目を向けると、それは人間の女性だった。
「……」
目を瞠る更紗へと女性は柔らかに笑いかけ、もう一方の手も拭いていく。タレを拭っていく手つきは更紗に向けた笑みと同じ。柔らかくて、優しくて――それは紛れもなく、子供に向ける母親のものだった。
(「何一つ、似ていない」)
けれど桜が結んだ存在に更紗は静かに笑みを浮かべる。
綺麗にしてもらった両手で銀盃へと甘露之雨を注ぎ、1つは自分に、もう1つは実母へ。酒の共に選んだ酒饅頭も一緒に母と酌み交わすたび、目の前にいるひとが彼岸の存在なのだと改めて感じるけれど――諦めた夢が、今、叶っている。その事実が、寂しさを少しばかり満たしてくれていた。
(「更紗さん、よかったですね」)
友人が誰かと過ごす春のひとときを、ガザミは静かに見守っていた。微笑む眼差しは地面に降り積もり花びらへと移り、桜色の雪めいた光景に心を満たされていく。
(「めっちゃきれいですね……ん?」)
ここには自分と更紗の、更紗の誰かしか居ない筈だが、後ろに誰かが居る。
もしや桜が新たに結んだ誰か、もしくは何かが?
ガザミはくるりと振り返り――目の前を塞ぐ黒色に、困ったように笑った。八咫烏のカムロの仕業だ。仕方ない。確認するのは諦めよう。
(「と、見せかけて――あ、」)
まただ。カムロの翼がしっかり邪魔をしている。
それから何度やっても見る事は叶わず、ガザミは肩を竦めて笑った。
「誰かさんも、花見が好きなんでしょうね」
「知らなくていい事なんざ珍しくもないさ。……ところで。料理は出来ないんじゃなかったのか、嘘つきめ」
ニヤニヤと笑い返す更紗の手。
ガザミへと軽く差し出した盃へ、春の色がひとつ、静かに舞い降りた。
「そういえば|お屋敷《まよひが》でお花見はしないんですね。正直意外です」
桜色で溢れたそこに、降る花と同じくらい静かに落とされた声。
花喰・小鳥(夢渡りのフリージア・h01076)からの言葉と視線に、「ああ、」と返しながらアルコール缶を受け取った天國・巽(同族殺し・h02437) の表情は、特にこれといった変化はない。
(「思えばそんな話はまるで出なかった」)
何か理由があるのだろうか。
疑問に思いながらも、小鳥は手にしたアルコール缶を巽のそれへと寄せる。巽も小鳥と同じく軽く寄せて、コツンと合わす。中身をたっぷり抱えた缶特有の音が2人の間に響いた。
「乾杯」
「乾杯」
巽がぱきりと蓋を開けそのまま呷った量は半分ほど。しっかりと冷えたものがアルコールの風味を伝えながら喉を下っていく。その感覚を味う巽の目は、空の青だけを映していた。
「……なに、大した理由なんざねェよ。今年はちィと忙しなかったからな」
自由にした唇から零れ落ちた言葉には、ほんの少しの本当を。それだけで口にしたものが悪くない言い訳になる。――そう。言い訳だ。
(「――彼岸結びの桜、か」)
昔からその噂は聞いていた。“あそこにある桜は全て普通ではない”、“彼岸に渡ったものを結び、傍らに現すのだ”と。けれどここへ足を伸ばす事はなかった。
(「いや、避けていたと云ってもいい」)
ここへ近寄る道は選ばず、春以外の季節でも寄り付かず。
今日とて、小鳥に誘われなければ来ていなかっただろう。
隣の美しい女を密かに窺えば、真紅の目は咲き誇る桜と舞う花らを静かに眺めていた。
常世に繋がればあの日に帰れる。
幽世を見れたなら夢幻に触れられる。
それを希う者も、居るのだろう。
――けれど。
男の視線がアルコール缶へ向いた時、女の目は桜色の中で舞い踊る蝶を捉えていた。1羽、2羽。3、4と数が増えていく。翅で春の陽気を撫でながら舞う魂魄蝶は、彼岸結びの桜が呼び寄せたのか普段より数が多い。
「……蝶か」
「ええ」
巽の唇が再びアルコール缶に触れる。
小鳥も缶にそっと口をつけ、溢れるほど在る桜と、そこを舞い踊る蝶を眺めた。
穏やかな色合いの空。
陽の下で光を透かして輝くように咲く不思議な桜。
絶えず零れてゆく、春の花。
ここに在るものは確かに今という生を得たものばかりだというのに、巽が覚えたのは、風に混じる死の匂いだった。それを漂わせる女の手が、自分の手にそっと触れる。巽はその手を払う事なく、そのまま掌同士を触れ合わす形で繋がせた。
(「巽さんは、何を畏れているの。それとも――」)
惹かれているの?
あるいは、求めている?
頭を預けた肩越しに、巽が裡に抱えているものについて考えてみても、その形を捉えるには至らない。けれど幽かであっても感じられたのは、
(「たぶん全部」)
そしてそれが、巽が|お花見をしない《忙しない》理由なのだろう。
(「だって、桜はひとを惑わせる」)
肩に預けられた小鳥の頭から、金糸の髪が零れるようにさらりと落ちる。
より感じたように思えた死の匂いは、けれどその髪よりも軽やかだ。
(「――ならば、隣でビビっても居られまい」)
アルコールで喉を冷やした男の唇が、また、缶から自由になる。
ふ、と零れた息は静かだ。
真円のレンズ越しに世を見ていた金の目が、静かに、緩やかに、空から移っていく。まずは缶に向いて。それから――ひらひら、はらり。音もなく舞う、桜へと。
(「ああ、どうか」)
現れてくれるな。
願ったそれを隣の女は知らないだろうに。何も言わず語らず桜を見ていた女の手が、繋いだままの手を少しだけ強く握ってきた。男である己よりも細くしなやかな手だ。花を見つめる男にとって掌越しに伝うそれは、此岸に結ぶ熱だった。
“皆”の力を結集させ、超強大な古妖を倒す。
椿太夫の思惑通りに動くなど、覇王たる者としては癪だ。癪だが、そうしなければ『無限の妖力と矮小なる頭脳の持ち主』と評されし古妖を倒せず、何より――。
(「マガツヘビ……彼の強者との戦いには心が躍る」)
フ、と笑ったアダン・ベルゼビュート(魔蠅を統べる覇王・h02258) を、隣を歩く酒木・安寿(駄菓子屋でぃーゔぁ・h00626) が笑顔のままきょとりと見上げる。
「どうかしたん、覇王のにーさん? 何かおもろいことあった?」
「む? まあ、そうだな」
「ならええねんけど……てか覇王のにーさん、ほんまによかったん?」
「問題ない。気にするな」
マガツヘビの掟はあやかしである安寿も知っており、あやかしであるが故に「行かな~」という気持ちはあった。しかし1人で行かせる事を心配した幼馴染――アダンから見れば『ふぁん』がアダンに「一緒に行って欲しい!」と頼んだ結果、別√故にと事前に土産を見繕い中であった覇王はそれを了承した。
結果、2人で『彼岸結びの桜』の花見に来たのである。
到着して安寿は早速屋台へと直行した。屋台の看板は『べびいかすていら』。時代を感じる名前だが、袋の中身は今風の形の狐色だ。袋越しに伝わる出来立ての温かさに、つまみ細工で彩られた立派な狐尾がご機嫌に揺れる。
「ほんまに心配性なんやから」
「身を案じる良きふぁんではないか。酒木、改めて宜しく頼む」
「それはうちも。よろしゅうね覇王のにーさん。あっ、あそこええんとちゃう?」
「見事だ酒木。あそこで花見と洒落込むか」
その桜は樹齢何年なのか。何本もの枝が長く広く、そして地面近くまで伸びていた。桜色の巨大な傘の下はなかなかの広さで、2人と同じようにここを花見場所にと選んだ住民で賑わっている。
腰を落ち着けた安寿は早速ベビーカステラを頬張った。出来立てのパワー、幸せな甘みがふわふわほかほかと広がってニコニコせずにはいられない。うん、これは買って大正解。安寿は笑顔でアダンのほうを向くと、はい、とベビーカステラの袋を差し出した。
「にーさんは別の√の人やろ? この√のこといっぱい楽しんでやー」
いっこどーぞ、にアダンは口の端を上げて笑い、頂こう、と1つ摘み上げる。口に放り込んで噛めば、狐色をした生地が閉じ込めていた出来立ての熱がほわりと咲いた。
「無論だ。異なる√の桜であろうとも、その在り方を解する。其れが俺様が覇王たる所以よ」
「はー、やっぱ覇王さんともなるとえらい立派やねえ」
お喋りの花を咲かせながら、ほかほかベビーカステラをひょいぱくひょいぱく。満開と桜吹雪が共に在る桜景色も味わいながらの花見は、のんびり穏やかに過ぎていき――アダンの手元で、不意に何かが煌めいた。
「む、これは……」
「うわぁ、きれーな鍵や。落としもの?」
「いや。どうやら、桜と結ばれたようだ」
「え? じゃあそれ、覇王のにーさんの?」
安寿の言葉にアダンは緩やかに首を振り、笑む。
「俺様という人格の原型……嗚呼、前世と呼ぶ方が近いか。此れは、其の男が嘗て手にする事が叶わなかった『玉座の鍵』だ」
特別な力を持たない、形だけの産物でも――それでも。
アダンの掌の上で、水晶の鍵に桜が降る。
(「よもや、今世で手中に収める事が叶うとはな。尤も、今の俺様には無用だが」)
鍵に降りてきた桜と共に地面に置くと、水晶の鍵はそこにあった桜色を透かし、春へと溶けたように見えなくなる。
(「ひと以外が出てくることもあるんやなぁ。……ん?」)
アダンの行動をじっと見ていた安寿は何となく顔を上げ、目をぱちくりさせた。楽しそうに花見をしている大人が1人。――お父ちゃんや。
「お父ちゃん久しぶりやなー」
『おぉ、安寿! 大きなったー』
「当たり前や。あれから何年経ったと思えんねん」
こっちは背が伸びて――そっちはあの頃のまま。けれど父子の間に暗い空気はない。
『安寿! 景気づけに歌うてくれるか?』
「ええよ! それじゃあ、耳の穴かっぽじってよーく聴いてや?」
『いよっ、世界一!』
桜に負けない笑顔と歌声が、春空の下に咲く。それに安寿の父が合いの手を入れ、それを真似てアダンも少女の舞台に華を添えるも、訓練されたふぁんには及ばぬなとつい笑みがこぼれた。
「フハッ……慣れぬ故、下手でも御愛嬌としてくれ」
『大丈夫やてシュッとした兄ちゃん。大事なここ、ここや!』
自分の胸をトントンとつつき笑う安寿の父の合いの手も、上手とはいえない。
けれど下手な合いの手が少女にとっては何より懐かしく、嬉しい華だった。
ささやかな春風が吹いている。
風が静かに桜を鳴らし、頭上から、地面から、桜が舞う。
それはすぐに収まって、けれど『彼岸結びの桜』から落ち、降る桜が絶える事はない。
五槌・惑(大火・h01780)は黙って頭上の桜を見つめた後、目を瞑った。枝ぶりがもっと豪華だったなら日よけとしても抜群だったろう。しかしそういう桜はどれもあやかしや人々で賑わっており、そういうものは惑にとって好物件ではなかった。
(「どうせ仕事までの時間潰しだ」)
景色の良い場所を争う気はさらさら無い。結果、選んだのは賑わいから外れた桜の下――この場所だった。自分達以外にもこの近辺を選んだ他人はいるものの、同じような場所を選んだ同士か、賑やかさとは縁遠い。惑は同行者が買い出しから戻るまで、暫し微睡む事にした。
その同行者はというと、心置きなく屋台巡りの真っ最中。
(「惑さんが場所取りして下さってますしね」)
鉤尾・えの(根無し狗尾草・h01781)は翡翠の目をきらきらさせ、数多ある屋台をチェックする。日本の祭りでは定番な屋台も、現代ならではの屋台も捨てがたい。どうしても目移りしまうが――きらっ。その目が楽しげに捉えたのは、『スパイ並に色んな名前を持つ円形で分厚いアレ屋』の文字がある屋台だった。
「こし餡とカスタードを下さいな」
「はいよ~」
冷たいお茶も買えば、どの名前を使うかでしばしば論争が起きるこの菓子を食べても、水分補給バッチリで安心だ。えのは花筏の地面をぱたぱたと行き、惑が待つ桜へと向かった。自分に買い出しを任せて場所取りしてくれた惑へ、早速「お疲れ様です」と労いを――。
「寝てる! ほらほら惑さん起きてください!」
「夜型なんだ、休憩ぐらい許せ」
閉じていた瞼が持ち上げられ、覗いた琥珀色は気怠げにえのを見る。それでも欠伸混じりに場所を譲った男は、少女が抱える袋へと視線だけをやった。
「……何買って来たんだ?」
言葉通りの怪訝そうな眼差しに、えのはすぐに納得する。袋には何も書いておらず、カレーのようなわかりやすい香りもないのだ。
「これですか? はいどうぞ」
えのがさっと取り出したのは白く四角い紙で挟まれた――名前の多いあれ。
「スパ(略)買ってきましたよ。惑さんはこし餡でしょ?」
「あア、飯も景色も、普通が一番だ」
眼差しにあった怪訝の2文字は、得心が行ったようですんなりと消える。
作ってから温かなケース内で保管されていたそれは冷めておらず、熱過ぎるという事もない。あ、と口を開けて頬張ると、温かさと共に生地の素朴な美味さと、こし餡の程よい甘みと心地よい舌触りが広がった。
「アンタも此処の出身だろ。マガツヘビの掟とやら、心当たりあるのか。養い親に随分な恩があるって話だったじゃねえか」
或の言葉に、スパ略を頬張っていたえのはしっかり噛んで飲み込んでから口を開く。
「ああ、掟ですか。確かに養母がそんな話をしてましたね。養育の恩を返す、なんて殊勝なことは申しませんが」
マガツヘビ。
忌まわしき愚鈍の獣。
無限の妖力と矮小なる頭脳の持ち主。
あらゆる√能力者が善悪の枠を超えて力を合わせなければいけないほど、超強大な古妖。
齢19の娘からすればとんでもない強敵だが――くす、とえのは笑った。
「まあ出来ることをさせていただきますとも」
「そうか」
冷えた茶が喉を潤し、名前が多過ぎる甘味の名残をいい具合に流していく。
会話と甘味両方から一息ついたそこで、桜の向こうで何かが霞んでいた。
「……これまで斬って来た怪異どもか」
「わたくしめには、これまで解決した事件で討った古妖が蠢いてます」
「似たようなモンを見てんのか」
「はい」
あーん、とえのはス(略)を頬張り、何を仕掛けてくるでもないそれらを桜景色ごと眺める。蠢くばかりなのは桜が戒めているのだろうか? 確かめる術はない。
惑もまた、恨むべきものもわからず呻くばかりの者らをどうこうする気はなかった。超強大な古妖と戦うにしても、何も変わらない。あの中に一匹増やすだけの事だ。
「わたくしめには終ぞ理解できない感情を抱えている彼らこそ、よほど人間らしいですね」
怒りや悲しみが欠けている少女の言葉に、男は薄らと笑う。
怪異に古妖。ひとではないが――成る程。
「嘆きたくなるぐらい、豊かな生き方って奴をしてたんだろうよ」
その結末は、見ての通り。
そんな彼らにも桜の花が、花びらが。静かに静かに、降り続く。
「上も下も、左右も桜でいっぱいです! 桜色で溢れていますね」
名前の通り檸檬色の目を輝かせた茶治・レモン(魔女代行・h00071)の足は、花筏の上を軽やかにゆく。そのたびに足元で桜色がふわっと舞い、柔らかな心地と共に少年の心を弾ませた。
隣を歩く日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)の心も、存分に広がる桜景色を前に躍っている。柔らかな紅色の目は満足げに細められ、唇には弧が浮かんでいた。
「桜吹雪も圧巻ですが、花弁で埋め尽くされた地面も素晴らしいですね……! 地面と仲良しサイズな魔女代行くんでも、俯けば楽に花見できるから良かったですねぇ」
「え? あっ君も地面と仲良くしたい? 良いですよ、ご希望なら桜の下に埋めて差し上げます」
穏やかな春の日差しに火花が混じる――が、漂う香りと呼び込みの声がそれを鎮めた。
「手ぶらで来ましたので、何か買いましょうか」
「ええ、適当に買って花見と洒落込みましょう」
腹が減っては戦が出来ぬ、ではないけれど。春の絶景が広がっているのならば、花見には美味い何かが欠かせない。2人は屋台へと向かい――、
「あっ君は……」
「お、」
何を、と言いかけたレモンは芥多が目を輝かせ見つめるものへと目を向けた。
その名前は――。
「焼きそばパン! 買います!」
「いらっしゃーい!!」
「懐かしい、学生の時によく食べたんです……記憶にあるやつの50倍は豪華ですけど」
(「え、学生時代のあっ君?」)
レモンが想像しかけたそこに、目の前の焼きそばパンが華麗に割り込んだ。その大きさといい、挟まれている焼きそばのクオリティといい、つぶらな目がより丸くなるのも仕方なしという出来栄えだ。
「パンの概念が覆されるボリュームですね……。じゃあ僕は……唐揚げボール買います!」
紙カップの中を満たす唐揚げから立つ香りからは、ニンニクと生姜が仲良くしている事がわかる。食欲そそる香りは、絶対美味しいという予感の塊だった。
焼きそばパンと唐揚げボール。メイン系2つを買ったら次は――やはりデザートだろう。
「これも買いましょう、大判焼き」
「え? それは今川焼き……」
「は?」
芥多の空気が変わった。
なぜ。
レモンはきょとりとして、同じ名前を口にする。
「今川……」
「なんて?」
あれ?
「い、いま……」
「呼称は大判焼きが覇権ですが?」
過激派だ!
芥多は笑っているけれど笑っていない。瞳孔がかっ開いている気もする。
「美味しければ何でも良いんです!」
長男かどうかわからないが少年は判断が早かった。勢いよく店主の方を向く。
「こし餡とカスタード、チョコレートとチーズ下さーい」
「また勝利してしまいました……敗北を知りたい。いえやはり結構」
そしてこの林檎飴とかは奥さんへのお土産に!
しっかりと家族の分も買った芥多は大満足の笑顔で、レモンもまた、焼きそばパンや唐揚げボールを抱えて双眸を煌めかせる。
落ち着ける場所でいざ花見をと食べれば、ふっくらとしたパンと濃いめの焼きそばは最初から大満足。唐揚げボールは、予感通りの香りがさくっとジューシーな美味しさと一緒に、胃袋へ幸せのダイレクトアタックをくれる。今川――大判焼きも、和のデザートとして心がほっこりとする味わいを届けるばかり。
舌鼓を打ち続けてぺろりと平らげたレモンは、ふう、と満足の吐息をひとつ。腹の具合はどうだろう? 探ってみると、まだまだ行けますと無言のシグナルが返った。
「美味しい……! さぁあっ君、次はジェラートに……」
「色々買い込んだからでしょうか? 魔女代行くん、後ろ」
「え? 後ろ?」
振り向いた瞬間、レモンの胸は高鳴った。
「ねっ猫さん……!」
しかも成猫も子猫もいる。柄は黒や真白、三毛にサビ。様々な猫が花筏の上でちょこんとお座りを――食べ物に惹かれてか、三毛の子猫が鼻をぴすぴすさせながら近付いてきた。
「可愛いですね、と言うか、予想以上にいっぱいいる……!」
「俺は犬派なのできっと」
「じゃあ、あっ君には……」
芥多は頷いた。
自分の後ろには犬が――しかもそう! 群れが!
「え! 犬じゃない!」
デデドンといたのは生き物ではあったが、もったりとしたフォルムのそれは犬でもなければ犬科でもなかった。
「か、カピバラ!」
「カピバラ!? 初めて見た!」
かすかに目を震わせるレモンの横で、犬の群れ登場に期待していた芥多の表情がゆるゆると温まっていく。なぜならば。
「いや可愛いな……これ食いますか……?」
差し出した唐揚げボールは、登場してすぐ寝転がったカピバラの口に吸い込まれていく。これは――可愛い。すぐおかわりを出す芥多の隣で、レモンも唐揚げボールを両手で割いた。
「はい、猫さんどうぞ。たくさん食べてね」
お味はいかが?
見つめるレモンに、尻尾を立てての愛らしい一鳴きが答えた。
広がる風景は、『彼岸結び』の名が付くのも納得のものだった。
満開桜がありながら、桜吹雪が共にある。咲いて、落ちて散って、芽吹いて、また花開く。繰り返す様は圧巻で、言葉をなくしていたローラン・シュネデール(White Midnights.・h06688) の胸にはやがて、その忙しなさに見事を通り越した呆れが少しばかり浮かぶほど。
けれど絶景を生む散っては満ちる桜吹雪は、紛れもなく『彼岸結び』の桜だ。
アダルヘルム・エーレンライヒ(片翅黒蝶・h05820)は、儚く澄んだ色彩からなる桜吹雪に紛れ、攫われて――小さな少女をひとり。見慣れた後ろ姿を桜色の中に見た、気がした。確信も、違うというそれも抱けない間に、桜の先へと手を伸ばす。
「なあ、アディ。さっきからどうしたんだ?」
ローランの声が、桜に沈みかけた意識を現実に押し戻した。
「あまり早く歩かないでくれ。身体もまだ本調子ではないんだ、追い付けない」
遠かった声が近くに戻ってくる。
垣間見た、自分よりもずっと小さな姿は――。
(「もう居ない、か。それとも見間違いだったのか?」)
は、と止まった体はそこからごく自然な動きでローランの方を向いた。アダルヘルムの顔には、親友に見せるいつも通りの表情が浮かんでいる。
「何かあったのか?」
「いや、何でも無い」
探し人が消息不明のお前の妹なんだが、とは言わなかった。――いや。言えなかった。
ローランの記憶は無く、親友が記憶をふっ飛ばしている原因がおそらく家族であろう事を考えると、下手に言える訳がない。
「俺は魚介の串焼きが気になるが……ラリー、何か欲しい物はあるか?」
「俺は要らないかな。屋台料理は味が濃くて苦手なんだ。帰ったらお前が何か作ってくれ。でも、フルーツ串は買わなくて良いのか?」
ほら、機嫌が悪くなる。
その言葉にアダルヘルムは一瞬目を瞠るが、それはすぐに和らいだ。
「ふ、フルーツ串か。良いぞ、食べきれなくとも俺が処理してやる」
「頼んだぞ」
自分の食の細さを自覚しているローランは、アダルヘルムの肩をぽんと叩いてフルーツ串の屋台へと目を向ける。苺、シャインマスカット、パイナップル、蜜柑。色鮮やかに並ぶフルーツ達はどれも美味しそうで、買って帰れば満足の笑顔が咲くだろう。
けれど。
(「中高生に人気の映えスイーツが無いと機嫌が悪くなるのは、誰だっただろう?」)
ローランはアダルヘルムと共に屋台に並びながら、うーん、と首を傾げた。
自分は甘いものが大の苦手だ。自分の為に買って帰る事は全くないと言っていい。
では、アダルヘルムはどうだろう?
(「コイツも得意では無いな……じゃあ一体、誰だ?」)
他に、機嫌が悪くなるようなひとはいるだろうか? 心当たりは?
自分の記憶を探ってみるも、何も憶えていないそこには誰のシルエットも浮かばない。なのに不思議と『買うべきだ』という思いになる。なぜだろう。わからない。
けれど。
(「買って、帰ろう」)
パズルのピースがはまるように、輪郭もわからないそこにピタリと合致する何かがある。
自分達の番が来るまでじっと並ぶローランの姿に、アダルヘルムは赤い目を静かに細めた。
(「記憶が無くとも憶えている、か」)
何者かに殺されかけ、一命をとりとめて――総て喪ってもなお、魂に残る形がある。
暫くして「次の方どうぞ」と呼ばれた2人は、アダルヘルムの主導でフルーツ串の種類と数を選び、無事に購入を果たした。
持ち帰り用のフードパックの中に並ぶフルーツ串はどれもツヤツヤとして、宝石めいた美しさがある。まさに『中高生に人気の映えスイーツ』だ。そこへ1つ2つと、桜色が舞い降りる。
顔を上げれば満開桜があり、雨のように降る桜がある。大勢の√能力者やこの√の住民達が集ったのだ、暫くすれば桜に起きた異常は収まり――彼岸と結ぶ桜が、本来の在り方を取り戻す。その時に見る景色は今とは違うだろうけれど。
「また見に来ようか。勿論、3人で」
「ああ、勿論だとも――皆で、な」
ローランの言葉にアダルヘルムはしっかりと頷き、約束する。
(「お前たち兄妹の為なら、この生命だって惜しくは無いさ。だから……たとえ、この生命に代えても」)
密かな決意が赤眼をより鮮やかにした時、菫の双眸がじとりとなった。
「おい、変なこと考えていないか」
「変なこととは?」
「……お前も一緒だぞ?」
“ 3人で ”
記憶が欠けても。共に過ごす数が変われども。
季節が必ず巡るように、不変のものがここにある。
「しづ心なくを理解できる早さは面白いけれど……これで役に立っているのか」
尾崎・光(晴天の月・h00115)の呟きは舞い落ちる桜にくるまれ、誰に聞かれる事もなく春の陽気にとけていく。
この時期だけの風景を楽しむあやかし達の姿はあちこちにあり、マガツヘビ絡みでなければ、満開と桜吹雪が同時にあるのもこの√だからだろう――と納得していたかもしれない。それほどに、『彼岸結びの桜』を味わう花見は賑わっていた。
光は訝しみながらも周りを眺め――ていると、足元に何かが触れた。固くない。どちらかといえば柔らかく、そして温かさもあった。
「猫? あれ、お前……」
光が見下ろすのを待っていたかのように真っ直ぐ見上げる黒猫は、左の髭が2本白い。黒い毛並みの上でぴんと伸びるそれは、こうして見るとまあまあ目立つ。
「お前、姉さんが可愛がってた道場の居付きだね」
黒猫は答えない代わり、ゆらりと尻尾を動かした。鳴いて答える事はなく、ゆっくり瞬きする事もない。記憶の中でも今でも自分に懐いていなかった黒猫が、なぜ此処に。
すると黒猫が花筏の上を歩き始めた。自分の足元に現れたという事は桜が結んだのだ、と思う。しかし現れてから「それじゃあ」と歩き始める様には、猫らしい自由さがあった。
(「どこへ行くんだ? ……そういえば」)
昔から女子だけに近寄ってたな。
記憶を胸に後を追う。桜色に覆われた地面はふかふかとしていて、奇妙な心地だ。先を行く黒猫は気にしていないのか、緩やかにその上を歩いている。するとふいに方向を変え――。
(「……あ、また散った」)
ルイ・ミサ(天秤・h02050)は鮮やかなオレンジ色の目を瞬かせた。
繋いでいた糸がほどけるように、桜の花が離れ、花びらとなって散っていく。そのすぐ傍に咲いている桜はあるのだが、そちらよりも散る花びらに視線を惹かれ、追っていた。
行くように組織に言われ来てみた場所に広がる、『彼岸結び』と呼ばれる桜が生む風景。そこはルイから見て随分とのん気な場所で、マガツヘビという超強大な古妖の脅威が迫っているとは、にわかに信じがたいものだった。
足元に感じた、ふわりとした温かさ――黒猫だって普通にいる。これがのん気でなくてなんなのだろう。にゃあん、と向けられた可愛らしい声と見上げる視線に、ルイは笑ってしゃがみ込んだ。そっと手を伸ばすと、黒猫の方から頭を擦り寄せてくる。こんなに人懐こいのに1匹だけとは。
「……お前も、ひとり? なら、一緒に花見しようか」
「ごめんね。猫が邪魔をしてない?」
柔らかな声だ。
声の主へ顔を向ければ、声に覚えた印象通りの青い目がこちらへ向いていた。
ルイは黒猫を撫でながら、先程の問いへ首を横に振る。
「キミ、飼い主?」
「飼ってはいないよ。腐れ縁?」
「?」
ひとではなくネコと腐れ縁――とは。
首を傾げるルイに声の主、もとい光は緩い笑みを浮かべるに留めた。死んだ姉が可愛がっていて、けれど自分には懐いていない、女子が好きな黒猫で――と細かに言う事もないだろう。その代わり。
「僕も暇だったんだ、良ければ猫と一緒に屋台とか行かない? この後に野暮用があるから、そう長居は出来ないけど」
「気になる屋台があったし、いいね。行こう」
その誘いに、オレンジの目がぱっと輝いた。ルイは笑顔も咲かせながら頷いて、撫でていた黒猫の顔をそっと覗く。
「お前も一緒に行く?」
「にゃあん」
2人と1匹の屋台巡り。その第1号は透き通った飴を纏ったフルーツ屋台だ。
早速食べれば、薄らとした飴のヴェールがかすかな音を立て、その向こうにあった苺が飴の甘みに甘酸っぱさを華麗に添える。
食のお次は遊戯――射的だ。ルイは抱えていた黒猫を光に預け、目を輝かせながらコルク銃を構える。きらきらとしたオレンジ色と銃口は可愛い人形へ、ぴたり。
「一度やってみたかったんだ~」
「にゃー」
「妬くんじゃないよ」
猫は猫。人形は人形。宥める光は不満げな「ンー」に苦笑いするも、見事人形を撃ち落としたルイに抱えられてすぐ喉を鳴らした黒猫に、あーはいはいとすっかり色々納得するのだった。
歩いて屋台を見て、射的をして。覚えたのは少々の喉の乾き。そこへ光が差し出したものに、ルイは目をぱちぱち瞬かせる。
「桜の甘酒? 酔わない?」
「ノンアルだって。きみもどう?」
「……飲んでみる」
とろりとした1杯にルイはおずおずと口をつけ――。
「どうだった?」
「うん……嫌いじゃないかも」
訊く前から、煌めいたオレンジ色が教えてくれた感想。
ご機嫌に細められる双眸に、青い目も嬉しそうに笑っていた。
√妖怪百鬼夜行を訪れるのは――初めて、な気もする。
(「そんなガランちゃんですが、お仕事前に花見を楽しめと言うのであればがっつり満喫させて頂きましょう」)
楽しげにきらりとしたガラティン・ブルーセ(贖罪の・h06708)の双眸は、辿り着いたそこで贅沢に舞う桜吹雪によって彩られた。ぽかんと口は開き――ぱあっと銀が煌めく。
「すげー!」
めちゃくちゃと言っていいレベルで舞う桜吹雪と、それにも関わらず満開を誇る『彼岸結びの桜』。今だからこその光景に気分も目をキラキラさせていたガラティンは、ふわわんと鼻をくすぐってきたいい匂い――屋台エリアへ一直線。定番も目新しいものも並ぶそこは、花見に欠かせない屋台飯を求める住民達と、商売魂逞しい店主達の活気で賑わっていた。
「何から食べましょうかねぇ。まずは甘い系?」
ふんふんと眺めながら目についたのは『豪華屋クレープ』の金ピカ文字が目立つクレープ屋台だ。ちょっと背伸びをして見たのは、たっぷりの生クリームにフルーツを乗せた魅惑の姿。
「まじで豪華っすね。向こうは……フルーツ串? 種類たくさんでいいっすねぇ」
がっつり満喫にはピッタリだ。ガラティンは早速買い、そこから名前がスパイ並みにあるアレ屋台へ迷わず行く。
そうして手に入れ食べ始めたクレープとスパイ並みのアレは、出来立て限定の美味しさもセットの幸せの塊だ。合間に食べたフルーツ串は、瑞々しいフルーツ達が口の中をいい具合にさっぱりさせてくれる。更に更に!
「ここに塩っぽいもの挟んでの味変っすよ!」
あー、と笑顔で味わうのはイベント屋台定番のフランクフルト。ぷつっと弾けた皮の向こうから、肉汁と一緒に美味しさしかない肉が口の中にコンニチハである。食べながら次の食探しだって欠かさない。
(「なになに唐揚げボール屋? コロッケやカツが並ぶ揚げ物屋台まで……商店街が何かでしたっけここ?」)
誘惑の多さは確かに商店街規模。ガラティンは考えながら腹に手を添え――ニッと笑う。胃袋が言っている。自分、塩焼きそばパンもギリギリ行けます! と。ならば!
「花より団子な春をまだまだ大満喫するっすよー!」
たっぷりと湛えた花。枝から離れて降る花。満開と、芽吹きと、散る瞬間を同時に見せる『彼岸結びの桜』に、賀茂・和奏 (火種喰い・h04310)は碧い目をそっと細めた。それに気付いた烏が和奏の肩でとんっと跳ねる。
「ん? ああ。妖力に汚染されてる子を愛でることで元に戻せるなんて楽しみがいがあるな、と思って」
幼少期から怪異が身近な和奏からすれば、彼岸と結ぶといわれる桜もこの通り。
あの子を愛でる前にと屋台へ向かう足取りは軽く、物色するその腕には敷物と握り飯を収めたバッグがある。けれど初めての√の食を楽しみたくて、心うきうき腹はぐうぐう。それに従う和奏の足はコロッケと魚介串の屋台へと。
揚げたてと焼き立てが入った袋も装備した所で、和奏は考えた。後は一旦食べてからにしようか。それを敏感に察知したのだろう。青が嘴で髪を引っ張ってきた。
「いてっ。何、肉串も食べろって? わかったわかった」
肉串屋台に並んで無事購入すれば青の視線がようやく髪から外され、ほっとしながら戦利品と一緒に桜の側に落ち着けば、1人と1羽、そして1本の花見が始まった。
目が屋台飯に向いている間、視線を上げた時、頭上を仰いだ時。どんな時も目に入る桜はただただ見事。和奏は桜に見惚れながら舌鼓を打てる幸せを存分に噛み締める。
「美味しい、綺麗……永久機関の完成かな?」
あー、と食べたコロッケがざくりと音を刻む。塩胡椒をきかせた中身はほっくほくで、表情が温かに緩んだ。青は――肉串で腹が満ち、気持ちよさそうにうとうとしていた。
(「呑気なもんだよ」)
マガツヘビって知ってる? なんて声をかけうとうとタイムの邪魔をする気はない。
さて次はと握り飯と肉串をセットで味わおうとした時、近くで花見をしている壮年の夫婦と目が合った。今日の陽気と似た、穏やかな夫婦だった。
「綺麗ですね」
なんで、だろう。
しらないひとなのに、声が詰まる。
胸の奥が、何かで掴まれたような。
ねえ、と夫婦が互いを見て笑い合う。
それは桜に似合いの仲睦まじさで――、
「ええ、とても」
そう返すだけで、精一杯だった。
花ひとつ。花びらひとつ。
止む事なく降り続く桜の雨が地面へ落ちる前に空中で捕まえようとするも、これが意外と難しい。勢いよく手を伸ばせばふわっと離れ、今度はそっとと挑むも春風が邪魔する事もあった。
「うははっ、歩いてるだけでも楽しいな!」
けれどツァガンハル・フフムス (忘れじのトゥルルトゥ・h01140)は無邪気に青い目を輝かせ、桜雨の中を元気に歩く。その頭に桜をいくつか乗せたまま。
取り敢えずと買った屋台飯を抱えベンチに座り、飯だ飯だと手を伸ばす。どれから食べるかなぁ。楽しげな視線はベンチに並べた屋台飯を眺め――ていくうち疑問符へ変わった。
「……これって何だっけ?」
透明のぺらぺら容れ物に入った、茶色くて細長いやついっぱい。丸くてチョコみたいなソースがかかっていて、小さい野菜の欠片も少し乗っているやつ。
「まあ美味そうな匂いしてるしいいか! おっとそうだ、食べる前に目的の確認っと。えーと……『彼岸結びの桜』か」
ベンチの隣にある桜を見る。この桜は、いつの間にか誰かや何かを傍に現すらしい。では自分もそれを体験するのだろう。しかし。
「……うーん。俺は記憶がないから現れても分からんかもなぁ」
取り敢えず食うか。
ツァガンハルは|細長いやつ《焼きそば》を口に入れ、多分未知なのだろうその味にぱっと目を輝かせた。ガツンと濃い味、炒めた野菜と肉と麺。美味いという叫びはもぐもぐ動く口の中でくぐもるのみだ。
「ん?」
不意に何かの気配がした。ひとつ――いや、たくさん?
そちらを見ると確かに誰か達がいたのだけれど。
「……やっぱ誰かは分かんないや。なぁ、もっと近くに来てくんないか? うまい飯もあるし。あとで一緒に遊ぼうぜ! 誰が一番桜を捕まえるか競争とか!」
からりと笑って手招くも誰か達はそこから動かない。
その、表情は。
「……どうしてみんな、悲しい顔してるんだ? おぁっ! 口ん中に桜が入った! ペッペッ!」
ぼーっとしていたから入り込んだらしい。これは美味しくない。
「花弁で飯が埋もれる前に食べるとするか」
だったらこうだと一口を大きくした分、広がる美味さも増える。輝く目は期待と共に|丸いやつ《たこ焼き》へ向かい――誰か達がいた記憶がこぼれた事に、気付かない。
爛漫の春が広がっている。
春の空と、満開桜と、桜吹雪。これらが同時に在る事は異常だとわかっていても、美しいものは美しかった。敷物の上に腰を落ち着けていたルイ・ラクリマトイオ (涙壺の付喪神・h05291)は目を細め――近付いてくる足音へとその微笑を向ける。
「お二人とも、お帰りなさい」
「おう」
「お待たせー、あれこれ食べたすぎて迷ってた……!」
けど厳選してきたぜと笑うルーチェ・モルフロテ(■■を喪失した天使・h01114)に、東雲・夜一(残り香・h05719)は口の端を上げながら、ルーチェと一緒に敷物の上へと腰を下ろした。
「二人共。気になった品は無事に買えたか?」
「ええ、私は。お二人は……ふふ。そのお顔を見れば一目瞭然ですね」
「まあな! 俺は、タコ焼きとベビーカステラを買ってきた!」
「オレはこれ。焼きそばと……」
濃い香りに惹かれてなと言いながら輪ゴムを外し、続いて取り出したのはフルーツ串。それを見たルイが、おや、と首を傾げる。
「苺にされたのですね」
なぜそれにしたかというと単純明快。
「イチゴの美味さはすでに知ってんよ」
だからだ。
夜一がニィと笑って添えた呟きに、ルーチェはパックの中でキラキラと艶めくイチゴ串を熱く見つめながら頷いた。
「焼きそばもフルーツ飴も美味いよな、分かる! リンゴ飴もボリュームあるけど美味いぜ? 今度試してみてくれよ」
「リンゴ飴か。覚えとく。で、ルイは?」
「私ですか? このラムネという飲み物……瓶の中にガラス玉が入っているのですよ。不思議で、美しいなと思い……」
如何ですかと微笑と共に持ち上げれば、透き通った薄青の瓶の中でガラス玉が宝石めいて煌めいた。ラムネというこれの味も、中にあるガラス玉も、どちらもルイの心を楽しませてならない。――そんな様子を見る2人の笑顔に、ルイは、はたと気付く。
「……珍しいものではないですか?」
そんな発見を挟んで敷物の上に広げられた屋台飯達は、食べる前から心と食欲を刺激する。さあてどれから食べるか。夜一は指先で顎をさすりながら考え――ちょっとばかり閃いた。
「中々に美味そうなやつだなぁ。この焼きそば、少し分けるんでそれぞれ一口分けてくんね?」
「いいぜ。ルイもどうだ?」
「では、お言葉に甘えて」
「ルーチェのヤツは分けやすそうだな」
「だろ? 俺もそう思ってこれにしたんだぜ!」
タコ焼きもベビーカステラも単位が『個』だ。えっへんと胸を張る片翼の天使に、今度は夜一とルイが微笑ましげな眼差しを向ける事となる。
出来立てのタコ焼きは少々熱いものの、ふうふうと冷ますという手間も美味しさのスパイスとなるようだった。表面はしっかり焼かれていて、中身はとろりとしたそこにプリプリのタコ。ソースと青海苔の香ばしさも3人を喜ばせた。
焼きそばはタコ焼きとはまた違う濃厚さ。具材は肉も野菜も遠慮なしに入っていて、屋台飯としては意外にも豪華だ。
そんな濃厚コンビに、ベビーカステラの素朴な甘さやフルーツ串の瑞々しい甘酸っぱさ、ラムネの爽快感が上手くハマる。美味しそうだと思ったそれらはどれも想像通りの美味しさで3人を満たしていき、そうなるとお喋りの花も咲くというもので。
「こうやって、みんなで一緒に花見するのもいいよな。んー! ラムネが美味え!」
「同館だ。飯を食って花を見て騒いでりゃあ、見知った顔もやって来るかね。『彼岸結び』なんだろ、この桜?」
「そう聞いていますね」
いずれ現れるのでしょうか。ルイの穏やかな声にルーチェは口を開き――かけた口を閉じる。
(「……? 何か、声がしたような……気のせい、か?」)
急に黙ってキョロキョロすれば、当然夜一とルイはそれに気付く。
どうした。
どうかしましたか。
それぞれの言葉をかけようとしたところで、2人も気付いた。
「どこかの知らねぇ誰かが来たらしい」
「ですが、お姿が見えませんね」
「やっぱ誰か――いや何か? あーどっちでもいいや! いるよな!?」
気の所為ではなかった。ルーチェは改めて周囲に目を凝らすが、見えるのは花見日和の桜と、自分達のように花見を楽しむ住民達しか見えない。――けれど確かにいる。何と言っているかわからないが、幽かな声もした。
「オレたちの飯を食ってみてぇのかもな」
「なるほど……見えない奴らも花見を楽しみたいんかもな」
タコ焼き食うかな? ルーチェは自分が食べるつもりだったタコ焼きをじいっと見つめ、何もいないように見えるそこへと「食うか?」と話しかけてみる。
「んー……さわさわっつーか、ほにゃほにゃっつーか……声っぽいのは聞こえるんだよなあ」
「こうして花を見上げていると、前にも同じようなことがあった気がしますね」
へえ?
自分を見るルーチェと夜一に、ルイは穏やかに頷いた。
「まだヒトの姿を得る前、その時はそう……お子様がどんぐりを周りに振り撒いて。ままごと遊びの玩具に交じって……楽しかったですね」
こんな風に。
細められた目は、膝の上へコロリとやって来た季節外れの木の実を映す。
見えない誰かからの贈り物に、夜一は声を上げて笑った。
「ハハ! どんぐりかい! 折角だから誰かも含めて、ラムネで乾杯でもしようぜ」
「そりゃいいな!」
ルイが人の姿を得る前の思い出が楽しいものなら、今ここに結ばれた彼らも――「その時遊んだヤツらも知ったら嬉しくなると思うぜ?」と、ルーチェはラムネ瓶を手に気配へと笑いかけた。
姿が見えなくとも気にせず誘う彼らにルイは微笑をより和らげ、ラムネ瓶を1本、丁寧に持ち上げた。
「そういう事です。彼岸此岸の差はあれど、一期一会の花の下……よろしければいかがですか?」
どういう縁か、こうして桜に結ばれた。
生きた時代は違っても、同じ時にこうして在るのならば――どうぞ。
何となく居る気がしたそこへラムネ瓶を差し出すと、ふわりと浮き上がる。どうやら共に乾杯してくれるようだ。
「ラムネ、多めに買っておいてよかったです」
「だな。……なあ、こっから誰かの数が増えたらどうする?」
「そん時は追加で買ってくりゃあいい」
何せここには、桜に負けじと集った屋台がある。
乾杯の数が増えれば、桜もきっと喜ぶだろう。
陽を浴びる桜は、宿る桜色をより白く輝かすように在った。
澄んだ色はふわふわとした花びらと相まって清らかで、無垢で――普通の桜では有り得ない事象を起こすのも納得出来る、そんな美しさでもって2人を迎えていた。
「我儘言ってごめんね」
「気にするな、我儘だと思ってない」
一文字・透(夕星・h03721)がぽつりこぼした言葉に、共に桜を見上げていた一文字・壬(冥暗・h03665)は視線だけを返した。春風でいつもよりふわふわと揺れる前髪の下、ブルーの目は静かに桜を見つめている。
彼岸結びの桜。その存在を知った時、どうしても行きたいと、思った。そこへ行けば|ふたり《両親》に会えるかも――そう思ったから。それから。
「お父さんとこっちの桜、見たかったの」
透が口にした理由。――本当だろう。
透が珍しくねだった理由。――想像がつく。
けれど壬は、少女が裡に秘めたそれを暴く気はなかった。
「そうか、じゃあ見て回るか」
「うん」
ブルーの目が、桜から父へと移った。
時折吹く春風のように、緩やかに花筏の上を行く。くるりくるりと回りながら降る桜は、手を伸ばしてじっとしていれば容易く掌に収まった。漫ろ歩くうち、透が願った姿が桜景色の中に現れたのは、そんな時だ。
「……|お父さん《壬くん》にも見える?」
「あぁ、見える」
あの時のままの|ふたり《透の両親》がいた。
壬が最期の前日に見た時と変わらない、仲睦まじい2人が。
1歩1歩、同じ早さで寄り添い歩きながら桜を見上げて笑い合い、互いの視線を絡めてまた笑う。言われなければ、桜が結んだ存在だとわからない――それくらい、あの時と変わらぬ姿だ。透の口から、ほ、と震えるような息がこぼれた。
(「あぁ、一緒にいる」)
よかった。
ひとりじゃない。
でも。
「話しかけなくていいのか?」
壬からの問いに、透は唇をきゅうと結ぶ。
皆に助けられて生き残った|命《事実》。それは一文字・透という存在にとって、誰にも言えない負い目という形で刻みつけられた。どれだけ時間が経とうともそれが薄れる事はない。かさぶたにもならず、これからもずっと消えずに在るのだろう。
(「壬くんだってお父さんと里に残りたかったはずなのに」)
そう、ならなかったのは。
(「私のせいでできなかった」)
透は緩やかに首を横に振る。
「うん、いい」
「……そうか」
「……ただ、会えたら何か変わるかと思ったの。でも……何も変わらないね」
変わるとしたら、何が変わっただろう。考えてみてもわからなくて、ただ、目の奥がじんとする。見えていた両親の姿が、じわりとぼやけた。
「泣くな」
頭上からの声。背中に触れた温かさ。
添える程度の、控えめに届いたそれは一度だけ。ぽんと叩く事も撫でる事もなく、触れた時と同じくらいの静かさで離れていった。――けれど。隣に、変わらずに居る。
「|師匠《父親》も|あの人《母親》も心配する」
壬はブルーの目から溢れた雫を拭ってやりながら、師と仰ぐ人の顔を脳裏に浮かべていた。もし――もし、あの時に時間が戻ったとしたら。
(「師は同じ選択をするだろう。俺の|師匠《兄》はそういうひとだった」)
涙を拭われた透の目が、ぱちぱちと瞬いた。瞳はまだ濡れていて、けれど壬を見る眼差しに揺らぎはない。
「うん。もう泣かない」
「ああ。……何か食べるか? 『壬くんが見失わないくらい大きくなる』んだろう?」
「うん、でももう背は伸びないかも……もう17歳だし」
「ふ、そうか」
まだ17である少女が、他所から迷い込んだ|自分《壬》がまた迷子にならないよう目印になるのだと言ったのは、かなり前の話だ。あの時自分を見上げてきた瞳は、幼くも真っ直ぐで――。
「ねえ、私、目印になれてる?」
あれから何年も経った。
幼い子供から少女といえる年齢に成長した今、自分を見るブルーは、あの頃と変わらない。
お互い様々なものが変わってしまったが、それでも不変のものがある。
「あぁ、必ず透の処に帰る」
必ず。
紡がれた言葉が、凛とした響きで少女の心に結ばれる。
「壬くん、お父さんになってくれてありがとう」
あの日、家族を失くした。
ひとりになった。
それから年月を経た今、ひとりはふたりへ――家族となって、桜の雨が降る中を並んで歩く。
茜空めいたサングラス越しでもよく見えたその桜は、サングラスを少し下げ裸眼で見た途端、眩さを増したようだった。枝から咲く桜も、ぽとりと落ちる花も、散る花びらも。更に言えば枝と幹、根までも。『彼岸結びの桜』を構成する全てが、今が全盛期のように美しく在る。
「おーやま、賑やかな花見だこと」
「お花見って、なんか陽気になるよね」
愉快そうに笑った冬白・アイン(enforcement・ h02109)と、碧い髪を風に遊ばせて笑む青桐・畢(際涯・ h00459)の視界には、そんな桜が数え切れないほどあった。
対マガツヘビという位置づけではあるものの、集まった住民達と屋台の数はなかなかの規模だ。そこに満開桜と花吹雪と花筏を生む『彼岸結びの桜』があるからか、肌で感じる陽気さには妙にきらきらと心くすぐるものがある。一番きらきらして見えるのは、やはり晴空の下にある桜なのだけれど。
「本当に桜一色だ……」
「桜吹雪に花筏と綺麗なもんだな」
こうして眺めるだけも良いけれど、花だけでなく団子も気になるもので――なにせここの屋台は妖怪達がやっている。33歳と28歳、成人男性2人。興味津々の文字を揃って目に宿し、屋台へ向かうのであった。
「畢ちゃんはどういう屋台行ってみたい?」
「俺は甘味なら何でも。こういうところ、お団子も更に美味しいし。冬白くんはやっぱり鯛焼きだよね」
「そーよ。俺と鯛焼きの縁は深いの」
軽く言うアインに畢は「そうだよね」とニッコリ返す。
アインが所長を務める事務所1階に居を構える鯛焼き屋に、アインがどれほどのこだわりを抱えている事か。畢はアインが口にした『縁は深い』に言葉以上の深度を感じつつ、右に並ぶ屋台、左に並ぶ屋台と視線を移しながら歩いていく。
「色んな種類あるなぁ。花見の時期だし、桜鯛焼きt」
「桜鯛焼き?」
「食いつくの早いよ冬白くん。いやね、そういうのがあるといいなと。桜餡を使ってるとか、生地が桜色をしてるとか」
「桜を冠するなら確かにそれくらいはしてないとねー」
「うんうん。ぱりっとした天然は魅力的だし、しっとりめな養殖も捨てがたい。チェックしないとね」
「あぁ、見つけたら色々買ってみよう」
屋台の数は決して少なくない。
そこから鯛焼き屋台を見つけるのは骨が折れる――かと思いきや。
「桜関連あれじゃない?」
「見つけた? 畢ちゃんナイスー」
鯛焼き神が2人に微笑んだか、|警視庁異能捜査官《カミガリ》の成せる技か。鯛焼き屋台はさくっと見つかり、しかも気になる文字まである。
「桜餅風だって」
「へぇ、いいな。桜餅風」
思わずうきうきしながら捜査開始とばかりに並んで1つ買えば、生地は桜餅という単語に恥じない桜餅色をしていた。中の餡子含め、味わって確かめなくては。
「冬白くん、なんなら頭とお尻で分けよう……どっち派?」
「…………」
(「真剣に悩んでるなぁ」)
「……おしりの方」
「はい、どうぞ」
むしりと分けられた鯛焼きのお尻側を、あーん、と一口。熱々の型で焼かれた生地は外が程よいぱりっと具合で、噛むうちにもちもち食感が増していく。ほんのりと感じた甘く爽やかな香りも『桜餅風』に偽りなしの完成度で、サングラスの奥にある目が満足そうに弧を描く。
1つをはんぶんこした2人は、次の屋台グルメを求め歩き始めた。屋台が並ぶエリアにも桜は何本も植えられていて、花見場所に事欠かない。歩む速度を緩やかにした2人は、花がぽとりと落ちる瞬間を見た。
「あ、風船みたいに蕾が出てきた」
「おんや。こんなに早いとはねぇ」
足を止め眺めていると、小さかった蕾は濃いめの桜色に染まりながら大きくなり、数分かけて花開いていく。開ききれば、咲いた事を誇るように陽を浴びて――そして暫くすると、先程の花のように落ちるのだろう。
それをずっと繰り返す現状は確かに異常事態だ。けれど不思議な桜の普通でない今が畢は少し楽しくて、花の盛りも、散る姿もどちらも見れる今がアインの心にも贅沢な心地を生んでいく。
気付けば花びらで髪と肩が飾られていて、アインは軽く息を吹きかけて桜吹雪の仲間に戻してやり――そよぐ碧い髪が、桜でロマンチックな事になっているのに気付く。
「畢ちゃん、桜の花びらに攫われないようにな」
「……浚われるって俺そんなに儚いかな」
「少なくとも、俺よりは?」
「冬白くんもなかなかだけど」
交わす言葉を冗談めかしこみ、笑う。
そうしなければ、裡で音もなく芽吹いた恐ろしさが花開いてしまいそうだ。
ここの桜は、彼岸のものを結ぶ。
――結んだものが死んだ部下達でも、そうでなくても。
――もし知った顔がいたら、向き合うのは。
「冬白くん、近づき過ぎない方が良いよ――俺の霧が、そういってるし」
「……そうか。ありがと、畢ちゃん」
静かな風が吹く。
さやさやと聞こえた音は、桜のものだけだったろうか。
「これは見事」
詩匣屋・無明(百話目・h02668)がこぼした感嘆へ応えるように、風で揺れた枝からふぁさりと桜の雨が降る。花と花びらが織りなすそれは、無明がさしていた唐傘にささやかな音を添えた。
「唐傘がなければ桜にまみれていたろうな。実に花見日和といえよう」
花見日和の言葉に玉巳・鏡真(空蝉・h04769)は異を唱えない。その通りだ。天気はよく、『彼岸結び』がつく桜は満開と桜吹雪のセット。そしてそして。
「詩匣屋、花見といったら何かわかるか? そう、美味い飯と酒なんだよ」
というわけで。
鏡真の銀の目が無明の顔をじっと覗く。
「|爺さん《詩匣屋》、アンタの酒で一杯やらないか?」
酒。それはいい。
花見とは宴であり、宴には酒が欠かせない。
無明は鏡真が求めるそれを取り出すと、自分達の間にトンと置いて笑む。
「うむ、滅多に手に入らぬ酒だ。有難く思え、きょーま」
「そりゃあ勿論。代わりにってわけじゃないんだけどな……」
「む?」
――すっ。
鏡真が差し出した紙袋から取り出されたのは、厚みのある円形の和菓子だった。焼けば素朴な風味がよい生地と、時に餡子、時に西洋のクリーム等を抱えた例のアレ。鏡真の頭にいくつもの名前がスロットよろしく浮かび――ピタッ。表示された名は。
「これは……あれだ。ベイクドモチョチョだ。知ってるか爺さん」
「べいくどもちょ……?」
「甘くてうまいらしい。食ったことはないけど」
「食うた事がないものを出したのか。というかこれは今川焼きじゃろう。揶揄っておるのか。まあよい、一つ頂こう。それにしてもお主は……」
「ん?」
自分が指摘している間に、最初の一口をふかっと行っていた鏡真の目が瞬く。その顔は、無明が「それにしても」と言う前に視線を向けていた方向のまま。向こうにあるのは――数多の屋台が並ぶエリアである。
「どうやら花より団子のようじゃのう」
くっくっと笑いながら酒を注ぐ無名に、鏡真は酒を熱心に見つめながら肩を竦めた。
「けどよ爺さん。せっかく祭りみたいになってんだし、屋台でつまみと飯を調達していこうぜ」
「……ま、それもそうじゃな。酒の肴はあるに越した事はない」
生姜とニンニクがきいた唐揚げボール、イカ焼き、焼き鳥各種。
花見に華を添えるものを得た2人はそれぞれ好きなものを好きに味わいながら、一口、二口と酒を呷り、そのたびに「美味い」と満ち足りた声をこぼす。
「これは見送った軟骨唐揚げを買うべきだったか」
「後で買いに行こうぜ爺さん。屋台は逃げないんだ」
「はは、確かにそうじゃ」
「今は今あるやつをこうして食って、で、爺さんの酒を飲んで……あー、うめえ……!」
何度目かのそれを紡いだ鏡真は、体内に含んだ酒の香りも味もたっぷり楽しんでいた。屋台飯もだが、何より無明が出してくれた酒がいい。滅多に入らないと言っていたが、相当のレア物なのだろうか?
「爺さんの用意してくれる酒が一番うめえんだよなあ。何か曰くでもついてるんじゃねえかってくらいだ」
「曰くか」
ふむ、と片眉を上げ笑う様に、鏡真は空になった酒坏をゆったりと差し出す。
「勿論褒めてるんだぜ? だからもう一杯頼むよ」
「機嫌がいいのう」
「んん? そりゃあ、そうだろ」
程よく飲んで、酔って。
「ああ、ご機嫌だね。花より団子なのは認めるが、桜を見るのだって嫌いじゃねえさ。だがまずは胃を美味いもんで満たしてからな」
空になった酒杯へ酒を注いだ無明の口が、緩やかに弧を描く。
「曰く、と言ったな」
ならば語ろう。
「かつて濁り酒だった日本酒は、灰によって澄んだ清酒になったそう――これもまた、古の手法に倣って作られた酒でな」
「へえ。それは、作るのに手間がかかりそうだな」
「じゃろう? そして、此奴の奇特は灰にある」
「灰?」
「ああ。なにせ其の灰は――」
人間の遺灰なのだそう。
この酒は、魂を呑み、故人を偲ぶための酒だと謂う。
「……」
「……」
静寂が落ちる。花見の賑わいが、奇妙に遠ざかる。
銀の目はぴたりとして動かず――ふ、と無明の口から音がこぼれた。
「はは、信じたか」
「おい信じただろうがっ」
「嘘か誠かはご随にせい。お主が信じたその瞬間は、確かに儚く美しい酒であったぞ」
ああほら、見てみろ。
彼岸と結ぶ桜の花も、儚く美しいそこに咲いている。
アネモネの瞳がじいと見つめる先で桜がはらりはらりと舞い散り、散ったそこに蕾が顔を出した。蕾が膨らみゆく様を見つめる少女の小さな口がゆるりと開かれて、フランクフルトに歯を立てる。ぷつりと皮が割れ、熱を抱いた肉がララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)の口内を美味しく満たす。そのさなかに蕾だったそれが花咲いた。
「まるで桜が踊り狂っているようね」
儚くて、美しくて、狂おしくて。
今日という日で、それが何度も何度も繰り返される。
「……ん? ララのシュネーが気に入ったの?」
もう片方の腕で抱えていた桜彩のくまに、くまが宿す色よりも明るく白い花びらがついていた。摘んでふうと風に流し――花筏へ落ちていく様を、ふん、と見下ろす。
こういう花逍遥は嫌いではない。ただ、気に食わない。
(「ママの花でもある桜が『穢された』わ」)
それもこれもマガツヘビとかいう偉そうな蛇のせい。
「轢き潰された蛇のくせに……あら」
不満げに尖っていた唇がほどけた。
春の空に、美しい桜色が在る。
桜の龍が桜木を守るように飛んでいた。地上にある春の灯りめいて存在する桜達を愛でるように、慈しむように。春風に姿があればきっと、あの龍その姿に、ララの視線がぴたりと縫い付けられる。
「……キルシュネーテ」
今はもう『いない』、桜の龍神。
此岸のものではなく、彼岸へ渡ったもの。――その筈だ。
(「だって、お前は」)
ララが殺したはずだった
手に入れたはずだった
だからあの桜龍はここの桜が結んだ|存在《もの》で、だから、この√に居る。
その、筈だ。
アネモネの瞳は桜色を映し続け、けれど桜の龍は少女に気付く事なく、桜吹雪と共に姿を消した。それでもララの瞳は龍の名残を見つめる事を止めない。
少し経ってから、シュネーを抱える小さな手が、きゅうと胸元を掴む。
どうして、“ここ”から何かを奪われたような気がするのだろう。
胸の裡に、冷たい喪失感が在る。
「何時かまた、お前に逢えるかしら」
あの桜の龍と再逢を――ううん。逢わねばいけない。
「どうしてかそんな気がするのよ。……でもね、シュネー」
理由は、まだわからないの。
それでも。
「何時かまた」
マガツヘビの妖力汚染を受けた桜の事を考えれば、住民達で賑わうのはいい事なのだろう。けれど半人半妖の特性とそれによる“これまで”を考えると、彼らとは出来るだけ距離を取っておきたい。
白椛・氷菜(雪涙・h04711)はひとり、降り続く桜を見上げた。透き通った青い双眸にいくつもの桜色が映り、過ぎていく。
「……綺麗ではあるけど……妖力に汚染されたというのは、不憫ね」
もう少しだけ、頑張って。
桜へ添えた言葉は、雪のように静かで儚かった。
「んー……」
ゆっくりで大丈夫というジェラート屋店主の言葉に甘えながらのメニュー選び。間の後に選んだミルクを礼と共に受け取った氷菜は、他の花見客から距離を取りつつ何かを探していた。それは――。
(「あった」)
安堵の息をこぼした先にはあるのは、人気のまばらなそこにぽつんと置かれたベンチだ。見つけた時に僅かに和らいだ表情は、傍に咲く桜を眺めながら食べたジェラートでより和らいだ。まろやかで、優しい。
「……ん、おいし」
ひんやりと喉も潤してくれるミルクジェラートは、最後の一口まで氷菜にささやかな幸せをくれた。ごちそうさま、と一息ついた氷菜は何とはなしに横を見て、
(「え。兎さん?」)
ぱちくり。
いつの間に来たのだろう。不思議で、疑問で、わからないけれど。
「おいで」
試しに呼んでみる。
『うん』
(「え」)
今、返事が。
気のせい――では、なかった。もしかして、人懐こく膝に前足を置くこの兎は。
(「……いつの間にか現れるもの、かな」)
膝を軽く叩いてどうぞと示すとぴょんと乗ってきた。そのままそこでリラックスし始めた兎を撫でていると、1人と1羽のひとときに新たな1羽が加わる。
『チッ』
(「シマエナガ? この子は……」)
手招いてみる。――乗ってきた。声は。
『ジュリリ』
(「この子は、違うのね」)
兎。シマエナガ。彼岸から来た子と、こちら側にいる子。
どちらも寒さに強い種だ。雪女の血を引く自分の傍にいても大丈夫だろうけれど。
「……穏やかな思い出を、持って行ってね」
ささやかな願いへ寄り添うように桜が降る。
春の彩はきっと、彼らの花見の帰り路を照らすだろう。
満開桜と桜吹雪、花筏。
それらが同時に存在している事以外は、美しい桜に見える。
けれど。
「へぇ……此れが彼岸結び」
神籬・奏多(黄昏之禍津・h05628) の赫眼が親近感で細められる。黄泉国より遣わされ、揮う力で死者を正しい路へと導く奏多の生き方は、彼岸とは切っても切り離せないからだ。
「彼岸と縁のあるもの同士、一緒に春を楽しみましょう」
花見の共はちゃんと用意してあるのよと奏多は桜へ笑いかけた。手にしていた紙袋から取り出したのは、スパイ並み以下略してアレ屋で買ったアレだ。
「……花見って言ったらこれよね。結構好きなのよ」
まだ温かなそれを齧ると、こし餡の心地よい舌触りと甘みが広がる。ふわり浮かんだ笑みは、宙から掌の中へと迎えた花びらへ注がれた。
「こうして此の景色を堪能するのも悪くないわね」
美しく咲いて、散る桜がいる。
美味しい和菓子がある。
天気も良くて――。
「あ、」
ふと過ぎた風が、掌から花びらを旅立たせた。高く舞い上がった花びらは他の花びらと合流し、舞い遊びながら桜吹雪のひとつになって空へと上る。
「――独りは……少し、寂しいけどね」
空になった手は膝の上。軽やかに躍る桜色達に目を閉じると、花びらの音色がさらさらと耳をくすぐった。
ふわり
傍に誰か居る。
瞼を開くと、溢れるほどの桜色の中、1人の少年がいた。自分と同じ気配を纏う少年に瞠られていた赫眼は静かに綻んでいき、過ぎた日々を懐かしむように少年を映す。
「ふふ……“貴方”はそういう子だったわよね。楽しい事には必ず飛び込んでくる」
あの頃もそうだった。悪戯っ子のように飛び込んでいく姿を覚えている。
少年がこの桜の中を駆けて来たなら、花筏の飛沫が鮮やかに舞った事だろう。
桜吹雪もつられて翻り、楽しい事がもっと楽しくなっただろう。
とんっ、と少年が軽く跳んで奏多の前に立つ。自分を映す瞳に、奏多は緩やかに首を振って微笑んだ。
「――……私は大丈夫よ。貴方がそうやって楽しそうにくるから、寂しさなんて何処かへ行ったわ」
本当よ。奏多の赫が少年を柔らかに映す。
膝に置いていた手は――得物をしっかりと握っていた。
「……有難う、桜。此のお礼は務めで返すわ」
だから其れまで、もう少し待っていて。
誰かと一緒にワイワイとする花見も楽しいけれど、ひとりでする花見も悪くない。
だって、桜を、春を、ひとりじめ出来る。
(「大人っぽくて素敵」)
吉祥・わるつ(浄刹・h05247)が仲良く細めたおおきな瞳とちいさな瞳を、霧雨のように優しく降る桜吹雪がきらきら彩る。青空にかかる桜色は見た事がないほど“たくさん”で、その発生源である桜を見上げていると、数週間かけて一度訪れるサイクルがそれよりもずっと僅かな時間で繰り返されていて、わるつの眉尻は自然と下がった。
(「きれいだけど、すこし心配になっちゃう」)
よし、と下がった眉を戻しての視線は膝の上に置いていた、√妖怪百鬼夜行はじめてごはんへ。ごはんが詰められている曲げわっぱはこの√にピッタリだ。
「いただきます」
手を合わせてまずは惣菜を箸でひょい。口へと招いてすぐ、わるつの双眸がぱっと瞠られる。
「……おいしい! こっちの手毬のおにぎりは……うん、かわいくってやさしい味。じゃあ今度はこっち、桜田麩に海苔の桜が乗った手毬おにぎりを……」
頬張った瞬間じゅわりと広がった桜田麩の甘さ。いい香りがする桜形の海苔。ふふふとこぼれた笑顔は、いつの間にか隣に居た家族に気付くと、浮かべていた温かさを変えないまま向けられた。
「おいしいね、お兄ちゃん」
やさしい笑顔がわるつを見ている。
土気色の肌。小さな目。おそろいの、口元のほくろ。
――私のお兄ちゃん。
「私、最近はいろんなところの食べ物を食べるのが楽しみなの」
そうか、と頷く兄と桜を眺める。
2人でベンチに座って、陽だまりの中、同じ春を見る。
「ねぇ、お兄ちゃん」
何だ、と春を見ていた兄の顔がわるつのほうを向いた。
わるつも兄のほうを向き、白い指先で自分の顔の右側、土気色の肌に触れた。
この肌も、右目も、生まれ持ったものじゃない。
ここにあるのは、あなたのもの。
だから私は、あなたがくれた躰で、どこへだって行ける。
「これからも、よろしくね」
ああ。
兄の姿が桜吹雪と混ざり合う。消えてしまう。
「私は寂しがり屋だから、ずっと一緒にいてね」
春に攫われる直前。
兄は確かに、頷いていた。
「……おぉ……今まで見た中で一番立派……」
すごい。
ぽそりと呟いた白水・縁珠(デイドリーム・h00992)の顔は、『感動』という感情をだいぶ希釈されている。けれど爛漫と別離を同時に見せる春へ向ける瞳には、確かな煌めきがあった。桜吹雪や絨毯に向けるスマートフォンには、縁珠が巡った絶景の道のりがパシャリ、パシャリと刻まれていく。
撮ったものを見直せば、静かな表情にささやかなキラキラが寄り添う。
けれど。
「……桜さんたち、だいじょうぶー……?」
花が咲いて、散って、蕾が生まれて、また咲いている。花を咲かすだけでも体力を使うだろうに、それを繰り返してしまう今、桜達は疲れていないだろうか?
「ごめんね、浄化してあげれたら良いのだけど……」
今の自分に出来る事は、こうして幹をさすってあげるくらい。申し訳なくて俯きかけた顔が、目をぱちぱちさせながら上げられる。その頬を頭上から降ってきた花びらが撫でていった。碧い目が桜をじいと見つめ――こくん、と頷く。
「……そうだね。悪いの食べちゃったなら、ぺってしなさいぺって。二日酔いもね、出せば出す程強くなるって、じいじが言ってた」
これぞじいじの知恵袋。
縁珠は桜の幹を優しくさすり続け――そう、と囁いた。
「……あなた達、彼岸結びって呼ばれているのね」
呼ばれる理由。
結ぶもの。
縁珠は桜だけを映していた目を周りに向けた。この溢れるほどの春の中で桜が結んでくれたひとと過ごせたら。それを想像してみる。
「…………ううん、私は良いの。じいじとばあばには逢いたいけれど……この美味しそうな果物たっぷりクレープがしょっぱくなったらイヤだもの。……ほら、美味しそうでしょ」
じゃーん。桜へと掲げたクレープは甘い花束のよう。飾られたフルーツはここの√産だと店主が言っていたのを思い出す。――楽しみで、ふす、と息がこぼれた。
「この√の果物を頂くのも楽しみだったのよ。だから」
くるり。
縁珠は桜の幹に背を向け、根と根の間のスペースに腰を下ろす。
「暫く、あなた達の足元でのんびりさせてね」
見上げながらのお願いに、桜の天蓋が優しく揺れた。
ただ歩くだけで、爛漫と別離の春にくるまれる。
舞う桜の花びらも、落ちる花も数え切れない。けれどあちこちに植えられている桜はどれも満開、命の盛りを香柄・鳰(玉緒御前・h00313)に眩く見せていた。
鳰の両目はその輪郭を明瞭に捉える事は出来ないけれど、それでも眩さがわかるのは、桜を照らす空の青のおかげだった。
(「それにしても……散って咲いてを繰り返し……そんな生き急がされて、この桜木は大丈夫なのでしょうか」)
試しに、一番近くにあった桜へと寄る。顔を桜の至近までくっつけて見た幹や枝はつやつやとしていて、傷んでいるようには見えなかった。
しかし長く続けば、不思議な桜といえども無傷では済まないだろう。
鳰は屋台で甘酒を書い、桜の絨毯がかけられつつあったベンチに腰を下ろす。早速一口飲んで感じたまろやかな甘みがさらさらと喉を過ぎ――ひらり。
「……あら」
ふいに手元へ降りてきた薄紅ひとひら。
柔い白色に彩を添えたものに、鳰の表情が綻んだ。
「桜の花びらが入り込みましたか、ふふ」
あなたも飲みたかったんですか?
そっと囁いて口をつけると、花びらが唇のすぐ傍で揺れる。鳰は花びらごとすぐに飲む事はせず、器を抱えたまま春を眺める事にした。思考から緩やかに離れてぼんやりしていると、のどかな空気が体の中にまで染み込むようで――混ぜてと言うように、髪に顔に、花びらが落ちてきてくすぐったい。
吹いた風が春をざあと鳴らし、吹雪かせた。より一層降り落ちた桜色が鳰の視界も染め――隣へ訪れた気配に、鳰の動きが一瞬止まる。
霞んだ視界でもわかる。
似た背格好。同じ色の髪。女。
けれど桜の中に在ってもなお匂う蝋梅の香りだけが、違う。
「……ごめんなさい、見えないの。今の、私の視力では」
だから隣を見ても貴女の顔はわからない。
なのに顔を上げられない。
両手で包んだ甘酒の器を見つめるばかりの目を、上げて、隣へ向ける。それだけの事が出来ない理由は多分――そう、“多分”。
(「“貴女は私を庇って死んだ事を恨んでいない”。それを識るのがとても恐ろしいの、姉さん」)
今はまだ不明瞭なそれが形を得る。
それを避ける鳰の手に、ひらり、はらりと桜が触れた。
溢れるほどの桜色の中を、ミモザ色を宿した少女がゆく。
白金の花びら纏う護霊・レイラニを連れた少女――天神・リゼ(|Pualani《プアラニ》・h02997)の足は桜の傍で静かに止まり、翡翠の目は、本来ならば有り得ないふたつの事象を同時に起こす桜を真っ直ぐ映す。
(「マガツヘビを討てば、この子も救われるかしら?」)
この状況はマガツヘビにあると聞いた。ならばこの√が破壊されない為にも、矮小という言葉を気にして憤慨していた古妖はしっかり討っておいたほうがいい。
「早く元に戻してあげるからね」
それまで待っていて――とはいえ、だ。今、片手にはつやつや苺が眩しいフルーツ串がある。
(「折角のお花見だし少し楽しんでいこっかな。何処か座ろうか?」)
花筏の上?
ベンチ?
桜の下?
リゼの視線は点々と映り――ふいに、可愛らしい声が届いた。
「散っては満ちてを繰り返す桜なんて……元々不思議な桜みたいだけど、これはお花見がてら、早速調査しなくちゃ」
それには食べ物がいる。足を使う調査と頭を使う推理にはカロリーの文字が不可欠だ。甘いものであればなお良し――という事で、瑞月・苺々子(|苺の花詞《いちご はなことば》・h06008)の左右それぞれの手には、苺たっぷりクレープと苺タピオカミルクティーが装備されていた。
どこからどう見ても準備万端。苺々子は目をきらきらさせてクレープを齧り――より、ぱあっと輝かせる。生地もホイップクリームも、苺も甘い。けれどその甘さはそれぞれ違っていて、なのに仲良くひとつになっていて――つまり、美味しい!
すっかりクッション級になった花蓆に座れば、クレープも桜ものんびり楽しめる。
けれど、花と甘味があるというのに何か物足りない。それは――。
(「? 足音?」)
ふと聞こえた音。振り返ったそこに柔らかなミモザ色を宿す少女を見つけた苺々子は、「お隣いかが?」と声をかけていた。
“お隣いかが?”。
そうかけられた声も、言葉遣いも可愛らしい。
リゼは目をぱちりと瞬かせてすぐ、初めて会った|少女《苺々子》へ笑いかけた。
「ご一緒してもいいの?」
「勿論! 折角のお花見、1人で楽しむのは勿体ない気がして」
さあどうぞ。苺々子がぽすぽす叩く隣に近寄ったリゼは、再び目を瞬かせた。他の花筏と比べて苺々子が座るそこはたっぷりの桜で出来ていて、小さくも周りよりなだらかな山になっていた。
「ふふ、その場所……特等席ね。花弁がクッションになってる。お邪魔します」
「ええ、どうぞ!」
そっと隣に座って――ふかっ。体を受け止めた桜達の柔らかさに目が丸くなる。これは想像以上。素敵な座り心地ねと笑いかけたリゼは、嬉しそうな苺々子の手元を見て破顔した。
「あら、苺もお揃いね! 私も苺のフルーツ串食べていたのよ」
「本当だ! 苺、お揃いね」
リゼの言葉に苺々子も笑顔を咲かせ、私ね、とタピオカミルクティーのカップを傾ける。透き通った苺色がとぷんと揺れて、中でタピオカがゆらゆらダンスを披露していた。
「苺が一番春らしい食べ物かなって、つい選んじゃう」
春になると苺のサンドイッチやロールケーキ、苺クリームやチョコを使ったドーナッツ、そしてそして――と、苺を使った色んな食べ物が登場する。それが、毎年ある。しかもいっぱい登場する。
「確かにそうね。『春の食べ物は?』って訊かれたら苺や桜が浮かぶもの」
「でしょう? あっ、私、苺々子っていうの。名前にも苺が入ってるからかしら」
「まあ。名前にも苺が?」
食べ物だけでなく、名前も春らしさでいっぱいだなんて。
偶然の出会いに重なった素敵な春の彩。苺々子を映して楽しげに細められる目は、芽吹いて春を浴びる緑に似ている。
「あなたのお名前は?」
「私は、リゼよ」
「……リゼ! ステキな名前ね」
「ふふ、ありがとう。……ねえ。よかったら、お友達になってね」
「えへへ、勿論よ。……あのね、リゼ。今食べてるものを食べ終わったら、一緒に屋台を見に行かない?」
「ええ、行きましょう。他にも苺があるかもしれないわね」
「他の苺……じゃあ、もしかしたら」
お揃いが増えるかも?
声を2人の視線が絡み合い――くすっと笑顔がこぼれた。
春一番に出会えた素敵なあなた。
声をかけたその時から、きっともう、お友達!
透き通った菫の双眸に輝くような春が映る。
命を咲かせて、命を散らして、そしてまた命を芽吹かせる。1年をかける筈のひとつの春を重ねる桜が、空と大地にその彩を降らせ、世界を包んでいく。
――だから、彼岸と此岸のあわいも曖昧になるのだろうか。
穏やかな空から桜の木、桜の木から花筏。クレス・ギルバート(晧霄・h01091)は視線を移しながら目を細め――静かに顔を伏せた。視界を染める春の命を美しいと思えども、ここの桜についた名のような事象は自分とは無縁だろう。
「……ヒトの姿に堕ちて、何を喪ったのか憶えてもない俺と花見をしたい奴なんて――」
けれど続く筈だった言葉は音にならずに散る。
瞬きの間、気付けば傍らには1人の少女がいた。人間だ。春風にそよぐ髪とクレスを見る眸は、胸に揺れる花飾りと同じ彩。桜色が溢れるそこへ現れた少女の青は、夜明けに見る彩を思わせた。
「…………、」
己は、声というものをどう発していただろう。
当たり前だったものを見失いながら、忘却の底から掬おうとした先から記憶の欠片がすり抜けて。少女の名を呼びたい思いに駆られ、けれど声にならず心が軋む。
それを、数度繰り返して。
それでも、呼べないまま沈黙だけが花と共に降る。
誰もいなかったそこに現れた――という事は、目の前の少女は桜が結んだ存在である事は間違いない。裡がざわつくのがわかる。届かない忘却に縁があるのだろう。なのに。なのに。
「悪い、俺……お前のこと思い出せなくて」
ようやく紡いだ音に少女が小さく首を振る。
「――唄、憶えていてくれたのね。うれしい」
「唄?」
少女が頷く。不思議そうなクレスに小さく微笑みかけると、唇が開かれて――そこから紡がれた柔らかな声が綴る旋律にクレスは目を瞠った。時折口遊んでいたものだ。
「その唄、教えてくれたの……お前なのか?」
少女が咲う。
花飾りと同じ彩がより柔らかく透き通った気がした。
長い髪が風に踊る。
名を呼ぶ声に、視界が花色に滲んだ。
その刹那。
確かにそこにいた淡い輪郭も、言葉も。全てが吹雪いた桜に攫われて消えた。
「――……」
クレスは口を開き、けれど静かに閉じ、少女がいた場所を見つめた後、巡り続ける春を見送る。
名を呼べなかった時のように、抱いた感情は音に変えられなくて――けれどかつての記憶を失くしたその胸には、あの歌声が残っている。
彼岸と結び繋がれた先に逢えた花の声は、幾度季節が巡ろうとも散る事はない。
「わァ花筏がスゴいなぁ。時雨君の地元って面白たのしいコト起きまくりだよねぇ」
ほら見てよこの量。ちょっと蹴ったら起きた桜色の柔らかな飛沫に、緇・カナト(hellhound・h02325)はへらりと笑みながら野分・時雨(初嵐・h00536)のほうを見た。
「花見してって話だったけど、普通に食べてく?」
「高評価どれ? 三位から頂戴」
ぶっつけ本番で味を知るのではなく、全てカナトに食べさせから。しかもレビュー付きで。時雨の要望に、それじゃあ、と任せられたカナトの味覚というお眼鏡に適ったのは――。
「唐揚げボールに円形カレー味のヤツに、塩焼きそばパンにフランクフルトお勧めで~」
「多い! 三位からっつってんじゃん!」
「あはは」
時雨のツッコミに「だって美味しかったから」と笑いながらゆく花筏は、歩くたびにふかりとした感触を覚える。この下は地面だというけれど、なら、桜はどれだけ降ったのだろう。周りを見ても花を全て散らして裸になっている木は1本もない。
「花見客も大勢いるねぇ」
ここの桜は『彼岸結び』がつく桜だというのに、この盛況。住民達は気にしていないようだ。
そういやそういう話あったっけ。ふーん、と時雨は金色の目を周りに向けた。ぱっと見た中に桜が結んだという存在はどれくらいいるのやら。
「幽霊でんの~? へー。ウケんね。ぼくお酒買ってきま、」
す。
音になる筈だったそれがぷつんと途切れた。
どしたの、と時雨のほうを見たカナトは、何かから距離を取る彼にも見えたモノがあったのだと把握してすぐに少し距離を取り、“見ざる聞かざる”に徹する事にした。――後で“言わざる”が出来るかはわからない。未来のオレ、任せた。
(「さて、どうしよっか」)
何となく視線を巡らせたカナトの目が、ふと目についた4人家族に留まる。
父親。母親。兄らしき青年。――それから、少女がひとり。
(「…………あぁ、」)
ちょっと此れは。
マズいかもしれない。
すぐにでも目を逸らすべきなのか。
けれど視線が外せない。
(「……静かに降り散る桜吹雪にでも紛れ去ってくれないか」)
そう願ってもいいだろう。
だって、
(「あのひと達が今どうしてるかなんて確かめるすべがない以上は、夢まぼろしに過ぎないんだ、……あの光景は」)
そうだ。
これは桜が結んだものだ。彼岸に渡った、もう居ないものだ。
(「だからあなたがぼくの元に化けて出るはずがないでしょ」)
死んだ恩師が時雨のほうへ来る。――来るな。
距離を取る。――困るな。
黙る自分を見ている。――笑うな。
「もうやだぁ、帰ってよ」
だから困るなって。
「全部ぼくのせいですから」
笑うなって。
だってあなたから離れたせい。
「無能なりに、務めを果たしたらお供しますから」
そう言ってやれば、桜吹雪の中で恩師の目が瞬いて、そして。
「――あは!」
笑い声を春の中に響かせたところで、時雨は距離を取っていたカナトに気付き、そちらへと花筏の地面を蹴りながら向かう。軽やかに寄る気配に向こうも気付いたのだろう。一点を見ていた視線が時雨へ移った。
「一周忌も経ってないのにせっかちさんでした。地獄からの出張サービスかって。桜も見頃、成仏日和ってね!」
「……一周忌にはまた自分から近況報告でもしに行ってあげたら?」
「カナトさんどーしたの」
声や表情が、賑やかなものを好む彼とは少しばかり離れている。
そういえば何か見ていたな。時雨の目がそちらに向きかけた時、カナトが静かな声を落とす。
「だって、そうでしょ。生きてるか死んでるかも分からないよりかは、」
その言葉に時雨はすとんと納得した。
何か見ていたなとは思ったが。そうか。彼も桜に結ばれたのか。
「……ああ、あなた弟さんなんでしたっけ」
桜は散れば終わり。そう思っていたが、落ちた花が踏まれ、また沁みるとは。
――どうしようか。
――――そうだ。
「元気ないね。殴ってあげよっか。それとも、お花見続ける?」
「……花見会場に赤い雨でも降らせるつもりか。普通に散るさま楽しみなよ。……お酒、買うんでしょ」
「ああ、そうだった。飲みましょうか」
探すならとびきりの酒にしようか。
そうすれば、桜吹雪にも隠せなかったものの形も、多少は朧になるだろうから。
ゾーイ・コールドムーン(黄金の災厄・h01339)は人間災厄ではあるが、花見というものは知っている。やった事も、一応はある。あれは丁度1年前だったか――それとも、もう少し前後していたか。
「そういえば、そう呼べるほど長く花を見るのは久々だなあ」
ゾーイは呟き、黄金の双眸に春を映した。
満開の桜。散る花。花筏。それから、足元をふかふかと覆う花筏の上へござやレジャーシートを敷き、その上に座って過ごす妖怪や人間達。花見の手本ともいえる住民達の様子は、星詠みの言葉通り過ごせばいいという太鼓判めいていた。
「兎に角、花見をすれば妖力の汚染を祓えるんだったね」
――花見。花見か。
その行為に心は特に何も覚えないけれど。
「それならゆっくり眺めてみようか」
どこでゆっくり花見をしようか。やってみるなら桜の下――ああ、よさそうな場所がある。
柔く笑った黄金が目をつけたのは広場の端。といっても、ゾーイは桜という花自体にそこまでの思い入れがない。けれど何となくで選んだそこに腰を下ろし、目の前に広がる春を眺めてみると――。
(「おれも散る花びらを儚いと思うようになったのだな」)
あの頃からの変化を自覚しながら当時の事を思い出す。
初めて花見に連れていかれた時は、何故ひとが花見をするのかも理解できなかった。ひとというものがわざわざ花を見る理由は何故だろう。場合によっては食事の用意をしたり、多人数で行う事もあるという。何故ひとは、花を見るのだろう――と。
(「明確な答えは結局ないというのも、きみが……教えてくれたことだ」)
黄金の瞳が、いつの間にか傍にいた少女を見つめる。声もなく現れた少女の年は中高生ほど。風に揺れる髪は長く、見つめ返してくる顔は無愛想に近い。それでいて目は優しげで――。
(「成程、あの頃と変わらない姿だ」)
桜が結ぶとはこういう事か。
ある|場所《√》に遺る彼女の|亡骸《黄金像》とは違う、生前の姿。芽吹くものは懐かしさ。けれどゾーイはそれから桜へと視線を移した。
反応もしない|力《ゴーストトーク》が“在るのは幻だ”と告げている。
ならば、見るのは桜が結んだものよりも狂い咲く花のほうがいい。
ゾーイは様々入り乱れる心中を感情として顔に現す事も、声にする事もない。裡にあるものを押し隠し、広がる春を生む桜を見上げた。
「……」
厚みのないものを陽に透かせば明るく透き通って見える事は当然で、それが複数集えば、よりそう見える事も当前で――なのに、何故だろう。黄金の目を彩るそれを“美しい”と感じる自分がいた。
赤い輝石の双眸にいくつもの桜色が舞い映る。
枝を舞台に揺れる桜の花。そこからぽとりと落ちる花や、くるりひらりと舞う花びら。エメ・ムジカ(L-Record.・h00583)が見つめていると、なくなったものを埋めるように小さく顔を覗かせた蕾が緩やかに膨らんでいく。
だんだんと濃い桜色に染まっていく蕾は、あとどれくらいしたら咲くのだろう?
咲いた後は、どれくらい咲いているのだろう?
目の前で起きているそれはエメの目に神秘のループとして映り、けれど同時に、心配の種にもなっていた。伸ばした指先で『彼岸結びの桜』の幹に触れ、そっと撫でる。固くしっかりとした幹――だと感じるけれど。
「……大丈夫? 疲れてしまわない?」
春に芽吹いて咲いて花を散らし、夏に葉の緑を濃くして秋を過ごし、冬に葉を枯らして散って、また春に芽吹く。葉に変化はないけれど、そのサイクルを今日だけで何度繰り返したのか。
「桜さん、桜さん。きっと助けてあげるからね」
とん、と額をつけて誓いを結んだ直後、黒兎の耳をあたたかな音が震わせた。
ああ。喜ぶ声がたくさん聴こえる。
「きみがくれるひと時がみんなの幸せに繋がってるんだね。……そんな優しい時間をくれる君をこれ以上苦しませる事はしないから。もう少しだけ、待っててね」
囁くように約束を重ね、そっと背中を桜に預ける。静かに赤い瞳を閉じて暗くなった視界に、ついさっきまで見ていた春の明るさがじんわりと残っていた。――瞼の裏にも、あの煌めくような春が残っている。
(「桜さんが少しでも癒えるように」)
想いを胸に唇から小さく歌を口遊む。
音色の源は、記憶の中に在る春の歌。誰かの希望や幸せを祈る詩を綴る歌声は、雨上がりのよう。少年のソプラノの声が、春の陽射しと共に桜も花びらもくるんでいく。
――そうして、エメは何気ない時間を過ごす筈だった。
自分が背を預けている木の反対側に誰かの気配を感じるまでは。
ふと気配を感じた。誰かがいる。誰だろう。
不思議に思うエメの頬を、ふわりと温かな風が撫でていった。その柔らかさはまるで、エメの歌を褒めるような慈しみを宿していて――記憶の中に在る、優しい指先の心地とリンクする。
一瞬で芽吹いた懐かしさ。
けれど反対側を振り返る事は出来なかった。
だって僕、泣き虫だからさ。
振り返って顔を見ちゃったら、君の名を呼んで、泣いたりして……。
心配させるわけにはいかない。
だから、紡ぐ音はただ一言。
「Ma chérie」
いつか遠い未来で逢えたらいいね。
それまでは、僕が君の歌を連れて旅を続けるからね。
音に出来ない、裡に咲かせた想い。
未来に続く黒兎の旅路を祝福するように温かな風が吹き、空と大地に春が舞う。
桜色の地面を白い犬が駆け回る。力いっぱい元気に駆ける勢いに引っ張られた花びらが、波飛沫のように跳ね上がる。それが、自分達の周りでぐるぐるぐるぐる――はしゃぐ死霊の友に祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は桜映る青い双眸を細めて笑った。
「あんま遠く行くなよソータ。……にしても、本当にすごい桜だな」
この前も久瀬と一緒にこの√に花見に来たけどと、久瀬・千影(退魔士・h04810)と共に仰ぐ桜は文字通り満開だ。
マガツヘビの影響で桜吹雪がはらはらと降り続き、どこを歩いてもふかふか花筏という不可思議な事になっているが、今目にしている見事な様から、古妖の影響がなかった時どれほどだったかが何となくわかる。
「√妖怪百鬼夜行は大正時代と現代が入り混じった時代背景、だそうだ」
頭上の桜から周りへ。静かに緩やかに視線を巡らせていく千影の目に街灯が映り込む。そのデザインは√EDENでいうレトロなもので、古い街並みを残している所でなければお目にかかれないタイプだ。
千影の視線はレトロな街灯から桜吹雪舞う青空を静かに横切り、自分達の前に在る桜へ戻った。
満開の桜は陽を浴びて輝くようだった。散っては咲いてを今日だけで何度も繰り返す春の象徴は、一切の穢れが見えぬ淡い色合いを誇っている。
「√EDENや√汎神解剖機関では、決められた場所でしかこれほどの桜を見る事は出来ねぇけど、この時代はまだ……俺達が生まれる前の時代が色濃く残っている証左なんだろう」
「成る程な。ちょっとぶらっとしたらこういうとこ結構あんだろうなあ。あ、久瀬。屋台も出てるみたいだし、何か買ってのんびり花見するか」
「そうだな」
飯ぐらい食っておかないと――。
桜を見るラムネの耳を、屋台があるほうへ目をやる久瀬の声がくすぐる。
彼岸結びの桜。
自分に逢いにくる人も物もない。だからここの桜に何か期待したり、恐れる事もない。
けれど、隣にいる彼はどうなのだろう。
(「あ、」)
不意に、“桜吹雪に攫われる”話を思い出した。
溢れんばかりの桜を見ていたせいかもしれない。
何だろう。何だか落ち着かない。
「──なあ、く」
ぜ。
「いざって時に力が出な――」
ラムネが千影を呼びかけた刹那。
千影がラムネの声に応えようとしたさなか。
ざあと吹いた風の音が2人の耳を塞ぎ、桜吹雪がその色と量で2人を分かつ壁になった。
桜と陽射し。ふたつが合わさった千影の世界が白く染まる。そこを彩る幽かな彩――舞う桜吹雪の、一瞬の隙。そこに、居る筈のない姿を見た。
(「――兄貴?」)
怪異狩りで失くした兄だ。
好き勝手に舞う春の欠片の中で、微笑んでいるように見えた。
兄の目は――よそへ向いている。|自分《弟》がいる事に気付かなかったか、それとも。
(「只の幻か?」)
兄の視界には春だけが映り込んでいる。
呼べば気付くだろうか。呼ばずに気付くのを待ってみるか。
視界に自分を入れた時、兄は微笑んでいるだろうか。
千影の意識を桜踊らす風の音と桜色が埋めていく。ざあざあ、ひらひら。春の音と色が、深く深く、染み込むようで――。
「っ、久瀬」
桜吹雪で千影を見失った瞬間、ラムネは考えるより先に手を伸ばしていた。そこに『久瀬が桜に攫われる』と思う暇もなかった。ただただ反射的に手を伸ばし、千影を何かから連れ戻すように腕を掴んでいた。
「大丈夫か」
「……ああ」
どこかに向いていた千影の目が、瞬きを挟んでラムネに移る。
「問題ねぇよ。桜が割って入って来ただけだ」
しっかりとした目つき。普段と変わらない口ぶり。
千影の『何ともない』にラムネは安堵を浮かべ――小さく吹き出した。
「桜まみれになっちゃったなあ」
「人のこと、言えるかよ。アンタも髪まで桜塗れだぜ?」
呆れたように笑う千影に、ラムネは腕を離して「そんなにか?」と自分の前髪を摘む。
割れたくす玉の真下に立っていたとしても、ここまで桜塗れにはならないだろう。原因は勿論先程の桜吹雪だけれど――肩も髪も見事に桜で飾られた2人は互いを見て笑い合った。
「気を取り直して屋台に行くか」
「ああ。……やれやれ。春を間近で感じられるのは良いが、桜に全身を包まれるのはちょいと困りモンだ」
「そこだけがここの花見の欠点だな。……あ、久瀬。頭の後ろついてるぞ。よし取れた」
「ありがとな。じゃあ行くか」
「ああ。腹減ったな。なあ久瀬、何から買う? 俺は――……」
千影と交わす言葉は花より団子。
けれどその歩幅は千影と同じで、追い越す事も、遅れる事もない。
今度こそ見失わぬように。
その決意は、桜の悪戯でも春の嵐でも消せないだろう。
見上げた先にある桜は美しかった。春の空と互いに映え合う輝きを宿し、風が吹くと枝が柔らかにしなり、そこに咲く花々が揃ってふわふわ揺れて可愛らしくもある。けれどそこから離れて散っていく桜色の数は、風に撫でられて一斉に散る時のよう。
はらはら、ひらひら。ライラ・カメリア(白椿・h06574)が散る花を惜しむ間にも、桜が散り、芽吹いて咲いて、また散っていく。
そうして溢れていく桜色に、共に桜を眺めていた玖老勢・冬瑪(榊鬼・h00101)は呟いた。
「彼岸此岸を結ぶ桜、か」
年に一度である筈の『春』を常と比べれば遥かに早いサイクルで繰り返すこの状況。この桜が『彼岸結び』と呼ばれる由縁とはまた別の――マガツヘビからの余計なオマケによるものだ。そのオマケは2人がこの広場へ到着してからも盛大に影響を与え続けている。
それでもここにある桜達が枯れ果てないのは、日本でよく見られる品種というだけでなく、普通の桜ではない事も少なからず影響しているのだろう。
「わたしの狭い知識で識る『|桜《それ》』とは余りにも違うわ」
ライラは溜息混じりにこぼし、自身の足元へ視線を落とす。
今日だけで幾度も巡る命の躍動。美しく見えるが有り得ないそれは、爪先で踏みしめた先に柔らかな感覚を生んでいる。薄紗のような花筏がもたらすふわりとした感覚。こういったものは豊かに茂った芝や草の上なら自然だが、無数の花と花びらが重なり続けて生まれた桜色の大地は、それとは対極だ。
「まるで眩惑を受けているかのようね。咲き綻ぶ美しさも、段々と狂気に感じるわ」
それでも、と空色の双眸が周囲に向けられる。
穏やかに桜を眺める夫婦。
数人で集まり、桜を見上げてお喋りの花を咲かせ、花見弁当を味わう若者達。
キャンバスを広げて今日という日を絵に残す学生。
様々なカメラを手に様々な春へとレンズを向ける少女達。
この景色の中で楽しそうに過ごす人々を見ていると、自然と芽吹く想いがある。
(「人々の笑顔を護りたい」)
趣味で自然と触れ合う事が多い冬瑪も、ここの桜達が見舞われている状況を憂いていた。
このままの状況が続けば、この√がいつか桜で埋め尽くされるという出鱈目な事態が現実となる。それが数年以上かかるのだとしても、花を処分するなどして対処すれば世界の危機にならないのだとしても。解決出来なければ、桜達は休める時がない。
「美しいには違いないが、自然な姿ではないでね。はよ、なんとかしてやろまい」
「──ええ、冬瑪さん。この光景は余りにも不自然だわ。お花見を楽しむのも一興だけれど、土地の流脈を元に戻さなくては」
「そうだな」
花見をすれば桜の異常はいずれ消え、マガツヘビの移動経路も見えるという話だった。
本格的な行動はそれが見えるようになってから――だとしても。
(「しっかしまあ、随分な賑わいだが……」)
冬瑪の視線が緩やかに周囲を、花見に興じる住民達を捉えていく。
老若男女。妖怪や人。年も種族も様々な花見客は皆――、
(「誰が此岸彼岸のひとかもわかりゃせん」)
居ないという事はないのだろう。しかし足がないだとか、死に装束で頭上に天使の輪っかがあるだとか、そういったわかりやすさは皆無だった。近寄れば空気を伝う気配で判別がつくかもしれないが――。
(「今回はライラさんも居る事だし……折角だし何か食って、話に花を咲かせたいところだが」)
屋台エリアは確か向こうだったか。
冬瑪がそちらへ目をやった瞬間、不意に風が吹いた。風が桜の枝を揺らし花を鳴らす。ざぁ、という音と共に2人の視界はいっとき桜に覆われ、互いの姿が見えなくなる。そして――。
「あら? 冬瑪さん、どちらへ──」
ライラは花嵐に思わず目を瞑りはしたものの、それは時間にして2、3秒だ。しかし目を開けると傍にいたのは|冬瑪《友人》ではなく、知らない『誰か』である事に目を瞠る。
第一印象は『優雅、儚い』だった。
すらりとした体躯を持つ、美しい青年だった。
白い色彩。薄ら鱗を覆う姿。――おそらく、『人』から離れた姿。
けれど。
「あなたは一体……」
春の中、青年が淡く微笑む。唇だけを動かして伝えてくれた音はしかし、ライラには聞き取れなかった。
「すみません、今、何と……」
伝えようとしてくれたものを聞き取れなかった事が申し訳なくて、尋ねようと口を開いた時。内緒話をするように人差し指を立てられてしまった。青年は微笑むばかりだ。もどかしくてライラは手を伸ばし――その瞬間、ライラの前に結ばれたものは花びらになって散った。
「……ライラさん? どこ行っただかん?」
桜で視界が覆われた、と思ったが、まさか彼女の姿が見えなくなるとは。
冬瑪は短く唸り、周囲に目を凝らす。
「参ったな、手でも繋いでおけば良かったか?」
しかしこうなってしまった以上は仕方がない。かといってあちこち駆け回る事は得策ではないだろう。ならば――。
「こんな時は動かず待つに限る。西行法師の真似事といこう……」
大地に根を張る桜のそこを拝借し、ごろんと横になる。桜がいい具合に陽射しと太陽の熱を和らげてくれるし、風も穏やかだ。冬瑪の意識は緩やかに微睡んでいき――ふと目が覚めた。
おや。
隣に女性が座っている。
「……ん、ライラさん……で、ないか」
少し、呑気に過ぎたかもしれない。
冬瑪は体を起こし、ぱさり、と自分の腹へ落ちたものに目をぱちくりさせた。知らぬ羽織が掛けられていたのだ。
『麗らかな陽射しとはいえ、風邪を引いてしまいますよ』
「ああ、ありがっさま! いかんな、油断して寝入ってまった。ど田舎モンだもんで、ひとに酔ったのもあるかもしれんな」
苦笑をこぼし、九字直違の紋が入った羽織を女性に返す。
黒髪に赤い瞳の女性だ。羽織を受け取るその顔には、目覚めた時から嫋やかな笑みがある。
「さて、ともだちと逸れてまったみたいでな。あんたさんは、金髪の、白椿の様な綺麗な女の子を見んかったかや?」
『ふふ、その方もずっと、そこにいますよ。失くすのは、私だけにしてくださいね』
「それは、」
どういう――。
気が付くと2人はお互いの姿を視認していた。
姿勢は桜吹雪が起きる前のままで、変化といえば、髪や服に桜がくっついているくらい。
ライラは目を瞬かせながら愛剣のディヴァインブレイドに思わず手を添えていた。
(「生まれたばかりのわたしに『加護』として与えられた。わたしを護るために砕け散った。……今はもう無い竜漿兵器」)
あの時わからなかった唇の言の葉が、ふいに響く。
『……大丈夫、泣かないで』
(「ああ、あなただったのね──」)
ここの桜は、彼岸に渡った“もの”を結ぶ。
だからあの青年が現れたのだと桜吹雪が晴れた今、少女は知り――。
(「白昼夢でも見とったんだろうか」)
冬瑪は狐につままれたような気持ちでライラを見た。
彼女も何かと出会ったのだろうか。ライラの様子から悪いものではなかったのだとわかり、ほっとする。自分も出会うには出会ったが――。
(「あの人は一体……どこかで会ったか?」)
わからない。
――例えそれが母であったとしても。
なぜならそれが、少年から『欠けた』ものなのだから。
彼岸結びの桜。道明・玻縷霞(黒狗・h01642)と逝名井・大洋(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)が目にした桜達は、紛れもなくそう呼ばれるに相応しい桜の筈。けれど爛漫溢れる春は多くの住民達で賑わっていた。
(「あの中に桜が結んだ者はいるんでしょうか。……何が現れることやら」)
不躾にならない程度に周囲を見ていた玻縷霞は、肩にトントンと軽やかな刺激を覚えた。見れば楽しげに笑んでいる大洋がそこに当てていた指先をひょいと上げる。
「ルカさんあっち行きましょ。イイ感じのとこ見つけました」
だってルカさん照れ屋ですもんね。
――という事で選ばれたのは桜の下の目立たない所。人目をうまいこと避けられるそこ、花筏でふかふかな大地に2人は腰を下ろした。着席してすぐソワソワする大洋の前に玻縷霞手製の弁当が置かれ、蓋がぱかっと開けられれば綺麗な卵色が顔を出す。
「弁当はオムライスにしました。小袋のケチャップはお好きにどうぞ」
「アッアッオムライスぅ! 憶えててくれたんですね!!」
(「迷わずハートを描いている……ん?」)
大洋が、あー、と笑顔で口を開けていた。これはもしや。
「……あーん?」
「あ!」
懸命にねだる24歳男性に、データ上は36歳男性の玻縷霞はくすりと笑みをこぼした。
「自分で食べられるでしょうに、仕方ありませんね」
開けた口の感じからして量はこれくらい。スプーンでハートの一部と共に掬ったオムライスを口元へ運――ぼうとした時。穏やかで温かだった春の空気が、不意に澄んだ。
大洋はぱっと弾かれるようにそちらを振り返り、玻縷霞も同じ側へと視線を感じて振り向いていた。赤い目がぱちくりとなる中、レンズの奥で青い目が僅かに見開かれる。
「まさか彼が出てくるとは……」
「ルカさんの知り合い?」
「ええ。私の先生のような方で、一人前の警察官になる為に指導してくださった√能力者です。一人前になった頃に未練が無くなって去った方ですが、」
こんな時に出なくても。桜も、このタイミングで結ばなくてもいいだろうに。マガツヘビのせいで空気を読むのが不得意になったのだろうか。
すると大洋が唐突に姿勢を正した。
今度は玻縷霞が目をぱちくりさせる間に、スゥッと深呼吸。そして。
「……現職の相棒の逝名井です、道明さんはボクが命に代えても幸せにします!」
まるでプロポーズだ。しかしどこまでも真っ直ぐな声を響かせ敬礼した大洋は、気恥ずかしさで俯いてしまった玻縷霞の隣で堂々としたもの。背筋だってずっとぴーんと伸びている。
『おめでと~! 式には呼ばれなくても行ってやるよ!』
『おいおい大洋、お前やるじゃん! いよっ!』
パチパチ弾ける拍手。ヒューヒューと軽やかな口笛。
2人の背後から響いた囃し立てる声。ぱちぱちっと素早く目を瞬かせた大洋は勢いよく振り返り、赤い目がまん丸と見開かれていった。
桜に応え、現れるとは思っていなかった。
「なん、で」
警察学校から機動隊を共にした同期達がいた。大洋を見て笑う者も、記念的瞬間を見たと顔を見合わせ笑う者も。そこに居た全員が、大洋がかつて射殺せざるを得なかった者達だった。
「……お前等、ボクを恨んでないの?」
『はあ? 誰が誰を恨むって?』
『俺らの器そんなちっさくねえわよ』
狼狽えて問う大洋の肩や背中、脇腹を、缶ビールを持った手が次々に小突く。ああ、触感がない。大洋の目が潤み始めた時、彼らは一言残して桜吹雪と共に消えた。眩暈がするほどの桜色が収まったそこには桜しかなく、離れた場所へ目をやるも、そこにもやはり姿はなかった。
「ルカさん、ボク……奴等に謝り損なっちゃいました」
「……大洋さん」
相棒の過去はまだ少ししか知らない。知っているのは、この話をするたびに苦しそうな、悲しそうな顔をする事くらいだ。そして今の大洋は、今まで以上に――。
「過去は思い出すくらいがいいのです。触れて、言葉を交わしたら戻れなくなる。私は……そんな気がしているのです」
泣きそうな相棒の手を握る。褐色の指先が、絡めるように握り返してきた。
「でも貴方の気持ちは彼等に伝わっていますよ。彼等は、笑っていましたから」
「……笑ってた? そうだ、確かに……」
消えた時もそうだ。
じゃあなと、生者を祝う笑顔だった。
泣きそうだった顔が、ふ、と綻ぶのを見て玻縷霞も静かに表情を綻ばせた。絡む指先にもう一方の手を重ね、赤い目を真っ直ぐ見る。
「いつか、貴方の痛みを教えてください」
「はい。いつかきっと、お話しますね。ボクが69課に来る前に犯した罪と、消えない傷について……総てを」
いつかへの約束を結んだ2人の目が、食べかけオムライスに戻る。
一部欠けたケチャップハートに、春の花びらが寄り添っていた。
第2章 ボス戦 『災いの鎌鼬『三巴』』
