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傲れよ不羈奔放どもよ
●
暗渠に一匙混ぜたるは、秘伝の|醤《ジャン》に|花椒《ホァジャオ》と|八角《パージャオ》、|陳皮《チンピ》に|桂皮《グイピ》、|五香粉《ウーシャンフェン》。
草臥れた軒先から見上げる空は小さく遠い。ここは積層都市のⅣとⅢの境目だ。無数の電気コードが奔る升目の空は晴れやかだが、そんな恩恵はこんな層までちっとも降りてきやしない。
死にかけの電灯は永遠にヂヂヂと不愉快な不協和音を撒き散らし、ネオン・ピンクの看板は昼夜問わずに消されていた試しがない。まあ尤も、何処ぞの酔客の殴り合いの余波を受け、電球が幾つか潰れてからはマシになった。眩しくなくていい。
「――親父、炒飯!」
「おいクソガキ順番抜かしやがって、俺が先に白湯麺つったのが聞こえてねえのか!?」
すぐ乱闘になる。ここはそういう場所だ。
片方が卓上の箸入れを掴み相手をぶん殴れば、いつのまにやら湧いたギャラリーが歓声を上げ割り箸が飛び散る。厨房にまで舞い飛んでくるそれを鍋蓋で弾き返し、ぶっきらぼうな親父がドンとカウンターに料理を置いた。
色褪せ端の欠けた皿の上で、じゅわじゅわと細かな油が熱々の音を奏でている。ぱりっと狐色に揚がった皮はぴんと角まで保たれて、透けた中身は海老に筍、春雨木耳人参に青椒。しっかり味のついた肉餡がすべてを繋ぎ止めている。
「春巻一丁」
「あいようハルマキー!」
チャイナドレスにエプロンを着けた元気な少女がガッと皿を掴み、あちこちで乱闘だの口喧嘩だのが絶えぬ店内を見回した。
「春巻きこっちこっち!」
奥の方でふくよかなマダムが手を振っている。にこっと笑った少女が皿を掲げ持ち、大股で駆け寄った。
水がダン、皿がドン、ついでに酢醤油の皿もデン! とリズミカルに置かれる。当然酢醤油が飛び散ったが、客は気にする様子もない。
――ここは、そういう|場所《店》なのだ。
看板はとっくにどっかへ吹き飛んで、屋号なんざ残っちゃいない。
誰が呼んだか――ようこそ、悪食飯店へ。
●
「美味い飯、食い行かへん?」
黒く塗られた爪の先が電子煙草を口許へ運ぶ。
吸い口を咥えてゆったり吸い上げ、ふうと細く息を吐いた男は開口一番そう告げた。
「折角おたくさんらンとこと行き来出来るようなったんやし、よっしゃ観光案内でもしたろか思ててんけどな。まあそない平和な界隈でもないよって……ア、悪い悪い、星詠みや」
片手をひらりと上げ、前髪で分厚く目許を覆った大男――|冥《ミン》・|禍景《フージン》(殃禍・h12348)は悪びれず名乗る。
「ここいらじゃ一番美味い飯屋があんねん。ここまで来たンならもうマジで絶対行っとかなアカンてくらい美味い。でな、そこ教えたるよって、ついでに面倒事片付けて来て貰えんやろか」
ああ、と居並ぶ面々を見回して、眉を上げた気配があった。見えなかったが。
「そない肩肘張らんでもええ、ええ。――この辺じゃあ金持ちどもが、自分の力の誇示ってンで妖魔をペットにするんが流行ってんねん。それが逃げ出してんけど、」
怠惰に電子煙草の吸い口を咥える。
特有の甘ったるい残り香ばかりが在る。
「見た目は可愛い雪豹やねんけど、まあ妖魔やさかい、野放しには出来ひん。要はそれの処理……討伐やね。ただなあ――」
唇にそれを食んだまま、言い淀む様な間があった。
「元々、別の場所を根城にしとる妖魔を連れて来はったんやて。やから、帰巣本能、言うんやろなあ。逃げ出した雪豹――シュエバオ・マオマオが逃げ込んだ先は最下層、|鬼城《ゴーストタウン》や」
|鬼城《ゴーストタウン》――まだ耳慣れないだろうその単語は、積層都市の下層を示す名詞だ。
人間に対し害を為すものばかりが犇めいている、どうしようもない掃き溜めの。
「所有者の手許を離れた妖魔なんざ、ただの討伐対象や。見た目がかわええからやり辛いかもしれんけど、まあ頼むわ。|鬼城《ゴーストタウン》にこれ以上妖魔増やしたないねん」
口中に溜まった煙をふう、と細く吐き連ねる。薄らたなびいて、すぐに消えた。
「……ま、とりあえずは飯食うてからでええわ。味はピカイチやねんけど、ちょーっとだけ客層が……ウン……良くはあらへんな、店……もまあ……ガラが……良くはあらへんけど」
同じ言葉を二回繰り返した。どうやら、店も客層もあまり印象が宜しくないらしい。
但し美味い、と念押しの様に言い添えた。
「腹拵えしてから、妖魔探して駆除頼むわ。何せこの積層都市や、|鬼城《ゴーストタウン》を目指すとなると、上から下へ駆け抜けて貰わなあかんやろな。おたくさんら、パルクールとか出来はる?」
まあ出来んでもええけど怪我せえへんようにな、と男の唇がいびつに擡げられた。
笑っているようだった。
「――ほな、宜しゅうに」
第1章 日常 『悪食飯店へようこそ』
●悪食飯店
店内は薄暗い。割れたまま明滅を繰り返す電灯が幾つかと、厨房の豆電球が在るばかりだ。
壁にはいつから貼ってあるのかわからないくらいに日焼けした、料理名を記した長方形の紙がみっちりと隙間なく掲げられている。辛うじて値段が読めるが、どれも驚くほど安い。
乱闘騒ぎが絶えない所為か、椅子も机もぼろぼろだ。皿だって欠けているものが多い。しかし店内のどこもかしこも、不衛生さは不思議となかった。
愛想はなくとも愛着を持って、この店の経営を続けているのだろう。
看板メニューの炒飯は、毎日昼過ぎには売り切れになる人気っぷりだ。油を纏ってぴっかぴかの米に、絶妙な火入れの卵が絡みついて黄金色に光り輝く。味付けはシンプルに塩と鍋肌に伝わせた鶏ガラスープと醤油、それからみずみずしい青葱。親父は適当に盛り付けるので、多かったらアタリの日だ。
上層に行けば照り照り琥珀色の北京ダックも味わえようが、ここには鳥と言えばあの鶏しかない。肉質の柔い若い小振りの鶏の腹に、たっぷりのスパイスで炊いた香味野菜と米を汁ごとぎゅっと詰め込んで、オーブンにぶち込んで焦げるまで焼けばほろほろ崩れる丸鶏焼きの完成だ。食べやすさに一切の配慮は存在しないので、手と口を盛大に汚しながら食べるのが王道であろう。
蒸しものだって忘れてはいけない。王道の肉饅頭はひとつひとつが掌ほどもある大きさで、もっちもちの甘い皮に粗挽きの肉餡が良く絡む。親父は何せ大雑把なので、自家製粗挽きが多少ゴロつきすぎていても御愛嬌だ。
手打ち麺は太さこそまばらだが、小麦の薫りも豊かに卵の黄色が酷く眩しい。親父は何にでもこのちぢれ麺を使うが、不思議ときりっとした醤油ベースにも、まろやかな鶏白湯にも、がつんとあと引く大蒜豚骨にもぴったり嵌まる。
おっと、デザートだって無論美味しい。とろっとろであっちあちの黒餡が詰め込まれた胡麻団子はいつ来たって個数が違うし、蕩ける甘さの練乳と混ぜ崩しながら食べるふるふるの烏龍ゼリーだって当然、量が毎度振れ幅が烈しい。
店を構える場所も、常連客の客層の悪さも、がさつで無愛想な店員たちも、すべてがこの店のマイナスポイントだ。だと云うのに客足は途切れず、毎日毎日大繁盛――そう、何故ならすべてが美味いから!
然し来店時には気を付けるべきだろう。常連客は今日も店内で殴り合いの喧嘩を始めるし、とばっちりでレンゲがすっ飛んで来る事だってある筈だ。白刃取りを試みるもよし、メニュー表を盾にするもよし。店員だって大忙し、外様のお客にだって特別扱いなんざしやしない。
然し気が向いたなら、足を運んでみると良い。
喧しい店内で、お行儀も何もかもを忘れて大口をあけてかぶりつく料理の数々は、きっと目を瞠るほどに美味いのだから。
●アンチ・ダイエット
「美味しいご飯は体に良い……」
一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)は瞑目する。
ふっくら艷やかな米はしっとりと油を纏いぱらりと崩れ、旨味と甘味を噛み締めている口中に羽根付きの餃子を追加したときの衝撃たるや。カロリーに添加物を倍乗せしたなら、塩分だって流し込まねば。
それらはきっと万病に効く。効くだろ。信じろ。
「すみません大盛り炒飯と餃子とフカヒレスープお願いしまーっす!」
カッ、と青い眸が冴え冴え瞠られ真っ直ぐに厨房を射抜く。親父はどでかい中華鍋を振る手を止める事なく、あいよ、と渋い声ですべてを受け止めた。
「しっかし、先に聞いてはいたけど賑やかだねェ」
ふ、と伽藍の口許が綻んで笑った。静まり返って何も言えない様な、じめじめと辛気臭い雰囲気で食べるよりずっと良い――などと頷いていると、ひゅっ、と何かが軽やかに空を切る音がした。
|中身《醤油》がちょっぴり零れ、伽藍の傍ぎりぎりに染みを作る。
「ちょっと~醤油瓶どこから飛んで来てんの? やっか? あ??」
クイックシルバーで宙空にそれを支えながら、思わず腰を浮かしかける。
ところに、華やかな八角の薫りがその動きを引き止めた。
「オネーサンはいおまちィ!」
ダン、ダン、ダン! と派手な音を立てて皿が居並ぶ。湯気が美味しさを孕んで暴力的に五感を殴り付けてくる気さえした。
ここには栄養バランスも健康第一も、ロカボも糖質オフも何もかもありゃあしないのだ。脂質が伽藍を口説き落とし、その先には塩分が待ち構えて花束の代わりにレンゲと箸を差し出している。
伽藍が炒飯を口中へ押し込む。甘い米の味にガツンと塩味が絡み、然し葱の爽やかさと卵のまろやかさが全てを繋ぎ止めて調和に纏め上げている。絡める様に注ぎ込むフカヒレスープの深みの何と幸せな事!
「腹八分目は明日からでいっかぁ」
落ちそうな頬を支え、リップの代わりに油が燦めく唇が笑った。
●どっちもはんぶんこ
ひゅん、とノヴァ・フォルモント(月光・h09287)の頭上を、どこからかカッ飛んできたナイフが真っ直ぐに抜けてゆく。
ちょっと頭を下げてやり過ごした。
「此処が噂の店か……」
実感も籠ろうと云うものだ。
襤褸切れのような暖簾に屋号の読めなくなった看板、あちこち罅の入った窓硝子。確かに美食家が選ぶ様な店ではないのだが、客足は途絶える事がない。
「ええと……そうだな、肉饅頭と烏龍ゼリーを」
服の中に匿った仔竜を宥める様に撫でながら、ぶっきらぼうな店員に告げた。
丁度蒸し上がったタイミングだったらしい、びっくりするほどの早さでテーブルの上へと二品が揃う。見ただけで解るふかふかの肉饅頭に、ひんやりと冷気を纏う烏龍ゼリーには練乳の帳が実に美味しそうだ。
「――ノクス、そろそろ出てきても大丈夫そうだ」
周囲を見遣ってから、服の中の仔竜をテーブルの上に出してやろう。あまり遠くには行くなよ、と声を掛けるものの、仔竜はきょときょとと周囲の様子を見回すのに忙しい。聞こえていただろうか、とノヴァの口許が浅く笑う。
芳しい薫りと共にほかほかの湯気を昇らせる肉饅頭に興味津々の様子で、ならばとその眼前でノヴァの両手が肉饅頭に掛かる。大きなそれをぐ、とふたつに割れば、途端に怒涛の様に白い湯気が視界いっぱいに広がった。
ふうふう吹いて、口に運ぶ。肉汁と共に溢れ出る油は甘辛い味わいが感じられて、痺れる様な辛さがあった。|花椒《ホァジャオ》だ。
「熱っ、……あ、でも、美味い」
はふ、と息を零して烏龍ゼリーに手を伸ばす。良く冷えた器から一匙掬い上げてつるんと流し込めば、軽やかな甘さと烏龍茶の涼やかな風味が油の残滓を押し流してゆく。相性がばっちりだ。スパイスの刺激が残る繊細な粘膜に、練乳の蕩ける甘さが慰撫するみたいで。
思わず笑ってしまう。仔竜と見つめ合って、なあ、とノヴァは双眸を眇めた。
「確かにコレは――夢中になってしまう味だな」
●痺れるくらいに良い女
――がしゃーん! と派手な音が鼓膜を劈かんばかりに出迎えた。
どうやら酔客同士の喧嘩の様だ。囃し立てる野次の中で、恰幅の良い男ふたりが殴り合っている。
「喧しいと言えばそれまでだが、こういうのは活気だろう。私は好きだよ」
遠宮・弥(毀れる音律・h00241)が寛ぐ様に頬を緩めて微笑んだのは、遠巻きにする客もその有り様に手を叩いて笑いながら喝采を飛ばしていたからだ。
独り言ちて、湧き上がる店内を悠々と横切り空いている席に着く。
「麻婆豆腐はまだある?」
席に着く間に呼び寄せた店員の少女は、弥が問うのに満面の笑みで親指を立てた。ならばと翡翠餃子に春巻を重ね、と来れば炒飯だって外せない。ぽんぽんと軽やかに飛ぶ女の注文に、ハイハイハイと元気にいらえて店員はカウンターにすっ飛んでいった。
「よう姉さん、ここいらじゃ見ねぇ顔だな! どうだい、酌でもしてくれよ」
ド派手な喧嘩を繰り広げていた酔客が、すっかり千鳥足で絡んでくる。周りが見えていないのか、ふらふらと右に左に傾き序でに周囲のテーブルに体当たりし放題だ。その度、落ちそうになる皿を迷惑そうに他の客が抱え上げて避難させているのが見えた。
片眼を瞑る。見ていられない。
「やれやれ、折角の食事だって言うのにさ。――ほら、ほかのお客様のご迷惑、ってね」
軽やかに弥の爪先が足払いを掛けると、不明瞭な呻きを上げて酔客が仰向けにすっ転ぶ。大変良い音と共に後頭部をぶつけたらしい、それで漸く静かになった。
店員の少女が片言で礼を告げてくる。同時にドンドンドン、とリズミカル且つ乱暴に皿が並べられた。丁度頃合いだったらしい。
ふわりと香る湯気からして、鼻腔を擽ると共に既にツンと辛い。|花椒《ホァジャオ》のビリリとした辛味の向こうに、豆板醤のコクが見え隠れしている。思わず真っ先にレンゲに手を伸ばし、ぱくりと口に含めば刺激は予測の数倍だ。
背筋に電撃が奔るかの如き一撃に、弥はふるりと震えて身体を伸ばした。
「ふふ、これからの仕事には良い腹拵えだ」
●満たすは腹ばかりでなく
薄暗がりの満たす店の片隅に、華が二輪咲いている。
「氷月、何食う?」
黒い華――否、黒地に金花の刺繍を縫い込んだ仕立ての中華服を纏う夜鷹・芥(stray・h00864)は、傍らに侍る白い華に向けてそう訊いた。
「んー、棒々鶏と……白湯麺も食べてみたいかな」
いらえる雨夜・氷月(壊月・h00493)は顔を寄せて芥と視線を合わせ、彼の眼差しを追う様にして壁にずらりと並んだメニュー表を見遣る。
その身に纏うのは白地に青い刺繍糸で花を咲かせた中華服だ。芥の視線がメニューから離れ、ちらと自身に落ちたのに聡く気付いて、間近でくすくす氷月が笑う。
何を言いたいのかだなんてすぐ知れた。女装ではないのかと問いたげな眼差しには、覗き込んであやす様に声を返す。
「このままでも美人でしょ、許して」
「ハイハイ、美人さん」
普段は見ない様な上玉ふたりに、店の彼方此方から探る様な目付きが幾つも刺さる。氷月の腕が淑やかに芥のそれに絡んだ。
応じるように芥の掌が氷月の身体を抱き寄せたのは、この場の大多数であろう妙な輩に絡まれない為に他ならない。
「俺は……王道に炒飯と、あと肉饅頭と丸鶏焼き。――いや待て、春巻にエビチリと……、肉が多めになるな」
すっかり色の変わったメニューは見辛かったが、居並ぶ文言は魅力的なものばかりだ。あれもこれもと挙げるうち、思わず気付いて芥が瞬く。
「良いんじゃない? だって全部美味しそうだもんね。取り皿も貰お、で、分けて食べようよ」
それから氷月がゆらりと片腕を揺らがせて、こっちこっち、と店員を呼ぶ。
あれこれと品数を申し付けるが、店員は顔色ひとつ変えず全部を完璧に復唱した。あ、胡麻団子も、とイレギュラー気味に付け足された氷月の声にも首肯が返る。
厨房に引っ込むその背を見送りながら、芥が緩慢に首を傾いだ。その瞬間、さっきまで頭が位置していた箇所の背後にタン! とフォークが突き刺さる。
「アトラクションかよ」
ぼやいた。更にどこかで物の投げ合いに発展していたらしい客同士の喧嘩のとばっちりで、ひゅん、と空になった皿がフリスビーめいて宙を舞うのが見えた。
氷月の影から滴る様に闇が凝って、細く長く腕を伸ばして皿を搦め捕る。影から音なくぽろりと落とされる皿を受け止めるのは、頭と両腕に器用に盆を捧げ持った店員の爪先だった。
「そうなのかも」
大真面目に氷月が呟いた。
扠、料理が揃うのは早い。出来立てほかほかの湯気が濛々と立ち込め、眼前のテーブルの上がまるで宴の如くに埋め尽くされる。中央にでんと据えられるのは丸々肥った鶏の丸焼きだ。
然し、麺が伸びてしまうと宜しくない。折角美味いと評判の店なのだから、と共に運ばれた小鉢に白湯麺をまずは取り分ける。
白く柔く濁った白湯スープは水面がきらきらと細かな脂で燦めいて、湯気が揺れる度に芳しくも複雑な薫りが立ち上る。一体どれだけの食材を煮込んでいるのか想像もつかない。
「伸びちゃうと美味しくないから、麺から食べよ」
揃って啜れば、取り分けたと云うのに熱々の麺が口中にちゅるんと飛び込んでくる。熱い、しかしそれ以上に絡みついたスープの旨味で呑み込まずにはいられない。
ふたりで顔を上げ、思わず見合わせる。うめーじゃん、これうまー、なんて感嘆の様に漏れた声が自然と重なった。
「待ってじゃあ他のは? まず丸鶏焼きでしょ、あと炒飯チョーダイ!」
眉間に思わず皺を寄せるのは、想像以上の暴力的な美味の所為だ。けれど確かに、店の中でもお構い無しに大暴れする客をも唸らせるほどと言われれば納得も已む無しだ。
「おう、遠慮なく食えよ。ほらこれも、あとこれと」
ふは、と息を抜く様に芥が笑う。そう大きくない取り分け皿に、あれもこれもと世話を焼いて美味を盛りに盛った。
口を中を熱と共に満たす味は、手を変え品を変えても何でも美味かった。止まない喧嘩も賑やかな応酬も、壁に吸われた脂の匂いから燻す様に盈ちる煙の薫りまで、何もかもがざらついていて居心地が良い。
芥の口端に薄く笑みが滲むのを見て、自身の唇に艶を添える脂を親指で払い舐め取りながら、氷月はその|夜めく青《双眸》を笑う様に眇めてみせた。
「……なんか笑ってねぇ? ――、むぐ、」
氷月の眼差しに気付いた芥が問い掛けた――が、不明瞭に掻き消えた。次いで金の眸が瞠られ、あつ、と唇から熱気を逃がす。
突っ込まれたのはこれまたほかほかの胡麻団子だ。香ばしい胡麻の向こうから、黒餡がねっちりと強い甘みで飛び出てくる。
「気のせいじゃない? 胡麻団子ドーゾ」
満足気に笑う白い華が、変わらずそこに咲いていた。
●ここはそういう店なので
曰く、『薄汚れたパブほど、美味いフィッシュ・アンド・チップスを出す』。
父の言葉を思い返しながらチェスター・ストックウェル(幽明・h07379)は顔を上げた。視線の先には壁に隙間なく詰められたメニューが居並ぶ。
「だからこの店は期待大――……」
チェスターの声が、不意に途切れた。否、コーン! と小さくも良い位置に入ったらしき打撃音に邪魔をされたのだ。
レンゲも投擲武器と為り得るらしい。これは知見だ。いや今投げたの誰!?
「………………」
声を荒らげたくもなったがチェスターは紳士だ。咳払いで自分を含めた凡てを誤魔化し、視線を巡らせる。
近くのカウンター席で、美味そうにライスを掬って掻き込む男性客が見えた。傍らにするりと腰掛け、気軽に尋ねよう。
「ねえ、おじさんが食べてるそれは?」
チェスターが訊くと、ここいらじゃあ見ねえ顔だなここは初めてかい、ならお前もこの炒飯を食え、とおじさんは問答無用で親父に勝手に注文を通した。
丁度大鍋いっぱいに出来上がった所だったらしく、ぱらりと崩れる黄金炒飯があっという間にチェスターの前へと押し出される。
ほくほくと湯気を立てるそれをレンゲ――炒飯についてきた奴だ――でこんもり掬い、大口を開けてぱくりと頬張る。燦めく脂は適度に米に吸われてコクと旨味を増し、少し強めに塩気の効いたチキン・ベースはけれど、卵の甘さに包まれちっとも塩っぱくはない。
「――、おいしい!」
「おいテメェ!」
双眸を瞠って唸ったところで、背後から見知らぬ男に喧嘩を売り付けられる。
ちらと横目で男を見た。見知らぬ男だが、彼のレンゲがその手許から消えた事は知っている。そう、さっきのノーコン・レンゲピッチャーだ。
返しやがれ! とチェスターの皿の端にいつのまにか乗っていた胡麻団子を指差し騒いでいるが、さて何のことやら――これは何処ぞの手癖の悪い幽霊が、レンゲと一緒に飛ばして来たに違いない。
胡麻団子を齧る。ぷちぷちと香ばしく胡麻が弾け、ねっとり黒餡が舌先に絡む強い甘さがチェスターに寄り添った。
「文句がある? ――|御馳走様《表に出なよ》」
●生を喰らう
こんがり盛られしゅわしゅわ細かな油が跳ねては音を立てている、そんな羽根付き餃子がドンと乗るだけで、襤褸っちい皿も途端に立派な中華の顔をするのだから不思議なものだ。
傍らには氷を纏うデカいジョッキに、黄金色のピルスナーが並々と満たされている。誰ぞの紫煙がゆらりと空を泳ぎ、料理と酒とに饗されている東雲・夜一(残り香・h05719)の鼻先をあえかに擽った。
「最高の贅沢じゃあねぇの、」
知らず内、口の端に浅く笑みが引っ掛かる。
さて、と箸を手に取った所で、隣席では喧嘩が勃発したらしい。エビチリ一口しか残ってねぇじゃねえかと激昂する若い男が、卓上の箸立てを掴んで殴り掛かる。途端に周りの観客がワッと囃し立てた。
「どいつもこいつも柄悪ぃな」
とばっちりの様にすっ飛んでくる箸をぺん、ぺん、ぺんとリズミカルに手の甲で払い落としてから、ぼやく夜一は乾杯すべくきんきんに冷えたジョッキを掲げた。視界の端でちらと蠢くものに気付いて見遣れば、反対側の酔客が朗らかに応じる様に杯を上げている。爺さん何杯目だそれ。
喉を慣らして黄金色を注ぎ込めば、空きっ腹に火が灯る心地さえした。
遅れてもうひとつ飛んで来た箸を今度は掴んで、ぱきりと割っていただきますと手を合わせる。羽根に箸を入れれば軽やかに割れ、ぱんぱんに餡の詰まった皮が脂で透けているのが良く見えた。
かぶり付く。
「――、ん、……こりゃ美味いな、……」
怠惰な瞼を押し上げて、夜一の双眸が僅かに瞠った。噛めば皮の甘味と肉餡の塩っ気が口の中で渾然一体となり、しゃきしゃきと歯切れの良い香味野菜が食感でも風味でもアクセントとなって華やかだ。
じゅわあ、と旨味と肉汁が口中に拡がる。
「生きてんなぁ」
死んでるけど。
相反する感想は然し、|食べる《生きる》と云う行為から産まれたのだから仕方がない。先程の酔客の手許を気紛れにちらと見遣れば、口に押し込む炒飯をビールで流す様の何と美味そうな事だろう。
忙しない厨房へ、ひらと生白い手が揺れた。
「親父、炒飯も。あと、ビールのおかわり」
●未知の扉
気圧される。
飛び交う怒号の中には平然と注文が混ざり、頭上をコップが、皿が、割り箸が吹っ飛び、派手な音がしたかと思えば店の隅では殴り合いが勃発していて、拉麺を啜りながらどっちが勝つだの賭け事で沸いているギャラリーが垣根を作っている。
一文字・透(夕星・h03721)はちいさく息を呑んだ。
「あ、あの……注文……注文、を……」
緊張混じりでは在れど、確かに興味はあったのだ。
厨房に接したカウンター席は、店内のテーブル席に比べれば比較的平穏だ。然し店の親父は寡黙に包丁を操り、衰えなど感じさせない手付きで巨大な中華鍋を軽々振るい、てきぱきと注文を捌いている。どう考えても透の声は届いていない。
それでも何とか隙を見て、通りかかった店員に注文を願い出る事で漸く関門を突破する。
「――、わあ……!」
提供は早い。親父一人で一体どんな風に厨房を回しているのやら、あっという間に透の注文の品――点心セットを懐く蒸籠と、炒飯の皿が目の前にどどんと差し出された。
いただきます、ときちんと手を合わせてからレンゲに炒飯を掬う。ぱらぱらとすぐに崩れる黄金色の米粒は、ひとつひとつがしっかり脂と旨味を纏って芳しい。金色ばかりの中に葱の薫りとその翡翠色が鮮やかで、こんなにもシンプルなのに堪らなく美味しそうだ。
吹いて冷まそうとして――けれど、やめた。からりと氷の揺れる水で口中を冷やしてから、そのままぱくりと頬張る。
「あっ……つい……!」
はふはふ、と呼気と共に湯気を逃して噛み締めれば、米がたっぷり吸い込んだ旨味が溢れ出してくる。飲み込めば胃の腑まで焼け付く心地がして、慌てて水を煽った。
――ぱち、と瞬く透の青に、きらきらと小さな星が宿る。美味しいものは力と希望を與えるものだ。
「でも、美味しい」
点心セットを見遣ればちゅるんとした皮の小籠包に、餡がみっちり詰まった肉肉しい焼売、更に胡麻団子が添えられているのに気づき、透の双眸が更に光を得る。
食べたかったものが眼の前にあるだなんて、幸せの一言に決まっているのだから。
●満ち足りる迄
ハーイ炒飯おまちー、なんて軽い声と共にあっという間にふたりの前へ、大皿がどどんと供される。
炒飯はすぐ出て来るらしい。周囲の常連らしき客も開口一番炒飯を頼んでは、各々思い思いのスタイルで大口を開け頬張っているのが目に付いた。
「やっぱここは看板メニューの炒飯だよねぇ」
倣った訳でもなかったが、結果として他の客と同じ様に、開口一番いそいそと炒飯を頼むかたちになった。
盛り付けには気が払われていなさそうではあったが、逆にそのこんもりと雑に山になる二人分の炒飯が、妙に食欲を唆って堪らない。待ち切れずレンゲを手に取る緇・カナト(hellhound・h02325)の頭上を、ひゅん、と鋭い風音と共にナイフがすっ飛んで行った。軽やかな音と共に壁のメニューへと突き刺さる。
「――、ん! うわぁ美味しい、ぱらぱらだし油の感じも丁度良くて、卵の火入れもばっちりかも」
レンゲにこんもり盛った炒飯がひとくちで消えた。
しっとりと油を吸った米は、然しちっともくどくはないし高温で炒るお陰でぱらりと仕上がっている。鶏ガラベースの味付けこそ目を瞠るものでもないが、ふわりと纏わり付く卵と合わされば塩梅がぴったりだ。付け合せのスープは麺類のお零れだろうか、やたらに美味いそれで米を流し込めば口中で即席のスープ炒飯が完成する。
「ナイフに反応してくれません? まあでも、ぼくらは穏やかに食べましょう」
びよよと揺れるナイフを一瞥して、野分・時雨(初嵐・h00536)は呟いた。視線をメニューから剥がして傍らへ落とせば、レンゲに更に炒飯が盛られてカナトの口に運ばれていく所だった。
「紅しょうが入ってる? 美味しい?」
「入ってないかも、そして夢の様に美味しい」
スープの味の残る口の中に押し込めば、また炒飯の味わいが変わる。これも美味い。
「ぼくちょっとずつ食べたいんですよね、ゆっくり味わいたくて」
炒飯は何せ二人分あるのだ、まだ消えるまい。
先に頼むものを選ぶべく、時雨の眼差しが吟味する様に壁のメニューに這わされる。かく、と首を大きく傾げたのは別にメニューが読めなかった訳でもなくて、狙い澄ましたみたいに吹っ飛んでくる皿を避ける為だ。おお、恐ろしい。
「春巻食べたい、小籠包も必要では? すみませーん、」
「あ、待ってこれだけだと絶対足りない。丸鶏焼きは? 王道の肉饅頭も良さそうだよね」
横からカナトの声も挟まった。
手を挙げると、飛び交う食器だの何だのを盆で捌きながら店員が寄ってくる。大量の注文にも慣れているのか、直ぐに厨房に通った。
取り皿とレンゲを手に、時雨がいそいそと炒飯に視線を向ける。
「ぼくにも炒飯ひと口分だけ、…………ねぇ、うそ、食べるの早……」
黄金色の炒飯は大皿に盛り盛りだった筈だ。だと言うのに、ちょっと注文をしている間に残っているのはもう一人分もない。
「ごめぇん。でもほら美味しいから、ね」
カナトの声は悪びれない。貸して、と皿とレンゲを受け取り、要望通りの量を皿に盛り付ける。
何せこんな無法地帯の店だ、注文も彼方此方から秩序なく舞い込むが故に対応も早いのか、あっという間にさっき申し出たばかりの品々が次々届き始めた。ハイこれ、これも、と飲食店らしい淑やかさもなにもあったものではない豪快具合で、色んなものを零しながらデン! ドン! と皿が居並ぶ。
「うわぁ、熱々だ。ほら時雨君、何食べる? 春巻?」
テーブルの上を埋め尽くしているので、彼の方からは届かぬ所にも皿がある。カナトはそんな風に問いながら、まだ皮の上でぱちぱちと油の気泡が弾けて踊る春巻を、時雨の取り皿にひょいと乗せてやった。
「ありがと……、ほんとだあっつあつ」
やって来た春巻を箸で抑え、ふうふうと息を吹いて冷ます。注意深く齧るものの、中の餡までしっかり火が通って当然の様にあっつあつだ。はふ、はふ、と熱気と共に呼気を零しながら、時雨がゆっくり咀嚼する。
とろりとしたそぼろ状の豚肉餡に絡まって、筍に人参、春雨に木耳の存在を感じる。ぷち、と弾けたのは玉蜀黍の粒だろうか。爽やかな甘味がアクセントになっていて飽きが来ない。
「あ、あ、これうまうまです。美味し」
さくさくさく、と皮が軽やかに崩れてゆくのもまた愉しい。
「時雨君も美味しく食べれた? 春巻と、小籠包も種類があるのかな。イイなぁ」
オレも食べる、と丸鶏焼きを解体しながらカナトが顔を上げた。眼前では時雨が美味しそうに食事を頬張っている。
「これだけでお腹いっぱいな気がするけど、スープ飲みたいや。中華スープ?」
「オレ、締めはやっぱり醤油ベースのラーメンだなぁ。中華スープってフカヒレ? 卵?」
春巻もお代わり欲しい、なんて好き勝手にメニューを指差し皿を見遣って言い合おう。
満腹まではまだ、程遠い。
●万難排して美味を
人間は往々にして静寂より喧騒を好むものだ、と満足げにリュラ・アンナスラ(Sign - Dragnia・h08802)の口端が擡げられる。煩い店だ。実に良い。
冊子になったメニューはテーブルの数だけ用意されている訳ではないらしい。色んな人間の手を渡り、油染みばかりになってしまった紙面はけれど、びっしりと漢字で埋め尽くされている。夥しい数のメニューが書き足され、線を引かれて間引かれ、まるでちょっとした歴史書だ。
「さて、アキラ」
リュラの声が明るく弾んで連れ合いに向けられる。
「君は何が食べたい?」
水を向けられ、眼差しをメニューから引き上げて、久瀬・彰(|宵深《ヨミ》に浴す|禍影《マガツカゲ》・h00869)は片眉を押し上げて浅く笑った。肩を竦める。
「元々決めるのは苦手なんだけどね、」
店にBGMなんて気の利いたものはない。代わりに何処ぞのカップルが繰り広げる『はんぶんこ』の定義を問う口喧嘩だの、誰が奢るかで乱闘になっている卓の騒音だので場が満ちていた。
柄の良し悪しは置いておくとして、活気は確かにそこに在る。嫌いではないな、と再びメニューに視線を落として彰はそう考えた。
「中華料理って、とにかく種類が多いから……ここは特にその傾向みたいだし」
「私はこの肉饅頭っていうのが気になってるんだけど」
リュラが既に決めたメニューを口にしたのは、彼の指標になればと云うのは無論のこと、折角ならば色んなメニューを食べてみたいからに相違なかった。眼前のこの気遣いの出来る男のことだ、きっと違うメニューを選んでくれるに決まっている。
「きみが点心系を頼むなら、じゃあ炒飯か麺か、そのあたりにしようかな。美味しかったら分けられるし」
無秩序なメニューを眺めていた彰の双眸に、思慮が宿るのを見てリュラがにまと口端に笑みを引っ掛けた。
次いで、彼女が取り出すのは一本のペンだ。
「これを投げて、ペン先の向いたメニューを頼む! ……と、言うのは? つまるところ、博打さ」
炒飯も麺も選択肢は多かろう。
「いいね、じゃあ今日は運を天に任せよう。――失礼、」
ペンを借り受けた彰は、それを投げ――ようとして、ほんのひと時考える様に瞬いた。
放る姿勢だったのを、ペンをくるりと手の中でいなして取りやめる。代わりにメニューを机上に開き、その上でペンの真ん中に指を添えてルーレットの様に回した。
「餡掛け炒飯に、白湯麺」
「上々じゃあないか!」
それにしよう、とリュラが大きく腕を振る。あいよ、と応じる店員に伝えれば、あとは暫し待つだけだ。
――の、筈だったのだが。
「よう兄ちゃん見ねえ顔だな、なァんだ辛気臭そうな顔しやがって! 酒はどうだ!」
すっかり出来上がっている巨漢の男が、ジョッキを片手にふらふらと近寄ってくる。
丸太の如き太い腕が、彰の肩に馴れ馴れしく回された。
「おっと、そこまでだ」
――回されたが、押し留められる。
さっきまで陽気に回ってメニューを指し示していたペン先が、リュラの手によりまるで剣か盾の如くに男の腕が彰に触れるのを防いでいた。
ちら、と彰の眼差しがリュラを見遣る。ほんの一瞬片眼を瞑ってそれに応えよう。|解っているとも《乱闘はしないさ》。
「私の連れが大人しそうに見えるからって、絡むのをやめたまえ。――嗚呼それとも、」
梃子の要領で男の腕を安々と跳ね除ける。だいぶ酒を過ごしているらしい男は、それだけで蹈鞴を踏んで怯む様に後退った。
「私とお喋りがしたかったかな? 女に声すら掛けられないなんて、君けっこうシャイなんだね」
矢継ぎ早にぽんぽんと煽られ、男はぐぐ、と唇を噛んで早口で何事か口汚く捲し立て、何処ぞのテーブルへと千鳥足で戻って行く。
ふう、とひと仕事終えて満足気にペンを仕舞うリュラを見遣って、彰はちいさく笑う様に呼気を零した。
「こういう場所だと結構絡まれちゃうんだよね。御しやすいと思われてるのかな」
「はは、言い方が違うな。勝ちを譲ってくれそうなくらい優しげなのさ」
遠くから湯気を立てる皿が運ばれてくるのが見える。彰は楽しげに眸を眇めた。
「今日は平穏だよ、きみのお陰でね。俺がどう喋ろうかと考えている間に、きみが会話を引き取ってくれたから」
濛々と湯気が立ち込めるのは、餡掛けに麺だなんて熱々のメニューが届いたからだ。
熱い内に取り皿へと分けてしまおう。彰の手が、迷いなく箸と皿とを手に取った。
「慣れてるから大丈夫――と、言おうと思っていたけど」
穏やかな声で、彰が独りごちる様に呟いた。
「気遣われるのも、どうあれ気に掛けてくれたのも、嬉しかった。――ありがと」
●食卓は爛漫に
その背には桜が咲き乱れ、花々の合間を駆け抜ける様に大きな龍が昇りゆく。
黒のサングラスはその色だけでなく、普段と違ったフィルターを一枚、視界に隔てる様で新鮮だ。普段はしない様な格好に背筋がそわつく気持ちがありつつも、結・惟人(桜竜・h06870)はきり、と心身を引き締めて店の暖簾を潜った。
「大丈夫です、格好良いですよ」
同じく昇り竜を背負ったスカジャンに、サングラスを鼻先にちょこんと乗せたサテラ・メーティス(|Astral Rain《星雨》・h04299)は、傍らの惟人を見上げてちいさく拳を作った。
――ひとつ、踏み込めばそこはもう非日常だ。屋号すら吹っ飛んでしまった『悪食飯店』の店内は、今日も喧騒と喧嘩に満ち溢れている。
大切な相手を傷付けさせやすまいと、じろりと此方を四方八方から睨め付けてくる眼差しに惟人はサングラス越しの威嚇を返しつつ、ちいさなテーブル席へと滑り込もう。
「おらおらコーデ効果、でしょうか……!」
誰にも絡まれませんでしたね、とサテラが席に着くなりこそこそと、それでも弾む小声で惟人に目配せする。
ああ、と微笑んで惟人は肯いた。彼女がそうやって楽しげに笑っている事以上に大事なものなんて無いのだから。
ふたりで頭を寄せ合って、壁にずらりと居並ぶメニューを見上げる。
「料理は一緒にシェアしようか」
「はい! 勿論です。その方がきっと、美味しく食べられますものね」
それぞれでおなかいっぱい食べるのだって、きっと素敵な事だ。けれど同じものをふたりで少しずつ分けあって、同じタイミングで口に運んで、同じ美味しさを噛み締める――そんな風な幸せが、いまは欲しかった。
「皆、炒飯を頼んでいるな。どうだ? サテラ」
ちらと薄暗い店内に視線を走らせれば、炒飯、と声高に注文を通す者が少なくない。
倣ってみようとサテラの方に眼差しを向ければ、ぱあっと頬に喜色を灯して彼女も同意を示した。それから細い指先がひらりと空を泳いで、あれも、とサテラが壁を指差す。
メニューは掠れて破れかけているが、点心の文字が見えた。
「点心のセットも頼んで良いですか?」
「じゃあ、それも。デザートは――烏龍ゼリーにしようか」
中華料理と油は切っても切れない。ゼリーならばそんな食事の後でも楽しめるに違いないとメニューを決め、喧騒飛び交う中で店員に注文を通す。多分すぐ出るよ、ちょっと待ってな、なんてフランクに返して店員は厨房へ小走りに駆けていった。
言葉通り、そう待たされる事もない。お待ち、と炒飯と点心のセットがドン! とテーブルに着地する。
「――わ、すっごく良い薫り……!」
香気は白い湯気となり、はやく食べてと誘う様に鼻腔を擽る。レンゲに手を伸ばしながら、サテラはほんの少し頬を紅潮させて呟いた。美味しい食事を前にしては、誰だって高揚するものなのだから。
炒飯を取り分けて、その横に点心も添えよう。烏龍ゼリーはもう少し後のお楽しみだ。
「……ん、んー……!」
レンゲに盛った炒飯を、熱いまま口に押し込んだサテラがぱち、と星色の眸を瞬かせる。
口の中でぱらりと解ける炒飯は、油を纏っているのに何故か軽やかだ。ふわりと米が卵の黄金を纏い、鶏ガラの味付けがまるで両側から頬を挟むかのように力強い。葱の青さは良い気分転換だ。
同じ様に惟人も掬って口に運ぶ。眼前の彼女と同じ様に双眸を瞠って、窺う様な金のそれがサテラを見詰めた。
「サテラ、美味しいか?」
「も、すっごく!」
こくこくと肯くのに、惟人の頬が柔く笑む様に緩む。美味しい。そう、たったそれだけのシンプルなこころを、こうして重ねるのが酷く贅沢な気がして堪らない。
点心は翡翠餃子に小籠包、それにちいさな桃饅頭だ。小籠包を齧ればじゅわっと熱いスープが滲み出て来て、思わず喉を鳴らしてしまう。
「ん~……! おいしいですね、惟人さん」
ほっぺが落ちそう、とサテラが笑って頬を抑えた。
――成る程、と独り言めいて惟人は思う。
美味しいものに心が弾むから、この店に集う者は皆、テンションが高いのかもしれない。
「あなたも楽しめているといいな、」
愛しいものを視界に据えて、あえかに呟いた惟人が緩く、瞑目する。
――ちら、とその味わう様な表情を見遣って、サテラもまた、こっそりサングラスから彼を覗き見るのだ。
(同じ気持ちだといいな、)
●痲れるくらいが丁度良い
視界の真ん前を黒い影がそれなりの勢いで以て横切って行くのに、壁の高い部分に張り付くメニューを眺めるよう視線を擡げた儘、氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)は向かいに腰掛ける男の襟首に指を引っ掛け手前へと引いた。
「見なよ氷野ちゃん今ひとが吹っ飛んでったよ! そんで誰も気にせずご飯食べてるの面白~!」
さっきまで頭があった所を掠めていくそれを見送って、花村・幸平(フラットライン・h07197)が愉しげにはしゃぐ。
「……はあ、言われなくても見えてますよ」
引っ張った指を仕舞い込んで、見ないようにしていたのに、と眞澄はずれた眼鏡を生真面目に押し上げた。
経年劣化と油汚れで煤けた様な壁に居並ぶメニューを眺め、あれは、これはと指を指す。まるでバード・ウォッチングだ。生憎と飛ぶのは鳥ではなく、人や皿やカトラリーだが。
何処からかの余波で割り箸が一膳、放物線を描きながら飛んでくる。幸平の頭に突き刺さる前に、それは宙空で金縛りにでもあったみたいにして小刻みに震え、やがてぽとりと床に落ちた。即座に誰かに蹴っ飛ばされて、暗がりに消える。
「やさし~。でも幽体化するだけだから全然平気なのに」
「お前を擦り抜けた箸はどうなると思います?」
幸平の対面に腰掛ける眞澄は、メニューから眼差しを動かす事なくそう応えた。
「あーね」
納得する。
「ね、結局何食べる? レバニラ? 麻婆豆腐? 宮保鶏丁に酸辣白菜、水餃子や雲呑スープもいいな~」
山の様に居並ぶメニューから、ひとまずここまでは絞れたのだ。弾む幸平の声に、そうですね、と眞澄が沈思する間が挟まる。
「とりあえず麻婆豆腐は外せません。……もう全部行きますか」
絞ると云う行為が面倒臭くなった。
「いいよお全然!」
幸平が笑っていらえ、ひらりと手を振れば、配膳を終えたばかりの店員が気付いてこちらへと爪先を向けた。
注文は、とぶっきらぼうな声に促され、これとあれとと二人がかりで申し付ける。あっ刀削麺はちょっとだけ辛めで、丸鶏焼きって大きさどんくらいかなぁ、そんじゃ取り皿も。
あれやこれや、これだけ騒がしい店内の中だと言うのに、はいはいはいとあっという間に捌き終えてしまう。風の如くに彼は厨房へ引き返して行った。
「お前、好きでしょう」
喧騒と賑やかさの隙間で、何でも無い様に付け加えられた。
麻婆豆腐の話だと解る。
幸平が笑って吐息を零した。
「めちゃ好き」
扠、そう待たないうち、大皿が続々どかどかと運ばれてくるのが見えるだろう。
狭いテーブルの上はあっという間に濛々と湯気が立ち込める有り様で、レンゲや箸をきちんと手許に置いてくれるなどというサービスは当然ないので、皿の陰に隠れたそれを探り当てる。
零れた汁やタレを綺麗に避けつつ、いただきます、と几帳面に手を合わせた眞澄の箸が、刀削麺をくるりと掻き混ぜた。
赤い脂に白い不揃いの麺が浮いている。こんなもの飛び散ってしまえばその時点でクリーニング待った無しだ、ふうふうと吹く序で、慎重に啜る。
「――ぁ、ッつい、」
そして辛い。
啜った瞬間に熱と辛味が口中の中で爆発するが、然し絶妙に耐え切れないほどでもない。スープの中央で主張する麻辣の奥、控えめな|八角《パージャオ》の薫りが癖になる。麺に絡み付くそぼろ肉は甘めに炊き上げてあって、それがスープの辛味を中和して丁度良かった。噛み締める度に麺の甘味が凡てを纏め、呑み込む頃には次の一口が我慢出来なくなっている。
そう、美味だった。
「これは……なるほど、食べすぎてしまいますね。出来立てだと、尚のこと美味しいです」
赤い水面を見詰めて眞澄が呟いた。感想もそこそこに再び箸が麺を掴むのを見て、幸平もレンゲを手に構える。
「え~いいな~! 僕も食べよ、いただきまーす」
麻婆豆腐を掬い上げて口に運べば、がつんと|花椒《ホァジャオ》が頬を張る。熱い。熱くて辛いが、それに負けない位の旨味が押し寄せてくる。痺れる辛さに上乗せされた唐辛子がぴりりと追い討ちを掛けてくるが、然し噛み締めれば豆腐が崩れてまろやかになるのだ。
じっくり火入れをされたのだろう挽肉は、ごろごろと塊が残っていて食感が楽しい。水分が飛ばされている分、ぎゅっと詰まった美味しさがレンゲを置こうとする手を許しやしない。
「ん~! 熱々でおいし~ね~」
夢見心地で幸平が呟いた。この身は既に幽霊だと云うのに、|生きるためのその行為《食事》を止める事が出来ない。出来る訳ない、こんなに美味しいのに。もりもり食べ進めてしまう。
どうせだから、折角だから。
食べすぎてしまう言い訳の冠言葉には困らないのだ。
●いつかメニューを見なくなる
席に腰掛けて早々、空を切る様な鋭い音と共に皿が円盤の如く飛んで来たので、篭宮・咲或(Digitalis・h09298)は当たり前の様に頭を下げた。
「確かに、ガラはあんまりって聞いてたけど――」
冊子になっているメニュー表は卓の数分無いらしく、使い回しが重なって結構な有り様だ。常連はメニューなど必要無いのだろう。
油染みが広がり、新しいものが欄外に書き足されては、代わりに古いものが幾つか横線を引かれてもいる。
「ま、多少アレでも何とかなるでしょ」
気軽に柔い声でそう独り言ち、さてどれにしようかと靭やかな指先がメニューを辿る。辿った指が油で汚れてちょっぴり閉口した。まあ中華料理屋ってそんなものだ。
「看板メニューの炒飯一つと、肉饅頭も。……あ、杏仁豆腐もあるじゃん。これも追加で」
あいよ、と店員は咲或に応え、とっとと次の業務に向かってしまった。隣席の喧嘩はまるで見えていない――と言うより、ここでは日常すぎて口を挟む事も無いのだろう。
「無法地帯だなぁ……でも、美味いのは本当なんだろうねぇ」
今度はフォークが滑空してきた。それをメニュー表で軽やかに防ぎ、店に吸い込まれていく人数の多さを思い出しながら呟く。
そうしている内、あっという間に料理が運ばれてくる。ドン、ドン、と勢いの儘に置かれる皿はどれも驚くほど良い薫りを立ち昇らせ、はやくはやくと咲或のレンゲを誘っていた。
炒飯を掬い上げれば、ぱらりと崩れる癖にふっくらと膨らむ米が艷やかに油を纏って輝いている。黄金の衣は鶏ガラスープを吸った卵だろうか、一粒一粒にしっかり絡み付いていた。
頬張ればそれらが渾然一体、然し調和を成し遂げて解れてゆく。偶に新鮮な香気と食感が混ぜ込まれた葱に依って齎され、それもまた目線が変わって良い。
「すごい美味い……」
思わず口から零れ落ちた。
と同時に、ちょっとした憂いもある。この後に控える仕事を考えれば、満ち足りるまで食事をするのは得策ではない――嗚呼でも、それなら。
これから定期的に通うと云うのも、悪くない話では?
「――、アリかも」
●非常好吃
狗がすんと鼻を鳴らす様にして、漂う気配の色を識る。
香気に鼻を鳴らす段・廿九(|夜狗《イェガウ》・h12342)は、そうしてにんまりと口端を擡げた。
――嗚呼、ここは間違いなく『あたり』だ。
薄らぼけた暖簾を潜って店内に入れば、ひゅん、と顔をすぐ横を肉を切り分ける為のナイフがかっ飛んでゆく。浅く首を傾げる事で難なくそれをいなしながら、空いている席に音なくするりと滑り込んだ。
「あっはは、いいねえ! お上品な方だよ、これくらいならさ」
暴力が口を利く様な|場所《下層》で生まれた身だ、乱闘や食器が飛び交う程度では怯みもしない。
機嫌良く周囲を見回せば、壁を埋め尽くす勢いで貼られるメニューが見えた。見上げ、へえ、と感嘆を零す。
吟味はそう長くない。片手を擡げて人を呼べば、気付いた店員が近寄ってくる。
「炒飯に春巻、あとは――……」
顔を上げた視線の先には、隣席のテーブルが在る。暖かな湯気を濛々と立て、それらに美味そうにかぶり付く客の顔を見遣って、廿九は満面の笑みを店員に向けた。
指先を、隣席の卓上へと向ける。
「あの美味そうなやつ全部! お願いしまーす!」
店員は怯みもせず、ラインナップを把握して厨房へと引き返す。
一体全体どんな調理を行っているのか、山のような皿はそう待たされもせずに自分の卓へと運ばれて来るだろう。
湯気に交じる|花椒《ホァジャオ》や|八角《パージャオ》の薫りが否が応でも期待を唆す。ドン、と音を立てて皿が置かれた瞬間、レンゲを手にして御機嫌に炒飯を掻き込んでいた。
ぱらぱらに崩れる黄金色の炒飯は、しっかり塩気と鶏の旨味が沁みていてパンチがある。だと言うのに卵の優しさがそれを包んでいて、決して尖り切らせはしないのだ。噛み締めれば甘く変化した脂が滲み、然し混ぜ込まれた青葱が清涼さを加えていくらでも食べられる。
「――最ッ高! |頂好《マジで最高》!! 足りる訳ないじゃんお代わりも頂戴!」
大喰らいにはあまりにも足りない。
どうせこの後には|腹ごなし《猫探し》をするのだ、少しばかり食べ過ぎたって構いやしない筈だ。
●心の広さと美食の比例
――はいおまちどう、なんて荒っぽい所作で、大きな皿がふたつに小さな皿がひとつ、眼前に届く。
黄金色した炒飯に、飴色の皮が今まさに油を受けてじゅわじゅわ音を立てる丸鶏焼き、それから小さな皿にちょんと乗っかったカクテル・グラスの烏龍ゼリー。
「うん、来た甲斐があったかも」
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は満足げにそう告げてから、そろりと背後に広がる店内を見回す。酔客同士の言い争いに、常連客の男たちによる賭け喧嘩、向こうでは痴話喧嘩らしき二人組――そんな喧騒はけれど、どこか遠くで|故郷《√ウォーゾーン》を思い起こさせる。
「苦境でも力強く生きる人達、って点では一緒なんだろうね――……っ、と」
割り勘の定義について言い争いをしていた痴話喧嘩カップルの女性側が、ついに机上のフォークを手に取り投擲したらしい。
但し素人のノーコンだ、フォークは軽やかに彼氏の横を擦り抜けて、カウンター席――クラウスのもとまで届いた様だった。
ぱし、と小さな音を立ててフォークを捕まえる。投げ返そうかと考えたが、然し彼女が受け取れるとも思えない。そっと手許に伏せておこう。
軽く手を合わせ、丸鶏焼きに手を掛ける。盛られている皿こそ欠けてはいるが、土台がそうでも尚損なわれる事なく美味そうに照り照りと燦めいていた。
「……、ん、――これ、美味しい」
脚を持って肉を割りほぐせば、腹の中に詰められていた香味野菜と米がほろりと崩れて皿に広がる。皮はこんなにぱりぱりと音を立てるのに、中の肉は驚くほど柔らかく、肉汁が溢れて堪らない。
溢れた米と野菜を盛ってひとくちで味わえば、|八角《パージャオ》の薫りも芳しい――そう、シンプルにとても、美味しい。
「やっぱり美味しいっていうのは正義だね」
途端、店内に溢れかえる雑多な喧騒も、語気の強い喧嘩の声も、無愛想な店員も、不思議と憎む気にはなれなくなる。
この味に免じて赦してやろう――だなんて、そんな風に機嫌良く爪先を揺らした。
●美味しさの由縁
すん、と鼻を鳴らせば、ちっとも嗅ぎ慣れないスパイスの薫りが飛び込んでくる。
五感をわっと彼方此方からノックするものだから、思わずスス・アクタ(黑狐・h00710)はくしゅんとくしゃみをした。耳の先がふると震える。
「……慣れないけど、いい匂いですね」
呟くススの声に笑って、何やらその傍らでごそごそと髪を弄っていたツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)が頭を振るった。結わえた髪が落ちてこない事を確認して、うん、と機嫌良く肯く。
「よし、準備万端じゃ」
「……、ツェイはこういうお店、慣れてるんですか」
食べやすさに重きを置いた今日の装いをちらと見て、ススが尋ねる。楽しげに微笑むツェイの横顔に、ほんのひととき瞬きの合間、郷愁めいた色が浮かぶのを確かに見た。
「ふふ、昔々はこんな店も偶にあったのでな。――……ほれ、遠慮するでない」
覗き込もうとしたけれど、そうやって黙り込んでいるのを遠慮していると取ったらしかった。
ツェイがそんな風に促しながら、壁に貼られるメニューを指し示す。まるで異国だ。まあ、異界ではある。
「ええと、じゃあ……エビチリ食べてみたいかも、です」
海老は美味しい。指先でメニュー表を辿るように空を撫で、これ、と件のエビチリを示す。
「よしよし、エビチリじゃな。然しそれでは腹は膨れなかろ、もっと頼まねば」
ススがきょとんと瞬いている内、ツェイが張り切って両腕を掲げ、此処だと言いたげに大きく振る。
店員にもばっちり見えたらしい、時折店内の何処ぞから飛来してくる箸だのレンゲだのを軽やかに盆の盾で捌きながら、小走りに此方へ駆け寄って来る。ここの給仕は達人ばかりなのだろうかと、飛来物に応じて浮かしかけた腰をそろりと椅子へ戻しながらススは思った。
メニューを指し示しながら、ツェイがつらつら注文を連ねる。
「丸鶏焼きにエビチリ、あとは肉饅頭と……汁物が要るな、鶏ガラスープも頂こう。ふむ、甘味は食後に考えるかの」
それなりの量の注文だが、事も無げに厨房は対応してくれたらしい。
一体どんな鍋捌きで親父は注文をこなしているのか、そう間を置かずに美味しそうな薫りを引き攣れ、品々がテーブルへと続々運ばれて来る。ススは顔を寄せた。
ふうわり大きく白く漂う香気の塊めいた湯気を嗅げば、甘酸っぱい気配の内側につんと辛いものを内包していて尻尾の先がぼわ、と膨れる。はじめての匂いだ。
「ほれ、熱い内に食さねば」
そんなススの様子を愛おしげに見詰めて笑う様に声を弾ませ、ツェイはレンゲと箸を彼の方へと差し出してやる。反射的にレンゲの柄を掴み、いただきます、とススはいそいそ手を合わせた。
華やかな赤に包まれたまんまるの海老を、纏う香味野菜やソースごと絡め取って掬い取る。ふうふう吹いて口に押し込めば、鼻腔をふわりと抜けていくのはあの甘酸っぱさだ。だと言うのに、舌に乗せても酸味はちっとも感じられない。幾種類かの醤の風味が複雑に混じり合い、辛いのに不思議と食べられてしまう。どこか甘いのだ。
噛めばしゃきしゃきと微塵切りの野菜が気分転換になったし、その向こうの海老の弾力と言ったら!
「――、!! お、おいしい……」
むぐむぐむぐ、と大ぶりの海老を噛んで味わい、咀嚼する。その頬はすっかりぴかぴかで、血色が透けて薄く色付いていた。
「これ、ここでしか食べられないんですか? ツェイ、これ、覚えて帰って作れませんか?」
食べながら忙しなく尋ねて来るススの様子に、水を向けられたツェイが眸を瞠って瞬いた。
次いで、堪え切れずに肩を揺らして笑い声を零す。丸鶏焼きを手許で解しながら、その艶々と飴色に輝く鶏皮を見遣り、すっかり緩んだ声音が返るだろう。
「無茶を申すでない、これは屹度、伝統の味ゆえに。早々にご家庭で真似の出来る事でもなかろうよ」
鶏肉が解れ、中に抱き込まれていた野菜や米がほろりと皿に溢れ出る。匙で掬って肉に乗せ、少しばかり野蛮にそのまま齧り付けば、ぱりりと割れる皮の食感が楽しい。噛み応えのある肉はけれど決して硬くはなく、噛むほどに肉汁があふれて米に絡んで味が深みを増してゆくのだ。
「ん、――美味い。……そうさな、それに――」
エビチリ咀嚼のリズムを読んで、ススの口の中が空っぽになった瞬間を狙い澄まし、一口サイズに纏めた鶏肉をそこへ突っ込んでやろう。
狐面の向こうで、ススの眼差しが燦めいた気がした。美味かろう、美味かろう。
「此処だから、美味いのさ」
行き交う無数の人々に、騒がしいの範疇をちょっぴり越えた喧騒と。
そんな中で食べるものだからこそ、一層美味しく感じられるのだろう。
デザートは豆花にしようか、とツェイが解ける様に笑っている。
「そうですね、そうかもしれない。……わ、悪くはないと思いますよ――おれも、」
肉も美味しい。入れて貰ったそれを大事に咀嚼し飲み込んで、ほんの少しの照れを被せ、ススがテーブルの下で爪先を揺らす。
マンゴープリンも、とねだる様に小声で告げてから、はにかむ様にツェイを見た。
「ひとりじゃないし」