かがりびのサウィン
●誰が為の契り
なぜ、こうなってしまったのか。
なぜ、誰もが己を拒むのか。
「嗚呼、真竜様の力が……!」
今はひとの身に堕ちたその亡骸を己が躰に縫合し続けてきたおんなは、今や唯の凡愚へと成り下がっていた。
如何に死する瞬間は怯えようと、自分たちの崇高なる願いをかたちにさえ成すことができれば。ひとつになってさえしまえば。いつかは、いずれは、必ずや不死を得た末に輝かしき真竜の力を取り戻せるに違いないのに。
「もっと沢山殺さなくては……でもこの躰で、一体どうやって……」
親愛なる彼らのために。
敬愛せし彼らのために。
今、わたくしが出来ることは――そう。
「『最も弱く、最も力を秘めた方々を、殺さなければ』」
おんなが憂う。
もう、おんなは嗤わない。
振り下ろされた大剣が、輝石の角を携えた頸を一才の躊躇なく断ち落とした。
●ピポリ・ピポラの魔法市
放っておけばひとりでもそのまま飛び出していきそうな勢いで、飛び跳ねながらアン・ロワ(彩羽・h00005)は集まった√能力者をぐるりと仰ぐ。
「ねえね、みんな! キャラバンよ、竜のキャラバンがやってきたの!」
|コルヌ《角の氏族》。
それは√ドラゴンファンタジーに存在する竜の血族のみで構成されたちいさな氏族全体を指す言葉のひとつ。もしかしたら、彼らの名を聞いたことのある能力者も中には居るかもしれない。
「彼らはみな季節の流れとともに世界中を渡り歩いていくの。その果てのない旅路の中で、出会う人々にしあわせのお裾分けをしていくのよ」
コルヌの竜はいのちの終わりを迎えると現世に輝石のひとかけらを遺す。
竜が持つ因子に依って遺された輝石はそのいろを変えていく。火竜の名残を残すものは赤く。水竜の名残を残すものは青く――それらを加工した装飾品は古きに渡り冒険者たちの身を守る竜漿の篭った守護のまじないとして重宝されていると云う。
「その言い伝えは竜の全盛期であったころから続いていて……彼らは密猟者たちに狙われることも多かった。だから、ひとところに留まらずに旅をしながら訪れた土地にすこしずつ祝福を運んでいるの」
彼らのほとんどは温厚で戦うちからを持たない。家畜を飼育しながら草原を、山々を移動し、手先の器用なものたちが寄り合って作り上げた装飾品を売り歩きながら生きている。それ故にコルヌの守護を受けたものは世界中でも稀であり、冒険者たちの間ではとても高い市場価値を持っているのだとか。
日が昇り、月が廻り、サウィンの祭りが近付く今。彼らが旅路の中で作り上げた摩訶不思議な道具たちの貴重な『おひろめ』の機会に立ち会えるのだ。
「あのね、すごいのよ! 織物が得意な竜もいれば、銀細工が得意な竜もいて……冒険に使えそうなものからまいにちを楽しくしてくれる道具まで、いろいろあるの!」
春の祝祭とすこし違うところは、輝石を扱わない道具も取り扱っていること。
たとえばこれから寒くなる季節に向けた外套であったり、秋の夜長に寄り添ってくれるランプであったり。過酷な長旅にも耐え得る背負い鞄だったり、変わり種ならば彼らのふるさとである輝石の森に咲く花々で拵えた香やら、ものづくりを愛する彼らが手掛けるものは多岐に渡る。
あなたがもし既にコルヌの祝福を受けているのなら。『こんなものがあったらいいな』と口にすれば、とくべつなお気に入りがきっと見付かるはずと、アンは身振り手振りを交えながら熱っぽく語ってみせた。
「……でもね。そんな彼らに、今一度刃を向けんとしている存在がいるの」
喰竜教団の名を覚えているだろうかと、アンはそらいろの瞳を揺らがせながら星の軌跡を紡ぎ始める。
ドラゴンプロトコルの命を見境なく狙い、その悉くを斬殺しては自らの躰に縫い合わせ――何時かの復活を心の底から信じ、殺戮を繰り返してきた悍ましき存在が再びその兇刃を振るわんとしているのだということを。
「みんながちからを合わせてくれたから、彼女は度重なる死を経たのちにちからの殆どを失ったわ。だけど……」
それでも、容易い。
嘗てのちからの殆どを失くしたとて、コルヌの民を根絶やしにすることは喰竜教団の教祖たるおんなにとって造作もないこと。だからこそ、今この場で彼女の再起を完全に潰えさせなければならない。
「太陽が翳るころ。夜がせかいに満ちんとするころ。かがりびに照らされて、彼女はすがたをあらわすはずよ」
いのちの血潮一滴残らず、すべて、すべてを喰らい尽くすために。
けれど、能力者たちが昼間のうちから彼らを保護することが叶えばひとりの犠牲も出さずに済むはずだからと。アンは真っ直ぐに能力者たちを見詰めて頷き両の手指を組んで祈りのことばを口にする。
「みんなを、おねがい」
その瞳に確かな信頼を乗せ、アンは能力者たちを町外れの魔法市へと導くのだった。
第1章 日常 『魔法露天商』
●輝石の秋
からだに輝石を飾った竜たちの髪を、頬を、秋の風がさやさやと優しく撫でていく。
春の祝祭よりも落ち着いた色合いの布を重ねた|ユルト《天幕》はやがて来る冬のために実を結ぶ木々にも似て。今はまだ白き角しか持たぬコルヌの竜たちは先祖たちが遺してきた輝石をあたらしいかたちへと生まれ変わらせながらこの先に待つ新たな旅路を思い描いていた。
年に数度の『おひろめ』に立ち会った客人を、彼らは喜んで迎え入れることだろう。
あなたも、あなたも。どうぞこの豊穣を喜んで。
コルヌの竜は等しく、変わらず、あなたたちの旅路を祝福してくれるはずだから。
●めぐる季節
「コルヌもお久しぶりなの……!」
「ふふっ、また一緒に来れて嬉しいっすね!」
足並みは軽く、こころが弾むのに合わせてからだが自然と動いているようだ。きらりと煌めく『おそろい』を鴛海・ラズリ(✤lapis lazuli✤・h00299)がそらに翳せば、霓裳・エイル(夢騙アイロニー・h02410)もその仕草を真似て。鏡合わせのようなふたりの仕草が可愛らしくて、澄んだ薄荷いろを掲げながら『俺、いちばーん!』と一歩先に進んで見せれば少女たちからそれぞれ『わぁ、ずるい!』『待って、待って!』と声が上がるのに八卜・邏傳(ハトでなし・h00142)はもっともっと嬉しくなって燥ぐ笑い声を上げた。
きらめく品々はながい旅を経て、また一層輝きを増したよう。春の祝祭では輝石を取り扱ったものがほとんどだったけれど、旅商人でもあるコルヌの民の本領を発揮するのは木々が実りを結ぶ今の時期に差し掛かってからなのだろう。
「これは……迷うの必須……!」
「見ちょるだけでもわくわくすんね」
真剣な顔で色とりどりの織物を見つめるエイルの隣で、それならと手を打った邏傳は少女たちに似合いそうなものをと天幕の中を彼方此方と探し回る。
「この淡いパステルグラデーションな織物、ストールかな? ゲイルちゃんぽい感じ! こっちの髪飾りはラズリちゃん似合いそ!」
とろりと蕩けるような肌触りのストールは大好物の飴細工をおなかいっぱい食べた夢見山羊の産毛で織られた特別製。銀細工の髪飾りに佇む蒼星はラズリのうつくしい白銀の髪にきっとよく似合う。
「うわストール素敵、ラディ君目利き上手〜。あ、ラズリ君にはこのリボンも似合うよ!」
深藍の滑らかなリボンは銀糸で花の刺繍が施された一点もの。ひとつとて同じ模様がないのだと聞けばたった一度きりの出会いに胸が疼いて、ふたりから齎されたとっておきの『すてき』にラズリの瞳にきらきらと星が散る。
「わあ、わあ……! 邏傳とエイルが見つけてくれた品が素敵っ」
いそいそと髪にそのいろを寄せるラズリが『似合うかな』と小首を傾げば、満面の笑顔でエイルが、邏傳が是を唱えてくれることが嬉しい。
「あ、エイルは一緒にストールピンも!」
もちろん選んでもらってばかりではいられない。邏傳がエイルに選んだとびっきりに合わせるのならと掲げて見せたのはさくらいろの真珠星。あぶくが寄り添うみたいに連なったかたちが可愛らしかったからとラズリが紡げば、やわらかな輪郭に薄紅を乗せてエイルもラズリに倣ってふたりが選んでくれた品々を重ねて見せた。
「ふふっ、ラズリ君のピンも合わせたらセットみたいに馴染んじゃう」
「ストールピンやリボンとの合わせ技もすんごい良いー♡」
「もちろん、邏傳の『すてき』も見つけるの」
ラズリ君の髪飾りもリボンも映えるっすねぇ、なんてはにかみながら。宝探しが上手な友達のぶんもしっかり見つけなくっちゃなんて意気込めば、ラズリもうんうんと頷きながらあれでもない、これでもない、と邏傳のすがたを上から下から眺め見ながら真剣な様子で選び始める。
「この羽根ピンはどう? 駆けてく君にピッタリだと思うな」
「綺麗……! あっ、こっちの外套も似合いそう」
碧石のきらめきを一雫乗せた羽はどこまでも自由に駆けていく邏傳にぴったりだとエイルが告げれば、羽毛のように軽いふわふわのファーでフード部分を縁取った外套を掲げ、こちらはどうかとラズリがひょこりと衣装掛けの隙間から顔を出す。
「これから寒くなっちゃうから」
「えへへ。すてき羽根ピンにふわもこちゃんも選んで貰て嬉しくってたまらんの!」
ふたりが一生懸命選んでくれたものを厭うわけがないと胸を張れば、誰からともなくふ、と笑いが溢れてしまうのはあの春の日と同じこと。
こんなふうにあたらしい特別を連れて帰るのはもちろんだけれど――こんなに素敵なお買い物なら『もっと』と欲張ってしまうことだって。それを咎めることなんて、きっと誰にも出来やしない。
「先の輝石も大事にしたいから……腕輪のお家とかあれば嬉しいかも?」
特別なおでかけの時だけではなくて、いつでもそこに居られるような。コルヌの竜たちが作ったものであれば輝石たちも居心地がいい筈だからと。どうかなとふたりを仰げば、見る間にラズリと邏傳の頬が喜色に染まって笑顔になってくれるから、嬉しくなってエイルもにこりと笑みを深めた。
丁度腕輪が収まる大きさなら、と。店番の竜が差し出してくれたのは花模様を違えたそろいのランプだった。
「ランプの灯りとしても使えたり……石がみんなの彩のひかりになったら綺麗なの」
気まぐれなひかりの精が棲みついたふしぎな洋燈は腕輪を入れれば輝石と同じ灯りが宿る。これから長くなっていく夜を、きっとやわらかく照らし出してくれるだろう。
「ね、またお揃いが増えて嬉しいね」
「んーっ、愛しいが更に増し増し増しー!」
たいせつがまた増える。
大好きな笑顔たちと一緒に重ねる思い出が、ひとつ、またひとつ増えていく。
たくさん増えた宝物をその身に飾ってみせながら、少年少女たちはそれぞれの『おひろめ』のときを喜び合った。
●南風を脚に
よくある冒険者養成学校の数ある噂話のひとつ。
そこかしこに溢れる御伽話のひとつだと思っていたのに。
「コルヌの行商……本当にあったんだ」
コルヌの逸品と謳われた商品を時々見かけることはあれど、その殆どは紛い物。いざこうして本物を目の前にしてみると、まるでこの空間自体に魔力が染み出しているようだと。艶やかな尾を揺らしながらナンナンナ・クルルギ・バルドルフルス(嵐夜の竜騎兵・h00165)は魔法市の中心へと一歩踏み出した。
折角の機会なのだから何かしら手にしてみたい。日用品だってもちろん使い勝手のいいものが揃っているのだろうし、興味深いものばかりが視界に飛び込んでくるものだから目移りしてしまうけれど。
「やっぱり冒険者としては、コルヌの冒険道具には憧れる。よね」
旅路の無事を願う竜たちのまじないを込めた魔道具たち。その文言だけでも何らかのご利益を期待してしまうから、知らずナンナンナのまなざしにも真剣ないろが宿る。
過酷なダンジョン内に広がる特殊環境にも耐え得る外套はひとつあれば安心できるし、その刃で摘み取った草花は不思議といのちを永らえさせることが出来る小刀は旅先で出会ううつくしい花々をいたずらに傷付けることなく持ち帰ることが出来るはず。疲れ知らずのブーツは長旅にも耐え得る優れものだけれど、
「……これは、僕には履けないか」
「まあ。まあ、それならこちらは如何?」
半人半獣のものたちの中には四つの足で地を踏み締めるものたちがいるのだと云うことを、この世界を長く渡り歩いてきた竜たちはちゃんと知っている。店番をしていた恰幅のいい竜のおんなが差し出したのは若草色の編み上げリボンが可愛らしい四つ足向けの革の脛当て。『れっぐかばあ、って言うのかしらね。アハハ! おばちゃん若い子の言葉はよくわからなくてねえ』と笑う彼女から受け取ったそれは風の精から加護を受けたとっておき。
「|精霊たち《みんな》の気配がする……」
ぱちりと目を瞬かせたナンナンナを見上げ、竜のおんなは『着けてみるかい』とやわらかく微笑んだ。
●ゆきうさぎのケープ
穏やかに過ごす人々を侵されるのは悲しい。けれど、だからこそ『護ろう』と云う気持ちが勇気と共にふつふつと湧いてくるのがわかる。
秘めた決意を確と抱いて、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)はそっと顔を上げる。力なきコルヌの民を守ることは勿論だけれど、彼らの大切な『おひろめ』だって楽しみなことに違いなかったから、ラデュレはうたかたのそらの瞳を煌めかせながら並ぶ露店をぐるりと見回した。
「――まあ、キレイ……!」
これが、彼らの。コルヌの竜が生涯のはてに遺す輝石の輝き。ひとつひとつの粒の大きさはまばらだけれど、そこには確かに彼らが生きてきたあたたかないのちの温もりが感じられた。
「とても優しくて、あたたかい光を宿すのですね」
「そう見えるかね。ありがとう、お嬢さん」
筋張った手で己の頬を抑えながらくしゃりと笑う竜のすがたに頷いて、ラデュレは改めて店に並ぶ道具たちの多種多様さに目を瞠る。
「ふふ、多彩な方々がいらっしゃるのですね……!」
木工に陶芸、日用品から美術品まで様々な品々は目に楽しく胸をわくわくと踊らせた。目前の露店に腰を下ろしているつがいの竜たちの専門は服飾であるらしく、天幕の内側いっぱいに飾られた未だ持ち主のない衣類の数々にラデュレはちいさな感嘆を上げながらその中のひとつに手を伸ばす。
「……わぁ、」
ほわほわの綿毛を縁にあしらったフード付きの外套はラデュレのちいさなからだをすっぽりと覆ってくれた。綿雲羊の紡毛織でつくられた布地は軽く丈夫であたたかく、これからの季節を過ごす強い味方になるだろう。
「これなら、寒い夜もへっちゃらです……!」
くるりとその場で回ってみせる少女の姿を微笑ましげに見つめる竜たちは外套と同じくらいにやわらかくてあたたかい。そんな彼らが決して翳ることのないようにと、ラデュレは胸奥で強く想いを確かめる。
「ありがとう、大切にいたしますね」
「こちらこそ。お嬢さんの旅路に、さいわいがありますように」
迷いはない。
今の自分には、それを為すべきちからがあるのだから。
●いろをかさねて
「わぁ……ここがドラゴンファンタジー……!」
ふたりで出かけたあやかしたちのせかいとはまた違って、このせかいはどこか西洋の御伽話のような風情を感じさせる。その感動をそのまま雲路・秋桜羽(秋桜咲く渡り鳥・h06838)が口にしたなら、彼女を伴い魔法市を目指してやってきた蓬平・藍花(彼誰行灯・h06110)も嬉しそうに瞳を撓ませた。
「(誘ってよかった)」
秋桜羽が期待に目を輝かせてくれているのが微笑ましくて、藍花はこっそりと彼女が恥ずかしがらないように吐息だけで笑う。
「ねえ、藍花さん。魔法市……見に行きたいんだけど、良いかな……?」
躊躇いがちに。それでもおねがいごとを素直に口にしてくれることが嬉しい。二つ返事で頷けば、秋桜羽の頬が淡く色付くのに笑みを深めながら藍花はそっと手を伸ばす。
「……はぐれたら大変だから、ね?」
「ふふっ。手を繋いでくれると安心も出来る、ね」
当たり前のように伸びてきたてのひら同士が重なれば、擽ったいぬくもりが伝わって。くすくすと笑いながら進むふたりの歩調は何処かふわふわと弾むよう。並ぶ露店の多彩さにそれぞれの感嘆を溢しながら、少女たちは輝石の天幕の下を歩んでいく。
「何買おうか、悩んじゃう、ね……? でも、綺麗な織物は藍花さんに、似合いそう……♪」
「本当? ……秋桜羽くんにだって、似合う、よ」
自分だけじゃない。秋桜羽にだってかわいいものを見繕いたいのだと、つんと唇を尖らせる藍花は常よりも幼く見えて可愛らしい。それじゃあ、と少し屈んだ秋桜羽のてのひらの中にあったのは羽を模ったちいさな銀細工のチャーム。
「これ、珠花ちゃんとシトロンでお揃い……出来るかも」
チュピ、と寄り添う麦播がうたうように囀るのに合わせて藍花の足元からするりと顔を覗かせた翼猫が『呼びました?』と言いたげに『んなぁ』と鳴き声を上げるのに目を細めながら首を傾げれば、しょうがないなあ、なんて言いながらも直ぐにお財布を開いてしまうのはきっと藍花もおなじこと。
「珠花、良かったね?」
「ふふ、似合ってる……よ」
色違いのリボンを結んでおめかしした互いの隣人の姿に顔を見合わせ笑みを交わして。他にもあるかな、と視線を並ぶ品々へと戻した先にぱっとやわらかないろが飛び込んできたものだから。秋桜羽のこころはその色彩にとらわれて、思わず手を伸ばしてしまう。
「……これ、可愛い」
しろいマーガレットの花飾りを留め具にしたストールは滑るようになめらかで、頬をいつまでも寄せていたくなってしまいそうなほど。心地のいい肌触りにうっとりと目を細めれば、その様子を覗き込んでいた藍花もそろいの色違いを手に取りはにかんだ。
「……買う、の? じゃあ、ボクも色違い買おう、かな……?」
おそろい、なんて。いやじゃないかな。
はずかしい、なんて思われないかな。
おずおずと伺うように向けられた藍のひとみと秋桜のひとみがぱちりと重なって。先にそのかんばせが笑みの形に彩られたのは秋桜羽のほうだった。
「同じ、の……? ふふ、そういうの……初めてだから嬉しい……!」
そろいの花を、布を纏って、もう少しだけ歩いていこう。
褪せていたはずのせかいにいろがつきはじめたのは――きっと、あなたとふたりだから。
●うつろう日々
商人たち、まじない師たちに依ってすがたかたちを変える品々にひとつとして同じものはない。コルヌの魔法市は魔女のひとはしらであるリリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)にとって非常に興味深く好ましいものであった。
「今日はどんな素敵な品と出会えるかしら?」
踊る爪先は軽やかに。弾む心地をそのままに、リリアーニャは宵を翻してくるりと阿加井・暮乃(朱き王冠よ、誰も知らぬ赤き空に紅き輝きを・h00699)を振り返る。
「暮乃も気になるものがあったら遠慮なく教えてね」
「……自分は、色々、見て回れればいいなって思ったんで……まずは、リリの欲しいもの、優先してくださいね」
暮乃にとってはこのような催しははじめてのこと。立ち並ぶ天幕も、それを飾る輝石の数々も。何処か現実のものではないような、遠くの世界に来てしまったような心地がして少し落ち着かないけれど、勝手を知る魔女が導いてくれるから何もおそろしいことはない。
「ユールに向けて冬支度を始めるのもいいわね」
「ユール……冬のお祭りっす?」
「そうよ。閉ざされた冬に、祝いと喜びを齎すの」
手に取ったフード付きの外套を広げれば、月のしるべをひと針ひと針丁寧に刺繍された紋様の細かさに暮乃がちいさく声を上げるのにこころを上向かせ、リリアーニャはあおい瞳を柔く細めて『似合う?』と小首を傾いで見せた。
「……おー……素敵っす。似合うっすね、月……」
魔女のしきたりに詳しくはない。けれど、もう冬の足音が聞こえてきているのだと改めて聞けば自分が何も冬支度に手を付けていないことを思い出す。元々着込む方ではあったからそれを強く意識することはなかったが、成る程。折角なら彼女とそれを共にしようと、暮乃はあかい瞳をそわそわと彼方此方へ運ぶ。
「どうせなら、紅い月の奴があると良いんすけど……ないっすよねまぁ」
「赤い月はないけれど、赤の外套はあるみたい?」
架けられた外套たちを辿る中でリリアーニャの声に振り向けば、滑らかな天鵞絨で仕立てられた真紅の外套がそこにあって。裾に金糸で描かれた月模様を見れば『お揃いね』なんて魔女が微笑む。
「……赤の外套に月の模様……ありでは?」
手にした外套はひとつずつ。色違いの月を抱きながら、リリアーニャはもうひとつ、と輝石の装飾品たちを覗き込む。
「せっかくだから輝石のアミュレットもほしいの。お守りがわりに持てるような小さめの……」
ブレスレットにネックレス。耳飾りは亜人の客人たちに向けてパーツを変えられるのだと言う。あれもこれもと欲張ってしまいそうになるけれど、彼らの魂とも呼べる輝石をぜんぶさらってしまうのは少しばかり心苦しい。
「ぅー、たくさんあって迷っちゃう」
「そう、すね……どうせなら、二つどうです? 赤と、青で、二つ」
たくさんの種類の中から、ひとつ、ふたつ。
アネモネの花を模したその輝石は、対になるように寄り添っていて。これ! とふたりで手を伸ばせば、その様子を見守っていた店番の竜が嬉しそうに笑ってくれたことがちょっぴり擽ったい。
「ふふ、たくさん買っちゃった!」
「よかったっすね。自分も……冬に取り残されないで済みそうっす」
揺れる花を、月のぬくもりを抱いて。
あどけない少女のように笑う魔女のすがたに、暮乃はすこし。ほんの少しだけ――誰にも気付かれないように、その表情を和らげるのだった。
●香雪にひかりを乗せて
竜のキャラバンだなんて。なんて、なんて心惹かれる響きだろう。
踊る胸の鼓動のそのままに、弾む靴音も高らかに。少女がつい、と虚空をなぞったなら。ゆびさきの軌跡からしゅるりと雲が出づるように姿を現した白竜を肩に寄り添わせ、マルル・ポポポワール(Maidrica・h07719)はそのしろい喉元をちいさく擽り目を細めた。
「シイロさんシイロさん! 一緒に回りましょう!」
お店の邪魔にならないように。今はちいさなすがたで居てくれる頼もしい相棒の心遣いに笑みを深めながらマルルは勇んで魔法市へと繰り出した。
「シイロさんにはいつもいっぱいお世話になっていますから、何でも買っちゃいますよ!」
竜の手で作り出されたものならば、竜にこそぴったりな逸品が存在するかもしれない。
だからこそ、シイロが気に入ったものがあればなんでも買ってあげたいのだと、きらきらと瞳を輝かせる少女の様子にちいさな竜は軽く首を竦めてみせる。『程々に』と言いたげな様子も何のその、マルルの勢いが止まることはなく。天幕の下に腰掛けていた壮年の竜へ『こんにちは!』と声を張れば、ぱちりと瞳を瞬かせた竜は直ぐに相好を崩してマルルを出迎えてくれた。
「おやまあ、元気なお嬢さんだこと。それに……まあ、まあ。ちいさな同胞さんも、いらっしゃい」
ゆっくり見ていってね、と微笑む彼女の立ち振る舞いは穏やかでやわらかい。なんだか擽ったい気持ちにそわそわとしながら頷けば、不意にシイロがマルルのちいさなおさげを軽く引いてくるから、その力に従うようにことんと首を傾げて見せる。
「ん? 何ですかシイロさん」
ちいさな竜の鼻先が示すのは、輝石の花をあしらった愛らしい二対のアンクレット。それをそうっと手に取れば、満足げにふすんとシイロが鼻を鳴らすから、嬉しくなってマルルはぎゅっとその長い首を抱きしめた。
「うふふ。仲が良いのねえ」
「えへへ、はい! とっても嬉しいです!」
色違いのフリージアはあなたとはんぶんこ。
輝石のひかりに負けないくらいに、マルルの瞳はよろこびにきらめいていた。
●飛花に揺れ
キャラバンの来訪の報せは少なからずこの胸を踊らせた。こころのいろを正直に表す長い尾を揺らしながら、ファウ・アリーヴェ(忌み堕ちた混血・h09084)は異国情緒溢れる天幕たちを見回した。
この後に待っているであろう戦いに支障がない程度に。ああ、でも、すこしくらいなら欲張ってみてもいいだろうかと彼方此方。品々を真剣に吟味するファウに声を掛けるものが在った。
「ここははじめて?」
歳の頃はまだ少女の域を脱していない、若い竜の娘だった。屈託のない笑みを浮かべるその姿に驚きながら、裏表のない好意を向け慣れない青年はそれでも恐る恐るに口を開く。
「ああ。コルヌの加護を譲り受けて貰えると聞いて……それで」
「じゃあ、あなた。とってもラッキーね」
私たちが市を開くのは年にほんの数回だからと。少女の言葉と指し示すてのひらに倣いながら商品に視線を落とすけれど、自分ひとりでは決めかねた。だから。
「持ち歩くなり身に付けるなり出来るような……輝石を扱ったものを見繕ってくれないか」
もし良ければあなたがしるべを掲げて見せてくれないか、と。請えば、少女のみどりの瞳がまあるく見開かれて――直ぐに笑みの形に撓んで。『良いわ』と頷いてくれることがただ嬉しかった。
「この子はどう?」
それは六花。氷のように澄んだ薄青がひかりを受けてきらりと煌めく。知らず綺麗だと溢せば、まるで家族を誉められたかのように少女の瞳が柔く細まった。
「ふかく、ふかく……つめたい雪に閉ざされた私たちを、冬の間守り続けた竜の輝石よ」
「冬の、守り人?」
あなたの毛並みに、きっと似合いだ。
耳に穴を開けずともチェーンで留めればいいと、てのひらに乗せられた六花はひやりとつめたいのに、不思議と何処か心地よい。
「ありがとう。妖力で扱えるのかはわからないけれど……大切にしよう、必ず」
「ふふっ! 難しいことは考えなくてもいいの。彼もきっと、あなたの味方になってくれるわ」
どうか、良き旅を。
告げる少女の笑みにファウは不器用に微笑みを返し、六花の耳飾りを大切に胸に抱き直した。
●呪いとまじない
竜のちからに満ちた品々が並ぶ魔法市。
自らまじないを施した品を作り上げて破格で譲り渡していると云う彼らの有り様はラウアール・グランディエ(人間災厄「グリモリウム・ウェルム」の不思議道具屋店主・h08175)にとって非常に興味深いものであった。
「しかし私も道具屋の端くれ、稼ぎ時を逃すのも惜しいというもの……、ん?」
つん、つん。
気配に気付かなかった訳ではない。けれど、それがあまりに矮小なものであったから捨て置いたまで。随分低い位置で服の裾が引かれる感触に視線を落とせば、そこには未だコルヌの象徴たるツノもきちんと生え揃っていないちいさな竜の子どもが人懐こい笑みを浮かべながらラウアールを真っ直ぐに見詰めていたものだから、首を傾いだ第三の書の守り人は身を屈めると少年とそっと視線を重ね合わせた。
「何か?」
「おにいちゃん、おかあちゃんのおみせにおいでよ!」
曰く。
少年の母はコルヌの民の中でも一、二を争う料理自慢であり、彼女の作る揚げ菓子は頬っぺたが落っこちてしまうほど。丁度いまが揚げたての時間であるからして、少年はこうして客人を母の待つ天幕へと招いている最中なのだと言う。
「ふむ。私は普段、悲劇を対価に大いなる力を提供していますが……」
「『ひげき』ってなあに?」
「……今回は金銭で取引を行いましょう」
揚げ菓子は魂では買えませんのでね、と。少年を促せば、それがラウアールなりの承諾であると認識した竜の子どもは頬っぺたをりんごのようにあかく染めながらこっちこっちと元気よく駆け出した。
ラウアールの持つ品々は金銭で取引出来るものは限られているけれど、彼らに趣の異なるまじないの効果を体感してもらえたならばこの先の大きな取引にも繋がるやもしれない。
「その時を、楽しみにお待ちしておりますね」
これは布石だ。
なればこそ、この微温湯のようなやり取りも甘受しようと云うもの。
「ねっ、ねっ。おにいちゃん、おいしい? おいしい?」
「……ええ、まあ。中々です」
無理に望ませることはするまい。
――少なくとも今は、この甘さに免じて。
●さいわいの運び手
「ほう、コルヌの民とは久しぶりじゃの。春以来か」
並ぶ天幕のいろが春から秋へ移り変わっているのを確かに感じながら、ルナ・ディア・トリフォルア(三叉路の紅い月・h03226)はうつくしい月映えの髪を靡かせながら魔法市の中を軽やかに進んでいく。
どの竜も変わらず笑顔で気持ちがいい。やはり彼らにはあたたかな場所が似合うと目を細めていたなら、不意に呼び止める声を聞きとめてルナはくるりと声のした方へと振り返った。
「やっぱりそうだ。あなた、春にうちで買い物をしてくれたでしょう?」
「おお、そなたは。息災であったか?」
素朴な娘だ。
けれど太陽がよく似合う、笑顔の愛らしい娘であったと。記憶の中の面影通りの姿にルナが微笑めば、にかりと尖った歯を見せて笑った竜の娘は『お父さんもお母さんも元気よ』と胸を張ってくれた。
「今日はおひとり?」
「ああ。驚かせてやりたくてな、我ひとりでお忍びと言う訳じゃ」
「ふふ、なるほど!」
愛し子を側に置かぬ女神はお世辞にもお買い物上手とは言えず、金貨の詰まった袋をどんと置いて『氏族皆で分け合うと良いぞ』なんて言い出すものだから、ぽかんと口を開けた竜の娘が状況を把握するまで数秒の間を置いて。
「……ふふ、アハハ! おねえさん、私たちはね。たくさんのお金が欲しいわけじゃないの」
「むむ、……それはなぜ?」
「だって、お代ならあのときちゃんと頂いたわ」
あなたと、あなたの大切なひとの笑顔。
旅路の中で出会ったひとびとの心からの笑顔を見ることが出来ればそれで十分なのだと。告げる少女の屈託のない笑顔にぱちりと目を瞬かせ、ルナはならばと声をひそめて『女の子だけの内緒話』を持ち掛けた。
「それならば……何か、心安らぐ眠りへ誘うブランケットのようなものはないかえ?」
「……ははあ、『頑張り屋さん』へのご褒美ね。良いわ、着いてきて!」
コルヌの中でもいちばん器用な羊毛編みのところへ連れて行くからと。
差し伸べられた手を取って、ルナは童心に返ったような心地で竜の娘とふたり、天幕の下を潜り駆け出すのだった。
●となりにいさせて
「竜の眷属がメンドーな奴等に狙われてるんだってね。おまけにツギハギにするなんてボクより悪趣味!」
「喰竜教団、ね。……最近聞かなかったけど、まだ諦めてなかったんだ」
ころころと無邪気に笑う声は少女にも似た甘やかさで以ってシアラ・カラント(冒険者・h00043)の耳を擽るけれど、愛らしい唇から次いで紡がれる言葉は至極物騒なものであった。
「ボク達でソイツ等ぶっ倒そ!」
ちから無き彼らが無慈悲に蹂躙されてしまうなんて寝覚めが悪い。ユニ・アドロラート(流れ雲・h06559)が自分も連れて行ってくれとせがめば、僅かな逡巡を挟んだのちにシアラは静かに頷きを返す。
「まあ、冒険者に興味あるってユニに教えるにも丁度良いか」
日暮れにはまだ遠い。現場で待機するにも時間を持て余すだろうかと、高い位置にある太陽を見上げるシアラの正面へ、とん、と躍り出たユニは瞳をきらきらと輝かせながらじっと目前にある琥珀の双眸を見つめて小首を傾いで見せた。
「その前にー……時間もあるしシアラと露店を覗きたいな。ね、行こ?」
「……そうね。貴重な機会でもあるし」
冒険の役に立つものもあろうと頷けば、ぱっと頬に喜色を乗せたユニがはやくはやくと軽やかに歩を進めるのに合わせて、肩を竦めたシアラも並ぶ天幕へと歩み始めた。
「ねー、シアラ姉。これってデート……痛ぁ!」
ぱちん、と乾いた良い音が響いたのはシアラが指で勢いよくユニの額を弾いたから。
「デートかなんてませたこと言ってないで、この後の備えでもしておきなさい」
ひどいひどいと涙目になりながらそれでも離れない少年をそれ以上邪険に扱わないのは彼女なりの優しさか。
言葉少なに輝石を選ぶその姿に情緒はあまり感じられないけれど、それでも『ふたりきりで一緒にお買い物』なんてそう得られる機会がないのだからとユニは並ぶ露店のひとつに真剣に向き合いながら彼女に似合いのとびっきりを探して――ひときわ豪華に輝くあかい輝石を見とめ、わあ、とちいさな感嘆を上げて薔薇を模ったチョーカーをてのひらに掬い上げた。
「(シアラには赤い輝石が似合いそう。……お金足りるかな、足りるよね……よし!)」
お会計は見えないところでスマートに。
だってデートだもん。カッコ悪いところなんて見せられないよね。
「はい、プレゼント!」
黒地の繊細な蔓葉を描いたレースのチョーカーに真っ赤な薔薇の輝石が煌めいている。きっと似合うからなんて言い募れば、断ることも出来たであろう彼女がそれを受け取ってくれるのにユニの瞳が輝石に負けないくらいにきらりと輝く。
「なに、贈り物なんて生意気なことするわね。……あなたはこれでも持ってなさい」
「ん、ボクにもくれるの?」
無造作に渡されたそれはあおく輝く雫を湛えたブレスレット。それがシアラから齎されたものであると知れば、じわり、じわりとユニの頬に朱が昇って。
「……絶対、絶対大切にする!」
「はいはい。先ずは仕事を優先すること」
つれない黒狼からのはじめての贈り物。『やっぱりなし』なんて言わせたくないから、ユニはあおい煌めきを大切に胸に抱いて今日一番の笑顔を向けた。
『行くわよ』と素っ気なく告げる声も、喜びの只中にいる少年には到底届きそうにない。
ああ、世話を見ている後進から贈られたそれに悪い気はしないけれど、先に彼から贈られて結果的に交換のような形になってしまったことは少し決まりが悪いなと。ちいさく溜息を吐くシアラの傍で、ユニはにこにこと笑みを深めるのだった。
●虹の辿り着くところ
冒険者同士に伝わる噂話だけではない。傍らのシルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)から直接聞いていたコルヌの人々の物語はルミオール・フェルセレグ(星耀のアストルーチェ・h08338)の胸の奥に仕舞われていた少年らしい冒険心を甚く擽った。
「こんなにも早く叶うなんてとても嬉しい」
「そうね。わたしもあなたが結ぶ輝石の物語が楽しみだわ」
今はただ、いつか巡り会えたらと思い描いていた矢先に降って湧いた幸運を喜ぼう。
彼らを脅かす厄介な存在を懲らしめるのは――もう少しだけ、あとの話。
きらりと虹を瞬かせた雫は今もシルフィカの傍にあり、彼女を守り導いてくれているのだと言う。彼らが創り上げる作品たちはどれも素敵で目移りしてしまうけれど、折角なら自分も輝石の祝福を授かりたい。そわそわと視線を巡らせる姿を見てシルフィカがくすりと笑みを溢せば、淡く目元に朱を乗せてルミオールはじとりと、今は自分よりも随分ちいさくなってしまった彼女へ抗議の視線を送る。
「ふふっ。ごめんなさい」
「……シルフィカ、俺のこと未だに小さい子どもだと思ってない?」
ルミオールはもう成人だ。一人前の冒険者だし、腕っぷしだって強くなった。だけど、それを主張すればするほど彼女はしみじみと『大きくなったわね』と噛み締めるように呟くばかり。溜息混じりに肩を落としてみても彼女は嬉しそうに微笑むものだから、その横顔に『もう』とむくれて見せつつ、ルミオールは並ぶ品々に視線を巡らせた。
「身につけられる物……ペンダントがいいかな」
色もかたちもさまざまなものの中から、きらりと一際強く輝いたひかりに手を伸ばす。
しののめのそらに浮かぶ、海のいろが好きだ。
知らず彼女を追い掛けてしまっているようで少し気恥ずかしかったけれど、さいわいを願うならばこのいろがいい。
「わたしは輝石の森の花のお香を頂こうかしら」
そんなルミオールの葛藤に気付いているやらいないやら。店番をしていた竜のつがいに声を掛けるシルフィカの手には、陶器でつくられた花香炉がちょこんと既に選ばれていた。
「夜に焚くものでおすすめはある?」
「それなら、こちらはいかがでしょう。あまい香りはお好きですかな」
柑橘をひとしずく。安息香の樹脂にやわらかな輝石の蜜香を添えれば、揺れる火の熱があなたにやすらぎを与えてくれるからと。鼻先に掲げられた花のかたちの印香とそろいの練り香水に、シルフィカの瞳が柔く細まるのをルミオールは隣で微笑ましげに見詰めていた。
竜人の命を奪い真竜を騙ろうなどと、烏滸がましい。
幾度阻止されようとも諦めぬ件のおんなの事を思えば憤りが胸を満たしてしまいそうになるけれど。
「……あなた達の元に脅威が迫っている」
「それは……、どういう?」
シルフィカの言葉にルミオールが頷けば、物々しい響きに身構えたつがいの竜の片割れが妻を守るようにその腕に招くけれど、彼らの瞳に疑いのいろはない。
「日が沈んだら天幕を閉めて、全てが終わるまで決して外に出ないで」
そしてどうか。皆にもこのことを伝えて欲しいのだと、告げればつがいの竜たちは顔を見合わせ、深い事情を問うこともなく頷いてくれた。
「俺たちが絶対に守るから。だからどうか、信じて待っていて」
「ええ。ええ。……信じましょう」
我々は弱い。
だからこそ、うそかまことかを見定める目は確かなのです、と。微笑む竜のつがいのひたむきな信頼に、シルフィカとルミオールは確かな頷きで以ってそれに応えた。
●『やさしさ』のかたち
「すごいよ識くん、竜の輝石だって!」
「ああ、うん……っておい、はしゃいで急ぐなよ」
胸の奥底から湧き上がってくるわくわくとした衝動に身を任せ、今にも飛び出しそうな花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)の背に先んじて声を掛ければ、ぴたりと急ブレーキを駆けて止まるから。やれやれと肩を竦める絹更月・識(弐月・h07541)と今度はきちんと歩調を合わせ、少女と少年は魔法市を改めてぐるりと仰ぐ。
色とりどりの天幕たちは秋の装いなのか、どれもあたたかみのある色に包まれている。立派なツノを携えた竜人ばかりが行き交う様は見るからにもともとふたりがいた場所とは違った風情を感じさせて、まほろの好む絵物語の中のせかいをそのまま投影しているかのようだった。
「お前は何か欲しいものある?」
これからの季節を彩る外套や膝掛け、秋の夜長を照らす洋燈。天幕によって置いてある商品がそれぞれ違うのは、そのあるじである竜の得意分野がそれぞれ違うと云うことなのだろう。
「うーん、初めて出会った『おひろめ』だし……せっかくなら輝石のお守りが欲しいな〜!」
コルヌの民は皆旅人なのだと云う。
であればそれは自分と同じ。同じ祝福を授かれたならいいと、まほろがはにかめば識もそれを否定せずにこくりと頷いてくれた。
「折角だよな、輝石付き」
少女は気付けば彼方此方へ気の向くままに足先を向けて行ってしまうから、そのみちゆきを守ってくれるものがあるならばきっとそういうものがいい。――尤も、それをそのまま告げれば大騒ぎになってしまうから識は全てを口にはしないけれど。
「……なにがいい? ついでに買うから」
素直になれない少年の何気なしに齎された提案に、まほろの頬がぱっと喜色のいろに色づいた。
「わあ、コレかわいい!」
ちいさなてのひらの中で、釣鐘の花が揺れている。
祝福の鐘をうたう輝石を手に振り向けば、識の手にある輝石の花のチャームがあしらわれた硝子のペンを見とめてまほろはきらきらと瞳を輝かせながら身を乗り出した。
「識くんはガラスペン? きれい!」
「うん。たまには新調したいし、インクもあればいいんだけど」
それならば、と。口を挟まずにふたりの買い物を見守っていた店番の竜が並べてくれた硝子細工の瓶に詰まった色とりどりのインクの数々に、今度は識の口からちいさな感嘆が上がる。
「えへへ、せっかくだし同じ色にしようよ」
「……同じ色? いいけど……」
気になったインク瓶を幾つか確保したそのあとに、識が掲げたのは柘榴と若葉、ふたつのいろ。
「お揃いと交換どっちがいい?」
「えっ!」
お互いのいろを差し出されてしまえば、そんなの、そんなのって、ずるい。
決められないよとうんうん唸りながら悩み出す姿に、ほんの少しだけ識が微笑んだことに一生懸命なまほろは気付かない。
「んん、じゃあ交換!」
「……はいはい僕はこっちね」
ぱしりと掴み取ったのは柘榴いろ。勢い余りそうなまほろを嗜めながら、識は晴れやかな若葉のいろを掲げて店番の竜へと会計を申し出た。
言葉はそっけなくて、みんなは誤解しちゃうかもしれないけれど。
その『ついで』が彼の優しさだと云うことをまほろはちゃんと知っている。だから。
「いつもありがと、識くん!」
「うるさいな、ついではついでだよ」
こうして贈ってくれることがうれしいのだと。こころのままに伝えたらそっぽを向いてしまった識の様子に、まほろは嬉しそうに笑みを深めて柘榴いろの釣鐘を首に下げるのだった。
●忘れじの花雨
世界を違えども彼らは続くそらの下で懸命に生きている。
市は活気に満ちていて、行き交う竜たちが皆一様に笑顔のいろを浮かべていることを咲樂・祝光(曙光・h07945)は好ましく感じながら広がる天幕たちを見渡した。
「おー! 綺麗な竜達がいるよ、祝光!」
「……こら、エオストレ! 勝手に行くな」
ひょこりと長耳と爪先を好奇心に躍らせて駆け出しかけたエオストレ・イースター(桜のソワレ・h00475)に釘を刺せば、ぴたりとその場で押し止まって。振り向いた彼の瞳が悪戯ににんまりと撓んでいるのに僅か祝光は身構える。
「勝手になんて行かないよ。祝光が僕から目を離さなければいい!」
「それは好きにするのと同義だろう? まったく……」
お説教なんてどこ吹く風。自分を彼が見失うことなんかありはしないのだと言いたげにエオストレがえへんと胸を張ればそれ以上言うに言えなくて。ぐっと言葉を飲み込む祝光の姿に、桜禍の祝祭はそのかんばせに笑みを咲かせて『行こう』とてのひらを差し伸べた。
「あ! もちろん祝光も立派な龍だけどね。ふふっ、輝石イースターだ!」
「……だから、なんでもイースターにするなよ!」
たくさんの『すてき』と『ふしぎ』に満ち溢れたせかいを見るのが好きだ。
胸の奥底からわくわくとした気持ちが湧いてきて足取りばかりが軽くなる。そんな幼馴染の様子なんて祝光はしっかりお見通しだったけれど――竜と龍。種は違えども似た性質を抱く彼らの魔法市にこころが踊るのは祝光とて同じこと。
「コルヌの輝石か……竜が生きた生命の輝石……」
旅路のはてに遺すひとかけらはひとの手に渡り、いつまでも、いつまでも彼らは旅を続けていくのだと言う。
そんな彼らが齎す旅路の祝福であるならば何か縁があればいいが、と。並ぶ露店の中からひとつ、装身具を集めた天幕の前で足を止めた祝光とエオストレは品々の多彩さに目を瞠った。
「僕が祝光の輝石を選んであげるよ!」
「君が?」
彼に似合いのものならば、そうだ。その優美な翼を飾るものがいい。
この身に宿るありったけの幸運が、どうか、彼へと届きますようにと。強く、強く念じながら――手を伸ばす。
「これ! 君がどんな困難も吹き飛ばして、どこまでも天へ駆けていけるように!」
それは輝石の粒を連ねた空の薄膜。ほの淡く曙を重ねた夜明けのあおいろ。
明けない夜はないのだと示すような、そんないろが彼には似合う。
「そうだな、明けない夜はない」
幼馴染が込めてくれた願いも祝福も、その何方もが嬉しくて。
差し出された輝石を光に透かせば曙のように煌めいて。『大切にするよ』と微笑めば、エオストレの口元も釣られたように弧を描く。
「じゃあ、エオストレのは俺が選んでやる」
「僕のも選んでくれるの?」
長いゆびさきが選び取ったのは桜の花弁を思わす可憐なはるいろの輝石。
冬の間も散ることなく、淡く揺れるはなのいろ。
君がいつまでも自由に、咲っていられるようにと、願いを込めて。
「イースターにするなよ?」
なんて。決まりごとのように茶化して見せれば、ふ、と微かに吹き出したエオストレは『勿論だよ』と花弁の輝石を胸に抱いて頷いて見せた。
「そんなことしないよ。これは僕の――君が選んでくれた僕の祝福なんだから!」
春が咲く。
花が綻ぶように咲ったエオストレのてのひらの中で、桜の輝石が新たな旅路を祝福するかのようにきらりと一際強く煌めいた。
●さくらのともしび
「赫桜!」
「ララちゃん!」
子猫が転がってくるように飛びついてきた迦楼羅の雛を受け止めて、誘七・赫桜(春茜・h05864)は甘く目を細めながらそうすることが当たり前のようにララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)を優しく抱き上げた。
愛しい子は元気でいただろうか。
会えない間は心配で不安で仕方がなかったはずなのに――屈託のない瞳をきゅっと細めて無邪気に咲いながらぴょんと飛び跳ねるその姿を見たら全部が簡単に吹き飛んでしまった。
「ねえ、赫桜。コルヌ達がまた来てくれたんですって」
いつもの腕の中に落ち着きながら甘える姿が愛らしい。『一緒に行きましょう』と言外に強請られることにだって二つ返事で頷いてしまう。……断ることが出来るひとなんて、この世に存在するのだろうか?
今日もぼくの姪っ子は可愛い。
にこにこと笑みを深めながら、いとし子を大切そうに抱えて赫桜は広がる天幕たちを目指すのだった。
「あら、お前……ララがあげた輝石を付けてくれてたのね?」
「うん。ララちゃんが選んでくれたコルヌの輝石はね、ピアスにしたんだ」
似合うかななんてはにかめば、『良い心がけよ』と胸を張るララの所作ひとつひとつに夢中になって、笑顔でいるのを止めることが出来ない。揺れる春暁のいろの輝きに応じるようにララの頭にちょこんと飾られたさくらいろのティアラが陽に煌めけば、まるで輝石同士がふたりの絆に呼応しているようだ。
「今日のララはお姫様なのよ」
「ふふ、可愛いお姫様だ。大切にエスコートしなきゃ」
なんて、何時だってそうしているつもりだけれど。
ふくふくとまろい輪廓を淡く色づかせながらご機嫌に笑うララの姿に笑みを深めながら歩めば何処でだって特別に楽しくて幸せだけれど。折角気のいい彼らとまた巡り会えたのだから『とっておき』も見つけておきたい。
「これから冬になるからあたたかいものがいいかしら?」
「そうだね、どれも魅力的で迷ってしまうけれど……」
涼やかさはあっという間に寒さとなって世界を冬で満たしてしまう。可愛い雛が凍えてしまわないように――であれば、何かあたたかいものを選んであげたい。
帽子にコート。手袋やマフラー。軽くふわふわの素材で作られたそれらを身に纏ったララはきっと愛らしいに違いないけれど、普段の装いの上から羽織れるもののほうが良いだろうか。
「あ、これはどうかな?」
赫桜が手にしたのはやわらかな羽毛で織られたケープ。翼に包まれているかのようにふかふかで、羽織れば縁取られたファーが頬を軽く擽るのが心地良い。
「ふかふかで暖かいのよ、包まれるみたいで気に入ったわ」
「ふふっ。よかった」
けれど、あたたかさだけでは足りない。
赫桜が自分にぬくもりをくれた分のお返しを。これからどんどん長くなっていく夜に、彼が迷ってしまわないようなしるべが欲しい。
「赫桜、お前にはランプを選んであげる」
「ぼくにはランプを?」
「そう、お花のいい香りのするランプよ」
燈せば仄かに香るような。寒く心細い夜を慰めてくれるような。
ちいさな手で選び取った花香の洋燈に、ふう、とララは迦楼羅焔を宿す。ゆらりと揺らめくさくらいろの淡い火が運ぶやわらかな花と迦楼羅の祝福のあまい香りに赫桜はぱちりと目を瞬かせた。
「この焔が……お前の行く末を照らしてくれるようにね」
「……ありがとう。心からあったまるみたいだ」
何よりも、彼女が齎してくれるこころがあたたかい。
それをそのまま口にすれば、腕の中のぬくもりは無垢なよろこびに咲き笑った。
●くろがねの茜星
夢守りの奇跡はふたつぶん。
けれど、それを未だ身に付けていない緇・カナト(hellhound・h02325)の姿に『主もつけてくれ!』とトゥルエノ・トニトルス (coup de foudre・h06535)がせがめば、まるで今知ったと言わんばかりに肩を竦めるものだから。
「主〜〜!」
せっかく一緒に来れたのにとへにゃへにゃ眉を下げる雷精の様子がおかしくて、ふ、と微かに笑ってしまうのを咎めるようにカナトの袖を掴んだトゥルエノは『ともかく!』と勇んで歩き出す。
「此度はふたりでよき品との出会いを探すぞ!」
「はいはい。そんなに引っ張らなくても魔法市は直ぐには逃げないデショ」
トゥルエノがこの日を心待ちにしていたことくらい本当はカナトにだって分かっている。けれどそれを口にしないのは――たぶん、そのあとが大騒ぎになることまで見通しているから。
「今回は旅道具みたいなモノも多いんだな」
外套にランプ、背負い鞄。秋の魔法市は春の祝祭よりも品数が明らかに多い。
旅行好きと云う程でもないから手に取るまでには至らないけれど、普段使うことのない珍しい物品が並ぶ天幕たちをただ眺めながら歩くだけでもそこそこに楽しめた。
「主の御眼鏡に適いそうなのはどんなモノだ?」
外に出掛けることを億劫だと先延ばしにしがちな主に合いそうなものは何だろうか。
外套や膝掛けであれば困らないだろうか。だがしかし、もうすこし嵩張らないもののほうがよかろうかと真剣に考えるトゥルエノを他所に、カナトはんー、と気のない返事を返しながら足を止めた天幕に並ぶ道具たちのひとつに手を伸ばす。
「オレは物増やし過ぎても置き場所がなぁ……トールには此の背負い鞄とかいいんじゃない?」
自室のスペースには限りがある。ただ帰って眠るだけならば不用意にものを増やし過ぎるとそのうち寝床が侵食されてしまうし、であれば傍の雷精が喜ぶようなものを探した方が手っ取り早い。
「ほぅほぅ我に似合いそうな背負い鞄か」
宵のそらにも似た深いいろで染められた帆布は防水処理を施した特別製。食料も詰められるだろうかと問うてみれば店番をしていた竜はにこりと笑って頷いてくれるから、『気に入った!』とトゥルエノはその頬に喜色を乗せて背負い鞄を腕に招き入れた。
「それでは我からは主に似合いそうな……此の月のようなランプは如何だろうか?」
星屑を散りばめてから吹き込んで丸みをつけた硝子のランプは満月を模した一点もの。ひかりを燈せばきらきらと星を映してくれるのだと。知れば健気な雷精はこれならば、と期待を込めてカナトを仰ぐ。
「長く使われる持ち主の手元にある方がいいと思うケド」
細やかな細工は長い旅路の中で彼らが真心を込めて創り上げたのであろうことが一目で分かる。それならばものの価値をそこまで重要視しない自分よりももっと愛してくれるひとが手に取ったほうが良いのではなかろうか。
このままではお古と称して何れトゥルエノが住処に持ち帰ることが目に見えている。それをそのまま伝えれば、『ふふ〜バレてしまったか』なんてにんまりと目を細めるものだから少しばかり面食らってしまう。
「夜空も月明かりも我が持って、何処へでも着いて行こうとも」
「……本当に、モノ好きな精霊サマだこと」
溜め息ひとつ。それでもランプをしっかり受け取ってくれることが嬉しい。
キミの行きたいところまで何処までも。
このあかりを言い訳にしたら――ああ、主は許してくれるだろうか?
●飛花、うらうら
澄んだ瞳に期待を乗せて。それでも輝石に手を伸ばすことはせずにアリス・アイオライト(菫青石の魔法宝石使い・h02511)が並ぶ露店を巡るから、天ヶ瀬・勇希(エレメンタルジュエル・アクセプター・h01364)はその様子に小首を傾ぐ。
「あれ? 師匠、今回は輝石じゃないの?」
本来の彼女であれば宝石と名がつくものならその全てを収集し研究するのが常の筈だが、その手に取るのは趣の違うものばかり。師の思惑がわからずに『いつも宝石に目がないのに珍しい』と投げかけたなら、アリスは僅か逡巡を挟み淡く微笑みを返した。
「それはですね、彼らの輝石は伝承にもある尊いものだからです」
その生涯を宿し次なる旅路へと繋ぐもの。
魂の具現化とも言えるその輝石を知的好奇心から研究対象にしてしまったら少しばかりきまりが悪い。
「ですから、今回は魔法のアイテムを探します!」
「ふうん? そういうものか」
ほしくないわけではないのだろうけれど、彼女がそう言うのならそうなのだろう。
少し勿体無い気もするけれど、とは口にせずに少年は幾つものアミュレットが並べられた店先を覗き込む。
「俺はせっかくだし輝石のお守りが欲しいなー」
いつも身につけるものであるならば、と。自然と目はあたたかな色合いのものへと誘われて――ぴたりと目に留まったのは淡く煌めく橙の。優しいあかりのようなひかりを湛えた輝石を手に取れば、ほんの少しのあたたかささえ感じられるよう。
「わ、丸っこくて、なんか太陽みたいだな」
身に付けるならストラップにして、スマートフォンに付ければ何時でもそばにいられるだろうか。
「うん、気に入った、これください!」
店番の竜にそう告げれば、傷がつかないように丁寧にびろうどの布で包んでくれた。それがなんだかすごく上等な買い物をしたような心地がして、勇希はすこしの背伸びに照れくさそうに目を細めた。
時同じくして。
隣の天幕に視線を運んでいた菫青の魔女は今は燈を灯さずに静かに佇んでいる洋燈を見留め、その瞳に星を宿して頬を喜色に色付かせた。
「わあ、素敵ですね!」
真鍮でつくられたカンパニュラ。ほんの少し魔力を分け与えればあかりが灯り、炎を使わずとも持続するひかりは乾燥しがちな冬場の安全なランプとして重宝されているのだと店番をしていた竜が教えてくれた。試しに、と手に取ってみれば洋燈は直ぐに呼応してくれて――その中心で煌めく藍の輝石に気が付いて、アリスはぱちりと瞳を瞬かせた。
「ほしいものに輝石がついてるなら……ええ、問題ないですね! 買いましょう!」
迷う必要など何処にあろうか。
仕方ない、輝石が光源だと言うのならばこれは不可抗力であるからして。
「あっ、師匠結局輝石買ってる!」
「あっ。ゆ、ユウキくん、違うんですこれは……!」
買い物を終えた勇希にあっと言う間にバレてしまって視線を泳がすけれど、ランプを包んでもらうことは忘れない。そんな師匠のお茶目は慣れっこだと肩を竦めて見せる勇希に、アリスはばつが悪そうに長耳の先をへにゃりと垂らす。
「もー、それならこれも受け取ってくれよ」
差し出されたのは先に勇希が買い求めたものといろを違えた菫の輝石。ストラップに加工されたそれをてのひらに乗せれば『年下から物をいただくわけには』とアリスは慌てるけれど、勇希はそんな狼狽も遠慮も吹き飛ばすようににかりと笑い飛ばして見せた。
「師匠がまたどっかふらふらして危ない目に遭わないよう、お守りな!」
「……うぅ、耳が痛い。そういうことなら頂戴しますね」
●願って、咲いて
秋のやわらかな陽のひかりに、しろい輝石がきらりと煌めく。
愛らしい輝きにばらいろの瞳を甘く細め、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)はそのうつくしいかんばせに淡い笑みを湛えながら廻里・りり(綴・h01760)を覗き込んだ。
「今日は誘ってくれてありがとう。それにその輝石。いい出会いがあったのね」
彼女の言葉はあまい魔法のよう。
まるで選んでくれた大切な友人のことまで褒めてもらったような心地がして、りりの笑顔も深くなる。
「えへへ。選んでいただいたんですっ」
「白色があなたの首に映えて、とってもかわいいわ」
贈られた想いごと抱きしめて。今一度コルヌと縁を結べることも嬉しくて、知らずりりの足取りは軽くなる。そんな彼女の喜ぶ姿が可愛くて、自然とベルナデッタの爪先もかろやかに踊るよう。
「ベルちゃん、気になる子はいますか?」
折角ならば彼女にもこのさいわいを手にして欲しい。
気に入る子がいればいいのだけれど、と。ふたり並んで装飾品が並ぶ天幕のひとつに足を止めたなら。可憐な花をかたちどった輝石を見とめ、ベルナデッタの硝子の瞳が呼応するようにひかりを反射した。
「……あら、ピンク色のバラみたい」
「わぁ! ほんとうだ、ベルちゃんの色!」
ただ磨いてそうなった訳ではなく、その輝石となった竜は誰よりも花を愛し慈しみ、ついにその生涯を終えたときに花と成ったのだと言う。
「ワタシのこれはガラスなのだけど、ワタシの命なの」
魂のかたち。命の名残。
その煌めきを手に取って、ベルナデッタは金細工の蝶が寄り添う薔薇の首飾りにそっと囁き掛ける。
「綺麗なあなた。仲良くしてくれるかしら?」
「ふふっ。きっと、仲良くなれますよっ」
自分はどうしようか。
ただ闇雲に眺めていては日が暮れてしまいそうで、ううん、と目を閉じたその瞬間。ちかりと胸元に下げた首飾りが淡く輝いたような気がして、りりはぱちりと目を瞬かせた。
「……導いていただけるんですか?」
輝石はものを言わないけれど、たくさんの同胞たちがいるこの場だからこそちからの真価が発揮できるのかもしれない。恐る恐るに問い掛ければ今度は目に見えて輝石が強くひかるものだから、少女たちはちいさく声を上げて顔を見合わせる。
「りり、お願いしてみるのはどうかしら」
「はいっ、やってみます!」
もしも大切なひとが大変な思いをしていることがあったら、それを教えてくれるようなもの。そんなものはないでしょうかと恐る恐るに願ってみれば、しろいひかりを辿ったその先に――。
「これは……」
てのひらに収まる硝子のちいさな天球儀。
中身はからっぽに見えるけれど、りりがその手に乗せた途端にベルナデッタのすがたが映るものだから。上から下から眺めてみれば、『それは今想うひとを映すしるべよ』と店番をしていた老婦人はやわらかく微笑んで随分古い魔法がかかっているのだと教えてくれた。
「こういったものもあるのね。ねえ、りりがよければ、ワタシもお揃いで持っていてもいいかしら」
そうしたらあなたの危機にはワタシが助けに行けるもの、なんて。ベルナデッタが齎してくれたおねだりに否を唱えることなんてありはしない。
「おそろいも、ぜひしましょうっ。ベルちゃんがたすけてほしいときは、かけつけちゃいますよ!」
「あら、逆もしてくれるの? 頼りにしてるわ、りり」
天球に映るは互いの姿。
それが翳ることがないようにと、少女たちはねがいを交わして微笑みあうのだった。
●しろ
「冴くんがお出かけしようって誘ってくるの珍しいね」
自分と一緒に過ごすのは殆どが店か家の中だったから、改まってどうしたんだろう――なんて、思ってるんだろうなと。妹がすこし不思議そうにこちらを見上げてくる様子に一文字・冴(明星・h03560)は淡く微笑みを返す。
「よその世界の市って楽しそうだし……透ちゃんこういうの見るの好きだよね?」
「うん、好き」
ほしい、と物欲が疼くかと言えばその感情を焚き付けるのは一文字・透(夕星・h03721)にはまだすこし難しいけれど、普段見られないものを見ることが出来るのは楽しい。
「店の装飾にいいものとか、面白い材料ないかなって思ってさ」
「じゃあ冴くんが見たいものを見よう」
と、云うのは建前で。
いやいや、それも勿論本心なのだけれど。本当のところは甘え下手で何も欲しがらない妹を甘やかす確かな口実が欲しかったから。
「透ちゃん、最近は家や店で一緒にいるよりシロとふたりで出かけて行っちゃうから」
たまにはお兄ちゃんに付き合ってほしいなと小首を傾いで見せれば、透は目をゆっくり瞬かせたのちにこくりとちいさく頷いてくれた。
「あ、ちゃんと隣を歩いてね」
魔法市は活気に満ちていて、ひとこそそこまで多くはないが立派な翼や尾っぽを携えた竜人たちの中に紛れてしまえば容易くはぐれてしまいそう。一度見失うと彼女はすぐに迷子になってしまうからと、念を押す冴の言葉を素直に受け取った透は頷きを返しながら兄が喜びそうなものを探して興味深く視線を巡らせる。
「この織物、可愛いね」
透が手に取ったのはフィン織のテーブルクロス。表裏で柄の色が反転したそれは、季節が変わったときに気持ちをぱっと変えられるたのしみになるのだと云う。
「飾るのもいいけど、小さいものを毛糸や雑貨を乗せる敷物にしたりコースターとかにできないかな?」
「あぁ、いいね。店の雰囲気にも合いそうだし、平置きの本にも良さそう」
手織の布は触れればあたたかみが伝わってくるよう。
大きさちがいのそろいのものを幾つか買い求めれば、それから、と冴は徐に口を開いた。
「あとは、透ちゃんに何かお守りになるもの買いたいんだよね」
「私の?」
最近の彼女の頑張りを知っている。本音を言えば危ないことはしてほしくないけれど、彼女が自分で決めたことを曲げない子だと云うことも知っているから。
「透ちゃん、最近よく仕事受けてるでしょう」
だからせめて、そのみちゆきの無事を願いたい。勿論透が直接頼ってくれることがあるならば喜んで力を貸すけれど、そうすることが苦手なことだってわかっているからこそ。
「あ、うん……お父さんの力になりたいし」
『強くなりたいから』とは、透は口にしなかった。ただ触れないでいてくれているだけで冴は透の未熟なねがいに気付いていると思うから。
「このヘアピンとかどうかな?」
「うん、私の髪の長さでも着けやすそう」
暗器を扱う彼女が身につけても邪魔にならないものがいい。しろいちいさな花が寄り合っているような愛らしい輝きはカランコエをかたちどった花の輝石。透が気に入ってくれたことを確認すれば、会計を済ませた冴はしろいてのひらの上にそっと旅路の祝福を乗せ『着けて見せて』と微笑み促した。
「ありがとう、ちゃんと使うね」
互いに互いを想う気持ちのすべてを言葉にすることはないけれど、それでもこころは繋がっている。髪に淡い輝きを寄せて『似合うかな』とはにかむ透の姿に、冴は勿論と頷きを返した。
●旅は道連れ
この√で暮らす人々の祭りや市の多くは趣向が凝らされていて珍しいものばかり。であれば面白いことを疑う余地なんてこれっぽっちもなくて、ヴァロ・アアルト(Revontulet・h01627)はぐっと両の手を握り込んで竜たちが待つ魔法市を勇んで仰ぐ。
「お祭りと聞いたらじっとしてるわけにはいきません!」
喜びと楽しさがこころに飛び移ってきたようだ。
転がるように弾む足取りでヴァロは竜たちの天幕の中を興味の向くまま彼方此方へ次々と覗いていく。輝石を取り扱った装飾品は勿論、日用品や冒険のために用いる道具まで。ありとあらゆる『すてき』と『ふしぎ』が詰まったその場所に感嘆を上げながら、まずは何処に足を止めようかと幼いフィルギャは瞳を輝かせながら周囲を忙しく見回した。
「折角ですから輝石のお守りが欲しいですね」
一目惚れしたとっておきだけを買うのも良いけれど、それでは呆気なく買い物が終わってしまう気がする。年に一、二度あるかないかの機会なのだからと意気込んでいたなら、不意に袖を引く気配があって。振り返ればそこにはヴァロよりもひとまわりちいさな竜の子どもが立っていたものだから目を瞬かせてしまう。
「ねえちゃん、おまもりをさがしてるの?」
「はい! ひとまず全部のお店を見て回ろうかとっ」
あまりに剛毅なその様はおとなの竜であれば『そりゃあ無茶だ』とびっくりさせてしまうかもしれないけれど。それだけこの市を気に入ってくれたのだと判断したのであろう少年はやわらかな頬を染めて満面の笑みと共に口を開いた。
「ぼく、連れて行ってあげる!」
こうものが多くては旅人には目当てのものを探すのは大変だから、子どもの竜たちは客引きや道案内を請け負っているのだと。聞けば今度はヴァロのかんばせにぱっと笑顔の花が咲く。
「おねがいします! それなら早速、レッツゴーですよー♪」
「おー!」
揺れる尾っぽがひとつ、ふたつ。
ひとにぶつからないように気をつけながら、少年少女は地を弾むように駆け出した。
「はわー……あれも可愛い……」
獣人たちに人気の穴を開けないイヤカフはけものの耳にやさしい耳触り。可憐なピンキーリングを彩るのはヴィオラをかたちどったきいろの輝石が輝く一点もの。
砕けてしまった輝石をビーズ状に加工すれば、雨粒のようにたくさん連なったきらめくチャームへと姿を変える。
「あっ、こっちのも素敵です……」
あれも、これも。少年と巡る天幕の旅は実に楽しく目移りしてしまう――いや、目移りというより手に取るまで気に入ったものを端から全部購入していっているから正しくは即決即買なのだけれど。
「ねえちゃん、両手いっぱいになっちゃった!」
「ふふふ。私は妖精ですからね、私の辞書に我慢や節約とかいう文字はないのです!」
少年が行く先行く先である程度の指針を定めてくれるから迷うことはない。あまりにも迷わなさすぎて彼を少しばかり驚かせてしまったが、然もありなん。
「んー大量大量ー!」
「かぼちゃだぁ!」
両手いっぱいの宝物をお気に入りのジャック・オ・ランタンのショルダーバッグに詰め込めば隣から歓声が上がることが自分の『すき』を肯定してもらえたようで嬉しい。よいしょと中身が壊れないように慎重に肩に掛け直し、ヴァロはにこりと少年へ笑み掛ける。
「さーて、2週目行きますよー!」
まだ鞄の中には余裕がある。今度は綺麗な細工物や珍しい道具を探そうと、告げれば少年は諸手を上げて喜びながら道を示すのだった。
●錦虹
竜の魔法市とは物珍しさもさることながら並ぶ品々も一風変わったものばかり。雨夜・氷月(壊月・h00493)は上機嫌に彼方此方の天幕を冷やかしていたのだけれど、ふと立ち寄った天幕の中、『変わり種がお好きかい』と首を傾いだ竜が差し出したものに氷月は仕草ばかりは無垢な少年のようにぱちりと目を瞬かせた。
「コレは?」
「火が周りに燃え移らない不思議な花火だよ。面白い音が鳴るから、天幕の外で試してみるかい?」
かたちは竹蜻蛉のように見える。ぴょろりと飛び出た紐一本に火を点せばたちまち空へと打ち上がり、きれいな花を咲かせるのだと言う。音の割に周囲に飛び火したりすることはないから、賑やかしから獣避けまで様々な用途で使える優れものなのだとか。
「何それ気になる、チョーダイ!」
火が燃え移るか否かは氷月にとって然したる問題にはならなかったが、面白い大きな音が鳴るならば|使いよう《遊びよう》が幾らでもある。一緒に店先に出てきた竜が『花火が上がるぞぉ』と周囲の竜たちに声を掛けるのとほぼ同時、導火線にばちりと勢いよく火が点された。
時同じくして。
織物じまんの御婦人から色とりどりの品々を見せてもらっていた物部・真宵(憂宵・h02423)はその仕事の細やかさにほぅ、と感嘆の溜息を溢しながらとびきりのひとつを探す旅を楽しんでいた。
「この織物、糸がとってもきれいですねぇ」
「そうでしょう。宵待ち草の雫で一晩煮込むと、糸がとってもやわらかくなるのよ」
絹のようになめらかで、それでいて麻のように軽く丈夫な布の数々で衣類を仕立てれば夏にも冬にも快適な一着が出来上がるのだとか。この布でなにかを作りたいならこの店で。この布を扱った衣類が欲しければあちらの天幕で、なんて和気藹々とおしゃべりに花を咲かせていた、そんな時だった。
それから、更に時同じくして。
『竜』とは、なるほど。字を違えども親近感を覚えるその響きに心を躍らせながら鼻歌混じりに魔法市を散策していた李・劉(ヴァニタスの匣・h00998)がひかりの奔流を見たのは、至極唐突なことであった。
「……ン?」
歓呼の声であったのだろうか。
うねりを帯びた歓声は轟きとなって、周囲の空気を巻き込みながら上へ、上へと上昇していく。やがてそらに到達したそれは盛大なファンファーレと共に炸裂し、よく晴れた秋の空を覆い尽くすように八つの流線となって辺りを照らした。ひかりの花がきらきらとした火の粉となって頬に、肩に落ちていくと云うのにそれらはちっとも熱くはなくて。劉がその爆心地まで無意識に急ぎ足で向かってしまうのは――多分、仕掛けた彼と気性の根っこが似ているから。
一方突然の爆音と閃光にひっくり返りそうになってしまったのは真宵と御婦人。
『まぁたルーベルの坊やだね。ごめんねえ、お嬢さん』とは婦人の言だが、賑やかしに花火が上がることはイベントごとならば可能性はある。『びっくりしましたけど、大丈夫ですよ』とかぶりを振って。それでも音の出どころは気になって振り返ったその先に立っていた見覚えのある背中に、ぎくりと肩を跳ねさせた真宵は躊躇うことなく踵を返すと婦人に一声断りを入れてからその場を後にしようとした、のだけれど。
「なーにしてんの、物部」
「ひっ」
にんまりといい笑顔を浮かべながらとん、とん、と軽やかに長いコンパスで距離を詰めるうつくしき災厄の姿に真宵は分かりやすくうろうろと視線を彷徨わせる。
「あぅ……こんにちは、雨夜さん」
「んっふふ、そんな怯えなくても取って食べたりしないよ」
「いやですねぇ、怯えてなんかいませんよ……?」
氷月のすこし後ろの方で燥いでいるのが、恐らく先ほど婦人が名前を挙げていたルーベル青年なのだろう。分厚いゴーグルのせいで顔つきはよくわからないが、自分の発明品の成功を喜んでいるようだ。そんな青年に『凄かったネ』と一声掛けた後、劉はそこに見知った顔同士が並ぶのを見とめてひらりと軽く手を振って見せた。
「これはこれは! 氷月くん、面白い物を持ってるネ♪」
「あれ、劉じゃーん。んっふふ、イイでしょ」
好奇心で近付いただけではあったが、成る程どうしてか今日は縁が巡る。
「你好、真宵ちゃん」
「……あら? 劉さん」
その節はお世話になりました、なんて頭を下げたなら真宵も折り目正しく礼を返してくれるからその笑みを深くして、劉は改めて氷月へと向き直る。
「お二方は……友人同士かな? 追いかけっこして仲が良いネ」
「そうそう、俺たちオトモダチなんだ!」
にこり。にこり。
見目ばかりは麗しい美丈夫ふたりが微笑み合う。側から見ればポジティブな言葉しか会話には出ていないが、真宵のかんばせだけが曇り模様であった。
「友人……そんな風に言われるのははじめてです」
ものは言いようである。
現実はただ氷月が真宵『で』遊んでいるだけの関係性のような気がするけれど――、
「ていうか、二人も知り合いなんだ? なら折角の縁だし一緒に見て回る?」
「劉さんには依頼でご協力頂きまして……えっ」
目を瞬かせる間もなく『あゝ、よいのであればお供するヨ』なんて二つ返事で劉まで直ぐに同意をするものだから、展開の早さに置いてけぼりの真宵はぽかんと口を開けてしまうけれど。
「ひとりでは少し心細かったので、ぜひ」
見知らぬ土地でひとり歩き回ることも、折角のすてきな品々を誰かと共有できない寂しさも確かにあったから。おずおずと真宵が是を唱えるのに、麗しき男性陣はそれはそれは綺麗に微笑むのであった。
「二人はどんなの探してるの?」
幾つか買い求めた花火のストックを懐に仕舞いながら。この市に訪れたそれぞれの目的を氷月が問えば、特に隠すことでもなしと劉は頷きと共に言葉を紡ぐ。
「私は銀細工の装飾品を。身内への贈り物に耳飾りでもと」
「わぁ……銀細工ですか! 劉さんの目利きによって選ばれるお品はいっとうすてきに違いありませんね」
かたちは違えども互いに店を営む一城の主。であれば彼の審美眼は本物であろうと真宵がぱちりとてのひらを重ねたなら、劉は『はは、目利きだなんて嬉しい褒め言葉』と微かに微笑み『真宵ちゃんは?』と続きを促した。
「わたしは敷物を。これから寒くなってくるでしょう? 店に敷きたいなと思って」
「……おや? となると俺だけ仲間外れだね」
明確な目的はない。そこに面白そうなものがあったから、暫し退屈を忘れることが出来そうだったから、とまでは口にしなかったけれど。今のところ戦利品はコレ、と花火を掲げて見せる氷月の姿に真宵と劉は堪らずちいさく吹き出してしまう。
「んふふ。じゃあココは二人の目利きの力を借りようかな?」
「おや、それは大役だ」
であれば油断は出来ないネ、なんて劉は声をひそめて見せるけれど、そんなの氷月に丸聞こえな事だって彼はきっと分かっている。
歩きながら気に入るものを探してみたっていい。
何しろコルヌの民ときたら、ひとを喜ばすことに命を懸けているのだから。きっと氷月の『とっておき』も見つかるはずだと、三人は歩調を合わせて歩き出した。
「温度調整出来る敷物とかあるの? へえ便利!」
「お、優れ物だ。特別な素材が織られているのかな?」
聞けばそれは不死鳥のなりそこないの羽毛で織られた特別製なのだとか。いのちを繋ぐことに人一倍強い執着を持つ彼の羽毛は本人も知らぬままに勝手にいきものの『適温』になってしまう。それを織物に利用することですべての季節を快適な温度で保つことが出来るのだと言う。
「わぁ、……わたし、これにします!」
「良いね良いね。劉は……ほら、コレどう?」
それは可憐なあおい花。勿忘草を模った輝石を散らした繊細なイヤーカフ。銀でかすみ草を表現しているのか、まるでそれひとつがちいさなブーケのようにも感じられて、劉は手にした青花を見つめちいさな感嘆を上げた。
「精巧な作り……実に惹かれる。ふふ、氷月くんは良き品を見つけるネ」
「そ? 俺は目に付いたのを挙げてるだけだよ」
けれどふたりだって貰うばかりではない。こっそり選び取っていたペンデュラムをついと差し出せば、それが自分のためのものだと分からずに氷月はきょとんと首を傾ぐ。
「こういう物は愉快な縁の一縷を結ぶだろうて。ねぇ? 真宵ちゃん」
「ふふ。面白いもの……ではなく、すてきなものが見つかってしまいましたね」
群青の煌めきの中に緋の星が散りばめられたその輝石は先の花火にも似て。それをそらに透かしてみれば、幾重にもひかりのいろが重なりばちりと視界いっぱいに飛び込んでくる物珍しさに氷月の瞳がきらりと輝いた。
「良いね、気に入った」
旅の供にピッタリだ! なんて声を弾ませる氷月の言葉に裏はない。
まるで少年のように喜ぶその姿に、真宵と劉はそっと微かな笑みを交わし合った。
●君に花を
春に輝石を譲ってくれた竜たちは元気にしているだろうか。託されたそれぞれのいろは良き旅の連れとなってふたりに寄り添ってくれている。彼らが再び狙われることなど決してあってはならないと、賀茂・和奏(火種喰い・h04310)は胸に誓いながらやわらかな秋風に髪を遊ばせる。
執着がとても強いのであろう様子は前回の姿から窺えたけれど、陽だまりみたいなあの子に悲しい未来を見せるなんてけしからん。静かに奮起していた白水・縁珠(デイドリーム・h00992)はひとりでも飛び出しかねない勢いだったけれど、日暮れまでの時間を共に、と和奏が声をかけてくれたのは縁珠にとって確かな幸運だった。
「縁さんは、前はどんな方達と出会いがあったの?」
その輝石が君の耳を飾るのはいつだろうか。
今はまだブローチとして縁珠の胸元に飾られている鶸萌黄のちいさな蕾に柔く微笑みながら首を傾げば、ねこのように目を細めた縁珠はそうだね、と唇を開く。
「少し羨ましくなるぐらい、仲良さそうな兄妹だったよ」
「そうなんだ。俺は渋い素敵なお爺さんだったよ」
またお見かけできたらいいねと微笑む和奏の言葉に頷いて。ぐるりと視線を巡らせたその先に、
「……あっ」
若苗いろの長い髪を湛えた見覚えのある姿に声を上げ、『わっきー、あの子!』と駆け出したなら。喫驚に目を見開いた和奏も慌ててその後を追い掛けて、ふたりは人混みを縫うようにひときわ目立つ鮮やかなみどりいろを目指して地を蹴った。
面影は変わらず、くるりと振り返った妹竜が駆けてくるふたりの姿を見とめると『あ!』と声を上げながら小走りに出迎えてくれた。遅れて気付いた兄竜の方も、天幕から顔を出して大きく手を振ってくれている。
「わあ、また遊びに来てくれたの? うれしい! 元気?」
旅路の先で『また』の縁を結べる機会は本当に稀だ。
一期一会を大切にするコルヌの竜たちは縁珠との再会を心から喜んでくれた。すこし内気な兄竜と思わず早口になって捲し立ててしまう妹娘の勢いに揉みくちゃにされながら、それでもうんと頷けば竜のきょうだいは心からの笑顔で以ってふたりを出迎えてくれた。
「会えてうれしー。蕾ちゃん、大事にしてるよ」
「俺もお会い出来て嬉しいです。会えてよかったね、縁さん」
よかったと言葉を重ねるのは竜のきょうだいとて同じこと。にこにこと笑みを深めながら『よかったらうちの店も見ていってね』と伝えてくれた。
それにはもちろんだと頷くけれど、少しだけ縁珠は考え込む仕草を挟む。普段の買い物は大体目的のものしか手に取らないから、こういったマルシェのような催しは冷やかしになってしまいがち。どうしようかな、なんて首を捻るその横顔に和奏は柔く助け舟を出す。
「如雨露や花鋏とか気にならない?」
「園芸道具は代々継いでるのがあるし……能力でも作れるしね」
「あ、継いでるのあるならそうか」
それならば、と。縁珠の視線を追い掛けながら並ぶ品々に目線を運ぶけれど、『今回は奏さんの買い物でしょ』と小首を傾いだ縁珠の姿に和奏はすこしだけ困ったように微笑んだ。
「ピアス探す? 手袋?」
「ピアスはこちらで譲って貰ったから、俺だと手袋かな……魔力制御の術は後付与もできるけど、丈夫なの」
丈夫なのかぁと同じように屈み込んで探し始めれば、なるほど付与術も気になるな、なんて。あれこれと実用性を考えながら思慮を巡らせる縁珠の視界の端で、何か、
「(…………みられてる、気がする……)」
彼の観察眼が鋭いのは職業柄、いつもの事だけれど。
今日は戦いの場に赴くつもりでいたから、手入れなんてあまりしてこなかった。水仕事ですこしだけ荒れたゆびさきを見られるのを急に恥ずかしく感じてしまって、縁珠はそっと自分の体に手を挟んで隠し込む。
一方、元から縁珠のために何かを贈ろうと思っていた和奏はその仕草にぱちりと目を瞬かせていた。
女の子なら髪の手入れのためのものもありだろうか。雨の日に『最悪』と|愚痴《怨嗟》を溢しながら広がる髪と格闘する姉の姿を思い起こせばそれが良いかとも思っていたのだけれど。隠された手の真意を思えば、そうか。花屋を営む彼女にとって手荒れは切っても切れない職業病のひとつ――であれば。
「すみません、輝石の森の薬草や花を使ったハンドクリームはあります?」
「まかせて、お化粧品はお兄ちゃんじゃなくてわたしの得意分野なの。あまいのが好き? それとも、爽やかなの?」
ぽかんと縁珠が口を開けて呆然としている中、彼女が我に返る前にと隠れたてのひらを捕まえれば、みどりの瞳がまん丸く見開かれて。『もうすぐお誕生日でしょう?』と有無を言わさず渡された輝石の花のあまい蜜香を閉じ込めた硝子のジャーに、縁珠は『ん?』と疑問符を浮かべながら視線をてのひらの中へゆっくりと落とした。
「登録した誕生日、奏さんには話したんだっけ」
君が生まれて、歩いてきたから。
離れていたって、√さえ跨いでいたって、糸は繋がりえにしが出来た。
だから。だから、ありがとう。
告げる言葉はあんまりにも真っ直ぐで、思わず目を逸らしそうになってしまうけれど。和奏の視線は変わらず直向きにこちらへ向かっているから、それを撥ね付けて拒みたくはない。
「それから……重ねる時に、おめでとう」
「……ありがと」
重ねる日々も。あたらしい縁にも。
よければよろしくしてね、なんて。気恥ずかしげに呟く縁珠のてのひらを、和奏はもう一度きゅっと握り直した。
●花紫の輪郭
幾度いのちを脅かされたとしても彼らの在り方は変わらない。
ひとを憎み怯えることなく、たださいわいを分け与えながら旅を続ける竜の一族。
「なんと優しい方々でしょう」
霞がかった不明瞭な視界の中でもわかるのは、その場に満ちるよろこびのいろ。其処彼処から上がる楽しげな笑い声に誘われて眼を細める香柄・鳰(玉緒御前・h00313)に不自由がないようにと、寄り添う九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)もまた竜たちが広げる『おひろめ』の瞬間を眩しそうに見詰めていた。
「そうだね、優しくて強い人達だね」
彼らはひとの身に堕ちたことでちからの殆どを失ってしまったけれど、死するときに残された|輝石《ツノ》には彼らが真なる竜であった頃の膨大な竜漿と魔力が篭るのだと言う。そんなに大切なものを人々に譲る理由は、まだふたりには分からなかったけれど。
「我々も祝福を肖りに参りましょう」
見えない鳰は市の活気を耳で判断している。音を頼りに歩むことに気は払えども、そこには笑顔ばかりが満ちているのだと音だけでも十分に伝わってくるから。知らず軽くなる足取りを見てくすりとガクトが笑った気配に鳰の笑顔も深くなる。
「ふふ。主も楽しまれている様で何より!」
いつもより彼女が燥いでいるのであろう様子が声と仕草で分かるから、鳰の笑顔に釣られてしまう。そんなガクトのよろこびのいろが伝わってくることが嬉しくて、鳰ははにかみながら笑い声がより多く聞こえる方へと爪先を運んだ。
不意に、ぴたりと足を止めた鳰に気付いて振り返る。
「鳰?」
見れば鳰は天幕のひとつに潜りたそうにそわそわとした様子でこちらを窺っていて、数歩引き返したガクトは改めて彼女を見下ろし『どうしたのか』と首を傾いだ。
「申し訳ありません、暫しお時間を頂いても宜しいでしょうか」
慎ましさは彼女の美徳ではあるが、そんな風に気負わずとも構わないのに。
覗き込んだ先に広がる織物の数々に目を瞠れば遠慮がちに『この織物店へ入りたくて』と口にするから、前髪に隠れがちな双眸を細めガクトは彼女が不安がらぬように柔く是を唱え店の垂れ幕をそっと捲った。
「好きなのを見ても大丈夫だよ」
行こうかと先導するように足を運べば鳰は頬に淡く喜色を乗せていそいそと後をついてくる。その様子を穏やかな眼差しで以って眺めていた老いた竜が『いらっしゃい』と口にするのがほんの少し気恥ずかしい。
「まあ、」
いろの鮮やかさがはじめにぱっと霞んだ視界に広がって。断りをひとつ入れてからそっと触れれば、その仕事がどれほど丁寧なものなのかが見えずとも伝わってくる。たくさんの糸を使って織られたそれらのなんとうつくしいことかと感嘆を溢せば、竜は笑い皺ばかりが刻まれた顔をくしゃくしゃにして喜んでくれるから、側で見ていたガクトもあたたかなものを分け与えられたような心地がして柔く口元を綻ばせる。
「ガクト様、宜しければ此方をお使い下さいな」
「んー? 私にかい?」
自分の欲しいものを探していたのかと思ったら、急に此方へ差し出されたそれに面食らってしまった。
濃淡様々な紫で染められたそれは彼らが旅の供にと育てている綿雲羊の毛で織られたとっておき。触れればゆびさきが沈むくらいにやわらかく、肌を乗せれば何時迄も触っていたくなるほどふわふわであたたかい。
「この後の季節、お身体を冷やさないようにと……ええ如何にも温かそうでしょう?」
色もお似合いです、なんて。自分のことに無頓着なガクトを慮ってのことだろうけれど、自分の貌さえ朧な彼女の言葉は真っ直ぐでその気遣いがすこしばかりこそばゆい。
「歳を重ねる毎に一層私に過保護になるね」
不快を買わぬ限りは何とかして差し上げたいと思う気持ちは心からのもの。
どうか受け取って下さいませ、なんて冗談めかして笑う横顔へ不意にガクトが手を伸ばすから、ぱちりとひかりなき藤の瞳を瞬かせて鳰はその所作を窺った。
「鳰動かないでね」
「? 承知致しました」
首を傾げながらも待てば横髪を僅かに縫い止められるような感触があって、そろりとゆびさきを伸ばす。触れた硬い感触にガクトを仰げば、『輝石の髪飾りだよ』と何てことのないように告げられるからもう一度驚いてしまう。
「髪飾り……ですか? まあ、何時の間に」
「鳰が選んでいる間にね。隣の店で」
輝石の花を幾つも連ねた可憐な佇まいが彼女に似合いだと思った。花に込められた言葉まではガクトにはよくわからなかったけれど、ただ感謝の気持ちだけが伝わればいい。
「戦いの時に身を護るらしい」
「有難う御座います。より一層励みましょう」
そう言うことだって分かっていた。無茶をするなと告げたって、きっと彼女はこれからも死線の中を駆け抜けていくのだろう。だからこそ無事を願うものが居なければならないと、そう思うから。
「君に傷は私が許さないからね」
「……う、承知しました」
ひとつ念を押せば、ほら。息を詰まらせた彼女が図星であったことなんて手に取るように分かるけれど。お願いのかたちを取れば彼女が是を唱えてくれることを知っているから、ガクトはにこりと笑みを深めて頷いた。
「ん、よく似合ってる」
主には何時だって何かとして差し上げたいのに。
いつもそれ以上を頂いてしまうのを――ああ、私は確かに嬉しいと感じてしまっている。
●帰郷
コルヌの皆とまた会える。
それが嬉しくて。すごく、すごく嬉しくて――そして、それと同じくらいに。彼らに再び危機が迫っていると云うのなら、絶対に守り抜きたくて。祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)はあおい輝石を確りと握りしめながら、あたたかな気配に満ちた天幕たちを仰ぐ。
「いこう、カエルムさん」
貴方が生きた道を知るひとたちのところへ。家族がいるところへ。
今はただ、再び巡り会える機会を喜んで。
秋風が運ぶ笑い声に誘われて、ラムネははやる気持ちをそのままに軽やかに地を蹴り一歩を踏み出すのだった。
彼の家族は息災だろうか。
子どもをたくさん連れている竜を知らないかと聞けば、その天幕は直ぐに見つけることが出来た。
「おや、あんたは……やあ、久しぶりだなあ!」
「こんにちは、ご無沙汰してます」
以前はひとりで子守と店番をしていた竜の傍に、彼の伴侶であろう母竜が赤子をあやしながら寄り添っている。ラムネのことをきちんと覚えてくれていたらしい彼が声を上げて笑うのに、客人の来訪に気付いたちいさな双子たちが天幕の奥からひょこりと顔を出す。
「おにいちゃんだ」
「おにいちゃんだ!」
すこし背が伸びただろうか。ああ、ツノも伸びてきただろうか。重ねた季節の流れを感じさせるその姿に目を細めながら飛びついてきた双子を受け止めれば歓声が上がって、それが何処か自分の弟妹たちを思い起こさせた。
「すまねえな、どうにもわんぱくで」
「いえ。でっかくなったなぁ、ふたりとも」
直ぐ父さんに追いつくな、なんて笑い掛ければふたり揃って燥ぎはじめるものだから、それさえも喜ばしくて。変わりなく彼らが生きてきてくれたのであろうことを知れたことが嬉しい。
それに、度重なる『そら』との邂逅でこころを重ねてきたからだろうか。首に下げたあおい輝石からもよろこびが伝わってくるようで、胸の奥があたたかい。
「カエルムさんが、何時だって皆を身近に感じられるような……心の安らぎになれるようなものが欲しくて」
彼はとうにいのちを失っているけれど、己と波長が合ったとき。ちからを上手く注ぎ込めた瞬間に、意識を重ねることが出来るから。彼のひととなりを知る度に感じていた想いを、他でもない彼の血縁に導いて欲しかった。
「ご先祖さまを大切にしてくれてんだなあ。ありがとよ」
「あんた。それなら」
枯れぬ花。
輝石の森に咲く、種を結び終えた輝石の花は、花のかたちを保ったまま其処にあり続けるのだと言う。持ち運ぶには少々不便だが、家に飾る分にはずっとずっと長く楽しめるものだからと。切り花にしたそれを束にしてくれた母竜とその伴侶に感謝を添えて、彼らに暫しの別れと再会の約束を告げラムネはひとたびその場を後にする。
ほんの少し市から離れた小高い丘の上。
彼らの営みが見えるその場所で、ラムネはそっとそらにあおい輝石を掲げて目を細めた。
『おかえりなさい』。
貴方と共に此処に来ることが出来たことが、心から――、
「……煙?」
不意に、鳥が惑うように飛び立っていくのが見えた。
あたたかな色合いの天幕の中からざわめくように立ち上る黒煙はまるで人々を脅かすように低く這いながら流れて、背筋に嫌な汗が伝い落ちていくのを止められない。
「まさか――!」
それが明らかな異常事態を告げるものであることを頭が理解するよりも早く、ラムネは弾かれたように身を翻し今し方離れたばかりの市へと駆け戻っていった。
第2章 集団戦 『元素精霊』
●招かれざる凶兆
未だ陽は傾き始めたばかり。なれば件のおんながこの場に姿を現すには早いはずだと視線を巡らせた能力者たちの耳に、突如耳障りな甘ったるい悲嘆が響き渡った。
『――本当に可哀想な方々』
『……いえ、いいえ。わたくしにも罪咎が御座いました。貴方様方が忘れてしまっていると仰るのなら、秘められた力の使い方を――嗚呼、わたくしが直ぐにでも目覚めさせて差し上げればよかったのです』
『|コルヌの竜《哀れなる貴方様方》よ。その力を、今こそ此処に――!』
「ああ、――ぁ、が……!」
その声に呼応するように。
ひとり。またひとりと、呻き苦しみ出した竜たちが倒れていく。
しっかりして、と背を支える能力者のてのひらから、じわり、じわりと『血ではない何か』が溢れて、広がって。やがてそれらの全てが意思を持ちかたちを成していくことを、誰にも止められない。止まらない。
それは狂える元素の精霊。
誤ったちからで捻じ曲げられた、悪意の塊。
地を割らんとするものよ。彼らが慈しんだすべてを燃し尽くさんとするものよ。荒れ狂う風よ、慈悲なき濁流よ。そのすべてを正しきものへ還すために、能力者たちはそれぞれの武器を手にコルヌの竜たちを背に庇い立ちはだかった。
- - - - - - - - - -
第二章の舞台は夕暮れの魔法市での戦闘です。
ドラゴンストーカーは失われたちからを補うため、コルヌの人々の内に秘められた膨大な元素のちからを無理矢理に引き出し具現化させました。あなたたちの前に立ちはだかるのは、悪意に依って捻じ曲げられた元素の精霊たちです。
膨大な竜漿を一度に抜き取られたコルヌの民たちの多くはその場に倒れ気を失っていますが、精霊たちを倒すことが叶えばちからと意識を取り戻します(つまり、無事に救出出来ると言うことです!)。
魔法市とコルヌの民を守り抜き、やがて来るドラゴンストーカーを迎え撃ちましょう。
- - - - - - - - - -
●氷雪のめざめ
異変は唐突に訪れた。
突如として彼方此方から上がる苦悶の声に周囲を見渡せば、自分たち客人ではなくコルヌの民だけが膝をつき次々と倒れていく様相を目の当たりにしたファウ・アリーヴェ(忌み堕ちた混血・h09084)は咄嗟に来た道を駆け戻る。
己が血縁でもあろう六花を譲ってくれた少女は無事だろうか。耳に谺する不快なおんなの嘆きに、それが倒すべき敵が齎した悍ましいちからの一端であることを知る。
「――、」
うつくしい装飾品たちが散らばる地面の上に、先ほどまで爛漫な笑顔を向けてくれていた少女が横たわっているのを見つけ、ざっと血の気が引いていく。
いやだ。
いやだ。いやだ。
忌み嫌われた己のために、大切な、血の絆で結ばれた輝石を譲ってくれた、あなた。
守らなければ。救わなければ、彼らの路は此処で永遠に断ち切られてしまう。
「っ、……駄目、だ」
死なないでくれ、と。抱き起こした少女の胸が微かに上下していることに彼女の生を知り、ほんの少しだけ安堵する。せめて彼女が作り上げたのであろううつくしいさいわいの数々が傷付けられないようにと、少女を天幕の奥へと寝かせたのちに身を翻しファウは今まさにコルヌの民から生まれ出づる捻じ曲げられた精霊たちと対峙した。
「六花……あなたの家族へ刃を向けることを、許して欲しい」
怨嗟に狂うその姿は決して本来のそれではない。
それでも、今耳で揺れる六花の輝石にとっては子孫のかけらたちに違いないからと。僅か目を伏せ祈るファウの声に応じるかのように、輝石があおく、強く煌めく。それが冬の守護者からの答えのような気がして、ファウは迷いを振り払うように頷くと霊刀を引き抜きその身を踊らせた。
「あなた達に、彼らを傷付けさせはしない」
速く。疾く。風よりも夙く――その斬撃に絶対零度の冬を乗せて。
霊気で練り上げた刃の一撃が、嵐のように渦巻く風霊を真正面から断ち切った。
●星の羅針盤
つがいの竜たちはふたりの言い付けをしっかりと守ってくれた。
けれど――それなのに。おんなが齎したのはまるでその信頼へ泥を塗り嘲笑うかのような卑劣で悪辣な行為であった。
「ねえシルフィカ。あいつ、殺してもいい?」
端正な唇から紡ぎ出される言葉は静かな怒りと明確な殺意を孕んでいた。
甘ったるく耳障りな声が紡ぐ手前勝手な『救済』なぞ反吐が出る。ぐらぐらと胸の奥で煮え立つ激情をそのまま相手に叩きつけてしまいたい。ルミオール・フェルセレグ(星耀のアストルーチェ・h08338)が低く溢したその言葉に、シルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は僅かに驚きのいろを浮かべながらちいさく息を吐く。
「……もう。そんな物騒な言葉、どこで覚えてきたの」
とは言え、シルフィカとて胸の内では同じ気持ちを抱いている。
時を経ても何度倒されても変わらず不愉快なことしか出来ないあの女に直接引導を渡すのはもう少し先のこと。他ならぬ自分たちがそれを為すのだと告げ、シルフィカはその双眸に確かな信を乗せてルミオールを見上げた。
「今は何よりも、コルヌの人々を守るために戦いましょう」
「……うん、分かってる。まずはコルヌの人達を助けるのが先だ」
彼らは戦うすべを持たない。意識を失っているならば逃げることさえ叶わない。あたたかなコルヌの民が傷付けられることなどあってはならないのだと、シルフィカとルミオールは魔力の気配が強く強く放たれる方へと駆け出した。
花が舞う。中空を踊るように駆け上がった竜の娘が齎すは夢奏の花鏡。
巻き上がった光の花弁は夥しい蝶の乱舞にも似て。理性を持たぬ精霊たちが撃ち出す礫の嵐から守るように、煙のようにシルフィカの身体を覆い隠して消し去ってしまう。顎門を開いた火蜥蜴が、地を割らんとする岩壁の脚が次々と銃弾に貫かれていく。
「ルミオール!」
痛みを感じないのであろう霊体のそれらは苦悶の声こそ上げないけれど、自我を保てぬほどの損傷を負えば動きは鈍る。その一瞬の隙を確実に『視る』ことに全霊を懸けていたルミオールが身を踊らせるのを、シルフィカを追うことに気を傾けていた精霊たちに捉えられることなど到底出来やしない。
「任せて」
彼女が背中を守ってくれていることが、わかる。
でも、それでも、守られるばかりの幼かった自分はもういない。コルヌの人々だけじゃない。彼女のことだって守れるように、自分はこれまで鍛錬を重ねてきたのだから。
「――星よ、星よ!」
時間は掛けない。コルヌの人々の苦しみを一刻も早く和らげる為に。独り善がりな欲望を満たす為にくだらない悪事しか為せぬ教祖とやらと心置きなく戦う為に。
短縮された詠唱に応じ魔力回路を巡らせた魔剣が精霊たちの核をひとつ、またひとつと確実に打ち砕いていく。
「己の存在自体が罪であり咎であると、あの女にいい加減自覚させてあげなくちゃね」
やるじゃない、なんて。淡く微笑むシルフィカの言葉は果たして何処まで本気なのやら。それでもそれが彼女の信頼のかたちであることを知っているから、ルミオールは未だ周囲を傷付けんとする精霊たちの残党へと剣を構え直しながら頷いた。
「そうだね。……行こう、シルフィカ。あいつはきっともう直ぐやって来る」
必ず此処で終わらせる。
その醜い悪逆に終止符を打つ為、ふたりは今一度嵐の中へと身を投じていった。
●示された路
それそのものを悪と断じることが出来たなら。
或いは、その背景を何も知らない上で対峙するならばやり易い。
「(無理矢理引き出された相手だからちょっと複雑な気持ち……)」
彼ら自体は悪ではないけれど、倒さねばならないものなのだと。ユニ・アドロラート(流れ雲・h06559)は揺れる瞳で今なお荒ぶる精霊たちを見上げ唇を引き結ぶ。
「直接乗り込んでくることは分かっていたけれど、こんなど真ん中でおっぱじめるとはね」
未熟なユニとは対照的に、場数を踏んだ冒険者であるシアラ・カラント(冒険者・h00043)は至極冷静であった。勿論件の信奉者に対して何も思うことがない訳ではないが、彼女には『今為すべきこと』の全容が確りと見えているから迷わない。
「これは敵の攻撃。倒せばそれだけ人助けになる……わかりやすいでしょ?」
どの道倒さなければ意識を失ったコルヌの竜たちも助けることは出来ないのだと。端的に告げられた言葉は彼女なりの導きに他ならなくて。俯き掛けたユニがはっと顔を上げれば、視線だけで此方を見ていたシアラと一瞬だけ目が合って――それが合図だった。
「うん。……そう、そうだよね。コルヌの皆を助ける為にもしっかり倒さなきゃ!」
倒れた宿主へ襲い掛からんとする炎の礫を弾き返すはユニの身の丈よりも巨大な殴ることに特化された棺桶。鈍く唸る風の音を背に、微か目を細めたシアラは大剣を低く構え渦中へと飛び込んでいく。
世話が焼けるわね、なんて言葉は今は胸の中に秘めて。
戦いはままごとではない。だからこそ、相手を侮ることはない。
自分たちの背には倒れている、守るべき人々がいる。数で劣る分如何にして相手に攻撃を撃たせないかが肝要になってくることを理解している。だからこそ、シアラの次の判断は実に素早いものであった。
「――高鳴れ」
我が血よ。本能よ。巡る細胞の末端まで、全て。
ぎらりと琥珀の双眸が鋭く輝くと共にシアラの脚がその力を増していく。速く、疾く。限界を超えて高まったその姿を捉えられるのは荒れ狂う風のみ。
けれど、無理矢理具現化されたそのからだには刃が通る。飛び込んできたシアラに爪牙を向けんとした風霊を、蛇の如く伸びた鎖が音を立てて絡め取る。急に身体の自由を奪い去られた風の翼が踠き暴れるのを腕力で押さえ込んだまま、ユニは全霊のちからで以って振り抜いた棺桶でシアラの道を塞ぐものを殴り倒した。
「今だよ、シアラ姉! やっちゃって!」
動きにはまだムラがあって隙だらけ。抵抗する風の刃に切り裂かれて傷を負っても、それでも尚竜たちを、シアラを守ろうとする少年の姿にちいさく息を吐き、黒狼は竜をも屠る大剣を振り被る。
「悪いけど。ここで時間を食う訳にはいかないのよ」
迅雷が如き一閃が、精霊の一陣を薙ぎ払う。
彼女は強い。今はまだその背は遠くて、思わず見惚れてしまうくらいだけれど。
「……ちょっと。本当の敵はまだ姿もみせてないんだから、気を抜かない」
「へっ? あっ、……えへへ。はーい!」
ふたりの冒険者は再び武器を構え直し、次なる倒すべきもの、救うべきものの元へと駆けていく。
「(敵の動きを鈍らせてくれるのはまあ、普段より多少やりやすいな……)」
なんて、口にしたら要らないくらいにぬか喜びしてしまうから。
今はまだ言ってあげられないけれど、及第点。その位は後で教えてもいいか、なんてシアラは胸の裡でひっそりと実行するかも分からない『ごほうび』を考えながら先を急いだ。
●その拳は岩をも砕く
「なんてことを……!」
あたたかな笑顔で迎えてくれたひとたちが、さいわいをくれたひとたちが、次々に倒れていく。
その卑劣な暴虐に息を震わせ、マルル・ポポポワール(Maidrica・h07719)がぎゅっと拳を握りしめるのと同時、寄り添うシイロも低く唸り声を上げて狂える精霊たちを見上げていた。
「望みもしないことを無理やり行う、余計なお世話、ありがたくもない迷惑、ヒステリー衝動!」
彼らは真竜のちからを取り戻したいといつ望んだのか。
彼らが非業の死を以ってしてまで再誕をしたいなどといつ唱えたのか。
いや。いいや。その何方もが真実ではない。すべてあのおんなの妄言であると、マルルは確と断じて見せる。
「平和に生きている方々を巻き込むなんて最低です! 絶対に阻止して見せます!」
今この瞬間も彼らを苦しめ脅かしていることが許せない。
その胸に確かな決意を宿し、少女は巻き上がる嵐へと立ち向かうため地を蹴った。
真っ直ぐに殴り込みをかけたい所だけれど、今は背にしたコルヌの竜たちを守ることが先決。
「(とはいえ市場の中、皆さんが倒れている中でシイロさんに暴れてもらうわけにはいきませんよね……)」
周囲にも気を配るのであればシイロに元の姿に戻ってもらうのは得策ではない。と、するならば。次にマルルが思い至ったのは実にシンプルかつ明快な解であった。
「では、私が暴れます! シイロさん!」
キュイ、と鳴いたちいさな白竜がひかりと共に溶け、マルルにその輪郭を重ねてひとつになっていく。身に着けていたアンクレットの行方を案じていたけれど所有者を定めた輝石はその身に馴染んだようで、シイロと共にひかりとなったことにちいさく瞬く。それならばこれで一緒だと、頷いた少女はそのちいさな拳に神聖竜の加護を宿してひといきで跳躍する。
「――皆さんのことは決して傷付けさせません! ポポポワール流、必殺パンチ!」
装甲を持つ土霊の岩肌が、音を立てて四散する。
全身全霊のちからを込めて放たれた拳が、暴れ狂う精霊を文字通り一撃で叩き落とした。
●垂氷に天雷
「むむ……ドラゴンストーカーとやらも諦めの悪い存在よなぁ」
対峙した回数は最早幾度目か。
少しも懲りないその貪欲な姿勢はある種純粋なものなのかもしれないが、だとしてもやり方や目的を決して肯定することはできないと、トゥルエノ・トニトルス (coup de foudre・h06535)はやれやれと息を吐く。
「此度も確りと仕留めて追い返さねばな、主!」
くるりと振り返った先、緇・カナト(hellhound・h02325)が仮面の下の口元をにぃ、と歪めるのにトゥルエノは目を瞬かせる。こんな時の主は、ああ、そうだ。
「元素の精霊だってさぁ、トール君よ。雷獣サマ的にはどんな気分?」
「雷は元素の精霊に含まれないので安心するが良い……!」
一瞬の閃光は消え去るのみ。故に何者にも与したりはしない。
それが意地悪なのか『同族殺し』の業を気遣うものなのかはわからないけれど、何時ものことなので気にしない。案ずるな、と胸を張って見せればそれ以上の問答は不要だと低い姿勢を取るカナトにトゥルエノも敵を迎え打つために身構える。
「まァ捻じ曲げられた悪意の塊なら、倒してしまえば其れでイイよね」
「うむ!」
ばちりと弾ける雷光は感情の発露だったのか。
「……雷って怒ってるんだか何だか分かりづらいんだよなァ」
先陣を切るトゥルエノの後ろ姿に、カナトはひとりちいさく言ちるのだった。
「悪評高きは天の大狼、と」
ざわり。ざわり。
全身から黒い皮毛を逆立たせたカナトの姿が見る間にかたちを変えて。舞い降りた冬に包まれた幻狼と成れば、その姿に感嘆を上げたトゥルエノは雷神の名を冠する魔導槍を手にくるりと身を翻し巻き上がった暴風と共に撃ち出される石の礫を躱していく。
「おお、主がでっかいモフモフ狼になってるなぁ。壁がわりにして良いのか?」
「……はいはい、壁でも盾でもお好きにどーぞ」
コルヌの竜たちを背後に庇い、地を蹴ったカナトが繰り出すは全てを凍て付かせる絶対零度の息吹。いのちの全てを洗い流さんとする水霊が音を立てて凍り付いていくのを、紫電を纏わせた槍の一撃が一息に貫いた。
「いい事を聞いたぞぅ……!」
それならば多少の無茶も許されよう。迸る雷光の如き速さで以って繰り出す一撃の威力は凄まじいものではあるけれど、火力に全てを注いだこのちからはどうしても守りが疎かになってしまうから。
稲光とともに精霊たちを打ち払い、ひとたびこちらに矛先が向かえば『主ぃ~!』と甘えた声を上げながら避難してくるものだから、カナトのけものの面に皺が寄ってしまうのは致し方のないことか。
「お前ねぇ」
「む、ふざけてはいないぞぅ。我は何時でも真面目である……!」
戦場でちょこまか動いている分には正しくうつくしい稲光のようでもあるが、普段の奔放な姿との格差にどうにも調子が狂ってしまう。ああ――そう言えば先ほどトゥルエノも言っていたが、四大元素の中には雷も氷も含まれなかったか。
「外れてるモノ同士で丁度よくない?」
なんて、喉奥で笑うカナトの言葉は縦横無尽に戦場を駆け回るトゥルエノには今は届かない。
「オレのエネルギー切れになる前にさっくり御片付けしておいてくれよ」
「うむ! 主のお腹が鳴る前に片付けよう~っと」
言葉ばかりは軽く。然れども刺突には一切の躊躇なく。
貫く槍の一撃が、狂える精霊の身体を閃光と共に弾けさせた。
●月光一閃
ルナ・ディア・トリフォルア(三叉路の紅い月・h03226)はいち早く異変を目の当たりにした。
己を導いてくれた少女や周囲の竜たちが急に苦悶の声を上げ始めたかと思えばひとり、またひとりとその場に倒れ伏して行く様はまるで悪夢を底から浚ったかのような光景であった。
「う……ぅ、」
「気を確かに持て!」
竜としてのちからを全て抜き取られた少女たちにはまだ息がある。あるが、膨大な竜漿を一度に奪われた衝撃から酷く衰弱していることが神たるルナには伝わってくるから、ことが深刻なものであることを即座に理解出来た。
遠くから聞こえる此方を逆撫でするような声は、春に対峙したおんなの声に他ならない。
「全く懲りぬ女だ」
大振りの剣を携えたルナは溜息を吐き出せば、愛し子への大切な贈り物を一度天幕の側に置いて荒れ狂う精霊たちを降り仰ぐ。折角の土産が台無しになっては敵わんからな、とちいさく言ちる余裕があるのは彼女の本来の気高さからか。
「少し待っておれ。我は受けた恩は確りと返す主義じゃ」
天幕に寝かされた少女は混濁する意識の中でひかりを見た。
麗しき月の閃きが、刹那、吹き荒ぶ嵐の中に満ちた。
火炎であるならば耐性は少々。しかし、四大精霊のすべてが今は此処にある。
背後の天幕や意識を失った少女たちを巻き添えにするわけにはいかない、であれば。
「――させぬわ!」
荒れ狂う水の濁流に、全てを焼き尽くさんとする業火に、触れる。
ただそれだけ。たったそれだけだと云うのに、すべてがまるで夢まぼろしであったかのように薄らいで消えて行く。
それは凡ゆる√能力を無効化する。全てを消し去る、原初にして最も強い零のちから。
振り撒かれる筈の災害が霞の如く立ち消えたことに狂える精霊たちが僅かに惑うその一瞬の隙をつき、ルナは大きく地を蹴ると振り上げた大剣に全霊のちからを込めて悪意に歪められた精霊たちを一太刀で思い切り薙ぎ払った。
●善意の対価
「おかあちゃん、おかあちゃん! あぁぁ、うわぁああん!」
突如として起こった異変を受け止められない少年が倒れた母竜の身体に縋って泣き叫ぶ。
少年はまだツノが生え揃っていない。
だからこそ、この先に潜む魔は幼く純粋な竜漿を引き出すことが出来なかったのだろう。その様を目の当たりにしながら、ラウアール・グランディエ(人間災厄「グリモリウム・ウェルム」の不思議道具屋店主・h08175)はこれ見よがしに大きな溜息を吐いて荒ぶる精霊たちを仰いだ。
「……全く、布石が台無しになってしまう」
商売相手が居なくなってしまったら何のためにあの菓子の様な甘いやりとりを享受したのやら。そう独り言つ姿は傍観者のそれであったけれど、狂い猛った火蜥蜴が炎を吐き出さんとするのを見ればラウアールは僅かに目を眇め黒炎が如き尾を撓め精霊の身体ごと大きく薙ぎ払った。
手数が多いのは数で勝る相手の方が上手か。であればと広げる翼は石の礫を受けて傷付くけれど、エネルギー体で練り上げられたそれに幾ら穴が空こうと魔力が尽きぬ限り打ち砕かれることはない。払い飛ばす腕に秘められた夜刀ノ鱗が風の刃を弾き、受け流し、それらの全てを無に帰していく。
「おにいちゃん」
彼は自分を守ってくれている。
それに気付いた少年が涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を上げるのに、ふ、と微かにラウアールが笑ったように見えたのは都合のいいまぼろしだったのだろうか。
「これで、貸しはお返ししますよ」
それに――もしも救える命を見殺しにしたとあれば政府機関が何を言うか。
面倒ごとが増えるのは御免だとかぶりを振れば、夜の帷を広げた災厄はその呪いのちからを振り翳す。
「――ところで、揚げ菓子だけでは空腹を満たすには足りなくてですね。是非貴方達の計画が潰える悲劇を喰らいたいものだ!」
夜が降る。
精霊たちを蹂躙するラウアールは、終ぞその場から一歩たりとも動くことはなかった。
●擱筆
風が変わる。穏やかでやさしい秋の風に、禍々しい死の臭いが混ざる。
「ああ、一方的な哀れみほど不快なものはねぇな」
僅か眉を寄せながら絹更月・識(弐月・h07541)がコートに忍ばせていた羽ペンを取り出す隣で、花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)も静かに唇を震わせる。
「あなたの『可哀想』は一方的だよ」
相手の気持ちを蔑ろにした哀れみなど押し付けに過ぎない。彼らがそれを望んだことなんて、ただのいちどもありはしないのだと。きっと前を見据えたまほろの瞳には、確かな決意のいろがあった。
「行こう、識くん。素敵な贈り物をくれた人たちのこと、絶対に守らなきゃ!」
真っ直ぐで、まぶしくて、その言葉を普段なら軽く突っぱねてしまいそうになるけれど、そうしない。
何かを守る戦いなんてガラじゃない。それでも。
「竜たちの秘めた力ってのは、ひとを傷つけたいものじゃない」
彼らとの短いやりとりでそれは十二分に伝わっているから。識は頷きを返すと、迫り来る炎の気配に静かにペン先を持ち上げた。
「――書かれぬままに。その頁は捲らせない」
使い慣れた道具は最も優れた凶器となる。ペン先から滲んだインクは見る間に識の利き腕までを塗りつぶし――荊棘の棘の如く青黒く立った刃と成って、『今、最も必要な武器』を手にした少年が地を蹴るのとほぼ同時、まほろの弾むように透る声が魔法市に高く響いた。
「みんな! おいでおいでっ」
弾む手拍子と靴音に応じるように。一体どこからやってきたのだろう、天幕の間に間に顔を出し始めたのはまほろの大切な|おともだち《動物さんたち》。鹿に羊に、蹄の音を響かせながら賑やかにやってきた動物たちはひい、ふう、……たくさん!
識のもとへ一際からだの大きなヘラジカたち援護役として残し、まほろはくるりと集まった動物たちを仰いで『おねがいごと』を口にする。
「おねがい、近くの倒れた人達を安全な場所まで運んでね」
それからの彼らの行動は素早いものだった。
おおきなからだの鹿や羊のせなかに手先の器用なアライグマたちが協力して倒れた竜たちを乗せたなら、さあ逃げろ、やれ逃げろと火の手が上がっていない方へと駆けていく。その様子を見てコルヌの皆の安全を確かめたなら、敵の注意を引き付けてくれていた識の方へと向き直る。
「識くん、大丈夫っ?」
あっちも、こっちも。たくさんの動物たちへおねがいを投げ掛けるのは目が回ってしまうけれど、ちょっとくらいの無理なんてちっともつらくない。それよりもずっと一番前で狂える嵐を受け止めてくれていた識の方が心配だったから、こんなの全然へっちゃらだ。
「……元素の精霊相手じゃ毒も効いてるかわかんねえな」
精霊たちには明確な肉のからだがないが故に、斬った手応えが上手く伝わらないことに焦れてしまうが、それでも斬り結ぶことを繰り返している内に其々の体内に核を有していることに気付けば次に何処を狙えば良いのかが分かる。
――それならば、|壊せる《殺せる》。
逃げ遅れている竜たちに、動物たちに指示を送るまほろに焔の礫が届かぬように。守りながら戦うことには不慣れで、本来ならひとりで勝手に戦るほうが性には合ってはいるが。
「ッ、悪い」
まほろの援護はそれを分かっているかのように識の動きを邪魔しないもの。厚い毛皮に覆われたヘラジカが炎から身を挺して守ってくれていることが分かるから、その想いを決して無駄にはしない。
決して刃は止めない。
この嵐を越えたその先に、泥濘より出し邪悪が待っているのだから。
●鈴鳴る方へ
市中で仕掛けてくるとは傲慢な――否、それ程までにおんなが追い詰められていることの証左か。
あまやかな花の香りを打ち消すほどの死の臭いに眉を顰めながらも香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は己が神経を研ぎ澄ませ敵意を探る。この眼に全ては映さずとも『其処に居る』と分かりさえすれば、それでいい。
「んー、ここの人達の精霊を引き出したみたいだね」
「毎度ドラゴンストーカーとは何と迷惑な……ですが、」
狂える精霊達を退けさえしてしまえば彼らも再び目を覚ます。ならば速やかに対処するまでと刀に手を掛ける鳰の傍らで、九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)は鳰とは対照的に鷹揚に目を細めながらゆるりと周囲を見渡していた。
「流石失われたとはいえ竜の力。元素の精霊は美しい」
戦いとは血生臭い事ばかりであるが故に、斯様にうつくしいものを見ることが出来ることは良い。それがたとえ捻じ曲げられたものであったとしても、生温い血を浴びずに済むことは僥倖に違いなかった。
「そうですね、これがコルヌの方々に受け継がれていたものの一端……なればこそ、他者に好き勝手に弄られて良い筈がありません」
ほんの少しだけ振り返ったその先で、鳰の耳は聡く『精霊とはどれだけ強いだろう』とガクトが溢したのを聞き取ったものだから、ぴたりと足が止まってしまう。
「と、……あら? ガクト様、ワクワクなさってません?」
「んー、あーごめんよ。ついつい見惚れてしまってというか、楽しくなってね」
『これは人命救助、ですよ!』なんて鳰が咎めるように口にするのも戯れか。
これは人助け。捨て置いてしまえば数多のいのちが失われてしまうのだと、思い起こせばそれまで傍観者の域を出ていなかったガクトの瞳にちからが宿る。
「素敵な贈り物と買い物をさせてくれたお礼はしないとね」
――では、始めるかな。
鯉口を切る高い音を皮切りに、ふたつのヒトガタが踊り出す。
とは云え縦横無尽に荒れ狂う精霊たちをひとつひとつ闇雲に斬るのでは効率が悪い。
「動き回るのも面倒だね。鳰、アイツらの動きを止めろ」
「畏まりました」
貴方がやれと仰るのなら、存分に。
鈴の音ひとつ。流れるように横切った花影はかりそめの身体を縫い止める為の刃。影を縫われた精霊達がびたりと刹那動きを止めるのとほぼ同時、ひと跳びで距離を詰めた鳰が大太刀を抜き放つ。
地を揺らすは何処か。風の流れは何処か。
この目に見えるばかりのものが全てではない。耳で、肌で感じる元素の躍動を感じ取ることが叶えばひとつとて取り零すことはない。
「んー、いい子」
人々へ、そして主への危害は何としても防がねばならない。
だからこそ鳰の太刀筋は揺るがない。揺らがない。
「恐れ入ります」
突き構えから繰り出される一撃がひとつ、ふたつと精霊の実体を貫くのと同時、ちりん、と今一度鈴が鳴る。多くの言葉は必要ない。その音と共に踏み出したガクトが自らを追い越していくのに、鳰は微かに目を細めた。
「さあ我が主、存分に」
「ああ」
やっぱり、彼女の戦舞はどんなモノよりも美しい。
炎の中で踊る鳰が精霊達の動きを止めた瞬間に藤の一太刀が閃いて――すべてが断たれたあとには、燻る煙だけが残る。その一瞬のひかりを、地に横たわっていた竜たちは確かにその眼に焼き付けていた。
●少年は天を見たか
彼らは皆優しくて、楽しい市だったのに。
「これが、ドラゴンストーカーの仕業なのか……!」
彼方此方で火の手が上がり始める惨劇に天ヶ瀬・勇希(エレメンタルジュエル・アクセプター・h01364)はきつくきつくてのひらを握り締めて周囲に満ちる悪意に視線を巡らせた。
「なんてことを……コルヌの人々から力を奪うなんて」
以前も外法を使っていたと聞き及んでいたけれど、ここまでのものだったとは。アリス・アイオライト(菫青石の魔法宝石使い・h02511)はほど近くで意識を失った竜を天幕に寝かせながら怒りに打ち震える弟子を仰ぐ。
「師匠! 俺があいつらを止める!」
そのちいさな背にありったけの勇気が満ちていることを知っている。
だからこそ、ただひとつの信を乗せてアリスはこくんと頷き杖を掲げた。
「はい、ユウキくん。人々は私にお任せを!」
それは伊吹。
巡りゆくいのちの輪廻、それを成すみどりの萌芽。
キン、と音を立てて砕け散ったエメラルドを対価に咲いたいのちの花々がコルヌの民を、崩れ掛けた天幕を包み込んでいく。根本的な解決には狂える精霊たちを倒さねばならないことを分かっているけれど――アリスが見通すのはその予後すべて。
魔法宝石のちからが、この魔力が届くまで。
辺り一面がアリスのちからで満ちていくのを感じながら、勇希は輝石を大切にポケットに仕舞い込むとその代わりに戦うためのちからを引き出す属性宝石を握り締めて高らかに宣戦を告げた。
「ジュエルブレイクアロー! ライドフォーム!」
燃え上がる炎が勇希を包む。それは決して宝石の主を焼き焦がすものではなく、少年をヒーロー足らしめる変化のひかり。轟々と音を立てて勢い付いた炎が四散したその先に立つ凛とした姿をもとの少年なのだと気付き得るのは、今はアリスただひとりだけ。
戦弓に装着された宝石が煌めくのと同時に瞼を上げた勇希は即座に矢を番え空へと跳躍する。放たれた矢は炎の雨となって降り注ぎ、風の刃を、荒ぶる地を次々と打ち砕いていった。
「お前らの相手は俺だっ! 師匠と、コルヌの人達には指一本触れさせないからな!」
幸いにも荒れ狂う精霊たちが宿主であるコルヌの竜たちを率先して狙うことがなかったのは、目の前に太陽よりも強く輝く|勇希《ひかり》があったから。アリスが治療と守りに専念することが出来たのは、一重に勇希のちからと確かな信頼があったからこそのものだったのだろう。
「師匠、みんな無事か?」
「大丈夫、みなさん命に別状はありません。ふふっ、優秀な弟子が守ってくれましたので!」
ひとり、ふたり。ぽつぽつと意識を取り戻し始めた竜たちに目立った外傷はない。倒れた時に出来てしまった打身や擦り傷もアリスが治してくれたから、大丈夫だと口々に声を上げてくれることに勇希もほっと胸を撫で下ろす。
「よかった、それじゃあ後は元凶を叩き潰すだけだなっ!」
「もう少し休んでいてください。この場を動かず……あなた達を狙う邪教の者は、私達が追い払いますから」
人々に意識が戻り始めたことを知り、安堵に微笑んだアリスもまた立ち上がる。
どうして守ってくれるの、と。不意に齎された竜の子どもの問い掛けに、ふたりはそっと輝石の煌めきを掲げて見せた。
「お礼ならもう頂いていますので!」
さあ、行きましょうと。促す師の言葉に頷き、勇希はにっと竜の子へと笑い掛ける。
「俺達に任せてくれ!」
――どうかその瞳に希望のひかりだけが満ちていますようにと、願いを込めて。
●舞えよ桜花
「世を守るべき精霊達を捻じ曲げるとはね……やってくれるじゃないか」
狂える精霊たちを見据える咲樂・祝光(曙光・h07945)の傍らを、するりと抜けていくさくらいろの風があった。
「コルヌの竜達が! 大丈夫? しっかりして!」
猛る嵐から、風の刃や礫から倒れ伏した竜を守るは桜の天蓋。エネルギーバリアを瞬時に覆ったエオストレ・イースター(桜のソワレ・h00475)がその背を助け起こせば竜は血を吐くように呻くから、しっかりして、と呼び掛ける声も届かぬまま。意識を失った竜の罅の入ったツノからひかりが放たれたことに驚いて目を瞠る。
「うわー! なんか出た!」
畝り、どよめきながら出づる炎がかたちを為していく。それらが無遠慮に伸ばすあかい火の舌が天幕を焼き焦がさんとすることを、エオストレも祝光も決して良しとすることはない。
「卯桜、叫んでる場合じゃないよ」
シャン、と。
伸ばされた翼に連なる輝石が奏でる音に、名を呼ぶ声に、エオストレははっと顔を上げる。
「祝を貰ったんだ。ならば、かえさねば」
暴れん坊がいたなら、癇癪を起こして泣く子がいたならば鎮めなければ。
「これじゃ、イースターもできないんじゃない?」
巡り、廻り――|春のいろ《桜花の結界》を手繰る祝光が優しく目を細めてこちらを見る。そこには先までの悪戯っ子を咎めるようないろはなく、ただ純粋な信頼だけがあった。それに気付いたエオストレは胸の前でぎゅっと輝石を握り込んで僅かに唇を震わせる。
こんなに暴れられたら大好きな祝祭だって滅茶苦茶になってしまう。そんな事、決してさせはしない。
「祝光と同じ竜を傷つけようなんて……そんなの、それ自体がイースターじゃない!」
目線を交わして頷き合う。
その胸に確かな勇気を宿し、エオストレは竜たちを庇うように立ち上がる。
もう心配は不要だと翼を広げ飛び立つ祝光を後押しするように、常春の祝祭は燃え上がる火の手にそっとてのひらで以って触れた。
「ほーら、|落ち着いて!《INVISIBLE♡ESTAR!》」
その炎が誰をも傷付けぬように。その風が何をも壊さぬように。ぱん、と破蕾するかの如く弾けたひかりが元素たるちからを丸ごと消し去っていく。
風が荒れてしまったら彼が空を飛ぶ邪魔になってしまうし、炎が広がれば竜たちが慈しんできた魔法市だって灰燼に帰してしまう。そんなのだめだ。そんなのちっとも、イースターじゃない!
「――破:桜禍絢爛!」
目前の障害すべてが立ち消えるのに合わせ、祝光が放った桜護龍符が狂える精霊の視界を覆う。破魔の霊力が込められた符は狂気を覆い、その呪いの悉くを浄化していく。
どんな災害であろうと防いでみせる。
目前の災厄ひとつ祓えずして、龍王の高みになど至れる筈もない。だから。
「エオストレ、油断するなよ!」
「油断しないで、は君こそ!」
放られたイースターエッグが花吹雪を咲かせて炸裂する。
迸った閃光が収まったその先で、幾人かの竜が意識を取り戻して咳き込む姿が見えた。
目を覚ました竜たちを集め、桜の守護結界を張り直す。少なくとも二人掛かりで堅牢な守りを張れば弱体化したおんながこれらを容易く突破することはない筈だ。
「こんなろくでもないことをする奴は誰だろうね」
「そうだねぇ……竜を狙うなんて……、それこそイースターじゃない奴だね」
しっかりお灸を据えてやらないとな、なんて。
真っ直ぐに先を見詰める祝光と背にした竜たちに応えるように、エオストレは力強く頷きを返した。
●燦然と咲く
「噫、なんてことを……!」
倒れ伏した竜たちにまだ息があることに安堵する。けれど、その所業は決して許されるべきものではない。花のかんばせに憂いを乗せて唇を噛み締める誘七・赫桜(春茜・h05864)を横に、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)はあかあかと萠ゆる双眸で以って畝る水流が地を舐める様を見詰めていた。
「赫桜、見てみなさい。精霊たちがおいたをしているようよ」
せめてと、天幕の側に竜を寝かせた赫桜が直ぐに戻ってくることを分かっているから、ララは振り向かない。自分たちを庇うように前へと進み出たその姿に語り掛ければ、赫桜の瞳孔がぎゅっと細くなる。
「……こんなことをしたって、彼女の願いは叶わないのに……」
猛り狂う精霊たちに理性のいろはなく、元来の無邪気ささえ投げ打ってただ巡る破壊衝動に身を任せていた。ああ、竜の肉体を接木することが叶わなくなったから、次はその元素までもを奪い去ったのか。
「こんなことをするなんてあの女、何処までも憐れね」
遂には己が悲願さえも歪めたか。
否、それ自体がはじめから狂っていたか、と。幼き貌に憐憫を乗せてララはちいさく息を吐く。
「お前の救いはすくいではない。唯の暴力であるとしらしめてあげるの」
「そう……そうだねララちゃん。阻止してやろう」
愛しい迦楼羅雛のことも、あたたかな時をくれた彼らの事も、決して傷付けさせはしない。俯いている暇などありはしない。自分よりもきみの方が余程勇敢だと微かに笑めば、花唇の端を釣り上げてララは無邪気に咲って見せた。
「行くわよ赫桜。ララ達に幸をくれた竜達に報いるの」
「ああ、――必ず!」
軽やかに飛び出したララが纏うは桜雨。赫桜が齎した守護のひかりを確かに感じるから、守りを気にすることはない。
「その力はお前達のものではないもの。竜達に返してあげないとね」
神の焔が変じるは、狭間を斬り裂く為の刃。
窕のナイフが裂いた宙から放たれたひかりは金色の無数の翼。眩い金翅鳥の群れが精霊たちの生命力を啄むのに合わせ、赫桜もまた宙空より命桜の太刀を引き寄せていた。
「おいで、屠桜」
それは守るための刃。彼女が邪を祓う|ひかり《迦楼羅焔》であるならば、これは邪を屠る為の牙。抜き放った桜花の一閃が狂える精霊を薙ぎ斬り込めば、舞い散った花弁と共に核を断たれた元素たちがひかりの粒となって消えていく。
「ぼくだって、ララちゃんに遅れは取れないからね」
「ふふ、ありがとう赫桜」
お前が守ってくれるから存分に楽しめるわ。
そんな風に咲う彼女に目を奪われそうになってしまうことを、ああ、一体誰が咎められるだろう?
「安心して、お前のこともララが守るから」
踊る。躍る。迦楼羅の雛女が、桜花を纏うて舞い踊る。
ひとつ。ふたつ。刎ねられた精霊たちのひかりの粒さえ、彼女がもとから抱いていたものであるかのようだ。
「……ぼくを守る? ララちゃんはやさしいね。でも、」
彼女の気持ちは勿論嬉しい。――ああ、けれど。
「……守られてばかりでは、いられない!」
破魔の桜が、振り抜いた神なる刀が、ララを襲った鎌鼬を一太刀のうちに打ち砕く。そんな赫桜の奮起にララは人知れずあまく目を細めた。
「竜も、精霊達だって。この捻じ曲げられた狂気から、救ってみせるわ」
「そうだね。この苦しみを終わらせよう」
どんな嵐だって恐れることはない。その穢れのすべてを焼き尽くしてあげる。
解き放たれたその先に、かならずひかりは満ちる筈だから。
●想いは満ちて
どうして。どうして。
「……どうして、ほかのひとを巻き込むんでしょう」
どうして、ほかのひとを礎になどしようと云うの。
どうして、ほかのひとを利用するなんて云うの――。
その炎は人々の血を陽に透かしたかのように鮮やかで、ただうつくしいことだけが残酷さを際立たせていた。
あおい瞳を憂いに揺らし声を震わす廻里・りり(綴・h01760)の背を、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は確りと支えながら硝子の双眸の中に静かな火を宿していた。
「正しいと思うことを行う時、そこにある全てを巻き込んだとしても、必要な犠牲だと割り切ってしまうのでしょうね」
「そんなの、……とってもひきょうなこと、だと思います」
尤も、あのおんなの場合はそもそも望み盲信するもの以外に価値を見出さない。いのちを紙屑のように扱うその様に、敬意や慈悲などありはしない。そんなもの、これがあった上での行動であるものか。
「……つまりね、りり。ワタシも、あなたと一緒でとっても腹が立ってるわ」
ここは出会いと祝福の為の魔法市。技術と想いに満ち溢れたやさしいところだと、頷くベルナデッタに応じてりりもその瞳に決意を宿して顔を上げる。
「こわさせちゃ、だめです」
「お呼びでないお客様にはお引き取りをお願いしなくちゃね」
皆が連れてきてくれた子たちはコルヌの民がまだ見ぬ誰かを想ってつくったのであろう大切な子どもたち。
彼らがつくられるまでに、皆は幾つの夜を越えたのだろう。幾つの山を、幾つの谷を――決して平坦ではない旅路の中で、たくさんの時間をかけて準備をして。ただ人々の笑顔が見たくてつくられた、たいせつなたからものたちに違いないから。
「はやく、あの子たちを止めましょう」
「ええ。まずは、皆を助けるために精霊達をどうにかしましょ」
穢させない。壊させない。
彼らのいのちの一滴でさえ、渦巻く悪意に引き渡すことなどあってはならない。それを守るためならよくばりになる勇気なんて、幾らでも奮えるからと。少女たちは視線を交わし合い、強く地を蹴り駆け出した。
「おにごっこをしましょうか」
あおい羽を花弁のように散らして羽ばたいた瑠璃鳥が炎を、精霊たちの意識を誘う。
りりが招いたあおいとりは今まさに天幕を焦がし尽くさんとする火の風向きを僅かに逸らし、理性と知性を失った精霊たちは目の前の動くものへと惹かれていく。そのほんの僅かな隙を突いたベルナデッタは両の手を組むと短く祈りのことばを口にした。
「まだ零れぬ願いが――ねえ、あるでしょう?」
それは糸。願いと祈りの数だけ、いのちを繕うひかりの糸。
彼女がその悪意を穿ってくれるのならば。自分は自分たちの願いを、今なお意識を手放したままの竜たちの平穏を願う心を増幅させようと紡がれた奇跡のひかり。
この戦いの結末に傷が少しでも残らぬようにと願うベルナデッタの祈りに応じ、糸は焼け焦げた天幕を、瓦礫に潰れた品々を少しずつ少しずつ縫い合わせていく。
「りり、此方は充分よ」
直ぐにではない。
それでも、繋いでみせるから。
ベルナデッタの確かな言葉に全幅の信頼を寄せ、りりは研ぎ澄ませた魔力を練り上げる。
災害とも呼べる元素の精霊たちのちからがおそろしくない訳がない。それでも、この背中には守るべきもの、守りたいものがある。
だから怖くない。だから、逃げずに立ち向かえる。
「はいっ。ベルちゃん、みなさん。たいせつなものをまもるため、ちからを貸してください!」
あおく、あおく。せかいが満ちる。
飛び立った瑠璃鳥のひかりの軌跡が、燃え上がる炎の中心を穿ち貫いた。
●禍津
「なんて惨いことを……」
頽れた竜に肩を貸しながら、物部・真宵(憂宵・h02423)は雨催の双眸を憂いに揺らす。幸い彼らの殆どは一度に竜漿とちからを引き抜かれた衝撃で意識を手放しているだけのようで今直ぐ事切れてしまうことはなさそうだと少女は安堵に胸を撫で下ろした。
泣きじゃくる幼い竜の子どもたちを背に庇う真宵を他所に、溜息のように燻らせた紫煙は果たして悲哀だったのか、それとも興を削がれたことに対する落胆であったのか。煙管を口元に運ぶ李・劉(ヴァニタスの匣・h00998)の横顔へ無遠慮に声を掛けられるものなど、恐らくこの場に於いては彼以外に存在しないだろう。
「コレ、壊せば元に戻るかな。劉はどう思う?」
まったく無粋だ。驚きとひと時の退屈凌ぎをくれた彼らにした狼藉のオトシマエはきちんとつけさせなくちゃね、なんて。声ばかりは可笑げに雨夜・氷月(壊月・h00493)が告げるから、劉は臓腑に満たした煙を細く吐き出しながら目を眇めた。
「竜達の意思でない以上、早急に壊せば戻ると思うヨ」
所詮此れらは力の借り物に過ぎぬ。
とは云え、長く場を濁して悪戯にコルヌの竜たちを弱らせる程悪趣味でも無し。如何か、と寄越された視線を受けて『ふうん』と気のない返事を返しながらも銀片を構えた氷月の姿に、く、と喉で劉が笑った気配がした。
「それでは皆々様、参りましょうや」
「物部は後ろの|竜《コルヌ》もヨロシク」
「ええ、後方は任せてください。お二人ともどうかお気をつけて」
そらが泣く。しとしとと零れ始めた雫が魔法市へと降り注いでいく。
真宵の祈りに応じて降り頻る雨雫はやがて慈雨となる。彼方此方から立ち上る炎の気配を鎮められていくのを感じながら、ひとならざるものたちはそれぞれの爪牙を覗かせ――嗤っていた。
夜は影へ。踵を鳴らして放つは雨花幻の花弁ひとひら。
「んっふふ、ワルイコだーれだ」
黒蛇の形を成す二対の影が夜と混じり合い、蠱毒の闇を紡ぎ出す。絡め取られる水は流動性を保てずにごぼりと黒い泡を立てるのに氷月は僅かに目を細めた。
精霊のように実体が不定形のものを相手にすることはあまりない。それ故に今ひとつ勝手が掴めなかったが、縛り止めることが叶うならば刃も通ろう。
「ま、試しに|解剖《バラ》して実験してみればいいよね!」
雨が降る。ざあざあと何時しかその勢いを増した鬼雨は炎を潰し、雨雫に穿たれ罅割れた岩肌に深く深く銀片を突き立てれば次に打ち勝ったのは氷月の刃の方であった。ばきりと音を立てて割れた地精霊を足蹴に、ひらりと後方へ手を振ったのは真宵の援護を確りと受け取った証左。
「あっは。割れた割れた!」
笑う。嗤う。ひとならざるものたちが、わらう。
湿り気を帯びてじとりと広がった影は今や視界の殆どを満たし、粘ついた蜘蛛の糸の如く狂える精霊たちを捕らえて離さない。動きの殆どを封じられた哀れな傀儡たちを、何時しか燻らせた紫煙が包み込んでいた。
「ねぇ、悪意ってさ……所謂呪の一種」
|私《災厄》に其れで挑むなんて……あゝ、なんと気の毒なのだろう!
満ちる。満たす。魂ごと穢していく。
悪意も心も喰われ蝕まれる恐怖。あまい紫の毒に侵されて敵味方の識別さえ叶わなくなった精霊たちが互いを害しあう姿に、呵呵、と笑った劉が『後はご随意にどうぞ』と囁くのとほぼ同時。
「さ、月に融けて――還りなよ」
旋風の如く飛び込んだ氷月の一撃が、瞬きの内に黒く濁った水霊の核を一瞬の躊躇もなく穿ち割った。
「それにしても……」
竜たちを狙う不埒者あらば即座に阻止しよう、と。
手繰る狐たちへの指示を怠らぬままに蒼灯杖を翳し支援に徹していた真宵はせめても意識のある竜の子どもたちが泣き出さないようにと踊る彼らを見せぬように背に隠しながらちいさく息を吐き出した。
「あのお二人を敵に回すだなんて、怖いもの知らずですねぇ」
これ以上竜たちを冒涜することも、おんながしてきた行いも勿論到底許されないが――それはそれとして、件の彼女も運がないこと。
呪煙に抱かれ何もわからぬままに幻光に断たれる精霊たちを視界の端に、真宵はこの先に待つものへほんの僅かな同情を乗せて困ったように微笑んだ。
●斜陽
全く、酷い事をする。
それに頼んでもいないことをつらつらとよく喋る。
「コワイねぇちゃん相変わらず独りよがりがすぎね?」
黒く染まったそらが轟々と叫び狂うように掻き乱されている。おんながちからを奪うことが出来なかった幼い竜たちの泣き声を背に、八卜・邏傳(ハトでなし・h00142)は強く地を踏み締め今なお狼藉を働く精霊たちを見上げていた。
「……なーんて。言いたい事はめちゃあるけども、まずはコルヌのみんな元気戻すのが先よな!」
砂混じりの風が髪を、服を叩いていくことにも動じぬまま。くるりと振り返った邏傳はまるで其処らに買い物にでも行くかのような気易さで木陰に隠れた子どもたちに笑って手を振って見せた。
「んじゃっ! ちょっち行ってきます☆」
コワイことも、痛いことも。全部全部軽く振り払って見せよう。
今日という大切な日の思い出が悲しみのいろに染められてしまうことなど、決してあってはならないのだから。
「さーてエレンちゃん、今の気分は……もち! この色だよねっ」
編み上げた|ちから《アラカルト》は望むまま。纏うひかりは冬の森を宿したアイスグリーン。腕輪とそろいのいろを振り抜いて嵐の源へと叩き付ければ砕けたシリンジから齎された冷気は見る間に広がって。嵐はやがて凍て付く冬に躊躇いのいろを浮かべ風の向きを彷徨わせるから、邏傳の皮膚や四肢を裂くには至らない、至れない。
「仕上げにも一つ! この腕いけてるっしょ」
掲げるは赫焉。あかあかと燃ゆる炎の腕を掲げ、踠く風霊を前に邏傳はにっと目を細め今一度笑って見せる。
「……だぁいじょーぶ! ほんとは、壊すためのちからで無いでしょ?」
みんな急に外に連れ出されて驚いているだけ。
だからこの一撃は屠る為でなく、還すためのもの。
「もとな持ち主の元へおかえりんちゃい」
動きを止めたみどりのつばさを捉え、ひといきに爆炎を解き放つ。
炎の気配が過ぎ去る頃には、傾いた陽のひかりが再び周囲を照らしていた。
●守護者
焼ける天幕から吹き付けるざらざらとした風を受けながら、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は一変した魔法市の中を駆けていた。
「(彼女のやり方はきっと間違ってる)」
想いに正解や不正解はない。
だからと言ってその全てを肯定することは出来ない。
今ある人々のさいわいを穢す権利など誰にも持ち得はしない。たとえ竜のすがたを失ってしまっていたとしても、彼らの笑顔が翳ることはなかったのだから。
「いこう、カエルムさん」
あなたが愛した子どもたちのもとへ。
彼らを守るために。彼らに、傷付けさせないために。
「ぎゃぁぁああん! あぁぁ、うぁああ!」
頭の中を震わすような泣き声が弾ける。赤子の声だ。
意識を失ってもなお赤子を守るように掻き抱いたのは本能か。突如として倒れた両親とちいさなきょうだいのからだを隠すように、双子の竜たちが泣きながらも両腕を張って立っていた。
「ッ、……させるか!」
炎の舌がそのやわいからだを舐るよりも早く、一切の躊躇なく飛び込んだラムネが張った光の盾がそれを弾くのを子どもたちは確かに見ていた。
「おにいちゃん」「おにいちゃん!」
子が泣くのを止めることは出来ない。必然的に注意を惹き易い彼らから、少しでも意識を逸らす為には。
――誰一人として傷付けさせるものか。
自分にとっても『彼』にとっても。この背に庇うのはかけがえのない存在なのだから。
「……大丈夫。ちゃんと護ってみせるから」
咲き開いた荒れ狂う精霊たちを包む花の香は何時か眠りにつく森を思わせる。
燃え上がる炎が渦を巻き、惑うように火花を散らす姿は何処か泣いているようにも突如として宿主としていたものを失ったものの嘆きのようにも思えた。
だからこそ一撃で。
呼吸を整えたラムネは地を、宙を蹴り、一息で詰めた距離をそのままに思い切り拳を叩き込んだ。
「さあ、かえろう」
黒煙が裂ける。その源である炎ごと断たれ、狂える精霊は帰るべき主へのみちを思い出すかのように霧散した。
●かの日へ続く
手段を選ぶ手合いではないと分かっていた。
だとしても――なんて事だ。
突如として苦しみ出したコルヌの竜たちから溢れ出る『なにか』はかたちを成して災害へとその姿を変えた。妹を守るようにそのからだを抱いて意識を手放した兄竜の背を支えながら、賀茂・和奏(火種喰い・h04310)は腹の奥底で冷たい火が点るのを確かに感じていたが、それよりも。
「縁さん」
傍でざわりと膨れ上がった怒気を感じて振り向けば、そこには静かに、けれど確かな炎を瞳に宿した白水・縁珠(デイドリーム・h00992)が微かに唇を噛み締めている姿があった。
『けしからん』なんて、可愛く片付けていい相手ではなかった。先手を打たれたことへの不甲斐なさも、彼らを苦しめてしまったことへの罪悪感も勿論ある。あるが、それよりもこの胸に宿るのは確かな怒りと守りたいと云う想いだった。
「……けど、だいじょうぶ」
怒りで照準を鈍らせるなどつまらない。
手にした精霊銃の中で彼らもまた同胞を想い震えている。その想いごと込めてこの悪逆を打ち砕かなければ。
「奏さんは準備おっけー?」
大丈夫だと。自らを制した彼女のこころに寄り添うように、耳にある輝石に触れた和奏もまた努めて落ち着いた声で以ってそれに応じる。
「ん。早急に、彼らの元へ取り戻そう」
「……ふふ、そう。早急になー」
今までよりももっとずっと上達した射撃を見せてあげる、なんて。頼もしいバディの言葉に微か目を細め、和奏は先陣を切って駆け出した。
「……精霊さん」
石の礫ごと攫うかのように荒ぶる濁流は周囲のもの全てを巻き込んでひとつの大きな渦となっていく。ちからを持たないコルヌの竜たちにこれほどまでのものが秘められていたなんて。
あなた達が、何時かくるその時に輝石になるのだろうか。
「……でも、それはいまじゃない」
そうであるならば、尚更悪用されることなど決してあってはならない。
あたたかな彼らを守ることも、勿論彼らが一生懸命こさえたに違いない『おひろめ』の時を守ることも大事だ。だから。
「力を貸して白薔薇。のびのび育って、皆を守ろ」
芽吹いて、咲かせて。広がって――彼らの愛するすべてを包んで。
それは明日を望む人々に加護を齎すなにものにも染まらぬしろの輝き。伸びる蔓薔薇はいばらを伸ばし、縁珠の祈りに応じその蕾を花開かせる。棘は決して庇護するものを傷付けず、ただ外敵から守るためだけにある。あまく咲いた花々の香りは風に乗って焼け焦げた天幕へ、ぺしゃんこに潰れてしまった商品たちをも包んで。砂時計をひっくり返したかのように、少しずつ、少しずつそれらを『あるべきかたち』へと返していく。
「(大丈夫だ)」
気を失った人々もこわれてしまった魔法市も、縁珠が手を伸ばしてくれているから背後を気にする事はない。であれば、己に出来ることは精霊たちの注意を一手に引き受けること。
子が癇癪を起こしたかのように怒れる水の飛沫は止まることを知らずに周囲の天幕を薙ぎ払うかのようにその暴虐を広げている。こちらに気が向くようにと踏み込めば、いきものを己の器だったものだとでも思ったのだろうか、渦は見る間にかたちを成して蛇の如きひとつの奔流を形作ってひといきに飲み込まんとその顎を開くから。抜刀した和奏は一息で距離を詰め――そのかたちなき目を、視た。
「……こんな風に暴れるのは、さぞ苦しいでしょう」
「えにし、を大切にするあなた達が、こんな事しちゃダメ。……植え付けられた、感情に負けないで」
優しく穏やかな彼らの源。
こんな風に悪意に依って無理矢理に引き出されたことに、きっと戸惑っている。
竜のすがたを失ったとて、彼らの中にあるのはただ人々を愛するあたたかな心だけ。
だから、どうか。
――ふたりの声が届いたのだろうか。口を閉じ和奏を噛み砕くことだって出来たであろう水の蛇が、びたりと僅かにその動きを止めたのは。
「……わっきー!」
伸び出づるいばらの蔓がその隙を突いて水の流れを絡め取る。ぐんぐんと水を吸い上げてそのちからを増していく白薔薇はその勢いを増していく。悶えるように暴れていた大蛇は何時しか動きもままならぬ程にその流れを保てなくなって――その中心にある澱みの根源目掛け、和奏は一太刀のもとにその核を叩き切った。
「かえりましょう、在るべき縁の元へ」
●あの日のねがい
「あなた、……そう、あなただった、のね」
意識を取り戻した竜のきょうだいが、和奏の耳でひかりを湛える石を見てそう口にする。何かありましたかと問えば、兄竜の方が『僕の鞄を開けてくれ』と言うから。ごそりと中を探った和奏の手に、二対の月桂樹を模したブレスレットが触れるのを縁珠も興味深げに覗き込む。
「きれい」
「……これは?」
夕日を透かして煌めく青葉のいろに目を瞬かせれば、体力が元々少ないのであろう兄竜はげほげほと咳き込みながら、それでも何処か照れくさそうに微笑みながら次の言葉を紡いでくれた。
「僕たちの爺さまだよ。きみ、婆さまを連れているだろう」
彼はあの後直ぐに眠りについた。
その子孫である兄竜は、誰か縁を紡いだひとにいつか祖父を託せたら良いなと思っていたのだと目を細めた。
「きみたちが貰ってくれないかな。……輝石細工はまだとびっきり上手とは言えないんだけど」
コルヌの中でもとびきり細工が得意な方ではない。だから、きみたちが手にしたものより見劣りしてしまうかもしれないけれど、と。そう告げる兄竜からも、横で頷く妹竜からも確かな信頼と深い恩義を感じている。『そんな大切なものを』と以前の和奏と縁珠であれば口にしていたかもしれないけれど、そうしない。
「ありがとうございます」
「……おじーちゃんたちの分も。いっぱい旅しなくちゃね」
今はまだ戦いの最中。
受け取った想いを未来へと繋ぐべく、ふたりはこの先に待つ悪意の温床を打ち祓うべく立ち上がった。
●緋の裁定者
「皆さまがた、しっかりなさってください……!」
吹き荒ぶ嵐の中、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は懸命に倒れた人々の保護に奔走していた。
直ぐ傍を吹き抜ける風が実体を持って見える。その事実に目を見開いて、ラデュレは弾かれたように顔を上げて突如として魔法市を包んだ災害のすべてを目の当たりにした。
「……っ、これは……元素の精霊……?」
それは単なる天変地異ではない。
甘ったるい怨嗟と共に齎された悪意が呼んだ罪禍の蠱毒。捻じ曲げられたかれらのちからは今や拠り所を失って、増幅された破壊衝動のままに周囲を巻き込みながらその勢力を広げている。
ラデュレの細腕ではすべての竜を安全な場所へ運ぶ事は叶わない。だからこそ今、ここで彼らを守りながら戦わなければならないのだと。理解出来れば俯いている暇などありはしないのだと、少女はその胸にたったひとつの勇気をひとかけらを抱いて立ち上がる。
「……だいじょうぶ。怖くなどありません」
戦うことは苦手だ。けれど、自分にだって決して譲れないものがある。
自分の意思で、自分のちからで、彼らをかならず護ってみせる。
だから、怖くない。
差し伸べたてのひらに落ちるは夜の雫。
それを呼び水に拡がったうつくしい歌声は、あの日見た虹の憧憬にも似て。
少しでも彼らのいたみを和らげられるようにと紡がれた小夜啼鳥の小夜曲は未だ苦しげに息を吐く竜たちを優しく包み込む。その呼吸が少しだけ穏やかなものになっていくことを感じながら、ラデュレはその手の中にましろの指揮棒を手繰り寄せて呪文を描き始めた。
「(――ふしぎ)」
杖先から紡ぎ出される虹の軌跡が踊り出す。その流れに澱みはなく、爪先から頭の先までがまるでひとつの楽器となっておんがくを奏でているようだった。
記憶にはない、それなのに。
『彼ら』を喚ぶための|呪文《まほう》が。次に紡ぐためのことばが、なにもかも。
あなたたちのすがたも、かたちも。白紙の頁に次々とものがたりの続きが記されていくように、パズルのピースが埋まるように指揮棒が描く五線譜からこの胸に伝わってくるから――次に口にするべき言葉が何であるかも、分かる。
「では、判決の刻をはじめましょう」
巻き上がる炎がそのかたちを変えて薔薇の花弁へと変じていく。あかくあかく染まるいろが侵食して、その場の全てを満たしていく。
此度の行いは決して許されることではない。
なれば処罰は彼らのちからを以ってして下される。
「さあ、おいでませ」
振り上げられた杖が下ろされた次の瞬間、ラデュレの装いはそのすべてのいろを変える。
真紅の衣に身を包んだ|赤の女王《裁定者》に付き従うは、一輪の紅薔薇を守るトランプ兵の群れ。炎の尾が勢いよくその全てを薙ぎ払わんとすることを、四方八方から一斉に突き込まれた忠実なる兵士たちの槍が許す事はない。
何時しか炎よりも薔薇の花弁の勢いの方が増しているのだと云うことに、我を忘れた精霊たちは気付けない。その本来の性質を失わせた泥濘の根源へと、ラデュレは鈴鳴る声で以って判決を言い渡す。
「――どうか正しく裁かれてくださいませ」
『有罪』と。
静かに告げられた言葉と共に、花弁の嵐が炎を核ごと纏めて消し去った。
第3章 ボス戦 『喰竜教団教祖『ドラゴンストーカー』弱』
●奪魂鬼
おんなが憂う。
おんなが呻く。
「嗚呼――何故。何故です? わたくしどもの、真竜様の崇高なる祈りを幾度となく、悉く阻むのは」
嘗てドラゴンプロトコルたちの遺骸を継ぎ接ぎにしていた筈のその貌に生気はなく、土気色のからだに浮かぶのは渦巻く憤りと泥濘の如く澱んだ狂気のみ。ちからを奪い損ねたコルヌの竜たちが次々と意識を取り戻す様子に、おんなは唇を千切れんばかりに噛み締めながら忌々しげに能力者たちへと視線を巡らせた。
√能力者である己とひとつになって不死を得て仕舞いさえすれば、みなが何時か終わりなき生の果てに|真竜《トゥルードラゴン》の力を取り戻せるに違いないのに。
「わたくしどもが齎すは救済。目前にあるひとつの|死《おわり》などに囚われないで……! 肉体などただの器に過ぎません。……いいえ、哀れなる貴方様がたを閉じ込める檻でしかない!」
ちからをひととき抜き出すことが叶ったのだから。自分たちならばそれ以上をきっと取り戻せるのだと、おんなの血走った目がそれを心の底から妄信していることを如実に物語っている。
「今、わたくしに必要なものこそ|コルヌの竜《哀れなる貴方様》の存在に他なりません……以前よりも時間を要してしまうかもしれませんが、どうか恐れないでください」
貴方様がたを礎にすれば、それまで失った竜たちのいのちを凌いで余りあるのだと。
そう断言するおんなの前へと能力者たちはそれぞれの武器を手に立ちはだかる。それが明確な拒絶であることを信じられないとばかり、おんなは長い髪を振り乱して目前に立つ羽虫にしか過ぎなかったはずの障害をきつくきつく睨み付けた。
「矮小なるニンゲンたち。今は理解し得ないでしょう。……けれど、何時かきっと気付く筈です。その瞬間に過去を悔やみ、わたくしどもの素晴らしき行いを、誉高き真竜様たちの御名と共に崇め奉るでしょう!」
おんなが憂う。
もう、おんなは嗤わない。嗤えない。
全ては|真竜《トゥルードラゴン》の御為に。
今一度そののろいを口にしたおんなが、今や重すぎる枷となった剣を振り上げた。
●夜の入口
ぱちぱちと火の粉が爆ぜ、辺りはあかあかと照らされる。
竜たちが焚いたかがりびは能力者たちのためのもの。自分たちを助けてくれようとしている皆の助けに少しでもなりたいのだと――それらは急拵えのものではあったけれど、薄闇を照らすには充分な明るさだった。
然し、なるほど。彼女の言い分は分かった。
おんなは自分なりにドラゴンプロトコルたちの事を想っており、その全てが己の思想、理想に何時かはきっと理解を示し喜んでくれると信じて疑っていないと。噛み砕いて見せればそんなところか。
「んー、其れこそ自分本位だよね」
顔を顰めることも憤慨することもなく、ことの顛末を見据えていた九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)の至極冷めた眼差しは同情からくるものか。
否である。
まるでそんなものを幾つも見てきたかのように、辟易したとばかりに肩を竦めてガクトは息を吐き出した。
「本気で彼らの事を想っている、と。あの者はそう考えていそうな所が恐ろしいですね」
現実は彼らに流れる竜の要素しか見ていないのに。
所詮は己の悲願とやらを成就させるための礎にしかしていないのに、と。少なからず奪われたそれまでのいのちを想い、香柄・鳰(玉緒御前・h00313)は静かに睫毛を伏せる。
「でも誰しもがそうとも言える」
「……と、仰いますと?」
戦争を起こすのも戦いを好むのも。
やれ、相手の土地が欲しいだの、権力を見せつけたいだの、そんな下らない理由で力尽くで人々の命を奪う。
「自分の為に他の事など気にしない。他の者……ドラゴン達がソレを望んでも居ないのに」
くだらない。
ヒトも、この先に待つおんなも、何もかも。
「ガクト様にとって、闘いとはそのようなものなのですね」
それはまるで憤ることも諦めてしまったものの悲嘆のようにも思えて。そこに至ってしまうまでに歩み続けた彼のことを否定する事など出来ようものかと。頷く鳰を見下ろし、ガクトはふと浮かんだ疑問を口にした。
「んー、ねぇ鳰は何で戦うのかな?」
「私は……私は、生き延びる為の当たり前の手段でした」
そうしなければいのちを繋ぐことさえ叶わなかった。
武器を手にしたのは多くのものを奪った者共に一太刀でも多くをくれてやる為。そして更に今は、主に害なす者を屠る為。気に入らない相手に怒りをぶつけたくて仕方ないのだと、そこまで口にしてから鳰は口元に手を添え『あら!』と言葉を改める。
「私も中々の自分本位ですね!」
「そう。生き延びる為、誰かに報い、誰かを護る為。君らしい闘い方だね」
確かに自分本位かもしれないが、決して嫌いではないと。ガクトの言葉に目を細め、鳰は同じように問いを返しても構わないかと首を傾ぐ。
「ガクト様は何故に、と問うても?」
「私……私か」
満ちる血の臭いが消えぬほど、そこには死が溢れていた。
息を吸うように闘うことが普通だった。
あの場所が――あの場所だけが、生きる場所だった。
「実につまらない自分本位の理由さ」
「……貴方様も選択肢のない環境におられた、という事ですか」
生まれも育ちも異なる。けれど、きっと似ているのだ。
そうだねと頷くガクトの表情の全てはこの目に映らないけれど。けれど、それでも。自分たちの日常はあの日から変わったに違いないのだと、鳰ははにかみながら傍の主を仰ぐ。
「でも今の『普通』には藤やでの日々もあるでしょう?」
貴方様がいて。私がいて。
ほんとうにささやかなものかもしれないけれど、そのあたたかな日々を自分も大切にしているのだと鳰が微笑むのにガクトも僅かに唇の端を持ち上げた。
「んー、そうだね。今の藤やと君が隣にいるのが日常だ」
この日常へさいわいを齎してくれたコルヌの竜たちに報いるために、自分たちは今ここに立っている。
外道を生かしておく道理はない。未だ抜き身の刃を携えた剣鬼たちは、やがて出づるおんなの元へと音もなく駆け出した。
「鳰、アレに制裁を」
「承りました。ではお先に」
煮え滾った溶岩がぶくぶくと膨れ上がるようにかたちを成すが、それは真なる姿には至れない。成り損ないの竜が耳を擘くような絶叫を轟かせるのに鳰は僅かに痛みを覚え眉を顰める。耳を頼りに戦地を駆ける彼女にとって竜の苦悶の声は何よりも大きな障害ではあったが、太刀筋を迷わせるような醜態を晒しはしない。
「嗚呼、御労しい。今のわたくしではこの様な御姿にしかして差し上げられませんが……貴方達羽虫を始末した後で、必ずやその御力の全てを取り戻して御覧にいれましょう!」
両腕を広げるおんなは今は竜の影に在る。真正面から戦いを挑んでこないのは、それほどまでに彼女が追い詰められていることの証左か。その無様な悪足掻きを一瞥し、鳰は高く跳躍し神気纏う太刀を閃かせた。
「之がお前達が望む竜とやら? ご立派ですが――水禽の翼の力強さも負けませんよ」
断ち落とすは落花が如く。
飛び立つ水禽の如き軽やかさで以て振るわれた刃が夜闇に踊る。
「お前が彼らを必要としようと、彼らはお前を必要としていない。……それが分からないとは、哀れなものね」
「誰にも必要とされていないなら、この世界から消えないとね」
翼を大きく切り裂いた鳰の斬撃に次いで、ガクトの藤の刃が竜の骨を断つ。
振り抜きざまに投げ放たれた藤の簪が、おんなの足に深々と突き刺さっていた。
●追想
「……あら。暫く見ないうちに随分と様変わりしたみたいね」
覇気に満ち、全能感に酔い痴れてさえいたような以前の姿とは程遠い。随分見窄らしくなったものだとまではシルフィカ・フィリアーヌ(夜明けのミルフィオリ・h01194)は口にしなかったけれど。傍らに立つルミオール・フェルセレグ(星耀のアストルーチェ・h08338)はおんなの視界に彼女を入れることさえ許さずに一歩前へと進み出て悍ましき存在を強く見据えた。
「お前みたいな半端者が真竜の力を取り戻せるなんて本気で思ってるんだ?」
「繰り返される死を恐れる必要など何処にありましょう。全ては輪廻。巡り、廻り――その先に待つ輝かしき栄光の再来を――またも。またしても邪魔しようと云うのですか。……矮小なるヒト如きが!」
がり、と。強く、強く爪を立てた自身の二の腕から膠の如き血を流し、おんながぎょろりと血走った目を奔らせるのにシルフィカが動じることはない。全く、性根の悪さと言葉の通じなさは相変わらずのようで逆に安心するくらいだけれど、おんなとはじめて相対する青年はそうもいかない。
「冗談だとしても全然面白くないな」
幾度となく殺され、その度に削ぎ落とされて。遂にはおんな曰く『矮小なるヒト』に成り下がった滑稽な姿を晒そうともまだ懲りないとは。
「……その執念深さだけは誰かに褒めて貰えるかもしれないね」
俺はお前を殺すために戦うだけだ、と。剣を構えるルミオールの背で、シルフィカもそっと目を細める。
「……あなたが真竜の祈りを語るなんて、本当に反吐が出るわ」
分からないのなら何度でも告げてやろう。その狂おしき傲慢がどれ程の罪であるかを。おんなが奪ってきたのであろう、幾千、幾百ものいのちの数に今こそ報いを与えよう。
「コルヌの竜たちだけじゃなく、誰もあなたを必要としていない。あなたの独り善がりな救済なんて、誰一人として求めていないわ」
それは懐かしきリラの風。
甘やかな花の香に振り返ったルミオールの背に在ったのは、忘れる筈もないその姿。『気をつけないと火傷するわよ』なんて――ああ、そんなことどうだっていいんだ。
俺が覚えているそのままの君は、やっぱり格好良くて、綺麗だ。
彼女の前で無様は晒せない。一層の決意を抱いて踏み込んだルミオールの裡で閃いた星の輝きがその速度を更に後押ししてくれるから、鈍ったおんなの大振りの一撃を躱すことだって容易い。叩き込んだ剣の一撃がおんなを袈裟懸けにしようともその醜く歪んだ貌に浮かぶのは、真竜のすがたを取ったシルフィカだけを見詰める恍惚であった。
「嗚呼…………偉大なる真竜様。矢張り仮初の傀儡よりも、なんと強く、お美しい……!」
「――彼女をその穢れた目で見るな!」
世界樹より引き摺り出した傀儡の竜は完全なる姿よりも程遠い。酸の息吹を掻き消すように巻き上がったライラックの炎が、おんなの夢を、幻を焼き尽くす。
己が身に宿す竜漿すべてを使い果たしてもいい。
たとえ意識を失ったとしても今はひとりきりじゃない。だって、わたしにはあの子がいてくれる。
「……シルフィカ! シルフィカ、しっかり!」
己を抱き止める腕の確かさに、シルフィカは微かな笑みを湛えて瞳を閉じる。
「(……無茶はしないでって、怒られてしまうかしら?)」
でも、きっと大丈夫。
今度はちゃんと目を覚ますんだって――何度でも、今はあなたに教えてあげられるから。
●きずな
「わたくしども、と言いますが……今はお一人で誰もついてきていないんですね」
私たちはこんなにも大勢で共に笑い合い、力を合わせ戦っていると云うのに。一体哀れなのはどちらなのだろうかと、マルル・ポポポワール(Maidrica・h07719)は嘆息しおんなへ憐れみの視線を向けた。
「まあ……お可哀想に。矮小なるヒト風情には視得ぬのでしょう。わたくしの中に在る幾百ものいのちの数を。これから甦る皆様方のことを、何一つ!」
それはこれまで奪ってきた罪なきドラゴンプロトコルたちのいのちのともしび。もう二度と帰らぬその尊い犠牲を前に、おんなは尚も言い募るのだ。『わたくしどもが、救って御覧にいれます』と。
「……貴方のすくいは、決して救済ではありません! ――シイロさん!」
足止めを頼みます、と。マルルの声に応じ、それまでちいさなすがたに甘んじていた神聖なる竜がその真なる貌を取り戻す。地鳴りと共に轟く声は、あらゆる生物を平伏させる白竜の怒り。その何をも引き裂く鋭い爪が傀儡の竜を捉えると共に、マルルは逃げ遅れたコルヌの竜たちを救うために走り出す。
怪我をしているひとはいないか。腰を抜かしてしまったひとはいないか。子どもは、お年寄りは――ひとりとて彼女に渡すことは出来ない。彼らがくれたさいわいを、ひとつとて悲しい思い出に塗り替えることがあってはならないから。
爛れて剥がれ落ちた鱗の下で、どす黒い混沌が蠢いている。
それは最早肉とは呼べぬ、蠱毒の果てに生まれた哀れなる竜の骸だった。
マルルも、勿論シイロも。そんなにまでいのちを弄ばれた彼らの魂をこれ以上穢すことを許しはしない。彼女に決定打を今は与えることが出来なくとも、この戦いを価値のないものには決してしない。
「だって私達は一人じゃないですから!」
燦然と輝く白夜の息吹がおんなと竜の骸を包み込む。
このちからが、祈りが――次への架け橋になると信じて。
●暗冥
「善意の押し売りか? 実に浅慮、蒙昧無知とはこの事だな」
白けた笑みを皮膚に浮かべ、ラウアール・グランディエ(人間災厄「グリモリウム・ウェルム」の不思議道具屋店主・h08175)は哀れなる信徒へと言い放つ。
「言葉を選びなさい、穢らわしきものよ。わたくしどもの崇高なる祈りが浅慮だと?」
成る程、『竜』と『ニンゲン』、そして『そうでないもの』。
おんなの中では明確な線引きが敷かれているようではあるが、泥濘の奥底にある混沌までは見通せぬか。
「は! 笑わせる。セールストークなら、あの竜のこどもの方が巧みだったな」
愚かだ。
だが、『そうでなくては』。
ぼとり。
ぼとり。
溢れ出づるは夜よりも昏き混沌の黒。インクを溢したかのような闇はやがてラウアールの全身を覆いその全てを覆い隠し――やがて、ひとつの影を成す。
「まあ……なんて悍ましい……!」
『悍ましい』など。『真竜様、どうかわたくしをお守りください』などとどの口が宣うのか。
怨嗟と悲嘆から引き摺り起こされた不完全な竜と対峙したラウアールはその本質とも呼べる異形の蛇と化し、剥き出しになった牙をぎらつかせて嗤う。
破滅へと向かうおんながそれでも信じる希望とやらを叩き潰すことなど造作もない。
気が昂る。まるで道化だ。
断末魔の如き悲痛な声を轟かせた竜が顎門を開こうと、不完全なその力を恐れることはない。濁った目がこちらを捉え襲い掛かるのとほぼ同時、ラウアールの放った瘴気のブレスが竜の巨躯を丸ごと包み込んだ。
「呪いは倍になって返ってくるもの。さあ――|最悪な喜劇《最高の悲劇》を見せてくれ!」
崩れ掛けた理想郷を絡め取る。締め上げる。その根幹ごと噛み砕く。
真正面から瘴気を浴びた真竜のかりそめの肉体が、泡を吹きながらびくりと大きく痙攣する。ラウアールは自らの身体に突き刺さった刃を引き抜くと、のた打ち回る竜の|抜骸《ぬけがら》へと一片の躊躇もなく振り下ろした。
●思慕の翼
「ふん、無い物ねだりの愚か者が」
以前は真竜の姿で打ち倒してやったが、そこまでして喜ばせてやる義理はない。
ルナ・ディア・トリフォルア(三叉路の紅い月・h03226)は眉を顰め、みっともなく未だ己が狂信を強要するおんなを一瞥するとその身に宿したうつくしき蒼を映し出した大剣を構え軽く呼吸を整えた。
「汝が竜に成れないのは、つまりはその器ではないという事よ」
「まあ……親愛なる貴方様。それは違います!」
この身が真竜のちからを今は成せないのは、まだ|ちから《いのち》が足りないから。強大なる真竜のちからを取り戻すに足る血の数が、まだまだ、まだまだまだまだ足りないから。
そんなことを本気で宣うおんなにとって、ルナもまた狂おしいほどに求めるちからのひとつに他ならない。矮小なるその身に神のひとはしらまでもを欲するとは――笑わせる。
「話にならんな。……身の程を知るがいい、我や愛し子たちを欲すると云うことがどれ程傲慢な祈りであるかを!」
音を立てて砕け散った月光石からひかりが満ちて、刹那、おんなの目を灼いた。
「ぁ……っぐ、ぅ!」
この場に存在する殆どの竜とは違う。一度剣を交えたもの同士としてそれを確りと理解している筈なのに、ちからの多くを失ったおんなは以前ほどの反応速度を持ち得ずに、ルナの大剣を受け切れずにぐらりと大きくよろめく。だが、その瞳に宿る狂気と執念は少しも衰えることはない。
「どうか。どうか、わたくしと共に――!」
「抜かせ、遅いわ!」
捨て身とも呼べる大振りの一撃がルナの肩口を裂くけれど、満ちる月のひかりが、耳に揺れる対なる藍晶の輝きが――『|彼女《ルナ》が神であること』を証明する限りルナが決して膝をつくことはない。
「(……痕が残るような怪我だけは避けねばな)」
離れていても心はひとつだと。
血を吐くように齎された祈りの、嗚呼、なんといじらしく愛おしいことか。
おんなを強く打ち据えた刃を構え直し、ふ、とルナは無意識に浮かんだ唯一の想いに人知れず苦笑を溢した。
●風雪疾駆
寄り添い助け、幸福に咲くも。
奪い合い憎悪し、悔恨を抱くも。
個を生き抜いた末に訪う|死《おわり》は、彼女にとって優しいものではないのだろうか。
――わからない。
溶け合った未来に、肉のしがらみ全てを取り払った先に待つ無に『至った其れ』は何を思うのだろうかと。ファウ・アリーヴェ(忌み堕ちた混血・h09084)はぐつぐつと皮膚を、鱗を煮え滾らせた不完全な傀儡の真竜を前に痛ましげに眉を寄せながら低く、静かに祈雨を構えていた。
「(……或いは、眼前の全てを理想への足掛かりと看做しひた走るのか)」
少なくとも目の前に立つおんなやそれを守るように立つ竜の骸から生の眩さやあたたかさは感じられない。そこにあるのは煮凝りのような狂気と泥のような血肉が混じり合う怨嗟のみ。
そんなことを彼らのさいわいだと宣うのか。
そんなことで彼らをいたずらに傷付けたのか。
ざわざわと身体中の被毛が逆立つのを感じる。
恐れだろうか。否、これは守りたいと云う芽生えたばかりの自分の意志そのものだ。
「あなたが統合を救済と謳うならば、何度でも災厄として立ち開かろう」
音もなく地を蹴ったファウの身体が喰らい付く竜の顎門をすり抜けておんなのもとへと一息で潜り込む。嘗てのちからを持つおんなであれば指ひとつでいなしていたであろうが、ひとの身体に限りなく引き戻されてしまった今はそれも叶わない。
「犬風情がよく吠えること。目先の絶望や死に囚われて未来を夢見ぬ愚か者に、わたくしどもの崇高な祈りが理解できよう筈がありません!」
「痴れ者が」
咄嗟に大剣を構え直して一撃目を弾くが、それだけ。
この身は今や冬と共に在る。
少女が齎してくれたさいわいを、決して穢させはしない。
「……、……ぁ、」
「彼らの一人も奪わせたりはしない。……絶対に」
乾留液の如く濁った血がぼたり、ぼたりと地面を濡らす。懐を許した一瞬の隙を狙い、手首を返したファウの刃がおんなの脇腹を深く切り裂いていた。
●割れた柘榴
「あのお姉さん、凄く怒っちゃってるね……なんかちょっとだけ可哀想」
彼女の行いが到底許せよう筈もない。けれど、こんなに追い詰められても尚己の盲信する教義を手放さないのは、それこそよわい人間の行いそのもののような気がして。ユニ・アドロラート(流れ雲・h06559)はあかい双眸に僅か憐憫のいろを乗せて緩々とかぶりを振った。
「でもでも! 悪いのはお姉さんの方!」
自分の理想を相手に押し付け、あまつさえ殺してしまうなんて良い筈がない。そんなの絶対、絶対絶対よくない事だって教えなくちゃ。
教えなくちゃ、いけないんだけど、
「…………」
ちら。
ユニの眼差しは真摯なものに違いなかった。そこにはただ護るべきいのちを背にした戦士としての高潔な想いがあったに違いない。違いないのだけれど――、
「(ちょっと……ちょっと目のやり場に困る!)」
相対すれば否応にでも相手の全身が目に入ってしまう訳で、いや全然、全然邪な気持ちなんてこれっぽっちもないのだけれど。『切断した竜の躰を縫い合わせるのが容易いから』などと云う悍ましい理由であの格好なのだと云うことは分かっているのだけれど、年頃のユニにとって刺激が強すぎるものであることには違いなく。
「大丈夫! シアラ姉も色々と負けてないから、あ痛ぁ!」
「あんたさっきから何言ってるのよ。真面目にやらないと死ぬわよ」
本日二度目になる額への痛打に涙目になるユニを尻目に、シアラ・カラント(冒険者・h00043)は直ぐ様武器を低く構え直す。如何様にちからを削ぎ落とされたとしても相手は幾千、幾百ものいのちを屠って来た恐るべき存在である事には変わりないのだと。まだまだ未熟な後進へそう告げれば震える涙声が『わかってるよぉ』と返事をするのに振り返らずに頷きを返した。
「……それにしても、なんとも迷惑な信仰ね」
散々散らされ挫かれて。良い加減に諦めてくれれば良いのに。
自分を含め、勿論竜たちにとっても相容れる訳もない。元より押し問答をしてやるほど暇を持て余してはいないのだと、シアラは体制を持ち直したユニへ一度目配せをしてから地を蹴った。
「仕事のためにも斃させてもらう」
「そうだよ! ボクたちがお姉さんを倒す!」
それが、宣言となった。
ばさりと脱ぎ捨てられた上着を目眩しに猛烈な勢いで加速するシアラの前に迫る大振りの一撃に割り入るように滑り込んだユニの片腕が無機質な音を立てて弾け飛ぶ。否――それは服の下に隠されていた義肢装甲を囮にした決死の行為に他ならなかった。
「は、……はは。残念! 殺せたと思った?」
竜の力が無ければこんなものか。
重すぎる大剣を振り抜くのは、最早おんなの腕力よりもその身を突き動かす狂気によって支えられている。
「けだもの風情が、生意気な……ッ!」
「確かにあなたの一撃は重い。けど、見るからに振り回されてるじゃない」
ペンダントから展開された障壁が兇刃を退けてくれることは勿論だが、重い分鈍重な動きを見切るのはシアラには容易かった。みしみしと軋んで悲鳴を上げるおんなの躰から繰り出される剣戟をいなすのは今やユニにとってもそう困難なことではない。それも全て、最初の一撃で二人纏めて叩き切ろうとしたおんなの傲慢が招いた誤算か。
「シアラ姉、今だよ!」
「自慢の得物も命中しなければ……っと、私じゃなくて地面でも耕しておけば?」
――知ってた? 『けだもの』にも牙があるんだって事。
二対の大剣が交差する。
竜をも屠る一撃が、おんなを双方から一度に深く斬り裂いた。
●零落せしもの
「コワいネェちゃん、お久しゅ……れ? そな感じだったけ?」
青い膚は今や正気のない土気色に成り、それさえも無理矢理に繋ぎ止めて所々が引き攣れている。酷い有様であるにも関わらず、おんなが痛みに喘ぐ様子はない。
「嗚呼……申し訳ありません。貴方様がたの遺骸で繕った完璧な姿を奪われ、御前にこのような醜い躰を晒してしまうなんて……!」
それよりも『親愛なるドラゴンプロトコル様』の前に『ひとのからだ』を晒している事の方が大事であるらしく、悲嘆に暮れるその異様さに八卜・邏傳(ハトでなし・h00142)は僅かに眉を顰めた。
「相変わらず言うちょる事よう解らねんよ」
でも。理解できないからその全てを否定するのも、違うのだろうか。
自分たちにとって悪と断ずるべき行為の数々も、もしかしたら――はじまりはもっと他愛もない、純粋な祈りから齎されたものなのだとしたら。いや――、
「なーんて! 考えんの止め止め」
生死と善悪など小難しく考えたところで直ぐに正解が出るものではない。だからこそ、邏傳は至極明快な解へと手を伸ばす。
「俺もネェちゃんもお互いにやりたいように動く、それだけ!」
守りたい。殺させない。
だから此処に立ち塞がるのだと、燃え盛る戦籠手を構え邏傳は強く地を蹴った。
「どうか……どうか、どうか、どうか! わたくしと、今一度ひとつになりましょう!」
「うぉぅ!? 当たったら痛そ」
風が唸り声を上げながら振り抜かれたその一撃は確かに直撃したら致命傷にもなりかねないが、その剣捌きに前ほどの苛烈さは感じられない。身の丈に有り余る大剣は単なるひとに成り下がったおんなの身体を容赦無く蝕んで、まるで大剣を振るう度に自らの肉体を犠牲にしているかのようだった。
「けど……容赦はせんよ互いにね」
「……真竜……さ、ま……!」
今までとは明らかに様子が違う。けれど拳を鈍らせる迷いは不要だ。邏傳は籠手に覆われていない左腕を一息で硬質化させながら絶対零度の印を纏い、おんなが剣を振り上げた瞬間に胴目掛けて真珠層の煌めきを宿した拳を強く強く叩き込んだ。
●雷霆に駆け
「なぜ阻むのか? 私達が、コルヌの人々を守りたいからです」
その瞳に宿した狂気を真っ直ぐに見つめ、アリス・アイオライト(菫青石の魔法宝石使い・h02511)は自らが怒りに囚われてしまわぬようにぎゅっと強く杖を握り締めた。
「あなたの信仰は、真竜という種を見ているにすぎない」
彼女の祈りが全うされれば、ドラゴンプロトコルは真竜として蘇るのだろうか?
否、それだって確かなものじゃない。第一、ぐちゃぐちゃに継ぎ接ぎされた竜たちに最早本来の自我などはじめから残されてはいなかった。それを捨て置くことなど如何して出来ると云うのか。
「けれど私達は、人々を個として死なせるわけにはいかないんです!」
「まあ……お可哀想なこと。怠惰に永くを生きる妖精族になど、わたくしどもの崇高な祈りや願いが理解出来よう筈がありません!」
「……黙れ!!」
張り上げられた声はアリスのものではない。その傍で怒りに拳を震わせていた天ヶ瀬・勇希(エレメンタルジュエル・アクセプター・h01364)のものだった。
このおんなは師匠を侮辱した上に、コルヌの竜たちに『自分の目的のために命を捨てろ』と言っているのだ。彼らは皆懸命に生きているのに。こんなにも素敵なものをたくさん作って、惜しげもなく人に分け与えるような彼らのすべてをただの足掛かりにしようとしている。
「輝石だって、『次』に繋ぐためのものだ」
彼らが愛するのは自由。
何処までも続く旅路へ繋がる大切な煌めきは、その為の道標だ。
「その『次』は、お前が言う真竜とかいうやつのことじゃない!」
奪わせない。振り翳された偽りの大義など、決して許してはならないのだと。弓に嵌め込んだ属性石を換装し終えた勇希が駆け出すのと同時、アリスもまた自らに宿した魔力を編み始める。
「……ええ、語ったところできっと理解は得られないのでしょう」
だから、戦うことを躊躇わない。
弟子の成長を目の当たりにし僅か目を細めたアリスはゆっくりとおんなへ向き直る。そのてのひらの中に乗せられたうつくしい|黄色《おうしょく》の緑柱石が砕けると共に、せかいは眩いひかりに満たされた。
『理想の真竜』とは、この様に悍ましいものなのか。
爛れた肉から剥がれ落ちた鱗を落としながら苦悶の声を上げてのた打ち回る生ける屍は、おんなのちからが足りないが為に引き摺り出された哀れな魂だったのか。幾千、幾百ものいのちを継ぎ合わせたのろいを前に、アリスはその瞳に哀しみを乗せながらも緑柱石に宿した魔力を解き放つ。
「あなたが求める理想とやら、倒して見せましょう!」
雷霆が弾ける。迸る閃光は大気を貫き、宙を裂くように枝分かれしたひかりの奔流が嵐となって真竜の骸を貫いていく。おんなはそれを阻もうと意識を集中させるが、がら空きになった側面へ回り込んだ勇希が既に至近距離まで近付いていることに――ああ、もしも以前の彼女であったならばそれも容易くあしらったのであろうが――気付くことが出来なかった。
「大剣も揮えない体が悔しいか?」
――でも、お前が狙った人達はもっと無力だ。
彼らの恐怖を、痛みを、苦しみを。お前はひとつでも解したのかと、少年はおんなの憎悪に歪んだ貌を真っ直ぐに見据え矢を番える。
「この、……煩わしい小童がッ……!」
それは生けるもの全ての動きを阻む深海の氷柱。息を吐く間も無く連続して放たれた矢が、ほんのひととき、おんなの体を完全に縫い止める。
「だから、俺達が絶対に守る。そう、約束したんだから!」
誓いは折れない。
彼らの思いごと全て背負い、勇希の放った矢は鋭い響きを立てて盲信の使徒を貫いた。
●壊れた紛い物
悪意の手が竜たちに届かぬように霊力の守護結界を張りながら、物部・真宵(憂宵・h02423)は遠目に落魄れたその姿を見とめてぱちりと目を瞬かせた。
「あら、まぁ……あの方がお噂のドラゴンストーカー?」
彼女の狂おしいまでの盲信は一体何処から来るのやら。幾度倒されようとも諦めないその姿は成る程追跡者と呼ばれるに相応しい。意識を取り戻した竜たちを介抱していた真宵が唯のニンゲンの姿に成り下がったおんなを仰ぎ『思っていたより普通のひとなんですねぇ』と純粋な感嘆を口にするのに、おんなの貌が見る間に憎悪と憤怒に彩られていく。
「それもこれも、無粋なる介入者たる貴方がたがわたくしどもを阻むから……! あと少しで、もう少しで悲願は叶えられた筈ですのに……穢らわしい、悍ましい、恥を知りなさい!」
なんて言い草。まるでこちらが悪者かのようだ。度重なる激戦の末に傷付き、千切れかけた肉を無理矢理縫い合わせたおんなが声を張り刃を振り上げんとするけれど、その刃が真宵に届くことはない。
大剣を弾くは影の御手。その混沌の先に立つふたつの月魄が至極退屈そうに息を吐き出すのに、真宵は内心でほんの少しだけおんなに同情を寄せていた。
「うーん、眠気を誘う演説をドーモ!」
「なん……ですって?」
自分としては正直な所どうでもいい。人道非道外道の何れにも興味はないし、強いて上げるとするならばこの無味乾燥な時間を持て余さない程度の刺激が欲しい。おんながそれを満たしてくれるかと言えば答えは否だと、隠しもせずに大きな欠伸をして伸びをする雨夜・氷月(壊月・h00493)の姿に李・劉(ヴァニタスの匣・h00998)は然りとおんなへ一瞥をくれてやった。
盲目的な信仰と言うのは他人にとっては結局の所、傍迷惑な暴挙に過ぎない。
彼女の言うように肉体とは魂の器に過ぎないけれど、その器に囚われた魂にこそ価値がある。それを知らない彼女は――あゝ、実に可哀想な女だ。
「君の|匣《夢》の中は、屹度……退屈そうダ」
確証のない救済よりもコ|ルヌの《彼ら》竜の素晴らしい品々を堪能する方が余程いい。
確かに、なんて。乾いた笑みを浮かべた氷月がてのひらの中で銀片を弄ぶのでさえ『早く殺そう』と言う合図に違いない。であればこれ以上の問答も不要になるか。
「それならさぁ……楽しい時間を邪魔したアイツを好き勝手潰して遊んじゃおうよ、劉」
「……成る程? 及第点としては悪くない遊戯だネ」
斯くして裁定は下された。
招かれざる盲信の徒が竜の魂を引き摺り出さんとするよりも早く、夜がその幕を静かに閉ざさんとしていた。
聳えるは嘗て夢見た真なる竜の面影。
けれど、足りない。今のおんなにはそのすべてを形作るためのちからも、流した血肉の数も、何もかも。
「そちらの竜が、あなたの言う誉高き真竜なのですか?」
断末魔の如き嘶声は肉の躰を保つことへの苦悶だったのか。ぼろぼろと焼け爛れた肉から鱗を剥がれ落としながらも尚此方に向かってくるその姿に眉を寄せながら、真宵は憐憫をそのまま声音に乗せて言葉を紡ぐ。
「いえ、その……随分お可愛らしい理想なのだなぁと」
「――口を慎みなさい、小娘ッ!!」
食って掛からんとするおんなのからだを夜のいろをした狐が阻む。狂気で視野が狭くなったおんなには圧倒的な不利を悟れない。『目障りな小娘』から始末しようと手を伸ばすから己が周囲を劉の呪煙が包み込んでいることにも気付けない。その身体を侵食する紫煙の毒が全身に回ろうと、あまいばかりのその香を疑うまでには至れない。
「あっは! ダメだよ、よそ見しちゃ」
気付かない。気付けない。
死角から潜り込んできた氷月が間近に迫って来ていることに気付いた頃にはもう、遅い。
「出直し給え。重く鈍い刃では我々に届く筈もなし」
不完全な理想は食らう価値もない。
此の斬撃は果たして、君を阻む悪夢と成るだろうか。
「その先に救済があるならちゃんと証明しないと。アンタの言葉は実が無さすぎてツマンナイ」
足の腱を断たれた竜の巨躯が大きく崩れる。それは風の如く疾駆する氷月が齎した死だ。
「何かを信じるその心はご立派ですが、盲目過ぎるのも考えものですねぇ」
花が咲く。季節外れの紫陽花が、咲いて、散って――白雨となっておんなと傀儡の竜の視界を覆い尽くす。真宵の呼ばうましろの四葩に姿を掻き消したふたりのあやかしが竜の暴虐を踏み越えて不可視の刃を伸ばすその瞬間を、誰が認識することが出来ただろうか。
「あーあザンネン、飽きちゃった」
これで御終い。
つまらないものは玩具にさえ成りやしないのだと、銀の刃が踊る。
命も望みも運命も。全て断ち切り御破算と相成ろう。
「ハイ、此処で打ち止め」
頸を、心臓を狙った一撃がおんなを襲う。
廃液の如く凝った黒い血が噴き出すのを、氷月と劉は動かなくなった玩具に興味をなくした子どものような残酷さで以って淡々と見下ろしていた。
●黄昏に堕つ
「へぇ、君が竜を狙ってる……元凶かい?」
夥しい穢れた血を流しながらも尚|正気《狂気》を保って立っていられるのは盲信からくるものか。まるで殉教者だと、咲樂・祝光(曙光・h07945)はその瞳に憂いと憤りを乗せておんなと相対した。
「むー、何だか嫌な感じがする!」
姿が見えぬままの猛威は不気味で底知れぬものだったが、その本人が姿を現してさえしまえばどうということはない。禍々しい死の匂いに鼻を摘んで見せながら、春の|祝福《災厄》――エオストレ・イースター(桜のソワレ・h00475)はまるで児戯だと呆れたように肩を竦めて見せる。
「そんな程度で真竜に至れるわけも力を取り戻したりもできるわけないじゃーん!」
「……取り消しなさい子兎。皆様がたは今はまだわたくしの中で眠りについているだけ……! 折角乗り越えた死を無粋にも奪い去ったのは貴方がたの方です!」
無粋なのは何方なのか。悪逆なるは何方なのか。この期に及んでそんなことを口にするおんなの様に、祝光もエオストレも哀れなものを見るかのように眉を顰めた。
「君のそれは祈りじゃない。自分の欲望を代弁するのに、真竜を口実に使わないでくれ」
「彼ら、そもそも望んでたの? 君の思い込みでこんなことしてたのなら勘違いも甚だしいね」
彼女には彼女の理想や夢があったのだろう。
すべてはそれ故の行いなのだろうけれど――虫唾が走る。
「エオストレ、残念だけど彼女には君のイースターは相応しくないよ」
「その通り! コルヌの竜達も祝光も傷つけるやつは、イースターじゃない!」
大切なひとを怒らせるなんて。優しいコルヌの竜たちを傷付けるなんて、そんなの楽しい楽しい|祝祭《イースター》には似合わないからと、咲き初めのステッキを手繰るエオストレに祝光も深く頷き構えを取る。
「そうだよ、俺は怒ってるんだ」
再起を口にしながらも『無駄』と吐き捨てられたこれまでのいのちに報いる為に。
渾身の霊力を練り上げた祝光が破魔のひかりを宿すのを、おんなは何処か恍惚とした眼差しで見つめていた。
「素晴らしい……、なんて美しい輝きなんでしょう。貴方様が纏うは神気――その、蕾かしら」
己が血肉を対価に呼び出したるは傀儡の竜。
悲鳴を上げながらもおんなの意思に添うように竜は千切れ掛けた脚を持ち上げるけれど、その巨躯が祝光を踏み潰してしまうことはない。即座に張られた桜吹雪の天蓋がふたりを覆い隠すから、視界の殆どを血で染めたおんなと屍はふたりを見失ってしまう。
「さくら、さくら、徒桜――どうか守って。桜の幸運は僕らの手にあるんだから!」
打ち据える棘のベルトが鞭のように張り巡らせられようと届かない。
その歪んだ理想ごと全てを打ち砕く。顎門を開いて全てを噛み砕かんとする竜の骸へ、浄化の花弁が巻き上がる。
それはひかり。絢爛の極彩から放たれる、全ての邪を打ち祓う破魔のひかりだった。
「何故……? 何故、ひとの身に甘んじ、矮小なるもの達のしるべたらんとするのです。わたくしどもと、わたくしと共に在れば、貴方様とて、屹度――」
「……いい加減にしろ」
哀れなのは其方だ。
勝手な救いを竜に押し付け、本当の願いを踏み躙ってきた。
その対価を今こそ支払う時だと未明の刃を抜き放った祝光の対面で、桜吹雪の中から舞い込んだエオストレが鏡合わせのように仕込み刀へと手を掛けていた。
「――君にも救いをあげなきゃね」
「まったく、祝光に救ってもらうなんて贅沢すぎるよ!」
おんなが大剣を構え受けようとするが、遅い。神なるものへ手を伸ばそうとした愚か者を、交差する浄化の刃が一太刀の元に断ち切った。
●正義の在処
優しいコルヌの竜たちは血に慣れていないひとが殆どだろう。子どもたちに傷付いたすがたを見せて不安にさせる訳にもいかない。意識を取り戻したつがいの竜に泣きじゃくる子どもたちを託し、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は間違っても彼らにおんなの兇刃が届かぬようにと行手を阻むように立ちはだかった。
「どうしてそこまで救済にこだわるんだ?」
こんなに傷付いて、こんなになるまで血に濡れて――それでも己が理想を追い求めるのは何故なのか。不死を掲げながらも殺戮を繰り返す矛盾。どうしてそこまで、と言い募るラムネの言葉をおんなはただ一笑に付すだけ。
「貴方が救いたいのは誰? それとも自分が救われたいのか?」
彼女を責める意図はない。ただ聞いておきたかった。
幾度となく対峙してきた中で、尚も立ち続ける彼女の『ほんとう』を知りたかった。
「――知れたこと」
何度も。何度も何度も何度も、わたくしは申し上げている筈です。
わたくしとひとつになってしまいさえすれば、皆様は永遠なる生を得ることが出来る。不死を得ればいずれは――輝かしき|真竜《トゥルードラゴン》の姿を取り戻すことが出来るかもしれないのです、と。
「全ては真竜でありながら人に堕とされた皆様をお救いする為……! それを邪魔だてしているのは貴方がたの方です!」
そこに善悪などない。
彼女の中で『ひとの身に甘んずるドラゴンプロトコル』は『哀れ』で、その悉くを『救済』し、嘗ての気高き姿を彼らの為に取り戻さなければならないのだと言う。
……ほんとうに、そうなのだろうか。
向けられた棘の鞭の如く撓るベルトを青の障壁で受けながら、ラムネは僅かな躊躇いのいろを浮かべ未だ反撃の一手を撃つことが出来ぬままにおんなを困惑の目で見詰めた。
「(俺と、彼女と……どっちが正しいんだろう)」
誰かと戦う度に、針のようにちくりと疑問が募って胸に刺さっていく。
もしも。もしも、彼女が言うように竜人の多くが元の姿を取り戻したいと願っていて、自分がその妨げになっていたのだとしたら?
彼女が掲げる祈りの方が、それを成す正しい最短距離なのだとしたら?
――否、いや、違う。
おんなは言っている。『出来る“かも”しれない』と。
はじめから破綻しているのだ。
何方が正しいかなどは観測者に依って姿かたちを変えてしまう。だからこそ、たとえ何者かに悪だと謗られようと今この場では譲れないものの為に立ち向かうのみ。
「……そうだよな、カエルムさん」
戦わなければ自分も、彼も――彼の愛したものたちも全てが壊されてしまう。そんなことは絶対にあってはならないのだと、ラムネの瞳にひかりが宿る。そのひかりに呼応するように、あおの輝石が強く煌めく。
どうか共に戦ってくれと祈りを込めれば、ラムネのこころに今ひとたびの目覚めを迎えた真なる天竜がその姿を露わにし高らかに吼え猛る。それがまるで自分を鼓舞してくれているかのようだったから、裡に生じた一時の迷いを振り切ることが出来る。出来た。
「今、ここで……貴方を止める!」
「小賢しい真似を……! どうして人間如きが真竜様の御姿を呼び出せると云うのです! どうして――!」
猛る白焔が、蒼き天の裁きが、おんなの怨嗟を穿ち貫く。
迸るひかりの軌跡は、何処か竜の影にも似ていた。
●あかいろの寓話
「なぜ。……何故、とおっしゃるのですね」
数多の屍を築いてもなお。
幾千、幾百をのいのちを礎にしても、なお。
揺らがぬおんなの狂気を目の当たりにし、裁定者――ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は悲しげにその長い睫毛を伏せて僅かに俯いた。
彼女とて事情が、理由があったのだろう。切っ掛けは純粋な祈りからくるものだったのかもしれないけれど、その手は余りにも血に濡れて死に溺れてしまっている。
「わたくしは、コルヌの方々を守りたい。ただ、それだけなのですよ」
「守るなどと烏滸がましい……! そのちいさな躰ひとつで何が出来ると言うのです。貴方に哀れなる皆様が救えると言うのですか? …………何とか仰い、さあ。さあ!」
その終焉は救済になどなりはしない。
彼らの道は彼ら自身が選び取るものなのだと、言い募るラデュレの声は届かない。
「(ああ……狂気の色が、濃い)」
哀れなのは何方なのか。その躰ひとつで何が出来ると、追い詰められているのは何方なのか。それでも彼女の心には届かない。その歪んだ貌に憎悪と殺意を滾らせるドラゴンストーカーの瞳に、はじめから能力者たちなど映ってはいなかった。
それならば――すべきことはたったひとつだけ。
ちりん。ちりん。
|鐘《ベル》の音が響く。
まるで法廷にて裁きの時を待つ番人の如く控えていたトランプ兵たちが傍聴を一斉に止めたかのようだった。
「みなさまがた。今一度、わたくしにお力添えを」
『これにて、終いの処罰と致しましょう』と。裁定者の宣告に応じて無数の槍がおんなを襲う。力任せに振り抜いた大剣が幾つかのスートを薙ぎ払うけれど、その刃がラデュレのもとに届くことはありはしない。
「裁く……裁くですって? このわたくしを、子兎ごときが?」
ごきりと鈍い音を立てたのは、ちからにそぐわぬ大剣を無理矢理に振り回したが故のもの。その重さに耐え切ることの出来なかったおんなの身体が悲鳴を上げる様に、ラデュレは痛ましげに目を細め――不意に感じた既視感に、ちかりと視界が明滅した。
以前にも、わたくしは、こうして……。
わたくしは――裁定者“だった”。
私罪を決し、裁いて、裁いて、裁いて――……その後は、……その後は、どうなったのでしょう。
細い首を囲う傷跡がじくりと熱を持ったよう。
指先でなぞれども疾うに痛みなぞ感じはしないのに、いきものが宿す血の温度だけがやけに生々しく感じられた。
「貴方も。貴方も、皆々様も! 何故目前の死を恐れるのです。何故死をすべての終わりなどと想うのです、何故、どうして! 何故ッ!!」
「(……いけません。今は、目前に集中を)」
トランプ兵がこの身を守ってくれてはいるけれど、それでも油断をしていい相手ではない。ふるりと浮かんだ情景を振り払うようにかぶりを振れば、ラデュレの一瞬の迷いを晴らすかのように舞い上がったあかい花弁が血のいろを上塗りしていくかのように満ちて、満ちて、染まっていく。
「あなたに巣食う狂気に、判決を」
犯した罪は決して赦されるものではない。
けれど、その盲いたこころが一片でも救われれば良い。恐ろしい凶行に及んだ彼女にだって――屹度、盲信に至るまでの悲嘆が、絶望があった筈だから。
「……それが、わたくしの願いです」
緋の旋律が吹き荒れる。罪禍も怨嗟も、何もかもをも包み込む。
晩鐘が示した判決に、おんなの躰の全てが薔薇の花弁に塗り替えられた。
●つなぐみどり
「そうですか、彼は眠りに……うん」
皺くちゃの口元をもごもごと動かしながら、何時かの旅路を夢見がちに語るその姿は冒険譚に焦がれる少年のようだったと賀茂・和奏(火種喰い・h04310)が告げたなら、生前の祖父を知るひとの言葉に目を細めて竜のきょうだいたちは何処か照れくさそうにはにかみ肩を寄せ合った。
「奏さんが話してた渋い素敵なお爺さん……と、お婆さん」
またあえたんだね、と白水・縁珠(デイドリーム・h00992)が呟くのに、和奏も頷きふたつの輝石に触れて微かに伝わる竜漿のぬくもりを感じ取りながら揃いのブレスレットの片割れを縁珠のてのひらにそっと乗せた。
「俺も、こうした機会はありがたいし……再び会えたご夫婦が、旅路でも連れ添っていれる方がいい」
「うん。……こんなにとびきりな出会いはないよね」
大切に預かりますと頷くふたりの所作に顔を綻ばせた――兄竜の方へ、『でもさ』と不意に縁珠が唇を尖らせた。
「縁は蕾ちゃん一目惚れだったんだから。君らのファンてやつだぞー」
「ふ、……はは、そうですよ。これからも楽しみな職人のお孫さん達と繋がれたことが、俺達は嬉しいんです」
どうか自分を卑下しないでと。それぞれに口にする言葉をどう受け取るべきか考えあぐねているのか、うろうろと視線を彷徨わせる兄竜の姿に『もう!』と頬っぺたをあかく染めた妹竜がその背をばしんと大きく叩く。
「ごめんね。お兄ちゃん、いっつもこうなの。わたしが褒めたって少しも受け取ってくれないんだから!」
「んーん。でも、またおひろめに立ち会えそうな時は君ら目的で来るかんね」
だから。もし良ければ、次は貴方たちを呼べる名をくれないか、と。願えば、顔を見合わせたきょうだいたちはたった今思い出したかのようにふ、と吐息を溢して笑い合った。
「僕はインベル。『雨宿り』のインベルだよ」
「わたしはアウラ。『そよ風』のアウラよ」
彼らの名は体をあらわすもの。その魂の音ごと受け取って、和奏と縁珠はこの天幕に隠れたままでいて、と言い含めてから立ち上がる。
「……守ってくれ、なんて。都合のいいことを口にしてしまう僕たちを、どうか許して」
「謝ることなんて何ひとつ。……適材適所、だよね? 縁さん」
ぱちりと片目を瞑ってみせる和奏に応え、縁珠はわざとくるくると一芸を披露するかのように銃をてのひらの中で踊らせて。ばきゅん、と狙いを定めてみせる姿にふたりが笑ってくれるから――立ち向かう理由なんてただそれだけでいい。
「もちろん。これ以上、勝手な解釈で未来を奪わせないよう……撃ち砕いてやろ」
幸も不幸も当人達の選択を無視し、勝手に決めるおんなの思惑など完膚なきまでに打ち砕こう。歩み始めたふたりの背中を、竜のきょうだいたちは確かな信頼を乗せて祈りながら何時までも見送っていた。
●血の隔絶
「結局、自己陶酔ってやつ」
善し悪しはさて置き、自分からぶつかってくるなら砕くのみ。随分頼もしい縁珠の言葉に是を乗せて、和奏もまたおんなの行手を阻むように抜き放った霊刀に雷を纏わせながら低く身を構えた。
「救済を、相手が望まぬ形で声高に説く手合いにろくなものはいた試しないですよ」
「……恐れるも拒むも、一過性のものに過ぎません。一時の|死《試練》に惑わされ、皆様は戸惑っているだけ……それが何故分からないのです! 何故、どうしてッ……愚かなる人間は永遠を理解しないのです、何故ッ!!」
それはおんなの癇癪だったのか、それとも心からの悲嘆だったのか。
打ち振るわれる棘の|鞭《ベルト》の鋭さを遮るは縁珠がおんなの周囲に着弾させたみどりの萌芽。芽吹いた宿り木はおんなの行手を、縦横無尽に放たれる鞭を阻んで絡め取る。絡み付いた自らの棘でがくんと体制を崩した隙を和奏は決して見逃すことはない。
「俺達の意思は変わらない。目の前に生きる彼らを見ないあなたなど通せないと、言ってます」
「矮小なる、人間風情が、ッ……どうして、わたくしを――真竜様の願いを……!」
誰がおんなにそう告げたのか。
おんなの奪ってきたいのちの誰かひとりでも、それを望んだと言うのか。
違う。
彼女の祈りはなにもかたちを成してはいない。おんなはただいたずらにいのちを弄び、それを救済だと信じて疑わなかっただけだ。その身に余り有る因果と報いは収束し、やがては朽ち果てて無に帰すのみ。これほどまでに無益な殺戮の数々を決して許すことなど出来はしない。誰もが皆恐怖の内に嬲り殺されたのだと云うことを和奏も縁珠も分かっているから、迷わない。
稲ちゃん、と。静かに呼び掛ける声に応じ、ひかりが破裂するかのように紫電の一閃が迸る。悪しき棘ごと断ち落とした和奏の刃に袈裟懸けにされたおんなの躰がぐらりと揺らぐ。
「その情熱は大したもんだけど……得た報いは、その身で確り受け止めな」
和奏を巻き込まぬよう、狙撃銃に持ち替えた縁珠の照準が遂におんなを捉える。
――撃ち放たれた翠緑の種子が、おんなの胸を確かに貫いた。
●そらをのぞむうた
救いや祈りはきっと生きていく苦しみと向き合うためのもの。
それなのに、苦しみを与えるための理由にしてしまうなんて――そんなの、おかしいよ。
「お姉さんの救いは最初から苦しみのためにあるの?」
無垢な瞳に問いを乗せて、花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)は悲しげに眉を下げる。
信じるもののためにいのちを懸けることなんて誰にでもできることじゃない。彼女のいのりだって、はじめから誰かのいのちを犠牲にして成り立つものではなかったのかもしれない。
「お姉さんは独りでがんばりすぎたんじゃないかな」
誰かが『一緒にがんばろう』って手を差し伸べてくれていたら。
もしも、もしも。
そうして存在しない|過去《if》を口にする少女の真っ直ぐな想いを、おんなは真正面から否定する。
「お優しいこと。ですが――それは散っていった同胞たち、そして『貴方様がたが|殺した《奪った》』ドラゴンプロトコルの皆様への侮辱です!」
己がちからを失ったのは。
折角接木した躰を奪ったのは他でもない能力者たちである、と。
血走らせた目がまほろを捉え、撓らせた棘の鞭が引き裂かんとするのを止める絶句の刃があった。
「黙れ。お前に問答なんか期待しちゃいねえよ」
不快だ。おんながこれまでしてきた所業も、今まさに少女のひたむきな想いを踏み躙ったその行為も、何もかも。切り捨てた棘を打ち捨て、絹更月・識(弐月・h07541)は冷えた視線をおんなへ向ける。
「そうだな……死はひとつのおわりだ。その続きなんて本当はない筈なのにな」
救済に救済を求めているようでは世話がないし、それこそ本末転倒だ。
いのちの理を捻じ曲げてまで成したいものなど。他者を礎にして成したものなど所詮自分本位の傲慢に過ぎない。
|なんて、僕には皮肉なはなし《人の命を自分が語るなんざ》だ。
「識くんっ、助けてくれてありがとう! ……識くん?」
「なんでもねぇよ」
こんなおんなに自分もまほろも、竜たちのいのちもくれてやる義理はない。
ことりと首を傾げるまほろに大きなこころの傷を負った様子が見られないことに僅か安堵の息を吐く。
「まほろ、目ぇ回ってんのはもう少し平気か」
「大丈夫、まだまだいけるよ!」
疲れていないわけではない。それでも、自分を守りながら戦ってくれている識のほうがずっとずっと大変だから。だからこんなの大丈夫だと力強く頷いて見せれば、ふ、と微かに識の纏う空気が和らいだ気が、した。
「そ、じゃあ期待してる――いくぞ」
持ち替えた墨染めの刃の鋒を真っ直ぐにおんなへと向け、識はひといきにその距離を詰めて切り掛かる。真正面から斬り合うことは得手として居らずとも、嘗てのちからの殆どを失い動きを鈍らせたおんなと相対することはそう困難なことではない――それに。
「鳥さんたち、一緒に歌おう! 誰も、誰も傷付かないように!」
すこしだけ調子っぱずれの愛らしい歌声が、この背を押してくれるから。
噛み合わない宗教のあり方を語り合ってやる義理もないのだと、腱を狙った執拗な斬撃がおんなを少しずつ追い詰めていく。
「……僕にとっていのちとは記憶だ」
失われればそこには何も残らない。
撚り合わせて無理矢理に結び付け続けたお前と分かり合える筈もない。
「今目の前にいる人が笑えなくちゃ、救いなんて意味がないよ」
あなたが忘れてしまった意味を。祈りの始まりを、思い出せますようにと、まほろは歌う。歌い続ける。
「途方もない全しかないお前との話はここで終わりだよ」
巡るめく死の最果てとやらに――願わくば、少女の祈りが届かんことを。
「あぁ、ぐ……あ……!」
闇が跳ねる。宵が刎ねる。
棘を手繰るおんなの左手首が、ばつん、と音を立てて断ち切られた。
●トワイライト・シンドローム
膠のように凝った黒い血を躰中から溢れさせながら、おんなは尚も竜たちとひとつになることを諦めない。
「前にお会いしたときから、なんにも変わっていないんですね」
夢をもつことや一途なことは、等しく尊くすてきなことだと廻里・りり(綴・h01760)は思っていた。それなのに――彼女の想いは何処までも利己的で、周りの意思などお構いなし。いたずらにいのちを弄び、不幸に巻き込んでいくばかり。
「はあ、……は、はは……はッ、……ええ、変わる筈がありません。変わろう筈が、翳る筈がありません! わたくしどもの願いは、祈りはただひとつ――真竜様の輝かしい再起、再誕――、ぐ、ッ」
ごぼり。
血の泡を吐きながら、嗤いとも喘鳴とも取れる声を上げておんなは両手を掲げて天を仰ぐ。
まるで葬列にでも立っているようだわ、なんて。りりを背に庇うように立ったベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)はばらいろの双眸を眇めながらその様を見据えていた。
「お前は譲れない願いのために、救済のために奪うのでしょう?」
決して相容れることはない。それならば、自分たちが立ちはだかり続けることは当然のこと。
「ワタシたちは、お前を許さないことを譲らないもの」
「叶えさせるわけにはいきません。……そのひとたちが望んでいないのなら、なおさら」
幕引きだ。
ぱちん、とてのひらを鳴らしてベルナデッタはひかりの陣を描き出す。
あかく、あかく――薔薇の軌跡を描きながら繰り出されるは、穿つものの『恐怖』を浮き彫にする無数の滑腔式歩兵銃。すべての撃鉄が打ち鳴らすは、断頭台の合図であったのか。
「さあ、見せて。お前の恐怖。……ワタシから贈るのは痛みの一撃よ」
火花が爆ぜる。焔が燃える。
撃ち抜かれた心臓ごと、どうか捧げて。
「あ……、ぁ……あぁあ、――――!」
おんなのくぐもった絶叫が響き渡る。
それは、ああ、自らの祈りが成就しなかった未来そのものだ。
「……なるほど。そこまで、夢が潰えることだけを恐れるの」
自分自身さえ省みず。永遠に真竜たちが救われない、ただそれだけを恐れている。
「おそれることは、自分の死ではない……すごいですね、折れないこころ」
それだけおんなにとって真竜の再来は大切な、叶えたい『ただひとつの願い』に他ならない。
なんてひたむきで、強くて、おそろしいのだろう。
「形が違ったら、ワタシ案外あなたのこと嫌いじゃないのかもしれないのだけど」
「でもやっぱり、ひとのいのちを奪うなんてしていいはずはないんです」
「まあ。ふふ、りり。冗談よ」
こんな手合いに対して真面目に考えてはダメ。
どうしたって折れることはない。それなら矢張り、自分たちは彼女の敵でしかないのだからと。ふわりとスカートを翻したベルナデッタを前に、りりはぎゅっと胸の前で手を組んで――せめてもと。未だ恐怖に頭を掻き毟って錯乱するおんなへそっと、黄昏を閉じ込めたキャンディ・ポットを掲げて見せた。
「わたしからは、あまい夢をあげましょう」
夢を描くあなたには、もしかしたらぴったりかもしれません。
あぶくが割れたように溢れた黄昏の雫が弾け、いばらの棘となっておんなを包む。流れ落ちた血の温度さえ分からぬまま、おんなを醒めぬゆめのなかへと連れ去っていく。
おやすみなさい。どうか、よいゆめを。
夢はうたかた。あなたは、それに気付かぬまま。
空っぽになった硝子瓶を抱き締めたりりの背を、ベルナデッタはそっと支える。
――すべてが終わったあとには、黄昏のいろに輝くうつくしい薔薇のすがただけが残されていた。