シナリオ

⑧露命とメランコリック

#√汎神解剖機関 #秋葉原荒覇吐戦 #秋葉原荒覇吐戦⑧

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⚔️王劍戦争:秋葉原荒覇吐戦

これは1章構成の戦争シナリオです。シナリオ毎の「プレイングボーナス」を満たすと、判定が有利になります!
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(毎日16時更新)

 望んだとて望むものが手に入らない。
 望んでいなくても望まぬものが手に入ってしまう。

 ――果たして、この|体質《災厄》はどちらなのだろう。

 望んだ末に手に入れたのか。或いは望まない運命を押付けられたものなのか。
「今となっては、関係ないですね。結果がすべてなんですから……」
 頬撫でる異国の風は冷たい。呟き漏れた声には僅かな寂しさが混じっている。
 身に宿った力は己を孤独の身へと追いやった。
 薔薇が近寄るものを茨で傷付けるように、この身は傍に在る存在を死へと誘う。
 死という甘い蜜毒をはね除けるられる例外が存在するとすれば、自分が好意を抱いた相手だ。

(願っているのでしょうか――、死の衝動を撥ねのけるくらい強い意思を持った人を……)

 わからない。
 だって災厄の自分に手を伸ばせるのは、死神の誘いを振り払った強い人だけだから。
 好きになったから死を乗り越えるのか。強い人だから好きになるのか。
 きっと、それは神様でもなければわからない。
 ビル風に場違いに明るい金色の髪が揺らぐ。仰ぎみる晴天は変わらない美しい群青色を浮かべていた。


「見た目は普通の人間に見えるんだけど、人間災厄ってのは恐ろしい存在なんだって改めて思ったよ」
 星詠みの水縹・雷火は金色の双眸を細めて憂鬱そうに溜息を吐き出した。
 ――封印指定人間災厄『リンゼイ・ガーランド』。
 その身は近付く存在に等しく甘い死をもたらす蜜毒。
 リンゼイ自身もその能力を制御できない為封印指定を受けているが、王劍戦争の全勢力の妨害任務のために戦争に投入された。
 勿論、周囲には無関係の民間人だっているだろう。このまま放置していれば彼らに被害が及ぶ可能性だって極めて高いのに。
「自分達さえよければいいってことかよ。本当に気に入らない! 腐ってやがるよな」
 虐殺にも等しい行為。同じ人間だというのになんたる悪辣だろうか。
 災厄の力は自死に導くためあらゆる手段を取ってくる。
「俺が視たのは自殺。特に精神干渉してくる攻撃の様子が見えた」
 人によって死にたくなる動機は変化してくるだろう。
 過去の幻影。トラウマ。目を背けたい事実。過ち。
 各個人に一番有効な『死にたくなる幻影』を見せてくる。
「自分の人生を勝手に他人に終わらせられてたまるかって話だよな。なんにせよ、どんなものを見せられても乗り越える強い意思を見せればリンゼイの心を打つことができると思う!」
 雷火は強く告げて改めて√能力者達を真っ直ぐに見つめる。

「負けるなよ! お前らの強さを見せてこい!」

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第1章 ボス戦 『人間災厄『リンゼイ・ガーランド』』


リウィア・ポータル


 何処までも深い夜の気配。限りなく黒に近い宵の空に月のような柔らかな銀糸の髪が哀しげに揺れた。
『――もう』
 リウィア・ポータル(無明の祝福・h08012)の鼓膜をくすぐるのは愛おしい兄の声。
 抱き締める兄の腕はいつものように優しく包み込んでくれるけれど、今宵は何故だかいつもよりも強ばっているような気がした。
 月の見えない美しい夜。吹き付けるのは秋の風。永遠にも思えるこの|瞬間《とき》に微睡みながらもリウィアはふと疑問に思う。
(……あら? 私は何をしていたかしら?)
 愛おしい兄に抱かれる多幸感。微睡むような安堵感。なのに直前のことが思い出せず少々の不安感を抱く。
 疑問を脳裏に廻らせるリウィアを横に兄が続けて言葉を紡ぐ。
『もう私は限界だ、死出の旅路に付き合ってくれないか』
 まさかの言葉にリウィアの双眸が僅かな驚きの色彩を浮かべるけれど、すぐに歓喜の色彩に移ろった。
「ええ、もちろん。喜んで!」
 リウィアの頬は熱を帯びたように薔薇色に染まり描かれるのは笑顔の表情。
 幼いころよりリウィアが微笑めば愛おしい兄達はいつも喜んでくれた。慈愛ととびきりの甘いご褒美をくれたのに。
「お兄様、殺してくださらないの? 命を捧ぐなら、あなたの手で――」
 己の言葉にも、眼前の兄はただ微笑むだけだ。それはいつものような微笑みに見えて、けれどリウィアも知らない表情だ。
 その奥にある感情を読み取ることができない。
 まるで――他人のようだった。他人が愛おしい兄の皮を被って目も当てられない猿芝居をしているような違和感。
(抑もお兄様、そんな言葉を仰る方かしら)
 だって、兄が自分から何かを奪うなんて決して起こらないから――|理想《妄想》なのに。
 そう、これは――|妄想《ゆめ》だ。
 自覚をした瞬間に夜が明けるように視界が晴れゆけば眼前に|元凶《リンゼイ》が居た。
「……ああ、そうそう! こんにちは、災厄さん。素敵な夢を見せてくださってありがとう!」
「あ、ありがとう……ですか?」
 リウィアの言葉にリンゼイは困惑したような表情を浮かべる。
 忌まれることはあったとて例を言われるような経験など殆どなかったのだろう。
「でもね、あなたにお帰り頂きたくて説得に来たわぁ――戦いは好きではないのぉ、どうか引いて頂けなぁい?」
 リンゼイは明らかに動揺した表情を浮かべた後、少し哀しげな表情を滲ませて零した。
「――貴女のように、振り払える強さがあればよかったです……」

鷲宮・イヴ


 生まれる世界や環境を選べずに生を受けるしかなくて天命に抗おうにも結局は世界という荒波に押し流される。
 望むままを得られないゆえに人生とは斯くも虚しく理不尽なものである。
(望んだわけでもないだろうに、厄介な能力持たされてんな)
 女性相手であれば己の得意とするところである。
 西側広場を颯爽と進む鷲宮・イヴ(人間爆弾のレインメーカー・h08968)はスパイジャケットを羽織り秋葉原ダイビルへと踏み入れた。
 ビル内を立ち入って早速リンゼイの姿を探せば運良くその姿を直ぐに見つけることができた。
「ねぇ――」
 そう、いつも通りでいいのだ。
 いつも通り軽薄な仮面を被り余裕ぶればいい――だが、直ぐに己が裡から溢れ出でる衝動にイヴは呑まれることになる。
(なんだこれ……っ)
 喩えるならば汚泥だ。誰もが目を背け悪臭を放つ忌み嫌われる物体が心の裡から溢れ出でる。

 ――だが、それは、本当に汚泥なのだろうか。

 人々が真に忌み嫌うもの――それは、死臭ではないだろうか。
「は、……」
 気が付けばイヴは戦場に居た。先程まで居たはずの秋葉原の光景を丸ごと塗り替えたように眼前に拡がる世界は|√ウォーゾーン《故郷》の戦場。
 この世界では人の命は紙切れ一枚よりも軽い。戦乱という暴風に憐れに翻弄される落葉のように人知など及ばぬ理不尽が支配する――そんな、どうしようもない世界だ。
 それでも、イヴは諦めることなく生きてきた。生きて、生きて、生きて、生き抜いた。
 全ては大切な弟妹のため。彼らを守るためならば何だってするし、何だってしてきた。
 汚くても惨めでも何があろうとあの理不尽な世界で生きてゆくと心に決めていたのだ。
「ぁあ……」
 ゆえに、悪夢を見せられると聞いた時から突き付けられる光景はおおよそ予想がついていた。
 目の前で鮮血が拡がっている。死臭と硝煙の香りが理不尽という砂塵とともに舞っている。
 戦闘機械群という圧倒的脅威に対して人類は斯くも無力だ。暴雨のような銃弾に打ち付けられた肉体は一人また一人と倒れていく。
 そうして気付けばひとりぼっち。最期のひとり。人間は守るために強くなれるというならば、生きる意味を他者に定めたというならば――ああ、もう生きている意味などない。
 イヴは自嘲をひとつ浮かべて、躊躇なく足に仕込んだ自爆用爆弾を起動した。

「……って痛ってえ!」

 強烈な痛みが朦朧とした意識に輪郭をもたらす。次第に鷲宮・イヴとしての人格が、現実感が、色彩を伴って戻ってくる。
(は、そうだった――ははっ……念のための備えが役に立つとはなぁ)
 自死の波に呑まれそうになった時の備えに念のため火薬の量を調節していた。
 このような事態は本来なかったほうがいいのだけれど、この時ばかりは助かった。
「え……あなた、いま、自分で自分を……?」
 眼前のリンゼイが愕然とした表情を浮かべている。
 リンゼイは一部始終を見ていた。幻惑に沈むイヴの様子も、己の足を爆破した様子も。
「はは、驚いたか。リンゼイちゃん?」
 甘く微笑みながらも双眸には挑発するような強い光を宿したイヴ。
 まるで姫をエスコートするように柔らかなリンゼイの手を取り囁きかける。
「√能力者は死んだって蘇るけど、生き汚いやつもいるんだよ!」
 強く叫び放つとイヴは至近距離で能力を発動した。足は既に爆破したから次は腕だ。この手を取ったまま一緒に爆破してやろう。
「リンゼイちゃんの腕も、お揃いにしてくれな?」
 破裂音が轟く。嗅ぎ慣れた火薬の匂いに続いて響いたリンゼイの声は悲鳴か、それとも――。

堀・允人


 燻らせるならばとびきり甘い夢が良い。
 夢を見られること自体がさいわいだと云うなれど、悪しき夢は身を蝕むだけだ。
 ゴミみたいな安煙草のように酷い味がするならば吸わない方がよっぽど良いように、夢は夢であるからこそ良いのだ。
 堀・允人(魂剥ギ・h07457)は打ち捨てられた塵のように汚い路地に座り込んで曇天を見上げる。
 |社長《ボス》から愛想を尽かされた。故に現在の扱いは捨て駒そのものだ――だが、廃棄品の行く末は処分場。
 まだ処分されないだけ感謝をしないといけないのかもしれない。暴力に沈んだとて、捨て駒は捨て駒なりの|利用価値《使い道》がある。
「――あぁ、冷たいな」
 雨が降っていた。鈍色の曇天から降り注ぐ貫く様な冷酷な雨。
 否、冷酷な雨は顔のない人々からの侮蔑の視線と悪意だろうか。
 顔は思い出せないのに心に染みついた汚泥のように異質な男を排除するようなあの視線達は忘れることなどできなかった。
 |人間《ひと》ではありえない。だけれど、せめて人間でいられるように親は願っていた。
「ちゃんと教えたのに!」
 脳裏を劈くのは母の嘆き。続いて襲い来るのは「お前のせいで」と恨みを零す債務者の怨霊の群れ。

 人間は最期の|瞬間《とき》に此れまで歩んできた人生の総決算をさせられるのだと誰かがほざいていた。
 善いものは生者に嘆き縋られ天国へと召し上げられる。
 悪しきものは侮蔑と怨嗟のもとに呪われて地獄へ落ちる。
 だから善い行いをして生きましょう。天国へ行きましょう。善い人間でありましょう。
 母に大人に教師に社会に諭されども理解できなかった。

 死。すべての生命が行き着く帰結。
 允人は細い瞳を更に細めて心底不思議そうな表情をみせる。
(――そんな願いは、ない)
 希死念慮を抱くのは心に何らかの不和を持った人間ではないだろうか。
 不和――即ち自責や後悔、怨嗟や慟哭。
「なぜなら、良心がないから」
 ゆえにこの幻想は極めて粗悪な悪夢のなり損ないなのだと断じることが出来た。
 己が幻影に沈んでいたことを自覚した瞬間、允人の視界は一気に雲が晴れるように開けてゆく。
 眼前には金色の髪を揺らした女がいる――間違いない。あの女が粗悪な悪夢をもたらした張本人だろう。
 この借りはとびきりの利息をつけてお返ししなければならない。
「ご機嫌よう、|お嬢さん《レディ》」
 紫眸を涼やかに細めて一見柔らかな微笑を浮かべる。
 だが紫眸は笑っていなかった。冷酷な光を宿したままに歪な斧を振りかぶる。
「――自殺はね、するよりさせる側なんです。私」

和紋・蜚廉


 霜月。木枯らし吹き荒ぶ秋葉原にて戦場へと向かう和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)は星詠みの言葉を回想していた。
「――死に誘う幻影、か。精神干渉など、生半の衝動では揺らがん」
 死の誘いも、死の危機も幾星霜の|時候《とき》を重ねて何度も乗り越えてきたのだ。
 地を這い、時を超えて、幾度の掃討に屈しなかったからこそ|現在《いま》がある。
 今更生半可に死に歩み寄られようとも俊足で逃げ切ってみせる――そう、思っていた。
「だが……」
 秋葉原ダイビルに立ち入った蜚廉は立ち止まる。このビルには今まで感じたこともない濃厚な死の気配が漂っていた。
 探るように慎重に周囲を見渡せばより一層濃い死の気配の先に場違いな程に明るい金髪を見つける。
 金髪が揺らぐ。女が蜚廉に気付いて視線を此方側へと向けてきた刹那――甘い死の香りを漂わせた希死念慮が蜚廉を奈落の底に引き摺るようにして意識が遠ざかる。
 堕ちた先にあるのは一寸の光も射し込まぬ暗闇であった。昏冥。奈落。
 気を抜けば自分の存在すらもこの昏冥の中に解けて消えそうな、敢然たる闇の中だった。
 何も見えぬし聞こえない。感じることもできねば終わりも見えない。蜚廉が如何様にしようか思考を巡らせていたその時――背後から柔らかな声が蜚廉の名を呼んだ。
 一切の感覚もないはずの暗闇の中で、何故かその影は蜚廉に追いすがるように纏わり付いてきたことを感じる。
 そして、蜚廉の手を取ろうとした刹那、胸が鈍く痛んだ。

 其れは、傍にいてほしいと思った誰かの姿を模した幻。
 そしてそのものが虚無の淵へと沈む、蜚廉が最も恐れる未来――"自分のせいで、大切な者が死ぬ"という結末を突き付けてくる。
 死は厄介な隣人として直ぐ傍にあった。甘い終焉へと手招くそれを幾度となく蜚廉は振り解いてきた。

「……だが、汝はそんなに脆くはない」
 握った拳が震えを押し返す。
 ゆえに――これは|幻影《うそ》だと断じることができた。
「退け。偽物が"本物"の強さを騙るな」
 静かに息を整えて、前を見る。相も変わらず眼前には暗闇が視界を覆っていた。
 だが此処は奈落ではない。冥府でもない。現世である以上――結末などない闇はない。
 蜚廉は右手を前につきだして|幻影《偽り》を振り払う。

「乗り越えてみせる。こんな幻影ごときに負けるものか」

 蜚廉が望むのは死ではない。終焉ではない。
 ――生き残って、また隣で笑う姿だ。

静寂・恭兵
アダン・ベルゼビュート


 アダン・ベルゼビュート(魔焔の竜胆・h02258)の心には常に矜持の炎が燃えている。
 |物語《フィクション》に登場する|矜持ある悪役《ベルゼ》。その存在を受け継ぎ|主人格《Anker》を護る為に生まれたならば矜持の炎を翻し誇り高く生きることこそがアダンに課せられた使命だと思っていた。

 だが、現実はどうだ?
 炎は風に煽られて容易く揺れる。心に宿っていたはずの矜持の炎は今にも消えかけている。
「相棒、此処にも来ていたのか」
 見知った後ろ姿にアダンは声を掛ける。別々のタイミングで戦場に乗り込むことになってしまった為上手く合流できるが不安だったのだが案外彼の姿を早く見つけられてよかった。
 こうしていつも通り振り返ってくれる――そう思っていたのに、相棒はその場に崩れ落ちた。傷だらけの身体から溢れ、生まれる血溜り。
「其の中心には──見たくない、止めろ、見せるな 相棒が絶対の死を──ちが、う、ちがう……!」
 これは|悪夢《うそ》だ。心が揺らがぬと言ったら嘘になる。
 されど、『生きる理由』になると言った。
 己が信じられずとも、あの言葉を信じろ、泣き出したくも前を向け!
「壊れ掛けの心を焼き尽くせ!」
 凛と言い放ち、炎で悪夢を焼き払った。


 静寂・恭兵(花守り・h00274)の心には常に花が咲いている。
 儚げに風に揺らぐ白椿。凛と誇らしく咲きながらも容易に絶やされてしまいそうな竜胆。
 花は心の癒しであり、寄る辺である。容易く手折られてしまう花ゆえ心に花守りの誓いを立てた。

 ――だが、何だこの惨状は。

 眼前で竜胆が倒れている。身から生命の紅色を零し床に染みを零している。
「なぁ……」
 呼び掛ける。いつも相棒と信頼を込めて向けてきてくれた灰燼の双眸も、月灯りでいつもより白く見えた寝顔も脳裏に甦る。
 悪夢を前にして心を病み今にも萎れそうな花を前に誓ったのだ。
 ――俺が守るよ、絶対に。
 誰が何と言おうとお前は『俺の花』なのだと。
 手折らせてたまるものかと想いを強く固めたのに、なんだ。なんなのだ。この惨状は。
 しゃがみ込み花の手を取る。硬く、冷たくなっていく掌。
(|悪夢《死》を見せられたお前の気持ちが、漸く少しだけ理解ができた気がする)
 理解できたところでもう全てが手遅れだ。悲嘆に暮れる脳裏にカシャリと何かが壊れる音がした。
「あ、あ……」
 其れが何かはすぐに察した。けれど、脳が理解を拒む。
 だが、哀しいことに其れを嘘だと断じ目を背けられるほど恭兵は愚鈍ではなかった。
 それは、|生きる意味《Anker》が音を立てて壊れる音だった。
 ――かつて、静寂・恭兵の心には、常に花が咲いていた。
 花は心の癒しであって、寄る辺であり、生きる意味であった。花を手折られ喪ったならばこの心には何が遺るのだろう。
 手折られる花の哀しきことよ。
 花を容易く手折られて何が花守りだ。本当に笑わせる。
「……ぐ、ぅ……」
 己のうめき声がみっともなく響く。曼荼羅を抜き首筋に当たる。それでも、恭兵の意思は生きることを願い、今にも掻き切ろうとする手を必死に留めていた。
 だが、それよりも強烈な希死念慮が無理矢理死の奈落へと恭兵を突き落とす。
「――ああ、もう」
 駄目だ。そう思った時、誰かの手が恭兵の手を掴んだ。そして、そのまま乱暴に振り回すと曼荼羅を叩き落とした。
 瞬間――まるで曇天が晴れるかのように恭兵の視界が開ける。眼前にはアダンが存在が在った。
 恭兵が正気を取り戻したことを確認したアダンは先程はじき飛ばした曼荼羅を拾い上げ戻ってくる。
「俺様がお前の花であるように、お前も俺様の花だ。俺様はお前の為に咲く――だから、俺様の為にお前も傍で咲け。決して枯れるな。折れるな――斯く様なことは俺様が赦さぬ」
 アダンは拾い上げた曼荼羅を恭兵へと突き出すように差し出した。
 恭兵は迷わず力強く曼荼羅を握り締めて受け取る。
「ああ――花の元へ、俺は帰る」
 花守りの刀は決して折れず、花守りの矜持の炎もまた尽きることはない。

水藍・徨


 金月の双眸が無感情に霜月の寒風の中で揺らいでいた。
 眼前には己の金月と似た色彩の場違いに明るい金髪が秋風に揺らいでいる。
 何処か物憂げで寂しげな表情が何処か印象的で水藍・徨(夢現の境界・h01327)はまるで他人事のように見つめていた。
(同じ人間災厄でも、あんな顔……するんだね)
 否、できると表現した方がよいのだろうか。よく理解できない。戦場においてあの表情は適切なものなのだろうか。
 徨には其れを判断するための材料となる経験も、基準となる感情も持ち合わせていなかった。
(……わからない。感情のことが――だから、そう、簡単に自殺衝動をおこすことはない、と思いたいけど……)
 徨にはわからないことが多い。されど、この世界に絶対なんてものがないことだけは理解していた。
 特に相手は己と同じ人間災厄だ。そう都合よくも行かないのだと、古びた自由帳を抱く腕に力をこめたその時、ずきりと脈打つような胸の痛みが徨を襲った。

 眼前にある光景を、理解はできなかった。
 記憶にはない光景。不思議な光景。ただ、何故か4人の子ども達と仲良く遊んでいた姿が見えた。
 まるで見たこともない物語なのに何故か結末を知っているような不思議な感覚で|光景《シーン》は進んでいく。
 次は、確か、2人1組で実験が行われたんだ。それで、それからどうなったんだっけ。
 脳裏に言葉が浮かぶ。されど、次のページを捲るなと己の中の何かが叫んでいた。
 仲良く遊んでいた子どもたち。――僕のせいで、死んだ……?

「どうして助けてくれなかったの?」
「あんたのせいで!」
「お前のせいだ!」
「ねぇ、そうでしょう? █け█、██し」

 責め立てるような幼い声。徨は愕然と立ち尽くすことしかできなかった。
 動けぬ徨に襲い掛かるように、影が徨へと躙り寄る。
(な、んで……)
 わからない。理解できない。何故、何故。理解できないのに、何故か死ななければならないと思った。
 強い希死の衝動は徨の熱を持たぬ感情に激しい炎を燃え上がらせた。
 まるで解けた靴紐を結び直すように、自死をごく当たり前にしなければならないこととして、自死を選ぶ。
 死ぬために必要な道具だって――ほら、手元にあるじゃないか。
 万年筆を己の喉に突き刺そうとしたその時、誰かの声が聞こえた。思い出す。自分を管理していた機関の人の言葉だ。

 僕に感情は必要ない。
 僕の世界を害するものも必要ない。
 僕の理想の世界に必要なもの以外は、消さなければいけない。

「――目の前の人は必要ない存在。だから消す。消さないといけない」

 僕の理想の世界は哀しみもないただ優しく美しい世界であればいい。
 それを害す存在など、認めてはならない。
 徨が手にした|Φαντασία《幻想の万年筆》からはどろりと無月の夜にも似た暗冥の漆黒をした|洋墨《インク》が垂れる。
「あなたは必要ありません。僕の世界を害するから、消えてください」
 放つ徨の声に一切の温度はなかった。あるのはただ冷たい殺意。
 流れるような動作で万年筆を振るえば殺意を込めた|洋墨《インク》がリンゼイ目掛けて飛び散り、肌に染みこむ。
「……ぁ、」
 リンゼイが小さく声をあげた。徨が放つのは|Διχοστασία《不和》の力。対象の|存在《物語》に介入し、悪戯に掻き乱す。
 これでいい。このまま力を振るえ。もう迷わない。否、迷う必要もない。死にたくなったとしても、其れを殺意に変えてしまえばいい。
 描け、理想の世界を。要らないものは塗りつぶして消してしまえ。
 そうすることで初めて――僕の理想の世界が完成するのだから。

四之宮・榴


 暗幕で視界が遮られたかのような昏冥に灯りがひとつともった。
 されど、それは夜に終わりを告げる曙光や孤独な夜を慰める月灯りのような暖かな光なんかでは決してない。
 其れは暗闇にまるで映画を映し出すような幻惑を映し出す燈火だ。
 逃げ場のない暗闇で四之宮・榴(虚ろな繭〈|Frei Kokon《ファリィ ココーン》〉・h01965)の半生という映画が勝手に上映をはじめた。

(……嗚呼、見たくない、見せないで……)

 其れがどのようなものになるのか榴は理解していた。
 映画というのは娯楽だ。現実では味わえぬ|虚実《ストーリー》を愉しむ|存在《もの》。
 だが例えば、其れが|現実《ノンフィクション》であったのならどうだろう。

 ――人生なんて、ままならない。

 ある意味理不尽にも似たその感情は誰しも一度は抱いた
 世界というのはひとつの|舞台《ステージ》。歴史という|脚本《ストーリー》の中では誰かが主人公になることもない。
 様々な|役柄《人生》が折り重なるように絡み合って大きな群像劇を描く。
 主人公でない以上、誰しもが何処かでままならない気持ちを抱えている。その事柄に程度の違いがあれど理不尽を受け入れて|生き《演じ》なければならないのが人生。
 だからといって、役柄に不満や嘆きを抱くなというのは無理な相談である。
 榴に与えられた|人生《脚本》は群を抜いて理不尽なものであったと想う。
 抱いた想いは簡単に捨てられて、踏み躙られた。理不尽を嘆いても差し伸べられる救いの手もなくて、代わりに寄越されたのは甘い死神の手だ。
 死は榴と常に共に在った。いつだって隣人のように寄り添うように見せかけて、嘲笑うように纏わり付かれていた。

 ――いつか、榴の心が折れて絶望の名のもとに己に身を任せるその日を希うかのように。

 結果から言えば死の目論みは笑ってしまうくらいの大成功だった。
 想いは|裏切ら《振ら》れて常に傍らにいる希死念慮に身を任せた。
「……もう人を……誰も、信じられない……と、思った、のです」
 このまま永遠の暗闇に閉ざされる。自分がそう望んだからそれでいい。
 世界を拒絶して昏冥へと沈む榴の手を掴むものがいた――その人は怒って叱り掴んだ手を絶対に離さなかった。
 そうして、伝えてくれたのだ。
 一緒に、共に、歩んでくれるのだと。
 真摯なその声を、信じてみたくなったのだ。
「|相棒《半身》は、僕の自死を嫌うから……だから、希死念慮の塊死にたがりの僕が……生きていられるのは、彼の……お陰です」
 ゆえに。
「……|約束《・・》したから……簡単には、死ねません」
 榴の金色の双眸に強い光が宿る。それは、彼が|見せて《与えて》くれた|希望《ひかり》であり|道標《愛》だ。
 リンゼイは榴の光に気圧されるように瞳を揺らした。
「どうして、あなたは……立っていられるんですか……?」
「……知らない、ん、ですか……?」
 ともすれば風に攫われそうなか弱い榴の声。されど、籠もる意思は力強くしっかりと大地に足を踏みしめていた。
 一歩、二歩、三歩。噎せ返る程に濃い死の気配の中でも榴は臆することなく足を進めて、その口元に僅かな微笑みを浮かべた。
 まるで、勝利を確信したかのような力強く自信に満ちた
「……恋する乙女は……強いん、ですよ? ……あなたも、一緒でしょう……? その、覚悟、見せて……ください……」
 |相棒《半身》が与えてくれた光で今度は他の誰かに纏わり付く死の気配を振り払うことができるのならば――。
(……傷付けたいわけではな、い、けど――貴女様には、真剣に向き合いたい……から……)
 口ずさむ古き歌は記憶の中の哀しみと共に燦然と輝く星空を魅せる。
 レギオンが榴の|願望《ねがい》と神経毒をのせて流星のようにリンゼイの身許へと降り注いだ。

懐音・るい


 気怠い憂鬱を纏った陰雨が曇天から降り注ぐ。
 やけに重苦しい鈍色の世界。世界が彩度を喪って徐々に色褪せて意味を失って逝く。
 されど、色彩を喪った世界の中でも白い花だけは眩く見えた――否、白い花に埋もれている寝顔だけが色彩を保っていた。
 懐音・るい(明葬筺・h07383)は言葉もないまま黙ってその寝顔を見つめていた。
(…………)
 打ち付ける雨が涙のように頬を伝う。兄のように慕っていた人が死んだ。
 その死に顔は眠るような表情であるはずの傷は隠されていた。
 白い花に埋もれて眠るのは、自分に生きる意味を与えてくれたあの人。
 ただ、色彩を喪った世界で死に顔だけを見ている。もう何をする気も起きなかった。
 人は皆天命を背負って生きるというならば、生きる意味を与えてくれた人を喪失した世界に何の意味があるのだろう。
 しゅるりと静かな音を立ててるいの首に運命の糸が巻き付く。
 強く強く強く締め付けて早く終わらせなければ――この生を。
 この運命の糸ならば己の柔らかな首などいとも容易く縊ることができるだろう。
 何を躊躇う必要がある。この世界には生きている意味なんて何処にもないだろう?
 死神の甘い声が囁く。仄甘く優しい死の淵へ導く声のまま縊ろうとした時だった。

「――いきろよ」

 懐かしい声がした。
 物理的な効力など何も持たぬただの|空気の振動《こえ》。
(ああ、これは施設に収容された頃――生きる意味を見いだせなかったあの頃に、彼がかけてくれた言葉だ)
 あの日も今日のように世界は色彩を喪っていた。でも、短くて素っ気ない――けれど、強い意思がこもった言葉がるいの世界に光を灯したのだ。

「そうだよね。こんな所で死んでなんていられない」
 るいは金鋏を力強く握り締めて己の首に突き立てる。るい自身の生命を刈り取るかと思われた鋏は巻き付いていた運命の糸を断ち切った。
「目的を果たすその時まで、最後を迎えたその後に彼に叱られる様な死に方なんて絶対にできない」
 瞬間、世界は彩りを取り戻す。曇天が晴れるように、花が咲くように色彩を取り戻した世界の先に驚いたように双眸を開くリンゼイの姿があった。
 るいは真っ直ぐ決して視線を逸らすことなく甘い死の気配を漂わせた彼女の姿を見据える。
「キミの力と|私《運命改編》――どっちが強いか試してみようか」
 張り巡らせるのは|星願の誓い《ホシノイノリ》。死の運命への抵抗力を増幅する奇跡は周囲に漂う死の気配を和らげていった。

白・とわ


 望まぬ力、それが誰かを傷つけるものでございましたらどれだけ苦しまれたでしょう。
 傷つけられましたでしょう。
 世を絶望したでしょう。

 眼前に立つ金髪の女の表情にはおおよそ戦場に似つかわしくない憂いの色彩が込められている。
(ああ、なんだか少し似ていますでしょうか)
 白・とわ(白比丘尼・h02033)は罅割れた骨灰磁器の尾鰭を撫でる。
 これは己の呪いであり、祝いであり、罪の証だ。
「あなたさまの力と、とわの呪い、どちらが強うございますかしら、ね」
 つむぐとわの声は何処か詠うように、大海原のように襲い来る幻影を受け止める。

 濃紺の寂夜が拡がっている。
 罅割れた夜空から零れ落ちる月光は救いであったのか掬いであったのか。
 過ぎ去った時に戻れぬのならば今更考えたところで詮無きこと。
(ああ、やはり――)
 眼前に現れた人物の名を識っている。幻影を見せられるのであればきっと己の前に立ちふさがるのは彼だろうと確信めいた予感も抱いていた。

「慈海」

 とわの声が彼の名を紡ぐ。彼はとわの弟であった。
 然れど人であった頃は呼ぶことも赦されなかった名――今更になって呼ぶ機会があるなど何とも皮肉なのだろう。
 だが応える声はない。微笑みかけることもない。眼前にいるのに遙か彼方に感じる彼の首はぼとりと、まるで椿の花のように落ちる。
『全てはお前のせいだ』
 とわを責め立て呪う声がこだまする。海の底から響く声。海の神の怒りの声。
 何が間違っていたのだろうか。矮小な人間如きが大海を手にすると烏滸がましくも欲を抱いたことであろうか――否、全てだろうか。
(今となってはわかりませぬ。されど、とわさえおらねば誰も苦しまれなかったのでしょうか)
 とわは存在していただけであった。後世語り継がれる物語となるならば、心優しいどなた様かが哀れに想い涙のひとつでも零してくれただろうが。
 だが|道具《とわ》がなければ、悲劇は起こることもなかったのもまた事実だ。
 ならば――とわは盈月の如き双眸をゆっくりと開く。見据えるのは|現実《いま》だ。
 結局は深海に海の神などいなかった。水底に在ったのは今まで贄となった哀れな人々の怨念――即ち、人が作りだした|業《モノ》だ。
「何を恐れましょう。全てを飲み込んであげます」
 全てを海に還しましょう。己の存在ごと|悪樓《大波》は世界を呑み込んで進む。
「――忘れませぬ。あなた方の哀しみ、怒り。だから、ともに生きましょう」
 波が去ったあとには僅かな潮の気配が残留していた。

色城・ナツメ


 諦めてしまえば、其処にあるのは安寧だった。
「おにいちゃん、きょうはどんなお話がきけるのかな」
 弟が穏やかに微笑んだ。握る手は柔らかくて暖かな感触がして、心が安らぐ気持ちになる。
 現世からしたら異様な装飾がされた廊下を色城・ナツメ (頼と用の狭間の|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h00816)は歩いていた。
 宗教は遍くものに蜘蛛の糸を垂らして救いを差し伸べる存在である。
 弟という問題を抱え機能不全に陥っていた色城家も宗教という救いを得て今は安寧を得た。

(そうだ。最初から此れが正しい――)

 最初こそ異様さに怯えて弟を引き連れて逃げようとしたことはあったけれど、逃げなかったからこそ安寧がある。
 心は何処までも穏やかで静かだった。荒ぶる感情も沸き上がる激情もない。波立つこともない。
 ただ静かな大海のような心で弟に微笑みをかえしたところで、ナツメはふと違和感に気がついた。

(あ、あぁ……ん? 何で俺がこのような場所に居るんだ?)

 穏やかで満たされた気持ちだというのに痛む頭と浮かぶ心の焦燥が異変に気付けと訴えかけている。
 何か、大切なことを忘れている気がした。そもそも、こんなに穏やかな気持ちでいてよかったのだろうか。
「何も、解決してないじゃないか……」
 眼前に拡がるのは安寧だ。全てを諦めてしまえば弟が人の道を踏み越えることはなかった。
 人を喰らう怪異とはならなかった――ああ、これは逃げ出さなかった『もしも』の未来。
 弟が穏やかに微笑んでいる。諦めという強さを得て掴み取った安寧の中で人として微笑んでいる。
 ああ、これが。これが、本来あるべき姿だったのではないか――?
 己の愚鈍さと未熟さが本来こうして笑っていられた弟を怪異へと変貌させたのではないか。
 もしも、もしかしたら――斯く様な今更考えても詮無い喩噺が脳裏をぐるぐると駆け巡り吐き気を催す。
 何が正解かはわからない。現実はゲームとは違う。選択肢を誤っても二度と選択し直すことはできないのだ。

 気付けば退魔刀を首筋に添えていた。
 |早暁《はじまり》の名を持つ清らかな刀が|自死《おわり》へと誘う。
 戻れぬならば、償えるならば――せめての責任の取り方は命で贖うしかないのではないか。
 力が籠もる。首筋に血がすぅっと滲んだ。
 ああ、けれど――現実ってンのは、そう都合よくはできていないんだ。
「……んなわけねぇ、この程度で許されるわけがねぇんだよ……!!!」
 死ぬような痛み程度で赦されるなら、何度だって死んでやるさ。

架間・透空


 歌とはいつだって|希望《ゆめ》で在り続けた。光り輝く銀幕の世界で歌声を響かせるその姿は幼い少女の心に憧れという夢を与えた。
 夢をつかむ為には時間がかかる。努力だって必要だ。惜しみなく己の人生と青春を歌で捧げ続けた。
 そうして夢を掴むためのチケットを手にできた。
 憧れの夢へと至るオーディション。選考結果がどのようなものでも、架間・透空(|天駆翔姫《ハイぺリヨン》・h07138)は確実に夢へと一歩は近づけたはずだったのだ。

(――|絶望《ゆめ》が、消えてくれない)

 夢を掴むためのオーディション。だがそれは甘い罠であった。
 歌姫に憧れる極普通の女子中学生の運命を大きくねじ曲げて|悪夢《ゆめ》を与えた。
 悪の結社により怪人へと存在を歪ませられた透空は希望を謳い歓声を呼び起こし感動を与える存在ではなくなった。
 怪人と化した透空――ハイペリヨンがもたらしたのは悲鳴と恐怖だった。

(消えない、消えないんだ)

 耳を劈く犠牲者の断末魔。鉄錆臭い香り。
 操られるままに罪なき人々を虐殺してしまったこの手から赤い血液のあとが――消えない。
 言い訳なんてできない。あれは自分の意思ではなかったけれど、人を殺めたのは間違いなくこの手なのだから。

 ――お前が死ねばよかったのに!

 男とも女とも老若も解らぬ絶叫が透空の心を打つ。
 ああ、確かに自分が死んでしまっていたのならあの悲劇によって死ぬ人々は存在しなかったかもしれない。
 誰しも死にたくって死ぬ人なんかいない。
 かつての透空が歌と未来に夢を抱き希望を見いだしていたように透空が殺めてしまった人だって、きっと未来になんらかの夢を抱いていた。
 それら全てを奪い去り、踏み躙ったのは透空の手であり足である。
「それでも……」
 透空は確かめるように低く言う。鉄錆臭い香りが僅かに晴れる。|悪夢《ゆめ》から醒める時が近付いていることを確信する。
 否。それでもではない。
「だからこそ、私は生きなければならないんです!」
 強く言い放てば一気に霧が晴れる。眼前には死の気配漂うビルの中で場違いな程に明るい金髪を揺らす女がいた。
 悪夢は醒めた。迷いは晴れた。ならば、後はこの意思を貫き通すだけだ。
「この手で奪った命があるのなら。その重みを背負っていかないと――死んで楽になるなんて、それこそ冒涜でしかない」
 迷いなくリンゼイの姿を観察した透空は思いを込めて力の限りの雷を放った。

継歌・うつろ


 誰かがいう、力がほしいと。
 何かを護れる力を、壊せる力を、望むものを手にいれられるだけの力が欲しい。
 誰かが願う、こうあれたら。こうなりたいと。
 何かになれるだけの力を。貫き通せる強さを――力を天に希うのだろう。

「わたしは……リンゼイさんの、気持ち、全部じゃない、けれど、少しだけ、わかる気がする……」
 フリルレースが華奢にあしらわれた白薔薇のワンピースが風に踊った。
 人の形をした災厄。人を模した災禍。その身は世界を滅ぼすだけの
 ――|わたし達《人間災厄》って、そういうものだから。
「望むもの、望まないことままならない、よね」
「……あなたは、優しいんですね」
 己のことを理解しようとでもしているのだろうか。うつろの純粋な姿勢にリンゼイが寂しげに双眸を細める。
 それは悲哀の色彩が込められているようであって、まるで眩しいものを見つめるような瞳だった。
 望まざる災禍をその身に背負った哀れな存在。同じだというならば、同じだというからこそ夕焼けのような大きな瞳に強い光を
「わたしもね、こわいの。傷付けたくなくても、傷付けちゃう……災厄って、そういう存在。でも、今のわたしは……√EDENを守りたい、と思うから」
 うつろが一歩踏み出しても、リンゼイは退くことも迎え撃つこともしない。
 迎え撃つ必要も無い。己に近付いた存在が辿る末路は、おかしい程に理解しているから。
「でしたら……あなたの覚悟を見せてください……まずは|もっとも身近に在る存在《自分自身》を護れるか、どうか」
 リンゼイの寂しげな声が響いた瞬間、光景が変わる。
(あっ……、な、んで?)
 その光景には見覚えがあった。うつろが初めて『うた』で|一般人《ひと》を傷付けて人生をねじ曲げ取り返しの突かない状態にしてしまった日の光景。
 明るく無邪気で好奇心旺盛な優しい女の子。うつろの歌を聴きにきてくれたというのに、怯えたうつろは彼女をうたで傷付けた。
 彼女だけではない。かわるがわる沢山の人達がうつろを見つめてくる。

 ある者の瞳には大切な存在を傷付けられた憎悪の炎が宿っていた。
 ある者はうつろを圧倒的脅威としてとらえて恐怖に身を揺らしていた。
 脅威。隔意。無関心。侮蔑。
 視線が、想いが、責めるような声が、幻が、とまらない。やまない。

《見た目に騙されるな。あれは人間ではない。人間の格好をしたバケモノだ》
 男の声が鋭い声で響いた。
《しっ 見ちゃいけません。あなたもあの醜い音でこわされちゃうわよ》
 女の声が、我が子を制すように言い放った。
《いまはあの子は無害そうな振りをしているけれど、あれは根本的に人に害をなす存在なの》
 少女の声は、冷酷だった。
《あなたの性質は好ましいわ。けれど、所詮は|ヴァージン・スーサイズ《リンゼイ・ガーランド》とそう変わらないの。今は、少し制御できてもいつかまた暴走、制御不能になるかもしれない》
 そう言ったのは汎神解剖機関の研究者の声だろうか。研究者の影はシリンジシューターをうつろへと向けてくる。
《そんな『いつか』が起きる前に――処分しなくちゃいけないの。でも、わたしはあなたを『処分』したくはない。だから、どうか自分で――》
 研究者の女の声が哀しげに揺れてうつろに自死を迫る。
(――やっぱり、わたしは……誰かを傷つける事でしか、生きられないのかな……?)
 後悔が重くうつろを引き摺る。強まる希死念慮に縊られるように頬を伝うのは涙。
 寄り添う死霊がうつろの首に纏わり付く。そのまま消えることを選ぼうとしたその時だった。
 ――おかえり。
 誰かがうつろに優しく語りかける声が、聞こえた。
 ああ、これは大好きなあの人だ。
「そう、だよ……わたしは、帰るの。どんなに罪深くても、帰りたい場所があるの……!」
 ゆらゆらと立ち上がり、拡声器を口元にあてる。
「ふっ飛ばしてやるんだからァァァ!!!」
 拡声器が歌にも届かぬ歪な音の羅列を拾い上げ、一気に空気を、世界を、幻を揺るがし打ち払う。
 |声の砲撃《うた》は幻を撃ち抜いて現のリンゼイの鼓膜を激しく揺らす。
「また、ちゃんと顔、みれたね……リンゼイさん。ねぇ、ちゃんとおかおをみて、おはなしをしようよ」
 頭を抑えて痛みに耐えるリンゼイの姿を夕焼けの瞳でとらえてうつろは優しげな言葉を紡ぐ。
 もうリンゼイの希死念慮の力はうつろには通用しない。強い意思の光を宿した夕焼けの双眸を、リンゼイは見る。
「あなたは……」
 そろそろと俯きがちだった顔をあげて、リンゼイは何か言おうとした言葉を裡に仕舞い込む。
 されど折角掴めた会話の糸口を逃さぬようにうつろは言葉を続ける。
「わたしもね、こわいの。傷付けたくなくても、傷付けちゃう……災厄って、そういう存在」
 一度紡いだ言葉を再度繰り返す。大切なことだから、改めて話を聞いて欲しかった。
「でもね、わたしはこの世界を、まもりたいの……この、せかいが、好きだから……だから、まもりたいっておもえるの。あなたは、どうなのかな」
 あなたにも、きっとそういうものがあるはず。あると信じている。きっと、こころの力ってすごく強いんだから、そうしたら災厄の力にも負けないでいられる。
 うつろは脳裏に過ぎる大好きなひとの姿を思い描きながらそっと微笑んだ。

沢良宜・六曜
メルティアル・サングイネア


 人間災厄――其れはひとの形をした災厄であり、ひとの形を模した化物である。
 研究対象災厄『MT-416』。メルティアル・サングイネア(|蕩髄シネラリウム《ひとつになって》・h07722)と固体名が設定された"其れ"はまさしくひとの形をした災厄であり、ひとの形を模した化物だった。
「じぶんの"死"……? のうりょくしゃは死なないってきいた。だからメルルゥも死なないって。でも死ぬのは痛いから、メルルゥはいや。六曜も痛いのいやだよね」
 |化物《メルティアル》が何かを話している。脳がズキりと痛んだ。
 慢性的な睡眠不足のせいか――それとも心因性のものか。沢良宜・六曜(屍の使徒・h07721)は思案して直ぐに無駄なことだと切り捨てた。
「……六曜?」
「ああ、メルルゥ。すみません。話を聞いていませんでした」
「ん……そう。痛いのはいやだけど、おしごと、がんばろう」
 |災厄《メルティアル》が何かを話している。だが、今はまともに話すつもりはなかった。
 六曜が繰り返してみていた悪夢の中。
(――この場面を視るのは何度目だ?)
 噎せ返る程に濃い死の気配が何処か懐かしさを伴って漂っていた。
「は、はぁ……っ はぁっ……」
 荒い呼吸。激しく脈打つ心臓。上手く呼吸が出来ず息苦しいのは此処まで全速力で走ってきたからだろうか。
 それとも、心因性のものだろうか。いや、恐らく両方だ。
 何度も繰り返しみた|悪夢《トラウマ》。扉を開けた先で待ち受ける光景は知っている。
 鼻を突く死臭。胸を貫く後悔。倒れ臥す大切な同僚達の中心で『ソレ』だけはまるで何事もなかったかのように佇んでいた。
 膝をつく暇もない。早く助けなければ。『MT-416』の暴走に気付いて駆け付けた呼吸が荒い。激しく脈打つ心臓は痛い。
 それでも、早く助けねばならなかった。
 おやっさんも、同僚も、みな大切な仲間だだったのに、 結局、自分は誰ひとり救えなかった。ひとりだけが偶々運悪く生き残ってしまった。
 せめてあの事件の時に、自分が傍にいたのなら――否、居たところで何が出来ただろう。
 できたとしたのなら、精々一緒に死んでいたくらいだろう。
(あ、あぁ……)
 そうだ。こんな想いを抱くくらいなら死んでしまえたら楽だったのかもしれない。死神が甘い香りとともに六曜に手を差し伸べる。
(俺、は――)
 無意識に銃を握る力に力が籠もっていた。死の気配が漂っている。鉄錆のような香りの中で思考が徐々に麻痺していく。
 繰り返し見たとて慣れるわけではない。耐性ができるわけでもない。克服なんて出来るはずもない。
 むしろ見る度に心の底に汚濁が積み重なっていくように様々な感情に押し潰されてしまいそうになる。
「……六曜? どうしたの? どこか痛いの? にんげんがどこか痛いときは、どうしたらいいんだろう。わからない」
 ぬるりと六曜の頬を赫い触手が這った。思わず吐き気が込み上げるぬるりとした触手の感覚。
 メルティアルの触手。感情に呼応する能力で六曜の心を勝手に探るように頬を撫で上げる。
 ――これは、おやっさん達を*した怪物の触手だ。この感触に触れられる度に押し殺していたはずの様々な感情が無遠慮に暴かれて好き勝手に弄くり回されるような気分だ。
 六曜の瞳に憎悪を呪いが籠もる。
「……六曜」
 メルティアルは一瞬だけ六曜の瞳に込められた苛烈な色彩に気付いた。何処かで見覚えのある激烈な双眸。
(――ああ、そうだ。けんきゅうしつで、メルルゥのことがきらいな人と同じ目だ。きらいと、こわいと……——にくいがまざった)
 同じ瞳を六曜が浮かべていた。メルティアルは思わず触手を引っ込めれば、六曜は見かけは平常通りを取り戻していた。
「……大丈夫ですよ、メルルゥ。この程度で屈しているようでは、俺はとうに死んでますから」
 そう言う彼はいつも通り。問題ないといいつつも触手とは距離を置いて、銃を構えて気合いを入れ直す。
「仕事の時間です」
「…ん、わかった。おしごと、がんばる」
 おしごとがちゃんとできたら、しょぶん、されないんだって。
 メルティアルは触手を鋭く尖らせた。

冷・紫薇


 指の隙間から砂がさらさら落ちるように冷・紫薇(沦落織女・h07634)は全てを喪った。
 拾い上げて、取り戻そうにも一度喪ったものは風邪にふかれて何処かに消えてもうこの手には戻らない。
 まさに砂上の楼閣。いずれは崩れ朽ち果てる宿命が定められていた。
 それが僅かに早かっただけのこと。そう、必然のこと。歩んだ生に何の間違いもない。そう信じていたかった。

 ふと気が付けば幼い少女が蹲る自分を見下ろしていた。白月の髪に翡翠の輝きが零れる。
 瞳は祝福されたような紅色。食うにも困る寒村で其れはあまりにも美しすぎた。
 まるで悪鬼の悪戯で気まぐれに落とされた至玉――冷・紫薇。
 過ぎたる美はあらゆるものを狂わせた。両親の欲望を。関わった男の人生を。天子の理性を奪い国をも狂わせ最後は自らの生命も滅ぼした。
「みじめだね、紫薇。あなたには所詮与えられたものしかなかったの。だから、あっけなく全部をうしなった。富も寵愛も、ぜんぶあなた自身の手で手に入れたものじゃないの」
「やめて、そんな目で見ないで」
 幼い自分の言葉と冷たい視線が突き刺さる。
 何も持っていないはずがなかった。だって、自分はあの寒村で地を這うような生活をしながらも天子様に見つけてもらえたくらい美しかったのだ。
 両親もあなたは特別な子だと言っていたじゃないか。美しさは武器だ。全てを手に入れられるくらいの力を持っている。
 絹を重ねて、金と宝石で飾って、紅を纏って――これがまさに女の幸せ。世界で一番贅沢な暮らし。
 自分は特別だから赦されてしかるべき――そうじゃないのか。
「ねえ、あたし綺麗でしょ?」
「あわれだね、紫薇。あなたにはそれしかないんでしょ。それすらも、あなた自身が手に入れたものじゃないの。偶々持っていただけ」
 幼い少女は口元にひとさし指を当てて、鮮血のような双眸を薄く窄める。
 それは慈愛のようであって、侮蔑の微笑みであった。
「――あなたはずっと、誰かが決めた破滅への道を歩いてただけ。満たされないのは自分が選んだわけじゃないから。すべてを喪ったあなたはもう選べる道はひとつしかないのよ。おめでとう、紫薇、あなたでも選べる道がひとつだけ残ってるのよ」
 少女は紫薇に小刀を手渡す。見覚えがある小刀。いざとなった際に身を護るための懐剣。
 お前の美しさを妬むものも多いだろう。何があってもいいように自分で身を守れるようにしておきなさい――そう言われて、ダーリンに渡された懐剣だっけ。
 とびきり贅沢で綺麗な飾りが施された懐剣を選んだ。実用性なんて皆無だ。素直に懐剣くらいは真面目に選んでおけばああはならなかったのかなぁ。
 考える紫薇に少女はほら、後ろを見てと声をかける。背後からは大きな穴が広がり近付いてくる――あれは、己の満たされなかった心の象徴だ。
「それとも、あの穴に呑まれたいのかしら。ふふっ、どちらにしても結末は変わらないわ。自分で選ぶか、アレに呑まれるか」
 天女のように蠱惑的に嗤う少女。されど紫薇はその手を振り払い懐剣も振り落とした。愕然とする少女。紫薇は口元を笑ませた。
 これが敵の手口。すなわち|幻影《うそ》だ。
「あたしさ、ユーレイになって楽しいの! 無茶しても死なないし、好き勝手できてなーんのしがらみもない! なのに死ぬなんて無理じゃん? てか自分じゃ死ねないじゃん?」
 考えるまでもなかった。
 砂上の楼閣は崩れ跡形もない――だが、今の生活もまぁ悪くはないものなのだ。お酒とか結構おいしいし。
「ってことで踊ろう! やな事ぜーんぶ踊れば忘れられるよ」
 あまったるい酒と花の香りを纏った醉花扇を手に紫薇は舞った。踊って、殴って、全てを打ち砕いちゃえ。

逝名井・大洋


「どーも! オマワリさんでぇす!」
 颯爽と戦場に登場した逝名井・大洋(TRIGGER CHAMPLOO・h01867)は指でクルクルと特殊手錠を回転させる。
「迷子の保護に来たよ、おとなしくお縄についてね?」
「……来ないでください」
 躙り寄る大洋にリンゼイは若干戸惑いの表情を見せながらも拒絶の意思を示した。
「でも、そういうわけにもいかないんだよねぇ」
 再び距離を詰めようとしたその時、リンゼイの姿が歪む。困惑する間もなく見えたのは見覚えのある姿。
 それはかつての機動捜査隊の仲間達の姿。当時と寸分変わらない姿で大洋の双眸に映る。
 脳裏に過ぎるのは甘く楽しい日々と、未だに噛み砕いて消化できない苦さ。
 記憶と寸分変わらぬ彼らは記憶を辿るように記憶を演じ始める。
 まるで舞台演劇のシーンが切り替わるように、|脚本《記憶》通りに一切のアドリブもなく正確に場面が移ろう様にも似ていた。
 そうして迎えた終幕。辿り着くのはやはり最期の日。
 撃ってくれ――そう云った声は今も耳に色褪せずに残っている。
 あぁ、また繰り返しか。繰り返させるのか。
(――ボクは誰も救えない)
 大切な戦友達だって、この手で殺した。

「……なーんてね!」

 悪戯っぽくウィンクをひとつして、されどその瞳には真剣な色彩を宿す。
 其処にもう下らぬ|舞台《幻影》はなかった。自死の幻影を振り払った大洋は真っ直ぐにリンゼイを見据えた。
「君の力って誰にも拘束とか監視されない自由な時間がそのまま力になるんだっけ? だったら、無理だね」
 愛用の二丁拳銃をリンゼイに向ける。手に馴染む感覚。その銃口に迷いはない。
「キミからも、罪からも眼を背けないからね! 君の|心臓《ハート》を振るわせちゃう! ほら、イッちゃえって」
 ガンっと霊能震動弾がリンゼイを激しく揺さぶり行動阻害を行う。激しく揺れる中でもリンゼイは戸惑いの表情を浮かべている。
「あなたは……死にたくはないのですか?」
「死にたいキモチはいつだってあるよ。でもそれは、事件を解決してからなんだよね」
 リンゼイは眩しいものを見るように俯いてから、ぽつりと零す。
「……それでも、こんなのの相手なんて、嫌でしょう?」
「え? ないよ? 別に。傷付けたくないのに傷付けちゃうのって苦しいしね。ボクもそうだからわかるよ。ああ、でもひとつ思うんだったら、リンドーさん、遅ーい! 早くお迎え来てあげてよぉ」
「ひょぁ……?!」
 震動のせいか、それともまったく別の|震え《動揺》のせいか――リンゼイは素っ頓狂な声をあげていた。

サテラ・メーティス
結・惟人


 頬に吹き付ける色なき風は無情な程に冷たい。
 結・惟人(桜竜・h06870)は拳を強く握った。
 ――本当は、少し怖い。
 記憶がなくとも心に在り続ける罪悪感は、甘くて苦い死の誘惑を齎すだろう。
「放ってはおけないな、この敵は――」
 ぽつりと零すように傍らにサテラ・メーティス(|Astral Rain《星雨》・h04299)に声をかければ、彼女は星のような金の双眸でしっかりと見つめ返して頷く。
「一緒に乗り越えよう」
「はい! 二人で乗り越えましょう」
 ふたりは言葉を交わし、頷き合う。
 死んでいいことなど、何ひとつないと証明するために。


 研究所の白い壁。番号で呼ばれる子ども達の声。
 その中に、子どもの私がいた。
 人類を救うため、人類の希望となるため配置された|兵器《コマ》候補。

「一緒に来い、■■■。外に行くぞ」
 彼が逃げるように自分を急かす。されど自分はその腕を引っ張って先を進もうとする彼の足を引き留めた。
 やっぱり戻る。その意思を伝えれば彼は愕然とした表情をしてどうなるのかわかっているのかと訊ねてくる。
 なんとなく、知っている。どうなるか。どんな運命を辿ってしまうのか。けれど。
「私がやらなきゃ、みんながもっと死んじゃうんだよね?」
 人の命が紙きれ一枚よりも軽い世界。|人工衛星《サテライト》が夜空に燦めけば、きっと沢山の人々の心を照らす|希望《ひかり》となれるだろう。
 そう、輝かなければならなかったのに――。

「あなた役目を放棄した」
「わたし達だけが死んだのに」

 子ども達の声が責め立てる。
 ドクンと身体の最奥で何かが脈を打つ。頭に、胸に、心にズキンとした鋭い痛みをもたらす。
「あ……そうだ。私、本当は……」
 まるで虚構が崩れ落ちていくように、忘れていたはずの痛みが記憶とともに蘇る。
 沢山の人々のためにある星だった。戦争のために、役目のために造られた兵器だった。
 なのに、穏やかな日常に享受して甘美な忘却に溺れてた。そんなの、赦されるはずがない。

(――どうして"生きてていい"なんて思えるの……?)

 まるで無明の宇宙に打ち上げられ堕ちてゆくように心に昏い|感情《自己嫌悪》が芽生える。
 役目を果たせぬ兵器に。人々を裏切った存在に。最後に助けてくれようとした彼の手を振り払ってしまった自分なんかに――存在してもいい価値なんてあるのだろうか。
 全て忘れていたことも、|全部《すべて》が心に鋭い痛みを生み出す。
 気が付けばひとり孤独な|宇宙《そら》の中にいた。誰もいない、誰にも言葉を届けることもできない宇宙空間に漂いながらサテラは思考する。
 そういえば、おおよそ人間が生きていけるはずのないこの|宇宙《そら》で、自分は何故呼吸ができているのだろう?
(あれ? 私は……)
 ふと芽生えた疑問とともに、頬のすぐ隣を桜の花びらが駆け抜けていった。
 花びらに導かれるようにしてサテラは漂う星のなかのひとつに目を凝らせば、誰かが|宙《そら》にむけて手を伸ばしていた。
 無数の罪を責める龍の方向の中で、|星《私》へ向ける瞳は真っ直ぐで――その輝きに向かって、手を伸ばした。


 取り戻していない罪の記憶。
 形すら掴めぬそれを贖う術など存在するのだろうか。

 ――私はきっと、赦されない事をした。

 漠然としつつも何故か確信する心が罪悪感という苦く鋭い痛みとともにずっと胸を支配していた。
 責めるような咆吼に気がつけば、惟人は沢山のドラゴン達に囲まれている。
 皆、何かを責めている。きっとそれは、己が犯した大罪を責めているのだ。
 ――だが、それが何かが解らない。
 そもそもこれは、失われた記憶なのだろうか。それとも、想像した記憶なのだろうか。
 その答えを導き出す手がかりさえも今の惟人は持ち合わせていない。
 ただ、覚えのない罪を犯した感覚だけが漠然と心に猛毒のような感情をもたらす。
(だがしかし……私が何かの大罪を犯したということは事実なのだろうな――きっとそれ故に……人の身になった)
 惟人には記憶がない。想い出がない何もない。在るのはただ忘却を抱える現在だけ。
 猛毒を中和してくれるような何かも当然持ち合わせていない。
(苦しい――人になった今も、償えた気がしない)
 罪悪感という猛毒が心を犯す。
 赦されない大罪を犯した。形すらも解らない罪を償える術も解らない。
(如何したら、償える?)
 胸を抱えて蹲る惟人の耳元で誰かが囁く。
 ――過去も何もないお前が差し出せるのは命だけだ。
(死ねば……償える。そして解放される、この苦痛から……)
 惟人の心に芽生えるのは、仄暗い死の衝動。
 だが同時に惟人の中で死に抗う感情もまた生まれる――それは、未来を望む希望の灯火。
 絶望と希望。相反するふたつの感情が心の中に奔流を起こす。
(まだ見ていたい。好きと思えるものや、人を――)
 荒れ狂う波のあと、残ったのは希望だった。
 愚かに願う心に応えたかのように、星霊の瞬きが絶望の淵に沈みかけた惟人の心を光で照らす。
 優しくて、あたたかくて――哀しくて、寂しい|星彩《ほしあかり》。顔をあげた惟人を照らしたのは斯く様な希望の星彩。
「嗚呼、あなたもまた自分を責めているのか」
 届かぬ天涯の先。遙か天空にある星に手を伸ばせば強く吹き荒ぶ風が惟人の桜の花びらを空へと運んだ。
「約束したよな、私の育てた花を見せるって――」
 惟人が呼び掛ければ星が応える。空から星が零れ落ちるようにふわりと舞い降りたのは孤独に震える|桜龍《あなた》のもと。
 星は願いを叶える。星は祈りを聞き届ける。あなたが願ってくれたから、星は降る。
 舞い降りたサテラの手を離さぬように惟人がしっかりと手を繋げば苛む幻影が少しずつ雲を晴らすように消えてゆく。
「サテラ」
「惟人さん」
 互いの名を呼び、存在を確かめ合う。
 |幻影《ゆめ》から醒める僅かな間、ふたりは言葉を交わす。
「あなたの作ったスイーツを食べたいし、何よりも、もっと話がしたい」
「私も花巡りのツアーも、一緒に行きたい。もっとお話をして、笑って、思い出を作りたいです」
 重ねるてのひら。重なる想いも同じ。
 未だ取り戻せぬ罪の形。正しい償い方も知らない。
 されど、今この手に掴んだ暖かさに何ひとつ偽りはないと確かに想えるから。
「サテラ、あなたも生きてくれ」
「私もあなたに、生きていてほしい。だから――一緒に帰りましょう、惟人さん」
 惟人の言葉にサテラは優しい星灯りのように柔らかく微笑む。
 忘却の中から拾い上げたばかりの罪の重さ。
 突き刺す痛みは癒えぬだろう。されど、いま隣にいるあなたの方が、私にとって大事だから。
(――だから、大丈夫)
 もしもあなたが何かに苦しむことがあったとしても――私があなたを|衛《まも》る星になる。

廻里・りり


 潮の香り。細波の音色の中でゆるやかな死の気配が漂っていた。
 海辺でひとり佇む廻里・りり(綴・h01760)。直前まで何をしていたのかは思い出せない。されど、眼前で斃れ臥しているモノを見つけて息を呑む。
「ぁ……お、父さん……お、母さん……?」
 震える脚で近付いてふたりのもとに腰を下ろした。
「こんなところで寝てると風邪ひいちゃう。ふたりともおきて」
 りりは恐る恐る手を伸ばしてふたりを揺さぶった。
 どれだけ揺さぶってもふたりが瞼を開くことはなくて、どれだけ呼び掛けても目を開けてくれることもない。
 冷たくなる体温とともに、徐々にりりの心に焦燥が生まれる。焦燥とともに波も荒ぶった波が3人の身体を飲み込んだ。
「そう! あのときだって、こうやって連れていってくれたらよかったのに!」
 りりは叫びながらも、両親の手を必死に掴んで縋り付く――|終焉《おわり》の時だけは3人いっしょにいられるように。
 沈むは水底、永久の国。共に逝けるのであれば、もう淋しくない。
「あのとき……?」
 過ぎった疑問の答えに辿り着く前に海境から誰かが手をひかれて、りりは気付いた。
 掴もうとしていたのは両親の手ではない――己の首だ。屍人のように色彩と温度を失った細指で己を縊ろうとしていた。
 その手をひいたのはネルちゃんとイヴちゃんだ。必死にりりが自ら命を断とうとしていたのを止めてくれていた。
「……こんなことしても、ふたりのもとへは辿り着けませんよね」
 りりの夜空色の双眸に星の燦めきが戻る。そう、決めたんだ。寂しくてもふたりが帰ってくる場所になるって。
 今が寂しい分、再び出会えた時がもっと幸せになれるように頑張るんだって。
 でも、変わらないままのわたしじゃちょっぴり恥ずかしいから、沢山つよくなって、幸せなお土産話を沢山聞かせるんだって思ったんだ。
「わたし、まだおかえりって言ってない……だから、待つんです――みんなといっしょに!」
 霧が晴れるように幻夢が解けてゆく。
 眼前で愕然とした表情を浮かべるリンゼイにりりは星彩を灯す硝子ペンをむけた。
「あなたのこころは、わかりません。ほんとうは、こんなちからを望んでいないかもしれない――でも、だれかがくるしいのは、かなしいのはいやなんです」
 歩み寄りながら筆で紡ぐのは、|しあわせ願う花《ハッピーエンド》。
「――だから、ここでこの悲劇をとめてみせます」
 福寿草の花々が流星のように燦めきを纏ってリンゼイの姿を包み込んだ。

アダルヘルム・エーレンライヒ


 望んだとて望むものが手に入らない。
 望まずとも望まぬものが手に入ってしまう。
 ――そんなの、どちらであっても不幸だろう。
「ままならないものだ」
 アダルヘルム・エーレンライヒ(華蝕ノ虚蝶・h05820)は赤眸を僅かに窄ませ表情に悲哀の色彩を滲ませる。
 人生とは、一杯の珈琲にも似ている。適切な手段を以て初めてその味に好ましい味が出る。
 淹れ立てが美味しい。新鮮なものにこそ意味がある。
 酸化した珈琲のように無駄に時間を貪っていれば、人生に混じるのは余計な|雑味《哀しみ》や|苦味《苦しみ》だけだ。
 エルフ特有の永遠に等しい生等というものは要らなかった。そんなものを持っていても余計な哀しみや苦しみを生むだけだから。

 アダルヘルムが落とされた幻夢は、まるで一本の映画のようだった。
 見知った|登場人物《大切な人たち》が見知った|脚本《ストーリー》の中で群像劇を繰り広げている。
 台詞回しも表情も、何もかもがアダルヘルムの記憶を辿るようで実に趣味が悪い。実にくだらない。
 されど、1点だけ違いがあった。次々と変遷する|場面《シーン》の中からひとりの男が欠けている。
(いや、観客が映画に出演しているのはおかしいか)
 此れはアダルヘルムの記憶。だが、アダルヘルムの視点のまま進行する物語とは少し違うらしい。
 視点は完全に第三者視点だ。本来、自分が居たであろう場所にはそもそも何もなかったかのように改編されていたり、別の誰かが収まっている。
 役者がひとり欠けていても進む群像劇。自分がいなくても進む世界。
(そうだ――これでいい。俺はただ、友人や仲間達が誰一人欠けることなく幸せに過ごす日々を、遠くから見守れたら、それだけで充分だ)
 喩えその場に己が居なくても、大切な人々が笑っていられる世界ならば、どのような顔料を以てしても描きだせない素晴らしい絵画になるだろう。
 此れはアダルヘルムの願望であり、希望であった。
 美しい世界に余計な色は要らない。無闇に色数を増やしたところで混ぜ合わせて生まれるのは美しい調和ではなく不快で汚い色だけだ。
 斯くして|観客《アダルヘルム》の意思や感情とは無関係に勝手に進行していく|映画《スクリーン》は、佳境へと差し掛かり、ご都合主義のハッピー・エンドを迎えた。
 自分がいなくとも、世界は廻る。否、自分が居ないからこそ彼らは欠けることなく幸せであれたのだろうか。

 望んだとて|望むもの《魔術の才》が手に入らない。
 望まずとも|望まぬもの《不死》が手に入ってしまう。

 家族にすら必要とされない、死に損ないの塵。
 ――だが、唯一役に立てることはある。
 誰かの代わりに、自分が傷付けばいい。
 どうせ死なない無意味な命でも役に立つことがあるのならばと騎士団を志願した。
 死んでも戻る。死んでも蘇生する。何度繰り返したのかもわからない。
 誰かの代わりに自分が傷付けばいい――そんな献身が破滅願望に変化したのはいつ頃だろうか。
 何度も繰り返し投与したあの鎮痛剤の効きが悪くなってきた頃だろうか。
 それとも、興奮剤がもたらす偽りの昂揚を感じられなくなった頃だろうか。
 鎮痛剤、興奮剤、根性論、精神論。あらゆる生の苦しみを誤魔化すそれらに頼った回数は疾うの昔に数えることはやめにしたからもう正確にはわからないけれど。
(――この身体はもう、破滅を待つのみだろう)
 繰り返せば、そのうち果てられると信じたかったのに。
 だが、死に近い場所にいたとしても、其処にある死は結局いつも自分ではなく周囲の死ばかりだった。

「はは……」

 ゆらりと冥府の底から出でる不死蝶のように、アダルヘルムは口元に自嘲を浮かべながら立ち上がる。
「こんなのは、もう充分な程に見ている。|そんなこと《自死》をしても、死ねないのも解っているんだ」
 双眸に未だ幻惑を映しつつも、徐々に現実の輪郭が戻っていく。
 そう、死なない。死ねない。何をしても、何度繰り返しても――だから。
(希死衝動すらも利用するまでだ――)
 アダルヘルムは駆け出す。幻影ごと迷いを断ち切る真紅に輝くハルバードは柔らかな肉に命中したような手応えがあった。
 まるで永夜を切り裂く暁光のように幻影が晴れ、意識が現実へと浮上すればハルバードを薙いだ先にリンゼイの姿がある。
 脇腹から流れる鮮血を手で抑えながらリンゼイは愕然とした表情を浮かべながらアダルヘルムの姿を眺めていた。
「……っ あなた、振り払って……」
 動揺するリンゼイに答えず、続けてアダルヘルムは己の片腕を切り裂いた。
 激痛に顔を歪めつつもリンゼイはアダルヘルムの自傷行為に己の自殺衝動が効いたのかと思ったが、直ぐにその考えが間違っていたことに気付く。
 全てが捨て身なのは承知の上。アダルヘルムは己の片腕を犠牲に即座に再び動き出す。迷いのない真紅の槍先が再びリンゼイの身体に傷を生んだ。

「元より生に縋るつもりなぞ無いのだから――|希死念慮《その攻撃》は俺には効かない」

 どうして誰も護れないのか。
 どうして俺じゃない他の誰かが死んで、俺だけがのうのうと生を貪っているのか。
 そんな苦悩はもう、充分すぎる程に重ねた。数々の希死念慮の先で望まぬ不死がある。

 自分はただ大切な人々と過ごす、物語にすらならないありふれた日常がほしいだけだった。
 多くは望まないけれど、望むものほど手に入らないのはなんという皮肉だろう。

(俺と一緒に居ても碌な事にはならないよ)

 ――だからどうか、最期には繋いだこの手ごと断ち切る事を赦して欲しい。

神咲・七十


 吹き荒ぶ色なき風。頬を無遠慮に撫でる秋風には僅かに冬の気配が混じり神咲・七十(本日も迷子?の狂食姫・h00549)の身体を凍えさせてゆく。
 否、凍えるのはそれだけが理由ではない。自分に向けられる視線が七十の心を凍て付かせてゆくようだった。
(――あぁ……確かにこれは死にたくなるかもですね……)
 強制的に植え付けられる希死念慮。話は聞けど実際に味わうまでは正しい意味を理解していなかったのかもしれない。
 七十の眼前には、誰よりも愛おしい人がいた。彼女の存在を帰るべき指標と設定し|心の拠り所《Anker》として定めている。
 それくらい、大好きで大切な女性。彼女の姿を見るだけで心が幸福感で満たされる。
 いつも怒っているし、怖い顔をしているけれどその裡にはちゃんと愛情と優しさがある。
 そんな彼女のことが大切で愛おしい――だから、幻影と言えど彼女の姿を見られたことは嬉しいはず、なのに。
「あの、カリアさん……」
 呼び掛けてみる。答えはない。ただ、その金眸で射貫くように七十のことを睨んでいる。
 その視線にはただ憎悪と恨みしか感じ取れない。
「どうして、そんな顔をしているんですか……?」
 七十は恐る恐る訊ねてみるけれど、帰ってくる声はない。
 いつもの彼女だったら少々厳しい言葉はありつつもその裡に優しさを潜ませて自分のことを出迎えてくれる――そうで、あるはずなのに。
 言葉を返されない。返してくれることすらない。どんな厳しい言葉をかけられるよりも話してくれることもないのが一番恐ろしいのではないかと思う。
 否、心の何処かに常にあった恐れだ。
 彼女が好きになったのは自分であって、自分でない存在。
 人間災厄として複数の|並行正解《√》にいる自分の異世界同位体に想いを寄せているだけで、|この√の七十《私》を好きなわけではない。
 偶々異世界同位体であったから、彼女が私を好きになってくれた。
 そう、この|感情《こころ》はお零れだ。
 別の世界の七十が恨みと憎しみしか向けない彼女に真摯に向き合って、何度も想いを交わして、同じ場所に立てるようになるまで耐え続けた。
 そうした苦労を重ねて、ようやく得た信頼と地位を偶々異世界同位体である自分がお零れに預かるような形で受け取ってしまっただけ――。
 彼女と過ごす日々の中で七十は確かに幸せを感じていた。心は満たされて
 でも、彼女はどうなのだろうか。傍にいるとはいえ、同じ存在ではない以上――正確に感情を汲み取ることなど不可能に近い。
 おおよその気持ちは解るかも知れない。だが、その汲み取った感情が本当に正しいものなのか。それとも誤っているものなのかの答え合わせをすることもできない。
 七十には常に自問自答する心があった。
 彼女は本当に自分のことが好きなのか。自分でいいのか。
 少し卑怯なのではないか。こうして、隣に並び立つことは正しいのか。
 でも、この苦悩は別の自分だって常に耐え続けてきたことなのだ。
 異世界同位体として共有する記憶を思い出す。
 耐えて、耐えて、前へ進め――自分も好きだって誇れるように。
「………なら、私も耐えよう、カリアさんが大好きだから……別の私に負けないように、目の前の幻影に耐えてもっと好きになってやります」
 力強く叫んだ途端、幻影の彼女がほんの僅かに――いつものように解りづらい優しさを混ぜ込んで僅かに表情を緩めたように見えた。
 決意を固めて七十は幻影の先へと進む。
 彼女の傍でまた、しあわせに過ごせるあの穏やかで優しい日常に帰るために。

兎沢・深琴


 未読のままのメッセージに、永遠に既読がつくことはない。
 うるさい程に鳴り響く鼓動を抑える掌に冷たい汗が滲んだ。
 あの日の悪夢は兎沢・深琴(星華夢想・h00008)を苛み続け醒めることはない。
 大好きな姉が死んだ。気高く美しく誰からも愛される赤薔薇のような姉だった。
『――じゃあ、お姉ちゃんとお|義兄《にい》さんで行ってきたら?』
 何も知らない脳天気な自分の声が暗がりに残響する。
 ああ、あんなこと言わなければよかった。自分が軽はずみにふたりで旅行に行ってきたらなんて言わなければ、姉は今もこの世界で|咲《わら》っていたのに。
 自分は卑怯だ。己の罪を誰にも言えずにひとり口を閉ざしたまま、誰からの裁きも受けぬまま逃げ続けている。
 姉が死んだのは自分の所為だ。全て自分が悪い。
「ごめんなさい」
 いくら謝罪の言葉を並べても失われた命が戻らない。時が逆巻かぬ以上共に過ごせるはずだった未来も永遠に来ない。
 姉夫婦と姪の間に生と死の境界線を引いてしまったのは己の指。
 写真の中、春の桜吹雪の中で誇らしげに真新しいランドセルを背負っていた。あの姿を姪は姉に見せることはできない。
 姉や義兄も、何よりの宝物であったはずの姪の成長を見届けることも敵わない。
 これから重ねていくはずだった幸せも、時が経るにつれて増える喜びも、歩んだ先で振り返ってお互いに笑い合えって語り合える想い出も。
 ――全部、もうない。
「ごめんなさい」
 謝っても、どうすることもできない。だけれど、謝罪の言葉を繰り返すことしかできない。
 一時は自分も死ねば赦されるのではないかと考えたこともあった。
 されど自死へ向かう感情を引き留めたのは姪の柔らかく暖かな手。お姉ちゃんと語りかけてくる声と幼い無垢なまなざし。
 姉夫婦はいない。もう同じ時を生きることはできない。だけど――否、だからこそ、遺されたものを護ることが己に遺された存在理由。
 繋いだ手の愛おしいぬくもりを護るため――こんな自分にも出来ることがあるのなら其れが唯一の贖罪になるのではないか。
 そう己の心を奮い立たせて今日まで挫けそうになる足をなんとか激励し必死に歩いて生きた。
 なのに。

 ――貴女のしていることに意味はあるの? 自分の罪悪感を減らしたいだけよね。
 ――お姉ちゃんじゃ、ママの代わりにはならない。お姉ちゃんはもういらない。

 大好きな姉と護りたいと願った姪が蔑んだ目で深琴の存在を否定してくる。耳を塞いだところで意味はない。
 全て、事実だ。
「ごめ、ん、なさい……」
 鋭い視線が、悪意に満ちた声が、深琴の心を貫く。
 断罪するような暗闇の中で悪意と害意だけが響く。ただ怯えるように深琴は蹲り、震えていた。

 ――貴女は私になれないの。どう取り繕っても凡庸な存在のままの深琴でしかないの。

 何も言えなかった。恐怖で顔をあげることすらできない。
 気高く美しい姉の姿。いつも自信に満ちていて、優秀で、誰にでも優しかった大好きな姉。

 姉のように前を向きたくて初めて化粧品を買ったあの日。
 姉のように気高さを纏いたくて、姉と同じ香水を買ったあの時。
 姉のように背筋を伸ばすために買った服とパンプスはすぐに転んでしまって駄目にしてしまったっけ。

 大好きな姉のようになりたかった。
 どんなに外見を取り繕っても中身は何も変わっていない。傷付くことに怯えて震えるばかりの情けなく臆病な|深琴《私》のまま。

 ――ねぇ、貴女に生きている意味はあるの?

 姉の冷たい声が降り掛かる。その言葉は深琴の中で生まれた疑念と全く同じだった。
 星彩の燦めきを纏う投げナイフを手に持つ。
「ええ、そうね――そんな私なんていても仕方がないわよね」
 誰にも必要とされないのなら、生きている意味なんてない。
 どんなに取り繕っても赤薔薇になれぬなり損ないならば、せめて鮮血の花を咲かせられれば己の罪と奪ってしまった生命に手向ける花になれるだろうか。
 甘美な死の毒蜜が深琴の喉元を通り抜けてゆく。死は救済だ。死ねば楽になれる。もう苦しまなくても良い。
 これまでひとりで充分頑張ってきた。もう、抱え込むことにも疲れてしまった。だから、楽になりたい。
《深琴、ダメだよ》
 暗がりの奥から少年のような声が聞こえた。目を凝らせば暗闇の中で今にも消えそうな星の瞬きが深琴を照らしている。
 暖かい光。その光を深琴はよく知っている。縋るように手を伸ばせば、深琴を包んでいた闇が晴れてゆく。
「ありがとう星、いつも傍にいてくれて、貴方には本当に救われているばかりよ」
《大好きな深琴のためだ。僕にできることだったらなんでもするよ》
 護霊『星の深淵』は月にも似た金色の双眸に信頼の感情を混ぜて自分を見つめている。
 失ってしまったものは大きいが、新たに得た絆もある。少なくても今は、この信頼を裏切るようなことはしたくない。
 進むこの道が正しいのかは解らない。喩え自己満足だとしても、いつか来る終わりの時、選択が間違っていなかったと思いたい。
「辛くても怖くても歩みを止めるわけにはいかない。あなたとならどんな茨の道でも進み続けられるわ。だからお願い。これからも力を貸してね」
《ああ、勿論さ。我が愛しき赤薔薇となら何処までも》
 あの日、店にたどり着いて貴方に出会ったのは、きっと――。

緇・カナト
野分・時雨


「死にたがりにーさん大丈夫~?」
 飄々と話しかけてきた野分・時雨(初嵐・h00536)に緇・カナト(hellhound・h02325)は冷たい視線を向けた。
 ――希死念慮なんて常に苛まれているようなものなのに、首を突っ込みたがる酔狂さがわからない。
 黙るカナト。だけれど時雨は気にする様子もなく勝手に言葉を続ける。
「どっちから行く? じゃんけんする?」
「ジャンケンって何だよ巫山戯てんのか。グーパンで殴り飛ばしてやろうかな」
「グーパンてそんなのありませ~ん! 無敵ちょき!」
 時雨はやさぐれ死にたがりわんちゃんを少し驚かせるつもりだった。
 右手をチョキの形に変えてカナトの目の前に突き出そうとしたけれど、あっさりと手を払われ防がれた。残念。
 斯くして戦場に踏み入れたふたりは、それぞれの幻影と立ち向かう。


 世界が鈍色にくすんで見えたのは、分厚い雨雲が陽射しを多い隠しているからだろうか。
 雨が降っている。あの日と同じような雨が時雨の身体を打ち付けている。
 ――あなたはもう、|不要《・・》よ。
 色無き世界の中でやけに映える二色の双眸で彼女は冷たく時雨を見ていた。
 ペトリコールの香りがつんと鼻に付く。仰せになったご主人の言葉に時雨の金眸が揺らいだ。
 雨の中で拾われたのならば、同じ様に雨の中で捨てられる結末はなんとも皮肉でお似合い。
「――はい。ぼくが要らないと言うならその通りに。 残りの人生は貴女のためでしたから」
 つらつらと口ばかりが動くものだ。
「役立たずで申し訳ありません邪魔になり申し訳ありませんまともに機能せずごめんなさいごめんなさいうそやだ捨てないでくださ……」
 彼女が一瞥する。温度のないその瞳に時雨は黙り込む。
 これ以上縋っても余計に惨めでただ迷惑をかけてしまうだけだ。
 立ち上がれば跳ねた雨粒と泥で裾が汚れる。今はそれしき些末なこと。
 去り際だけはせめて美しく、未練ひとつ遺さずに去ろう――そう時雨が立ち上がった刹那、何かが鼻にぶつかった。
(いたっ)
 何かが鼻にぶつかったような感覚が時雨の意識を覚醒させる。
 ああ、これはわんちゃんの拳だ。わんちゃんがぼくを殴った。一発お返ししないと気が済まない。
 ならば、今――死んでいる場合ではないよね。

 見せられる幻惑なんて解りきったものだった。
 噎せ返るような薬品の香り。暗く冷たい鉄格子。自分を観察するように眺めて話す白衣の連中の思惑。
 優秀。有能。傑作――褒めているつもりなのだろうか、あの言葉は。
(オレはお前達にとっての都合のよい道具等ではない)
 反吐が出る。全てを他人の責任にするつもりはない。
 だが、あったであろう未来を摘みとられ、逸れようのないレールの上に乗せられた。
 死した後も自由になることなんてありえなくて、その身体は切り刻まれ利用され尽くすだろう。
 なんのための人生だ。誰のための人生だ。なんのために生きていて、誰のために生きるのか。
 まるで袋小路に追い詰められたかのような気分。そうして追い立てられて導き出したのは自裁の道の他はなく。
(……改めて見せつけられると腹が立ってきたな)
 過去の幻影に想うのは希死念慮よりも怒りだった。
 沸々と煮えたぎる感情が幻惑を払い意識が浮上すると同時に、傍で何かぶつぶつ呟く時雨の声が変に気に障った。
(ウルセーな)
 カナトの突きだした拳が時雨の鼻先にぽこっと当たる。
 決してこれはやつ当たりではない――恐らくは、きっと、多分。
「痛ァい! え、殴った? ぼくの? 顔を? こんな小さい子殴ったの!?」
「うるさいぞガキ。というかそんなに強く当たってないだろ」
「ひど~い! もっと可愛いぼくを労ってよ~」
 冗談めかして言いながらも時雨は金色の双眸でカナトの表情を伺い見た後、不意にカナトの腹に蜘蛛脚を突き刺しておいてあげた。
 あとついでに下から顎を蹴り上げておいた。さっきの仕返しだ。
「おい」
「やだなぁ、善意ですよ善意。紛うことなき善意。幻影に苦しんで冷静じゃないわんちゃんを助けようとしたのですよ。別に仕返しとかじゃありませ~ん」
「善意って言葉を辞書で調べてこい」
「……わんちゃん良い顔色~。死にたい?  勘弁してね。あ、死なないの。それならよかった?」
 あいかわらずの時雨のダル絡みにカナトは気が抜けてしまう。
 お陰様ですっかり|幻惑《悪夢》の余韻も醒めてしまった。
「えっ……あれ? ふたりとも正気? 幻惑? 自死じゃなくて仲間割れ……?」
 端から見ればただの喧嘩か仲間割れにしか見えなかったのだろう。リンゼイはふたりの姿を眺めながら困惑の表情を浮かべた。
 一体、いつの間に自分の力に同志討ちをさせるような能力が芽生えたのだろうか。
 よく解らないが念のために更に自殺方法のご紹介でもした方がよいだろうか――そう思案していたリンゼイに、時雨がくるりと視線を向けて悠々と歩み寄る。
「そんなこんなで! ご覧ください、お嬢さん。 錚々たる能力者も貴女の美しさに触れんと近付き、狂うばかり。せめてもの情けを――」
「え、えぇ……っ その、これが任務ですし自分で制御できるわけではないのでぇ……っ」
 妖の香気とともに甘言を放ちながら躙り寄る時雨。お互いの距離まで後数歩の地点で時雨は卒塔婆を手に取った。
「突撃! 卒塔婆で殴りに行きま~す! はい、ど~ん! さぁみなさま一緒にご唱和を! 悪霊煩悩退散退散!」
 軽薄な言葉とともに時雨は卒塔婆を振りかぶりリンゼイを殴りつける。
 間一髪身を躱し直撃を免れるが折れた卒塔婆より出でた霊が周囲一帯を載霊無法地帯へと変えた。
 反撃のため身体を動かすリンゼイを載霊が阻む。口元に薄い笑いを浮かべる時雨。リンゼイは見事策に嵌まってしまった自分を眺めて笑っているのかと想った。
「――綴られし記銘を遂行せよ」
 否、それは違った。瞬間、背後より一気に肉薄したカナトが影と共に手招く大鎌がリンゼイの首を跳ね飛ばす。
 融合していた怪異「|自殺少女霊隊《ヴァージン・スーサイズ》」がリンゼイの生命を繋ぎ止める。
(――希死念慮なんて常に苛まれてるようなモンだ)
 だが、それを無理矢理口に押し流され強制されるのは今まで歩まされてきた道と何も変わりない。
 選びとれるのが自らの終わり方しかないのならば、せめて取り巻く世界に|別離《わかれ》を告げるその時くらいは嗚呼、よかったとそう思いたいから。
(だから、今此処ではない)
 続けざまに篝火のような蒼焔を大鎌に纏わせて振るう。勢いで弾き飛ばされるリンゼイが他の能力者に攻撃されたことを確認してから、改めてカナトは時雨へと視線を向ける。
「牛、場を変に乱して巻き添えにするな」
「でもわんちゃんならなんとかするでしょ? ほら、今もなんとかなったし、わんちゃんならなんとかなるって信頼してるからの行動ですよ?」
「口ではなんとでも言えるな」
「え~本心なのにこの澄んだまなこを信じてよ~」
「ますます信じられなくなった」
「ぼくとわんちゃんの仲なのに酷いなぁ」
「どんな仲だ」
 鋭く睨んでから吐き出すようにカナトは言う。
「……テメェもさっさと自分自身の為に真面目に活きろよ此の駄牛!」
「いつだって真面目なのに、駄牛さんかぁ。捨てられたくないなぁ」
 鋭いカナトの視線をゆるりと躱す時雨。ああ、いつもこうだ。
 なんだか自分だけがこの牛歩が如きマイペースモーモーに一方的に振り回されている気がしないでもない。
「すてられたらローストビーフにでもしてやるから、其れで少しは役に立った事になるだろ」
「え~俺どうせならローストビーフよりも焼肉の方がいいな~。というか人のこと食べようとしないでよ――もしかして、わんちゃんってそういうシュミ?」
「どういう意味だ」
 ニヤニヤ笑いながら言う時雨。
 発言意図が全く以てわからないし理解するつもりもないが、なんだか今とても失礼なことを言われたような気がする。
「うえーん、わんちゃんが虐めるよ~。後で誰かにこっそり報告しちゃお~っと。誰がいいかなぁ」
「無闇に他人を巻き込むな」
「辛辣だなぁ。その服に鼻水チーンしてやろうかな。あ~あ、お腹空いたねぇ。おしごと終わったらなんか食べにいかない?」
「行くなら一人でご勝手に」
「え~つれないなぁ。折角ならなんか食べて帰ろうよ。ほら、ちょっと寒いしさ、しゃぶしゃぶとかいいんじゃない? 食べ放題の! ぼく、白菜とかねぎ食べたいな」
 並べたのは見事に野菜ばかり。カナトは肉をそっちのけでひたすらに葉野菜をもひもひ食べ続ける時雨の姿を想像した。
 でもまぁ身体を動かした後は相当腹が減るだろう。戦い終えて、もし時間が余っていて気が向いたなら――まぁ、誘いにのってやることも悪くないかもしれない。

神楽・更紗


 絶望という深海に沈む息が苦しい。浅い呼吸を繰り返して藻掻き苦しむ姿は酸欠の金魚のようで何とも滑稽だろう。
 うまく酸素が取り込めない。何かに縊られた呼吸器が可笑しい程に空回りを続けている。
(……ぁ、)
 否――それは海などではない。血だ。噎せ返る程に濃い匂いが死の気配とともに神楽・更紗(深淵の獄・h04673)を縊り呼吸を妨げている。
 厭になる程の血と死が充満する空間。されど、正面から何かの気配を感じた。
 思考が鉛のように重たくて抗いがたき重力に負けそうになりながらも、ゆっくりと更紗は顔をあげた。
(ぁ……)
 思考の中でさえ言葉にできない。考えがうまく纏まらない。否、無意識に考えを纏めて理解することを拒む自分がいた。
 眼前でゆらりと曖昧に立つ男は銀毛の九尾を不規則に揺らしている。
 纏うのは着崩した派手な和服。病的に痩せた幽鬼のような男は――|父親であったモノ《・・・・・・・・》だ。
 赤い、赤い、死の気配の中。赤の反対色である緑色の瞳だけが濃く際立って光っている。男は嗤っている。だが、それは作り物めいた笑顔だ。
 緑の瞳を光らせて、作り物めいた笑顔をはりつけた相貌で男は甘い声で、いつもの悪夢と同じ呪詛を唱える。

「「 お母さんたちも、更紗と永遠にひとつになれて喜んでいるよ 」」

 呪詛は反響して聞こえた。ザザザ……と一瞬視界にノイズが走り、一瞬ブレて思わず瞬きをした。
 ポチャン――と、水滴が零れる音がした。否、それは水滴ではない。この赤い世界で何よりも鮮烈な|生命《血》の色だ。
 男は手に何かをぶら下げている。それは真っ白な母親の顔。生命が抜け落ちたはずのその顔が自分の方を向いて、うっすらと笑顔を貼り付けみせた。
「……ぅ、ぐ……っ」
 ガタガタと全身が酷く震える。
 襲い来る強烈な嫌悪感が更紗に強い吐き気をもたらす。堪えきれずに両手で口と鼻を塞ぐも死の香りは和らぐことなく一層に強くなったことに気付いた。
 嫌な予感がした。
 潤滑油が切れて動きが悪くなった絡繰人形のように鈍重な動作で口元を覆っていた手を話して見てみれば、己の手もこの光景と同様に恐ろしい程に赤く染まっている。
「あ……なん、で……」
 鉄と、血と、死の香り――濡れているのは手だけではない。
 何かに濡れた顔面を吹き付ける風が厭な冷たさを運んだ。思考を逸らそうとしてもそれが何か理解してしまう。
 幽鬼のような男は嗤っている。緑色に妖しく光るその双眸に、顔面を赤く濡らした|更紗《自分》の姿が見えた。
(…………っ)
 背中を冷たい汗が流れ、更紗の体温を奪っていく。
 知らない。記憶にない。男の言葉に何の確証もない。
 それなのに、自分は母を食べたのかもしれないという疑念を拭い去ることができない。
 この身の半分には人ならざる血が流れている。それは悪しき古狐の血だ。世界に存在するだけで災禍を招き、人々に災禍をもたらす。
 そうして、己の欲望のまま人を喰らう。そんな忌むべき血が流れている。
 ――自分も父親だったもののようになるのなら、死んだ方がマシだ。
 仄暗い感情が更紗を自死の衝動へと突き立てる。まるで眼前には底が見えない死という奈落が広がっている。
 奈落より死神が甘い声で更紗を誘う。
 |希死念慮《死神》はあまったるい声で囁く。死んでしまえば、これ以上苦しまなくても済む。間違いを犯さずに済む。
 此処で命を断ってしまえば、お前は自分という理性を保ったまま逝けるのだと甘ったるい声で囁いて、死へと誘う。

「……いや。なんで、妾が死ななくてはならんのだ」

 ぽつりと零した言葉が|自死衝動《やみ》の中に穴を開けるように|正気《ひかり》をもたらす。
 少しずつ光が拡がって、やがて見えてくるのは現実の秋葉原の光景だ。
 一度|仕組み《タネ》がわかってしまった|奇術《マジック》に騙されることがないように、眼前の人間災厄が放つ自死衝動がもう更紗の心を惑わせることはない。
 そうだ。|宿命《さだめ》られた道とは限らないじゃないか。もしも仮にこの光景が己も辿る末路なのだとしたら、今はきっと違う。
(――そう、思わせてくれた者がおるのだ)
 脳裏に描くのは彼の笑顔。鼻腔をくすぐる彼の手料理の香り。ともに過ごす時間の暖かさ。
 自分の世界は変わりつつある。|絆《きずな》というやわらかくあたたかな糸は更紗の解れた心も繕って、|絆《ほだ》しとなって繋ぎ止める。
 きっと見たのは隠された真実の一面。まだ見ぬ光景に更に目を背けたくなるような恐ろしい真実が隠されているかもしれない。
 でも、今なら大丈夫。何故か確信めいた気持ちがある。指先に触れる感触は石のように硬くて冷たい。けれど、中は甘くて温かいことを知っている。
 彼の手料理と、彼と食す幸福は死の衝動すらとっておきの|香辛料《スパイス》へと変えるのだ。
(――今の姿を彼が見たら何と思うだろう)
 ふと脳裏に浮かぶ疑問に首をふる。思考するのは後でも構わない。後からゆっくりと重ねてきた幸福を味わおう。
 大きな狐のひとつ尾がゆらりと揺れる。されど、心が揺らぐことはない。
 獣頭蓋の虚ろな双眸から獲物を捕える。放つのは熱雷の力。とらえた姿のそのまままにリンゼイの身を霊波の力が襲い掛かった。

咲樂・祝光
エオストレ・イースター


 自殺衝動を撒き散らす人間災厄が降り立った地は混沌と不穏な気配で満ちていた。
 周囲で鳴り響く誰かの呻き声。刃を交える音。平穏であるはずの秋葉原には似つかわしくない地獄のような光景が広がっている。
「ふっふっふー、僕が到着したよ!」
 そのような戦場の中であってもイースターの化身は揺らがない。
 秋風に自慢のうさ耳をぴょんぴょこ揺らしたエオストレ・イースター(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)は誇らしげにイースターバルーンを掲げる。
 地獄のような光景の中におおよそ似つかわしくないパステルカラー。ふわふわと揺れる風船にリンゼイもすぐに気が付いて思わずその姿をまじまじと見つめてしまう。
「あ!」
「え……」
 当然、エオストレも地獄のような戦場の中心に立つリンゼイの姿に気が付いた。
 お互いが存在を認識して目が遭い、ほぼ同時に声をあげる。
 やや戸惑いの色彩を表情に浮かべるリンゼイにエオストレは構わずに桜吹雪を撒き散らしながら歩み寄った。
「周りの人がどんどん自害してくのか。それは大変。寂しくて哀しいね。ずーっと一人ぼっちなの?」
「え……あの、その……」
 リンゼイは戸惑う。己に立ち向かってくる者のほとんどは覚悟や恐怖の表情を浮かべていた。
 それは敵だけではない。味方である本国でも己を見る人間の目は恐怖や隔意が込められたものが多かった。
 ――当然だ、自分の意思とは関係なく人を自死に追いやる人間災厄など恐怖と迫害の対象でしかない。
 斯く様な中でエオストレは全く恐れる様子がなく跳ねるようなステップで此方へと近付こうとするのだから、どう反応すればいいのかわからない。
「望まぬ|災厄《ギフト 》を得て、本当に欲しいものへは手が届かない……望んで得たものでは無いなら、君も被害者みたいなものだね」
「多分不死の神も嫌がるもんね。可哀想……」
「……おい、やめろエオストレ。憐れみは無礼だ」
「むー……だって」
 リンゼイが戸惑っていればエオストレの背後から咲樂・祝光(曙光・h07945)が姿を現す。
 交わす言葉の応酬はやけに軽やか。頬を膨らませたエオストレと冷静に彼を諭す祝光の間には相応の信頼関係が見て取れる。
「死がなんなのか僕にはよくわからないんだよね、僕には死というものはないし――」
「死は神である俺達には遠く、そして近いものだよ。人は多く、死から逃れる為に祈るのだから」
 けれど死は時に甘い蜜のように香り手招くもの。絶望の淵に転げ落ちた人間のものに唯一の救いとして甘い芳香を漂わせて舞い降りる。
 絶望という闇夜の中で唯一見いだすことができる死はさながら希望の星標のようだろう。
 ――だが、それは飛んで火に入る夏の虫に他ならない。惹かれるまま近付けば身を滅ぼす。だが、それでしか救われない者もいることもまた事実。
「唯一の救いとして、闇夜に瞬く星のように煉獄のような苦しみから逃れる出口。尽きぬ罪から逃れる赦し――もしくは自身への罰として遍く人に平等に与えられるものだ」
「んー、難しいしよくわかんないや。僕のそばに居れば死んでも3日後には復活するからさ」
 エオストレは少々考えてはみたものの、やはり実感として今ひとつ理解できなかった。
「うーん! ま、いっか! ねぇ、君もイースターしようよ! さ、君が笑顔になって楽しめるようになるまで!」
 手に持つバルーンを風に靡かせて、刻む足跡に花を咲かせながらエオストレは彼女の元へと近付いた瞬間だった。
 エオストレの視界がフッと暗くなった。

(え、え、何ー?!)

 状況を飲み込むよりも早く、ぽろりと椿が落ちるように転がったものを見てエオストレは絶叫する。
「ぎゃー!」
 耳が落ちた。エオストレご自慢のぴょんぴょこふわふわ跳ねまわる耳が落ちてしまった。
「そこに転がってるの尻尾? 嘘だろ!? しかも全くイースターじゃない、元の禍津神の姿に戻ってるー!! やだー!」
 しかも可愛い可愛いラビットたちが超絶グロ怖い禍津ノ使徒に変わってしまっている! なんということだ!
 これは父の傍にいた怖いやつだ。まったくもって可愛くない。大変ナンセンスだ。
「あんまりだァァ! せっかく僕が時間をかけて、イースターに塗り替えたのに! 因果を! 運命を! 宿命を!」
 丹精込めて作り上げた僕の最高に可愛くてHAPPYなイースター空間がこんなことになってしまうなんて嘘だろ? 嘘だって言ってくれ。
 やだやだやだ。僕は信じたくないぞ。でも耳と尻尾は取れてしまったし禍津神の姿だし、父さんの傍にいた怖いやつらもいるし!
 現実なのか? 本当に? 嘘はエイプリールフールだけにしてほしい。でもそんなことを言っても誠に遺憾ながら現実なのだ。
「こんなのちっともイースターじゃないよー! なんでこんなことするのー!!」
 絶叫してもこの事象に叩き落としたご本人からのご返答なくエオストレは蹲る。
 じめじめ湿度がエオストレの頭にきのこを生やす。恐らくしいたけ。どうせなら舞茸の方が名前かわいいし良かった。
 あ、というか生えるならイースターなうさ耳にしてほしい。僕はイースターなんだから、最高のイースターなうさ耳がよかった!
(うぅ……)
 世界はイースターを拒むのか。イースターが何をしたというのだ。ただそこにあったイースターをしていただけじゃないか。
 こんなじめじめきのこなんて要らない。イースターみたいに最高にパステルでHAPPYで可愛い世界じゃないと僕は要らないんだ。
 イースターが必要だというのに望むものが手に入らなくて望んでない余計なものが手に入っちゃうなんてなんて残酷な世界なんだ!
「うう……おわりだ……イースターは終わったよ」
 じめじめ椎茸が更に増殖した。こうして桜は枯れてきのこだらけになっていくのだろう。
 地面にいくらのの字を書いたところでイースターはイースターしない。かなしいなぁ。地面に試しにうさぎを描いてみたのに怖いやつになってしまった。
「イースターのない世界に僕はいられない……一度終わらせてリセットするしかない……つらすぎ……」
 エオストレはごろんと地面に転がって丸まった。
「卯桜はもうおしまいです……さよなら」
 ぐっばい世界。死者も3日後くらいに復活するなんて簡単に言ってしまってすみませんでした。
「ううう……祝光ぃ!! さよならの前に会いたかった!!」
 大切な幼馴染の姿を思いうかべて、ふとエオストレは冷静になる。
「そうだ、僕はまだ祝光とお風呂に入る約束を果たしてないし金木犀イースターもしてない! まだ来年のイースターも百年後のイースターもしてないし」
 金木犀イースターってなんだとツッコむような声が何処からか聞こえたがきっと気のせいであろう。
 ともかくイースターが滅びるなんてことはあってはならないんだ。
 そもそもなんで僕が死ななきゃいけないかもわからない。
「――僕はまだ、死ねない!」
 強く言い放てば、ふたたび春は芽吹き花は咲く。
 最高にカラフルでハッピーな|祝祭《イースター》がやってくる!

 ――俺は最低なんだよ。

 闇の中で祝光は口元に自嘲の笑みを浮かべる。
 眼前に在る小さな妹のうつくしい微笑みとは全く違う、醜い諦めの笑みだ。
「――■■」
 名を呼べば花の瞳が更に笑みの色を深くする。
 妹は生まれながらにして天の祝福をその身全てに宿すような存在だった。白虹の髪に花の双眸。
 そして、穢れなき純粋で溢れ出す強烈な神力を持つ妹はまさに美しい迦楼羅天の|雛女《ひめ》。
 化物と呼ぶに相応しい圧倒的な神性を持ちながらも、無垢に誰しもが求める救済の光――嫉妬心を抱かないわけがなかった。
(それが、間違いだったんだろうな)
 後からならなんとでも言える。このようなことを思うことさえ無駄で、罪。結果と現実が全てなのだ。
 そんなつもりなどない――なんてのも言い訳だ。
 祝光は神ですら侵入できない狭間に|アレ《・・》を招いてしまった。
 母によく似つつも、違う存在。アレが妹を攫ったのだ。気が付いたのはその場を離れた後で――気付いた時には、もう、妹はいなかった。
(――俺だってそうなりたかった。救える神になりたいと……けど届かなくて)
 祝光の中で今でも様々な念が渦巻く。そもそも、嫉妬という悪しき感情を抱いてしまう時点で妹に敵うはずなどない。
 あの日妹が攫われる切欠をつくったのは祝光。
(最低だ、最悪だ。悔いて苦しむ価値もない!)
 死んで詫びるなんてことも、ただの自己満足に過ぎない。
 死ぬことなどに何の意味もない。死は祝光の救いではないのだから、そんなものは自分には必要はない。
 ――はやく、妹をみつけないと。
 情念の焔が祝光の裡に宿る。己が罪は己で精算しなければならない。ゆえに妹に及ばずとも自分は圧倒的な光にならなければならないのだ。
 妹が何処に居てもみつけられるように――圧倒的な、黎明の曙光に。
 そうして早くみつけなければならない。助けなければならない。守られなければ、今度こそ――。

「――此処で、死んでる暇なんてないんだ!」

 夜闇が晴れるように、昏い夜を曙光が照らすように祝光の心を苛んでいた衝動が消えてゆき意識が現実世界へと舞い戻る。
「あ、祝光起きた? おはよー! ねぇ、イースターを滅ぼした奴が死ぬべきだし、僕からイースターを奪った奴が滅びるべきだよね? イースターは不滅なんだからさ!」
「う、卯桜?」
 強制的に流し込まれた自死の衝動の余韻を引き摺る脳裏に、とんでもないことを言いだした|幼馴染《イースター》の声が響く。
 若干の頭痛がするのはリンゼイの力の所為か、それとも起き掛けに強烈な発言を聞かされた所為か。
 ――ああ、災厄は|希死念慮《リンゼイ》だけではない。|此処《卯桜》にも居たんだった。落ち着いてと声をかけようとしたが、それよりも早く脱兎の如く駆けだして行ってしまった。
 慌てながら祝光が追いかければエオストレも追ってくる祝光の行動に気付いたのであろう。
 幼馴染として育った祝光とエオストレが重ねた時間は決して短くはない。
 祝光が何をしたいのかをエオストレは察し暴走しながらも、|多少《・・》は待ってくれるのだろう。
 あの力は彼女にとっても厄災だ。
 厄災の力の意味も理由は自分達ではわからないし、神ですらわからない――きっと、彼女自身しか答えを出せないことだろう。
 考えるためにも、まずはこの厄災を止めなければならない。祝光は決意の眼差しで彼女を見る。
「俺達は、君を兵器で終わらせない。その厄災で誰も殺さずにすむように、ただのリンゼイとして救われるように――君の孤独を終わらせよう」
 放つ|春夏秋冬《ひととせ》に応じた言祝ぎの詞は枯葉舞う霜月の秋葉原を桜吹雪が舞う曙光の神域へと変える。
 清らかなる力は彼女の厄災の力を和らげる。リンゼイ自身を縛り付ける|厄災《のろい》の力など、|救済《すくい》には不要だろう。
(祝光は優しいから君に救いの手を差し伸べるんだなぁ)
 美しい桜吹雪を眺めつつ様子を伺う。
 もう、大丈夫そうだ。
「という訳だから、君はもうおしまいです。独りぼっちは寂しいもん。ちゃーんと僕達が終わらせてあげる!」
 君は|君に殺されない 《好きな》人に殺されたいんでしょ?
「とっても素敵なタナトスイースターを君にあげるよ! なんてハッピーなんだろうね! ――だから大丈夫、僕は君が最も望む厄災をあげる!」
 エオストレが放つ祝祭の桜吹雪がリンゼイの身を天空へと打ち上げて世界を彩る絢爛な花火へと変える。

 晩秋の秋葉原に咲いた花火は、ひとつの厄災が去った証。
 光をこぼしながら消え逝く花火が戦いが終結した事実を知らせた。

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挿絵イラスト