⑮愉悦する墓荒らし
●さまよう眼窩
不意に、悪食は出現した。
その所以は不明だが、おそらく、王劍『縊匣』の妄執を察知したが故だろう。悪食に眼球は――瞳は――存在しないが、眼窩へと潜り込ませることは容易と謂えよう。何処かの獣も吃驚なほどの『飢餓』が負の感情の化身となって嗤笑する。
悪夢が枯渇する事などおそらく有りえず、悪食のフォボスと呼ばれる怪異は『電子の泡』を纏ってみせた。そもそも、最初から、縊匣との相性が良いのだ。鬼に金棒とはまさに『このこと』と考えられよう。裏切り、死別、トラウマ、決して、未曾有とは言えないが故に――この混迷はおぞましい。
頭の中の鉛、その、上手な摘出の方法は『欠片』とやらにも当て嵌まった。
●死別の後で
「人魚姫が撃破されたねぇ。まあ、我輩、それを星詠みしていたのだが……兎も角、縊匣は新たに『別の宿主』を見つけた様子でねぇ。汎神解剖機関に蔓延る怪物どもに突き刺さったってわけさ。で、問題なのがねぇ。相性が非常に良すぎたのさ」
星詠み、暗明・一五六は愉快そうに続ける。
「悪食のフォボス――怪異として見るなら、封印指定人間災厄、対処不能災厄、何方とも謂えるほどの存在さ。知的生命体の『負の感情』そのもの、と、説明したって過言じゃあない。加えて、人魚姫のお土産『電子の泡』までついてきている。Ankerが参加する事で有利になるのは同じだが……相手が相手だ。精神的にやられる可能性が高い」
「ぶっちゃけ人魚姫の方が対処し易いとは思うぜ? まあ、精々、狂わないように頑張り給え。アッハッハ!」
第1章 ボス戦 『悪食のフォボス』
悪食のフォボス――|恐怖《かみ》を冠する存在、その異様。
電子の泡を纏い、縊匣の欠片を目玉とした『それ』は嗤笑する。
餓えているのだ。渇いているのだ。ならば、満たされるまで、
負の感情を喰い散らかす。
まるで、人魚姫のエンディングを、死を、冒涜するかの如くに。
未曾有のトラウマをほじくり返す。
最早、悪夢は尽きないのだ。最早、深淵は殺せないのだ。
故にこそ、君達は人間精神を忘れてはならない。
その名は何処に存在しているのか。
異形の右腕、巨大な魔銃、患う誰かの為の……。
鮮度のよろしい死骸のハラワタ、つついて、引っ張って、ちぎるよりも、あの怪異の所業は冒涜的だ。いや、|的《●》などと尾っぽを付けていられないほどに邪悪であった。縊匣、欠片となっても厄介なものだな。無差別に選んだのが……いや、違うか。悪感情の澱の方からやってきたのかもしれない。最早、ある種の人類の天敵と言っても良いのだろう。けれど――。逆に、解釈をしてしまえば、悪食は不倶戴天では無いのだ。忌々しい事に一切合切は隣人であり、横を向くだけで邂逅できる『あたりまえ』とも解せよう。つまりは……。
「|貴様《恐怖》を抱えて尚、人間は未だ生きている」
当人達の世界は既に黄昏に浸っている。だが、どれほど死に瀕していようが、貴様が未曾有では『ない』限り、懸命に生きているのだ。まさか、人間が、|人間《ウィリアム》を殺す為だけに呼吸をしているとでも謂うのか……? 深淵の目――眼窩――欠片を光輝させる魔障は、澪崎・遼馬を観測していた。これが黒死だと宣うのであれば、成程、貴様は滑稽だな。大人の礼儀は要らないし、子供に対しての優しさも要らない。そもそも、あれは『窓枠の獣』なのだ。招き入れてやる所以はない。
汝らのものなる邪悪な眼――脳髄へと這入り込む悪夢の冠――嗚呼、何もかもを減衰させてやると宜しい。やけに分厚い冒険こそを得意とするならば、現、アルビノを謳ってやるといい。屠まれ……! 容易な言の葉だ。テケリ・リ……! 成程、恐怖を表現するのであれば、その『叫び』こそが相応しい。……人間は貴様に振り回されもするが、貴様を押さえつけるのもこの上なく得意なのだ。下手にカタチを得るから、猿や虎や蛇を真似るから、そうなる。無形のままであればもう少し骨が折れたと謂うのに……。
未知なる恐怖を殺したのだ。これも、人間の罪と謂えよう。
終わらせなければならない。疾く、終いとしなければならない。
「貴様は確かに当人達の天敵だが……忘れているのなら、思い出させてやる。|当人《人間》達もまた貴様の天敵だということを」
真理の書を捧げるつもりはない。
オマエが恐怖を騙る事など――『二度とない』。
溶けて消えたアクアマリン、空っぽの宝箱に棲み憑いたのは『人の性』の一言で絞め付けられた。縊死に定められてしまった、最早、意思の有無すらも解せない餓鬼に如何様な視線を送るべきか。……まったく。|人魚《アレ》も永劫、焦がれ続けるものと踏んでいたのですが……。恋煩いとは、一種の煉獄なのだが、ほんの少し背中を押すだけで『こう』も進展するとは想定外であった。手を引かれて一抜けとは……理解にも参考にも程遠いにせよ、見せつけられた分は記憶しておきましょう。王子様はちゃんと見つけてくれたのだ。王子様はしっかりと愛してくれたのだ。たとえ、その影が幻想のような沙汰で在ったとしても。……さて。魔に坐しているのか、魔として坐したのか、何方にしても、お粗末なギミックである。悪性を封じた身は本来、負の感情、自身のトラウマなどとは無縁ですが。今はあの人魚の……エレクトリック・マーメイドの。多くの方が美しいと評するらしい|結末《ラスト》が該当するようです。ええ……本当に。丁度良いですね。変身先を昆虫にしたところで、嗚呼、最後の文句が書き直される事など無いのだ。結局のところ、これは泡沫なのだろう。
支配――目の届く範囲であれ、手の届く範囲であれ、法外な力である事に差とやらはない。さまよう眼窩より放出された電子の泡、ぶくぶく、ぶくぶく、流れとやらには逆らえないか。……これなら、使い方を把握している、理解している人魚の方が、幾らかマシだったのかもしれませんね。解放された悪性の名を連ねていくといい。レヴィアタン、サタン、ベルゼブブ、マモン――あらゆる悪魔のキメラとして異形化せよ、まさしく、形容し難い。あとは、狙いを外さずに。この一撃を以て|悪夢《●●》とやらを削り取り……。
挽き潰してやればよろしい。
軽く発散したのだ。ほんの少し、晴らしてやったのだ。此方こそがオマエに相応なのであれば、馴染むのであれば、欠片と残さず平らげてくれ。臭い物に蓋をする? まさしく。暴力的なまでに素敵な諺だ。"|勇者《アレ》"は……王子様等と呼ばれていた事はありませんでしたね。修羅の道に色恋は要らない、そういう意味であろうか。
この手で縊る前に、この手で屠る前に、勝手に散った路傍の石。幾度思い出せど惜しいとも思えぬ以上。やはり無駄だったのでしょう。やはり無意味だったのでしょう。また、別の手を……別の術を探さなければ……。
道を拓いたのではない。砕いたのだ。
元気こそが武器となった。
ジャンプスケアの化身として、コズミックホラーの真似事として、恐怖症が貌を出した。髑髏を彷彿とさせているのは、おそらく、人類が勝手に抱いたイメージでしかない。おそらく、他の知的生命体には『別の何か』に見えているのだろう。こんにちは、深淵。縊匣の欠片までもが墜落を続けている。ひ、ひええ……。雪月・らぴか、甘ったるいアルコールがお似合いなオマエは、成程、ホラーが大好きな女子である。しかし、嗚呼、フィクションとリアルはまったく違うものだ。加えて……。や、宿主いなくなってもまた探すとか王劍だいぶやばいやつじゃん! でもって? 縊匣だけじゃなくて? 戦争って状況も負の感情湧き易いから……? 最悪だ。未曾有なまでに最悪だ。悪食のフォボスは餓えていて、渇いていて、より、濃密な負の感情を欲している。こりゃはやいとこ倒さないとね! 時間をかければかけるほど、長引けば長引くほど、EDENに不利だ。電光石火こそが肝と考えられよう。
三月ウサギが狂っているのであれば、二月の満月の理性は如何に。魔法の類や魔術の類、神秘とやらは現実、爆撃、撲殺の為に扱ってやるのが正解か。やっぱり火力だよね、火力! 押してダメならもっと押さなくちゃ。電子の泡だろうと、深淵からの鉤爪だろうと、直にぶん殴ってやれば豆腐と同じだ。まあ、今は、何にも考えない方が良さそうだからね。まるで台風、まるで大嵐、おどるポニーテールはいよいよ――相殺だけには留まらない。
穴だらけだ。クレーターのお祭り騒ぎだ。怪物であろうとも、怪異であろうとも、モグラ叩きには耐えられない。ふう……? しかし、何故だろうか。好奇心の所為で猫を殺されたのか。自分は殴られていないと謂うのに――ぐるんと、世界が回っている。
異常、メンタルの状態とやらに、刹那の内に気づけたのは幸運だった。何処か、物陰へと身を滑らせて取り出したのは『いちご』一粒。好きなもの、日常を感じるもので正気を取り戻すんだよ! 口腔、甘酸っぱさに満たされて、正常、噛みしめてくれ。
さあ、続きだよ。絶対に、負けてあげないからね!
死闘――死別――幾つかの記憶を弄られて、煮えたのだ。
世界が違えば、√が違えば、何もかもが違うのだと、そのような幻想を抱いてはならない。黄昏色であれ、楽園の色であれ、彼方までも――神様気取りの悪趣味は消えやしないのだ。冒険者時代、対峙した奴の首を狩った。笑いあった、仲間だと思った、敵でも分かりあえると思った。人質がいる、金がない、明日生きる為の食料がない、恩義がある、など理由は様々だったが……悲観、諦観、安寧、乗る感情は……乗せられた感情も様々だが、最後は皆笑っていた。目と鼻の先、嗤笑する深淵を覗き込んだところで、それが、愉悦の類とは言い難い。敵は……これは今「倒したくなかった奴ら」の姿をしている。それも、哀しみや恐れ、苦しみからくる憎悪の沙汰ではなく。只、旧友を迎えに来ただけの『よう』だ。
はは……はは……不愉快だ、とても……頭の中に、土足で踏み入られた、そんな気分だ。普段はあまり、そう思うことはないんだが……ナツメもいないし、問題ないだろう……これだけは、許されない。そうとも、ゼロ・ロストブルー、オマエの前に存在している悪食は『欠片を受け入れる』程度には冒涜の権化なのだ。滅ぼさなければならない。それこそ、ダンジョンの奥で――ふんぞり返っている連中『より』も。
電子の泡はオマエに見向きもしなかった。きっと、エレクトリック・マーメイドの想いも籠められていたが故に。真っ直ぐだ。只管、真っ直ぐに双斧を握り締めて『冒涜』を叩け。俺を、俺達を、嘲笑した。その報いだけは……必ず……! 体重と回転を乗せた|重量《おも》いの一撃。髑髏をカチ割ったとしても、嗚呼、飛沫がなければ治まらない。
悪いな、さすがにこれで終わらせない。
奥へ、奥へ、突き刺さった斧。其処に蹴りを仕掛けてやれば――欠片諸共に潰せるだろうか。嗚呼、聞こえる。誰かの声が聞こえる。誰かの声が消え失せると同時、フォビアは『食べられなかった』と悔しそうに。
人間の強さとは何処に存在しているのか。
考えたところで答えはなく、やはり、未曾有の領域に在るのだ。
火中の栗を拾った結果、弾け飛び、そこらに散らばったような感覚に陥る。いや、仮に、陥るような沙汰になってもプレジデント・クロノス、オマエにとっては柳に等しい。私は、エンターテインメント系大企業、PR会社『オリュンポス』のCEO。確か先日、この辺りで人魚を中心とした劇団員たちが交代で活動していたな。王権執行者『エレクトリック・マーメイド』、彼女は王子様と巡り合い、この世から、泡となって消えたのだが。実に感動的な、ハッピーな……いいや、メリーなお終いであったと謂えよう。ところで……あの虚空に浮かぶ髑髏のようなものは何だ? すっと、白い仮面の隙間から|視認《●●》したのはフォボス。通常であれば、常人であれば、刹那と認めるだけで錯乱状態に陥ってしまうほどの悪夢。ふむ……無気味さと大量の泡を織り込む事でファンシーさを演出しているのだろうが、カートゥーンに失敗したかのような……? そう、幾ら何でも過剰なのだ。何方か『ひとつ』なのであればジャンルも理解できよう。いやいや、これほどの宣伝を行うならそういうコンセプトなんだろう。痛くも、痒くも、苦しくも、恐ろしくもない。この無反応には、ひどい冷静さには、悪食のフォボスも困惑している。これは本当に人間なのか、と。
人間である。異常なまでに強靭な人間である。それにしても、人魚の時の泡を出す演出機材をまた再利用しているのか……? こんなことを言いたくはないが、予算が足りなかったのでは……む? 眼窩の奥に何かあるな。ちょっと失礼。人間は……逸般人は、眼窩、深淵へと腕を突っ込んだ。まさぐり、探し当て、そのまま『欠片』を引っこ抜く。嗚呼、何もない。この人間からは、飢えを満たす為の『負の感情』が見当たらない。
何かね……そんな、恨みがましい、腹を空かせた子供のような、表情で……。見つめても、覗き込んでも、何も出ないが? 怪異は餌を求めて貌を逸らした。
悪辣さに混じって聞こえた腹の虫の鳴き声。
誰がもっとも哀れなのかを教えてやるとよろしい。
三億ほどの蓄積が――半永久的に溜め込まれた大罪が――ある種のカタチとなって出現するとした場合、和紋・蜚廉は何をイメージするのか。欠落してしまった己を恥じるつもりはないのだが、しかし、この連続性から切り離されてしまった感覚には、成程、慣れたくはない。蝕む泡のざわめきが、電子の泡のうごめきが空気を歪めていく。その気配を拾った瞬間にオマエが散らしたのは|紐《●》であった。此処が地獄なのだとしたら、ああ、己こそが地獄へと落ちた蜘蛛であり、自身の力のみで上昇をしなければいけないのだ。摩擦熱、はじけていくシャボンを把握しつつ、ふと、想いを掲げる。あの泡を赦せば、あの脅威を赦せば、心の奥を勝手に暴かれるだけだ。そんな真似はさせん。たとえ、我の大罪が増えようとも――これは怠惰なのだろうか。それとも、強欲なのだろうか。汝、我は、汝ほどの傲慢を見た事がない。変質していく|恐怖《フォボス》、如何様なカタチを得てしまったのか。
炎である。それも、莫迦みたいに大きな、炎の影である。揺らめき、嘲笑い、オマエへと近づいてくるのだが……果たして、このような恐れが何を孕むと謂うのか。胸の奥はびくりともしない。かつて焼けた記憶は、今となっては歩いてきた証のひとつでしかない。誰かに支えられたことで越えたものを……克服したものを……今更、脅しに使われる筋合いはない。気がつけば恐怖、手の届く場所に置いてあった。毒であれ、薬であれ、最早、右掌さえ翳せば――触厭――暴食する為の器官として。
悪食のフォボスは沈黙している。何をされているのか、刹那、解せなかったのだ。ならば、今こそが好機だとオマエ、迷いなく踏み込んでみせた。恐れではなく、病でもなく、只、守りたい未来へ向かって伸ばす手だ。汝のような存在こそ、打ち倒されるべきだと思わないか。炎が呼吸をするのであれば、さあ、悪夢の像が構成される中心へ指をかけよ。あとは怪力乱神――野良の渾身で以て『欠片』を引きずり出すといい。握り潰してやるといい。汝、まさか、抵抗していないのか? いや、汝はおそらく、いつかの我と同じく。腹を空かせているだけなのか。
乗り越えたものを糧に、今を守る為に。
その為だけに、狂気と呼ばれようとも、
迷わず手を伸ばし続ける。
ええ、私は、誰かの為に呼吸をしているのです。
まだ、私には、出来る事が残されて……。
己が己を揮わなければ、まさしく、己が己のものとは思えない。果たして、抑圧の悪夢というものは誰にとっての悪夢だったのか。
貫いたのは何処かと、抱擁したのはいつなのかと、僅かに残された魔障を身に宿し『フォーレヌス』は知性を巡らせた。恐怖と悪夢は人に『見』えなくては意味を為さぬ。狂気と絶望は人に『知』られなくては意味を為さぬ。ゆえに縛るべき災厄は自ずと|眼前《ここ》に現れる。浄化をされても尚、弱化されても尚、オマエは|魔剣《オマエ》なのだ。失楽園を経験した知性とやらが、嗚呼、まさか、楽園を守る為に、身投げを余儀なくされるとは……。そうとも、忌々しいだろう? 勿論、この忌まわしさと謂うものは、天女、今のオレの手足にも掛けるべき言の葉なのだが。|劫《カルパ》――放たれた鎖が、悪夢が、別の|悪夢《フォビア》を縛してみせた。禍々しい鉤爪、嗚呼、姿見を添えておけば無用なのだ。
エレクトリック・マーメイドの置き土産、ぶくぶく嗤いの矛先はおそらく|天女《●●》の方だ。まるで、人形のように肢体を晒している彼女こそ、まさしく、浄化の原因に他ならない。電算に生じてしまった|逡巡《タイムラグ》。十分だ。あの|同族《●●》から得物を掻っ攫うのには十分な時間だったのだ。魔剣を振るうねこ、最早、小さな箱からは逃れられない。|虚構魔剣《シュレディンガー》、伸縮自在な獣性を如何か眼窩へ入れてくれ。
叫喚を唆したところで、負の感情を嗅ぎ取ったところで、
|魔剣《それ》を代わりにされるなど想定外か。
心に落ちる澱みより、魔剣なる器物が生まれたのなら。
刃先より注ぐは純粋なる|感謝《●●》の念。
|劫《カルパ》より、悪夢は解放され、己こそが叫喚に招かれたと知る。
焼け堕ちろ――混沌とした心身の状態、それを表現するかの如く。
憧れ、恋煩い、その後の憤懣については、最早、四之宮・榴、オマエの|情念《もの》とされていた。受け継がれた意思と謂うものは、押し付けられた意志と謂うものは、何処までも甘酸っぱくて、何よりも度し難いのか。……王劍『縊匣』……。名を呼んだとしても、名を唱えたとしても、おそらく、応えとやらは無いだろう。仮に、掌握しなければならない状況に陥ったとしても、オマエは『それ』に触れたくもないと思うに違いない。……節操のない、ものは、手放されます……僕は……そのような『感情』を持ち合わせてはいませんが……ええ、わかりませんが……。自身のマイナスの部分をプラスに変えてしまえ。この視線こそが、この双眸こそが、眼窩へと挑む得物と謂えよう。……貴方なんて……貴方みたいな『もの』なんて……怖くない……っ……! 悪食のフォボスは『虎の威を借りる狐』ではない。しかし、オマエの確固たる『おもい』を嗅ぎ取って、美味しくなさそうだと嗤笑した。
恐怖には、より強い想いを。狂気には、より強い狂いを。毒には、より強力な毒を。つまりは、四之宮・榴、オマエの頭の中には現、|人間《ほんもの》だけが蔓延していたのだ。……人魚姫の哀願を……屈しなかった……強い意思を……貴方のような、怪物に……絶対に……穢させるわけには……! 蹂躙するのではない。翻弄するのだ。縦横無尽に入れ替わり、手を変え、品を変え、札を投げ――反転した死に神の志を欠片へ届けると宜しい。
……欠陥品な、僕でも……幸せは、理解したいんです……たとえ、その幸せが、最期に見る幻想だったとしても……それに……少なくとも、僕は……僕だけでは、ありませんが……貴方を、受け入れる事はないでしょう……そして、無辜の人々を護るんです。
随分と毒されてはいないか、人間。この台詞を紳士が耳にしていたら、きっと、苦笑いをしてくれるに違いない。捕食されるつもりなど、嗚呼、餌側には無いのだ。見えない彼等の合図と同時に、漆黒、殴打に繋げてやるといい。
アクアリウムの振盪が治まって後、数時間、おぞましい事に『縊死』とやらは終わらなかった。妄執を抱いた小さな王劍、砕かれても尚、刺さろうとしたのは冗長極まりないか。兎にも角にも、戦争はまったく、此処からが佳境と思惟すべきだ。ため息の代わりに言葉を吐こうとして、一ノ瀬・シュウヤ、眼鏡の位置を直しておいた。……人魚姫は王子と再会できたのか。仮に、走馬灯のようなものだとしても、彼女にとっては幸せだったに違いない。しかし、それで終わらず……様々な怪異や災厄に宿るとは……もしかしたら、リツにも『刺さる』かもしれない。そう考えてしまったら、そう思ってしまったら、居ても立っても居られない。急いで向かおう……エミに気づかれないように、な。あの、シュウヤさん。それは僕の台詞ですよ。ええ、シュウヤさんには『気づかれたく』なかった。なんて。
赫夜・リツにとっても、人間災厄「ルベル」にとっても、この状況は最悪に近しい。折角のハッピーエンドがバッドエンドに侵されるかのような、そんな不快感だ。人魚姫が鎮まって、ほっとしたばかりなのに。縊匣は別の宿主を見つけたのか……。本当は、こっそりと、挨拶もなしに行くべきだったのだが、しかし、この「行ってきます」だけは外せない。嗚呼、外せなかった結果が上司からのご一緒なのだが。まさか、当たり前のようについてくる、なんてことはありませんよね? 何だ? 俺がいた方が『何かと便利』だと耳にしたんだが……。ああ、無茶はしないでおくから、安心しろ。安心なんて出来る筈がない。何せ、宿主とやらは『精神に悪影響を及ぼす』、厄介な怪異なのだから。いや、やっぱり避難した方が……。リツ、俺がどのような人間かくらいは、わかっているとは思うが。なんとも頭が痛いお話だ。……分かりました、一緒に行きましょう。ただし、危なくなったら撤退しますからね。舌を引っこ抜かれるかのような、そんな、乾かぬ内に。
悪食のフォボス――資料を捲ったならば、畢竟、戦争とは関係なく『目撃者』からの情報が多いらしい。いや、正確には『錯乱状態に陥った目撃者』からの情報なのだが――。やはり、聞いていた通りのおぞましい存在だな。泡は……あの時と同じように襲ってくることはないが。眼窩――深淵の眼より――未曾有の毒気とやらが、波のようにやってきた。それを如何にか防護しようと、解剖の達人、巧みにドローンを展開してみせる。これで……まあ、少しは問題ないだろう。リツ、お前はすぐにでも攻撃に移れ。こくりと、隣の部下は頷いてくれた。任せてください。ギョロ、素早く撃破するからね。ギャハハ! なあ、リツ! アイツ、俺を同類みたいに見て来やがるぜ! 深紅――超加速によって眼光を残し――王劍の欠片へと飛び込んだ。……おい、リツ。手を伸ばせ。伸ばさねぇと……聞いてんのか? 何が見えたのだろうか。何を聞いたのだろうか。脳髄を抉られるかのような悪夢が、ノイズが、広がるかのように――ギョロ、ごめん、大丈夫。この程度で狂ったりなんか、出来ないから。抜き取った! 抜き取ると同時に、潰してやった。この軌跡からは逃れられない。
一ノ瀬・シュウヤは刹那、部下が躊躇したようにも見えた。勿論、ほんの僅かな時でしかないのだが、きっと、何かを見たに違いない。あの様子だと不明瞭な『もの』と考えられるが、しかし、己の方は如何だろうか。……慣れたくないものだ、このような、悪夢……。何度も、何度も、反芻している。今日はいつもよりリアルなだけで、呑み込まれるほどの、吐き気がするほどの『もの』ではない。ああ、死んでいる。死に顔だらけだ。その中にはオマエの親友の|顔《かんばせ》も……。答えはない。応えもない。だが、そうだ。俺は昔、そんな夢を見るたびに謝って……語りかけていた事が……? げふ、彼方、悪食の粗相が響く。……獏とするにはいい加減な、一昔前のカートゥーンみたいな、怪異だったな。
欠片を失くした|悪食《それ》は静かに、静かに、消え失せた。
そうして二人は互いの|悪夢《ゆめ》を思いつつ、
墓荒らしの沈黙を確認した。
