シナリオ

傲れよ不羈奔放どもよ

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 暗渠に一匙混ぜたるは、秘伝の|醤《ジャン》に|花椒《ホァジャオ》と|八角《パージャオ》、|陳皮《チンピ》に|桂皮《グイピ》、|五香粉《ウーシャンフェン》。
 草臥れた軒先から見上げる空は小さく遠い。ここは積層都市のⅣとⅢの境目だ。無数の電気コードが奔る升目の空は晴れやかだが、そんな恩恵はこんな層までちっとも降りてきやしない。
 死にかけの電灯は永遠にヂヂヂと不愉快な不協和音を撒き散らし、ネオン・ピンクの看板は昼夜問わずに消されていた試しがない。まあ尤も、何処ぞの酔客の殴り合いの余波を受け、電球が幾つか潰れてからはマシになった。眩しくなくていい。
「――親父、炒飯!」
「おいクソガキ順番抜かしやがって、俺が先に白湯麺つったのが聞こえてねえのか!?」
 すぐ乱闘になる。ここはそういう場所だ。
 片方が卓上の箸入れを掴み相手をぶん殴れば、いつのまにやら湧いたギャラリーが歓声を上げ割り箸が飛び散る。厨房にまで舞い飛んでくるそれを鍋蓋で弾き返し、ぶっきらぼうな親父がドンとカウンターに料理を置いた。
 色褪せ端の欠けた皿の上で、じゅわじゅわと細かな油が熱々の音を奏でている。ぱりっと狐色に揚がった皮はぴんと角まで保たれて、透けた中身は海老に筍、春雨木耳人参に青椒。しっかり味のついた肉餡がすべてを繋ぎ止めている。
「春巻一丁」
「あいようハルマキー!」
 チャイナドレスにエプロンを着けた元気な少女がガッと皿を掴み、あちこちで乱闘だの口喧嘩だのが絶えぬ店内を見回した。
「春巻きこっちこっち!」
 奥の方でふくよかなマダムが手を振っている。にこっと笑った少女が皿を掲げ持ち、大股で駆け寄った。
 水がダン、皿がドン、ついでに酢醤油の皿もデン! とリズミカルに置かれる。当然酢醤油が飛び散ったが、客は気にする様子もない。
 ――ここは、そういう|場所《店》なのだ。

 看板はとっくにどっかへ吹き飛んで、屋号なんざ残っちゃいない。
 誰が呼んだか――ようこそ、悪食飯店へ。


「美味い飯、食い行かへん?」
 黒く塗られた爪の先が電子煙草を口許へ運ぶ。
 吸い口を咥えてゆったり吸い上げ、ふうと細く息を吐いた男は開口一番そう告げた。
「折角おたくさんらンとこと行き来出来るようなったんやし、よっしゃ観光案内でもしたろか思ててんけどな。まあそない平和な界隈でもないよって……ア、悪い悪い、星詠みや」
 片手をひらりと上げ、前髪で分厚く目許を覆った大男――|冥《ミン》・|禍景《フージン》(殃禍・h12348)は悪びれず名乗る。
「ここいらじゃ一番美味い飯屋があんねん。ここまで来たンならもうマジで絶対行っとかなアカンてくらい美味い。でな、そこ教えたるよって、ついでに面倒事片付けて来て貰えんやろか」
 ああ、と居並ぶ面々を見回して、眉を上げた気配があった。見えなかったが。
「そない肩肘張らんでもええ、ええ。――この辺じゃあ金持ちどもが、自分の力の誇示ってンで妖魔をペットにするんが流行ってんねん。それが逃げ出してんけど、」
 怠惰に電子煙草の吸い口を咥える。
 特有の甘ったるい残り香ばかりが在る。
「見た目は可愛い雪豹やねんけど、まあ妖魔やさかい、野放しには出来ひん。要はそれの処理……討伐やね。ただなあ――」
 唇にそれを食んだまま、言い淀む様な間があった。
「元々、別の場所を根城にしとる妖魔を連れて来はったんやて。やから、帰巣本能、言うんやろなあ。逃げ出した雪豹――シュエバオ・マオマオが逃げ込んだ先は最下層、|鬼城《ゴーストタウン》や」
 |鬼城《ゴーストタウン》――まだ耳慣れないだろうその単語は、積層都市の下層を示す名詞だ。
 人間に対し害を為すものばかりが犇めいている、どうしようもない掃き溜めの。
「所有者の手許を離れた妖魔なんざ、ただの討伐対象や。見た目がかわええからやり辛いかもしれんけど、まあ頼むわ。|鬼城《ゴーストタウン》にこれ以上妖魔増やしたないねん」
 口中に溜まった煙をふう、と細く吐き連ねる。薄らたなびいて、すぐに消えた。
「……ま、とりあえずは飯食うてからでええわ。味はピカイチやねんけど、ちょーっとだけ客層が……ウン……良くはあらへんな、店……もまあ……ガラが……良くはあらへんけど」
 同じ言葉を二回繰り返した。どうやら、店も客層もあまり印象が宜しくないらしい。
 但し美味い、と念押しの様に言い添えた。
「腹拵えしてから、妖魔探して駆除頼むわ。何せこの積層都市や、|鬼城《ゴーストタウン》を目指すとなると、上から下へ駆け抜けて貰わなあかんやろな。おたくさんら、パルクールとか出来はる?」
 まあ出来んでもええけど怪我せえへんようにな、と男の唇がいびつに擡げられた。
 笑っているようだった。
「――ほな、宜しゅうに」

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第1章 日常 『悪食飯店へようこそ』


●悪食飯店
 店内は薄暗い。割れたまま明滅を繰り返す電灯が幾つかと、厨房の豆電球が在るばかりだ。
 壁にはいつから貼ってあるのかわからないくらいに日焼けした、料理名を記した長方形の紙がみっちりと隙間なく掲げられている。辛うじて値段が読めるが、どれも驚くほど安い。
 乱闘騒ぎが絶えない所為か、椅子も机もぼろぼろだ。皿だって欠けているものが多い。しかし店内のどこもかしこも、不衛生さは不思議となかった。
 愛想はなくとも愛着を持って、この店の経営を続けているのだろう。

 看板メニューの炒飯は、毎日昼過ぎには売り切れになる人気っぷりだ。油を纏ってぴっかぴかの米に、絶妙な火入れの卵が絡みついて黄金色に光り輝く。味付けはシンプルに塩と鍋肌に伝わせた鶏ガラスープと醤油、それからみずみずしい青葱。親父は適当に盛り付けるので、多かったらアタリの日だ。
 上層に行けば照り照り琥珀色の北京ダックも味わえようが、ここには鳥と言えばあの鶏しかない。肉質の柔い若い小振りの鶏の腹に、たっぷりのスパイスで炊いた香味野菜と米を汁ごとぎゅっと詰め込んで、オーブンにぶち込んで焦げるまで焼けばほろほろ崩れる丸鶏焼きの完成だ。食べやすさに一切の配慮は存在しないので、手と口を盛大に汚しながら食べるのが王道であろう。
 蒸しものだって忘れてはいけない。王道の肉饅頭はひとつひとつが掌ほどもある大きさで、もっちもちの甘い皮に粗挽きの肉餡が良く絡む。親父は何せ大雑把なので、自家製粗挽きが多少ゴロつきすぎていても御愛嬌だ。
 手打ち麺は太さこそまばらだが、小麦の薫りも豊かに卵の黄色が酷く眩しい。親父は何にでもこのちぢれ麺を使うが、不思議ときりっとした醤油ベースにも、まろやかな鶏白湯にも、がつんとあと引く大蒜豚骨にもぴったり嵌まる。
 おっと、デザートだって無論美味しい。とろっとろであっちあちの黒餡が詰め込まれた胡麻団子はいつ来たって個数が違うし、蕩ける甘さの練乳と混ぜ崩しながら食べるふるふるの烏龍ゼリーだって当然、量が毎度振れ幅が烈しい。

 店を構える場所も、常連客の客層の悪さも、がさつで無愛想な店員たちも、すべてがこの店のマイナスポイントだ。だと云うのに客足は途切れず、毎日毎日大繁盛――そう、何故ならすべてが美味いから!
 然し来店時には気を付けるべきだろう。常連客は今日も店内で殴り合いの喧嘩を始めるし、とばっちりでレンゲがすっ飛んで来る事だってある筈だ。白刃取りを試みるもよし、メニュー表を盾にするもよし。店員だって大忙し、外様のお客にだって特別扱いなんざしやしない。
 然し気が向いたなら、足を運んでみると良い。
 喧しい店内で、お行儀も何もかもを忘れて大口をあけてかぶりつく料理の数々は、きっと目を瞠るほどに美味いのだから。
一文字・伽藍

●アンチ・ダイエット
「美味しいご飯は体に良い……」
 一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)は瞑目する。
 ふっくら艷やかな米はしっとりと油を纏いぱらりと崩れ、旨味と甘味を噛み締めている口中に羽根付きの餃子を追加したときの衝撃たるや。カロリーに添加物を倍乗せしたなら、塩分だって流し込まねば。
 それらはきっと万病に効く。効くだろ。信じろ。
「すみません大盛り炒飯と餃子とフカヒレスープお願いしまーっす!」
 カッ、と青い眸が冴え冴え瞠られ真っ直ぐに厨房を射抜く。親父はどでかい中華鍋を振る手を止める事なく、あいよ、と渋い声ですべてを受け止めた。
「しっかし、先に聞いてはいたけど賑やかだねェ」
 ふ、と伽藍の口許が綻んで笑った。静まり返って何も言えない様な、じめじめと辛気臭い雰囲気で食べるよりずっと良い――などと頷いていると、ひゅっ、と何かが軽やかに空を切る音がした。
 |中身《醤油》がちょっぴり零れ、伽藍の傍ぎりぎりに染みを作る。
「ちょっと~醤油瓶どこから飛んで来てんの? やっか? あ??」
 クイックシルバーで宙空にそれを支えながら、思わず腰を浮かしかける。
 ところに、華やかな八角の薫りがその動きを引き止めた。
「オネーサンはいおまちィ!」
 ダン、ダン、ダン! と派手な音を立てて皿が居並ぶ。湯気が美味しさを孕んで暴力的に五感を殴り付けてくる気さえした。
 ここには栄養バランスも健康第一も、ロカボも糖質オフも何もかもありゃあしないのだ。脂質が伽藍を口説き落とし、その先には塩分が待ち構えて花束の代わりにレンゲと箸を差し出している。
 伽藍が炒飯を口中へ押し込む。甘い米の味にガツンと塩味が絡み、然し葱の爽やかさと卵のまろやかさが全てを繋ぎ止めて調和に纏め上げている。絡める様に注ぎ込むフカヒレスープの深みの何と幸せな事!
「腹八分目は明日からでいっかぁ」
 落ちそうな頬を支え、リップの代わりに油が燦めく唇が笑った。

ノヴァ・フォルモント

●どっちもはんぶんこ
 ひゅん、とノヴァ・フォルモント(月光・h09287)の頭上を、どこからかカッ飛んできたナイフが真っ直ぐに抜けてゆく。
 ちょっと頭を下げてやり過ごした。
「此処が噂の店か……」
 実感も籠ろうと云うものだ。
 襤褸切れのような暖簾に屋号の読めなくなった看板、あちこち罅の入った窓硝子。確かに美食家が選ぶ様な店ではないのだが、客足は途絶える事がない。
「ええと……そうだな、肉饅頭と烏龍ゼリーを」
 服の中に匿った仔竜を宥める様に撫でながら、ぶっきらぼうな店員に告げた。
 丁度蒸し上がったタイミングだったらしい、びっくりするほどの早さでテーブルの上へと二品が揃う。見ただけで解るふかふかの肉饅頭に、ひんやりと冷気を纏う烏龍ゼリーには練乳の帳が実に美味しそうだ。
「――ノクス、そろそろ出てきても大丈夫そうだ」
 周囲を見遣ってから、服の中の仔竜をテーブルの上に出してやろう。あまり遠くには行くなよ、と声を掛けるものの、仔竜はきょときょとと周囲の様子を見回すのに忙しい。聞こえていただろうか、とノヴァの口許が浅く笑う。
 芳しい薫りと共にほかほかの湯気を昇らせる肉饅頭に興味津々の様子で、ならばとその眼前でノヴァの両手が肉饅頭に掛かる。大きなそれをぐ、とふたつに割れば、途端に怒涛の様に白い湯気が視界いっぱいに広がった。
 ふうふう吹いて、口に運ぶ。肉汁と共に溢れ出る油は甘辛い味わいが感じられて、痺れる様な辛さがあった。|花椒《ホァジャオ》だ。
「熱っ、……あ、でも、美味い」
 はふ、と息を零して烏龍ゼリーに手を伸ばす。良く冷えた器から一匙掬い上げてつるんと流し込めば、軽やかな甘さと烏龍茶の涼やかな風味が油の残滓を押し流してゆく。相性がばっちりだ。スパイスの刺激が残る繊細な粘膜に、練乳の蕩ける甘さが慰撫するみたいで。
 思わず笑ってしまう。仔竜と見つめ合って、なあ、とノヴァは双眸を眇めた。
「確かにコレは――夢中になってしまう味だな」

遠宮・弥

●痺れるくらいに良い女
 ――がしゃーん! と派手な音が鼓膜を劈かんばかりに出迎えた。
 どうやら酔客同士の喧嘩の様だ。囃し立てる野次の中で、恰幅の良い男ふたりが殴り合っている。
「喧しいと言えばそれまでだが、こういうのは活気だろう。私は好きだよ」
 遠宮・弥(毀れる音律・h00241)が寛ぐ様に頬を緩めて微笑んだのは、遠巻きにする客もその有り様に手を叩いて笑いながら喝采を飛ばしていたからだ。
 独り言ちて、湧き上がる店内を悠々と横切り空いている席に着く。
「麻婆豆腐はまだある?」
 席に着く間に呼び寄せた店員の少女は、弥が問うのに満面の笑みで親指を立てた。ならばと翡翠餃子に春巻を重ね、と来れば炒飯だって外せない。ぽんぽんと軽やかに飛ぶ女の注文に、ハイハイハイと元気にいらえて店員はカウンターにすっ飛んでいった。
「よう姉さん、ここいらじゃ見ねぇ顔だな! どうだい、酌でもしてくれよ」
 ド派手な喧嘩を繰り広げていた酔客が、すっかり千鳥足で絡んでくる。周りが見えていないのか、ふらふらと右に左に傾き序でに周囲のテーブルに体当たりし放題だ。その度、落ちそうになる皿を迷惑そうに他の客が抱え上げて避難させているのが見えた。
 片眼を瞑る。見ていられない。
「やれやれ、折角の食事だって言うのにさ。――ほら、ほかのお客様のご迷惑、ってね」
 軽やかに弥の爪先が足払いを掛けると、不明瞭な呻きを上げて酔客が仰向けにすっ転ぶ。大変良い音と共に後頭部をぶつけたらしい、それで漸く静かになった。
 店員の少女が片言で礼を告げてくる。同時にドンドンドン、とリズミカル且つ乱暴に皿が並べられた。丁度頃合いだったらしい。
 ふわりと香る湯気からして、鼻腔を擽ると共に既にツンと辛い。|花椒《ホァジャオ》のビリリとした辛味の向こうに、豆板醤のコクが見え隠れしている。思わず真っ先にレンゲに手を伸ばし、ぱくりと口に含めば刺激は予測の数倍だ。
 背筋に電撃が奔るかの如き一撃に、弥はふるりと震えて身体を伸ばした。
「ふふ、これからの仕事には良い腹拵えだ」

雨夜・氷月
夜鷹・芥

●満たすは腹ばかりでなく
 薄暗がりの満たす店の片隅に、華が二輪咲いている。
「氷月、何食う?」
 黒い華――否、黒地に金花の刺繍を縫い込んだ仕立ての中華服を纏う夜鷹・芥(stray・h00864)は、傍らに侍る白い華に向けてそう訊いた。
「んー、棒々鶏と……白湯麺も食べてみたいかな」
 いらえる雨夜・氷月(壊月・h00493)は顔を寄せて芥と視線を合わせ、彼の眼差しを追う様にして壁にずらりと並んだメニュー表を見遣る。
 その身に纏うのは白地に青い刺繍糸で花を咲かせた中華服だ。芥の視線がメニューから離れ、ちらと自身に落ちたのに聡く気付いて、間近でくすくす氷月が笑う。
 何を言いたいのかだなんてすぐ知れた。女装ではないのかと問いたげな眼差しには、覗き込んであやす様に声を返す。
「このままでも美人でしょ、許して」
「ハイハイ、美人さん」
 普段は見ない様な上玉ふたりに、店の彼方此方から探る様な目付きが幾つも刺さる。氷月の腕が淑やかに芥のそれに絡んだ。
 応じるように芥の掌が氷月の身体を抱き寄せたのは、この場の大多数であろう妙な輩に絡まれない為に他ならない。
「俺は……王道に炒飯と、あと肉饅頭と丸鶏焼き。――いや待て、春巻にエビチリと……、肉が多めになるな」
 すっかり色の変わったメニューは見辛かったが、居並ぶ文言は魅力的なものばかりだ。あれもこれもと挙げるうち、思わず気付いて芥が瞬く。
「良いんじゃない? だって全部美味しそうだもんね。取り皿も貰お、で、分けて食べようよ」
 それから氷月がゆらりと片腕を揺らがせて、こっちこっち、と店員を呼ぶ。
 あれこれと品数を申し付けるが、店員は顔色ひとつ変えず全部を完璧に復唱した。あ、胡麻団子も、とイレギュラー気味に付け足された氷月の声にも首肯が返る。
 厨房に引っ込むその背を見送りながら、芥が緩慢に首を傾いだ。その瞬間、さっきまで頭が位置していた箇所の背後にタン! とフォークが突き刺さる。
「アトラクションかよ」
 ぼやいた。更にどこかで物の投げ合いに発展していたらしい客同士の喧嘩のとばっちりで、ひゅん、と空になった皿がフリスビーめいて宙を舞うのが見えた。
 氷月の影から滴る様に闇が凝って、細く長く腕を伸ばして皿を搦め捕る。影から音なくぽろりと落とされる皿を受け止めるのは、頭と両腕に器用に盆を捧げ持った店員の爪先だった。
「そうなのかも」
 大真面目に氷月が呟いた。
 扠、料理が揃うのは早い。出来立てほかほかの湯気が濛々と立ち込め、眼前のテーブルの上がまるで宴の如くに埋め尽くされる。中央にでんと据えられるのは丸々肥った鶏の丸焼きだ。
 然し、麺が伸びてしまうと宜しくない。折角美味いと評判の店なのだから、と共に運ばれた小鉢に白湯麺をまずは取り分ける。
 白く柔く濁った白湯スープは水面がきらきらと細かな脂で燦めいて、湯気が揺れる度に芳しくも複雑な薫りが立ち上る。一体どれだけの食材を煮込んでいるのか想像もつかない。
「伸びちゃうと美味しくないから、麺から食べよ」
 揃って啜れば、取り分けたと云うのに熱々の麺が口中にちゅるんと飛び込んでくる。熱い、しかしそれ以上に絡みついたスープの旨味で呑み込まずにはいられない。
 ふたりで顔を上げ、思わず見合わせる。うめーじゃん、これうまー、なんて感嘆の様に漏れた声が自然と重なった。
「待ってじゃあ他のは? まず丸鶏焼きでしょ、あと炒飯チョーダイ!」
 眉間に思わず皺を寄せるのは、想像以上の暴力的な美味の所為だ。けれど確かに、店の中でもお構い無しに大暴れする客をも唸らせるほどと言われれば納得も已む無しだ。
「おう、遠慮なく食えよ。ほらこれも、あとこれと」
 ふは、と息を抜く様に芥が笑う。そう大きくない取り分け皿に、あれもこれもと世話を焼いて美味を盛りに盛った。
 口を中を熱と共に満たす味は、手を変え品を変えても何でも美味かった。止まない喧嘩も賑やかな応酬も、壁に吸われた脂の匂いから燻す様に盈ちる煙の薫りまで、何もかもがざらついていて居心地が良い。
 芥の口端に薄く笑みが滲むのを見て、自身の唇に艶を添える脂を親指で払い舐め取りながら、氷月はその|夜めく青《双眸》を笑う様に眇めてみせた。
「……なんか笑ってねぇ? ――、むぐ、」
 氷月の眼差しに気付いた芥が問い掛けた――が、不明瞭に掻き消えた。次いで金の眸が瞠られ、あつ、と唇から熱気を逃がす。
 突っ込まれたのはこれまたほかほかの胡麻団子だ。香ばしい胡麻の向こうから、黒餡がねっちりと強い甘みで飛び出てくる。
「気のせいじゃない? 胡麻団子ドーゾ」
 満足気に笑う白い華が、変わらずそこに咲いていた。

チェスター・ストックウェル

●ここはそういう店なので
 曰く、『薄汚れたパブほど、美味いフィッシュ・アンド・チップスを出す』。
 父の言葉を思い返しながらチェスター・ストックウェル(幽明・h07379)は顔を上げた。視線の先には壁に隙間なく詰められたメニューが居並ぶ。
「だからこの店は期待大――……」
 チェスターの声が、不意に途切れた。否、コーン! と小さくも良い位置に入ったらしき打撃音に邪魔をされたのだ。
 レンゲも投擲武器と為り得るらしい。これは知見だ。いや今投げたの誰!?
「………………」
 声を荒らげたくもなったがチェスターは紳士だ。咳払いで自分を含めた凡てを誤魔化し、視線を巡らせる。
 近くのカウンター席で、美味そうにライスを掬って掻き込む男性客が見えた。傍らにするりと腰掛け、気軽に尋ねよう。
「ねえ、おじさんが食べてるそれは?」
 チェスターが訊くと、ここいらじゃあ見ねえ顔だなここは初めてかい、ならお前もこの炒飯を食え、とおじさんは問答無用で親父に勝手に注文を通した。
 丁度大鍋いっぱいに出来上がった所だったらしく、ぱらりと崩れる黄金炒飯があっという間にチェスターの前へと押し出される。
 ほくほくと湯気を立てるそれをレンゲ――炒飯についてきた奴だ――でこんもり掬い、大口を開けてぱくりと頬張る。燦めく脂は適度に米に吸われてコクと旨味を増し、少し強めに塩気の効いたチキン・ベースはけれど、卵の甘さに包まれちっとも塩っぱくはない。
「――、おいしい!」
「おいテメェ!」
 双眸を瞠って唸ったところで、背後から見知らぬ男に喧嘩を売り付けられる。
 ちらと横目で男を見た。見知らぬ男だが、彼のレンゲがその手許から消えた事は知っている。そう、さっきのノーコン・レンゲピッチャーだ。
 返しやがれ! とチェスターの皿の端にいつのまにか乗っていた胡麻団子を指差し騒いでいるが、さて何のことやら――これは何処ぞの手癖の悪い幽霊が、レンゲと一緒に飛ばして来たに違いない。
 胡麻団子を齧る。ぷちぷちと香ばしく胡麻が弾け、ねっとり黒餡が舌先に絡む強い甘さがチェスターに寄り添った。
「文句がある? ――|御馳走様《表に出なよ》」

東雲・夜一

●生を喰らう
 こんがり盛られしゅわしゅわ細かな油が跳ねては音を立てている、そんな羽根付き餃子がドンと乗るだけで、襤褸っちい皿も途端に立派な中華の顔をするのだから不思議なものだ。
 傍らには氷を纏うデカいジョッキに、黄金色のピルスナーが並々と満たされている。誰ぞの紫煙がゆらりと空を泳ぎ、料理と酒とに饗されている東雲・夜一(残り香・h05719)の鼻先をあえかに擽った。
「最高の贅沢じゃあねぇの、」
 知らず内、口の端に浅く笑みが引っ掛かる。
 さて、と箸を手に取った所で、隣席では喧嘩が勃発したらしい。エビチリ一口しか残ってねぇじゃねえかと激昂する若い男が、卓上の箸立てを掴んで殴り掛かる。途端に周りの観客がワッと囃し立てた。
「どいつもこいつも柄悪ぃな」
 とばっちりの様にすっ飛んでくる箸をぺん、ぺん、ぺんとリズミカルに手の甲で払い落としてから、ぼやく夜一は乾杯すべくきんきんに冷えたジョッキを掲げた。視界の端でちらと蠢くものに気付いて見遣れば、反対側の酔客が朗らかに応じる様に杯を上げている。爺さん何杯目だそれ。
 喉を慣らして黄金色を注ぎ込めば、空きっ腹に火が灯る心地さえした。
 遅れてもうひとつ飛んで来た箸を今度は掴んで、ぱきりと割っていただきますと手を合わせる。羽根に箸を入れれば軽やかに割れ、ぱんぱんに餡の詰まった皮が脂で透けているのが良く見えた。
 かぶり付く。
「――、ん、……こりゃ美味いな、……」
 怠惰な瞼を押し上げて、夜一の双眸が僅かに瞠った。噛めば皮の甘味と肉餡の塩っ気が口の中で渾然一体となり、しゃきしゃきと歯切れの良い香味野菜が食感でも風味でもアクセントとなって華やかだ。
 じゅわあ、と旨味と肉汁が口中に拡がる。
「生きてんなぁ」
 死んでるけど。
 相反する感想は然し、|食べる《生きる》と云う行為から産まれたのだから仕方がない。先程の酔客の手許を気紛れにちらと見遣れば、口に押し込む炒飯をビールで流す様の何と美味そうな事だろう。
 忙しない厨房へ、ひらと生白い手が揺れた。
「親父、炒飯も。あと、ビールのおかわり」

一文字・透

●未知の扉
 気圧される。
 飛び交う怒号の中には平然と注文が混ざり、頭上をコップが、皿が、割り箸が吹っ飛び、派手な音がしたかと思えば店の隅では殴り合いが勃発していて、拉麺を啜りながらどっちが勝つだの賭け事で沸いているギャラリーが垣根を作っている。
 一文字・透(夕星・h03721)はちいさく息を呑んだ。
「あ、あの……注文……注文、を……」
 緊張混じりでは在れど、確かに興味はあったのだ。
 厨房に接したカウンター席は、店内のテーブル席に比べれば比較的平穏だ。然し店の親父は寡黙に包丁を操り、衰えなど感じさせない手付きで巨大な中華鍋を軽々振るい、てきぱきと注文を捌いている。どう考えても透の声は届いていない。
 それでも何とか隙を見て、通りかかった店員に注文を願い出る事で漸く関門を突破する。
「――、わあ……!」
 提供は早い。親父一人で一体どんな風に厨房を回しているのやら、あっという間に透の注文の品――点心セットを懐く蒸籠と、炒飯の皿が目の前にどどんと差し出された。
 いただきます、ときちんと手を合わせてからレンゲに炒飯を掬う。ぱらぱらとすぐに崩れる黄金色の米粒は、ひとつひとつがしっかり脂と旨味を纏って芳しい。金色ばかりの中に葱の薫りとその翡翠色が鮮やかで、こんなにもシンプルなのに堪らなく美味しそうだ。
 吹いて冷まそうとして――けれど、やめた。からりと氷の揺れる水で口中を冷やしてから、そのままぱくりと頬張る。
「あっ……つい……!」
 はふはふ、と呼気と共に湯気を逃して噛み締めれば、米がたっぷり吸い込んだ旨味が溢れ出してくる。飲み込めば胃の腑まで焼け付く心地がして、慌てて水を煽った。
 ――ぱち、と瞬く透の青に、きらきらと小さな星が宿る。美味しいものは力と希望を與えるものだ。
「でも、美味しい」
 点心セットを見遣ればちゅるんとした皮の小籠包に、餡がみっちり詰まった肉肉しい焼売、更に胡麻団子が添えられているのに気づき、透の双眸が更に光を得る。
 食べたかったものが眼の前にあるだなんて、幸せの一言に決まっているのだから。

野分・時雨
緇・カナト

●満ち足りる迄
 ハーイ炒飯おまちー、なんて軽い声と共にあっという間にふたりの前へ、大皿がどどんと供される。
 炒飯はすぐ出て来るらしい。周囲の常連らしき客も開口一番炒飯を頼んでは、各々思い思いのスタイルで大口を開け頬張っているのが目に付いた。
「やっぱここは看板メニューの炒飯だよねぇ」
 倣った訳でもなかったが、結果として他の客と同じ様に、開口一番いそいそと炒飯を頼むかたちになった。
 盛り付けには気が払われていなさそうではあったが、逆にそのこんもりと雑に山になる二人分の炒飯が、妙に食欲を唆って堪らない。待ち切れずレンゲを手に取る緇・カナト(hellhound・h02325)の頭上を、ひゅん、と鋭い風音と共にナイフがすっ飛んで行った。軽やかな音と共に壁のメニューへと突き刺さる。
「――、ん! うわぁ美味しい、ぱらぱらだし油の感じも丁度良くて、卵の火入れもばっちりかも」
 レンゲにこんもり盛った炒飯がひとくちで消えた。
 しっとりと油を吸った米は、然しちっともくどくはないし高温で炒るお陰でぱらりと仕上がっている。鶏ガラベースの味付けこそ目を瞠るものでもないが、ふわりと纏わり付く卵と合わされば塩梅がぴったりだ。付け合せのスープは麺類のお零れだろうか、やたらに美味いそれで米を流し込めば口中で即席のスープ炒飯が完成する。
「ナイフに反応してくれません? まあでも、ぼくらは穏やかに食べましょう」
 びよよと揺れるナイフを一瞥して、野分・時雨(初嵐・h00536)は呟いた。視線をメニューから剥がして傍らへ落とせば、レンゲに更に炒飯が盛られてカナトの口に運ばれていく所だった。
「紅しょうが入ってる? 美味しい?」
「入ってないかも、そして夢の様に美味しい」
 スープの味の残る口の中に押し込めば、また炒飯の味わいが変わる。これも美味い。
「ぼくちょっとずつ食べたいんですよね、ゆっくり味わいたくて」
 炒飯は何せ二人分あるのだ、まだ消えるまい。
 先に頼むものを選ぶべく、時雨の眼差しが吟味する様に壁のメニューに這わされる。かく、と首を大きく傾げたのは別にメニューが読めなかった訳でもなくて、狙い澄ましたみたいに吹っ飛んでくる皿を避ける為だ。おお、恐ろしい。
「春巻食べたい、小籠包も必要では? すみませーん、」
「あ、待ってこれだけだと絶対足りない。丸鶏焼きは? 王道の肉饅頭も良さそうだよね」
 横からカナトの声も挟まった。
 手を挙げると、飛び交う食器だの何だのを盆で捌きながら店員が寄ってくる。大量の注文にも慣れているのか、直ぐに厨房に通った。
 取り皿とレンゲを手に、時雨がいそいそと炒飯に視線を向ける。
「ぼくにも炒飯ひと口分だけ、…………ねぇ、うそ、食べるの早……」
 黄金色の炒飯は大皿に盛り盛りだった筈だ。だと言うのに、ちょっと注文をしている間に残っているのはもう一人分もない。
「ごめぇん。でもほら美味しいから、ね」
 カナトの声は悪びれない。貸して、と皿とレンゲを受け取り、要望通りの量を皿に盛り付ける。
 何せこんな無法地帯の店だ、注文も彼方此方から秩序なく舞い込むが故に対応も早いのか、あっという間にさっき申し出たばかりの品々が次々届き始めた。ハイこれ、これも、と飲食店らしい淑やかさもなにもあったものではない豪快具合で、色んなものを零しながらデン! ドン! と皿が居並ぶ。
「うわぁ、熱々だ。ほら時雨君、何食べる? 春巻?」
 テーブルの上を埋め尽くしているので、彼の方からは届かぬ所にも皿がある。カナトはそんな風に問いながら、まだ皮の上でぱちぱちと油の気泡が弾けて踊る春巻を、時雨の取り皿にひょいと乗せてやった。
「ありがと……、ほんとだあっつあつ」
 やって来た春巻を箸で抑え、ふうふうと息を吹いて冷ます。注意深く齧るものの、中の餡までしっかり火が通って当然の様にあっつあつだ。はふ、はふ、と熱気と共に呼気を零しながら、時雨がゆっくり咀嚼する。
 とろりとしたそぼろ状の豚肉餡に絡まって、筍に人参、春雨に木耳の存在を感じる。ぷち、と弾けたのは玉蜀黍の粒だろうか。爽やかな甘味がアクセントになっていて飽きが来ない。
「あ、あ、これうまうまです。美味し」
 さくさくさく、と皮が軽やかに崩れてゆくのもまた愉しい。
「時雨君も美味しく食べれた? 春巻と、小籠包も種類があるのかな。イイなぁ」
 オレも食べる、と丸鶏焼きを解体しながらカナトが顔を上げた。眼前では時雨が美味しそうに食事を頬張っている。
「これだけでお腹いっぱいな気がするけど、スープ飲みたいや。中華スープ?」
「オレ、締めはやっぱり醤油ベースのラーメンだなぁ。中華スープってフカヒレ? 卵?」
 春巻もお代わり欲しい、なんて好き勝手にメニューを指差し皿を見遣って言い合おう。
 満腹まではまだ、程遠い。

久瀬・彰
リュラ・アンナスラ

●万難排して美味を
 人間は往々にして静寂より喧騒を好むものだ、と満足げにリュラ・アンナスラ(Sign - Dragnia・h08802)の口端が擡げられる。煩い店だ。実に良い。
 冊子になったメニューはテーブルの数だけ用意されている訳ではないらしい。色んな人間の手を渡り、油染みばかりになってしまった紙面はけれど、びっしりと漢字で埋め尽くされている。夥しい数のメニューが書き足され、線を引かれて間引かれ、まるでちょっとした歴史書だ。
「さて、アキラ」
 リュラの声が明るく弾んで連れ合いに向けられる。
「君は何が食べたい?」
 水を向けられ、眼差しをメニューから引き上げて、久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)は片眉を押し上げて浅く笑った。肩を竦める。
「元々決めるのは苦手なんだけどね、」
 店にBGMなんて気の利いたものはない。代わりに何処ぞのカップルが繰り広げる『はんぶんこ』の定義を問う口喧嘩だの、誰が奢るかで乱闘になっている卓の騒音だので場が満ちていた。
 柄の良し悪しは置いておくとして、活気は確かにそこに在る。嫌いではないな、と再びメニューに視線を落として彰はそう考えた。
「中華料理って、とにかく種類が多いから……ここは特にその傾向みたいだし」
「私はこの肉饅頭っていうのが気になってるんだけど」
 リュラが既に決めたメニューを口にしたのは、彼の指標になればと云うのは無論のこと、折角ならば色んなメニューを食べてみたいからに相違なかった。眼前のこの気遣いの出来る男のことだ、きっと違うメニューを選んでくれるに決まっている。
「きみが点心系を頼むなら、じゃあ炒飯か麺か、そのあたりにしようかな。美味しかったら分けられるし」
 無秩序なメニューを眺めていた彰の双眸に、思慮が宿るのを見てリュラがにまと口端に笑みを引っ掛けた。
 次いで、彼女が取り出すのは一本のペンだ。
「これを投げて、ペン先の向いたメニューを頼む! ……と、言うのは? つまるところ、博打さ」
 炒飯も麺も選択肢は多かろう。
「いいね、じゃあ今日は運を天に任せよう。――失礼、」
 ペンを借り受けた彰は、それを投げ――ようとして、ほんのひと時考える様に瞬いた。
 放る姿勢だったのを、ペンをくるりと手の中でいなして取りやめる。代わりにメニューを机上に開き、その上でペンの真ん中に指を添えてルーレットの様に回した。
「餡掛け炒飯に、白湯麺」
「上々じゃあないか!」
 それにしよう、とリュラが大きく腕を振る。あいよ、と応じる店員に伝えれば、あとは暫し待つだけだ。
 ――の、筈だったのだが。
「よう兄ちゃん見ねえ顔だな、なァんだ辛気臭そうな顔しやがって! 酒はどうだ!」
 すっかり出来上がっている巨漢の男が、ジョッキを片手にふらふらと近寄ってくる。
 丸太の如き太い腕が、彰の肩に馴れ馴れしく回された。
「おっと、そこまでだ」
 ――回されたが、押し留められる。
 さっきまで陽気に回ってメニューを指し示していたペン先が、リュラの手によりまるで剣か盾の如くに男の腕が彰に触れるのを防いでいた。
 ちら、と彰の眼差しがリュラを見遣る。ほんの一瞬片眼を瞑ってそれに応えよう。|解っているとも《乱闘はしないさ》。
「私の連れが大人しそうに見えるからって、絡むのをやめたまえ。――嗚呼それとも、」
 梃子の要領で男の腕を安々と跳ね除ける。だいぶ酒を過ごしているらしい男は、それだけで蹈鞴を踏んで怯む様に後退った。
「私とお喋りがしたかったかな? 女に声すら掛けられないなんて、君けっこうシャイなんだね」
 矢継ぎ早にぽんぽんと煽られ、男はぐぐ、と唇を噛んで早口で何事か口汚く捲し立て、何処ぞのテーブルへと千鳥足で戻って行く。
 ふう、とひと仕事終えて満足気にペンを仕舞うリュラを見遣って、彰はちいさく笑う様に呼気を零した。
「こういう場所だと結構絡まれちゃうんだよね。御しやすいと思われてるのかな」
「はは、言い方が違うな。勝ちを譲ってくれそうなくらい優しげなのさ」
 遠くから湯気を立てる皿が運ばれてくるのが見える。彰は楽しげに眸を眇めた。
「今日は平穏だよ、きみのお陰でね。俺がどう喋ろうかと考えている間に、きみが会話を引き取ってくれたから」
 濛々と湯気が立ち込めるのは、餡掛けに麺だなんて熱々のメニューが届いたからだ。
 熱い内に取り皿へと分けてしまおう。彰の手が、迷いなく箸と皿とを手に取った。
「慣れてるから大丈夫――と、言おうと思っていたけど」
 穏やかな声で、彰が独りごちる様に呟いた。
「気遣われるのも、どうあれ気に掛けてくれたのも、嬉しかった。――ありがと」

サテラ・メーティス
結・惟人

●食卓は爛漫に
 その背には桜が咲き乱れ、花々の合間を駆け抜ける様に大きな龍が昇りゆく。
 黒のサングラスはその色だけでなく、普段と違ったフィルターを一枚、視界に隔てる様で新鮮だ。普段はしない様な格好に背筋がそわつく気持ちがありつつも、結・惟人(桜竜・h06870)はきり、と心身を引き締めて店の暖簾を潜った。
「大丈夫です、格好良いですよ」
 同じく昇り竜を背負ったスカジャンに、サングラスを鼻先にちょこんと乗せたサテラ・メーティス(|Astral Rain《星雨》・h04299)は、傍らの惟人を見上げてちいさく拳を作った。
 ――ひとつ、踏み込めばそこはもう非日常だ。屋号すら吹っ飛んでしまった『悪食飯店』の店内は、今日も喧騒と喧嘩に満ち溢れている。
 大切な相手を傷付けさせやすまいと、じろりと此方を四方八方から睨め付けてくる眼差しに惟人はサングラス越しの威嚇を返しつつ、ちいさなテーブル席へと滑り込もう。
「おらおらコーデ効果、でしょうか……!」
 誰にも絡まれませんでしたね、とサテラが席に着くなりこそこそと、それでも弾む小声で惟人に目配せする。
 ああ、と微笑んで惟人は肯いた。彼女がそうやって楽しげに笑っている事以上に大事なものなんて無いのだから。
 ふたりで頭を寄せ合って、壁にずらりと居並ぶメニューを見上げる。
「料理は一緒にシェアしようか」
「はい! 勿論です。その方がきっと、美味しく食べられますものね」
 それぞれでおなかいっぱい食べるのだって、きっと素敵な事だ。けれど同じものをふたりで少しずつ分けあって、同じタイミングで口に運んで、同じ美味しさを噛み締める――そんな風な幸せが、いまは欲しかった。
「皆、炒飯を頼んでいるな。どうだ? サテラ」
 ちらと薄暗い店内に視線を走らせれば、炒飯、と声高に注文を通す者が少なくない。
 倣ってみようとサテラの方に眼差しを向ければ、ぱあっと頬に喜色を灯して彼女も同意を示した。それから細い指先がひらりと空を泳いで、あれも、とサテラが壁を指差す。
 メニューは掠れて破れかけているが、点心の文字が見えた。
「点心のセットも頼んで良いですか?」
「じゃあ、それも。デザートは――烏龍ゼリーにしようか」
 中華料理と油は切っても切れない。ゼリーならばそんな食事の後でも楽しめるに違いないとメニューを決め、喧騒飛び交う中で店員に注文を通す。多分すぐ出るよ、ちょっと待ってな、なんてフランクに返して店員は厨房へ小走りに駆けていった。
 言葉通り、そう待たされる事もない。お待ち、と炒飯と点心のセットがドン! とテーブルに着地する。
「――わ、すっごく良い薫り……!」
 香気は白い湯気となり、はやく食べてと誘う様に鼻腔を擽る。レンゲに手を伸ばしながら、サテラはほんの少し頬を紅潮させて呟いた。美味しい食事を前にしては、誰だって高揚するものなのだから。
 炒飯を取り分けて、その横に点心も添えよう。烏龍ゼリーはもう少し後のお楽しみだ。
「……ん、んー……!」
 レンゲに盛った炒飯を、熱いまま口に押し込んだサテラがぱち、と星色の眸を瞬かせる。
 口の中でぱらりと解ける炒飯は、油を纏っているのに何故か軽やかだ。ふわりと米が卵の黄金を纏い、鶏ガラの味付けがまるで両側から頬を挟むかのように力強い。葱の青さは良い気分転換だ。
 同じ様に惟人も掬って口に運ぶ。眼前の彼女と同じ様に双眸を瞠って、窺う様な金のそれがサテラを見詰めた。
「サテラ、美味しいか?」
「も、すっごく!」
 こくこくと肯くのに、惟人の頬が柔く笑む様に緩む。美味しい。そう、たったそれだけのシンプルなこころを、こうして重ねるのが酷く贅沢な気がして堪らない。
 点心は翡翠餃子に小籠包、それにちいさな桃饅頭だ。小籠包を齧ればじゅわっと熱いスープが滲み出て来て、思わず喉を鳴らしてしまう。
「ん~……! おいしいですね、惟人さん」
 ほっぺが落ちそう、とサテラが笑って頬を抑えた。
 ――成る程、と独り言めいて惟人は思う。
 美味しいものに心が弾むから、この店に集う者は皆、テンションが高いのかもしれない。
「あなたも楽しめているといいな、」
 愛しいものを視界に据えて、あえかに呟いた惟人が緩く、瞑目する。
 ――ちら、とその味わう様な表情を見遣って、サテラもまた、こっそりサングラスから彼を覗き見るのだ。
(同じ気持ちだといいな、)

花村・幸平
氷野・眞澄

●痲れるくらいが丁度良い
 視界の真ん前を黒い影がそれなりの勢いで以て横切って行くのに、壁の高い部分に張り付くメニューを眺めるよう視線を擡げた儘、氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)は向かいに腰掛ける男の襟首に指を引っ掛け手前へと引いた。
「見なよ氷野ちゃん今ひとが吹っ飛んでったよ! そんで誰も気にせずご飯食べてるの面白~!」
 さっきまで頭があった所を掠めていくそれを見送って、花村・幸平(フラットライン・h07197)が愉しげにはしゃぐ。
「……はあ、言われなくても見えてますよ」
 引っ張った指を仕舞い込んで、見ないようにしていたのに、と眞澄はずれた眼鏡を生真面目に押し上げた。
 経年劣化と油汚れで煤けた様な壁に居並ぶメニューを眺め、あれは、これはと指を指す。まるでバード・ウォッチングだ。生憎と飛ぶのは鳥ではなく、人や皿やカトラリーだが。
 何処からかの余波で割り箸が一膳、放物線を描きながら飛んでくる。幸平の頭に突き刺さる前に、それは宙空で金縛りにでもあったみたいにして小刻みに震え、やがてぽとりと床に落ちた。即座に誰かに蹴っ飛ばされて、暗がりに消える。
「やさし~。でも幽体化するだけだから全然平気なのに」
「お前を擦り抜けた箸はどうなると思います?」
 幸平の対面に腰掛ける眞澄は、メニューから眼差しを動かす事なくそう応えた。
「あーね」
 納得する。
「ね、結局何食べる? レバニラ? 麻婆豆腐? 宮保鶏丁に酸辣白菜、水餃子や雲呑スープもいいな~」
 山の様に居並ぶメニューから、ひとまずここまでは絞れたのだ。弾む幸平の声に、そうですね、と眞澄が沈思する間が挟まる。
「とりあえず麻婆豆腐は外せません。……もう全部行きますか」
 絞ると云う行為が面倒臭くなった。
「いいよお全然!」
 幸平が笑っていらえ、ひらりと手を振れば、配膳を終えたばかりの店員が気付いてこちらへと爪先を向けた。
 注文は、とぶっきらぼうな声に促され、これとあれとと二人がかりで申し付ける。あっ刀削麺はちょっとだけ辛めで、丸鶏焼きって大きさどんくらいかなぁ、そんじゃ取り皿も。
 あれやこれや、これだけ騒がしい店内の中だと言うのに、はいはいはいとあっという間に捌き終えてしまう。風の如くに彼は厨房へ引き返して行った。
「お前、好きでしょう」
 喧騒と賑やかさの隙間で、何でも無い様に付け加えられた。
 麻婆豆腐の話だと解る。
 幸平が笑って吐息を零した。
「めちゃ好き」
 扠、そう待たないうち、大皿が続々どかどかと運ばれてくるのが見えるだろう。
 狭いテーブルの上はあっという間に濛々と湯気が立ち込める有り様で、レンゲや箸をきちんと手許に置いてくれるなどというサービスは当然ないので、皿の陰に隠れたそれを探り当てる。
 零れた汁やタレを綺麗に避けつつ、いただきます、と几帳面に手を合わせた眞澄の箸が、刀削麺をくるりと掻き混ぜた。
 赤い脂に白い不揃いの麺が浮いている。こんなもの飛び散ってしまえばその時点でクリーニング待った無しだ、ふうふうと吹く序で、慎重に啜る。
「――ぁ、ッつい、」
 そして辛い。
 啜った瞬間に熱と辛味が口中の中で爆発するが、然し絶妙に耐え切れないほどでもない。スープの中央で主張する麻辣の奥、控えめな|八角《パージャオ》の薫りが癖になる。麺に絡み付くそぼろ肉は甘めに炊き上げてあって、それがスープの辛味を中和して丁度良かった。噛み締める度に麺の甘味が凡てを纏め、呑み込む頃には次の一口が我慢出来なくなっている。
 そう、美味だった。
「これは……なるほど、食べすぎてしまいますね。出来立てだと、尚のこと美味しいです」
 赤い水面を見詰めて眞澄が呟いた。感想もそこそこに再び箸が麺を掴むのを見て、幸平もレンゲを手に構える。
「え~いいな~! 僕も食べよ、いただきまーす」
 麻婆豆腐を掬い上げて口に運べば、がつんと|花椒《ホァジャオ》が頬を張る。熱い。熱くて辛いが、それに負けない位の旨味が押し寄せてくる。痺れる辛さに上乗せされた唐辛子がぴりりと追い討ちを掛けてくるが、然し噛み締めれば豆腐が崩れてまろやかになるのだ。
 じっくり火入れをされたのだろう挽肉は、ごろごろと塊が残っていて食感が楽しい。水分が飛ばされている分、ぎゅっと詰まった美味しさがレンゲを置こうとする手を許しやしない。
「ん~! 熱々でおいし~ね~」
 夢見心地で幸平が呟いた。この身は既に幽霊だと云うのに、|生きるためのその行為《食事》を止める事が出来ない。出来る訳ない、こんなに美味しいのに。もりもり食べ進めてしまう。
 どうせだから、折角だから。
 食べすぎてしまう言い訳の冠言葉には困らないのだ。

篭宮・咲或

●いつかメニューを見なくなる
 席に腰掛けて早々、空を切る様な鋭い音と共に皿が円盤の如く飛んで来たので、篭宮・咲或(Digitalis・h09298)は当たり前の様に頭を下げた。
「確かに、ガラはあんまりって聞いてたけど――」
 冊子になっているメニュー表は卓の数分無いらしく、使い回しが重なって結構な有り様だ。常連はメニューなど必要無いのだろう。
 油染みが広がり、新しいものが欄外に書き足されては、代わりに古いものが幾つか横線を引かれてもいる。
「ま、多少アレでも何とかなるでしょ」
 気軽に柔い声でそう独り言ち、さてどれにしようかと靭やかな指先がメニューを辿る。辿った指が油で汚れてちょっぴり閉口した。まあ中華料理屋ってそんなものだ。
「看板メニューの炒飯一つと、肉饅頭も。……あ、杏仁豆腐もあるじゃん。これも追加で」
 あいよ、と店員は咲或に応え、とっとと次の業務に向かってしまった。隣席の喧嘩はまるで見えていない――と言うより、ここでは日常すぎて口を挟む事も無いのだろう。
「無法地帯だなぁ……でも、美味いのは本当なんだろうねぇ」
 今度はフォークが滑空してきた。それをメニュー表で軽やかに防ぎ、店に吸い込まれていく人数の多さを思い出しながら呟く。
 そうしている内、あっという間に料理が運ばれてくる。ドン、ドン、と勢いの儘に置かれる皿はどれも驚くほど良い薫りを立ち昇らせ、はやくはやくと咲或のレンゲを誘っていた。
 炒飯を掬い上げれば、ぱらりと崩れる癖にふっくらと膨らむ米が艷やかに油を纏って輝いている。黄金の衣は鶏ガラスープを吸った卵だろうか、一粒一粒にしっかり絡み付いていた。
 頬張ればそれらが渾然一体、然し調和を成し遂げて解れてゆく。偶に新鮮な香気と食感が混ぜ込まれた葱に依って齎され、それもまた目線が変わって良い。
「すごい美味い……」
 思わず口から零れ落ちた。
 と同時に、ちょっとした憂いもある。この後に控える仕事を考えれば、満ち足りるまで食事をするのは得策ではない――嗚呼でも、それなら。
 これから定期的に通うと云うのも、悪くない話では?
「――、アリかも」

段・廿九

●非常好吃
 狗がすんと鼻を鳴らす様にして、漂う気配の色を識る。
 香気に鼻を鳴らす段・廿九(|夜狗《イェガウ》・h12342)は、そうしてにんまりと口端を擡げた。
 ――嗚呼、ここは間違いなく『あたり』だ。
 薄らぼけた暖簾を潜って店内に入れば、ひゅん、と顔をすぐ横を肉を切り分ける為のナイフがかっ飛んでゆく。浅く首を傾げる事で難なくそれをいなしながら、空いている席に音なくするりと滑り込んだ。
「あっはは、いいねえ! お上品な方だよ、これくらいならさ」
 暴力が口を利く様な|場所《下層》で生まれた身だ、乱闘や食器が飛び交う程度では怯みもしない。
 機嫌良く周囲を見回せば、壁を埋め尽くす勢いで貼られるメニューが見えた。見上げ、へえ、と感嘆を零す。
 吟味はそう長くない。片手を擡げて人を呼べば、気付いた店員が近寄ってくる。
「炒飯に春巻、あとは――……」
 顔を上げた視線の先には、隣席のテーブルが在る。暖かな湯気を濛々と立て、それらに美味そうにかぶり付く客の顔を見遣って、廿九は満面の笑みを店員に向けた。
 指先を、隣席の卓上へと向ける。
「あの美味そうなやつ全部! お願いしまーす!」
 店員は怯みもせず、ラインナップを把握して厨房へと引き返す。
 一体全体どんな調理を行っているのか、山のような皿はそう待たされもせずに自分の卓へと運ばれて来るだろう。
 湯気に交じる|花椒《ホァジャオ》や|八角《パージャオ》の薫りが否が応でも期待を唆す。ドン、と音を立てて皿が置かれた瞬間、レンゲを手にして御機嫌に炒飯を掻き込んでいた。
 ぱらぱらに崩れる黄金色の炒飯は、しっかり塩気と鶏の旨味が沁みていてパンチがある。だと言うのに卵の優しさがそれを包んでいて、決して尖り切らせはしないのだ。噛み締めれば甘く変化した脂が滲み、然し混ぜ込まれた青葱が清涼さを加えていくらでも食べられる。
「――最ッ高! |頂好《マジで最高》!! 足りる訳ないじゃんお代わりも頂戴!」
 大喰らいにはあまりにも足りない。
 どうせこの後には|腹ごなし《猫探し》をするのだ、少しばかり食べ過ぎたって構いやしない筈だ。

クラウス・イーザリー

●心の広さと美食の比例
 ――はいおまちどう、なんて荒っぽい所作で、大きな皿がふたつに小さな皿がひとつ、眼前に届く。
 黄金色した炒飯に、飴色の皮が今まさに油を受けてじゅわじゅわ音を立てる丸鶏焼き、それから小さな皿にちょんと乗っかったカクテル・グラスの烏龍ゼリー。
「うん、来た甲斐があったかも」
 クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は満足げにそう告げてから、そろりと背後に広がる店内を見回す。酔客同士の言い争いに、常連客の男たちによる賭け喧嘩、向こうでは痴話喧嘩らしき二人組――そんな喧騒はけれど、どこか遠くで|故郷《√ウォーゾーン》を思い起こさせる。
「苦境でも力強く生きる人達、って点では一緒なんだろうね――……っ、と」
 割り勘の定義について言い争いをしていた痴話喧嘩カップルの女性側が、ついに机上のフォークを手に取り投擲したらしい。
 但し素人のノーコンだ、フォークは軽やかに彼氏の横を擦り抜けて、カウンター席――クラウスのもとまで届いた様だった。
 ぱし、と小さな音を立ててフォークを捕まえる。投げ返そうかと考えたが、然し彼女が受け取れるとも思えない。そっと手許に伏せておこう。
 軽く手を合わせ、丸鶏焼きに手を掛ける。盛られている皿こそ欠けてはいるが、土台がそうでも尚損なわれる事なく美味そうに照り照りと燦めいていた。
「……、ん、――これ、美味しい」
 脚を持って肉を割りほぐせば、腹の中に詰められていた香味野菜と米がほろりと崩れて皿に広がる。皮はこんなにぱりぱりと音を立てるのに、中の肉は驚くほど柔らかく、肉汁が溢れて堪らない。
 溢れた米と野菜を盛ってひとくちで味わえば、|八角《パージャオ》の薫りも芳しい――そう、シンプルにとても、美味しい。
「やっぱり美味しいっていうのは正義だね」
 途端、店内に溢れかえる雑多な喧騒も、語気の強い喧嘩の声も、無愛想な店員も、不思議と憎む気にはなれなくなる。
 この味に免じて赦してやろう――だなんて、そんな風に機嫌良く爪先を揺らした。

ツェイ・ユン・ルシャーガ
スス・アクタ

●美味しさの由縁
 すん、と鼻を鳴らせば、ちっとも嗅ぎ慣れないスパイスの薫りが飛び込んでくる。
 五感をわっと彼方此方からノックするものだから、思わずスス・アクタ(黑狐・h00710)はくしゅんとくしゃみをした。耳の先がふると震える。
「……慣れないけど、いい匂いですね」
 呟くススの声に笑って、何やらその傍らでごそごそと髪を弄っていたツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)が頭を振るった。結わえた髪が落ちてこない事を確認して、うん、と機嫌良く肯く。
「よし、準備万端じゃ」
「……、ツェイはこういうお店、慣れてるんですか」
 食べやすさに重きを置いた今日の装いをちらと見て、ススが尋ねる。楽しげに微笑むツェイの横顔に、ほんのひととき瞬きの合間、郷愁めいた色が浮かぶのを確かに見た。
「ふふ、昔々はこんな店も偶にあったのでな。――……ほれ、遠慮するでない」
 覗き込もうとしたけれど、そうやって黙り込んでいるのを遠慮していると取ったらしかった。
 ツェイがそんな風に促しながら、壁に貼られるメニューを指し示す。まるで異国だ。まあ、異界ではある。
「ええと、じゃあ……エビチリ食べてみたいかも、です」
 海老は美味しい。指先でメニュー表を辿るように空を撫で、これ、と件のエビチリを示す。
「よしよし、エビチリじゃな。然しそれでは腹は膨れなかろ、もっと頼まねば」
 ススがきょとんと瞬いている内、ツェイが張り切って両腕を掲げ、此処だと言いたげに大きく振る。
 店員にもばっちり見えたらしい、時折店内の何処ぞから飛来してくる箸だのレンゲだのを軽やかに盆の盾で捌きながら、小走りに此方へ駆け寄って来る。ここの給仕は達人ばかりなのだろうかと、飛来物に応じて浮かしかけた腰をそろりと椅子へ戻しながらススは思った。
 メニューを指し示しながら、ツェイがつらつら注文を連ねる。
「丸鶏焼きにエビチリ、あとは肉饅頭と……汁物が要るな、鶏ガラスープも頂こう。ふむ、甘味は食後に考えるかの」
 それなりの量の注文だが、事も無げに厨房は対応してくれたらしい。
 一体どんな鍋捌きで親父は注文をこなしているのか、そう間を置かずに美味しそうな薫りを引き攣れ、品々がテーブルへと続々運ばれて来る。ススは顔を寄せた。
 ふうわり大きく白く漂う香気の塊めいた湯気を嗅げば、甘酸っぱい気配の内側につんと辛いものを内包していて尻尾の先がぼわ、と膨れる。はじめての匂いだ。
「ほれ、熱い内に食さねば」
 そんなススの様子を愛おしげに見詰めて笑う様に声を弾ませ、ツェイはレンゲと箸を彼の方へと差し出してやる。反射的にレンゲの柄を掴み、いただきます、とススはいそいそ手を合わせた。
 華やかな赤に包まれたまんまるの海老を、纏う香味野菜やソースごと絡め取って掬い取る。ふうふう吹いて口に押し込めば、鼻腔をふわりと抜けていくのはあの甘酸っぱさだ。だと言うのに、舌に乗せても酸味はちっとも感じられない。幾種類かの醤の風味が複雑に混じり合い、辛いのに不思議と食べられてしまう。どこか甘いのだ。
 噛めばしゃきしゃきと微塵切りの野菜が気分転換になったし、その向こうの海老の弾力と言ったら!
「――、!! お、おいしい……」
 むぐむぐむぐ、と大ぶりの海老を噛んで味わい、咀嚼する。その頬はすっかりぴかぴかで、血色が透けて薄く色付いていた。
「これ、ここでしか食べられないんですか? ツェイ、これ、覚えて帰って作れませんか?」
 食べながら忙しなく尋ねて来るススの様子に、水を向けられたツェイが眸を瞠って瞬いた。
 次いで、堪え切れずに肩を揺らして笑い声を零す。丸鶏焼きを手許で解しながら、その艶々と飴色に輝く鶏皮を見遣り、すっかり緩んだ声音が返るだろう。
「無茶を申すでない、これは屹度、伝統の味ゆえに。早々にご家庭で真似の出来る事でもなかろうよ」
 鶏肉が解れ、中に抱き込まれていた野菜や米がほろりと皿に溢れ出る。匙で掬って肉に乗せ、少しばかり野蛮にそのまま齧り付けば、ぱりりと割れる皮の食感が楽しい。噛み応えのある肉はけれど決して硬くはなく、噛むほどに肉汁があふれて米に絡んで味が深みを増してゆくのだ。
「ん、――美味い。……そうさな、それに――」
 エビチリ咀嚼のリズムを読んで、ススの口の中が空っぽになった瞬間を狙い澄まし、一口サイズに纏めた鶏肉をそこへ突っ込んでやろう。
 狐面の向こうで、ススの眼差しが燦めいた気がした。美味かろう、美味かろう。
「此処だから、美味いのさ」
 行き交う無数の人々に、騒がしいの範疇をちょっぴり越えた喧騒と。
 そんな中で食べるものだからこそ、一層美味しく感じられるのだろう。
 デザートは豆花にしようか、とツェイが解ける様に笑っている。
「そうですね、そうかもしれない。……わ、悪くはないと思いますよ――おれも、」
 肉も美味しい。入れて貰ったそれを大事に咀嚼し飲み込んで、ほんの少しの照れを被せ、ススがテーブルの下で爪先を揺らす。
 マンゴープリンも、とねだる様に小声で告げてから、はにかむ様にツェイを見た。
「ひとりじゃないし」

オルテール・パンドルフィーニ
ライナス・ダンフィーズ

●エッセンスは非日常
「ライリーは何を頼むか決めたか?」
 壁にずらりと並ぶメニューを睨め付ける様にして、難しい顔をしたオルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)は唸る声で尋ねる。
 そして付け加える様に呟いた。
「俺は迷ってる」
 ライリーと呼ばれた連れの男――ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)は応ずる様に何事か言いかけるかたちで唇を開きかけた。が、途中で止める。代わりに片眉を擡げ、促すかたちでオルテールへと向けて掌を上にして見せた。
「どれも旨そうだし、一品じゃ足りない気もするし――こうなったら、片っ端から頼んでみようか」
 あの皿ひとつで竜の健啖が満たされる筈もない。そしてこの店の壁を埋め尽くす勢いで並ぶメニューの数々は、見ているだけでも美味そうだ。
 よし、決意を滲ませるオルテールの声に、ライナスの口許がにやと笑った。
 そのまま大きく片腕を振り上げ店員に向け、注文を頼むとばかりに呼び寄せる。
「喰うぞ。いや、喰え」
 |年上《兄貴分》の余裕をたっぷり湛え、やって来た店員にひとまず目に付いたものを片っ端から頼もう。
 王道の炒飯は外せまい、ならばぴかぴかと皮が飴色に照り燦めく丸鶏焼きだってマストに決まっている。餃子も食べておきたいし、そうなるとスープも一品くらいはあって良いだろう。
 あれこれと注文を託して店員の背を見送ってから、ライナスは椅子に背を預けて笑う儘にオルテールを見遣る。
「構わねえ構わねえ、好きな様に喰えば良いさ。ほら、周りの奴らだって無秩序だろ」
 男ふたり、手練の雰囲気を周囲も嗅ぎ取っているのか、無遠慮に狼藉を働いてくる様な奴は今のところ見当たらない。慣れてはいるが、折角美味い飯を味わいに来たのだから面倒事など起こらぬ方が良い。
「絡まれたら盾にするからな」
 ライリー、と眼差しを上げてオルテールが笑む唇で囁いた。
 構わねぇよと笑い返しながら肩を竦める。この弟分が殴れば、幾ら加減したところで人死にが出かねない。
「お前さんはゆっくり飯愉しみな……、っと」
 喋っている内に、厨房から運ばれて来る皿が視界に入る。どんな魔法でも使っているのか、提供が早い。
 ましろい湯気が視界を覆って、薄れゆくそこに顕れる料理の数々に、どちらからともなく感嘆が漏れた。狭い机上を埋め尽くす勢いで置かれる皿には、どれもこれも料理がたんまり盛られている。
「早速頂くべきだ、だってまどろっこしい事をしていたら折角の料理が冷めてしまう」
 大真面目にオルテールは告げ、添えられていたレンゲを手に取った。
 ふは、と噴き出す様にライナスが笑う。
「おう、喰っちまえ。しっかし、良い匂いだな」
 丸鶏焼きの香ばしい薫りを堪能するライナスの前で、オルテールのレンゲが炒飯の山から一匙を掬い上げる。
 引き上げられた直後から米粒はぱらぱらと解れ、まるで砂金の粒の如くに黄金色の小山へと落ちてしまう。ちっとも水分が出ていない上に、潰れて糊状にもなっていないとは――大きな口にそれを押し込んだところで、オルテールの赤い双眸が瞠られた。
 油で一粒一粒がコーティングされていると云うのに、くどさや重さはそこに全く存在しない。黄金色の卵が絶妙な火入れで絡みつき、しっかり乗った塩味も鶏ガラスープの味付けも、そのお陰でまろやかに調和が為され食べやすい。思い出した様に歯先に触れる青葱が、単調さを打ち壊して飽きの来ない出来栄えだ。
「なるほど、これは売れ筋なだけはある……、――いや迂遠な言い回しをするのは|俺《作家》の良くない癖だ、」
 喋りながら流れる様に二口目を押し込んだ。咀嚼の間がある。
「――信じられんくらい美味い!」
「マジで何喰っても旨いな、この店」
 語尾を強めて端的に告げるオルテールを視界の端に捉えつつ、ライナスも自分のレンゲで炒飯の端をちょっと失敬する。口に入れれば、確かに眼前の男が礼賛の限りを尽くそうとするのも理解出来る程の味わいだ。
 手許の丸鶏焼きの脚を持ち、ぐ、と力を籠めて引き剥がす。もう片脚はさっき食べてしまったからもう無かった。
 飴色の皮はぱりぱりと口中に楽しい食感を残す癖、中に仕込まれた野菜や米を肉に乗せて口に押し込めば、旨味を凝縮したかの様な強烈なボディ・ブローを放たれた気分だ。あまりにも美味い。
「ライリーのそれ、食べにくくないか?」
「あー、確かに喰い難い。……が、それでも喰う価値はあるぜ。試してみろよ」
 皿を少し押し出してやろう。オルテールがいそいそと両手で肉を掴みに掛かる。当然の様にぼろぼろと崩れる様子に、結局諦めて豪快に齧り付く姿も在ったのやも知れない。違ぇよこう持つんだよ、とライナスが茶々を入れる声が明るく響いた。
 死ぬほど賑やかな店に、死ぬほど美味い料理――たまにはこういうのも、悪くない。

時司・慧雪
アルティア・パンドルフィーニ

●心ゆくまで満ち満ちて
 皿が舞い箸が飛び、ときおり人も頭上を吹っ飛んでいく、そんな有り様を背にした所でアルティア・パンドルフィーニ(Signora-Dragonea・h00291)の淑女性が損なわれる訳もない。
「安心なさってシニョール、飛んで来るものは蔦で全部弾いて差し上げますから!」
 ふたりで運良く空いたテーブル席へと滑り込み、品がない上に食事を提供する場所としても有り得ない光景を背後にしながら、アルティアは軽やかに胸を張った。
 店内を見遣っては難しそうな顔をして瞬いてから――本当に食事処なのだろうか此処は――、時司・慧雪(界岐堂・h00889)はアルティアに淡く微笑みかける。
「気持ちは有り難いけれど、それだと君が落ち着かないだろう。君も食事を楽しめる程度で構わないからね」
 穏やかな物言いでそう告げてから、どれにしようか、と示し合わせるでもなくふたりで壁の方へと視線を擡げた。
 メニューは壁を埋め尽くす勢いでずらりと並んでいる。年月を経て紙は黄ばみ、おまけに油を吸ってとんでもない色になっているが、辛うじて読めない事もない。
 慧雪が、自身の顎先を指で擦る。
「こう種類が多いと迷うねえ。できればあっさりめ……棒々鶏とか良さそうかな」
「そうねシニョール、茹で鶏ならばあなたのご希望も叶えられそう」
 同じくメニューに悩む風にしつつ、微笑んでアルティアが相槌を打つ。
(――シニョールの前ではしたないところは見せられないわ、)
 然し微笑むその裏で、唇を噛み締める心地だった。理由は至極簡単だ、|たくさん食べ《はしたないことをし》たい。
 美味そうに料理を頬張る周りの客を見てもそう、ずらりと並ぶメニュー表を眺めたってそう。どの皿も魅力的で、竜の自身であれば全部のメニューを平らげるなど造作もない。
 けれど今日は|慧雪が共に居る《淑女でありたい》。
 淑女はメニューの端から端まで制覇したりしないのだ。
「…………」
 メニューと睨めっこをして悩むアルティアの細いかんばせを、慧雪が横から見詰めて吐息を零す。
 恐らくは色々食べてみたいのだろう。何を理由にしての遠慮かは扠わからなかったが、けれど此方に気を遣っている、というのはきっと自惚れではあるまい。
「決めたわ、鶏白湯麺と烏龍ゼリーにしましょう」
 澄まし顔で彼女がそう口にする。そのまま店員を呼び止めて注文を願い出る様子に、ふ、と慧雪の口許が音なく笑った。
「私の方には棒々鶏を。……そうだなそれと、海老餃子に小籠包、桃饅頭と……後は、胡麻団子も」
 つらつらと付け加える。視界の端でアルティアがほんの少し驚いた顔をしていたのは、自分がメニューの中でも長く目を留め、迷っていた品々ばかりが聞こえてきたからだ。
(ひ、ひとくちずつ食べたい)
 なんて素直な欲だろう。心に留めておけて本当に良かった。
 努めて冷静にと居住まいを正すアルティアを他所に、注文の品々はあっという間に運ばれて来るだろう。途端に机上を埋め尽くしてしまう皿の大群を前にして、おっと、と慧雪が困った様に眉尻を下げた。
「滅多に来れないだろうからと、気になってつい頼み過ぎた様だ。私ひとりでは難しそうだな、――君も一緒に食べてくれるかい?」
 料理の上から擡げられた眼差しが、アルティアを柔く見据えて提案する。
「――、……よろしいの?」
 問い返す声は、まるで眼前にお菓子の家が出て来た幼子の様でどこかいとけない。
 表情を笑う風に緩めた慧雪が首肯でいらえれば、ぱあ、とその燃える眸がぱちぱち爆ぜた。
「……、ええ、そうよね、勿論! 任せてシニョール、ふたりならきっと食べ切れるわ」
 居並ぶ大皿の数々には、どれもこれも豊かな薫りと色彩を伴い幸せが具現化して乗っている。
 茹でているのに驚くほどしっとりと柔らかな鶏肉には、刻んだ胡桃を混ぜた甘辛いソースと瑞々しい胡瓜の食感が良く似合う。冷えた口に熱々の白湯麺を啜れば、鶏同士だと言うのに風合いの違う味が絡まって、複雑な後味を舌先に置いてゆく筈だ。
 烏龍ゼリーはそれ自体が酷くあっさりしたものだけれど、練乳ソースを絡めれば驚くほどに味に深みが生まれて面白い。まあるい胡麻団子をぱくりと頬張れば、まだ熱を帯びる滑らかな黒餡が賑やかに飛び出してくる。
「どれもとっても美味しい……!」
 それらを少しずつ、好きな順番で愉しむ事の叶う今を、しあわせと呼ばずして何と呼ぼう。
 頬にいきいきと生の燦めきを灯し、零れ落ちそうな笑顔で頬張るアルティアを見詰め、慧雪は眩しげに双眸を眇めた。
「頼んだ甲斐もあるというものだよ」

祭那・ラムネ
ラナ・ラングドシャ

●はんぶんこの魔法 Side:わんにゃん
 てめぇどこに目ぇ付けてんだその箸で突き刺したのは俺の肉団子だろうが、なんて怒号が聞こえて来たものだから、ラナ・ラングドシャ
(|猫舌甘味《langue de chat》・h02157)は思わず耳の先までぶわりと膨らませた。
 ぶん、と太い腕が振り回される。別に此方に害をなすつもりはないのだろうが、然しとばっちりだ。ラナはぎゅっと目を瞑って衝撃に備えたが、けれどいつまで経ってもそれは来ない。
「怪我はない?」
 恐る恐る目を開けるラナの視線の先で、向かいに座る祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)が手の甲で件の腕をいなして弾いた所だった。ついでに何処かから飛んで来た器までキャッチして、それとなく店員に戻している。肉団子にしか気が向いていない腕の持ち主は、なんにも気取っていなさそうだ。
 ほっと胸を撫で下ろす序で、ラナは幾匹かの仔猫の頭を撫で顎下を擦り、おねがい、と促して男の足許へと派遣する。にいにいみゃあみゃあ鳴いて纏わり付く仔猫に、怒りに尖っていた男の声が、だんだんまあるくなるのが聞こえるだろう。
「ありがとう! もしもの時はボクもと思ったけど、必要ないみたいだね」
 気を取り直してふたりで壁にずらりと貼られたメニューを眺めよう。
 日焼けと油の染みで掠れたメニューは、それ自体に店の歴史が詰まっている様にも見えた。見慣れない漢字ばかりのメニュー表は、一体どんな料理が届くのだろうとふたりの心を掻き立てる。
 何を頼もうか、どれを食べようか――参考に見回す周りのテーブルでは、誰も彼もが楽しそうに、或いは喧嘩を繰り広げながら、然し皆一様に美味しそうに食事を頬張っている。
「ラナは苦手なものある? 辛いものとか熱いものとか……」
 実は中華にあまり明るくなくて、とラムネが零せば、ラナの尻尾がぴんと奮い立った。ボクも、とはにかんで頷き返す。
「熱いのは苦手かも……! 見ての通り猫舌なんだよね」
「なら、デザートや点心メインにする? こっちならきっと冷たいものも多いし、すぐ冷ませそうだし」
 視線をずらせば、デザートのメニューが固められた壁面はすぐ見つかった。
「杏仁豆腐にマンゴープリン、エッグタルトなんていうのもあるね。……、|愛玉子《オーギョーチ》?」
 耳慣れないものも多い。読みに困った客も多かったのか、違う墨の色で読み仮名が振られているメニューも少なくない。
「おぎょちー? 何それ気になる!」
 ふわふわの耳がはたと揺れて、ラナが首を傾ぐ。
 それから、はっと思い出した風に表情を変えて。
「あと……しょろんぽ? が、美味しいって聞いたことあって!」
 それなら知ってる、とラムネが口角を擡げて笑う。
「小籠包、いいね。ちょっと熱いかもしれないけど」
「ふーふーすれば食べられるから大丈夫!」
 ぐ、とちいさく拳を作って意気揚々とラナが応えた。
 手を上げて店員を呼び、あれやこれやと注文を重ねればテンポよくあいよと返答があり、そのまま厨房に持ち帰られる。
「ん……、――あれ」
 意識が漸くメニューから逸れたところで、ちょろちょろと足許を駆け抜ける柔らかさにラムネが気付く。
 テーブルの下を覗き込めば、まっしろなわたあめとちいさな毛玉がころころと――否、|幽霊犬《ソータ》と|ラナのともだち《仔猫6匹》がじゃれついて遊んでいた。
 少し遅れてラナも気付き、にゃは、と楽しげに声が漏れた。
「キミたち、もう仲良しになったの? 楽しそう! よかったねえ」
 遊びたい盛りの仔猫たちが、かまってかまってとねこぱんちをソータに繰り出している。もこもこふわふわの毛並みでそれを受け止めつつ、おおらかに応じているソータの姿に双眸を眇めて見守っていれば、あっという間に料理の届く頃合いだ。
 小籠包の皮はちゅるんともちもち、ラムネの頼んだ肉饅頭もほこほこと蒸籠の中で湯気を立ててふるりと震える。良く良く冷えた烏龍ゼリーにマンゴープリン、甘い香りの中に愛玉子の爽やかさがアクセントだ。
「折角だから、はんぶんこしよう」
 大きな肉饅頭はふたつあるけれど、敢えてひとつを半分に割った。こうすれば餡が冷めやすいし、割った傍から溢れ出す肉汁が華やかで食欲を唆る。
 はい、と渡されたそれを両手で受け取り、ラナのおおきな眸がますますまんまるになる。わあ、と溢れるのは感嘆だ。
「やた! これも気になってたんだよね~!」
 此方からも皿を差し出し、はんぶんこ、とラナが満面の笑みで肯き返す。
 美味しいことも楽しいことも、今日は全部をはんぶんこしよう。

戀ヶ仲・くるり
ジャン・ローデンバーグ

●はんぶんこの魔法 Side:王様とJK
 店内は人でごった返す大繁盛ぶり、大きなテーブル席は埋まってしまっている。
 片隅に空いていた二人掛けの席が今日の牙城だ。
「確かにすっげーいい匂いする!」
 すん、と店内に満ちる空気を嗅いで、ジャン・ローデンバーグ(裸の王冠・h02072)は翠玉の眸をきらきらと瞬かせた。これだけの人間が挙って食べに来る様な人気店なのだ、納得に足る。
 それから後ろを振り返った。
「くるり、早く座ろ、」
「ぅわあっ、」
 振り返るジャンの眼の前と、それから先に気付いて避ける様に仰け反った戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)の合間を、ひゅん! と空を切る音と共に器が吹っ飛んでいく。吹っ飛んだ先は見失ったが、派手な破壊音の報せはないので誰かがキャッチしたのだろう。そうだと良い。
 顔をくちゃっとさせてくるりが呟く。
「ぅえ治安悪……」
「へー、こんなアトラクションまでついてるんだ」
「これアトラクションじゃないよね!?」
 語尾の上がったくるりの返答を聞き流し、斬新だなと呟いたジャンはさっさと腰掛けてメニューを手に取る。机上に残されていた冊子タイプのそれは、経年劣化と油染みが烈しい。一回置いて指先で端を摘み直した。
 メニューは手書きでの追加や、二重線を引いての訂正がそのまま残っている。序でに見慣れない漢字も多い。見辛い。
 矯めつ眇めつするジャンを他所に、きょろきょろと店内を見回しながらくるりがねえねえ、とこそこそ話し掛けてくる。
「……王様って強いっけ? ひゃ、」
 聞いている間にも箸入れが遠くでぶち撒けられる音がした。
 何だと訊きたげにして、ジャンの片眉が優美に擡げられる。
「そりゃあ王様だからな、そこそこ――まあ、徒手は弱いが。なんとか、」
 なるよ、と続く筈だったに違いない。
 しかし明後日の方向から飛んで来た包丁が、すぱんと綺麗にメニューの上半分を吹っ飛ばしてどこかへ消えてゆく。否、店員が盆で受け止め厨房に投げ返していた様な気がしないでもない。人的被害が出なくて良かった。
「…………」
 物言いたげな顔をしてからジャンが上半身を引いた。そのままくるりに下半分しか残らなかったメニューを押し付ける。
「……くるり、肉が多そうなやつ適当に頼んでくれ」
「メニュー見ないで頼めって!?」
 んもう無茶振り、と呟きながらも残った部分を吟味する。壁にもメニューはあるのだが、遠くにあるぶん手許のメニュー表よりかは読み辛い。
「刃物まで飛んで来るとかさ~、世紀末すぎない? 王様、お肉だけでいいの?」
 ぶつぶつと文句を連ねるものの、メニューを決めると云う大役を担ったのでくるりは真剣だ。
 お肉お肉と唱えながら、いびつな正方形になってしまったメニューをばたばた繰っている。
「あとごはん系。ギョーザも」
「おっけー……あれ、まだ呼んでないです」
 ふとテーブルに影が落ちて、おやと瞬いてくるりが顔を上げた。店員がにこやかに佇んでいる。
 まだ何もアクションしていない筈だがと首を傾いだ所で、いま手が空いてんで注文|聞きます《早く言え》、等とにこやかに促された。早く言えとルビが振ってあるのが見える。
「横暴!」
 短い悲鳴が挟まる。
「くるり、甘いのも食べたくなったからそれも」
「王様ぜんぶ私に言うじゃん! 何、オーギョーチー? じゃあそれにしよ、あと胡麻団子!」
 ひとまず注文を預けてしまえばそれまでだ。
 あとは飛び交う皿やカトラリーを避けつつ、偶に飛んで来る人間も華麗に避けて待つばかりだ。普通のごはんやさんって多分お皿も人間も避ける必要ないと思うけども。
 ――おまかせで、と半ば勢いの儘に頼んだが、そこは人気飯店だ。しっかり美味しそうな皿が運ばれて来る。
「王様はんぶんこしよ、はんぶんこ」
 テーブルの上を埋め尽くす、燦めく皿の数々に双眸を輝かせ、うきうきとくるりは取り皿を手に取った。
 まだ油が細かに跳ねる羽根付きの餃子は見て解る、絶対に美味い。人気だと云う炒飯は卵を纏った黄金色だし、エビチリはファミレスで目にするものよりずっと海老が大きくてぷりっぷりで、ソースの色が艶めいて濃い。青椒肉絲は見事な細切りのピーマンと筍が、同じく短冊状に切られた豚肉としっかり絡んで照り照りだ。
「じゃあはい、半分こな。――、……肉おいしい!」
 飛び交うものを身軽に避けつつ、噛み締めた肉の力強さと旨味にジャンの眸が瞠られる。
 白いご飯にバウンドさせて食べるも良し、炒飯と共に口に入れればふたつの味が混ざり合ってこれまた美味い。
「くるり、なんかあんまり箸が進んでなくない?」
「王様は心が強靭だねぇ……」
 止まない乱闘にぎゅっと縮む胃を宥めながら、くるりは何とも言えない顔をして微笑んだ。でも美味しいから、まあいっか。

咲樂・祝光
エオストレ・イースター

●うさぎと兎を食べる
「美味しそうな香りが漂ってる」
 すんと鼻を鳴らして、満足そうに艶めく口端を擡げて咲樂・祝光(|曙光《アルナ》・h07945)は呟いた。
「わぁ! 賑やかだね! 活気に溢れた荒くれ中華イースターだ!」
 傍らで花色の双眸を瞠り、きらきらと煌めかせながらエオストレ・イースター(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)が跳ねる。
 奥では誰ぞ酔客の怒鳴り声が響き、同時にそこから放物線を描いて何かが飛んで来た。何だったのかは解らず仕舞いだ――だってそれはエオストレの身体にぶつかる前に、ぽんと音を立てて桜吹雪に成り変わってしまったのだから。
「あっちは|厨房《キッチン》? いいにおーい!」
 はらりと散る桜の花弁を引き連れて、エオストレが釣られる様に駆け出――そうとしたが、その肩を力強く祝光の指先が掴んだ。
「エオストレ! うろちょろするな、大人しくしていろ」
 半ば引き摺る様にして席へ連れ、椅子に座らせる。
 そうしている間にも再び何かが飛来して――割り箸のようだ。今度は見えた――然し、エオストレにぶつかる前にまたその姿が摩り替わる。中華風の装いになったイースターラビットだ。かわいい。
「兎は仕舞え、と言うかイースターも仕舞え!」
 まったく世話の焼ける、と呟きながら祝光も席に着く。放っておいたら店までイースターにしかねない。
 メニューはと見回せば、壁に貼られているのを各々で見上げるスタイルらしい。気怠げに細腕で頬杖を付き、星めく眸が興味深くそれらを順繰りに眺めてゆく。
「看板メニューの炒飯は決定として、肉饅頭や小籠包もいいな。点心ならもう少し追加してもそう重くは……」
 周りを見ている限り、上品な量で来る訳ではないらしい。
 ならば無秩序に頼むのも考えものか、と悩む素振りで祝光が眉宇に思慮を滲ませる。
「祝光、食べたいのはぜんぶ食べようよ!」
 然しエオストレはそんなのちっとも気付かずに、わくわくと身体を揺らしてメニューを眺め、明るい声でそう提案した。
「僕、この手撕烤兔ていうの気になるなぁ。兎ってついてるし、何か可愛いぽい!」
 艶々の赤で彩られた爪の先が、あれあれ、とメニューの一角を示して無邪気に告げる。
 なんだそれ、と顔を上げた祝光がその指先を追い掛けて見遣った。
「……|手撕烤兔《兎の丸焼き》?」
 知ってる。
 兎の首から下にたくさんのスパイスを刷り込んで、燻す様にしながら照り照りに焼く奴だ。
 思わず視線が|エオストレ《うさぎ》に逸れた。
「……うさぎが、うさぎを食べるのか? いや君は本当はうさぎではないからいいのか……」
 祝光が独り言めいて呟く間にも、エオストレは御機嫌で注文の品を吟味する。
「後は胡麻団子とねー、ラーメン! 鶏白湯がいいなー」
「はいはい」
 ふ、と祝光のかんばせに笑みが咲く。
 こんな無法地帯の店なのだ、今日くらいはこんな風に素直に、何を憚る事もなく好きなものを全部食べるだなんて云う暴挙をしでかしても良いのやもしれない。
 ひらりと優美に片腕を擡げ、店員を呼び止めて注文を伝えると、そう待たされる事もなく出来立ての品々が卓上へと届く。
「きたー! いただきまーす!」
 無邪気に箸を構えるエオストレの向かいで、祝光がほくほくと湯気を立てる小籠包をレンゲに乗せる。
 注意深く箸で割れば、まるでスープカップを内包していたかの様に怒涛の肉汁が溢れ出る。細かな脂がきらきら燦めくそれは、途端にふわりと繊細な薫りで以て早く食べてと誘うものだから、思わず祝光だってぱくりとレンゲを口中へ招いた。
 ちゅるんとした皮に、むちむちの肉の食感がアンバランスで楽しい。そっけない風貌の癖に、味わいは目を瞠るほど風味豊かで複雑で美味い。
「ん、絶品……!」
 エオストレの手許では、色濃くこんがり焼き上がった|手撕烤兔《兎の丸焼き》が拙くも解体される所だ。
 口に入れれば何とも言い表しがたい味わいが奥深く在る。多種多様のスパイスを贅沢に用いられたそれは、癖のない兎の肉に食べ応えをしっかり含ませていて不思議だった。
「可愛、くはないけど美味しい~!」
「エオストレも気に入ったみたいだね、それ」
 美味しそうに口に運ぶ様子を見て、祝光が薄く笑う。
「祝光も気になる? わけてあげるよー!」
 大切な幼馴染がそうやって、自分が好意的に思うものへ興味を抱いてくれるのがひどく嬉しい。
 にこにこと愛らしい笑みを浮かべるまま、エオストレが箸で兎肉を摘んで祝光の口許へと運ぶ。
「ほら、あーんして!」
「わけてくれるのか? ありがと……、……いや食べさせてくれなくていい」
 ぐいぐい頬へ押し付けられる。口に入れてもいないのに、複雑なスパイスの薫りが漂ってくる。
 いい匂いがした。
「おい、箸が突き刺さっ……自分で食べるったら!」

ヴォルケ・ナクア

●美味い話
 ――ガタン、と大仰な物音と共にわあっと歓声が沸いて、ヴォルケ・ナクア(慾の巣・h08435)の|異色虹彩《オッドアイ》が気怠げにメニューから剥がれ、そちらを見た。
「アー……決めた。あの喧嘩で彼奴が勝ったら炒飯、」
 笑う様に眸が眇められ、その視線が殴りかかったばかりのスキンヘッドの男を見る。
「もう一人が勝ったら麺だ」
 そして、殴り飛ばされたばかりのモヒカン頭の男を見遣った。
 視線の先で男は青筋を浮かべながら、てめえその餃子は俺の方に来てただろうがと叫びながら殴り返す。途端にまたギャラリーが歓声を上げた。
「……本当なら、片っ端から注文してえが」
 賭けの決着はもう少し先だろう。視線を外し、改めて壁に貼られたメニューを見上げる。
 どれもこれも魅力的なものばかりだ。周りで食べている奴らも皆、美味そうに頬張っている。然しこれから仕事――下層までの大移動を経るとなれば、食べ過ぎると云う訳にも行くまい。
 何処となくアンニュイな気持ちを持て余しつつ、|とばっちり《飛んで来たレンゲ》を叩き落とす。
 ――ふ、と自身に影が落ちたのは、その時だ。
「……、あ? お前何を――」
 乱闘は予想以上に烈しさを増し、頭に血が上って周りの見えなくなったモヒカン男が適当に|そこいら《自分の所》へ手を伸ばしたらしい。胸倉を捕まれ、スキンヘッドが叩き込もうとする強烈な拳の前へ突き出された。盾だ。
「――ざけんじゃねえぞ、」
 地を這う声を喉奥から絞り出す。
 逆に此方が殴り倒す事に躊躇なんざ在る訳がない。拳を振り抜きスキンヘッドを制してから、後ろ向きに蹴り払ってモヒカンの脚を崩し、顔面を踏み付ける。物の序でだ、引き摺って両者とも店外に放り出した。
 わっ、とギャラリーから歓声が上がる。いやあいい展開だった、面白かったよ、等と好き放題言って、彼方此方から俺の奢りで喰わせてやろうと声が掛かる。
「ま、両方喰やあいいか。大盛で」
 丁度この様に、財布を出してやろうと湧く人間が大勢居るのだ。
「おら、さっきの奴らの注文も俺に寄越しな。デザートも忘れんなよ」

古出水・蒔生
古出水・潤
リーガル・ハワード

●中華美食大放論
「以前から、」
 すう、と息を吸う音がした。
「中華料理を体系的に味わってみたいと考えておりまして種類の豊富さのみならず地域ごとの思想や気候保存技術香辛料調味料の配合から嗚呼そう言えば辛さにも幾つか種類があるというのは有名な話ですがこと中華料理となると醤、」
「あーもう分かった! 分かったから!」
 息継ぎして! と歩きながら、兄――古出水・潤(夜辺・h01309)の|読経《・・》を遮るべく、古出水・蒔生(Flow-ov-er・h00725)は彼の顔の前でぱたぱたと大きく手を振る。
 大体息継ぎしてないどころか眼鏡の奥の眸は開きっぱなしだったのだ。怖い。
「うん、うん。そうだな」
 ちゃんと聞いている風でいて、リーガル・ハワード(イヴリスの|炁物《きぶつ》・h00539)のそれは、途中からはただの裏打ちじみた相槌だった。ちょっと引いている。
 目的地はガラが悪いと評判の店だけあって、周囲にはああガラが悪いなと云う人影が増える。リーガルの手が蒔生の腕を掴み、柔く引き寄せた。ほんの少し蹈鞴を踏んで、堪える様に蒔生の指先がリーガルの袖を掴み返す。
「あまり離れるなよ」
「うん、ありがと」
 歩幅を緩めて少し後ろのふたりに歩調を合わせた潤が、横からひょこ、と顔を覗かせた。
「蒔生は勿論ですが、リーガルもこういった場所は不慣れでしょう? 軽く掃除しておきますか」
 潤の指先が浮かれた様に空をなぞり、鳥の霊紙がその軌跡を追い掛ける様にはためき舞い飛ぶ。指揮された紙の鳥々は清掃に熱心だ。
 住んでる人怒ったりしない? とそわそわする蒔生を他所に、特に怒られる事もなく目的地――『悪食飯店』へと至るだろう。屋号は吹っ飛んでいるし中では破壊音がするしで散々だ。
 入った所で誰もこちらを見やしない。空いているテーブル席に滑り込むと同時、ひゅん! と空を切る音と共に頭上を箸立てが吹っ飛んでいった。遠くでがしゃあんと景気よく派手な音が上がる。
「品数が多いな。――まずは定番だろう、餃子に炒飯は外せないんじゃないか。そうなると当然、たまごスープも必要だ」
「いいですね」
 リーガルが壁を埋め尽くす勢いで貼られているメニューにざっと目を通し、僅かな思案と共にそう告げる。
 上着を脱いで臨戦態勢に入った潤が、前傾気味に肯いて応えた。
「理想的な組み合わせではありませんか? 私は異論無しです」
「何か飛んで来た事に対する反応は!?」
 蒔生が思わず訴える。全てをスルーしてのオーダー相談がノータイムで始まってしまった。
「蒔生」
「なに」
 兄に呼ばれてそちらを見た。
「腹が減っては戦は出来ぬ、ですよ」
 人差し指を立て、出来る男の顔をした潤が告げた。
 感情の儘に何事か言い返そうとして、けれどぐ、と唇を噤んで蒔生が居住まいを正す。皆でこうして食事に来るのを楽しみにしていたのは、自分だって勿論そうなのだから。いやでも突っ込みたい。
「だってさ、メニューも……中国語? みたいで読めないし。――あ、でも定番から、っていうのはわたしも賛成!」
 むむ、と壁を睨め付ける。経年の黄ばみと油染みでそもそも読みにくい上に、当然の様に漢字表記だ。
「リーガルさんの頼んだのを分ける感じでどう? ちょっとずつ食べたいよね、兄貴とか特に」
 勿論、と傍らの蒔生からの提案に肯いてから、リーガルは店員を呼び寄せ序でに視線を周囲に巡らせる。
 美味しそうに頬張っている真っ最中の食卓には、一体どんなものが乗っかっているだろうか。
 メモを手にやって来る店員に、まずはさっき決めたメニューを申し伝える。
「それとこの叉焼飯、干炒牛河に生煎包と……隣のテーブルの料理と同じものを頼めるか?」
 あれは腸粉だよ、具はどうする? と、店員は気安く尋ねた。合間にさらさらと言われたメニューを書き留めている。
「具……、それじゃ数種食べやすいものをお任せで。――、海鮮や野菜があれば、それをメインに」
 頼んだラインナップを思い返せば肉が多い。味わいのベクトルが違うものの方が楽しめるだろうと、リーガルがそうやって言い添える。
 ひょこ、と横から蒔生が顔を寄せ、リーガルさんあれ! と壁を指し示した。|甜品《デザート》の品々が並ぶあたりだ。
「あれ分かる、胡麻団子でしょ!? 食べたい! あっ、隣に杏仁豆腐もあるじゃんあれも!」
「……というわけですみません、それも追加で」
 声を弾ませる様子にふと口端を緩めて微笑んでから、リーガルが店員へと会釈をする。オッケー、と軽く返された。
 去っていく店員の背中を見詰めながら、口を開いたのは潤だ。
「定番且つ看板の炒飯で炒、叉焼飯の焼豚で焼、生煎包で蒸……完璧ですね、食べるのが楽しみです。ところで」
 空気が変わった。
 爛、と眼鏡の奥の双眸に生き生きと光が宿る様に、蒔生とリーガルが思わず目配せを交わす。
「叉焼飯は焼いた豚をご飯の上に乗せるという究極的にシンプルな料理である事は言わずもがなと思いますが然し」
「もうほっといていーよ、ごはんが来たら静かになるし」
 半眼になって兄を見守る|妹《蒔生》の口から、そんな風に柔らかな『どうにもならん』が零された。
 潤の、息継ぎをしているか心配になる様な中華料理の解説をBGMに、料理を待つ時間がある。賑やかな周囲の喧騒はそれを苦にはしなかったし、何より周囲で漏れ聞こえる美味礼讃めく称賛の言葉に、否が応でも期待が膨らむと云うものだ。
 そして、思うより早めに続々とそれらがテーブルに届き、あっという間に卓上を埋め尽くす。
「炒・焼・蒸という調理法の差異を確認できる構成ですよくぞここまで中華料理の基礎を一度に検証できる注文を流石私のバディで」
 白い湯気に眼鏡を大いに曇らせながら、潤の解説がスピードと切れ味を増す。まるで読経――否、最早何かしらの詠唱だ。
「そういえば例の妖魔? 可愛いんだよね! 写真見た? えーと確か何とかマオマオって言ったっけ、名前も親近感あるしさぁ、やっつけなくても研究部とかに頼んでさぁ、」
 更にこのタイミングで、今更思い出した様に蒔生が喋りだす。というか身を乗り出している所為でリーガルとの距離がだいぶ近い、無自覚大接近だ。ちょっとだけリーガルが困る。
 ――というか大前提として両側からマシンガントークをかましてくるんじゃない、俺は聖徳太子じゃない。
「ああもう! そろそろ黙って食え!」
 潤の口と。
「むぐ」
 蒔生の口に。
「んぐ」
 リーガルが胡麻団子を突っ込んだ。両者が黙ると本当に静かになる。
 ふう、と息を吐いて突っ込んだリーガル本人もまた、ひとつ自分の口に放り入れた。
 ぷちぷちと軽やかに弾ける胡麻の壁の向こうに、もっちりと薄甘い団子生地が在る。まだ熱を帯びるそれをはふはふと転がし口中で割れば、ねっとり甘い黒餡が飛び出してきて舌先に懐いた。熱い。熱いが然し、だからこそ美味い。
「……この胡麻団子も素晴らしい」
「突っ込まなくていーじゃん!」
 むぐむぐ頬張る潤の傍で、似た風に頬を膨らましながら頬張る蒔生がちょっぴり唇を尖らせた。
 似たもの同士の兄妹を前に、ふ、とリーガルの口許が緩む。
 ――偶にはこんな風に皆で同じものを食べ、喧しく過ごす腹拵えだって、あったって良い。

第2章 冒険 『魔境疾駆』


●積層都市の空から往けよ
 都市の上に都市を積み重ねて出来上がったこの世界で、下層へ向かうのならばそれは当然、空から地表へ堕ちてゆく事に他ならない。
 目指すはⅡ層――食事を終えた貴方がたを出迎える様に現れた|案内役《星詠み》は、そう言って下を指し示す。

 駆逐すべき妖魔は待ってくれやしない。Ⅱ層に飽いたらⅠ層へ降りてしまう筈だ。そうなると探すのも一苦労――と云う事で、Ⅱ層で食い止めたい、との星詠みの主張だ。
 移動手段は好きにしろ、と彼は告げた。
 上層にある都市の地下をぶち抜けば、そのまま下層の低い空に放り出される。自前の翼や飛行手段があるならそれを使えば良いし、ないなら安牌を取って、都市建築中の遺物である作業梯子を使うと良い。
 まあ上層から下層に繋がる錆び付いた梯子だ、放置されて長く経つそれが、降りている途中で崩れない保証など無いのだが。

 身軽さに自信があるのなら、下層へ行くほど襤褸っちくなってゆく低層のビルや廃屋の屋根を足場に、とっくに|仙術《エネルギー》の通っていない千切れた電線をロープ代わりにしながら駆け抜けてしまうのが手っ取り早い。
 そう、現代ではその行為にこんな呼び名がついている。曰く、『パルクール』。重力などないものの様に、壁を足場に車の屋根を中継地点に、縦横無尽に駆け回る技法。
 そういった体力や技術がからきしだと云うのなら、自前の√能力で何とかする事だ、と星詠みは悪辣に笑った。

●マスターより
 第2章では、『上層から下層への移動、及びⅡ層での探索』を行います。妖魔シュエバオ・マオマオを探して下さい。
 (この章では探索のみです。会敵及び戦闘は第3章になります)
 √能力は適宜ご使用頂けます。どのように使うか、を仔細に書いて頂ければ、リプレイに盛り込みます。
 書かれていない移動方法や探索手段を考え、プレイングに盛り込んで頂くのも勿論、大丈夫です。
 格好良く積層都市を駆け抜け、移動し、華やかに魔境の空を翔けましょう。腹ごなしの運動と思って、是非大暴れしていって下さい。
チェスター・ストックウェル

●風に為る
 片脚が軽やかに振り上げられ、強い衝撃と共に古びた地層を打ち壊した。
 がらがらと瓦礫が下へ堕ちてゆく――堕ちる内に空気に砕かれ、小さくなり、下層ではばらばらと瓦礫の雨が降るのだろう。彼らにとってはいつもの事だ。
 少年の体躯が迷わずそこへ吸い込まれ、昏く低いⅡ層の空へと放り出される。質量を持つ四肢に感じる空気抵抗に目を細めると同時、親指が口端を払った。冷えた空気が良く沁みる。
「ちぇー」
 剝れた少年――チェスターが悪態を零す。体さえなければ、余裕で完全試合を達成できたのに! 胡麻団子の後味はほんのちょっぴり苦いのだ。いや、十分甘かったのだけれど。
 勢いを殺す事なくそのまま堕ちて、然し衝撃は訪れない。落下の直前だけチェスターの身体を光が通り、同時にふわりと質量を逃がす。
「よっ、と」
 すぐにまたその手足が実体を結んだ。空中浮遊は幽霊の十八番だ。
「ほら、きみたちも手伝ってくれ。家賃分は働いてくれよ」
 えーまた? こないだも手伝ったじゃーん、くらいのノリでするりと半透明の存在が空へと泳ぎ出る。
 |彼ら《死霊》を遣わせ探索範囲を広げながら、チェスターの靴裏が軽やかに地――どこかのビルの朽ち掛けた屋上だったが――を蹴りつけた。
 切れて項垂れた儘の電線を掴み、それを支えにしてぐ、と身体を振り子の様に振る。最大まで身体が浮いたところで手を離せば、自身の重みで落下速度が跳ね上がる。
 その勢いを殺さないよう宙空で器用に膝を曲げ、靴裏が今度は別のビルの壁面を蹴った。インパクトと同時に曲げた膝を伸ばせば、ばねの要良でまた身体が軽やかに跳ね――古く重たく立派な横長看板の縁に降り立ち、勢いのままにガンガンガン! と細いそれを通路として駆け抜ける。
 全身で風を切り、奔る。
 いつかこの身体でピッチを駆け、我武者羅にゴールを見据えていたあの感覚が、酷く近くで思い出された。
「――あの頃みたいだ、」
 ほろ苦くも懐古はいとおしい。チェスターの口角が上がった。

クラウス・イーザリー

●似た天蓋
 ――おん、と獣の哭く声がした。
 錯聴だ。
 崩れた建物の残骸と、まだ生き残って聳えるビル群との高低差を風が抜けてゆく事で聞こえる、ただの風鳴りだ。
(下層に向かうのも一苦労だね……)
 蹴落とされれば、或いは這い上がれなければ逆転の目などない――伝え聞く|この世界《√仙術サイバー》の話を思い返して浅く顔を顰めながら、クラウスが駆け抜けてゆく。
 すう、とひとつ大きく息を吸い、周囲を並走させる|機械仕掛けの瞳《ドローンたち》に意識を繋いだ。途端に負荷が上がるが、それを上擦る呼気ひとつに抑えて走る速度を落とさない。
 空間を把握する。
 上層の地下を抜けたところで、青空が広がる訳もない――放り出された下層の空はちいさく狭い。
 すぐに地面代わりの廃ビルの頭が出迎えて、けれどぐるりと身を捻らせて勢いを削ぐ。ドローンをひとつ掴む事で更にそれを抑え、とん、と軽やかに両脚の裏が着地を得た。
 同時にそれを蹴り上げて駆け出す。傾ぐ電柱から垂れた電線の端をぐるりと手首に巻き取って、ぐん、と勢いをつけて次の場所まで身体を飛ばす。荒れる呼吸を律するのは、ひとえにクラウスの精神力だ。
 着地の前に手を離し、前傾姿勢で転がり込む。前転で勢いを調整すると共に低い姿勢から駆け出し、助走を得て足場にしていたビルの屋上からおおきく踏み切って翔んだ。
「ッ、――こっち!」
 ドローンを呼び寄せ、ガン、と蹴りつけて足場にする。姿勢が崩れる――が、傍らの建物の壁面をジャンプ台代わりにしてそれをいなした。
 弾む呼吸の裡、自然とクラウスの口端に笑みが昇る。
「あちこち飛び回るの、結構楽しいな……」
 地を駆ける。ドローンに偵察をある程度任せ、自分も視線を奔らせよう。視界は狭い。狭いが、上には上層の蓋が広がる昏い涯が見えている。
 ――空のないその景色は、|かの地《√WZ》の|天蓋大聖堂《カテドラル》に似ている気がした。
(……そうか。俺、思い出してるのか)
 浮かぶ思考を振り払いはすまい。
 内包して、それごとクラウスは薄汚れた天蓋の下を往く。

篭宮・咲或

●ましろの相棒
「さぁ~て、腹ごなしの運動と行きますかねぇ」
 口中を満たした夢の味を思い返せば、口の端に自ずと笑みがのぼった。
 咲或の靴裏が躊躇いなく地を蹴って、下層に続く虚空へと身を躍らせる。そう長く堕ち続ける訳でもない――低くて狭いⅡ層の空は、すぐにぽっかりと虚の様に咲或の眼前に顕れた。
「いやぁ、何が役に立つか分からないもんだわ」
 視線を遠くへと向けながら、中空で難なく体勢を整えつつ呟く。
 片腕を泳がせ、そこから伸ばす影業で嘗ての電波塔の先端を捉えた。ぐ、とそこに力を籠めればがくんと身体が引っ張られ、大幅に勢いが削がれる。反動で浮き上がるのをいなしながら、離した影業を再び進行方向へと伸ばす。
 ばし、と音を立てて捕まえるのは、エネルギーの通らなくなって久しい電線だ。
 当然、荷重に耐えられず大きく撓む。
「おいで、」
 落ち切る前に影業を解き、柔く爪先が地に着いた。同時に柔い声が喚び招く。
 現出したのは白い花――ではなく、花の様にふわふわと揺れる|使い魔《わたあめ》だ。同時に薄暗かった周囲が、滲む様に白くひかる。
「……此処にはいなさそ。次行くかぁ」
 見回しても雪豹のちいさな影は見当たらない。
 ふわふわと足許でじゃれるわたあめを抱き上げて、咲或はその顔を覗き込んだ。
「そういや|わたあめ《あめちゃん》、お前狐でしょ? イヌ科なんだから、匂いとか辿れないの?」
 もっふもっふと振られていた尻尾が、ぱた……と静かになった。
 渋い顔をしている。
 ふしゅん、と不満げに鼻を鳴らした。|言いたいこと《「暗いんですけど」》は何となくわかる。
「はいはい、明かりがあればいいんでしょお」
 途端、じんわりと周囲を照らしていた白の光がその光度を増す。
 真昼の様に明るくなった路地へわたあめを放してやりながら、ほらほら、と咲或は口端を擡げて先を示した。
「明るくしたんだから、頑張って探して」

久瀬・彰
リュラ・アンナスラ

●異種の駆け様
「じゃ、腹ごなしの運動と行こう」
 リュラが風に髪を靡かせ、あざらかに背の翼を解き放つ。
 下層の狭い空に身を躍らせれば、後はそのまま滑空してゆくだけだ。然し、滞空時間は少しばかり長い。時折羽搏く様に竜翼は空を打ち、半ば落ちる様に飛んでいく。
 その眼差しが見守る風に向けられる先で、ガン、と硬質な音が響いた。
「っと、――大丈夫、そんなに心配しないでよ」
 彰の操る影の腕が、ガン、と再び同じ音を立てて落下軌道に在る|障害物《廃ビルの残骸》を払い除けると同時、その勢いで衝撃を削ぐ。
 人間の両脚に耐え得る着地を経て、間髪入れず靴裏が強靭に地を蹴りながら、彰は上空を往くリュラの視線に気付いてそう口端を擡げた。
「出来るだけ頑張ってみるから、――さ」
 跳ねる。
 当然飛距離が足りないから、その辺で風に揺れている電線を掴んだ。電気と違って仙術エネルギーは身体に伝わらないから楽だ。
「上手いことやるじゃないか、アキラ!」
 優雅に竜翼が空を薙ぐ音を轟かすと同時、褒め称える明るい声が同じ高度から降り注ぐ。
 その体躯が落とす影は、彰から見るとひどく小さかった。それだけ遠いのだ、と少しだけ眩しげに双眸を眇めてちらと仰ぐ。太陽なんざ、この階層から見えやしないのに。
「人間の底力を侮ってたな」
「生憎と、こういうのに――強さを、一切、感じないたち、だけど――」
 笑うリュラの伸びやかな声に、返す彰のそれは途切れ途切れだ。
 駆ける時に呼吸は弾み、着地の衝撃で途切れ、再び駆け出すのには肺を大きく膨らませて血中に酸素を巡らせる。影の手助けを借りたところで、結局駆けて往くのはこの肉体だ。
「それと、失敗しないことは同義じゃない、――からね、……っ、」
 視線を遠くへ凝らし続ける。
 このルート取りならこう走る、目算であそこのビルの境目はこの程度の距離だから影の補助が必要で、そうなると着地は自分でいなさねばいけないからあまり高く跳び過ぎない方が良くて、――彰の脳内で目まぐるしく情報処理が行われる。
 それを熟しながら高い精度で高負荷の肉体運動を続けるなんて、至難の業だ。
「――やば、」
 当然、ほんの些細な|イレギュラー《足許の瓦礫片》で彰の姿勢が崩れた。
 生憎と飛び出した先に足場はない。翔ぶ筈だった。
 跳べなかったのだ。
「……おや、」
 リュラが瞬き、翼の角度を変えて急降下の姿勢を取る。
 人外の羽搏きは即座にその身を彰の傍へと寄せ、伸ばした腕が悠々と崩れかけた身体を支えた。
 ぐ、と重力の重みに引き摺られそうになるのを、けれど竜の体躯が易々赦す筈もない。ひときわ力強く脈打つ如くに背の両翼は羽撃いて、ぐん、とふたりを地へ縛り付けようとする万物に逆らう。
「――はは、やっぱり助けてくれるよね」
 身構えはしたが、恐らくは大丈夫だろうと彰の本能が告げていた。
 傍らを往く、この存外に高潔な竜が、見知った人間を見す見す無駄死にさせる訳もないのだから。
「便宜上の弟妹の友人に何かあっても、寝覚めが悪いからね」
 軽やかにリュラが笑う。
 きちんとした足場へ下ろされると同時、然し懲りも恐れもせずに再び駆け出しながら、彰は眉尻を下げて肩を竦めた。
「迷惑かけちゃったな、ありがと」
「全く危なっかしくてヒヤヒヤするよ。危ないと思ったら尻尾を掴みたまえ」
 ついと焔色の双眸を眇めて息を吐く。少し休むかと思ったが、彰がそんな人間ではない事は、リュラも何となく理解しているのだ。
 言って尾を揺らめかせた後、ああそうだ、とピンと来た顔でリュラが瞬いた。
 口許がにまと意地悪く微笑む。
「やっぱりお姫様抱っこの方が安全じゃないかな?」
「平気だよ……と言いたいとこだけど、ちょっと説得力が薄れたな」
 彰の視線が横へ逸れた。
 眼前では再びビルの頭の足場が途切れ、代わりに朽ちた建物の残骸がぽっかりと空虚の口を開けている。
 影の腕に掬われながらそれを飛び越え――でも、と彰の口角に、浅く笑みが引っ掛かった。
「大丈夫、怪我をする前にきみを呼ぶよ」

オルテール・パンドルフィーニ
ライナス・ダンフィーズ

●瓦礫でダンスを
「元気そうだが乗せて行こうか、ライリー?」
 竜翼が空気を叩く音が波打つ様に広がった。
 ふと口端に軽快な笑みを引っ掛けて、背の翼で空を往くオルテールがそう声を掛ける。
「は!」
 笑い飛ばす様に呼気を吐いたライナスが、地を駆けながら竜を見上げた。
「折角の俺向きなターンだぜ?」
 腹ごなしの運動と思えば丁度良いくらいだ。
 層を為す地面の脆い部分を突き破れば、瓦礫の雨霰と共に下層の空へと放り出される。とは言え低く狭い空だ、傲慢に突き出た建物群の頭や、既にその用を為していない電波塔の天辺が足場たり得るだろう。
 宙空へと鍛えた四肢を放り出したライナスの、その腕が躊躇いなく電波塔の細く伸びた最上部を掴む。途端に重力も加わり、とんでもない負荷となった自身の体重を片腕ひとつで支える羽目になるが、軽々それをいなして振り子の様にぐいん、と両脚を前へ振った。
「楽するよりゃ愉しんで行こうじゃねえか」
 ライナスが跳びながらオルテールへ向けて唇の端を擡げて見せた。
 その体躯は軽々と向かいのビルの屋上へと着地して、衝撃を削ぐ所作も必要とせずに再び軽やかに走り出す。
「ははは!」
 身軽な相棒の姿に、心底楽しそうな笑い声を張ってオルテールが羽撃いた。
「ならお手並み拝見だ!」
 悠々と告げる竜が空を滑る。
 人間の様に二本足で必死に走る必要もなく、巨躯こそ無いが、影を斑に地へと落としながら泰然と空を往く様は、力持つもののそれに違いない。
 とは言え――飛翔の制御ならまだしも、オルテールはあまり身体を使うのが得意ではないのだ。時折視線を落とす眼下では、ライナスが軽やかに障害物のすべてを足場に変えながら駆け抜けている。
「流石は兄様! 前世はネコ科だったんじゃないか?」
「――かも、しれねえ、な!」
 下方では、工事中のまま打ち捨てられたか、建物の屋上に張り出したままの古い木板を踏み台にしてライナスが跳ねたところだ。軽口を返しながら、軽々と翔ぶ。
 跳ねた瞬間にバキッと派手な音を立てて砕け落ちる木板の姿に、間一髪だとオルテールがちいさく息を呑んだ。
「どこに力を籠めればどこに負荷が発生して、どこが折れるかなんざ解ってる」
 難なく次の足場へ着地したライナスが笑った。
 何しろ街中――路地裏だの倉庫だの、障害物が多く配された場所での『仕事』が多いのだ。
 これくらい出来なくては話にならない。
「俺にも出来ると思う?」
 周囲を破壊しない程度に真似てみようかとオルテールが笑う。
「細かい動きが苦手っつーなら、俺を|模倣《trace》したらいいし――こういうのは結局、バランスと勢いの均衡だ!」
 快活に告げたライナスが、駆けていたビルの屋上から翔ぶ。
 ――が、丁度建物の群の切れ目だ。おまけに少しばかり高い。着地で衝撃はいなせまいと判断するが早いか、ぐるりと姿勢を変えて落ちる速度を緩めながらライナスが声を張る。
「オーティ!」
「尻尾を使ってくれたまえ」
 呼ばれるよりも先にオルテールは動き出していた。滑空しながらライナスに近付き、その太い竜尾を差し出す。
 使ってくれ、と言われる前にライナスもまた、差し出される尾に五指をしっかり掛けていた。
「ついでにお前さんも一回転してみな!」
 明るく叫ぶライナスは掴む尾を軸にして、自身の身体を流す勢いをそのまま、オルテールに伝えてやる。
「そら、流れに逆らわずに|1《Uno》、|2《Due》、|3《Tre》!」
 あまりにも強引且つ乱暴なダンスの誘いに、けれど|オルテール《紳士》は当たり前の如くにいらえよう。
「回転って、こう――」
 人間ひとり分の体重に振り回されるほどでもないと自負していたのに、身体を使い熟す技術に長けたライナスに巻き込まれればそうもいかない。物理法則も加わって、埒外の力で尻尾を起点にぐい、と身体が回される。
 そんな風に身体を使った事などなかったから、バランスを保つので精一杯だ。
「ははは! 俺の体じゃないみたいだ!」
 上擦った笑い声は、見知らぬ感覚に身体が焦っている証左かもしれない。
 然しそれは同時に酷く新鮮で、新鮮な事はいつだって真新しい風を身体に吹き込み、堪らなく心地良いのだ。
「上出来だ、よく回ってんぜ!」
 兄貴分の機嫌の良い褒め言葉が聞こえる。
 次を駆け出す足先は軽やかだ。

時司・慧雪
アルティア・パンドルフィーニ

●踊るなら空の上
「ねえシニョール」
 気分が良い。
 声を掛けるアルティアの表情はきらきらしく、声色は明るい。理由はなんて事はない、気を利かせてくれた|慧雪《シニョール》のお陰で|満ち足りている《お腹いっぱいだ》からだ。
 呼ばれた慧雪が、下層の空へと続く昏い孔を見ていた眼差しを擡げてアルティアを見遣る。
「どうした」
「パルクールはお得意?」
 尋ねられ、そうだな、と顎を撫でる所作が挟まる。
「パルクールの経験はないけれど、まあ何とかなるだろう」
「私と競争してくださらない?」
 うずうずと、半ば語尾に覆い被さる様にアルティアの声が凛と張った。
 競争、とその単語に浅く眉を上げた慧雪の、次の言葉までに薄っすらと間が空く。色んなものを測っている。
「……怪我はしない程度になら受けて立とう」
 思考の後に返される承諾に、ぱあ、と勝負を仕掛けた竜の表情が華やいだ。
「ふふ、小娘だからって侮らないでね」
「まさか、」
 笑う呼気が慧雪の唇から零れ落ちる。
「そんな失礼はしない……と言うか、竜を相手に出来る訳が無いねえ。――では、お先にどうぞ」
 レディ・ファーストだ、と慧雪が孔を示す。確かにふたり一緒に通るには手狭だ。
 譲られたそれを淑女らしく受け取って、アルティアの四肢が鱗を得る――竜のかたちになる。
 剣士として身軽に斬り回っていた頃の筋力は欠落してしまったが、こうして竜化をしてやる事で補う事は十分に可能なのだ。以前と遜色なく動けると云う自負もある。
「御免あそばせ!」
 高らかに宣って衣服の裾を風に躍らせ、アルティアが翔ぶ。
 鱗を纏い筋肉の密度が代わり、質量が変化している分だけ四肢が重い。宙空にて細い体躯を広げ、竜の四肢を風に遊ばせてアルティアが堕ちて――否、空を駆けてゆく。
 既に役目を為さぬ電線に鋭い爪を引っ掛けて滑り、落ちる姿勢から滑空へと体勢を整える。終点たるビルに激突する前に、強靭な両脚でその壁面を蹴りつけて跳ね上がり、空へと身軽に逃れた。
「成る程、鮮やかだ」
 感心した様に独り言ちた慧雪が、ひら、と続けて孔の向こうへと身体を擲つ。
 ――違う、それは決して無秩序な軌道にはならないのだ。爪先を下に、ほぼ垂直に落ちる姿勢は空気抵抗が最も少なく、落下速度に弾みがつく。現役の剣士たる慧雪の体捌きは、様々な物理法則に好き勝手をされる空中に在っても酷く優美だ。
 風が吹く。然し向かい風にはならない。アルティアに先を譲り、自分が翔ぶまでの短い間に抜けてくる風からその流れを読み取り、適切なタイミングで落ちたから|そう《・・》なる。
「――――、」
 す、と息を整えると同時、鯉口を切る。落ち往くまま、慧雪は間髪入れずに自身の愛刀を抜き放った。
 軸はぶれない。すぐ眼下には古い木造の鐘塔が迫っていて、もう永く使われていないのだろうその頭を袈裟懸けに斬り捨てる。轟音と共に崩れ落ちる中、瓦礫を幾つか蹴り捨てると共に自身の落下の勢いを削ぎ、柔く着地した。
 刀を納める前に、落ちて来る梵鐘を刀の柄頭で弾く。あまり大きくないそれは軽々飛ばされて、軌道上にはアルティアの姿が――
「――もう、心配なさらなくても宜しいのに!」
 笑う様に彼女が告げて、丁度足許に飛んで来た鐘を踵で叩いて足場に代える。ごおん、と永く鳴らされていなかった所為で随分歪んだ音が間抜けに響いた。
「落ちそうになっても心配無用ですわ、竜には翼があるんだもの!」
 次いで、竜翼が空を打つ音が力強く後を追った。
 木造の建物が崩れ落ちる所為で、濛々と立ち込める煙が晴れてゆく――刀をすらりと鞘に納め、ふ、と慧雪の唇が笑うのが見えたのは、それ故だ。
「落ちる心配は無くとも、危険は何処にでも転がっているものだからね」
「あら、シニョールのことを抱えて差し上げてもよろしくてよ!」
 再び駆け出す。
 ひとりは空を、ひとりは地を。
「おや、それじゃ勝負にならないよ?」
 打ち棄てられた街を往く。ビルの頭を飛び跳ねて、或いは瓦礫や陥没した道を避ける為に建物の壁面を駆け上って。
 どこか愉しげな慧雪の声に、つられてアルティアも笑ってみせた。
 獣のようと嫌う自分を、今だけはほんの少し、赦しても良い様な気がして。
「――なら勝ちを譲って頂けて? シニョール!」
 飛び回り駆け巡る彼女の姿に、慧雪の口許は柔和な儘だ。あの活発さが、本来の|彼女《お嬢さん》なのだろう。
 若くて眩しい。肩を揺らして息を吐いた。
「勝てそうにないね」

花村・幸平
氷野・眞澄

●行先表示は『Ⅱ層』
 喰い付くした中華料理は腹の奥に火を灯す。満ちている。いまの動力だ。
「上手くすれば先回りできると思うんだよな」
 追い掛けるべき雪豹の姿を思い浮かべつつ、幸平は浅く首を傾いで呟いた。追い縋るのに否やはないが、上手な立ち回りを考えるなら行く手を塞ぐ方が良い。
 透けた幸平の身体の向こうに、ごみごみした景色が見えている。狭い路地や、お世辞にも明るいとは言いがたいそれを一瞥して、眞澄の唇から大きめの呼気が漏れた。
「妖魔を探す所からですか」
「またそんな大儀そうにして。んじゃ、ちょっと行ってくるね」
「頼みます」
 浅く顎を引く様に肯いた眞澄の視線の先、ずるりと幸平の身体が床に沈んだ。
 どこから何の油が滲み出したか、いつまでたっても乾き切らない水浸しの地面の上に玉虫色が広がっている。それを踏まない様に、ほんの少し眉根を寄せて眞澄が片脚を後ろへと引く。
 引いたところでにゅるんと半透明の腕が二本生えて、眞澄の足首をそれぞれ掴んだ――様に、見えた。万物擦り抜ける腕だ、掴まれて引き摺り込まれる訳でもない。
 更に頸も生えてくる。ぱ、と手を離して幸平の頸が笑い、ひらひらと両手を閃かせた。
「オッケー、ばっちりいけそ~」
「ありがとうございます。では」
 一歩、差し出された爪先に力が籠もる。視えているなら刻めるのだ。
 身軽にどこへでも歩いていける身体ではないが、然しこうして切り刻む事くらいなら負担ではない。
 断裁の気配に、するりと避ける様に幸平が脇へ裂けた。別に一緒に刻まれる訳でもなかったけれど、こういうのは気分の問題だ。
「いやー、ほんと凄い事するよねえ。その佇まいでする事じゃないよ」
 刻まれた隔壁や建材はブロック状になり、そして古さも相俟ってぼろぼろと瓦礫片と成り果て崩れ落ちてゆく。
 いつ見ても結構な暴力だ。
「言い値で買いますよ」
「喧嘩売ってな~い」
 下方の高さを目視で測りながら眞澄が淀みなく告げた。笑顔で幸平が首を左右に振る。
 覗き込む下層の空は低く狭い。真上から世界を覗いた所でさしたる万能感もない。ただ置いていかれると云う事象から逃げ損ねた、緩慢に朽ちゆくⅡ層なるものが横たわっている。
「――、少し高さがあるのが厄介ですね。……任せられますか」
 視線を下方から外さぬ儘、言葉だけが幸平へ向けてそう訊いた。
 眞澄の裡へ、幻聴が薄く奔る。ノイズ混じりの感覚は、時折厭な感覚を頭の皮膚一枚隔てたところへ齎すが、飲み下して視野を借り受ける。
「あぁ、ほんとだねぇ。うーんそしたら、……よっ、と」
 幸平の輪郭が揺らぐ。既に亡いものを人たらしめるものの意義が薄らいで、燻す薫りが昏がりに尾を引いた。
 にんげんの姿を結んでいたものが解け、再構築を得る――たし! と、柔く太い前脚が地を踏んだ。
「ど?」
 雪豹がバスのかたちをしている。
「……」
 眞澄はずれていない眼鏡を押し上げた。
 みょん、とファンシーな仕草でドアっぽい枠が土手っ腹に生まれた。そのまま眞澄が足を踏み入れれば、ふっかり柔らかい毛皮の床が出迎えるだろう。白地に灰の斑模様が愛らしい。
 どこもかしこもぬくぬくふわふわと息衝いている。なまものなので呼吸の度に車体が揺れた。
「んじゃ掴まってて、……あっでも慣れてないから中身あまり触んないでねえ?」
「どうしろと」
 困るような事を言わないでほしい。窓枠と思しき部分を控えめに掴んで眞澄が姿勢を整える。
 それを気配で感じ取った瞬間、ユキヒョウバスが発車した。
 太い四つ足でどうと駆け、穴からⅡ層の天井を走り壁へと向かう。錆や瓦礫を舞い上げながら、壁伝いに安全に降りてゆく。
「……あの」
 耐え兼ねた眞澄が車内で声を上げた。
「助けてもらう立場で言うのもなんですが」
 たん、と外で軽やかにユキヒョウバスの足が天井だか壁だか地だかを蹴りつけた。ぐるりと宙で身を翻し、靭やかに何処ぞへ着地する。
 確かに都合は良いのかもしれない。多分きっとそうだ。思いつつも聞かずには居られなかった。
「何故この形に化けたのですか?」
「え? かわいいから」
 片頭痛がほんの少しだけ痛みを増したのは、恐らく探索の範囲を広げたからだ。
 そうに違いなかった。

緇・カナト
野分・時雨

●堕ちて降りたら待ち合わせ
「そういやデザート系は食べたっけ……」
 はた、と気付いた風にカナトが呟く。
 顔を上げた時雨の表情は愕然としていた。デザート。忘れてた。
「またお邪魔すれば良いかなぁ、ねぇ牛鬼君?」
「言わないでよ……思い出したら食べ損ね悲しくなってきた」
 眼前にはこれからの|お仕事《探索》がどんと構えている。
 脆くなった床が抜け、分厚い地層の向こうに昏い下層の空と景色が見えていた。
「食後の運動したら食べて帰りましょうよ」
「食後の運動の後の食事って謎掛けか何か?」
 気軽に言い重ねながら、ふたりでざりざりと地を蹴り歩く。Ⅱ層のひとつ上、Ⅲ層ともなれば環境はそれなりに古い。上に積み重なった都市の分だけここは朽ちているのだ。
 陥没した道路をそのまま放置していたり、或いは何かの弾みで綻んでしまった廃ビルの床だったり、そんな所にぽつぽつと孔が存在する。勿論、この層の建築に使われたのであろう、大層錆び付いた下層行きのマンホールの蓋だって。
「上と下、どっちが好きとかある?」
「時雨君はどっちが得意だい、」
 並んで歩く訳でもない。
 地を蹴って具合を観察し、マンホールの蓋の溶接を見て面倒臭がって、そんな風に各々が気儘に喋る。
 尋ね返してから、ああでも、とカナトが言葉を重ねた。見据える眼差しの先には、ひと一人なら労せず通れそうなマンホールの蓋が在る。爪先で蹴れば、溶接がとっくに綻んでいたらしいそれは、大仰な音と土煙を立てて開いた。
「オレはいつだって、とび降りたい気分かもしれないねぇ」
 そう、と時雨が瞬く。
「じゃ、後でね~」
 気安く向けられた見送りの台詞に、笑う様に双眸を眇めてカナトがひらと手を振った。
 振り向く時雨の視界の端っこで、金の髪がにぶく光を弾いて大きく揺らぐのが見える――彼の体躯が、マンホールへと吸い込まれる様に堕ちてゆく。
「必要そうなのは器用さかなぁ、」
 下層を背に堕ちながら、カナトは緩く呟いた。見上げるマンホールの孔は瞬きの間に驚くほどのスピードで遠ざかる。まるく抜かれたそれは|虚空に浮かぶ月に《欠け満ちた先に》も似ていて、だから吠えた。感覚が研ぎ澄まされる気配が在る。
 ぱっ、と放り出されたⅡ層の空は酷く矮小だ。器用に体勢を使って重心をずらすと共に、周囲を|黒犬《Altar》が併走し、ゆうらり優美に泳ぐ|尾鰭《Lean on》が跳ねた。
「――ッ、と、……あ、探しものヨロシク~」
 両手両足を地に着けると同時、姿勢を低くする事で落下の衝撃をいなし、逃がす。肺はすぐに膨らんで呼気を通し、だから顕れた二匹に対して何でも無い様に指示を向けた。
 軽く両掌で身体を押し出すみたいに地を叩き、器用に足許が駆け出すかたちを作る。崩れたビルの屋上は、端から翔んだ瞬間ぼろりと崩れた。脆い、と感覚で掴む。
 戦場以外ではする機会の少ない身体運びにどこか新鮮さすら感じながら、カナトは堕ちてきた孔を遠くに見上げた。
「さぁて、時雨君は今どの辺に居そうな感じかな」
 ――くしゅん、とちいさなくしゃみは多分、そう仕向けた相手には伝わない。
 時雨は軽く鼻先を擦って、カナトの消えたマンホールの孔へと手が振られる。先に、とその指示を受けた|死霊《海音》が尾を長く翻し、泳ぐように飛び込んだ。
 一直線に落下していくのなら、多分ここが良い気もする。
「引っ掛かると、厭な気持ちになるもんね」
 呟いて、軽やかにその孔へと翔んだ。構えていた羂索の切っ先を、地層を構成する分厚い建材に突き立てて楔にすれば単純な落下にはならない。びん、と鈍い音と共に張られる糸を操りながら、少しずつ身体を降ろしてゆく。
 視界のずっと下方では、昏く狭く淀む空を泳ぐ死霊の姿が見えた。
「……地上にいるのに海にいるみたい、海音さん眺めてると尚の事だ」
 まるで海底に潜っている心地になる。ざらついた風が頻りに吹いて、頬にちいさな礫を感じていると言うのに。
 羂索を手繰る様に波打たせれば、そういう法則が働いて切っ先が建材からすんなり外れた。落ちる内にまた穿つ箇所を見定めて突き立て、そうやってゆっくり安全に降りてゆく。
 先導する様にひらめく鰭を追い掛ければ、爪先が穏やかに地を踏むまでそう時間は掛からない。
「飛び降りわんちゃん墜落してないか、探しに行こっか」
 泳ぐ|鱝《海音》は当然、返事なんてしやしなかった。

一文字・伽藍

●ピカピカ
「ぶち抜いて行くにゃあ火力が足りないのよね」
 眼前に広がるⅡ層の街並みはどこも綻び、打ち棄てられて寒々しい。
 ほぼ廃墟ではあるのだが、何せ鉄筋だ。そしてそれを真っ直ぐ貫く火力はない――伽藍は腕組みをして瞑目と共に思案する。
「出来なくはないけど、ちまちまやらなきゃで効率悪そ」
 しこたま食べた後だ、ついでに長距離ダッシュも出来れば遠慮をしたい所だ。脇腹痛くなっちゃうもんね。
 とは言え。
「したらば足で――行きますか、」
 ぱち、と青い眸が瞠ると同時、銀の光がその傍らで音を立てて光り爆ぜる。
「クイックシルバー!」
 呼ばれた銀光がまた機嫌良く爆ぜて、艷やかにリップを引き直した伽藍の唇が弧を描いた。
「あれお願いできる? ちょっと|四散五裂《コソコソ》して、通って行けそうな道探して来てよ」
 とんとん、と爪先が地を蹴る。
 眼の前には違法建築で増えに増えた瓦礫の城塞が積み上がっている。承知と返す代わりに銀光がぴかぴか瞬いて、滑るように奔り出した。
「リアタイでガンガン進むから、道は光って教えてね」
 思い出したように付け加えれば、ちいさくなる光が遠くで明滅する。たぶんオッケーって言ってる。
 ならば後は、追い掛けて走って往くだけだ。
「せえ、――の!」
 軽く跳躍して身体を慣らしてから、ヒールの踵が汚れた床を蹴りつける。どこからか滲んだ油で地面は斑の玉虫色に染まっていて、饐えた匂いが不愉快に纏わり付いた。然し、走れば全部を後ろに置いてしまえる。
 高い踵がすべてを足蹴にしていくのは中々気分が良かった。
「あっしまった、あと|雪豹《ネコちゃん》と、冷えてるとことか氷柱とか、そゆのもよろしく!」
 更に注文を付けると、また明滅した。
 そうやってちらつくのが道こっちとオッケーのどっちだろと思いつつ、閃光にはちょっと足りない速度で銀の髪を揺らし、歌う為の肺活量で以て駆け抜けてゆく。
 捻じくれたビルの谷間だって崩れかけた足場だって、瞬く光を遮るものになんてなりやしない。

咲樂・祝光
エオストレ・イースター

●無秩序の空に春咲かせ
 何となくエオストレの方を見れない。
「兎を食べてしまった……」
 祝光が前を見据えた儘、小声で呟く。
 でも美味しかった。
 口中に蘇りかける、香ばしくスパイシーでジャンキーな肉の味を振り払う様に祝光はちいさなかぶりを振り、その背に美しい硝子細工めいた翼を拡げて空を打つ。
「俺は空を翔ぶから、君は梯子をつたっ」
「うわぁん! 祝光ぃ待ってよ!」
 背を向けたままエオストレに向けそう告げたが、言われた方はそんな事聞いちゃいない。
 喧しく華やかな声を上げながら、今まさに飛び立とうとしていた祝光の背に縋った。
「うるさ! ていうか危な!」
 当然、バランスが崩れて飛び立てない。地に繋ぎ止められ、もう、と漸く祝光が振り返る。
 どうせこうすれば、抱っこして飛んでくれるとでも思っているに違いない。この幼馴染はいつだってそうなのだ。
 視線の先では、大きな麗しの双眸にうるうると光を湛えている。宵桜が揺れる魅惑的なその表情はなんてことはない、おねだりの顔だ。
「僕が兎料理になってもいいっていうの?!」
「なんでそこで兎料理が出てくるんだよっ!?」
 脳裏に先程食べたばかりの兎がカットインで顕れる。
 胴体だけになってこんがりと飴色になったぱりぱりの兎をぺいと掌で振り払ってから、祝光はひとつちいさく息を吐いた。こうやって巻き込まれてしまう。何もかもがイースターにされてしまう。
「誰も君を食べたりは……、多分ないだろ」
「でもでも妖魔を幼馴染ハッピーイースターPOWERで探すんだっ! もう決めたもん!」
 聞いてない。
「何その謎のPOWER!」
 気合十分でエオストレの兎耳がひこひこと揺れた。
 更に、絶対に逃さないと云う意思の籠もった細い指先が祝光にしがみついた。ぎゅってする。
「連れてって損はないよ、ねっ」
「――……はあ、もう。こうなると思ってました」
 折れる独り言には諦念が色濃く浮いている。
 知ってた。
 エオストレの細い四肢をふわりと軽々両腕に抱え、鈴振る様な音を立てて祝光の背の翼が改めて開かれる。細い踵が地を蹴れば、砕けた地層の隙間を堕ちてふたりの身体がⅡ層の空へと放り出された。
 色彩の乏しい暗褐色の天蓋に、きらめかしいふたりの春が咲いて翔ぶ。
「やっほー! 自在に空を飛ぶって心地いいね!」
 祝光の腕の中で、エオストレがはやーい! とはしゃいでぱたぱたと両足を揺らした。落とさない様に抱え直しながら、羽撃く祝光が叱咤する。
「ほら、はしゃいでないで妖魔を探せ!」
「はーい! おいで、ラビット達!」
 エオストレの両腕が、春を振り撒く様に掲げられる。
 すっかり朽ちては錆びゆく昏がりの世界に、匂やかな桜吹雪が舞い散った。ぱあ、と弾けるみたいなそれが周囲の気配を撫でて拭って、そこから生まれるのは幾匹ものイースターラビットだ。
 なあになあにどうすればいーい? なんて鼻先をひくつかせながら空を翔け跳ぶラビット達に、ちちち、と指を振ってエオストレが地を示す。
「隙間とか、何処か妖魔が隠れてそうなとことか、あとは目撃情報なんかも集めてきて!」
 がってんしょうち! と三々五々にラビット達が散ってゆく。
「俺も手伝わせるよ。――来て、願いはここだ」
 祝光の招来に応じる風にして、花弁模す護符がひらりと舞った。
 顕現と共に花吹雪が舞い踊り、滑る様に翔ぶ花女神を見遣った祝光が眼差しを擡げる。
「雪豹の妖魔を捜してる。居所を教えて」
 命令を心得え、薄絹の裾を風に遊ばせながら彼女もまた、ラビット達の後を追う様にして街並みの向こうへと消えていった。
 急ぐ索敵には何手あったって良い、と祝光は双眸を眇める。被害が出てからでは遅いのだから。
「――祝光は心配性だなあ、」
 明るい声が思考に割って入ると共に、エオストレの指先がつん、と自身の眉間を突付く。それで漸く険しい顔をしていた事に気付いた祝光は、はた、と瞬いた。
「エオストレ、」
「僕は運がいいからきっと見つかるよ!」
 腕の中で兎が輝く笑みを浮かべている。
 つられる様に、祝光の頬もまた、緩やかに咲き誇る様な微笑みを得るのだ。
「……そうだな」
 ふたりで居て、出来ない事などきっと無い。顔を上げる。
 それにこうして瓦礫を蹴り上げ、翼で知らぬ薫りの風を掴み、腕中にはしゃぐ兎を抱えて低く狭い空を往く――見知らぬ世界をそうやって飛び廻るのは、確かに酷く楽しい事なのだから。
(……もう少し、こうしていたいな)
 抱えられたエオストレはこっそり考える。
 こんな特等席で|君《祝光》の笑顔を見られるだなんて、手放し難い倖せだった。

東雲・夜一

●糸を傳う
 どこから滲んだとも解らぬ油に塗れた地面を抜け、何を土台にしたのか解らない様な地層と配管の隙間を潜り、高くも広くもないが無策で飛び降りれるほど低くもない、そんな空から下へと降りる。
 |この身《幽霊》であれば易い事だ。
「――でも、こういうのはヒトと同じだからおもしれぇんだよな」
 夜一のうすい唇が、緩やかに昏がりの内で弧を描いた。
 下層へ降ろされている梯子は錆び朽ちて、触れた所から脆く崩れ去るのではないかと心配になる様な有り様だ。然し生身の――否、重みのあるこの|身体《実体》で往くのならば、取れる手段は限られてくる。贅沢は言えまい。
 素直にそこを降りてゆけば、壁伝いに這う梯子は然し、その下方が既に崩れ落ちていた。
「蜘蛛の糸だったかねぇ、」
 独り言ちる。
 この層に取り残されている者も、少なからず居るのだろう。這い上がれぬ落伍者が、それでもと梯子に縋り付いた結果かもしれないと夜一は他人事めいて考えた。
 扠、飛び降りるにはまだ地面まで距離がある。どうしたモンかねと視線を擡げた所で、そこかしこを覆い尽くす勢いで張り巡らされた電線の、その一部が千切れてだらりと垂れているのが視界にちらついた。
 蜘蛛の糸のようだった。
 夜一の肩が、笑う様に揺れる。
「よっ、と」
 片手にその電線の先をしっかり巻き付け握り締め、足を掛けていた梯子を蹴った。重いものをぶら下げた電線は、物理法則に従いゆらりと揺れて夜一の身体を運ぶだろう。
 |その辺を浮いているもの《インビジブル》をひとつ視界に捉え、ぱっ、と気紛れに位置を入れ替える。途端に宙空に放り出され、夜一はちいさく息を呑んだ。
 重心を整え、些か前のめりになりながら廃ビルの頭へと着地する。勢いに背を押される様に走り出せば、すぐにまたビルとビルの切れ目があってそのまま翔んだ。
「――なんだ、」
 笑うかたちで息を吐く。
 久しく忘れていた身体の重みも、それを自在に操る或る種の万能感も。
「随分楽しいじゃあねぇか」

リーガル・ハワード
古出水・蒔生
古出水・潤

●だってトラブルはつきものだから
「欲を言えば|揚げ物《春捲》も食べたかったのですが……流石に入りませんでしたね」
 声音には無念の二文字が透けている。
「十分食べたじゃん。……」
 |兄《潤》をちらと横目で見遣ってから、蒔生は自身の身体に視線を落とした。何と言う訳ではない、ないのだが、そっと指先で脇腹を軽く摘む。
 食べ過ぎの四文字が燦然と頭上で光っている気がした。
「……わたし歩こうかな、にゃんこ捜しだったら普通にそうした方が良さそうだし」
「僕は空から往くつもり」
 傍らではリーガルが屈伸をしている。
 重力から解き放たれる分、身体の制御は取りづらい。入念な柔軟体操は欠かせなかった。身体の各所を縮めて伸ばし、最後に背中の翼も大きく解すかたちで羽搏かせる。準備は上々だ。
「なら、手分けして捜しましょうか。私は路地や建物の陰を主に捜索致します。それから」
 両手の指先に摘んだ折り紙の熊蜂を、潤が蒔生とリーガルの襟元に遠慮なく突っ込む。
「もし迷子になったら飛ばしてください」
「は!? 迷子になんてならないし!」
 いきなり襟元に見知らぬ感触が来たので思わず首を竦めつつ、兄を振り仰いでちょっぴり膨れた蒔生が言い募った。この兄は時々こうやって、殊更に|妹《わたし》のことを子供みたいに扱うのだ。
 然し今日は傍らで、兄の相棒たるリーガルも同じ扱いを受けている。ちょっと溜飲を下げた。
 各々で準備を終え、Ⅱ層へと続く孔――地盤が緩み、天蓋が崩落してしまったと思しき場所まで向かう。ぽっかりと口を開けるそこは瓦礫や配線が露出し錆び付き、狭いⅡ層の空が眼下に虚の如く広がっていた。
「……え、うわ、思ったより高い……」
 何も対策をせずに飛び込めば、間違いなく重傷を負うだろう高さでは在る。
 覗き込んだ蒔生は思わず数歩後退って、潤とリーガルとを順繰りに見詰めた。しかしそう、この男どもは翔べるのだ。
「狭いな」
 呟いたのはリーガルだ。
 言うが早いかその片脚が振り上げられ、大鉈の如くに孔へ向かって振り下ろされる。
 元より脆くなっていた箇所だ。常人離れした怪力から繰り出される蹴撃によって、呆気なくそこから見える虚空が広がり、罅の入った部分から瓦礫が崩れ落ちてゆく。
 濛々と立ち込める土煙を払ってから、潤は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「さて……リーガル。お願いできますか?」
 聞いておきながら、潤はその返事を待たなかった。良く知った相棒の事だ、断られる訳もないと理解している。
「では、また後で」
 朗らかに告げて、その靴裏が淀みなく進んで孔の縁を蹴る。ちいさく崩れ落ちる幾つかの瓦礫と共に、潤の姿は真っ直ぐに昏がりの空へと吸い込まれてゆき――そう間を置かず、梟の姿と風切羽が気流を薙ぐ音が空を打った。
 知らない匂いのする風が下から吹き上げる。不安げに眉根を寄せる蒔生を横目にちらと捉え、リーガルは小さく息を吐いた。
 ――相棒にも『お願い』された事だし、と建前を準備する。
「ほら蒔生、」
 呼ぶと共に、彼女の前へと片掌を差し出す。
 どうしよう、と口よりも雄弁に顰められていたその目許が、それに気付けばぱちと瞬き驚いた風に変わった。半ば反射的に、差し出されたその手を掴む。
「抱えてやるから来い」
「かっ、」
 抱えって言った?
「へっ!? だ、抱っこしてくれるってこと!?」
 頬の薄い部分がなんだか酷く火照る気がした。
 思わず確かめる様に噛み砕いてはみたものの、自分で口にすると尚の事羞恥が募るだけだった。
 ひとりで大慌てする蒔生を他所に、繋ぐ手を引き寄せる様にして身体を寄せたリーガルが、彼女の身体を軽々両腕で抱え上げる。
 |彼《リーガルさん》の鼓動、体温、気配と薫り――そんなものに蒔生は想いを馳せ――たかったが、そういう余韻は与えて貰えないらしい。
「行くぞ。掴まって、手を離すなよ」
 短く告げたリーガルが、躊躇なく孔の向こうへとふたり分の重さを放り出す。
 空へと堕ちてゆく――ぐん、と下方へ引き寄せるのは引力だ。逆らう様にリーガルの背には煤けた色の翼が音を立てて拡げられ、災厄の残滓を纏うそれは大きく震えて羽搏き空を打つ。
 たっぷりの不安と悲鳴と小匙一杯くらいのときめきを全部まとめて呑み込んで、蒔生は縋るみたいにしてリーガルにしがみついた。
 時間にすれば、きっとそう長くもない。あっという間にⅡ層の地上に難なく辿り着いて、不安定ではない足場の上に優しく下ろされる。
「移動、無理するなよ」
 蒔生にそう言い添えて、リーガルは再び翼を拡げた。大きく一度羽搏きを残し、狭い空へ舞い上がってビルの頭へ登る。
 資料に拠れば、|白く愛らしい雪豹の《こんな下層には似つかわしくない》姿だ。血眼にならずとも、目立って視界に残るだろう。
 その翼を推進力に、或いはセーフティに代えて、器用に高い場所を渡り歩く姿を見上げた蒔生が零す吐息は感心だ。
「兄貴もリーガルさんも凄いなあ」
 呟いたところで、即座に翼が生える訳でもない。
 カロリー消費と云う密やかな目標も掲げ、蒔生は地道に地を駆ける。群れでいるなら建物に棲み着いていやしないかと、廃ビルらしき残骸を覗き込んだりもした。
 その背後を、リーガルのものではない羽音がちいさな疾風を引き連れて横切ってゆく。
「――おや、今の蒔生でしたね」
 梟の姿で横切った潤は気付いたものの、然し引き返してどうしたの、なんて世話を焼いてやる年齢でも間柄でもない。第一、いまの身体の構造的に、引き返すのは結構大変だ。
 猛禽類の視界で隈無く索敵を続けながらも、その端を横切るちいさな熱源に反射的に襲い掛かる。
「……しまった、本能が」
 鼠だった。
 怯える小動物を爪から解き放ってやって、再び潤は路地の向こうへと優雅に飛び去ってゆく。

「高い所に登っちゃった方が、わかりやすいかな」
 兄が梟姿で励んでいるその手前では、蒔生がビル内の階段を駆け足で昇っていた。
 呼気が弾む。人間ではない生き物が、人間の様に建物内に群れているとは考え難い。隙間などに潜んでいるのなら、上から見た方が見落としも少ないだろうと思い至ったが故だ。
 屋上に辿り着いて、縁におずおずと身を乗り出して下方の暗がりを覗き込む。
「ああ、蒔生も上がって来たのか」
「リーガルさん」
 丁度リーガルが、隣の建物の屋上に着地した所だった。顔を上げていらえる蒔生に向けて、彼が何かを寄越してくれる。
「そっちに渡るなら、これを使え。並ばせたら飛び石みたいに足場に出来る」
 リーガルの方からぽよぽよと群れで駆けてくるそれは――|もふもふ《エゾタヌキ》だった。
 各々たぶんキリッとしているのだろう顔付きで、丸太の様な尻尾を揺らしながら蒔生の足場となるべくビルとビルの隙間にふわんと浮かぶ。
「えええ!? タヌキちゃん!? 踏むの!?」
 こんなに可愛いのに、と狼狽えるが、しかしタヌキはキリッ……としたまま頑として譲らない。あっしら出来るんで! 足場やれるんで! どうぞ!
 空耳である。
「それで向こう側も調査でき……、……おい待て蒔生、そんなにこわごわとしてたら、」
 タヌキ達を遣わしたリーガルが顔を上げる。が、すぐに眉間に皺が寄った。
 何に遠慮をしているのか、すっかり身を竦めた蒔生が恐る恐る、慎重に渡ろうとしている所だ――ああもう、あんな動き方じゃあすぐに落ちるってのに!
「ひゃあ!?」
 素っ頓狂な悲鳴が上がるよりも前に、リーガルの羽根が大きく風を切っていた。
「遠慮してあんたが落ちたら意味ないだろ!」
 タヌキの足場からずり落ちた蒔生の細い四肢を、リーガルの両腕が抱える様にして抱き留めている。
 肝が冷えたのと怒っているのと心配しているのと間に合って良かった安堵とで、ついリーガルの語尾が荒くなった。
「あっ、ご、ごめんリーガルさん……!」
「おや? お揃いでしたか」
 上擦った蒔生の謝罪に重なる様にして、のんびりした声と羽音とが場に響く。
 羽音はリーガルのそれより更に小さい。
「二人とも無事で何より」
 小さな羽音の主である梟は、くるりと宙空でひと回転して人の姿を得る。軽やかに着地した潤が、何でタヌキがビルの隙間でぷるぷるしてるんだろうと浅く首を傾げてから、朗らかにそう声を掛けつつ妹と相棒とを見遣る。
 沈黙が生まれた。
 どういう状況でそんな姿勢に?
「……進捗はいかがですか?」
「……進捗?」
 思わず尋ねた潤に向け、肩で息をしながらリーガルが顔をきゅっと顰めた。
「この通りだよ」

雨夜・氷月
夜鷹・芥

●二人駆け
 嘗ては栄華を誇った建築群だったのだろう、然し今では唯の鉄塊だ。
 脆くなった足場はⅡ層の天蓋をぶち抜いて、上にあった幾つかの建物を道連れに雪崩の様に下へと崩落している。そう高くもない空に、下にあるビルも合わさって、丁度斜めに橋を渡すかの如き具合に収まっていた。
 靴裏で蹴ったところで脆く揺れる事もない。足場に使えそうだと判じながら、氷月は様子を伺う為に曲げていた背を真っ直ぐ伸ばした。
「イイ感じの食後の運動になりそ」
 同意を得る様に視線を向けた先で、芥の双眸が笑う様に眇められる。
「……動けないっつったら背負ってくれる?」
「まさか食べすぎて動けない、とか言わないよね?」
 向けられた問いを躱す様に肩を竦め、同じく笑う色で問い返した。じゃれ合う様な戯言の範疇だ。
 冗談だと呼気で囁いた芥が肩を軽く回す。美味い食事で身体は満ち足り、後は気分良く仕事をこなせばおしまいだ。
 食後の運動なら、と、金の眼差しが下方へと昏く続く瓦礫の道を見遣る。
「競争でもしようか。何方が先に辿り着くか」
 付随されたルールは成る程、シンプルだ。
「イイね、楽しそう!」
 悪友の物言いに笑ってから、下層より吹き抜ける砂塵混じりの風に銀の髪を遊ばせた氷月が、片脚を瓦礫の突端へと引っ掛けた。
 律儀に揃ってのスタートを待ってやるような間柄でもない。風を孕んで跳ねる銀の髪が、それが彩るかんばせの稜線が、象る四肢が月光めくひかりを得る。
「――お先、」
 軽やかに地を蹴り、一過的な埒外の力をその身に宿した氷月は、身軽に瓦礫の上を奔り出す。
「抜け駆けは狡いだろ」
 芥の声が少し後ろで聞こえると同時、ぎし、と音を立てて足許を支える瓦礫が軋んだ。
 見た限りでは耐えるかと思ったその足場は、けれど成人男性ふたり分の重みを支え切れはしなかったようだ。無機質な断末魔を上げながら、轟音と共に沈む気配に氷月が顔を顰める。
 幸いにもⅡ層の地面はそう遠くはない――が、無策で落ちれば重傷は免れまい。沈む瓦礫橋から跳躍し、すっかり|仙術《エネルギー》の通らない千切れた電線へと氷月は手を伸ばし、掴む。
「ッ、」
 息を詰めて、振り子の要領で前に両脚を重心ごと持って行く。ふわりと身体が浮く瞬間に手を離せば、そのまま前方に在る廃屋の屋根へと着地が叶った。
 物理法則で身体が前に押し出される。逆らわず即座に駆け出しながら、氷月は自身の銀髪の隙間から芥の方を仰ぎ見た。
 その体躯は大仰に、微かな光を遮り影を斑にあちこちへ落としながら、然し音と気配を殺して疾駆する。
 落ちる前に渡り切ってしまうべく、大股で駆ける癖に靴裏が鉄屑を叩く騒音が一切聞こえて来ない。翔んでしまっても着地の衝撃をいなせる距離まで来た所で、躊躇いなく芥の身体が空を跳ねた。
 手近な所にあったビルを足場に、平らな面で何歩分かの|律《リズム》を挟んで自身の呼吸を整える。
 遅れて来た癖に、あっという間に少し離れた箇所を芥は併走していた。
 ふうん、と氷月の双眸が眇められる。
「芥ー、ペース遅くしないで大丈夫ー?」
 緩慢に伸ばした語尾は余裕の顕れであると同時に、相手への明確な煽りでもある。
 風を受けて後ろへと脱げたフードの下から露出した、金色の眼差しがゆらと揺れて氷月を射る。
 心底愉しげだった。
「お前こそ疲れたんじゃねーの?」
 足場が途切れる。少し開けた通りに面するそれぞれの|足場《建物》から、当然、同時に踏み切った。
 身体が空中へ放り出される。
「そんなコトな、――ッ、!?」
 更に煽り返してやろうと氷月は口を開きかけた、が、すぐに呑む様な呼気に巻き取られてしまう。
 理由は明白だ。
「空中散歩ってやつだなー」
 千切れた電線を腕に巻き付け、ロープ代わりにした芥の片腕に掻っ攫われたかと思えば、まるで重たい荷物か何かの運搬の如くに肩へと担ぎ上げられたからに決まっている。
「は――、え、ちょ、正気!? 重くない!?」
 身体の制御を思いがけず手放す羽目になり、氷月は喚きながら咄嗟に芥の服を掴んで重心を整える。
「え? なに? 楽しい? そりゃ良かった」
 はは、と芥が愉快そうに肩を揺らして笑った。聞こえている癖に。
 その振動も、彼が自身の強靭な肉体で以て不安定な移動を強引に行い続けているのも、ぜんぶが氷月に伝わって来る。
「もーいいや、とりあえず変なトコで落とさないで……、……ねえ聞いてる?」
 聞き慣れない焦り声が存外近い所から聞こえてくるのに、芥が口端を擡げた。
 返事はたぶん、風に流れてしまうだろう。
「絶対離さねぇから安心しろよ」

ヴォルケ・ナクア

●宛ら蜘蛛の如く
 鋼糸を瓦礫に絡ませ、天蓋に抜かれた崩落の痕から下層を見る。
「さて、どーするか……」
 この|鋼糸《蜘蛛糸》を垂らしたところで、地の底に届く訳でもないのだ。礫混じりの濁る風に顔を顰めながら、四肢を揺らされる儘に金と銀とが打ち棄てられた層を睥睨した。
 いま自身を支えている腕とは反対の指先で、鋼糸をひゅうと風に遊ばせる。錘代わりの切っ先が揺れ、それを厭う様にヴォルケの手があえかに巻き取った。
「この高さから使ったことは無え、が」
 まあいけるだろう。
 慣れた所作で腕を薙がせ、振られた錘が真っ直ぐに翔んでゆく。向かう先は視界の真正面、外壁が幾らか剥がれ落ちている廃ビルだ。割れた窓硝子に入り込んだ切っ先が、窓枠にきつく引っ掛かる手応えを寄越す。
「――ッ、と」
 幾度か引っ張って強度を確かめてから、自分の身体を支えている方の切っ先を、くん、と癖の在る引き方で外した。当然支えを失った体躯は、ゆっくりと物理法則に従い廃ビルの方へと流れてゆく。
 壁面にぶつかる様なヘマをする訳もなく、折り畳んだ脚を使って靴裏でビル壁を蹴りつけると同時、此方も手首を返して鋼糸を外す。宙に翔ぶ姿勢の儘、器用に重心だけ移して体勢を整えながら、鋼糸を操り再び錘を振るった。
 がつ、と鈍い硬質の音が響くと同時、ぐんと身体が引かれる――、が。
「やべ、しまった」
 ヴォルケが舌打ちを零す。留め具となる切っ先を引っ掛けた何処ぞの家屋の壁が、それごと脆く崩れたのを見た所為だ。
 次の為の判断は早い。
 ステッカーとメモ書きで賑やかにデコレーションされた|ドローン二体《Zero-1/One-0》が飛び出すと同時、その片方に鋼糸の切っ先が引っ掛けられる。
「目視で探すしかねえか、――然し」
 不安定な体勢にならざるを得ないのを、身体能力で制御しながらヴォルケが顔を上げた。
「大人しく昼寝でもしてくれりゃいいんだが」

一文字・透

●駆け下りた先の未知
 今、透が走るこの地層の下には、下層の天蓋たる空が広がっているのだと云う。
「不思議な感じ、」
 弾む呼気にはまだ余裕がある。透は瞬き、妖魔たる雪豹の姿を――或いは下層へ続く通路を見出す為に視線を巡らせた。
 身体には活力と体力とが満ちている。美味しい食事とは人間に力を漲らせるものだ。
(パルクール、はしたことないけど……足場があれば、上手く使えないかな)
 都市の外壁近く、外側は結構昔の工事の痕がそのまま残っていたりもした。
 ここなら下層へ降りる手段も捜せるのではと、透は走る速度を緩めない儘できょろきょろと忙しなく周囲を見回す。
 すると、視界の隅に階段の手摺の様なものを見つけて――長い年月を砂礫混じりの風や油混じりの雨に曝され、すっかり錆び付いている――覗き込むと、壁沿いに下層へ向けての階段が据え付けてあった。
 然しかなりお粗末だ。
「……でも、ここからなら下に行ける」
 躊躇う間は無い。透の靴裏が階段に掛かると同時、鈍い硬質の音を立てて駆け下りる。
 下層の空はそう高くはない――然し、そのまま落ちてしまえるほど低くもない。降りる途中で階段を踏み抜く様な嫌な感触があって、透の背中に冷や汗が伝う。
 唇を噛む。判断は一瞬だった。
「せえ、の、っ!」
 踏み切って、翔ぶ。
 同時にそれを断末魔として、背後で先程まで足を乗せていた場所が呆気なく崩れ落ちた。
 透自身は傍らの建物の窓を突き破り、その中へと転がり込む。
 間一髪で自身の命を繋いだのだと云う高揚が、遅れて鼓動を揺らしながら透の胸中をじわりと湿した。
「……、いけない。調子に乗らないように気をつけなきゃ」
 こほん、と誰に格好を付けるでもないけれど咳払いをして、透は再び地を蹴った。

遠宮・弥

●独壇場
 崩落したと思しきその箇所には、ぽっかりと口を開けた虚空がただ、孔として残っているばかりだ。
 ここを駆け下りれば良いのか、と弥の眼差しがその先を検分する様に眇められる。通り抜ける風ばかりが不愉快な音で鳴いている――風の音色が歪むと云う事は、それなりに高い建物が在りそうだ。
「では宙を駆けるお手本を見せてやるとしよう」
 唇の両端を艶やかに擡げて、凛然と弥が声にする。
 |鋼糸《ワイヤー》の稼働に問題がないことを確認してから、孔の縁に足を掛けた。
「――なんて、ま、観客はいないんだけどね」
 ふ、と緩むように笑う。
 そのまま弥の身体が傾いで、ひらりと孔に落ちてゆく。
 落下速度は早い。宙空で姿勢を変えて僅かにそれをセーブしながら、射出した鋼糸の錘である切っ先で眼前の壁を穿った。
 ――ビン! と鈍い音が空気を打つ。鋼糸に繋がる片腕を起点として、弥の全体重が重力を巻き込み全身に負荷を押し付けてゆく。
「ッ、まだまだ!」
 負けてしまっては全てが台無しだ。
 弥の口許が笑って、鍛えた肉体が強引に慣性すらも律して両脚を振り上げる。そのまま靴裏を叩き付けると同時、鋼糸の支えを外して空へと跳んだ。
 要は、一瞬一瞬で足場をどうするかの選択を続けるだけだ。後はそこを蹴って跳ね、落ちる前に次の足場で同じ事をすればいい。
 単純な話だ。
「良いね、痛みや疲労と縁がないって言うのは!」
 機械の体は絶好調を保った儘、トップスピードを維持したって草臥れる事がない。
 宛ら撃ち出された跳弾の如く、襤褸いビルの壁面を、脆く崩れゆく壁を、はたまた廃車になって久しかろう車の屋根を足場と変え、弥は自身こそが風の様に振る舞うのだ。
 視界を目まぐるしく流れ過ぎてゆく景色に涼やかな目許を伏せ、弥の口許が微笑んだ。
「こういうのも、偶には悪くないなぁ」

祭那・ラムネ
ラナ・ラングドシャ

●勝負はおあずけ
 眼前には見渡す限りの瓦礫の山――もとい、障害物だらけのフィールドが広がっている。
 ふたりが身を置くのは、周囲を一望出来る程度の高さを持つ廃ビルの屋上だ。見渡す限りに打ち棄てられたもの特有の、陰鬱さが満ちている。
「ここにあるもの使えるだけ使って、下まで行けばいいんだよね!」
 然しそんな陰鬱な気配をも吹き飛ばす様にして、ラナは明るく笑ってそう宣った。
「お、やる気十分だな、ラナ」
 傍らで元気良く耳をぴんと立てる彼女を見遣って、ラムネがつられた様に声音を和らげた。語尾は明るい。
 ふかふかふわふわ、ご自慢の尻尾を機嫌良く揺らし、ラナがにゃは! と鳴き声めいて肯きを返す。
「ボク猫ちゃんだから、こういうの得意だよ~!」
 毛並みを贅沢に揺らしてぴょんぴょん跳んでは、待ち切れない様子で足踏みをする。見果てぬ障害物レースの会場を前に、ラナのモチベーションは右肩上がりだ。
 そして、イイこと考えた! とばかりにきらきらと光を宿す双眸が、ラムネを眼差す。
「ラムネ、どっちが先に下まで降りられるか競走だ!」
 ぐ、と両手で拳を作って輝きを零すその様子は酷く頼もしい。
 受けて立とう、と顎を引いて背筋を正したラムネが腰に片手を当てた。
「これは俺も負けてられないな。――いいよ、どっちの到着が早いか勝負だ」
「やったあ!」
 太陽みたいにラナが笑う。この陽の射さぬ下層に於いて、正しく陽光の如き表情だった。
 眩しげに眸を眇めるラムネの前で、弾む儘に飛び出したラナの身体が空中に躍った。ひらりと尾が揺れる後ろ姿を引っ張って、彼女の四肢が屋上から投げ出される。
「よいしょ、――っと!」
 大柄な四肢を難なく折り曲げてまあるく畳み、くるりとラナは宙空で一回転をこなして見せた。
 それで勢いが削げたお陰で、低い場所にあった隣の家屋の屋根に着地しても何ら困る事はない。すぐに手足を伸びやかに動かし、足音軽やかに次へと駆け出し、跳ねてゆく。
「ラムネ、置いてくよーっ!」
 剰え、振り返って大きく手を振る余裕さえあるのだ。
 競走だと先に口にしたのは彼女の方なのに、楽しさに呑まれてそんな風に声を掛けてしまったのだろうか――否それとも、発破を掛けられたか。
 どちらにしろ可愛らしい事だとラムネの口端が緩んで、彼も呼吸を整え軽く準備運動を熟し、筋肉に熱を灯す。
「俺だって元々、身体を動かすのは得意な方だしね――、ッ、」
 呟きながら大股に駆け出す。視線の先に次の|建物《足場》を見据え、そこまでの大凡の距離と自身の歩幅とを計算に加え、ふ、と最適なタイミングを見計らって息を詰めた。
 パルクールだってお手の物だ。背の高い身体は決して扱いやすい訳ではないが、頭の中で導き出した|軌道《ルート》に易々と体躯を捩じ込む。ダン、と鈍い音と共に靴裏が着地と同時にそこを蹴りつけ、即座に身体を跳ね上げて次へ翔ぶ。
 日々の研鑽だって積み上げたものがある。そういう自負だって在った。
 ――嗚呼、でも、そうだった。
「……、声……」
 招ばれた気がした。
 誰かの声が、縋る様に恨みがましく俺の名前を呼んだ気がして。
 自分が|そういうもの《ゴーストトーカー》だと云う事を、ほんの一瞬見失って――だから、均衡が崩れる。
「お、っと」
 踏み切りが想定より浅くなったらしく、予定ではなかった所へ片脚を乗せてしまった。ここからでは距離が足りないから、もっと先から踏み切らねばならなかったのに。
 落ちればショートカットになるだろうか、なんて驚くほど暢気に考えた。
「ラムネ! その足場は危な――……ッ、」
 少し離れた場所を跳んでいたラナの双眸が釘付けになり、耳と尾とがぶわりと総毛立つ。
 危ない、と思うが早いか、既にラナは駆け出していた。足場の縁から大きく蹴って飛距離を稼ぎ――ぐるん、とその身が宙空で一回転する。
 羽搏きと共に、巨きな影が地へ落ちた。
「す……まん、ラナ、ありがとな」
 堕ちゆくラムネの身体を背に乗せ拾い上げたのは、太陽の如ききらきらの被毛と大きな翼を持つ、ふわふわの|竜《ラナ》だ。
 悠然と空を泳ぐその竜の、眼玉がきょろりとぱちぱち瞬く。
「あ、危なかった~!」
 威厳在る竜の、然しその声色も口調もラナそのものだ。
 背の上で知らず緊張していた身の強張りを解いて、笑うラムネがふわふわの被毛をそっと撫でた。
「ラナはすごいなあ、――吃驚させたろ、ごめんな」
「ううん、スリル満点なのも楽しかった!」
 はしゃぐ声に、何だかそれこそ掬い上げられた気持ちになる。
 ラナの声は尚も弾む。
「よーし、このまま急降下だ! しっかり掴まっててね! ラムネ!」

ツェイ・ユン・ルシャーガ
スス・アクタ

●風に遊ぶ
 ゆうらり、結んだ指先が礫混じりのざらついた風に曝され揺れる。
「よいかスー、もし見つけても深追いは成らぬぞ」
 ちいさな子に言い聞かせる様な物言いで、ツェイはススを覗き込みながら幾度か指を揺らした。ゆびきりげんまん、児戯めく所作だと云うのに|呪《まじな》いとしては一級品だ。
「わ、わかってますよ」
 子供扱いされている。
 ススはほんのちょっと尖る唇に不服を滲ませたが、それでも丁寧に言い含められる事だ。成された指切りを解いて、素直に肯く。
「ゴネたりしませんから。……じゃあ、行きますよ」
 ふるりとススの身体が身震いする様に振るわれて、耳と尾が波打ちぴんと立つ。
 変化はそう長いものではない。ざわりと獣の毛並みが過敏に膨れ、ひとの姿の時には比較的小柄であった身体の落とす影がおおきく形を変え、四つ足が地を踏み長い尾がふわと揺れる。
 それだけだ。
 ふたりが位置する場所は、都市の端近くだった。壁伝いには増築工事の名残か、休憩小屋のバラックや太い梯子が幾つか残され、足場には事欠かない。どれも朽ち果ててはいるので、踏み抜く可能性も無くはなかったが。
 本来の姿へと戻ったススを見遣って、朗らかにツェイが肩を揺らして笑った。
「お前本来の姿とあっては、我の方が置いて行かれそうじゃの」
 愉しげに呟く儘、その身に、四肢に、目に見えるかたちで浮遊の術が纏わり付く。薄絹ひとつ羽織る様な、淡く輝くその美しさにちょっとだけ見惚れてから、黒い狐――ススはそれを誤魔化す様にふぁさと尾を振った。
「翔べるからって、余所見しないで下さいね」
「おや、心配をしておるのかえ。優しい子だ」
 白群に喜色を滲ませツェイが囁く。ふす、とススが鼻を鳴らすのは単なる照れ隠しだ。
 黒い狐はその巨きな体躯を靭やかに躍らせ、綻んだ箇所から下層へと飛び降りる。足裏の|クッション《肉球》はしっかりススの身体を支え、望む所へ跳ねさせてくれるのだ。
 綻びた廃ビルは高く突き出ていて、しかし屋上は崩落して久しいらしい。見えている床には無数の瓦礫が散らばっていたが、分厚い肉球がむぎゅ、と押さえている所為で痛くも何ともない。
 姿勢を低くして、ススが高く跳躍する。崩れたビルの壁を軽々飛び越えて、少し低い位置にある別の棟の屋上へと飛び移った。
「――ほう、何とも身軽に跳んでいくものよな」
 ふわりと衣服の裾を風に遊ばせ、ツェイが浮遊術で自身の身体を運びながら眩しげに眸を眇めた。
 黒い狐の後ろを追い掛ける様にしてついてゆく。ぴんと張られた物干し竿代わりの縄は、いつからそこにあるのかすっかり襤褸紐だ。引っ掛からない様に頭をひょいと下げ、然し安心する間もなく眼前にはぢかぢかといびつに光る|電光掲示板《ネオン・サイン》が迫りくる。
「ツェイ、前、前!」
「おっと、ははは、大丈夫じゃ」
 既の所でそれを避けながら、ツェイは感心した様に息を吐く。
 ススは器用に進みながらも、しっかり此方の事まで気に掛けているらしい。
(……別に、いいとこ見せようってわけじゃないけれど、……)
 軽やかに四つ足が疾駆し地を掛け、いつか誰かの忘れ物たる廃棄物を避けては建築物の壁面を駆け上がり上へ逃れ、奔り続ける。
 駆けながらも矢張りツェイが気になってしまうのだ。そう、いいとこを見せようと云う訳でもない。あのふわふわした雲のようなひとが、こういう場では殊更気掛かりなだけで。
 だってすごく危なっかしい。
「何ぞ|遊戯《げぇむ》で遊んでいる様な心地よな、――いや、遊具にしてはちと危険が過ぎるか……おお、」
 柔和な笑みを崩さぬ儘、そしてススに遅れぬ様にツェイも上へ下へと揺れながら、浮遊術を切らす事はない。標識の傾いだ背の低い陸橋にぶつかる寸前で、上体を後ろに逸らして難を避ける。
「うん、中々愉快だの」
「ちょっ――ツェイ、あの梁見えてますか?」
 声を被せる勢いでススが慌てた。陸橋のすぐ後ろには、またすぐ別の建物同士を結ぶ梁が、こんな時ばかり元気に健在している。
 もう、と上擦った声で呟いて、黒い狐の四つ足が進路を変えた。
 ひとつ跳ねただけであっという間にツェイに肉薄し、その身体を背の上へと掬い上げる。
「おっと――なんじゃ、乗せてくれるのか」
 身体のすぐ下に、ふかふかの艶やかな毛並みと躍動する獣の肉体が在る。
 自身の力で翔んでいる時とはまた違った風が頬を撫でて、ツェイは心地良く口端を緩めた。
「ちゃんと掴まっててくださいよ」
「ふふふ、良き哉。……うむ、斯うして駆けるのも良きものだなあ」
 むす、とススが無言になる。ちょっぴり癪に障ったから、無言で速度を上げてやった。
 ――でも、と狭い路地裏をふたりで駆け抜けながら、ススは考える。
 留守番ではなく、共に連れて来て貰えたのが――多分、うれしかった。とても。
(いつだって、こんな風に駆けられたらいいのにな)

 扠、とひとりと一匹の眼差しが妖魔を捜す。
「……嗚呼、成る程。そこかい、」
 ツェイが微かな妖力の残滓を引っ掛ける。ススの鼻先もそちらを向いた。
 背を撫でるツェイの手に褒められた心地がして、黒狐の速度がぐん、とまたひとつ上がる。
 ひらけた視界の先には、雪豹たちが――妖魔シュエバオ・マオマオがころころとあちこちに、のびのび転げ回っていた。

第3章 集団戦 『妖魔シュエバオ・マオマオ』


●傲れよ不羈奔放どもよ
 Ⅱ層のど真ん中にそれは聳えている。
 |廃棄物《スクラップ》が積み上がって出来た何時かの牙城は然し既に放棄され、中はとっくにさもしい人間に漁り尽くされ何も遺っちゃいやしない。
 だあれも来ない歪なランドマークには、辛うじて通る|仙術《エネルギー》の通り道たる配線が、無限に絡みついている。
 時折ヂヂヂと耳鳴りの如き音を立て、死に体の|電光掲示板《ネオンサイン》が謳っていた。『歓迎降臨』――いったい誰が來々なんて声を掛けてくれるのか。

 でも、|それ《・・》はそこに辿り着いた。
 白いもふもふしたちいさな毛玉たちもとい雪豹、否、|妖魔《・・》シュエバオ・マオマオどもは、皆無事にそこへ集い群れを為す。
 朽ちて久しい鉄塊のジャングルを寝床として、今、このⅡ層にその恐ろしき力と咆哮を轟かせんとしている。
 ――みゃあ! みゃあみゃあ、みゃう!

 幾ら可愛かろうと害がなさそうに見えようと、妖魔は妖魔だ。ここで残らず討伐してしまうのが今回の仕事である、という点は揺らがない。
 彼らは基本的に根城――勝手に棲み着いた違法建築の極みの如き建物だ――から様子を伺ってくる為、派手な色や光、物音、はたまた餌で誘き寄せて片付けると良いだろう。ある程度ダメージを与えると、雪の塊と化して融け消えてしまう筈だ。
 可哀想に思う必要はない。
 不羈奔放に振る舞う不届き者の獣どもを誅する事が叶うのは、美味を糧にここまで駆け抜け辿り着いた、|√能力者︀たち《貴方がた》以外に無いのだから。

●プレイングについて
 第三章では、妖魔シュエバオ・マオマオとの戦闘になります。
 とっても可愛いのですが、妖魔です。斃れる時には雪像と化してから融け消えますので、あまり心を痛めずに済む筈です。
 足場はあまり良くないですが、プレイングに対し悪影響を与えるものではありません。舞台演出として、適宜ご利用下さい。
 ド派手な破壊なども大丈夫ですが、大きく床が抜けると崩落してしまいますのでご注意下さい。
緇・カナト
野分・時雨

●とけゆくアイスは雪豹味
「わあ、なんて可愛い」
「雪豹はカワイイ判定なんだなァ……」
 ネコ苦手じゃなかったっけ、とカナトの眼差しが傍らの時雨に向く。
「だって豹は猫じゃないよ、豹は豹ですとも」
 視線の先では建物の内部、物陰から此方を伺いながらみゃあみゃあ鳴いて威嚇しているらしい妖魔たちの姿が見える。
 |あれなに? かじっていいやつ? でもおいしくなさそー《みゃうみゃうみゃうみゃう》、なんて小煩い鳴き声が幾重にも重なって賑やかだ。
 確かに見た目は仔猫の様だが、口許にはきらりと牙がひかる。これは紛うことなき妖魔退治だ。
「縋りし愚者の希みヲひとつかみ、」
 カナトの唇から零れ落ちる呪言は詠唱と為り、それが音と化したところから青白い火球が生まれ出づる。
 揺らめく色合いの変化は炎の特性に拠るものだ。まるで明滅するかの如くに青の具合を濃く薄くと変えながら、膨れ上がるそれを妖魔たちの根城の前へと差し出してやろう。
 ちいさな獣たちは、眼前でゆらゆらぴかぴかと燦めくそれを無視出来ない。
「あ、食いついた。みゃあみゃあ鳴いてるのも可愛かったけど、ふりふり尻尾も可愛……うわ、」
 カナトの生み出す火球に見事釣られてしまった様子の妖魔たちを愛でていた時雨の声が、不意に途切れる。
 ちいさなお尻を高く上げて尻尾を揺らめかせたかと思えば、真っ直ぐに弾丸の如く飛び出し突進を仕掛けて来る妖魔を、咄嗟に避けた所為だ。何頭かは真っ直ぐ火球に突っ込んで、ぺしょぺしょと床を濡らし融けていった。
「ごめんね、遊んであげられないんですよ」
 新しい玩具を見つけたきらきらの妖魔たちの眼差しに、良心の呵責がない訳でもない。
 ちょっぴり眉尻を下げてから、時雨の五指が羂索を操る。空気を薙ぐ音と共に振るわれるそれが、飛び出してくる妖魔たちを雪塊に変えては融かしてゆく。
「受け止めたらこっちが冷えちゃいそうだねぇ」
 幾つか雪を抱かされた所為で消えてしまった火球に次いで、また新たにそれらを創り出しながらカナトが笑った。
 その指先が空を掻き混ぜ煙と戯れ、もう片掌がいつのまにか傍へと侍る黒犬の頭を撫でる。|従順な二頭《Altar/Lean on》はそれだけで主の意図を把握して、共に妖魔たちを追い立てるのに真っ直ぐ駆けた。
「そっちにも火の手伝いは必要そうかい?」
 明るい声は時雨へと向けて放られる。
「お手伝いしてくださるの?」
 笑い返す時雨が地を踏み、間合いを整理する様にカナトの傍へ寄った。ふたりの背がほんの一瞬触れ合って、すぐ離れる。
「――暖かい炎であれば、有難く!」
「まァかせて、」
 返る声に、カナトの呼気がみたび詠唱を紡いで火球と為す。
 妖魔たちから発せられる冷気で冷えてゆく最中に暖気が流れ込み、それ故に荒々しい風が生まれてぶわりとふたりの髪や裾を乱し散らした。
 時雨の手繰る羂索の先は、その重い風にも負けず狙う通りに穿ち、斬り裂いてゆく。
「随分張り切るねェ」
 黒い犬が妖魔たちから果敢に足許に齧り付かれ、鬱陶しそうにしているのをちいさな火球で助けてやりつつ、愉快そうにカナトが零す。
 そりゃあ、と時雨は瞬いた。
「食後の運動後のデザートが待ってるもんね」
 食後には運動が必要だし、運動したらデザートが欲しい。時雨のそれは何も間違ってはいない言葉だ。
 妖魔たちが雪へと姿を変えて崩れ落ちる度、発生する冷気が心地良く炎に焙られた膚を冷やしてゆく。
「……アイス食べちゃおうかな」
 融けてゆくのを見て想像したわけではない、筈だ。多分。
「え、もしかして雪豹のことアイス見る目で見てた?」
 食べたかったみたいに聴こえるなぁ、とカナトがにまと笑う。
 妖魔たちも無尽蔵ではない。美しく揺らぐ炎に誘き出される彼らを融かし尽くすまで、そう時間は掛からないだろう。

クラウス・イーザリー

●哀切は止まず
 愛玩すべきいきものに、その妖魔の姿は良く似ている。
 クラウスは一歩、大きく踏み込んだ。同時に鋭く地を蹴り、そのまま弾丸の様に妖魔たちの隠れる瓦礫の傍へと肉薄する。
(かわいい、けど――)
 みゃあ、みゃあ! 等と喧しく愛くるしく鳴き喚く仔猫もとい雪豹の妖魔たちは、いきなり飛び込んできた人間の姿に大わらわだ。
 飛び上がって逃げ出す個体や、勇ましく爪を掲げてみせる個体、お尻をふりふりして飛びかかる準備をする個体――様々に個性がある。
(人に害を為すのなら、倒さないといけないね)
 妖魔たち自身にはもしかすると、害意なんてないのかもしれない。
 然し、じゃれつくその仕草は確かに無辜の人々にとって、充分に脅威と成り得るものだ。対抗する術を持たぬ者なら、命だって脅かされよう。
「――ごめんね」
 私情で手を緩めたりはしない。
 その代わりに、意志をそうやって口にする。
 クラウスが構える片脚が、周囲を薙ぐ様に繰り出される。飛び上がって此方に臨んでいた数体が、それによってぱっと雪と化して散り消えた。ほんの少しだけ場を冷やして、後は融け落ち消えゆくばかりだ。
 着地の勢いをそのまま生かして、山積する瓦礫を駆け上がる。そのまま壁を数歩分蹴りつけて、立てた尻尾をゆらゆらと揺らめかせていた個体目掛けて着地すれば、ぱあっと分厚い雪が散った。
「……ッ、」
 息を詰めたのは、舞い踊る雪の結晶に薄く膚を裂かれたからだ。凍傷めいた疵が残る。
 難を避ける為に飛び込んだスクラップの陰で、クラウスは困った様に息を吐いた。
「……やっぱり心苦しいなあ、」
 それでも、雪像になって融けるだけまだマシだ。
 嘆いた所で、残りの妖魔が消えてしまう訳でもない。決意のかたちで顎を浅く引き、再びクラウスは妖魔へと対峙した。

祭那・ラムネ
ラナ・ラングドシャ

●回り道の先で『おやすみ』を
 弱い部分への自覚は人一倍かもしれない。潰さなきゃ、と思っていた。
 高い所は平気だ。
 痛いのもとっくに慣れた。
 ――、でも。
「ど、どうしたのラムネ……!」
 立ち尽くす様にして一歩も動かない、否、動けなくなっている風なラムネを前にして、ラナがおろおろと尻尾を左右に揺らめかせる。
「早く戦わなきゃ――うわっ、!!」
 促している最中に、好奇心旺盛な妖魔が弾丸の如く飛び付いて来た。
 短くちいさな前足を果敢に振り上げてくるのを、動かないラムネを半ば強引に引き摺る様にしながらふたりで避ける。妖魔はふんすと鼻を鳴らし、|いっぱつやってやったぜ《みゃうん》! と高らかに宣い塒に引っ込んでしまった。籠城だ。
「……、うう」
 漸くラムネが身動ぎ唸る。
 具合が悪いのかな、それともどこか痛いのかな、と狼狽の色濃くぺたりと下げられていたラナの耳先が、それで――ぴん! と立つ。まるで、何かに気付いたかの様にして。
「キミ、もしかして……」
 恐る恐るの色で零されるラナの声に、微かに震えるかたちでラムネが肯く。
「――可愛いよなあ、妖魔だって解ってるんだけど……」
 可愛いものを前にすると、どうしても弱い。
 自覚通りに弱り切った眼差しを、ラムネが擡げて妖魔たちの方へと据える。ちいさな影が鼻息荒く、やって来た二足歩行の大きな敵をじっと睨め付けていた。
「いや、しっかりしねえと……ごめん、ラナ。すぐ、」
「ボクとおんなじ!?」
 何とかするから、とラムネが言おうとするのに割り込む様にして、ラナが素っ頓狂な声を上げる。
 驚いて傍らの彼女の顔を覗き込めば、おおきな眸をぱちぱちと瞬かせてラムネを見つめ返していた。耳の毛がふわふわに膨れている。
 吃驚していたラナの表情は、けれどすぐにくしゃりと歪められた。
「そうだよね?! あんな可愛い子たち、倒せないよね?!」
 面食らって、ほんの数秒の沈黙が転がった。
「――……、だよな!?」
 返ってきたラナの勢いの良い同意に、背を押される心地で同じく裏返り気味の声がラムネの喉から溢れ出る。
 可愛いものを前にして、そんなふたりが戦える訳もない――そう嗅ぎ取ったのかは定かではないが、どうしようね困っちゃうよね、と狼狽する人数が増えただけの彼らの傍に、いつのまにやらふわりと浮かぶ存在が在った。
 ラナの護霊たる仔猫たちが、じっとり睨める眼差しで前足を振りかぶる。
「あいたぁ!」
「ラナ!?」
 ぽこん! と軽やかな音と共に、ふわふわの前足がラナの頭を殴る。ぴえ、と涙目になるラナのふわふわの耳許で、護霊たちがうにゃうにゃにゃごにゃご、何かを懸命に囁いた。
「えーんだって~~~!! ……、ん? なになに? ――えっ、そんなので倒せるかなぁ……?」
 唇を尖らせていたものの、耳打ちされる内容にううん、と考え込む。
 ラナが|愛の鞭《にくきゅうぱんち》を受けた部分をよしよしと撫でてやりながら、ラムネは不思議そうに首を傾いだ。
「何だって?」
「でも、可愛い子に手を出せないなら、もうこれしか――……、ラムネ!」
 問い掛けるラムネにも気付かないほど懊悩していたラナは、けれどややあってからぱっと双眸を瞠って友を呼ぶ。
 呼ばれて瞬く間に、次が継がれた。
「あの子たちと、いっぱい遊ぼう!!」
 あの子たち、とラナの指先が妖魔の方を指差している。
 想像もしていなかった提案に、今度はラムネの方が眸を瞠る番だった。
「あ……、遊ぶ?」
「そう! 遊び疲れたら、もしかすると……!」
 そうであったとして、普通に戦うよりかはちょっと、いやかなり、ひょっとしたら凄く辛い道かもしれない。
 戦闘でならば一瞬で済む命の消費を、それよりもずっとローコストな『遊ぶ』と云う行為で行おうと言うのだから。
 然し、ラナの表情は真剣そのものだ。仔猫たちからの助言に奮い立ち、行こう、とラムネを明るく誘う。
 促される儘、ラムネも笑い返して肯いた。
「――よーし、ならいっぱい遊ぼうぜ!」
 時間は長く掛かる筈だ。終わる頃には精根尽き果て、動く事すら儘ならないかもしれない。妖魔たちが容赦なく爪を立てる所為で、ふたりともきっとぼろぼろだ。
 それでも――望むものを遣り遂げる事が、叶うだろう。

花村・幸平
氷野・眞澄

●刻んで砕いて雪華と帰す
 瓦礫が崩れ落ちた眼前の建築物は、その体裁を保っているのが不思議なほどだ。
 いつ傾いで崩れ落ちてもおかしくない。ごてごてと悪趣味に装甲もとい装飾を盛られ、嘗ては栄華を誇ったであろうネオン・サインは罅割れて久しいに違いなかった。
 その中から注意深く此方を伺う、ちいさな妖魔が幾匹も。
「あのまま籠城されると面倒ですね」
 警戒心が強いのだろう、見知らぬ二足歩行の姿に妖魔たちは昏がりで眼光を光らせるばかりだ。
「巣ごと刻んでもいいですが、」
 かつ、と眞澄の爪先が地を軽く蹴る。経年劣化を得ているだろう物質だ、破壊は容易い。
「落ちちゃうけど」
「それです。崩落に繋がりかねない」
 挟まれた幸平の声に、思案するかたちで眞澄の眉が軽く擡げられる。
「……頼まれてくれますか」
「勿論オッケー」
 笑う色の滲む幸平の返答と同時、眞澄の隣に並び立っていたその姿が煙の様に解けてしまう。否、ように、ではない。煙に為った。
 実体を喪ったその身の操作権を失する事なく、幸平はするりと空を泳いで妖魔たちの巣食う塒へと流れてゆく。
「駐在員時代を思い出すなあ、あの頃これができれば楽だったのにな」
 ぼやいた。脳裏には、地面にへばりついたり茂みを掻き分けたりして、必死に猫を捜した記憶が蘇る。そうそう、夏場なんか地獄だったなあ。
 それに比べれば、現状の何と気楽な事か――煙の身は靄の様にして、妖魔たちの塒の真ん中に蟠る。
 流石獣の勘と言うべきか、ころころちいさな彼らは尻尾をぴんと立てて警戒の仕草を見せているが、然し実体がないものまで捉え切る事は叶わないらしい。うろうろと惑う仕草を見せる塒の中央で、――ぱっ、と、幸平が実体を結んだ。
 一瞬にして丸太の如く膨れた尻尾が、びびび! と幾本も立ち並ぶ。
「おーおー短い尻尾立てちゃってさ~! 氷野ちゃんそっち行くよ、後よろしく!」
 突如として顕れたその影に、慌てふためきながら妖魔たちが散り散りに瓦礫の陰から飛び出し、一直線に出口へ向かって殺到する。ちいさいのが群れながら駆けてゆく様は中々に壮観で、笑って肩を揺らしながら幸平は大きく片腕を掲げて振ってみせた。
「ええ、お疲れ様です。任されましょう」
 然し、逃げたとてその先にはもう一人が悠然と構えているのだ。
 すばしっこく駆けてきた雪豹の姿に、眼鏡を押し上げた眞澄が眉間に皺を刻む。範囲を広げれば、その分だけ過剰な霊力が身体に負担を與えるが、然し弱音を吐けるほどかわいい性格もしていない。
 視界に捉える妖魔たちを見据えると共に、眼鏡越しの下瞼に皺が寄った。
「――逃がした、」
 視界が白く烟るのは、刻まれると同時に妖魔たちがその姿を雪へと還したからだ。
 空気が冷える。ほんのひとときの吹雪の合間に呼気を凝らせ、眞澄が独りごつ。視界に取り零した数匹が、その勢いを保ちながら無防備な眞澄へと飛び掛かろうと頭を下げていた。
「いーや、逃さないね」
 然しそれは独り言の儘で捨て置かれはしない。
 拾い上げる様に雪の向こうで幸平が声を上げ、雪の幕の向こうに黒くにぶく光る銃口がちらつくと同時、距離を保たない射撃が間髪入れず攻撃姿勢を執る個体を撃ち抜いた。
 弾ける様に、再び雪像が砕け雪華が舞い散る。派手な銃声と幸平の振る舞いに翻弄された様子見の残党が、見切りを付けて屋外へ駆けた。
「おかわり行ったよ~!」
「わんこそばみたいに言わない」
 呟く眞澄の髪が風圧を受けて後ろへと膨れ揺れる。雪像が刻まれる度、弾ける様に雪が散る――周囲の気温との差が風を生み、小規模な爆風めいてそうするのだ。
「どっちかって言うとにゃんこそばじゃんね」
 雪豹は猫科である事を鑑みた幸平の感想だった。
「そもそもわんこそばのわんこは犬の俗称ではなく――、……花村」
 刻もうとして、顔を顰めて彼を呼ばった。
 はあい、と暢気な返事がすぐ返る。
「駄目駄目、そこだと氷野ちゃんが刻めないでしょ」
 足許の大きな瓦礫の影に逃げ込む妖魔の姿に、手が焼けるねと肩を竦める幸平が銃口を据える。
 爪先に掛かる雪が靴を濡らす感覚に、つめた、と幸平の不満が漏れた。

古出水・蒔生
古出水・潤
リーガル・ハワード

●みぞれ味だったかもしれない
「ひゃああ……リーガルさんリーガルさん見て! かわいい! あれ見て! じゃれてる!」
 普段の語彙などどこかへ吹っ飛んでしまったらしい蒔生が、眸をいきいきと燦めかせながらリーガルの袖をぐいぐい引っ張って訴える。高そうなスーツに立派な皺が走っていた。
「……、見た目は可愛いけど妖魔だって、最初に言われただろう」
 半眼である。
 半眼のリーガルの袖をぎゅっと掴んだまま――途中でそっと指を外されたが――、蒔生は物悲しげに眉尻を下げた。
「だ、だってこんなに可愛いのに……ほんとに退治しちゃうの?」
「同じく、気が乗りませんね」
 潤の声が渋さを帯びて追従する。
 眼鏡の奥の双眸を険しげに眇め、物陰からこちらを伺う妖魔たちを眺めている。
「兄貴も?」
 同意を得られた事に、蒔生の顔がぱっと明るくなった。
「ええ。伺った話では毛皮なども残らないようですし……|有効活用《・・・・》も出来ず、駆除する他ないと思うと――気が乗りません」
 重たく潤が肯いた。
 ん? と蒔生の顔に怪訝な色が滲む。リーガルはずっと半眼だ。
「しかし蒔生が嫌ならば私がやりますよ。頑張れば少しは味見できるかも――」
 にこ、と潤は微笑んで、気軽に提案する風にして人差し指を立てる。
「あ、味見!? 兄貴に任せるくらいならわたしがやる!」
 蒔生の顔色が青く褪めてゆく。この|兄貴《梟》、食べるつもりじゃん!
 慌ててぶんぶんと首を左右に振る蒔生の横で、はあ、とリーガルが息を吐いた。半眼の眼差しを潤から引き剥がし、前方へ据える。
「……味見は梟になってからにしろよ」
「リーガルさんも止めてよぉ!」
 声をぐずぐずにした蒔生が縋る様に言い募るが、然し撤回される気配もない。
 ならば覚悟を決めてやるしかないのだ。手袋を脱げば、その分だけ鋭敏になる膚に外気がつたってひやりと冷える。
「やる気を出していただけたようで何よりです」
 ふ、と潤の口許が微笑む様に綻んだ。
 リーガル、とその眼差しは彼に向けず|妖魔たち《目標》に向ける儘、潤は声だけで相棒を呼ばわった。
「という訳ですので、私はサポートを」
「ああ、頼んだ」
 高く翔ぶ為ではなく、機動力の底上げを目的として展開されるリーガルの背の翼は、空気を受け流す為に横へと大きく拡げられる。
 各々を取り巻く様にして、|意志持つ紙《霊折紙》の鳥が舞う。潤の指先が空を滑り、征け、と妖魔の塒を指し示した。陽動を担わせたそれらは、ひらひらと愛らしくも獰猛な妖魔たちの鼻先を掠めゆく。
「行くよ! リーガルさん!」
「了解」
 紙鳥にじゃれようとふらふら出て来る妖魔目掛け、蒔生が地を蹴る。
 その背後ではリーガルが短く応え、|愛機《PDW-MP7A2》を構えて背の翼を震わせた。銃を構えるには足場が悪いが、然し翔んでしまえばそんなものは瑣末事だ。建物の上に陣取り、獣の勘に気取られぬ様に古びた電光掲示板の影に潜む。
 眼下では蒔生が接近戦での徒手空拳に持ち込もうとしている所――だった。
「ッな、」
 彼女のその双眸が、カッと瞠られる。
 紙鳥に飛び掛かろうとしているらしい妖魔の個体が、お尻を高く上げて何とも愛らしくふりふりと――
「なッ、……にそのポーズ、かわ、……ッ」
「蒔生!」
 振り翳した筈の拳をぴたりと止めてしまった蒔生を、顔を顰めたリーガルが鋭く叫び呼ぶ。
 は、と肺に呼気を通す蒔生が咄嗟に横へ跳んだのと、まさしく一瞬前まで彼女の身体があった場所を妖魔が一直線に貫いていくのと、殆ど同時だった。
 そのいとけなくも鋭い爪がじゃれた紙鳥が、無惨に裂かれてはらりと落ちる。
「可愛く見えても妖魔は所詮、妖魔です。相容れるものではない」
 破られた霊折紙の鳥を補充しながら、穏やかに潤はそう告げた。
「思い出しましたか? 蒔生」
「……っ、うん、」
 蒔生が唇を噛む後ろから、リーガルの羽音が響く。
 挟撃の為に狙撃ポイントを変えながら、彼の眼差しは相棒を見ていた。
「だからと言って、|獲物《ごちそう》として見るのもどうかと思うけどな」
 ばれてましたか、と潤の口端がいらえる様に擡げられる。
「もう! 兄貴は真面目にやって!」
 然しそうやって眦を吊り上げる蒔生だって、あまりにも可愛すぎるおしりふりふりにやられる所だったのはそうだ。棚に上げた。
 声が返る代わり、潤の折り上げる紙鳥が再び空へ舞い上がる。護る様に蒔生と自分とにそれぞれ遣わされるのを見遣りながら、リーガルは出鱈目に這わされる配線を難なく飛び越え、瓦礫と瓦礫の隙間を縫ってちいさく呼気を零した。
 空気の流れに逆巻く様にして、冷気が這い寄る。
 膚の上を親しい気配で滑りゆくその温度を、蒔生は良く知っていた。
「――リーガルさん、そっち!」
 張られた声に、言葉で応じる代わりに冷気が密度を増す。
 空間ごと捻じ曲げる様に圧し潰し、薙ぐすべてを凍て付かせながら、指向を抱かされた|災厄《イヴリス》が真っ直ぐに妖魔へと喰らいつく。
「悪いな」
 身を躍らせた妖魔が数匹、そのかたちのまま戒められた。
「冷たい方が心安らぐというのなら――この冷気も、そう悪くはないだろう?」
 小さくとも傲りゆくもの共が、ぱき、と犀利な音を立てて雪像と化し、砕けゆく。
 その様をじいっと見つめる眼差しが――蒔生とリーガルの後方より、一対。
 猛禽類のそれに良く似ていた。
「成程、……」
 パウダースノーが大気に散り消えるのを見遣りながら、潤は残念そうに空を仰ぐ。
 生憎と、ソースを持ち合わせてはいなかった。

一文字・伽藍

●魅惑の毛並みを持ってるんだもの
「ネコちゃんネコちゃーん」
 ちっちっち、と口や指先を楽器代わりにしてみたが、警戒心が強いのかネコちゃんもとい妖魔たちは一向に出て来ない。
 はあ、と息を吐いて眉間に皺を寄せ、屈めていた腰を伸ばしておおきく背を逸らす。
「伽藍ちゃんとしては、きゃわゆいモフモフを存分にモフりたい気持ちだけども」
 こんだけ警戒されちゃあ無理っぽいかなあ、と難しい顔をして、伽藍は人差し指の先を顎に添える。
 指先はとんとん、と思案する様に白く細い顎を突付いた後で、ぴ、と顔を横に立てられた。そのままくるくる回される。あれだよあれ、あれでいこう。
「クイックシルバー」
 呼ばれた輝きが、その指先でふわりと浮いて蟠る。
「ちょっと強めに光りながらネコちゃん誘える?」
 送り出す様に手を振るえば、銀の輝きはふわふわちかちか明滅しながら妖魔の巣穴に翔んでいった。
 さてもう少し駄目押しが欲しい、とばっちり上がった睫毛がぱちぱち瞬いて、お、と瞠られる。伽藍の両手が掲げられ、その五指がうにゃうにゃと中空で蠢かされた。
「こう……、上手く生きてる感じ出せないかな……ネコの玩具みたいな感じで……」
 落ちていた電線の一部をポルターガイストで絡め取り、ひらひらと地上でのた打ち回らせる。うんうん、中々イイんじゃない?
 クイックシルバーの動きに合わせてやれば、呆気なく妖魔が数匹釣れて来た。うーんとってもイイコだわ、なんて瞑目する。
「――でもね、これでおしまい」
 銀光がひときわ強く耀けば、視界を灼かれた妖魔たちがころころと地面に転がる。そこを|矢継ぎ早に《ワン・ツー・スリーで》破れ電線が刈り取った。呆気ないものだ。
「ばいばいネコちゃん」
 雪像と化して崩れ落ちた妖魔の前にぴょんとしゃがんで、伽藍は膝の上で頬杖を突く。
「もし|来世《次》があるなら、今度はいっぱい遊ぼ。――あ、あと存分にモフらせてほしい」

リュラ・アンナスラ
久瀬・彰

●強く照らすから影の征く
「やはり戦いは燃えるね!」
 朗々とリュラが宣うのに、その傍らに並び立つ彰は自身の調子を確かめる様に軽く肩を回す。
「確かに、俺としてもここからが本分かな」
 視線の先にはひこひこと愛らしく尻尾が揺れている――雪豹の模様を持つそれは、然し忌まわしき妖魔のいち部分に過ぎない。見た目は可愛らしくとも、無辜の人々に気紛れに牙を剥く可能性がある以上、野放しには出来ない者共だ。
「……いや然し、確かに愛らしいが過ぎるな。私は大丈夫だが――、……」
 リュラが瞬き、ちらと傍らの男に視線をやる。
 視線に気付いた彰が、ああ、と事も無げに瞬いた。
「心配しないで。野放しにはできない妖魔だ、相応に対処するよ」
「うーん、心強い! ――では、この先の話だ」
 当然の如く真っ直ぐ返される台詞に、リュラは鷹揚に笑って前を向く。
 建築物と呼ぶにはあまりにも瓦礫の山と化し掛けている眼前のそれを、妖魔たちは塒と決めた様子だった。荒れ果てた屋内に遺棄されたものを遮蔽物として、その物陰に潜みながら注意深く此方を窺っている。
 獣の仔の様な外見の癖、やはり妖魔は妖魔なのだろう。
「全部破壊して回っても構わないけど、コスパが悪いな。崩落も宜しくない、――おびき寄せるのに何か良いアイディアはあるかな?」
 片手を腰に当て、もう片掌で視界に在るそれらを示しながらリュラが問うた。
 麗しい佇まいの彼女を然し、彰は視界に入れもしない。眼差しは真っ直ぐ目標である妖魔たちを捉え、瞬きすら惜しむ様にして洞察する。
「……、きみは炎が得意だよね。派手な色や光、それから熱――お誂え向きじゃない?」
 彰の連れる影の淵が揺れる。その範囲がほんの少し拡がった様な気がして、リュラは口端を擡げた。
「任せ給え」
 返すのはただそれだけだ。あそこでこうしてそうしたら君がここに来て、だなんて言葉であれこれ言い含めるより、|こちら《・・・》の方が手間がなくて良い。
 背の翼を地と平行になるよう拡げて爪先で蹴り出せば、ほんの数歩分駆けるだけであっという間に目標へと肉薄が叶う。
 二足歩行する上に翼まで持つ珍妙な生き物が突如として眼前に現れ、妖魔たちは短い尻尾をぶわぶわに膨らませながら威嚇する様に背を丸めて身を膨らませた。牙を剥いている。
「あっはっは、可愛い可愛い。然し御存知かな、愛らしい妖魔たち」
 空気が冷えるのにつと双眸を眇めた。
 彼らが雪と縁深きものであり、また雪を操る術を得てもいるのだと識っている。
 焦りはすまい。
「氷は炎に弱いんだ」
 燃え盛る、業火の音が唸る様に響いた。
 魔術の発動に巻き込まれた幾つかの個体が、蒸発めいて融け消える。この大火に水を一匙投げ入れたところで何に成ろう。
 爆ぜながら燃え上がるその揺らめきは、熱を帯びて瓦礫の幾つかに照り返しながら赫や橙を懐いている。間近でそんなものを見たこともないのだろう妖魔たちが、警戒は解かぬ儘でじりじりと物陰から這い出てくる。
「――素直で助かるよ」
 彰の声と共に、泳ぐよう地を這う影が細長く腕を伸ばす。
 ふらふらと無防備に姿を見せた個体など、仔猫も同然だ。あっという間に影の腕がそれを捉え、――ぱん! と儚い音を立てて雪像が砕け散る。炎の風に煽られた雪は、きらきら融け消えながら光の軌跡を空に遺した。
「おっと、流石に逃げるか。そうだよね、」
 賢しい個体は、自分たちが誘き出されたと云う事実に気付いたのだろう。再び物陰に潜もうとするのを、数を増やした影の腕で難なく対応する。こうなる事は見越していたからこそ、拘束に重きを置いたのだ。
「零したものは頼んだ!」
 指揮でもするかの様にリュラが細い腕を揮えば、それを追い掛ける様に炎が躍る。
 逃げ遅れた妖魔を融かし、またその燦めく残滓が別の個体の視界を揺らがせ、潜んでいたものが炙られる様に這い出てくる――逃がす前に融かせばそれで良し、逃がした所で――
「っと、こら、駄目だよ」
 強い炎は明るく輝くと共、濃く昏い影を落とす。道理だ。
 リュラの足許に生まれるその影を伝い、彼女へ向けて飛び掛かろうと高くお尻を上げて揺らしていた個体がひとつ、影の手に突かれて白く崩れ落ちた。
「――、ふむ。今日は随分傷が少なく済む、……君のお陰って奴だね」
「おや、彩りが足りないって言われるかと思った。――なんてね、」
 防がれて漸く気付く。普段から|あまり我が身を顧みないスタイル《戦闘狂》であるが故か、痛みが無い所為でそこに考えが至る有様だった。
 面白そうに口端を引き上げるリュラに、影を操る手を止めない儘で彰が柔く息を吐く。
「役に立ったでしょ?」

オルテール・パンドルフィーニ
ライナス・ダンフィーズ

●獣は舞台より降りる
 ――、ドオン!
 腹の底に響く様な力強い一撃――否、その音に、空気が震えると同時に瓦礫の彼方此方からちいさな獣が飛び出してくる。何の音だと毛を逆立てて警戒も顕にする獣もとい妖魔たちへ、立て続けに浴びせ掛ける風に|音《・》が続く。
 金属板を叩く様な、或いは空を撃つ様な。楽器のようでいて、然し楽器ほど繊細な音にはならない。
「そら、踊れ踊れ駄猫ども!」
 ライナスは錆の浮いた大きなドラム缶を腿に挟んで支え、廃材に腰掛けてその底面をリズミカルに叩く。音はそこからだ。
 最初の一撃で妖魔たちを誘い出し、続くビートは小刻みなアップテンポで織り成される。王道なロック・ミュージックの構成を為すそれは、ライナスの両掌が即興で生み出すメロディだ。
「兄様に楽器の才能があったとは! 俺じゃ粉砕してしまうからな、任せられて良かった」
「聞いて驚け、ピアノも弾けるぞ」
 に、とライナスの唇が自慢気に擡げられる。オルテールの肩が大きく揺れた。
「はは! なら今度はストリート・ピアノでもお願いしてみようかな」
 警戒を怠らない儘ではあるが、妖魔たちは隠れ潜んでいた物陰や建物の隙間から這い出て来て尻尾をぴんと立て、ライナスの奏でる音へと集いつつある。
 自分がドラム缶を叩けば、一発目で底を抜いていた事だろう。適材適所だ、とオルテールは深く肯いた。
「ほら、これっくらいが頃合いだろうさ。お前さんの物語を披露する時間だぜ、オーティ」
 ちらと隻眼の眼差しが此方を見遣ると共に、笑い混じりの柔い声で水を向けられる。
 ふむ、と瞑目してからオルテールは思案する様に指を顎先に引っ掛けた。筋書きは何となく浮かんではいるのだ――此度はそう、軽妙なロックに似つかわしい|喜劇《コメディ》を。
「『折り重なる廃物の隙間、覗く無数の眼を前にして、剣槍を構えるは二人の男』」
 オルテールの胸が空気を吸い込んで膨らむ。
 それは身体の奥で言葉を吟ぜる為のものと成り、朗々と謳い上げると同時にそこを起点として周囲の気配が塗り替わる。舞台こそ雑多に瓦礫や廃材が打ち棄てられた、Ⅱ層の地である事に変わりはない――然し、魔術の片鱗が|主人公《・・・》を指し示す。
「――改めて見れば、これまた愛らしい。とはいえ、見目で無害を装うのは常套手段だ」
 剣を構えるオルテールが、堂々とその剣先を振り下ろして空を薙ぐ。
 ドラムの代わりに槍を番えたライナスは、物語に不可欠なもう一人の主人公としてその穂先を構えて見せた。
「見てくれに惑わされてやるほど甘かねえさ。勿論、お前さんだって騙されやしねえだろ?」
 背中合わせにオルテールと並び立ったかと思えば、先んじてその爪先が砂礫を蹴りつけ躍り出る。
 主人公を前にして、|有象無象《迷惑客》に出番など在ろう筈もない。薙ぐように振るわれる槍の穂先が妖魔どもの足許をぞろりと撫でれば、潰されたそこから雪像と化して砕け融け消えてゆく。
「妖魔は妖魔だ。――狩ってやろうぜ、兄弟」
 ライナスは眼前だけを爛と見据えて、それこそ獣じみて嗤うのだ。
 前を彼が払うと云うなら、オルテールの切先は迷わずその後ろへと向けられる。案の定、お尻を高く上げてふりふりと尻尾を揺らす愛らしい妖魔の姿が見て取れる。
「足場が壊れないよう加減しなくちゃな。難しい事だ」
 ドラムを叩けば穴を開けかねない竜の膂力だ、細かな調整は不得手だった。
 けれど、ライナスへと飛び掛かる個体に狙い澄まして剣を突き立てる繊細な仕草は、何でもない事の如くに遂げるのだ。
「しっかし、あの店の飯、旨かったな」
 ふと口にしたのは、斬って払い除けた妖魔が雪と化し、はらはらと粉雪に姿を変えて散り消えた所為かもしれない。
 あの店で食べ損ねた、杏や桃や白玉にピーナッツが乗っけられた|豆花《トウファ》を思い出している。
「今度は仕事抜きで来ようぜ。食い損ねたモン、山程在るんだ」
「良い案だ! 今日食べきれなかった分を制覇しよう。……然しだな、兄様」
 オルテールが大柄な体躯で剣を番え舞う度に、粉雪が轟と吹かれて飛んでゆく。
 走って翔んで駆けて、仕舞いにはこの大一番だ。
「――今日でも良いぞ。すっかり空腹だ!」

アルティア・パンドルフィーニ
時司・慧雪

●あなたと踊るみたいな
「私のフォローより、自身の身を守る事を約束できるかい?」
 穏やかな声色で背後より掛けられる慧雪の言葉に、つん、とアルティアの唇がほんの少しだけ尖らされた。む、としている。不満や不服などではない。もっと単純に、拗ねていた。
「優先順位は間違えない事。いいね?」
「……分かりましたわ」
 念押しの様に更に重ねられる声に、渋々ながらアルティアは肯く。
 でも、と衣服の裾を大きく風に翻らせながら、勢いの儘に慧雪の方を振り返って言い募る。
「シニョールだってしっかり守りますからね、私はドラゴンなんですもの」
「知っているとも。けれど君はドラゴンである前に、ひとりの女性だ」
 だから庇護されるべき存在である、と結ぶのは、少しばかり前時代的な物言いだったかもしれない。口にしたあとで、慧雪はそんな風にふと思う。
 然し彼女が幾らドラゴンであることを主張した所で、慧雪の眼差しに映るアルティアとは、元気で可愛らしいが目を離せない危うさのあるお嬢さんなのだ。
「――……、」
 アルティアが燃える様な眸を瞠って押し黙る。
 気分を害してしまっただろうかと慧雪が思いかけた所で、――ばち、と爆ぜるものが瞬いた。
「炎を使って光らせてみるのはどうかしら!」
 ほんの少し頬を紅潮させたアルティアが、弾む声で提案する。
 再びばちん! と音が甲高く響いて、視界の端で彼女の言葉通りに炎が爆ぜた。提案していたのはアルティアの振る舞いだったらしい。彼女は靭やかな両腕で空を撫で、指先を弾いて音高く鳴らすのを合図にそれを為す。
「とびっきりキラキラするのであれば、あの可愛い妖魔たちだって誘われると思いませんこと?」
 有り体に言えば、彼女は酷く張り切っていた。
 ――ひとりの女性ですって! 対等な存在として見てくれているのかしら? ああでもか弱いと思われているんだわ、もっと強さを認めて貰わなくちゃ!
 音と光につられて辛抱堪らず飛び出してきた数匹の妖魔を、アルティアの指先から鋭く伸ばされた蔦が絡め取って締め上げる。いきもののかたちが歪む前に、それは軽やかな音を立てて雪像と化し、やがて崩れ落ちていった。
「確かに可愛らしくはあるねえ」
 妖魔を指して可愛い、と宣うアルティアの台詞に浅く肩を揺らし、慧雪は刀の柄に手を遣りながら重心を落とす。
 練り上げられ、純度を増した氣が慧雪の全身に絡み付いた。ふ、と整える様に呼気を零す。
「人によっては戦意を削がれそうだが、君は問題なさそうだ。私だって、――」
 言葉を切る。
 躍る炎が落とす色濃い影は、ともすれば妖魔たちの恰好の隠れ蓑だろう。こっそり潜んでアルティアへの攻撃態勢を取っていた個体を視界の端に認めると同時、慧雪が瞬時に距離を詰めて肉薄する。
「――妖魔と知っているものに騙されやしないよ」
 抜刀から納刀まで、瞬きひとつ在ったかどうか――斬られた事にも気付けぬ儘、雪と化した妖魔がその身を風に還した。
 その佇まいのすぐ横を、蔦に掴まれ投げ飛ばされた瓦礫が剛速球の如きスピードで吹っ飛んでゆく。
「おっと、」
 顔を擡げる慧雪のすぐ後ろで、此方に飛び掛かる寸前だった妖魔が一匹、瓦礫に押し潰されて雪と化した。
「シニョールのカバーは任せて!」
 明るくアルティアが告げた。
 頑張ったらきっと|シニョール《彼》だって褒めてくれるかも、なんて甘い目論見だなんて持ってはいない。……、本当だ。思ってないわよ!
「では、後ろは任せよう。前は私の領分だ」
 軽くいらえて鯉口を鳴らす。切り返しは最小限に留め、最速と最小の動きで以て妖魔の首を断つ事に努めよう。
 |彼女《アルティア》が自身の隙を埋めると言うのなら、この身が返すべきは彼女の隙を断ち斬る事だ。
 視界の端に赫灼がちらと皓っている。
「いつものヘマだって、計算に入れれば立派な謀略になるのよ」
 喋る度に機嫌良く炎が爆ぜて、それがぱちぱちと輝く度に妖魔が一匹、また一匹とじゃれる様に飛び掛かってくる。
 それらを蔦できちんと仕留めながら、アルティアの唇が艷やかに弧を描いた。
「何をミスしたって、シニョールは守るんだから!」

咲樂・祝光
エオストレ・イースター

●片っ端から春に染め
「あ! いた! イースター妖魔だ!」
 片手を庇の様に翳していたエオストレが、瓦礫の隙間から見え隠れするぶち模様の尻尾を見つけて声を上げる。
 周囲の索敵に気を張り巡らせていた祝光も、はしゃぐみたいなその声につられてそちらを見遣った。
「あれが妖魔……?」
 うっ、と祝光が言葉に詰まる。呻くに合わせ、胸を押さえて唇を浅く噛み締めた。
 確かに可愛いとは聞いていたが、あんなにもだとは聞いていない。まるで|ミコト《うちの》を素直にしたみたいな――いや、比べるまい。どちらも可愛いのだから。
「ねぇ、祝光も見え……、――メロメロになっている! 妖魔に!!」
 ふ、と視線を向けた先の幼馴染は、その蠱惑的な眸をすっかり妖魔に釘付けにしてしまっていた。兎耳の先っぽを驚きに跳ねさせるのもそこそこに、唇を尖らせたエオストレはじろじろと至近距離から祝光の顔を眺め回す。
「とにかくかわいい……、遊んでいるのだろうか? 仲間同士でじゃれ合って、嗚呼……」
 こんなに近くで見つめているのに、祝光は気付かないどころか妖魔から視線を逸らしもしない。
 エオストレの頬がぷく、と膨れた。
「僕の方が可愛いだろ! ほら見て! ね!」
 半ばぶつかる様な勢いで祝光の身体に突撃し、べたべたと腕を絡めてひっつきたがる。あまりにも勢いの良いその姿に、祝光も流石に妖魔の方から視線を外しエオストレを見遣った。
「なんだよどうし……、くっつくな、ここは戦場だぞ!」
「戦場ででれでれしてた癖にー!!」
 当然そんな事は祝光だって理解している。だからこそ、こうやって注意深く妖魔たちの動向を探っているのだ。決してエオストレが言う様に、でれでれしていただなんて事はない。ない筈だ。
 頬を膨らませ、不満げにむうと唸るエオストレは、それはそれとして可愛らしいとは思うけれど。
「許さないぞ、シュ……なんとかマオマオ!!」
 きっ、と花の色を宿す双眸を険しく妖魔たちの方へと向け、びし! と立てた指先で指し示しながらエオストレが声高に叫んだ。
「僕の方が可愛くて最高にイースターなんだってこと、祝光に証明してやるんだからな!」
「可愛いとか今はそんな場合じゃないだろ!」
 全くもう、と息を吐くと同時、はらりと風も無いのに空へ舞い上がって揺れ踊る護符の群れが、祝光に従順なものとして付き従う。
 すっかり眼差しも面立ちも相対する者への仮面を被り、改めて顎を上げた。
「まあ、イースターなのは君の方で間違いないと思うけど」
「でしょでしょ? ほら、妖魔と一緒に雪の季節はもうおしまいにしちゃおう!」
 一転、エオストレの双眸が瞠られてぱあっと煌めき、生き生きと血色を宿すばらいろの頬で朗々告げる。
 賑やかな色彩を宿すエオストレの出で立ちに、そもそも妖魔たちは飛び掛かる隙を狙うほどに興味津々なのだ。唇が可愛らしく、然しやんちゃな色濃く口端を擡げた。
「時代は春! 桜花絢爛、咲かせてみせよう!」
 軽やかに音を立てて極彩色の卵が割れ、春が毀れる。それが合図だ。
「ハッピーイースター!」
 そう、|そこら全部がイースターになる《CREATE♡ESTAR》!
 跳ねる兎の傍らを擦り抜け、雪豹の煤めく模様など霞むかの如き風景のなかを、また別の花が咲く如くに駆けてゆく――幼馴染の喚び招いた春の裡でも尚、祝光は油断を見せない。
「なかなかすばしこいな」
 砕けた雪像はその雪華を桜花に変え、はらはらとこの一体に春が舞い散っていた。
 花霞に双眸を眇め、呼気を紡ぐ祝光の指先に護符が番えられる。躍る春色の繊細な四肢に狙いを定め、妖魔たちのちいさくも鋭利な牙が剥かれて光る――が、一歩先んじるのは祝光の方だ。
 護符に導かれる様にして空間を跳び、同時に桜の護りが妖魔を灼いた。雪華と化すその身を新たな花霞として召し上げ、更に春のさなかへと身を潜めながら一匹、また一匹と数を減らす。
「祝光! 僕だって可愛いし凄いでしょ!」
 高らかにエオストレの声が響くと同時、足許の無骨な瓦礫がイースター仕様の愛らしいものに変えられる。
 ふかふかと柔らかなそれをクッション代わりに着地して、呼ばれた祝光は笑うかたちに口端を擡げた。
 ――なんやかんや、|あのイースター《エオストレ》が頼りになるのは|そう《・・》なのだ。
 とは言え、すごいと手離しで褒め言葉を口にするのは、なんだか悔しさが在るのだけれど。だから顎をつんと聳やかし、春風に髪と翼を委ねた祝光が気取って呟く。
「まぁ、そうだな?」

篭宮・咲或

●命の崩れゆく
 ふわっふわの白い毛をたっぷり膨らませ、自慢げに胸を張る|使い魔《わたあめ》が褒められるのを待っている。
「あら。|わたあめ《あめちゃん》お手柄~」
 案内を果たしたかの如き使い魔の居る先を見遣れば、そこかしこの瓦礫に隠れる様にして妖魔たちの姿が見える――否、見えているのは立派な尻尾だけだ。たまにお尻や耳がはみ出ている個体も居るけれど。
「……動物用のおやつなら誘い出せるかしら、」
 咲或は浅く首を傾げ、ポケットから摘み出した液状おやつのパッケージを振って見せる。
「あ、駄目そう」
 興味を見せるならパッケージを開けて香りを出しても――とも考えていたが、妖魔たちは可愛らしい獣に見えても妖魔なのだ。こういったものには興味を示さないらしい。少なくとも、今眼前に気配を感じる群れについては。
 ならば、と靭やかな指先に番えるのは|爆発物《腹腹時計》だ。
「せえ、の!」
 巣穴と思しきそこへ向かって遠投する――然し、狙いは巣穴や妖魔たち自身の爆破ではない。
 タイミングを測って投げられたそれは、丁度放物線のいちばん高いところで派手に弾けた。大きな音に炸裂する光が明滅して、隠れ潜んでいた妖魔たちが慌てふためきながら飛び出してくる。どいつもこいつも動揺で尻尾がぶわぶわに膨らんでいた。
「あは、可愛い。でもごめんね、今回の仕事は討伐だからさ。俺だって、本望じゃないけど――」
 艶やかに咲或が告げると同時、彼を震源として波動が伝う。慌てふためく妖魔を影で絡め取り捕縛し、|とっておき《ミサイルランチャー》で攻撃をするなど容易い事だった。
 雪像と化した妖魔が、雪華と砕け散ってゆく。
「……、そう。そんな風に美しく果ててくれるの」
 ほんの少し眉尻を下げ、瞑目をする。とは言え一瞬の事だ――変わらず周囲には獣の気配が蔓延り、油断は出来ないのだから。
「全部の敵がそんな風に散ってくれたら、こっちももっとやり易いのにねぇ……」
 難しい事だと囁きで括り、咲或は再び得物を構えた。

雨夜・氷月
夜鷹・芥

●金銀交叉し獣を伐つ
 見知らぬ空を悪友とふたり駆け抜けるのも、非日常に溢れていて楽しかった。
 然し、本番は此処からだ。
「もふもふ達は隠れてるのかな?」
 肩から下ろされたばかり、一呼吸入れて心身を落ち着かせたいが、生憎とそんな暇はなさそうだ。ひとつ呼気を零す事で代わりと為して、氷月はそう呟きながら周囲を見回す。
「見た目が愛らしいくらいで、容赦はしてやれないがな」
 もふもふ、と妖魔たちの事を氷月がそう呼んだのを聞いて、あえかに笑う気配を滲ませ芥が口にした。
 わかってるよと言いたげに眼差しが流され、氷月の口許が弧を描く。
「もふもふできるイイコ達だったらなあ、――ザンネン」
 肩に担がれ珍しい視点と速度で駆ける空の旅もそれはそれで楽しかったが、身体の方はそればかりでは満足出来ないとでも言いたげにうずうずしている。有り体に言えば、暴れたりなかった。
 |相手は妖魔であると云う事実《大義名分》を得て、蒼く煌めく石を掌に転がし放り投げては気軽に受け止める。
「成程、お前の其れがあった」
 氷月の指先に弄ばれる美しい煌めきを認め、芥の双眸が眇められる。自身の手持ちに妖魔たちを誘い出せそうな餌と成り得るものは残念ながら無かったが、彼のあれならば叶うだろう。
「んじゃ、派手に呼んじゃってイイよね?」
「嗚呼、派手に宜しく」
 呼応する。
 彼のいらえる声にふは、と笑って氷月の唇が呼気を吸った。同時に、掌の中に収めていたそれを高く空へと投げ上げる。
 きらきらと、周囲からの乱雑な光源を取り込んではひとりでに煌めく――遠くからでもそれは良く良く解ったらしい。物陰に隠れ潜んでいた妖魔たちが、その短い尻尾をぶわぶわと膨らませながら顔を覗かせる。
「3、2、1、――Bang!」
 カウント・ダウンは丁度頃合いだ。
 機嫌良く呟かれる氷月のそれとぴったり重なる様にして――宙空にて、煌めきが爆音と共に弾けた。
 途端に蜘蛛の子を散らす如く、音と光に動揺を見せた妖魔たちが雪崩の様に転がり出てくる。爆風と煙に紛れて地を蹴った氷月の髪がきらりとそれだけ軌跡を描き、その銀の片鱗へと月光を纏いながら真っ直ぐに駆けた。
「さあ――俺達と遊ぼう!」
 番える刃の腹に光がぬらと這う。
 お尻をふりふりと高く上げて振る可愛らしい助走姿勢から、弾丸の如く飛び出してくる個体を斬り払う。返す刃で何やら呪文を詠唱しているらしき個体を跳ね飛ばし、もう一匹別方向から飛び掛かってくるものを柄で砕いた。
 そのどれもが雪像と化し、さらりと崩れて風に流れ消えてゆく。
「――はは、やっぱり暴れ足りなそうだ」
 それこそが嵐の如くに振る舞う銀の姿を視界に認め、金が笑う風に眇められて呟きを零す。
 腰に履いた刀の鯉口を切って、芥は細く息を吐いた。走り出て来た妖魔たちのうち、氷月に向かわず逃げようとするものに対して抜いた刀を振り上げる。
 崩れ落ちる瞬間には雪と化しているとは言え、間近で見遣るそれは相変わらずもふもふとしており可愛らしい。
 気不味さに、芥はそっとその円な瞳から視線を外しつつ得物を振り抜いた。
「……、あ、芥そっち行ったー」
 妖魔の命が雪塊と化していく様は、然しどこか儚く美しかった。その一瞬の燦めきに視線を絡め取られ、けれどその更に先に見えたものに氷月は声を上げる。
「了解、任された」
 見たくはないが、こうして視線を外せば見逃してしまうらしい。成程、道理だ。
 諦念と共に顔を上げ、芥の刀が再び振るわれる。踏み込むと共に大きく初撃を振るえば、斬撃が光を弾く様子に魅せられた妖魔が数匹、その目許に獣の眼光を宿してゆらりと尾を振る。
 態と動きをゆったりと構えるのは、隙に群がる妖魔の数を増やす為に他ならない。
「氷月、後ろ」
 最大数を誘き寄せ、重心を落とした抜刀で一息に薙ぎ払い斬り結び、納刀と共に眼差しだけを擡げた芥が告げた。
 金と銀の眼差しが、ほんの一瞬交差する。
「ん? ……、おっと、」
 甘く笑って、氷月の切先が死角より迫りし妖魔を討つ。
 身を翻す序でに数歩の距離を詰め、銀の髪を散らしながらその四肢を悪友の傍へと置いた。
 触れ合う背に、確かな熱を帯びている。
「見惚れてちゃいけないね」
「そりゃあな」
 背に伝わる熱に寄り掛かり瞑目して、芥が喉を低く震わせ笑った。
 結局あの柔らかな毛並みに触れる事は叶わないのだろう。冷たい鋼で斬り捨ててゆく事だけが、いまのふたりに許された触れ合いの範疇だ。
「物足りないから後でもっと構ってよ、芥」
 嘯く調子で氷月が囁く。
「――良いぜ、」
 肩を揺らして笑い返す振動だけをその背に残し、芥は再び抜刀して地を蹴った。
「氷月が満足するまで、いつまでも」

ツェイ・ユン・ルシャーガ
スス・アクタ

●おやすみちいさな獣たち
 轟、と唸るは風の抜けてゆく音だ。
 ぴんと立てたススの耳を見遣って、ツェイは僅かに目許を緩めて微笑んだ。
 行けとも行くなとも、彼は口にはしない。
 だから獣も――ススも何も言わない。ただ立派に立った耳だけが、応える代わりに揺れて動いた。
 立派な四つ足が地を蹴れば、どう、と低い音と共に地鳴りが在る。ツェイは身を芯から揺らす感覚に細く呼気を零し、妖魔の群れる塒へと駆ける獣の背を見送った。
「偶には暴れさせてやらねばの」
 のんびりと囁く。あの愛い子とて獣妖だ。
 こんな時にくらい、可愛らしい肉球を備えた彼の四肢を伸び伸びと伸ばさせてやらねばなるまい。
 ツェイの眼差す先では、おおきな獣の来襲に警戒心を増した妖魔たちが尻尾をぶわぶわと膨らませながら此方を窺っている。妖魔相手と解っていつつも、先に自覚してしまうのはあれを可愛らしいと思う気持ちだ。
「ほれ、おいで。良いものを見せてやろうな」
 言葉が通じると思っている訳でもないが、そんな風に声を掛けてしまうのは己の老獪さゆえなのだろう。
 懐を漁り、呪符を取り出す。良く御覧、とふすふす鼻を鳴らしながら躙り寄る獣たちに見せ付けてから、ツェイの手の中でその呪符が爆ぜる――ポン! と愛らしい音に、視界の中で幾つかの毛玉が驚きころころと転がった。
「あっはっは、刺激が強かったか。ほうら、こっちはどうだ」
 全身の毛を逆立てる妖魔の前には、白い糸の端を放り出して振ってやる。あっという間にツェイの足許は妖魔だまりと成り果てて、ぶち模様の毛玉がころころと群れ転がる羽目になった。
「…………」
 ちらと後方を窺う獣の胡乱な眼差しは、ツェイのそんな現状を怪訝そうに眺めている。なにしているんだあのひとは……。
 黒き獣――ススはふしゅんと鼻を鳴らして気を取り直し、前へと向き直る。自分には自分の出来る事をやらねば――こうして戦いに送り出して貰えるのは、危険が少ないとツェイが判断した時だけだ。
 数少ない貴重な機会なのだから、こっそり鍛えている狩りの腕くらいは見せておきたい。
「……、う。ち……ちいさいけだまが、たくさん……」
 四つ足でほんの数回地を蹴れば、あっという間に塒まで迫る。
 謎の大きな黒い毛玉を迎撃するべく、毛を逆立てながら威嚇してくる妖魔を前に、耳も尾もすっかり下げてしまいながらススは零した。勇ましく蹴散らすにはあんまりにもちいさくて、罪悪感が募る。
「――、ごめん。ちょっと、我慢して」
 詫びる様に告げてから、姿勢を低く下げて肉球が地を蹴りつける。瓦礫の上から壁面へと跳び、そこもまた蹴って更に高くへと登る。眼下では妖魔たちの逃げ惑う様子が良く解った。
「こら、逃げるな」
 靭やかに身を躍らせて、傾いだ電光掲示板から飛び降りる。
 宛ら狼が羊を追う如く、ススの四肢が縦横無尽に駆ける。その度にあっちへこっちへ秩序なく移動している筈の妖魔たちが、ひとところに集められるのだ。
 びよんとバネの如くに跳ねて逃げ出そうとする個体を、湿った鼻先で防いでぺいっと群れに放り投げて戻す。
 その体躯を覆う様にして、滑らかな黒き炎が毛並みを灯した。
「……また、あそぼう」
 妖魔は個体差が在るようで、警戒心を顕にするものから懐っこくじゃれつくものまで様々だ。とは言え、無害そうだからと放逐すべきものでないのは確かなのだ。
 黒き炎は妖魔たちの上を渡ってゆく。幸いにも、雪像へ化すのは一瞬だった――それすらすぐに熱へと融け、後には何ぞの名残の如くに黒く濡れた地が残るだけだ。
 もしも次が叶うなら、こうして唯の四つ足で駆ける獣であってくれたら良い。
「――おや、見事な狩りではないか」
 擡げた眼差しの先にはまさに飛び跳ね妖魔を追い込んだススの姿が見え、ツェイは彼から少し離れた場所にしゃがみ込みながら、満足気に双眸を眇めた。
 妖魔たちが雪へとその身を帰すところまで、あます事なくばっちり目にする事が叶う。
「上手い、上手い。……これだけ上手ければ、……」
 此方の足許でも、遊び疲れたものから雪へとその身を還している。それに付き合ったツェイもくたくただ。
 だからだろうか――疲労が心をほんの少し脆くしたか、ススの黒々と艷やかな背中が落ちるネオンの光を背負い、そのまま何処ぞへ歩き去る気がしてならなかった。
 遠ざかってゆくのだ。蛍光色のひかりが斑に染める模様が滑りゆき、距離が空いてしまうのが視覚にだって知らされて、――嗚呼でも多分それが、『そう在るべき』なのだと、……
「ツェイ」
「わ」
 眼前に黒い塊が飛んで来た。
 否、ススが大きく跳ねて、ひといきで戻って来ただけだ。戻るところを決めていたから、迷わなかった。
 真っ直ぐに此方を見上げる眼差しに、姿勢の所為で影となった表情の裡、眉尻だけがそっと、そっと下げられる。
 ――お前の望む場所は、きっと此処ではないのだろう。
「いまちょっと腹立つ事考えたでしょう」
 じっとり睨め付けたススの耳先が、はたりと揺れた。
 瞬くツェイは今度こそ素直に笑ってから、その頭を撫でてやった。
「――さあ、どうだか」

チェスター・ストックウェル

●かわいい顔をしていたもので
 やっと見つけた、と安堵と共に幾らかの高揚感を携え、チェスターの爪先がふわりと舞い降りると共に実体を得る。
 無辜の人々の生活を脅かすと云う妖魔だ、さぞ凶悪に違いない。だとすれば、さっさと討伐するに限、
「――ぐ、」
 呻いた。
「……か、かわいい」
 思わず左胸を抑える。そこで動くものなどもう何もない筈なのだが、こういうのは様式美だ。
 可愛さに蹌踉めくチェスターの前で、見つかってしまった妖魔が尻尾をふりふり、だあっと地を駆け出した。逃げるつもりらしい。
「あ、こら待てって!」
 逃げる、と視界の端に捉えると同時、腕を振るってバングルを外す。それを大事にポケットに押し込みながら爪先だけで地を蹴れば、重力と云う枷を外したチェスターの身体がふわりと浮き上がった。
 視線の先では、ちょこまかと瓦礫を経由しながら妖魔が駆けてゆく。狭い隙間を潜り込み、潜り込んだ瓦礫の中からズレたルートを選んで四つ足が駆ける――普通の人間であれば追い切れなかったに違いない。
「残念、幽霊が相手だったのが運の尽きだね」
 そこに壁が在ったところで、何の問題も有りはしない。
 走る先を見定めるのは容易かった。ほんの少し息を吸ったのは、そうするのに若干の勇気が必要だったからに違いない――半透明の爪先が、遠くのインビジブルへと狙いを定めて床を蹴った。
「ハイ、調子はどう?」
 ぐん、と身体が引っ張られる一拍の後、身を翻すチェスターが片手を挙げる。
 驚いた様に身を竦ませる妖魔へ向けて、銃口が据えられた。
 ――目を瞑ってしまったのはまあ、不可抗力と云う奴だ。

 丁度チェスターの斃したそれが、最後の一匹だったらしい。
 周囲の空気がほんの少し冷えているのは、同じく能力者たちが数多の妖魔を雪へと還した為なのだろう。
「任務完了、っと。――でも、」
 雪が融けて濡れた地面に十字を切ってから、チェスターは漸く息を吐く。
 蜂蜜色の眼差しが、誰かに思いを馳せるみたいに瓦礫の天蓋を見上げていた。
「顔はかわいいのに手厳しいあたり、どこかの|誰か《薬屋》さんみたいだなあ」


 ――積層都市は、今宵も上から下まで囂しく喧しい。
 こんな街で生きていくのなら、狡賢く鈍感で、図々しくあらねばなるまい――傲れよ不羈奔放どもよ、この都市の覇者たる顔をして。
 あの獣たちが、そんな風に振る舞ったように。

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