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消音
ゾディアック・ミラー
これは2章構成の期間限定シナリオです。10/25(日)16時頃までに完結したシナリオの結果により、宿敵の運命が変わります。なお、期間中に宿敵主によって倒された場合、通常のルール通り宿敵は絶対死します。
それを目にしたと理解した瞬間、音が消えた。
誰のって、自分のだ。――心臓の音がしない。
目にした怪異に心臓を盗られたのだと|警視庁異能捜査官《カミガリ》は直感的に理解する。そういうものとは縁深い職種だ。今更驚きも、取り乱しもしなかった。
心臓を失った身体は、それでも難なく動く。息をしている。ただ、静かなだけだ。流石に生きたまま心臓を盗られたのは初めてのことだけれども。
どうにも、空っぽだ。
胸の奥にぽっかり空いた空虚を埋めようとするかのように、思考が巡る。余計なことを考えている自覚はあった。それでも止められない。まるで走馬灯を自ら覗いているようだった。心臓がないのだから、死んでいるのと同義と言えばそうだろう。お陰で、心音が隠していたものにまで気づいてしまう。忘れていたほうがいいことを思い出す。
ああ、やめてくれ。そんな|心臓《ほんとう》に気づきたくなんかないのに。
●厄災
「不用意に思い出したくないことがある方は、今の時点でお帰りを勧めます」
集まった面々を前にして、星詠みの焦香・飴(星喰・h01609)は穏やかな笑みと声音のままで告げる。それで、人によっては心を抉りかねない案件であると伝わっただろうか。
「……安心してください、|災厄《バケモノ》なりの善意です。忘れていたほうがいいことなんて、ごまんとありますからね」
しかし此度の仕事場になる√汎神解剖機関の存在は、そういった心の隙間に入り込むものも多い。特に今回は殆ど避けようがないのだと飴は告げる。
「『ゾディアック・ミラー』によって怪異『荒魂ノ辻』のもたらす|厄災《・・》が捕捉されました。この怪異は見た者に厄災をもたらす能力を持っていて、被害は広範囲に及びます。ただ、この厄災を怪異自体も認識していない」
無意識にばら撒かれる不幸――それは何であっても遠ざけておきたいものでしょう、と言いながら飴が資料を示す。そこには龍神とも思しき姿が記録されている。それを不幸な偶然によって見てしまった者に、厄災が否応なしに降りかかっているのだ。
「俺が予知した厄災は、『心臓を盗られること』です」
心臓。幾人かが半ば無意識に己の胸に触れた。血肉の通った存在であればまず、そこにあるはずのもの。無ければ生きてはいられないもの。
「怪異を目撃した|警視庁異能捜査官《カミガリ》たちは皆、心臓を盗られています。けれど、生きている。おそらく怪異としても無意識下で、盗ったつもりさえないのでしょう。そのせいかはわかりませんが、『忘れていたほうがいいことを思い出す』『無意識に抱いていた感情が表面化する』『涙が止まらなくなる』などの現象が確認されています」
心臓を盗られてなお生きている。それだけでも奇特だが、生まれた空虚を記憶や感情が埋めようとする――結果として、望まぬ記憶を掘り起こされたり、自覚していなかった感情が綻ぶらしい。
「心臓を盗られることは防ぎようがありません。何せ最終的な目的は原因となっている怪異の討伐です。皆さんはどうあっても、それを見なければならない。仮に心臓がなかったとしても、現象には見舞われるでしょう」
在り方として心臓というものがない、そういう者たちもいるのが能力者だ。けれども厄災は等しく降りかかる。
「……ただ、盗られたカミガリたちについては、放っておいて構いません」
現場には、不幸にも居合わせたカミガリたちが数人いる。いずれも心臓を盗られているが、カミガリであるがゆえにある程度の現象には慣れてもいる。彼らを守ることも仕事の一部ではあるが、それよりは、自身の記憶や感情と向き合ったほうが、余程有意義だと星詠みはあっさり告げた。
「俺もカミガリですから、同僚の立場ではありますけど……まあ、良くも悪くも慣れてますから。ある意味それは、皆さんもそうかもしれませんが」
だとしても、心臓を握られ、無意識を引っかき回されるなんて、気分がよくはないだろう。こういうこと頼むの多くてすみません、と星詠みは眉を下げて。
「向かうなら、自分を取り戻せるだけの思い入れのあるものを持って行くといいかもしれません。もしも思い当たるものがなければ――これを」
飴が差し出したのは小さなポプリだ。中には、柔らかな金色の星のような花。金木犀です、と告げるそれからは、甘く、どこか懐かしさを思わせる、秋の香りがする。
「金木犀の花言葉に『真実』というものがあるそうです。香りは一番記憶に残るとも言うし。皆さんの気付け代わりになれば」
やわらかく甘い香りと共に、行き道は示される。
薄暗い路地から√を越えて辿り着くのは、紅葉の鮮やかな山道。茫然自失の有様で座り込むカミガリたち。
緩い上り坂のその先に、薄色の厄災が見えると同時――その心音は消えている。
これまでのお話
第1章 冒険 『鼓動を聞かせて』
あらかじめ与えられた忠告はぴんと来なかった。
悔いる、ということが堀・允人(魂剥ギ・h07457)にまるで無いせいだ。
わからぬまま、允人は爆弾蟲を幾つも肩に従え山道に至る。秋らしく乾いた空気が、どこか冷ややかに枯れた色彩の男の輪郭をなぞっていく。
――あれか、と目に怪異を留めるや、元より体温の低い体から|心臓《こころ》が消えた。
盗られたのだと理解する。
けれども秋風がやけに通り良いくらいで、|喪失感《さみしさ》はなかった。むしろこの状態が、己の本来であるような気さえする。
果たしてこの喪失を何が埋めようとするだろう。進んで忘れていることがあるとでも?
允人は緩慢な動きで、首を傾ぐ。
自らの加害に関して忘れっぽい自覚はあるが、忘れる程度のことを思い出したところで、どうするということもない。
それでも、妙にざらついた思考が深く沈んでいくのを自覚した。意識が|砂《ノイズ》を噛む。反射的な不快感。
『新しい家族と暮らすことにしたの』
浮かび上がったのはあの日。まだ允人が上背のない彼女の背丈を少しだけ追い抜いたばかりだった頃。淡々と突きつけられた言葉をさらってくる。
『それで、少し早いけれど……あなたとは別々の暮らしになるわ』
告げられたとき、既にそれは決定事項だった。反論の余地はおろか、理由を問うことすら許されない。否、理由はこの上なく明瞭であった。当然のことだ。
そうは思いながら――思っていようと、なぜ、どうして、と喚きたがる澱がある。
子供のようだ。子供であったはずだった。そのつもりであったのが、己ばかりであっただけで。
ざり。ざり。
足裏が砂利を踏む。進む。それを淡々と、淡々と繰り返し、冷えるばかりの秋愁を空虚な身の内へ落とした。己を創った彼女の言葉がまた浮かび上がって――允人の表情は知らず、僅かに曇る。
なくなった心音の向こうには、小さな花畑が隠れていた。
心臓を盗られたことよりも、降葩・璃緒(花ひらり・h07233)はその|記憶《けしき》に目を凝らそうとしてしまう。
――ちがう。あの花畑をもう少し近くで見たいと思ったのは、|今のボク《・・・・》じゃなくて。
花畑にさす、大きな竜の影。それが真竜であった璃緒の記憶であることは疑いようもなかった。
竜翼が風を起こす。膨大な魔力を持つ竜の起こす風は、風そのものが力を持っている。だからこそ花を散らさないように、いつもは近づかなかったのだ。けれどそのときは、つい距離を間違えた。
そのことに気づいたのは、ぱきん、と硬質な音がしたときだ。聞き慣れた音だった。けれど、普通の花からはするはずのない音だった。
パキパキパキ、と音を立てて、花が菫色の鉱石へ変質していく。それを、半ば呆然と眺めて、気づいた。――これは、ボクのせい?
並外れた真竜の力は、山肌すら魔力の結晶で覆い尽くしてしまう。それが花に及ばないわけがなかったのに。
(違う……違うの、ごめんなさい、そんなつもりなかったのに……!)
慌てて離れる。そうしても、変質してしまった花がもとに戻るわけではない。
それどころか、慌てたせいで強く起こしてしまった風が、結晶化した花を散らした。
しゃらしゃらと音を立てて、花は砕かれ、崩れていく。
(そばに行くべきじゃなかった。ボクが行かなければ、花は散らなかったのに)
後悔が心を突き刺す。砕けた花の破片全部が、やわらかい部分に刺さったみたいに痛む。
――好きだからこそ、傍にいてはならない。
そう決めたのは自身で、誰に強制されたわけでもない。それなのに、未練は残った。自身の名さえ忘れてもなお、ずっと焦がれたまま。
(本当は、傍にいちゃいけないのに)
からっぽの心が痛む。吹き砕けたほうがいいのはボクのほうじゃ――、
何もないのが心細くて、寂しくて、縋りたくなって、璃緒は手探りに剪定鋏を取り出した。師匠がくれたものだ。花の傍にいていい理由ごと。
「……だいじょうぶ。大丈夫」
ざわついたままの心を、鋏の感触で取り戻していく。今の自分は、守るために力を使える。
「傍に、いられるの」
ほんの少し震えた声は、温室の管理人のものだ。花を守り、育てる。その方法を教えてもらった、降葩・璃緒のものだ。だから奪われるわけにはいかない。かつて抱いた、後悔も全部。
――ああ、知っている。
身体のなかが、からになるような。胸に穴が空いたような虚と静寂に、氷野・眞澄(サイレントキー・h07198)は覚えがあった。一度|自分の心臓《・・・・・》を喪っているのだから当然だ。代替品として与えられた心臓は、本来の持ち主に反して静かなものだったけれど。
それを、盗られた。
(……私のものを盗めばいいものを)
理解も覚悟もしていたことだ。そういう仕事である。それでも。
「腹立たしい」
吐き捨てた声が自分で思うより荒く凶暴性に塗れたもので息を呑んだ。まるで別人だ。
別人?
――|まだ人間のつもりでいるのか?《・・・・・・・・・・・・・》
自然、そう思ってしまった。当然の話だ。
氷野真澄はとうに人間を辞めている。今の真澄はあの心臓のお陰で人間にしがみついているだけに過ぎない。こんな当然なことを忘れていた。否、忘れたつもりでいただけだ。あらゆる数値が、現象が、同僚の|人外《ばけもの》を見る目が事実を物語っている。
ざらり、背筋が粟立つ嫌な感覚があった。
直接心臓を掴まれているような不快感。無意識だとしても、盗まれた心臓は怪異が握っている。――この感覚は、彼にも伝うだろうか。
そんなことよりも。
「返しなさい」
緑の瞳が辺りを見据える。膨大な霊力に充てられたインビジブルたちがその視界を明け渡した。厄災が未だ射程外にいることは確かで、まだ届かない。見失うつもりはない。最早、『人間』の皮を被る必要すらない。だって、あの心臓が真澄を人間足らしめるなら、それがない己はただの、
「ひ……ッ、ばけ、もの」
ぐるん。誰か、人間の視界を奪った。それが同僚でもあるカミガリのひとりであると気づくのは、眼の力で振り回した挙句その同僚の気を飛ばしたあとだ。気にしない。私の|心臓《宝物》をなんとしても取り返すために。
眼が痛む。たぶん、全身も|臓腑《なかみ》ごと痛んでいた。それすら振り切ろうと、無意識に力を籠めた手が懐を掴む。
空虚な胸の内側の代わりのように、手に触れたものがあった。当然、心臓ではない。もっと無機質で冷たくて音のない、彼から貰ったライターだ。
奪った視界が、怯えている。厄災にではない――なり損ないの|災厄《ばけもの》に。
「……、違う」
視界を返す。暴力的なまでに広がった霊力をどうにか収めようとする。血を吐いた。いつものことだ。まだ、赤い。
「私は、人間のままあれを取り返さなくては」
|心臓《かれ》を、己を、人間に繋ぎ止めておくために。
「物部さん、思い入れのある物は?」
足裏が少し柔い山土を踏んだ。現場に至ったのだと理解するや、井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)は共にこの場に来た物部・真宵(憂宵・h02423)へ声と視線を向けた。念のため、背丈の差で彼女の視線を塞ぐ。
怪異に慣れた|警視庁異能捜査官《カミガリ》である靜眞より、真宵のほうが気がかりであるのは自然なことだ。――それ以上の感情が関わっていることも自認はしている。だから、この確認は靜眞のためでもあった。
「えっと、わたしはこちらを……」
どこかきょとんとした表情で靜眞を見上げてから、真宵は左手を差し出して見せた。その手首には、冬の淡天を閉じ込めた華奢な腕時計が着けられている。真宵の白い肌によく映えるそれは、去年のクリスマスに靜眞が贈ったものだ。それを思い入れのあるものとして彼女が選んで来てくれたことに、知らず靜眞の口元が笑む。
「……なら良かった。不安はないですか」
「ない……とは言えません。わたしはまだ、何かを忘れているんじゃないかって」
かつてあった紅涙の一件で、真宵は『はじめて死んだ日』のことを、そして|本当は異性が怖い《・・・・・・・・》ことを思い出してしまった。そして今回の厄災も、自覚のないことを呼び起こすと言う。それが何を気づかせてしまうのか。無意識に真宵が視線を下げた時、反対に靜眞は顔を上げる。
気配がしていた。遠い。けれど感覚でわかる。カミガリの勘とも言っていいだろう。
「物部さん、――」
「どうしました? ……あ、」
靜眞がそちらを振り向き、釣られるように真宵も|厄災《それ》を見る。同時、ふたりの胸元から心音が消えた。
目の前に、おとこのひとがいる。
ふ、と唐突にできた真宵の胸の空虚に、目先にあるただの事実が染みてくる。それはよく知るひとのはずなのに。こわい。
(待って、ちがうの)
反射的に、恐怖がせり上がってくる。それを真宵は咄嗟に否定しようとした。どうして?
(だって彼は、このひとは大丈夫)
それでも身体は恐怖に従って冷えていく。冷たくなる指先が、身体が震え出す。がたがたと目に見えて震えるのを自分で止めることができない。だめ、やめて。震えないで。
必死で指先を握り込む。大事な|心音《おと》が足りなくなって、冷たいものが胸のなかを支配していく。怖い。こわがりたくなんてないのに。
(……ああ、くそ)
靜眞の胸の裡を埋めようとしたのは、|学生時代《かつて》の孤独だった。何も今思い出さなくていいだろうに、と悪態をつきそうになって呑み込む。彼女の前でみっともない姿は見せたくはなかった。
それでも、ひどく苦しい。
(あれはいじめというより、暴力だった)
今更そんなことを思っている。気づいていたくせに、気づかないふりでやり過ごした過去が今更殴りつけてくるようで。
「……っ」
呼吸が浅くなる。|過呼吸《パニック》を起こす兆候だ。怪異に遭った被害者にはよく見られる。大丈夫だ、慣れている。過去がどうした。今は、それよりも。
――|彼女《・・》を落ち着かせるほうがきっと、おれには必要だ。
「物部さん、見て」
震える真宵へ、靜眞はそっと声を掛けた。距離は詰めない。触れもしない。ただ、ゆっくりとした動作で、自分がしているネクタイを示す。正しくは、それを飾るネクタイピンを、だ。
「おれのお守りです。……あなたから貰ったお守りと、ネクタイピンです」
「あ……」
俯いて震えていた真宵の視線が、おそるおそる上がる。そうしてその藍色の瞳に、似た色をした『おまもり』が映ったのが靜眞にもわかった。途端、目に見えていた真宵の震えが、少しずつ収まっていく。それで、靜眞も安堵した。
「……よかった。ほんとうはね、もう少し明るい色でもいいかなと思ったんです」
恐怖に虚ろになりかけていた真宵の瞳が、今を取り戻すように定まっていく。だいじょうぶ。無意識に動いた唇で、ようやく震えは収まった。腕時計のついた左手を、そうっと伸ばす。その白い指先が、靜眞の胸元にあるネクタイピンに触れた。
「でも井碕さんにはちょうどいいみたい」
ふわりと、自然に笑み零す。その真宵の笑みで、靜眞もいつの間にか笑っていた。はい、と小さく肩を揺らす。彼女が触れてくれた場所から、あたたかさが広がるようだった。呼吸が落ち着いていく。
「物部さんも、時計がよく似合っています」
失った心音はまだ戻らない。けれども空虚を埋めるだけのぬくもりは、ふたりの間に確かに在る。
どこか物寂しい秋の匂いのなかで、ふたりは横並びのまま|厄災《・・》を見た。
胸の裡に広がる空虚は、瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)のなかで空虚のままだった。
確かに心音はない。つまりは心臓がないということだ。成程、と兎比良は指先で自分の胸元へ触れる。
(これが|心臓を盗られる《・・・・・・・》感覚ですか)
けれど――空虚を埋めようとする感情は何もなかった。自分の内側から何一つ感情が生まれてこない。それに、何も感じていない。それを自覚して、ふと気づいた。
(それこそ、きっと俺が恐れていることなのだろう)
誰の責任にすることなく、自分の意志で選択し続けていたい。そう思えばこそ、何も抱くことのない自分に恐怖するのかもしれなかった。
過去の思いを、人々を、無かったことにしないように歩み続けなければならないというのに。
「最後は必ず死が訪れる。生きる意味は、延命措置でしかない」
淡々とした声が零れだした。どうやら、胸の裡の空虚の『ことば』らしい。
信念も、誓いも、全てが無に帰すと死によって約束されている。それが無駄であるのなら――、
ふと、兎比良の手を握る白くしなやかな手があった。
どちらからともなく視線をやる。隣には花喰・小鳥(ルージュ・カシェ・h01076)がいた。しかし彼女が普段から絶えず浮かべている微笑みはない。あるのは|諦観《・・》だけ。小鳥のなかに広がった空虚は、その諦念の理由をなぞらせる。
「絶対があるとするなら、それはたったひとつです」
思い浮かぶのは兄のことだ。小鳥にとって、兄は誰よりも強く、優しく、無敵だと信じていた『絶対』だった。そんな兄さえ、死は避けられなかったのだ。そしてそれは、兄の望みでもあったのだろう。
だって、兄はそれを避けようとはしなかった。受け入れていた。微笑みさえしていたのを思い出す。
(|私《Anker》が叶えた|願い《死》に、微笑んでいた)
絶対を喪った喪失感、絶望、虚無、そして諦観。それらは小鳥が災厄と|成って《・・・》得たものだ。忘れたふりをしていたそれが、なにもない胸の裡を埋めていく。
兎比良の手が、小鳥の手を強く握り返した。互いに温度のない瞳が見合う。
「何をどうしようと、最終的には死が訪れる。この事件を解決しても延命以上の意味はありません」
「――そうだとしても、それがどうした」
兎比良がはっきりと口にする。ふたりの裡の空虚はいまだ空虚のままだった。ただ、手のひらにぬくもりは在る。
こうして生き急ぐことが、今日を延命することが無駄で徒労かと問えば、小鳥の兄は首を横に振るだろう。そして隣にいる兎比良もだ。
「……結局は無駄かもしれませんよ?」
ふと気づけば、小鳥の口元にいつもの微笑みが浮かんでいる。思い入れのあるもの――それが互いに互いであったことの証左だ。
そして兎比良の両目からは、とめどない涙が溢れていた。泣きたいとも、悲しいとも思ってはいないはずだ。ただ、ぬくもりに僅かに引き戻されたと自覚するや、涙が止まらなくなった。それを、小鳥の指先が拭っていく。常に前を向き続ける彼は、あるいはこうして涙を拭う相手すら必要ではないのかもしれない。けれど、共に歩くと決めたのだ。
「俺達は一人でも生きていける。それでも、二人で歩いていく事を選んだのですから」
「そうですね。共に歩けばいつか答えはきっと」
微笑む小鳥の手に、兎比良は指を絡める。
(誰よりも愛しい貴方の手を、決して離さない)
それは最早、告げるまでもないことだろう。――ああ、それにしても。
「……やれやれ。止まらない涙など幼少期以来な気もしますが。眼鏡をかけている身にとっては鬱陶しいだけですね」
「こうして拭えば、じき止まりますよ」
くすりと笑って小鳥が眼鏡をそっと取る。涙を掬い上げては、繰り返し拭っていく。
重ね合わせたぬくもりに、誰も入り込む余地などありはしない。
佇む山道には赤々と色づいた紅葉があり、どこからか甘い金木犀の香りがしている。その香りの在り処を見つけるより、開けた場所から覗いた空に浮かぶ怪異を見つけるほうが先だった。
――心音が消えて、空虚が広がる。けれど夜鷹・芥(stray・h00864)にとっては、それが当然のことのようにも感じられた。だってそうだろう?
(俺が心臓を動かしていることのほうが、不自然だった)
|心音《それ》は本来、既にこの世になかったはずのものなのだ。
けれども、いざその音が消えてなお、芥は斃れずそこに在り続ける。皮肉なものだ。僅かに唇の端が動くか動かないかで、ずるりと思考が虚に引き込まれていく。
そこから浮かび上がったのは、知らない記憶――否、気づかないふりをしていた記憶。
眼前に|彼《・》がいる。その心臓はまだ動いている。その隣には、誰かがいた。それは紛れもなく『犯人』だ。芥はそれを確かに見ていた。不可解で、認めたくはなくて、気づかなかったふりをしただけだ。空虚に、忘れようとしていた疑念が浮かんでくる。
(なあ、アンタは何故あの日犯人がいる場所が直ぐに解ったんだ?)
|何を《・・》知っていたんだ。
考えようとすれば、頭が割れるように痛む。それ以上は探るなと――探ってはならないのだと警告をするように。
忘れていればよかっただろうか。この空虚が埋まれば、また忘れるのだろうか。またのうのうと、ないはずの心音を重ねていくのか。
「……ッ、――」
思考が混乱する。誰かの名前を呼んだかもしれない。誰の?
彼は大事な家族だった。大切だった。ずっとそばにいると誓ってくれた。
だから。
(何も無い俺の唯一の心臓はアンタだったんだ)
それにさえ今気づく。目を逸らしていた自分の弱さに気づかされてしまう。
ふらついた足元が、山道の傾斜に取られてもつれた。無様に転がって行った先で、やわらかな落ち葉に受け止められる。見えたのは銀杏の金色――それから、転がったままの芥へも届く、金木犀のあまやかな香り。
酷い頭痛が、次第に収まっていく。心臓は戻らない。己のものも、当然彼のものも。
それでも感じる香りは、芥がまだそこに在ることを証明している。
目にした厄災はあらかじめ聞いた通り、龍のかたちをしている。
そう香柄・鳰(玉緒御前・h00313)が認識すると同時、
「……なるほど。これが聞いていた現象ですね」
唐突に内側に穴が空いた。痛みはなく、身体も問題なく動く。しかし胸元に触れてみると、既にそこに鼓動はない。心臓を盗られたのだ。
「んー、それで生きてるって不思議だよね」
鳰の隣にいる九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)も同じ|厄災《もの》を見た。けれどもいつもと変わらない様子のまま、のんびりした言葉を続ける。事実、ガクトの感覚としてはいつもと変わらなかったのだ。確かに、心音は消えているけれども。
「心臓が盗られるのはどんな気持ちか気になってたんだけど。……んー、不思議といつもと変わらない」
「変わらないとしても、主の心臓に触れるなど言語道断」
私自身はともかく、と鳰は語気に怒気を滲ませた。どうしようもない現象であることは理解していても、守るべき主の心臓を怪異に握らせるなど本来許し難いことだ。
そしてそれは、ガクトの背後にいる死神も同じだったのだろう。死神にとっては魅せられた命そのものを掠め取られかけているに等しい。瞳こそは赤髪に隠されているが、明らかに膨れた気配は敵への圧――そして、鳰さえも睨みつけている。あるいは、容易く自分の命を棚上げした彼女に怒りを顕しているのかもしれなかった。彼女はおそらく、鳰よりも鳰の魂の価値を評価している。
「死の御前もお怒りね」
「んー、そうだね。いつの間にか仲良しさんだ。……大丈夫だよー」
死神へ緩やかに告げる。それは己のことであり、鳰のことでもある。
けれども、そう言った直後にふと子供の頃を思い出した。どこから、何故湧き上がって来たのか。これが生まれた空虚のせいだろうか。
攫われ、虐待を受け、強制的な訓練を強いられた。それを耐え抜いてなお、ガクトは独りだった。回想のなかで、ガクトは何よりも|孤独《・・》と闘っているように思う。
(あぁ、あの頃はまだ感情があったのか)
新しい発見でもしたかのようにそう思う。それらはきっと、忘れていたほうがいいものでもあったのだろう。けれど知った事実に、悲しみより喜びよりも、興味が湧いた。
その時だ。
「ガクト様、警戒は怠らず……、――あ、」
ふと見た先で、刀を抜く音がする。鳰が短刀を抜いたのだ。しかし現時点で原因たる怪異には接触できない。それは鳰もわかっているはずで。しかし抜かれた短刀は、迷わず|鳰の首筋《・・・・》を斬ろうとした。
「……驚いた」
鳰自身が心底驚いた声を零す。短刀の刃を止めたのは、鳰自身の左手だ。その手のひらが傷をも厭わず、短刀をギリギリのところで止めている。鳰としては、渾身の力を込めているつもりだった。刃を握り潰したって構わない。そう思っているのに、それでも刃は鳰の首筋から離れようとはしなかった。
(きっとコレが彼女の一番の望みなのだろう)
あわてることも、止めることすらなく、ガクトは鳰を見守っている。それが、とても『らしい』とも思うのだ。それは鳰も自分自身で思ったのかもしれない。「なるほど、そうですね」と納得の言葉を音にする。
「ずうっと私は、私を一番斬ってしまいたかったもの」
見ないふりをしていた。知っていて、気づかないふりをしていた。それはおそらく、主であるガクトもそうしてくれていたのだろう。
「……申し訳ありませんガクト様、お目汚しを」
生きよとの主命を忘れたことはない。けれど、嗚呼でも。
「ここでこのまま刃をすべらせてしまえたら!」
そう思ってしまう。心音はない代わり、心が二つあるみたいだった。それさえガクトは見守っている。
「んー? 気にしないよ、好きしなさい。……ただし君が君を斬った後、私は死神の姫に喰われるよ」
さらりと言って、ガクトは死神へ視線を向ける。彼の背後に憑く死神は拒否の素振りは見せない。戸惑ったのは鳰のほうだ。
「ガクト様が御前に、ですか?」
「そう。私の一番の興味の君が居ないのなら」
「で、でも。私がお仕えする前からお二人は共に在るのに。私に貴方様が関心をお示しになったから?」
「いや、私がそう望むからだよ」
迷いなく答えられた言葉に、また鳰は目を瞠った。
「共に逝くのが貴方の望みと……?」
「――ねえ、今の鳰の『一番』の望みは何かい?」
ガクトは鳰の問いにはっきりとは答えなかった。代わりのように差し向けた問いも、先に答えを述べてしまう。
「主人である私の命『メイレイ』を護る事だろう?」
「……いいえ」
首元の刃を震わせながら、鳰は首を横に振った。確かにガクトの言うことも望みの内だ。ただ、一番は異なる。
「確かに主命はひとつを除き優先されますが、一番は『御身をお護りすること』……です」
手を、刃を震わせながら告げる。同時に、短刀を突きつけていた鳰の右手からその力が抜けていった。拮抗していた力を失って、刃が手のひらに食い込む。赤が溢れ出した。痛みよりもその鮮やかな色が、鳰の生を示している。ガクトがその手をひょいと取った。持っていたらしい手ぬぐいで、鳰の傷口を手早く止血する。
「痛む?」
「いえ、この程度でしたら。お手数をおかけしました。……ガクト様は?」
傍目にはひとつも変わった様子が見受けられなかった。けれどこの現象の強さを見るに、何もないということはないはずだ。
「……私の護りたいという望みは勿論貴方様のお心もです」
気がかりそうに向けた鳰の言葉に、ガクトは変わりのない様子のままで答えた。
「私の心? だったら俺が孤独にならないように、君が傍に居ればいいよ」
孤独。不意に出てきたそれがガクトの『ほんとう』なのだろうか。それならば。
「――はい、肝に銘じます」
そっと微笑んで、手を握り返す。己を斬ってしまいたいと思ったとして、彼の隣からいなくなりたいとは決して思わないのだ。
ふと景色が変わると、色づいた紅葉が視界を埋めて――花眸が空を悠然と游ぐ厄災の龍を見つける。
ほんの一瞬、それに焦がれるように心臓が跳ねた気がして、そのまま次の心音がなくなった。当然、音だけではない。
「……心臓をなくした」
小さな手で胸元に触れて、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は不味いわね、と呟く。
「アドニスの心臓がないと見つかってしまう」
――龍王に。
それは父と母からもよく言い含められていたことだ。龍王はララを狙っている。それを守るために父たちが策を講じてくれたのだ。あれは、ララの心臓ではない。かの龍王の番の一部。|ララ《幼い迦楼羅》を庇護する龍王避けの呪は、パパ達の加護とあれがあって初めて成り立つものだ。
(はやく取り戻さないと)
心臓をなくした胸の隙間が妙にざわつく。いやな感覚だった。焦り――ララが? けれど、たぶんこれは|焦り《それ》だ。だって誰よりもララが一番理解している。|今のララでは龍王に敵わない《・・・・・・・・・・・・・》。
秋の山道を駆け出したばかりの足が止まる。すぐそばで紅葉が、銀杏が鮮やかに色づいて、足元さえ埋めている。そのやわらかな秋の泥濘に入り込んでしまえば、完全に足は動かなくなった。
「……どうして? どうしてララは一人で何とかできないの。どうして戦う前から敵わないと決めつけて逃げ隠れしようとしているの」
ぽつりと零した声は、迷子になった子どものように頼りない。そうだ、ララは|雛《こども》だ。
気がついてしまった。
(ララは弱い)
ずっと弱いままだ。だって、ララは未だに飛ぶことができない。何故?
どんなに小さな翼を羽搏かせても、空には遠く及ばないまま。いつだって行使する力は貰った加護に起因して、それはララ自身の力ではないのだ。結局ララはなんの加護も持っていないならば、ただの何も出来ない雛に過ぎない。
(これでは守れない)
自分が情けなくて、悔しくて、視線が下がっていく。ぎゅうと胸元を掴んでも心臓は当然戻ってこない。空を飛ぶ厄災のところまで、飛べないララは行けない。
「……なにも、できないの」
らしくないとわかっている。それでも顔を上げられなかった。どうにか進めようとした足は落ち葉に取られて、呆気なく尻もちをつく。やわらかな落ち葉のおかげで痛くはなかった。けれどどうしようもなく自分が情けなくて、そのまま蹲る。ふわりと、どこかから甘く、優しい香りがしていた。金木犀だ。それで思い出す。
――優しいさくらの香り。
弱気になったララをいつも抱きしめて、励ましてくれた。今はもう懐かしいばかりの、
「にぃに……」
空いた胸の空虚に、じわりと忍び入る感情がある。でも、気づいてはいけない。ララは抱いてはいけない感情なのだ。そうわかっているのに。
寂しい。音にはせず、小さな唇だけが動いた。
「何か物足りない気がするな……あ! 心臓か!」
秋めく山道を歩みながら、咲樂・祝光(|曙光《アルナ》・h07945)は自分の胸に手を当てて気づく。盗られるとは聞いていたけれど、こんなにわからないものか。ちらと、紅葉の隙間から厄災なるものを目にしただけだったはずだ。
「別に無くても何とかなるが、妙な感覚がするな」
これが胸の裡に生まれる空虚というものらしい。ふむ、と祝光は首を傾ぐ。そうしながら、足は止めなかった。この場はともかく、あの厄災に逃げる素振りはなかった。話からしても無自覚というなら、取り戻すのも難はないはずだ。
「盗られたなら取り戻す。 無くしたなら見つければいい」
金木犀も貰ったし、何とかなるだろう。軽い口ぶりで声にして、祝光は行き道で受け取った金木犀のポプリをそっと握りしめた。甘やかな香りで、いつもの自分を保とうと努める。できるはずだ。
「俺は、将来的には龍王になるんだからな」
口元に笑みを作る。気丈であれ。空虚に忍び寄る闇を祓うために。それでも、ぽっかりと胸の裡に空いたそれを、どうしたって意識してしまう。失った心音の代わり、浮かんでくるのは『忘れていたほうがいいこと』であったりするとも聞いた。
(……忘れたいなんて思ったことは無い)
それどころか、擦り切れるほど思い返して呆れられるほど、自分を責める記憶ならある。駄目だ、気づくな。そう思った時には遅い。――溢れてくるのは、後悔と罪の意識だ。
『――!!』
『にぃに!』
妹の名前を叫ぶ祝光の声。必死にこちらへ手を伸ばす小さな妹の声。伸ばした手は届かないまま、あっという間に妹は消え失せた。
(俺のせいで、妹は攫われた)
故郷の屋敷の桜の森の外れで、一緒に遊んでいた時のことだ。神域のギリギリのところへ妹を連れて行った。そこからせめて、外の景色を見せてやりたかったのだ。そこで祝光は『母』の姿を見た。そうして疑わず招いてしまった。それは|偽物《・・》だったのに。
後悔と罪悪感が進む足を止めさせようとする。それでも足を動かし続けることが、祝光のせめてもの贖罪のひとつだ。あれからずっと、祝光は妹を探して旅を続けている。
(あの子は救世の神鳥、迦楼羅天だ。余計に心配で――)
軽く頭を振る。金木犀の香りを確かめて、また足を前に出して、ふと積もった落ち葉の彩りに目をやった。そこに埋もれる、小さな|雛女《さくらいろ》。
「……!」
息を呑む。信じられなかった。後悔が見せる幻かと一瞬は疑った。けれど違う。忘れるはずがない。見間違えるはずがないのだ。迷子になったように俯いて座り込んでしまっている、小さな雛を。
「――桜樂!」
呼び声がララに聞こえたのと、座り込んでしまった身体がふわりと|飛んだ《・・・》のはほとんど同時だった。戸惑いごとぬくもりに包まれる。優しいさくらと――金木犀の香りがする。
「桜樂、やっと見つけた」
「……にぃに?」
信じられずに呼びかける。すると耳元で「そうだよ」と聞こえて、その声があまりに懐かしくて。心臓をなくした胸の奥が、じわりと滲むように温かくなる。その熱が胸から喉へ、どんどんせり上がってくる。堪えるようにぎゅっと抱きつくと、その腕が抱きしめ返してくれた。
「本物のにぃに? 厄災のせい、じゃなくて」
「俺もそう思った。でも、ほら。……|金木犀《しんじつ》の香りがするだろ」
うん、と頷く。その拍子に目元まで込み上げた熱が零れ落ちた。熱は雫になって、ぽろぽろと零れる。それを祝光の手が拭う。優しい手が桜樂を撫でる。泣いているのはきっと、厄災のせいだ。だって、どうしたって止められない。
「……遅いのよ」
「ごめん桜樂。……おそくなった」
――迎えに来たよ。
抱きしめてくれるぬくもりは懐かしい記憶そのままで、偽物でも夢でもない。
――静かになった。
そう思ったことに少し間を置いてから、驚く。一文字・透(夕星・h03721)にとって『静けさ』を感じることはほとんどないことだからだ。ただ、鼓動の音がなくなっただけ。胸の真ん中で近頃はよく跳ねているそれが、すっかりなくなってしまっただけ。
痛くはない。けれどどこか変な感じがする。
その違和感を確かめようと両手を胸に当てて――その手に、ぽたぽたと落ちてきた雫があった。
「あれ……?」
涙が溢れているのだと、そこに至ってようやく気づく。ああ、そうか。そういえば、涙が止まらなくなる現象もあると聞いた気がする。指先で頬に触れる。やっぱり涙が溢れていて、どうして泣いているのかはわからなくて。
紅葉は鮮やかなのに、秋の山道から見晴らした√汎神解剖機関の世界は、相変わらずどこか薄暗い。
その薄暗さに、ふと重なった記憶があった。
それは透がまだ√汎神解剖機関に来たばかりの、小学校へ通いはじめた頃のことだ。
あの頃はまだ長かった髪を、ばっさりと切られた。
同級生の男子がやったことで、当然彼は教師からも親からも大目玉を喰らったと後で聞いた。合わせて告げられた理由は『喋れない透を喋らせようとした』らしかった。
当時、まだ透は故郷での経験から上手く話すことができなかったのだ。心理的なものであると教師たちも承知していたし、特に同級生には周知されていた。それがまだ上手く呑み込めなかった子どもの起こした過ちだ。今は透もそうわかっている。
透の髪を切った男子は、いつの間にか転校していた。あれだけことが大きくなれば仕方がないと家族は言ってくれていたのを覚えている。
――けれど本当は、仕方がないことなどではなかった。
物心ついた頃から、透の周りには妖怪や、幽霊たちがいた。それは√汎神解剖機関に移っても変わらず、ますます増えたと言ってもいい。透に救いを求め、あるいは好ましい存在として手招く者たちにとって、透が害されることは許し難いことだった。結果として、幽霊たちは男子を呪い、祟り、透のそばにいられないようにした。
(そんなことしてない。……ううん、忘れてただけ?)
おそらくは、無意識に『ちから』を使っていたのだ。
髪を切られて怒りを覚えたのを、今更思い出す。たぶんそれが引き金だ。それから、透の周りには誰も寄り付かなくなった。
それを丸ごと、都合よく忘れていたのだ。――気づいてしまった。
「……しんじゃいたい」
ぽろぽろと涙を零しながら、唇が動く。掠れた声が絶望を音にする。ああ、また。自分を顧みれなくなっている。自分を大切にもできない。そのことを全部、自身の未熟さだと思っていたけれど。
(本当は自分なんかには価値がないって、ずっと、そう思う気持ちがあるからなの)
くるしい。苦しくてたまらない。これはきっと、生きている限りずっと続くもので。だったら――、
小さな嗚咽を零しながら、手のひらを強く握り込む。ゆっくり開けば、夏を透かすビー玉がある。まだあの時は、海さえ知らなかった。けれど、今は違う。
「……逃げたら、なにも変わらないもんね」
知らなかったことを知れた。気づいていなかったことに気づいた。それが透にとってどれほど苦しいものだとしても、目を逸らし続けてはいられない。そうはしたくない。
(同じくらい楽しいこともあるのも、誰かを大好きになる気持ちも、私は教えてもらったもん)
何も自覚できていなかった子どもの頃とは違うのだ。つらいのも、かなしいのも、嬉しいのも、楽しいのも――その全てが、今の透を形作っているものだから。
涙はまだ止まらない。それでもどうにか顔を上げる。苦しい。痛い。きえてしまいたい。そう思うのは確かだ。
ただ、なにも感じなかった頃よりずっと、|自分《・・》を感じている。
「生きてるって、こういうことなのかな」
そっと呟く。涙を拭う。雫に濡れたビー玉が海みたいに揺れた気がした。
「心臓を盗られる、ね」
空っぽになった胸もとに手を当てて、篭宮・咲或(Butterfly effect・h09298)は厄災と呼ばれた龍を見る。どうせなら、ぜんぶ持って行ってくれたら良かったのに。
そう思うのは、空虚な胸の裡に思い出されるものがわかっていたからだ。
(――本当に嫌になる)
繰り返し、繰り返し。何百年経っても消えることもない思い出だ。
覚えていたいのか、忘れていたいのか。自分でも時々混ざってわからなくなる。
既に過ぎ去った時間――幼馴染たちと過ごしたあの日々。
記憶の中で、幼馴染たちは相変わらず当たり前のように咲或の隣にいる。家のしがらみを見ないふりをして、ふたりと他愛ない冗談を言って、大げさに将来を悲観したりした。
かと思えば逆に全て捨てて逃げてみるのもいいんじゃないかと夢物語を語ったりもしたっけ。
『お前なら出来るかもしれねぇな!』
アイツは昔からそうやって軽く笑い飛ばしてしまえる奴だ。
『わたくし達も共に行きますよ』
彼女はそう言って、当たり前のように微笑んでくれた。
本家に生まれた咲或、分家の幼馴染と、その婚約者。誰よりも咲或の立場を理解しているはずなのに、二人は当然のようにそう言って見せた。驚いたのは咲或のほうだ。
嗜められると思っていたし、ふたりはきっと咲或よりも|家《・》を取ると思っていた。
だから――嬉しかったのだ。やったぁ~、なんて軽口を叩いて笑ってふざけていなければ、泣いてしまいそうだった。
その結果も、よく覚えている。忘れられるわけがない。
ふたりは死んだ。生き残ったのは咲或だけだ。どうして生き残ってしまったのか。後悔なんてしようもなかった。
事態を軽視したのは咲或で、ことを起こしたのは兄弟で、臣下たちで。全てに怒りを抱いた。だってそうだろう?
|バタフライ・エフェクト《些事だと捨て置いたことが惨劇を招いた》――その地獄の日を忘れない。
「……あ」
ふと気づくと、咲或の双眸から溢れるものがあった。涙だと気づいて、慌てて拭う。
「俺に、泣く資格なんてない。わかってる、くせに」
どれほど思い知っていても、あの日あの時、我慢したはずの涙は止まらなかった。失って悲しい? それを引き起こしたものへの怒り? それらもあるだろう。けれど、何よりは。
「――|寂しい《ふたりに会いたい》」
たった、それだけのことがほんとうだった。
寂しくてたまらない。もう会えないことを空虚が思い知らせてくる。ふたりは死んで、咲或は生きているのだから。会いたい。話がしたい。他愛ない冗談をまた重ねて笑い合えたら、過去を今に繋げることができるのに。
ぼろぼろと、涙は零れ続ける。拭っても意味がないとわかって、涙は足もとの紅葉へ託してしまう。
忘れていたほうが良かったのかもしれなかった。でも。
やっと、ようやっと――咲或は、ふたりのために泣けたのだ。それにも今になって気づいて、金木犀の香りが、嗚咽と共に胸を埋めていく。
まだ胸に鼓動はある。それを自分の指先で確かめて、雨夜・氷月(壊月・h00493)は首を傾げた。
心臓。当然のようにそう在るものだから然程気にしたこともなかったけれど、改めて思えばこの機能も人間を模倣したものに過ぎない。そうやって『雨夜・氷月』は存在している。
山道に足を進めて行けば、ちらほらと辺りに座り込むカミガリたちを見かけるようになった。そろそろ厄災なるものが見えてくるのだろう。無自覚にも心臓を盗り、その心の裡を突きつける。だが、それを予告されている以上、それほど警戒は必要には思えない。
幾度も己と向き合い、今の|欺瞞《仮面》を手に入れた。それを剥がされた裡にあるものは何か、理解している。
――その、つもりだったのだ。
登り道を大きな一歩で越えた先で、それは見えた。同時に心音が消える。どうやら奪われたようだ。なるほど、と動きのなくなった胸に手を当て直したところで、生まれた空虚に代わりの顔をして浮かび上がったのは予想した悲しみ――ではなかった。
「……は、」
不意に、息が詰まる。背筋が凍る。がたがたと震えが止まらなくて、自分で自分を抱く。それでも胸の裡にありありと浮かんだそれは収まってくれない。
これは悲しみではない。恐怖だ。――怖い。何が?
(わからない)
思考が混乱する。ちがう、『わからない』ことが恐ろしいのだ。氷月という存在は、人間にとって異質なものでしかない。今は受け入れられたとしても、いつ掌が返るかわからない。そんなことを、何度繰り返されただろう。信じて、裏切られて、そうして繰り返した悲しみが再び訪れることが――怖い。
常に不安材料を抱えていたくなくて、早く手放そうとした。
それなのに、手にしてしまったものを手放すことすら怖くなった。
氷月は氷月なりに、今手にしている関係性を気に入ってしまったのだ。どれもこれも面白がってつついていただけのつもりだったのに、その関係が壊れることが怖い。
あきれて、笑って、あるいは氷月の|異質《・・》さえ受け入れてくれたその笑顔が、これまでと同じように怒りと憎しみに変わるのが、怖い。
そんな『ほんとう』を抱いていたことを、たった今自覚した。こんなにも恐怖している。結局氷月は、今そばにいてくれる誰かのことも信じ切れてはいないのだ。そのことにすら絶望する。
(怖い。こわい、嫌だ)
じりじりと足が後退る。ほとんど無意識に、逃げ出そうとしていたのかもしれない。裡にある恐怖から、逃げ切れるわけもないのに。
――リン、と。
動いた拍子に、持っていた鈴の音が鳴った。それを認識した刹那で、花焔が脳裏を過ぎる。また息が詰まった。けれどもそれは、はじめのような恐怖のせいではない。氷月は震える手で、耳元を探る。
耳には、イヤーカフがあった。それを手に取れば、月は変わらずそこに在ると伝えてくれる。震えごと、手を握り込んだ。
「……まだ、大丈夫」
いまだ声も身体も震える。指先は冷たいままだ。それでも、鈴の音と掌の感触を確かめるごと、少しずつ落ち着いていく。大丈夫、と言い聞かせるように深呼吸をする。
震えはまだ収まらない。まだ、怖い。そこに在るのだと知らしめられた恐怖に足が竦みそうになるけれど。
「其の時は未だ先の話だから」
――今は、前に進まなくてはならない。
逃げ出そうとした足を、前へ出す。進む。一歩ずつでも、どんなに恐ろしくても、先へ。
事件のあらましを聞いて、自分も心臓を盗まれるのは初だなあ、と呑気に思った。
賀茂・和奏(火種喰い・h04310)もまた、怪異とそれが齎す突飛で陰鬱な事件に慣れた|警視庁異能捜査官《カミガリ》とはいえ、さすがによくあるで片づけられることでもない。だからこそこうして招集がかかったわけで――果たして鼓動を失ってなお、目標を見失わずに進めるだろうか。
(まあ、行ってみないとわからないし)
予想される先の事象に不安を抱くのもまた、精神的には非常によろしくない、というのもカミガリならばよくよく教え込まれるものだ。結局あっけらかんとしていた方がどうにかなることは多い。
そういうわけで、和奏は現場である山道に至って、まず紅葉にちゃんと感心したりした。そういえば今が見ごろだって聞いたっけ。仕事じゃなければ、紅葉を楽しみたい良い場所だ。
見渡す景色は秋らしく、やわく香る金木犀の香りも今しかないものだろう。歩み進めながら、行き道で対策の一環として受け取ったポプリを確かめる。――ちらほらと、周りに座り込む同僚の姿が見え始めている。ならばじき、厄災も見えてくるだろう。
そっと同僚たちの無事を祈りながら、躊躇はせず足を前へ進める。そうして開けた場所に出た、と思ったところで、眼鏡越しに|厄災《それ》が見えた。
――何かが、内側からせり上がってくる。
消えた心音に、胸の裡に生まれた空虚に気づくより先に、その感覚があった。悪寒に似ているようで違う。熱感? それが上がってくるのがよくわからない。
「盗られた影響、かな?」
首を傾げながら和奏は自分の胸元に触れる。音がないことに気づいて、おお、と呟いてしまう。確かにそこには何もない。それなのに身体の内側が、目が熱くなる。霊力を瞳に集めた時と少しだけ似ていて、やっぱり違う。
せり上がった熱は、ついに和奏の視界を歪ませた。そうして、溢れ出す。
抑えきれなくなったように、ぼろぼろと零れたのは涙だった。一度溢れたそれは止めようもなく、次から次へと頬を流れて落ちていく。
「参ったな……こうなりますか」
確かに、これも現象のひとつとして聞いていた。ただなんとなく、自分には当てはまらない状態の気がして、深くは考えていなかったところがある。だって、泣いたのなんていつぶりだろう。視界を奪われるのだって不利だ。
「えー……と、ハンカチ」
とりあえずはと、持っていたハンカチを眼鏡を外して目元に当てる。勘弁して、と涙に滲む声に自分で戸惑った。泣くことをどう処理していいか、和奏自身よくわかっていない。そして止まってもくれない。どうにもできなくて一旦座り込む。なるほど、同僚たちの心地を理解できたかもしれない。
『近沢は随分可愛げが無くなったと思ったが……久々に見たな、泣き虫坊主』
ふと、静かになった内側に響く声があった。和奏に憑く神霊のひとつだ。心音がないおかげで、いつもよりも声がよく聞こえる気がする。
「稲ちゃん……」
『丸まっても、我は撫でてはやらんぞ? さっさと立て』
「……わかってる、んだけど」
まるで子どものようだと自分でも思う。ずっと共にいるぶん、よく知られているのだ。まだ和奏が感情や力を制御できなかった頃、欠けたものへのはっきりしない罪悪感や、痛みを鎮め堪えることに慣れなかったかつてのことを。だからこそばつがわるい。それをわかっているからこそ、稲は嬉々として遊んでいるのだと知っている。
「揶揄わないでください」
言いながらハンカチに金木犀のポプリを包んで目元に当て直し、耳元の青葉のピアスに触れて、深呼吸をする。優しく甘い香りがゆっくり胸を満たして、指先で存在を主張するそれで己の在り方を正すように。
「大丈夫。……弱って足を止めるなど、顔向けもできないから」
誰に、なんて。それこそ思い出すまでもない。自分を取り戻すための呼吸を続ける。続いている。胸に心音はなくとも、立ち上がることはできる。
目元を拭って、眼鏡をかけ直す。ようやく歪まなくなった視界に、少しだけほっとした。
「心臓がないなんて大変だなあ、僕それやったの幽霊になってからだよ」
え、幽霊でもやらない? それはそう。
なんて軽口は、あっという間に紅葉の並木に吸われてしまって、応答はなかった。特に期待もしていなかったから、花村・幸平(フラットライン・h07197)はそのまま足を進めていく。何せ足のある幽霊なので。
秋めく山道を進めば、そのうち辺りに座り込んだ人影が見えてきた。どうやら|同僚《カミガリ》だ。ちらと覗けば泣いていたり、ぶつぶつと何か呟き続けていたり。ああ良かった、誰も亡くなってはないらしい。安心。それだけ確かめて、すったかたと幸平は進んでいく。
こんな|なり《・・》だしカミガリとしては真面目とも言えないほうだけれども、それでも警察官という職の重みは理解している。不真面目な幸平でさえわかっているならば、同僚は言わずもがなだろう。
「何があっても覚悟の上、だろうからね」
事件の現場に至るというのはそういうことだ。こちとらどれだけ|指導《スパルタ》で叩き込まれたことやら。
「それにしても、僕の思い出したくないことってなんだろうなあ。……あ、」
死んだ時のことは思い出さないほうがいい。そう言った相棒の言葉をちょうど思い出したところで――それが目に入った。心臓は既にないから、更になくなることはない。いやもしここに相棒ちゃんが来てたら盗られるのって僕のってことになるのか。来てるような気もする。こういうの、放っておかない性質かも。
なんて、つらつら考えながらいたせいだろうか。いつも通りの調子で思考を回していて、それが思いがけず|よく回った《・・・・・》。口からだって出る。
「僕が死んだ時のことかあ。厄介な人間災厄の精神汚染で自殺したヤツでしょ? ……あれ? なんで覚えてんの?」
きょとんとして、幸平は自分が言ったことに首を捻る。左右に一回ずつ捻って、ついでに特に凝っていない肩も回したところで得心した。
「あ〜こうやって思い出しちゃうんだ、なるほどね。気分最悪だわ」
道理であの相棒が思い出さない方向を推奨するわけだ。心当たりは過分にある。あるいは今だけ把握できるのかもしれない。現象で括れば余計なことまで掘り起こして良いと思ってる? ああ、嫌な気分!
「お前まで殺されてどうすんだって話。追わないようにって、ヒントまでもらってたのに……」
ずるずると思考が引き摺られていく、その自覚をする。気が弱るなんて縁もない話だと思っていたのに。
「あ、やべ、ガチで凹むやつかも」
いつの間にか足だって止まっている。歩ける気がしない、というよりは歩く気がしなかった。なんなら身体を動かすのも、視線を巡らせるのだって気が進まない。
それでもどうにか腕を動かして、ポケットに手を突っ込む。指先に感じた感触をそのまま引っ張り出せば、出てくるのは見慣れたガラスのお守りだった。いつもは車のミラーにつけているそれ。
「……相棒ちゃんに貰ったの、持ってきてよかったな」
大丈夫なつもりで来てこれだ、念には念を入れよとの教えもまた無駄ではないらしい。みんな真面目だね。僕が不真面目なだけ? いいじゃん。だってあのひとだってさあ。ね。
「未だに心配されてんだなあって思うとこっちは元気が出るね」
それに気づけたことくらいは、良かったことに含まれるのかもしれなかった。
――『もうこんなに気楽に生きてんだから凹むなよ』
そんなふうにからっぽの胸に聞こえた気がする声に少しだけ笑って、お守りを握り直して、幸平は歩いていく。
厄災が秋空を悠々と飛んでいる。その傍らに見える薄く残った白昼の月に目を細めてから、ゾーイ・コールドムーン(黄金の災厄・h01339)は己の胸元に手をやった。
「奇妙な感覚だね」
胸の裡に穴が空いたような心地がする。本来はそこにあるべき心臓を盗られたならば当然か。どこか他人事のように考えるのは、ゾーイの身体が元より作ったものであるからだろう。碌な|中身《・・》を用意せず活動することだってある。けれど今のゾーイはつくりを人間に寄せているのだ。自身の性質を忘れたことなどないし、勘違いだってしていない。それでも。
「まるで『生命ではない』と突きつけてくるようだ」
何気なく言葉にして、改めて自身を認識し直す。
ゾーイは生命ではない。そしてこの√の出身者でもない。それでも『災厄』として分類された存在だ。
人間に寄せて、脳や心臓が無ければ死ぬ身体になっていたとしても、忌わしい本質が消えて無くなるわけではない。
本質――ゾーイが持つそれは『形なき呪い』だ。何を感じることもなく、記憶すらも殆ど持たず、ただただ欲深きヒトとその周囲に滅びを齎すだけ。
本来ならば目にも留まらない、あるいは留まるべきではないものなのかもしれない。あとから確立させた人格で覆っているだけで、本来の|災厄《ゾーイ》は空っぽに過ぎないのだ。
「うん。……そうだった」
知っていたはずの事実だ。けれどそれが今は、胸に生まれた空虚を広げていく。身体が、徐々に冷えていく。人間には体温というものがあるはずなのに、その限界を下回って、麻痺していく。
何も感じなくなる。静かな胸の裡に引き摺られて、ざわついていた感情が不自然に凪いだのを自覚した。
(何もないことこそがあるべき姿なのではないのか)
ふと、そんなことを思う。|酷い妄想《一つの正解》が渦を巻いて、呑まれていきそうになった。果たして『ゾーイ』はヒトのかたちである必要があるのか?
「……いや、しっかりしろ」
すべり落ちていくよな思考を自分の声で引き戻す。いくら厄災の影響下にあるとはいえ、|心臓がない程度《・・・・・・・》で揺らぐな。
確かな意識として持つのが初めてであっただけで、何かを引っ張り出される事態には慣れている。大切なことを思い出せ。
「――人を助け、人の為に力を使う、そうして生きる」
そう誓っただろう。
己を叱咤して、ゾーイは我知らず俯かせていた顔を上げた。片手には一応のために貰ったポプリがある。それと、己の空虚と、泣くばかりで動けなくなったカミガリを見比べた。そうして、そっとポプリをカミガリへと差し出す。虚ろな眼差しがゾーイを映した。
「これは、きみのほうが必要そうだ。……何よりおれに、きみを少しだけでも助けさせて欲しい」
ひとのために生きる。抱き直した誓いを行動にする。カミガリはどこか茫然としていたが、それでもポプリを受け取って、小さく「ありがとう」と呟いた。ゾーイはそっと微笑んで立ち上がる。両の足で進まなければ。
(あの子が願い、おれがそうしたいと望んだかたちで在り続ける為……今のおれは|生命《ゾーイ》なのだと示す為に)
遠い空を飛ぶ厄災と目が合う。
それが気のせいか否か確かめるすべはなかった。だって、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きもの・h03161)に元から|心音《それ》はない。ビスクドールにそんなものは必要ないからだ。
血も流れない。廻らせる必要がないから。
涙も溢れない。見せる必要がないから。
(……だからってどうってことない、なんてことは、やっぱり無いのね)
じわりじわりと、いつもは感じない空洞を自分の胸の裡に感じる。これが心臓を盗られた空虚――等しく降りかかる厄災。
そしてそれは、ベルナデッタから『必要のないもの』を引き摺り出そうとする。ああ、いやだ。
「上手く、何時もは隠しているのよ。ほんとうよ。ちゃんとやれているでしょ、ワタシ」
声に出す。肯定も否定もない。ひとりで来たのだから当然だ。だって、誰にも見せたくなかった。
「嫌いよ、嫌い。脆いものなんて、大嫌い」
駄々を捏ねた子どものような言葉が溢れ出した。言いたくなんてない。けれど本当は言いたかった。
「壊れてしまわないで。みんな、ワタシを置いていかないで」
そんなふうに言ったところで叶わないと知っていたから、言わなかっただけ。見本であれ、理想であれと願われたから、綺麗な人形のふりをしているだけ。ずっとそう。
燕を想って、先に逝ってしまったあなたも。家族を想って、閉じこもってしまったあなたも。
「きらい。きらい。……だいすきよ」
――大好きなあなたたちを、ひとりで守れないワタシがきらい。
吐き出してしまえば、余計に苦しくなった。息もしていないはずなのに。
「……駄目ね、呑まれてしまいそう」
ゆるゆると、首を横に振る。息を吸う。それだって人の真似事に過ぎないけれど。
落ち着くためのおまじない。そう言っていたのは――ああ、追わないで。これはいつか、呼吸があった生命の名残。思い出して。
「ワタシは、ベルナデッタ・ドラクロワ」
人に愛された末のビスクドール。ほら、鉛の心臓がそれを証している。心臓なんていて、決して動かないそれ。鼓動を止めたくせに、ベルナデッタの心配をする。優しくて変なモノ。
それから、ずうっと隠し持っている、ひとくみの指輪。
確かめるように一度取り出せば、受け取ったときのことを思い出した。『失くしたら嫌だから』と大切なものを預けてきたふたり。娘が大好きなふたり。――あのときからそのまま、返せずにいる。
(どちらも大切な大切な友のもの。ワタシが届かなかったもの)
でも、やさしい子たちだった。世界が好きだった。それを知っているから、ベルナデッタはこの『世界』というものを嫌いになれない。なってはいけない。
「ワタシがここで、立ち止まれない理由よ」
顔を上げる。迷わず進む。綺麗な姿勢で、微笑んで。さあ、いつものように。見本の、少女のかたちであるように。
「――ご機嫌よう。進むわ、ワタシ」
進んで、この胸の空洞を埋めるのだ。だって、やさしいあの子たちならそうしたに決まっているのだから。
不用意に思い出したくないことがあるならば引き返せ、と言われて少しだけ足が竦んだのは事実だった。いつもならそこで、引き返していたかもしれない。けれどそのとき、廻里・りり(微睡の庭・h01760)はそうしなかった。
なんだか縁が巡ってきたのかもしれないと、どうしてかそう思ったから。
(最近、こころにひっかかっていることがある)
それが何かはわからない。だって、考えようとするとぼんやり遠くなってしまう。それがもやもやするのに、そのままにしておきたくて。ふれたら、いけない気がする。
それが『なにか』は、わからない。いくら自分の胸の裡を探そうとしても出てこない。だから思ったのだ。
(『なにか』がはっきりとしないのは、忘れているからなんじゃないかなって)
そんなことを、くるくる、ぐるぐる考えていたせいかもしてない。この事件では『忘れていたほうがいいこと』を思い出してしまうと聞いて――今日『かたち』にふれられそうな予感がした。
案内された|路《√》を越えれば、お気に入りの靴がやわらかい山土を踏む。秋の匂いがしていた。見上げれば紅葉が見えるのもわかったのに、りりは顔を上げられずに足を進める。
いつもの飴は、置いてきた。なんとなく、たよっちゃだめだと思ったから。代わりに、行く路で貰った金木犀のポプリを鞄に入れている。それを確かめるように、大切に撫でた。ほんの少し、甘くてやさしい香りがする。
心配をさせてしまいそうだったから、今日はりりひとりだ。助けてくれるみんなはいない。それはそれで心配させているのかもしれないけれど、金木犀はいつかの月夜に『ひとりじゃないよ』と教えてくれたから――ゆうきが貰える気がして。
山道はさほど長くはないようで、人がよく歩いたあとが方向を示してくれている。俯いたまま足を進めながら、りりはどくどくと耳元で鳴る自分の音を聞いていた。いやな音。怖いときに鳴る音だ。でも。
(来ることを選んだのは、わたしだから)
ふと、足元の道が開ける。秋の陽射しがやわらかく差し込んで、紅葉のかたちの影を象っていた。おそるおそる、顔を上げる――そうして、りりは|厄災《それ》を見た。
『二十歳になったら、これをあげるね』
ふっ、とうるさいくらいの|心音《どくどく》が消える。代わり、明瞭に思い出したのはもう何年も聞いていない、なつかしささえ感じる声だった。やわらかくて、やさしい大好きな声。
(お母さん)
それはまだりりが幼かった頃、母がしている瑠璃がはまったブレスレットを見て「いいなぁきれいだなぁ」と言ったらくれた約束だ。母の手首に飾られたそれはきらきらしていて――そのものよりはきっと、それが似合う母にもあこがれたのだ。母はそれを惜しみなく見せてくれて、膝に乗せてくれていた父は『大きくなったら似合うぞ』と言ってくれた。うれしかった。
二十歳。あのときは遠い遠い未来だったはずのその年齢に、りりも届こうとしている。
もうすぐ、|誕生日《約束のとき》がくる。それを楽しみにしていた、そのはずなのに。わすれていたのは、どうして?
あんなにもうるさかった心臓の音はしなくて、時間が止まったような無音が、ひかりさえ塗り潰していく錯覚をする。足はもう止まっている。それなのに『なにか』に触れてしまったこころは彷徨って、迷子になってしまいそうだ。
無意識に指先が鞄を撫でて、金木犀の香りがする。それでようやく、目を閉じてしまっていたことに気づいた。どうにか開く。高い秋空と甘い香り。
――あこがれは手にはいらないよ。
ぽっかり空いた胸の真ん中に、囁き声が聞こえた気がした。
それなりに整備された山道は、|バイク《相棒のヒメ》にとって難はなかった。明らかに多くの人が踏み入った痕跡もある。今脇道に座り込むカミガリのみならず、EDENたちもまた多くこの件に携わっているのは明らかだ。ここに来ているのだから、|怪異やトラウマ《そういうもの》に慣れているか、耐性があるのだろう。それでも動けなくなっているのを見るに、今回の厄災というのはいかにも厄介らしい。
とはいえ、イワタ・レイジ(気ままなバイク乗り・h13218)には適任の仕事であるだろう。何せレイジの心臓は擬態で、トラウマにも心当たりがない。要するに怖いものなしだ。
「アレがいなければ景色のいいただのツーリングだな」
見頃を迎えた紅葉は鮮やかで見応えがあり、秋晴れの空は高く晴れ渡って風も心地がいい。ツーリングの条件としては最高だ――空に厄災たる怪異が飛んでいる以外は。
どうやら厄災まではまだ遠い、とその場所を確認したそのときだ。
ぽこりと、胸に穴があいた。
その感覚に、レイジはバイクを止めて胸に手を当てる。そこには音も動きもない。聞いていたことだから、驚きはなかった。ああ、なるほど。
「盗られたな」
一定のリズムを刻んでいた擬態の臓器がない。どうやらあれも心臓として判定されたらしかった。
ぱかぱかと、バイクのライトが点滅する。ヒメが他に異常がないかと確認しているのだ。
「ああ、大丈夫――」
そう言いかけたその瞬間だった。レイジの脳内で何かが弾けたような気がした。なんだと思うより先に、白い腕が脳裏に浮かび上がる。その正体を掴めずにいるうちに、そのままぐるりと強制的に記憶が再生された。
見えたのは、|血の繋がらない『姉』《家族だった人》の記憶だ。
「なんだ? コレ」
単純に不思議で、レイジはその記憶を追いかけてみる。|あの人《・・・》のことは死因と、その前後数日の記憶|以外《・・》なら覚えている。けれどもそれは|能力者《EDEN》としての欠落にあたるもので、レイジが能力者のレイジである限り、取り戻せないもののはずだ。今こうして考えていることさえあり得ない。
「……その、はずだろ?」
どこか呆けて呟く。あるいは正解の道筋を見失った子どものようでもあったかもしれない。わからない。わからないのに、レイジの知らない記憶はレイジの視点で巡る。
そのひとは笑って泣いて怒って、無表情にもなった。どれもレイジへ向けられていて。
日を追う毎に、記憶にはホワイトノイズが噛んで、ぶつ切りになり、不明瞭になっていく。同じくして、姉らしいその顔も擦り切れる。
そのうち、声も聞こえなくなった。けれど彼女の口元は動いているから、何かを言っているのは確かだ。そうして姉は後ろを向いて走り出した。まるでレイジから逃げるみたいに。走って、走って、――まって。
手を伸ばしたのが記憶だったか、思わず動いた記憶を見るレイジ自身か定かでないうちに、彼女は倒れていた。それを、地面のギリギリからレイジは見ている。あぁ、オレも、死にかけていたから。当たり前みたいに納得して――今度こそ記憶のなかで手を伸ばした。
しかし届きはしない。だって足に瓦礫が刺さっているから、レイジの力だけでは動かせなくて。でも、姉のほうがもっと動かない。
「ねえさん」
今度つぶやいたのは、確かに記憶を見ているレイジ自身だった。すると、
『――、――』
バイクの|機械《AI》音声が反応する。
(ちがう、おまえじゃない)
反射的に言葉が喉元まで出かかって、ギリギリ留めた。ヒメは心配そうに音声を重ねる。
(……ちがう、のに)
レイジをただ純粋に気遣う、あの人とは似ても似つかない『姉』に、ずるずると凭れ掛かる。はああ、と大きく息を吐けば、また心配そうな言葉。
「……大丈夫」
本当は、ちっとも大丈夫なんかじゃなくて。けれど冷たい車体が心地良くて――酷く、さみしかった。
第2章 ボス戦 『荒魂ノ辻』
●選択
鮮やかな紅葉の並木を抜けて、銀杏の金色の絨毯を踏みしめ、金木犀の香りを辿る。
思い出してしまったこと、気づかぬふりをしていたこと、止まぬ涙をそのままに、EDENたちはそれでも歩みを止めはしない。山道を進んでいけば、次第に傾斜は強くなり、山頂へと至った。
やわらかい秋の陽射しが、冷たい秋風とともに青空から吹き降りてくる。それと同時に降りてくるものこそ――件の厄災『荒魂ノ辻』だった。
荒魂ノ辻はいまだ、心臓を盗ったことにすら気づいていない。けれどもそれは、心臓を当然に己のものにしているということでもある。
――どくん。
荒魂ノ辻が近づけばそれぞれの耳に己の『心音』が響いてくる。けれど見えないのは、荒魂ノ辻の裡にそれが仕舞われているからだ。返せと言って聞くわけもない。荒魂ノ辻にとっては『いつの間にか集まった』最上の贄なのだから。
取り戻すなら、厄災そのものを倒し、打ち砕くしかない。空虚が埋まり、心臓が戻るとき、EDENたちは選択を迫られるだろう。
思い知ったことを|覚えている《・・・・・》か、|忘れる《・・・》か。
在りようによっては選ぶ余地のない者もいるかもしれない。それでも手放す瞬間くらいは、選べる。厄災に己の最後の一撃を見舞うときだ。そしてこれは選択を迫られる誰もに共通することでもある。
荒魂ノ辻の力は天災に等しい。天が、地が、水が牙を剥くなかで戦うのは、ままならぬ宿命に立ち向かうようなものだ。ただ敵を打ち砕くだけではなく、よく考えながら戦うべきだろう。
今自分の胸の虚にあるものを抱えてゆくか否か――天地水が問い質すように、山の頂は荒れはじめる。