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|愛毒《ショコラ》
●愛をその手に
百貨店のアトリウムを彩るのは、ハートや花モチーフのオーナメント。
甘いチョコレートの香りも漂って、広場はバレンタイン一色に包まれている。
各地から厳選したチョコレートを販売するイベントは大盛況だ。何でもチョコレートを1個単位から好きに選ぶことができ、ギフトボックスも種類が豊富らしい。
2月14日本番に向け、今日も多くの人々が百貨店に訪れていた。そんな中、ネットから広まったとある噂が、チョコレートを買い求める人々の間で囁かれている。
「ねぇ、知ってる? ここの噂……」
「百貨店のどこかに、恋を成就させる壺があるって話?」
「そう、それそれ」
チョコレートを用意して、壺に恋が叶うようお願いするとあら不思議。チョコレートに愛の魔力が宿り、食べた人がチョコレートを贈った人に恋してしまうというのだ。
俄かには信じがたい話である。しかし、時期が時期だけに、根拠のない噂話に興味を抱く人も少なくない。
それらしき壺があるなら、願掛けくらいしてみようか――。
噂を信じていなくても、軽い気持ちで試そうとする人だって存在する。
●愛の誘惑
「結論から言いますね。恋を叶える壺は百貨店に潜んでいます。そして『愛の魔力』は『愛で人を縛る呪い』です。人々の精神に悪影響を与えます」
――壺中天への誘い手・ミメイ。今回の噂の仕掛け人……否、壺の怪異の名だ。人の情念を壺に封じて蠱毒とし、怪異を作ろうとした結果、全てを呑んだ壺自体が怪異となった。それが彼女である。
|泉下・洸《せんか・ひろ》(片道切符・h01617)は依頼について語り始める。
「噂ではチョコレートに愛の魔力を宿すとされていますが違います。実際のところ、ミメイは彼女のもとに訪れた人間に呪いをかけるのです。チョコレートが惚れ薬のようになるのはその影響ですね」
チョコレートを食べた人間は贈り主に魅了される。この魅了が、日常生活に支障を来す依存症状を引き起こすのだ。偽りの愛に狂い、互いに離れているのが苦しくなるという。
「ミメイの計画は彼らを|壺の中《壺中天》に呑み込むことです。彼女を放置してしまえば、呪いに侵された彼らのもとに赴いて囁くでしょう。『無憂の楽園・壺中天ならば、ずっと傍に居られる』と」
そのような事態を未然に防ぐため、先んじてミメイと接触し撃破してもらいたいのだ。まずは件の百貨店で、ミメイの居場所について情報収集を行ってほしい。
「百貨店ではバレンタインイベントも開催しています。一般客に紛れ、イベントに参加しながら調査しても良いかもしれませんね」
ミメイの居場所が判明した後は、彼女のもとへ向かうことになる。ただ、すぐに彼女と会えるわけではない。ミメイは会いに来た者たちが√能力者であることに気付く。彼女は異空間を形成し、そこに√能力者たちを招くという。
「彼女は世界全てを壺の内に取り込もうとしています。だからこそ、皆様のことも、壺に呑み込もうとするでしょう。異空間が齎す精神干渉に耐えて進み、ミメイ本体のもとへと辿り着いてください」
どのように精神を侵すのか。洸はその詳細についても説明した。
「『愛』にまつわる精神干渉です。あなたが欲しくても得られなかった、或いは今も求め続けている、誰かからの『愛』……ミメイはそれを読み取り、誘惑してきます。あなたが望む愛をくれる、誰かの幻が現れるでしょう」
壺の中に居続ければ、その愛が得られるのだと。甘やかな夢の中に浸っていられるのだと。誘惑に負けてしまったその時、あなたは壺に取り込まれてしまう。チョコレートのように甘く濃厚な夢に溺れ、ミメイが倒されるまで壺に囚われることになる。
●壺の噂とチョコレート
百貨店は裏に蠢く怪異の影など知らず、バレンタインのムードに浮かれている。
アトリウムでは特別なイベントが行われていた。まるで芸術品のようなチョコレートが並び、そのどれもが1個から購入可能。お好きなギフトボックスに詰めて、オリジナルのチョコアソートが作れる。
色々なチョコレートがあるけれど、一番人気は『花』をコンセプトにしたアソートスタイル。王道の薔薇のほか、椿やダリア、マーガレットなど、様々な花の形のチョコレートが揃っている。
ギフトボックスも角箱や丸箱タイプなど様々だ。包装紙やリボンの種類も豊富なので、少し探すだけで気に入るデザインが見つかるに違いない。
イベントには一般客も多く訪れている。壺の噂を調べる場合は、彼らの噂話に耳を傾けてみたり、密かに百貨店内を探ってみても良いだろう。
これまでのお話
第1章 冒険 『呪い(まじない)の壺のうわさ』
●相棒へ
バレンタインが近付き、百貨店のイベントは盛り上がりを見せている。
多くの客でひしめく会場へと、|静寂・恭兵《しじま・きょうへい》(花守り・h00274)は足を踏み入れた。
(百貨店のような人が集まるところでの怪異とは厄介だな。しかもバレンタインの催事中か……)
人波を縫うように進みながら周辺の会話に耳を傾ける。
(……やはり女性客が多いようだな。まあ、バレンタインだから当然か)
日本におけるチョコレートの祭典は、元々女性が男性に贈るイベントであった。最近は男女関係なく贈り合う傾向も増えてきたが。
(……白椿が食事が出来るならこう言った甘味もよろこんでくれそうだが……)
彼女は人形だ。チョコを贈ったところで困らせるだけだろう。
彼女には別のものを贈ることにする。ただ、怪異にバレないよう調査を行うために、一般客を演じておきたい。幸いチョコを贈れる相手は他にいる。
(アダンは最近は食べるのが楽しいようだし、普段とは違うチョコを食べるのも新鮮だろう)
日頃の感謝の気持ちを込めて、|相棒《アダン》に贈るチョコを探したい。それなら客に紛れて壺の噂も聞ける。
恭兵は会場に並ぶチョコを順番に見て回った。
(全部を花チョコにするのは少しくどいかもしれないな……中央に花チョコを置いて、周りは別のチョコにしよう)
用意したギフトボックスは竜胆色の丸箱。選んだチョコはミルク&ビターチョコのアソートだ。形はボール型と、バレンタイン定番のハート型。ハートを選んだことに、特別な意味は無い。箱の中を程よく埋めるのにちょうどよいという理由で選んだ。中心には花の形を模したチョコを一輪置く。選んだ花は当然竜胆だ。
詰め終えた後はサテンの青リボンで箱を結んで、瑠璃唐綿の花飾りを添える。
「……よし、できた。喜んでくれるといいんだが」
チョコを渡した時の相棒の顔を想像しながら、恭兵は柔らかな笑みを滲ませるのであった。
●チョコ選びのコツ
百貨店のアトリウムはチョコレートの甘い香りに満たされていた。
そして、この百貨店の何処かに、甘い誘惑を持ち掛ける悪質な怪異が潜んでいる。
「恋を成就させる壺、ですか。よくあるような、胡散臭い詐欺にありそうです」
|屍累・廻《シルイ・メグル》(全てを見通す眼・h06317)は、上階の吹き抜け沿いから会場を眺めていた。
廻の隣で、|白石・翠咲《しらいし・すいしょう》(花を撒く者・h02856)が物憂げに瞳を伏せる。
「無憂の楽園……辛くなるほどの思いをさせられた上で誘われるなんて、逃げ道を塞いで選択肢を奪われたも同然……それが幸せとは、どうしても思えませんね……」
選択肢がない状況はむしろ不幸と言えるのではないか。地獄から救い上げたと見せかけて、別の地獄に連れていく。
「逃げ道を奪って、というのもよくある手法ですよ。向こうとしては幸せなのかもしれませんが、理解は出来ませんね」
穏やかに語る廻の影でゴソリと何かが動いた。直後、飛び出してきたのは白黒の猫のぬいぐるみだ。本物の猫のようにぐぐっと伸びをして、尻尾をふるりと揺らす。さらに上着の袖からぴょこんと顔を出したのは、丸々とした小玉鼠だ。
猫の名は|幽羅《ユラ》、小玉鼠の名は|朧《おぼろ》。彼らは廻が使役する者たちである。
「幽羅、朧。貴方達も調べてきてくれますか?」
廻が声をかけると、幽羅が人語を喋り出す。
『壺か、ワシらも見ておこう』
幽羅は人波に飛び込んだ。朧もチュッと小さく鳴き、素早い身のこなしで走ってゆく。
調査を開始する廻に、翠咲も表情を引き締めた。
「考え込んでばかりではいられませんね……僕も情報を集めないと」
|花の囁き《ハナノササヤキ》を使い、インビジブルを呼び寄せる。降霊の祈りはインビジブルを一輪の花へと変えた。花を手に取り、翠咲は優しく語りかける。
「この近くで壺を持った怪しい存在を見かけませんでしたか?」
花へと転じた魂の囁きに耳を傾ける。廻も調査に出した二匹の帰りを待つことにした。
「幽羅と朧が情報を持ってきてくれると良いのですが」
百貨店は人も多く様々な情報が行き交う。中には役に立たない情報も多く混じっているだろう。まとめた上で、しっかり精査しなければ。
翠咲は何気なく会場の賑わいへと目を向けた。花チョコの売り場に人が集中している。
「花といえば……屍累さんはお好きな花、ありますか?」
ふと気になって廻に尋ねた。問いかけられ、廻の脳裏に桜色を纏う少し怖がりな後輩の姿が浮かぶ。
「好きな花、ですか? 昔は特に無かったですが、今は桜が好きですね」
「桜ですか。いいですよね。綺麗で可愛らしくて。暖かな気持ちになれる花です」
春の訪れを告げる花の名に、翠咲は双眸を柔く細めた。心に暖かさを齎すと同時、儚く散りゆく象徴でもある桜には、刹那の美も感じる。
「花のチョコレートにご興味がおありで?」
今度は廻が問う。翠咲はこくりと頷いてみせた。
「はい。お世話になった方に、後でここで買って花の形のチョコを渡そうと思っていて、参考までに……と」
バレンタインにチョコを贈るのは、恋人同士だけではない。感謝の意と共に贈りたいと思っていた。
「ふむ。でしたら、相手をイメージした花のモチーフを贈る、というのもいいかと思いますよ。花チョコの種類も豊富らしいですし、合うものがあるかもしれません。ギフトボックスも相手のイメージカラーに寄せると良いかもしれませんね」
廻の言葉に翠咲はなるほど、と納得する。廻に聞いて正解だった。
「アドバイスありがとうございます。相手をイメージした花に、ギフトボックス……あとでじっくり考えてみます」
怪異を倒し、問題を解決してからのお楽しみだ。
●春告げの贈り物
アトリウムは華やかな色彩と、チョコの甘い香りに溢れていた。
浮かぶハート型のバルーンは視界の隅に、|蓬平・藍花《よもぎひら・らんか》(彼誰行灯・h06110)の瞳は隣に佇む|白露・花宵《しらつ・かよ》(白煙の帳・h06257)を捉える。
(花宵くんと、ふたりきりでお買い物……)
蕩ける蜜のような憧れ止まぬ白煙の君。彼女を独り占めしている状況に、自然と笑みが零れる。
甘酸っぱいジャムのように愛らしい友の瞳が、自分を映していることに花宵は気付いた。蜜色の瞳を合わせる。ぷくりとした唇が描く笑みに釣られ、自然と瞳が細まった。
「人が多いねぇ。さすが、時期なだけある」
油断したらはぐれてしまいそうだ。
藍花は控えめに手を伸ばし、花宵の指先に白い指先を触れさせる。
「……はぐれたら、大変だから……」
手を、繋ぎたい。ドキドキと胸が高まるのは憧れの相手だからか。
おずおず言い訳を零す藍花に、花宵は藍花がしたいことをすぐに察する。触れた指先となんとも可愛い言い訳に、笑みが深まった。
「そうだね、はぐれちまったら大変だ」
言葉を反芻することで肯定し、小さな手を握り込んだ。
お互いのイメージに合ったチョコを選んで贈り合いたい。期待に心を躍らせながら、二人は販売ブースに向かった。互いのものはなるべく見ないように、自分のチョコ選びに集中する。
藍花が選んだチョコは赤い椿が描かれた四角いチョコだ。
(……気取らない、優美さ……うん、花宵くんっぽいのだわ……♪)
洋酒たっぷりガナッシュ入りで、お酒好きも満足なひと口。白地に銀の散る丸い和紙の箱の中心に詰め、周囲には椿花や葉っぱを模したチョコを散りばめる。白銀に咲く艶やかな椿園を箱の中に作ったら、深緋色のリボンで結んでもらって完成だ。
(彼女に寄り添う色は、やっぱり赤だと思うし……?)
灰青の髪に映える深緋はとても綺麗だから。
ふわりと流れる髪を耳にかけ直し、花宵もショーケースに並べられたチョコを見繕う。目に留まったのは桜を象ったものだ。
(このチョコ、寒桜に似てるね。あなたに微笑む……だったか、人を和ませる藍花に合うんじゃないかねぇ)
思い浮かべた花言葉は藍花のイメージによく合った。寒桜のチョコを、温もりのある藍色の箱に詰める。
お酒が好きな彼女のために、蜂蜜を加えたウイスキーボンボンも添えた。
甘き酔いに満ちる桜の箱庭を、派手すぎないシャンパンカラーのリボンで結べば出来上がり。
(これでよし、と……喜んでくれるだろうか?)
藍花の喜ぶ顔が見たい――緊張と楽しさに胸が弾んだ。
贈り物を仕上げたなら、約束どおり交換こ。
「できたのだわ」
藍花が贈り物を花宵へと差し出した。
「あたしもできたよ」
花宵も同様に藍花へと手渡す。箱のラッピングに、藍花は瞳を輝かせた。
「ボクの色……!」
花宵はくすりと微笑んで、受け取った箱を見つめる。
「お互い考えることが似てるねぇ」
リボンを解くのが勿体ないくらい、二人の贈り物は美しく整っていた。家に帰るまでは、このままにしておこう。
二人は再び手を繋いだ。歩調を合わせて歩きながら、会場の賑わいから離れる。
手のひらのぬくもりを感じながら、藍花は隣を歩く花宵を見上げた。
「中身は帰ってからのお楽しみだねぇ」
春に咲く花のように微笑む。桜のような藍花に、花宵は優しく笑みを返した。
「ああ、今から楽しみだ」
まだまだ楽しみは残ってる。暖かな息吹を心に抱き、二人は帰路をゆく。
百貨店の外に出れば、2月の冷たい風が二人の体を冷たく撫でるだろう。けれど、なんてことはない。手を繋ぎながら歩く彼女たちの心には、一足早く春が訪れているのだから。
●噂を辿る
バレンタインは恋の季節だ。心が浮かれる時期だからこそ、怪異がその隙を利用しようとするのだろう。
その悪行を許すわけにはいかないと、現場に向かうのは固い絆で結ばれた二人。
「……ヒトの心を縛る? ……よく分かりませんが、よくない事だけは、理解できました」
|四之宮・榴《シノミヤ・ザクロ》(虚ろな繭〈|Frei Kokon《ファリィ ココーン》〉・h01965)は、|和田・辰巳《わだ・たつみ》(ただの人間・h02649)と共に百貨店へと訪れた。
「『愛で人を縛る呪い』か……僕は愛でバリバリ縛ってるけどね……」
「……辰巳?」
ぽつりと呟く辰巳に榴が首を傾げる。イベント会場の賑わいに紛れてしまい、うまく聞き取れなかった。
辰巳は繋いだ手を優しく引き寄せて、榴の頬に唇を寄せる。
「何でもないよ」
ニコッと柔らかに笑んでみせた。突然のキスは、榴の頬を朱に染め上げる。
「……ひ、人の前では……は、恥ずかしいです、から……っ……」
「あはは、榴は可愛いなぁ」
赤い果実を思わせる彼女の火照った顔はとても愛らしい。胸の奥を満たす温かな感情に、辰巳は頬を緩ませた。
幸い、一般客はチョコに夢中で、二人のやりとりに気付いていない。ほっと胸を撫で下ろしながら、榴は人々の様子を眺めた。
「……これ……乙女の戦争、なんです、ね」
「みんな必死なんだ。その必死さに付け込む怪異を放置はできないね」
辰巳が表情を引き締める。依頼を前に甘い雰囲気は控えめに、作戦行動開始だ。榴もこくりと頷いてみせた。
「はい、なんとかしましょう。僕が、バレンタインに興味がなくても被害がでるから」
情報収集の準備をして、二人はパブリックスペースに身を潜ませた。休憩用の椅子やテーブルが並び、通路に面したその場所は、情報を拾うのに最適だろう。
榴は漆黒の影に|半身《レギオン》を潜ませた。彼らは榴の目と耳の役割を果たす。
辰巳も蛇と煙の式神を密かに放ち、情報収集へと向かわせた。
「壺にまつわる情報の収集、頼んだよ」
煙は空気に溶け、蛇は物陰や暗がりを這い、百貨店に紛れてゆく。報せを待ちながら辰巳は思考を巡らせた。
(今回の敵、直接接触しに来るんじゃないか……? と思わなくもない。実際先に星詠みを聞いてなかったら誘われちゃいそうだし、|そういう《・・・・》感じって分かるんじゃないかな)
一方で、榴も半身達が得た情報を、Cranberryに正確に打ち込んでいく。真実味を持たない些細な噂から、真相に足を突っ込んだような情報まで、隈無く情報を掬い上げていった。
「骨董品……出所不明の壺……百貨店のどこかの店舗に置かれている……」
榴が打ち込んだ情報は、辰巳も逐一確認する。
「売り物じゃなくて、お店のインテリアとして置かれてる場合もあるかもな」
「そう、かもしれません。もっと情報を集めて、整理する必要がありますね」
Cranberryをじっと見つめながら、榴はあらゆる情報に目を通す。
百貨店は人が多いため情報が雑多としており、全く関係ない情報まで入ってくる。
「……『今日のおすすめはマシュマロせんべい』……? ……関係ない、ですね……」
「マシュマロと煎餅って、対極に位置する食べ物のような気が……」
この世には実に色々な食べ物がある。辰巳が感心していると式神が帰ってきた。式神から情報を受け取り、辰巳は榴へと伝える。
「古美術店があるらしい。そこに行ってみたら何かわかるかもしれない」
「そうですね。壺といえば、古美術店によく置いてあるものですし」
二人は件の店へと向かうことにする。歩きながら、辰巳が思案顔を浮かべた。
「もし壺を見つけたら、買えないか交渉できたらいいんだけど」
「どうでしょう……なんだか、すごく高そうですよね……」
壺を見つけても、怪異が二人を異空間に招き入れる可能性もある。危険な状況も考え、二人は気を引き締めた。
●疑念
ハートの装飾に、販売されるチョコの数々。そしてチョコを求めて訪れた客の賑わい。バレンタインデーが近付き、百貨店は華やかに色付いていた。
アトリウムには柔らかな光が満ちている。その光が届かぬ物陰に、|和紋・蜚廉《わもん・はいれん》(現世の遺骸・h07277)は潜んでいた。全員ではないが一般客は女性が多い。|どちらの姿で《蟲人も人型》も、目立つことは避けられない。故に今は本来の姿へと戻っているのだ。
(イベントに参加するのは、事件が解決したその後だ)
擬殻布を身に纏い気配を溶かす。今の彼は背景と同じ、百貨店の片隅に沈む暗がりの一部だ。人込みの中で生じた噂を、慎重に聞き集める。
潜響骨で声の振動を感知し、聞き耳を立てた。女性の話し声が感覚器に届く。
「……恋を叶える壺ってどこにあるんだろう」
「ここってさ、骨董品を置いてる店なかった?」
「ああ、あそこならあるかもね……」
翳嗅盤も駆使し、話す者の声色と息遣いから感情の滲みを拾った。話の内容よりも、感情から生ずるものこそ信ずるに値する。彼女達からは、確信と期待の感情が読み取れた。潜響骨と翳嗅盤はこういう時こそ雄弁だ。
(真偽は不明だが、理には適っている。古美術店か……)
野生の勘が、確認に向かうべきだと告げている。
蜚廉は物陰から素早く飛び出した。古美術店の行き方を、エスカレーター傍のマップで把握する。百貨店の環境に溶け込んだまま、高速で移動を開始した。床を這い進みながら蜚廉は思う。
(愛、か……)
愛。生きる意味を考える上で、その概念は今の蜚廉にとって大切なものだ。
しかし、怪異が齎す愛は、果たして本当に愛なのだろうか。
(傍に居たい……だけでなく、居続けて欲しいと思う「これ」は。果たしてそう呼べるものなのか?)
あまりにも依存性が強過ぎるその愛は、まるで毒物のようだ。
●香る心
人間とは、色恋とイベントを絡ませるのが大好きらしい。
チョコの販売ブースは多くの客で賑わっている。バレンタインに浮かれる人々を、ヨシュア・ヴァルトシュタイン(「森の石」・h09600)は何処か冷めた眼差しで眺めていた。
「ちょっと前も愛とか恋とか言ってなかった? ヒトって忙しねえのな。ま、シゴトはしよう」
会場の人波にするりと入り込んだ。周囲に視線を巡らせながら、彼はちょうどいい情報源を探す。
(聞き込みするなら……一生懸命チョコ選んでる女のヒトとか?)
悩んでいる女性に狙いを付けた。青いリボンを解けば、|獣《ベスティア》が目を覚ます。女性の隣に歩み寄り、蠱惑的な声で囁いた。
「あのさ、恋が叶う壺って知ってる? おれ、それ探してんだ」
ヨシュアが持つ堕落の権能を前に、普通の人間は逆らえない。女性は頬を赤く染め、うっとりしながら聞かれたことを話す。
「私も人から聞いただけなんだけど……ここに入ってる古美術店にあるって話だよ」
「へぇ、そうなのか。ありがとさん」
ひらりと軽く手を振って、ヨシュアは女性から離れた。あの女性にも想い人が居るかもしれない。強制的に魅了するのは可哀想だが、すぐに忘れるだろうし問題ないだろう。
(一回に一人しか愛しちゃいけないことになってるのに、愛したら、その一人になることを願わずにはいられないって、ヒトって悪魔より強欲だな。そのお陰で|後悔《エサ》食えてる身だし、とやかく言いはしないけど)
情報収集がてら会場を回りながら、ふとショーケースの商品に目を留めた。
花の形を模したオレンジピールに、チョコをコーティングしてある。商品名を見ると、『サンダーソニア』と書かれていた。提灯のように膨らんだ見た目が可愛らしい。
「……風変わりなチョコだな。けど、紅茶に合いそうだ」
サンダーソニア。花言葉は『祈り』である。
●幸せの贈り物
百貨店のアトリウムに広がる活気は幸せの色。
天井から提げられたハートの飾りが、風にそよぐ花のようにふわふわと揺れる。
そしてその眼下には、楽しげな人々と、ずらりと並んだチョコの数々。
華やかなイベント会場に、ココ・ロロ(よだまり・h09066)は瞳を輝かせた。
「ツィリさんたいへんです! チョコがたくさんあります!」
「ねっ! チョコの海くらいたくさんある!」
|夕星・ツィリ《ゆうづつ✱⃟۪۪۪͜ːु⟡⋆⁺.⋆》(星想・h08667)も、甘い香りが漂う海へと漕ぎ出した。
並ぶチョコはまるで芸術品。ショーケースの中で宝石のように艶めく。
甘やかな空気をすうっと吸い込んで、ココもチョコの海を楽しむ。
「いっぱいキラキラしてますね! 綺麗です!」
この場所にいるだけで幸せいっぱいになってしまいそう。
けれど、此処ではもっと素敵なコトができるのだと、ツィリはココに提案する。
「チョコの甘くて良い香り! この中から自分のオリジナルが作れるの夢みたい!」
「……えっ、じぶんのつくれるのですか? すご~い!」
「こんなにあるんだし……自分用の他にも1つ作って交換会してみない……?」
「こうかんかい……? ふふ~、もちろんよろこんで~!」
断る理由なんてない。むしろ大賛成!
嬉しそうに笑うココに、ツィリも笑みを返した。
「ふふっ、気合入れて作っちゃう!」
二人は早速販売ブースに向かい、それぞれでチョコとギフトボックスを選び始める。
「まずはココの! お花をいっぱい詰めましょう!」
ココが選んだのは、ポピー、ひまわり、コスモス、カランコエ。白い丸箱に詰めて、チョコ色リボンで可愛く飾り付けた。一方で、ツィリも自分用チョコに取り掛かる。
「お花で四季のボックス作りたいな」
春の桜に夏の向日葵、秋のダリア、それから冬のスノードロップ!
グラデの角箱に詰めて、シフォンのリボンをふわりとかけて、出来上がり!
ココが完成したチョコボックスをちょこんと頭にのせて、ツィリに見せた。
「ふふん、ココチョコできました! ツィリさんはなにに……お花?」
「うん、四季のお花で作ったの!」
巡る季節を思わせるツィリのチョコボックスに、ココが歓声を上げる。
「わあ~! じつはココもきせつのお花にしたのですよ。あとでみせっこしましょうね」
自分用を作ったら、お次は交換用にもうひとつ。
「次はココ君との交換用を決めなくちゃ! テーマは美味しい雫!」
ツィリが選んだ箱は、ティーポット型のボックス。色とりどりのティアドロップのチョコを詰めてゆく。
赤はラズベリー、ピンクはストロベリー、緑はピスタチオ。後はオレンジと定番のミルクも忘れずに! 金色リボンをかけたら完成だ。
「喜んでくれますように!」
チョコがもっと美味しくなるおまじない。胸いっぱいの幸せと喜びを願った。
ココもツィリのことを考えながら、贈り物を準備する。
「おともだちのだとおもうときあいはいりますね! ふんす!」
選んだモチーフは、お星さま、お月さま、貝がら、シマエナガ。
何にしようか迷ったけれど、やっぱりお空と海、それに小鳥が彼女らしい。
海空を舞う小鳥を星空柄のブックボックスに閉じ込める。最後は白のリボンを飾り、可愛い物語の出来上がり。
「ツィリさん、いつもあそんでくれてありがと~!」
ココの小さな腕に抱えられた物語は、きらきらと煌めいている。
美しい贈り物に、ツィリは双眸をふんわりと細めた。
「こちらこそ! 私からも……はいっ、どうぞ!」
ツィリも心を込めて用意した贈り物を渡す。
「とってもかわいいおくりもの、ありがとうございます~!」
甘いティータイムを思わせるチョコボックスにココは喜び、尻尾をぶんぶんと揺らした。
「気に入ってくれてよかった! これからもよろしくね!」
素敵な贈り物を胸に抱けば、甘い幸せが心へと溶け込んでゆく。
なんだか、食べてしまうのが勿体ない。
●自分に愛を
百貨店に集まる人々は、バレンタインシーズンの甘い催しに心を躍らせる。
怪異の存在を知らぬ人々が、危機に晒されぬよう守らなければ。
「恋心を利用し人々を誘惑するなんて、放っておけませんね。バレンタインは、人を縛る日ではなく人を繋ぐ日でなくては」
アリス・アイオライト(菫青石の魔法宝石使い・h02511)は会場へと訪れた。
(歩き回るだけというのも怪しまれるかもしれませんし、せっかくですからチョコレートも購入していきましょう)
お世話になっている人たちへのプレゼントはもう準備してある。だから今日は自分用に買いたい。
一番人気というお花のチョコから選ぶことにする。ショーケースの中に、様々な花を模したチョコが並べられていた。
「薔薇とマーガレット、あとは……カーネーションも良いですね」
ビターチョコの薔薇に、ホワイトチョコのマーガレット。あとはストロベリーチョコのカーネーション。数個ずつ選んだら、次は箱を選ぶ。
「どの箱にしましょうか……」
自分用だし気を遣う必要はないけれど。考えた末、菫色の角箱に入れて、空色のリボンで飾り付けた。
客として楽しみつつ周囲の会話を盗み聞きすることも忘れない。若い女性が二人、チョコを選びながら話している。
「恋を叶える壺ってどんな見た目なんだろ」
「SNSに上がってたよー」
(SNSに……検索したら画像が出てくるかもしれません)
アリスはスマホを起動した。もしかすると、壺の場所に繋がりそうな情報がわかるかもしれない。
(ここを、こうして……あら、変なページに……)
指で画面をつつくたび、スマホはアリスが望まない挙動をした。画面に表示された広告を開いてしまったり、文字を入力しようとしても誤字になり、思うように打てない。
「……ううん、スマホ操作はやっぱり苦手です!」
自分の足で歩き回って調べた方が早いかもしれない……。
●甘くとろける
硝子の自動ドアを潜れば空気がガラリと変わる。有名なハイブランドが立ち並ぶフロア、磨き上げられた床に反射する光。高級感漂う通路を進んだ先、爽やかに吹き抜けるアトリウムが広がっていた。
「へぇ、いいねぇ。何だが百貨店ってちょっと背伸びするような気持ちかも」
|御埜森・華夜《みのもり・はるや》(雲海を歩む影・h02371)は催事場に集まる人々を眺めながら紡ぐ。
活気づく人波に、|汀羽《みぎわ》・|白露《はくろ》(きみだけの御伽噺・h05354)も目を向けた。
「まぁ、百貨店も元は呉服店から生まれたものだからな。どこかその頃の佇まいのようなものが受け継がれている節もある」
人々の先にはチョコの販売ブースが競うように軒を連ねる。甘い香りに誘われて、華夜は口元を緩ませた。
「不思議だけど、まぁいっか」
深く考え込むより祭典に乗っかってしまった方が楽しい。華夜は人の波に飛び込み、ずんずんと先に進んでゆく。そんな華夜の後を白露が慌てて追った。
「――って、おい……」
「わぁ……こんなに沢山あったら迷ってしまうね!」
華夜はチョコを見てまわる。王道から風代わりな物まで、多種多様な商品が並んでいた。
元々甘いものは好きだし、最近美味しいお茶の淹れ方も若干レベルが上がってきた。お茶と一緒に高級なチョコを頂くのもアリかもしれない。
華夜があれこれと考えを巡らせる一方で、白露はどうにか人混みを掻い潜り華夜の隣についた。早々に思考を止めた華夜に、つい口が出そうになる。
「かや、あんまりウロチョロしてると……」
人にぶつかるぞ、なんて言おうとしたけれど。嬉しそうな横顔を見たら、水もさせずに黙り込むしかない。なんだかんだ言いつつも、大切な人には笑顔で居てほしいから。
白露に見守られながら、華夜はとある商品に目を留めた。沢山の菓子がある中で、ふと目を惹いたのは、華やかな匣に納まる花弁めいたチョコだ。
「わ、見て白ちゃん綺麗じゃない? なんか色々入れて吹き寄せみたいなのしてみようよ。花弁チョコと、金平糖とかクッキーとか選んで詰められるみたいだし」
「吹き寄せか……まぁ、たまにはそういうのも良いか」
表面上は、よく考えた上で了承しているように見える白露。だが、実のところ二つ返事である。なによりも、大切な人が喜ぶならばそれ以上のことはない。わざわざ口に出すのは恥ずかしいから言わないが。
華夜はご機嫌な様子で、菓子を詰める箱を探す。選んだのは、外側が雪のように純白の箱だ。
「この箱にしよっと。中が翡翠色で、春手前って感じがして綺麗だし!」
華夜の選んだ箱を、白露が一瞥する。
「その色……」
「ん? どうしたの?」
「……確かに、きみが好きそうな配色だな」
白露は穏やかに言葉を紡いだ。箱を染めるのは|華夜の色《春色》と|翡翠色《白露の色》。その事実に気が付けば、白露も悪い気はしない――つまり、すごく嬉しい。
箱を見つめる白露に、華夜は柔らかに微笑んだ。
「うん、好きだよ」
とくんと白露の心が跳ねた。コホンと咳払いして、白露は気持ちを切り替える。
(俺も倣って菓子を選ぶとしよう……どうせあとで「白ちゃん味見させて!」とか言ってくるだろうからな)
箱の配色は自分の色にする。華夜しか知らない白露の本体の色だ。外装と同じ配色の外側が焦茶色、内側がボルドーの箱を選ぶ。羊皮紙めいた紙面はまるで洋書のようだ。
箱の準備ができたら、紙面の色によく似たプレーンクッキーを配置する。詰めすぎるとバランスが悪くなるので、程よく上品に。
「……よし、これでいいだろう」
紅茶を飲みながら読書のお供に――そんなキャッチコピーが似合いそうな菓子詰の出来上がりだ。
一方で、華夜も吹き寄せ風のチョコボックスを完成させる。
春の訪れを感じさせる箱だ。カラフルな金平糖は春の妖精。花弁のチョコはクッキーの大地から芽吹いた花々のよう。
「ふふっ、可愛くできた」
春の予感を感じながら、最近上達したお茶を淹れて。大切な人と……華夜の場合は『神様』かもしれないが、一緒に味わう春告げの吹き寄せは、きっと美味しい。
――なんてヘラヘラしてれば、ふと聞こえる女の子たちの囁き声。
「……ねぇ、恋を叶える壺ってホントにあるのかな?」
「本当にあるなら見てみたいよ。だって……」
好きな人がいて、振り向かせたくて……初々しいのにどこか毒めいた言葉ばかり。あの子は可愛い、あの子はズルい――だからお願いをするの、なんて。乙女の嘆きに華夜は双眸を細める。
(勿体ないよね、“恋”してる君たちは十分可愛いのに)
人はいつだって何かを求めて、自分がそれを手にしていても気付かない。
失った、奪われた、手を伸ばしても届かない。そんな想いばかりに囚われてしまう。
華夜の表情に差した僅かな翳りに白露が気付いた。
(……何か難しいことを考えてるな)
きっと、『考え過ぎると良くないこと』だ。直感で思う。
話しかけて思考を止めてしまおうか。口を開きかける白露だが、先に華夜の手が白露の袖へと触れた。
「……ちょっと|白ちゃん《神様》、ちょちょいと叶えてあげてよぉ」
くいくいと袖を引いて、付喪神様にお願いする。白露は深い溜息をついた。
「全く……俺を何処ぞの猫型ロボットのように扱うな!」
呆れ半分、安心半分。そう簡単に願いを叶えられるなら苦労はしない。
お断りな白露に対し、華夜は白露をじいっと上目遣いで見つめている。
「ねぇ、だめ……?」
子猫のような眼差しで見上げてくる華夜に、白露は心臓を掴まれたような心地だ。
「っ……だからそのあざとい顔やめろ……!」
華夜の愛らしい仕草は、白露をチョコレートのように甘く溶かしてしまう。
いくら表面上は毅然としていても、彼は華夜にお熱なのだ。
●バレンタインの魔法
大好きなあの人と結ばれたい、大好きなあの人と過ごしたい。心に転がり溶ける味わいは、まるで甘酸っぱいベリーチョコレートのよう。
……けれど、依存性が高いその味に、夢中になり過ぎるのはあまりにも危険だ。
「恋を成就させる壺ってフレーズだけなら詐欺まがいの商品みたいモグね」
百貨店の催事場にて、モコ・ブラウン(化けモグラ・h00344)はチョコを求めて賑わう人々を注意深く観察していた。彼女の隣には、|史記守《しきもり》・|陽《はる》(黎明・h04400)が肩を並べる。甘い色彩と香りに包まれるその場所は、彼にとって縁遠い場所のように思えた。
「壺の怪異ですか。放っておくと大変なことになりそうですから早く対処しないといけませんね」
「うん、その通りモグ。この手のヤカラは一般人を巻き込む前にさっさと片付けないと厄介モグ」
モコは真剣に頷いてみせる。事件が起きる前に叩いてしまいたい。精神汚染される一般人が出てしまったら、対処もより面倒になる。
「それにしても精神干渉してくるタイプの怪異ですか。性質も厄介ですが、まずは見つけ出さないといけませんね」
怪異は百貨店のどこかに潜んでいるらしい。どのように情報を集めるか。思案する陽に、モコは自信に満ちた表情で人差し指をぴっと立てた。
「こういう人を惑わせてくる系は、まずは術中にハマったフリをすると誘き出しやいとモグの経験則が言っているモグ。だから、まずはたくさんチョコを用意するモグよ!」
チョコレートいっぱいモグモグ大作戦である。これは決してチョコが美味しそうだからとりあえず食べたいとかそういう話ではない。どう考えてもチョコを食べたい気持ちが透けているが、モコを心の底から尊敬している陽は気付かない。
「なるほど、さすがモコさんです。さっそく作戦を開始しましょう!」
二人は販売ブースに向かう。より濃くなるチョコの香りに、陽は僅かに眉を寄せた。甘い物は苦手だ。
表情を引き締める。今回の敵は陽にとって厄介な相手に違いない。カミガリとしては致命的な、精神汚染に対する耐性の低さ。陽は悔しくも己の弱さを自覚している。気を強く持とう。魔除けの意味を込めて貰ったネクタイピンへと無意識に触れた。
怪異は愛で人を縛る呪いをかけるという。望む愛を読み取り、誘惑してくるのだと言っていた。
(俺が欲しい愛って、なんだろう……)
恋愛的な『愛』だけではないのだろう。しかし、この場の雰囲気がどうしてもそういう方向を意識させた。誰かを好きになる、誰かと添い遂げる。とても遠いことのように感じて、陽には想像ができない。いつかはそういう相手がみつかるのだろうか。
(毎日が忙しなくて、それどころじゃない気がする。月代の件もあるし……)
父さんのような刑事になる。理想に向かって走り続ければ、色恋事など見落としてしまいそうだ。
ぐるぐると考えていた陽の思考を、モコの嬉しそうな声が遮った。
「わーい、選びたい放題モグ! ギフトボックスに詰め放題モグね!」
商品棚にずらりと並んだチョコの数々に、モコはキラキラと瞳を輝かせる。ふんわりまろやかなミルクチョコから、苦味の強いハイカカオチョコまで幅も様々だ。
チョコをたくさん詰められる、大きくて頑丈な箱を選び、早速チョコ選びを始める。
「お花の形はとてもオシャレで良いモグけど、モグからしたら重要なのはチョコの味……! まずはお一つ味見モグね」
板チョコ、プラリネ、トリュフに生チョコ……。
「どれにしようモグ~……コレに決めたモグ!」
生チョコをおひとつ手に取って、ぱくりと口に放り込んだ。生クリームの甘味がふわりと溶けてゆく。舌の上に広がる幸せの味に、モコは表情をふにゃりと綻ばせた。
「うん、甘い。口の中でとろけるモグ~っ!」
天に昇るような気持ちだ。もっともっと味わいたい。
ふわふわ飛んでいきそうなテンションのまま、別の試食へと狙いを付ける。
「お酒が入ってるやつもあるモグね〜〜! あー、このほろ苦なのも美味しそう……」
リキュールが入ったボンボンショコラに、ビターチョコレート。どれも美味しそうでモコの食欲を誘う。
楽しそうなモコの姿に、陽は視線も心も奪われた。幸せそうな彼女を見ていると、胸の奥がぽかぽかする。陽も釣られて嬉しい気持ちになった……が、微笑ましく思うと同時、今は仕事中であることを思い出す。
「モコさん? あの、俺達仕事できたんですからね?」
控えめな口調で伝えると、モコはぴたりと手を止めた。彼女の手では、板チョコの欠片が食べられる瞬間を待っている。
「え? 仕事? んん、ゴホン。モグ。……当たり前モグよ、ちゃんと覚えてるのモグ」
モコは板チョコを口の中に迎え入れた。ぱきん、と硬い音がする。
もぐもぐとチョコを味わい続けるモコに、陽はひとつの考えを抱く。
(もしかして、チョコに夢中で仕事を忘れかけてたんじゃ……いやモコさんに限ってそんなことはないはず)
そう、そのようなことは断じてないはずだ。陽にとって、モコは超かっこよくて頼れる先輩なのだから!
「とにかく、あんまり食べ過ぎたら駄目ですよ。チョコって、食べ過ぎると石ができやすくなるんです。結石の原因になる『シュウ酸』が多く含まれていて……」
陽はモコの体を案じる。モコは新たなチョコを手に取りながら、キリッと表情を引き締めた。
「シキくん、これは文字通り体を張った作戦なのモグ。まずはチョコを買っている客に紛れ込んで、まんまと術中にハマっているフリをするモグ。これは決してチョコ選ぶのたのしーからとかそういうことじゃないのモグ」
真面目なモコの表情に、陽は容易く流される。
「んー……確かに場に馴染むという意味では楽しんでいる人の振りをするのは大切なのかも?」
折角の機会だ。普段お世話になっている署の人達に、何か買っていこうか。チョコ以外にも様々な菓子が販売されている。陽は手近な棚に積まれた箱へと目線をやった。
(チョコスティッククッキーか……カロリーバーと形が似てる……)
モコはチョコをひとつ指先でつまみ、陽の口元へと持ってゆく。
「ほら、シキくんにもあげるから見逃してモグ? ビター系のチョコもあったから絶対美味しいモグよ?」
ハートの形をしたチョコだ。差し出された陽は当然戸惑う。甘い物が苦手なのにチョコは厳しい。
「え、あの、甘いものはちょっと……俺は大丈夫……それにビターって言っても絶対甘いですよ」
「俺大禁止モグ! はい、あーん!」
「俺は大丈もごっ」
ずもっと強引にチョコを口の中へと押し込まれる。陽はチョコの甘さに咽る未来を瞬時に想像した。口に広がる甘みが舌に絡み付き、強い不快感を齎すだろうと。しかし、その予想は大きく外れることになる。
身構えても恐れていた感覚は訪れない。
ほろ苦い甘さは舌の上で軽やかに転がり、ふんわりと溶けてゆく。
「あ、あれ? 本当だ……おいしい」
呆気に取られる陽に、モコがニッコリと双眸を細めた。
「そうモグでしょ〜〜〜? シキくんの分も先輩が奢ってあげるのモグ!」
計画どおり。上手く誤魔化せたとモコは心の中でニヤリと笑う。誤魔化すためとはいえ、とんでもないことをしたような気もするけれど。
近くにいた一般客の女子たちが、二人を見てヒソヒソと会話している。
「ねぇ、すごい見せ付けられてる」
「イケメン彼氏羨ましすぎるんですけど……」
その会話はモコにもバッチリ届いた。周囲から二人はカップルだと思われている。
(……ま、まあ捜査のためモグな)
今更恥ずかしくなってきたが、捜査のためと割り切って思考を切り替えた。
一方で、陽は未だに首を傾げている。
(おかしいな……甘い物は一切ダメだったはずなのに、モコさんから貰った|幸せ《甘さ》はとても心地が良かった)
不思議な魔法に掛けられたように、陽はその甘さに惹かれる。ビターの余韻を残しながら、可愛らしいハートのチョコは蕩けゆく。
第2章 冒険 『幻惑空間』